三国時代の文学スレッド2

このエントリーをはてなブックマークに追加
851(ry 典論5/5
 王粲は辞賦に優れています。徐幹の文章ははときに斉国風ですが、王粲と同じく優れています。
王粲の『初征賦』『登楼賦』『槐賦』『征思賦』、徐幹の『玄猿賦』『漏#x536e;賦』『円扇賦』『橘賦』などは、
少し前に名文家とうたわれた張衡や蔡菑よりも優れています。しかし、王粲と徐幹も、辞賦以外の文章では、
いまだ張衡や蔡菑にはかないません。陳琳と阮瑀の章、表、書、記は、現代でもっともすぐれています。
応瑒の文章は均整がとれてなごやかですが、勢いがありません。劉楨の文章は勢いさかんですが、
しっかりと精密ではありません。孔融の文章は才気の薫り高く、他の人より俄然すぐれた部分があります。
しかし、論調をしっかり組み立てることができずに、文章の内容がことばの表面にまけてしまうので、
たまに戯れだったり嘲笑うような表現がまざってしまうことがあります。(しかし)彼の得意な分野では、
(その文章は)前漢の楊雄や後漢の班固と同じぐらいに優れています。
そのへんの人は、昔のものをありがたがり最近のものは評価せず、名声ばかりを見て本質に背を向けるのです。
また、自分のことをよく見ることができず、自分を賢いと考えてしまうのは愚かなことです。
 そもそも文章は、根源は同じですが末端は異なっています。思うに、奏議は雅やかにするべきで、
書論は論理的にするべく、銘誄はその内容が大切にされるべきで、詩賦は美しくあるべきです。
この四科はそれぞれ形式が異なっているために、これらの上手な者はそれぞれに偏ってしまいます。
ただいっさいに通じた才能のある者だけが、このすべての技能を備えているのです。
文章は、目に見えない息や力などの「気」がその根幹となります。「気」の清濁は個人的なもので、
なにかの力で強いたところでどうにかできるものではありません。これを音楽にたとえれば、
同じ旋律を同じ楽譜や演奏法で演奏したとしても、呼吸のしかたは同じではないし、うまいへたには
素質というものもあるので、父や兄であっても子や弟にそっくり同じ演奏をさせることはできないのです。