2 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/24(水) 02:05:33
このスレタイにしてこの
>>1・・・ありえん!
ありえんが、ありえん故に三戦板のスレか・・・
3 :
1(ry:2007/01/24(水) 02:23:02
前スレの容量がなかなか埋まらないことに気づくorz
スレ立て早すぎたかもです……こっちを使うのは、前スレが終わってからですね(´・ω・`)
マルチは要らんな
>>3 細々保守しながら気長に行きましょう(´∀`)
5 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/24(水) 09:47:55
中国英雄板の方が落ち着いて語れる気もするが
中英は三戦より更に人少ないからね…
マターリ汁
三戦板を見捨てないで盛り上げて行こうぜ(´∀`)
>>7 その半分以上は糞レスしてる基地外だけどね
基地外ばかり集まって人大杉の板って過疎板より幸せなんだろうかOTZ
この板で何を燃料にして豆を煮よと申される?
>>11 (植´Д`)<同じ家(板)に住むもの同士
そうそうグチャグチャ叩かないでくれよ、兄ちゃん
今の所荒れてないから引き続き三戦でいんじゃね?
もし荒れたら中英に引っ越せば良いさ。避難所もあるし。
俺は三戦のカオスが好きw
14 :
1(ry:2007/01/25(木) 01:05:51
どもであります(`・ω・´)ゝ
>>3-13 済みませんorz 中英板では三国時代はあまり歓迎されないかと思って、
勝手に三戦に立てますた……○| ̄|_
ところで前スレを500KBまで埋めてきますたが、
まだ書き込めるようなのですが一体どうs(ry
(`・ω・´) 新スレ乙です!
ちょwww埋まってないのかwww
恥が長く残るがこっちで訂正しとくよ。
×魏の明帝が位につき→○魏の明帝が殿を建て
×張懐権→○張懐瓘
でも前スレもう書けないね。
「ERROR:このスレッドは512kを超えているので書けません!」
て言われた
前スレの最後の蘇軾が相変わらず周瑜マニアでワロタw
19 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/26(金) 11:09:11
新スレage
新スレ乙
大戦にヒ様復活&かあんちゃん参戦おめ。
…漢字でねーw
ときに取扱範囲を議論中か…
どうなるんかな
新スレおめ。
中英の自治も三国志解禁か規制かで揉めてるから
>>13氏の言う通り当面は三戦に居るのが無難だろうね
新スレ乙です。
旧スレ「朔風」キタ━(゚∀゚)━ッ!!!!
朔風大好き。美しい。
23 :
1(ry:2007/01/27(土) 01:50:39
どもであります(`;ω;´)ゝ
>>15 Thxです! 前スレはもう書けないみたいなので、そのうちお(受験生向けry
>>16-17,
>>19,
>>21 Thxです(`;ω;´)ゝ
>>18 東坡先生は、ほかにも諸葛亮の八陣図とか司馬懿と桓範の話とか随筆に書いていて、
相当な三国志おたくですおねw。周瑜ファンが嵩じるあまり、謎の赤壁洞窟に探検に行ったりwww
東坡先生の時代ですでに赤壁から800年ぐらい経っているので、
現代の日本でいえば、壇ノ浦に想いを馳せて義経公ファンになるようなものでせうか。
しかし先生は念奴橋では「小喬初嫁了……」と言ってますが、赤壁のときには小喬は嫁いでから
10年ぐらい経ってるのですからw、「さわやか青年提督周瑜&初々しい美人の新妻」的な、
先生のドリーム赤壁を詠んだ作ですおねw。というか、先生は赤壁を肴に酒がのみたいだけ(ry
そんなことばっかりして遊んでいるから(ry
>>20 Thxです。自分はゲームしないので分からないですが、何晏ちゃんのような
非力な文化人がゲームにいて、はたして役に立つんだろうか。すぐ氏んじゃってゲームオーバー(ry
そういえば、最近自分の地元の文政年間の文書を読んだのですが、人の文章がうまいことを
褒めるのに「何晏ちゃんの景福殿みたいに上手だよ」と言ってる部分があってワロスですたw
24 :
1(ry:2007/01/27(土) 02:19:49
>>22 朔風(*´Д`)ハァハァw
この後も四言詩は潘岳、陸機陸雲兄弟から陶淵明にいたるまで詠まれていますが、
曹植たんの四言詩の神話的な美しさは、他のいずれに類をみるでしょーか。
『朔風』冒頭の「仰彼朔風」の興句がもたらす修辞の効果は、まったくいかばかりでせう!
「彼の朔風を仰ぎ……」これだけで、すべての人の眼前には遥かなパノラマがもたらされることでせう。
すでに非常に多くのりっぱな人が筆を尽くして曹植たんを褒め讃えているのでしょうから今さらなのですが、
四言詩に完成された古装的な美しさ、アルカイックな洗練は曹植たんに極まったものに思えます。
そんなわけで勝手に曹植たん(*´Д`)ハァハァw
ところで、朔風は詩経の邶風の『柏舟』も本歌にしているそうなので、
いちおう白文だけうpしておくです……簡体字ヽ(`Д´)ノワカラン 漓江出版のバカバカ
『柏舟』 詩経・邶風
泛彼柏舟 亦汎其流
耿耿不寐 如有隠憂
微我無酒 以敖以游
我心匪鑑 不可以茹
亦有兄弟 不可以拠
薄言往愬 逢彼之怒
我心匪石 不可転也
我心匪席 不可巻也
威儀棣棣 不可選也
憂心悄悄 慍于群小
覯閔既多 受侮不少
静言思之 寤辟有手摽
日居月諸 胡迭而微
心之憂矣 如匪浣衣
静言思之 不能奮飛
25 :
1(ry:2007/01/27(土) 02:23:36
>>24 ×寤辟有手摽 → ◎寤辟有摽 ヽ(`Д´)ノ
そいで、曹植たんの『朔風』の「汎舟」は、テキストによっては「泛舟」れす。
朔風の詩は、「昔我同袍」の句の
同袍を兄弟の意に取って、文帝との仲違いの悲哀を詠んだと解釈する説と
親友の意に取って、親しい友達と別れた(死別の可能性も)悲しみを詠んだとする説の
2通りあるようだね
人民文学出版社という所から出ている『曹植集校注』(繁体字)という本では、
この詩を王サンの死んだ建安二十二年以後の作と取って、
同袍との「乖別」を王サン等との死別と解釈しております
27 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/28(日) 15:04:53
はわわ、御主人様、何処に行っても売り切れです!
予約すれば良かったよ・・
ごめん恋姫の誤爆orz
アホwwwwww
30 :
1(ry:2007/01/29(月) 01:31:35
どもであります(`・ω・´)ゝ
>>27-29 はわわ……それってこのゲームですおねw
ttp://www.tactics.ne.jp/~baseson/koihime/ 傾城水滸伝みたいで激ワロスですwwさすが馬琴は秋葉原に住んでいただけあるなと(ry
しかし人物紹介のページに曹植たんが見当たらなくて、がっかりしたようなほっとしたようなw
>>26 Thxです!! なるほどー。巴蜀書社の魏晋四言詩研究という本では、
朔風はその意象を
>>24の柏舟から借りたものとしていて、
兄弟の不仲を悲しんだ作としてるみたいです。いちおう訳もうpしておきまする。
(
>>24書き下し、適当ですお……)
「彼の泛(うか)ぶ柏舟(はくしゅう)、亦(ま)た其れ汎(へん)として流る
耿耿(こうこう)として寐(い)ねず、憂いの有るを隠す如し
我(われ)酒無きに微(あら)ず、以って敖(あそ)び以って游ぶ
我が心は鑑に匪(あら)ず、以って茹(く)らう可(べ)からず
亦た兄弟(けいてい)有るも、以って拠(よ)る可からず
薄言に往きて愬(つ)ぐるは、彼の怒りに逢う
我が心は石に匪ざれば、転がす可からず也(や)
我が心は席(むしろ)に匪ざれば、巻く可からず也
威儀(いぎ)棣棣(ていてい)として、選ぶ可からず也
憂心(ゆうしん)悄悄(しょうしょう)とし、群の小さきを慍(うら)む
覯閔(こうびん)既に多く、侮を受けること少なからず
静かに言(ここ)に之(これ)を思い、寤辟(ごへき)して摽(ひょう)有り
日居月諸(日よ月よ)、胡(なん)ぞ迭(こもごも)にして微(び)なる
心の憂うは、浣(あら)わざる衣の如し
静に言に之を思い、奮飛(ふんぴ)するを能わず」
31 :
1(ry:2007/01/29(月) 01:33:21
(
>>24訳、適当ですお……)
「柏でつくった舟がうかび、ゆらゆらと流れてただよっています。
(わたしの)心はざわめいて眠れず、まるで憂いがあるのを隠しているようです。
わたしはお酒がないわけではないので、それで遊んでみたり出かけてみたりします。
(しかし)わたしの心は鏡ではないので、すべてを飲み込むわけにはいかないのです。
また兄弟もありますが、たよるわけにはいきません。
訪ねていって何をうったえても、彼を怒らせてしまうのです。
わたしの心は石ではないので、転がすことはできないでしょう。
わたしの心は筵ではないので、巻くことはできないでしょう。
威儀をただして態度はおちつき、よりわけることなどできないでしょう。
(わたしの)心は憂いに沈み、仲間の少ないことを悲しく思います。
人にいつもひどいめにあわされ、ばかにされることも少なくありません。
冷静にここにそれを思うと、ぱちぱちと手(で胸)を叩きます。
太陽よ月よ、なぜあなたがたはどちらも暗いのですか?
心の憂いは、まるで洗っていない衣のようです。
冷静にここにそれを思うと、飛び立つこともできません」
自分は中国語があやふやにしか読めないのでよく分からないのですがorz、
漓江出版の解題によれば、邶には柏の葉(?)で笹舟のようなものをつくって川に流して
厄をはらおうとする習慣があり、それを歌った詩らしいです('A`)ヤッパヨクワカンネ
32 :
1(ry:2007/01/29(月) 02:27:37
>>26 Thxです!! 朔風は「魏都」をギョウとするか洛陽とするかで、
ギョウだったら建安年間(220年以前)、洛陽だったら黄初以降(220年以降)の作で、
建安年間の作だと、212年ぐらいまでは兄弟仲良くギョウに住んで(?)いたので、
214年ごろから曹丕との跡目争いがはじまり、215年に東征の留守番役をくらったり(東征賦)、
217年の疫病で友人の建安七子のうち5名までが没したり、219年に楊脩が殺されたりした
ことを詠んだ作(
>>26さん)という解釈になるみたいれすね。
そうすると、建安だと「君不垂眷」の「君」は、「曹操がかえりみてくれないよ」ですおね……。
そいで、洛陽だと黄初年間以降になるので、「君」は曹丕か曹叡ですおね。
・昔我同袍
・子好芳草
・君不垂眷
この「同袍」「子」「君」がそれぞれ誰になるのか(あるいは同じ人か)が、
いろいろ研究する先生によって違うみたいですね。
岩波の『曹植』の伊藤正文先生は、同袍=兄弟、子=彪または親友、君=曹叡、
詠まれた時期は太和2年、中華書局の『三曹詩選』では、
同袍=兄弟、詠まれた時期は黄初4年(223年)の雍丘で、あとは決まってないよ、みたいですね。
建安22年(217年、疫病の年)とか黄初6年(225年)とか、色々あるみたいでワカラン(゚Д゚)ウボァー
「豈云其誠」を「豈に其の誠を云(ひるがえ)さんや」と解題してるのもあってワカラン(゚Д゚)ウボァー
自分には、「仰彼朔風」という興句がかっこよくてきれいだなというのしかワカラン(゚Д゚)ウボァー
33 :
1(ry:2007/01/29(月) 02:29:38
でもなんというか、
↑N
◎ギョウ
○東阿
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━(黄河ですおorz)
◎洛陽 ○官渡 ○鄄
○雍丘 ○臨菑
◎許昌 ○陳
みたいな感じになると、洛陽は曹植たんのいたところからは
北というより西にしか思えな(゚Д゚)ウボァー 全然ワカンネから寝るますorz
34 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/29(月) 14:37:18
新スレ発見
新スレになってから過疎?
36 :
1(ry:2007/01/30(火) 02:16:39
>>34-35 前スレの最後で、自分が誘導をまちがえたからなような気がしますスビバセンorz
ひつこく
>>33の続きなのですが、
「仰彼朔風、用懐魏都、願騁代馬、倏忽北徂……臨川慕思、何為汎舟……誰忘汎舟、愧無榜人」
ということは、曹植たんは川の南岸にいて、北にある魏都を想っているのですおね。
もしも「川」が黄河をさすならば、「魏都」はギョウであるべきですおね……
それとも黄河ならば「河」とするから、もっと小さな別の川なのかな……
でも、技巧上の理由で黄河だけど「川」の字を使ったのかもだしワカンネorz
しかし、わかることだったら今までの研究者の人がとっくに結論を出してるのでしょーから、
きっと今のところは、曹植たんに直接聞くとかしない限り謎なことなのでせうね(*´Д`)
37 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/30(火) 18:45:58
前スレ落ちないね。書けないのに
ギョウが魏都のとき曹植タソは何処にいるの?
38 :
1(ry:2007/01/31(水) 02:46:27
鄴は205年に許昌にかわって曹魏の拠点となり、209年に銅雀台ができ、
その後220年に曹操が没し、曹丕が禅譲をうけるまでの間、魏の都だったんですおね。
曹植たんは建安16(211年)に平原侯に封ぜられ、212年ごろまでは平和に『登台賦』などを作ったり、
214年には
臨菑侯に封ぜられつつ、ギョウをまかされて『東征賦』をよんだりしてるので、
・215年:張魯討伐? 跡目争い?
・217年:曹丕が立太子、疫病で建安の七子のうち五名が病没
どこかこのへんの時期に奥さんと娘さん没、司馬門事件
・219年:酔っ払って曹仁助けに行けないよ事件、楊脩が殺される、曹熊没
のあいだは、ずっと
臨菑侯なんですおね。
そいで、217年に魯粛が没したときに、曹操はその矛先を呉から逸らせて
より多くを劉備に向けてますが、しかしずっと呉は仇敵であるので、曹植たんがこのへんのどの時点で
「凱風永至、思彼蛮方、願随越鳥、翻飛南翔」といってもおかしくはないですおね。
「昔我初遷、朱華未希、今我旋止、素雪云飛」は、正史に細かい月日が載ってないので、
「夏に赴任してまた冬に戻ってきたところ」がどこなのか、自分はよく分からないですorz
もしも「川」を黄河とするならば、臨菑侯のときは、曹植たんの任地は「川」の南岸にあり、
「魏都」は「川」の北岸にあって雪もふるし、曹植たんはギョウと臨菑を行ったりきたりしてますおね。
でもやっぱり臨菑からみたら、ギョウは北というより西にしか(ry やっぱりよくわからんです……orz
↑N
◎鄴
○平原
○東阿
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━(黄河ですおorz)
◎洛陽 ○官渡 ○鄄
○雍丘 ○臨菑
◎許昌 ○陳
40 :
1(ry:2007/01/31(水) 03:07:02
>>39 Thxです! 前スレのゲームのカードですおね(((( ;゚Д゚)))ギャーーー
曹丕がマリリンマンソンみたいで(((( ;゚Д゚)))ギャーーー
っつか、馬岱以外みんなホラー系(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル ……とおもったら、馬岱スレに同じ画像がw
月岡芳年の馬岱もあってワロスw 月岡芳年の曹操(血まみれじゃないやつ)は、すごくきれいです。
どうでもいいんですが、世説新語か何だったかで
「曹丕は気難しくて、お抱えのお針子さんが縫った(織った?)服じゃないとゴネた」
っつー話を読んだような気がしましたが忘れますた(´・ω・`)
月岡芳年の曹操と聞いて飛んで来ましたw
曹家の次男坊はホントにこだわり派なんだな…。
まさにブログ(ry
44 :
1(ry:2007/02/01(木) 01:54:38
前スレからの誘導を間違えたので、しばらくあげるようにしておきますorz
前スレはもう512kBに達していて書けないので、dat落ち待ちみたいです。
>>38を一部訂正;
×209年に銅雀台ができ→◎210年(建安15年) ですた。他にも違うかもorz
>>41-42 芳年の月百姿シリーズには、「波立つ長江にうかぶ緋の旗船の舳先に立って、緋矛を手にし、
緋の戦袍に風をうけ、月に映える南屏山を臨む曹操」という、やたらかっこいい一枚があるですw。
早稲田の早大の図書館にあっていつでも見られますお(゚∀゚)これは怖くないですw。
あと、芳年の別のやつで、錦絵じゃない三国志シリーズをどこかで見たように思ったのですが忘れますたorz
>>43 でも、出典を忘れたので定かでないです。週末に図書館で世説新語(だったかな……)を確認してきますorz
曹昂を数えたんじゃ?
曹鑠を入れれば三男
48 :
41:2007/02/01(木) 11:41:00
>>44 月百姿か、ありがd。画集とか出てないですか?
昔個人情報スレにいた芳年好きの匂いがするがw
52 :
49:2007/02/01(木) 12:24:49
>>50 うおっすまん!そしてありがとう
他にも曹操の浮世絵はあったけど
コレが白眉ですな
53 :
41:2007/02/01(木) 12:30:25
54 :
1(ry:2007/02/02(金) 00:10:19
どもです(`;ω;´)ゝしばらくあげてみますorz
>>45-47 曹昂をかぞえて次男かと理解してますた。そっか、早世した曹鑠もいれると三人目ですおね。
曹丕は、もっと後の平和な時代の高級官僚の家とかに生まれてれば、
ばりばり内政をしつつ、李漁とかとこだわりの一家言を論じあえたりして良かったかもですねw。
そういえば、李笠翁校注三国志(だっけ?)は、クドそうで面白そうなので一度読んでみたいですw。
>>48-53 SUGEEEEEE!!! Thxです!! これであります。いつ見てもきれいだなー。
「諸葛亮の拝風台がある南屏山を睥睨して、昇る月に対酒当歌を吟じ、いまこそ戦いを挑む曹操」
とゆー、演義屈指の名場面の図ですね。画集は自分は分かりません(´・ω・`)スミマセン
朱色は芳年独特の、いまにも手が染まるようなあざらかな赤ですおね。
曹植たんの『公讌』でも「神飇接丹轂(突然の風は朱塗りの車を押し)」、
文帝誄でも「朱旗所勦、九壤披震……」とありますが、なんか地位のある人が乗るのりものは
朱に塗られているのがデフォみたいなので(違うかも……)、曹操の船も当然旗艦でしょうから
船体まで朱に塗られていたかは分かりませんが、朱旗はあげていたのかと思いますた。
でも、このあとどうせ赤壁で黒こげうわなにをあqwせdrftgyふじこlp;
あと、芳年の月百姿シリーズには、「月明かりの赤壁の崖下に舟をうかべてあそぶ風流人達」
という図もあるのですが、たぶんこれは蘇軾先生の前赤壁賦の図ですおね。
芳年は唐物趣味のある人で三国志ファンですが、中でも当時にはめずらしい曹操ファンぽくてさすがだなーと思いますw。
>>54 >朱色は芳年独特の、いまにも手が染まるようなあざらかな赤
あざらかっていう日本語初めて知った。ピッタリだねえ。
-大辞泉
-あざ‐らか【鮮らか】
-[形動ナリ]魚肉などが新鮮なさま。生き生きとしているさま。
56 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/03(土) 02:42:30
>>40 マリリンマンソンって何?と思わずググってしまいましたw
似ているような似てないような…
というのは置いといて、曹丕が衣服に拘ったということについてですが、
某サイトからこういう文を見つけました。参考になれば嬉しいです。
・魏の後宮には「鍼神」と讃えられた裁縫の達人がいた。
文帝・曹丕は彼女が縫った衣服しか身に付けなかったという。
神の名は夜来。曹丕の寵姫でもあった彼女は、夜に明かり一つ
無い部屋で瞬く間に衣を縫い上げるほどの腕前だったそうです。
しかし食べるものといい着るものといい、
とことん拘り派ですな、陛下は……
反対に曹操がまったくこだわりなくて
服も質素で破れたシーツを自分で縫ったりしてたんじゃなかったっけ
既出だったら御免。
「曹瞞伝」によると曹操は腰には小さな皮の袋をぶらさげ、ハンカチや小物を入れていた、とか。
更に曹瞞伝には、普段の冠をつけたまま賓客に会う、とか
人と談論するときは冗談まじりにしゃべりまくって、思ったことはすぐ口にした、とか
上機嫌で大笑いしたはずみに頭を卓上の器につっこんで頭巾を食べ物でべとべとにしたり・・・・・w
どんな爆笑トークだよ…w
>>59 それ前スレの陸機のとこでも少し出てたなw
つまりポシェットをぶらさげていたということでよろしいか
つまり、
曹丕はブランド品にとことんと拘るタイプで
曹操は腹巻ステテコ姿で客の前に出ても気にしないタイプ、
ということかな。
私生活まで正反対な親子は面白いですねw
また、曹丕と曹植は詩に対する価値観まで違うよね。
曹丕−蓋し文章は経国の大業云々
曹植−男子たるもの戦にぃ云々
曹丕はディレッタントっぽいね
>>64 曹植への当て付けの一面もあったんじゃないの?
67 :
1(ry:2007/02/05(月) 22:16:45
>>55-56 エコエコ(・∀・)アザラカうわなにをすあqwせdrftgyふじこlp;
どうでもいいのですが、週末の節分は、もともとは前スレの武帝哀策文↓の
http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/so_hi/butei_saku.html の
方相氏というのがでてくる、周礼に載ってる追儺という儀式らしいすおね。
周公の時代から豆まいてたのかー。
>>57 Thxです!! 鍼神にして寵姫の夜来夫人……そんな感じのオカルト話だった気がします(`・ω・´)ゝ
でも一体何に出ていたのか思い出せない……とりあえず、世説新語には出てなかったですorz
なんか、明とか清とか後の時代の眉唾本wに出ていたような記憶が……ちょっと発掘してみるます。
>>58-63,
>>65 前スレの陸機たんのとこでもちょっと出ましたが、魏書の武帝紀の最後の裴注ですおねw
いちおう、魏書のさいごの該当するところだけうpしておきます。
魏書武帝紀第一 裴注より
「魏書曰……雅性節倹、不好華麗、後宮不錦繍、侍御履不二采、帷帳屏風、壊則補納、
茵蓐取温、無有縁飾
(魏書にいわく……(曹操は)いつも倹約をする性質で、華麗なことは好まず、後宮(の女性)にも
錦や刺繍の布を用い(させ)ず、従者も一色以上の色のくつを履かず、帷帳や屏風も壊れたらすぐに修理して使い、
寝具やしきものは暖かさをもって採用し、ふち飾りはつけなかった)。」
「伝子曰、太祖愍嫁娶之豪奢、公女適人、皆以皁帳、従婢不過十人
(伝子にいわく、曹操は婚姻(の儀式)が豪奢なことをあわれに思い、自分の公女を人にやるときには、
ぜんぶに黒いとばりをかけ、従う侍女も十人を過ぎることはなかった)。」
68 :
1(ry:2007/02/05(月) 22:17:48
>>67つづき
「伝子曰、漢末王公、多委王服、以幅巾為雅、是以袁紹、崔鈞之徒、雖為将帥、皆著縑巾。
魏太祖以天下凶荒、資財乏匱、擬古皮弁、裁縑帛以為帢、合于簡易随時之義、
以色別其貴賎、于今施行、可謂軍容、非国容也
(伝子にいわく、漢末の王侯は、多くが王服をはたに置いて、ひと幅の布でつくった隠士風の頭巾をかっこいいとし、
袁紹や崔鈞(崔豹)の仲間達は将帥といえども、みなこの絹の頭巾をかぶった。(しかし)魏の曹操は、天下が荒れており、
資源や財力が乏しいので、昔ふうの皮の冠や、絹を裁断して四隅のない冠をつくり、TPOにあわせて簡易にかぶり、
色を違えて身分を区別するようにした。今も施行されているが、これは軍服にはなるが、政務用にはならない)。」
「曹瞞伝曰、太祖為人佻易無威重、好音楽、倡優在側、常以日達夕。被服軽綃、
身自佩小鞶嚢、以盛手巾細物、時或冠帢帽以見賓客。毎与人談論、戯弄言誦、
尽無所隠、及歓喜大笑、至以頭没杯案中、肴膳皆沾汙巾幘、其軽易如此
(曹瞞伝にいわく、曹操の人となりは軽々しくて威厳がなく、音楽が好きで、芸者をそばにおき、
いつも昼間から夕暮れまで(妓芸を)楽しんでいた。きるものは軽い(ラフな)絹で、自身の腰に
ちいさな皮の袋をさげ、ハンカチや小物をいれて、時には四隅のない略式の冠で賓客に会った。
人と話すときにはいつも冗談をいい、隠すところはまったくなく、喜んで大笑いすると
頭を杯やお椀に没するに至り、肴とお膳がみな頭巾をびしょびしょによごす、そんなふうに軽々しかった)。」
自分はこのへんの描写が好きです。曹操笑いすぎww
自分はずっと、そんな威厳のないことは遺言のお香と同じく黒歴史にして書かなきゃいいのにw
と思っていたのですが、前スレで
>688 :無名武将@お腹せっぷく :2006/12/04(月) 07:58:58
>きっと当時の感覚では
>爆笑してお椀に顔つっこむ>>>>越えられない壁>>>>お香を気にする
>だった・・・・・・カモネ
と教わって感動しますた(↓左にいくほど威厳大)。
曹操の名誉のために書きそえれば、すべての記述の前後に相反する彼の立派さが称えられていますw
69 :
1(ry:2007/02/05(月) 22:19:17
>>64 曹植の『与楊徳祖書』があらわされたのは、建安21(216)年-24(219)年としている本が多いみたいなので、
ほんの数年前には曹操のおぼえもよく、宮廷で活躍して23歳にしてギョウの留守を任されたりもしていたのに、
急に疎んじられ臨菑侯に封じられっぱなしで、度重なる孫権や張魯の討伐にも置いてきぼりにされ、
こんなとこで文章ばかり書いててても仕方ねーよ、俺は曹操の息子として国のために働きたいよ! と
のんだくれまくる若い曹植たんのすがたは、なんとなく容易に想像がつくような気がします。
>>66 曹丕は、曹植が任地で不遇を囲っていることは当然知っていますし、
弟が楊脩にあてた手紙の細かい内容まではしらなくても、弟が国政に参加したいと思いながら
筆に遊ぶしかない状況にあることはよく分かっていたでしょーかと思います(自分が与してるんだから……)。
しかし、国政を安定させるために、人気ある皇位継承者の弟をなるべく排して、
自分の地位を確固たるものにしなければならなかった曹丕が、
弟へのあてつけのために「弟よ、おまいは僻地で詩ばっか書くしかなくて気の毒だねウハw」
みたいな意味で典論を「蓋し文章は経国の大業にして……」と書いてひろく発表するとは、
当時から曹植の文章の腕が曹操を含む人々から非常な評判を得ていたことを考えあわせると、
自分はなかなか思えないような気がしますですー。
もしそういう意図(曹植に対するあてつけ)があったとしたら、典論の文章だと
「曹植たん=文章ウマイ=文章は経国の大業=曹植たんを国政に参加させたげようよ!」
という式が成り立ってしまい、当初の意図と矛盾してしまう上に曹丕の為にはならないように思うのですが……
だから、典論は曹植へのあてつけではないような気がするんですが(´・ω・`)デモヨクワカンネ
とりあえず、今週中にでも典論うpしてみます。
曹丕はほんとに、時代にそぐわないディレタントですおね。李漁とか米フツと会わせてみたいw
70 :
1(ry:2007/02/05(月) 22:29:50
>>67-68 あれ、すごい勢いで置換ミスorz
×伝子→◎傅子 です。伝子ってなんだorz
>>69 楊脩への手紙が史書に残っているということは、
どの時期だかは知りませんがその手紙の内容が衆目に晒されたのではないでしょうか。
タイミングとしては受けた楊脩死後と書いた曹植死後の二つが考えられますが、
手紙は受けた側に残っているわけで、漢中で楊脩が曹操に殺害された時、
持ち物検査があってその折りにでも発見されたんじゃないかと思います。
72 :
1(ry:2007/02/06(火) 01:39:49
おおー寝ようと思ったらdxです!
>>71 おお! なるほどー。曹植たんは曹丕より長生きしてるので、曹植の死後に手紙が
見つかったのでは曹丕があてつけで典論を書くのに遅すぎるので、楊脩がころされたときでせうか……
王粲の賦が出そろってるので、典論も217年以降の文であることには間違いないですね。
典論は孫権にまで与えているので相当自信満々だったんでしょうな
曹芳の時代に物笑いの種になってしまいますが
曹操注釈版孫子も孫権に送りつけたって説を見たことあるんだけど、
この親子は案外似たもの同士ですなw
75 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/06(火) 15:02:30
孫権もいい迷惑だなww
妙なところ似てんのな
オレの、オレの、オレの話を聴け〜い!ってとこ
曹操は「オレオレ!オレだよ!」って寄ってきて話しかけてくるけど
曹丕はぼそっと呟いて、人が「ん?」って振り向くと、嬉々としてしゃべり出す感じ
この親子、気質としては権力もった学者タイプだからな
>>73 それって燃えない布の事…だったかな?
>>76 どっちも可愛い例え方だなww
火浣布のことだね
バロスwww
>>76は落語の寝床の旦那さんのようだww
しかし、どっちにしても話聞かないと頸がとぶから孫権も大変(ry
曹植たんも、タイプとしては「オレの酒を呑めーい!」の曹操系な感じですおね。
そういう尻に火のついたタイプの人が、一族が国の興亡をかけて中央でバリバリ
働いてるなかで、自分だけ仕事ももらえずに地方に封ぜられたら、かなり辛そうですおね。
逆に、仮に曹丕が立太子せずに地方の王様になっていたら、ほどよくのどかに仕事したり
グルメしたり文章書いたりしつつ、けっこう満足して過ごしそうな希ガスw
火浣布の話もおもしろいので、そのうちやりたいです(・∀・)
とりあえず、曹丕の典論をうpしておきます。
きっといろいろ間違ってるので、ぜひ訂正を↓(ry
『典論論文』 魏文帝
(白文)
「文人相軽、自古而然。傅毅之於班固、伯仲之閒耳。而固小之、与弟超書曰、
武仲以能属文為蘭台令史、下筆不能自休。夫人善於自見、而文非一体、鮮能備善。
是以各以所長、相軽所短。里語曰、家有弊帚、享之千金。斯不自見之患也。
今之文人、魯国孔融文学、広陵陳琳孔璋、山陽王粲仲宣、北海徐幹偉長、陳留阮瑀元瑜、
汝南応瑒徳璉、東平劉楨公幹、斯七子者、於学無所遺、於辞無所仮。
咸以、自騁驥騄於千里、仰斉足而並馳。以此相服、亦良難矣。蓋君子審己以度人。
故能免於斯累、而作論文。
王粲長於辞賦。徐幹時有斉気、然粲之匹也。如粲之初征、登楼、槐賦、征思、幹之玄猿、漏#x536e;、
円扇、橘賦、雖張蔡不過也。然於他文、未能稱是。琳瑀之章、表、書、記、今之雋也。
応瑒和而不壮。劉楨壮而不密。孔融体気高妙、有過人者。然不能持論、理不勝詞、
以至乎雑以嘲戯。及其所善、楊班儔也。常人貴遠賎近、向声背実。又患闇於自見、謂己為賢。
夫文本同而末異。蓋奏議宜雅、書論宜理、銘誄尚実、詩賦欲麗。此四科不同、故能之者偏也。
唯通才能備其体。文以気為主。気之清濁有体、不可力強而致。譬諸音楽、曲度雖均節奏同検、
至於引気不斉、巧拙有素、雖在父兄、不能以移子弟。
蓋文章経国之大業、不朽之盛事。年寿有時而尽、栄楽止乎其身。二者必至之常期、未若文章之無窮。
是以古之作者、寄身於翰墨、見意於篇籍、不仮良史之辞、不託飛馳之勢、而声名自伝於後。
故西伯幽而演易、周旦顕而制礼。不以隠約而弗務、不以康楽而加思。夫然則古人賎尺璧、而重寸陰、
惧乎時之過已。而人多不強力、貧賎則懾於飢寒、富貴則流於逸楽、遂営目前之務、而遺千載之功。
日月逝於上、体貌衰於下、忽然与万物遷化。斯亦志士之大痛也。融等已逝。唯幹著論、成一家言。」
(
>>81書き下し、適当ですおorz)
「文人の相軽んずるは、古(いにしえ)よりして然り。傳毅(ふき)の班固(はんこ)に於けるは、
伯仲の閒(はくちゅうのかん)なる耳(のみ)。而るに固は之を小なるとし、弟の超に書を与えて曰く、
武仲(ぶちゅう)は文を属(つづ)るに能(あた)うを以って蘭台令史と為(な)るも、筆を下してより休むを能わず。
夫(そ)れ人は自ら見るを善くせども、文は一体(いったい)に非ざれば、能く善(ぜん)を備うは鮮(まれ)なり。
是を以って各(おのおの)の長ずる所を以ち、短き所を相軽んず。里語(りご)に曰く、家に弊帚(へいそう)有り、
之(これ)を千金に享(きょう)す。斯(こ)れ自ら見ざるの患(うれ)い也(なり)。
今の文人、魯国の孔融文挙、広陵の陳琳孔璋、山陽の王粲仲宣、北海の徐幹偉長、陳留の阮瑀元瑜、
汝南の応瑒徳璉、東平の劉楨公幹、斯の七子の者、学に遺す所無く、辞に仮(か)る所無し。
咸(みな)以って、自ら騁驥(きろく)を千里に騄(は)せ、仰いで足を斉(ひと)しくして並び馳す。
此を以って相服せしみ、亦た良く難(かた)し。蓋(けだ)し君子は己を審(つまび)らかにし以って人を度(はか)る。
故に能く斯の累を免れ、文を論ずるを作す。
王粲は辞賦に長ず。徐幹は時に斉気し、然れど粲の匹(たぐ)い也。粲の初征、登楼、槐賦、征思、
幹の玄猿、漏#x536e;、円扇、橘賦の如く、張蔡と雖(いえど)も過ぎさる也。然れども他の文に於いては、
未だ是に稱(かな)う能わず。琳瑀の章、表、書、記は、今の雋(しゅん)也。
応瑒は和にして壮ならず。劉楨は壮にして密ならず。孔融は体気(たいき)高妙とし、
人に過ぎる者有り。然れども論を持すに能わず、理は詞に勝らず、以って雑(まじ)るに嘲戯(ちょうぎ)を以って至る。
其の善き所に及ぶに、楊班の儔(ともがら)也。常なる人は遠きを貴び近きを賎しみ、声に向かいて実に背く。
又(また)自ら見るに闇(くら)く、己を賢と為すと謂うを患(うれ)う。
夫(そ)れ文は本(もと)を同じくすれども末は異なる。蓋(けだ)し奏議(そうぎ)は雅(みやび)を宜しくし、
書論は理(ことわり)を宜しくし、銘誄は実(じつ)を尚(たっと)び、詩賦は麗(うるわし)きを欲する。
此の四科は同じくせず、故に之(これ)に能う者は偏る也。
唯(ただ)通才(つうさい)は其の体を備うに能う。文は気を以って主と為す。気の清濁に体(たい)有り、
力で強いれども致す可(べ)からず。諸(もろもろ)を音楽に譬うに、曲度(きょくど)は均(ひと)しく
節奏(せっそう)は検(けん)を同じくすると雖も、引気に至るは斉(ひと)しからず、巧拙に素(もと)有るに、
父兄に在(あ)りと雖も、以って子弟に移すを能わず。
蓋(けだ)し文章は経国の大業(たいぎょう)にして、不朽の盛事なり。年寿は時有れども尽き、
栄楽は其の身に止(とど)まる。二者は必ず之れ常の期に至り、未だ文章の無窮に若(し)かず。
是れを以って古(いにしえ)の作者、身を翰墨(かんぼく)に寄せ、意を篇籍(へんせき)に見(あらわ)し、
良史(りょうし)の辞を仮らず、飛馳(ひち)の勢いに託さずとも、声名は自ずから後(のち)に伝わる。
故に西伯は幽せられども易を演(の)べ、周旦は顕ぜども礼を制す。隠約を以てども務めずんばあらず、
康楽を以てども思いを加えず。夫(そ)れ然らば則ち古人の尺璧(せきへき)を賎しめども、寸陰を重んずは、
時の過ぎるを惧(おそ)るる已(のみ)。而るに人は多く強力(きょうりょく)せず、
貧賎は則ち飢寒(きかん)を懾(おそ)れ、富貴は則ち逸楽に流れ、遂に目前の務めを営み、
千載の功を遺(のこ)す。日月(じつげつ)は上に逝き、体貌は下に衰え、忽然として万物に与し遷化(せんか)す。
斯れ亦(また)志士(しし)の大痛(たいつう)也。融等(ら)は已(すで)に逝きぬ。唯だ幹は論を著し、一家言を成す。」
(
>>82訳、適当ですorz)
「文人がたがいに相手を軽んじることは、古くからそうであったことです。
後漢の章帝のときに宮廷に仕えていた傳毅と班固においては、(その才に)優劣はありませんでした。
しかし班固はこれをつまらないものと考え、弟の超にあてた文章で、「武仲(傳毅のあざな)は文章を書くのが
うまいので蘭台令史の役職につけたけれども、文章をかきはじめても自分で止めるタイミングを知らないのさ」
と言っています。そもそも、人は自分のすることは善いものに見えますが、文章は一つの形式ではないのですから、
(それらすべてを)うまく書ける技術を備えている人はまれです。そのために、おのおのが自分が得意な
分野を自慢することで、下手な分野を互いに軽んじあうのです。世間では、家に壊れたほうきがあったら、
これを価千金にあたると考えるといいます。これは、自分のことは見えないものだという問題点のことです。
現代の文人では、魯国の孔融文挙、広陵の陳琳孔璋、山陽の王粲仲宣、北海の徐幹偉長、陳留の阮瑀元瑜、
汝南の応瑒徳璉、東平の劉楨公幹、この七名の学者たちは、学問においては学んでいないことはなく、
文章においては贋物なところがありません。かれらは自分たちをして皆ことごとく、すぐれた才能をみずから
駿馬のように千里のとおくにも馳せさせて、天を仰いで足並みをそろえて駆けていこうと思っています。
こういうことなので、彼らが互いを屈服させたりすることは難しいのです。
思うに、君子たるものは自分のことを詳しくはっきりとさせたうえで、他人(の才能)をはかるものです。
そうすれば、(先の傳毅と班固のような)わざわいを免れ、文章について論じることができるのです。
王粲は辞賦に優れています。徐幹の文章ははときに斉国風ですが、王粲と同じく優れています。
王粲の『初征賦』『登楼賦』『槐賦』『征思賦』、徐幹の『玄猿賦』『漏#x536e;賦』『円扇賦』『橘賦』などは、
少し前に名文家とうたわれた張衡や蔡菑よりも優れています。しかし、王粲と徐幹も、辞賦以外の文章では、
いまだ張衡や蔡菑にはかないません。陳琳と阮瑀の章、表、書、記は、現代でもっともすぐれています。
応瑒の文章は均整がとれてなごやかですが、勢いがありません。劉楨の文章は勢いさかんですが、
しっかりと精密ではありません。孔融の文章は才気の薫り高く、他の人より俄然すぐれた部分があります。
しかし、論調をしっかり組み立てることができずに、文章の内容がことばの表面にまけてしまうので、
たまに戯れだったり嘲笑うような表現がまざってしまうことがあります。(しかし)彼の得意な分野では、
(その文章は)前漢の楊雄や後漢の班固と同じぐらいに優れています。
そのへんの人は、昔のものをありがたがり最近のものは評価せず、名声ばかりを見て本質に背を向けるのです。
また、自分のことをよく見ることができず、自分を賢いと考えてしまうのは愚かなことです。
そもそも文章は、根源は同じですが末端は異なっています。思うに、奏議は雅やかにするべきで、
書論は論理的にするべく、銘誄はその内容が大切にされるべきで、詩賦は美しくあるべきです。
この四科はそれぞれ形式が異なっているために、これらの上手な者はそれぞれに偏ってしまいます。
ただいっさいに通じた才能のある者だけが、このすべての技能を備えているのです。
文章は、目に見えない息や力などの「気」がその根幹となります。「気」の清濁は個人的なもので、
なにかの力で強いたところでどうにかできるものではありません。これを音楽にたとえれば、
同じ旋律を同じ楽譜や演奏法で演奏したとしても、呼吸のしかたは同じではないし、うまいへたには
素質というものもあるので、父や兄であっても子や弟にそっくり同じ演奏をさせることはできないのです。
思うに文章は、国を治めるための大仕事であり、朽ちることのない立派な事業です。
(人の)寿命はいつかは尽きますし、栄誉や楽しみも(その人が)生きている間だけのことです。
この二つのことにはいつか必ず期限がきてしまうので、いまだ文章の果てなく無限であることに及びません。
こうしたわけで、昔の文章家は、その身を筆と墨によせ、その思いを書物にあらわすことで、
歴史家のことばも借りず、権力のいきおいにたよりもしなくても、名声が自ずから後世に伝わったのです。
ですから周の文王は羑里に幽閉されていても易経をまとめ、周公旦は礼をさだめられたのです。
文王は苦しい生活をしていても(文章の)務めを怠ることはなく、周公旦は安楽にしていても
自分勝手にはなさらなかったのです。そもそも、昔の人が大きな壁をいやしんで、わずかな時間を大切にしたのは、
(朽ちない壁よりも)時間が過ぎていくことのほうをおそれたからです。しかし、今の人は少ししか努力せず、
まずしい人は飢えや寒さをおそれ、豊かな人は気ままな遊びにばかりかまけていて、目先のことばかりをし、
ついに永遠にのこる功績をやり遺してしまいます。月日は天の上で過ぎてゆき、人の体は地上で衰え、
一瞬のうちにすべてのものと同じくなって死んでしまうのです。これはまた、志のある人にとっては
非常に痛ましいことです。孔融たちはすでに没してしまいました。
ただ徐幹だけが『中論』を著して、彼独自の見識や考えを形にできたのです。」
なんつう数学的な文章、理路整然としたきれいな論でありましょう(*´Д`)
曹丕は詩賦においてもむろん冠絶していますが、そういった感情が鮮らかに
発露する文よりも、むしろこういう文章を書いたほうが三国一wだと思うです。
あと、魏書の華佗伝の裴注に典論のきれはしが載っていたので、
白文だけうpしておきます。訳はなるべく今週中に(ry
魏書方技伝第二十九華佗伝、裴注より
(白文)
「文帝典論論郤倹等事曰、
潁川郤倹能辟穀、餌伏苓。甘陵甘亦善行気、老有少客。盧江左慈知補導之術。並為軍吏。
初、倹之至、市伏苓価数倍。議郎安平李覃学其辟穀、餐伏苓、飲寒水、中泄利、殆至隕命。
後始来、衆人無不鴟視狼顧、呼吸吐納。軍謀祭酒弘農董芬為之過差、気閉不通、良久乃蘇。
左慈到、又競受其補導之術、至寺人厳峻、往従問受。閹豎真無事於斯術也、人之逐声、
之至於是。光和中、北海王和平亦好道術、自以当仙。済南孫菑少事之、従至京師。
会和平病死、菑因葬之東陶、有書百余巻、薬数嚢、悉以送之。後弟子夏栄言其尸解。
菑至今恨不取其宝書仙薬。劉向惑鴻宝之説、君游眩於子政之言、古今愚謬、豈唯一人哉。」
88 :
1(ry:2007/02/07(水) 02:13:32
相変わらず読みづらい直訳ですみませんorz
とりあえず訂正orz
>>85 ×『漏#x536e;賦』→◎『漏卮賦』
三国時代の中国の価値観が曹丕と曹植の対比でよくわかるね
叙情的で広大な空間を感じさせる文章と論理的で整然とした小部屋のような文章では前者が尊ばれるわけだ
もし日本だとこじんまりとした曹丕の方に軍配が上がって詩聖の名は曹丕の物になったかもしれんな
90 :
1(ry:2007/02/07(水) 02:37:28
手紙を見ると、曹丕と曹植の文章のタイプの違いが明らかで面白いですおね。
曹丕の手紙は形式どおりにはじまって、綿密に組み立てて統制されて、繊細におわり。
曹植の手紙は立て板に水のように、どばばばーーと言いたいことが美しくぶちまかっててワロスw
文章から文才ではなく、頭の良さを比べると現代日本人的な観点からすればどう見ても曹丕に軍配が上がりますな
典論GJ!!オマケもあるんだね。
典論は本来どれぐらいの長さだったんだろうか。
曹丕は詩より論が面白いのに同意。まさにブログ(ry
曹操・曹植は感情が先走るタイプで、
曹丕は感情を理性で抑えられるタイプなんでしょうな
この親子を見るに付けカーチャンの卞氏が気になって仕方ない。
曹操という下地があったにせよ、ここまで面白い才能を産み出すなんて
カーチャンもただ者ではなかったと思うのですよ
>逆に、仮に曹丕が立太子せずに地方の王様になっていたら、ほどよくのどかに仕事したり
>グルメしたり文章書いたりしつつ、けっこう満足して過ごしそうな希ガスw
糸井重里みたいですねw
埋蔵金探ししたりしそうだな
埋蔵金発掘したら逆賊扱いだぞ
97 :
1(ry:2007/02/07(水) 11:45:29
曹丕は、メンタル的にはバタバタした乱世の皇帝がわりと向いてなさげなようなw
曹植たんはミニ奸雄的な部分で、逆に独り平和にさせとくと発狂しそうじゃ
しそうじゃってどんな老人ですかw
曹丕は戦争弱いしなあ
99 :
まとめサイト ◆XoQX5vgfQU :2007/02/07(水) 13:32:19
だいたい知らない奴が口出しするな
その時代に生きていない人間には無駄だってこいうの
何が文学だ?かってにコピーして欠け
>>98 ここは文学スレなんで細かい話は避けるけど
曹丕は戦争弱い訳じゃないよ
アレはあの当時の北方軍の戦術ドクトリンそのものが持つ戦術的限界で
要するに曹操の限界がついに表層化して且つ決定的になった場面
102 :
98:2007/02/07(水) 15:12:57
ムムム 悪気は無かった。申し訳ない。軍板で勉強してくるよ
マターリマターリ。誰にでも間違いはあるぜ('∀`)
>>87 華佗伝に典論の切れ端とは気が付かなかった。お疲れ様です。
やはり自分は曹丕の詩が好きだ。
初めて短歌行見たときはこっちも哀しくなった(つД`)
>>102 あいや
責めるつもりは毛頭なかった
ただ曹丕が戦争弱いっていう定評につい脊椎反射でレスしてしまっただけなんだ
こちらこそスレの雰囲気壊して悪かった
('∀`)
Thxであります(´;ω;`)
自分はよくわからんですが、曹丕と曹植はやっぱえろい人の言うように、
文字どおり伯仲の間、典論ふうにいえば、ふたりとも文才にすぐれていて、
しいていえばとりわけても曹丕は論に、曹植は詩賦に冠絶しているよ、みたいなふうかと?
そいで、優劣をつけるためではなくとも、それぞれをよりたのしむための比較論的な補助として
作品を対比させて読んでると、(自分は)わかりやすくて面白いなーと思うようなorz
#
>>81訂正
×魯国孔融文学→◎魯国孔融文挙 orz
>>93 丁夫人はあの時代に、あの曹操に啖呵をきっているからすごいですおね。まさに女傑w
#そいで、ちょっと戻るのですが、典論がこのあとどういうふうに各論を
展開させていったのかわかりませんが、すくなくとも文学に関しては、ここまでの論調だと、
やはり
>>69の「曹植たん=文章ウマイ=文章は経国の大業=曹植たんを国政に参加させたげようよ」
が成り立ってしまうので、たとえ曹丕が曹植の与楊徳祖書を読んでいたとしても、
典論に曹植へのあてつけの意図をこめたとは考えにくいような……?
もちろん、仮に曹丕が曹植の文章を高く評価していたとしても、
誄でもないのに自分の身内である弟をほめたたえるとは礼からして考えにくいですし、
そもそも好悪いずれに評価しても彼の政権にとっては面倒くさいことになるでしょうから、
典論には(少なくとも現存する部分には)曹植の名が出てこないのだと思うます。
そこまではいいのですが、曹植が文才にすぐれていることは、
太祖曹操をはじめとした当時の人々のコンセンサスだったのですから、そこで曹丕が典論で
「蓋文章経国之大業……」といって、文章を国政の大事業として評価することは、
(#不遇をかこって筆に遊ぶしかない曹植側からはあてつけがましく見えるかもですが)
曹丕側からすると、文章にすぐれた曹植を経国の才があると評価することにはなれど、
人気皇位継承者の曹植を僻地に封じておいて皇帝の権力を確固たるものにしたいという政策とは
矛盾するように思えるのですが……??(´・ω・`)ヨクワカンナイケド
#でも、「……雖在父兄、不能以移子弟」のところは、曹操や曹植と自分の文才をくらべて
#好悪のいずれにしても思うところがあって示した文章とも理解できますおね
#(たとえば、曹植の詩賦をみな褒めるけど、論なら俺のほうがうまいぞ、とか)。
#そういう意味では、典論には曹植たんに諷する意図があったとも読めますおね(違うかも)
「鍼神」で大漢和を探してみたら出典がでてきたよ
五胡十六国の前秦・王嘉の「拾遺記」(「王子年拾遺記」)
という書物に載っている故事らしいっす
>>110 文章に価値を見出してない曹植を蹴り出して「文学最高、国家事業だよね」とすることは
政治こそ男児の本懐、文学は手慰みとした曹植への物凄い迂遠な嫌味にはならないでしょうか
つまり「文章を大事に考えないお前なんか俺の政権にはイラネーヨ」という事です
また文章も国政の一部とする事によって文学からも締め出ししてるように私には考えられるのです
これはあくまでも個人的な考えなのでそんな考え方もあるんだな程度に思ってもらえるとありがたいです
曹丕の「文章への愛」はちょっとフェチ入ってる感じなので
ドバドバーっとぶちまける曹植への当てこすりというか、煽りが入ってる感じだ
フェチw
>>111 SUGeeeeeee!!!!! Thxです!! 拾遺記読んだことないからこんど読んでみよう。
そんな昔の文献に出てるってことは、あながち後世に創作した眉唾話じゃないのかもw
自分も
>>67の夜来夫人の出典を思いだしますた。
天一出版社の明の『艶異編』第八巻・薜霊芸に出てますた。
なかなかエロい話で満足w( ゚∀゚)o彡゜長いので、そのうちうpします。
備忘メモ:あと、岩波の『太平記』巻第十三・龍馬進奏事の菊慈童の話も
発掘したので、そのうちうpします。年代の整合性がなんかおかしいような希ガスです。
>>112 Thxです!! なるほどー、曹植たんが典論を読んだら「兄貴、イヤミだぜー!」と
めちゃくちゃ思いそうですおねw。典論の論調だと、みんなは曹植たんや曹操を
文才に卓越していると褒めるけど、そりゃたしかに奴らも詩とかはうまいけど、
形式によっちゃイマイチじゃん、と言ってるようにも読めますかもですおねw。
(このへんは自分が勝手に思うだけですが)やっぱコンプレックスがあったのかなーと。
しかし大筋としては、典論は果物のグルメ詔のように、好きな文学の博物志みたいなのを
つくりたかったんだろうなというように見えますおね。つくづくそういうのが好きなんだなとw
#しかし、「曹植の文才はすごい」というのは当時の人々のコンセンサスだったのは
間違いないのですが、「曹植が中央の国政に参加したがってるけどできなくて筆遊びしてる」
という見識のほうは、多くの人が持っていたものなのでせうか?
もしそっちのほうのコンセンサスがなければ、曹丕が典論に曹植たんを諷するような
意図をこめていたとしても、それは曹植たんの「中央に行きたいよ」という
尻に火がついたような心情をしっている曹植たんの周囲の人か、
せいぜい魏宮廷周辺の人にしか通じないような……
しかも典論は、なにしろ孫権にあげたぐらいなので、曹植たんのそういった細かい状況が
伝わらない大陸中に広まることや、さらには曹丕がいみじくも「文章之無窮」と言及しているように、
ひろく後世にのこって当然ということ、つまり曹植たんの内情を知らない地方や後世の人が
読むことを前提として考慮して書かれた(書かれるべきであった)のでしょうと思います。
そうすると、自分はどーしても、曹植を中央から遠ざけておくという政策と典論の論旨は、
他人から相反するようにとられる危険性が大きすぎるように思えるのですが……
曹植たんのそういう状況を知らない多くの人に、
「文学を国家事業とするならば、なぜ中央に当世の文章の天才曹植を招かない/招かなかった?」と
いう声をあげさせるもとになってしまうような気がするのですが……(´・ω・`)ナンカチガウカモ
それとも、そんな政治的な意図はなく/無視して書かれたのか(そんなことあるのかな)、
または曹植たんに対するあてつけの意図なんかはなかったのか……??(´・ω・`)ヨクワカンネ
#あと、前スレ
http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/logs/1.htmlに 477さんが薄葬詔は典論をしたじきにしてるかもというのをおそわりますたが、
典論と薄葬詔の論旨のメソッドは、やっぱりそっくりですおねー。
群雄が割拠しちゃ興亡するところをずっと見てきて、自身が禅譲をうけて
漢朝の終焉までみていると、永遠のものへのあこがれが出てくるのかなー。
つくづく曹丕はへんな(おもしろい)皇帝だなーと思うです。
>>116 >曹植を中央から遠ざけておくという政策と典論の論旨は、
>他人から相反するようにとられる危険性が大きすぎるように思えるのですが……
曹丕は政治的リスクよりも自由に書きたいことを優先したとか?
俺も良く分からんが曹丕ならそれぐらいやりそう。
古文漢文板に引っ越しするなり、避難所作るなり
…したほうがいい余寒
>>1ry氏
中英板なら、ほかの時代も適用されているから
三国時代以外の文献を参考にするときもいいかもよ。
そうかもですおね(´;ω;`)
次スレは中英にひっこしたほうが良いかもですおね(´;ω;`)ブワッ
でも中英の漢詩漢文スレはいま3つあるようですが、軒並み過疎っている悪寒……orz
このスレは落とさないように最後までがんばるつもりですが(´・ω・`)
ROMラーだが、三戦の他のスレで
結構「文学スレを読んで誰それの認識が改まった」
みたいなレスを見掛けるんだよな。
三戦で文化系の考察スレは貴重だったんで
三戦を愛する俺は三戦復興の一柱として留まって欲しいもんだが。
三戦にマトモなスレが他に無くなったら仕方ないんだが
まあ今後の様子見かな。保守なら任せろ。
自分も三戦に何年もいるのでできれば復興してほしいものです(´;ω;`)
おもしろいスレに参加する以外に、できることは何もないのですがorz
とりあえず、このスレはこのまま進めていこうかと思ってみる次第でありますが(`;ω;´)ゝ
住人はある程度いるようだから、適宜ageて行けば落ちることはないと思う
おれもこのスレ好きだから、保守協力するお
同じく(・∀・)保守に協力するお!
今までのペースなら落ちないとは思うが
マターリ育てていこうぜ(´∀`)
どこの板でもついていくよ1さん!
129 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/10(土) 00:07:05
あげておくぜ
Thxthxthxであります(´;ω;`)弁亡論百回読んできますorz
>>117 そう考えれば辻褄があうのですが、そんなリスクに曹丕が気づかなかったとは考えづらいし、
ましてや孫権や張昭にも写しを与えているのですから、たとえ曹丕がリスクをスルーしてても
誰かが止めないのかなぁ……と、疑問が止まらんですー。
とりあえず、週末に文帝紀の典論自叙もうpしようかと思っていますが……
鯖移転記念に別ネタふりしておきますorz
世説新語 排調第二十五の五
「晋武帝問孫晧、聞南人好作爾汝歌、頗能為不。晧正飲酒、因挙觴勧帝而言曰、
「昔与汝為隣 今与汝為臣 上汝一桮酒 令汝寿万春」。帝悔之。」
(書き下し、適当ですorz)
「晋武帝は孫晧に問う、南人は好んで爾汝(じじょ)の歌を作ると聞くに、
頗(すこぶ)る能(よ)く為(な)すや不(いな)や。
晧は正に酒を飲み、因りて觴(はい)を挙げ帝に勧め而して言いて曰く、
「昔は汝と隣為(な)り 今は汝の臣為り
汝に一桮(いっぱい)の酒を上(たてまつ)る 汝の寿を万春ならしめん」。帝は之(これ)を悔やむ。」
(訳、適当ですおorz)
「晋の司馬炎は孫晧に、南部(呉)の人は『爾汝(おまえ/フランクな二人称)』という
言葉をつかった歌を作るのが好きだと聞くが、君はうまくできるかね? と問いました。
孫晧はちょうどお酒を飲んでいたので、さかずきをあげて帝に勧めてこう言いました。
「昔はおまえの隣だったが、今ではおまえの臣下だ。
おまえに酒を一杯献上しよう、おまえが幸せに長生きするように」。
司馬炎は(これを聞いて)、(自分が言ったことを)後悔しました。」
普段はぜったいに皇帝を「おまい」なんて呼べないのですが、孫晧は
皇帝の注文にかこつけて皮肉で慇懃無礼な歌をつくり、司馬炎はそれをもらってしまったわけですおね。
自分はこの孫晧の黒い皮肉が、なんだか知らないのですがすげー好きですw。
なんかダークヒーローっぽいというか、ヒーローにもなれないダークな没落皇帝の
頭を下げてるようで下げていない皮肉と悲哀が、好きというかなんか、ずっと見ていたくなります。
> 好きというかなんか、ずっと見ていたくなります。
それは・・・恋の始まり・・・www
>>132 それだけは御免だアッー!w
司馬炎を賢くやりこめて普通ならばスカっとしそうなのに、ぜんぜんスカっとしない余韻の悪さが良いw
曹丕と孫晧が好きとはMだなw
それは置いといて、孫晧って顔の皮剥いだりした奴だっけ?
普段はsageてるんだけどこの鯖に移された後だとちょっとでも油断するとdat落ちしそうだし常時ageてかないか?
賛同が得られれば次のレスからageてこうと思うのだが
孫皓は孫家の黒い部分を全て受け継いだようなところが興味深い
生い立ちも暗いんだよね。
137 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/10(土) 11:47:23
>>135 それに糞スレ防止にもなるしな、同意。
荒らしに会うようになったらまたsage路線にするかどうか考えればよかろう。
んで話もとに戻すと、呉の末期は中華大陸というよりは御家騒動みたいに見えるから余計黒く見えるんだよね。
138 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/10(土) 11:55:41
孫晧って、降伏後は家臣達に対して
「呉が滅びたのは俺のせいだから、各々存分に才能を発揮してくれ」みたいなことを手紙で述べたらしい。
図解雑学三国志によると孫晧は名士層の扱いに苦労して発狂したとか、
孫権の二宮事件も名士層との対立が挙げられているし、どうにも出来なかったらしい。
139 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/10(土) 12:03:39
これはどんな書籍にも大体書いてあるんだけどね純米がたくさん出来るのは水に恵まれた呉だけだったらしい。
魏は豆や栗、蜀は・・獣かな、ともかく飯が上手いとわざわざ飯が不味い魏や蜀を征伐したいとは考えないんじゃないかって。
だから呉に閉じ篭って御家騒動とか自国の対立とかしか真似かなくなっちゃたんじゃないかな。
夫が家に居るとよく妻と夫婦喧嘩が絶えないっていうしな。
飯といえば、曹丕が孟達に「蜀の料理は味が薄いから蜜で味付けをするって本当?」と尋ねていますね。
当時の食事事情ってどんなものか興味あります。
>>131 そのエピソード好きだw
孫晧は王済や賈充に対する皮肉話も面白いね
142 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/10(土) 17:30:44
曹丕グルメ杉w
143 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/10(土) 18:45:29
>>140 あったねw
「蜀の肉って味薄いんだって?蜜かけて食うって本当?」って
おまいもっと他に聞くことあるだろw蜀の内情とか聞いとけよwと思った記憶がww
出典何処だっけ?好きなエピソードなのに思い出せん・・・
145 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/10(土) 22:16:01
ソウヒって病死?
146 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/10(土) 22:50:42
>>144 多分、北堂書鈔
食い物と曹丕といえば、瓜やらスモモやら泉で冷やして食ったyo!って呉質に手紙書いたりしてたような?
147 :
1(ry:2007/02/11(日) 01:58:00
そいではあげてみます(`・ω・´)ゝなんかさっき鯖落ちてたような……
>>134-139 そですおね。陳寿は孫晧をけちょんけちょんに言っていますが、
(このへんは自分が勝手に思うだけなのですが)やっぱ得がたい英才と運に
ささえられて橋渡りのどさくさ紛れ(失礼)にやってきて、国内でみんな好き勝手に
暴れまくりつつ妙なバランスで力技的に纏まってるとこが、呉書のおもしろいとこだと思うです。
それゆえに、孫策周瑜魯粛のころにあつめた名門のみなさんの権勢がおおきかったり、
むりやり力技で作った国の限界がちょうどきていたりした頃に帝位が廻ってきた孫晧だって、
随分いいたいことはあるんじゃまいかと思うですw。スレ違いなのであれですが、
曹丕が戦争弱くないように、孫晧も亡国の為政者だからってそんなにひどくない気がするー……
と言ってみるテスト(ry (´・ω・`)えろい人ゴメンナサイ
そいで何かというと、けっきょく孫晧はいろいろあった末に晋に膝を折って
晋帝司馬炎に仕えているのですが、人の目玉をえぐり出したり顔の皮をはいだりしたのも
相手が礼に反したことをしたからだ、というような、礼を重んじる人ですおね。
だから普段はぜったいに司馬炎に失敬なものいいはしなかったと思うです。
そいで一方、司馬炎が「聞南人好作爾汝歌、頗能為不」と言ったのは、
文化の異なった南の呉を、程度が低いというか田舎というか思いっきり土人扱いして(失礼)、
「南のおまいさんの国ではこういう田舎びた歌を作るっつーけど、おまいもやっぱできんの?」と、
めちゃくちゃ呉をバカにしまくって戯れたことを聞いてるわけですおね。
それに対してふだんは礼を崩さない孫晧が、機に乗じて皇帝をおまえ呼ばわりしながら
杯を捧げて慇懃無礼に皇帝(と晋)のとこしえを歌ったっつーのは、やっぱなんか万感迫るものが……。
と感動的にいきたいところですが、なぜか素直に感動できない孫晧のひねくれ加減が好きですw
うん。自分もなんかあんまり孫皓が嫌いになれない。
彼は両親を不当に殺した呉という国を憎んでいたように思う。
>>140-144 Thxです! 自分は全三国文のとこしか読んだことないので、いちおうそこからうpしますー。
全三国文巻六魏六 文帝三より
(白文)
「新城孟太守道蜀[月者]肫鶏鵞味皆澹、故蜀人作食、喜著飴蜜、以助味也。」
(書鈔一百四十七、御覧八百五十七)
(書き下し、適当ですorz)
「新城の孟太守が道(い)うに、蜀の[?]肫鶏鵞は味皆澹(うす)く、
故に蜀人が作る食、喜(し)は著しく飴蜜し、以って味を助く也(なり)。」
(訳、適当ですおorz)
「新城の太守の孟達が語るには、蜀の干し肉やにわとり、鵞鳥はみな味がうすいので、
蜀の人か作るたべものは、ごちそうにはみな飴や蜜をかけて味を助けています。」
[月者]の字がわかんなかったです済みませんorz
蜀は土地が貧しいから、家畜も痩せてるのかな……。というか、曹丕はそんなことを
いちいち聞いたうえにメモして書いておかなくていいと思うww孟達もびっくりしただろうw
全三国文のこのへんは、ライチだの蜀錦だの曹丕のブログ状態でおもしろいですねw。
ちょっとずつうpしてみようかな……
>>57,
>>67,
>>111,
>>115の曹丕が衣服にこだわったという話ですが、曹丕は蜀錦についても
なんか熱く語ってますねw。蜀錦というのは蜀名産の絹織物で、南唐の李イクごろが有名ですが、
このころから中華に名高かったんですねー。日本も古来から江戸に至るまで多く輸入して、
いまでも和服の柄には蜀錦に著名だったデザインを元にした「蜀江文」というきれいなパターンが
あるのですが、これは諸葛丞相が発案したという眉唾話もあるらしいですw。
>>146 朝歌令与呉質書のとこなような気がするので、うpしてみるです。
このスレのお陰で孫皓に対するイメージが変わりつつあります。
ダークヒーロー的でカッコイイ人物だったんですね。
曹丕のブログ(違)は是非とも全文見てみたいですw
気長にお待ちしてます〜
>>146さんのとこを白文うp。訳はあしたやりますーよっぱらってるので多分ミスがありますorz
『魏文帝与朝歌令呉質書』 魏文帝
「五月二十八日、丕白。季重無恙。塗路雖局、官守有限、願言之懐、良不可任。
足下所治僻左、書問致簡、益用増労。毎念昔日南皮の遊、誠不可忘。既妙思六経、
道遥百氏、弾棊間設、終以六博、高談娯心、哀筝順耳、馳騁北場、旅食南館、
浮甘瓜於清泉、沈朱李於寒水。白日既匿、継以朗月、同乗並戴、以遊後園、与輪徐動、
参従無声、清風夜起、悲笳微吟、楽往哀来、愴然傷懐。余顧而言、斯楽難常、足下之徒、
咸以為然。今果分別、各在一方、元瑜長逝、化為異物。毎一念至、何時可言。
方今蕤扇物、天気和暖、衆果具繁。時駕而遊、北遵河曲、従者鳴笳以啓路、
文学託乗於後車。節同時異、物是人非、我労如何。今遣騎到鄴、故使枉道相過。
行矣自愛。丕白。」
>>148,
>>150 自分はかってに孫晧がすきで贔屓しているだけなので、信用しなうほうが(ry
ダークヒーローというか、超ひねくれた亡国のダークルーザー皇帝的な感じがすきですw
>曹丕のブログ(違)は是非とも全文見てみたいですw
これって全三国文からのうpでもおkなのでしょうか。太平御覧とか芸文類聚とか
ちゃんと読んだほうがいいのかな(´・ω・`)ヨンダコトナイ
>>145 曹丕の病死はこういうわけらしいですー。
魏書方技伝第二十九、朱建平伝より
「朱建平、沛国人也。善相術、於閭巷之間、效験非一。太祖為魏公、聞之召為郎。
文帝為五官将、坐上会客三十余人、文帝問己年寿、又令遍相衆賓。
建平曰、将軍当年八十、至四十時当有小厄、願謹護之……
……文帝黄初七年、年四十、病困謂左右曰、建平所言八十、謂昼夜也、我其決矣。頃之果崩。」
(適当書き下し)
「朱建平は沛国の人也(なり)。相術を善くし、閭巷(りょこう)の間に於く効験は一(ひとたび)に非ず。
太祖の魏公為(た)る、之(これ)を聞きて召し郎と為(な)す。
文帝の五官将為(た)る、坐上に客三十余人が会し、文帝は己の年寿を問い、又(また)遍(あまね)く衆賓を相ならしむ。
建平は曰く、将軍の年は八十に当し、四十に至る時に小厄に当たる有り、之(これ)を謹み護るを願う……
……文帝の黄初七年、年四十、病に困(くるし)みて左右に謂いて曰く、建平の言う所の八十は、
昼夜を謂う也(なり)、我は其の決なるかな。頃(しばら)く果たして崩ずるに之(いた)る。」
(適当訳)
「朱建平は沛国の人でした。人相をみる術がうまく、ちまたでは一度ならず占いが当たっていました。
曹操が魏公だったときに、これを聞いて朱建平を召しかかえて郎につけました。
曹丕が五官将だったときに、(宴会の)席上に三十人あまりのお客がつどい、
曹丕は朱建平に自分の寿命とお客みなそれぞれの人相を占わせました。朱建平は、
「将軍(曹丕)の寿命は八十で、四十のときに小厄がございますから、おからだを大切に謹んで下さい……」
と言いました。……黄初七年、曹丕は四十歳で病気にくるしみ、左右のものに、
「朱建平が(寿命を)八十といったのは、昼と夜を(それぞれ別に)言ったのだ、だから私は
そのとおりになる(没する)だろう」と言いました。はたして、しばらくして(文帝は)崩御なさいました。」
陛下、明らかに小厄のほうだと思います(つД`)なんだその負けずぎらいは……w
曹丕はそんなに自分の寿命が気になったのかな。典論でも文学の永遠性をたっとんでるし、
即位してすぐに薄葬詔をだしてるし、不朽なものへのあこがれがつよい人だなーと思うます。
>>150-151 前に何処かのサイトで生い立ちというか暴挙に至る経緯を見たけど
それ見たら責められなくなったよ(´・ω・`)
気の毒な人だったんだなぁって……
>>149 ×鵞
○鶩
ちょっと原典を確認してみた
御覧八百五十七 魏文帝與朝臣詔
新城孟太守道蜀[月者]肫鶏鶩味皆淡、故蜀人作食、喜着飴蜜。
書鈔一百四十七
魏文與朝臣詔云、新城孟太守道蜀[月者]羊鶏鶩味皆淡、故蜀人作食、喜着飴蜜、以助味也
手持ちの北堂書鈔には校勘記があって、テキストによって
出典を魏略にするもの
朝臣→群臣
[月者]→肫
着(著)→煮
という風な文字の異同があるらしい。
全三国文がなぜ「[月者]肫鶏鶩」を採用したのかよくわからんが
北堂書鈔のように「[月者](肫)羊鶏鶩」と読んだほうが
「豚・羊・にわとり・あひる(の肉)」とスッキリ解釈できるような希ガス
ちなみに[月者]=豬=猪
肫もいろいろな意味があるが、肫=豚でいいと思う
155 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/11(日) 08:32:24
いいね、なんかこのスレらしいいい感じになってきたageとくよw
他に飯に纏わる文はないかな?
美食家的な文官がいたような希ガス
156 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/11(日) 10:40:19
美食家なのか悪食なのかわからんが
真っ先に思いついた人物↓
お刺身だい好き陳登
157 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/11(日) 12:57:34
>>152の曹丕の負け惜しみにしんみりしつつワロタww
しかし、イチイチ家臣を虐殺してたら同情の余地は無いな
何か懲罰鯖移転のせいでかなりスレが落ちやすい仕様になったみたい。
このスレも移住考えたほうがいいんジャマイカ?
>>152 最期も曹丕らしくていいですね。
40年という短い人生を満足できるまで楽しもうとして
常に未来を見据えていた…ということでしょうか。
陳登って200年のとき何歳?
どもです(`;ω;´)ゝできれば三戦にとどまりたいものですが……orz
孫和夫妻はキノドクスですおね。だからといって、孫晧が暴政をしいていいという理由には
ならないのですが……。でも、たしかに孫晧は亡国の皇帝ですが、いままでの呉の
力技政権のひずみがぜんぶ出てきたあの時期に、たとえほかの誰が帝位についても
呉を失わないことは困難だったんじゃまいか……とひつこく言ってみるテスト(´・ω・`)
そいで
>>131の爾汝歌なのですが、「爾汝」というのは素朴というか田舎臭い(スミマセン)
方言みたいなニュアンスなので、ここで孫晧は司馬炎(北部/黄河系の人)に、
おもいっきし自分の失った故国である長江流域の南部を言葉もろとも馬鹿にされたのですおね。
そこで、故国の「ださい」言葉を皮肉に用い、しかし自分に課せられた
司馬炎に膝を折る義務はわざとらしくも忘れず、教養ある即興詩で
慇懃無礼にかえした孫晧には、国を失った自責と故国へのほこりや愛が
感じられるように思います(でも、出典は眉唾な世説新語なんですがw)。そう考えると
ふつうは感動的なのに、素直に感動させてくれない孫晧のひねくれぶりは癖になりますw。
>>154 Thxです!! SUGEEEEE!!!!! 字が潰れてて見間違えますたです済みませんorz>鶩
なるほどー、要するにどの字でも言いたいことは豚とかの肉だよ、ということでしょうか。
考えてみれば、木牛流馬を発明する必要があるぐらい牛馬が貴重な蜀で、
牛なんてそうそう食べられないですおね。あと
>>149 △澹(うす)く→◎澹(あわ)く ですたorz
「魏文帝が朝廷の臣に詔をだして言うには、新城の太守の孟達によれば、
蜀の豚・羊・にわとり・あひる(の肉)はみな味がうすいので、 蜀の人か作るたべものは、
ごちそうにはみな[飴や蜜を(たくさん)かけて/飴や蜜で煮込んで]味を助けています。」
みたいな感じでしょうか。っつか、そんな詔を出されても困るようなwww
鯖落ちてるあいだに
>>151訳せますた。
>>140 当時のえろい人はグルメでいろいろ言っていますが、市井の人は何を食べてたんでしょうね。
曹植たんが217年の『疫病を説く』では、貧乏で豆の葉っぱ(?)ばかり食べてる人が病気になったとか
書いてありますが、そんなもんなのかも……日本ではドングリとか貝塚とかの時代だしw
全三国文巻十四では、曹植たんも兄に劣らずブログっぷりを発揮していておもしろいですw。
しかも、やはり兄さんより暇だったのか凝った文章でいっぱい書いてあって、
ワロスなようなキノドクスなような。曹操はそういうのがほとんどないみたいですが、
やっぱりめちゃくちゃに忙しかったのかな。業務連絡ばっかりでワロス。
>>155-156,
>>162 寄生虫(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル。39歳で没しているから、ええと何歳だろうorz
後で考えてみます……[保留]。陳登かっこいいですおねw。
>>161 自分は、曹丕は典論の自序で「俺は戦場育ちだからめちゃくちゃ丈夫なんだぜ!」みたいなことを
特筆しているぐらいなので、若い頃からも皇帝に即位してからも、健康には自信があったんじゃまいか
と思うですー。それで、八十まで生きる気満々だったのに、四十歳で病気になってしまい、
「朱建平は寿命を八十と占ったのになぜだ!」
↓
「(心の声:そういえば、四十で小厄が来るから自重するようにって注意されたな)」
↓
「(心の声:自重しなかった俺が悪いのかよ! いやそんなはずはない!)」
↓
「(左右の人に言う)朱建平が寿命を云々と言ったのは(ry」という負けおしみの屁理屈なような(ry
曹丕は芙蓉池作詩で「遨游快心意、保己終百年」と言ってますし、薄葬詔で言っているように
長くても百年で朽ちる肉体をもちいた自分の人生や、古来より滅びないことのなかった国家の統治は
それはそれできちんとやるけど、自分のそういった大仕事もいつかは滅びることを強く意識していたゆえに、
自分のやったことがいつまでも残る文学のもつ永遠性にあこがれていたように思えます
(なんとなく、太祖曹操へのコンプレックスとか言ってみたりするテスト(ry)。
そいで、自分がどのぐらい不朽じゃないのかに興味があったのかもとか勝手に類推してみるテスト(ry
>>151を訳してみるます。ついでに訂正orz
×毎念昔日南皮の遊→◎毎念昔日南皮之遊 ×道遥百氏→◎逍遥百氏
×与輪徐動→◎輿輪徐動 ×方今蕤扇物→◎方今蕤賓紀時、景風扇物
(適当書き下しorz)
「五月二十八日、丕白。季重には恙(つつが)無きや。塗路(とろ)は局(かぎ)りと雖(いえど)も、
官守の限り有るに、願(つね)に言(われ)の懐しきを、良く任(た)えるべからず。
足下(そくか)の治むる所は僻左たるに、書問を致すを簡(おこ)たり、用(も)って益(ますます)労の増す。
毎(つね)に昔日の南皮(なんぴ)の遊を念(おも)い、誠に忘るべからざる。
既(みな)六経の思(し)に妙(た)え、百氏に逍遥し、弾棊(だんき)を間に設(もう)け、
以って六博に終わり、高談に心を娯(たのし)ませ、哀筝に耳を順ず。
北場に馳騁(ちてい)し、旅(つらね)て南館に食し、甘瓜を清泉に浮かせ、朱李を寒水に沈む。
白日は既に匿れ、以って朗月が継ぎ、同乗並戴し、以って後園に遊び、輿の輪は徐(ゆるや)かに動き、
参従する声無く、清風は夜に起し、悲笳は微かに吟じ、楽(らく)往き哀(あい)来たる、愴然として傷懐す。
余(よ)を顧みれども言う、斯くの楽しみは常に難ず、足下の徒、咸(みな)以って然(しか)りと為(な)す。
果たして今は分別し、各(おのおの)一方に在し、元瑜は長逝し、為(ため)に異物と化す。
毎(つね)に一念に至るに、何時か言う可(べ)し。
今は方(まさ)に蕤賓(ずいひん)紀の時、景風は物を扇ぎ、天気は和暖、衆果は具(そな)え繁る。
時に駕せども遊び、北し河曲に遵じ、従者は笳(あしぶえ)を鳴らし以って路(みち)を啓(ひら)き、
文学は後車に乗るを託す。節は同じく時は異なり、物は是れ人に非ず、我の労は如何(いか)ばかりか。
今(いま)騎(き)の鄴に到るを遣わす、故に枉道(おうどう)に使し相過ぐ。
行矣自愛。丕白。」
>>164 曹丕が永遠を強く意識してたってのは400年続いた漢を自分で終わらせた事も関係してくるんでは?
(
>>151適当訳orz)
「五月二十八日、謹啓、丕より。
季重(呉質のあざな)どのにはお変わりありませんか。
(呉質が赴任している朝歌までの)道のりはせいぜい限られた距離なのですが、
宮廷での仕事は限りなくあるので、いつもあなたを懐かしく思うことに耐えるのが大変です。
あなたの任地はとても僻地で不便なところなので、手紙で安否を問うことも簡単ではなく、
(私は心配で)ますます心労が増します。
いつも昔に南皮で遊んだ日のことを思い、まったく忘れることができません。
(一緒に遊んだ人々は)みな六経の思想につうじており、諸子百家を気ままに楽しく語り、
たまにおはじきの試合をして、それが碁石を箸ではじくボードゲームになって終わり、
みなさんのお話に心をたのしませ、琴のものがなしい調べに耳をかたむけましたね。
(また、)馬を北のほうの平原にほしいままに走らせ、つらなって南の館で食事をしたり、
甘い瓜をきれいな泉に浮かべたり、赤いスモモをつめたい水に沈めたりしましたね。
太陽がすっかり隠れて明るい月がそのあとを継ぐと、一緒に(車に)乗ってわだちを並べ、
後園に遊びにいって、車の車輪はゆるやかに動き、ついてくる音はなにもせず、
きれいな風が夜空におこり、悲しげなあしぶえが小さな音で鳴り、楽しかったことは
いってしまい、寂しさがやって来て、とても悲しくなってしまいます。
(私は)余韻を顧みながら、「こんな楽しいことは常にはないことです」と言い、
みなさまがたもその通りだとしましたね。はたして今は(常ならぬとの言葉どおり)遠くに
別れ別れになってしまい、それぞれがいろいろな場所におり、元瑜どの(阮瑀のあざな)は
遠くへ行ってしまい(没してしまい)、幽霊となってしまいました。
いつも(我々の人生の)時間はとても短くてすぐに終わってしまいますが、
いつ(あなたと)おしゃべりできるようになるでしょうか。
168 :
1(ry:2007/02/12(月) 02:41:26
今はまさに時は五月で、南風が物にそよぎ、天気はなごやかで暖かく、すべての果物は
繁りそろっています。たまには馬車で遊びに出て、河曲(黄河沿いの地名)にしたがって
北に行き、従者はあしぶえを鳴らして道の露払いをし、文学(官職名)は後からついてくる車に
乗っています。季節は(いつも)同じですが、その年度は異なり、物は人ではないので
(物は季節のようにいつも同じですが、いっしょに遊びに行く人は年度のように異なるので)、
わたしのストレスはいかばかりでしょうか。
今、馬を鄴まで遣いにやるので、ついでに寄り道をして(この手紙を)お届けします。
これからもお仕事にがんばって、ご自愛ください。丕より、敬白。」
本とおはじきと乗馬と音楽と果物とドライブで、好きなものオールスターで楽しかったのかなとw(あと幽霊)
>>166 そうだと(自分は)思うですー。
>>116でもかいたので再度なんですが、
人にせよ故郷、故国、英雄や政府にせよ、滅びるものを見まくる連続で皇帝になってるのですから、
滅びないものへのあこがれが生まれてもおかしくないと(自分は)思うです。
187年から226年は、滅びなかったものを見つけるのが難しいぐらいですおね。
>>168 滅びなかったもの>御仏の教え
いや、冗談ではなく曹植とか仏教にはまってたようで
>>169 ですおねwオッサンの皇帝に可愛いっつのもなんですが、この手紙はかわいい。
とくに、曹植たんのどばばばーっと言いたいこと美しくブチまけ系の迫力手紙のあとに読むと、
まるで可憐な少女の手紙のようだ。
(↑書いてみて自分で気持ち悪かったですスミマセンorz。でもほかに修辞が思いつかずorz orz)
>>170 あっ曹植たんと仏教、前スレで教えていただいて調べるのに保留にしておいて忘れてますたorz
曹植のイメージがジョンレノンみたいになってくる
>>173 蜀でも牛は食える
しかし牛は牛でも水牛だがな!
運搬には使えないが農耕には使えるので結局値段が張るのは間違いないけど
>>167-168 乙!
当時の生活が伺える可愛い手紙ですねw
曹丕は呉質に対しては感情の赴くままに接している印象がありますしね。
176 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/12(月) 11:07:02
こんな手紙欲しいな
鯖復帰しましたか
よかった
>>178 もしこんな調子でブログ書かれたら、俺はもうこのブログおやじの虜
何がうめーとかコレがおもしれーとか
オヤジが言ってるから、いい味出る
しかも皇帝
たまらん
183 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/13(火) 01:20:21
>>155微妙に話題に乗り遅れかつ少しずれてる気もするが
曹丕と鍾ヨウのドキドキ五熟釜とか?
呉質に対してはすごい優しかったり、曹丕は誰を相手にしているかでガラッと印象が変わるよなー
鍾ヨウに対しては宝玉?か何かをおねだりしたり年取って耄碌した鍾ヨウにマジギレしてたり
なんかじいちゃんと孫っぽい印象がある
そういうなんか人間的な関係の記録に関しては孫権と家臣のやり取りも結構残ってるが、蜀は少ない。
スレ違いになるが、蜀の使臣と孫権のエピソードは散見されるが、呉の使臣と劉禅のエピソードは皆無なんだよな……
185 :
1(ry:2007/02/13(火) 03:22:32
>>173-174,
>>180Thxです!
>>173のスレの↓で予想以上に牛馬が貴重品でおどろきますた。
>馬一頭の値段で霊帝当時、劉備が初任官し た署長クラスの官が買えたくらい。
>牛は屯田制でこれの有る無しで 官民の取り分が一割違ったことを見ても分かる。
>>164のように、豊かな魏でも豆の葉っぱしか食べられない人が
曹植たんが見かけるようなところにたくさん住んでいたのですから、
蜀の市井の人は、水牛といえど肉はなかなか口には入らなかったでしょうねー。
そいで「味があわい」というのは、家畜禽のたぐいが痩せて「脂がのってない」っっーことを指していて、
飴蜜をくわえて脂質(の滑らかさ)を補ったんじゃまいかと台所で思いついたので言ってみるテスト(ry
しかし、曹丕はきちんと仕事しつつも孟達に肉のレシピを聞いてメモっていたと
蜀で血の汗をながしている先主や諸葛亮丞相が知ったら、さぞ気がぬけたことでしょうw。
#呉質は、曹植たんからもすごくフレンドリーな手紙をもらっていますおね。いいなー。
人がら的にも立場的にも、なんか曹兄弟が話しやすい人ような感じのだったのかもですおね。
与朝歌令呉質書は、手紙に回想されている「楽しかった日々」は、
計算してみたら208年に没した孔融が生きていたころのことだから、なんと曹丕が十代のころの話かよ!
と驚いてみるテスト(ry。実際に呉質にお手紙したのは、魏書第二十一王サン伝によれば曹丕が
「太子で、南方の孟津にいたとき」だから、ええと何年でしょう? どなたかフォローきぼんですorz
いずれにしても、曹丕は33歳で即位しているんだから、その前ですおね。オッサン呼ばわりして済まんかったw
でも
>>182さんに同意w。しかも李イクや徽宗みたいな道楽皇帝じゃなくて仕事もちゃんとしてるからたまらんですw
>>183与鍾大理書でしたっけ。あっ、有名なのに読んだことないかもです。読んでみますw
>>184蜀は碑も立てられないほど忙しすぎ&財政難すぎですおね。蜀関係の文章自体が少なめなような……(ノД`)
> なんと曹丕が十代のころの話かよ!
。 。
/ /
( Д )
拾っといたよ
はい つ゜゜
>>185 中華料理で糖蜜を肉にかける場合子豚の丸焼きや北京ダックなどのような場合もあるよ
皮を糖蜜でコーティングして中の水蒸気を閉じ込める
そうすると水蒸気の圧力が高まって皮に見えない無数の穴が開き口に入れるとホロっと砕けるようになる
これを脆といって中国人は珍重する、らしい
実際にそんな中国人には会った事ないから実際はどうだか知らん
189 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/13(火) 13:05:10
腹減らすなww
>>184 曹丕が鍾ヨウに再婚を命じて怒った鍾ヨウが山菜をやけ食いをして
話が出来なくなる程、口が腫れたという話があるらしいですね。
食べたのは「椒」、たぶん山椒だと思うのだが
『魏書』に載っている辺り、もしかして信憑性が高い記事なのか?
三国志大戦に登場した鍾繇のセリフはこの再婚ネタですたw
70半ばに(ryは最早ネタの域でつね(・∀・)
193 :
まとめサイト ◆XoQX5vgfQU :2007/02/13(火) 18:45:26
194 :
190:2007/02/13(火) 18:55:42
195 :
190:2007/02/13(火) 18:59:28
>>192 同意。コーエーの三国無双やセガの三国志大戦を始めに様々なジャンルでの
曹丕は悪役顔の冷静なキャラで描かれるのが多いのに、
このスレに上げられる内面は意外とお茶目でそのギャップが微笑ましいw
>>185 >#呉質は、曹植たんからもすごくフレンドリーな手紙をもらっていますおね。いいなー。
>人がら的にも立場的にも、なんか曹兄弟が話しやすい人ような感じのだったのかもですおね。
呉質は身分が低い家の出らしいから、気楽だったのかもね。
197 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/14(水) 01:11:30
>>193 まとめサイト又見易くなりましたね。いつもお疲れ様です。
>>197 俺も気になる。何故、復縁を命じたのか…
200 :
1(ry:2007/02/14(水) 04:46:19
>>193 乙であります(`;ω;´)ゝ
>>188 あっ、それ食べたことあるです!<脆
外側が飴がけでパリパリで、中の肉はジューシーで、氏ぬほどうまいのですおね(*´Д`)
自分の台湾や中国人の友人でも、これが好きな人はたくさんいるですー。
そうか、飴蜜した肉ってあれのことか……もしそうだったら蜀漢は想定外に贅沢ですねw
#中国では、日本の「おかき」みたいな油で揚げた甘い餅(?)のことを「脆果」と呼ぶですー。
油で揚げてパリっとした甘い味のものを「脆」っつうんだろうか。
#いま気づいたのですが、前スレで教えていただいた↓曹丕の梨の詔
http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/so_hi/pears.html >魏文詔曰:真定郡梨.甘若蜜.脆若浚.可以解煩飴.
これは、梨の果肉が「脆くやわらかい」じゃなくて「パリパリ(シャクシャク)してる」
と解釈するのが正解ですか? そうなら整合性がとれるよ!( ゚∀゚)o彡゜ウワーイ!!
#呉質はわりと寒門の人らしいので、曹丕や曹植はへたに名門の人と仲良くすると
あとあとややこしかったでしょうから、ぶっちゃけて付きあいやすかったのかもですおね。
#自分も鍾ヨウkwsk知りたいですー。鍾ヨウ伝忘れたので、もっかい読んでみよう……
>>200 脆はサクっとしてホロホロと口の中で溶ける食感
噛む一瞬は歯に抵抗を与えてくれつつも口に残らない
バタークッキーのような食感
ただパリパリしてるのは酥
これは日本でいう醤油煎餅なんかの食感
この2つは似ているようで全くの別物ですんで要注意を
噛んだ後、脆いのが脆、ずっと固いのが酥
うお〜果物の時といい、お腹が空いてくるスレだw
それはさて置いて、昨夜の某スレで曹丕は
真性DQNだと一方的に批判されてヘコんだので
しばらくはこのスレで癒やしたいです。
いまだに曹丕のマイナス面しか見てない人が
多い事を思い知らされました。
本当は可憐な手紙を書く甘党おやじ皇帝なのに(´・ω・`)
>サクっとしてホロホロと口の中で溶ける食感
「ふんわり名人・きなこ餅」みたいな食感か
あれか、カルメ焼きみたいな感じ?
食い物ネタだけに食いつきがいいな
誰が上手い(ry
>>202 そのスレ怖い物ROMりたさでちょっと興味あるからヒントw
陳琳が、官渡の戦いに臨んで、袁紹に命じられて書いた檄文。
「贅閹遺醜、本無令徳、僄狡鋒侠、好乱楽禍、
鷹犬之才、爪牙可任愚佻短慮、軽進易退、傷夷折衂、
数喪師徒、乗資跋扈、肆行酷烈、割剥元元、残賢害善、
放志専行、威却省禁、卑侮王僚、敗法乱紀、坐召三台、
専制朝政、爵賞由心、刑戮在口。所愛光五宗。所怨滅三族、
群談者受顕誅、腹議者蒙隠戮。道路以目、百辟鉗口、尚書記期会、公卿充員品而己、
身処三公之官、而行桀虜之態、汚国虐民、毒施人鬼、
加其細政苛惨、科防互設、矰繳充蹊、阬穽塞路、挙手挂網羅、
動足踏機搯。是以兗予有無卿之人、帝都有呼嗟之怨、
歴観古今書籍所載、貪残虐烈無道之臣、於操為甚、
操豺狼野心、潜包禍謀、乃欲橈折棟梁、孤弱漢室、除忠害善、専為梟雄。」
(上から九行目の「搯」は土へんです。漢字が無かったので・・・・・)
白文のみでスマソorz
おまwwwwバレンタインデーにそう来たかwwwwww
>>206 ヒント:大戦
スレの流れが速いのでもう見れないかも。
210 :
206:2007/02/14(水) 22:51:00
読んできた。936合目?ありゃ酷いな。
スレ違いつつ202らしき人が曹丕を援護しててワロタ
曹丕と孫晧が真性DQN扱いされていたから
ココロヤサシキ1氏は行かんほうがいいぞw
何事にも側面というものはある訳で……。
根っからの悪人とかダメ人間ってのはいないかと
誰しも己の信念に対しては一途なものですよ
手動でスレ復帰させとく
>>210 うお、本当に読んでくるとは。
援護が下手で申し訳ない……これからは相手にしないようにしようと思ったよ。
そのスレで曹叡は曹丕の子ではないという意見があったのですが
こちらの住人はどう見ているのでしょうか。
>>213 そのネタは荒れやすそうだし、文学でそのネタを考察するのは難しそうだぜw
>>207-208 バレンタインに陳琳の檄文クソワロタwwww
陳琳は檄文評価されて殺されなかったんだっけ
>>214 そうか…変な話題を持ち出してすまなかった。無かったことにして。
袁氏の種説に異様に拒否反応示す人がいるから、平和にやりたいなら避けておこう
曹叡は自分で廟号決めるDQNっぷりの方が凄い
>>213 曹操の子説も聞いたことがあるな
華麗なる一族みたいなんだぜ
>>218 曹叡本人も混乱していそうな出生事情だな……確かにこの話題には触れないほうが
良いような気がする。
というか、このスレ向きの話題じゃない鴨。住み分けようぜ〜
>>200-201 >噛む一瞬は歯に抵抗を与えてくれつつも口に残らない
>バタークッキーのような食感
の梨って想像が付かないなw
>>203 あれ旨いよ旨すぎるよ
曹丕に教えてやりteeeeeeee
>>221 絶対にレジピを聞き出してメモ取るだろうなw
そして詔を出す
朝臣一同「(゚Д゚)ポカーン」
いやねマジな話、蜜柑や肉の詔って何の為に出したんだろ
美味しいものを食べて心を豊に……な訳がないかw
>>220 あくまでも食感ですよ
梨は梨でも洋ナシのような梨はシャクっと最初の一口は歯に抵抗があるのですが
咀嚼すると途端に梨の果実は影も形も消えうせて口に甘い汁が、鼻には芳しい香りが残るわけです
だから梨は「脆」な食感といわれるんですね
私自宅の庭でラ・フランス栽培してるんですが、皆さんにもこれが「脆」だとご馳走して差し上げたい
食べれば一発で「ああ、これが脆か!」とお分かりいただけると思います
もっとも、今は旬じゃないんであと半年ちょい待ってもらいますけど
>>200 >>1さんの解釈通り「パリパリ(シャクシャク)してる」でほぼ合ってると私は思います
んで
>>201でちょっと不案内な解答しちゃったんですが、
脆ってのは油で揚げる必要も、甘い味である必要もありません
一口目には歯触りがそれなりにしっかりしているのに、噛むと一気に崩れていく食感でさえあればいいんです
バタークッキーとか煎餅とか妙な例えを出して申し訳ない
ちゃんとこうやって細かく書けばよかったですね
乙!だが前スレの結論では
曹丕の梨は洋梨系でなく飽くまで
シャクシャク系の日本梨らしいが…ううむ難しいな
>>226 洋梨も熟成を待たなければシャクシャクしつつそれでいてみずみずしい状態でも食べられるんです
熟成した梨に比べて香りと味の濃厚さでは劣るのですが、
香りの清清しさでは少し早めに食べた方が優れています
ここ洋梨スレですよね?
228 :
226:2007/02/15(木) 03:40:55
前スレの梨の話題の概要
「魏文詔曰:真定郡梨.甘若蜜.脆若浚.可以解煩飴.」
↓
梨はシャクシャクしてる物だ。何故脆く柔らかいんだ?
↓
中国の梨は柔らかい洋梨系なんか?
↓
調べる
↓
やっぱ中国梨は日本梨と同じくシャクシャク系だった
↓
何故曹丕はシャクシャクの中国梨に「脆若浚」と言った?
↓
>>200 あとここは洋梨スレじゃないぞwww
ここまで梨についてを熱く語り合うことになったのも
皇帝の舌が洗練された繊細なものだからですねw
>>223 この手の詔勅は類書に断片が引用されているのが残っているだけだから
本論は別の所にあった…
と信じたい
陳琳の檄文の訳きぼんぬ
233 :
207:2007/02/15(木) 16:41:53
訂正orz
「贅閹遺醜、本無令徳、僄狡鋒侠、好乱楽禍、
鷹犬之才、爪牙可任愚佻短慮、軽進易退、傷夷折衂、
数喪師徒、乗資跋扈、肆行酷烈、割剥元元、残賢害善、
放志専行、威劫省禁、卑侮王僚、敗法乱紀、坐召三台、
専制朝政、爵賞由心、刑戮在口。所愛光五宗。所怨滅三族、
群談者受顕誅、腹議者蒙隠戮。道路以目、百辟鉗口、尚書記期会、公卿充員品而己、
身処三公之官、而行桀虜之態、汚国虐民、毒施人鬼、
加其細政苛惨、科防互設、矰繳充蹊、阬穽塞路、挙手挂網羅、
動足踏機搯。是以兗予有無卿之人、帝都有呼嗟之怨、
歴観古今書籍所載、貪残虐烈無道之臣、於操為甚、
操豺狼野心、潜包禍謀、乃欲橈折棟梁、孤弱漢室、除忠害善、専為梟雄。」
威却省禁→威劫省禁
書き下しは、今書いています
234 :
207:2007/02/15(木) 17:13:34
贅閹の遺醜にして、本より令徳無く、僄狡鋒侠、乱を好み禍を楽しむ。
鷹犬の才、爪牙 任ずべし。
愚佻短慮、軽く進み、易く退き、傷夷折衂して数しば師徒を喪う。
資に乗じて跋扈し、肆に酷烈を行ない、元元を割剥し、賢を残い善を害す
志を放にし行いを専らにし、威もて省禁を劫し、王僚を卑侮し、法ほ敗り紀を乱し
坐しながら三台を召し、朝政を専制し、爵賞心に由り、刑戮 口に在り。
愛する所ならば五宗を光かし、怨む所は三族を滅す。群談する者は顕誅を受け、
腹議する者は陰戮を蒙る。道路には目を以てし、百辟 口を鉗み、尚書は期会を記し、公卿は員品を充たすのみ。
身は三公に処れども、桀虜の態を行ない、国を汚し民を虐げ、毒をば人鬼にも施す。
加うるに其の細政は苛惨にして、科防互いに設け、矰繳蹊に充ち、阬穽路を塞ぎ、手を挙ぐれば網羅に挂り、
足を動かせば機搯を踏む。是を以て兗・予に無卿の人有り、帝都に呼嗟の怨み有り。
古今の書籍の載する所を歴観するに、貪残虐烈無道の臣、操に於て甚だしと為す。
操は豺狼の野心あり、潜かに禍謀を包み、乃ち棟梁を橈折し、漢室を孤弱にせんと欲して、忠を除き善を害し、専ら梟雄を為す。
gj!訳もキボンヌ
236 :
207:2007/02/15(木) 19:16:07
宦官の余った肉から生まれた醜い奴で、元から麗しい徳などなく、軽々しくずる賢く、
こちらの方面ばかり矛の先のように鋭敏で、混乱や災いが大好きで、楽しくてたまらない。
虎とか豹などではなく、鷹か犬程度の才能の為、その爪や牙でも役に立つだろう。
愚かで軽はずみで思考は薄っぺらい、うかうかと進軍したかと思えばさっさと退却し、兵には死傷者が出て、何度も師団を失った。
己の資金力にものを言わせて好き勝手にふるまい、残酷なこともやりたい放題で、人民の物資を掠め取り、剥ぎ取り。賢者・善人を殺害した。
心に思うまま勝手に行動し、皇室を威力で脅し、皇族を軽侮し、法律を蔑ろにし、秩序を乱し、でんと居座り三つの役所(尚書・御史・謁者のこと)
を自在に呼び寄せ、朝政を我が物とし、爵位を与えることも褒賞を与えることも己が意のまま、刑罰・殺戮も口から出る言葉の通りとなった。
彼にかわいがられれば、高祖(ひいじいさんの親の代)までさかのぼり、あるいは玄孫(ひまごの子の代)までくだって栄光につつまれ、
反対に怨まれれば三族が皆殺しとなる。
集まって話をしているだけで見せしめの処刑をされ、腹の中で何かを考えているだけで、ひそかに始末されてしまう。
その結果道で会っても目で合図を送り合うのがせいぜいで、百官は皆口を閉ざし、
尚書は行政に参画することなく、曹操の指示の記録係に成り下がり、上級の官僚もただ定数を満たしているだけとなってしまった。
その身は三公の官にありながら、行ないは古の暴君夏の桀王の仲間で、国を汚し民を虐げ、更に害悪を墳墓に眠る死者にまで及ぼしている。
237 :
207:2007/02/15(木) 19:16:30
そればかりではない。曹操の細かい政治は、天下万民のためのいたれりつくせりの細かさではなく、過酷にして悲惨な細かい禁令に満ちたもので、
科防(刑罰と禁令)が歩調をあわせてお互いに協力しあって万民を痛めつけるように仕組まれている。
そうした科防が四つ手網やいぐるみのように谷あいの道にまで張り巡らされ、落とし穴は道路をまともに歩けないほど、びっしりと設けられている。
うっかり手を挙げようものなら網にひっかかり、足を動かせば仕掛けの罠を踏んでしまう。以上のようなわけで兗州・予州には
全く緊張をとく瞬間を与えられない人間ばっかりであり、帝都許昌には、嘆きの声があがっている。
古今の書籍に載っている内容すべてをながめわたしても、貪欲で残虐で苛烈で無道な臣下として、曹操が一番酷い。
曹操は山犬や狼のような野心を持っており、ひそかに漢室を覆さんとの謀略を胸中に抱え、国家を支える棟や梁にあたる重臣を
次々に曲げ、あるいは折り、徐々に漢室を孤立させ弱体化させるように事を運び、忠臣は排除し、善人は殺害し、ひたすら悪どい英雄気取りである。
238 :
207:2007/02/15(木) 19:17:04
白文・書き下し文は渡辺精一氏の「三国志人物鑑定事典」にあったので、そこから。
訳も同書によりましたが、一部改変しております。
いやまあ、敵のこととはいえ、良くここまで罵ることが出来るものですな・・・・w
これを許したのは「才能があれば、丁重に、そして寛容に扱った」曹操ならではといいましょうか・・・・。
また、自らも多才でありながら、それに驕らず才人を集め、才人を敬愛した曹操は、
良く言えば「謙虚」悪く言えば「意地悪い」って感じがしますw
また、曹操が悪玉として描かれる三国志演義においても、このエピソードが採用されています。
他にも関羽千里行の創作など、三国志演義においても、曹操が才能を愛おしむ人物であったことは無視されていないようです。
因みに
>害悪を墳墓に眠る死者にまで及ぼしている。
これは、曹操が梁の孝王の陵墓を掘り起こして金銀財宝を奪っただけでなく、
墓あばき専門の「発丘中郎将」や金をかき集めるのが専門の「摸金校尉」という官を設けた、
という事実に基づくようです。
おつ!
罵詈雑言なのに、リズムがよさそうな感じがすごくあるね
240 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/15(木) 21:07:13
ここまで言われて怒らないのはすごい
怒ったよ?
怒ったけど文章の素晴らしさで緩和
関節伸びても波紋で緩和してるようなもんだ
頭痛が治ったお!!
すげええ
怒る前に感動する曹操も凄いけどw
父を乞食呼ばわりされたけど否定はしない曹操の巻
曹操を説明するのによく「軽い」って書いてあるけど
これにも「軽々しい」って書いてあるな
そんなに威厳のないおっさんだったんだろうか
少なくとも、三国無双や蒼天航路のような感じではなかったんだろうな
蒼天の曹操は、終盤ずいぶんはしゃいでるけど
曹操ははしゃぎ過ぎて食い物の中に頭突っ込んだりしてたからな
んで四六時中軽薄な音楽を演奏させてたし、当時の常識では考えられないよ
現代のDQNが古代の指導者やってるようなもんだ
>>201-
#梨
Thxです! SUGEEE!! ひつこく梨につきあってくださってthxであります(`;ω;´)ゝ
>>229さんのとおりの理由で、中国の梨は、(少なくとも現在は)洋梨系ではなくて、
シャクシャクした日本の梨と同じようなやつなのに、「脆」という修辞はふしぎでなりません。
そいじゃ「脆」=「シャクシャク」ならば整合性があるよ! と思ったのですが、
やっぱり少し違うみたいですねー。曹丕の舌は贅沢すぎだw。
>>210-
#曹叡
Thxであります(`;ω;´)ゝ このへんの考察は、文学から考えていくのは
範囲が違いすぎてむずかしいので、為政系とかのスレのほうがいいかもですおね。
曹叡たんの文章もおもしろいのが残ってるので、そのうちうpしたいですー。
>>223-
食べ物の詔をなんのために出したのか、自分も知りたいですw
薄葬詔のような詔勅のきれはしだったとしても、なぜ葡萄のうまさについてを詔するのかw
国土の開拓とか、農業政策とかの一環で出したのでしょうかー。謎すぎですお……
>>207-
#陳琳の檄文
Thxです!! SUGEEEEE!!! 袁紹を破った曹操は、
魏書王衛二劉傳伝第二十一の陳琳伝で、降伏てきた陳琳に、
「卿昔為本初移書、但可罪状孤而己、悪悪止其身、何乃上及父祖邪。
(卿は昔、袁紹の「まわしぶみ」を書いたときに、私自身の罪状のことはいいけれど、
悪事を悪くいうのに私だけの身に留まらず、なぜ私の父祖のことにまで及んで悪く書いたのか?)」
と問い、陳琳が謝ったので「太祖愛其才而不咎(曹操はその才能を愛して咎めなかった)」と
しているので、やっぱり読んだときはかなりむかついたのでしょうねw。
何年もたって陳琳が降ってきたときに「あのときの文章を書いた奴か!」と
覚えていたということは、文章の出来があまりにも良かったのとむかついたので印象深かったのかとw。
そもそも、きれいな文章を書くための駢儷文で、これほど曹操を怒らせるような
品のある下品で(?)むかつく文章を書くというのは、きれいな文章を書くよりある意味では難しいと思うですw。
曹操もそこに(あと投降する度胸に)感心しまくって、陳琳をゆるしたのかもですおね。
このへんは、曹操も陳琳もかなり大物感あふれまくりですおねw。
曹操は、体格も小柄で(失礼)軽いノリで威厳がない振るまいばかりするし、
身分や伝統的なしきたりを重んじない軽薄な奴、みたいな意味でも軽いと
いわれたのでしょうねー。日本でいえば、「尾張の大うつけめ!」みたいな感覚でしょうかw。
250 :
1(ry:2007/02/16(金) 02:20:05
#おまけで、いちおうバレンタインデーらしい小ネタもうpしてみますw。
商務印書館の沈徳潜の古詩源に、呉謡(呉の伝承歌?)として、
「曲有誤、周郎顧(曲に誤り有らば、周郎が顧(かえり)みる)」
「訳♪ 音楽の演奏を間違えると、周瑜さまが振りかえるよ!」
というのが出ているのですが、浙江省の友人から、この歌には
「芸者さんたちがかっこいい周瑜さまに振りむいて欲しくて、わざと音を外した」
っつーオマケの話があるんだよーと聞いてワロスです(有名な話らしいですが)w。
周瑜は、孫策存命中は孫策とともに孫郎・周郎で人気を二分していたのですから、
孫策が没した200年以降は、呉の女の子の人気をひとりじめだったでせうw。
しかも、当時は身分のたかい人は、正妻以外にも側室を持つことが
ごく普通だったのですから、奥さん(喬夫人)がいるからって……
とか遠慮する必要もなく、気合いを入れてキャーキャーできた訳ですおね。
乱世にあっても、かっこいい提督の一挙一動にwktkする呉の女の子は
かわいいなーと思うのです。きっと孫権とか張昭より、遥かにモテたんだろうw。
#鍾ヨウきぼん中であります( ゚∀゚)o彡゜
このスレにいると
ジョン・ウーの映画で、渡辺謙が曹操を演じるという噂だけど
あんなに格好よくていいのか…という気になってくる
>>250 有名な話ということはわざと間違える芸者が続出して周瑜の首が忙しく動く姿を
想像して笑ってしまったw
女の子たちが異性を意識するのは昔から万国共通だったのですねw
>>251 まあ、カリスマはあった人だと思うし
それはそれでアリじゃないかなとか……
>>251,
>>253 赤壁スレみてたら、曹操は渡辺謙じゃなくて張豊毅という俳優さんらしいっすw。
やっぱり、渡辺謙じゃ曹操には大きすぎうわなにをあqwせdfrtgyふじこlp;
>>252 周瑜は穏やかでサービス精神のある人だったそうなので、ニッコリ笑ってあげるぐらいはしたかもですおねw。
同じ宴席にいたであろう孫権とか張昭は、程普とまでは行かないでも、すこしは複雑な気分がしたかもw
>>250 俺、昨日チョコ0個
今、心から程普の気持ちが分かるwwww
周瑜は男の敵だ!!!!wwww
>>254 >張豊毅
あ、そうなんだ!
アンディ・ラウが曹操やりたがってるとの話を聞いてたので、
濃ゆい顔の曹操が出来上がるかも知れないな・・w と期待してたのにw
257 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/16(金) 09:07:40
男色文学が多い
ふと、思ったのですが曹一族の中で最も女の子に
キャーキャー言われたのは曹植なのでしょうか。
曹操は容姿にコンプレックスを抱くチビだし
曹丕は近寄りがたいカリスマオーラを出していそうだし…
彰だろw
あと5、6年生きてれば沖も可能性はあったかも。
天才だっただけでなく性格も良くて、曹操のお気に入り。
どこかの俗説で母親の環夫人に似て美少年だったというのも読んだことがある。(後で出典探しておきます)
曹叡かと
中国と日本では美の定義が異なるぢやないか
ここで引き合いに出されるのが、趙雲の描写だな
ドカベン
>>249 >きれいな文章を書くための駢儷文で、これほど曹操を怒らせるような
>品のある下品で(?)むかつく文章を書くというのは、きれいな文章を書くよりある意味では難しいと思うです
「カレーは不味く作る方が難しい」みたいなもんかね?
>>250 個人的に小喬は、中国中央電視台のドラマのイメージ。
周瑜もイケメンで、美男美女の夫婦だったとは羨ましい。
>>255 バレンタインなんて企業の陰謀だ。
ネラーならチョコの数なんて気にしないだろ?
色々醜態を晒しついでにちょっと食べ物の話題延長で
糯・モチモチしたおこわなどもち米の食感
滑・あんかけ等のツルツルした食感
松・柔らかいマシュマロとかケーキみたいな食感
老・古くて固い、火を通しすぎて固い
嫩・野菜が柔らかい食感、半熟で美味い ←→老
咸・しょっぱい、塩辛い
甘・甘い
辛・ピリっと辛い
酸・酸っぱい
苦・苦い
268 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/17(土) 00:09:13
ネットサーフィンをしてたどり着いた人形劇三国志で有名な川本喜八郎氏の
サイトを見てみたのですが、製作した人形を展示するページの曹丕のコメントに
こういう文がありました。
呉質という人に送った手紙にも「父王の威光を借りて人から仰ぎ見られるのは
四六時中肩が凝って仕方がありません」と書いている。
これを知っていたら、曹丕は少し違った顔になっていたかも知れないが・・・
川本氏でさえも考えを改めさせようとした曹丕の父に対するプレッシャーを
書いた手紙の全文が見たくなりました。
他人頼みで申し訳ないのですが…心当たりのある方はいませんか?
私も他力に頼るばかりでなく
自力で読んでみたいので、厳選オススメ本を教えてほしいです。
まとめサイトさんのオススメ本を全部買うのは厳しいので・・・
>>268 朝歌令じゃないほうの呉質への手紙だと思うです。
きょうは酔(ryなので、明日うppしてみますー。
#三国時代のもてる人纏めもやってみるですw
#鍾ヨウ(ry
>>269 自分は素人なので勝手に思うだけですが(詳しい方フォローきぼんですorz)、
・『三国志』中華書局(正史)
・『三国志演義』台湾中華書局
・『文選』上海古籍出版(李善注)
・『古詩源』商務印書館
・『全三国文』商務印書館
などはいかがでせうか……(日本語になるととたんに分量が増えて、高いしかさばるのでorz。
『三国志』→ちくま、『演義』→岩波、『文選』→明治書院、『古詩源』→集英社から訳あり)。
呉質への手紙だけだったら、中華書局の『魏晋文挙要』にはいっていて、
文選よりぜんぜん薄くてお手軽なのでいいと思うですー。
曹植たんは、広文書局『曹子建詩箋』とか岩波の伊藤先生の『曹植』が電車で読めてマンセー( ゚∀゚)o彡゜
芸文類聚とか太平御覧とか北堂書鈔とか読んでないですorz orz orz
曹丕は呉質に沢山手紙出してるんだなw
ペ ン パ ル ?
このスレが考察系住人の憩いの場になっている希瓦斯w
>>263さんの魏文帝呉質書できますたー、たぶんミスはいっぱいあるので適宜訂正をorz
『魏文帝与呉質書』 魏文帝
(白文)
「二月三日、丕白。歳月易得、別来行復四年。三年不見、東山猶嘆其遠、
況乃過之、思何可支。雖書疏往返、未足解其労結。
昔年疾疫、親故多離其災、徐、陳、応、劉、一時倶逝、痛可言邪。
昔日遊処、行則連輿、止則接席、何曽須臾相失。毎至觴酌流行、
糸竹並奏、酒酣耳熱、仰而賦詩、当此之時、忽然不自知楽也。
謂百年己分、可長共相保。何図数年之間、零落略尽、言之傷心。
頃撰其遺文、都為一集、観其姓名、已為鬼録。追思昔遊、猶在心目、而此諸子、化為糞壌、可復道哉。
観古今文人、類不護細行、鮮能以名節自立。而偉長独懐文抱質、恬惔寡欲、
有箕山之志、可謂彬彬君子者矣。著中論二十余篇、成一家之言、辞義典雅、足伝于後、
此子為不朽矣。徳璉常斐然有述作之意、其才学足以著書、美志不遂、良可痛惜。
間者歴覧諸子之文、対之抆涙、既痛逝者、行自念也。孔璋章表殊健、微為繁富。
公幹有エ気、但未遒耳、其五言詩之良者、妙絶時人。元瑜書記翩翩、致足楽也。
仲宣独自善於辞賦、惜其体弱、不足起其文、至於所善、古人無以遠過。
昔伯牙絶絃於鍾期、仲尼覆醢於子路、痛知音之難遇、傷門人之莫逮。
諸子但為未及古人、自一時之雋也。今之存者、已不逮矣。後生可畏、来者難誣、然吾与足下及見也。
年行已長大、所懐万端。時有所慮、至通夜不瞑、志意何時復類昔日。
已成老翁、但未白頭耳。光武言、年三十余、在兵中十歳、所更非一。吾徳不及之、年与之斉矣。
以犬羊之質、服虎豹之文、無衆星之明、仮日月之光、動見瞻観、何時易乎。
恐永不復得為昔日遊也。少壮真当努力、年一過往、何可攀援、古人思炳燭夜遊、良有以也。
頃何以自娯、頗復有所述造不。東望於邑、裁書敍心。丕白。」
(適当書き下しorz)
「二月三日、丕白。歳月を得るは易く、別れ来て行き復(ま)た四年。三年見ざるに、
東山は猶(なお)其(そ)の遠きを嘆くに、況(いわん)や乃(それ)を過ぐは、何を支う可(べ)く思う。
書を疏に往返すると雖(いえど)も、未だ其の労の結ぶを解くに足らず。
昔(むかし)疾疫の年に、親故(しんこ)は多く其の災いに離(かか)り、
徐、陳、応、劉、一時に倶(とも)に逝き、痛ましきを言う可からず邪(や)。
昔日に遊ぶ処、行くは則ち輿を連ね、止るは則ち席を接し、曽(すなわ)ち何ぞ須臾(しゅゆ)も相失わん。
觴酌(しょうしゃく)が流行に至る毎(ごと)に、糸竹(しちく)は並(あまね)く奏し、
酒酣(しゅかん)は耳を熱し、仰いでは詩を賦し、此の時に当たるは、忽然として自らの楽しみを知らざる也(なり)。
百年を己の分と謂(い)い、長く共に相保つ可しと。
何ぞ数年の間に図るに、零落(れいらく)略(はか)り尽すは、言う之(こ)れ心を傷す。
頃(このごろ)其の遺文を撰し、都(みな)一集に為(な)し、其の姓名を観るに、已て鬼録為(た)る。
昔遊ぶを追思し、猶心目に在るに、而れど此の諸子、糞壌為(た)ると化し、復(ま)た道(い)う可く哉(かな)。
古今の文人を観るに、類(たぐ)いは細行(さいこう)を護らず、以って名節の自立するを能(あた)うに鮮(すく)なし。
而して偉長は独り文を懐し質を抱し、恬惔(てんたん)寡欲、箕山の志(こころざし)有り、
彬彬(ひんびん)の君子たる者と謂う可き矣(かな)。中論二十余篇を著し、一家の言を成し、辞義は典雅にして、
後(のち)に伝うに足り、此れ子を不朽と為す矣。徳璉は常に述作に斐然(ひぜん)の意有り、
其の才学は以って書を著すに足るに、美(うるわ)しき志を遂げずを、良く痛惜す可く。
間者(かんじゃ)に諸子の文を歴覧するに、之の抆に対し涙し、既に逝く者を痛み、自らの行くを念(おも)う也。
孔璋の章表は殊に健(たけ)しく、微かに繁富為(た)る。公幹はエ気(いっき)あり、但し未だ遒(しゅう)耳(のみ)なれど、
其の五言詩の良き者、時人(じじん)に妙絶す。元瑜の書記は翩翩(へんぺん)とし、楽しむに致るに足る也。
仲宣は辞賦に善く独自し、惜しむらくは其の体の弱きの、其の文を起すに足らざるを、至りて善き所は、
以って古人の遠く過ぐ無き。昔伯牙は鍾期に絃を絶ち、仲尼は子路に醢を覆し、知音の難に遇するを痛み、
門人の逮(およ)ぶ莫(な)きを傷む。諸子は但(ただ)為(な)すを未だ古人に及ばざるに、自らは一時の雋(しゅん)也。
今の存者は、已て逮(およ)ばざる矣(かな)。
年は已に行きて長大し、所懐は万端す。時に慮(おもんぱか)る所有らば、通夜に至りて瞑(ねむ)れず、
志意は何時(いつ)に復(ま)た昔日に類す。已に老翁と成り、但(ただ)未だ白頭ならざるざる耳(のみ)。
光武の言うに、年三十余、十歳(じっさい)は兵中に在し、所は更に一(ひとつ)に非ず。
吾が徳は之(これ)に及ばず、年の与うは之の斉なる矣(かな)。
犬羊の質を以って、虎豹の文を服(き)、衆星の明無きを、日月の光を仮り、動見瞻観、何時(いつ)易からん乎(や)。
恐らくは永に復(また)昔日の遊を為(な)すを得られず也。少壮に真に努力し当たり、年は一たび過ぎ往き、
何ぞ攀援す可く、古人は炳燭し夜遊ぶを思うは、以って良く有る也。
頃(このごろ)何ぞ以って自ら娯(たのし)むに、復(ま)た頗る述造の有る所や不(いな)や。
邑(くに)より東を望み、書を裁(よそお)い心を叙(の)ぶ。丕白。」
(適当訳orz)
「二月三日、丕より、謹啓。月日のたつのは早いもので、あなたと別れて来てからもう四年です。
三年間会えなかっただけで、(詩経-豳風の)東山の詩ではその疎遠さを嘆いていますが、
ましてや我々はそれよりも長い間会っていないのですから、どうやってこの思いに耐えればよいのでしょうか。
手紙のやりとりはわずかにしていますが、それもこの結び目のようにかたくなった私の心労を
解きほぐすにはまったく足りません。
昔(217年の)疫病がはやった年には、親類やむかしなじみの者が多くその災いに罹患し、
徐幹、陳琳、応瑒、劉楨はみな一度に没し、その痛ましさをどう言えばいいのでしょうか。
むかし遊んだ日々では、移動中は輿を連ねてゆき、ついたらば席をくっつけてすわり、
そうしていたのでほんのわずかの間もたがいを失うことはなかったのです。
宴席で皆にお酒が注がれて行き渡るたびに、管弦楽団はあまねく演奏をし、酒宴のたけなわに耳を熱くさせ、
天を仰いでは詩をうたい、そのときには陶酔してぼうっとなっていて、自分の楽しさを知ることができなかったのです。
そのときは百年の寿命を自分の身の程と言い、ずっと一緒にやってゆきましょうとしたものです。
それが数年の間にこのようになり、皆(没してしまって)いなくなりわびしく寂しくなってしまうとは、
言うだけでも心が傷つけられることです。私はこのごろ、彼等の遺文をえらんで、一冊の本にまとめましたが、
その(書かれている)姓名をみると、すべては没した人のものなのです。昔遊んだことを思いをはせれば、
なお彼等の姿は心の目にありありとあるのに、この学者たちは、いまはきたない土に変わってしまっているとは、
いったい私はなんと述べればよいのでしょうか。
古今の文人をみてみますと、皆ささいな礼法を護らなかったので、名誉と節操をひとり立ちさせられた
(それぞれに賞賛を得られた)者は少ししかいません。しかし偉長どの(徐幹のあざな)はひとり、
学問もよくおさめて内面もちゃんとあり、心がさっぱりと落ち着いていて欲がなく、
(堯帝から高位を授けられることをきらった立派な隠者の許由が)箕山にこもったような志があり、
はなやかさと内面を兼ね備えた君子である人物というべきでしょう。(徐幹は)『中論』二十編あまりを著して、
彼独自の見識や考えを形にし、その文章と論理は典雅で、後世に伝えるに足り、
彼はその功績によって不朽の学者となりました。徳璉どの(応瑒のあざな)どのの書く文章は
いつもあやなした美しさがあり、その才能と学問は書を著すのに充分であったのに、りっぱな志を遂げなかった
(遂げずに没した)ことは、大変に痛ましく惜しむべきことです。
このごろ彼等の文章にひとつひとつ目を通していると、この文章に対して涙がでて、
私は既に没した者を痛ましくおもい、自分のゆくすえも考えるのです。
孔璋どの(陳琳のあざな)の章と表はことのほかにりっぱですが、少しだけ繁雑です。
公幹どの(劉楨のあざな)は世俗を超越してすぐれた気質がありますが、それは未だ
勢いだけですけれども、その五言詩のなかでもよいものは、同時代の人のなかでも非常にすぐれています。
元瑜どの(阮瑀のあざな)の書と記は粋で才気にすぐれ、楽しませてくれるのに充分です。
仲宣どの(王粲のあざな)の辞賦はすばらしく個性的で、惜しいことには彼は体が弱く(/文体が弱く)、
その独自の文章を創始するまでには足りませんでしたが、しかしそのすぐれた部分は、
昔の人でも凌駕するものはおりません。むかし琴の名手だった楚の伯牙は、それを理解して喜んでくれていた
親友の鍾子期が没したときに琴の弦を切り、孔子は愛弟子の子路が殺されてシオカラにされたと知ると
シオカラを床にぶちまけて、伯牙は自身の音の理解者がひどいことになったことを痛ましく思い、
孔子は二人といない愛弟子がいなくなってしまったことを傷ましく思ったからなのです。
279 :
1(ry 与呉質書6:2007/02/17(土) 20:38:45
さきほど列挙した学者たちは、ただやった仕事がいまだ昔の人には及ばないだけで、
おのおのは当代にすぐれていたのです。今生きている人は、すべて彼等にはおよばないのです。
年月はすでに非常に多くながれ、私の心の思いは千々にあります。
ときに深く考えをめぐらせることがあると、夜じゅうずっと眠れず、私のこころばえはいつまた昔の日々のように
(快活な心もちに)なるのでしょうか。わたしはすっかりじいさんになり、ただまだ頭が白髪ではないだけです。
光武帝は、三十年余り生きて、うち十年は兵中にあったが、立場はひとつではなかったと言いました。
私の徳は彼にはいまだ及ばず、ただ過ごした年月だけは彼と同じなのです
(*この手紙は曹丕即位後の三十代のときに書かれています)。
私は犬や羊のような内面をもってして、虎や豹のようなはなやかな服をまとい、星ぼしの明るさもないのに、
太陽や月の光をかりて、バタバタキョロキョロとし、いったいいつ安らぐことができるのでしょうか。
おそらくは永遠にまた昔の日々のように遊ぶ機会は得られないでしょう。
三十代の血気さかんな仕事盛りにがんばって仕事をしていますが、年月はひとたび過ぎてゆくと、
どうやっても引き止めることはできず、昔の人が(古詩十九首の生年不満百で)ろうそくをつけて
夜通し遊びたいと思ったのは、そういった理由のあることなのです。
このごろあなたはどんなことをして楽しんでいらっしゃるのでしょう、
またたくさん著述をなさったりしているのでしょうか。
私の直轄領より(呉質のいる)東をながめ、手紙を書いて私の心のうちを申し上げました。丕より、敬白。」
これは、曹丕が典論のあとに書いた手紙ですね。
「以犬羊之質、服虎豹之文、無衆星之明、仮日月之光、動見瞻観、何時易乎」が
>>268さんのとこだと
思うですー。
>>185でも書いたのですが、呉質は曹丕(と曹植)にとって、
人がらも門地もぶっちゃけなことを話しやすい人だったのかもですおね。そいでペンパル(ry
曹丕は、呉質にも手紙で抜粋を教えたくなるほど、よほど典論ができて自慢だったのでしょうねw。
しかし、曹丕は諸葛丞相の敵役なので、先主からは才が十分の一だ何だと言われ放題ですがw、
自分はこの手紙を読んで涙せぬ人も、前出師表とおなじくまたナントカじゃまいかと思うですw。
とくに四段落目は、前出師表のようなアグレッシブな悲憤ではない、雨にぬれた子供のような
抑えた弱々しい悲しみに、これが曹魏の強大な文帝の姿かよ! といつも非常な衝撃をうけます。
一見は薄幸の貴公子っぽくはかなげな詩人にみえて、実はけっこう曹操ゆずりに逞しい曹植たんは
大好きなのですが、曹丕はなんか好きというか気になって、自分はほんとうにクセになりますw。
曹丕は、偉大な父王曹操は曹魏をつくったけど、自分は何をつくって名を示せばいいんだろう、
というときに、曹操が没し、後漢から禅譲をうけて皇帝に即位し、曹操の喪があけたその翌年に、
薄葬詔で「自古及今、未有不亡之国(古来から今に至るまで、滅びなかった国はいまだありません)」
といい、それに対して典論で文学を永遠に朽ちないものと讃え、人生も栄誉も
「未若文章之無窮(いまだ文章の果てなく無限であることに及びません)」といったこと、
さらには孫権や張昭にまで白絹に写した典論を与えたことは、この呉質への手紙をはさむと、
きれいな文脈でつながると思います。つまり典論は曹丕にとっては、自身が父王曹操に並んだ、
あるいは超えた瞬間であり、中華統一だったのだと(自分は)思います。となんとなく言ってみるテスト(ry
「昔伯牙絶絃於鍾期……」とありますが、曹丕は(曹植たんでさえ文章は手慰みというのですから)
建安七子と思うぞんぶん文学の話ができて、嬉しかったんだろうなとw。
今でいえば(ちょっと前ですが)、「マンガは子供の見るもの!」という感じの世の中で、
「そんなことないよ、マンガとかアニメとかすごいよ!」と熱弁をふるって、
マンガをりっぱなものに育てた漫画家やアニメ家(?)の皆さんみたいな感じでせうかw。
#典故がめずらしく十八史略とかに出てる有名な(自分でもすぐわかるw)やつばっかなのは、
なにか意図があるのでせうか……w
「曹丕萌え」がよく伝わってきますよw
だが曹丕は萌える
284 :
268:2007/02/17(土) 22:29:17
うおおお!待っていました!!乙です!!
目に通してみると数多くの親類の死を嘆くことから始まり、
父へのプレッシャーの苦しみや時の流れの虚しさを呟くうじうじした文で
川本氏もきっと「意外とネガティブな思考をもった人だなー」と感じたのでしょうね。
何をやっても父の成績には敵わず実際、歴史に残された記録は曹操のものばかり…と
やっぱり曹丕は偉大な父を持つ2代目の肩書きを背負って苦労が耐えなかったのかなあと思います。
>>167-168のもそうですが、曹兄弟の熱い手紙を貰った呉質が羨ましくなると
同時にどんな返事を書いたのか気になりますw
曹丕は30代になってもずっと呉質に手紙を送り続けているので間違いなくペンパル(ry
>曹丕はなんか好きというか気になって、自分はほんとうにクセになりますw
確かに、同意ですが自分は「気になる」の続きに「やっぱりそこが好き」が付きますw
父ちゃんコンプレックスが凄いなあ
一般的に曹丕が人気無い理由のひとつは
甄氏の件だと思うんだよね。
初めて知った時結構ショックだったもんで・・・
でもこうして彼の書いた文章などを見るに付け、
センスィティヴで内省的な人だったんだろうなと思う。
まだ好きとは決して言えないけれど、
それでも以前より好感は持った。
みなさんありがとう。
無双とか大戦とかの効果もあって曹丕人気あると思うけどなあ
曹丕萌え
>>286 無双では善政をしたことが説明され、司馬一族が乗っ取ることを見抜いている
ことを感じさせる発言をしていたり甄皇后に甘い言葉を吐いたりし、
大戦では偉大な父を超えることを強く意識した青年として書かれていたりと
様々なゲームに姿を表すようになった曹丕は意外と冷酷な面を押さえた
人物付けになっていますね。
自分で操作するキャラに思い入れがしやすいようにした為もあるからかもしれませんが。
というわけで俺も父コンプレックス丸出しな手紙を書く曹丕萌えw
>>280 > 曹丕は、偉大な父王曹操は曹魏をつくったけど、自分は何をつくって名を示せばいいんだろう、
> というときに、曹操が没し、後漢から禅譲をうけて皇帝に即位し、曹操の喪があけたその翌年に、
> 薄葬詔で「自古及今、未有不亡之国(古来から今に至るまで、滅びなかった国はいまだありません)」
> といい、それに対して典論で文学を永遠に朽ちないものと讃え、人生も栄誉も
> 「未若文章之無窮(いまだ文章の果てなく無限であることに及びません)」といったこと、
> さらには孫権や張昭にまで白絹に写した典論を与えたことは、この呉質への手紙をはさむと、
> きれいな文脈でつながると思います。つまり典論は曹丕にとっては、自身が父王曹操に並んだ、
> あるいは超えた瞬間であり、中華統一だったのだと(自分は)思います。
此処まで来て、前スレからの1氏の熱い主張が体系的に理解出来た。
曹丕の薄葬詔と典論の内容をこのように関連付けた解釈は無矛盾的で説得力がある。
俺が国文科の教授ならA+上げるので、「言ってみるテスト」等と遠慮しなくていいですよw
でも肝心の父ちゃんは息子がそんな思いを抱いているなんて
まったく気付いていなかったに典論五百冊
父ちゃんはもう死んでるに典論二千冊、倍率ドン
やんちゃ曹操→曹彰
詩人曹操→曹植
神経質曹操→曹丕
きれいな曹操→曹沖
病弱曹操→曹熊
良くできた息子たちです
>>291 捨て身曹操→曹昴
本当に良くできた息子たちですね。
>>288 >孔子は愛弟子の子路が殺されてシオカラにされたと知ると
( ゚д゚)
295 :
294:2007/02/18(日) 02:31:02
塩辛じゃなくて塩漬けじゃ
塩辛と塩漬けの違いって?
塩辛は食品名
魚介類を原材料として内臓と身を塩で一緒に漬け込んだ発酵食品
塩漬けは食品以外にも行う事がある
死体の保存とか
塩漬け⊇塩辛
孔子の弟子である子路は、衛の国に出仕していたのだが、内乱に巻き込まれて斬られた。
子路の死体は、侮辱を与えるために膾切りに刻まれ塩漬けにされた。
それを伝え聞いた孔子は、家にあった塩漬け肉の一切を捨てさせた。
というエピソード。
このスレの住人は食い物ネタ好き過ぎだろww
>>274-279 GJ!!!泣いた。・゚・(ノД`)・゚・。
この手紙もし他人に見られたらどうする気だったんかね。曹丕様
>>300 現にこのスレでみんなに見られてるよw
呉質を信頼していたからああいう手紙を書いたんだろうね。
千何百年あとのヨソの国の奴らに、笑われたり泣かれたり萌えられたりするとは
夢にも思わなかったろうな…
でも文章は不朽だと(ry
>>304 ああゆうのは答えが出るもんじゃない
色んな人が色んな解釈をするのです。
年代や社会背景に矛盾せず各要素を合理的に説明出来るから
説得力が有る良い解釈だと思う
でも文学の解釈に唯一無二の正解は無いから
仮に誰かが違う解釈をしても筋が通っていれば問題はないよ
このスレは末期の呉における陸抗のようだ。
三戦最後の将かw
>>307に同意しつつ
>>273に同意w
古漢板から着いて来た俺からすると
三戦の人の多さと気楽さが
プラスに作用した典型的なスレだよね。
マターリやって行きましょ('∀`)
中英に亡命したスレは、過疎っているしなあ。
n日ルールが延びて、スレを立ててから、
120日程度は放置しても落ちないそうだし、
住めば都、といった所かねw
本題に戻ると、俺も曹丕萌え。
蜀ヲタなんだが、何故か最近、曹丕がとても身近に感じられるw
こういう文章を書く香具師だと、思わなかった。文章の力は偉大だな。
ぜひ曹丕以外にも萌えてあげてください
1氏はいつも曹植だけ「タン」付けだw
「曹操たん」
・・・・いまいちw
ソソたんならキュート
でも、やっぱり文学に目を通して一番萌えるのは曹丕だと思うw
自分は陸機に一番萌えます。
漢文か。返り点が訳分かんなくて嫌いだったな…勉強して置けば良かった
ぴータン
ちータン
鳥みたいだな
昔三戦にぴぃ様スレってあったよね
>>199 鍾ヨウが家が絶えちゃって行くところのなかった良家の娘を引き取った。
その娘を妾にしちゃって鍾ヨウ萌え萌え。プリンセスメーカーで言ったらパパの嫁エンディング。
そのエンディングを迎え鍾ヨウは妻とリコーン。
太后は離婚された妻に同情。息子の曹丕をあの色ボケ爺どうにかせえや!と煽る。
カーチャンにせっつかれてしまった曹丕。鍾ヨウに離婚した奥さんとヨリ戻さない?と言ってみるテスト
↓
鍾ヨウ「元妻とヨリ戻すくらいなら毒飲んで死んでやるぞゴルァ!」
↓
でも毒が手に入らない
↓
だから山椒でやるお!
大体こんな感じ
ちなみにこの若い妾が鍾会のカーチャン
>>319 ぴぃ様(;´Д`)ハァハァ
>>307-310 できれば三戦でマターリつづいてほしいですおね……(・ω・)
陸抗たんは超かっこいいですねw。呉書にいっぱいある陸抗の手紙は
かっこよくてすごくおもしろいので、そのうちうpしたいです。
呉書の孫権はみんなに説教されてばっかりでワロスw
>>320 Thxであります!! 毒が手に入らないから山椒wwwwwwwバロスwwwwwww
>>315-
#曹丕萌えw
曹植たんの詩賦は動詞があざやかで超おされでかっこいいんですが、
曹丕はなんかへんな手紙とか詔とかが残っていて、その内容がいちいち史書にある
王太子/皇帝らしい強大で合理的な行動とつりあわないので、なんかかわいく見えるかもですおねw。
>>288,
>>304-306 自分が勝手に思っただけなので、FAではないですorz
>>294-299 #シオカラ
高校の十八史略でシオカラと習って(教室騒然)以来、醢=シオカラだと信じていますたorz
てっきり子路は蒯聵に喰われてしまったのかと(ry
とりあえず、十八史略をうpしておきます。
『十八史略』より、君子死冠不免
(白文)
「衛、姫姓、武王母弟、康叔封之所封也。後世至春秋、有霊公夫人南子之乱。
子蒯聵欲殺南子、不果出奔。公卒、立蒯聵之子輒。
蒯聵入、輒拒之。子路与其難。太子之臣以戈撃子路、絶纓。
子路曰、君子死冠不免。結纓而死。衛人醢子路。孔子聞之、命覆醢。」
(適当書き下しorz)
「衛、姫姓、武王の母弟、康叔封(こうしゅくほう)の封ぜられし所也(なり)。
後世の春秋に至りて、霊公の夫人の南子(なんし)の乱有り。
子(し)蒯聵(かいかい)は南子を殺さんと欲すも、果たさずして出奔す。
公は卒(しゅつ)し、蒯聵の子輒(ちょう)立つ。
蒯聵は入り、輒は之(これ)を拒む。子路は其の難に与(あずか)る。
太子の臣は戈(ほこ)を以って子路を撃ち、纓(えい)を絶つ。
子路は曰く、君子は死して冠を免(ぬ)がず。纓を結びて死す。
衛人は子路を醢(かい)とす。孔子は之(これ)を聞き、醢を覆すを命ず。」
(適当訳orz)
「衛は姫姓の王さまの国で、周の武王と母を同じくする弟の康叔封が封ぜられてできたところです。
春秋時代までくると、霊公の夫人の南子(なんし)の乱がありました。
王太子の蒯聵(かいかい)は南子を殺そうとしました。しかし果たせずに国外逃亡し、
霊公は亡くなられ、蒯聵の息子の輒(ちょう)が立太子しました。
(しかし)蒯聵が戻ってきて、輒がそれを追い出そうとしました。
(孔子の愛弟子の)子路は、その騒ぎにまきこまれてしまいました。
太子蒯聵の部下が戈(ほこ)で子路を攻撃し、子路の冠のひもが切れました。
子路は、「君子は死んでも冠を脱がないものだ!」といい、ひもを結びなおして没しました。
衛の人は、子路を醢(かい:シオカラ/塩漬け)にしてしまいました。
孔子はこれを聞くと、醢を捨ててしまうように命じました。」
>>320 ワロスwww
ところで曹操みたく、姓と名が同音て中国では珍しいの?中国読みを殆ど知らないんだが、
他にいるんだろうか。
324 :
1(ry:2007/02/19(月) 03:41:48
>>322 冠というのはこのように大切なものなのに、
>>68の曹操は王さまともあろうものが、
自作のへんな冠を適当にかぶっていたりしたのですねw。
今でいえば、おおきな会社で部下がみんなスーツ&ネクタイ&革靴でビシっとしているのに、
社長さんがひとりだけへんなTシャツ&ジーンズ&ビーサンで、鼻歌うたいながらのこのこ来るようなものかも……
たしかに「太祖はカルい」と史書にかかれてしまうと思いますw。
>>323 っ蒯聵 ピンインだと違うかも(´・ω・`)?
>>317 自分も返り点が苦手で、白文は
「歳月易得、別来行復四年。三年不見、東山猶嘆其遠、況乃過之、思何可支」ならば
「Time is easy to get, (I've been) leaving (you and) coming (here) by four years.
Three years not (have been) seeing (you), (poet of) "東山" (had) still sorrowed
(about) that distance, much less now (we're) beyond that, (I) think how could (found my emotional) mainstay.」
と、まず英語よみしてしまって意味がだいたいわかって通釈文をかいてしまってから
もどって書き下しをしていくです(よくない例)。返り点は打つのも読むのもむずかしいですおねorz
中国語の構造は英語と似た面が多いから、英語が得意な人なら有りかもね。
ある程度は訓読の訓練を積んで漢文に慣れないと無理だけど。
>>320 ワロタwwww
母ちゃんに言われたからだったのか…
曹丕は母親と仲が良くなかった印象があるのですが、
そういうエピソードが残されているんですね。
結局、再婚はしなかったのかな?オチが気になりますw
>>320 卞さんtueeee!!
自分は卞さんに興味あるとですが
何か文章とかのこってる? 女の人で何か残ってるのは蔡文姫くらいなのかな
子桓さまの本などを集めてみました。もっとあると思うんで
教えて下さいお願いします
■曹丕の作品(和書) ■
『文選(もんぜん)』明治書院/新釈漢文大系
文章篇 中 <與朝歌令呉質書><與鐘大理書><與呉質書>
詩篇 上 遊覧<芙蓉池作>
詩篇 下 楽府二首<燕歌行><善哉行> 雑詩二首
『玉台新詠(ぎょくだいしんえい)』明治書院/新釈漢文大系
上巻 巻二 <於清河見輓船士新婚別一首><又清河作一首>
『漢・魏・六朝詩集』平凡社/中国古典文学大系16
<秋胡行><善哉行><燕歌行><上留田行>
<於清河見輓船士新婚別><芙蓉池作>
<於玄武陂作><雑詩二首><代劉勲出妻王氏二首>
『漢・魏・六朝・宋散文選』平凡社/中国古典文学大系23
<與朝歌令呉質書><與呉質書>『典論』<論文><自叙>
『幽明録 遊仙窟 他』平凡社/東洋文庫43
※『列異伝』魏文帝作
■曹丕について(和書) ■
『世説新語(せせつしんご)』 明治書院/新釈漢文大系
上巻 言語第二 文学第四
中巻 方正第五
下巻 傷逝第十七 賢媛第十九 巧藝第二十一
軽詆第二十六 尤悔第三十三 惑溺第三十五
『文心雕龍(ぶんしんちょうりゅう)』 明治書院/新釈漢文大系
※梁代 劉彦和の文学論。曹丕を高く評価
『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)』平凡社/東洋文庫397
※彈棊(4巻)火浣布の話、訳注に葡萄の話(3巻)
潁陽の碑「魏曹丕受禅処」に金が生じた話(4巻)
曹操軽すぎだwwwww
>>332-333 すげぇぇ!けっこう沢山あるんですね。
これらを自力で調べて曹丕の文に萌えたいと思いますw
軽曹操モエスwwww
>>320 コントを見ているみたいな気分になる話だwwやっぱり曹丕もかーちゃんには敵わなかったのか。
口が腫れ上がった鍾ヨウを見てアチャーと頭を抱える曹丕の姿が想像できますw
それに
>>183にある曹丕と鍾ヨウのドキドキ五熟釜というのが気になるのでkwsk
>>324 Tシャツ&ジーンズ&ビーサンと聞いて何故か、所ジョージの姿が浮かんだ…
>>331 そ、それはアレ三国志というギャグマンがの作家が描いたTシャツ!
そういえば、その作品に最近になって曹植が初登場したけどベレー帽を被った
少女マンガチックな芸術家というキャラ付けになっていてワロタなあw
確かに、曹植って少女マンガチックな美少年っぽいイメージはあるな
アレ三国志のおねむばっかりしてるちっさ曹操と
反抗期でグレてる曹丕がかなり好きだw
341 :
1(ry:2007/02/20(火) 00:08:58
へんなTシャツワロスwwwww
>>327-
#女性
卞夫人は超かっこよすぎですおね。自分は卞皇后伝(と、裴注の丁夫人伝)がすごい好きなので、
今週中にまるまるうpしてよかとですか、というかうpするです( ゚∀゚)o彡゜
あと女の人の文章では、甄夫人の塘上行という五言詩ものこっていますおね。
もっともこれは、甄夫人・魏文・魏武作と、だれがつくった詩なのかは説がいろいろあるそうですが、
すごく線の細いロマンチックな詩なので、自分はなんとなく、少なくとも曹操ではないだろうと(ry
>>330 >>330 纏めサイトさんいつも乙であります(`・ω・´)ゝ
>>332-
#曹丕まとめ
乙であります! すごい、いっぱいあるんですね。
とりあえず、文選と世説新語にはもっとあったと思うですー。
あと、纏めサイトさんの曹丕の項に、出典がいっぱい出ているです(・∀・)
>>338-
#曹植たん
曹植たんの作は、内容はすごく叙情的でロマンチックなのですが、動詞があざやかに力強くて
修辞もみずみずしく色鮮やかで、自分にはけっこう曹操ゆずりの骨太詩人だなーと思えるですw。
逆に、かえって曹丕の詩のほうが景色もあわい色彩で、動詞の線も細く不安定な少女漫画系作風にみえますw
#鍾ヨウをぜしkwsk( ゚∀゚)o彡゜
>>341 >すごく線の細いロマンチックな詩なので、自分はなんとなく、少なくとも曹操ではないだろうと(ry
ひどいやw
曹家は本当に文才があるね。ローマのネロも芸術家(気取り)だけど、曹操や曹丕、曹植には全然敵わないもん。
オリンピアとか独唱会とか自作自演だしね、ある意味。
ネロの遺言(本当かどうかは分かんないけど)の「何と惜しい芸術家が、私の死によって失われることか」は曹家にこそ相応しい気がする。
でもこんな大言壮語、少なくともブロガーは曹丕は言わなそうだけどね。
>>342 だって曹操は間違いなくロマンチストだけど線の太いロマンチックじゃんw
どかーんどしーんどばーっていうか。
上機嫌にせよ凹むにせよいちいちスケールがでかい。
曹操が女性の心情を語るような詩作ったとして、こうはならん気がする。
知ってる限りの曹操の詩ってどれもこれも共通して派手だしあと、何故か映像的に地平線
とか水平線が見えそうなんだよね。さもなきゃすげー高い山とかがどどーんとそびえてるか
(イメージ的に)。
だから同じシチュの詩を作ろうとしても、庭の風景じゃなくて広い天地にひとり取り残された
孤独とかなんかそういう方面行きそう。
んで最後の方でちらっと触れてる旦那の行った戦地の様子とかも、何故かやけにリアルに
想像できる従軍経験ありそうなオットコマエな嫁とかになっちゃいそう。
>>336 心の友よvv
『典論』五巻 (巻三十四志第二十九)
『士操』一巻 ( 同 上 )
『魏文帝集』十巻 (巻三十五志第三十)
『列異伝』三巻 (巻三十三志第二十八)
以上が『隋書』經籍志に著録されている曹丕の作品。
曹丕が命じて、王象、劉邵、桓范、韋誕、繆襲らが編纂した『皇覧』もあった。
百二十巻。梁『七録』六百八十巻。唐代に散迭。元々千巻を超えるものだったらしい。
現存するものは楽府二十三篇、詩十八篇、典論の篇名十三。
楽府..... <短歌行><秋胡行>三首<善哉行>二首<丹霞蔽日行>
<煌煌京洛行><釣竿行><十五><猛虎行>
<善哉行>四言二首<善哉行>五言二首<飲馬長城窟行>
<折楊柳行><燕歌行>二首<臨高臺><陌上桑><上留田行>
<大牆上蒿行><艶歌何嘗行><月重輪行>
詩...... <黎陽作>四言二首<黎陽作>五言<於明津作>
<於清河見挽船士新婚與妻別><於譙作><孟津><芙蓉池作>
<於玄武陂作><至廣陵於馬上作><雑詩>二首
<清河作><代劉勳妻王氏雑詩><黎陽作>六言
<令詩><夏詩><失題><寡婦>並序
<見挽船士兄弟辭別詩>
賦..... <愁霖賦><喜霽賦><濟川賦><臨渦賦>並序<滄海賦>
<述征賦><浮淮賦>並序<戒盈賦>並序<離居賦>
<感離賦>並序<永思賦><出婦賦><悼夭賦>並序
<寡婦賦>並序<感物賦>並序<哀己賦><登臺賦>並序
<登城賦><校獵賦><蔡伯喈女賦><玉玞賦><彈棊賦>
<迷迭賦>並序<瑪瑙勒賦>並序<車渠椀賦><槐賦>並序
<柳賦>並序<鶯賦>並序
典論(篇名).....<姦讒><内誡><酒誨><論郤儉等事><自敘>
<太子><劍名><論文><論太宗><論孝武>
<論周成漢昭><終制><諸物相似亂者>
他に篇名が欠けているものや迭文が残っている
『列異伝』は“魏曹丕作”と記してあるが、中には正始年間(240−249)の話
まであって怪しい。曹丕は未来まで予言出来たのか?
『隋書』經籍志には他に『山陽公載記』『漢末英雄記』『九州春秋』『魏晉世語』
『呂布本事』があった。読みたい!
>>343 曹操もネロも、それぞれちがったおもむきがあるですおね(゚∀゚)
>>342 いやその
>>344さんのとおり、曹操や曹植たんならば、もっとはっきりと鮮やかに悲しみを詠うだろうとw
曹操や曹植たんの詩作の闊達な動詞とみずみずしく鮮やかな修辞は、
かれらの叙情をあざやかに(派手にw)描いてかっこいいです。
曹丕は意外と動詞が不安定で、修辞も淡い色合いかとwそいでは塘上行をうpしてみます(`・ω・´)ゝ
『塘上行』 甄皇后
(白文)
蒲生我池中 其葉何離離
傍能行仁義 莫若妾自知
衆口鑠黄金 使君生別離
念君去我時 独愁常苦悲
想見君顔色 感結傷心脾
念君常苦悲 夜夜不能寐
莫以賢豪故 弃捐素所愛
莫以魚肉賤 弃捐葱与薤
莫以麻枲賤 弃捐菅与蒯
出亦復苦愁 入亦復苦愁
辺地多悲風 樹木何翛翛
従軍致独楽 延年寿千秋
(適当書き下しorz)
「蒲(ほ)は我が池中に生じ、其の葉は何ぞ離離(りり)たる
傍(かたわ)らに能(よ)く仁義を行うを、妾(しょう)は自ら知るに若(し)く莫(な)し
衆口は黄金を鑠(とか)し、君をして生きて別離せしむ
君が我を去る時を念(おも)い、独り愁(うれ)い常に苦悲(くひ)す
君の顔色(がんしょく)を想見(そうけん)し、感は結びて心脾(しんぴ)を傷す
君を念い常に苦悲し、夜夜(やや)に寐るを能(あた)わず
賢豪(けんごう)を以(も)つ故(ゆえ)に莫(な)かれ、素(もと)に愛する所を棄捐(きえん)するを
魚肉を以って賤する莫かれ、葱(そう)と薤(かい)を棄捐するを
麻枲(まし)を以って賤する莫かれ、菅(かん)と蒯(かい)を棄捐するを
出(い)づるは亦(また)苦愁(くしゅう)し、入るは亦苦愁す
辺地に悲風多く、樹木は何ぞ翛翛(しょうしょう)たる
軍に従いて独楽(どくらく)を致すに、千秋の寿を延年す」
(適当訳orz)
「ガマの草が私の(家の傍の)池から生え、その葉っぱは並びつらなっていました。
そのかたわらであなたが徳にみちたりっぱな行いをなさっていたことは、
妻のわたくしが何ひとつ知らないはずはございません。
(しかし)多くの人の悪口は黄金もとかすほどの力があり、
わたくしはあなたと生きながらに別れさせられてしまいました。
あなたがわたくしを去ったときのことを思うと、
わたくしはひとりで思いなやみ、いつも苦しみ悲しんでおります。
あなたのお顔を推しはかって目にうかべると、気持ちがぎゅっとなって心や内臓がいたみます。
あなたを思っていつも苦しみ悲しんでいるので、夜ごとにねむることもできません。
賢く強く勢いさかんでりっぱであらせらるからといって、もとに愛していた人を見捨てないでくださいませ。
魚や肉をもってして、ネギやニラをいやしめて見捨てないでくださいませ。
麻やカラムシの織物をもってして、スゲやカヤの繊維をいやしめて見捨てないでくださいませ。
あなたが出ていらっしゃってもまた苦しくて悲しく、入っていらっしゃってもまた苦しくて悲しいのです。
このいなかには悲しい風が多く、木々はやぶれるように風にふかれています。
あなたが従軍なさってただそれだけがお楽しいのであれば、あなたが千年もめでたく長生きなさいますように」
曹丕は学問の復興にも熱心だったな。
後漢の霊帝が建てさせた石経を復元したりしている。
>>320 それ一族で誰か止めるヤシいなかったのかよ!と思ったが、
長男次男はもう亡くなってたようだし鍾毓も若くて
爺様を押し止められなかったのではないかと言ってみる。
異林の女の幽霊の話や曹叡の代の刑法改正の上奏を見ると、
ボケだったのかマジだったのか更にあwせdrftgyふじこlp;
五熟釜と与鍾繇書…難しくてどう手をつけていいのか(゚∀゚)アヒャ
350 :
1(ry:2007/02/20(火) 01:58:05
>>347-348 #塘上行
いかがでせうかw自分は
>>344さんにものすごく同意ですーw
曹操や曹植たんは、こんなに色数がすくなくはかなげな動詞をつかうような
はかなげロマンチック詩人のタマではないような……w
そいで、商務印書館の古詩源注によれば、この作は
甄夫人/曹丕/曹操/無名氏、の四人が作者としてあがっているそうですが、
詩のシチュエーションからすると、いろいろ讒言をうけて宮廷での地位をうしなった
甄夫人にぴったりするので、彼女のことをうたった作だとされてるそうですー。
この作は五言詩ですが、なかみは詩経にでてくるような素朴な作風で、
当時としては前衛的な、実験作みたいな詩をよんでいた曹丕の作にはみえづらいような……?
>>344さんのように、自分にはあまり曹操の作にもみえづらいように思えますw。
甄夫人がよんだ作だと思うと、たおやかで控えめで知的な悲劇の女性というイメージにぴったりで
ロマンチックだと思うです(どこのオッサンか分からない無名氏作だったらアレですが……w)。
>>336-,>>345-
#曹丕作品一覧
SUGEEeeee!!!! いっぱいある。手元にあるやつは、自分もちょっとずつうpしてみるですー。
>>349 #鍾ヨウ
自分もついに読みおわりますた! でもむずかしくて(゚∀。)エヒャ
気持ち的に
曹操→坂本龍一
曹丕→エリック・サティ
曹植→モーツァルト
そこいらの音な感じがする
>>340 俺もアレ国のおねむ曹操とグレ曹丕好きだww
>>348 悲しい詩だね・・
甄夫人の最後を思うと泣ける。・゚・(ノД`)・゚・。
>>339 やっぱり「悲劇の人」って美人として描きやすいのかな・・・・?
日本における源義経も、そんな扱いな気がする。(実際は違うんだっけ?)
そして、頼朝も曹丕も、それぞれの弟に較べると大衆的にうけてない気がする。
どちらも政治史上革命的な転換点を起こしたのに弟のせいでかなりワリ食ってるね
夫に見捨てられた女性の詩を作った時の3者の作風の妄想してみるテスト。
曹操→大平原のド真ん中で天を仰ぎながら泣き叫び血でも吐くんじゃないかって感じ。
表現自体は大変素直。でも天地を巻き込む勢いで無駄にスケール広がりんぐw
曹丕→静かに屋内で悲しみを抱きしめるような感じ。そしてその形容が斬新すぎる。
そして悲しみに沈んでる割りにやけに理屈っぽく斬新な形容とか使っちゃう。
曹植→なんでー!?なんでー!?あんなに好きって言ってくれてたじゃん!
ひどいよひどいよ!!ばかばか!!とか騒いでて、幸せだった時を回顧する描写
を溜息出るほどキラキラさせちゃう。
素人の勝手なイメージだけど。
意外な共通点が日本にもいたとは……
頼朝や曹丕も最近になってようやく名誉回復しそうな流れになっているよね?
まだマニア程度にしか再評価されてないな
曹丕も源頼朝も教科書でしっかり「すごいぞ!」って書かないとだめだ
1氏も前スレで曹丕曹植を頼朝義経に例えて
曹丕を援護していたが、歴史には悪役が必要なんだろうな…
お兄ちゃんは辛いねぇ
>>356 これらの例えは他の詩にも言えることだね。
このスレ面白過ぎるぞw
曹操はマッチョダンディ
曹丕はナルシズムお耽美
曹植は天真爛漫天然系
曹操本人のキャラとかなーんも知らずに詩だけ読んでたらむちゃむちゃ胸板が
厚くて背の高い偉丈夫想像しちゃうだろうなあ…。
曹操の詩に憧れてたら本人に会うチャンスが来て、ワクテカしながら会いに行ったら
ラフなかっこの笑い上戸なちっちゃいおっさん出てきてひっくり返った当時の詩人
とかいるんじゃないかと余計な心配してしまう。
そんなことすると帰り道殺されるけどな
ちっちゃいけどオーラが凄いんだよ!
きっととんでもなく魅力的だったに違いない。
俺はそう信じている・・!!
>>364 そうそう
スティーブンセガールに会いに行ったら
竹中直人が出てきたようなな
>>339 このスレのお陰で今はすっかりと曹丕の方が少女マンガチックで
曹植は意外とタフな男というイメージに変わったけどw
>>367 その例えがいいなww
このスレは妙な中毒性があるよなw
>>365 いい詩を書ける詩人とかだったら大丈夫。それが人材コレクタークオリティ。
三戦がex21に移動してからやけにこのスレがにぎわうようになったな
燃え尽きる寸前の明るさでなければいいんだが
>>371 糞スレに埋まっていたときは存在を知らなかった・・・
徹夜で過去ログ@まとめサイトから読破してすっかり曹丕萌え
そういや曹瞞伝も三国時代の文章だな
>>371 このスレが落とされないようと守るのに必死なんです……
今年立ったスレが落ちるにはまだ日数がかかるぞ
俺の中での、曹植のイメージ
無精ひげ生やしてて、父の威厳の無さを程好く受け継いでいるタレ目の酒飲み。
>>351 曹操:ベートーベン、曹丕:シューベルト、曹植:ショパン、と
年代をそろえてみるテスト(ry
>>354-
#頼朝公
頼朝公は以前に別の板でほめ称えまくっt(ry
曹丕も頼朝公も、動乱の国内を強力にひきいていくためには
自分の立場を確固たるものとしなくてはいけなかったのに、人気のあるかわいい(?)弟が
「兄ちゃん俺が何したかわかんないけど許して、そいで一緒に国のために働きたいよ!」と
無邪気で感動的でケナゲな哀願の文章をのこしているのが決定的ですおねorz orz orz
兄ちゃん達は、バラバラの国を預かってまとめて支えなきゃいけなくて
敵がいっぱいいて大変だったんだウアーン! と喚いてみるテスト(ry
>>339-
#曹植たん美青年
曹植たんは、悲劇の貴公子詩人というだけでポイント高いですが、とくに
「こんなにロマンチックな美しい詩は、白皙の美青年のほそい指から
紡がれたにきまってる!」という、人の本能というか願望もあるのでは……w
自分は
>>376さんに一字一句同意w↓このアンケートは曹植たんがいいと思うですー。
ttp://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2005&d=1122&f=research_1122_001.shtml
>>364-368 >>366さんのように曹操はオーラはあったと思うですー。
世説新語の容止第十四の一では、
(白文)
「魏武将見匈奴使。自以形陋、不足雄遠国。使崔季珪代、帝自捉刀立牀頭。
既畢令間諜問曰、魏王何如。匈奴使答曰、魏王雅望非常、然牀頭捉刀人、
此乃英雄也。魏武聞之、追殺此使。」
「(注一)魏氏春秋曰、武王姿貌短小、而神明英発。」
(適当書き下しorz)
「魏武は将(まさ)に匈奴の使いを見んとす。自ら以(おも)うに形(かたち)陋(いや)しく、
遠国に雄するに足りんと。崔季珪をして代らしめ、帝(てい)自ら刀を捉りて牀頭に立つ。
既に畢(おわ)りて間諜に問わしめて曰く、魏王は何如(いかん)と。匈奴の使は答えて曰く、
魏王の雅望(がぼう)は常に非ず、然れども牀頭に刀を捉う人、此れ乃ち英雄也(なり)。
魏武は之(これ)を聞き、此を追いて殺さしむ。」
「(注一)魏氏春秋に曰く、武王の姿貌は短小なれど、神明英発とす。」
(適当訳orz)
「曹操は匈奴の使者に見まえようとしていました。自分で容姿がりっぱではなく、
遠い国の使者にいさましさを見せつけるのには足りないと思いました。
(そこで)崔琰を(魏王の)代理にし、曹操はみずから太刀持ちのふりをして
ベッドのそばに立っていました。謁見がおわって、曹操は仕込みの者に
「魏王はどんなですか」と質問をさせました。匈奴の使者は
「魏王のみためは非常に雅やかでりっぱであらせられます、でもベッドのそばの太刀持ち、
彼こそが英雄でしょう」と答えました。曹操はこれを聞くと、使者を追いかけていって殺してしまいました。
「(注一)魏氏春秋にいわく、曹操の容姿は小柄でしたが、精神は才気に溢れていました」
と、匈奴の使者にも曹操がオーラでわかったとしていますw。使者キノドクス(゚∀。)
381 :
1(ry:2007/02/20(火) 19:28:57
そいで崔琰がどういう容姿だったかというと、
魏書崔毛徐何邢鮑司馬伝第十二に、
(白文)
「琰声姿高暢、眉目疏朗、鬚長四尺、其有威重有、朝士瞻望、而太祖亦敬憚焉。」
(書き下し)
「琰は声姿高暢とし、眉目疏朗、鬚長四尺、其の威重有るを、
朝士は瞻望し、太祖も亦(また)焉(こ)れを敬い憚る。」
(適当訳)
「崔琰は声もすがたも上品でのびやか、顔かたちは絵のようにすっきりとさわやかで、
ヒゲは長く1メートルもあり、その威厳があって重々しくりっぱなことには、
朝廷につかえるものは皆あおぎしたい、曹操さえもまた彼をはばかりうやまいました。」
とかかれています。崔琰は有能な部下にして、魏の周瑜といったような
かっこいい風流人だったらしいので、きっとモテたと思いますw。
>ヒゲは長く1メートルもあり
関羽負けたなw
あひー
>>380 ×自ら以(おも)うに形(かたち)陋(いや)しく→◎自ら以(おも)うに形(かたち)陋(いや)しく、
>>381 ×彼をはばかりうやまいました。→◎彼をうやまいはばかりました。
ついでに
>>278のあまりに変なとこ訂正ですorz
×傷ましく思ったからなのです。→◎傷ましく思ったのです。
>>382 角川の新字源の度量衡表だと曹魏の一尺は24.12cmらしいので、×4≒1mっつうことで。なげーw
>曹魏の一尺は24.12cmらしい
一尺=33センチで考えて
「関羽八尺wwwどんだけデケーんだよwwwwwwwww」
そんなふうに考えた時期が、俺にもありました。
>>381 関羽っぽいな
曹操は関羽タイプが好みだったのか
関羽フェチ?
曹操が薬草の当帰(「中原に帰って来い」というメッセージ)をプレゼントした太史慈も
「長七尺七寸、美鬚髯」だったというから、あの手のタイプが好みだったんだろうな
美髭フェチだな
>>379 リンク先wwwww
一緒に酒飲みたい英雄が何故張飛wwwwww
張飛はヤバいだろ、俺の酒が飲めないのかとかなってくるぞwww呂布も。
命に関わるw
呂布張飛孫権あたりは絶対一緒に飲みたくない。
名前が出てる中だと魯粛周瑜曹操あたりはこっちの酒癖さえ無茶じゃなかったら無難そう。
俺も1氏と一緒に曹植がいいw
>>388 曹操は程cを結構気に入ってたみたいだが、なるほど、そうk(ry
酒の話題で思い出したけど曹丕は酔った勢いで剣術の達人とサトウキビで
一騎打ちをして勝ったというエピソードがあるらしいですね。
ちょっと見てみたかった気がするw
ちなみに俺が一緒に飲みたいのは周瑜。
やっぱ曹操だろう
馬鹿笑いして皿に頭突っ込んだ曹操を引き上げてやるのが俺
>>395 それ典論自叙ですおね(・∀・)
>>130でうpするとか言って
まだ放置してあるので、あさってぐらいにうpしてみるです。
>>389-
#酒
・周瑜=順当
・魯粛=おごってくれそう
・曹丕=うまい酒肴知ってそう
・曹植たん=宴会部長
張飛とかは命が惜しいからふつうはぜったい御免だと
思うですが、中国の人は勇気があるーw
一緒に酒を飲むなら? 究極の選択
張飛 or 孫権
>>387 人は自分にないものを求める
大きく重々しく長いヒゲの関羽・太史慈・崔琰
短小で軽く貧相な曹操
400 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/21(水) 00:27:43
サトウキビで戦ったのは奮威将軍の鄧展という人ですお
真剣白羽取りのできる強い将軍だったらしいでs。
>>356さんにはげしく同意したのでサンプリングしてみるテスト(ry
【夫に見捨てられた女性の詩を作った時の3者の作風の妄想】
Ver.曹操
「あなたに捨てられた悲しさに、私は天をあおいで嘆きうったえます。
ああ、黄河をあふれさせ、国土をも押し流さんばかりに湧きでるこの涙よ!」
Ver.曹丕
「あなたに見捨てられた私の心は、まるでこの空っぽのおひつのようです。
斉の建王をころした共の松柏といえど、これほど私の心を飢えさせはしないのに」
Ver.曹植
「針仕事の手をやすめてふと庭に目をうつすと、月明かりのなかにあなたが立っていらしたので、
私は思わず布をおとして走りだしていきましたね。なぜあなたはもういらっしゃらないのですか?」
よっているがゆるしてくだされ
>>356 >>401 贋三曹キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!?
中国語バージョンもお願いしますv
>>402-403 忠文ムリであります(゚∀。)アヒャ。曹丕はいま腹へっており(ry
>>401 △なぜあなたはもういらっしゃらないのですか?→◎なぜあなたは遠くへ行ってしまったのですか?
曹植たんの詩賦は、動詞がなめらかに弾むようですごくいきいきとしていますおね。
> 斉の建王をころした共の松柏といえど、これほど私の心を飢えさせはしないのに
曹丕らし過ぎるwwwwwwww
曹植だけが詩聖と呼ばれる訳が分かる。映画みたいだよね。
>>401 ちょwww
曹丕w食い物から離れろw
曹操はなんていうかUMA子とか想像した。
曹操:鶏肋
曹叡:画餅
曹操は鶏肋以外にもなんか残したっけ
>>380 曹操、短小て…
自分で身長とか気にしてたんだねヽ(`Д´)ノ
人生の大半を馬上で過ごした曹操は、とても太ることができなかっただろうから、
当時はチビな上に貧相な体格と見られても仕方ないな。
現代だったら小柄だがスリムで鍛えられてると評価されただろうけど。
背が低い上に髯も薄いモヤシ系だったのかも
まさに竹中直人じゃないか…
きっと毛は薄くなかったよ!!!
そういえば、竹中氏は大河ドラマでよく脱いでたけど
結構マッチョなんだよね。細いマッチョという、分かりづらい体型
声もイイし、髪の毛さえあれば脳内曹操が彼になってしまう
立派な風貌にはひげも含むんだぞ
曹操は風貌が悪くひげが薄かったから
立派な髯に憧れたのかも
劉備にも顎鬚がなかったらしいよ。
なんだ、みんなヒゲフェチ(ry
小柄でマッチョと聞くとナイナイの岡村が浮かぶ…
>>401 確か文選に「魏の太子が催した宴に建安七子が招待されたとき、
主人である曹丕とゲスト七名がそれぞれ詠んだ詩」という
設定で作られた後代の詩人の作品があったと思うけど、
あれもこの種のなりきりポエムだなw
昔の人も曹丕達の詩を読んで「こんなシチュエーションなら
こんな詩を読みそうだな」とか妄想してたんだ。
特徴を掴んでいて面白いw
誰か中文訳してくれないかな
420 :
419:2007/02/21(水) 19:07:23
曹操は土木工事みたいだwww
曹丕と酒飲みたいなあ
こだわりの美味い酒を出してくれそう
曹植は酔えれば何でもOKなふいんき(ry
曹丕との酒はグルメな薀蓄が肴w
すっごいすっごいご馳走を振舞ってくれる
つ秋胡行
そのかわり詞を要求されるんだが大丈夫だろうか
>>422はvv
曹操は長年真田広之で想像してたんだよ!!
竹中直人とかやめてくれww
426 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/21(水) 20:47:01
関羽タイプな奴なら曹操が宴会開いてくれるなw
ヒゲはなんとかなるかもしれんけど身長は難易度高いな。
最低190センチはいるからなw
163しかない俺なら親近感沸いて仲良くしてくれるかもしれん
逆に考えるんだ
「曹操は小さくて可憐だ」と考えるんだw
みさお
>>430 もう脳内で竹中直人になってるから無理wwww
>>379 美しい詩を読む詩人が美男子とは限らないからねえw
>>423 曹丕は何気に自慢上戸だよねw
>>430 小さくて可憐だけど英雄のオーラがバリバリ出てるおっさんなんですねw
435 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/21(水) 22:51:21
曹操=温水
笑い上戸で可憐な英雄・・・いいじゃないか!
小さいけどすごい英雄っていうと豊臣秀吉とか…いかん、ますます竹中直人面にw
だから竹中直人やめてくれよ!!!!!ww
>>438 言い得て妙だが段々当たってるような気がしてくる不思議
ああ凛々しかった俺の曹操像が・・_| ̄|○
これはこれでいいと思っている俺がいるwww
このスレのせいで曹操:竹中直人 曹植:ジョン・レノンになったwww
謝罪と賠償を(ry
俺は無双と大戦のクールな皇帝曹丕様が
甘党の可憐なグルメオヤジに(ry
謝罪と賠償(ry
曹丕って80代まで生きてたら味皇様みたいになってたんだろうな
これから出勤なのに1スレから徹夜で完読しちまったぜ
文学的側面から見た三国史がこんなに新鮮且つ面白いとは
目からウロコ落ちまくり
住人乙ノシ
俺の中の曹丕は海原雄山になった
まだ若かったんだし山岡だろ
母親は父のせいで死んだと息子に思われてるところは雄山っぽいな
>>446 味皇様曹丕ワロスwww
からっぽのおひつがいまだに引っかかってて
思い出すたびに腹がよじれる俺が来ましたよ。
曹丕=グルメ漫画に繋げるのヤメロwww
もうイメージが固定されたじゃないかww
>>452 まとめサイトの枝豆ポエムといい、1氏には妙なポエムの才を感じるww
曹丕の美食倶楽部に入りたいお(^ω^)
ttp://www.h3.dion.ne.jp/~china/HUMAN2E.HTML > B.C.221斉は秦に攻められた。建は宰相后勝のはかりごとを聴き入れて、秦に入朝しようとした。
>雍門の司馬がこれを諌めたが、秦の説客陳馳が「秦に入られたら、秦は500里の土地を差し上げる」と言ったので、
>建は秦に入って戦わずして秦に降った。
>しかし秦は建を捕らえて共の松柏の塞にうつし、建は食を絶たれて餓死した。
>秦は斉を滅ぼして郡とした。ここに天下は統一された。
>斉人は、建が姦臣・賓客のことばを聴いて国を滅ぼしたことを恨み、こう詠った。
> 松なるか 柏なるか
> 共に遷さしめしは 客なるか(斉が滅亡したのは、建が客を間違って登用したからだ)
斉の建は餓死させられた気の毒な王らしい・・・<からっぽのおひつ
この時代の酒ってどんな物なんだろうか
どぶろくみたいなもので味も薄けりゃアルコールも弱い。だからガバガバ飲める。
一方、葡萄酒のような芳醇な味わいを持ったアルコール分の強い酒は非常に珍重された。
孟達の親父が、宦官の張襄に葡萄酒一斗を賄賂に送って大出世したというエピソードがあるほど。
>>458 葡萄酒というと、夜光杯とセットで妙にあこがれるな
教科書に載ってた、王翰の「涼州詞」
>>457 曹操が酒の新製法を作り出してるし味もアルコールも弱いわけじゃない
麦からビールじゃないけど麦酒もある
あとそれから呉では純米酒も飲める
やべぇ、昼なのに酒が飲みたくなってきた…
酒といえば肴だが、とんなのが用意されたんだろう?
さて置いて、このスレでは
曹操→竹中直人
曹丕→味皇&海原雄三
曹植→ジョン・レノンというキャラ付けになってしまったのかw
濃い曹一族だな…w
改行ミスったorz
>>460 その曹操の酒のつくりかた講座って文章で残ってるのかな
残ってたら読んでみたい
>>461 面白一家すぎるwwwwww
曹操の酒って、てっきり蒼天航路のネタかと思ってたら
実際に作ってたのね
うひー
ほかをぜんぶ後回しにして曹操の奏上九醞酒法をうp(ry
訳は帰ってからやるから待ってくんなせえ
全三国文巻一の武帝一より
『奏上九醞酒法』 魏武帝
臣県故令南陽郭芝、有九醞春酒法。
用面三十斤、流水五石、腊月二日清曲、正月凍解。
用好稲米、漉去曲滓便醸、法飲、曰譬諸虫、雖久多完。
三日一醸、満九斛米止。臣得法、醸之常善、其上清滓亦可飲。
若以九醞、苦難飲。増辧十醸、差甘易飲、不病。今謹上献。
(北堂書鈔一百四十八、又、文選南都賦注引魏武集)
自分はこの文章をよんだときに、曹操様の偉大さにはげしく心をうたれますたw。
なぜなら、日本酒は「段仕込み(段掛け)」という方法でつくるそうなのですが、
これは曹操がのこした九段仕込みがもとになっているらしく、ああありがとう曹操様ありg(ry
>日本酒は「段仕込み(段掛け)」という方法でつくるそうなのですが、
>これは曹操がのこした九段仕込みがもとになっているらしく
マジ!?
曹操・・・いや曹操様と呼ばせてくれ
曹操様は ネ申
マジ
曹操の九醞春酒法は日本酒の始祖みたいなもんだよ
古代の日本の酒は所謂口噛みの酒で、すっぱい
ネ申 age
ネ申すごいよネ申
これからポン酒飲むときはネ申に感謝しながら飲もう
なんと!日本酒の元祖は曹操にあったのか!!
さすがグルメ皇帝を産んだ親だw
>>465-466 おまえら、さっきまで軽いオヤジだちっちゃいオッサンだと
色々言ってたのに急に曹操様かよwwww
俺もだ 曹操ネ申様 色々言った事をお許し下さいwww
竹中直人の言い出しっぺはボクです
どうか許してください
陸機はネ申の立派な遺令の変な部分ばかり抜粋するし・・・・
1氏もネ申の変なエピソードばかり抜粋して今頃やっと偉大さを言うから・・・・
全て陸機と1氏の所為にしようw
いま、スレ住人の心が酒でひとつになった
「酒に対すればまさに歌うべし」とうたったネ申のもとに…
>>473 えっ! それがしのせいですかいww
じゃあ今夜酔いつぶれないで帰ったら、孔融の与魏武帝禁酒書と
曹植たんの酒賦もうpするから許しておくんなせえ……w
あ、1殿!曹丕のサトウキビで一騎打ちも
今日うPする予定だということを忘れないでくださいね。
>>475 ネ申の恵みの酒に寄りその約束果たせずに孟徳新書百冊w
>>476 ネ申キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!!!
>>477 えっまじですか、気のせいではうそん(゚∀。)
【今夜のうp予定】
#九醞酒法(曹操)
#与魏武帝禁酒書(孔融)
#酒賦(曹植)
#典論自序(曹丕)
これはむりだぞwwwwできるところまでがんがりますがwwwww
なんか手元に大学の漢文のテキストで「六朝志怪小説」ってのがあったんでペラペラ
めくってみたら引用書の羅列の中に「『列異傳』 魏 曹丕撰」って…
あのブロガーこんなのにまで手出してたのか。美味しいモノとオカルト好きってどこ
まで乙女なんだよ。
どうでもいいけどその六朝志怪小説の中に「魏武帝」てのがあって袁紹と花嫁泥棒とか
寝てるときに近寄ったら斬っちゃうよ☆とかの話題が載ってた。
他に載ってる奴は(返り点とかついてるけど白文のまんまどべーっと載ってるだけなんで
斜め読みだけど)うんうん確かにちょっと不思議だねーって感じなんだがコレだけただの
歴史こぼれ話…もっとあるじゃん、梨の木とか。この本『捜神記』からもテキスト採ってる
のに何なんだコレ。
存在自体がオカルトとかそういうことなのか?
http://p.pita.st/?m=bqifki0j 聞いてくだされ。曹植たんの酒賦のページにでかい穴が。
ああこれでは読めないじゃんヒャッホウ( ゚∀゚)o彡゜
うそです、ちょうど酒賦のまえで穴は終わっていますたヽ(`Д´)ノ
ネ申のタタリかと動転して意味のないレスをしてみてすみません(゚∀。)
>>480 列異伝は今夜は(ry
というか、列異伝は太平記の菊慈童よりも年代の整合性がおかしい気が(ry
なんかあきらかに曹丕没後の話なのに曹丕の筆によるとしてガクガクブルブ幽れ(ry
ネ申を思って今日は残業しないで酒を飲むことにします(`∀´)
1氏はネ申の為に酒を中止して
>>479をうPするのです。
さもなくばネ申の祟りで列異伝もうPする羽目になるでしょう・・・・
>>481 なんか選者は張華と曹丕と両方説があるってことだし、フツーに張華が書いただけなんか
なとも思うけどじゃあ何で曹丕の名前が出てくるねんってトコ気になりますね。
張華生まれたときもう曹丕死んでてかすりもしないし。
曹丕が書きかけて死んだのを後で張華が拾ってまとめたとかなのか、単に張華(か、他の
名前を忘れられた誰か)が書いたってことが忘れられたころに、後世の人が「こういうの
曹丕好きそうだよなー、曹丕が書いたんじゃねーの?」と思ったのか何なのかw
それともやっぱり夜な夜な幽r((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
>>482-483 ヽ(`Д´)ノ ウアァァァァァン!! ネ申のばかばか!!
>>484 「聞いてください。なんかさいきん、文帝の御遺品の筆が、朝になると湿っているんですお……」
うぁ済みませんすmあqwせdrftgyふじこlp;
486 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 16:17:17
お前らwwwwwwwwwwwwww
じゃ、1氏はネ申と幽霊に祟られないようにうp頑張ってなw
ヒィィイ!一気にホラー話に…
でも、死んでも文学に執念を持って筆を手にとっていた
というのは曹丕らしい話しですね。
なんていうかホラーロマン?w
490 :
1(ry:2007/02/22(木) 16:52:11
>>488 ぎああぁぁぁあぁぁぁいやああぁぁぁぁぁxっぁごめんなさいごめn
おそろしさのあまり、今かくれてこっそり
>>465だけ訳しますたw
お酒のつくりかたをぜんぜん分かっていないうえにぴゃっと訳したやつなので、
常にもまして訳に自信ないですがゆるしてくださいゆるs
(適当書き下しorz)
「臣県の故令の南陽の郭芝に、九醞春酒法有り。
三十斤の面を用い、五石の水を流し、腊月二日に曲(つぶさ)に清め、正月に凍るを解く。
好く稲米を用い、曲(つぶさ)に滓便を漉し去り醸(かも)し、法(のっと)り飲ずは、
曰く譬え諸(もろもろ)の虫と雖(いえど)もも久しく多(まさ)に完(まった)し。
三日に一醸し、九斛に満ちて米を止む。臣の得る法は、醸の常に善き、
其の上に清く滓も亦(また)飲む可し。九醞を以つ若(ごと)きは、飲むは苦く難し。
辧を十醸に増すは、差(すこし)く甘く飲むに易く、病せず。今謹しんで献じ上(たてまつ)る。」
(適当訳orz)
「わたくしの県のまえの県令の南陽の郭芝は、九醞春酒法を知っていました。
6.7kgほどの平らな面をつかって、101.15Lの水を流して、12月2日にすみずみまできれいにして、
正月に凍っているところを溶かします。たっぷりとお米をつかって、
残りカスをていねいに漉しとって醗酵(醸造)させ、こうして飲めば、
虫がたくさんついていたとしても完全にいなくなります。
三日にいちど醗酵させ、178.29Lになったらお米を追加するのをやめます。
わたくしの知ったこの方法は、醗酵がいつもよくでき、しかもきれいで酒かすもまた飲めます。
九回醗酵させたものは、飲むには苦くて難しいです。回数をふやして十回醗酵させれば、
ずいぶん甘くなって飲みやすくなり、病気になりません。今、つつしんで(この方法を)献じたてまつります。」
なんじゃこりゃーだけじゃなんなんで問題のオカルト、曹丕が書いたと言われる『列異傳』
なのに曹丕死後のお話を白文で貼り付けますよ。
正始中、中山王周南爲襄邑長。有鼠衣冠従穴中出、在庁事上語曰、周南、爾某月
某日當死。周南不應、鼠還穴。後至期、更冠幘、絳衣出、語曰、周南、爾日中當死。
又不應、鼠緩入穴。須臾出、語曰、向日適欲中。鼠入復出、出復入、轉更數、語如
前。日適中、鼠曰、周南、爾不應、我復何道。言訖、顛蹶而死、即失衣冠。周南使卒
取視之、與常鼠無異。
何がどうオカルトかって、「正始」って240〜248年の年号なんですね…。
文帝ったらそこまでして化け鼠を…。
>>490 乙!!
しかし全然意味わがんね(´∀`)
我らがネ申はこの方法を知って嬉々として自分で試したんだろうか。
米を発酵させているネ申を想像するとなんだかとても萌えるであります!
>>491-492 ええぇぇぇぇxそんないやあぁぁひどいぃぃぃぃぁぁぃxぁorz orz orz
>>493 済まんですorz自分もさっぱり分かんないので、どなたかフォローきぼんですorz orz orz
つうか、もうまっすぐ帰らないと
>>479と
>>491がおわらないではないですかorz orz orz
で も 呑 む よ! ポン酒はネ申の恵みであります( ゚∀゚)o彡゜
うぇあ曹植たん幽れqwせdrfgかゆ うm ⊂⌒⊃。Д。)⊃
兄弟揃って出た―!
何て恐ろしい。このスレは間違いなく祟られているwww
>>492 ヒイイイイ((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
ぶっちゃけ専門に学んだこととかないんですけどこうなったらせいいっぱいがんがります。
ていうか完璧に「たぶんこんなんだろー」って想像入ってます。
たぶん間違えてると思うから誰か添削して下さい…
正始年間、中山の王周南が襄邑の知事とか市長とかなんかそういう仕事やってました。
衣冠をつけた?鼠が穴から出てきて、役所か自宅の中庭かどっちかしらんがどっちかに
来て言うことにゃ、「周南さん、このン〜月ン〜日に氏ぬよ」。周南は応じず、鼠は穴に
還った。
後になってまた頭巾と冠に真っ赤な着物で出てきて言うことにゃ、「周南さん、あんたこの
昼に死ぬよー」。また周南がガン無視したんで鼠はのそのそ穴に入った。
しばらくして出てきて言うことにゃ、「まさに!この昼時ですよ!」鼠は入ったりまた出て
きたり出てきたらまた入ったり、さらにしつこくぐるぐる回ったりとかして(っぽいけどイマ
イチワカンネ)また同じ事を言った。
昼になると鼠は「周南、あんたが相手にしてくんないならもう俺なんも言わないよ」と言い
終わるやひっくり返って死に、衣冠がなくなった。周南が役人に取らせて鼠の死体を見て
みると、別にどこといって普通の鼠と違うところはなかった。
なんつーか…シュールっつーかなんつーか。鼠は何がしたかったのか。何で死んだのか。
周南さんが相手にしてたら周南さんは死んだのか。
そしてこれは化けて出てまで書き留めたいようなことなんですか文帝陛下。
>>49 ああありがとうごzります感謝します((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
自分も専門に勉強したことないんでまちがえてたらゴメンナサイたたt祟らないでくdあqwせ;
ねずみの話だけでも山海経の妖怪みたいでけっこうこわいですが、
曹丕の幽霊がよなよな書いたのかと思うともうホラー(ry
曹丕は火鼠の皮でハジかいたから、化けてでたんだろうか……((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
そいでは、遊んでくれた方どもであります……いったん呑んで帰るですがぁぇぇ雨ふってきt((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
たぶんなんだけど、三十斤の面ってのは6.7kgぐらい入る平たい容器のこと
なんだろうな。
んで、そこに101.15Lの水投入。水に浮いてるゴミとか、しばらくほっといたら沈殿
した泥とか、そういうのをきれいに全部取る。
んでそれをほっとくと火の気がなきゃ当然凍るんで、酒を醸すのに丁度良い時期
まで凍らせておいといて(ついでに冷凍で寒さに弱い菌全滅させられるって効果
も期待してるかも)から氷を溶かして醸造用の水として使おうと。
んで、たぶん…なんだけど、今の日本酒でも米磨くっしょ。外側削っちゃう。
アレをやるんだと思う。で、アレやると当然米目減りするから大量に米が必要。
それが「たっぷりお米を使って〜」なんじゃなかろかと。
んでそれで発酵させて作る酒には、糠とかに潜り込んでる虫とか混入しないと。
そんで発酵させながらお米を追加(段掛け)して…多分コレ、本当は1回にどんだけ
追加とか抜けてると思う。
で、この方法だと失敗して腐るとかの心配がなかったり味がまろやかになったりする
んだよーと言いたいんだろうと思う。たぶん。
ていうか米30斤入れる予定の平たい容器、と言うべきなのか。
どこにも米の量が明示されてないし。
>>502 あわわ…あの世からわざわざ出向いてくださってご苦労ございますぅぅ
寒さに弱い菌ってのは無いぞ
寒さに弱いのは多細胞の高等生物くらいなもんだ
普通の虫が付かないようにするんじゃないかな
>>505 しかも魏皇帝はあのビジュアルで説明が「数々の優れた政策を行った」とあるんだよなw
だからいい幽霊なんだよw
ムムム幽霊祭りに一歩乗り遅れたか○| ̄|_
>>507 あーそうか。
菌ってよりちっさい寄生虫とかその卵とか殺すことはできたかも…いやそれも
わかんないけどな。
普通のハエとかはそもそも華北じゃ冬はいないだろうし。
三戦てやっぱいいなwwww
曹操→ネ申
曹丕→オバケ
曹植→ジョン・レノン
決まりだなwwww
ネ申 は自分家で酒つくってたのか?
曹家は金持ちだからできそうだけど。
乗り遅れ気味だけどお化けネタを一つ。出展は「捜神記」
濡須水の河口に大きな船がある。その船は水中に転覆しているが、水がひいたときには船体が現れる。
古老は「あれは曹公の船だ」と言っている。
あるとき漁師がその船のそばで一夜を過ごそうとして、自分の船をつなぎとめた。
すると笛や琴の音が響き、歌声が聞えるうえに、この世のものとも思えぬいい香りがただよって来る。
そして、漁師が眠りこんだと思うと、夢のなかで誰かに追い払われた。
「お上の妓女に近寄ってはならぬ」と言うのである。
言い伝えによると、曹公が妓女を乗せていた船がここで転覆し、今も残っているのだ、ということである。
あのおっさん、死んだ後も濡須口で妓女を侍らせて宴会してたらしいw
懲りないというか何というか・・・
>>518 追い払ったのは許チョか!…いや典韋か?
絶対どっちかだと思う。
一日見ない間に何があった?!w
もう一個六朝志怪小説に載ってた『列異傳』。こっちはちゃんと三国志。
蒋済さんの話。コレどうにも手に負えない(何しろ返り点はついてるけど送りがな
ついてないから…)んで白文べたーっとうpするんで誰かなんとかしてくれ。
蒋済字子通、楚国平阿人也。仕魏爲領軍将軍。其婦夢見亡兒、涕泣曰、死生異路。
我生時爲卿相子孫。今在地下、爲泰山伍伯、憔悴困苦、不可復言。今太廟西、謳士
孫阿、見召爲泰山令。願母爲白侯屬阿、令轉我得樂處。言訖、母忽然驚寤。明日以
白済。済曰、夢爲虚耳、不足怪也。日暮復夢、曰く、我来迎新君、止在廟下、未發之
頃、暫得来帰。新君、明日日中當發。臨發多事、不復得帰、永辭於此。侯氣彊難感
悟、故自訴於母。願重啓侯。何惜不一試験之。遂路阿之形状、言甚備悉。天明、母
重啓済、雖云夢不足怪、此何太適。適亦何惜不一験之。済乃遣人詣太廟下、推問
孫阿。果得之、形状證驗、悉如兒言。済涕泣曰、幾負我兒。於是乃見孫阿、具語其
事。阿不懼當死、而喜得爲泰山令、惟恐済言不信也。曰、若如節下言、阿之願也。
不知賢子欲得何職。済曰、随地下楽者與之。阿曰、輒當奉教。乃厚賞之、言訖遣還。
済欲連知其驗、従領軍門至廟下、十歩安一人、以傳消息。辰時、傳阿心痛、巳時、
傳阿劇、日中、傳阿亡。済曰、哀吾兒之不幸、且喜亡者有知。後月餘、兒復来語母
曰、已得轉爲録事矣。
なんかあの世で役人やってる蒋済の子供がお母さんの夢に出て、仕事手伝ってくれ
る歌手の人をつれに来たとかそんなん?
>>481 列異伝の年号の整合性について考えてみた
(1)普通に誤記
本来は建始・永始・元始・初始(いずれも西漢の年号)だったのが誤って書き写された。
列異伝には甘露年間(256-260)とされている話もあるけど、西漢にも甘露という年号があるので
勘違いされた可能性がある。
(2)後世の文章が誤って紛れ込んだ
錯簡や脱簡によって別の時代の文章が列異伝の一部として誤って伝えられたのかもしれない。
特にあの手の短編小説は1・2編が入れ替わったとしても違和感が無いだろうし。
(3)実は曹丕以外の人間が書いた
個人的にはこれが一番確率が低いと思う。
というのも、1800年以上も伝えられてきた文学作品でさまざまな文人・学者が
読み込んできたテキストなんだから、これまでに年号の矛盾が指摘されなかったはずが無い。
にもかかわらず今も魏文帝撰とされているということは、写本の系譜なり書誌なりから
「一部錯誤はあるにしても、大半は曹丕の時代に成立したテキストである」という根拠があるのではないだろうか。
この辺になると完全に専門家の領域なので、論文等を知っている人がいたら教えてホスィ
>>516 酒って質関係なく最低でも値段が元の穀物10倍くらいになったみたい
ある程度の資本力さえあれば酒造ってた方が儲かる
>>521 そのエピソードは魏書蒋済伝に収録されているから
ちくま正史に全文邦訳が載ってるよ。
>>521 ああそういえばちょっと注釈ついてたからそれも書いておく。
蒋済はいいとして…(よく考えたらこの死んだ子って曹丕どころか曹操も生まれた
時のことは知ってる可能性あるな)。
平阿…安徽省遠県の西南(なんか楚ってすげー南っぽい気がしてたけど沛国焦県
だって安徽省だわな。そういや荊州だって荊楚とか言われてたしな…狭いな春秋戦国
の中華って)。
領軍将軍…曹丕の時代に置かれた官。ということは領軍将軍の時代のことを曹丕が
知ってて違和感はない。
これは化けて出なくても書けるね。
>>525 よっし読んでみる。気になるし。
というか昔図書館で借りて全部読んだんだけどさすがに忘れてた。
言っちゃなんだけど本筋に何一つ関係ないしまあ忘れても仕方ないか…。
うひー
帰ってとりあえず孔融やりますたー
芸文類聚巻七十二の九より、孔融与魏武帝禁酒書
(白文)
後漢孔融難魏武帝禁酒書曰、
公初当来、邦人咸抃舞踊躍、以望我后、亦既至止、酒禁施行、
天垂酒旗之曜、地列酒泉之郡、人有旨酒之徳。堯非千鍾、無以建太平、孔非百觚、無以堪上聖。
樊噲解厄鴻門、非彘肩卮酒、無以奮其怒、趙之廝養。東迎其王、非引卮酒、
無以激其気。高祖非醉斬白蛇、無以揚其靈。袁盎非醇醪之力、無以服其命。
定國非酣飲一斛、無以決法令。故酈生以高陽酒徒、著功於漢、屈原以餔糟歠醨、身困於楚。
猶是觀之、酒何負於治者哉。
(適当書き下しorz)
「後漢の孔融は魏武帝の禁酒を難じ書して曰く、
公(こう)初まりて当に来し、邦人は咸(みな)抃舞(べんぶ)踊躍(ようやく)し、以って我が后(きみ)を望み、
亦(また)既に止むに至りて、酒を禁ずるを施行し、天には酒旗の曜(かがや)くを垂れ、地には酒泉の郡を列(つら)ね、
人には旨酒(ししゅ)の徳有り。堯も千鍾(せんしょう)に非ずば、以って太平を建(たて)る無く、
孔も百觚(ひゃっこ)に非ずば、以って上聖に堪える無き。樊噲が鴻門の厄を解くに、
彘肩(ていけん)と卮酒の非ずは、以って其れ怒りを奮(ふる)う無く、趙の廝養(しょうよう)たる。
東に其の王を迎うに、卮酒を引(も)たざるは、以って其の気を激する無き。高祖が酔うて白蛇を斬らざるは、
以って其の霊の揚ぐる無き。袁盎の醇醪(じゅんじょう)の力に非ずは、以って其の命に服する無き。
国を定むるに一斛を酣飲せざるは、以って法令を決する無き。
故(いにしえ)の酈(れき)は以って高陽酒徒(こうようのしゅと)と生じ、漢に著しく功し、
屈原は糟を餔し歠(しる)を醨(すす)るを以って、身を楚に困(きわ)むる。
是れ猶(な)お之(これ)を観るに、酒に負わずして何ぞ治むる者哉(かな)。」
(適当訳orz)
「後漢の孔融が曹操の禁酒例になんくせをつけて手紙をかいていわく、
世の中がはじまってから今までというもの、わが国の者はみな手をうち喜びに踊りあがり、
そうやって我がきみに拝謁しており、またその習慣を止めるにあたっては、禁酒政策をおこない、
天にはひかりかがやく酒屋ののぼりばたが垂れ、地には酒の泉を町々とならびつらね、
人には美酒のありがたい徳があったのです。偉大な王さまの堯も数かぎりなくいらっしゃったわけではないので、
そうやって(たくさんの尭帝によって)太平な世の中をつくれるわけではなく、
孔子も百のさかずきを検分したわけではないので、そうやって(たくさんの孔子によって)
りっぱな儒者をそろえて仕事にあたらせることはできないのです。
樊噲が鴻門の会で劉邦をたすけるのに、豚の肩肉と大さかずきがなければ、
彼はあんなに怒って活躍することができずに、趙王の使い走りであったでしょう。
東にその王さま(劉邦)を迎えるにあたって、大さかずきも用意していないとあっては、
彼はその精神を発奮させることもできなかったでしょう。劉邦が酔って白帝の子である白蛇を斬らなければ、
白蛇の霊が劉邦を王さまにすることもなかったでしょう。袁盎がこい酒を飲んでいなければ、
景帝の命令にしたがって晁錯を討伐することもなかったでしょう。国をおさめるのに20Lぐらいは
お酒をたっぷり飲んまないと、法令など決められるものではありません。
むかし、劉邦に自分のことを世をすてた酒飲みであると言った酈食其は、弁論だけで
斉の国を説得して七十あまりの城を手にいれて前漢のためにいちじるしい功績をあげ、
屈原先生は楚辞の漁父のなかで、「何不餔其糟而歠其釃/
何ぞ其の糟(かす)を餔(くら)いて其の釃(こ)すを歠(すす)らざる/
なぜその酒かすを食べ、その漉し汁をすすらずにいられましょうか」として、その身を楚の憂国にささげたのです。
このような例をみていえることは、酒を飲まずにどうして国を治める者であるといえましょうか!」
>>528-529 もうもう、難癖というか、ただ単に孔融が酒のみたいだけだろうと(ry
禰衡とマブダチだけあって、こういうのをヘリクツというか才能の無駄づかいというですお!
こんなにすばらしく輝くような文章で、内容はオッサンが酒のみたいだけなんですからもうね何とね(ry
だいたい伝説の尭王や、自分の遠いひいひいじいさんだか何だかの孔子はともかく
(自分の先祖をさりげなくシレっとまぎれこませるなんて、顔の皮あつすぎ!)、高祖劉邦なんかはともかく、
屈原先生のさいごのくだりは、先生の関係者とかファンがきいたら本気で怒るぞww
といいつつ、へそまがり孔融のこの文章は(とくに酔っているときには)自分はたいへんに好きですw
「天に酒旗の曜(かがや)くを垂れ……」のくだりなどは、
星野鉄郎少年のかかげるパンツのZ旗みたいで、ばかすぎて感動するですwwwww
>>523 幽霊じゃなくてもいいのですね……どうなんでせう(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
>>522 Thxであります! よろしくであります( ゚∀゚)o彡゜
のこりは深夜やるます……orz orz orz
あーこの流れ、このスレ住人と植ーちゃんとあとついでに陸幾も呼んでネ申を讃える
酒に対して当に歌うオフとかやりたくなってくるなあ。
となると漏れなくネ申も来て、さらに果実酒類があると長男も来るな。
>星野鉄郎少年のかかげるパンツのZ旗みたいで、ばかすぎて感動するですwwwww
グレートなんだかしょっぱいんだかw
陸遜の子孫の陸機が曹操オタだったり
杜預の子孫の杜甫が諸葛亮ファンだったりで面白いなw
潁川陳氏の末裔の陳舜臣先生が曹家オタなのは流石だが
>>490 ああ〜これ蒼天航路の単行本のケツに描いてあったな
そこに豚の丸焼きのレシピもあって
(作中で荀ケに作ってやってる)
ゴンタ腹減らすな!と思ったもんだ
曹操の亀の歌が大好きで、酔ったら茶碗を箸でチンチン叩いて大声で謳いまくってたせいで
いつも彼の茶碗の一カ所が欠けておりました・・
の人って誰だっけ? 西晋の誰かだっけ?
この人もネ申ヲタだね
なんかへんだったですorz
>>528 ×亦(また)既に止むに至りて、酒を禁ずるを施行し→◎亦(また)既に酒を禁ずるを施行するを止むに至れば
>>529 ×またその習慣を止めるにあたっては、禁酒政策をおこない、
◎また、禁酒政策をおこなうことを止めれば、
偽陳思想曰、我善投此残藻、将待冨貴之争乱時過后哉。
我又同意、只潜於淵、待過冨貴者。
いいな〜幽霊と酒ネタ。
最近流れが速くてスレについて行けなかったけど、ぼちぼち出来上がったので
幽霊ネタをうpしてみます。
陸氏異林曰:繇嘗數月不朝会,意性異常,或問其故,云:「常有好婦來,美麗非凡.」
問者曰:「必是鬼物,可殺之.」
婦人後往,不即前,止戸外.繇問何以,曰:「公有相殺意.」繇曰:「無此.」
乃勤勤呼之,乃入.繇意恨,有不忍之心,然猶斫之傷髀.婦人即出,以新綿拭血竟路.
明日使人尋跡之,至一大冢,木中有好婦人,形體如生人,著白練衫,丹繍裲襠,
傷左髀,以裲襠中綿拭血.叔父清河太守説如此.清河,陸雲也.
sageでね
訳(相当噛み砕いていますorz)
陸氏の「異林」に言う、
鍾繇は何ヶ月か宮中に参内しなかったことがあり、気がいつもと違っていた。
ある人がその訳を問うと、鍾繇は「いつも愛らしい婦人が来ていてね、普通の美しさではないんだ。」と
答えたが、ある人は「それは亡霊です。殺すべきです。」と忠告した。
後に婦人が鍾繇のもとへ行ったが、鍾繇に近付かず、戸口の外に止まっていた。
なぜかと聞いたところ、「公は殺意をお持ちのように見えます。」
鍾繇「そんなことはない。」そこで真心を込めて呼び入れ、彼女はやっと入った。
鍾繇は思い悩み、彼女を可哀想に思ったけれども、ためらいながら腿を傷つけた。
婦人はすぐに逃れて新綿で血を拭い路を渡っていった。
次の日、人を遣わして血の跡を探させたが、ひとつの大きな塚があり、棺にあの愛らしい婦人がおり、
姿形は生きている人のようで、白の練絹のひとえ、朱で縫取りをした裲襠(チョッキのようなもの)を
着ていた。左腿の外側に傷があり、裲襠の中綿で血を拭っていたという。
叔父の清河太守がこのように話してくれた。清河というのは陸雲のことである。
「不忍」の解釈が「我慢できない」か「むごいことができない」か自信ナイ(´・ω・`)
そのうえちくまの影響をモロに受けています。
間違い等ありましたら諸兄の指導をおながいしまつ。
さて、酒を用意して1(ry氏を待とうか。
ぎゃぁぁぁぁああぁぁあぅぅぁ幽霊qwせdrfg
鍾繇は美女によわすぎとか、なぜ腿を傷つけるのかとか
陸雲たんはこの話もニコニコと笑顔満開でしゃべったのかなーとかいろいろと(ry
(なんとなく、典論自序と酒賦はすこし上のほうがしずかになってからうpしようかなと(ry)
(いや決してもうきょうはだめぽなわけsでは(ry)
それがいいと思う
ペースが速すぎても読む側もついていけないしw
>>320氏の言う、「若い嫁さんモエ」を意識してみたけどサッパリですた…。
って、もうそんなに進んだのか…。
やっぱり無理はしないでね>1(ry氏
vip嵐が収まるまで沈んでいよう
避難所はまとめさんにあるし
光栄から出てる「三國志X武将FILE」にて
(この本は、三國志Xプレイヤーの間でネタと化している迷書)
曹丕が結構評価されていた。
基本「三国志演義」準拠の本だけれど、色々なエピソードがかかれていた。
同書によると、「中国には詩人皇帝は『車に載せ斗で量る』ほどいるが、
小説家の皇帝は曹丕以外にはまずおるまい」なんて書かれてるw
中国において小説はその名の通り「小」説で、詩よりも低い位置におかれていたそうです。
また同書は「曹丕は曹植に劣らぬ文学者で、しかも文学者としても曹植と雪と墨のように違っていた」
また「文学に於ても超自然的な主題を好んだり、無頼文士的な自由を発揮するから
後世の士大夫、君子たちから散々に排撃された」と記しております。
更に更に、同書は「魯迅は『建安文学は慷慨と華麗とをあらわす、そのうち華麗は曹丕の主張するところだ』と述べている」
なんてかかれてます。
ただ、生憎この本は演義準拠なものだから、どれが正史のエピソードで、どれが演義の話か判別しかねるので残念。
ただ、曹丕は評価されている。
ろろろろr魯迅先生の魏晋風度及文章与薬及酒之関系ときいて、どこに沈んでおられましょうか
まえにも何回かちょっとずつ出しているのですが、
典論自序と酒賦うpがおわったら、週末に丸ごと(日本語訳だけ)うpするですー(・∀・)
オタフクで引き篭っているが週末は退屈しなさそうだw
曹操って酒の詩を読んだり酒を発明するから
酒好きかと思ったが禁酒令も出してるんだな
昼間楽しそうだったんだね!乗り遅れたよ(´・ω●)
>>548 酒は酒であってそれで腹をふくらませる訳にはいかない(一応カロリーもあるしいかん
こともないけど酔っぱらうしまさか毎日三食酒ってわけにもいかんし穀物のまま食うより
酒にしちゃうと目減りするし。上の九段仕込みwでも「たっぷりとお米を使って」みたいな
こと言ってたし)。
収穫量>>>消費量、ならなんの問題もないけど収穫量=消費とか収穫<消費とか
になってきたら酒作るの勿体ない。困る。
だから酒に使う分の穀物は普通に食えよ!ていうか兵糧にも回すぞ!酒醸したら足り
なくなるんだよヴォケが!!とかそういうことでしょう。
ネ申的には、どうしてもまとまった金が入り用になってその分の金を浮かすために、派手
好きなのに必要最低限のケチケチ生活してたら同居人に「辛気くさいよーパーっと使おう
よ!楽しいよ!」とか言われたような感じだったろうなと思う。
>>510 酒話蒸し返して申し訳ないが、
現代日本なら酒の元になる水を冷やすことによって、発酵菌以外の雑菌の働きを抑えるとか聞いたことある。殺すんじゃなく。
(暖めるとウィルスは機能停止してしまうってのと似た感じで)
で、寒さに強い発酵菌が澱粉だか(米の成分)を糖に変換。
このときには水暖かくなっても良い。暖かくなると、糖をアルコールに変換する菌登場。糖がアルコールに。
発酵菌以外の雑菌はアルコールたくさんだと何も出来なくなるから退場。
不純物取りのぞく。
酒完成 ウマー
だとか。間違ってたらスマソ
現代だとかなり冷やすっぽいので、当時の寒さで上記のようになるかは不明www
同居人が孔融かw
これからという時に孔融スレは落ちてしまったが
噂に違わぬ変人だなwww
>>530は本気でむかついてないか?w
住人乙!だがスレ速度速すぎw
漢文読むの苦手だからゆっくり頼むぜw
>>545 ほ〜…どんな風に迷書なのか興味湧いてきた。ちょっと探してみようかな。
>>550 ネ申がそうやってケチケチ生活をしている隣で
倅は「葡萄の酒は甘くて二日酔いしなくてウマー」とか
「やっぱり梨は真定に限る」とかやってた訳か・・・
そりゃ親子仲も悪くなる罠w
別に親子仲悪くないぞ
曹丕は曹操ラブラブだし
>>556 ラブラブというか、人生最大のライバルという印象がある…。
父親コンプレックス丸出しの手紙を書いているし。
>>465 >用面三十斤
の面は『全三国文』の影印本では、印刷がかすれていて読み辛いが
「麪」に見える。この字は「麺」の異体字で、更に大陸の簡体字では「面」の字に
なったはず。
じゃぁ、「面」=「麺」でFAかというと、『百三名家集』所収の「魏武帝集」では
「麹」に字になっている。
この文章の出典らしい『北堂書鈔』一百四十八と『文選』南都賦注を
ざっと探してみたが、見落としだと思うがこの部分は見つからんかった。
あと「清曲」「曲滓」の部分は、『全三国文』の影印本では
「清麹」「麹滓」になっている。
「麹」も簡体字では「曲」になるらしい、今調べて始めて知ったw
『斉民要術』巻七 笨麹餅酒第六十六(龍谿精舎叢書本)にもこの文章が引用されていて
『全三国文』と多少文面が違うので引用しておくと
魏武帝上九醞法奏曰、臣県故令九醞春酒法、用麹三十斤、流水五石、
臘月二日清麹、正月凍解、用好稲米、漉去麹滓、便醸法引、曰譬諸虫、
雖久多完、三日一醸、満九石米止、臣得法醸之、常善、其上清滓亦可飲、
若以九醞、苦難飲、増爲十醸、易飲不病、九醞用米九斛、十醸用米十斛、
倶用麹三十斤、但米多少耳、治麹淘米、一如春酒法
学生時代のうろ覚えによれば、『斉民要術』は日本人の訳だか解説だかが
あったはずなので、正確な訳が知りたければ図書館などを探してみるのもいいかも
何という分かりにくさ…絶対分からんだろww<曲
つ(4)やっぱり幽霊
…曹丕ならありそうでさv
曹操がネ申というより郭芝がネ申なんじゃね?
スレがものすごいカオスだw
>>531 対酒当歌offいいなあ〜v
幽霊参加者をどうやって募るかが問題だけど
>>493 上機嫌で米を発酵させているちっちゃいオッサン萌えvv
済みませんorzもっとゆっくりとやるです……
>>558-559 Thxであります!! うあーなるほどです。とりあえず
>>490だけ訂正しておきますー。
あと×九醞を以つ若(ごと)きは、飲むは苦く難し→◎若(も)し九醞を以って飲むに苦く難しは かもorz
(
>>465の
>>490適当訳訂正orz)
「わたくしの県のまえの県令の南陽の郭芝は、九醞春酒法を知っていました。
6.7kgほどのコウジをつかい、101.15Lの水を流して、12月2日にコウジを洗っておいて、
正月に凍っているところを溶かします。たっぷりとお米をつかって、 コウジのかすを漉しとって
醗酵(醸造)させ、こうして飲めば、 虫がたくさんついていたとしても完全にいなくなります。
三日にいちど醗酵させ、178.29Lになったらお米を追加するのをやめます。
わたくしの知ったこの方法は、醗酵がいつもよくでき、しかもきれいで酒かすもまた飲めます。
もし九回醗酵させたものが、飲むには苦くて難しければ、回数をふやして十回醗酵させれば、
ずいぶん甘くなって飲みやすくなり、不快になりません。今、つつしんで(この方法を)献じたてまつります。」
567 :
1(ry:2007/02/23(金) 07:32:14
張平子の南都賦は、上海古籍出版の李善注文選だと、
「於顕楽都、既麗且康……(於其陂沢、則有鉗盧玉池……其原野則有桑漆麻苧……)」のとこのさいごのとこが、
「……酒則九醞甘醴、十旬兼清、醪敷径寸、浮蟻若蓱、其甘不爽、酔而不醒。」
(適当書き下しorz)
「於(ああ)顕(あき)たかなる楽都、既に麗(うるわ)しく且つ康(やす)く……
……酒は則ち九醞(きゅううん)の甘醴(かんれい)、十旬(じっしゅん)の兼清(けんせい)、
醪(ろう)は径寸に敷(ひろ)がり、浮蟻(ふぎ)は蓱の若(ごと)く、其は甘く爽(たが)わず、酔うても醒めず。」
(適当訳orz)
「ああ、あざやかで楽しくすばらしい南陽の都、そこはうるわしくそしてやすらぎの地です……
……(南都には)お酒には九段じこみの甘酒と、百日かけてできる清酒があり、
にごり酒はさしわたし2.3cmほどに(滓が)ひろがり、醗酵して表面にういている泡は池のウキクサのよう、
とても甘いのに(お酒としての)味をそこなわず、酔っても二日酔いになりません。」
となっていて、そこの注に曹操の名がちらっと出ているだけみたいですorz。
曹丕はおしえていただいた
http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/so_hi/grapes.html で、
葡萄をほめて、「又醸以為酒.甘于麹蘖.酔而易醒
/(ブドウは)醗酵させてお酒にすれば、麹酒のように甘く、酔っても二日酔いしません)」
といっているので、南陽にいたときにネ申のつくったお酒を飲めたならば、とても気に入ったでせうw。
>>567 ×顕(あき)たかなる楽都→◎顕(あき)らかなる楽都
南国ムードたっぷりで、うまそうなものが列挙されまくりな南都賦がすきですw。
ネ申と妖怪味皇様は仲が悪いとよく聞くけど、
実は仲良かったと想ってる俺がいる。希望も入ってるけど
というか、
曹丕→曹操 ものすごく敬愛しているけどものすごくコンプレックス
曹操→曹丕 あんまなにもかんがえてない さあいっしょに飲もう!
って感じだったんじゃないかな
>>1さん
>>535が気になるので知ってたら教えてください!
1氏じゃなくてもいいんだぞw
一日見ない間にものっそいコトになってるな〜。
週末一気読みスローペース派にも着いて行ける時間をクレw
>>565 凄い通称だなw
しかし、仲が良かったのならあの継承者争いは何だったんだ?と考えてしまうのだが…
嫡子の曹丕をなかなか太子に立てずに曹植や曹沖を跡継ぎにしようとしたのだから
仲が良くなかったのでは?と自然に思ってしまうのもおかしくはないよなあ。
あくまで周囲の取り巻きが騒いだだけで、
それほどすごい跡継ぎ争いではなかったのではないか?
曹植に詩才があったから
(その才能で曹操にひいきされてると勘違いして)
そこに取り入る奴が結構いたようだね
詩才だけじゃないんだが…
曹植は文武に長じていた
また魏朝での評価は「武の曹操、文の曹植」
この場合の武は軍事、文は政治という意味な
関羽北上時に曹植にスクランブル発進させようとしたら酔いつぶれてて使い物にならなかった事が
その後の人生に大きく影を落としてる理由じゃないかな