1 :
無名武将@お腹せっぷく:
三雄のことなども含めていろいろ語りましょう。
2 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/10(火) 17:34:22
三雄って誰?
事実上の天下分け目の決戦だから。
しかも三者いっぺんに勝負と来たもんだ。
氾水と虎牢は同じ?
李世民英雄伝説完、って感じの戦いだね。
ただ人間的には、頼りになる豪傑肌の竇建徳の方が魅力的かな。
捕虜になっちゃったけど。
>>5 虎牢は、現在の河南省榮陽の氾水鎮付近に当たる。
袁術が孫堅に兵糧を送らなかったって無双であるけどマジ話?
虎牢の戦いは、虎牢(現在の河南省榮陽西北の水鎮)一帯で繰り広げられた、唐朝の統一戦争の中で、最も要となった一
戦である。
唐高祖の武徳4年(621年)、唐軍は東都(現在の河南省洛陽)に王世充を囲む。河南の五十余州は相次いで帰降し、王世充は
夏王竇建徳に援軍を求めた。竇建徳は10万余の大軍を率いて西進し、周橋(現在の山東省曹県付近)、管州(現在の河南省鄭
州)、榮陽(現在の河南省榮陽西南)、陽翟(現在の河南省禹県)を次々と攻め破った。李世民はすぐさま李元吉、屈突通等の将
に洛陽の攻囲を続けさせる一方、自ら軍勢を率いて虎牢に至り、時期を待って、両軍は一月余り対峙する。この時、夏軍は長期
化に耐えられず、人心は動揺し、国子祭酒凌敬は竇建徳に作戦計画を変えるに進言した。主力を率いて黄河を渡り、懐州、河
陽を攻略し、再び反転して太行山を越え、上党に入って、汾陽、太原、下蒲津(現在の山西永済西)を占領するというもので、“こ
の作戦には3つの利点がある。1つ目は、無人の地を進むので、勝ちを収めるのは万全である。2つ目は、領土を拡張して民衆を
収めて、勢力を増強することができる。3つ目は、関中を震撼させて、鄭の包囲は自ずと解ける”とした。ただ、諸将が反対したた
めに、竇建徳は(献策を)受け入れることができず、凌敬は理詰めで大いに論議したが、無駄だった。
唐軍は、竇建徳が、唐軍が食糧を使い果たすのを待っていることを知り、黄河の北岸へ渡り、広武(現在の山西境内)南境へ達
し、千匹余りの馬を河辺に放牧して竇建徳を誘い、晩になって再び群を率いて虎牢へ戻った。竇建徳はこの計にかかり、自ら全
軍を率いて板渚(現在の榮陽北、黄河南岸)に西進し、正面に広がること20里、鼓を打って戦を挑んだ。李世民は時期を待って、
少しの兵であしらった。昼頃になって、竇建徳軍の兵士は疲れと飢えで皆座り込み、また水を飲もうと争い、秩序が大きく乱れた。
唐軍はそれを待って反撃に出、3000の鉄騎で直接敵の陣営を突いた。竇建徳は諸将と会議の最中で、陣は大いに乱れた。唐
軍は30里に渡って追撃し、竇建徳は負傷して捕虜となり、一挙に竇建徳を打ち破った。唐軍の主力は再び洛陽城へ戻り、王世
充も竇建徳軍が殲滅されたのを見て、城を献じて投降した。
ttp://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%99%8E%E7%89%A2%E4%B9%8B%E6%88%B0
陝西の李世民(李淵)、河南の王世充、河北の竇建徳と見るに、
この頃はまだ黄河流域が天下の中心地だったんだなと思う。
このスレも三国時代は語らずか
× 三国時代(魏・蜀・呉)
○ 三国時代(唐・鄭・夏)
>>11 うおおお! 李孝恭のことをぜひ、ぜひ思い出してあげてください!!!
李世民が華北統一戦争を行っていた頃、華南にあって、李靖や李世勣らを率いて平定した、豪放磊落な男ですぞーーーー!!
15 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/10(火) 19:56:37
世界史板でやれよクズ共が
>>10 日本語版にも作らないとな。
正直、それの丸写しはちょっと危なそうなので、
多少資料調べしないといけないだろうけど。
>>15 世界史板でだと、三戦板でやれよクズ共が、と言われるよ
一大決戦なのに、李密がいないのは寂しい
>>5 三国時代のシ水関の場所にあるのが唐代の虎(武)牢関
>>18 李密って意外なほど早く消滅しちゃうよね。惜しい人を…
李密は人物としてかなり魅力的だからね。
この隋末戦乱の最終局面まで残って欲しかったね。
22 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/12(木) 23:10:52
李世民は、竇建徳の本拠地である河北に攻め入れば、敵地での戦いは不利になるだろうから、
王世充討伐と同時に、竇建徳を河南まで誘い出し、一気に同時に二大敵を屠ることを画策し、
見事成功。
功績が誇張されているとの批判はあれど、やっぱ凄いな。
竇建徳って、頼りになる兄貴、侠気のある豪傑肌って感じだけど、
中国では乱世になって群雄割拠の様相を呈する時に、
こういう人が出てくることが多いね。
張士誠とかもそんな感じだし。
李世民っていつも同じような方法で勝ってるよな。
じーっと待って相手が倦んできたらガツンっていう。
始如処女 後如脱兎
友達にするなら竇建徳だな。
李世民は、何だか裏切られそうだし。
兄弟も殺すぐらいだから。
そうかな。 兄弟は殺しても有能であれば部下は殺しちゃいない。 無能なら知らんが。
それに兄弟以外の親類には手を出していないだろ。
放っておいたら自分が殺されたので(ゆるぎない功績があるから、韓信のように危険視される)兄貴を排除したに過ぎん。
友達となっても彼の地位を脅かさなければ、適材適所で使ってくれるに違いない。
そもそも性格が一般大衆受けする宋太祖も、建国時は自分より目上だったものを謀反に追いやって殺してるし、友と言った趙普を遠ざけたりもした。
だいたい皇帝や権力者に友達とよばれては危険なんだよ。
天下統一して皇帝になるような人って本当の友人はいなそうっていうか作らないよな。
部下として非常に信頼している、とかならともかく、個人的な人間関係は築くべきでない。
理想的君主である自分がダイスキ!な李世民は特にそうなんじゃないかと思ったり。
29 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/14(土) 23:30:17
李世民はかなり後世での評判気にしたようだしね
まあ、その目論見はだいだい達成されたんでないの
隋末三国志(唐・鄭・夏)
31 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/17(火) 08:25:19
李世民(李淵)、王世充、竇建徳の三人の他にも、
群雄は数多くいたからなあ。
三国志にしてしまうのはきつい。
唐太宗=強化版煬帝ってイメージが強いな、俺は
あんまり二代目らしくない二代目だよね
李建成が順当に帝位についたら唐は質実剛健な王朝になったんじゃないかな?
>>32 質実剛健は李世民の持ち味ですが…
さらに自制、質素とくれば、どう見ても煬帝2ではないことは明白… つか、煬帝を反面教師にしてるわけだが…
質実剛健だったのは建国当初、内乱で国力が低下していたから、
そうせざるを得なかったという面もあるだろうけど、
李世民と楊広が似ているというのは、無理があるな。
似てるのは兄貴殺しくらいだろ。
外征に失敗しても、さすがに3度もやっちゃいない… 煬帝は狂いすぎ。
だから煬帝を目の当たりにしたから「自制」「質素」を自分に課した>李世民
本質的には李世民も自尊心が高く、英雄嗜好だろ
>>36 普通、そんな自制はなかなかできないものじゃないか?
それを継続したことをもって、偉大と言っても差し支えないでしょ。
もともとの資質が英雄的でなかった劉秀とかに比べ、李世民は無理してるという見方もできるが、そんなものは個性の差でしかないわけなんだ。
だが、質実剛健な感じは李世民が、体が弱く持病もちだったらしいことに由来すると思う。 これは後天的であるにせよ李世民の一側面になったように思う。
で、自尊心の高さも有り、後年の高句麗遠征の挙に出てしまった。 と、しかしそこで反省できるところが、また賢明な側面でもあった。
わざわざ偉大と返してくるあたり
煬帝を過小評価してないか?
そんなつもりはないよ。 大運河に関していえば、後世、柴栄の南征・北伐で大いに役立ってますから、煬帝さまさまです。
未知数の李建成と比べて云々という話。
大運河は本当に役に立ったねえ。
唐は、煬帝の暴走によって生じたいい面での成果をまんまと手にした一面もある。
隋唐ってよくセットで言われるけど本当だよね
隋「俺を踏み台にしたぁ!?」
43 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/19(木) 21:37:55
第一、楊氏と李氏は親戚だしね。
政治的に見て、唐は隋を踏襲しているから、セットものなんだよね。
45 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/21(土) 01:34:01
竇建徳のような成り上がり者は、支配層、知識層の支持を取れないと、
天下は取れないね。
>>35 >>37 すまん。 訂正します。
李世民は高句麗遠征を都合3回やってました。
西暦の645年、647年、648年。
規模は煬帝のよりかなり小さく、10万ほどの遠征だったそうだけど、太宗が晩節を汚したと言われる根本の理由がコレ。
煬帝のように国内を乱してはいないけど、汚点であることには違いない。
高句麗は後年、武則天により足掛け10年の歳月をもって滅亡させられた。南無。
47 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/21(土) 23:35:35
政治家としての力量は武則天の方が上かもね。
実質半世紀の治世で、朝廷内の政争はともかくとして、国内は乱れなかったし、
対外的にも実績を上げている。
武則天に勝てる奴の方が少ないだろう
玄宗の前半を支えた連中も、武則天が育てたようなもんだし
49 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/23(月) 11:22:07
世界の歴史上でも最強の女の一人だろうからな
女→権力者