1 :
無名武将@お腹せっぷく:
古来より襄陽は、関中(陝西)、中原(河南)、長江流域の三つの地域を結ぶ、漢水に臨む要衝として、対岸の樊城と合わせて
発展してきた都市である。同時に、数多くの戦乱の舞台となってきた。
三国時代には、魏、蜀、呉が盛んに争奪戦を繰り広げ、南宋時代には、北方の金、元に対する最重要防衛拠点として、激し
い攻防戦が展開された、まさに兵家必争の地であると言える。
このように激動の歴史を潜り抜けてきた襄陽の歴史について語れ。
>>1は移しといたから、ここは廃棄な。
ゴミスレを一つ落としたのはGJ。
4 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/21(木) 12:59:13
>>1 襄陽は政治・軍事の中心で、漢水の対岸の樊城が商業の中心になっているんだよね。
それで今は合併して、襄樊市という一つの都市になっている。
三国志の時代、南宋の時代に加えて、明の時代の末期にも、
李自成の反乱軍が開封を水没させた後に、襄陽に攻め入って占領し、
順王と称して政権を樹立し、襄陽を襄京と改めて首都にしている。
ただ、すぐに西安に移ったために、明軍に奪回されたけどね。
清の乾隆帝の時代から嘉慶帝の時代にかけての、白蓮教の乱の時にも、
この辺りは戦場になっている。
襄樊でもっとも勇名なのは、呂文煥だよな〜。
>>8 ちょwwwwwwwww郭靖ってwwwwwwww実在してないしwwwwwwww
でも、知名度となると郭靖かも・・・
襄陽城をモンゴル軍の攻撃から守ったのは郭靖だ、って本気で信じている中国人かなり多いらしいね。
金庸の射雕英雄伝〜神雕侠侶のシリーズは、数年ごとに何度もドラマが作られているほどの人気で、
凄まじく浸透している。
呂文煥、可哀想に…
襄陽城の守将呂文煥は元朝に投降して、フビライに仕えているけど、
5年間も元軍の猛攻に耐えた末の降伏だから、あまり非難されていないね。
12 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/23(土) 23:24:36
襄陽の歴史の中で一番重要なのは、やっぱり三国時代の争奪戦より、
宋と元の攻防戦だろうね。
襄陽を失ったことで、南宋は元の攻勢に耐えられず一気に瓦解、
崖山の悲劇によって三百余年の歴史に幕を閉じた。
昔、ある本で南宋の防衛システムはマジノ線の類似って読んだ記憶あるな
14 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/24(日) 23:23:30
モンゴル軍は襄陽城攻撃で回回砲を使ったね
回回砲の攻撃は有名だけど、実際は、
漢水を封鎖して、襄陽と樊城の連絡を断ったことが、
襄陽攻略の決定打になったみたいだよ。
この襄陽城の陥落で、事実上宋の命運は定まったんだよなあ。
途中で、事実上の断絶があったとは言え、何だかんだで300年も続いた王朝。
太祖の趙匡胤からして酔っ払っている間に皇帝になったという逸話の主だし、
いろいろと面白い時代だよなあ。
>>16 そうだね。 皇帝の系列もおもしろい。
北宋の二代目以降は太宗系で、南宋の二代目以降は太祖系。
暴君が輩出されなかったおとなしい政権だったけど、それが禍してか対外的には弱弱だったし。
官僚の冗員過多や、蔡京とか秀才のくせにバカというあたり、なんか現代にも通じるものを感じるなぁ。
18 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/27(水) 17:59:30
文化的にも、今の中国の文化に直接通じる基礎が作られた時代だしね。
この時代から、庶民の文化が花開いた。
水滸伝、楊家将、説岳全伝、包公案等面白い物語も、みんなこの時代を舞台にしている。
>>5 李自成はなぜ襄陽を捨てたのかな?
難攻不落なら、拠るのに向いていると思うけど。
他に火がついてるのに難攻不落の城に篭たって
21 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/30(土) 19:47:00
李自成は基本的に流賊だからね。
流賊は動きを止めると、途端に弱くなる。
動き続けてこそ流賊の強みが発揮できる。
黄巣も各地を荒らし回っている時は勢いがあったのに、
長安を占領して居座ってから、途端に打たれ弱くなったね。
移動している時は、朝廷側も動きを捕捉しにくく、討伐しづらい。
特定の地点に拠点を構えると、捕捉しやすくなり、討伐しやすい。
>>22 そうか。 組織として軍団としてまとまりに欠けるから、拠点を得ると脆いのかな。
24 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/02(月) 14:46:15
李自成も結局、北京を占領した後はぐたぐだになっちゃったしね。
元が、盗賊の集まりみたいなものだったし。
>>6 そのドラマ、DVD見かけているけど、金かけてるわー。
日本のドラマで、あれだけの映像はありえない。
北宋期の襄陽ってどうなっていたのかな?
あまり歴史に出てこないように思うけど。
27 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/04(水) 20:10:44
三侠五義の中じゃ、悪役で襄陽王なる者が出てくるね。
架空の存在ではあるけど。
ただ、本気で天下を獲る(支配者になる)のなら、どこかで根拠地を得て流賊から
脱却する必要がある。
流賊のまま首都を落したりすると、その後の行動目的がなくなって停滞してしまい、
統治の経験がなく行政機構もなしにそうなれば崩壊するしかない。
赤媚、黄巣、李自成などがそうか。
275 :無名武将@お腹せっぷく :2006/10/04(水) 17:06:58
流賊ってのは、皇帝を自称した奴は多いけど、
結局長続きする政権を立てられた奴はいないね。
旧政権を倒す役割は果たせても、新たな政権は立てられない。
30 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/06(金) 17:50:43
モンゴル軍は襄陽を攻めた時、疫病に見舞われたりしなかったのかな?
北方の遊牧民だったら、南方の風土には不慣れな感じだし。
漢人(旧金人)の兵がそれなりにいたんじゃないの。
モンゴル人だけだと人口少ないだろうし。
32 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/07(土) 15:23:56
モンゴル兵は攻城戦に慣れていない感じだしね
それでも金や西夏を征服したり、西方への遠征の過程で、
相当な攻城経験を積んだと思われる。
34 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/10(火) 11:59:25
襄陽城攻防戦は、中国戦史上に残る重要な戦い
無理矢理三国志に絡ませると
後の時代に襄陽が南北の要になったことは周知の事実だが
そういう先達が無いのに、いち早く襄陽の重要度が判っていたのが周瑜
その点で後漢末三国時代における周瑜の軍略眼は突出してると思った
>>34 襄陽城を失ったことで、南宋の対元防衛線は一挙に崩壊したからね。
後は崖山の悲劇へと。
機動防御ならよかったのにね
清代の白蓮教徒の乱も、襄陽の辺りで、蜂起が起こったんだよね。
39 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/13(金) 00:19:40
王聡児とかいうおばさんが夫の仇だとか騒いだんだっけ
機動力なら、当時はモンゴル軍が最強と思われる
だからこそ、あれだけの巨大帝国が誕生したんだし
42 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/15(日) 11:22:59
敵の動きに合わせて動く、移動要塞襄陽城w
43 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/15(日) 12:01:30
次の襄陽城の戦いは、
華南民主共和国国防軍 vs 中華人民共和国人民解放軍によって行われます。
>>34 中国戦史上の十大戦争に入れてもいいと思う。
>>13 遅レスだが、それは多分、「戦略戦術兵器事典 中国中世・近代編」だと思う。
手元に無いから断言できないが、確か指摘してたのは有坂純氏だったはず。
南宋は4つの軍管区に戦力を分散配備し、且つ、戦力を国境線に重点的に配置しており、
しかも予備の機動戦力が皆無だったから、縦深や自由度が全然取れてなかったと。
また、軍管区間の連携もとるのが困難だったらしい。
全国境線に亘って戦力を配備するのは、いわゆるコルドン式(哨兵線式)の防御方式で、
マジノ線なんかもこれに当たる。
哨兵線式防御に関しては、クラウゼヴィッツの戦争論などに詳しく載ってる。
>>46 俺は南宋時代はさっぱりだけど、南宋の防衛システムって柔軟性が欠けてるんね。
おまけに優秀な武将がいても、奸臣が足を引っ張って邪魔するから。
賈某とかね
50 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/17(火) 23:54:27
>>46 つか、国境線が首都に近いよね。
長江を渡られたら、杭州まですぐだし。
かと言って福建や広東となると、
辺境の感は否めないか。
臨安府は、あくまで仮の首都で、本来の首都は開封府だったから。
仮のまま、百数十年も続いたわけだけど。
最初は江寧府(南京)も、首都の有力な候補だったはず。
江南に割拠した歴代の王朝が都を置いた場所だから、
だけど、やっぱり国境線への近さが嫌われて、杭州が選ばれたんじゃないかな。
三戦板で語るつもりならもう少し三国志の時代を中心に語れよ。
そのつもりがないなら世界史板でやりなよ。
長江、漢水が戦略や国防に重要なのは、地形がそう変わらないはずの三国時代でも一緒でしょ。
なにを目くじらたてますか。
自治気取りなので生暖かい目で見つつスルーしてやって
55 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/20(金) 07:13:39
>>51 南京に都を置いた王朝って、長続きしてないんだよね。
明は、すぐに靖難の変が起こって、北京に移ったし、
太平天国も滅亡。
それと、軍事力の中心はどうしても北方の長城線上に集中するので、
それを制御するためにも、江南に都を置くこと自体、全国政権としては好ましくないらしい。
その軍事力の焦点が昔はモンゴルで、今はロシア、てことか?
前から思ってたんだが、どうして南だけで独立しないんだろうな?
昔はともかく、科学技術の発達した現代社会でならどうにか出来ると思うんだけどな
58 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/21(土) 01:15:12
始皇帝の統一以来の伝統じゃないかな。
昔は、遊牧民の圧迫という現実に迫られての必要性があったのだろうけど、
長い間続けているうちに、もう意識が根づいて消せなくなったとか。
現代でも独立しようとすれば戦争だろう
台湾見てみ
国ってイデオロギーの問題だから
華北と華南じゃ、そりゃ格差もあるし、歴史的にいがみ合った時期もあるけど
だからって別々の国を建てる程でもないだろうよ
襄陽城を守った呂文煥は、賈似道の策謀によって援軍が得られず、
結局降伏に追い込まれたわけだけど、
もし援軍があったら、後どれぐらい持ちこたえることができたかな?
62 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/21(土) 23:32:22
多少、抵抗する時間を引き延ばせても、
どの道襄陽が攻め落とされるのは時間の問題だったと思うよ。
モンゴル軍は四川とかにも侵入していたし。
63 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/23(月) 08:30:01
襄陽が陥落したのは、漢水が封鎖されて、襄陽と対岸の樊城との連携が断たれたのが、
決定打となったから、援軍はあまり関係なかったと思う。
ちなみにモンゴル軍の回回砲による攻撃は有名だけど、それ自体は襄陽攻略の決め手とはならなかった。
襄陽は、樊城と一体となることで機能する都市だったということ。
現に、今じゃ襄陽と樊城は合併して、襄樊市になっているしね。
64 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/24(火) 01:46:28
このスレも、結局半分以上がわしの自演かいな
65 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/24(火) 17:39:27
66 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/24(火) 20:48:21
67 :
モカ茶98世大納言: