三国時代の文学スレッド

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131総合スレの135
>>129
通スレ、おもしろくて自分も好きでしたw。
自分は寡聞にして、これが直接馬超の手になる原文なのかは知らないのですが、
『蜀書』馬超伝によると、馬超は47歳で没するにあたって

「臨没上疏曰 臣門宗二百餘口 為孟徳所誅略尽 惟有従弟岱当
為微宗血食之継 深託陛下 余無復言」

(死ぬにあたって、劉備に手紙をしたためていわく、
「私の一族郎党二百余名は曹操のせいで殺され尽くされたために、
ただ今あるのは従弟の岱(馬岱)だけです。この滅びかけた一族のために、
(岱に)我々の祖先をまつり継がせて下さるよう、深く陛下に託し申し上げます。
他に重ねて申し上げることはありません)

と、このような手紙を書いたという記述があります。
遺書つづきですが、この文章を周瑜の遺書と比べると、
疲れというか無力さと衰え、非常な無念さ、一族を護れなかった家長の責任感とともに
彼の身に染みついた名族の高い地位と誇りを感じずにはいられませんね。
こんなはずじゃなかったんだ、と叫ぶ馬超の高いプライドが表れているように思えます。
周瑜の遺書のようにそこまで謙虚にへりくだっていない文章も、
原文なのかは分かりませんが、とにかくこの文章が蜀志に残っているのですから、
劉備に降った馬超がいかに下にも置かない待遇で扱われていたのかと思えます。
周瑜の文章は、志半ばにして病魔に倒れたにせよ、彼の人生は概ね彼の本意であり、
また、彼自身が自分の人生についてそう捉えられる大きく構えた
穏やかな人だったように思えるのに対し、馬超のこの文からは、
彼の激しい性格と高いプライドと、それが折られた不本意さが感じられます。
周瑜とぜんぜんタイプが違うのですが、自分は馬超のこの不本意さというか
なんとなく項羽っぽい孤高のイメージにも、なぜかとても惹かれます。

皆さんいつもthxです! そいでは、また。