>>15 文字は読めないけど知能は普通に高いだろ?
17 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/01(土) 12:58:54
蛮族なので字が読めなかった。言語自体が違っていたのかもな。
署名できれば高級軍人としての書類仕事はできたんだろうから、姓名と官位くらいは書けたか?
>署名できれば高級軍人としての書類仕事はできた
できたのか?
>>14 偏屈な所もあったみたいだから、文字の勉強しなかったのかも
進められると逆に意地でもやらなくなるタイプか
21 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/01(土) 19:12:06
エリート馬食へのコンプ
蜀の将校の識字率ってどうだったのやら。
23 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/01(土) 23:53:39
世界のホームラン王 平
偏見だけど、勉強しなかった阿蒙てイメージがある
>>25 阿蒙は勉強するまえは頭普通だったけど勉強してかなりよくなったというイメージ
王平はもともと頭よかったのに勉強しなかったてイメージ
27 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/02(日) 17:30:26
王平は漢民族じゃないんだよな
28 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/02(日) 18:18:44
バイリンガルなんだから字くらい書けなくても仕方ない
29 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/02(日) 19:42:53
武力5知力5柵持ち大車輪戦法は神
でも最近使われてるの見た事無いけどな…
31 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/02(日) 20:22:55
王平かわいいよ王平
32 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/02(日) 20:52:56
王平について
「職人気質で短気だったらしく細かいことにこだわり狭量であったとされる。」
あれだけの武功をあげて重宝された人物の評価とは思えないのですが…。
どうなのでしょうか?
>>32 それは個人の性質が公にまで影響を及ぼしていないため。
歴史上をみてもそういった例はままある。
たとえ人間性にいささか問題があっても、自己主張が少なく確実に任務をこなす
人物は、君主や執政者が代替わりしても重宝されるもの。
たてつくわけではないのですが徐晃との一件は…。
街亭は孔明の命で任務をまっとうしていますけど。
36 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/02(日) 21:20:03
横柄な人でした
>>38 魏将と言っても曹操の張魯征伐の際に王平の所属していた陣営が曹操に帰順しただけって程度だからな。
故郷が劉備陣営に占められちゃえば曹操についてる理由もなくなったんだろうな。
40 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/02(日) 22:27:22
>>39 その時に蛮族(王平)が益州から涼州へ移住させられたんだっけ?
>>40 杜濩や朴胡はそのまま巴西巴東の太守に任じられてる。
ただしその後に張郃が巴西巴東の住人を規模はわからないが漢中に移住させてる。
涼州云々はもう少し後じゃないか?
あと王平は洛陽まで行って曹操の劉備討伐に従って漢中に赴いてる。
劉備に降ったのはその時だから、39ではあんなこと言ったが、魏将と表現した方が正しいかも。
親征軍のメンバーってやっぱスタメン扱い?
43 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/03(月) 09:38:47
>>32-33 学問がないことからの劣等感もあるだろな
漢人の奴隷としてどのくらい過ごしていたんだろ?
活躍のわりにはあんまり出世してないな
>>43 漢人の奴隷のソースは?
>>44 中央政界にこそ縁はなかったが、最重要地の一つである漢中の責任者になり、爵位も安漢侯まで昇ってる。
十分だろ?
人材がいなかったかもしれないけど鎮北将軍になってる(漢中の指揮をとる)
47 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/03(月) 12:18:51
多分彼はのちに中央政府に反抗的になった漢中府の軍人トップ
王平は蜀の人間から見れば「オレサマ オマエ マルカジリ」とか言いそうな野蛮人なんだから、口述で仕事できただけ凄いということだな
王平が精強といわれた益州の板楯蛮出身である可能性が非常に高いって事は
ここでは話題にならんね。
曹操が漢中に兵を進めた折、宕渠に割拠していた杜コと朴胡をはじめとする板楯蛮
が帰順したけど、彼らを宕渠から雍州の略陽に移住させている。
(典拠は華陽国志ね)
この略陽、実はあの街亭から直線距離で50キロも離れていない。
で話を戻すと、王平はまさに巴西郡出身。
宕渠に兵を進めたのは張コウ。
街亭で王平と対峙したのも張コウ。
彼は王平の手勢が寡兵ながら攻めきれなかったが、これも宕渠で板楯蛮の強さを
知りえていたと解釈すると実に面白い事になる。
蜀での王平の昇進と極官は寒門としては申し分ない。
蛮族出身者として考えれば破格といってもいい。
識字率の低さも出身と絡めて考えると納得できる部分が多かったりする。
板楯蛮が179年に反乱を起こした時、当時の皇帝・霊帝に配下の者が
昔、羌が漢州を攻めた際、郡や県は破壊されたが板楯蛮がこれを救援し
羌はほとんど戦死し壊滅した故。神兵と呼んだらしいです
>>49 詳しい情報サンクス。
華陽国志持ってないんで三国志以上の事は語れないのです。私は。
で、三国志王平伝によると王平は
・巴西郡宕渠の出身
・朴胡杜濩を初めとする巴の7豪族が曹操の張魯討伐の折に帰順
・この時に朴胡杜濩について洛陽に移動
ということですが、
・この洛陽は京の洛陽じゃなく雍州の略陽
・また移った時期は朴胡杜濩が帰順した時ではなく張郃が巴中に侵攻した時
ってことになるの?
略陽と洛陽じゃ、大違いだなぁ・・・。
略陽で魏に仕官したってことかな?
帰順したから道案内にでも使ってやろうということかも。
55 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/05(水) 20:59:23
張コウは板楯蛮が神兵と呼ばれ
漢人から恐れられてたことを知ってたかもな
蜀では郷導使(道案内)に任命されたみたいだね
息子の王訓ってどんな人物だったんだ?
王訓は漢字をどれくらい読み書きできたんだろう?
少なくとも、「王」、「何」、「平」、「訓」、「子」、「均」、は書けたと思うお
60 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/23(日) 15:13:37
もっと詳細な記述等はないんだろうか
王平はまともに時が読み書きできないから変な契約書にサインしちゃって
弱小国の蜀なんかで働くことになってしまったというのは有名な話。
王平のあいうえお覚えるお
王平の横柄な態度が気に入らない
利益を追う弊害
65 :
無名武将@お腹せっぷく: