建安20年(215)から建安24年(219)までの5年間、劉備と曹操の間で争われた漢中の支配権を巡るあれこれについてなるべく正史ベースで語ってみようというスレ。
215年
・7月、曹操、張魯討伐。張魯は巴中に逃亡。
・劉備、この事態を聞き、孫権との荊州を巡る争いを中止し和議を結ぶ。
・11月、張魯、曹操に降る。
・劉備は黄権の進言をいれ、張魯を迎えに黄権を派遣するも時既に遅し。
・12月、曹操、漢中に夏侯淵を留めおき、帰途に着く。
216年
・2月、曹操、鄴に到着。
・夏侯淵、下弁の氐族や羌族を討つ。(この辺、時系列がちょっと微妙)
・張郃、巴中を荒らすも張飛に撃退される。
217年
・法正、漢中侵攻を進言。
・劉備、張飛・馬超・呉蘭らを下弁に派遣し、曹操はこれに曹洪を当てる。
218年
・劉備、漢中に進軍。
・呉蘭が曹洪に打ち破られ、張飛らは漢中に撤退。
・劉備は陽平関に布陣し、張郃は廣石に布陣す。
・劉備、張郃の陣に夜襲をかけるも防がれる。
・7月、曹操、劉備討伐の為、鄴を出発。
・9月、曹操、長安に到着。
219年
・正月、劉備、高翔を留め置き南進。沔水を渡り、山に沿いつつ前進し定軍山・興勢に布陣。
・同月、夏侯淵、定軍山に攻勢をかける。
・法正、これを討つべしと進言。劉備、黄忠を高所に配す。
・劉備、夏侯淵の陣に火を放つ。東を守る張郃が不利になったので、夏侯淵は兵を分けこれを助成させる。
・劉備、黄忠に攻め立てさせ、夏侯淵らを斬る。
・夏侯淵の司馬郭淮は敗軍の兵を集め、張郃を立て漢水を挟んで劉備と対峙。
・曹真、陽平を守る高翔を破る。
・3月、曹操、陽平に到着し劉備と対峙、曹真は下弁の曹洪らを回収。
・劉備は山に立てこもりこれに抵抗。
・5月、曹操、軍を引き上げ長安に帰還。
・秋(7月〜9月)、劉備、漢中王即位。
>>1 元のスレが立って程ないのにわざわざ立てる必要あるか?
向こうでやれるネタだろ? 何考えてるんだ。
法正 「漢中をとり富国強兵を図りましょう。うまくいけば天下を覆せ、普通でも雍・涼を斬り取れ、まずくても要害として持久の計を取れる」
黄権 「漢中を失えば、手足をもがれたも同然」
楊洪 「漢中は益州の喉元であり、漢中を失えば蜀は持ちこたえられない」
曹操 「鶏肋」
曹操と劉備じゃ漢中に対する必死さが違うな。
ちなみに2は某スレより転載。
>>3 こっちは法正と諸葛亮の比較スレじゃないから。
2に補足
・山に立てこもる劉備は劉封に山を下りて曹操に戦いを挑ませた。
→上庸侵攻中の孟達のもとに派遣されたのはこの後?
・趙雲の黄忠・張著救出、曹操の大軍に対して空城の計などの活躍。
上二つはいずれも注ながら劉備も単に山に立て篭もっていただけでなく、結構やってたのが窺える?
>>4 > 法正 「漢中をとり富国強兵を図りましょう。うまくいけば天下を覆せ、普通でも雍・涼を斬り取れ、まずくても要害として持久の計を取れる」
諸葛亮は武都・陰平を切り取り、再三諸郡を動揺させたから普通と(゚д゚)マズーの中間くらいまではいったと評価できるかな?
姜維は……姜維はその(゚д゚)マズーより更に(゚д゚)マズーで要害を破壊しちゃったんだなあw
姜維は諸葛亮の防衛システムを壊したから防御はまずくなった。
でも攻撃こそが最大の防御で、一回でも大勝すれば問題なかった。
9 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/20(火) 08:35:51
漢中は魏側から見て、蜀を攻め取るのに必須の地。
だが曹操は漢中を放棄。
それは曹操が蜀取りを諦め、天下全土の平定を数十年も先送りした瞬間に他ならない。
建安二十三〜二十四年にかけての漢中攻防戦における両陣営の参加武将
劉備側
☆確実
劉備、法正、黄忠
☆まず確実
張飛、馬超、呉蘭、任夔→下弁攻略失敗の後、漢中へ。なお呉蘭、任夔は戦死。
☆多分
劉封→任城威王彰伝注より。
趙雲、張著、張翼→趙雲伝注より。
☆可能性あり
魏延、楊儀、劉巴、黄権、呉懿、呉班
曹操側
☆確実
曹操、張郃、郭淮、曹真、徐晃、夏侯淵(戦死)、曹洪、曹休(曹洪と曹休は下弁)
☆まず確実
張既
☆多分
楊脩→武帝紀注より。
☆可能性あり
劉曄、于禁
あとはちょっとわからないので補完よろしく。
>>9 なんで張魯を降した時に何故そのまま巴蜀に侵入しなかったのか?
やっぱり孫権の動向かねえ?
あと漢中の守将を夏侯淵以外にしてたら失陥せずにすんだのか?
これらの判断ミスは曹操の意欲不足の影響なんてことはあるのだろうか?
12 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/20(火) 12:30:04
>>11 孫権はこのタイミングで荊州南部争奪戦を仕掛けている。
いわば孫権が曹操側に対して一番おとなしい時期と言える。
劉備が孫権に攻められ苦しい時期であったのを考えれば、まさに蜀を早期征服する最大のチャンスだった。
自軍の状態または許などの動きによほど不安があったのだろうか。
逆に一段落すれば劉備が漢中を狙うのは明らかであり、漢中からの強制移住などはそれに対応したものかもしれないが、夏侯淵を置いたことを含め後手後手で中途半端な対策だったことは否めない。
夏侯淵は他ならぬ曹操自身が大将としての不備を指摘していた訳で、懐刀韓浩を推す声がある中での夏侯淵配置は曹操のミスと数えられても仕方ないのではないだろうか。
曹操は赤壁では慎重さを欠いて天下平定が遠のき、漢中では慎重過ぎて天下平定が遠のいた、という気がする。
>>12 前段に関してだけど、曹操が漢中に侵攻すると劉備は孫権と和議を結んでる。
そして陸口まで出てきてた孫権はそのまま合肥攻めに向かってる。
これは張遼らの奮闘もあって退けられてはいるが、この孫権の転進に対して
曹操としてもそのまま巴蜀へ攻め入ることに躊躇いを感じたとしても不思議ではない気がするがどう?
>>12 建安二十年(215)
3月、曹操、張魯討伐。
7月、張魯、巴中へ逃亡。曹操、南鄭入り。
8月、合肥の戦い。
11月、張魯、降伏。
12月、曹操、帰還。
つまり、張魯が降った時点で劉備対孫権という図はとりあえずなくなっている。
だから
> いわば孫権が曹操側に対して一番おとなしい時期と言える。
> 劉備が孫権に攻められ苦しい時期であったのを考えれば、まさに蜀を早期征服する最大のチャンスだった。
というのは成り立たないんじゃね?
>>10 ざっと見たけど、
・劉備陣営
高翔
陳式
・曹操陣営
趙顒
杜襲
夏侯栄(淵・五男)
が抜けてる。
可能性としては朱霊も。
>>15 フォローサンクス。
高翔は曹真、陳式は徐晃にそれぞれ撃ち破られてるね。
趙顒、杜襲、夏侯栄は漢中駐屯組で、杜襲以外は夏侯淵とともに戦死組。
>>12 孫権の動向もあり、赤壁の反省で巴蜀攻略は慎重になったのかねえ?
18 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/21(水) 08:49:30
「羹に懲りて膾を吹く」
>>3 そんなこと言ったらどんなスレも立てられなくなるよ
215年に曹操の張魯討伐に伴い巴の蛮族朴胡と杜濩が曹操に降り、それぞれ巴東・巴西の太守に任じられている。
その後、劉備はこの朴胡と杜濩を平らげ巴中を完全に掌握したようだが、実際に平らげたのは張魯を迎えに行った黄権?
張郃の侵攻を防いだりした巴西太守の張飛?どっち?
21 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/21(水) 13:19:58
曹操の天下平定への戦略って、いきあたりばったり風味というか結構脇が甘い。
華北統一の後中原を制覇しようとした袁紹、
長江を城壁代わりに持久の策を取った呉、
劉邦の故事に荊州からの攻撃というアレンジを加える計画を立てた蜀、
曹操にとっての、これらのような天下を平定するための確たる戦略ってあっただろうか。
帝を推戴してる、てのが或る意味地盤。地の利を越えた天の位置から
各個撃破していく論理を得たわけだから
>>22 少なくとも孫権と劉備は皇帝擁立を大して意に介してなかったように思えるけどね。
袁紹も敢えて皇帝を擁立しないで行くことを決めていたし。
戦略としては穴だらけじゃね?
戦略というか、中原を得て皇帝もいて後は力押しで何とかなると思ったら、
長江や蜀の天険に籠もって北方王朝と対立するという後世ずっと使われる戦法を使われて、
さぁ困ったというとこだろ
劉備や孫堅が地の利を生かしているというなら、
曹操の兵力生産力も、違う形の地の利の一つではないだろうか。
曹操の兵力生産力って何?
中原は飢饉、賊乱、疫病で荒廃しまくり
人口はむしろ南部に集中していたと考えられる
戸数の資料が残ってるのに南部の方が人口多いとかありえなす
普通に北方の方が豊かだよ
まぁ、そうだよね。
でもほっとくと益々北>南だしなぁ。
漢中戦あたりがラストチャンスか?
>>29 > 漢中戦あたりがラストチャンスか?
kwsk
31 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/28(水) 06:48:02
曹操が漢中陥とした後一気に巴蜀へ侵攻してたらどうなってたんだろうな?
32 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/28(水) 07:23:14
戦略的には間違いとは思わないが、
衰えつつある曹操は劉備の天険を利用した持久戦法と奇襲による反撃をされ大敗、捕虜となり斬首。
東西で天下二分する時代へ。
曹操が駄目になっても魏が潰えるとは思えないんだが
曹操が生きている間の魏は曹操に軍権やら部隊やらが集中している為に
曹操一人がダメになって全滅、もしくは長期の拘留戦術を採られると負ける
>>30 劉蜀:このあと荊州失陥から坂道を転げ、
長安を窺うのは難しい。
共同で攻めたいが蜀単独で同時多方面作戦はキビシス。
単純にぶつかれば不利は否めない。
でもこのままではジリ貧だ。
ならこのまま長安に抜けるか?
曹魏:ほっとけばいずれ落とせる位の力を持てる。
ただ、その力で落とした奴が独立するかも。
独立をさせないためにはそいつを粛清するべき。そんな戦いヤダ。
逆に取った奴は粛清されない自信がある奴だ。ヤバイ。
ならこのまま曹操が蜀を取った方が話は早い。
いや、結局蜀は漢中以北は進出できず、魏は漢中越えたと思ったら滅んだわけで。
あくまで結果論だけど。
>>35 荊州落ちてなきゃ多方面作戦はそれ程厳しくないぞ
そうなんだけど、荊州失陥て回避できたのかな。
実際あのまま攻めてたら劉備も動くだろうし。
孫権が淮南を攻めたらよかったのか?
回避出来た
出来たが結局出来る形には落ち着かなかった
回避する為には10年分くらいの修正が必要
>10年分くらい
なにを目安に10年なんだろ?
荊州陥落から10年遡れってことさ
赤壁後に巧く魯粛と会談てきてたら…ってこと?
42 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/28(水) 19:33:19
>>41 劉備側からすればあれより良い状態はありえない
孫権が江陵を占領して以降、孫権が強硬な態度であり続けたら荊州騒乱で劉備あぼんか共倒れ間違いなし
結局曹魏が漁夫の利を手にする事もなかったしな。
孔明にとっては陸遜様様かな。
>>42 呉と仲違いしないで丸め込めつつ史実と同じ最大領土を得れば最高
45 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/28(水) 21:19:47
>>44 ではキミはアメリカと韓国と北鮮とおろしやを丸め込んで日本の領土問題を解決してみせてくれ
孫権が荊州における劉備の支配権を認めなかったら、孫権が力でねじふせる可能性もあったかもしれないけど、被害甚大になったんではなかろうか
孫権が荊州やその向こうの支配を諦めないためには、あの時点では魯粛のような解決を図るしかなかったんじゃまいか
魯粛としては劉備に荊南四郡元手に益州取って欲しいんだよね?
豪族中心の呉が直接取ると、統治やらで不都合が多いから。
天下二分も修正してさ。
>>34も言っているけど、漢中で曹操抑えてその間に…。
ってのは戦略としては大成功なのでは。
でも実際は蜀呉は荊州問題で揉めてしまう。
いっそ入蜀後あたりでお互い荊州分割案を採用したらどうなのだろう。
面倒な武陵を蜀が持つ代わりに何か欲しいところか。
問題は南郡?
てかこういう話し合いは赤壁あたりでやるものなのでは?
むしろ丸め込んでいるうちに話がややこしくなったような。
どんなことをしても荊州は欲しい、それが孫呉クオリティ
未だに言う人にも驚きだけど、「クオリティ」って自分で言ってみたいだけって感じ
50 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/29(木) 21:25:17
魯粛による呉の天下二分は呉が荊州を取ることを計画している。
また諸葛亮の天下三分では劉備は蜀、別将は荊州から中原に攻め入ることになっており、これまた荊州支配を前提としている。
呉と蜀は一度は手を結び、一時は妥協しても、荊州については決着が着くまでのガチバトルがいつかは起こる定めだった。
問題はいつガチバトルをするかだよね。
この時点で良かったのだろうか。
劉備も曹操同様漢中に釘付けだったのは確かだろうけど。
まぁ、「涼州取ったら(ry」、「虎の娘(ry」とか言う
蜀の外交姿勢もどうかと思うが。
52 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/30(金) 10:00:41
>>51 漢中戦頃のはまだガチじゃなかろう。
少なくとも荊州生き残りを賭けた戦いじゃない。
問題なのは蜀の外交姿勢じゃなく、呉がそれまで妥協していたのに気を良くして見せた隙を蜀が狙われたこと。
冒頓単于の故事のように、魯粛たちは蜀が隙を見せたところに不意打ちくらわそうと狙ってたんだらうか。
蜀呉同盟て対曹操同盟なのに215年に小競り合いしたんだっけか。
呂蒙や陸遜は漢中戦をどう見ていたのか知りたい
54 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/30(金) 18:25:59
⇒関さんがいるので荊州は取れない。(取れてもこの時点だと疲弊する)
⇒漢中が曹魏の手中に落ちる。
⇒主目標を荊州から曹魏に変更せざるを得ない。
⇒高い確率で蜀漢が潰れる。この時点で手遅れ。
⇒三方から多重攻撃。降伏or滅亡
55 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/30(金) 18:28:05
逆に言うと漢中さえあれば蜀漢は曹魏の防壁として役に立つと考えていたろう。
そうなれば荊州は力ずくで奪えばいい。道理は東呉にあるのだから。
つうか孫呉にとっての漢中は合肥だと思うのだが。
遼来来>厨房は確実として司令官が子明なら勝負は分からんかったはず。
57 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/30(金) 18:56:47
>>55 > 道理は東呉にあるのだから。
ねえよw
>>56 同意ですな。
だからこそ張遼なんだろうね。
満寵もやたら頑張るし。
長江を防衛ラインにしてはいけないのに進めない。
59 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/30(金) 19:52:48
>>57 いや、あれは孫権と劉備の間の貸し借りという関係の中では、確かに荊州のため兵を出したんだから孫権は劉備に貸しがある。
ただ荊州を支配する正当性は孫権には無い。荊州牧などではないんだから。
江陵を占領したのも軍事力で制圧・占領しただけで、平穏に支配できる保証も資格もなにもない。
それを、荊州においては正当とされる支配者劉備に返しただけなのに「あえて貸してやった」と吹聴することで、うやむやの内にあたかも孫権にも荊州支配の正当性があるかのような印象を与えるのに成功した魯粛はやり手。
60 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/30(金) 19:55:14
>>59 貸し借り云々はどっちにしろ215年の和議で白紙になってる。
61 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/30(金) 20:05:22
>>60 孫・劉二人の間で白紙になるならないと、荊州の人間に与えた印象はまた別。
荊州の人間の、赤壁前の孫権の印象→侵略者
赤壁後→曹操を追い払ってくれたが今度は自分が居座ってやがる
劉備に「貸した」後→孫権て意外に度量あるじゃん
南部帰属問題→もしかして劉備が悪いのかも?
関羽兵糧盗み問題→同盟を破った関羽逝ってよし
江陵陥落後→孫権てしっかりしてるじゃんか。自分たちのこと立ててるし
夷陵後→もう孫権が君主でいいや。悪くないし
だいたいこんな感じだよ、多分
赤壁後の印象最悪時のままで荊州を支配し続けるのは大変だったろうね
>>61 はあ?
孫権が和議後に荊州を盗み取る「道理」がどこにある?
兵糧を奪われたから?
仮にそれが事実としてもそれは劉備に抗議する「口実」とはなっても荊州を盗み取る「道理」にはならんぞ?
劉備が勢いよく関中まで進めたら良かったのにな
>>63 漢中だけでもかなり国力を費やしてるからなあ。
とりあえずあの時点では限界だったんだろうな。
曹操が巴蜀に侵攻しなかったのとはちょっと事情が違う気がする。
漢中戦で王平が劉備に降ったが、理由は劉備が巴蜀を抑えたからかな?
曹操に降ったのだって杜濩・朴胡が曹操に降ったからだし。
句扶も同じく漢中戦での帰順組かな?
MMXのままよりは速いが、とは言え騒音には耐えられない。
これをK6と言う。
宣伝効果としての漢中はどんもんなんだろう。
劉備としては蜀をとって漢中王というのはおいしいだろうし。
四方将軍も魏への対抗の意味合いもあるだろうし。
70 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/05(水) 09:13:52
暑いよ
71 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/10(月) 21:28:37
ざっと1から見てみたけど、何気に両陣営、オールスターに近い布陣で戦ってるのね。
72 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/10(月) 21:53:03
それだけに夏侯淵という配置ミスが大きかったね
73 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/11(火) 00:44:54
曹魏において漢中が鶏肋たるのは
漢中って騎馬兵力での維持
騎馬兵力での山脈攻略が困難だからでしょ
長安>漢中の兵糧輸送も大変
74 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/11(火) 01:18:14
天下統一が不可能だと諦めたからこそ出てくる発想だよな、鶏肋って
蜀を取り天下統一しようと考えるなら、漢中を放棄はありえん
>>74 その後、40年以上持たさせちゃったもんな。
76 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/11(火) 01:29:48
江陵と漢中はどちらも絶対に取られてはならない地だったんだよね。
曹操はどちらもその認識が少々甘かったように思える。
ageんな厨房
>>76 その曹操のせいで後の曹ヒがどれだけ苦労したか。
蜀が厄介になるのは北伐からだから苦労したのは曹丕じゃなくて曹叡じゃないか?
呉に対しては曹丕の時代から何度か矛を交えてるけど。
82 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/11(火) 09:51:30
具体的に厄介になるならないではなく(それもあるが)、
いつまでたっても統一できないでは皇帝の権威はガタ落ちなんだよ。
魏(曹丕)は禅譲を受けて天下を統べるにふさわしいという建前で皇帝になったんだから、天下統一出来ないのはいわば公約違反。
北半分じゃ漢の後継は名乗りにくいとこあるしなぁ。
逆に蜀は最初から漢の復興だから取り返しに行くと言うスタンスか。
呉蜀は辺境だからどうでもいいというが、一度統一国家の体を成したのだから、
その領土が欠けていては後継の帝国とは言えない
暗黙の了解というか、そういう感じで
先生、それでは東晋と南宋が不憫です
まぁあれは異民族の侵略だから、まだ反論の余地はあるが
統一しないと異民族からなめられるよ
お兄ちゃんって呼んで、とか言われるよね
kaere
>>87 どっちかというと、
南宋「お金上げるから弟になってください」
>>90 遼:お兄ちゃんって呼んで。
金:このM奴隷めが!!
>>92 でもな、この結果を導くために当時の儒者は
頭を抱えたんだよ。
真面目な奴は
>>92みたいな発言だったが、それは無理だ。
このスレでもでているが体面整えるのも楽じゃないから。
>>91 逆じゃね?
でも東晋は中国の正統王朝と認められてたぞ
そのあとの劉宋は正統じゃないって言われたが
95 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/13(木) 10:47:33
晋は一度は統一したからね
蜀や呉が辺境だとしても、王朝は統一してやっと一人前ということなんだよ
一応、九州説ってもんがあるしね。
昔は「益荊楊交の四州はもういいや」って意味かと思ってた。
97 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/13(木) 12:30:38
_
(⌒Y´ ○ ∧_/( ̄)) んー
。 と.__ ) ( ゚∩( 《 __
∧ ∧ <、_,.ノ ヽ、.__,ノ * o。 | .|
o ゚ + ( ゚∀゚)  ̄ |.| +
/_ \ lニ二ヽ__| |
と/〉 〈\つ \ ○.ヽ
/ .∧ / │ ヽ. \
+ / / ./ / \_∧_/ ⊂二 ( ) ニ⊃ こー
o 。 * . し´ `J |/ ̄\| ( )
。 ∧ ∧ ─<(. ゚ ∀ ゚ )>─ * ゚ 。
. ∩( ゚∀゚)∩ |\_/| 人
ヽ / / ̄∨ ̄ \ o 。 (__)
* 。〉 〈 │ (__)
/ ∧ / ∩ ・∀・)∩ ウンコー!
し  ̄ うー 〉 _ノ
ノ ノ ノ
し´(_)
98 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/13(木) 12:32:30
|::::::::::::::::::::::::::ヽ‐_、,.r''" ̄`ミ
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|´l_::_l、ヽ!::::::::l:l::::l::::l:::::.i お・に・い・ちゃん!
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|)|::::::\:::ヽ `ソ
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お兄ちゃん
>>91 遼:お兄ちゃん、お金ちょーだい。当分攻め込まないであげるから☆
???:お兄ちゃん、お金ちょーだい。当分ミサイル打たないであげるから☆
無理に時事ネタやらなくていいぞ消防
|::::::::::::::::::::::::::ヽ‐_、,.r''" ̄`ミ
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本隊対本隊以外にも色々と対峙していたかなり大掛かりな戦争だったようだけど、赤壁以上に詳しい記録が残ってないのが残念だ。
官渡の戦い、対西涼などはそれなりに詳しい記録が残ってるのに、赤壁や漢中戦の記録が詳しくないのはやはり曹操の敗戦だからだろうな。
それだけじゃなくて
赤壁は勝者側である呉の資料が詳細に残っていたのに比べて
蜀は正式な資料が全然残ってないからな
合肥や濡須口はそれなりに情報残ってるもんな
それが不思議なんだよね。赤壁はともかく、漢中戦なんかは自陣営の勝ち戦として
詳細に記録してもっと派手に喧伝していいと思うのだが。
むしろ不思議でない気もするな
珍しく劉備に曹操が負けた。
しかも真正面からぶつかって。
陳寿は記述していたのかもしれんね。
>>107 だから、その喧伝した資料があったとしても
蜀は長らく史官がいなかったのも相俟って
信頼に足るべき資料として残っていなかったんだろ
また、受命の君としての曹操の存在がある以上、
その負けを真っ向から書く事は晋朝への叛意ありと見なされる可能性大
書きたくても書けないんじゃないかな