【織田vs上杉】手取川の戦いは本当にあったのか?2
>>48 アタマ弱いんだから、ムリ言わないでおくれよ・・・orz
アタマ弱いから、自爆したポ(48)
>>47 なるほどな。でも、武功夜話では勝家勢が本願寺勢を相手に自分だけ手柄を挙げて顰蹙もの、秀吉が松永の挙兵を知って諫言。
で、上杉との決戦の誹を唱えて勝手に長浜帰還。で、信長からドヤされて蟄居・・・・・・・orz?ぜんぜん勝ってねぇじゃん?
手取川があったとしてる専門家ってどれくらいいるの?
結局のところ「手紙に書いてあるからあったんだ」の一事でしょ
地理風土・他の記録一切と符号しないから谷口克広氏あたりなんか全く信じてない風だけど
だから上杉のいつもの捏造
タチが悪いのは謙信本人のフカシだってこと
織田に勝ったという箔をつけたいための嘘
>谷口克広氏 つ???
誰かと思えば、横浜の中学校の社会科の先生か・・・。江戸時代はともかくとしても、
明治以降に限っても古くは高柳光寿氏・桑田忠親氏(国学院史学の親分・戦前から戦後にかけての文献史学の権威)
誰もが認める上杉研究の権威、井上鋭夫氏もしかりだ。
国学院史学の後輩二木謙一氏、戦国史の権威小和田哲男も手取川合戦は定説として認めてるな。
>>51さんよ
大学や自治体の研究機関に属している研究者、つまり学界に責任のある立場の研究者で
手取川合戦を否定している人がいたら、挙げてみてくれ。いないと思うぞ。
矢田俊文(新潟大学人文学部)以下の、最近の上杉研究者(「定本・上杉謙信」「上杉氏年表」)
も手取川合戦は否定してないね。同時に、臼井城での謙信の敗北(北条氏一次資料による)も認めてる。
けっきょく、文献史学には「手紙に書いてあるからあったんだ」(
>>51)を否定できない宿命があるわけだ。
「地理風土・他の記録一切と符号しないから」(
>>51氏の伝聞認定)が、どの程度のものなのか、検証には
値すると思うがね。上杉系文書が謙信書状だけだというのも、じつは誤読の産物で多数の傍証もあるあわけでねぇ。
反論、よろしこ!
↓こうゆうのは、中身もないばかりか単なる煽りの見本。相手をすんのも情けねぇな・・・。
>だから上杉のいつもの捏造
>タチが悪いのは謙信本人のフカシだってこと
>織田に勝ったという箔をつけたいための嘘
具体的な中身で言ってみろ、ボケが! と、煽りに乗るワタシ。スマソ・・・。
56 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/10(土) 07:18:50
この問題は、新しい史料が発見されない限り、
いまの定説は動きようがないよ。
あとは、規模や誰が戦闘に参加したかとかの議論だけ。
意味合いがズレていると思うがね。
この年の北陸(加賀)で上杉と織田の戦いがあった、ことはまあ文献的にも
否定は出来ない。
ただ、その内容が上杉が主張するような「上杉大勝利」なのかどうかはかなり
疑問の余地ありというか、むしろ肯定できる要素がほとんどない。さらに後年
の講談の類に見られる「両軍大激突の末上杉圧勝。信長は逃走、謙信は越前まで
追撃」なんてのにいたってはまあほぼ捏造。
こんなところでしょ。
正直、講談の類の定説が文献史料の精査によって覆された合戦は多い。桶狭間
がそうだし、川越夜戦や川中島なんてのもある。厳島なんかもかなり疑義が挟
まれている。しかしそれらは勝者側にも敗者側にもまた第三者によっても史料
が残されているから検証できるたのだが、手取川についてはとにかくまともな
史料がほとんどない。勝った側にすら家譜の類を含めてこの合戦に言及した物
がないというのがなんとも。
また捏造厨か。
【織田vs上杉】手取川の戦いは本当にあったのか?2
の問いに素直に答えると、
「あった」としか言いようがないぞ。
>勝った側にすら家譜の類を含めてこの合戦に言及した物がないというのがなんとも。
上杉年譜にはしっかり記録されてるんじゃ?
御書集にあるんだから重要文化財上杉文書の一部ともいえる。
手取川合戦は否定されてなくても、2000討ち死になんて誰も肯定してねーだろw
謙信の駄ボラもええとこ。上杉はこんなばっかw
また捏造厨か。
手取川合戦は否定されてないし、2000討ち死も誰も否定してねーだろw
ただし「織田勢は大敗したといわれる」「1000以上が討取られたという」
伝聞形式の表現だが。
>>64 謙信の手紙に「千くらい溺れた」とあるだけで、討ち取られたとも書かれていない。
>>65 君は謙信書状を読んでないなww
二十三日の夜中に敗走しているところを追撃し、
千人余を討取り、残る者たちはことごとく川へ追い込みました。
原文抜粋は
>>7にあるから読んでみな
俺的には、
なぜ織田軍が、むちゃな進軍をしたのかが不思議。
加賀なんて一向宗の本拠地みたいなとこで、
周り全部敵なのに、本気で能登まで行こうとしていたのか?
>>58 少し話しが逸れるが桶狭間の説は知っているが川中島の説とは?
>川中島の説とは?
58ではないが、三池純正氏あたりの妻女山布陣・啄木鳥戦法否定説じゃないか。
霧の中で偶発的な遭遇戦という仮説には肯けないが・・・。
>>69 偶発的かー、最近の研究だと妻女山布陣自体が怪しいらしいもんな。しかしこじつけに近いような気もするが、
研究家じゃないとなんとも言えないな。サンキュ
手取川については織田厨の史料提示も反論もないようだから、暇つぶしに川中島異説の話でもするかな。
>>69で挙げたとおり、三池氏は天正10年の景勝妻女山布陣を「甲陽軍鑑」
の筆者(高坂昌信・小幡憲景)が取り違えたという説で、謙信の西条(妻女)山布陣を
否定。つまり「軍鑑」の筋書きは創作だとしているわけだ。で、
>霧の中で偶発的な遭遇戦という仮説(三池説)
だけど「妙法寺記」や快川和尚の書状に武田信繁の戦死が記録され、信濃史料にも
諸角豊後、望月、初鹿野の戦死が記録されてるから、緒戦における武田の劣勢は否定できないわな。
で、「軍鑑」の「前半戦は長尾(上杉)の勝ち、後半戦は武田の勝ち」という具合に
なるわけで。そうすると、謙信の妻女山布陣(武田の別働隊迂回)説がなければ、
武田が緒戦で劣勢になった合理的な説明が出来なくなるわけだ。
ほかに、地元研究者の間で「西条山」を善光寺裏山の「西条」に比定する説もあるが、
地名を「軍鑑」に依拠してるので、これはムリ。「軍鑑」を完全に否定した三池説のほうが
まだしも潔いというか、立論の方法が鮮明だね。でも、霧の中での偶然の接近遭遇戦は
ムリだな。「軍鑑」の筋書きを離れちゃえば、何とでも推論できるもんな。
スレ違いの長文、スマソ・・・・orz
>>71 霧中の遭遇戦だったからこそ、作戦も陣立もなく数の優位も活かせず混戦が
続いて、そのために最初は上杉が有利になった(あるいは、上杉の方が早く
立て直すことに成功したか?)ということでないかな。侍大将級の戦死が多く
でたのも、それだけ混乱が続いていたということでしょう。
べつに、別働隊迂回説がなくとも説明はできると思うが。
参考までに、史料うP
里見義弘、梶原政景、水谷勝俊、結城晴朝、佐竹義重から越山(関東出兵)を
求められていた謙信が、能登・加賀に出兵した契機となった書状らしい。
ほかに、足利義昭から吉江資堅(謙信側近)への別書状[吉江文書・県史3685]
先度如申越、始毛利中国諸卒既令出勢上者、此節拗方端、可及手合段、
肝要候、次至紀州雑賀、雖織田相働、失軍利引退候、委細輝元・隆景可申候也
天正5年3月27日
足利義昭(花押)
不識庵との
[新潟県史949・上杉文書1119]
74 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/15(木) 19:17:47
歴代古案収録の謙信書状、関東諸将の返書および確証の置ける上杉家の記録によると、
天正五年九月二三日、軍神謙信公の指揮する上杉軍は、手取川で織田の大軍を馬蹄にかけ、
一千余ほど討ち取り、逃げ遅れた兵をことごとく川に押し込んだということか。
四万五千ともいわれる織田主力軍団は、軍神の前になすすべがなかったということだね。
織田軍は3万前後じゃないか。
教えてエロイ人。
>>75 織田勢の人数は諸説ある。
「数万騎陣取候」(謙信書状)
「兵四万八千に」(北越軍記・武田三代軍記・日本外史)
柴田勝家、滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀、斎藤新五、氏家直通、
安藤守就、稲葉一鉄、不破光治、前田利家、佐々成政、原長頼、
金森長近および若狭衆
こいつらは、何人動員できるのだ?
柴田・滝川・羽柴・丹羽・佐々あたりで各1万(軽く5万?)はいきそうなw
79 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/16(金) 16:52:47
たらればを使うしかない上杉厨惨め・・・
81 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/16(金) 17:42:33
>>74 >軍神謙信公の指揮する上杉軍は、手取川で織田の大軍を
( ´,_ゝ`)プッ
柴田を総大将とする先方1万8千と
信長率いる本隊3万と言われているが、
主要な侍対象が柴田麾下に入っているから、
信長自身が直接足軽を率いるのは不自然だよな。
83 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/16(金) 21:22:15
信忠ガイル
とすると、
柴田達に戦さの下準備させといと、
その後に信長・信忠率いる本隊が合戦に参加して、
上杉軍にとどめをさす手はずだったのかな。
そうすると、信忠は武田・上杉を追いやった手柄ができて、
名跡として充分になると。
>>77-78 そのメンバーで、単独で一万の軍勢を持てたのは柴田と羽柴のみ。丹羽、滝川は
当時はまだ遊撃軍。前田や佐々はもともと柴田軍としてカウント。
そしてこの時期の信長と信忠は北陸には軍を出していない。
最大限見積もっても三万超えるかってところかね。羽柴軍離脱後はさらに激減。
もし主力軍で3万いかないとしたら、ガチで上杉に安土まで蹂躙されてたかもな。
上杉方も七尾城攻めで疲労しているから、
手取川北岸まで行ったあたりで、
退却ってのが、無難だろ。
仮に渡っちゃうと、
今度は上杉が名取川。
ゲーム感覚なのか、兵がいつまでも戦い続けられると思い込んでいるのが笑えるな上杉厨は
89 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/17(土) 16:03:24
不眠不休で戦っていると思ってる精神障害者が逃げ出したのですが、見かけませんでした?
中身がなくなってきたな
91 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/19(月) 17:13:21
晒しage
74 :無名武将@お腹せっぷく :2006/06/15(木) 19:17:47
歴代古案収録の謙信書状、関東諸将の返書および確証の置ける上杉家の記録によると、
天正五年九月二三日、軍神謙信公の指揮する上杉軍は、手取川で織田の大軍を馬蹄にかけ、
一千余ほど討ち取り、逃げ遅れた兵をことごとく川に押し込んだということか。
四万五千ともいわれる織田主力軍団は、軍神の前になすすべがなかったということだね。
94 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/23(金) 06:36:30
>>88 確かに。短期戦でしか力を出せない上杉軍が堅牢な安土城を攻め落とせるわけがない
95 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/23(金) 06:47:03
ここでも上杉が負けているのか。
18 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/06/20(火) 22:16:12 ID:nlCxe46N
本庄繁長は謀反のイメージが強いかもしれないが、新発田市叛乱のさいには
上杉景勝に竹に雀の紋を許されたり、最上義光を破ったりと活躍している。
関ヶ原の戦いのさいには福島城を攻める伊達勢は繁長の戦略にかかり、幔幕
を奪われるほどの敗けっぷりであったと伝えられる。
松川スレでも捏造が叩かれていたが、ソースが全て講談だから「と伝えられている」
としか書けない苦しさ。上杉厨哀れ wwww
96 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/23(金) 20:06:03
【上杉謙信テーマ曲】
教室の隅っこにしゃがんだ 悲惨な上杉ファンを見ていた
人それぞれ好みはあるのに 誰も君に話しかけないね
上杉謙信が1番だなんて 信者がブヒブヒ吠えてて
ゴミ溜めの中顔真っ赤にして アンチ上杉に論破されてる
それなのに上杉謙信は どうしてこうもショボすぎる
できることもないのに信者たち 1番にさせたがる
そうさ、謙信は
世界でもまれに見るクソ武将 ひとりひとりキモイ信者もいる
上杉のスレ立てコピペ貼りに一生必死になれば良い
武田信玄と上杉謙信 信者は必死に比べようとするけど
ナンバー1になれるはずがない もともとぶっちぎりのワースト1
151312004100.1670.2310.1670.3980.0769
132622001100.1360.1740.1360.3100.0385
241313008000.1540.1540.1540.3080.0000
61010001000.1000.1000.2000.3000.0000
71312035000.0830.0830.1670.2500.0000
61716013000.0630.0630.0630.1260.0000