【織田vs上杉】手取川の戦いは本当にあったのか?2
1 :
無名武将@お腹せっぷく:
2 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/08(木) 19:13:50
基本的に小規模な戦だったんでしょ。
謙信と織田の唯一の激突だから、後世の軍記が誇張した。
「北越軍記」「武田三代記」などの軍記書の記述はともかく、
一次資料「歴代古案」収録の謙信書状を否定する資料がない以上、
手取川は織田の惨敗。前スレで富樫から手取川への撤退を合理的に
説明できなかった織田厨の惨敗は確定した。よって、謙信が織田軍主力
(柴田勝家・佐々成政・滝川一益ら)を一蹴した手取川合戦は史実。
4 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/08(木) 19:21:14
謙信の書状から分かるのは、それらしい合戦があったという事だけだぞ。
合戦の内容が分かる資料は無いのか?
上杉の捏造マジうぜえ、我々伊達藩がどれだけ迷惑したことか
ほれ、謙信書状[歴代古案89・越佐史料5-397]だ。
当陣之模様無心元候間、内々以飛脚可申候処、此表仕置執紛令延引候、
如啓先書ニ、当月十五、遊佐美濃守守年来以奏者之好令忠信、彼之讒輪ヘ
当手可引入由申候間、何蕨も不入愚入乗移、一日も不抱候、七尾城主ニ候
長対馬一類一族百余人討捕、実城乗取、其外温井備中・三宅備後・内藤王・
平以下身命計相扶、七尾存分之尽ニ入事ニ、同十七、号末森与地モ入手ニ、
是者 賀・能之間之地ニ候間、源五殿、斎藤龍置、当国一変ニ申付候処ニ、
是を信長一向ニ不知、十八、賀州湊川迄取越、数万騎陣取候所ニ、両越・能之諸軍勢
為先勢差遣、謙信事も直馬候処ニ、信長、謙信後詰迄聞届候哉、当月二十三夜中ニ令敗北候処ニ、
乗押付、千余人討捕、残者共悉河ヘ追籠候ケル、折節洪水張故、無瀬、人馬不残押流候、(後略)
天正五年九月二十九日
信長?
>>5 良質の史料がほとんどない戦だから
討たれた人数も二千・他河に追い込みとあるが、これも信頼できない(織田軍に討死が一人も出たという証拠が無い)
加賀藩史料に収められた記録では謙信が来たので増水期の川で待機する愚を犯さないため御幸塚に一旦後退した、とあるし
そして織田軍がその後御幸塚の城塞整備と周辺一揆掃討に長い時間かけてることと合致するし
>>8 原本では、じつは二つ目の「信長」が「信玄」になっていたらしい。
「歴代古案」は朱文字で訂正している。謙信は相手が勝家や滝川ではなく
信長だと思い込んでいたようだ、と解釈されている。
謙信が織田に勝ったぞ!と宣伝戦を実施したんじゃないのかね
七尾攻めではそれまで使用しなかった内応の謀略を使ってるし
晩年になると結構策を弄するようになってるから
織田軍とまともにぶつかったのなら、動員力から考えて一方的大勝ができるとは考えづらいし
>七尾攻めではそれまで使用しなかった内応の謀略を使ってるし
脇道の話だが、この通説も間違ってる。
能登畠山氏とは、天文年間に上条政繁が謙信の養子になる同盟関係
にあったから、遊佐は旧知の関係だな。内応策というよりも、当然の
寝返り。というか、もともと謙信の配下だった畠山家臣団が織田に寝返った
という見方のほうが正しいだろう。
>上杉の捏造マジうぜえ、我々伊達藩がどれだけ迷惑したことか
マジレスすると、江戸時代の軍記書を相手に
捏造だウソだと憤慨してたわけっしょ?
手取川も軍記書をあげつらえば山とあるよw
>>12 なんだその超絶理論は。いつの間に畠山氏が謙信の配下になったというのだw
そもそも捏造だとかウソだとか、謙信が女だった史実を捻じ曲げた
段階で、北越戦国史はとんでもない偽造の連続になったわけだが。
じゃあ謙信が攻め倦ねて一時撤退した時に実施された反撃に参加した遊佐氏一党の武将達は謀反人かー
>>13 195 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2005/07/27(水) 13:29:33
伊達政宗は入らないだろ。
芦名や佐竹などのローカル大名には勝っているが、
上杉との対戦(松川の戦い)では3,500対20,000(伊達)で完敗している。
マジレスすると上記のように、軍記書を史実と信じ込んでいる痛い上杉厨
に呆れたのが事実だろw
捏造ばかり、というか
直江と政宗の大判の逸話(政宗が披露した金を手に取るのは不潔だ!みたいなやつ)みたいに伊達やらを敵視してるような…
こういうのが流布したのはいつから?
ここも伊達厨(アホ)というか、安置飢えすぎ厨(バカ)に荒される宿命とみた。
松川は上杉の完全敗北で終了した。手取川で論戦した方が建設的だな
つか上杉厨は景勝には興味がないだけかと思われ
有名な桶狭間や長篠すら未だ説得力ある異説が出されてるぐらいだもん
史料の少ない戦の実相がわからないのは仕方無い
あったとしても信頼できる史料の内容が?なこともあるし
例えば妙法寺記を信じるなら川中島では謙信軍はことごとく討ち取られたことになってるし
謙信の手紙もこの類とか…
>>24 >例えば妙法寺記を信じるなら川中島では謙信軍はことごとく討ち取られたことになってるし
へー。君の妙法寺記にはそんな事が書いてあるんだ。
いつの川中島?現本見せてくれない?
横槍だが、「妙法寺記」は一次史料といっても伝聞記録だ。
謙信書状(写本だが)とは、文献史学においてはおのずと優先順位が違う。
ちなみに、
「此の年の9月10日に、晴信公景虎と合戦なされ候て、景虎悉く人数討ち死に
いたされ申し候、甲州は晴信公舎弟典厩公の討ち死ににて・・・」(妙法寺記)
誰か
>>7の現代語訳とか、してくれないでしょうか。当方は無学者なので、謹んで頼みますorz
>>27 いま仕事中なんで、明日にでも訳文をうPするよ。
ついでに、織田勢が能登攻防戦の緒戦で敗退したとされてる書状も、そのうちに。
ここ、織田厨の敗者復活戦か?
前スレの上杉方の「勝利宣言」より
929 :無名武将@お腹せっぷく :2006/04/21(金) 15:37:11
次スレ立てるまでもなく、決定だな。
軍神上杉謙信が織田勢を撃破した手取川の合戦は、定説どおり史実だったと。
「公記」の記述にしたがうなら、手取川を越えた勝家傘下の織田勢は
ほうぼうに火を放ちながら富樫(金沢)まで進軍。ここで七尾城陥落を知り、
撤退を決断するも謙信に追撃される。夜間、手取川を渡河中を急襲され、
少なくとも1000名以内の兵が討ち取られ、あるいは追い込まれて川に流された。
命からがら逃れた織田勢は、手取川の南10キロにある御幸塚の城砦を普請し、
周囲の田畑から作物を運び入れて篭城体勢に入った。さいわいにも謙信の渡河追撃が
なかったので、10月はじめには城代を配置して帰国。
煽り罵声なしの真面目に検証するスレだと個人的には嬉しい。
まともな意見だけを重視すれば手取川スレも松川スレも結構ためになる。
そもそもそんな一方的勝利を喧伝する割には、全く要領を得てないんだよな
信玄と信長を勘違いってマジかね
既にアル中の毒が脳に回ってて幻の織田軍蹴散らしたとか…
むしろ松川スレなんかでボコられ続けてる上杉厨の最後の足掻きじゃないかね
形勢悪いようだが・・・
ほれ、
>>7の訳文だ。
こちらの合戦の状況を知りたいとのことで、内々に使者を寄越されましたが、
こちらは戦が長引いています。先に使わした書状(9月15日付の北条高広父子宛)
のとおり、今月十五日に遊佐美濃守の年来の忠義もあって、わが軍を城内に引き入れる
ことに成功し、わずか一日で七尾城を制圧し、城主の長対馬ら一族百余人を討取り、
本丸を占拠しました。温井備中、三宅備後、内藤ら畠山家臣の命は助けました。七尾城
が手に入りましたので、十七日に末森城を攻めてここも入手しました。末森城は加賀と
能登の国境にある城です。源五殿(山浦国清)と斎藤龍(朝信)をここに置き、能登を
わが分国に変えることを申し付けましたが、信長は一向にこれを知らない様子で、
十八日に加賀湊川(手取川)まで来ました。数万騎の軍勢が陣取っているところに、
越後・越中・能登の諸軍勢を先陣として差し向け、私も馬に乗って出撃したところ、
信長も私の後詰を知ったらしい。二十三日の夜中に敗走しているところを追撃し、
千人余を討取り、残る者たちはことごとく川へ追い込みました。ちょうど洪水で川は
水かさが高く、立っている浅瀬もないので、人馬が押し流され何も残らない有様でした。
(このあと、信長は意外に弱かったよ。この分なら上洛も簡単だよ。二十六日に七尾城の普請を
はじめたが、ここから眺める七尾湾の風景は素晴らしいよ。などとつづく)
天正五年九月二十九日
※文中の9月15日付の書状にも、加賀で織田勢が敗北した記述がある。
37 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/09(金) 20:06:26
上杉軍 対 織田軍
織田軍の先発隊を率いる総大将・柴田勝家は七尾城の落城を知らないまま、
進軍を続けた。しかし、この進軍の途中で、かねてから勝家と犬猿の仲に
あった羽柴秀吉が、勝家と意見が合わなかったことから対立し、勝手に軍
列を離れてしまうなど、織田軍はすでに内部が崩壊していた。
一方、柴田勝家率いる織田の援軍が来ていることを知った謙信は、直ちに
七尾城から出撃し、手取川付近にあった松任城に入った。これに対して勝家
が七尾城の落城を知ったのは、七尾城を救援すべく手取川を全軍が渡河し終
えたときであり、しかも謙信率いる敵軍が松任城に入っていることも知った。
七尾城が落城し、しかも謙信自らが軍を率いて近づいていることを知った
勝家は慌てて撤退命令を出したが、その撤退途上に織田軍は謙信自らが率いる
上杉軍の追撃を受けることとなった。手取川の渡河に手間取っていたこともあ
って、このときの織田軍は成す術も無く、上杉軍の餌食になったと言われている。
戦いは、織田軍が二千人近くの死傷者を出す大敗であった。
wiki
Wikiは何の価値も無い。
39 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/09(金) 21:31:00
どうした?w
劣勢だぞアンチ上杉w
また恥を晒すのか?(笑)
上杉厨はまだ手駒を持っているようだが、信長厨は「公記」の誤訳鵜呑みした
前スレで惨敗だから、なかった説も無理なのかな・・。
煽りとか罵倒はなしでして欲しいんだがなー。三戦じゃ無理なんかなー。
謙信派に対しての信長派の意見も聞きたいんだよな。
43 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/09(金) 22:16:59
上杉派の煽り耐性が無さ過ぎるだもん。
すぐファビョる。
44 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/09(金) 22:35:04
北条高広宛ての手紙だから、手取川はなかったんだろ。
織田方につかれるのが嫌なんで、先手打ってホラ吹いたんだろよ。
こいつ二・三回背いてるんだろ?
>>44 あんまりageるなよ、読みにくい(苦笑)
>北条高広宛ての手紙だから、手取川はなかったんだろ。
残念ながら違うな。
>>7(謙信書状)は長尾和泉守(深沢城代)宛てだ。
というか、軍令状(動員命令)や軍忠状(陣中報告書)は右筆(秘書)による
コピーで、複数の家臣に宛てるのが当時の習慣だ。書状は複数あったものを
「歴代古案」に写本したもの。謙信の場合もほかに複数(同じ日付・同じ内容)のものが多数ある。
但条文(書状のイントロ)や後書(追伸部分)は、あて先の各武将によって
違ってくるが。前スレで、誰かが謙信の直筆ではないのでは?としていたのも
当然で、いちいち直筆書状を書いていた戦国大名はいない。
とくに謙信の場合はひらがなで書いたものだけが直筆ではないかとされているが、
直筆は珍しいほうじゃないのかね。
ちなみに書状(筆跡・花押)を分析した歴史学者によると、
信長の右筆は少なくとも11人、謙信は4人〜6人と分析されている。
それと、この時期の謙信書状は関東越山の要望に対して、織田勢との戦で
忙しい。もう少し待ってくれという、言い訳めいたのが多いのが特徴。
翌年の「仁科文書」と併せて、上洛説が否定される由縁だ。
>>44 連続で悪いが、謙信が先手を打つとしたら本庄繁長と伊達輝宗だな。
信長は輝宗に鷹を贈って、本庄繁長と謀って謙信の後背を突いてくれ
と要望してる(伊達文書)から。天正5年春と秋の輝宗書状では、謙信も
同じように鷹を贈って輝宗を懐柔したようだが(笑。
この時期の北条高広は佐竹義重や結城、里見などから謙信の関東出兵を
具申されていた立場で、北条氏政との戦い(和睦説もあるが)を伝奏する
音信だったと考えられているようだ。
>44
ははは、ボールの上っ面をカスるような反論しか出来んのか、織田厨は(藁
自力で史料批判を出来ないようなら、知識者揃い?の上杉厨の餌食だなあ。
偽書説が濃厚な「武功夜話」あたりを手がかりに、少しは内容のある反論せいよ。
>>48 アタマ弱いんだから、ムリ言わないでおくれよ・・・orz
アタマ弱いから、自爆したポ(48)
>>47 なるほどな。でも、武功夜話では勝家勢が本願寺勢を相手に自分だけ手柄を挙げて顰蹙もの、秀吉が松永の挙兵を知って諫言。
で、上杉との決戦の誹を唱えて勝手に長浜帰還。で、信長からドヤされて蟄居・・・・・・・orz?ぜんぜん勝ってねぇじゃん?
手取川があったとしてる専門家ってどれくらいいるの?
結局のところ「手紙に書いてあるからあったんだ」の一事でしょ
地理風土・他の記録一切と符号しないから谷口克広氏あたりなんか全く信じてない風だけど
だから上杉のいつもの捏造
タチが悪いのは謙信本人のフカシだってこと
織田に勝ったという箔をつけたいための嘘
>谷口克広氏 つ???
誰かと思えば、横浜の中学校の社会科の先生か・・・。江戸時代はともかくとしても、
明治以降に限っても古くは高柳光寿氏・桑田忠親氏(国学院史学の親分・戦前から戦後にかけての文献史学の権威)
誰もが認める上杉研究の権威、井上鋭夫氏もしかりだ。
国学院史学の後輩二木謙一氏、戦国史の権威小和田哲男も手取川合戦は定説として認めてるな。
>>51さんよ
大学や自治体の研究機関に属している研究者、つまり学界に責任のある立場の研究者で
手取川合戦を否定している人がいたら、挙げてみてくれ。いないと思うぞ。
矢田俊文(新潟大学人文学部)以下の、最近の上杉研究者(「定本・上杉謙信」「上杉氏年表」)
も手取川合戦は否定してないね。同時に、臼井城での謙信の敗北(北条氏一次資料による)も認めてる。
けっきょく、文献史学には「手紙に書いてあるからあったんだ」(
>>51)を否定できない宿命があるわけだ。
「地理風土・他の記録一切と符号しないから」(
>>51氏の伝聞認定)が、どの程度のものなのか、検証には
値すると思うがね。上杉系文書が謙信書状だけだというのも、じつは誤読の産物で多数の傍証もあるあわけでねぇ。
反論、よろしこ!
↓こうゆうのは、中身もないばかりか単なる煽りの見本。相手をすんのも情けねぇな・・・。
>だから上杉のいつもの捏造
>タチが悪いのは謙信本人のフカシだってこと
>織田に勝ったという箔をつけたいための嘘
具体的な中身で言ってみろ、ボケが! と、煽りに乗るワタシ。スマソ・・・。
56 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/10(土) 07:18:50
この問題は、新しい史料が発見されない限り、
いまの定説は動きようがないよ。
あとは、規模や誰が戦闘に参加したかとかの議論だけ。
意味合いがズレていると思うがね。
この年の北陸(加賀)で上杉と織田の戦いがあった、ことはまあ文献的にも
否定は出来ない。
ただ、その内容が上杉が主張するような「上杉大勝利」なのかどうかはかなり
疑問の余地ありというか、むしろ肯定できる要素がほとんどない。さらに後年
の講談の類に見られる「両軍大激突の末上杉圧勝。信長は逃走、謙信は越前まで
追撃」なんてのにいたってはまあほぼ捏造。
こんなところでしょ。
正直、講談の類の定説が文献史料の精査によって覆された合戦は多い。桶狭間
がそうだし、川越夜戦や川中島なんてのもある。厳島なんかもかなり疑義が挟
まれている。しかしそれらは勝者側にも敗者側にもまた第三者によっても史料
が残されているから検証できるたのだが、手取川についてはとにかくまともな
史料がほとんどない。勝った側にすら家譜の類を含めてこの合戦に言及した物
がないというのがなんとも。
また捏造厨か。
【織田vs上杉】手取川の戦いは本当にあったのか?2
の問いに素直に答えると、
「あった」としか言いようがないぞ。
>勝った側にすら家譜の類を含めてこの合戦に言及した物がないというのがなんとも。
上杉年譜にはしっかり記録されてるんじゃ?
御書集にあるんだから重要文化財上杉文書の一部ともいえる。
手取川合戦は否定されてなくても、2000討ち死になんて誰も肯定してねーだろw
謙信の駄ボラもええとこ。上杉はこんなばっかw
また捏造厨か。
手取川合戦は否定されてないし、2000討ち死も誰も否定してねーだろw
ただし「織田勢は大敗したといわれる」「1000以上が討取られたという」
伝聞形式の表現だが。
>>64 謙信の手紙に「千くらい溺れた」とあるだけで、討ち取られたとも書かれていない。
>>65 君は謙信書状を読んでないなww
二十三日の夜中に敗走しているところを追撃し、
千人余を討取り、残る者たちはことごとく川へ追い込みました。
原文抜粋は
>>7にあるから読んでみな
俺的には、
なぜ織田軍が、むちゃな進軍をしたのかが不思議。
加賀なんて一向宗の本拠地みたいなとこで、
周り全部敵なのに、本気で能登まで行こうとしていたのか?
>>58 少し話しが逸れるが桶狭間の説は知っているが川中島の説とは?
>川中島の説とは?
58ではないが、三池純正氏あたりの妻女山布陣・啄木鳥戦法否定説じゃないか。
霧の中で偶発的な遭遇戦という仮説には肯けないが・・・。
>>69 偶発的かー、最近の研究だと妻女山布陣自体が怪しいらしいもんな。しかしこじつけに近いような気もするが、
研究家じゃないとなんとも言えないな。サンキュ
手取川については織田厨の史料提示も反論もないようだから、暇つぶしに川中島異説の話でもするかな。
>>69で挙げたとおり、三池氏は天正10年の景勝妻女山布陣を「甲陽軍鑑」
の筆者(高坂昌信・小幡憲景)が取り違えたという説で、謙信の西条(妻女)山布陣を
否定。つまり「軍鑑」の筋書きは創作だとしているわけだ。で、
>霧の中で偶発的な遭遇戦という仮説(三池説)
だけど「妙法寺記」や快川和尚の書状に武田信繁の戦死が記録され、信濃史料にも
諸角豊後、望月、初鹿野の戦死が記録されてるから、緒戦における武田の劣勢は否定できないわな。
で、「軍鑑」の「前半戦は長尾(上杉)の勝ち、後半戦は武田の勝ち」という具合に
なるわけで。そうすると、謙信の妻女山布陣(武田の別働隊迂回)説がなければ、
武田が緒戦で劣勢になった合理的な説明が出来なくなるわけだ。
ほかに、地元研究者の間で「西条山」を善光寺裏山の「西条」に比定する説もあるが、
地名を「軍鑑」に依拠してるので、これはムリ。「軍鑑」を完全に否定した三池説のほうが
まだしも潔いというか、立論の方法が鮮明だね。でも、霧の中での偶然の接近遭遇戦は
ムリだな。「軍鑑」の筋書きを離れちゃえば、何とでも推論できるもんな。
スレ違いの長文、スマソ・・・・orz
>>71 霧中の遭遇戦だったからこそ、作戦も陣立もなく数の優位も活かせず混戦が
続いて、そのために最初は上杉が有利になった(あるいは、上杉の方が早く
立て直すことに成功したか?)ということでないかな。侍大将級の戦死が多く
でたのも、それだけ混乱が続いていたということでしょう。
べつに、別働隊迂回説がなくとも説明はできると思うが。
参考までに、史料うP
里見義弘、梶原政景、水谷勝俊、結城晴朝、佐竹義重から越山(関東出兵)を
求められていた謙信が、能登・加賀に出兵した契機となった書状らしい。
ほかに、足利義昭から吉江資堅(謙信側近)への別書状[吉江文書・県史3685]
先度如申越、始毛利中国諸卒既令出勢上者、此節拗方端、可及手合段、
肝要候、次至紀州雑賀、雖織田相働、失軍利引退候、委細輝元・隆景可申候也
天正5年3月27日
足利義昭(花押)
不識庵との
[新潟県史949・上杉文書1119]
74 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/15(木) 19:17:47
歴代古案収録の謙信書状、関東諸将の返書および確証の置ける上杉家の記録によると、
天正五年九月二三日、軍神謙信公の指揮する上杉軍は、手取川で織田の大軍を馬蹄にかけ、
一千余ほど討ち取り、逃げ遅れた兵をことごとく川に押し込んだということか。
四万五千ともいわれる織田主力軍団は、軍神の前になすすべがなかったということだね。
織田軍は3万前後じゃないか。
教えてエロイ人。
>>75 織田勢の人数は諸説ある。
「数万騎陣取候」(謙信書状)
「兵四万八千に」(北越軍記・武田三代軍記・日本外史)
柴田勝家、滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀、斎藤新五、氏家直通、
安藤守就、稲葉一鉄、不破光治、前田利家、佐々成政、原長頼、
金森長近および若狭衆
こいつらは、何人動員できるのだ?
柴田・滝川・羽柴・丹羽・佐々あたりで各1万(軽く5万?)はいきそうなw
79 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/16(金) 16:52:47
たらればを使うしかない上杉厨惨め・・・
81 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/16(金) 17:42:33
>>74 >軍神謙信公の指揮する上杉軍は、手取川で織田の大軍を
( ´,_ゝ`)プッ
柴田を総大将とする先方1万8千と
信長率いる本隊3万と言われているが、
主要な侍対象が柴田麾下に入っているから、
信長自身が直接足軽を率いるのは不自然だよな。
83 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/16(金) 21:22:15
信忠ガイル
とすると、
柴田達に戦さの下準備させといと、
その後に信長・信忠率いる本隊が合戦に参加して、
上杉軍にとどめをさす手はずだったのかな。
そうすると、信忠は武田・上杉を追いやった手柄ができて、
名跡として充分になると。
>>77-78 そのメンバーで、単独で一万の軍勢を持てたのは柴田と羽柴のみ。丹羽、滝川は
当時はまだ遊撃軍。前田や佐々はもともと柴田軍としてカウント。
そしてこの時期の信長と信忠は北陸には軍を出していない。
最大限見積もっても三万超えるかってところかね。羽柴軍離脱後はさらに激減。
もし主力軍で3万いかないとしたら、ガチで上杉に安土まで蹂躙されてたかもな。
上杉方も七尾城攻めで疲労しているから、
手取川北岸まで行ったあたりで、
退却ってのが、無難だろ。
仮に渡っちゃうと、
今度は上杉が名取川。
ゲーム感覚なのか、兵がいつまでも戦い続けられると思い込んでいるのが笑えるな上杉厨は
89 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/17(土) 16:03:24
不眠不休で戦っていると思ってる精神障害者が逃げ出したのですが、見かけませんでした?
中身がなくなってきたな
91 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/19(月) 17:13:21
晒しage
74 :無名武将@お腹せっぷく :2006/06/15(木) 19:17:47
歴代古案収録の謙信書状、関東諸将の返書および確証の置ける上杉家の記録によると、
天正五年九月二三日、軍神謙信公の指揮する上杉軍は、手取川で織田の大軍を馬蹄にかけ、
一千余ほど討ち取り、逃げ遅れた兵をことごとく川に押し込んだということか。
四万五千ともいわれる織田主力軍団は、軍神の前になすすべがなかったということだね。
94 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/23(金) 06:36:30
>>88 確かに。短期戦でしか力を出せない上杉軍が堅牢な安土城を攻め落とせるわけがない
95 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/23(金) 06:47:03
ここでも上杉が負けているのか。
18 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/06/20(火) 22:16:12 ID:nlCxe46N
本庄繁長は謀反のイメージが強いかもしれないが、新発田市叛乱のさいには
上杉景勝に竹に雀の紋を許されたり、最上義光を破ったりと活躍している。
関ヶ原の戦いのさいには福島城を攻める伊達勢は繁長の戦略にかかり、幔幕
を奪われるほどの敗けっぷりであったと伝えられる。
松川スレでも捏造が叩かれていたが、ソースが全て講談だから「と伝えられている」
としか書けない苦しさ。上杉厨哀れ wwww
96 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/23(金) 20:06:03
【上杉謙信テーマ曲】
教室の隅っこにしゃがんだ 悲惨な上杉ファンを見ていた
人それぞれ好みはあるのに 誰も君に話しかけないね
上杉謙信が1番だなんて 信者がブヒブヒ吠えてて
ゴミ溜めの中顔真っ赤にして アンチ上杉に論破されてる
それなのに上杉謙信は どうしてこうもショボすぎる
できることもないのに信者たち 1番にさせたがる
そうさ、謙信は
世界でもまれに見るクソ武将 ひとりひとりキモイ信者もいる
上杉のスレ立てコピペ貼りに一生必死になれば良い
武田信玄と上杉謙信 信者は必死に比べようとするけど
ナンバー1になれるはずがない もともとぶっちぎりのワースト1
151312004100.1670.2310.1670.3980.0769
132622001100.1360.1740.1360.3100.0385
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