2 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/06(火) 20:10:42
復活age
、 l _,
ヽ/⌒ヘ~ ,ヘ ,rァ 新スレです
., 't,_,ノ丶 / '、 ,/ ,i
/ ! '` | '──--' { 楽しく使ってね♪
,/ ● L_/ 'i,
/ l ,/ ● i, 荒らしたりしないでね♪
,-、'i しii 丿
||`:、\ 'ii __,/
/ 'i、 ̄~~ ij 乙__,-、
|米 |-ァ __,| .|
|酒 | i' 'l / ヽ
|_ | ! l | 米|
~^''!, ,_ ,!_...| 酒|
\ l,~^''‐--:.,,⊃____|) ) ) )
`'‐’
4 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/06(火) 20:43:46
張喜
臧覇
朱霊
王雄
石苞
さあどれから語る?
程cは演義のお陰で目立てた奴
荀ケは儒者野郎の過大評価を受けた奴
曹操陣営の軍人ってさ、
夏侯・曹家の親族と、
楽進・于禁ら古参と、
張遼・張コウら転向組で明確にランク別けされてない?
10 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/08(木) 00:32:17
11 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/08(木) 12:34:55
>>8 軍人はあの時代ではノンキャリだからな。
曹操の親族や高級官僚との間には超えられない壁があるのはどうにもならない。
李典の本当の享年はいくつなんだ?
本当に36なら10歳くらいで戦争デビューしてる事になるが
常林好きだけどマイナー過ぎるんだよな。
>>11 でもさ、残りの二国は形式だけとはいえこと軍人に限ればもうちょっと公平、というか壁が低くない?
蜀(劉備)は一時的とはいえ古参の関羽・張飛と新参の馬超・黄忠を同列につけたし、魏延なんかも古参の趙雲を追い抜いて
張飛を抑えて漢中太守任されてる。親族は劉封を重用したぐらい。
呉(孫権)は転向してきた甘寧が親族の孫咬と揉めた時、脅し文句まで付けて孫咬の方に謝罪させてる。
呂蒙と孫咬で迷った時も呂蒙を総司令官とした。
魏(曹操)は当時張遼・楽進・于禁・張コウ・徐晃(+朱霊)らは名声を殆ど等しくしていたのに、
曹操生前に左・右将軍に任じられたのは楽進・于禁だけ。張遼・張コウ・徐晃・朱霊らの前後左右将軍になるのは曹操死後。
また曹仁・夏侯淵が徐晃らを従えて一方面を任されることはあっても、彼らが曹操以外の下につくことは殆どなかったはず。
単に曹仁・夏侯淵クラスの優秀な宗族が他の二国に居なかっただけかもしれないが、魏では特に目立つ気がする。
>>15 > 魏延なんかも古参の趙雲を追い抜いて張飛を抑えて漢中太守任されてる。
趙雲との比較は微妙だなあ。
役職が違うので一概には言えんと思う。
223年、劉禅が即位した時には趙雲は中護軍・征南将軍・永昌亭侯に任じられてる事からわかるとおり爵位ではこころもち趙雲の方が上。
期待された向きが違うわけだし。
張飛も翌年には車騎将軍・司隷校尉になってるように、国の中枢を担ってるわけで。
微妙に例としては適当ではないような。
>>16 趙雲は諸葛亮が力を握ってから魏延を抜き返した(並んだ?)んだと思う。劉備時代は結構席次が低い。
張飛については最終的にはその通りだけど、あの時点では誰もが張飛だと思った荊州に次ぐ重要地点を任せたわけだから、
例にかなってるといえるのではないかと思ったり思わなかったり…
>>15 一族重視なのは、曹家が官吏であった事と旗揚げ時のメンバーがそうだった事、両方の影響からだろうね。
逆に孫呉に関して言えば、軍事力の基盤を基本的に有する私兵を世襲する
豪族や軍人に依存してる部分が大きいんで、とりわけ親族を贔屓する理由も
利点もないんだろう。
>>19 利点はあるんだが、反発でかくてマイナス面の方が大きいの方が適切じゃね?
>>12 思うに没年が209年説とごっちゃになってるからではなかろうか。
実際は174年に生まれ18歳頃から曹操軍に参加。合肥戦の後216年に逝去した時、42歳であったと思う。
李典伝には三十六歳で亡くなったって書いてなかったけ?
典 好 學 問 , 貴 儒 雅 , 不 與 諸 將 爭 功 . 敬 賢 士 大 夫 , 恂 恂 若 不 及 , 軍 中 稱 其 長 者 . 年 三 十 六 薨
>>21 初平年間(190〜194)に曹操に付き従ったのは従父の李乾。
李乾が呂布に殺されると曹操の後押しを受けて子の李整が兵を継いだ。
曹操に従い呂布を破り兗州を平定すると青州の刺史となる。
李整の死後、李典がその兵を継いだ。
李典の死亡時期は正確には知らんが合肥の戦い〜文帝即位の間であることは間違いないと思うので、215〜220。
官渡の戦いの頃には李典は一族を率い曹軍の補給隊をやってたから李整の軍を受け継いだのは200頃。
20になるかならないかくらいで軍を率いていたのは間違いないようだし、それ以前から従軍はしてたろうね。
25 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/15(木) 18:07:58
李典age
李典は180〜216(場合によって数年づつ下る可能性あり)ってことでいいの?
韓浩ってどうよ?
西方方面軍司令官最有力候補&屯田制献策
28 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/24(土) 16:25:44
>>27 それらもあるが、曹操の主力中の主力を実質的に率いてきた、曹操の強さを支えてきた点が大きいよな
やはり李典&楽進だろう。
「攻めの楽進」と「守りの李典」のコンビは絶妙だ!
>>4 朱霊はそいつ等と同じグループになるのか…。
いや別段他の連中が劣ると言うわけじゃないけど。
31 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/27(火) 18:51:00
32 :
:2006/06/28(水) 19:40:42
赤壁後の合肥攻めって実際にあったことなんか?
なんか時系列がおかしいが
33 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/28(水) 22:14:05
>>32 赤壁との前後関係はおかしいが、ショウ済伝を見る限りあったんじゃないかな?
そうだね、夏侯惇だね。
35 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/02(日) 00:42:53
いくら功績があってもどさ回りの猪武人淵<<<知識人の壁<<<金持ちで曹操の中央軍を領した曹洪<<<戦略上の要地を守った名将曹仁<<<戦功は乏しくても曹操に信頼され政府の要職となり洛陽を復興させた惇
真の意味で【良】将は夏侯惇ではあるな。
37 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/02(日) 15:56:02
最近、曹氏の本来の本家は曹洪の家だったんじゃないかと思うようになった。
38 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/04(火) 03:19:38
カク昭の弓の腕前ってどの程度だったの?
確証はないけど凄かったらしい
40 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/04(火) 08:48:12
でも本人はその腕前を隠しょうとしてたらしい
41 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/04(火) 10:00:24
控えめな性格、しょうがない
マトメサイトがホスイ
43 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/04(火) 17:53:09
,.- '''ヽー- 、.._
,.ィ (ー-一つ > `ヽ 、
/ `ー─-----' ´ `ヽ、
/-__..二.._ ー-、 ヽ.、
/,.-'´ _ ` ー、`ヽ、 __,ノ ノ、.._
/'´ ,r'´ `ヽー、 _` ー `二.¬ 二 -‐' ,イー…ー-=
y'¨ ̄`l.、 r。, lr'´ `ヽ  ̄ ,.-''ブ ヽ.
| パ^ ` __,!| l‐--=- ´ -く ノ、
ゝ--''/`ヘヽr'ア∠」 ヽ-一 ´  ̄``
´'z ‐' `´ ヽ、 __,ノュ
!'^`
あぼーん
あぼーん
46 :
38:2006/07/04(火) 20:05:35
カク昭の「矢は君を知らず」から察するに凄かったような気がしないでもなく、
>>39-41どもありがと。
郝昭vs麋竺の予感!
名勝負の予感!
だが麋竺には天女と弟がいる。
これがどう動くか・・
天女が敵陣にも自軍にも放火しまくり
50 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/04(火) 22:35:56
たまには文聘の事も思い出してあげてください。
>>49 多分、弟も手伝ってる。
それみて咳き込む赫昭。
…矢、飛んでねぇな。
52 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/07(金) 03:12:59
/\_,, -―――-- _
| ∧ ___ `ヽ
/ ̄ ̄` ヽ ノ´__`ヽ \
\ _ノヽ〕斗- ―――‐\ \
\/ / \ )
| / | l l ___/ハ |ー―r‐‐'
| /_ノl 斗-ハl l/リ/ハ`刈 l |
〃 / ハ i|八 ィfテト イr'ハトj イ /
/ /ハ从ハハ い} ゞ-'〃/l/ は、はわわ、ご主人様、敵が来ちゃいました!
/ /l トi i}込 " '- "//斗
/ | !.N f´ _`≧ェイ「ニニ人___
〆 , / / て)(_) `ヽ \
// V / / /Y´l| 〉 \
/ ′ ∧ ∨イ シ弋‖ l / ̄个/
. / , 〈 \ ./ {{‐‐- ミ、 /l く/-=ミ /
/ , \ \j´ ̄` `ヾ `> 、__|`i i___
. / , \イ´ ̄`ヽ z \}‐<´| \ハ /
/ i /´7´ ̄`^ーへ_シ}=- ! ` ー} /
,′ l / 〃 ノ イ \ | V 〉
, (l i ノ) / i \! V
! ,人ノ`ヽ / / |i l i \
! ト\ / 〃 |l ! l \
, / | /イ 夾 夾 i ハ /j >
. V イ\ ∧/. ! // \ /ハ 夾 〈 ∧__, ´ /Lニ}
\l \7/ .l/ / /\/ / l\ / \ lト、___/」´_ニア
/ム/厶/、_ ,厶_/ム/ーzj L\/ | \」| V`Y´
くヘ´ ̄`  ̄` l  ̄「ハ¬---Lz __∧ \
あぼーん
>>52と麋竺が同じ車に・・
麋芳のぐれっぷりは実はコレが原因か・・
って蜀(呉?)将だな、うん
郝昭vs麋竺?
>>55 麋竺伝に曰く、
「麋竺から麋照まで、みな弓と馬が達者で巧みに射、御したという」
とある。
ぶっちゃけ弓の得意という記述のある人は他にもいるんだけどね。
郝昭vs麋竺というのは意外性というかインパクトがあるかなあと思って47のようなレスをしてしまったw
弓と馬が達者で、というのが、「戦場で大活躍」レベルなのか、
「坊ちゃんの遊びにしてはなかなか上手」レベルなのかがわからん。
白髪三千丈じゃないけど、その辺の読み方の目安ってあるのかな?
>>57 麋竺伝に曰く、
「麋竺はおだやかで誠実な男であったが、人を統率するのは不得手であった。
そのため上賓の礼をもって待遇されはしたが、一度も軍を統御することはなかった」
察すれ。
逆もあるしな。
トウガイだっけか、弓も馬も下手だけど軍略統帥は時代を代表する。
南北朝時代にもそんなヤツがいたな、名前思い出せないが。
>>59 杜預ですね。
馬乗れないけど破竹の勢い
勢いないなぁw
で、左伝読んでんだろうな
62 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/09(日) 14:55:01
将軍にも高級官僚からの出向組と叩き上げのノンキャリア組がいるわけやね
州泰・王斤頁・蒋班
カク昭の子孫は?
66 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/31(月) 15:50:57
カク昭age
67 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/01(火) 00:50:21
郭淮が曹丕に招かれたのに遅刻して
殺されそうになったのを機転で脱し、
むしろ曹丕に気に入られたってエピソード
誰か蒋済キボン。
諸葛タン
魏は狗を得た…
でも後半で活躍したよ
>>68 部下の死に様がいいね。恐ろしい魅力だ。
呉からも殉じてるしなぁ。
でも参謀達は降伏。
同胞は殺害。
関羽見たいな性格なんか?
諸葛誕は政治的な不安を覚えると民衆などに金をばら撒きまくってる。
ばら撒けば忠誠を買えるという物でもないけどね。
そなんだ。知らんかった。
そういや息子も保身は上手だったね。
そう思うと結構矛盾した性格なのかな。
72 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/11(金) 23:54:25
夏候淵・曹仁・典韋・許チョ・徐晃・王平・ホウ徳・文平・孟達・曹真・郭淮・カク昭・王双
夏候w
夏侯淵は100歩譲っても名将・良将とは言えんだろ。
馬隆って魏将?晋将?
ググっても列伝出てこないからさっぱりわからないが
能力値見る限りは名将っぽい
(・ω・ω・ω・ω・ω・ω・ω・ω・ω・ω・ω・ω・)
79 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/23(水) 17:28:03
夏侯惇夏侯惇夏侯惇
80 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/23(水) 18:31:15
夏候淵はクソだ あそこで黄忠と法正に負けてなければ…
81 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/24(木) 20:34:10
敵に緒葛亮がいたから仕方ない
夏候淵でなくても緒葛亮に勝てるわけがない
×:夏候
○:夏侯
83 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/24(木) 20:47:25
>>74 夏侯淵は晩節こそ刀の露と消えたが
息子は揃って優秀という点は評価してやらんとイカンな
84 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/24(木) 20:55:02
信陵君
86 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/24(木) 21:27:03
馬隆は晋でいいよ
活躍したのは、北方異民族の討伐だし
八陣を使ってるあたり、孔明信者にも受けがよろしかろう
87 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/24(木) 21:45:04
馬良の兄弟で魏に仕えた馬統についてキボン
88 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/24(木) 21:58:30
韓国も魏の版図に組み込まれていたから魏国民ですよ
91 :
sage:2006/08/24(木) 22:34:40
>>83 夏候ボウ(←何故か見つからない)で全て台無しの予感
92 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/24(木) 22:36:31
なぜ魏では名将が育たなかったのだろう?
曹操が偉大過ぎてみんな頼りきりだったからかな
他国より少ないとは思えないけれども
94 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/24(木) 22:49:49
曹操配下じゃ束になってもバトゥに勝てないと思うぞ。
三国時代の将じゃ諸葛亮でも勝てるかどうか。
>>95 それより「正史では惇の息子だ」ってちゃんと突っ込んであげないと
せっかくのネタ振りに対して失礼だろ
楙は曹丕のお友達
98 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/25(金) 01:53:22
張喚
許褚。演義では武力バカで典韋と同列に扱われているが。
武芸絶倫であったことは確かだろうけど、許褚はそれに加えて名士だったのでは。
一族郎党を率いて山にこもる、というのは黄巾当時の名士・名望家がよくやったらしい。
実力・名声ともに一族の代表でなければ、頭領に推戴されないはず。
許褚を李典と並べて、曹操に帰順した名士として扱ってる歴史家(日本人)がいた。
本の名前は失念・・・。
100 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/25(金) 04:53:09
名士というか豪族だろ
名士・・当時名声のあった人物
豪族・・小規模な支配者
でOK?
ok
目玉ひっこぬいたり息子が大馬鹿だったり
曹操と仲良かったり
夏侯惇はいろいろおいしいな
105 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/25(金) 07:54:50
惇の幼少時は曹操の寵童
演義の王朗は超名将
このあたりで空気を読まずに楊大眼と言ってみる
108 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/25(金) 17:41:39
じゃあ俺は冉閔と言ってみる
109 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/25(金) 18:37:48
ここで、韓玄と言ってみたり・・・
_r-、 | )´ しばらく美しい映像をご堪能下さい。
}ヽ y' / ヽr‐、_r 、 巛彡彡ミミミミミ彡彡
/ { | } {` 巛巛巛巛巛巛巛彡彡
ヽ-ュ‐`ハ`ー-く、_,r' ノ`ー-、 |::::::: i
j⌒´ ノo。゚o} ヽ 〈 ̄`ヽ /⌒ |:::::::: /' '\ |
ノ / ∞ { ヽ丿 ノ-ヽ }ノ_ノ }|::::: -・=- , (-・=-
`ー} ____ノ i `ー<ノ )`ー > /ハ -‐ァ`| (6 ⌒ ) ・ ・)( ^ヽ
`ー、__ト、ノ| | ト、_r'`ー-< o゚8, o' | | ┃ノヨョヨコョョi.┃ |
_______ | | ヽソ / ヽ゚。、 ヽ | | ┃.ト-r--、| ┃ |
/ ----- ヽ // \ー- ' ___/ }_/' | ヽ ┃ヽニニニソ┃ ノ
´ ̄ ̄ ̄ ̄`// _c‐-、_,-‐ー-、__ ヽ. ┗━━┛ / _,-‐ー-、_,-‐っ_
/ゝ、 _,.--‐ 、ニヽ E≡ ~´⌒\::::. ーーーーイ ゞ ≡∃
`}  ̄r´ ̄//| \ヽl ̄`' ̄~`‐-、__,_ ィ , ヽ , ) _,、__,-‐'~ ̄`' ̄
フ>' / / ! ! ~`;; ^ ー '` ー ' ヽ`~
o( { __,ノ ノ | | l ヽ
。゚く( _ノハ /__,,. | | | ⌒ !
゚o´ //`ー-‐'´ | | ,-――、_ l ,,,@,,, ノ _,――-、
ヾ | | ( ⌒ ヾ、.::;;;;;;::.ノ ⌒ )
\ ヽ ノ /
\ ヽ、 ヽ ;ミシミッ ノ ,ノ. /
\ l`ー‐--―イミ.i i.ミー'`ー‐--―' /
〉 イ `ー∪' 〉 |
/ ::| (_ヽ \、
(。mnノ `ヽ、_nm
北魏・・・・田中芳樹の妄想小説を思い出すな〜。
112 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/25(金) 20:01:16
因みに5人選べといわれたら誰を選ぶよ
俺は夏侯惇、司馬イ、張遼、ケ艾、カク;昭かな
無難に
典韋、許褚、張遼、李典、曹仁
朱霊、臧覇、郭淮、孫礼、陳泰
夏侯惇、李典、荀ケ、郭嘉、陳群
荀ケ、許褚、張遼、郭嘉、司馬懿
許チョって軍指揮官としての仕事をしたことあるの?
5人選べって、名将TOP5を選べって事なのか、好きな人物5人選べって事なのか、どっちなんだ?
>>118 やれやれ、
ゆとり教育世代の方でちゅか?
120 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/28(月) 23:58:51
| Hit!!
|
|
ぱくっ|
/V\
/◎;;;,;,,,,ヽそんなエサで
_ ム::::(,,゚Д゚)::| 俺様が釣られると思ってんのか!!
ヽツ.(ノ:::::::::.:::::.:..|)
ヾソ:::::::::::::::::.:ノ
` ー U'"U'
121 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/29(火) 00:53:02
楽進、荀イク、カクカ、曹操、張遼
122 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/29(火) 01:11:38
楽琳
陳葦
徐晃
司馬師
トウガイ
夏侯淵、曹仁、于禁、徐晃、張遼
つまらんスレになったなあ
125 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/29(火) 08:03:30
郭嘉 荀 司馬懿 曹操 程
126 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/29(火) 10:56:55
武官降将(または帰服)出世ランク
儀同三司(開府) 黄権
特進(大臣クラス) 臧霸・楊秋・張郃・鮮于輔
使持節(軍司令官) 徐晃・張遼・朱霊
持節 ↓ 文聘
仮節 孟達・孫観
黄権ってけっこう凄いんだな
具体的な功績は思いつかんが
>>127 蜀志に載ってるから魏での功績はあえて載せなかったんじゃない?
蜀での功績もあまり思いつかん…、
高く評価された事は知ってるが。
まああんまり言うとスレ違いだから止めとく
降ってきた時期も考えんといかんでしょ
131 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/30(水) 09:02:58
郭嘉が早死にしなかったら赤壁で大敗しなかっただろ
太公望呂尚が未だ健在なら三国時代すら訪れなかっただろう
仙人は死なないのではないか?
つまり今も健在
>>132 仙人版呂尚は左慈やら于吉やらを神にしないといけないんじゃね?
どこの星にいくのやら・・
ウルトラの星
そして彼らは、ウルトラ一族となり、「東京」の危機を救いに来ましたとさ
めでたしめでたし
何を言ってるんですか
太公望はいまだ健在ですよ
139 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/05(火) 13:04:03
逆に正史に記述のある人物で最弱の人物って誰だろうか
軍人、将軍という見方で最弱なのは正史で唯一、生まれつきの軍事無能と書かれた夏侯楙じゃない?
夫婦喧嘩や兄弟喧嘩でも負けてたなあ。
転属願い出されたのも彼だっけ?
惇よ、どんな育て方したんだ
父親があまりにも峻厳でかつ潔癖だったから息子は反動で軽薄な守銭奴になっちまったんだろ
逆の見方すれば蓄財無しってのは政治家として身を立てるには最悪
清廉な夏侯惇の生き方に少なからぬ反発と嫌悪を抱き軍人として身を立てるにしては武才はない
ならば政治家として身を立てようと蓄財に精勤する男になったんではなかろうかね
つまらない人間だということだ
>>144 こんなんだが庇ってくれるひともいたぞ。
しかし彼の凄さは清河長公主の目を盗めてない不倫だ。
146 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/06(水) 15:45:31
★秋篠宮殿下第3子 お名前予想がネットで始まる
・秋篠宮殿下・紀子妃の第3子が2006年9月6日誕生した。男性皇族で41年ぶりの
男子の誕生ということもあってか、ネット上では早くも第3子のお名前予想が
始まった。
掲示板・2ちゃんねるではすでに、「男児の名前を予想するスレ」など秋篠宮殿下の
男子のお名前を予想するスレッドがいくつか立っており、すでに「当てっこ」が過熱
している。
昭和天皇のお名前は「裕仁」、現天皇陛下は「明仁」、秋篠宮殿下は「文仁」親王と
なっている。明治天皇以降の慣例に従えば、「○仁」というお名前になる可能性が
非常に高い。実際、2ちゃんねるのスレッドでも、「○仁」という名前で「○」に何が
入るのかが争点になっており、現在挙がっているのは「和仁」「智仁」「曹仁」「杏仁」
「光仁」「紀仁」などなど。
「孟子」「易経」「論語」「中庸」などに由来する名前がつけられることが多かったが、
『週刊朝日』(06年9月15日号)によれば、眞子内親王のお名前は秋篠宮殿下の
「ひらめき」で「眞」の字が決まったという。新しい親王のお名前も秋篠宮殿下の
「ひらめき」によって決まるのかは定かではないが、06年9月12日の「命名の儀」で
秋篠宮殿下がつけることになっている。
http://www.j-cast.com/2006/09/06002843.html
はいはい曹仁って書きたかっただけな
士仁は駄目だな
杏仁豆腐かよ
じゃあここは一発カク(←字探すのが面倒)を薦めるよ
ほら あの董卓とかいろんなところに仕えたあのカクですよ
特に馬超とカンスイの二人を仲違いさせた計略は見事でしたね
他にもいろいろやってますよ
個人的にはカク、テイイク、ショウヨウなど長生きした人物はそれだけでも高評価
153 :
転載:2006/09/14(木) 23:24:09
三国時代後期の世相の暗さには、司馬懿の性格が大きく影を落としている。
司馬懿には、曹操のような高尚な思想や使命感がなかった。
あったのは自分が皇帝になりたいという我欲だけである。
皇帝になって天下の富を自家のものにするという純粋に個人的な野望しかなかった。しかもそれを隠そうともしなかった。
要するに、三国時代後期は一人の男(とその一族)の、むき出しの私利私欲によって動かされていたのであり、
そんな人物が国家の権力の中心にいては時代は暗くならざるをえないであろう。
天下を私物化しようとする彼らにとって、敵とは、「天下は一人や一家の私物ではない」という意見を抱いていた人間である。
そして、野望達成のために司馬氏がとった手段は謀略と暗殺であった。
敵を倒すのに兵戈にうったえるよりも、陰謀で陥れる手段を専らとした。やりかたが実に陰湿である。
晋のある皇帝が即位後まもなく晋朝成立の歴史を左右から初めて聞き、
「そんな成り立ちの国が長く続くはずがない」と涙を流したという話が残っている。
晋書巻一、帝紀一に司馬懿の伝(高祖宣帝紀)が立てられている。
司馬懿は晋の建国後に宣帝という皇帝号を追贈されている。
彼の伝記が晋朝の歴代皇帝の伝記部分に入っているのは当然なのだが、
そのなかで、司馬懿の性格は、「忌なれども外寛」と記されている。
(本当は人を憎む感情が強い性格だったが外面は寛大な風を装っていた)
「猜忌にして権変多し」とも書かれている。
一言で言えば、陰険な性格だということである。それにしても酷い評である。
中国の王朝編纂の歴史書(正史)では皇帝の伝記というものは、
大なり小なり体裁良く書かれるもので、ここまで悪く言われるのは珍しい。
さらに言えば、この晋書は複数の著者の共同作品であり、
また史料の博捜では後世定評がある。さらには、最後に時の皇帝の検閲裁可を経ている。
一個人が歴史書を編纂する場合、偏った主観による評価が下される可能性があるが、晋書ではその可能性はない。
司馬懿の陰険さは、誰が見ても弁護のしようがなかったのであろう。
154 :
転載:2006/09/14(木) 23:25:27
司馬懿の一生の行動を見ていると、陰険さのほかに、どうしようもない卑しさというものが臭っている。
司馬懿死後、息子の司馬師・司馬昭は、父の簒奪路線を忠実に継承した。
司馬師も司馬昭も若死にしたので、簒奪の事業は孫の司馬炎に至ってようやく完成するのだが、言動の卑しさは彼ら全てに共通している。
司馬氏は「河内の司馬氏」と当時うたわれた貴族の名門であるとされている。
だが、この卑しさはどうにも累代の貴族のものではない。
司馬懿の司馬氏について、唐代の8世紀に出来た、
当時の中国の姓氏の百科全書である元和姓纂にはこうある。
司馬氏は、帝高陽の子である重黎を始祖とし、
唐、虞、夏、殷の古代王朝時代には祝融の職を勤め、
その後、周の時代に司馬の官職を与えられて姓としたのがそもそもの由来である。
こののち数流に分かれ、秦滅直後に司馬キョウという人物が項羽によって殷の地に封ぜられて以来、
漢代の400年間を河内郡温県孝敬里を本貫として一帯に勢力を扶植し続いてきた。
後漢時代に羌族の反乱平定で名を馳せた将軍司馬鈞を出し、
以後は一貫して代々地方長官の役職を担当してきた。
司馬防には8人の息子があり、司馬懿はその次男である。
この通りだとすれば、まさに名家中の名家であろう。
しかし、この元和姓纂や晋書の家系図には疑わしいところが多い。
唐、虞の王朝も実在したものではない。夏もいまだ存在が確認されていない王朝である。
以後歴史時代である殷、周代に至っても、代々の当主の名前もない。信憑性に欠ける。
秦代になって司馬キョウが河内に封ぜられたというくだりから説明がやや具体的になる。
確かに、史記の項羽本紀には司馬キョウの名と同様の記事が見えるから、これ自体は確かに事実であろう。
清代の全晋文の司馬懿の項では、系譜を司馬キョウから始めている。
ただし、元和姓纂や晋書の系譜では、司馬キョウが司馬懿の河内司馬氏の直接の先祖であると言いながら、
司馬キョウから以後、何代もの間、子孫の名も事績も伝わっていないのは奇妙であるうえ、
約300年後の後漢になって突然、8世の孫として司馬鈞の名が出て、
司馬鈞以後5代に関しての箇所がきわめて詳細であるのはどういうわけか。
155 :
転載:2006/09/14(木) 23:26:05
本当のところは、司馬懿の司馬氏の祖先として確実に辿りうるのは司馬鈞までではないか。
だとすれば三国時代までの司馬氏は、本当はせいぜい百年そこそこの歴史しかない。
後漢の中期以後にせり上がってきた成り上がりの家であったということになる。
司馬氏は、当時の言葉でいえば、「二千石」と言われた太守クラスの地位を最高到達官職とする、中堅官吏の家柄である。
無官の土豪劣紳ではなく、一応貴族の範疇には入る。
だが、その権威は地方のもので、中央政府に地位を得たことはないから名門貴族とはいえない。
たとえば当時の貴族のなかでも名家中の名家とされた弘農の楊氏などは、そのゆえんは4代にわたって三公を出した点にあった。
あるいは汝南の袁氏について言えば、4代に渡って一族から5人の三公を出したという理由で、名家中の名家なのであった。
これら上流の貴族からみれば、司馬氏などはいわば下郎同然であったかと思われる。
その証拠に、司馬氏の通婚範囲はどうも同格の家柄に限られていたらしい。
これは、河内郡の外では貴族として認められていなかったことを示す。
当時の貴族の身分意識は強烈で家柄が格下の相手とは、平素一切の付き合いをせず、
たとえば宴会でたまたま同席しても存在を口をきかなかったらしいし、
それどころかわが身が穢れると言わんばかりに座を遠ざけたりした。
代々の司馬氏は、上流貴族からこの種の扱いを受け続けてきたはずである。
後漢から三国時代にかけての社会構成をことさらに現代風に言い直せば、全国クラスの名声と勢力を持つ貴族は上流、地方豪族は下流であろう。
そして、司馬氏のような地方官吏は中流である。
現在でもそうであるように、上流でも下流でもない中途半端な階層に位置していた。
代々の司馬氏は、現代でもそうであるように、中流の地位にある人間によくある、
権威を否定するのではなく、それに従いその中で上流に憧れ目指す、
強烈な上昇志向を抱いていたかと思われる。
こう考えてみると、司馬懿(および息子たち)の行動に納得のいくことが多い。
司馬懿、司馬師、司馬昭の生涯を通観すれば、形振り構わぬ立身出世の軌跡ともいえる。
156 :
転載:2006/09/14(木) 23:29:24
中流の特色の一つに、反対に自分より身分が下の者に対して、激しい蔑視の感情を抱くという性向がある。
上から見下される境遇で、傷ついた自尊心の回復を求めてであろう。
一種の防衛反応として、過剰な良家意識もまま見られる。
司馬氏の家風として、この二つが見事に現れている。有名な司馬懿が曹操に仕えた際の逸話がある。
司馬懿は、正式に曹操に仕えたのは建安13年(208年)だが、
その前の建安6年(201年)、まだ曹操が後漢の司空であった時期に一度曹操に招聘されたことがある。
ところが、司馬懿はこれを断った。晋書の「高祖宣帝紀」は、このおりの司馬懿の心境をこう説明している。
「漢の運は方に微えんとするも、曹氏に節を屈するを欲せず」
つまりは、滅びようとしている漢には我が身が危なくて仕えられないし、さりとて曹氏ごときに頭を下げられるかと思ったというのである。
よく知られているように、曹操は宦官の家の出身であった。これが拒否の理由である。
157 :
転載:2006/09/14(木) 23:30:18
のち晋の初代皇帝となった司馬炎についてもよく似た話があって、ある勅書のなかで、「わが一族は代々書生の家である」と誇らしげに述べている。
当時の書生とは、現在の言葉でいう学者ということである。
だが、当時、学問は特定の家に代々伝えられるいわゆる家学であり、その家に生まれれば誰でも“書生”であった。
家学は先祖伝来の学問をそのまま子々孫々に伝えるだけであるから、
あらたな発展は基本的に皆無である。そのため後漢末期には学問が硬直化した。
さらには本来個人の学識で決定されるべき学者が世襲の地位になっていたため、
当然のことながら無学無知の“書生”が輩出し、学問自体の水準も低下した。学問どころか、文盲の書生までいたらしい。
後述するが、司馬氏自体がその典型であることが晋朝の歴史のなかで明らかになる。
後漢末に、学問の知的閉塞状態に憤慨した在野の学者が新たな学問的潮流を起こす。
それから半世紀以上を経た司馬炎の時代、すでに世襲の“書生”はその固陋さと知的創造性のなさを阿諛される対象であり、少なくとも尊敬される存在ではなくなっていた。
ところが、この司馬炎の言葉は、我が家はそこいらで独学している人間ではなく、先祖代々の書生の家なのだと自慢しているのである。
今述べた当時の世相を考えると、これがなぜ自慢になるのか理解に苦しむのだが、
学問ではなく、家学という伝統的権威を拠り所に、我が家の由緒正しさを誇るところに、司馬炎の真意はあったらしい。
158 :
転載:2006/09/14(木) 23:31:17
五丈原の役で前後に分けた三国時代をかりに前期と後期と名付けるならば、
前期は曹操、後期は司馬懿の個性が時代相を決定したといえるであろう。
二人の性格を比較してみるのも有益ではなかろうか。
両者は、似ている点もあるが、対照的といっていいほど異なっている点もある。
曹操は、中国では当時はおろか現在に至るまで、大詩人として数えられるほどの知識人であり、そのうえ学問の造詣が深かった。
言動に学問による陶冶を経た品性と原則があり、それがこの人物の颯颯とした精神の格調の高さを形作っている。
前述したが、曹操は宦官の家の出である。宦官は人間にあらざる存在として卑しまれており、下流でさえなかった。つまり曹操の出身はきわめて低い。
それにもかかわらず、その曹操に品が有り、反対にまがりなりにも貴族の家柄である司馬懿にはそれがないのは、
人間の品というものは家柄には関係なく、本人の意志と努力次第という好例である。
7世紀に成立した隋書の「経籍志」を見ると、司馬懿集という題で司馬懿の作った詩を集めた書物があったらしい。
ただし現在は散逸して残っていない。
前回引いた清代の全晋文は、全漢三国晋南北朝文という、先史時代から南北朝までの中国の詩を人物別に、
作者不明の場合は無名氏作として網羅している叢書の一部である。
この叢書の狩猟範囲は、清代まで中国に残っていた古今の文献全てであり、石碑にいたるまでという徹底ぶりである。
だが、そのなかの司馬懿の部分を見ても、文章が断簡零墨にいたるまで網羅されているのだが、詩は一首もない。
159 :
転載:2006/09/14(木) 23:32:53
その理由として二つ考えられる。
まず、当時の士大夫の嗜みとして作りはしたが、数がすくなかったのであろうという理由。
二つ目には、詩の水準があまりに低くて後世に残らなかったという理由。実は、後者の可能性が相当高い。
6世紀前半の南北朝時代に、南朝梁の鐘エという人物が詩品いう書物を書いている。
これは漢代からの鐘エの生きた梁代までの詩人を、上中下の三つの評価にわけて論じた文芸批評であるが、
魏時代は、曹操・曹丕・曹植ほか数人を取り上げただけで、そのあと、いきなり晋の太康年間(280-289)の詩人に飛んでいる。
つまり、筆者の用語を使えば、三国時代は前期のみで、後期は無視しているのである。
言うまでもなく司馬懿はこの後期の人物である。つまり、彼はまったく無視された。
「爾後、陵遅衰微して、有晋に迄る」としか、鐘エはこの時期について触れていない。
司馬懿の詩など、鐘エにしてみれば「陵遅衰微」の駄作としか思えなかったらしい。
ところで前言と矛盾するようであるが、司馬懿の作になる詩は一首だけ残っている。
全漢三国晋南北朝詩の「全晋詩」の部分に、楽府詩集の引用として収録されている。
この詩は、司馬懿が遼東へ遠征して公孫氏政権を滅ぼした年(紀元239年)、
帰還の途中で故郷の河内郡温県へ立ち寄った際のものであるとされている。
160 :
転載:2006/09/14(木) 23:33:41
天地開闢してより、日月重光
際会に遭遇し、遐方に力を畢す
将に群穢を掃して還りて故郷を過ぎんとす
万里を粛清し八荒を総斉し
告成ならば帰老し舞陽に罪を待たん
(大いなる魏の御代にあって、私は偉大なる天子に仕えることを得た。
はるか彼方の辺境にいる賊を討滅せよとの大命をかしこみ、
私は我が主君のために自分のすべてを擲ってこの任を果たした。
帰還の途中で故郷に立ち寄った。
帝に御報告申し上げたあとは、封地の舞陽に引退して静かに余生を送るつもりである)
つまらない詩で、余情も余韻もなにもない。
これは詩としての技巧の巧拙以前の問題で、詩心に屈折がないためである。
というより、そもそも詩心などというものが無いといった方が正しい。
臆面もなく得意になって、平仄だけ合わせて自分の自慢話を書いているだけである。
表面的には謙譲の語気にあふれているが、これは臣下はこういう場合に、
こういう言葉づかいをするものであるという型に従っているだけであり、
型通りというところがまた陳腐で、ますますこの詩ともいえぬ詩のつまらなさを増している。
161 :
転載:2006/09/14(木) 23:34:48
ちょっと話をもどすが、詩品の筆者鐘エは、
曹操にすら“下”の評価を与えた峻烈な批評家であった。
その鐘エの芸術的基準からすれば、
司馬懿の詩など、阿呆らしくて論じるに値しなかったであろう。
もっとも、この人物の性格を窺うには恰好の題材ではある。
この詩は、一行四字の四言詩で書かれている。
四言詩は、詩経以来の詩体で、伝統を背負った荘重さがあるものの、
当時すでに古臭いとされて廃れつつあった。
代わって当時盛んになりつつあったのは五言詩である。
五言詩ではなく、四言詩の詩体をわざわざ選んだところに、
この人物の権威好き、伝統好きが現れている。
司馬懿は、おそらく五言詩は生涯作らなかったのであろう。
ついでにいえば、前出鐘エの詩品に司馬懿の詩が取り上げられていないのは、
この書が主に五言詩の作者を論じたせいもある。
この書に司馬懿の詩が取り上げられていない原因はここにもあるが、
彼だけでなく息子の司馬師、司馬昭そのほか司馬氏一門の名が全く見えないのは、
そもそも彼らが五言詩を作らなかったためであると考える方が自然である。
ここにも権威主義と伝統好きが司馬懿個人の資質ではなく、
司馬氏の家風であったらしい事情が窺えるようである。
この人物の一生を通観して窺えるのは徹底的な実利主義の徒であったことである。
おそらくは、この詩も、郷土の偉人として迎えられた歓迎の席で、
「先生、ぜひ一首」などと懇願されて、やむなく作ったのであろう。
この人物は、詩文など作って何の得があると考えるタイプの人間だった。
162 :
転載:2006/09/14(木) 23:35:35
有名な諸葛孔明との五丈原におけるエピソードを想起するのもよいだろう。
陣を堅く守って出てこない魏軍に対し、
孔明は司令官の司馬懿に婦人用の帽子を贈って嘲った。
男なら正々堂々と戦うはずである、
この軟弱さから見て貴殿は実は女にちがいない、という侮辱である。
周囲は激高したはずである。
だが、当の司馬懿は挑発に乗らなかったばかりでなく、平然としていた。
持久戦に持ち込めば蜀軍はやがて自滅するのは確実であった。
だから陣地をひたすら守り、相手の疲弊を待つというのが司馬懿の方針であり、
だからその方針を堅持した。
怒りにまかせて出撃しても一時の快を得るにすぎない。
それだけである、という論理であったらしい。
司馬懿は、前記遼東征伐の際、
土地の士民を大量に虐殺して死体を一カ所に積み上げさせ、
これを「京観」と名付けて自分の功績の記念碑として誇った。
虐殺の可否はしばらくおくとしても、「京観」とは高い丘の意味であるが、
それにしても趣味が俗悪である。こんな感性の持ち主は、どだい詩など作る柄ではない。
163 :
転載:2006/09/14(木) 23:36:59
苛烈さと爽快さは、曹操の性格である。
曹操は自らの行いが正義であるという信念を持っていた。
己が正義であるとすれば、敵対する者はすべて不正義である。
故に、曹操は敵対者を叩き潰すのに容赦しなかった。彼の苛烈さはここからきている。
すべては天下万民のためである。
この人物の生涯における公的な行動は全てこの目的の要請から発したものであり、
私利私欲から発したところが全くと言っていいほど見られない。
政治家としては狡猾で権謀術数に長け、
必要とあれば人を殺すことも厭わなかったにもかかわらず、
その行動に爽快さを感じさせる理由はここにある。
「自分がいなかったら、いったいどれだけの輩が、皇帝を、あるいは王を僭称したであろう」
建安15年(210)にある文章で曹操は自らこう述べている。(「述志令」)。
3年後の建安18年には魏公に封せられ、さらにその4年後には魏王になる時期である。
曹操はすでに後漢における圧倒的な実力者となっていた。
後漢を倒して自らが皇帝になるのではないか?
その疑いが天下に強くなってきていた時期でもあるのだが、
その疑いを曹操ははっきりと否定している。
曹操は、後漢という国家がともかくも今日まで存続できたのは、自分がいたからだという。
自分には簒奪の野望はない。
自分が主を凌ぐほどの武力と権力を手中にしたのは、国家と皇帝のためだったと。
164 :
転載:2006/09/14(木) 23:37:53
「野望を持たないと言うのであれば、
今抱え込んでいる軍勢や人材を全て召し放ち、
全てを捨てて郷里に引き篭ればよいではないか、と人は言うかもしれない」
それは不可能だ、なぜか、と曹操は自問自答する。
「自分が権力を手放せば、かならず天下に乱が起こるからだ。
自分が現在の地位に居続けるのは、
子孫のためを考えるからではなく、自分がいなくなれば国家が危殆に瀕するためである」
自分しか天下の乱を収める能力のある人間がいないのだ、
だから自分がせざるを得ないと曹操は断言している。
すごい自負心ではあるが、曹操は天下に統一をもたらすことが自分の責任であり、
自分の責任を果たすべく働いていただけで、
私的な野望のためではなかったということでもある。
さらに、これは裏返せば、自分以上に責任を果たすにふさわしい人物がもしいれば、
ためらうことなくいまの地位と権力を譲ると、曹操は宣言しているのである。
曹操の爽快さは、この自負心の強烈さと、私利私欲の無さに起因するのであろう。
曹操の死後、息子の曹丕が皇帝に即位して魏王朝を創始するが、
これは曹操のあずかり知らぬことであったろう。
晩年、曹操は魏王となり、皇帝まであと一歩の地位となりながら、
ついに簒奪を行わなっていない。
曹操は、状況がかわって天下安定のためにその方が良いとなればそうする、
しかし必要な権力と実力は魏王のままで十分手にしている、
わざわざあらたに国を興して乱を招く必要がどこにある、とでも思っていたのだろう。
165 :
転載:2006/09/14(木) 23:38:37
この点、司馬懿は異なっている。
この人物は、自分が皇帝になりたかった。そのため邪魔者を排除していった。
結果としてはついにそうならなかったが、これはその前に死んだからである。
寿命がつきなければ、この男はきっと簒奪を実行していたに違いない。
実際のところ、政治家としての悪辣さや行動の苛烈さでは曹操の方がはるかに上である。
それにもかかわらず、司馬懿が曹操よりもはるかに悪人としての印象を与えているのは、
性格があまりにも散文的であったためと、それから爽快さがなかった、
つまり陰険だったためである。
前回も触れたが、建安6年(201)に曹操に初めて召し出されようとした際の逸話は、
この二人の性格、器量の差を明らかに示して余すところがない。
当時、司馬懿は出身地河内郡の上計掾であった。
上計掾は、太守が毎年の会計報告を朝廷に報告するための資料をとりまとめ、
実際に中央政府へ出向いて報告を行う仕事である。
当時は全国で百あまりの郡が存在し、
それの一つ一つから派遣された上計掾が年末に司徒府の庭に集まって、
その年の戸口・耕地面積・財政収支・刑事・民事の重要問題について報告を行った。
いわば、上計掾は、郡の代表であり、太守の代理でもあったから、
実際の実務的な知識や能力を有する者であることが必須だった。
任に堪え得ない者では太守の恥になる。どの太守も、選抜には細心の注意を払った。
いうなれば、当時にあっては、上計掾とは最良の官吏プールであったと言える。
慧敏で、優れた人材を常に自分のもとに集めることに熱心だった曹操が、
平素から全国の上計掾に目を付けていないはずはなかった。
166 :
転載:2006/09/14(木) 23:40:08
当然、彼らの生まれや平素の行状も詳しく調べていたであろう。
曹操は、司馬懿について調べれば調べるほど、
有能な官吏であるという感を深くしたに違いない。
第一、23歳という若さがこの実務職には異例に近かったはずである。
この一点だけでも司馬懿という人物の有能さを証拠だてていた。
しかしながら、曹操は、司馬懿に関して次のような逸話も耳にしていたはずである。
楊俊という人物が司馬懿を見て、「非常の器である」と評した。
「非常」という言葉は、史記をふまえている。
「蓋し世に非常の人有りて、然る後に非常の事有り。
非常の事有りて然る後に非常の功有り」
「非常」とは、非凡という意味である。人物評としては最大級の褒め言葉とされていた。
つまりこの評は司馬懿の器量を最大限に賛美したものである。
しかし、「どんな意味の非常やら」と、曹操は思ったであろう。
じつは、史記のこの文には続きがある。
「非常なる者は固常の異とする所なり。故に曰く、黎民焉を懼る」
(非常は通常から見れば異常である。ゆえに凡夫は非常なる人間を恐れる)
通常人が非常人を恐れるのは、世に波乱を巻き起こし、災いをもたらすからである。
実は、曹操も「非常」と若いときに評されたことがある。
許劭という人物が、若年の曹操を「治世の能吏、乱世の奸雄」と形容した。
この話は後世人口に膾炙した逸話となったが、
曹操の場合、「非常」とは、治にいて乱を起こす類、
つまりこの意味での「非常」だったわけである。
曹操はまさしく「黎民焉を懼る」存在となった。
もしかしたら、曹操は司馬懿は自分と同じ非常さを持った人間なのかもしれないと考えたであろう。
167 :
転載:2006/09/14(木) 23:40:45
根拠はある。司馬懿には狼顧の相があるという。
狼顧とは身体を動かさずに首を回して顔を真後ろに向ける動作である。
狼は胴体はそのままで背後を顧みることができるらしい。
そこからこの名前が付いている。本当ならばまさしく異常である。
ただし曹操は理性人で怪力乱神を一切信じない。
こんなことが人間にできるはずがない、と頭から信用しない。
問題は、このような噂が立つという背景である。
これは、司馬懿の「非常」がいかなる性質のものかを物語っているのではないか。
曹操の欲しいのは有能ではあっても忠実な手足となる部下であって、姦雄ではない。
だが、ともかくも召しだして会ってみることにした。手にあわなければ殺せばよいとでも思ったか。
ところが、司馬懿は断った。これは前回も述べた。
その理由が、曹操の出自を軽蔑してのことであるのも前述の通りである。
ただし、この際、表向きの理由として風痺の持病のため出仕するあたわずと答えている。
風痺とは今でいうリューマチである。
返事を受け取った曹操はこの口実を最初から信じなかった。
卓越した詩人でもあったこの人物には人間心理の洞察力も備わっていた。
さらには、曹操は司馬懿の拒否の真の理由も察したかと思える。
世の上流から陰に陽にさまざまな差別や蔑視を受けてきた曹操は、
この種の扱いには敏感であったはずである。
168 :
転載:2006/09/14(木) 23:41:57
陳琳の手になる、曹操を罵倒した有名な檄文は、
この司馬懿と曹操のエピソードの前年に書かれたものである。
これは陳琳が当時仕えていた袁紹のために草したものだが、
ここの檄文では曹操の祖父にあたる曹騰が宦官であり、
いかに宦官が卑しむべき存在であるかを縷々述べ、
さらにその宦官の家に養子となった人物を、
金にあかせて政府の高官の地位についたと罵倒したうえで、
だからそんな祖父や父をもつ曹操は下劣な人間なのだと攻撃している。
「曹操は贅閹の遺醜にして本より遺徳無し、剽狡鋒協、乱を好み禍を楽しむ」
この偏見は、当時の上流階級に共通するものであろう。
人を本人で見ず、身分や出身で判断する。
曹操は、司馬懿もその手の輩であることを察したであろう。
この檄文を陳琳に書かせて天下にばらまいた袁紹は、
前回のべた貴族の名門袁氏の当主であるが、
この前年におこなわれた官渡の戦いで曹操に大敗して勢力は失墜した。
この事実は、乱世には個人の実力が全てで世襲の身分や家柄が何の意味も無い、
そのことを満天下に知らしめた点で画期的であったといえる。
であるのに、未だに自分の門地を鼻に掛けているのか、と曹操は呆れて思ったであろうか。
その程度か、と曹操は司馬懿に対する評価を一挙に下げた。
169 :
転載:2006/09/14(木) 23:42:35
曹操はその証拠に一度の拒絶であっさりあきらめた。
これくらいの人間なら他にもいるとも思ったらしい。
(何が非常か。馬鹿らしい。ぜいぜい治世の能吏どまりだ。とても乱世の奸雄の柄ではない)
曹操の心中を忖度すればこんなところであろう。
このあと、曹操は司馬懿をそのまま放置した。
危険な存在と判断したなら、招聘を断った時点で、司馬懿は無事では済まなかったはずだ。
そうならなかったのは、そこまでの器量はないと見なされていた証拠である。
もっとも、7年後の208年・建安13年には今度は強制的に部下に加えさせられるのだが、
これは戦乱がいよいよ熾烈になって人材が払底してきたため、
二流以下の人材でも不平は言っていられなくなったという事情があったらしい。
この二回目の招聘の際に、曹操は使者に司馬懿への伝言を言い含めた。
「こんど断ったら牢屋にぶちこむぞ」
恐れをなした司馬懿は今度は躊躇なく幕下にはせ参じるのだが、
このあたりに両者の器量の大小が歴然と現れている。
この程度の脅しに屈するとは「役者が違う」といった感じである。
この大小は、すなわち三国時代前期と後期の時代の大小でもあるだろう。
170 :
転載:2006/09/14(木) 23:44:22
>>170 長文(陳グンの字ではない)読むのめんどかったんで読み飛ばしたら名前残った自演かと思ったよ。
晒しageってことなのね。
内容はまだあんまり読んでないんでコメントできんが。
なんつーか…「己がいかに司馬懿に偏見を持っているか」について熱弁を振るってるに近いよな。
転載なのはわかるけどマジレスしてみる
>>153 目標達成の為に曹操が行った手段も暗殺、謀略で性格に関しても「太祖性忌」と正史本文に書かれてる
劉備を除く他の指導者も大抵「忌」と書かれていたりして指導者はそれでも感情を矯めて人を使うって事で普通
>>154 中国史では青史に名前を残す事を生涯の命題にする人間もいるくらいに名前が残る事が稀
祖先の歴史がつぶさに記されてる方がレア
>>155-156 前提が間違ってるのでこの部分の考察自体が無意味
「曹操の家が宦官出身だから」という理由は明記されてないし考察の前提自体が間違ってる
前年に負けた袁紹もまだまだ健在で天下は予断を許さなかったが故の仕官拒否と考える方が打倒
>>157 荊州学派とか無視してて話にならない
後漢末の学問の流行に関しての無知をさらけ出してるだけ
>>158 五丈原で区切る歴史的意義が皆無
区切るならばその10〜13年前か25年程前
曹操の家格に関する誤認識甚だしい
>>159-161 詩吟が苦手な人間の存在を無視している論説は無意味
174 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/15(金) 17:59:36
>>162 軍事で感情に任せて負けるよりも我慢した方がマシ
軍事的な事を一切無視した人格批難は無意味
>>163 根拠無き論説は無意味
>>164 簒奪の意志は王莽の事跡をなぞってきっちり示している
>>165 逆
司馬懿のクーデターはどう見ても自衛に根を発している
政治的背景の無視しているのはよくない
>>166 思い込みによる根拠なき論説は無意味
>>167 肉体的特長として実際に首が真後ろを向く体質だった
それが理由で曹丕に可愛がられている
晋書を一部で引用し一部で無視する姿勢はよくない
>>168 根拠無き妄想
>>169 逆
208年は統一ムードが高まり戦乱が終わると誰しも考え始めていた時期
それだけに赤壁が如何に衝撃的な敗戦だったかという事に繋がる
175 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/15(金) 18:11:25
ちゃんと読んでないけど
どういう経緯でこれほどシバイを憎むようになったのかは非常に興味があるな。
適当に読んだけど、司馬昭って早死にしたっけ
早世したのは司馬師だな
だよな
前漢:高祖の粛清、呂氏の専横
後漢:末期の腐敗と混乱
魏:反乱鎮圧の汚さ、禅譲
西晋:論不要
転載元知ってるけど結構まともなサイトだよ。
俺は司馬懿嫌いなんで面白く読んでたw
>>180 URL希望
でもこれをまともっつったら何がまともでないのかよくわからないな
まともな身分の人間が書いてるんだよ。
俺的には三国時代後期の世相の暗さは曹氏が原因で司馬氏はそれを模倣しただけと思う。
曹氏の場合は派手で司馬氏は地味だったと言うだけ。
やってることの悪辣さはどっちも一緒。
ジュンイクが胡散臭い死に方をする時点で武帝が絶対的忠臣な訳がない。
あと正直明帝の事業の多くは有益ではあったものの早すぎた感がある。
確かに戦局は絶対的に有利になったが、今度は戦功を立てた司馬氏の権力が抑えきれない。
明帝死後に曹爽なんぞと並べる時点で終わっている。
オイオイ、デンパハソノヘンニシトケヨ
>>181 作者サイト発見。検索ワードは「東瀛」 「論説」あたりなんかいいんじゃないかな!
読んできた
この人の他の事に関する文章は読んだ事ないが
東洋史と銘打って三国志の事しか書いてない上に
その三国志についてもここまで何も判ってない事を書いて恥ずかしくねーのか
フリーライターっつーのはここまでアホでも出来るんかな?
>>184 ワロスwww
東瀛 論説ってまんまじゃないかw
別にいいんじゃね読んで無いけど
斐松之だってカクに場当たり的な批判してると世間で言われてますよ
好き嫌いが出るという以前に人によって人物・歴史の見方が変わるのは多々あること
今思うと魏は人物層が厚すぎて名将ばっかりでわざわざ探す必要ないね
じゃあ愚将でも語るか
つ夏侯某
189 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/26(火) 14:31:27
あげておくよ
夏侯楙はあの環境であそこまでアホに育ったことに興味がある
どこがアホなんだ?
軍才はないにしても父親に及ばないだけで充分有能だと思うが
192 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/27(水) 19:51:06
夏侯楙のどこら辺が有能なんだ?
有能じゃないから諸葛亮が攻めてきたときに曹真と交代させられたんじゃないのか。
>>193 アホか?
軍事無能、政治有能な人間の存在って認められないの?
>>194 それなら、夏侯楙が政治有能な事跡を無知な我々に教えてくれても良かろう。
・夏侯惇の息子
・吝嗇で金儲け大好き
・好色で側室多数
・丁儀を追い落として清河長公主を娶る
・コネで西部の総督になる。
・段黙の弁護を受ける
これが有能の証拠でなくて何だ? w
夏侯楙は武略が生まれつき無く治生を好んだ
と言う事は政治家を志向していたわけで「金儲け大好き」なのは問題ないと思うんだ
(儒教倫理では悪くいわれるけど)
軍人ならば金を配下にばら撒いて槍働きを期待するのは当然で夏侯惇のやり方は正しいし
でも政治家ならば金を使って多数派工作したり誰かを抱きこむ時の為に蓄財をしておく夏侯楙のやり方は正しい
あと緊急時に放出する備蓄をしておくのも正しい
国家に大きく関与する事以外はあまり書かれない三国志で割りを食ってるけど
大過なく治世をする人間ってのももう少し評価してみてはどうか
夏侯楙も失敗は軍事と下半身スキャンダルによるもので統治の失敗じゃないんだぜ
夏侯楙って演義の影響で悪くいわれ過ぎてるのはたしか
「治生」というのが生計を立てる意味もあるので、家産の充実とか、貨殖に
対して関心が高かったという事で、
>>198が言うほど官界に意欲があったかは
不明にしろ、ある意味で身の程をよく弁えていた事にもなる
軍権を剥がれて中央へ召還された件に対して不満があった様でもないし、
尚書に遷って後に大きな過失や不正を犯したとも聞こえてこないんで、中央では
可も不可もない程度に勤めてたんだろう
蓄妾に奔ったのも曹操の娘が正妻だという事からの気苦労が多かったのかも
しれない
弟への叱責は家政に対するけじめであるし、弟が公主を抱き込んで弾劾したのは
殆ど逆恨み
演義の様な大言壮語も大きな失態もないし、とりたてて有能ではないにしろ
無能と断言できるものではないな
一軍を率いる以上は 軍 人 として評価されるんじゃないのか
可もなく不可もなく勤めたから有能でなくても無能ではないって、
それはつまり政治家としても大した功績を挙げてないってことだろ
「軍事的評価」…−
「政治的評価」…0
ならマイナスにしかならんよ
>>200 別に一軍率いた事はねーんだが?
何いってんの?
なんで軍権を握ってた経歴があるからといって軍人としてのみで評価しなけりゃ
ならんのか。
そもそも軍事的評価がってのが意味不明だし。
結論、屑
隣の国にまで駄目さが伝わってるなんて、そうはいない
なに必死になってんだろう
親父が金に無頓着すぎるから守銭奴になってもしょうがない。
206 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/11(水) 00:40:53
ソウシについて詳しく知りたい
そうしたもんかねぇ
>>200 可もなく不可もなく務めたってことを軽く見すぎてない?
問題をおこさずに統治したのなら、それは立派な功績だよ。
夏侯楙がそうだったとは言わないが、問題を処理するよりも、問題になる前に
芽の段階で摘んでしまうほうがはるかに重要。
平時に乱を起こすのは余程のマヌケだな
あとは、外患の異民族がいるが、これに対して何か手を打ったとかあるのかよ
>>210 話題の人物は異民族対策する立場にないぞ
あと平時に乱を起こすと言うが、三国時代は常に戦争状態なんで「平時」じゃありません
言葉の意味くらい確認しろやマヌケ
平時でも戦時でもいいけど、孔明の北伐には全くの無警戒だった訳で、
やっぱ無能じゃん
誰も夏侯楙が軍事的に無能じゃないなんて言ってないが?
マヌケか?
>孔明の北伐には全くの無警戒だった
え?
>>209 可もなく不可もなく勤めたから評価0なんだろ
評価基準が違うんだよ
0点から10点までの評価と−・0・+の評価で、それぞれの0に等しい価値があるか?
>211
それをいうなら夏侯楙は長安の治世面での直接的責任者でもないと思うけど?
彼の役職は安西将軍で関中軍の総指揮がその役目なんだから
その任務を果たせたかが最も問われるべき点じゃないか?
長安やその周辺の政治的統治が問題なくなされていたことが評価されるべきは
本来は安西将軍の夏侯楙じゃなくて長安の令だったり京兆太守なんじゃないの?
夏侯楙擁護というものを初めて見た
>>216 夏侯楙は安西将軍・仮節・督関中
政治、軍事両面の長ってことだ
軍事は完全に無能って事が描かれているのでつい誤解し勝ちだが
夏侯楙の政治能力に関して負の記載は皆無だぞ
>>217 俺には無能の一言で切り捨てる奴がいるから、まっとうな評価をするべく
意見を述べてるだけにみえるな
たしかに擁護かもしれないが、不当な評価に対してって感じだし
どうも演義の夏侯楙から抜けきれないでレスしてる人もいるし
>>199 初めからある程度満たされているって感じだね。
降格とかの憂き目にあえば別だろうが、出世や国家にはさほど興味がなく悠々自適に人生を送れればいいという思考だったのかねえ?
親父もへたれなら息子もへたれ
しかも、親父の数少ない美点すら失ってる
劉禅といい夏侯楙といい、最近はヘタレの地位をなんとかしようとする努力が涙ぐましいな
擁護派に聞きたいんだが、俺は名将、凡将、愚将と分けるんだが、お前らの将官の分類ってどんな感じよ?
>ヘタレの地位をなんとかしようとする
違う違う
不当に低く見てる奴らが多いから、せめて正当に評価しようとしてるだけ
中には過剰な評価にはしる輩もいるが、擁護派なんて見方に何らかの意趣を
感じるよ
そんなことは聞いてないんだが
不当に低く見てるという君の見方に何らかの趣旨を感じるなぁ、とでも返せばいいか?
意味わかるよな
当時のボンボンの配下にはどんなのがいたの?
そもそも夏侯楙をいきなりヘタレ呼ばわりしてる
>>223がおかしいわな。
演義のイメージから抜けきれないのかもしれんが。
どう見ても、へたれだろ
将軍としての才能は無さは自他共に認めてたようだし
夏侯楙擁護の話を聞いてると「世の中に不要な人はいません」的なピントが外れた意見が見え隠れしてキモイ
無能な奴には容赦なく無能と言うけども
夏侯楙の場合、軍事は完全に無能という記載があるのでそれを採用
政治は失敗が書かれないということから無能と断言できないというのが俺のスタンス
第一、どんな人間だって非道な事まで想定すれば不要な人ってのは本当にごく僅かだよ
擁護だの言ってる奴もモノの一面しか見ていない浅はかさが見え隠れしてキモイ
とまあこういうことになるわけだわな
いい加減スレタイ通りの名将・良将の話題になって欲しいとは思う。
232 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/14(土) 14:18:29
では合肥を守った将軍張喜について
がんばった
だよね
曹操がある意味一番苦しかった時に持ち堪えたんだから、立派な将軍だよな
張遼に手柄を持って行かれてる感がある曹純を語ろうぜー
魏で騎兵といったら曹純、この訴えは(ry
236 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/14(土) 22:30:22
曹純の家って曹仁は勘当廃嫡されてて曹純が跡継ぎになってる気がする
たしか曹仁の方が兄で曹純は弟なんだったけ?
238 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/15(日) 01:35:32
>>208 そうです。携帯からなんで漢字が分かりませんでした。
240 :
華康敦:2006/10/15(日) 07:31:00
私見で魏の名将と言えば張コウ、カク、曹純、張遼、徐晃、朱霊あたり。
241 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/16(月) 05:31:40
王基とか王チョウとかこのスレではどんな評価?
242 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/16(月) 14:17:32
あまり注目されない三国志後期の武将
社預元凱 羊枯叔子 トウガイ士載 その息子 トウ忠
文鴦(文欽の息子) これもいれて良いだろうか?鐘会
ほかには少し時代がずれるが郭淮とかだな
何曾、唐彬、胡遵
武将って、制度や政策に関与した人物への関心は皆無かよ
まあ名将・良将を語るスレだし
そう思うなら推せよ
三国志後期だと、魏・晋は人材面で他を圧倒してるな
蜀は老人がいつまでも頑張ってるな
若いのが出てこないのは戦功が立てられないからか?
遠征の数は多いのにな、不思議だ
249 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/16(月) 18:30:09
後期なら石苞とか諸葛緒あたりだろ
>>247 263年当時
漢城:蔣斌(40-50?)、楽城:王含(不明)、関城:蔣舒(不明)、傳僉50くらい?
剣閣組:姜維62歳、廖化75歳前後、張翼70歳前後、董厥50-60?
緜竹組:諸葛瞻37歳、黄崇50前後?、李球(かなり年寄り)、張遵50くらい?
成都待機組:宗預75歳前後
永安:羅憲50-60?
庲降:霍弋65歳前後
不明:閻宇(不明)、趙統(生きていたかもしれない)、趙広(沓中で戦死は263年の事?)
廖化、張翼、董厥は成都出発組だから、前線はそれなりに若手が出始めてきてたんじゃないかな?
ただ老人組が生き残っていたこと、滅亡したことなどもあって目立ってないだけだと思う。
70超えて動けるのか…最近の年寄りは精進が足らんな
老将といえば呉の呂(ry
>>250を見てみると前期の李典や後期の鍾会が如何に若かったかを痛感するね。
>>251 当時の中国の平均寿命は無論現在の日本より低いのだけど、やはり乱世
タフな人はタフだ。
基本的には70歳で引退が慣例なんで、そこまで年寄り揃いとも思えないけどね
普通に考えれば40歳代なんてまだ若造を少し脱した程度だし
まあ魏スレで続けるのもなんだが、廖化あたりは既に前線から成都に下がってるしな。
予備役召集みたいな感じだったんだろうな。
つうか剣閣に大将軍、左右車騎騎将軍、輔国大将軍集合って何よw
255 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/17(火) 18:49:37
魏最高の名将は馬謖。代償軍の地位を追贈せよ。
>>251 平均寿命って当時の無茶高い乳幼児の死亡率も含めたものだから、
運良く十うん才まで成長できた人間は、古代でもそれなりの
寿命はあったらしいね。
それに軍人として出世した連中なんて、まず平均的な人間より
体力も抜きん出ているだろうし。
乳幼児の時期の死亡率が現在とは比べ物にならないが正しいだろうな
張郃も諸葛亮の北伐の時、寡兵で蜀軍に囲まれて、
それを60過ぎの身ながら自ら前線に出て得物を振るって、
文字通り血路を開いて見せ、諸葛亮を唖然とさせたらしいね。
演義のネタかと思ったら史実らしいし。
現代日本の政治家みたいなもんだな
40、50だと若造
さすがに50で若造はないと思うが、まあ命のやりとりしてる所だから
ベテランは現場ではかなり重宝されたんだろうな
>>259 歌舞伎の世界だと60でケツの青い洟垂れ小僧
思えば魏武も先主も、六十過ぎても軍を出したりするし、
六十過ぎて渭水の戦いに従軍し策をめぐらせた賈詡。
七十過ぎて子供作る鍾繇。
もしかして四十・三十台半ばで崩御した文帝や明帝が例外なのかな?
呉の都督は前三人は短命だけどね、皇太子の孫登や皇帝孫休・孫晧も然り。
寿命自体は現在も過去も大して代わらない。
寿命まで生きられるかどうかの確率が違うだけだからどっちも例外ということはないと思う。
幼年期での死亡率が現代とは比較にならんくらい高いからね
動乱期は若い年齢でも権柄を握れる位階に就く例も多いけど、
安定期にうつって制度や機構が整備されると出世も年功序列もものを
いうんで、高位の重職を担う連中は高齢者が多くなる
曹叡・曹芳時代の三公は軒並み高齢者で、70歳を過ぎても致仕しないで
現役って人もそれなりに
徐宣の様に68歳で致仕を願い出て許されなかった例もあるが
中国史は爺になっても前線に出るようなのが多い気がする
日本で老将というとぱっと思い浮かぶのは斎藤別当実盛、朝倉宗滴、伊勢新九郎くらいかな?
日本の戦国時代は指揮官が実際に切り合うからな
指揮だけしてりゃよかったのなんて相当大きな国だろ
あとイメージとは違うかも知れんが徳川家康は70くらいになっても戦場に出てたよな
日本は50代、早けりゃ40代で家督譲るし、老人が戦陣にってイメージが涌かないね
>>268 家督は若いのに譲って、自分は隠居・後見ってのが日本は多いかね。
中国はそういう感覚は薄いのかな。
老って字は元々70歳を過ぎた年寄りを表してるもんだしな
漢代にはもうそういう間隔があったのか
中国人は元気だなー
老って字が出来たのはもっと前だぞ
周代だからな
今の形になったのはもっと後だがな
で老と言う字は70という年齢を重ねた人間を尊敬する意味もあり
中国で「老師」というと日本語でいう先生という意味になるのは尊敬を示すという事から来ている
まあ日本語の先生も自分より年上だから尊敬しますという老人に対する尊敬の念が入ってるからどっちも似たり
国姓爺の鄭成功が若君なのだから、察しろと一行で説明出来る
>258
その老将の最期が股間を射抜かれて悶え死んだ(即死じゃないならそうなるよね)なんて、
可哀想すぎなんですけど・・・
誰だそんな空気読まない殺し方したバカ兵は!?
276 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/24(火) 17:02:11
278 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/28(土) 11:06:29
あれ?張静と張コウって同一人物?
「張コウ」の「コウ」をと外字で打ち込むと、
一部の環境では「張静」と表示されるらしい
携帯で2chを見るアホのせいで張静ネタも大分広まったな
夏侯家以上に曹家は凄いですね。 何であんなに名将ばかり産まれたんでしょう。
張文遠参上!
名将ばかり生まれたというか、教育に見合った働きをしただけだと思うがね
身内は昇格しやすいし、そういう意味では外様の働きに劣るかと
は?
>>285 勘違いしてるのかもしれんが、ここは楽羊や信陵君について語ってるスレじゃないぞ。
288 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/31(火) 15:02:31
うむ
許されるのは魏王豹までだ
289 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/31(火) 15:08:32
いや魏王豹もダメだろw
せいぜい許されるとしても楊大眼ぐらいだろ
若い頃から一軍率いてんだ。経験が違うよ
李密はだめですか
292 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/10(金) 14:38:43
そんな曹熊にも遥かに及ばない自治厨なんぞ無視しろ。
俺はなんやかんや言っても出世したらしい徐庶を知りたい。詳しい功績誰か情報キボヌ。
徐庶は右中郎将・御史中丞まで出世したらしいが。
294 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/10(金) 16:41:10
名将というか、文官じゃないか。
そもそも軍師とよばれた時期が短すぎる
右中郎将って武官でしょ?
ただの武官じゃなく高級将校になるのかな?>各中郎将
298 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/14(火) 01:57:08
徐庶って魏の将として戦場に出たことあるの?赤壁以外で。
299 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/14(火) 01:58:12
無い。文官だからな。
徐庶が実際に軍事で能力を発揮した事ってあるの?
劉備軍が夏侯惇を伏兵でボコボコにした時には
まだ徐庶も劉備陣営に加わってなかったよね?
夏候惇が新野に攻め込んだ辺りはいたんじゃないか
以前どっかのスレで博望坡の戦いの話題が出たが、その時の考察では博望坡の戦いが起こったのは203年だったか204年という結論だった。
また諸葛亮伝の記述から徐庶が劉備と初めて会見したのは諸葛亮に三顧の礼をした直前だったと思われる。
よって博望坡の戦いに徐庶が絡んでる可能性はきわめて低いと思われる。
303 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/17(金) 21:33:54
名将といえば曹真。
曹真は部下への恩賞が足りないと私財を分け与えたんだってな
演義ではボロクソに描かれてるけど本当は将としても人としても良い人だったんだな
ピザだけどな
曹仁と曹真はホントの名将だな。ただ曹真は曹仁と違い、有名な武将とはあま
り戦ってないからあまり評価されてないよな。漢中戦はまだ大した役割を与え
られてないし、呉との戦いではあまり戦果を残せなかったのが痛いし。まともに
評価されるのは北伐くらいだろうしな。
つ孔明
出世の速さは異常だけどな、曹真。皇族だからかな。
>>308 曹真って確か元々曹家の人間じゃなかったよな?
魏王朝内では皇族待遇だったのかな
魏略だと秦伯南の子になってるけど、
曹真伝には曹操の従子と書かれてるな。
どっちなんだろう。
諸葛亮を破ってはいるが、それだけなんだよなあ。確かにこれは凄い戦果だと
思うが、圧倒的劣勢で周喩の猛攻に一年耐えたり、関羽の猛攻を防いで撃退し
たり、他でも多くの戦果を挙げた曹仁と比べると見劣りしちゃうんだよな。
>>311 それに征蜀も失敗してる。
司馬懿や郭淮もそうだけど。
北伐でも曹真あまり関係ないけどな
1次では陽動に引っかかり、3次は曹真関係ないとこで行われてるし
2次の陳倉堅めは上手くいったが
曹真は人格も能力も立派なのに息子の曹爽ときたら救いようがないな。
司馬懿もこいつが出てくる前は野心を表に出すような奴じゃなかったのに……
>>314 高堂隆の遺言を見るに、司馬懿は見る人から見れば以前から怪しさ爆発だったのかも。
316 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/11(月) 13:27:45
あげ
めっちゃ長い遺言なんで部分的に要約すると、
「魏王朝に衰退の兆しが見えています。民が苦しんでいるので苦役を減らし広く恩徳を施しましょう。
鷹揚の臣(=司馬懿)が朝廷の内部で権勢を誇ることを防ぐためにも、皇族を諸侯に取り立てて皇室を支えさせましょう」
こんな感じ。
320 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/31(日) 21:44:52
閻行って魏将?
最後に所属していた陣営をとるか、それとも最も活躍していた時期に所属していた陣営をとるのかで
判断が変わってくるなあ。
参戦させなかったのは ホウ徳とかよりも寝返る可能性が高いと目されていたのかな?
ホウ徳は関羽に偉そうな事言ってんし 馬超を半殺しにした実績からも閻行のが好きなんだけどな
信用度の問題は大きいよね。
同じ元韓遂配下の将でも、最後の最後まで韓遂と共にあった、成公英。
馬超配下で、張魯の元に置いていかれ、止む無く降ったホウ徳。
曹操への使いに派遣された際、ちゃっかり自分の親父の官職を請うた挙句、
さっさと韓遂を見限った閻行。
信頼度に差が出てくるのは仕方無い。
成公英は曹操からも敬愛された感じで、晩節も汚さないあたり好感をもてるね
325 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/07(日) 00:20:39
曹操の判断は 敬愛していた人物でも
チクり一回で処刑したりと時々よく分からん
326 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/20(土) 00:37:58
魏age
327 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/26(金) 00:16:53
>321
じゃあ徐庶なんかも迷うのかな?
徐庶が好きだって人はどこに惚れ込んでんだろ?
演義だと活躍してるのかな
後、徐庶を絵に描くと大抵 頬がこけてて
苦労してそうなビジュアルになるんだな
328 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/02(金) 17:35:00
このスレッドは保守が来てないな
329 :
無名武将@お腹せっぷく :2007/02/04(日) 18:23:19
姜維 202-264
天水郡冀県に生まれる。諸葛亮による北伐が始まると、仲間からの中傷を浴びながらも蜀へ渡る。
蜀に召し抱えられるやその才能を生かし諸葛亮を虜にし、蜀の中核へ接近。
街亭の戦いでは馬ショクを誘導し魏の勝利に貢献、諸葛亮が他界すると間もなく
忠臣の反対を押し切り魏との徹底抗戦を主張、無謀な北伐を続け蜀の兵力を徹底的に疲弊させる。
また、諸葛亮の置いた漢中の兵を割いて蜀最大の盾を破壊することにも成功。
魏も機が熟したと見て、蜀へ最後の戦を仕掛ける、名君劉禅は無血降伏をするも、
姜維は徹底的に抗戦、多くの兵を犬死にさせ蜀の名声すら地の底に突き落とそうと画策。
彼の不幸はその後であった、決死の覚悟で蜀へ潜り込み、崩壊させたその勲功は大きいはずだが、
魏は彼の才能を恐れ、なんの恩賞もなかった、そこで彼は鍾会と結び反乱を起こすも鎮圧され波瀾万丈の最後を迎える。
三国志が生んだ隠れた奇才 姜伯約
鍾会より鍾ヨウのが好きだ
宮本武蔵
李通が長生きしてたら楽進以上に出世したんだろうなー
干禁した可能性もなきにしもあらずだが
333 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:
失禁したに見えた