1 :
無名武将@お腹せっぷく:
ぼく兀突骨^^
2 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/26(金) 20:13:02
んん、好きですよ!
ドーピング兀突骨スープだ
4 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/26(金) 20:13:21
読めない
syosinsya
(ー‘; ) ←佐倉
⊂ ヽ
ィ^春華(;ヽ _)_) )) カポカポ
(__人__,つ ∪J
7 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/26(金) 20:24:10
いいカメラぜすね!そんなカメラはほしいですよ!
どこで慨嘆ですか?
おちんちん
9 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/03(土) 17:02:22
馬鹿
10 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/05(月) 23:10:46
あのね・・・。これは何について書けばいいのかな?
12 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/06(火) 02:01:48
寛正三年(1462)
鎌倉街道を下る、50騎にも満たない侍の一行があった。
まもなく尾張と三河の間を流れるその名も境川を越え、彼ら一行は伊ヶ谷の郷で宿を取る。
一行の長は僧形である。額田郡岩津に居を構える豪族、岩津和泉入道月堂。
彼の得度前の名は松平次郎信光といった。
名主屋敷の離れに宿を借り一行は旅装を解く。
湯を浴み粗末な膳を囲む。宴が始まる。
信光は初老ながら大柄な体をゆするように、機嫌よく黄色い歯を見せ口を開く。
「明日はいよいよ兄者にお目見えできようの。」上座に並ぶのは弟の四郎益親。一行の副将である。やはり帰郷の喜びを隠せず杯を重ねる。
松平氏は三河西北に根付く土豪である。三河の守護は細川氏や吉良氏であるが、
それらの影響下ではなく足利将軍家の家司・蜷川氏や伊勢氏を上司と仰いでいた。
幕府の陪臣である。
「御恩と奉公」の名残である京都警護、俗に言う大番勤め。江戸時代の参勤交代の原型だが、
信光一行は奉公衆の名代で大番を勤めてきた帰途なのだ。
「しかし次郎殿。我ら冬を前に帰って来られたのは幸いであったぞ。」
脇席にいる老人は兄弟の伯父にあたる酒井七郎太。
「左様よな。何やら幕府のご重職家がそれぞれに揉めておる。奇怪なことじゃわい」
「あれだけお家の所領が各地に散っておれば惣領の有難みもありませぬわ」
「我らはあのような様を見習ってはならん。次郎殿も四郎殿も頼むぞよ」
「いや伯父御、それは杞憂にござろうて」
「我らには松平郷しかありませぬから、のう!」「わっはは!いかにもいかにも。確かにいらぬ心配じゃあ」
夜も更けゆくが、明日帰られる嬉しさが彼らを饒舌にしているのだろう。
翌朝、境川に沿って川上へ。途中平田の飯田道を東に向かう。
この伊勢湾と信州を結ぶ街道は、当時珍しい山間を切り拓いた大きな人工道であった。
一行は夕刻前に一族の待つ松平郷に辿り着いた。
当時彼ら一門にはまだ自らの明確な身分意識がなかった。
武家でありながら、女は畑仕事を。男は林業や流通業をこなすのがこの一族の特徴であった。
盆地に座があり、松平郷の惣領屋敷は街道の北の高台にある。
半町歩ほどもありなかなかに大きい。堀もあり縄張りは小さな山城のようだ。
屋敷の門の前に主らしき人物やその一族が迎えに出てきている。
老若男女小物にいたるまで二百人足らずだが、一門挙げての出迎えはさすがに賑やかである。
「よう帰って参った!」大音声で一行を迎えたのは松平兄弟の長兄・太郎左衛門。
隣には僧形の父が、傍らに付き添うように少年が太郎左衛門を支えている。
「兄者、そのお姿は?」
「話は後でよかろう。まずは垢を落として参れ。」
安堵感だろうか、信光も益親も夕餉に手をつけずに眠ってしまった。
太郎左衛門は女たちに宴の支度を命じていたが、それを聞くや微笑んで
「明日でよい。」
そういって鍋に手を突っ込み台場で酒を飲みはじめた。
日暮れた外はもう寒い。
太郎左衛門は実名を信広。父太郎左衛門泰親の長子で惣領。
近年、座での揉め事を収めた際に負った怪我がもとで片足が不自由になっている。
信広を支えて脇にいつも寄り添う少年は弥九郎といい、泰親の末の養子である。
もとは隠居した泰親が近隣の座で拾ってきた孤児だった。
頭の回転が早く、今では信広のかわりに座の差配を取り仕切っている。
信光らが帰ってしばらく経ち、松平郷は初雪に覆われた。
信広は弟たちを集めた。
信広「話とは他でもない。」
囲炉裏の小薪を火箸でくべながら切り出した。
信広「儂はの、もののふを辞めようと思う。」
信光と益親が顔を見合わせる。
信光「兄者、何をお考えじゃ?」
信広「儂は侍に向かぬ。ましてこのような脚では馬も馳せられんよ。」
ひと息おいて、
信広「次郎信光。明日よりわぬしが主ぞ。」
信光「はっ。」
信広「近ごろはご守護の威光も霞んでおってな、足助や鈴木党らと揉めてばかりじゃて。
否応なく力を戦わせるときには次郎のような主のほうがよい。」
信光「四郎はいかがする?」
益親「そうよなあ・・・儂は京に住まうと致そうか。」
信広「ほう。」
益親「儂が京に居ればお家が大番を務めずともよくなりますのでな。」
信広「よい申し出じゃ。相分かった。」
こうして信光は僧形のまま岩津で家督を継ぐことになった。
応仁の乱まではもうそれほど時間が残されていない。
当時の三河は支配構造が非常に独特であった。
鎌倉期より足利氏が入植した土地であり、守護一色氏はほとんど不在。
三河で派生した細川・吉良・今川・一色各氏の一族郎党が地元豪族と混在しており
実質的な支配者が不在であったといえる。
松平氏の根付く加茂郡は矢作川を挟んで西側には鎌倉以来地頭の中条氏・那須氏がいる。
東加茂郡は旧族鈴木氏が大半をおさえ、南に面する額田郡は西郷氏による一郡支配。
かつて信光は父兄とともに鈴木氏や西郷氏と小さな戦を繰り返し勢力を広げてきた。
信広は岩津侵攻の頃から傷を重ねており、鈴木氏と寺部座を争った際に決定的な不具となった。
信光は兄が治めた中山七名からの発展を考えている。
京に出ていた経験と山間の交通感覚から、彼の目標は南に向いていた。
「海と平野が欲しい」
ところで信光は大変な子福者であった。子女四十八とさえいわれ、
岩津城に移動したのちも郎党より子供らのほうが多かったのである。
また城持ちといっても小領主にかわりはなく、地頭でも旧郡司でもない。
大番をつとめても武士というよりは大きな庄屋だと思えばよい。
南へ勢力を伸ばしたい。しかし三方はすべて批判的な旧勢力。
無策では現状維持さえ困難ななか、年長の子たちが信光の手足となって動き始める。
23 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/16(日) 06:35:26
良スレ
ひっそりやりたいんでageんでください・・・
間違えた。
26 :
氷連中佐:2006/07/17(月) 23:42:07
>>1は自分が馬鹿だという事に気づくだけでも賢いですね! ・ ・ ・ ・ ・ ・ あれ?
27 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/21(金) 20:42:42
兀突骨って肥の\で知力全部将最下位だったね
春になり、益親が京へと旅立って行く。
中山七名の利権が絡み、額田の西郷氏との冷めた緊張がはじまる。
いや、三河全体ひいては日本国中が奇妙な緊張に襲われていた。
分家からの養子たちがいがみ合う。親子で所領の諍いがおきる。
益親のいる京から逆に、主家筋にあたる伊勢氏からの使者が岩津を訪れた。
使者は30代の壮年、申次衆伊勢備中守盛時と名乗った。
この当時将軍家よりの使者といえば、片田舎にあっては天人の降臨に似た感覚があった。
弥九郎の先導でさっそく大広間−といっても屋敷の一番広い部屋−の上座に通す。
信光が相対し、その後ろに六人の息子たち及ばない礼儀作法で畏まって並ぶ。
長男守家・次男親忠・三男興嗣・四男光重・五男元芳・六男親則である。
厳かな雰囲気をもって大仰に切り出した。
盛時「用向きの件、しかと聞かれよ。」
信光以下「はーっ」
盛時「つらつらおもんみるに云々〜」
小声で読んでいるのは挨拶文か。長い。下の兄弟たちが痺れを切らしはじめる。
盛時「額田能見にあって吉良牢人らに不逞の輩あり。宜しく鎮めるべし。」
信光「は。しかと承りました。」
盛時はおもむろに足を崩し大きく伸びをした。これが本性のようだ。
盛時「もう宜しゅうござるな。入道殿もごゆるりと。」
信光「これはこれは。では遠慮なく・・・弥九郎、茶など持てい。」
守家ら兄弟は顔を見合わせている。
この中で親忠と光重は京にいたことがあり要領を得ているようだった。
守家「おい次郎三(親忠)、どういうことだ?」
親忠「用向きは分からぬが、伊勢様は親父殿とは京で面識があるのよ。」
盛時「ときに入道殿。一揆勢は二百あまりと聞きますが、其許の手勢だけでは・・」
信光「当方三百弱にございますが、近隣からいくらか力添えを考えております。」
盛時「うむ、していかほど?」
信光「北の鈴木采女より百あまり、女婿戸田より二百あまり。」
盛時「六百ですか。」
信光「倍あれば心易いかと。」
盛時は甘い、と思った。
一揆勢は死兵。数が倍であっても窮鼠猫を咬むどころではあるまい。
盛時はただ下向してきたわけではない。軍目付として滞在し、鎮圧報告をせねばならない。
(これは他の地頭代にも掛け合わねばならぬか…)
盛時は親忠とともに東加茂郡代の鈴木氏の許へ行き、助勢をとりつけた。
親忠と盛時は歳も近く、互いに話しやすかったようですぐに親しくなった。
親忠「伊勢様は。」
盛時「ん?」
親忠「父を物足らぬとお考えではございませんか?」
盛時「いや、かようなことはないが…」
盛時は親忠の鋭さに慌てた。親忠は続ける。
親忠「我等は山あいの片田舎に育つ者は、侍になりきれない山猿かも知れませぬ。」
盛時「よく判らぬ申しようじゃ。幕府奉公衆の松平が侍でないとはいかなることかな?」
親忠は微笑んで言う。
親忠「民が少ない鄙の民は、命を取るいくさが勿体無うて不得手にございます。」
ほす
初めから戦わずして勝とうとしているのか。
盛時は要領を得ないまま、親忠に答えを求めるでもなく岩津に戻った。
信光と守家は忙しく方々に書状を飛ばす。
数日経って戦支度を終え、子息光重を留守にとどめて一家は出陣した。
した。
35 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/01(金) 21:36:02
;
38 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/05(木) 17:56:04
お前らいい加減に汁!!!!
39 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/05(木) 18:01:27
Wi
だめだな
41 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/15(水) 16:10:55
\(^o^)/
o(^^o)(o^^)o
兀突骨>>>>>>>>>>>>>>>1
44 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/04(木) 15:36:14
45 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中: