1 :
無名武将@お腹せっぷく:
わずか若年にて、連戦連勝をし、足利尊氏を壊滅させた北畠顕家公に勝てる戦国武将はいない。
北畠具教公マンセー
後藤久美子。
森久美子
5 :
勇魚 ◆Cl39TXJnDE :2006/05/17(水) 23:50:35
はいはい北畠顕家公を語るなら、南朝方の要、南部師行様を語らない訳にはいきませんね。
新スレチェックは怠らんね。
7 :
勇魚 ◆Cl39TXJnDE :2006/05/17(水) 23:59:38
新スレにはメがなくって(^Υ^
8 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/18(木) 00:20:12
で、結局は霧のように消えたけど・・・
北畠顕信は頑張った
顕家卿を思う時、涙腺が緩むが
その兄の後釜として劣勢の中がんばり続けた顕信にこそ、俺は拍手を送りたい
後村上天皇にとっては兄みたいな存在だったんだろうね
11 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/18(木) 00:59:19
12 :
勇魚 ◆Cl39TXJnDE :2006/05/18(木) 01:13:58
>>11 勿論、新田義貞公の鎌倉攻めに奥州から馳せ参じた政長様についても語っていきましょう
13 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/18(木) 01:15:10
三好政長
>>10 吉川太平記で楠木正行を見て北畠顕家を思い浮かべるが、彼よりもいくぶんも儚げに見えた
という後村上の感想が心憎い
そして親房が悪役にしか見えないw自分にも他人にも厳しくってイメージなんだろうが
通り越して頑固親父だから、息子3人に比べて魅力に乏しい気がする
>>all
北方謙三の「破軍の星」は必読だずぇい!
ここにいる人間は
破軍の星と北畠太平記ぐらいはデフォで読んでるから
18 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/18(木) 20:28:12
スマソ、読んでない
19 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/18(木) 20:48:15
名門北畠家最後は「織田信雄」なんだから……
浪岡御所スレではないのか。
信雄って言ったら信長が手を出せなかった伊賀を征服したり、天下太平を一刻も早く成すために
秀吉と講和した稀代の名将じゃん
>>20 ぜひ語ってくださいな
どうでもいいけど北畠顕家がゴクミみたいな
美少年なら正直掘られても悔いはありません
一番いいのは実は少女だった、というオチだけどね
そういえば顕家って子孫いたっけ。
顕家にはいない
嫁はいたよね。
26 :
勇魚 ◆Cl39TXJnDE :2006/05/18(木) 21:20:59
はいはい顕家公の遺児、顕成公のお話ですね。三戦では広げて見ましょうか。
浪岡さん
系図だと顕成-親成 で終わってるな。
>>31 あれは寛政や姓氏辞典が元だが他の雑多な系図が入ってるからあやしいよ?
まあね。養子が実子扱いだったりするし。
系図と偽系図と贋系図の区別はできてるから安心しなさい。
35 :
勇魚 ◆Cl39TXJnDE :2006/05/18(木) 21:57:39
南部信光公から弟の正光公への譲り状に少将殿、匠作殿、将監殿と呼ばれる人物が見られます。
ここでいう少将殿を北畠氏以外に見つける事は困難です。
この人物を顕成公と理解すれば、浪岡御所の伝承とも符合しますね。
>>35 浪岡は北畠とは別姓とする見方もある
むしろ浪岡は陸奥北畠の庶流というのが一般的だと思うが。
その少将を浪岡とする根拠がよくわからないが
調べてみたいので譲状をうpしてくれない?
∩___∩
| ノ ヽ クマッ _=∩__三∩
/ ● | ─= ̄=ノ --‐' 、_\─
| 彡 ( _● __-= ̄ ̄ 二= ,,・_ ≡三;:;:;ノ、 ● |=
/  ̄ ̄ ̄ _ ―, ’,∴ ・¨= 三二●_) ミ
( < ――― -―= ‐_ ―=、・∵ 三≡ ≡∪三≡ミ_=
>>25 \_) / ’,∴ ’ / ヽノ ̄ヽ
/ 丶 / /\ 〉
/ /
ん?
南北朝時代がマイナーだってよく分かった
40 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/20(土) 11:38:26
一番面白いのが南北朝時代なんだけどな
源平戦国幕末にくらべて人気が無いな
42 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/20(土) 12:52:06
なぜ北畠顕家は若輩ながら、陸奥の国史に任ぜられたのか?
補足:親房卿の
45 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/20(土) 22:26:24
高師直に負けたのは運が悪かっただけで、実力じゃないって!
逆賊になんか負けるわけが無いよ
南朝の将来を一人で背負ってたイメージなんだよな。
その間、後醍醐は立川流にハマってる。
>>45 顕家自身、奥州を出る前から負けるのはわかっていたからな。
師直や顕家の実力がどうこうと言う以前に、戦う前から戦略的に敗北していた戦い。
ってか連戦を重ねた顕家と、足利家の精鋭を率いた師直じゃ出だしの時点で違う
高は優れた武将だけど、こと顕家戦に関しては勝ったからといって上とは言えない
なんか朝廷にお手紙出した人だよね
50 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 15:13:22
後醍醐天皇は人をこまとしてか見ていなかった
51 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 16:49:36
平泉によって、戦勝祈願してるみたい。
なんつーか、意外だな。
中尊寺行く人は確認してきてくれないか?
しかし、南部家は強い。
日本のチベットという、蔑称も正鵠を得ているな。
南部家が強いっていうか
奥州馬が強いんだよね
南部家は馬を育てるために派遣されたような家だし
53 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 20:31:09
>>52 藻前そのうち雑賀衆が強いんじゃなくて鉄砲が強いとか言い出しそうだな
54 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/22(月) 02:17:45
神皇正統記を書いたのは北畠さんだったのまでは覚えてるんですが…
誰でしたっけ?教えて!
>>53 馬と鉄砲を一緒にするお前の頭がどうかと思うが?
言うまでもない事だが、南部家というのは九戸や八戸などに別れていった
この九戸とか八戸とかは馬の養成上の区分であり
そこで良質な馬を育てて多賀府に供給するのが南部氏の役割な訳だ
つまりいざ戦となれば奥州馬を独占し、その技術をもって戦闘できるアドバンテージを持つのが南部家
>>54 親房
高校教科書レベルです。自分で調べろ
56 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/22(月) 11:56:04
>>55 >九戸とか八戸とかは馬の養成上の区分であり
糠部の一戸〜九戸の地名には諸説有るわけだが…
>良質な馬を育てて多賀府に供給するのが南部氏の役割な訳だ
はて?初めて聞いた説。って事は南部師行は馬を育てる役割か?単なる牧場経営者?
師行公糠部入部は1334年と言う事だが、それ以前に根城南部二代南部政長が奥州に居たはず(津軽説有り)
師行に関しても、三戸近郊に所領が有ったかも?糠部入部直後に、三戸の毘沙門堂建立に際して土地を寄進してる。
入部直後、自分の所領じゃない所を勝手に寄進は出来ない。つまり三戸に南部師行の所領が有ったと考えられるんじゃね?
単なる馬の供給者が陸奥国府代なのか?
親房は顕家の親父
>>57 南部氏というのは甲州巨摩群南部郷の加賀美遠光が三子、南部光行が初代
奥州合戦の功により頼朝より糠部郡を賜ったと家伝にある
南部氏が選ばれたのは牧場経営に関係がある御家人だから
岩手郡以北では水稲経営に適さないが、高原が多い為に牧場の経営による軍馬の育成が行われた
糠部郡は一戸〜九戸の部に分けられ、一つの部に一牧場が置かれ、その経営手当として世襲の牧士田一町歩が給せられた
南部光行の六人の子の内、行朝、実光、朝清、宗朝、行連が一戸、七戸、四戸、九戸の祖になっている(南部系図より)
よって南部氏というのは牧場経営者であるという面は事実である
南部師行は南部氏庶流として甲州にあったモノを
元弘の乱の際に奥州に下向し、実弟の政長と共に宮方に付く
北畠顕家の主力が関東武士団であったように、陸奥国府の高官は在郷の人間ではないのが多い
師行は北条方の所領を没収している。そして没収した領土を顕家の命令をもって新領主に与えたり、寺社懐柔に使っている
それが南部師行の所領なのである
>>59 >南部氏というのは甲州巨摩群南部郷の加賀美遠光が三子、南部光行が初代
これには異論無。
>奥州合戦の功により頼朝より糠部郡を賜ったと家伝にある
これは三戸南部の言い分であって、糠部には工藤氏や三浦氏等の北条御内人が代官として居た。
吾妻鏡等にも糠部は南部氏との記述は無い。三戸南部の捏造じゃないの?
>南部氏が選ばれたのは牧場経営に関係がある御家人だから
牧場経営(馬産)に関しては、甲州南部牧での経験が有ったと思うが、宗家の三戸系ではなく何故師行が選任されたのか?
>岩手郡以北では水稲経営に適さないが、高原が多い為に牧場の経営による軍馬の育成が行われた
糠部に南部氏が入部する以前から、南部駒の育成は盛んだった訳だが・・・
>糠部郡は一戸〜九戸の部に分けられ、一つの部に一牧場が置かれ、その経営手当として世襲の牧士田一町歩が給せられた
南部氏入部以前から九つの戸に分けられて居たんだけど・・・
>南部光行の六人の子の内、行朝、実光、朝清、宗朝、行連が一戸、七戸、四戸、九戸の祖になっている(南部系図より)
三戸南部の後世に作られた系図が元だよね。
>よって南部氏というのは牧場経営者であるという面は事実である
一面は有ったと思う。
>南部師行は南部氏庶流として甲州にあったモノを
元弘の乱の際に奥州に下向し、実弟の政長と共に宮方に付く
元弘の乱の際に、南部政長が奥州から鎌倉攻めに馳せ参じてるが?
>北畠顕家の主力が関東武士団であったように、陸奥国府の高官は在郷の人間ではないのが多い
確かに、師行を始めとする根城南部氏も本領は甲州南部だな。
>師行は北条方の所領を没収している。そして没収した領土を顕家の命令をもって新領主に与えたり、寺社懐柔に使っているそれが南部師行の所領なのである
師行の所領は具体的に何処?
近年の郷土史研究では、
>>59氏の内容とは全く違う見解が有る事も知ってほしい。
>>53のアホみたいなレスから
こんなに勉強になるレスが立て続けに
あのー
>>59には矛盾点が…
>岩手郡以北では水稲経営に適さないが、高原が多い為に牧場の経営による軍馬の育成が行われた
糠部郡は一戸〜九戸の部に分けられ、一つの部に一牧場が置かれ、その経営手当として世襲の牧士田一町歩が給せられた
水稲経営に適さないのに、世襲の牧士田一町歩が給せられたって事は…?
謎多き南部氏ですね。
南部と言えば、南部師行が北畠顕家より拝領の「錦の御旗」が現存するとか?他板で見かけたような…
何処か資料館とか博物館で見れるのかな?南部の人教えて頂戴。
>>60の意見は基本的に三戸南部氏の資料を疑う所から発生している
過去の資料を疑うのが“近年の研究”だから当然だが
吾妻鏡には南部氏が参戦したとあるのは間違いがない事実であり
後の北条家専制政治内に於いて南部氏嫡流は北条氏に直接仕えつつ、兄弟を代官として奥州本領に派遣していた
>南部氏が選ばれたのは牧場経営に関係がある御家人だから
牧場経営(馬産)に関しては、甲州南部牧での経験が有ったと思うが、宗家の三戸系ではなく何故師行が選任されたのか?
>岩手郡以北では水稲経営に適さないが、高原が多い為に牧場の経営による軍馬の育成が行われた
糠部に南部氏が入部する以前から、南部駒の育成は盛んだった訳だが・・・
ここら辺は
>>60が文章をよく読んでないので割愛
糠部南部氏初代の頃の話をしてるのに師行をが出てくるし、
南部氏が入部したから牧場経営が盛んになったなどとは一言も言ってない
>元弘の乱の際に奥州に下向し、実弟の政長と共に宮方に付く
>元弘の乱の際に、南部政長が奥州から鎌倉攻めに馳せ参じてるが?
ここも同上。政長は在官、師行が下向し、宮方に付いたという文である
師行は政長に七戸を領知し、津軽地方に勢力を伸ばしている
師行は甲州南部氏として糠部に送られなかった実長の曾孫を妻として貰ってるので資格はあるだろう
大体、鎌倉末期から南北朝における領主というのは非常に判りにくい
前述したが、おおくの家は自分の領地には親族の代官を置き、本家は北条家と昵懇になるのが常だったからな
それが南北朝の動乱で機能しなくなる訳だし
資料として糠部には工藤氏や三浦氏等の北条御内人が代官として居たのは確かだが
北条御家人の所領増大は鎌倉末期の事だから、最初から糠部に南部領が無いって反証にはならん
南部嫡家は北条氏に勤仕しているし、色々推測出来る
>>63は何に矛盾を感じてるんだ?
牧士田一町歩と水稲経営に適さないが関係あるのか?
66 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/22(月) 21:24:05
>>58 あーそういう意味かサンクス
レスのテンションから、厨って意味の房だと思った
みんな熱いね(^ ^)
三戸南部を宗家と見るか否かで見解が別れると思う。そんな漏れは根城南部宗家説が納得できる。
根城が宗家だと師行下向も分かるような気がするし、三戸に師行の所領が有って土地を毘沙門堂に寄進したのも納得。
南部師行が南部家嫡流もしくは一族の代表みたいな感じじゃないのかな?
だから顕家に従って下向し陸奥国司代じゃないのかな?一介の代官が陸奥国司代に任命されるのか???
>>60氏の言い分も分かるし
>>64氏の言い分も分かる。だけど南部初代が糠部を領したとかで論ずるのは如何な物ですかね。
一戸〜九戸とか資料も無い伝説を論じても…
>岩手郡以北では水稲経営に適さないが、高原が多い為に牧場の経営による軍馬の育成が行われた
糠部郡は一戸〜九戸の部に分けられ、一つの部に一牧場が置かれ、その経営手当として世襲の牧士田一町歩が給せられた
↑の「世襲の牧士田一町歩」を「世襲の牧士に、田一町歩」と変えて読む。
水稲不適の地似て田一町歩の給与って、当時の稲作技術やら気候や品種を考慮すれば、一反辺り4俵が良いところ。豊作でも5俵なんて無理。
一町歩=10反=40俵。
1俵=60kg×40=2400kg。
2400kg÷150kg(1石)=16石。
牧場の農場長が16石かな?
ちなみに、あきたこまち玄米30kg=9000円。10kg=3000円として、16石だと72万円。
当時の米の価値が分からないから、72万と一概には言えないけど。
>>67 正平二十一年の櫛引八幡宮放生絵に於いて、所役負担の要請と八幡加護付の送付を八戸南部から行っています。
糠部総鎮守の神役配分を行う事は、糠部南部宗主と同義と思われ。
正平二十一年は1366年かな?
64は伝説や伝承の類をいかにも史実の如く言い切る所が。。。しかも挙げ足取り。
>>68 伝説の類だから、わざわざ計算しなくても・・・
話題を戻そうや。
牧士田で一区切りじゃねーの?
牧士田を一町歩
牧士に田一町歩
給金って事で意味は同意みたいだ。
調べたら牧士田を一町歩が正解。糠部独特の呼び方みたいだ。ググったが二戸の歴史HPしか無いな。
>>55 >高校教科書レベルです。
工業・商業等の高校では日本史を習わない場合も居る。レベル付けするのは良くない稀ガス
74 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/23(火) 09:23:18
北畠顕家と後醍醐天皇は衆道の仲ってマジ?
主上に衆道を持ち込む話は初めて聞くなあ
どこからの話題?
76 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/23(火) 19:40:06
73
親房を聞いた者ですが、高校で世界史選択したので日本史は近現代しか
やってないんですよね…。
77 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/25(木) 12:12:35
>>75 だいぶ前だけど日本史板 or 801板で見かけたけど、単なるネタですかね?
78 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/25(木) 12:21:24
叩きを呼び込むからその方向は止めれ
同意
どのレス?
当然だな
83 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/09(金) 17:26:12
age
>>73 その程度のことは日本人なら知っておいてほしいと思う。
伊勢物語とか土佐日記、在原業平と紀貫之とかも。
日本人ならとまでは行かないが
三戦板だって一応歴史系の板なんだから
ある程度の歴史の基礎知識は欲しいわな
87 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/13(火) 21:28:44
事実じゃねえよ
斯波家長についても語ってあげましょうよ・・・
ここ南北朝北方すれでいいんじゃない?
村上水軍の祖になった人って顕家と関係あるの?
村上北畠氏族説では北畠顕成=村上師清のはずだが、
顕成が継いだんなら、誰が浪岡継いだの?
まあ、顕信と言う線もありそうだけど。
浪岡も顕家の子孫ということだけども、
実際そうかは、わかんないと思う。可能性が高いってだけで。
とりあえず村上水軍は源氏ではあるわけだけど。
93 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/17(土) 11:12:34
95 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/01(土) 20:57:30
絵に描いたような自画自賛だな
日本一の頑固親父って清水義範の小説思い出した
97 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/07(金) 23:44:07
内容に関連性ある?読んでみるか
98 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/23(日) 12:43:29
劉焉みたいに連絡を絶って割拠するのはどう?折りをみて董卓みたいに上洛する、と。
いい策だな
100 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/01(金) 22:02:47
北条早雲
>>100 Σ(゚Д゚;なるほど、その手があったか。
伊勢宗瑞と言って欲しい
早雲庵宗瑞じゃね?
伊勢に割拠すればおK
伊勢は拠点として申し分なし。海の道はどこまでも続いているからな。
南朝方って海では強かったっけ?
そうでもない
112 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/06(金) 20:18:14
河野水軍どっちだっけ
河野は倒幕→足利方
村上水軍は南朝
その末路を考えると河野はいい椰子だよな
そういう観点かよ