1 :
1:
2 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/16(日) 10:14:50
2ゲット!
3 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/16(日) 10:32:00
おっしゃぁあああああああああああああああああああああああああああ
3げっと!
4 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/16(日) 10:39:36
4ゲット!ミ〜〜
家康嫌いのための便利な言葉「徳川幕府の捏造」この言葉を使えば不利な立場も一気に逆転、根拠がなくても大丈夫、さあみんなで使おう。
豊臣政権は公的機関ではなく、関白・太閤といった朝廷のトップ官職の下にある
私的機関であった、これは公的機関である朝廷を完全に自らの組織にする以外
に解決策はないであろう(因みに朝廷のトップは天皇である)
一方、徳川政権は征夷大将軍をトップとしその下に幕府といった公的機関を整備
する事により、大義名分と組織力を確立できたのである
つまり前者が「秀吉の威を借る」に対し、後者は「幕府の御意向を背にし」となる
この場合、どっちがより反感を買うかとなると前者である
これは個人(特に専制君主)を変えるのは難しいが、組織を改革するのはまだ
前者に較べ容易な点もあると考えられる
反感を買うとかいうのは別として、武家政権にとって
政権を継続させやすいのは幕府だわな。
関白だと、その家が斜陽になったら五摂家によって粛清される。
将軍ならば、斜陽になっても一応は世襲できる(足利将軍家のように)。
>>6 ………幕府だって、もとは私的機関なんだが。
>>8 それを公的にしてしまったのが、頼朝が政治家として有能なところ。
なんせ、あの後白河法皇と対等にやりあったのだから
>>7 鎌倉幕府は世襲できませんでしたよ。
そして室町幕府は確かに足利家の将軍だけは15代続いたが、
その間地方勢力がいうことを聞かなかったり、
将軍が暗殺されたり守護大名と争い続けたり、
終いには戦国時代になりとろくなことになっていない。
つまり、秀吉の頃の「幕府」の実績は、
一つは三代でお家断絶もう一つは内実がぼろぼろというもの。
秀吉がそれに変わる政権の形を模索したとしても不思議はない。
幕府なら政権を存続させやすいというのは、
徳川幕府の成功に基づく結果論に過ぎない。
>>10 しかし組織を創設・維持し公的な位置付けをするのは幕府の方が便利である。
そういう意味では秀吉は「木を見て森を見ず」であったのだろう
12 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/16(日) 13:46:52
三職という形でまとめられているけど
太政大臣だけは関白・征夷大将軍に比べると影が薄いな
やはり秀吉・家康の選択のせいなのか
14 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/16(日) 13:59:23
徳川家の評価するところは、やっぱりよく考えてみたら
鎖国体制を敷いて日本人の血筋を守ったこと。これは本当によかった。
15 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/16(日) 13:59:30
秀次を抹殺した後で、五大老、五奉行もないよw
>>13 秀吉はしっかりとした統治機構を造ろうとした形跡がないから
基本的に個人個人の繋がりのみで対処しようとしており、組織
による統制を重視しているようには見えない
17 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/16(日) 14:08:07
太閤の軍隊は規模がすさまじく大きいよな。
15万〜25万ですし、太閤が一番軍隊の使い方が
うまかったんでしょう?家康が大軍を動員したのは
大坂の陣くらいでしょう?
>>16 そりゃあまったく話が逆だろう。
もし秀吉が必死で体制作りをしたが、幕府ではなかったので失敗したというなら、
体制を作るためには、幕府の方が良かったという話にもなるかもしれないが、
もともと重視していなかったならどっちにしても無理というだけ。
20 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/16(日) 14:19:31
>>10 鎌倉幕府は世襲でした。頼朝の血統が絶えなければそのまま
源氏で続いていた。摂家や宮家はあくまで臨時の措置。
>>20 だから、絶やされたのじゃないか。
幕府にしようがどうしようが、
有力家臣にああいうことをされてしまっては家が滅びる。
単純に幕府にしたから安定し易い、
幕府にしなかったから滅び易いという話にはならないということ。
>>21 逆説的に主家は滅んでも組織は存続する幕府という考えも出来るかと
>>22 そんなもの秀吉にとっては何の意味もないと思うが。
組織なんてどんなに変わってもいいが、
家が残った方がいいに決まっているじゃあないか。
24 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/16(日) 14:30:17
あのぉ頼朝の系統が絶えたあとでも幕府そのものは
たいして変わらずに続いたのですが。
>>24 だから、それが政権を打ちたてようとする者にとって何か意味があるの?
体制が続いても自分の血筋が滅ぼされてはしかたがない、
そしもそれでもいいなら、最初から家康に禅譲でもしておけばよいでしょう。
結局、家康をどうにかしなければどうにもならない。
>>23 それは秀吉の考える家が「血」の家であるに対し、家康(他の武家も含めても良いかと)
の考える家が「縁」の家であることの差かと。
秀吉は自分の一族(後には自分の息子)という枠で考えていたでしょうが、家康は譜代
家臣をも含めた枠で考えていたのではないだろうか。
この辺、一般的な核家族と兄弟杯で義兄弟とするヤクザの一家並の差があるのでは
ないかと
28 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/16(日) 14:40:17
>>25 それなら幕府であろうが何であろうか
関係ないのでは? そんな何代も先の事など普通よめません。
>>28 だから、最初から幕府だろうが関白だろうが関係ないと言っているのだけど?
要するに、家康に代表される巨大な外様勢力をどうするか、
という内実が政権存続についての大問題なのであって、
関白だったからダメだったとか、
幕府にすればよかったとかそういう話じゃあないと言うこと。
30 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/16(日) 14:51:03
>>27 それは武士とそうでない者との考え方の違い
なのかもしれません。
幕府政治の方が朝廷からの制限や
影響を受けにくい為都合がよい。
なぜなら政治を支えていたのは貴族ではなく
武士なのだから。
元々、武士とは私的戦闘集団であり非合法の存在なのです。
その存在を合法化するには関白では無理で
征夷大将軍しかできないのです。
なんか勘違いしてるやつが居るな。
まるで征夷大将軍でない奴に武士が従う義務はないみたいな。
35 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/16(日) 16:20:17
>>33 征夷大将軍の命という形式でなければ武士が
領国支配する法的根拠はないのです。
36 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/16(日) 16:27:10
>>33 従う義務がないなんて書いてないよ、
合法か非合法かだよ。
すべての武士が征夷大将軍の下に従ったのは江戸時代以降。
それ以前には当然、将軍(幕府)に従わない武士はいくらでもいた。
ぶっちゃけ、南朝系の武士がその代表かね。鎌倉時代にも、朝廷に
従った北面の武士などがいる。彼らは非合法だと?
そもそも鎌倉幕府も室町幕府も御家人やら守護大名やらに背かれて
衰亡していったのだがね。
従うか従わないかではない。
その立場が公的なものか私的なものかということ。
北面の武士などはあくまでも私兵。
当時の法的な根拠なんぞ後から付いて来るもんだろ。
それとも秀吉が決めた法に法的根拠がないとか抜かした奴がいるの?
死後ですら家康程の大大名でもその法を元に糾弾されたし、家康も法自体は否定しなかったのに。
征夷大将軍を公的なものと認めてるのは当の朝廷だろ。
勢力や力関係を無視するのなら勅命に逆らうこともできない。
いくら俺が征夷大将軍といっても意味がなくなる。
すべての武士が征夷大将軍の家臣という形をとるから
末端の武士まで公的に身分を認められる。
43 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/16(日) 18:46:44
徳川以前の征夷大将軍はそこまで強力なものではないけど
関白だって支配権があったのは500年以上昔の武家が台頭していない時代
秀吉もかなり思い切った方法を取ったものだと思う
44 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/16(日) 19:12:51
秀吉が欲しかったのは織田家を支配するための正当性、
関白であろうと将軍であろうと関係ないのでは。
/././,,-,,_
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【佐倉広夢】
「んもう・・・
>>1さんまた駄スレ?駄スレ控えめにね」
「
>>2さん、2日間だけ僕の恋人になって」
「
>>3さん、デートしよ、ね!いいでしょ。デート、デート♪」
「
>>4さん、あま〜いアイスクリーム食べに行こ♪」
「
>>5さん、やっぱり女の子がいいの?男の子の僕は嫌いなの?」
>>38 武士をトップとした指揮下にはいないね
後、幕府が背かれたというより幕府の組織が現実に対応しきれなくなって
見捨てた面があるので
>>39 公的とか言ったら関白の方がはるかに高い位で公的な存在ですが。
征夷大将軍なんて、もとは令外官だしなー
>>47 朝廷の官職のみでなら、しかしその下に就く武士は私的になる
一方、征夷大将軍下の武士は幕府の武士といった公的な立場
となる
関白も令外の官。
>>49 なんでそうなるのか全く意味不明なんですが?
天皇の代理として政務を執る者の配下が、
何で公的ではないということになるのやら。
軍事統率権を持っているのは将軍。
もう教科書レベルの話はいいよ。
>>53 どこの教科書でそんな嘘を教えられたんだ?
軍事などは近衛府大将とかでしょう。
当然関白とかよりもはるかに格下。
こんな事ここの住人ならわかるだろ、
>>52 朝廷の職責を担っていない
第一、関白はあくまで朝廷の一員であり、これとは別に
公的な統治機関を作ることはできない
58 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/16(日) 21:19:54
関ヶ原なのに官職を語るスレになってしまっているな
関ヶ原自体のネタは出し尽くしてしまったから仕方がないか
59 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/16(日) 21:22:23
>>57 を補足すれば関白は公的であっても、その下
の武士は公的ではない。
>>59 その意味不明な理屈はどこから出てくるの?
もういい加減にしときなよ。
どこから語ればいいわけ?
>>60 ある会社に勤めてる重役の家にいる重役が雇った警備員はその会社の社員か?
>62 うまい。
64 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/16(日) 21:55:11
よくわかんないけど
ある会社の重役から子会社の警備会社に飛ばされた警備会社社長よりは勝ち組だと思う
ちょっと違うけど公務員か民間人、軍人か庸兵、かの
違い。上手くいえないけど。
それいったら、将軍に従った武士だって私兵になるがね。
御'家人'って意味わかる?
家康嫌いは、たいへんだねぇ。
源氏や将軍にまでケチつけなきゃならないし。
小説を読むより他の本も読めばぁ。
69 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/17(月) 00:07:04
なんでこんな議論をこのスレでやるんだ?
関白・将軍を語るスレとか日本史板に立てたら?
71 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/17(月) 06:33:11
>>68 お前は山岡荘八のオナニー小説読んでニヤニヤしてろデブ
よかったじゃん、
やっとバカ一人おとなしくなったことだし。
74 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/17(月) 12:03:14
徳川の捏造とか、もうアフォかとw
江戸後期から明治初期にはもう、徳川も三成も糞で結論づけられてんだよ。
三成なんて最近の寒流なんかと同じ。
秀吉が義昭に養子にしてくれるように頼んだ話しも
たしか徳川の捏造の一言で片付けようとしてたな。
『豊臣秀吉譜』や『後鑑』などの史料があるのに。
76 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/17(月) 19:55:08
上のほうで征夷大将軍でなければ武家を従えられないとか
主張している方もいるが
確か鎮守府将軍も征夷大将軍に劣らぬ官職だろう?まあ奥羽限定だが。
ああ尾行った誠意大使将軍に並ぶ武家の権威もあるだろ。
それは予断だが頼朝が実質的に武家政権を開いたのは征夷大将軍になる前だし
それでも関東武家はちゃんとしたがっていたのだが・・このへんは
どう説明する気だ?
。
77 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/17(月) 20:08:52
そんなことより秀吉は将軍に慣れなかったのじゃなく、関白になるよりなかっただけだろ。
秀吉は将軍に希望してもなれないのだが、それは源氏の血筋とは関係なく
秀吉が天下人になるには、そのままでは将軍を選べなかっただけ。
将軍の権威が凋落していたとかあるだろうけど
究極のところ秀吉は天皇の権威を借りることでしか前の主家織田家を越えられなかった。
秀吉がそのままで将軍になれば=簒奪。
理由は将軍職が武家の権威だから。武家の主従関係にある織田家の臣下が主をしのいで
武家の権威につけるわけないだろう。いくらなんでもあからさますぎる。
織田家を滅ぼすほどの力はなかったしな。
関白の場合将軍より格上、天皇の権威を借りて立場や血筋の弱みを補える、
平清盛以来手垢の着いてない官職、武家以外の公家、寺社など全国乃一切を総攬できる。
などメリットもあったしな。
家康も同じ手法を取ってる。主家の豊臣家が関白と言う権威に頼っていたので
逆に将軍職を引っ張り出しただけ。
で
>>75 >>『豊臣秀吉譜』や『後鑑』などの史料がある
秀吉が望んだのは将軍職じゃなく足利家の猶子だ。
義昭の養子に断られたので将軍職につけなかったというのは
秀吉が将軍職の官位を受けられなかったのじゃなく
足利家の名跡の権威を使えなかったので将軍になる意味が半減するから。
足利の名跡は少なくとも織田家より上の武家権威だからな。
秀吉が将軍になるには足利家の承認を受けたという体裁がなければ
主家をないがしろにした簒奪者という汚名を蒙る危険があり
織田家の人間を担いで造反される可能性を危惧したからだ。
足利の名を冠した将軍となれば、主筋の織田家に号礼しても不自然じゃなくなる。
78 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/17(月) 20:11:49
ごめん
>>76 デえらい文字化け。誠意大使将軍・・凄い官職名になっちまったよww
79 :
鳥屋尾宅間守 ◆Mzllk81HNE :2006/04/17(月) 20:13:17
一瞬、羽賀研二に見えた。
秀吉はそんなに深い事を考えいないと思うが、
ただ織田家の権威をしのぐものがあればいいはず。
それほどの知識はないと思う。
>>76 いいかげんにしたら
鎮守府将軍ってなんだよ、笑わせたいの?
82 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/17(月) 22:03:29
81 あっただろうが。それも室町と鎌倉どっちの幕府にも対抗勢力として存在してた事実を知らないとはいわせん。
そういった話ではない。
ちゃんとした議論をしようということ。
私が当時の大名だったとしたら厭だよ。豊臣政権なんて。
破綻した、くたびれた政権だよ。
徳川家はたとえ地味でも古めかしいとは思わない。
氏郷は家康を「吝いヤツ」と評したみたいだけど、当時にしたら躍動した勢いを感じるね。
豊臣家は自分たちから搾取しかしないけど徳川殿なら自分たちを食わしてくれるという安心感があるね。まあ、それも後年裏切られてしまうわけだが…
家康「農民は生かさず殺さず、よ。
ククク…(カスどもなんて畜生同然よ)」
本多正信だったっけ?「依らしむべし、知らしむべからず。生かさず、殺さず云々」
聞くだけでアドレナリンが沸騰するせりふだw
>>76 その個々の繋がりのみであった武士の主従関係に幕府という組織的なものを創り、
武士政権を誕生させた点に頼朝の政治家としての偉大さがあると思うのだが
>>85 日本に限らず、中世で殺さずがどれだけ大変かわかっているかい?
戦乱が無くても、天災が無くても、春先には減るんだから。
まあ、結局「生かさず殺さず」になっちまったのは武士だけどね。
家計が立ち行かなくて商人に借金なんて当たり前。江戸時代は実質武士より商人の方が偉い。
農民だって東北など一部を除けばそこそこ暮らしていけるレベルだったし。
借金はたまるわ本業の合戦はないわで、だから精神性に走っちまうわけだな。
他にやること無いもんな。
>>88 家康が言った「生かさず、殺さず」ってのは、
財源の基本となる農民層を貧困化させると、国が傾く。
でも甘えさせるとつけあがってこれまた国が傾く。
ようは、バランス感覚を持ちなさいって意味なんじゃないカナ?カナ??
でもこの話、三成の考えって聞いたことがあるん
だけどホント?
ホントだよ。秀次切腹も淀殿と密会して子を生ませたのも三成。
今ではニワカ歴史家が否定してるけど
淀殿と密会はいくらなんでも無い
ただ秀次切腹は三成が深く関わってるだろう
三成=正義としたい人が何かと理屈つけて否定したがるけど
たしか家康の政策って三成を引き継いだものが多い
んですよね?
そうすると家康批判は三成批判にもつながりますね。
家康嫌いにとって皮肉な話ですね。
三成は偽造されすぎて判断しずらい。正義とでも悪とでも個人個人好きにしてくださいって感じだな
家康が陰険な運だけの糞デブなことははっきりしてるが
家康が不当に悪く言われているのも事実。
すべてとは言わないが家康のことを口汚く言う人は
歴史をあまり知らないような気がする。
98 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 17:43:21
なんか家康信者って家康を批判されると、歴史をしらないと言う人が多いな
その光景をよく見る。
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【佐倉広夢】
「んもう・・・
>>1さんまた駄スレ?駄スレ控えめにね」
「
>>2さん、2日間だけ僕の恋人になって」
「
>>3さん、デートしよ、ね!いいでしょ。デート、デート♪」
「
>>4さん、あま〜いアイスクリーム食べに行こ♪」
「
>>5さん、やっぱり女の子がいいの?男の子の僕は嫌いなの?」
三成もちょっと前までは、それこそ家康の比でないくらい
不当に悪く言われてたけどな
そんなことはない。
>>96 家康が結果的に陰険で運が良くて、デブなのは認めるが、ただの糞では無かったのも事実。
オレは関西陣なので秀吉>>>>家康だが、江戸幕府と幕藩体制自体は嫌いじゃない。
>101
いや、ちょっとでも三成が評価され出したのはつい最近
>>102 ちょw
私見入りすぎ、それで事実といわれても。
ケチで短気で喧嘩好きで腹黒で一時期超デブで晩年ロリコンでウンコ垂れは否定できないけど、
清貧で忍従を知り、保身センスは高く、武芸は達人級で精力絶倫子沢山、
他人の良いところを取り入れられる器量はあり、自己管理がしっかりしていて意外に開明的。
何より運を確実にものに出来るのは、実力だよ。
すいません、このスレ内限定だと思いました。
106 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 18:18:18
>>102 お前関西人だから家康より秀吉の方がすきとか小学生かよw
俺は東京生まれの東京育ちだけど家康より秀吉のほうが好き
いくら秀吉好きでもさすがに晩年はねえ…
羽柴秀吉>>>>>(絶対に越えられない壁)>>>>豊臣秀吉
109 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 18:43:08
シャアとクワトロみたいなもんか
まぁ、評価に関しては勝者の徳川一族や譜代のような者の評価が割りと正確なのではないかと
思ったりする。
徳川時代、さすがに外様だと秀吉や三成ほめたりしづらいだろう。
でも秀吉は結構美化されてますよね。
草履取りから天下を取った男を美化せずに誰を美化せよと!?
悪人だとは思わないのだけど、地味かな。
他の武将と比べても面白いエピソードもないしね、 筒井でさえ 旧の木阿弥 洞ヶ峠なんてあるのに
特に嫌いではないけど、家康に魅力を感じないのはそのせいだな
若い頃は結構無茶の戦争もしてたけど中盤からは行動が手堅すぎる
信長の桶狭間奇襲とか秀吉の中国大返しみたいな博打的かつ派手な成功がないからな
だからこそ天下人たり得たんだろうけど
後世の人から見れば信長や秀吉の方が魅力的に写る
かもしれないけど当時の人からすれば家康の方が安心できるような気がする
彼は典型的な日本人って感じがする
実際に家康支持の方が多数だったからこそ勝ったわけだからな
それを忘れちゃいかん
120 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 23:22:03
戦国自衛隊見たけどやっぱ家康最強だな。
戦車だろうが、ヘリだろうが家康の智謀には勝てない。
テレビの方だよね、以外と面白かったよね。
でも1549はちょっとね…
家康は「狸親父」な面も含めて、結構魅力は感じるな。
創業者として非情な面を見せたって言えば源頼朝もそうだけど、この人は
暗さ悲惨さ感じてしまう。秀吉みたく身内殺しすぎて家が途絶えて、秀吉の
ような明るいイメージもないから救われない。
家康も結構身内に冷たくしてる部分あるんだけどうまく続いていったのは
数を揃えられたせいもあるかも・・・そしてそれは早期に正妻を亡くしたせいも
あるかも・・・とか想像が広がる。しっかり者のいわゆる賢妻がいると愛人作り
にくいんじゃないかと思うんだ。
123 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 23:40:04
>>116 関ヶ原も十分に博打的じゃないか?
結果的に調略が成功したがいくら家康だって戦前から勝利を確信できたとは思えん
>>123 確かに戦は博打勝負なところがある。
ただ関ヶ原の家康は大成した賭博師って感じがする。雰囲気で圧倒するみたいな。
家康の場合は、信長・秀吉に比べて花が無いっていうか、周りをびっくりさせてやろうみたいな所がない。
よく言えば堅実なわけで、そこが勝利の秘訣なんだろうけど…
上司にも部下にもOKな家康
部下には良いが上司は勘弁な秀吉
上司にも部下にもなって欲しくない信長
やっぱり後世の人間の目から、戦国を読み物として見てしまうと
家康は「つまらない」と思ってしまう…
これに行き着いてしまう
127 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 00:10:44
今川軍は4万、明智軍は1万
ところが西軍は士気がバラバラとはいえ数の上では10万に達しているし秀頼も握られている
三成が中堅大名とはいえ巧く皆をまとめてしまう可能性もある
もしも家康が三成の挙兵を予期して誘い出したとするなら大成どころかギャンブル狂である
信長や秀吉だって10万の敵と一度に戦ったことはない。
当時の人からすれば史上空前の大博打に見えただろうね
やっぱり後世の人間の目から、戦国を読み物として見ても面白い人物だと思うがなあ。
そこら辺は個人の感性でしょう。
関ヶ原合戦がどれくらい博打度が高かったか?という
ことに戻るのか。
三成の行為を正義というつもりは全然ないが関ヶ原
の主役はなんといっても三成でしょう。
忠臣ではなく野心家として魅力を感じる。
変かなぁ?
>>129 徳川本隊を欠いた状態だからね、本戦だけ見れば博打要素はかなり高い。
兵の質とか数以上の要素が見込めるだけに。
慎重居士の家康が決戦に臨むぐらいだから我々が思
う以上に勝算があったんでしょうね。
133 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 01:43:17
135 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 19:20:25
石田三成が非凡な才を持ち家康に匹敵するほどの大人物であったことは、後世の島左近の異常な過大評価を見れば明らか
136 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 19:57:50
切れ者だとは思うが大物となるとねえ。
137 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 20:50:08
家康のすごいところは関が原よりもむしろ戦後処理にある。
彼でなくてはおそらく争乱をしずめることはできなかった。
格の違いを才能で補って家康と張り合った点は評価してやって欲しい
>切れ者だとは思うが大物となるとねえ。
139 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 21:15:19
>>137 その争乱を起こしたのはどこのどいつだ?
>>138 個人としては三成の「このままでは家康と戦うことすら出来なくなる。やるなら今しかない」と
大体340年後の「このままでは米国と戦うことすら出来なくなる。やるなら今しかない」に
被ってしまう・・・
141 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 21:23:55
>>139
先に仕掛けたのは三成だけど・・・
>>141 仕掛けてない。家康が法度破りとかせずおとなしくしてれば三成も
動く必要はなかった。
143 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 21:36:33
>>142 いきなり軍事行動を起こす理由になるとでも?
144 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 21:36:51
>>141 はぁ?まず根本的なところから間違えてるよ君
>>142 仮に家康が動かなくても豊臣政権は砂上の楼閣の如く自壊して行くだろうよ
秀吉が死んだ時点で豊臣政権は滅ぶ定めであった
146 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 21:43:43
>仕掛けてない。
>動く必要はなかった。
なんか矛盾してる。
>仮に家康が動かなくても豊臣政権は砂上の楼閣の如く自壊して行くだろうよ
秀吉が死んだ時点で豊臣政権は滅ぶ定めであった
頭のおかしい人がいますね。どうしたらそんな根拠もないことを定めとまで言い切れるんでしょう
ここまで低レベルな家康信者は今まで見たことがない
>>147 自分のお家第一の大大名による合議制が上手く働くとでも?
>>146 矛盾してるか?
だから家康の方が先にさっさと天下取り目指して仕掛けて動いてたんだよ。
150 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 21:57:00
>>149 へえ、しらなかった。
家康が三成に宣戦布告したなんて。
関白が令外の官でないってことも(笑)
>>141 三成のほうから家康に仕掛けたなんて最近ではそんな新説もでてるんですねwwwwww
無知と無知が議論しだすとグダグダでどうしようもなくなるからやめとけ
153 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 22:10:15
>150 です。すいません。
大人げなかったです。
前みたいになりそうだったので。
東軍は秀頼の名において秀頼に叛いた上杉を討伐しに言ってたわけで
その留守のどさくさに紛れて仕掛けたのが西軍
自分は家康が他大名と盛んに婚姻関係結んだり、暗殺計画話で前田や浅野に圧力かけたり、
そういう事を「先に仕掛けてる」と言ってるんで、直接の軍事行動より意味範囲が広いんで
そこはわかってくれ
156 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 22:45:56
>>137 を受けてのものだとするとちょっと、
的外れな議論が続いた。
それはただの三成サイドの名分というか口実そのまんまじゃん
敵対する相手の非を声高に叫んで自らを正当化する理由付けにするのはあたりまえのことで
それが事実だとしても
後世の人間までがそれに乗っかることはない
歴史を語る態度としては実におかしい
単に一方の言い分の代弁者と化している
お前は家康サイドの口実そのまんまじゃん
家康は天下への野心を秘めていた。
三成は家康排除の思惑を持っていた。
これはどちらが先というものではあるまい。
160 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/20(木) 04:31:17
細川かも
162 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/20(木) 05:22:49
戦国無双やってろ!
163 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/20(木) 05:25:22
新スレになってから全然議論がすすまないね。
家康が上杉討伐に行かなければ関ヶ原も起こってなさそう
この上杉討伐も因縁吹っかけて潰そうとしたあげくだし
家康が東国に向かわなければ関ヶ原が決戦の場にな
るわけがない、事実そのものを否定しても意味がない。
>>164 景勝は家康に因縁吹っかけられたというより中央から距離を置こうとしたのを
咎められたという説もある
つまり五大老の身分でありながら自国に引きこもったのを中央からの独立(謀
反)とみなされたという理屈である
一応は筋が通っている
家康が因縁吹っかけ派だと、そう言うのは盗人にも一分の理とかへ理屈と言う
それにしては時期が急すぎないか
土台の準備もままならないのにいきなり呼び出されても困るがな
>中央から距離を置こうとしたのを 咎められた
もしかしたら他の大名への牽制の意味でもやったのかもね
この場合、中央というより徳川に
>>168 家康だって関東に飛ばされた後も殆ど京洛に張り付かされていたけどね
大義名分は東西どちらにもある
家康を弾劾、即武力行使とはあまりにも手順を無視
している、大老解任ぐらいがいいところでは。
おとなしく解任されないだろうし。家康の能力を高く評価してたのでしょう。
自分も、家康をなんとかしろと言われたら家康に時間を与え策動されてしまうより
短期決戦でなんとかしたく思います。
豊臣家にとって家康が大老職に留まることと領国に
戻し自由にさせてしまうことではどちらを危険視し
していたのだろう。
家康の上杉討伐の時三成が挙兵しなくて家康と上杉がガチで戦ったら上杉は関ヶ原の西軍より惨めなことになってただろうね
大軍で包囲→降伏→減封 ってところでしょう。
あんだけ派手にやったんだから改易だろ
関が原のときはまだ直接衝突していないので減封で済んだのだろう
三成が挙兵しなければ大谷や島津だってそのまま徳川に付いて戦ったんだよな
上杉は北条みたいに滅ぼされていただろう
それどころか三成も息子も従軍w
豊臣政権は武士政権と呼べるのか?
自家本位で武士全体の利益を考えていない。
それ故家康に諸大名の人望があつまったのではないか。
180 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/23(日) 02:44:42
>>179 重要な中継ぎとしての役割は果たしてると思うが。
江戸幕府があれほどスムーズに成立して強固な体制を築けたのは
それ以前の武家政府と違って朝廷や寺社、地方政治に深く関与した
豊臣政権の継承であったからだし
逆説的に言えば豊臣政権が武士政権?といえるか疑問なキメラな代物
だったから続いて出来た江戸幕府が朝廷や寺社へまであれほど抵抗少なく
統制が行き届いたんだと思う。
>>180 貴重なご意見ありがとうございます。
ただ私としては、朝廷との結び付きを強めた豊臣家を諸大名はどう思
ったのか、盟主としての役割を果していたか、とい
う観点で述べたのです。
>>171 家康を大老から解任できる者なんて、秀頼が成人する前は誰も存在しないよ。
実力行使なら、それこそそれだけの実力さえある者がもしいれば可能だが、
「解任」というような法的・制度的な手法は不可能。
もしやるなら無理やりするしかないから結局「実力行使」になる。
実力行使するにしても、まず謝罪を要求し、それを
拒否するなら制裁という形でなければ家康に正当防
衛の口実をあたえてしまうことになる。
>>182 結局、秀吉が死ぬ前に家康をどうこうするしかない
もっともしたらしたで両者の死後は第二次戦国時代だろうが・・・
>>184 確かにその通りだと思います。
豊臣家はもっと早くに滅亡していたかもしれない。
だからこそ秀吉はそれをしなかったのではないか、
家康の存在は豊臣家にとってメリットの方が大きか
ったと思う。
>>183 一度家康からの謝罪は引き出しているよ。
家康違いの条々の後という話ですが
>>187 前に決まっているでしょう。
内府違いの条々出した後家康が謝罪するのなんか待っていたら、
普通に潰されて終わりじゃあないか。
いくらなんでもそんなアホはいないだろう。
あくまでも手続き上の問題を言っているのですが
>>189 よく分からないが、
では具体的にどういう手続きをすればよかったと?
言いがかりにしろ上杉征伐のような形式。
>>191 誰がどのタイミングで?
なんか非常に非現実的なことを主張しているような気がするのだけど。
利家が生きているうちなら或いは可能だったかも知れないが・・・
虎(秀吉)の威を借る狐(三成)
嫌われて当然ですね
195 :
鳥屋尾宅間守 ◆Mzllk81HNE :2006/04/24(月) 19:38:27
(´・ω・)関東入国後、裏で一揆を扇動し領国経営の失政責める。そして罰として相模一国に減奉を言い渡す。
家康が拒否したら、討伐。
入国間もない故、野戦といえど地の利が生かせず大敗。
というか、上記の愚案を語るまでもなく、「いつでも秀吉は家康を滅ぼせた」んじゃない?
長久手では負けたが、あれは天下統一前、家康ばかりにかまってられない時期。
しかし天下統一した今、なにを恐れることがあろうか?
漢の劉邦とて天下統一したとたん、大勢力の臣下の韓信、彭越、英布をたやすく罪に陥れ、屠ったではないか。
天下人になった以上、罪で裁こうが、戦で成敗しようが秀吉の胸先三寸。
現に秀吉の胸先三寸で唐に二回も攻めているではないか?
そのような強大なエネルギーの持ち主が、一徳川家を成敗できない訳がない。
察するに徳川家を滅ぼせなかったのではなく「滅ぼさなかった」だけだろ?
なぜ滅ぼさなかったか?
わからん。僕は秀吉じゃないから。理由は様々だろうから、みんな考えてください。
>>195 あの時期、徳川家以外に関東を任せられそうな奴がいたか?
そして本当に絶対、家康を手易く葬れるか?
家康は関東の在地領主の既得権を安堵し、庄屋としての身分
を保障した。
そんな家康に一揆を唆されてもするか?
>>195 家康は戦国一の裏切られ者である信長と唯一人だけ最後まで同盟を続けた男
日本中が敵だらけになっても信長を裏切らなかったし、戦場でも日和見せずに常にマジメに戦ってきた
秀吉からすれば前田利家よりも遥かに信頼できる人間であったわけだ
東海道に恩顧武将を置いて牽制もしてるし家康が裏切るなんて当時では想像できなかったわけ
結果論から歴史を見てばかりではダメだよ
そうですね。
だからこそ秀吉は 死後のことを家康に託したはず。
そして家康はその期待に応えたとおもいます。
199 :
鳥屋尾宅間守 ◆Mzllk81HNE :2006/04/24(月) 23:12:40
>>197-198 それです。そうに違いない。
「豊臣政権を守る上で前田なんかより、ずば抜けて頼りになるから殺さなかった」ってことですよね?
つまり家康滅ぼすことは出来ないことではないが、豊臣政権を運営してく上で利用価値のほうが高いので生かしたとみます。
「家康は馬鹿がつくほど律儀者、ワシ亡き後も、豊臣家を粗略にすまい」と、さんざん人蕩してきた秀吉が最後に唯一、蕩らされた人物ってことでしょう。
己も織田家を簒奪した。よって天下統一という欲望は、どのような性格だろうがたちまち権力の亡者にしてしまう魔力があることを十分わかっているはず。
だが、それでも「内府は別」と思わせてしまうほど家康は芸術的演技者だったということか。
自分は確かに織田家を簒奪したといっても間接的に殺害したのは信孝ぐらい。信雄、有楽、秀信と命まで奪っていない。ましてや律儀者の内府殿が…。
とも思ったんじゃないかな。
>>196 わたしは徳川家をいつでも滅ぼせたと思いますよ。
滅ぼさなかった理由は
>>197がいったように、「前田なんかより明らかに使えるから」でしょう。
もし「家康を討伐する!」と秀吉が天下に陣触れして、諸大名が参集しないほど求心力が弱いのなら、朝鮮の役など実現しなかったと思う。
こんな馬鹿げた命令を文句いわずに渡海した諸大名たち。
ゆえに家康征伐なんてことになったら、抜け駆けで徳川領に攻め込む点採り野郎もでてくるに違いない。
200 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/24(月) 23:16:38
家康は織田を裏切ったら瞬く間に信玄に併合されるから裏切らなかった
>>200 信長を裏切った連中ってそういう理屈や現実的利益を無視して裏切っている場合が多い
つまり家康は現実をきちんと見れる人間ということ
豊臣恩顧が家康に付くなんてことは秀吉はもちろん秀吉存命中は誰もが予想不可能
秀吉からすれば家康は現実を理解して裏切らないと思っても不思議ではない
その現実を巧みに変えた家康が一枚上手だった
ネタとして流してください。
秀吉が自分の死後最も恐れた人物は家康ではない。
信長死後と秀吉死後では共通点が多い、そしてその
ことから考えれば危険視したのは五奉行などではないか。
203 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/25(火) 00:38:03
まあ、家康の能力を一番評価していたのは、秀吉なんだろうな、旧織田家の連中は家康ズレがという感じが
みえみえ。尾張閥を率いる利家と相互牽制すれば、役に立つと思ったんだろう。
204 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/25(火) 04:01:32
多角的に物事を見れないコテが紛れ混んでるな
>>204 (´・ω・)僕は、秀吉は徳川家をいつでも滅ぼせたと思うよ。
「役に立つ」から滅ぼさなかっただけだよ。
秀吉も織田を裏切ってる
家康に裏切られても因果応報ってことで
207 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/25(火) 07:58:53
そんな当たり前、且つ証明しようがない事を喚いてなんになる?
いつでも滅せたけど、織田が徳川を滅ぼさなかったのは役に立つからだよ
いつでも滅ぼせたけど、徳川が伊達を滅ぼさなかったのは役に立つからだよ
なんて喚くやつがいない理由を考えてみろ
豊臣→徳川 徳川→伊達etc
どちらも滅ぼす事は出来たでしょうし事実、加藤も福島も改易させられている。
秀吉も、丹羽・蒲生と滅ぼしこそしないが、よくにたもの。
ただ滅ぼしたり、改易したりと言うのは、政情に多少なりとも不安定さを加えてしまいます。
なわけで、なるべく波風立たない様に行わねばなりません。
あとどの政権も君主制ですから主君のきまぐれ一つでどーにでも転びます。
伊達vs秀吉なんかが良い例ですね。
特に日本人は単一種族のためか、「和を持って尊しとす」の精神からか、滅ぼすよりもよく言えば取り込む、
悪く言えば先延ばしにしがちな気がします。
信長なんかは結構例外的な人なのではないでしょうか?
>>207 (´・ω・)済まなかったな。
ただあなたではなく、「秀吉が本気で戦っても家康に勝つのは難しい」と思っている家康厨がいたから、当たり前のことを語った(喚いた)だけだ。
>>209 まあ、そういうのを見かけることもあるけど、
ここ最近のこのスレにそんなのいたか?
わざわざ書き込むなら実際にそういうのが現れた場合にしなよ。
秀吉が家康をやろうと思えば殺れた
なんてあたりまえでしょ
天下人なめんなよ
世の中そんだけ単純なら・・・
213 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/25(火) 23:21:14
単純だよ、君臣ホウラクなんて諸大名が見ても言いがかりもいいとこ。
>>213 その言いがかりと続く大阪の陣での行為が家康のイメージを悪くしてるんじゃないかと思う。
まぁ自分のいめーじを捨ててまで徳川の政権安定に望んだおかげで長期安定政権が出来たのかもだが。
>>214 無茶が出来るかどうかなら秀吉は出来ず、家康は出来た
となるのでは?
216 :
鳥屋尾宅間守 ◆Mzllk81HNE :2006/04/26(水) 00:01:09
>>215 秀吉は自分の度量で敵を飲み込もうと努力するタイプ。だから家康を殺らなかった。
家康は邪魔なものは邪魔。お家のためなら消すに限ると考えるタイプ。だから秀頼をヤルことに躊躇はない。お家がすべて。ちなみに「お家」には自分の子すら含まれていない。
どうでもいいけど、自分の思い込みだけで歴史を語ることに何か意味があるのか
壮年期の秀吉が全力かければ徳川殲滅も不可能ではないが
その後も豊臣政権を続けられるかは微妙じゃね?
>>217 思い込み?
違うんだ。とりあえず投げただけだ。
>>218みたいに、それに対して反論するもよし。根拠を請求するもよし。
おまえさんみたいな反応が一番つまらん。
秀吉はすべての大名を屈服させて天下統一を果たし
た時点で満足してしまったのではないか。
天下取り後の展望も見えないし、元々彼は血を見る
のが嫌いなタイプ なので戦を好まなかったのでは。
795 名前:鳥屋尾宅間守 ◆Mzllk81HNE 投稿日:2006/04/25(火) 15:20:26
>>793-794 (´・∀・)アホはおまえだwwwwwwwwwww
「日和見」の一亜種に「日和る」言葉があるのをしらんのかチンカスWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
主に全共闘時代に使われた言葉だボケWWWWWWWWWW
意味は「困難から逃げ出すこと」
まさに賎ヶ岳での退却行為は「困難から逃げ出した」わけだろうがWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
勝家につくか秀吉につくか悩んだ挙げ句、どちらに付くわけでもなく、ついに逃げ出したんだろ?違うかWWWWおらWWWWなんとかいえボケWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
秀吉死後も、家康と一戦を構えるわけでもなく、豊臣派を落胆させ、あの世まで逃げ出したんだろうがWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
「日和る」の意味ぐらいわかれよ無知&糞マヌケがWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
WWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
223 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/26(水) 00:49:39
221 人を切り抜くこと嫌い申し候、ボケる前の秀吉はえがった。
ぼけもあったんだろうけど異国人ならかまわないと
思ったのではないか。
晩年の秀吉はちょっと狂気じみてたからね。
温厚と言われてた頃の施政と晩年じゃずいぶん違うよ。
226 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/26(水) 01:21:32
それが雑草クオリティ
227 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/26(水) 01:24:30
雑草魂、乙。
228 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/26(水) 01:26:13
225>年をとってから生まれた我が子を思う心が狂気となる、人は悲しいネ。
まぁ大野の子だけどな
230 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/26(水) 04:02:24
秀吉は家康を滅ぼさなかったのではなく滅ぼせなかったんでしょう。
別に実力とかじゃなく
あの時点で家康を屈服させなければ九州や奥羽がもっと厄介な事態になってたはず。
んで屈服させたらあとは家康を関東に入れてしまえば、それ以上殲滅とかを
追求する必要性はないだろう。
そりゃまあ関東統治に失敗すれば佐々みたいに処分できるかもと言う期待は会った
だろうが、あの時点で家康が関東から上方まで攻め上れる状況になるとは
誰も予想できなかったろ。
あえて家康を党滅する大義名分がないのに手出しは出来んでしょ。
無理して滅ぼせたはずを主張する連中は
家康が秀吉の弟と言うことをお忘れのようです。
実際家康は豊臣の身内担ってるのをわざわざ潰す意図がないでしょ。
それに皆様方なんやかんやいって家康は秀頼の姉つまり淀殿の娘を
関白家にしていることもお忘れですか?
ちゃんと大河の葵三代にもその話は出てただろーが。
豊臣の血筋自体は残してるぞ家康は
現に昭和天皇とか豊臣家の末裔になるんだしさ。
231 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/26(水) 05:01:06
極論→滅ぼせる
現実論→滅ぼせない
で話が噛み合ってない
>>230 秀吉は、小牧戦役のあと2度家康を滅ぼす行動を起こしています。
俗に言う「富士山へ物見」ってやつですね。 名目的には調停を無視した北条討伐とか言ってますが、
最大の目的が北条と同盟をむすぶ対徳川戦であったのは間違いないでしょう。
2度目にいたっては、佐竹・上杉にも出陣の命令を出し、毛利家をも動員した大規模なものでした。
北条も同盟にのっとり、徳川に増援を送る手はずまで整えていました。
結局 織田信雄の働きで徳川との和平工作が進み中止にいたりましたが、作戦中止の書状を上杉が
受け取ったのは春日山に軍勢をそろえてさあ出陣!みたいなタイミングでしたし、佐竹に至っては
軍勢を動かしたあとで、あわてた上杉より急遽連絡されたくらいです。
まぁひょっとかすると秀吉独特のパフォーマンスだったのかもですが…。
233 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/26(水) 12:08:37
まあ、恫喝して徳川と北条の切り離し狙いだろうな。
234 :
月17万が数千万の在日に!!日本の税金が!!:2006/04/26(水) 12:21:01
秀吉>家康
徳川>豊臣
ということで
秀吉は家康を滅ぼせなかった。
織田家を乗っ取り戦乱を終わらせるだけで精一杯。
もし独裁性を強めようとしたら信長や足利義教の二
の舞になりかねない、時代の限界だと思う。
家康が豊臣を滅ぼすのに15年かかっていることをお
もえば時間もない。
秀吉は子供に恵まれなかったのが痛い
百姓出だから世継ぎを残すという観点が甘かった
239 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/27(木) 07:58:03
本当か、今でも田舎の農家ほど意識高杉な木がス。
藻前も百姓出だろうが。
武士と百姓の明確な区別など江戸からだろ。
>>238 (´・ω・)種がない。
>>239 (´・ω・)そうでしょうね。なにも「御家大事」はどの階層も一緒だね。
>>240 (´・ω・)そうともいえるね。秀吉の刀狩は純粋な「武士と農民の区別」とは言いがたいし・・・。
でも思うんだけど、戦国時代でも下級武士がサイドビジネスで百姓をやることがあっても、
元からの百姓が武士にクラスチェンジするのは極めて稀な気がする。ある程度の区別な存在したね。
しかし、
>>240さんは「明確な区別」と断りを入れてる以上、その主張は間違っていないと思う。
>>241 なにか詳しそうですね。ご教授ください。
ここ 関ヶ原スレだよな?
武士というより武家でなかったというほうがしっくりくるな
245 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/27(木) 13:45:50
功名が辻の千代の実家も武士といっても半農、武田やちょうそかべの兵もそうでなかったかな。
詳しいひと教えて。
どこの家でも8割ぐらいは半農、織田家でさえ完全には兵農分離はす
んでいない。
織田家は半農半士の土豪や地侍など中堅武士層の次男三男を抽出しただけであって、
賦役は依然領民の努め。
戦闘員は、専業化可能かもしれないけど、戦闘員なんて全体の三割〜四割。
残りの非戦闘員・純戦闘員まで専業化する必要はない。
長宗我部のやつなら一領具足だろ
半農半兵を組織的おこなったため、農作業で体も鍛えられる。
戦闘ではつよかったようだけど、農繁期にはかえらにゃんらんし
そうそう上手い具合にはいってなかったようだがね
土佐藩は山内一豊がのちにはいるけど、この一領具足の頭目たちが
旧藩主の復活を大義名分にして一揆をおこしてる
一豊は鎮圧に手間がかかり、結局掛川時代の家来を上士
一領具足で武士になることを望んだものを郷士としてとりたてた
これが幕末まで尾をひくわけだ。。。
賦役は依然領民の努め。>その通り、純粋な百姓などは戦闘要員ではない。
足軽といえど戦闘要員、とはいえ、殆どの武士は郎党も含めて自分で農作業もしていた。
江戸期に分離されるが、実態は生活が苦しいので内職三昧。
余程の上士以外はそんなもの。
250 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/27(木) 21:49:03
西軍、東軍を合わせて国軍にして朝鮮を滅ぼして欲しかった。
なんて事を!関らないのが一番ですよ
252 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/27(木) 23:37:37
795 名前:鳥屋尾宅間守 ◆Mzllk81HNE 投稿日:2006/04/25(火) 15:20:26
>>793-794 (´・∀・)アホはおまえだwwwwwwwwwww
「日和見」の一亜種に「日和る」言葉があるのをしらんのかチンカスWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
主に全共闘時代に使われた言葉だボケWWWWWWWWWW
意味は「困難から逃げ出すこと」
まさに賎ヶ岳での退却行為は「困難から逃げ出した」わけだろうがWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
勝家につくか秀吉につくか悩んだ挙げ句、どちらに付くわけでもなく、ついに逃げ出したんだろ?違うかWWWWおらWWWWなんとかいえボケWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
秀吉死後も、家康と一戦を構えるわけでもなく、豊臣派を落胆させ、あの世まで逃げ出したんだろうがWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
「日和る」の意味ぐらいわかれよ無知&糞マヌケがWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
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朝鮮出兵で一番得をしたのは家康
もし外征の失敗がなければどうなっていたのだろう?
手薄になった日本を掠め取るとかかな?
たぶん関東から海外に転封。
これが本当の国替えって奴か…
256 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/28(金) 10:49:37
座布団一枚。
>>257 (´・ω・)ちがうお。
>>255はたしかに僕だけど
>>256は見たところ名無しだよね?明らかに別人だよね?
おまえ目ついてるの?
そんなことより関ケ原前哨戦時における福島と池田の仲の悪さについて語る時が来たんじゃないかな?
259 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/28(金) 23:13:03
霧隠れ才蔵がアレだけ猛将を斬ったのに・・・東軍は凄いお★(BY 風神の門)
795 名前:鳥屋尾宅間守 ◆Mzllk81HNE 投稿日:2006/04/25(火) 15:20:26
>>793-794 (´・∀・)アホはおまえだwwwwwwwwwww
「日和見」の一亜種に「日和る」言葉があるのをしらんのかチンカスWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
主に全共闘時代に使われた言葉だボケWWWWWWWWWW
意味は「困難から逃げ出すこと」
まさに賎ヶ岳での退却行為は「困難から逃げ出した」わけだろうがWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
勝家につくか秀吉につくか悩んだ挙げ句、どちらに付くわけでもなく、ついに逃げ出したんだろ?違うかWWWWおらWWWWなんとかいえボケWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
秀吉死後も、家康と一戦を構えるわけでもなく、豊臣派を落胆させ、あの世まで逃げ出したんだろうがWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
「日和る」の意味ぐらいわかれよ無知&糞マヌケがWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
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朝廷の権威と結びつこうとすることは武士に対して
の背信行為にあたる。
武士の原理として豊臣家が排除されるのは当然の事。
なんで背信行為と言い切っちゃうのか
官位もらうのも背信行為か
>>262 >>朝廷の権威と結びつこうとすることは武士に対して
>>の背信行為にあたる。
そうか???
豊臣家が排除されたのは、
@武家ながら公家最高位の関白就任の家系
A武家の棟梁徳川の主筋に相当する。
B外様諸侯の大半が豊臣恩顧の名文を持ってる。
という武士の原理からは非常に曖昧な存在だった点にあると思う。
しかも幕府には天下統制に対する
aキリシタン勢力
b浪人勢力
c南蛮人ら外国勢力と言う
みっつの武装勢力という潜在的な脅威を抱えてたわけで
旗印と経済力を兼ね備えた豊臣がaやb,cと結合すれば
織田信長にとっての本願寺勢力に相当するパワーになるわけで
これに外様や朝廷が結びつく懸念が@ABからも明白なので
潰した。
先に朝廷と結びついてたからじゃないだろ?
よく考えれば、豊臣という姓も結構屈辱的な
ものに思える。
もし信長にこの姓を贈ったらただではすまない。
266 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/03(水) 16:29:29
267 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/05(金) 17:12:58
262 あほか?
徳川本体は大陸出兵してないので、10年間の戦闘ブランクがあるので付け入るスキはあったはず。
269 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/09(火) 00:53:25
270 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/09(火) 11:01:29
大津城があと2日ほど早く落城して、
大垣に三成が居る間に、大津攻めの毛利軍が到着したらどうなるかな?
毛利勢が多少増えても吉川は既に家康に丸め込まれてるから結局動かないんじゃないかな?
272 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/09(火) 12:03:27
大津の毛利勢大将て元康でしょ、元就の子で朝鮮にも行ってるし広家の言うことなぞきくのかなあ。
むしろ秀元を督戦して押し出してくれるのでは麻衣か。
広家と元康どちらが格上なのか?
なら、大津軍到着で主導権は主戦派の秀元・元康が握るわけだから大部状勢が変わるな。
秀秋が参戦しなくても大津軍が居れば兵力はおけだから、歴史を変えた1日かも。
広家もあきらめて東軍と戦うしかないのかな。
277 :
鳥屋尾宅間守 ◆Mzllk81HNE :2006/05/09(火) 14:30:04
広家は西軍が勝つことも十分考えられると思っていたはず。
但し、自分らが西軍として戦えばの話。
つまり、両軍の命運のカギは自分が握っている、と絶対に思っているに違いない。
そこで彼は考える。
西軍がもし勝ったら功労第一は誰か?自分か?
いや違う、今回のお膳立てをした恵瓊になるのでは?以後、自分は奴の風下に立つのでは?耐えられない!
では逆に東軍が勝ったらどうか?
家康にいち早く気脈を通じた自分。おかげで輝元は西軍総大将にも、かかわらず本国安堵。人々からは「よくぞ南宮山から動かなかった!いま毛利家があるのは、ひとえに貴殿のおかげである!」と称賛を受ける可能性大。
(これは、つくなら東軍だろ)
と広家は思ったはずだ。
つまり奴は私怨&功名心のみで東軍についたのだ!
実は毛利本家のことなどはそっちのけだったのだ!
ここまで言い切ると反論がきそうだな…
たとえば、「いや、広家はどのみち徳川が勝つと確信してたから東軍についたんだよ。」とか?
だまらっしゃい!発想が規定の歴史から抜け出せない醜き神君厨ども!!!と言いたい。
だったら傍観してないで、さっさと南宮山おりて東軍と合流して笹尾山攻めれやボケ!!!東軍の勝利を確信してんだろ?えぇwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
恵瓊との確執は昔から言われている罠。
>>278 (´・ω・)知ってる罠。
だから僕が言いたいのは、「家康が勝つことを見越して広家は東軍についた」って考えを否定しただけだ罠。
史実の関ヶ原でも毛利の大将は秀元でした。ただ毛利軍の軍事指導&先鋒として、広家が担当していたのです。
戦場では前線指揮官が詳細な戦闘指揮を行うことは当然のように行われており、関ヶ原においても大将たる
秀元の「なぜ戦闘参加しないのか?」にたいし、広家は「戦機が熟していない」みたいな回答を行っています。
秀元も才気ある人物でしたが結果、広家を排除してまで戦闘参加するには至らず史実の通りとなりました。
元康が参戦したとして、同じ状況に至る可能性も考えられます。
まぁ是ばかりはIFなわけで、南宮山以外に布陣しているだけでも状況は変わってくるでしょうし、広家&秀元と
同じ場所に布陣するとも限らないわけですから…どうなるかは神のみぞ知るってとこですね。
>>279 いや別にそこまでは言わんが、吉川の立場からすれば徳川本隊が崩れてから
戦闘に参加しても問題ないのよ、三成に毛利と事を構える力はないし。
逆に東軍が勝つなら史実通り傍観してれば良い訳で。
ていうか、元康が秀元と別に布陣して東軍と戦いだしたら秀元も傍観出来ないのではないかな、
それ以前に広家の不戦の約束自体がFAではないか。
281>広家はそう鴨しれないがね、元康・秀包は主戦派だよ。
安国寺も含めれば主戦派ばかり広家が一人で参戦を止められるとも思えない。
福原等、従軍した家老クラスは反エケイで広家に同調してるがね
秀元は主戦派でもなし、エケイに軍事に関しての発言権ない訳で
毛利は積極介入を避け、どう転んでもいいように
自らの軍勢を極力温存しようとしてただけ
んー、大津勢が来ても広家らが主導権を握ると?だとしても大津勢が戦いだしたらどうする?
見殺し?でも徳川からすれば約束違反と言われる可能性あるんじゃまいか。
大津の元康は南宮山の毛利勢と連携取るのは当然な訳で
元康が連携を図らず単独で仕掛けるのは、毛利の家風というか、
毛利の今までのやり方からして有り得ない
それと元康と広家のどちらが格上かで勝手に元康としてるが、
一門としての家格も、毛利家の国政への影響力も、
広家の方が上のはずだが…
関が原のおかげで家格も影響力も急降下な広家カワイソス…でもない。自業自得。
秀元、元康、広家が同じ場所に布陣した場合、先頭に広家隊・その後ろに両名が布陣するはずです。
この場合、広家がまず前進し戦闘参加、気を見て後続の予備が投入されるのが筋なのですが…
先鋒たる広家が動かないでは、後続隊は進退窮まってしまう訳ですね。
広家がただの戦闘武将であれば問題無いのですが、毛利家の中でも確固たる地位を持ち、戦場では広家の
指示を重んじるとされていては、なおさらです。
秀・康両名が広家に戦闘意欲無しと判断してかつ独自に行動出来るだけの器量があれば良いのですが、
是ばかりは両名とも流石に経験不足な感はぬぐえません。
ただ大津攻め参加部隊は毛利だけでなく、他も参加しています。
立花宗茂であれば、毛利の動向に関係なく、戦端が開かれば独自に判断、戦闘参加を行うはずで、その際
近くに毛利隊が布陣しており、動きが無ければ戦闘参加を呼びかけるはずです。
まぁ所詮はあり得なかった話なんであくまで個人的参考レベルですけどね。
290 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/09(火) 21:36:39
吉川広家傍観→本家召し上げ
長宗我部撤退→改易
前田利家七尾城撤退→加賀百万国
291 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/09(火) 22:27:54
南宮山の網理と合流するとヒロイエにしてやられる可能性もあるが、石田や宇喜多などの蕎麦に布陣すれば
自然に巻き込まれるんじゃない?
292 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/09(火) 22:30:53
289>秀包はともかく元康が経験不足とは如何に。
>>291 ワザワザそこへ布陣する理由がない
南宮山周辺だろ
自分の望む結論に導きたい為に、そこまでしようとせんでも
294 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/09(火) 23:14:26
秀吉が徳川を滅ぼさなかった理由だけど僕は3つあると思います
特に北条が滅んだ時点で秀吉が非道なやつなら難癖つけても良かった
ひとつは家康が律儀な評判をとってた事
ひとつは小牧長久手で局所的に負けたのに結局家康が上洛して天下統一でき
家康に恩があったこと
また恩と感じるような秀吉の甘さがあった事
最後は子供がいなかったんからでねぇ?北条滅ぼした時点では
溺愛するような跡取りの子供でもその時点でいたら
難癖つけて滅ぼしてたかも
295 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/09(火) 23:20:38
>>294 おそらく秀吉は日本統一の次は大陸を侵略しようとその頃から考えており
いったん臣下に下った徳川家を滅ぼすために余計なエネルギーと時間を取られたくなかったのだと思う
関東を統治できるだけの規模を持った家臣団があったのが徳川家だけだったから
293>大垣に西軍が集結している時点で、大津攻めの軍が到着すれば普通に南宮山麓に布陣すると思われ
その後に西軍が関ヶ原に陣変した場合は史実の様に東軍は関ヶ原に侵入せずに南宮山でとまるのでないか。
家康が広家の内応をかなり信用していたとしてもあまりの大軍を後ろに残すのは危険だし、そんな博打を
打つ必然もない。普通に秀忠を待って戦いだろう。
秀吉の海外進出は信長の夢を受け継いだなんて話があったがネタ?
>>296 大垣から出た西軍を追って行った史実がある、
それも普通に秀忠待てばいい状況だと言えるのだが
なのに大津攻めの軍勢がいたら、慎重になり行動しないとなる理屈が不可解
史実でも南宮山周辺や大垣に残った西軍を置いて関ヶ原に出てきてる
一般に言われてる軍勢をそのまま言いたくはないが、
大垣留守居に1万残し、南宮山周辺には毛利含めて4万越えてる
それでも南宮山の前を通過して合戦してる
博打にしろ、家康には毛利が動かないという確信に近い何かがあったのだろう
まぁそれ以前に、大垣籠城中に大津陥落すれば、以後は違ってくるだろうがね
三成等は大垣から出ないで、元康等は南宮山周辺に布陣、
秀秋を大垣へ呼び寄せようとしたり、家康出馬知ったんで輝元出馬要請したり、
なんぼでも変わる
何でそんな確信が家康にあるんだ?
安濃津もそうだし大津なんぞ廃墟にしてきてるんだぞ毛利勢は?
四国や九州にも兵を出してる。
史実の布陣はスルーしてるがどうも織れには理解できん。
大津軍いれれば6万以上の軍勢だろ、広家一人で全部押さえれるものか
まあ仮想になるが、家康は東軍の制御ができていたのかな、
10万の混成軍を指揮したのは初めてじゃないか?
正則等が宇喜多と小競り合いしながら突出して、あの布陣になった可能性も
ある気がする。
301 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/10(水) 08:49:46
関ヶ原七不思議のひとつ。
狸の予知能力
302 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/10(水) 10:32:30
狸囃子 乙
家康は戦後京極の西軍足止めの功を高く評価したみたいだから、若い秀元一人なら広家が抑えられると踏んだのではないかな。
大津攻めの西軍が合流すればやはり家康、三成の出方も大部違うのではないかな。
南宮山の連中は戦意乏しいからね、むなしげみたいなのが居れば大部違うかも。
(´・ω・)「広家が南宮山を下山して東軍を叩けば、西軍は勝ってた」
というと、醜悪なる神君厨が
「南宮山を下山するのにどれだけかかると思ってんだWWWWWW下りた頃には合戦は終ってるWWWWW」
とかいうよね。
たしかに伊勢街道側にでるには道なき道を進まねばならず、時間がかかる。しかし中山道側に出るにはさほど時間がかからないのではないか?
「しかし山をおりたところで、池田隊、あと比較的大軍の浅野隊が阻んでいて主戦場には到達できないだろうがケケケWWWWW」
というかもしれないが、それでいい。せいぜい浅野・池田と競り合ってくれれば実質、東軍は裏崩れ・挟撃の態になる。
主戦場にその一報が届けば、東軍勢の心理的圧迫は相当なもの。後背の敵が気になって前面と戦どころではなかろうよ。
結局なにが言いたいかってーと、「広家が南宮山を下山して東軍を叩けば、西軍は勝ってた」
まあ、当たり前のことだけどね。一部の理解能力が欠如している神君厨向けのレスね。
大津攻め部隊すべてが南宮山に布陣するとは考えにくいが、宗茂なら南宮山にいようが、麓にいようが、
いざ合戦が始まればいずれ独自の判断で戦闘参加しそうです。
3千人とは言え立花隊が動き出せば、毛利はともかく長曽我部や筑紫なんかも動き出すやもしれません。
307 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/10(水) 13:19:32
宗茂なんかは戦場にいたら傍観している厨じゃないだろうね、
キタ-キタ-――――――(゚∀゚)―――――― !!!!!!!て感じかな。
305>秀元の本陣が中腹に陣取ってて残りはふもとに布陣。
南宮山には山頂に案内あるけど間違い。
305さんにほぼ同意。
後方で戦が始まれば東軍全体の士気は低下するよ、下手すれば狭い関ヶ原で殲滅されかねない。
小早川の日和見もさらに激しくなるだろうし、家康が退路確保なんて姿勢を見せたら崩壊するね。
ついでに遅れていた秀忠隊も東軍が壊滅の報があれば四分五裂、ただでさえ路銀も切れていたし、
兵力温存のためなんぞ厨のウソ、家康が負ければ終わり、だから秀忠は家康に激怒された。
306 そうだろうね、長宗我部隊などは既に銃撃戦を初めてたからきっかけがあれば始まる。
立花って4千人?じゃない。
戦争オタの本領見たかったでつ。
基本的に戦意のある武将は三成と共に
行動してるから立花とかは南宮山には
いかないと思われ。
大津の主力があれば小早川への抑えとして
あるいは東軍先鋒を敗走させるかもしれない。
そうなれば小早川はどうでるか。
ただ家康本隊が控えてるので
西軍が勝つシナリオまで予想するのは
なかなか困難かも。
そもそも大津隊が着いてたら
徳川も秀忠来着まで待つ可能性も高い。
輝元が動かないことは分かっていたんだから
徳川のほうが余裕がありそう。
なにより豊臣恩顧に活躍されるのみでは
戦後の旨みが少ないから急いで戦をする必要ないし。
(´・ω・)豊臣恩顧の活躍は家康の望むところだと思いますがねぇ…
豊臣家内のつぶしあいになるし、家康はあまり徳川
のための戦に思わせたくなかっただろう
314 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/10(水) 17:56:58
大津隊が石田と合流していたら東軍先鋒が崩れた恐れが大きい、その際家康の
本体が前進して西軍を食い止めるとすると後ろががら空きになる。普通はがら
空きのお尻は突きたくなるし、いくら広家を信用していてもそんな愚作を家康
がとるとも思われない、また東軍先鋒が崩れた段階で後退するのはより危険。
家康としては大津隊に合流された場合は関ヶ原へ突出はしないのではないか。
315 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/10(水) 18:15:03
「関が原の戦いとは豊臣秀吉の戦国の太平を願う心が家康に受け継がれ秀吉の家康を恐れる心が石田三成に受け継がれた。その二つの心のぶつかり合った結果である。」
>>315 (´・ω・)家康が「太平」ねぇ……で、いつの御用学者のセリフですか?
>>314 (´・ω・)なるほど…では突出しないとなると睨み合いとなり、少なくとも一日で決着がつく可能性は低くなりますね。
秀忠も到着しますね。
ところで実際、秀秋が合戦前日に松尾山に布陣した時点ですでに西軍首脳内では
「金吾殿の行動は怪しい、もしや…」
と不穏な空気が流れてませんでしたっけ?だからわざわざ念押しに行ったりしてましたよね?
史実は場当たり的に関ケ原が始まったから金吾の動静に注意を払う暇がなかった。しかし睨み合いがつづけば、
首脳は金吾をみて「やっぱあのガキは危ねーな…」って冷静に考える時間がもてたと思う。
まあ、そう思ったところでどんな防御策があったかわからんけど…
318 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/10(水) 23:22:05
大軍同士の睨み合いになれば陣地戦になるから高所に陣を構える西軍の方が有利か、秀秋は裏切るタイミングを失う可能性も大。
あとは輝元、秀頼の担ぎ出しが出来るかどうかと、家康が関東を長期に留守に出来る状況があるかだと思う。
上杉が最上を倒して、家康は動けずとなると伊達の動きも怪しい。
上杉が伊達と完全に和睦して白河口に兵を集めるようだと佐竹の動向次第では関東が危ないので家康は和睦を探るだろう、
前田の動向も解らないが大谷の偽情報で帰国するなど戦意に乏しいから豪姫あたりから裏工作が効く可能性もある。
いずれにしろ長期の滞陣は家康の望むところではなく、和睦を探ると思われ。
前田が戦意低いとか豪姫云々…ってナニソレ?
それに秀秋が松尾山占拠する以前から命令拒否や動向不審で
裏切りの噂が出ていて、松尾山占拠で決定的になったから
大垣から出たのでは?
つか、三成の書状とかから西軍の状態がわかるもんだろうに
どうして家康から和睦という考えになるのかわからん
情勢は岐阜陥落前後から西軍が不利なのに…
>>318 それよりも長期戦となると両軍併せて20万近い軍勢をどう食わすかが問題になるかと
西軍なんて刈田で糊口を凌いだのにこれ以上、食糧事情が悪化したらどうするんだろう
ちなみに東北に関しては長谷堂城を上杉か獲れるかだが経過を見ると獲れずににらみ
合いに終始しそう
後、20万近い軍勢が戦うには関ヶ原周辺は狭すぎます。
するなら琵琶湖湖畔か濃尾平野程度は開けてませんと
長期戦の場合、どちらが先に崩壊するのかな?
三成曰く、疑心暗鬼て崩壊寸前らしいですが>西軍
増田長盛に経済状況でも逼迫していて助け求めてる>9月12日にね
それより、家康が来てないから輝元出馬は必要ないとしてるのがね
家康は尾張に居たのにね
>>319 三成の書状ってあの自軍の腑甲斐なさを嘆いた例の手紙ですか?増田か長束に宛てたやつだったっけ?
たしかにあれをみたら西軍など烏合の衆なのは明らかですね。
しかし東軍も烏合の衆であることも変わりないですね。
「いや、280万石の与信、歴戦の古強者を旗頭にして、東軍諸将は心服して結束は固い」という意見もあるかもしれませんが、それは大将格達が思っているだけです。
小山会議前夜は一般家臣から一兵卒に至るまで「ウチの大将どうか西軍についてくれないものか」と嘆息していたというではないですか。
これが当時の兵士の偽らざる心境でしょう。「なにせむこうは秀頼を握っている。へたしたら、うちらは賊軍か!?」程度は兵士レベルでも想起するでしょう。
だから東軍「兵」の士気は高いとは思えないです。
長期戦になれば、秀頼を握っていない東軍のほうが早く崩壊しそうな予感。
>小山会議前夜は一般家臣から一兵卒に至るまで
>「ウチの大将どうか西軍についてくれないものか」
>と嘆息していたというではないですか。
そんな与太話を前提にして、至らざる真実にされてもなぁ
一般兵士には、自分トコが勝利して恩賞貰えればいい程度
んな思想的な考えはないよ
つか西軍は秀頼握ってないから
握ってたら出馬なり秀頼の命令なり豊臣の馬印なり使ってるよ
豊臣家はどっちにも加担しておりません
だから輝元でさえ、本丸に入れなかったのだから
>>324 >西軍は秀頼を握ってない
↑
絶対そこに食らいついてくると思った。
そのとおり、握ってないです。
べつに実際、握らなくてもいいんですよ。傍からみて「握っているように見えれば」ね。
「西軍総大将・毛利輝元、秀頼君のおわす大坂城に入城」
この事実が一般兵に知れ渡ればいいんですよ。
それと幕末じゃないんだから賊軍というような発想もないよ
んな朱子学や儒学が末端まで行き渡ってた訳でもなし
ちょと軍記大全の影響受けすぎ
東軍が鳥合の衆ではないとは言わないが、家康という軸を
他の諸将が認めてるのが大きい
逆に西軍にはそれがなかったから、より鳥合の衆のイメージが強いね
>握ってたら出馬なり秀頼の命令なり豊臣の馬印なり使ってるよ。豊臣家はどっちにも加担しておりません。だから輝元でさえ、本丸に入れなかったのだから
↑
あなたと私は知っていても、当時の一般兵は知る由もない。
彼らが「うわ、むこうは秀頼さまを抱いた毛利がいるよ」って錯覚してもおかしくない。
>>325 その事実は史実でも流れてる、でも君の言うようには成りませんでした
なぜでしょうね、はて?
答えは簡単、当時の思想・価値観の違い、
他に西軍が秀頼を握ってると見られなかったとかね
君は希望的な前提が多いよ
鳥屋尾宅間守 ◆Mzllk81HNEは無知なくせに知ったかぶりのレスをして
突っ込まれると「それは知っていた」と後だしでググって資料を持ち出してる糞。
。「なにせむこうは秀頼を握っている。へたしたら、うちらは賊軍か!?」
馬鹿丸出し
東軍の大義名分は、「秀頼に仇なす三成を成敗する」ためであって
豊臣と敵対するなんて誰も言ってない。
>>327 一般兵が秀頼を抱いた輝元を見ることなんてないがな。
大体豊臣恩顧の大名やそのた兵卒には秀頼、豊臣家を守るため
って流布されてたしな。
むろん家康の真意を知ってる大名なんかは多かったが、福島なんかは
三成憎しでなんも考えてなかったよな明らかに。
>彼らが「うわ、むこうは秀頼さまを抱いた毛利がいるよ」って錯覚してもおかしくない
妄想語りだしたぞ糞が
333 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/11(木) 01:12:38
795 名前:鳥屋尾宅間守 ◆Mzllk81HNE 投稿日:2006/04/25(火) 15:20:26
>>793-794 (´・∀・)アホはおまえだwwwwwwwwwww
「日和見」の一亜種に「日和る」言葉があるのをしらんのかチンカスWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
主に全共闘時代に使われた言葉だボケWWWWWWWWWW
意味は「困難から逃げ出すこと」
まさに賎ヶ岳での退却行為は「困難から逃げ出した」わけだろうがWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
勝家につくか秀吉につくか悩んだ挙げ句、どちらに付くわけでもなく、ついに逃げ出したんだろ?違うかWWWWおらWWWWなんとかいえボケWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
秀吉死後も、家康と一戦を構えるわけでもなく、豊臣派を落胆させ、あの世まで逃げ出したんだろうがWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
「日和る」の意味ぐらいわかれよ無知&糞マヌケがWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
WWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
334 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/11(木) 01:12:50
>>330 その辺も、秀頼を握ってる、担いでいるかが問題なんだけどね
西軍は内府ちがひの条々から終始、秀頼の、豊臣の名前を使えなかったのが痛い
まぁ三成らが、あえて秀頼を巻き込むのを避け、
豊臣の存続を図ったという考えも出来ない訳ではないが、
これは苦しい
つか、いきなり荒れだした…
もう寝よう…
>>327 というか、兵卒は豊臣に仕えてるわけじゃなく、各々の大名、部将に従ってるだけの
大名や部将自身の報地に住む地元の農民や、職業としてのいわゆる傭兵がメインであって、
給料をくれるわけでもない豊臣にたいしてそこまでの恩義なんか感じてない。
逆に、自分の従ってる大名なり部将の方が、自身の生活や収入に直接的にかかわってくるから
豊臣を裏切ろうが兵士には関係ない。
(´・ω・)えーと、どこまで話しましたっけ?
ああ、そうそう、兵士にしてみたら自分の主君のみが大事であり、その上の話なんぞ知らんと。
しかも謀反人三成を討つと流布されてるから間違っても自分ら賊軍なんて発想はないと。
しかも賊軍なんて観念は戦国時代にはないと。
わかりました。
そうですね。
希望的観測が多かったですね。申し訳ありませんでした。
まあ「賊軍」と表現したのは天皇家とかがうんぬんという深い意味はなく、「現政権に対する反逆者」という程度の意味で使っただけだがね。
たしかに日本史において「賊軍」という表現は帝に仇なすものに対してのみ使われる表現って感じだよね。誤った使用法でした。重ね重ねすみません。
(´・ω・)で、話は戻るが、長期戦になると、どちらが崩壊しやすいかね?
きのうだれかがいってた両軍とも兵糧の問題があるし、仮に長期戦になれば三成本人が大坂に入る選択肢も無きにしも非ずだろ?
やはり大坂城&秀頼を抑えているのは大きいと思う。
「いや、秀頼は抑えてない」とかいうのはもう勘弁してくれ。
こんな下らん例え話をしたくはないが、極論いうと、もし仮に、あの時点で即座に本丸に兵を率い、秀頼の首をぶったぎることが可能なのは輝元か?それとも家康か?
……だから西軍は秀頼を「抑えている」のであり、東軍は「抑えていない」のだよ。
話を戻すと、そもそも三成を討つことが目的である東軍だから、大坂城を攻めるわけにはいくまい。
長期戦になると、そのジレンマがしだいに東軍の士気を低下させる要因なることは想像できる。
しかも戦いが長引けば豊臣家もいつまでも双方どちらかに加担しないわけにはいくまいよ。
まさかあの状況で東軍に加担はできないでしょ。
となると自然と西軍加担になるのでは?
淀なんぞあの当時、さして発言力があったわけでもなし、すんなり西軍加担になるだろ。
339 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/11(木) 10:45:13
前田が戦意低いとか豪姫云々…ってナニソレ?>前田って本当はどうなの?
後、20万近い軍勢が戦うには関ヶ原周辺は狭すぎます。>要塞戦なら桶では?
兵糧の問題は深刻だわな。
東軍は東海道の豊臣の蓄えを吸収しているから少しましか。
西軍は大阪の商人から無理にとりあげるとか、豊臣を脅かして金を出させるしかなさそう。
小牧長久手の時の三河は徴収が厳しくて酷い惨状だったらしいから、家康も和睦は望んでいたんじゃない。
擦れ違い須man。
↑小牧長久手の時は家康も和睦は望んでいたんじゃない。
342 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/11(木) 12:11:54
豊臣って230マンゴ区だっけ、当時大阪にどのくらい動員してたの?
>>342 豊臣家の石高を調べたろ?ここにもググる奴がいたかW ホントあの馬鹿コテといい、ここの住人はググらなければなにもできないんだなW
大阪じゃなくて大坂ですよ。馬鹿ですか?
ついでに晒しあげ
795 名前:鳥屋尾宅間守 ◆Mzllk81HNE 投稿日:2006/04/25(火) 15:20:26
>>793-794 (´・∀・)アホはおまえだwwwwwwwwwww
「日和見」の一亜種に「日和る」言葉があるのをしらんのかチンカスWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
主に全共闘時代に使われた言葉だボケWWWWWWWWWW
意味は「困難から逃げ出すこと」
まさに賎ヶ岳での退却行為は「困難から逃げ出した」わけだろうがWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
勝家につくか秀吉につくか悩んだ挙げ句、どちらに付くわけでもなく、ついに逃げ出したんだろ?違うかWWWWおらWWWWなんとかいえボケWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
秀吉死後も、家康と一戦を構えるわけでもなく、豊臣派を落胆させ、あの世まで逃げ出したんだろうがWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
「日和る」の意味ぐらいわかれよ無知&糞マヌケがWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
WWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
>>338 天皇家、朝廷云々以前の問題だ、そこまで豊臣家は神聖視されてない
というか、これは豊臣政権内の争いであって、徳川vs豊臣の構図ではない
だから「現政権に対する反逆者」と出てくる訳がない、どちらも相手を「現政権に対する反逆者」としてるのだから
三成本人が大坂入ってどうするの?
大坂に三成が入る=西軍は追い詰められてるのを意味するんだぞ
そこで豊臣家が三成らを庇うとでも思うのか?
関ヶ原後に毛利が大坂籠城を選ばなかったのはそういうことだ
五分の時でも味方してもらえないのに、不利になれば加担ってバカだろ?
家康、東軍は大坂攻めずともいいんだよ、豊臣家には害を為さないと宣伝し、大坂方へ伝えるだけでいいのだから
後は大坂の豊臣側から必ずリアクションしてくるから
三成ら西軍にとって、豊臣家は味方ではないの
>>339 本当はどうなのって、史実そのまま
利長は東軍に参戦、利政は妻が人質に取られてるのを理由に不参加
それを咎められて所領没収、所領はまんま利長ヘ
豪姫の裏工作でとか、電波以外の何者でもない
要塞戦ってドコに籠もるの?
大坂城は豊臣の城であって、西軍参加諸将の誰の根拠地でもないよ
大坂籠城はハナから無理だけど、ドコに籠もるのかな?
>>345 (´・ω・)前半の部分はなにか思い違いをしているのでは?
レスの経過を説明すると
当時の東軍兵士が自分らが反逆者の立場に陥るのではないかと不安に駆られたのでは?って私は先に書いた。
そしたら、それに対して色々ご教授頂いたので、
>>338で私は謝罪したわけだが?
んで、「賊軍」という表現は「幕末じゃないんだから」とのご指摘があったから「現政権に対する反逆者」という程度の意味だ、と釈明しただけなんだが?
さらにあなたの言った以下の三つ
@天皇家、朝廷云々以前の問題だ、そこまで豊臣家は神聖視されてない
Aこれは豊臣政権内の争いであって、徳川vs豊臣の構図ではない
Bどちらも相手を「現政権に対する反逆者」としてる
べつに反論ないけど…なんで私に言うんだ…?
※で時間の関係上、中段のご指摘に対する返答は後程…
日和見の一亜種の日和るという単語について詳しく
バカなコテは自分の発想そのものがオカシイのに気が付かないらしい。
つーか謝罪したら、それで止めればいいのに、
突っ込みドコロ満載な言い訳付け加えるから、また突っ込まれるんだろw
350 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/11(木) 14:12:13
賊軍もgoogleか
タクマよ、このスレを見渡してみよ。おまえ以外コテ名乗っている奴がいるか?おまえは三戦初心者みたいだから教えてやる。
考察スレではコテは必ず叩かれる
いいかげん悟れ。参加したきゃ名無しで参加汁。叩く奴(自分もそうだがW)は無双系コテの類は叩かない。馬鹿すぎて叩き甲斐がないからな。タクマ、おまえみたいな考察スレに出入りする新参が一番格好の餌食だ。
まともな発言ならコテでも叩かれない
叩かれるのはまともな発言してないから
>>352 同意。しかし住人がいなさすぎるのも寂しい。叩きながらでも色々教えてやればいいジャマイカ。
少しは我々の議論についてゆけるようになるかも知れんて。
コテも名無しも五分五分の言い分だな。
中立の立場から書くと、東軍は勅許を得ているからそれに対抗する上杉や治部に義はない
政権代行者であり豊臣家から兵狼米を得てる東軍に対して弓を引く者は
豊臣の敵になるんだけどね。
それぞれに大義名分はあるのよ
>>354 上杉には秀吉から在地許可得てるし、三成には内府ちがひの条々でね
家康には政権代行者として秀頼の命ある訳だし
だから豊臣政権の権力争いであって、双方が秀頼を担いでいる以上、
コテの言うような豊臣対徳川、賊軍だ何だには成り得ないと言う訳で
んで豊臣家としても、両者が豊臣家を担いでいる以上、
どちらか一方に加担するようなリスクは背負わない訳で
356 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/11(木) 16:37:06
>馬鹿丸出し
>ホントあの馬鹿コテといい、ここの住人はググらなければなにもできないんだな
>大阪じゃなくて大坂ですよ。馬鹿ですか?
>五分の時でも味方してもらえないのに、不利になれば加担ってバカだろ?
>バカなコテは自分の発想そのものがオカシイのに気が付かないらしい。
>馬鹿すぎて叩き甲斐がないからな
>叩きながらでも色々教えてやればいいジャマイカ。
>少しは我々の議論についてゆけるようになるかも知れんて。
急に偉そうな椰子が増えたな。
>少しは我々の議論についてゆけるようになるかも知れんて。
エロ居先生は2chなんか来ないで論文でも書いてろボケ!
アホはこんなもんだろ。
359 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/11(木) 17:02:17
コテにたかが賊軍という用語の使い方でいちいち
鼻の穴ふくらませて指摘しなくていいじゃないか。
学会の論文じゃあるましし池沼か?
そういうのを弁当箱の隅をつっつくというんだ。
議論の本質がずれるだろ、反省しやがれ。
ところで宅間盛り氏の長期戦になればどうなるか
うーーーんこれは既出だが良い論点だねえ。
東軍は東海道の大名が鍋島が米を供出してるので
当面はこまらないでしょう。
対して西軍はどうだろう。
三成は私財をほとんど投げ出して相当困っていたみたいだね。
増田に泣き言をこぼすのも納得です。
西からの遠征軍を食べさせる苦労は東軍より大変かもしれない。
豊臣は本腰入れて西軍に肩入れすれば西軍有利なんだろうけど。
まあ、みんな落ち着けよ
意見を言うのは良いけど、バカバカって荒らしみたいな発言は慎むべきだな。
>>359 まあ、豊臣が本腰を入れて西軍に肩入れすることはまずないけどね。
もう散々言われているけど、これは家臣同士の権力争いで、主家たる豊臣は関与しない。
長期戦になった場合は、関ヶ原だけではなく地方も視野に入れるべきだけど、
これも西軍の方が分が悪い。
九州はいうまでもないが、
東北の上杉も明らかに格下の最上相手に攻めあぐねるどころか、
南方戦線は最上の逆撃を受けて大敗、国境近くまで逃げて景勝が直接援軍をだして辛うじて戦線を維持している始末。
会津に景勝本隊が居るとは言え、結城・伊達に囲まれているのでこれ以上は無理だろう。
また物資豊富な東軍に対し、軍費の無さに戦々恐々の西軍、
或いは東軍に着くつもりだった長曾我部らを調略しやすいのに対し、
西軍は東軍を切り崩せるか怪しいもの。
長期戦になればなるほど、西軍不利と見る。
362 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/11(木) 18:08:23
コテ本人かと思わせるぐらい頭の悪いレスするよな。
なんだよ、弁当箱の隅をつっつくってw
それを言うなら重箱だろw
363 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/11(木) 18:11:58
つ 釣りと思われ。
日和るも釣りでつか?
「釣り」←免罪符と勘違いしてないか?
糞コテをまともに相手にしてる良識ぶってる住人も悪い
スルーしろよ
コテは叩かれるってのはここでは常識
コテでも名無しでも、レスしてる中の人が同じだから…
文体や時間帯変えようよ、初心者丸出し
368 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/11(木) 19:20:23
藻前もな。
369 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/11(木) 20:09:11
三成が五奉行から失脚した時点で豊臣は滅んだ。
370 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/11(木) 20:13:20
>>362 赤ペン先生御指摘どうもです。またよろしくです。(^_^)
しかし釣りとか釣りじゃないとか
中の人がどうだとかみんな2chに毒されすぎじゃね?
中毒症状でてるよ。w
もうこういう話はなしね、歩いてる足を
引っ張るようなレスもだよ。
関が原の話しオンリーでよろしくだよ。^^
上杉は挙兵してない
家康が上洛命令出してきたから、秀吉の遺命受けてると突っぱねたら、
家康が予想に反して即軍事行動に来ただけ
373 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/11(木) 20:25:37
見通しが甘いんだよ、上杉は
>>370 最上領侵攻も国力差五倍以上、周囲の敵に対抗するために兵力の半分は残すにしても、
一揉みにつぶせると思う方が普通。
逆に言えば、
25000の兵力は兼続にとっても未曾有の兵力で、それを活かせなかった。
375 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/11(木) 20:32:58
でも直ぐに降伏しなかったのは凄いと思う!
376 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/11(木) 20:33:42
ま、関が原合戦は勝手し放題の家康に問題がある訳だから挙兵されても文句は言えないのが普通。
「無理を通せば道理が引っ込む」を地で行った人、日本史上最大のわがまま大将軍:徳川家康公。
377 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/11(木) 20:34:37
上杉家は百二十万石だけど5万も動員してるねぇ
378 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/11(木) 20:37:19
上杉は10月にはもう和睦交渉はじめてるがな
まだこんなバカいたの。
歴史を知ってる俺等は見通し甘いと言えるが、当時の情勢から言えば、
そこから外交交渉してお互いの妥協点見出だすと考えるのでは?
一概に見通し甘いと切り捨てるのもどうかと
ま、景勝や兼継と家康側とは役者が違ったとは言えるが
381 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/11(木) 20:42:09
家康の変節は凄いと思う、秀吉の死と同時に別人。
秀吉の変節も負けず劣らず凄いぞ。
英傑が寝ションベン垂れの耄碌爺に!
はい、はい、
ほどほどに。
384 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/11(木) 20:57:04
四大老・五奉行で家康を大老職から追放することは出来なかったのか?
縁組解消するときに、「悪行が過ぎる!よって徳川内大臣の大老職を解く」とか
そんな権限ない>奉行・大老
あるのは秀頼だけ
ところが秀頼は幼いので、そういう権限は伏見の家康が担う事に
386 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/11(木) 21:06:16
大老でなくなっても具体的にどうかわるのよ?
387 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/11(木) 21:06:23
じゃーもうなんにもできへんやんか
やっぱり秀次殺してしまったのが、大失敗だったな
この時期、秀次が関白なら情勢が一変しただろうに
389 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/11(木) 21:13:33
そらそうでしょう
390 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/11(木) 21:14:30
っていうか徳川に240万石もやった時点で終った
391 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/11(木) 21:14:55
秀次と家康じゃ役者が違うんじゃない、結局豊臣を分裂させてorz.
やはり秀長ってか。
393 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/11(木) 21:20:14
国もち大名の内需拡大をおそれた秀吉は朝鮮遠征を実行、ターゲットは家康。
394 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/11(木) 21:20:49
三成が七将襲撃の際にあっさり死んでれば、面白かったのに
結局徳川が天下取るにしても、もうちょっと展開がもつれた気がする
戦ではなく調略で徳川の天下に
396 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/11(木) 21:32:32
>>394 しかしそれで、関ヶ原という戦国、いや日本史史上最高のドラマができたから いい
>>396 その通りなんだけど
西国の雄、毛利が決戦に参加してないし
上杉も・・・・
要するに不完全燃焼なんだよね。
小早川の裏切りはドラマだとしても。
西軍を石高だけで考えるなら莫大なのであって
東軍ははあれだけの被害で勝てたのは
奇跡に近い。
398 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/12(金) 05:47:29
毛利は性根がへたれだから
元就の遺言のせいで
(´・ω・)隆元が「家の崩れ、国の崩れ」と訴え、元就の隠居を引き伸ばしたからねぇ。
骨肉の争いが当たり前の戦国の世じゃ珍しい話じゃないかな?
「オヤジはさっさと引退しろ!あとは息子の俺に任せろ!」ぐらいが親としてもある意味でたのもしく、嬉しいのではないかな?
引退を引き伸ばす息子をみて父親の元就としては、先行きの不安は隠せないところだったろうね。
ましてや、その嫡子すら他界して、右も左もわからない孫の輝元が継ぐわけだから、なおさら遺言は堅守を撤した消極的な内容になってしまうだろうねぇ。
けっこう広家はその遺言を盾に「日頼様もおっしゃったではないか…」と輝元や恵瓊に説得・反論していたのではないか。
利家の遺言はあっさり反古⇒妻・息子らは利家がアホと見抜いていたから。
元就の遺言はしっかり堅守⇒息子たちは元就を偉大な父と尊敬していたから。
401 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/12(金) 12:52:22
鳥屋尾宅間守 ◆Mzllk81HNE は妄想で語る基地外です。まともに相手にしてはいけません。
499 名前:鳥屋尾宅間守 ◆Mzllk81HNE 投稿日:2006/04/21(金) 23:42:08
んだね。高坂、陶、井伊は文句なく有能な男達であるのは疑いないわけだ。
尻で前田家の家督を相続した利家と同列にされても困るわな。
まあ大納言まで登りつめたのは秀吉が家康を牽制するためだったことは誰の目にも明らかだったわけで。
「なんの取り柄もない男だが秀頼のことは粗略にすまい。」とだけ秀吉は思ったわけで。
しかし唯一の希望もこの男は裏切ったがね。
死期が近づいて、いよいよという時に息子利長を呼び寄せ
「おまえは金沢に帰り八千を率い、利政には大坂に八千詰めさせ有事に備えよ」と言ったというが、この話が事実だとしたら利家も本当にわざとらしい男だな。
利政ならともかく、利長がそのような物騒な命令を聞くタマかどうか親ならわかるだろうに。利家はおそらく実行しないことを見越して、ただ自己満足のために戯言をほざいただけだろ?
また家康が見舞いにきた際「わしは長くあり申さん。息子をお頼み申す。」と涙ながらに訴えたという話もある。
後の前田藩が幕府におもねるため、史書をそう書き替えたとも考えられるが、しかし、いままでの利家の処世術を考えると、これが一番しっくりくる。おそらく事実ではないかな。
中には「家康が見舞いに来たら差し違える」と言った話もあるが、絶対うそだなwへたれ利家にそんな度胸があるわきゃないwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
501 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2006/04/22(土) 00:37:20
すげぇwwwwwww
>>499のソースは全部妄想だwwwwwww
502 名前:鳥屋尾宅間守 ◆Mzllk81HNE 投稿日:2006/04/22(土) 00:44:27
>>501 (´・ω・)ひどいや…
とりあえず世に流布している逸話を自分なりに解釈しただけだ。
あっそれを妄想というのか?
そう言われたら何も言い返せないや…
徳川宗家の現在の当主恒孝氏(十八代)は会津松平家筋からの養子で、
松平容保は、尾張徳川家の分家からの養子って事は、今の徳川宗家は
石田三成の子孫になるの?
403 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/12(金) 15:09:35
401>まあ利家の過去の行動パターンで見ればそうなるのかな。でも若いときは信長の寵を受けていた相手を切手逃げたり
している氏ね。家康も過去の行動だけみれば信用出来ると秀吉もおもったんだしな。過去だけでは計れないよね。
駄文スマソ。
404 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/12(金) 16:20:11
三成の子孫あちこちにいるし。
男系でなっきゃ価値ないのよ。
女系は問題にされなかったからこそ
時の犯罪者でも大目にみられたことは多い。
男だったら3歳児でも容赦なく死刑だよ。
秀頼の異母兄弟の国松?も死刑に
なったし。
あれ津軽に男の子のこってたんじゃない。
国松は秀頼の子じゃね?
おそ松が〜♪国松のチンポを舐めてぇ〜♪
国松が〜♪
409 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/14(日) 16:17:39
淀の弟の万福丸も殺されてるよ 磔で
410 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/15(月) 00:46:46
残虐狸。
411 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/15(月) 11:45:33
16 名前:鳥屋尾宅間守 ◆Mzllk81HNE 投稿日:2006/04/30(日) 18:02:10
はひー!ぎぁああああす!はひー!はひー!ぎぁああああす!距離負けて報告したっつーの!!だぁぁぁぁぁ!はひー!はひー!ぎぁああああす!でもやばいつーの!
だぁぁぁぁぁ!はひー!はひー!ぎぁああああす!だぁぁぁぁぁ!あとがないっつーの!はひー!はひー!ぎぁああああす!だぁぁぁぁぁ!ぎぁああああす!だぁぁぁぁぁ!ぎぁああああす!だぁぁぁぁぁ!ぎぁああああす!だぁぁぁぁぁ!
おろ……?!うははははははははははは!!!
ガッシャーン!!ガラガラ!!
19 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2006/04/30(日) 20:05:27
今まで鳥屋尾宅間守 ◆Mzllk81HNEはまとも(だったっけ?)だと
思ったが、こんなことをするようじゃあなあ・・・。
そんな立派な投稿ネーム入れながらそんなことするようじゃ
幻滅するね、本当。
22 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2006/05/01(月) 01:25:16
うん。鳥屋尾宅間守は幻滅だね。
23 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2006/05/01(月) 07:59:05
時代劇の大岡越前に、義賊に憧れる少年の話というのがありました。
その義賊は最後に処刑されるわけですが、義賊に憧れる少年の将来を案じ、処刑執行直前に、わざと命乞いの言葉を見苦しく叫びました。
それを少年はみて、一気に幻滅して、義賊への憧れを捨てました。
たぶん鳥屋尾宅間守さんも義賊と同じ心境だったのだと思います。
我々は己の思慮の浅さ、鳥屋尾宅間守さんの慈愛深き御心を考えるべきではないでしょうか?
24 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2006/05/01(月) 08:01:15
>>23 鳥屋尾自演乙!
25 名前:鳥屋尾宅間守 ◆Mzllk81HNE 投稿日:2006/05/01(月) 08:04:05
ばれたか( ^∀^)ゲラゲラ
>>410 なんか勘違いしてる?
家康は関係ないけど。
猿残虐。
414 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/15(月) 22:26:56
のぶなが残虐 乙
415 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/15(月) 22:57:31
家康煽りがあったら必ずと言っていいほど秀吉へのカウンターが入るな
まあライバル意識を持つのもいいが
アンチ家康の人は感情的になりまともな議論が
出来なくなることが多い。
じっさいこのスレの最初の方は一人の無知なアンチ
のせいで議論が進まずめちゃくちゃになった。
嫌いなのは良いんだが、
偏見に凝り固まるのはなあ・・・。
好き嫌いはあって当然なのだけれど
ひどい人になると源氏や征夷大将軍まで否定して
訳のわからない理屈が飛び出す始末、
坊主憎くけりゃ袈裟まで憎い?
というか家康厨は必ずと言っていいほど、秀吉が義昭に養子を頼みこんだ云々
って持ち出すけどちょっと知識なさ杉。
>>419 その話になるとすぐ過剰に反応するのがアンチ。
定説と言われているが学者でさえ歯切れが悪く
根拠が薄弱なのが事実。
徳川のねつ造とすぐに言うが秀吉のねつ造の方が
はるかに多いと言う事を知らないのですか。
422 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/16(火) 08:23:14
アンチ家康の人は感情的になりまともな議論が出来なくなることが多い。>藻前もな
>>419 べつにいいじゃん養子くらい。
嘘かホントかはともかく、外聞を捨てても実を優先させる秀吉らしいエピソードだよ。
良くも悪くもね。
あと秀吉も家康も武将である以前に政治家なのだから、汚い面、非人道的な面はあって当然だ
それをも込みで好き嫌いを話すわけだから、あまり大人げない揚げ足を取る物ではないよ。
424 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/16(火) 08:36:06
秀吉って側室がかなりいるわりには子供一人かよ
425 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/16(火) 08:51:44
たしかに平氏でも将軍になれるかな?信長だって副将軍に推されたことがあったよな。
このスレは源氏厨、将軍職厨が常駐して、こういう流れになると、待ってましたとばかりに、まわりが引いていることも気が付かず、ベラベラとむずかしい話を始める。
わかりやすく話せカス。
>>425 そんなに難しい話が出てきたかなあ?
自分が無知なだけなのでは?
それに源氏や将軍にこだわっている人なんか
いないと思う。
私は、家康嫌いだけれど
>>419や
>>425なんかと一緒
にしないでほしい。
家康厨は一部の粘着や無知な椰子をアンチ
の代表のように言うな。
>>426-427 将軍職源氏厨、自演擁護乙。難しい話するな。
秀吉の将軍、関白如何の話になると出てくる。ここは関ケ原スレだせ?
グーグルで検索した知識披露して楽しいか?w
コイツ正真正銘のアホだ。
>>428 このスレは他のスレと比べてそんなに難しい
事は言ってないと思うんだけど‥
バカニュースに行くことをお勧めします。
あれか、バカコテが名無しで自演指摘して荒らしてるのか?
>>432 おまえよく抜けぬけと・・・
おまえだろ?
だってバカコテはアンチ家康じゃん
自演指摘してるのってアンチだし
バカコテも結構自演してるんだけどね。
頭大丈夫?そのコテは先週の金曜日以来現われてないわけだが。
おまえが荒らしてるだけだろ。もうおまえのお目当てもこねえんだから、おまえも去れ。おまえのせいで話が進まない。
うちら住人にしたらお前の方がうぜぇ。
先週金曜以来、現われてない×
先週金曜以来、コテ使ってない○
>>437 おまえの目当て?複数いるようだが、当人には一人にしか思えないようね。
>>428は、たまにきては煽りまくる名無しだよ。
俺もスレ落ち以前からいるからわかる。文体がまんまじゃんw
奴はなんの目的があって荒らすんだろ?
>>436 自演乙。
鳥屋なんたらと今日のバカコテは、明らかに
別人だよ。
このスレは比較的、今までたとえ他のスレ等が荒れまくる傾向でも、ある程度のクオリティを保ってきた。
たとえコテがはびこっていてもね。結局、コテをスルーできない奴らが増えたってことだろ?
ふむぅ、鳥屋って奴は別段、荒らしてはいないけどな。他のスレじゃ荒らしまくりの痛い奴みたいであるが。
>>437 憶測でモノをいってはならない。
たとえその蓋然性が高くても、証明できないことを主張してはならない。すなわち、もう居もしないコテの幻影を追うのは辞めろ。
・・・・好きだったんだろw奴の事が。隠すなよ。
ここはスレタイにそって議論を叩き合わせる場だ。 議論ならいくら殴り合おうと良いと思う。
でも人を殴って面白いか おまえら。
>>442 あほ。そんな感情なんかあるわけnないだろ。
やけにいない事にしたがってるのがいるな
>>446 覚えてる人がいたかw
何スレ目のときだか忘れたが最近のような昔のような。
448 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/16(火) 18:54:10
鳥屋尾といい無知ばっかりのスレですねここは
アンチ家康より家康厨の方が感情的だと思う
家康が叩かれたら鸚鵡返しのように秀吉煽りに走るからな
家康叩きが秀吉厨だけなわけでもあるまいに
歴史的に不人気者なんだから
450 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/16(火) 19:03:33
いいかげん話さないか?
話は家康が秀頼をいつ殺そうとしたか?
↓
>>446 今スレだよ。
あと先に仕掛けたのは三成か家康かという話の時に
いいわけめいたことを言ってたこともあったから
奴なりに真剣なのでは?
二条城会見の時かな、加藤清正が護衛していたのが
逆効果だったような気がする。
453 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/16(火) 21:01:54
>>425 本能寺の直前に朝廷から
征夷大将軍・太政大臣・関白のどれか好きなの選べと言われた事実がある。
返事する前に死んでしまったが。
征夷大将軍・関白と比べて太政大臣ってなんか影が薄く天下人という感じがしないな
秀吉・家康の選択のせいかな?
でも秀吉は太政大臣にもなってるんだけどね。
いまだに征夷大将軍は清和源氏じゃないとなれないとか
秀吉が征夷大将軍になりたくて足利義昭に養子縁組を頼んだが拒否された
ため、関白になったとか与太話を信じちゃってる痛い香具師いるのな。
調べればわかるが簡単に説明すると
・征夷大将軍に「任命」されるには清和源氏の家系でなくとも問題無い。
実際に宮将軍等前例もあり。
ただし、就任後に清和源氏の流れを汲む家系の姓を下賜されたり
養子縁組等で、結果的に清和源氏となった例が多い。
これは慣例だとか東方を守護する官職の格として清和源氏はもっとも
ふさわしいためだとか色々言われてはいるがな。
・秀吉が征夷大将軍になろうとした事実は無い。
実際官位としては関白の方が上であり、また、幕府を開こうとした資料も皆無。
さらに言えば秀吉の根拠地は経済、流通の中心地の大都市大坂であり、皇室のおわす京とは目と鼻の先。
官令外の首長としての幕府という政治体制はそもそも秀吉の構想する豊臣政権と合うはずも無く、
大坂に幕府を開くことは、京にある朝廷との兼ね合い上ふさわしく無い上に、大坂を離れる理由にならなかった。
>>453 それとは逆に信長の方から三職を
要求したという説もあります。
近年の信長研究でも最もホットな
テーマのひとつとなっています。
とそもそも川幕府が「征夷大将軍になるには清和源氏にかぎる」
と吹聴した理由は家康の出自をもっともらしく思わせるためで、
秀吉の養子云々ってのは征夷大将軍の方が農民出身でもなれる
関白より上であると思わせるためだけの事。
454>徳川は250年、幕府はエロいとのイメージだろうな。
清和源氏でなければ将軍になれないなんて
少なくてもこのスレでは誰も言ってないよ。
家康の出自って盗賊を生業としていた坊主だっけ?
>>456 後の件だけど与太話と決めつけるのもどうかな。
学者でさえ断定していなかったりするわけだし
仮説として議論する価値は十分あると思う。
それにあなたの意見も面白いと思うが根拠
とするにはは弱い。
>>458 コイツいったいなに考えてるのかなあ?
自分で家康厨はすぐこの話を持ち出すと文句を
言っておきながらこの話をするのだろう。
アホなの or ただの荒らし?
秀忠の遅参は家康の深謀遠慮の結果だと言うやつは家康厨決定。
(´・ω・)ちらっと宮将軍の話がでたけど、いつも思うんだけど酒井雅楽頭の提案ってすごい不自然だったというか、よく言えたもんだと思う。
だって幕府が開府してまだ70〜80年ぐらいでしょ?
徳川家よ、もう家臣に舐められてんのかよって…
宮将軍って執権北条氏のときだよね?たしか。
その後の足利政権はたしかそんな例はないよね?
酒井、おまえ何いってんだって…。
まあ、それだけ当時、奴の権勢がすごかったってことかも知れないが。そんなふざけた提案しても、まわりが納得してしまう?って空気だったのかも知れないが。…実際猛反対にあったがね。自分の力を過信したんだね…。
ちょっと関ケ原からズレてしまった。申し訳ない。
467 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/17(水) 06:11:43
そんな事いつも考えてんのか
よっぽど暇なんだな
宮将軍を迎える案は家綱の側室がみごもっていた
から後継争いを避けるためのものらしい。宮将軍
ならいつでも廃することが出来るが徳川家だとそ
うもいかない。
と言ったが実際は酒井が宮将軍を迎えようとした
事実はないらしい。
>>465 (´・ω・)たしかに遅参が家康の計算ずくだったら恐いよね。
最近、自分の中で揺らいできたことがある。
それは、秀忠が到着したら彼は前面に布陣されたのかどうか?
今までの自分の解釈では、外様を前面に出させて、徳川家らは後陣で待機、と考えていた。なぜそう思ったのかというと、
「戦後のことを考えて自軍の兵力を温存したいとか、豊臣家内紛の構図にしたいとか、勝った場合、つけあがるから譜代に厚く恩賞をあげたくない」とかかなり小説に洗脳された傾向がある。
しかし冷静に考えたら、負けるかも知れない戦いで勝った場合の胸算用をするわけないよね。
やっぱ直接、相手を自らの軍で叩いたほうがいいに決まってる。戦後の発言力だって相当違うはず。
史実は遅参で出来なかったから、ああいうケースになっただけ。
秀忠勢がいるなら、場所は関ケ原かどうかわかんないが、先鋒はたぶん福島と秀忠のペアとかかな?
予備隊は家康の本陣備えで十分じゃない。
秀忠隊に手柄をたてさせて徳川の後継者のアピールもしたいんじゃないかな。
大垣城を包囲して攻城戦するんじゃない?
そんだけ戦力差があれば態々野戦に引き摺り出すまでもないし。
>>468 (´・ω・)そうだったんだ…。宮将軍擁立は別に雅楽頭の提案ではなかったかもしれないんだね。
綱吉方面の手で改竄されたのかもねぇ。
>>471 そうですね。やっぱ主力の秀忠隊の活躍で息子を派手にデビューさせてやりたかったかもね。
てゆーか家康本陣は烏合の衆だから、到着遅延を知った時は相当慌てたはずだよね。
慎重な家康からしたら、丸腰で戦場に出向いた如く、心細かったと思う。
このスレで過去にみなさんから教えてもらった情報によると上田の真田の抵抗など関係なく秀忠隊は遅延確定だったようですね。
ということは、遅延は上田城攻めを強く主張した「鈴をつけた信親殺しのバックレ糞野郎」のせいという解釈でいいのかな?
>>473 酒井がと言うより宮将軍擁立案もなかった
かもしれない
うろ覚えで申し訳ないのですがたまたまその頃
親王が江戸に来ていてそのことからそのような
説が生まれたらしい。
あと酒井も綱吉に解任されたわけでもない。
>>473 >上田城攻めを強く主張した「鈴をつけた信親殺しのバックレ糞野郎」のせい
これ自体、司馬史観というか小説の出来事。
仮に事実だったとしても、当時の仙石秀久は別に秀忠軍の副将でも参謀でない
単なる一武将だったのだから、たとえ強硬に主張したのだとしてもその意見を
採用した責任は秀忠及びそのスタッフ(榊原とか本田とか)にある。
>>474 となると堀田正俊が「館林公がいるだろ!」って酒井に食らいついた話も怪しい?
僕の中で綱吉って執念深いイメージがあるんだよね。
自殺かどうかの検死を執拗に主張したってエピソードってすごく奴らしいって思っちゃったりして…
綱吉はそもそも家綱の子が生まれるまでのつなぎ
という説がある。将軍の継承順位は家格からいって
綱豊の方が上。
>>475 (´・ω・)むう、そうでしたか…。
それに加え、川の増水で通行が遮断して…。
しかし天下の大会戦(関ケ原合戦があるとはこの時点では知らないとはいえど)を控え、小城ひとつに固執してしまうとは榊原康政らにしてはあるまじき失態だね。
たとえ落しても手柄とも言えないし、主力三万八千相手に2千で追撃してくるほど昌幸も愚かとも思えないし…
まあ、結果論ですが…
479 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/17(水) 13:32:45
秀忠遅参は天候のせい、使者到着の時は既に間に合わないorz、それなのに狸親父に怒られてカワウソス。
もともと秀忠の任務は信州平定という話もあるしな。
で、任務変更を伝える連絡将校が天候で(略
というか秀忠西上開始は、美濃表に進出するにしてはおかしい時期ではあると思う
481 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/17(水) 14:30:38
家康も事態の進行が想定外で把握しきれなかったんだろ。
482 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/17(水) 14:58:58
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糞コテってやっぱ小説に影響されてるだけの厨房か
あぁ、なんかのコテがいるのか、どうりでアボソが多いと思った
小説読むなとは言わんが、小説に影響されまくりの人間はそもそも議論スレに来てもまともな意見言わないしな
反日教育受けた韓国人みたいに自分の意見は絶対的に正しいと思っちゃってるし
秀忠の遅参は、結果的に関ヶ原に遅れたのであって、狙ったとか計画的だったとか
予定より遅れたとかはないのではないか?
そもそも関ヶ原自体が突発的な出来事だし、岐阜陥落から関ヶ原決戦まで目まぐるしく動いたのだから
岐阜攻防があれほど簡単に終わるとは、家康も思わなかっただろうしね
488 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/17(水) 19:20:57
>>468 宮将軍の場合
迎えるべき有ス川宮が秀忠と秀康の両家の血筋を引いた人物である
ことが、そのような疑念を生んだという話もあるそうだ。
489 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/17(水) 19:24:51
東軍と西軍は、どちらも豊臣の正規軍ではなく
豊臣家からすれば、両軍とも反乱軍であったと思う
>>487 一日で終わるなんて家康自身思ってないと思う
491 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/17(水) 21:01:09
誰も予想して無いんジャマイカ
家康の作戦や行動って用意周到なのか行き当たりばったりなのかよく分からないからな
>>468 (´・ω・)ほう、その時代にはすでに徳川家の血がそんなに色濃く皇族に反映してるのですか。
まあ、宮将軍の噂は失脚、または失脚した事を正当化しようとした勢力が流布したのでしょうね。
毎々2chに集まる諸兄の知識の質の高さと深さには大きな驚きを禁じ得ません。
さて、ここは折角の考察スレなのですから、出てきた議題毎にこのスレなりの結論を出していっては如何ですかね。その方が建設的な議論が出来ると思います。とはいえ実際は難しいのでしょうが。
>>494 過去スレでFAになった議論を一覧表にまとめてくれる神がいたらね。
その結論をこのスレの定説としてそれをもとに
さらに議論を発展させようと言うことですか?
定説なんて大それたこと言わんが、少なくともFA事項については議論し直す必要はなくなる。
どうどう巡りがなくなるし、本論が脱線しない。
498 :
497:2006/05/18(木) 12:20:35
脱線、無駄を省くことにより、あなたの望む環境に近づくはず。
家康も人間だからな、予想外の事だって沢山あるさ。
そもそも西軍があんな大規模なものになる事も予想外だったらしいし。
500 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/18(木) 13:10:29
そこは石田殿のおかげだな
501 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/18(木) 13:23:40
502 :
494:2006/05/18(木) 16:52:16
概ね497さんのおっしゃる通りです。
>>487 家康は岐阜城陥落の知らせを聞いた後で、
秀忠に使いをやり直ちに美濃方面へ急ぐように伝えている。
で、9月10日くらいには秀忠は美濃につくはずだと書いた書状を他の武将に送っている。
ところが、その使者がなかなか到着せず、そこまで危急の事態だと知らなかった秀忠は、
上田城攻略にかまけてしまって、10日どころか15日当日にすら間に合わなかった。
つまり、家康は秀忠隊を間に合わせるつもりだったのだから、
結局間に合わなかった秀忠は、結果論では遅参となってしまう。
しかし、その理由は使者がなかなか到着しなかったからであるということ。
504 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/18(木) 22:28:03
家康は案外短気な面もあったから、関ヶ原の戦況が芳しくなく秀秋の裏切りによってようやく勝った
ことに相当頭に来てたんでしょう。
秀忠は八つ当たりされただけ。
505 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/19(金) 00:22:37
>>504 ま、秀秋が動かなくても、石田三成隊・小西行長隊が崩れるのは時間の問題だったんじゃないか?
でも、そのころには、藤堂、京極、福島も崩れているだろうがな。
>>505 いあいあ、三成配下の左近隊は藤堂、京極、福島を一手に受けて互角以上の
戦いを繰り広げてるぞ。
秀秋が裏切らず、左近が存命ならば戦況は西軍有利のままだったんじゃね?
東軍にもまだ戦闘に参加してない部隊は多いが、西軍の戦闘未参加隊には
数は1000あまりだが日本一精強な兵を抱にえた島津、家康本陣背後には毛利、
長宗我部。
メッケルの言葉を借りなくても、部隊展開有利な西軍に分があるのは確実だろ。
小西行長の部隊はシラネ。
そういや、仮に秀忠が間に合ったとしても、いったいどこから桃配山付近の家康
本陣へ合流する予定だったんだろ。
下手に南宮山脇なんか通過できないだろうし。
507 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/19(金) 01:20:52
ウィキペディアには秀忠遅参は家康の計画説とあるな、突発事故説も併記してあるが。
>いあいあ、三成配下の左近隊は藤堂、京極、福島を一手に受けて互角以上の
お前の脳内関ヶ原なんてだれも訊ねてない。
>>506 いあいあ、左近隊の対戦相手は、東軍右翼の黒田長政と細川忠興が主力ですがな
左近が、早々に黒田長政の鉄砲隊に撃たれてましたやろ?
511 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/19(金) 08:28:24
506、1日で勝敗が決まるとは思ってなかった老子、美濃あたりで西軍と対峙と
考えて呼び寄せただけじゃまいか。
いあいあ、左近隊の奮戦は、ひとえに島の後を継いだ舞兵庫の指揮のたまものです。
本来であれば陣頭で指揮する島左近、後方で戦局を見る舞兵庫ってのが石田隊の人事
なのですよ。
スレの流れの腰を折ってもうしわけないが兵庫厨のたわごとです。
お気になさらずスレをおすすめください。
軍談物でオナヌーしててください
>>494 新しいスレを立てるというのはどうですか?
家康スレもないことだし。
515 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/19(金) 21:26:49
宇喜多隊が福島隊を撃破して、かつ小早川隊が動かなければ
西軍が優勢になっていたと思う
西軍が勝つようなタラレバ言えば、そりゃ西軍が有利にならない訳が無い
黒田家家臣の毛屋主水が家康に、敵の数は10万は
くだらないが、実際の戦力は2万程度だと言っている。
つまり戦前に結果はわかっていたということ。
518 :
戦国さいきょーす「」:2006/05/19(金) 21:48:34
質問!オナニーってなに」?
519 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/19(金) 21:53:24
たとえ徳川家康が西軍を率いても、東軍に勝つことは不可能だったと思う?
徳川と石田を交換するだけなら三成と武断派の対立で東軍の内部崩壊が起きるので徳川の勝ち
521 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/19(金) 22:23:42
要は家康・三成どっちが人を指揮する才があるかという事
石田三成が加藤清正や福島正則と仲良くなってれば関が原の合戦は起きなかった
523 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/19(金) 23:06:12
家康と三成が連携して関が原に挑んだら、どんな構図が予想される?
>>521 取締クラスなら家康
課長クラスなら三成
age厨でIF厨でネタフリも糞でツマンネー
氏ね
528 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/20(土) 00:44:34
どうたろうね
秀秋が裏切らず
東軍に突撃してたらまず東軍は負けてただろう
その後の展開では毛利も東軍を攻めてるだろうし
でも家康が死ななかった場合は関ヶ原で例え負けても
その後も江戸でかなり粘っただろう
西軍みたいに腰砕けにはならんだろ
もしくは和議で
領地はそのままとか
でも小早川が静観のままでは
西軍も結局敗走してんじゃないか
黒田や細川や福島が敗勢だったとしても
家康の本隊は無傷だからね
>>528 秀秋が西軍参加しても、徳川本体2万が動き出せば簡単に西軍に勝てそうな気がしますが…
西軍勝利は、むしろ小早川より、毛利と吉川軍の動向でしょう。
530 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/20(土) 06:33:57
いや
小早川が徳川に攻めかかってた場合
藤堂や織田や田中などはまず潰えてる
横が潰えた場合
福島や黒田や細川もヤバい
たとえ徳川に本隊があったとしても
前線に入れ替わるのは容易ではない
前から逃げてくる味方を収容しつつ敵と戦う
至難の業
福島らはある程度持ちこたえるだろうが小早川勢の加入をみた宇喜多一万五千が総攻撃にうつれば
東軍の諸将はまず崩壊する
小早川だけじゃなく赤座小川らも合計4000近い
これらが一挙に攻めてくれば
徳川本といえど
簡単に勝てるわけがない
藤堂や田中や織田などに小早川を押し返えすほどの武略や兵力はない
東軍は最高でも6000程度の兵力の大名しかいない
まして大谷隊にすらてこずった連中が
小早川を支えるのは不可能
更には小早川勢の加入は単なる兵力の問題ではなく
前線の兵が崩れるきっかけになる
一度崩れた兵を立て直すのは 家康でも無理じゃないか?
小早川勢のかせいで東軍の兵の心がまず折れるよ
とりあえず、
福島隊を飛び越えて織田隊や田中隊が小早川勢と交戦する事態が想定できないんだが。
まあ、陣場野に進出した家康が万が一の対抗策を講じているか否かが全てだと思う。
何もなければそれで終わり。
アホみたいだが、秀秋が西軍につかなきゃ勝てない。
秀秋が西軍につくには、戦場で西軍がよほど優勢にならなければならない。
以上、終了。
ニワカ西軍厨が必ずする、妄想だらけの逆転関ヶ原合戦でした。
にわかに東軍オタが自分の不遇な境遇を棚に上げていちゃもんつけだしたようです
大体、小早川隊は松尾山に入っている時点で西軍じゃないよ。
それを西軍として計算に入れる方がどうかしている。
>>508 アレは全く話にならない与太話。
資料的な根拠はゼロで、状況証拠からの類推のみだけど、
その状況証拠ですら軍事的知識の欠如からもたらされた誤ったもの。
一応小早川も福島隊辺りが崩れれば西軍に付く可能性はあるけどな、あの時点
で小早川を処断する余裕なんて西軍に無いし。
まあ結局そんな事態は起こらなかった訳だが。
西軍に都合のいいIF言えば西軍に有利な展開なんぞいくらでも出来るわヴォケ
539 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/20(土) 12:58:36
史実は東軍の勝ちだから、東軍が有利な状況を妄想してもつまらん藁。
東軍は史実通りの動きで、西軍はそれを見越して有り得もしない展開でハァハァするからつまらん罠。
開戦前に家康は勝利を確信してたと思うのだけど、
戦術でどうにかなるの?
家康は確信まではしてないが、相当優勢だとは思ってたんじゃないかね?
小早川は東軍につく姿勢を松尾山城占拠で見せて、最悪でも動かないと踏んでたろうし、
毛利が動かないと見越してたろうし、途中からは長宗我部なども動かないと判断したから
後方の隊を前線に送ってもいるしね
関ヶ原になった時点で西軍に勝ち目なし、岐阜攻防か、
福島正則を説得出来ると思ってて尾張侵攻しなかった時期とか、その辺で勝てるシナリオを仮定した方がマシ
家康を叩き潰せる指導力のある有力な人間がいない
歪んで粘着質な人間性はさておき、指導力では家康が
あの時代、やはり一歩も二歩も上だったということだ
544 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/20(土) 14:18:43
直江がそこにいたら面白かったのに
>>542 確信はないだろ。だから本陣の三万は動かさなかったし、
予定通りなら、今頃秀忠率いる徳川家の主力が到着していた。
546 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/20(土) 15:15:44
「家康が来るまで、かなりの時間がある」 と思って、立花・毛利秀包・前田茂勝・小野木・織田信包・筑紫など30000を、
どうでもいい方面に向けてしまって、本戦の出せなかったのが最大の汚点。
これらは、結構小大名であって三成のいうことは聞きそうだし。
あと大坂守備に40000も残すのがどうかしてる。
>>545 「確信まではしてないが、相当優勢だとは思ってたんじゃないか」
といっているように思うけど?
実際そんなものでしょうそれだけの根拠はあっただろうし。
黒田の調略もうまくいっていたし
>>546 かなり時間があると思ったのではなく、
一刻も早く対処しなければならなかったらか兵を送って、
結果的に家康本隊到着に間に合わなかったというだけ。
大阪城については4万もいたどうかはしらないが、
三成は大坂にいた中で、少なくとも輝元本隊は関ヶ原まで来てもらうつもりだったのに、
断られ来てもらえなかったのだから、意図的に「残した」わけではない。
まあなんだ。関ヶ原の陣立ての時点で勝負はついたということだ。
違うな家康の到着に気付いてなかったんだよ>西軍
気付いたのは9月12日以降
552 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/20(土) 15:44:28
大坂守備:豊臣秀頼(淀殿)・毛利輝元 計10000
大垣〜岐阜守備:石田三成・宇喜多秀家・小西行長・島津義弘・小早川秀秋・毛利秀元(吉川広家)・長曹我部盛親・長束正家・織田秀信・立花宗茂
・毛利秀包・筑紫広門・京極高次・小野木公郷・南条忠次・織田信包・前田茂勝・増田長盛 etc 計140000
北陸守備(対前田)大谷吉継・小川祐忠・脇坂安治・赤座直保・朽木元綱・丹羽長重・青木一短・ etc 計12000
大坂守備を極限まで減らす。そして戦力を集中させる。前田利長の押えとして、大谷諸隊を越前で籠城させる。
岐阜支援・越前防衛 これなら敵は進めない。
大垣岐阜に14万も集めた場合の補給や物資はどうすんのかね?
中国・畿内方面の東軍の処遇はどうすんのかね?
554 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/20(土) 16:05:16
両軍の関ヶ原本戦の参加可能兵力
西軍:摂津〜美濃間 160000余
東軍:美濃〜信濃・加賀 150000余
両軍の本戦参不可能兵力
西軍・九州:島津20000・東北:上杉等50000・佐竹15000
東軍・九州:黒田9000・加藤8000・鍋島10000?・関東:結城20000・東北:津軽・南部・秋田・伊達・最上 計35000
数値厨うざい。補給とか関係ない。そばにコンビニとかあるだろ。
バカかお前は。
昼飯時に14万もの人が一気にコンビニに来たら、
店員さんがパニックになるだろ!
557 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/20(土) 18:36:52
んじゃ
まっすぐ並んでおにぎり15万個買うのか
たとえおにぎり14万がコンビニに売っていても、
そもそも三成には大垣岐阜の西軍14万に買ってやる金がない
559 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/20(土) 19:08:03
1.小早川は動かず、吉川と毛利が家康を背後から襲撃
2.小早川が東軍を側面から襲撃、吉川と毛利は動かず
それぞれのパターンで、どんな展開が予想される?
バッカだな、14万人で集団万引きするんだよ
労損大垣点が一日の売り上げ記録更新したらしいじゃん!
9/15日は慢性的に品切れ状態だってんで、
商品を増やして対応しようとしたら、翌日にはほとんど誰も買いに来なくて大赤字だったらしいけどな。
まさに苦労損。
>>559 小早川が西軍に付いて毛利が動かないとして…
まず裏切りカルテットがどう動くかが問題、つられて西軍に付くか、そのまま動かないか。
西軍に付いた場合、それに加えて小早川に気をとられて十分闘え無かった大谷隊も改めて東軍と
闘える様になる。
ただし、東軍も今一戦闘参加していなかった井伊&松平隊は福島側面を守るため動き出す。
それとやっぱ徳川2万。
関ヶ原での戦闘を見ても解るように、同じ軍勢でも他家同士は必ずしも有機的な連携を持って闘って
いるわけでは無く、非常に戦力を無駄に運用しています。
徳川は2万の軍勢を統一指揮できる分、より友好的に戦力が使えるのは大きな利点かと。
結果としては、これで互角な戦いになるのではないでしょうか?
小西は…よくわからん。
>>563 この日は大きなイベントが有るってんで西日本中から優秀な三つ星店員を集めたから
大丈夫。
なんでもすごく手際が良かったとか。
おいここはバカニュースか、
567 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 08:47:52
何で小西はわからんの?
568 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 12:27:06
>>559 >1.小早川は動かず、吉川と毛利が家康を背後から襲撃
>2.小早川が東軍を側面から襲撃、吉川と毛利は動かず
1なら西軍が勝つ(ただし、楽勝ではなく辛勝に過ぎない)
2なら痛み分け(埒が明かず、和議で停戦になる可能性が高い)
>>568 家康本陣と南宮山の押えの兵力を足した方が、
南宮山の毛利軍よりも多いのに?
家康の本陣の正面は確かに西軍と対していただろうが、
後陣にも有力な部隊がいて決して無防備だったわけじゃあない。
1の場合も西軍が勝つとは言い切れないと思うよ。
小早川と吉川が積極的に西軍として参加するとは
思えない、大体両家は主戦派ではない。
可能性がない事を前提に西軍が勝てたと言いだすからIF厨はつまらん
じゃあどうしろと?
つまんねー覚えたての消防みたいなタラレバ止めればいいんじゃねーのかな
574 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 17:17:08
チャーン
575 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 18:29:59
東軍も前半は苦戦していますが・・・?
↑どんな苦戦?
>>575 攻めてくる東軍を押し戻しただけ、
確かに押しているのは西軍に見えたかもしれないが、
そもそも攻めてきているのが東軍なのであって、
西軍はそれを受けてたっていただけ。つまり、終始受身の態勢だった。
まあ、東軍は思ったよりは苦戦したとも言えるかも知れないが、
決して劣勢ではなかったということ。
578 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 18:46:44
>>577 だけど、小早川が寝返るまでは東軍にも決め手が無かっただろ?
580 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 18:54:03
小早川は松尾山占拠した時点で寝返りがはっきりしたんであって、
いきなり寝返った訳ではない
伊勢攻め拒否して近江を彷徨ってるしな
582 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 18:58:53
小早川は最初から東軍だったという説もあるよ
583 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 19:01:04
>終始受身の態勢だった。
ここに戦国後期の戦の典型的な型が見られる。
この型は長篠や賤ヶ岳でも見られるが、最初
相手に攻めさせておいて疲弊を誘い、頃合を
見て反撃に転じる戦法である。
関ヶ原においては、反撃に転じる前に小早川
の寝返りが発生したため不発に終わっている。
584 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 19:02:33
>>583 小早川が寝返らなければ、反撃に転じて逆転だったのか?
また見当違いな例えをする屁理屈厨房ですか?
反撃出来るなら三成が島津に援護求めに行ってない罠。
>>583 それは反撃に転じるだけの予備兵力があればの話。
588 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 19:09:21
>>583 東軍が西軍を誘い出して、先に西軍に攻めさせて疲弊した頃に東軍が反撃に転じる作戦はありえなかったのか?
589 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 19:09:32
>>584 IF話なので 「その可能性も無きにしもあらず」 としておく。
西軍は一応、秀頼と朝廷を抱えているので政略的に東軍より
優位に立っている。戦線さえ維持していれば良いので無理攻
めはしないだろうと思う。
西軍は(どちらかといえば)秀吉の賤ヶ岳戦のときと似たよう
な布陣状況なので、その辺も探ってみると案外面白いと思う。
>>580 小早川と毛利らが東軍を攻めない限りね。
東軍の予備戦力を考えると、どちらか一方だけでも心もとない。
591 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 19:11:19
>>589 反撃に転じなくても、戦線を耐え抜くだけで良いということ?
ぜんぜん抱えていません。
豊臣からも朝廷からも家康追討の令などもらえていないでしょう?
ありもしないものを前提にされても・・・
594 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 19:13:51
私は、小早川と毛利が東軍を攻めても西軍が勝つのは厳しかったと思う
まあ、西軍が勝つ可能性も皆無では無いが・・・
>>583 石田隊あたりのほうがはるかに疲弊していますがね。
対して東軍には無傷の家康本隊3万。
何をどうやって相手の疲弊も待つと?
朝廷は中立でしたが…
停戦させるように大坂に使者だして豊臣家は中立の立場として断ってるよ
597 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 19:15:50
西軍が勝つためには、大津城攻略隊の到着が必須条件だったの?
>秀吉の賤ヶ岳戦のときと似たような布陣状況
全然違う
>>597 正直微妙
大津攻略に参加した諸将が戦闘に積極的に参加するかは不確定だし、
そもそも来てたら、史実のような動き・布陣になるとも言えない
600 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 19:23:55
>>592 ここで「○○を抱える」の定義を考えてみるといい。
(一例)
平治元年(1159)、保元の乱鎮圧の恩賞に不満を抱く源義朝と
藤原信西に反感を持つ公家がクーデターを起こす。平清盛が
一族を引き連れて熊野詣に向かった隙に挙兵した義朝らは、
天皇・上皇を幽閉して内裏を占拠。(中略)平清盛は急遽都に
引き返し、密かに天皇・上皇を脱出させ取り戻すことに成功
する。これにて状況は一転し、源義朝らは朝敵として追討さ
れる立場に立たされることになる
601 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 19:26:34
>>600 西軍が清盛がそうしたように、
敵を朝敵とすることが出来たなら朝廷を抱え込んだといえるかもしれないが、
事実はそうじゃあないから。
603 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 19:27:40
>豊臣からも朝廷からも家康追討の令などもらえていないでしょう
>朝廷は中立でしたが…
>停戦させるように大坂に使者だして豊臣家は中立の立場として断ってるよ
それらは後付けの論理じゃないのか? もし西軍が勝って
いれば別の見解をしたに違いない。
平治の乱は院から追討出てるが?
秀頼、豊臣家からそんなの貰ったか?
朝廷からさえないが
605 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 19:30:16
毛利が吉川を押しのけるか迂回して東軍を攻めることはできなかったのか?
>>603 後付も何も事実出ていないが?
もし、そんなものが出ればそれこそ平治の乱のように、
状況はそれなりに変わったでしょう。
>>603 後付け?意味不明
勝ったらって勝敗つく前の朝廷と豊臣家の立場表明たなんだけど
西軍勝ったらって、それこそ後付けだろ
608 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 19:32:20
出来ていないことを出来ていないと言っただけだが?
611 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 19:34:31
>>603
何を指して後付けといってるのか、よく
わからんが、「勝てば官軍」って言葉
しってる?
・
612 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 19:39:37
>>606 >>607 >>611 頼むから国語勉強してこい
「後付け」じゃ意味通じないかなぁ?言い換えて(同義だが)
『後ろ向きの歴史観』とでも言っておくか
613 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 19:42:43
>>595
それだったら家康はワザワザ身の危険を冒してまで
前線に赴いて兵を鼓舞しなくてもいいじゃないか?
614 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 19:44:09
。
615 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 19:47:24
>>612 よけい意味がわからんが、
「後付け」と「後ろ向き」じゃ全然
意味がちがうし。
。
後付けなら朝廷は東軍支持してたとするがなw
朝廷は内戦が長引くのを恐れ、停戦させるように大坂の豊臣家に対して使者出しました
それに対して豊臣家は立場を明確にせず使者に対して停戦の仲介を断った
西軍が抱えてたなら朝廷の停戦要求は有りえない、
豊臣家も西軍支持を出すか、何らかの支援してるがしていない
以上
後向きの歴史観?なんのこっちゃ??
618 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 19:51:43
「後付けの歴史観」というのは、
結果から逆算して都合よく解釈すること。
で抱えてたとする根拠は?
620 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 19:56:54
厨房は覚えたての言葉をすぐに使いたがる。
621 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 20:06:48
>>616 そりゃそうだ。官軍家康に「私は西軍支持してますぅ」
って誰が言えるもんかいな?身の保全が第一だから、史実の流
れだと「朝廷=東軍支持」は当然だろ?
【もしも西軍が勝っていれば話が変わる】
官軍三成に「私は東軍支持してますぅ」とは言えまい。
________________________________________________________________
東軍家康の勝利によって今日まで歴史が続いているのだが、その視点で
関ヶ原の戦いを捉えると必ず歪みが出てくる。当然関ヶ原の戦いの時点
では秀頼も朝廷も(直接関わっているわけではないので)中立だ。
ただし大阪と京を西軍が軍事的に押さえているので、形の上で西軍が朝
廷を抱えていることになっている。これは内裏に天皇を幽閉した源義朝
と似たような状況だと思えばいい(仮に朝廷が京を抜け出し、家康の軍事
勢力圏内に行ってしまえば全く話しが変わってくる)
622 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 20:07:27
新しい「関が原のシミュレーションゲーム」を作るなら、どんなのがいい?
>>621 西軍も東軍も支持してないと書いてるのに、後付で「朝廷=東軍支持」は当然とはこれ如何に?
大坂にいた輝元は本丸にはいらず、増田長盛は家康に詳細を伝え、秀頼に対して幽閉まがいな事をせず、
朝廷は自由に動いていたのを、押さえていたとはね
大坂には確かに毛利などいたから表面的には軍事的に押さえてたと言えるが、
朝廷は全く押さえてない
というか、朝廷と秀頼を抑えていた→京と大坂を軍事的に押さえてたに変わっとるがなw
624 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 20:35:16
>京と大坂を軍事的に押さえてた
(当時の状況を踏まえると)それで十分じゃないか
朝廷と秀頼を押さえていた≠京と大坂を押さえていた
意味が異なる、主旨というか論点のすり替えは話にならんぞ
626 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 20:47:09
>>625 論点のすり替え?なんのこっちゃ (「当時の状況を踏まえると」が前提だ、よく読め)
>>625 そういう事だな
西軍は豊臣家の支持を得られなかった(豊臣家に害を及ぼさないよう、あえて得ようとしなかったとも言える)
だから、福島などの子飼い大名の多くが東軍についてしまったと
当時の状況なら尚更意味なかった訳だが、何が十分だったのか謎
アホか?
>>627 西軍は、特に三成は福島正則は西軍に味方すると思ってたようだしね
かなりの勧誘活動行い、尾張攻撃までしなかったからね
>>626 当時の何の状況を踏まえたら、何が十分だったのか?詳しく
アホか?
最近、自分の意見が通らないと難癖やコジツケしてでも通そうとする駄々っ子いるな
>>621 関ヶ原の時に朝廷は田辺城で絶体絶命の細川幽斎を救うべく勅命講和を出しました。
それは細川幽斎が和歌における古今伝授の伝承者であり古今伝授が絶えるのを恐れたからです。
当時の朝廷とはそういうものなのです。
635 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 21:56:52
福島って黒田に説得されたのか?
636 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/22(月) 00:08:04
>>634 細川幽斎は天皇の隠し子であったともいわれてるので
なおさら朝廷は放置できまいね。
んな都市伝説でクマー
>>636 捏造乙
細川幽斎の隠し子説の親は足利義晴であって天皇ではありません
君の脳内朝廷はこのスレには要らないから
640 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/22(月) 18:19:20
小早川が東軍を側面から襲撃、毛利が吉川を押しのけて家康を背後から襲撃、吉川ら他の南宮山勢は動かず
このパターンで、どんな展開が予想される?
そんなパターンない
642 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/22(月) 18:57:24
だいたい三成に一番うらみがあるの
は小早川かもしれない。
そんな人間がなぜ西軍の主力となって
戦うわけ?西軍の勝利が確定的になったら
参戦するかもしれないけど
643 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/22(月) 19:01:37
もし家康が最初から豊臣家討伐を大義名分に掲げて関が原を戦ったら、どんな結果になっていただろう?
644 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/22(月) 19:05:23
大義名分になってないよ
そんなの掲げて戦わない
646 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/22(月) 19:12:47
>>645 豊臣と反豊臣が鮮明になるメリットがあるけど・・・?
反豊臣?鮮明になるメリット???何このバカw
>>646 あの時点での家康は豊臣家の名代として上杉征伐に乗り出した五大老の筆頭でしょ?
ぶっちゃけデメリットしかないと思うんだが。
649 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/22(月) 19:30:51
どちらにしろ、相手が三成では楽勝だろうけど・・・?
構って厨房
>>649 日本中を敵に回して徳川だけでどうしろと?
652 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/22(月) 19:41:40
>>651 三成も日本中を敵に回しているから石田だけでどうにもならないから同じ
単純に徳川と石田の戦いになるから、戦力差からして勝敗は明確だろ?
だから構って厨房だから放置するのが吉
>>652 >>653は荒らしだから無視して、私が相手するぞ!
敵が多い時点で家康も三成も滅びる運命だな
655 :
652:2006/05/22(月) 19:56:49
>>653 相手されていないようだから、もうレスはやめます。
656 :
652:2006/05/22(月) 19:58:19
>>654 相手してくれる人がいるみたいだから、やっぱりレスを続けます。
657 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/22(月) 20:01:10
>>654 反三成の福島らが西軍に加担することは無い
東軍に加担するかどうかは別にして、勝敗に影響は無い
一人でやるのはもう飽きたの?
659 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/22(月) 21:19:22
>>643 そうなった場合福島ら豊臣武断と三成ら文治の連中が一時的に手を組むことになるでしょ。
関が原の状況は
朝鮮出兵という海外雄飛の失敗で国内に鬱屈した領土拡大欲求や褒章のないことへんの
不満から国内の領地の再編成でつじつまをあわせたいという武家諸侯の抱える
激情が要因なのだから。
単純に三成が反家康であったとか福島が終始一貫反三成のままかも
疑問符がつく。
ただ単にその諸侯の激情が
徳川VS反徳川(宇喜多、毛利や上杉ら)
福島ら豊臣武断VS三成ら文治
という二つの抗争として整理され、それぞれがなりゆきでその立場
を選んだ結果だと思う。
逆にいえば初期であれば三成と家康が組んで前田利長と福島らが組んで争う
可能性も、秀吉薨去当時の三成と家康のそれほど敵対的でない関係から
不可能とはいえなかったと思うし、
実際加藤清正が西軍参加を思案していたり福島正則と石田三成が
手を組む選択肢も北政所が双方の人脈と親しく双方に身内を抱えていた状況からして
家康が福島らの去就に不安を抱いて関東に篭った状況のままであったならば
北政所の名代を使って和議を結び
豊臣武断派の抱える領土的不満を徳川といった巨大外様の整理で捻出しようという
可能性も・・皆無じゃななかったのではないか・?
関が原は一歩間違えれば応仁の乱のような誰が敵か味方か離合集散して
入り乱れる状況すらあったようにと見えるんだが。
660 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/22(月) 21:42:19
>>659 >逆にいえば初期であれば三成と家康が組んで前田利長と福島らが組んで争う
>可能性も、秀吉薨去当時の三成と家康のそれほど敵対的でない関係から
>不可能とはいえなかったと思うし、
その場合は、家康も三成も東軍で前田と福島が西軍かな?
豊臣政権内の権力争いが関ヶ原なのに、反豊臣という時点で無知な仮定なのにな
662 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/22(月) 22:14:59
輝元が関が原に出陣する仮説のほうが、まだ現実味があるよ
663 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/22(月) 22:44:13
豊臣家のやる気と奉行の怪しい動きがなければ、普通に喜多でしょ。
まあ、テルモトは風邪との話もあるが。
豊臣家のやる気とは何ですか?
豊臣家が積極的に西軍を支持しなかった事が言いたいんだと思うが、そもそも
豊臣家がこの話を事前に知ってたかかなり怪しい罠。
666 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/23(火) 01:15:08
豊臣家が東軍支持の立場を表明していたら、家康は豊臣家を滅ぼす口実が無かったのかな?
関ヶ原後に朝廷も豊臣家も戦勝祝賀してるから、形式的には支持した形にはなってるよ
家康も豊臣家と立場逆転させるのに関ケ原から二年かけて、
さらに豊臣家に対して上の立場から使者出したのは、秀忠の将軍就任までかけてる
その間に九条?を関白に就任させて、豊臣政権を否定したりしてる
豊臣家が史実のような態度とる限り無理でしょう
どっちかに肩入れして、肩入れしなかった方に勝たれたら困るから、俺中立な
というのが豊臣家の本音。
それまでは律儀者で通っている家康がまさか政権奪取を企てるなんて思わないだろう。
そうである以上、豊臣家が積極的にどちらか一方に荷担するのはあり得ないと思うが。
669 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/23(火) 09:30:04
お人よしの二代目が性格の悪い狸じじいにいい様に手玉に取られたというだけですね
手玉も何も、二代目はお人よし以前に幼児だし。
豊家の総意をまとめて代表できる人物が不在だから、豊臣恩顧で割れたわけで。
671 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/23(火) 17:04:50
豊臣の旗本が数千ほど関ヶ原に出陣してるよね、石田を支持する勢力があったのでは?
あったかもしれないが少数派であろう。
石田方が大勢なら篭城していると思われる。
西軍主力を大阪城内に入れ、城下の妻子を人質にする西軍に対し苦情すら出さないでは、豊臣は西軍に
加担していたと考えるしかない…と言うかそれでオレ知らんなんて理屈通じるはずなかろう。
秀吉死後の家康の態度&行動を考えると動機も十分。
西軍がそのまま勝利していたら豊臣家は堂々と西軍盟主を名乗ったろうが、あいにく西軍は敗北、主要メンバー
は殺され、多くの家は廃絶、本来であれば豊臣もやばいはず。
ただ家康としても、三成にだまされた豊臣を救う名目で豊臣武断派を利用した手前、豊臣に対し罰即は与えられない
し、そんな事をしよう物なら福島等が黙っちゃいない。また戦乱がぶり返しかねない。
史実な結果は豊臣、徳川お互い両者の立場を考えての落としどころだったんじゃないか?
>>672 大阪籠城では戦に勝てないよ。
徳川方は大阪をほって、毛利・宇喜多の本拠を付くだけで片が付く。
西軍を咎めもしなかったが、加担もしなかった
それだけなのにバカだな
たとえば、米軍が日本を最大の拠点として中国と闘う。
米軍日本キャンプからは終日軍用機が飛び立ち、横須賀は米軍艦艇であふれかえる。
日本は食料や物資を米軍に渡し、あまつさえ在日中国人を収容所に送り米軍の中国大使館占拠を黙認。
結果米国は大敗。
でも日本は米軍加担してません。憲法で禁止されてますからなんて言って、中国がはいそーですかなんて
言うわけがないわな。
例えが見当違いでお話になりません
中国が経済上の問題で日本を潰せないのと同じ事か
家康も豊臣家の直轄領から物資使ってるから、
>>676理論だと豊臣は東軍に加担してたとなる。
680 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/23(火) 19:21:22
家康と三成では、どちらのほうが害が多いの?
豊臣家にとってか?
682 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/23(火) 21:09:18
三成が勝ってから何をするかはわからない
三成が内部から分裂させた豊臣家を
家康が攻めて滅ぼした
どちらも豊臣にとって害をなす存在
>>676 その例えに類することを豊臣は一切やっていないのですが?
物資なんて全く渡していない。
だいたい、そこまで露骨に豊臣が西軍につけば福島ら豊臣恩顧が家康につくはずがないし。
>>684 ポジティブに考えようぜ
三成は豊臣家に巣食うウミを吐き出した・・・と
膿を吐き出したら中身がなくなってしまったのが問題だな。
でも武断派の軍規違反の勝手な行動を見逃したら三成が処罰されてしまう
三成の立場としてはまず秀吉に報告して判断を仰ぐしかないが
秀吉は呆けてしまったので加藤や小早川に対してでさえ双方の言い分を聞くなどの配慮をせず
三成の報告だけで処罰を下してしまったため三成が怨まれることになってしまった
結局のところ豊臣崩壊の最大の原因は秀吉自身にある
それ以前にあんなええかげんな支配体制をそのままにしたらだめだろ。
秀吉には豊臣体制を創ろうという気がなかったと思われてもいたしかた無しだな。
このスレってこれまでに何を議論してきたの?
過去に議論した議題とその結論のまとめは無いのか?
関ヶ原の勉強をしに着たんだが、今のスレでは何がなんだかさっぱりわからない・・・。
>>690 逆に考えるんだ!
過去ログを全部読んで、論点と結論を自力でまとめてみるんだ!
そうしたら、もしかしたら勉強できるかもしれない!
まとめサイトなんかつくれば最高。スレのみんなもきっと喜んでくれる
ああ、そうか…きっとそのまとめる過程が勉強だったんだ…
マジレスすると、住人も時間と共に入れ替わるので話が繰り返し、
結論がでても忘れられていきます 今回は変なIf厨もいるし
話半分で聞いとくか、自分で過去ログ読んで取捨選択しましょう
692 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/24(水) 07:03:14
毛利輝元も毛利秀元もやる気はある。
輝元:美濃の大垣に二万or二万五千の軍勢を率いて出陣しようと準備をするが、そんな時に「増田長盛が徳川に内通して、クーデターを起こす」という情報が入ったから出陣は取りやめになった。
秀元:伊勢攻めもしっかりやってるし、本戦でも徳川3万の背後を襲うつもりだったが、家老の吉川に頭が上がらず出陣できなかった。大坂まで退却するとき、黒田長政・福島正則に降伏を勧められるが、拒否し二人を陣からつまみ出す。戦後徹底抗戦を主張する。
693 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/24(水) 07:10:54
安国寺でさえ動けなかったんだから、毛利秀元に吉川を押しのけて出陣するなんてできる筈がない。
毛利本家に、やる気が無いわけではなかったとおもう。
694 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/24(水) 08:37:07
その通り毛利と名の付くものは問題ない、吉川と一部重臣の裏切り。
695 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/24(水) 09:19:33
毛利が生き残れたのはひとえに吉川の尽力の賜
>>694 吉川と一部重臣にしてみれば、
毛利と名のつくもの達の、毛利家に対する裏切り。
毛利宗家は、一揆構造の盟主的存在に過ぎない。
697 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/24(水) 11:50:23
てるもとが殿さんでしょ、殿さんの言うことを聞かないのが裏切りでは。
698 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/24(水) 11:58:20
吉川が本当に毛利家が西軍に参加すれば滅びると思っているなら、命を張ってでも止めるべき、
止めたけど、西軍についちゃったんなら間違った判断でも断が下った訳だから、死にものぐるいで東軍打倒に尽力すべき。
裏でごちょごちょ姑息な工作に終始して、しかも狸に欺かれましたでは、不義不忠者と呼ばれてもしょうがない。
輝元に諫言するが入れられず、家康相手に奮戦して戦死ならば、あっぱれ知勇兼備の忠臣よと呼ばれて歴史に汚名を残す事はなかったと思われ。
695>毛利本家からは裏切り者扱い、家康からはそんなの氏らねと言われて必死の泣き言
大幅減封で改易は免れたのは広家の功というより家康の想定内、お釈迦様の手の中で走りまわる猿みたいなもの。
700 :
咲:2006/05/24(水) 12:29:14
広家にすれば関ヶ原後は得意満面だったんだろうねえ、「ほら西軍なんて直ぐ負けたでしょ、坊主の言うことなんか聞いちゃダメ、
でも私が話をつけてあるから毛利は安泰ですよ。」てな感じで♪あなたが大好きって!
小早川の裏切りがなければ西軍は勝っていたかね?
明治初期のドイツ武官メッケルが西軍圧勝、と布陣図みて一瞬でそう判断し小早川の裏切りを教えられるまで頑として東軍敗北と信じていたって逸話があるが
つうか小早川が裏切らないなら関ヶ原で戦う必要が無かったりする。
関ヶ原で戦うなんて東西両軍とも予想してないんじゃない?西軍は大垣で籠城の不利と小早川の裏切り防止のために陣替えでしょ、東軍は西軍が撤退すると見て追撃であの布陣。
小早川の裏切りなんてあてにして戦うほど家康はやわじゃないでしょ。あんな布陣になったのは西軍の意図をはかりかねたこと、家康が10マン規模の軍を指揮した経験がなかったことと、豊臣恩顧の連中を完全に
コントロール出来なかったからじゃないかと思う、じゃないと家康みたいな知将がありえない。
関ヶ原の遺構発掘によると
西軍の陣地って結構念入りに構築されていて通説のような一夜での吶喊工事みたいなレベルじゃなかったそうだね
そんな陣地ない
あるのは以前から滞陣していた大谷陣地や南宮山の毛利陣地などだけ
石田や宇喜多、小西の陣跡には、そんな大規模な遺跡は見つかってません
706 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/24(水) 14:31:20
それは色々な説があるけど、松尾山の旧城整備や大谷隊が掘りを穿った築陣などをしていたのは確かだから、
清洲・岐阜ラインでの防衛が困難になった場合の防衛拠点として考えていたのは事実じゃないかな。
707 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/24(水) 14:37:18
大谷が一人あんなところで残って陣地つくり乙。
大谷が築陣始めたのは岐阜陥落後では?
関ヶ原は昔っからの交通の要衝でしょ
そこに防御施設を作って備えること自体は別に奇異でもなんでもない
710 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/24(水) 15:19:36
現実になったからピッチあげたんじゃない。
まぁ陣形を素直にみれば西軍は東軍を包囲殲滅できる形
正面突破を許さなければ家康らは全滅必至だからな
三成らが防備を固めて相手が力尽きるのを待ったのは自然なこと
だけど実際には裏切り・日和見が続出して…
712 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/24(水) 17:14:26
東軍は後方を突かれた段階で総崩れだよね普通、だから家康も焦った。
713 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/24(水) 18:20:08
輝元が関が原に参戦していたら、どのあたりに布陣していただろうか?
輝元が出てきてないから関ヶ原はあの配置になったので、
輝元が出てきた時点で全く違うものになるのが理解出来ないIF厨
715 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/24(水) 18:32:36
松尾山の予定だった。
本来小早川秀秋が陣を置いた場所は
輝元がいるべき場所だった。
輝元が出てくるなら家康も無理して進まないからそもそも関ヶ原のずっと手前で
戦うんジャマイカ?
つうか吉川、小早川の調略にある程度の手応えないとあの位置に本陣は置けない
だろ。
松尾山の予定とはあくまで三成の希望であって、輝元がそこに入る予定かは不明
三成は家康が来ないなら、輝元出馬は不要と9月12日付の書状で述べてる
家康が来てるのを知ってるなら、関ヶ原どころか、それ以前から別の対応取っていた
よって関ヶ原は起きてない
718 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/24(水) 18:44:27
秀忠が先に到着して家康が到着する前に関が原の戦いになったら、西軍に勝ち目はあった?
時系列から有り得ない仮定は無意味
>>703 小早川の裏切りはほぼ確定的なもの。
十分当てに出来ます。
721 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/24(水) 20:49:17
小早川の裏切りは当てに出来るけど、吉川の内通は当てに出来なかったのでは?
>>721 どちらかと言えばね、だから抑えの兵もちゃんと置いている。
徳川‐黒田‐吉川ラインは一昼夜で出来た繋がりではないのでアテに出来る
むしろ吉川広家が三成につく方が不自然
毛利家と豊臣家の関係、黒田や石田などの豊臣家奉行衆と
安国寺や吉川との関係・毛利家での立場調べなさい
>>723 吉川はそうだが、あそこにいたのは吉川だけでも毛利だけでもないから。
>>724 そりゃそうだけど、長宗我部なんかは毛利が動かなければ動けない
毛利秀元は本気で西軍として戦う素振りだったみたいだけどね
小早川は人質差し出したり、三成ら西軍本営の指示を黙殺して勝手に伊勢攻撃を止めて松尾山に入った時点でもう…
大谷吉継の陣形なんかあからさまに小早川を警戒したものだし
>>725 第三者から見ればそうだろうけど、絶対にとは言い切れないでしょう。
その点で南宮山周辺の方には若干の不安要素があったんだよ。
もっとも実際には確実っぽかった小早川がなかなか動かなかったから、
家康も冷や汗をかいた分けだけど。
秀元が本気で戦う気があったかは解釈の分かれるところだが、
秀元は輝元に付けられた重臣の意見を尊重してて、
吉川や福原などが挙って動かないように進言してたから、
それを無視する事はない
>>727 後方に置いた抑えは途中から前線に送られてるけどね
冷や汗かいたみたいな講談を入れるなら、毛利は最初から動く気なかったとなるし、
忠勝の進言で家康も確信持ってたとなるがいいのか?
秀元は関ヶ原後も大坂で一戦する気だったともいわれてるね
ここでも広家に騙される形で城から出されちゃったけど…
鳥居元忠って伏見城で味方したいって言ってきた小早川と島津を門前払いしてるんだよな
結果として裏切りが絶妙のタイミングで発動する結果になったけど、普通に考えれば大ポカだよな・・・
秀元は大坂で一戦する気だったなんて話はないけどね
島津義弘が大坂帰還後に輝元に掛け合ったのは、軍記大全や毛利の史料であるけどね
島津も秀秋も…まぁいいや、誰か突っ込むだろ…
毛利秀元は関ヶ原からの撤退途上に黒田長政・福島正則の降伏の誘いを蹴ってる
大坂城で立花宗茂とともに徹底抗戦を叫んだのは良く知られた話だと思ったけど…
よく知られた話なら出典提示すれば済む
秀元は輝元大坂入城は批判してたから、戦闘姿勢はそれで講和条件を釣り上げろってポーズじゃなかったのかね?
どっちにしろ広家の内通は輝元らも知らなかったらしいが
お陰で家康はそんなことしらん、とばかりに毛利宗家潰しにかかったが
『関原軍記大成』なんかでは抗戦意志があったとされてるな
しかしアホだろ、広家。黒田長政を介してじゃなくて直接家康から言質とらなきゃ誤魔化されることぐらい予期できなかったのかね?
輝元は義弘から大坂籠城を提案されたが返答しなかった
そんな輝元の態度を見て、義弘は抗戦する気なしと判断して
大坂から退去しましたとさ
優柔不断の輝元・半端に戦意ある秀元・内通者の割に脇が甘い広家
毛利の人材は両川時代で尽きたのか
>『関原軍記大成』なんかでは抗戦意志があったとされてるな
kwsk
秀元は「自分は戦う気だけど広家と宍戸が動いてくれないので戦えません」って泣き言を長束・安国寺に言い送ってるだろ
『宰相殿の空弁当』が実際のところじゃないの?
秀元抗戦を訴える→輝元煮えきらず→広家内通を明かす→不機嫌になるも容認する→黒田・福島より連署状届く→輝元大坂退去
本多忠勝と榊原康政の連署もあったやうな
少なくとも毛利に対して文書化した誓約を出したのは黒田・福島・池田・浅野・藤堂らの徳川直系外の連中だけだったはず
家康があっさりと毛利取り潰し決めたのはこの寝技のためだろう
つくづく狸…
>>738 それって立花の話と被るのだがどちらが本当?
ひょっとして両方出典があるのか??
746 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/24(水) 22:40:11
状況的に考えれば、本戦に参加せず戦力が残っていた立花はともかく
百名以下まで討ち減らされていた島津がさらに戦うっていうのはちと眉唾っぽいな
毛利本軍の兵力を当てにしてたのかもしれんが
西軍総大将になって、大阪入城までしておいて、自分は担がれただけですなんて
いい大人の言うこっちゃないよね。
オレが家康でも政敵でもある輝元を、はいはいなんて許さないだろう。
それがたとえ家康と輝元との約束状があっても、先に約束破ったのはおまえだ!って言って
取りつぶすよ。
お互いの利益が釣り合わない約束なんて信じちゃいけません。
そして史実の家康はそうしたわけです。
でないといつか自分が寝首を掛れる側に回るだろ。
748 :
:2006/05/24(水) 22:43:35
昔は小早川が嫌いだったけど、今は吉川広家が一番嫌いだ。
先の見えない阿呆の忠義というか・・・こいつが戦っていれば少なくとも小早川は
裏切らなかっただろうし。
三成好きだからかもしれないけどそう思うよ。
>>745 関ヶ原陣しゅう禄、惟新公関原御合戦記、関ヶ原始末記、
関ヶ原軍記大成もかな?大成は違うかな?
このときの恨みが毛利をして年始に「今年こそ徳川ぬっころしに行く?」という問答を恒例とさせることになったというが
これマジでやってたら謀反って事で取り潰されてね?w
751 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/24(水) 22:52:47
漏れも吉川広家は巣間、福島正則と吉川広家の二人は馬鹿を通り越して悲しさすら感じる。
まぁ好き嫌いなんかない俺にはどーでもいい
自身の風評を最大限利用した家康は、やっぱ当時の中では抜きんでた存在なんだなと思ったし、
西軍の三成らの奉行衆は、思考がやはり官僚的だとは思った
716 家康が裏切を宛てにして戦うとでも?ちょうりゃくは手段の一つでそんなもの確信して
徳川家の命運を駈ける必要はないはず。添う考えるとあさになり婦人の失敗が判明、変な気を
起こさせる前に西軍主力を撃破すれば裏切り連中は自然とついてくるし、それは造作ないと判断。
西軍が頑強に抵抗で焦りだす、今更弱いところは見せられないからとにかく正面撃破に専念、小早川
に督戦、本陣を進めて前に圧力をかけ不退転の決意表明、後方部隊を前に出す。と思うがどうよ。
そう考えないと、裏切りをあてにして布陣としか言えない、しつこいがあの家康が裏切りなぞあてに
してまずい布陣なぞしないはず。
守備
ヒント:主力は未だ到着してない
>>753 裏切りをアテにしてはないだけで、秀秋が西軍に加担しない程度の確信があれば進むだろ
毛利に関してもそう
つか毛利の位置は移動する前から知ってて、前日に使者まで送ってるのに、
朝になったら焦るって意味わからん
大垣包囲の時点で後詰の位置にいた南宮山周辺の諸勢は動いてないんだが
その時点で動かず、東軍の目前での移動も黙認してる
用心の為か浅野など配置したが、数では相手の半数以下
関ヶ原で三成が勝てば間違いなく前田が江戸城を攻めるよ
それで西軍への忠誠心を見せるはず
758 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/25(木) 00:05:02
755 何で進む必要あるの?家臣から毛利は不戦です、小早川は裏切りますて
報告うけて素直に信じて進むかな、自分ならそれはそれとしてわざわざ変な
布陣なんてしない、焦って西軍を追いかける必然があるの?
家康は大垣を包囲したままで秀忠軍を待つ選択を何故選ばなかったかだが。
>>758 西軍を追い掛けた?
俺の知ってる内容と大きな違いあるから詳しく説明してくれ
それと関ヶ原の配置からしか語れないお前さんは、
人間関係など少し調べたらどうか?
その大垣にいた西軍が関ヶ原に大移動したからじゃないかね
理由は諸説あって不明だが、赤坂にいた家康としては傍観して地の利を取られるわけにもいかないと
762 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/25(木) 00:32:49
大垣包囲の時点で後詰の位置にいた南宮山周辺の諸勢は動いてないんだが >後詰だし戦いも始まっていない。
東軍の目前での移動も黙認してる >夜間の移動な上に東軍、西軍ですらお互いの正確な位置は把握していない。
それだけで相手を100%信じられるか、信じられないから浅野等を配置したのでは。
763 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/25(木) 00:35:15
人間関係なぞあてにならんだろ。
家康は三成の密書を奪う事に成功するなど諜報面で完全に上を言っていた
小早川らからは既に人質と誓紙を取ってるし
少なくとも本軍を待たず踏み込むだけの勝算はあり、と見たんだろう
俺の知ってる関ヶ原関連の史料は、理由はどうあれ全て東軍が先に動いて、
大垣の西軍がそれに対応して先回りして前方塞いだ形になったはずなんだが
包囲されてる大垣から西軍が包囲網を何の衝突もなく突破して、それを東軍が追ったと?
人間関係があてにならん?
東西両軍は人間関係で構成されてるんだが…
767 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/25(木) 00:45:59
760 偉そうな人だから逆に教えてくれ、「俺の知ってる内容」て何だ
折れは西軍が大垣を離れて関ヶ原に移動するのを察知した東軍が追撃したと考えてるだけだ。
「関ヶ原の配置からしか語れない」てそうだよ、布陣が重要でないとでも言うのかい、人間関係
なんざ承知それでもあえてあの布陣に何でする必要があるのか、百戦練磨の家康だぞ疑問に思うわけ。
さあ先生いろいろ教授してよ。
768 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/25(木) 00:47:54
折れは西軍が大垣を離れて関ヶ原に移動するのを察知した東軍が追撃したと考えてるだけだ。
↑
考えの根拠は?
家康は合戦当日、些細なことで太刀抜くほど苛ついてたそうだ
隆慶一郎が小説のネタにしたから知ってる人も多いかな?
決して万全の自信があったわけじゃなく、戦国を生き抜いた老武将の賭けだったのかね
確かにね764さんの言うように考えざるを得ないよね。
勝算は十分にあったと思うよ、でも家康ってもっと用心深いイメージあるしね。
>>767 人間関係承知なら、家康・黒田父子・三成・エケイ・広家・輝元・秀包の関係述べて
『慶長記』とか有名どころでも西軍が先に移動、じゃなかったか
家康は午前二時に移動の報を受けて就寝を中断して進軍開始した
まあ家康がいらついてたネタには事欠かないよ、そう考えると家康にとっても想定外が多かったんじゃない。
今では否定されて来ている通説しかしらない漏れだが、西軍が東軍がさわやまを攻撃するとの
虚報でそれを阻止するために関ヶ原に移動と昔ならったから、通説でも西軍の移動が先では。
スレ汚しですた。
人間関係て何で8人だけ?か述べて。
慶長記でも大垣包囲を解いたのは東軍、福島等が陣替えしてる
西軍は南宮山の東から大きく南周りして布陣
東軍は南宮山の北から東向きに移動
どう追ったのかな?
西軍の布陣も行軍ルートも知らなかったのに?
秀秋は家康の恩がある
朝鮮出兵の時、敵を間違えたりというミスを三成にチクられ(これは三成からすれば当然の職務なんだが)
自身が槍を振るって戦ったことも秀吉には奮戦と取られず大将失格と叱られた
大幅減封喰らったが家康のとりなしで復帰できた
気持ち的には家康側だろう
それでも裏切りが遅れたのは予想外の西軍奮戦にもしや…と心が動いたからかね
西軍の布陣も行軍ルートも知らなかったのに?>それも不思議だなあ、西軍は何で
最短経路で移動しなかったんだろう?東軍は西軍の行軍ルートも知らないのに短い
ルートで移動?ここから通説がでたのかなあ。
>>775 これは関ヶ原の東西両軍の構成や結果に大きなく関係するんだが
名前挙げても「なんで8人?…」としか言えないのは、
何にも知らないからとしか見えないな
口だけの知ったかか、、、
秀秋、正則も重要じぁない。でも何で秀包?
追いかけたっつーよりあえて包囲の中に飛び込んだって感じだな
家康が桃配山に入ったのは天武天皇の古事に拘ってかねぇ?
>>781 人間関係を承知してる
>>775が答えてくれるよ
秀秋も正則などの関係もあるけど、それとは別ね
漏れのイメージの家康とは違うなあ、常に万全を期す老練な知将て感じ。
調略なんかはイメージ通りで見事だけんどね。
九月一日付真田信之宛書状によると、家康は大垣を水攻めにしようと考えてたようだ
正直、大垣周辺の地勢からいって大軍の妨害を受けずそんな大掛かりな工事ができるか疑問だが…
野戦を自分が得意だから野戦狙いだったっていうのは短絡的な考えかもしれんね
ゲームじゃないんだから適性がそのまま戦況に反映するわけでもなし
うーん、ダメポお休み。
秀包じゃなくて秀元で蜂須賀家政を含めた方が簡単かな
後、増田長盛や前田玄以、長束正家も入れてもわかり易いか
もったいぶらずに主張したいことがあるのなら素直にいえよチキンw
↑誰に言ってるの?
790 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/25(木) 01:35:18
787と思わレ。
人間関係を承知してると知ったかして答えられなかったら煽って聞き出し、
揚げ足をとろうと狙うヘタレw
涙目の煽り乙
変な質問やあげ足とりじゃなくて、お互いの持論で議論しましょうよ。
論文じゃないんだから、歴史好きならウェルカムでね。
人間関係って具体的に何を指すのかさっぱりわからんしな
恩義?血縁?縁戚?
あ、しったかぶりで実が全く無い人の妄言でつか…
縁戚なら真田家は嫁さん繋がりで見事に分かれたよなw
昌幸の判断基準がいまいち不明だが、徳川氏に何度も圧迫された過去があったからだろうか
承知してれば挙げた名前から、人間関係とは何を差すのかすぐわかるがな
恩義?血縁?縁戚?え?なにそれ?
あ、しったかぶりで実が全く無い人の妄言でつか…
知ってるのならはっきり言えよ
どうせ知らないから「知ってるのなら…」とか思わせぶりで誤魔化してるんだろ
違うならアホやってないで書けば?
くだらなかったら爆笑してやるW
取次や国分、取成、指南や慶長三年八月二十八日の事なんか知りそうもないな
はいはい知ったか知ったか。ただのスレ汚しだな
知ったかして煽り始めた分際でスレ汚しw
知らないなら知らないと、知ってるなら知ってる範囲で答えればいいものを…
やる事は煽りだけ…哀れ
でまかせはもうお腹一杯
言いたい事があるならはっきりと。ホントは何もないんでしょ、ここまで引っ張るだけでまともに意味あることいわないんだから
取次や国分とか教えてるじゃん、それに対してさえ何も反応出来ないのに、
勿体ぶると言い放ち、煽るだけとは
なーんにも知らないのに承知してると言ったんだねw
カワイソス
いつまでやるつもりなんだろ、この馬鹿ふたり。
関ヶ原は豊臣政権内の派閥争い
対立した事情を知らずに吠えずに、対立した要因を調べれば、
何故裏切ったのか、何故信用したのか理解出来て、様々な行動要因も考えられるんだけどね
806 :
ライダー龍騎 ◆yDluC4hk8o :2006/05/25(木) 07:51:24
西軍は義が東軍より勝っていたのに負けた。
島津が動けば絶対勝っていたと思うけど。
807 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/25(木) 08:18:54
義?・・・島津?・・・
何か頭のおかしい人がきたよー? 逃げて逃げてー
だれが、あたまオカシイだと?なめるな!
島津は中国で鬼島津と呼ばれたのを知らないから貴方レベル低いんだよ!
鬼、だから強い。あのまま家康の首をとれたのに取らなかったのは、戦の虚しさを家康に悟らせるため。
>>805 ライダー龍騎 ◆yDluC4hk8o
↑これは、スルーする余裕をもつべきか?
だよな
中国じゃなくて半島な
あとあれは、日本で使われる場合と違って決して褒め言葉ではないし。
無双2の鬼島津は好きだけどナー、現実問題としてあの人数では何もできんだろ。
その原因は島津家の内乱で内乱の種を蒔いたのは秀吉で。
>>797 公儀―大名の交渉するのが「取次」
地方全体の諸問題を受け持つのが「国分」
「取次」が、公儀への要請を折衝し具体化するのを「取成」
「取次」が諸大名に指示するのを「指南」
だったはず。
三成が「中国国分」の「取次」ぐらいしか知らない。
うーん、スマソ。
813 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/25(木) 10:26:18
767だが、769からのカキコは折れじゃないから白ね。「関ヶ原の配置からしか語れない」折れにさ、あの布陣の必要性を説いてよ。
760は色々博学なんだろ、先生て呼んでんのは嫌みじゃなくてあんたの話を聞きたいわけ。あげあし取りなんてしないから心配する
な。
こーゆう携帯厨こそスルー汁
携帯厨て何で解るの?
814煽りウザイ、藻前がスルー汁。
817 :
812:2006/05/25(木) 12:00:14
何のためのかきこ?
三成のあのキザな性格が島津を怒らせたことは残念だな。うまくヨイショすれば、単純な性格の義弘は戦ってくれたのにな。
西軍は島津の不戦が原因で負けたことに最後まで気がつかなかった。愚か。
三成は斬首される瞬間に後悔したぜ、おそらくな。
820 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/25(木) 12:56:23
島津は伏見城攻略の際にも鳥居勢に加勢の動きをした(島津家中の資料だったか?)
とかを考えても心中どこまで戦意があったか甚だ疑わしいと言わざるを得ない。
徳川の世になってから、合渡川の三成の采配が云々やら、石田家中の八十島某の
陣中礼がどうとかあるが、後から取って付けた言い訳だろう。
島津としては家中内乱もあり、徳川VS毛利(石田&宇喜多)の戦は長期戦になる
可能性が高かった為に、どちらにも転じられるよう慎重に行動したってことだろう。
結果的には関ヶ原は短期決戦で収束した為に、徳川に媚びなければならず、上記の
ような徳川方も納得し得る言い訳がましいことを並べざるを得なかった、という
事ではあるまいか。
821 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/25(木) 12:57:37
うざい
家康も島津の戦闘能力の数値の高さは無視できなかったから味方につけたかったはずだな。
しかし島津家は代々、今で言う九州男子の性格だから、ネクラの家康とは反りがあわない。
だから途中でスカウトをあきらめたのだ。
九州男児は、受けた恩を一年以内に忘れるわけですね。
内乱を収拾してくれた奴に反りが合わないから駄目ってずいぶん薄情ですね、九州男児は。
そんなわきゃない。
大体、戦闘能力の数値ってなんだ?
戦闘力の数値って…ゲームやりすぎなんじゃない?
だからさ、三成の謀反が起こった時点で200人しかいない島津に西も東も何を
期待するっていうんだよw
関ヶ原までには1500人まで増えてたけど所詮大勢をどうこうできる人数じゃないよ。
826 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/25(木) 15:26:25
そりゃ家康とて島津氏の動向は大きな関心があったろう。
九州は十万石以上クラスの大名のうち島津・鍋島(後不戦)・小西・毛利秀包
・立花らが西軍であり、東軍は明確な東軍は加藤清正・黒田で、向背不明な
小早川という状況で島津を東軍に転向させられなくとも毛利同様に中立化させ
るだけでも戦略的には得るところは少なくない。
少なくとも戦が長期化したら、その効果は大きいかったはずだ。この場合、西軍は
九州戦域では相当不利になり、主力たるべき毛利勢を主戦線に投入が困難になる。
東軍としては、それは作戦上のイニシアティヴを握ることになるから効果大だが
戦術面での戦力としては、どうだろう。島津が東軍に転向すれば影響は大きい
はずだが・・・。
if話は嫌われるけど
仮に三成が小早川寝返りのあたりで早めに撤退命令出して
大阪に生きて戻ったとすると少しは違った話になったんだろうか?
謀反人として豊臣家から処罰されそうな気もするが
>>825 知らないみたいだから言うが泗川の戦いという中国の戦いで一万に満たない兵で20万の軍勢を撃退したのだ。
二十倍の敵と戦える戦闘能力があるわけだから、関ケ原で1500人なら×20で三万の兵力に匹敵することぐらい分かるよな?
だから島津は両軍のカギを握ったんだよ。
ほうほう、島津は強いんだね。
そんなに強い島津が秀吉に負けたり、分封されるなんてあり得ないよね!
戦いは数だよ龍騎
830 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/25(木) 16:29:42
最終的には衆寡敵せずにはなるんでしょうねえ、でもたまに奇襲なんかもあって面白い。
数の足りない島津は常に奇襲での勝利でした。強いのか弱いのか。
832 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/25(木) 17:44:24
【島津軍】(シーマンズ)
薩摩の地:島津軍の地形効果30%up
攻撃スキル:野釣り伏せ・示現流
防御スキル:ステガマリ
補助スキル:装填速度熟練、神速結集・逃走
最大奥義:中央突破(相手が鶴翼の陣だと攻撃力二倍)
兵忠誠度:100(手勢が100名をきると、士気upで防御四倍&攻撃四倍)
以上が史実からわかっているわけだが。
【武田家】(甲斐の虎)
甲斐の地:地形効果10%up
攻撃スキル:いしつぶて・武田騎馬突撃(他家の突撃より四倍強力)
防御スキル:なし
補助スキル:要突き・キツツキ作戦・赤備え(見ただけで相手の士気がダウン)
回復スキル:栃餅
兵忠誠度:80(御旗楯無を発動すると強制的に100に)
834 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/25(木) 17:56:50
>>828 物凄く都合のよい数式だな、
奇襲でもないのに、
807は預言者だな。あんたの言ったとおりだったwww
>>812 お、まともに話出来るのいたのな
中国国分の取次は三成だけではないよ
文禄二年までは黒田父子と蜂須賀家政が担ってて、以降は増田長盛と石田三成
四国も同じで、だから長宗我部盛親の烏帽子親が増田長盛だったりする
黒田・蜂須賀から石田・増田への交替は権力争いによる黒田・蜂須賀の失脚によるもので、
これは慶長四年閏三月の襲撃事件で石田三成が失脚するまで続き、
閏三月十九日には黒田長政・蜂須賀家政が奉行として取次に復帰してるんだよ
その間のエケイと広家の関わりを調べる関ヶ原の構図が出来て面白いよ
ウザそうなのはあぼん設定しやすいな
●買っててよかった
>黒田・蜂須賀から石田・増田への交替は権力争いによる黒田・蜂須賀の失脚による
ここを詳しく教えてくれまいか?
奉行同士の争いでの結果なの?
朝鮮征伐で黒田如水が罷免されたんじゃなくて?
>>837 勿論、直接の罷免の原因は朝鮮における黒田孝高の命令不履行だが、
それは文禄元年八月のソウルでの軍議に要因はある
明の参戦・支配地域における在地両班の蜂起が問題化し、
それを受けて石田三成・大谷吉継・増田長盛が秀吉の意向を受けソウルに派遣され、
宇喜多秀家が軍議を召集(実際は三成ら朝鮮奉行の要請によるもの)し、
秀家・朝鮮奉行・黒田父子・島津義弘・小西行長・小早川隆景らによって行なわれたが、
黒田孝高はソウルまでの後退を主張し、軍議の意向をその方向で決まるも、
行長は平壌撤退を拒否、三成らは帰還後に秀吉に報告、
秀吉は孝高の消極的な姿勢を命令不履行として激怒というオチ
三成らが秀吉にどういう報告したかはわからないが、
孝高からは政敵である三成らが軍議の意向を無視した行長を庇う為に、
孝高をおとしめたとしか見えない
それまでも黒田父子・蜂須賀父子と石田三成・増田長盛とは政策上の対立が多かったから、
朝鮮の件は直接的な理由だが、要因は以前からある対立の延長と考えるべき
>それまでも黒田父子・蜂須賀父子と石田三成・増田長盛とは政策上の対立が多かったから
この政策上の対立点って、なにか具体的な問題をめぐった原因とかあったんでしょうか?
黒田と蜂須賀は、この時期は婚姻関係をつうじた同盟関係にあるので行動と利害を
共にするのは理解できるんだけど。それ以外の具体的な政策レベルでの黒田/蜂須賀と
石田/増田の対立点って何なんだろう。
毛利家への対応?
>>839 これという政策上の差異による対応ではなく、各大名に対する政策上の
対応の差異による対立
例えに挙げた毛利がその代表的なもので、吉川家に対する政策が、
黒田・蜂須賀と石田・増田とでは180度転換してる
こういう対応の違いが積み重なり、黒田・蜂須賀の失脚後の後任に
政敵である石田・増田が就任するというあからさまな人事へと繋がっていくんだよ
この各大名の取次と取成・指南を調べれば、関ヶ原の対立構造に繋がり、
わかりやすくて視点が増えるよ
毛利の件も詳細知りたければ説明はしたいが、かなり長くなるから、
自身で調べたりしたら本当は面白くていいんだけどね
>>840 ああ、その意味でなら了解です。
広家が、吉川家を継承する際には、黒田如水は強力に後押しして援助したし、
広家の婚姻自体も仲介したりと、黒田家と吉川家のコネクションは強固ですね。
長政が吉川の東軍への内通を取り付けられたのも、父の代からの取次をつうじた
良好な関係がなければ、不可能でしょうし。
なにをいってるのか、さっぱりわからん(T_T)チクショー
要するに吉川と黒田は仲良しさんって事さ。
【馬鹿は大幅に端折った】
毛利の件も詳細知りたければ説明はしたいが、かなり長くなるから、
自身で調べたりしたら本当は面白くていいんだけどね >確かにそうですね、
資料名なぞ教えて頂ければと思います。
今おもったが、ライダー隆起が登場してから、スレが引き締まった気がします。
荒れ気味だったスレに隆起みたいな子供が痛い発言を始めたために、
煽り合っていた住人達はイカンとばかりに正気に戻り、真面目な論議に戻りました。
いわゆるショック療法という奴ですね。
痛い子達が参加出来ないだけ。
会話してるのは2〜3人で後は傍観。
その二、三人は三成、刑部、秀家と名乗れ。
傍観してる奴は広家、義弘と名乗れ。
傍観をやめて、三成らを煽る奴は秀秋と名乗れ。
このスレから逃げる奴は盛親と名乗れ。
そして俺は家康、と名乗ろう。
自演乙
849 :
元綱:2006/05/26(金) 18:13:35
漏れは?
>>844 津野倫明氏の研究論文には豊臣政権における取次の役割等の物が多いので、それを読めばいいかと
「安国寺恵瓊の虚像と実像」(北大史学第40号)
「豊臣政権の取次-蜂須賀家政-」(戦国史研究第41号)
「豊臣政権における取次の機能」(日本歴史第591号)
他には、戸谷穂高氏の
「豊臣政権の取次-天正年間対西国政策を対象として-」(戦国史研究第49号)
などいいかと
こういう論文集は安く買えるので、既存の刊行本より出典や史料の抜粋が多く面白いですよ
844です、ご親切にありがとうございます。
812=836、840=841、844=850
>>852 僕が839=841だから、840が841と同一人物というのはありえないですよ
回答者の他に、僕と、少なくとももう一人は質問者がいる計算
個人的には興味深い話題だと思うんだけど、もしかして退屈してる???
分からんやつが5人集まったら、この話はやめるか?
じゃあ点呼して。
こういう論文集は安く買えるので、>話題かえる前にお願い、田舎住まいなのですが
どこで入手できますか、本屋はしらねと言われました。
親切な人お願いします。
858 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/27(土) 13:23:38
戦術も面白いけど、こういう人的背景も面白いと漏れは思うが。
>>857 田舎住まいの俺でも安心
amazon.com(綴り違うかも
関ヶ原は人間関係を把握しないと、戦術語れないよ
わからないけど興味ある、説明欲しい人にはある程度の説明は出来る
860 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/27(土) 15:35:16
もし関ヶ原で西軍が勝ってたら、どうなったんだろう?
861 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/27(土) 15:40:34
説明欲しい人にはある程度の説明は出来る>よろしくお長居します。
どんな形で勝ったかで結構変わるよね。たとえば家康敗死したとか、
西軍勝ったけど辛勝で東軍は整然と撤退したとか。
>>857 県立とか大きめの図書館なら
論文を掲載された雑誌が置いてあるので、
そこでコピーサービスを利用すれば
安く済むということなんじゃないかな。
865 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/27(土) 19:05:13
◆家康敗死
A)敗残の徳川勢は秀忠が率いる事になるが家康が戦没するほどの乱戦・激闘
であれば本多忠勝・井伊・松平忠吉の生存の可能性は微妙。戦力・求心力
など、秀忠が家督継承しても、もはや一方の大将たりえる状況ではないと
考えられる。
秀忠指揮下にあった軍勢を中核に小田原辺りで辛うじて防御線を築けるか
どうか。この段階でも講和なければ武蔵・相模で一戦なくとも徳川氏は
改易か。
B)講和成立
秀忠が江戸撤退を無事成功させたとして、家康亡き後の徳川氏には
すでに東軍中核としての求心力はなく戦意も低いと思われる。
真田氏や前田氏・九鬼氏のように一族を敢えて東西両軍に別け
付かしめた大名などによる講和仲介の可能性の可能性もある。
西軍勝利ともなれば、本来は傀儡であった毛利輝元の重みも増している
はずで、毛利氏・上杉氏らは将来の脅威対象排除を狙い強行策に出て、
講和後の改易などの可能性もある。
◆家康生存
福島正則健在であれば尾張・清洲を、そうでなければ旧領たる三河
を暫定防御線としつつ、継戦。秀忠を中山道から引かせるか、留めおいて
西軍主力を美濃に足止めさせ、関東・東海道の諸将の離反をふせぐかは
難しいところか。
家康としては抗戦の構えを崩さず、また戦線を膠着させつつ、小牧・長久手の
ように有利な条件や講和のタイミングを計る、というのがありそうな
展開だろうか。
毛利の件っつーのを詳しく教えれ、そこがメインだろ。
俺も毛利家内部の権力闘争と関ヶ原の関係の件、教えてほしい
857です、親切な皆さんありがとう。
859,863,864
関ヶ原での勲功一番って誰でしょう?
友達と話してたときねねという結論に達してしまったのですが
黒田長政に一票
871 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/28(日) 09:05:11
オレも黒田甲斐守だな。
ほかの大名はみんな流れに流されたって感じだよ。福島正則でさえそういう意味じゃ
軍功は大きくとも総合的な勲功はどうかなってところ。
親父の野望など露知らずで家康を全力で勝たせた長政こそ勲功一番に間違いない
野望というか、九州は所詮局地戦だから、親父黒田も気軽に攻めてみたんじゃない
関ヶ原が長期戦になっても、どう考えても、黒田の天下取りは無理だろう
黒田が本気で天下を取るなら息子は自分の所にいさせた
>>869 尾張出身武断派をまとめ小早川を
東軍につけた可能性あるらしいね。
でも加増とか一切ない。www
家康から見たら、
最大の功労者は三成に100ガバス。
877 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/28(日) 19:38:06
>>866>>867 毛利問題ちゅーことでいうが関が原における毛利の不可解な動向の背後
には毛利のお家騒動があった。
例えば関が原前には、東軍内応容疑者の筆頭だったんは毛利秀元ということ。
本人は、してないかもしれないが毛利では徳川に内応しておかしくない
理由もあった。
吉川は親徳川というのではなく豊臣家での親交あり窓口だった黒田が
徳川支持を打ち出したので、その流れに便乗したとはいえ、家康を熱心に
押す動機は自分にはない。
ちなみに吉川VS安国寺エケイと主張する輩も多いが
エケイは小早川隆景に「彼は信用するな」と密かに言われていたように
決して毛利を左右できてたわけじゃない。
まして半分独立大名になっていたわけだし・・
それだけであの吉川や輝元の動向といった不可解な不統一な動向の説明
にもならんわな。
毛利には輝元と養嗣子秀元という二人の間に緊張関係があった。
>>866-867 恵瓊は禅僧と言う立場から、毛利の使僧として、対織田との交渉を通じ秀吉との関係を深め、
毛利家内では惣国検地の主動的立場を担うなど、毛利宗家の権力強化に努めるなど、
輝元の強力なブレーンとして毛利家中で強権を振るって、
奉行の二宮就辰・佐世元嘉らと毛利宗家の権力強化を推し進める派閥を形成してた
ところが、毛利家の取次である黒田孝高・蜂須賀家政は、譜代の代表格である吉川家に肩入れ始めた
これは、豊臣政権内の対立構造が関係してる
徳川家康・前田利家・浅野長政らの地方分権体制を推し進める一派と、
毛利輝元・石田三成・増田長盛らが推し進める中央集権体制派の対立が影響してる
吉川広家は毛利譜代の代表格であり、恵瓊らの勧める毛利宗家の権力集中化は、
恵瓊らによる譜代の広家の排除に感じられ、それに対抗すべく、
黒田らの取次と通じて、吉川家の毛利家における立場の強化し、一定の独立権の維持を確保した
ところが黒田らが失脚し、中国国分が石田らに取って代わると、一転、広家の立場は苦しくなる
三成らは、広家から申請されてた広家の娘の秀吉への御目見、広家邸への御成を無視し、
それどころか慶長四年1月、広家に対して毛利秀元との所領交替を指南した
これは減封どころか、今まで認められていた吉川家の独立性を否定し、
恵瓊の一派による毛利宗家の権力集中化の現われでもある
これは秀吉死後、慶長三年8月28日から、輝元・三成・長盛に前田玄以と長束正家で、
使者のやり取りを頻繁に行なって、その使者を恵瓊が努めてる事から、
恵慶や三成らによる毛利家中の分権派の排除が狙いと考えられてる
しかし輝元が性急な改革による家中の分裂激化を嫌ったのと、
福島正則などの襲撃事件による三成の失脚によって、黒田長政・蜂須賀家政が復帰、
先の指南は無効化されたと言う訳
ちなみに、この三成らが指導した大名の家中統制を急激に進めたのが、島津・宇喜多・佐竹
>>877 恵瓊が半独立大名というのは疑問
津野倫明氏の論文にもあるが、伊予6万石の知行や恵瓊の家臣の存在が確認されておらず、
安芸安国寺の寺領以外ないらしい
関ヶ原の際の恵瓊の軍勢も、増田や熊谷らの毛利家から付けられた与力によって構成されてるので、
大名という存在とは言えないという事のようです
>>878 どうかな?
三成が失脚しても吉川家の独立性は全然強化されていないし、
関ヶ原の後にむしろ毛利宗家の集権化が確立したという事実がある。
「秀吉に俺の娘を紹介しろ」とか「秀吉を俺の家に招待したい」とか、
広家の要望が全然通らないから、「取次」である三成の力不足に
怒りの矛先が向いてしまったということなんじゃないか。
中央政局とリンクした路線対立というよりは個人的な恨みつらみのように思える。
>>880 >三成が失脚しても吉川家の独立性は全然強化されていないし、
>関ヶ原の後にむしろ毛利宗家の集権化が確立したという事実がある。
広家は毛利家における吉川家の既存権益の維持を図ったのであって、
吉川家の権益強化を図ったのではないよ
だから強化されてないからという指摘は見当違い
関ヶ原後に毛利家の集権化が進められたのは周防長門への減封による、
知行再編によるもので当然かと
しかし吉川家、岩国藩は幕府においても毛利の支藩扱いはされてない
その為に様々な問題を引き起こしてるけどね
それと石田三成らが取次として力不足とは、御成などを取成出来るだけの力が無かったという事?
>>881 >広家は毛利家における吉川家の既存権益の維持を図ったのであって、
>吉川家の権益強化を図ったのではないよ
ん???
878で「黒田らの取次と通じて、吉川家の毛利家における立場の強化」と書いていなかったか?
>御成などを取成出来るだけの力が無かったという事?
三成が力を発揮したのは地方大名に対する行政指導であって、
中央政局においてはむしろイジメられっ子だったんじゃないか。
寝業師タイプじゃないし、根回しとか苦手そうだ。
広家はとんだ見込み違いで逆恨みしたということになるのかな。
>>882 だから最初に恵瓊による中央集権化の話書いて、それに対抗する形で立場の強化と書いてるが?
しかも独立性などの権益と分けてね
>三成が力を発揮したのは地方大名に対する行政指導であって、
>中央政局においてはむしろイジメられっ子だったんじゃないか。
>寝業師タイプじゃないし、根回しとか苦手そうだ。
君のイメージはどうでもいいから具体的な事例挙げて説明してくれないか?
中央政局において、どうイジメられっ子なのか?
イメージを前提に言われてもね…
よくわからないけど大名への行政指導は中央で権力ないと任されないのでは?
>>883 「集権に対する立場の強化」って、
要するに「毛利宗家からの独立性」ってことだろ?
独立性でない立場の強化って何よ?
>中央政局において、どうイジメられっ子なのか?
秀吉政権の悪いことは何でも三成のせいにされてなかったか。
>>885 立場の強化とは、毛利家における吉川家の発言力等の事
吉川家の一定の独立性は以前からあった
吉川家は元春・元長の死去にともない、毛利家中の立場・重要性が下がった
それにともない恵瓊ら集権体制推進派が輝元のブレーンとして、吉川家の陪臣として特殊な、
領内不介入や独自の外交権など、一定の独立権を削減させようとしていた
それに対抗する為、広家は取次の黒田との関係を深め、恵瓊ら成り上がりと反目する他の譜代と連携して、
毛利家中での立場を強化し、以前からある吉川家の権利を維持しようとしたって事
これで理解出来なければ、君と話す事はもうない
三成のも、三成の所為にされたとは徳川史観だし、そうだとしても、
三成が取成出来ないのは力不足という説明にもなっていない
というか、全く関係ない
要するに権力と権利の違い
>>886 あのさあ、「毛利両川」がこれ以上発言力を強めてどうするのよ。
津野氏の論文にも「発言力」なんて全く書かれていないし。
>三成が取成出来ないのは力不足という説明にもなっていない
おいおい。
どうイジメられっ子なんだと聞かれたからそう答えたまでだ。
何がどう説明にもなっていないのかよくわからんが、
イジメられっ子が力を持っているという事例でもあるのか?
>>888 津野氏の論文とは?論文名とページ答えてくれ
両川の発言力強めてというのも意味不可解、当時にはすでに両川体制自体存在していないのに
それに嫌われてたと、イジメられてたのは同義ではないし、
そもそも質問の発端である三成が御成などを力不足で出来なかったという説明になってないと言ってるのだが?
なんか小学生と話てるみたい
>>888 イジメられてた具体的な事例で話してね
それによって三成が豊臣政権の中枢で権力がなかったというのもね
釣り宣言して逃げ出しそう。
つかこいつ、例の50城武田厨じゃね?
>>891 釣りでもいい、頼むから挑発しないでくれ
あと、他のスレの事持ち込まないでくれ
ややこしくなるから
テーマ自体はとても興味深いのだから、煽りあいに終らず続けてくれると嬉しい
>>889 こっちは「書いてない」と言っているのにページ数言えってか?
小学生じゃないんだからさ、冷静に議論しようぜ。
広家は隆景の死後も毛利一門の長老として重責を担っていた。
だいたい発言力を低下させていたなら、南宮山で全軍足止めなんてできないだろ。
>それに嫌われてたと、イジメられてたのは同義ではないし、
三成は豊臣7将に命すら狙われていた。
「嫌われていた」なんてレベルの話じゃない。
>>894 おいおい、七将に襲われたのは、三成が政権内で専横していた(と思われたから)だろう。
むしろ、秀吉存命中や利家が生きていた頃は権力の中枢にいたということの根拠だと思うぞ。
>>894 この話を取り扱ってる論文名と、その論文が記載されてるのは表紙から何ページ目かと聞いているんだよ
「書いてない」というから目を通しての発言なのだろうから
>広家は隆景の死後も毛利一門の長老として重責を担っていた。
>だいたい発言力を低下させていたなら、南宮山で全軍足止めなんてできないだろ。
津野氏の論文読んでいる発言とは思えないが?
一門として、どう重責担っていたのか?具体的にね
関ヶ原の時の事も今までのレス読んでいないとしか思えない
三成のイジメられてた事例挙げての説明もしてないわ、
君は相変わらず観念的な事ばかりで、具体的な話は全くしないね
>>895 普通はそう考えるよね
三成は太閤検地や大坂・博多の都市整備、朝鮮奉行、
なにより多くの大名の取次をしているのに、豊臣政権内で権力なかったとは初めて見る見解だよ
権力もないのに、どうやって指南など出来たのだろう?
>>894が詳細に説明してくれるんだろうけどね
test
899 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/29(月) 12:20:56
結局、広家が毛利を救ったんだな
>>882 三成が武断派と対立したのは奉行として権勢をふるったからじゃないの?
西軍決起も根回ししたから出来たと思うし、
裏切りあったから苦手とはおかしくない?
官僚の三成は寝業師だと思うけどね。
司馬遼の「関が原」の三成の寝業が下手な感じを引きずってると思う。
吉川広家が毛利を救ったかは東軍が勝ったから言える。
西軍勝ったら毛利がその後どうなったかわからないのでなんとも。
慶長2年(1597年)に上杉景勝邸に秀吉が御成りしてるけど
上杉の取り次ぎは三成でしょ?違う?
>>895 「五奉行」の1人なんだから、中枢にいたのは事実。
でも当時の「五大老・五奉行」制は家政機関に毛の生えたようなもので、
権限も曖昧で、全国を統治する機構としては甚だ未発達なものにすぎなかった。
だから最近の研究では「公儀」権力を形成する職制として「取次」が注目されている。
>>896 論文が表紙から何ページ目に記載されているか・・・?
何でそんなこと知りたいのよ?
津野氏の一連の論文は意欲的ではあるが、やや暴走気味な部分もある。
特に「中国取次」に関する分析では、毛利宗家への集権化の流れを誤認しており、
三成が吉川家の独立性を否定したとする根拠が弱いという印象を受けた。
(秀元が毛利領内で18万石を与えられる処置のどこが集権なのか?)
まあ、全く根拠のない「発言力の強化」などよりは遙かにマシなのですが。
>>897 >太閤検地や大坂・博多の都市整備、朝鮮奉行
だから、三成が力を発揮したのはそういう「外回り」の仕事であって、
政治工作など「内向き」の仕事は苦手だったんじゃないかと言っているんだが。
だから取次としての三成は、とっても感謝されることもあれば、とっても恨まれることもある。
904 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/29(月) 23:05:27
>>903 だから吉川広家の件に触れてる論文名とページ数は?
なぜ必要かだって?読んでいないとしか見えないレスしているからだよ
>特に「中国取次」に関する分析では、毛利宗家への集権化の流れを誤認しており、
>三成が吉川家の独立性を否定したとする根拠が弱いという印象を受けた。
>(秀元が毛利領内で18万石を与えられる処置のどこが集権なのか?)
津野氏は三成が吉川家の独立性を否定したと言うニュアンスは一言も書いていない
秀元が毛利領内で18万石を与えられるとも書いていない
誰の何のどこを読んだのかな?
ちなみに「中国取次」なんてないし、三成が毛利の取次に復帰したのは、
大老制の出来る前なんだけど
取次は大名統治に関係する、国策に関わる内向きにも外向きにも関与する最重要な役職なんだけど
指南を何だと思ってるんだろう?
ていうか何度も言うが読んでないとしか思えない
五大老五奉行制は慶長三年七月頃成立だから
秀吉の死の一ヵ月前ね
>>903 石田三成は五奉行だから中枢にいたんじゃなくて、
中枢にいて実績あるから五奉行に選ばれたんでしょ。
903の最近の研究を拝聴したい
>>904 >「中国取次」なんてないし、
は?
津野倫明「豊臣政権における取次の機能−『中国取次』黒田孝高を中心に−」(日本歴史591号)
を読んでないのか?
「ない」どころかサブタイトルにも使われている中心テーマなのに、何言ってるの?
>秀元が毛利領内で18万石を与えられるとも書いていない
前掲論文の87ページ上段に「長門など計18万石余を分封された」とハッキリ書いてあるぞ。
嘘つくんじゃない。
ちなみにその少し後の部分では
「三成が吉川氏の独立性を否定し、毛利宗家の支配強化を推進しようとする立場にあったことは明らかであろう」
とも書いていることを付け加えておく。
>>908 その論文の文中にも中国取次とは言わず、中国国分の取次と書いてるだろ
サブタイで便宜的に使った造語じゃないか
秀元18万石は吉川広家との所領交換の話じゃなく、秀就誕生前の、
輝元の養子になった時の事で集権化の肯定の話じゃないか
混同させるな
三成の件も恵瓊や輝元が主導し、三成は推進する立場という説明だろ
都合の良い抜き出し、使い分けするな
こんなにまともな議論は久しぶりだ
二人とも紳士的に最後まで議論してくれることを希望
お互いにもう少し物腰をやわらかくすれば良い議論なんだけど。
まぁ負けず嫌いっぽい性格の二人が意見出し合って活性化してるっぽいから
モチケツとも言えないんだよなこれが。
自分の妄想をさも史実であるかのごとく書き込む痛い鳥なんとかって糞コテに見習わせたいわ
>>910-911のお二方の言葉を噛み締め、今までの言動を反省し、
第三者が読んでいるのを常に心がけるようにしますです
ご忠告というか、ワンクッションに感謝
>>907 秀吉は自らの国家支配の正当性を保障するために「関白」の地位につき、
>>907 秀吉は自らの国家支配の正当性を保障するために「関白」の地位につき、
"天皇の命令を奉じる己れだけが「公儀」として戦争遂行その他の公的権限を有する”
という論理で各大名の戦争を「私戦」として否定しながら全国統一を進めた。
しかし、その命令伝達系統は、かつての関白を支えた律令制の官僚機構などを
再生産することではなく、自己の側近を「取次」として派遣することによって形成していった。
豊臣政権の「奉行」に対しては官僚機構的イメージが持たれているが、
実は秀吉の「取次」であることにその本質を持ち、情報を取捨選択して秀吉に伝達し、
独自に政策指導を行うなど、各大名の後見人としての機能もあわせ持っていた。
これは秀吉が信長の部将だった時代に、毛利氏に対する「取次」的任務を行うなど、
戦国時代を通じて一般的に形成されてきたものであり、
戦国大名間の外交方式を統一政権下の命令伝達機構として利用したものであった。
秀吉の死後、家康は秀吉側近から家康側近へと「取次」を変えていくことで、
従来の「取次」機構を活用しながら「公儀」権力を占拠していったのである。
この「取次」機構は徳川政権下においてもその本質を維持しており、
幕初における本多正純ら「出頭人」グループは豊臣政権と同様、
主権者の「取次」であることに権力の源泉があった。
そして、この「取次」的存在は5代綱吉が「側用人政治」を行ったように、
幕藩制国家の中で絶えず再生産され、制度の中に組み込まれていく。
「取次」機構は世界にも類を見ない「集権化された封建国家」である
幕藩制国家の性格を理解するためのキーパーソンであり、
将軍の絶対的権力の一つの支柱であったのである。
参考文献:山本博文「幕藩制の成立と近世の国制」
>>914はアップ失敗だ。すまん。
>>909 ご要望に答え、落ち着いて反論しよう。
>サブタイで便宜的に使った造語じゃないか
サブタイだけじゃないよ。
「中国取次」は本文でも10回以上使われている。
だってこの論文は「中国取次」を「発見」したという報告なんだから、
当然といえば当然なのだが。
「中国取次はない」なんて論文の趣旨と正反対だ。
>秀元18万石は吉川広家との所領交換の話じゃなく、秀就誕生前の、
>輝元の養子になった時の事で集権化の肯定の話じゃないか
違う。秀就誕生前の話じゃない。
秀元18万石の箇所、全文はこうだ。
「毛利秀元は天正13年に輝元の養子となり、
同20年には嗣子として秀吉からも承認されたが、
文禄4年に輝元に実子秀就が誕生したため分家することになり、
慶長4年になって長門など計18万石余を分封された」
やべぇ すごく参考になる上、論議してるお二方は紳士だ。
ROMですが勉強させていただきます。
>>916 論文の主旨は、あくまで毛利氏における黒田孝高の動向から、
「取次」とは何か?を論説しているのであって、「中国取次」なるものを
発見したという主旨ではない
何故なら取次に関する研究は90年代後半から行なわれており、
氏の論ずるところは、「取次」を単なる豊臣政権と各大名の仲介と捉えず、
公儀の政策・意向を大名に伝えへ実践させると共に、各大名の事情との
訴誤を調整する、極めて重要な役割としているから
だから、君の言う三成の力不足という考えは、三成の取次としての実績から、
到底成りえないと言う事
>同20年には嗣子として秀吉からも承認されたが、>文禄4年に輝元に実子秀就が誕生したため分家することになり、
>慶長4年になって長門など計18万石余を分封された」
輝元の嗣子になった際に、長門一円の裁量権を得ている
秀就誕生後に別家立てた際にもその裁量権は保たれてた
所領として正式に封じられたのは慶長五年六月
これは津野氏の「安国寺恵瓊の虚像と実像」でも述べられているが、
慶長四年1月に吉川広家の出雲富田領に秀元を封じるように、
石田三成・増田長盛から指南があったから
一定の独立性を持つ広家の秀吉に対する要請を無視、これは広家に認められていた独自の外交権の否定であり、
別家立てたとはいえ、輝元の養子である秀元を広家領に封じるのは、吉川領への不介入を否定する行為
だから、これを集権化政策と述べたんだよ
しかし文中の18万石の件はこちらの認識不足、謝罪しておく
すまんかった
>>918 >論文の主旨は、あくまで毛利氏における黒田孝高の動向から、
>「取次」とは何か?を論説しているのであって、
違うよ。
大名支配機構としての「取次」制度に最初に着目した山本博文氏は、
「五大老」クラスの大物の場合は秀吉と直結しているので「取次」は存在しなかったと見ていた。
この見解に対して津野倫明氏は前述論文において異議を唱え、
黒田孝高は「中国取次」としての役割を果たしていたと主張した。
そして論文の最後では、「中国取次」の発見の意義を強調し、
関ヶ原合戦における毛利氏の複雑な動きを真に理解するためには、
「取次」の存在を念頭に置く必要があるのだとしている。
>輝元の嗣子になった際に、長門一円の裁量権を得ている
慶長2年頃に秀元は長門阿武郡に給地を有していたらしいが、
長門一円支配というのは言い過ぎ。
>一定の独立性を持つ広家の秀吉に対する要請を無視、これは広家に認められていた独自の外交権の否定であり、
吉川氏に独自外交権が認められていたとする根拠がよくわからない。
独自外交権なるものの具体的内容も不明。
それに、要請を無視されたからといって「外交権を否定された」とするのは大げさでは?
>輝元の養子である秀元を広家領に封じるのは、吉川領への不介入を否定する行為
>だから、これを集権化政策と述べたんだよ
大幅加増されたわけでもないのに巨大な分家を創設するんだから、
宗家の力は相対的に削がれると考えるのが普通だろう。
毛利宗家への権力集中化とは逆方向であり、とても集権化政策とは言えない。
920 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/30(火) 23:26:38
乙です。
921 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/31(水) 17:59:16
関ヶ原の時の毛利家の総兵力は?
俺の知識では・・・・・
関ヶ原に秀元と広家と安国寺 1万9800
大坂城に輝元 2万
大津に秀包 4千 計4万3800
922 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/31(水) 18:14:40
立花らが大津城を素通りして関が原に向かっていたら、また違った展開になったかもしれない
いや待て、大津ってそんなにどうでもいい城なのか?
大津は京まで一日で行ける距離にある要衝の地。
さらに大津は京・大坂と佐和山の中間地点にあり、
ここを放棄することは戦略的には自殺行為に等しいだろう。
三戦板で他板に自慢できるのはこのスレだけだな
真面目に機能しすぎ
926 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/31(水) 22:53:11
>>921 >大坂城に輝元 2万
何の資料に書いてあった?前から気になってたんだよ・・・
良かったらおしえてよ。
927 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/31(水) 23:18:17
大津に秀包 4千>元康が総大将では。
928 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/31(水) 23:47:17
>>921 マンガや加藤剛の関ヶ原で二万って言ってたから
929 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/31(水) 23:50:52
>>922 お、おい ちょっとまて
別に立花達15000は、大坂から来る時に、秀忠みたいに足止め?をくらって進軍できなかったのではなく、
大垣から、大津に派遣された軍なんだよ。 派遣されたのは9月13日か14日、家康着陣の一日前。
豊臣恩顧の東軍の大軍が集結してるのに、よく3万もよそに派遣できたもんだ・・・・(大津・田辺)
だって家康来てるって知らなかったんだもん。
931 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/01(木) 00:08:02
>>930 計画は良かったのに・・・・やっぱり実戦は苦手なんだな 三成。
ま、戦闘になれば、石田軍はかなり強かったらしいいが
>>924 京極が心変わりせず、関ヶ原に参陣すればまるく納まるんじゃね。
>>929 大垣にはいなかっただろ。
確か京周辺の守りについていたはず。
934 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/01(木) 17:07:04
935 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/01(木) 19:56:40
田辺の小野木・織田・南条の15000も捨てがたい。
936 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/01(木) 21:14:00
関ヶ原周辺にいる積極派 約40000(石田・宇喜多・小西・大谷・島津・長曹我部・長束・安国寺)
だけでも東軍に勝つ方法はあるんじゃないか?
937 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/01(木) 22:23:08
西軍の正面戦力は32600だけですが?
積極派と言うより裏切らなかった派。
裏切らなかった派というより、成り行きで西軍派
942 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/02(金) 09:15:46
>>924 大津城に篭城している京極軍の兵力は3000に過ぎない
こんな僅かな戦力で西軍を脅かすことは不可能
大津城の戦略価値を考慮に入れず、兵数だけで判断するのか。
944 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/02(金) 11:03:32
>>943 さっきからウルサイよ。
西軍が勝てないことを前提に考えたら楽だよな。
西軍が勝てないことはわかってる。しかし「可能性はない」と断言できるほど、おまえは神なのかよ。
状況しだいでは西軍は勝てたんだよ。固定観念にとらわれず検証しろよ。早く、ほら。
初期の計画に無理あり過ぎだからなぁ……
そもそも三成の計画知ってた大名ってどの位いたのかね、島津なんか知ってたら
絶対仮病使ってるぞ。
>>944 何キレてんの?いっておくがこのスレで943以外に発言してない。
大津城の事に限って言えば、あそこは交通の要衝、則ち戦略上の要衝。
兵の多寡以上の脅威になり得るから、西軍は可能な限り迅速に落とすべく大軍を派遣したんだろ。
西軍は勝つために大津城を攻撃した、中期〜長期的に見ればそれは当然の判断。
しかし結果的に短期決戦で終わり、大津城派兵はミスだった、それだけだ。
大津城を落とさずに云々という主張の方が、
結果を知っている者の、短期決戦で終わるとしっているものの戯言だ。
典型的な西軍厨だ、気にするな
とある状況で武将がAを選択肢し、結果、失敗した。
普通なら、武将がなぜAを選択したのかを調べ考え、武将のおかれた状況、
武将が得ていた情報を推察して全体的な情勢を描く。
しかし厨は失敗した結果をもってBやCを選択すればと言いだし、
なぜAを選択したのかを全く考えない。
ひどい場合は選択肢としてありえないDを持ち出してくる。
厨はAの選択した事実を認識せず、他の選択を論って悦にはいっているのである。
>>946 全く同意。
正しく1日で合戦が終わるって分かっていればともかく、
そんな事は誰にも分からないからね。
仮定の話を持ち出すことを全く否定するわけではないが、
そのくらいのことは押えておいて貰わないと、ちょっと話にならない。
950 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/02(金) 21:15:55
if厨の場合は仮定というよりただの願望
ということが多い。
951 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/02(金) 21:58:24
しかし、西軍には短期決戦に賭けるという選択もあったはず・・・
関ヶ原での軍の動きを見れるサイトってなかったっけ?
一度見ただけなんだけど忘れてしまったので分かる人居たら教えて欲しい
953 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/02(金) 22:15:39
>>951 ?げんにその選択肢を選んで、しかも負けたではないか。
むしろ長期戦という選択肢を(ry
>>954 そこの作者は有名な正則ヲタだよ。
家中の統制も取れないにボンボンに押されたことを認めたくないんだろ。
さすがにそれは踏まない罠
宇喜多『いいや、限界だ!押すね!』
958 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/02(金) 23:31:58
宇喜多秀家は名将とは言えないまでも、結構な武将だと思う。
あの若さで五大老・中納言は凄い。ま、秀吉のお気に入りだったからと言えばそれまでだが・・・
959 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/02(金) 23:34:21
小早川秀秋は名将とは言えないまでも、結構な武将だと思う。
あの若さで中納言は凄い。ま、秀吉の養子だったからと言えばそれまでだが・・・
960 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/02(金) 23:35:12
961 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/02(金) 23:37:37
関ヶ原に、宇喜多17000が不在で、立花、毛利・筑紫・α17000がいたらどうなった?
=宇喜多秀家が大津攻めてる状況
宇喜多17000って
ほとんど福島6000を相手にしてただけじゃん
数の割りに役に立ってない
ヤル気があった分他の西軍よりそこそこマシって以上に何があるの?
963 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/02(金) 23:41:20
福島隊は総崩れだな きっと
ついでに、寺沢・藤堂・京極もあぼーん
964 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/02(金) 23:42:42
965 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/02(金) 23:45:29
福島じゃなくて三成の6000だったら宇喜多に負けないかもしれない
966 :
:2006/06/02(金) 23:57:48
>>962 宇喜多の兵数は多かったけど、少し前にお家の内紛が起きて花房志摩守とかの侍大将が
何人も追放になってる。明石全登とかは残ったけど、それでも福島勢に勝てなかったんだから
実力は低下していたのだろう。
早めに福島を敗走させていれば関ヶ原もどうなっていたか分からなかっただろうにな。
967 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/03(土) 00:02:20
流石に福島が敗走したら秀秋は動くだろう。
ま、どちらに付くかは分からんが
968 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/03(土) 00:12:41
福島隊が敗走すれば、小早川隊が徳川本隊を側面から攻撃とか・・・?
ま、合戦中の押した押されたは講談の盛り上げなんで、どこまで本当なのやらってところかな。
宇喜多軍の実質指揮官は経験豊かな明石。
けっしてボンボンが福島より強かったわけではない。
惜しむらくは、軍指揮官から前線指揮官まで明石一人で戦ったって事。
お家騒動で人材ずたぼろなのですよ宇喜多家は。
宇喜多の軍編成をどうやってわかったのか?
>>970
どうやって分かったもなにも、有力家臣がこぞって出奔しているのは事実だからなあ。
残った明石が全部やるしかないでしょう。
原田や長船、中村いるじゃん。
明石だって、戸川や岡、花房と同格ではないのに、明石しかいないとはどーして?
974 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/03(土) 02:40:56
動員兵数は西軍の方が多いけど南宮山の総帥毛利、吉川と長束・長宗我部は不戦だし松尾山の秀秋は傍観。島津は自己防衛に専念。
実際はたらいてたの石田光成の六千ちょいと宇喜多秀家の一万七千と大谷吉次率いるの二千ちょいの小勢なわけでそれで東軍を押してた西軍は強いよ。
ここに更にもう一押し大津に居た立花宗茂率いる一万の編成軍がいればな-。
975 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/03(土) 02:42:10
あっ
小西さん忘れてた
小野木の軍もいればなぁ。
となると東軍秀忠徳川直轄3万以上が出てくるからやっぱり敗ける。
>>974 関ヶ原、正確に言えば笹尾山から天満山、松尾山を経て南宮山に至る陣地と、
その間の平野部にいた兵力では、実は東軍のほうが多い。
当日関ヶ原にいた兵力は。
西軍約8万2千(小早川・吉川等含む)
東軍約8万9千
>>974 あと、押していたのではなく、
攻め寄せてくる東軍にどうにか耐えていたというだけ。
980 :
:2006/06/03(土) 09:25:55
宇喜多家の侍大将のうち、6人中4人はお家騒動で出奔蟄居してる。
関ヶ原はその半年後。そりゃ兵数は多くてもねえ・・・
宇喜多秀家は西軍では珍しく最初から反家康で一貫してたし、人物に好感は持てる
のだが家中を治める能力はなかったんだな。残念。
981 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/03(土) 11:24:56
もともと東軍のほうが多かったのに、なぜ東軍は苦戦したの?
・・・・は?
そりゃ家康本隊とか動いてない予備部隊もあるからな。
毛利に備えていた連中も初期には参戦してない訳だし。
(´・ω・)んだね。常山紀談だか武功夜話だったか忘れたが、島左近が奮戦して敵は後日、左近のいでたちを忘れるくらい恐怖を覚えただの、
関ケ原を扱ったドラマ、小説なんかも西軍の奮戦をえらく長く描写するよね。
あたかも互角に渡り合ったぐらいのさ。ちょっとは東軍も苦戦しないと小説的につまらないですからね。
でも絶対ごまかし様のない事実は『昼前に勝負がついたこと』でしょう。
数百人同士の小競り合いで六時間程度かかるなら長丁場と言えるかもしれないが、七、八万人同士がぶつかる合戦なら六時間という時間は゛秒殺゛に近いのではないでしょうか?
986 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/03(土) 17:07:12
鳥屋様
それは誰もが思っていたのだが西軍厨
をおもんばかっていわなかった台詞です、
それを言ったら身も蓋もありません。
でも秒殺にちかいならなんでわざわざ小早川の手をかりたんさ?
小早川が裏切りがなけりゃどうにもならなかったって事でしょう?
それともそれなしでも勝負はついてて
小早川は東の勝利を見て裏切ったとでも
>>987 むしろその方が実情に近い。
少なくとも三成の陣は会戦早々に前線隊長の左近が撃たれ限界寸前、
三成本人が島津に援軍を請うような状況。
もう数時間戦闘が続いていれば、小早川裏切りがなくとも、西軍はおそらく三成の陣から崩れた。
確かに関ヶ原の南側の側面ではほぼ互角といっていい状況だったし、
三成の陣でも完全に勝負がついたというわけじゃあないから、そういいきるのは拙いかもしれないが、
それまで様子を見ていた小早川が西軍を攻めたのは、東軍優勢がはっきりと分かったからと見てよい。
990 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/03(土) 18:16:47
東軍を支持する人は小早川の裏切りという如何にも東軍らしい事象により勝利したという恥じを隠そうと
小早川がいなくても勝てたという
普通に小早川が傍観者のままなら東軍が最終的には勝ってたろうが
小早川が東軍に突撃してたら勝敗はわからないし
ましてその時毛利が突撃してたら完敗だろ
囲まれてるし
結論東軍は小早川のお陰で勝っただけ
戦術は西軍以下
政略で勝った
>>990 だからなんでいちいちそんな話になるんだよ・・・
>普通に小早川が傍観者のままなら東軍が最終的には勝ってたろうが
>小早川が東軍に突撃してたら勝敗はわからないし
>ましてその時毛利が突撃してたら完敗だろ
小早川毛利まで西軍で戦闘に加わってもまだ東軍が勝つとか
誰もこんな話してないだろ?
いや、俺も好き嫌いだけを語るなら西軍の方が好きだから君の心情だけはわかるけどさ
単に誇大妄想をたしなめてるだけだから
992 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/03(土) 18:46:17
>>991 >小早川毛利まで西軍で戦闘に加わってもまだ東軍が勝つ
私は、そう考えていますが・・・
>誰もこんな話してないだろ?
してるじゃんwwwwwwwwwwww
>>990 前日に同じ西軍を追い散らして松尾山を占拠した小早川を、
西軍に数える方が元々おかしいんだよ。
それから政略で勝つのは戦の常道。
>>993 事実として東軍が優勢だったという話をしていたのであって、
いきなり小早川と毛利が東軍を攻めたらとかいう、
架空の話を持ってこられても困るだろう。
996 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/03(土) 18:54:53
>>995 >いきなり小早川と毛利が東軍を攻めたらとかいう、
それでも勝敗を覆すには至らないでしょうね。
久々に馬鹿が湧いたですぅ><
998
999
1001 :
1001:
立 新 / ,、r'";;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`';,、 ,r';;r" _ノ と 何
て し L_ /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;\ ,';;/ ) 申 と
ね い //;;/´ `' 、;;;;;;;;,,l;;' /ヽ す 1000
ば ス /.,';/ ヽ;;;;,l;L_ .,,、,--ュ、 ';;;;;;;;;i か を
い レ l |;|┌--‐フ ┌----、、 |;ヾr''‐ヽ, ,、ィ'r-‐''''''‐ヽ ';;;;;;く !! 超
か ッ i |l ~~__´ 、 ``'__''''┘ |;;;;;l rO:、; ´ ィ○ヽ 'i;;;;;厶, え
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人_,、ノL_,iノ! . ', :i゙''''''''''`l' ` _人__人ノ_ヽ ヾ゙゙゙゙ニニ'\ ,' ト、,
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