姜維って実際はどんなだったの?

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57無名武将@お腹せっぷく
>>51>>54
諸葛瞻の官歴をおってみれば分かる様に、明らかに親の七光りの声望に
乗っかったかたちで、実力が伴っていたとは言い切れない。

ケ艾を一度は退けたとはいえ、それ以前に逡巡しているうちにケ艾の侵入を許し
為すところなく綿竹まで下がってしまったあたり、国内での防衛戦で採る作戦と
しては甚だまずい。
逆境や正念場に脆く決断力に欠けた優等生型にみうけられる。

>>56
諸葛亮時代の姜維が諸葛亮を脅かす存在にはなりえない。
むしろ姜維を非常に高く評価しており、降将としては異様に昇進は早い。
投降して間もなく倉曹掾に加えて奉義将軍を加官されており、いち降将への待遇と
しては破格。
魏でいえば投降して直ぐに将軍号をあたえられるのは軍閥出身者で、姜維クラスで
あれば県令かよくて国相。
58無名武将@お腹せっぷく:2006/04/13(木) 22:09:33
>256
降伏後、奉義将軍で倉曹エンに任命されてる。低ではあるが将軍で丞相府内の幕僚。
第一次北伐後、諸葛亮が側近らに「涼州一の人材。思慮があって、仕事も真面目。馬良よか上かも」「軍事に精通してるから、教練の必要な部隊を任せる」とか紹介してるよ。
その上、後主に謁見させてるから、いきなりエリートコースだね。

2,3年後には征西(南かも)将軍で監軍とか護軍とか、軍部の要職をまかされてる。
かなり、諸葛亮に見込まれてたな。
そのおかげで、諸葛亮の死去後も順調な昇進を重ねて行ったと言えるな。