各国の石高及び動員兵力(石高は太閤検地のもの)
ちなみに、万石あたり250人は比較的低い動員率、
無理すればもっと動員できるだろうがそういう兵力は基本的な守りに残すと解釈。
関東
上野:49万6千石/12400
甲信・中部
甲斐:22万8千石/5700
信濃:40万8千石/10200
飛騨:3万8千石/950
美濃:54万石/13500
近江:77万5千石/19375
東海
駿河:15万石/3750
遠江:25万5千石/6375
三河:29万石/7275
尾張:57万2千石/14300
伊勢:56万7千石/14175
志摩:1万8千石/450
北陸
越後:39万1千石/9775
越中:38万3千石/9500
越前:49万9千石/12500(慶長検地では68万石)
若狭:8万5千石/2125
畿内
山城:22万5千石/5625
大和:44万9千石/11225
摂津:35万6千石/8900
河内:24万2千石/6050
和泉:14万1千石/3550
伊賀:10万石/2500
四国
讃岐:12万6千石/3150
阿波:18万4千石/4570
淡路:6万2千石/1550
各国の石高及び動員兵力(石高は太閤検地のもの)は以下参照
ttp://homepage3.nifty.com/ksatake/
1572年(元亀三年)十月三日(信玄、古府中を出立)の各勢力の状況
●武田
・甲斐…100%(5700)
・信濃…95%(9690)
*飯山周辺は残す。
・上野…36〜43%(4450〜5375)
*倉賀野、松井田、箕輪など領地は広げているが、ほとんど北西山間部なのがネック。
面積で言えば4割だが、石高では三分の一程度とする意見あり(上野の平野部は南東)。
14郡中武田は吾妻郡 碓氷郡 甘楽郡 群馬郡の半分 故に石高的に3分の一 の説。
利根川以西を領土とすると、これに録野、片岡、多胡郡が加わる。(約四割)
・駿河…100%(3750)
・飛騨…10%(95)
*72年7〜8月に飛騨諏訪城を落としている。これ以前の直接の軍事行動はなし。
もともと飛騨の豪族は越中の対一向一揆で上杉と仲がいい。諏訪城主江間氏も逃亡
して上杉氏を頼る。
・越中…?
*68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っているが、71年には謙信に落とされている。謙信は73年
には加賀まで攻め寄せているから、その頃までに越中の武田勢はなくなっていたとみるべきか?
・遠江…7.8%(500)
*遠征前に陥したのは71年に国境の榛原郡小山城(この時高天神や掛川も攻めるが落せず)と犬居の天野氏のみ 天方等はこの時点では未攻略 。
武田が本格的に東に出てくるのは、氏康が死んで同盟復活する71年後半(正式な復活は71年12月)。
遠征後は20%ほどに増大
・三河…12%(850)
*足助城を落とし、賀茂郡一部・設楽郡ほぼすべて・八名郡一部を支配。ただし全て山地なのがネック。
・美濃…ほぼ0〜5%(0〜675)
*秋山信友が岩村城を落すのが72年11月。 それ以前に落していた恵那郡の小城を、どの程度に見積もるか?
18(21?)郡中これだけでは最大5%もないとする意見。
総計25035〜26635
後北条と同盟。義昭や顕如ら畿内の反織田勢力と連絡を取り合う。背後に上杉と上野方面を巡って火種。
ただし、もともと高税率のうえ、69年以降は戦もそれまでの二倍以上。領国の疲弊はすでに始まっていた
とする説あり、ただしソースは少ない。継戦能力にも疑問。
●織田
・尾張…100%(14300)
・美濃…90%(12150)
*21(18郡?)郡中武田は恵那郡岩村周辺のみ 郡上郡遠藤氏は武田織田を秤にかけて日和見。
・志摩…100%(450)
*ただし、戦力としては水軍衆がほとんどと思われる。
・近江…70%(13563)
*浅井・六角は追い詰め中。他には甲賀郡の土豪と野洲郡のいつ蜂起するか判らない一揆衆。
・伊勢70%(9923)
*桑名・三重郡の一揆衆。配下からも寝返られ、本城も明け渡され乗っ取り進行中の北畠氏を除く。
・三河…10%(728)
*水野氏など、桶狭間以前から織田についていた豪族。
総計51114
この他、畿内各地に協力勢力と敵対勢力あり。義昭とは抜き差しなら無いところまで。堺などの都市も抑える。
若狭の豪族たち(逸見・粟屋・内藤)、大和の筒井他、摂津河内和泉の細川畠山荒木などが味方勢力として存在。
池田和田淡路の安宅などはテンプレ時は旗幟をはっきりさせていない。
●徳川
・三河…78%(5675)
・遠江…92.2%(5875)
*両国とも、武田にどの程度侵略されているか。また調略如何によっては動員はさらに下がるかも。
総計11550
三方ヶ原の戦力を考えれば妥当か。ただし武田軍撤退後、特に遠江では支配率は グンと下がっているだろう。上杉と同盟。
その他の勢力 東国
●長尾上杉
・越後…100%(9775)
*ただし、揚北衆特に本庄氏の扱いは微妙。
・上野…10%(1240)
*沼田・厩橋近辺と考えるとこれぐらいか? 武田・北条におされ気味。
・越中…20〜25%(1900〜2375)
*神通川以東(新川郡)松倉・富山は1573年正月まで攻撃中。72年〜73年にかけての遠征によって、越中の大部分を支配下に収める。
この時は越中から加賀にまで攻め込み、顕如から信玄へ援軍要請が行われた。
松倉(富山)城主椎名氏を降すのは『北陸の中世城郭第15号』より1573年1月の可能性が高い
・飛騨…三木氏や江間氏とは友好的。1572年の富山攻めでは江間氏が援軍派遣してる
・信濃…5%?(510)
*飯山城とその周辺は保っていた模様。最大見積もってもこの程度。
総計13425〜13900
・遠征能力○
遠征能力は高いが、北陸へ出陣中。仮に北信・上野に出陣するとしてもメリットは薄い? ただし史実
ではこれ以前も以後も関東への出兵を繰り返している。武田・北条・加賀を敵に回して織田・徳川と同盟。
関東の諸将(佐竹ら)とは疎遠になった。
●後北条
・遠征能力○
武田・上杉と並ぶ大国だが、武田とは同盟中。今回の武田西上でも援軍(二千~三千?)も出している。
数年前まで戦っていたとはいえ、手切れをしてまで武田を攻める事は無いだろう。北関東には他に敵
もいる。
その他の勢力 畿内
●朝倉
・越前…100%(12500)
*寺社領については、明確な根拠を示さない限り否定されます。
・若狭…?
*守護武田氏は抑えているが意味なし。有力国人である逸見氏・粟屋氏などはこぞって織田について抗争中。
朝倉軍の一部は粟屋氏の居城を攻撃していた模様。(武藤氏が反織田に回ったが、この時期の動向は不明)
総計12500+?
・遠征能力○
遠征は10000程度は可能か? 現在、越前にフラフラ様子み。70年の講和以降、浅井への援軍以外に
出兵なし。経済疲弊。一部軍役拒否の状態。若狭の支配圏は低下中、むしろ抑えるための兵力派遣
が必要。
●浅井
・近江…9.5〜14.5%(1850〜2825)
*伊香郡、高島郡の半分、浅井郡の小谷、山本山城しか残っていない。
高島郡はもう少し高いとみる説あり。これも考慮に入れた。
総計1850〜2825
・遠征能力△(朝倉が来れば助力可)
単独での侵攻は辛い。木下隊に苦戦。小谷城の眼前に虎御前山砦を築かれて押し込められる。
●六角
・近江…?
*愛智郡鯰江城で逼塞状態。甲賀の土豪がどれほと力になるか?
●松永・筒井(反松永)
・大和(11225、ただし双方合わせて)
*寺社勢力は心情的にも筒井派。土豪も多くが筒井につく。
・遠征能力×(両派とも)
大和で両派が泥沼の抗争中。お互い支援を求めて織田や三好と手を組むことに。
元亀三年の時点では織田の支援を受けた筒井側に有利。松永は押されっぱなし。
●長島一向宗+国人
計20000?
遠征しないが尾張は目と鼻の先。ただし動きは鈍い。守備力は高い。
●石山本願寺+雑賀衆?
計23000?
遠征準備は謎だが、近江まで歩いて1日。 ただし動きは鈍い。守備力は鬼。本願寺自身は織田と直接
軍事衝突は行っていない(するのは後年)。信長との外交ルートあり。
※もともと本願寺と一揆は別ものであり、絶対的な命令権があるわけではない。各地の一揆はそれぞれ
の権益を守るために支配者に抵抗した。また、兵力には老幼婦女が多数含まれていると考えられる。
●北畠
・伊勢…30%(4253)
*大湊など、伊勢湾の海上交易に大きな影響力をもつ。かつては南伊勢五郡を有したが、織田へ離脱
するものが出る。
計?
・遠征能力×
織田による内部からの乗っ取り進行中。そのため勢力としては身動きとれない。隠居させられた北畠
具教は面従腹背。武田と接触をとっているが(根拠は不明)、実質どれほど動かせるかは不明(後年、
具教が討たれたときに北畠残党が挙兵するが、一族などの一部に留まる)。
ほとんど織田の一部とみなしてもいいとする意見あり(ただし、信雄が正式に跡目を継いで北畠軍が
織田の一環として行動するのは74年以降)。
●伊賀
六角に協力したり北畠についたり。基本的には中立。
その他の勢力 三好
三好一族の主だった頭(各国の支配率は不明、動員数は100%の場合)
畿内
・本家:三好義継 三人衆との関係から信長に従っていたが、義昭と共に敵対する
・三人衆:三好長逸、三好政康、石成友通 これも一枚岩ではない。義継や久秀と
抗争の為に行動をともにしていただけ。特に石成は一人信長についた時期もある。
・三好笑岩 基本的に、四国三好家にちかい。信長以前は本家と戦い続ける。
・三好政勝 管領細川家の家臣。長慶を親の仇と長年争い続ける。
・摂津(8900)
・河内(6050)
・和泉(3550)
*ただし、この全てを三好一族が抑えていたわけではなく、細川、畠山、池田、和田、荒木、伊丹、など
その他在地勢力が根を張り、反三好から織田につくものも多数いた。他に足利家につくものも多数いた。
総計18500-敵対勢力
・遠征能力×
反織田という形で立場は同じになったが、指揮が統一されたわけでもなく分裂状態のまま。
統一行動は難しいか。
四国
・阿波三好家:三好長治-篠原長房 基本的に、主筋になる細川家と争ったり講和したり。 畿内には
あまり関わらず。播磨方面で抗争があった模様?
・讃岐十河家:十河在保 阿波三好家と行動を共にす。
・淡路安宅家:安宅信康 四国三好家についていたが、1572年には義昭信長につく。
・阿波(4570)
・讃岐(3150)
・淡路(1550)
*安宅信康が織田についてしまったので、これは三好には加えられない。
離反は確実であるが織田に付いたとも言い切れない。
総計9270-安宅氏の勢力
・遠征能力×
お互いに争ったり結んだり。このころには篠原長房との確執が表面化しだす。73年4〜5月に長房が
討たれた後は抑えられていた豪族たちが反旗を翻すことになる。
四国の三好家関連は、後にほとんど信長に属することになる
おまけ
●足利将軍家
・山城…?
*北山城の国人が義昭に呼応し、明智の配下から離脱者が出たとの記録あり。また細川藤孝や石成友通
などの勢力もあり。細川・明智は織田勢力とみなしてもいい。和田池田伊丹などは義昭勢力。
総計不明
・遠征能力×(史実でも城に篭った)
■三方ヶ原の戦い後の情勢。
1572年
十二月 二十二日 三方ヶ原の戦い
1573年
一月 三日 武田軍野田城を囲む
北山城や摂津河内の国衆から義昭に付く者が続出する。信長は村井、島田、朝山日乗を講和の使者に出すが義昭は一蹴。
近江志賀郡の石山、今堅田に兵を入れる。
二月 十五日 武田軍野田城を落とす。
二十四日 柴田、丹羽、明智、蜂屋の軍が近江を攻撃。石山、今堅田も数日で開城。
三月 二十五日 信長、岐阜を出陣。
二十九日 細川藤孝、荒木村重が逢坂に信長を出迎えて忠誠を誓う。
四月 三日〜四日 上京焼き討ち。二条御所を包囲。
七日 調停の仲介により信長と義昭との和睦なる。
八日 信長、京より岐阜へたつ。
十二日 武田信玄死去
柴田、佐久間らは六角氏が立て篭もっていた近江愛知郡の鯰江城を攻略。さらに百済寺も焼き討ち。
七月 足利義昭京より逃れる。
八月 朝倉・浅井両家滅亡。
13 :
誤爆した:2006/03/25(土) 20:22:09
■この情勢をもとにした推測。
織田は
近江に浅井・朝倉への抑えとして木下、磯野で合計七千ほど、
江南の抑えと京へのにらみに八千ほど、
北伊勢への抑えと尾張の守備に五千ほど、
美濃では岩村への抑えに三千ほど抑えに置くとすれば、
(基本的な任務は守備、現状維持)
計算上は2万8千ほどを対武田に向けられるのでは?
武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、
北条の援軍が二千〜三千で、
合計ニ万〜二万五千ほど?
武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、石高的には10万石3000ほど
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、石高的には6万石1500ほど
北条の援軍が二千〜三千で、
遠征軍合計実数二万五千ほど
信玄率いる遠征軍は石高的には84万石〜90万石で21000〜22500ほど+北条の援軍2000〜3000
+美濃へ入ってくる秋山隊が3000ほど
39スレまとめ
>5-20テンプレ
>68-126松倉城主椎名氏の70年代の動向 >77『北陸の中世城郭第15号』
>69-117本拠移転
>128-150遠山氏
>140-149NHK問い合わせ >140NHK返答
>151-215戦乱と災害の影響について >155>175>176災害年表
>259-300上洛の可能性
>301-387 1573年の朝倉上杉の動向
>342朝倉始末記 >362福井県史リンク >374 1573年年表
>385-448包囲網 上洛の可能性 吉田周辺の状況
>450-494水軍について
>466武田水軍の規模 >475水軍説明のHPリンク >477武田水軍コピペ
>485-607吉田城攻囲の可能性二俣野田攻めについて
>497吉田城 >596野田城説明
>623 1573年の徳川の反撃
>669-712 1573年の朝倉本願寺の動向 抑えの兵力
>719-734畿内諸勢力
>728>734摂津河内和泉諸勢力の説明 >732安宅信康の織田に付いたソース
>735-758畿内の状況
>759-810農繁期の出兵
>768>770農繁期の出兵年表
>811-937畿内諸勢力
>817摂津寺院 >826和田惟長を高山親子が追放のソース >891三好康長について
>897>937安宅信康の織田に付いたソース
>866-870信長公記の誤記 >869ソース
>943-973朝廷への貢献
>950信長の朝廷への貢献>962>971ソース >961>963三好長慶の朝廷への貢献 >973若狭の朝廷への貢献
15 :
訂正:2006/03/25(土) 20:25:12
1572年(元亀三年)十月三日(信玄、古府中を出立)の各勢力の状況
●武田
・甲斐…100%(5700)
・信濃…95%(9690)
*飯山周辺は残す。
・上野…36〜43%(4450〜5375)
*倉賀野、松井田、箕輪など領地は広げているが、ほとんど北西山間部なのがネック。
面積で言えば4割だが、石高では三分の一程度とする意見あり(上野の平野部は南東)。
14郡中武田は吾妻郡 碓氷郡 甘楽郡 群馬郡の半分 故に石高的に3分の一 の説。
利根川以西を領土とすると、これに録野、片岡、多胡郡が加わる。(約四割)
・駿河…100%(3750)
・飛騨…10%(95)
*72年7〜8月に飛騨諏訪城を落としている。これ以前の直接の軍事行動はなし。
もともと飛騨の豪族は越中の対一向一揆で上杉と仲がいい。諏訪城主江間氏も逃亡
して上杉氏を頼る。
・越中…?
*68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っているが、71年には謙信に落とされている。謙信は73年
には加賀まで攻め寄せているから、その頃までに越中の武田勢はなくなっていたとみるべきか?
松倉(富山)城主椎名氏を降すのは『北陸の中世城郭第15号』より1573年1月の可能性が高い
・遠江…7.8%(500)
*遠征前に陥したのは71年に国境の榛原郡小山城(この時高天神や掛川も攻めるが落せず)と犬居の天野氏のみ 天方等はこの時点では未攻略 。
武田が本格的に東に出てくるのは、氏康が死んで同盟復活する71年後半(正式な復活は71年12月)。
遠征後は20%ほどに増大
摂津河内和泉諸勢力の状況
河内では、北半国守護の三好義継が義昭についたが、重臣の野間長前、池田教正、
多羅尾常陸介が裏切って信長について義継滅亡後の北河内統治を任される。
南河内では畠山高政が重臣遊佐信教、安見直政と対立。高政は弟秋高に家督を譲って
出奔。秋高は義昭方につくが遊佐信教に殺される(元亀四年六月)。遊佐信教はその
まま高屋城主代行として信長と戦い、天正元年に滅ぼされる。後、降服してきた三好
笑岩を南半国守護を任せる。
摂津では守護池田家が内訌。当主勝正の出奔後荒木村重が実権を握る。高槻の和田
惟長は元亀四年三月に高山右近に城を奪われる。荒木はそのまま信長に服属。
伊丹忠親は義昭につき荒木と抗争。天正二年には伊丹城を落とされる。
和泉では松浦氏、沼野氏、真鍋氏などの水軍衆が割拠。時期は不明だが元亀年間には
信長に服属したもよう。元亀四年四月、松浦肥前守が十河存保に信長への降服を仲介
している。
17 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/25(土) 21:05:42
乙
情勢
信長包囲網側圧倒的に優位、という状況にて
信玄が死去しなかったらどうなっていたかを推測するスレ
以下、1572年(元亀三年)末日の各勢力の状況
●武田
・甲斐…100%(5700)
・信濃…99%(10000)*飯山以北は残す。
・上野…45〜50%(5500〜6250)
*利根川以西に北部と南部の東岸を加える
・駿河…100%(3750)
・飛騨…50%(500)
*江間150騎が先方衆となっている。元亀3年9月に木曾方面からの侵攻もあり
・越中…15%(1500)
*68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っている。71年には謙信に落とされているというのは
誤りで、近年は上洛開始時健在でほぼ確定。
・遠江…40%(2500)
*元々境の地域は両属の領主が多いうえ、徳川側記録に拠ると
侵攻により地侍が靡く様に寝返ったとある。東海道沿いに逼塞、ぺちゃんこ
・三河…20%(1500)
*山家三方衆を誘降、足助城を落とし、賀茂郡、設楽郡ほぼ全域・八名郡一部を支配。
・美濃…5%(675)
*秋山信友が岩村を制圧。
計32000〜33000 + 北条からの援軍2000
●織田
・尾張…100%(13000)寛永検地では52万石
・美濃…90%(12150)恵那、土岐を失陥 郡上郡遠藤氏は武田織田を秤にかけて日和見。
・志摩…100%(450)
*ただし、戦力としては水軍衆がほとんどと思われる。
・近江…50%(9500)
*浅井・六角は追い詰め中。湖南のいつ蜂起するか判らない一向一揆。
・伊勢55%(8000)
*桑名・三重郡の一揆衆。南部5郡の北畠氏を除く。
・三河…0%(0)
*水野氏など、桶狭間以前から織田についていた豪族は家康の寄子。
総計43100
●徳川
・三河…75%(5500)
・遠江…60%(3750)
侵略しぬかれぺっちゃんこ
計9250 ただし味方が原の大敗でもっと減じている可能性大
●朝倉
・越前…100%(12500)
・若狭…?
*若狭侵攻で一部を除く中、東部を支配、逸見氏・粟屋氏は織田についたため雪隠詰め
朝倉軍の一部が粟屋氏の居城を包囲中。(武藤氏が反織田に回った)
・加賀…20%(1800)
計17000
●浅井
・近江…18%(3500)
*伊香郡、高島郡の朽木、志賀境を除く、浅井郡7割、朝倉との関係上城は元々破却済み。
計約3500
●本願寺
まあ、ぱっとみ3万人
●長島一向一揆
追い詰められた末根切りに遭ったのが2万人、おそらく3万前後かw
*信長の弟が拠る城を短期間に陥落させたこともある
●将軍
なんだかんだで、逃亡中の義美が2万人動員してたりする
●北畠
・伊勢…40%(5600)
*南伊勢五郡を領有、誰かが織田へ離脱したと主張し始めた国衆はもともと南勢ではない。
織田軍へ加勢するのは長島を根切りにした時の戦から。
計5600−α 織田は北畠一族や国衆を動かせないが
北畠も表立った行動は難しいかもしれない
●六角
・近江…30%(3000)
*人が居ない雑魚、甲賀郡他丘陵部を占拠、一揆みたいなもん
●三好
主体は阿波、讃岐、淡路の義賢一門、ただし長春は最悪
・淡路(1550)
・阿波(4600)
・讃岐(3200)
計9350 反織田、とはいえ交戦する情勢でもない
三好康長と
三好義継、松永久秀、俗に言う三好三人衆、三好政勝
・河内(6050)
・和泉(3550)
長慶の残りカス、この頃の実力は不明
乙ー
乙
24 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 10:06:19
伊勢の統治がどんどん減っていきますね
25 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 12:55:27
┏━━┓ ┏━━┓
┃掠疾┃ ┃掠疾┃
┃如如┃ ┃如如┃ 「将、いずれか有道なる?」
┃火風┃ ┃火風┃ 「武田!」
┃不徐┃ ┃不徐┃ 「将士、いずれか有能なる?」
┃動如┃ ┃動如┃ 「武田!」
┃如林┃ ミ《,M,,》シ ┃如林┃ 「理法、いずれか得たる?」
┃山侵┃ <ゝ(`∞´)ノ> ┃山侵┃ 「武田じゃ!」
┣━━┛ 彡ミ・д・ミ ミ ┣━━┛ 「軍令、いずれか行わる?」
┃ ∧_.ヘ /~( ソ )~ヽ ヘ_∧ ┃ 「武田と織田、互角と見る」
┃ / \※>∩ ./ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ∩<※ /ヽ ┃ 「兵衆、いずれか強き?」
∧_.ヘ ・д・ミ / \ ミ・д・| ヘ_∧ 「圧倒的に、武田だな」
/ \※>∩ ./ \ ∩<※ /ヽ 「士卒、いずれかならいたる?」
∧_.ヘ ・д・ミ/ \ミ・д・| ヘ_∧ 「武田じゃ!」
/ \※>∩/ \ ∩<※ /ヽ 「賞罰、いずれか明らかなる?」
//≡/ ・д・ミ \ミ・д・|≡ヽ 「互角かのう」
i^i( ⊃ / \⊂ )i^i
| | ( ⌒| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| )| |
| | ̄(__| | _)
武田なんかザコメン相手に調子こいてただけだろ・・・
なにが最強なのだか
武田上洛時寝返りそうな武将
戦中 戦後
柴田 勝家 B実績あり A
丹羽 長秀 C米五郎左 B
羽柴 秀吉 Bその力無しか C本人その気も必要なし
明智 光秀 ?この頃は・・・ A将軍の取り成しで
佐久間信盛 B三方原で B
滝川 一益 Cまだ力なし C地盤無いから
>>27 今川上洛時でさえ寝返らないヤツが寝返るのか?
29 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 21:39:36
裏切るならとっくに志賀の陣あたりで裏切ってるだろ
むしろ武田のほうが心配。優勢なときならともかく、不利になるとあっさり豪族連合体制の脆弱さを露呈して親族衆すら瓦解
信玄は晩年、自分が追放した信虎じみた大名権力強化に走ったけど、これは仕方無いことだったのかもしれんな
30 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 22:02:04
>>29 尾張系は大丈夫かもしれんが、美濃、近江系はヤバイかもな。
志賀の陣のときの本願寺と武田では政治、軍事的衝撃が違い過ぎる…。
徳川落とせるかも微妙なのに裏切らんよ
それよりも梅雪とか木曽の裏切り心配したら?
>>30 どこが?
志賀の陣のときは信長本隊まで釘付けだったけど
武田西進の時は本隊や主力は行動の自由持ってるぞ
新付の衆は軍役を軽くするとか、信長も結構気配りしてるんだね
34 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 23:24:31
>>32 武田と本願寺の武威がもたらす政治情勢にたいする影響力の差(義昭の態度を見ればわかるだろう)。
>>31 >>32 徳川落として尾張、美濃あたりでの話でしょ。
比叡山焼き討ちとか裏切る大義名分が有る分
美濃三人衆とか畿内豪族とか普通に寝返りそう。
実際、安藤守就はそういう動きをしたんじゃなかったっけ。
後で武田寝返り疑惑を問われて追放されてたような。
>>34 武威ってなんだよw
じゃあ具体的に寝返りの動きでもあったんかね?
将軍が謀反しようが、その将軍家に深く繋がっていた明智はもとより細川も信長に同心しつづけたんだが
>>37 頭のいいやつが寝返るのは自分がキャスティングボードを握ったときだけ。
39 :
38:2006/03/26(日) 23:57:53
キャスティングボートだった
40 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 00:04:04
>>37 1573年の4月12日、信玄は信州の駒場で亡くなってるんだぞ、尾張にも入ってない段階で具体的な動きがあるわけないだろ。
織田、徳川方の三河山家三方衆だって寝返っていることを考えてみても、封建勢力の向背はあてにならん。細川なんぞそれこそ情勢次第だろ。7月時点での細川の同心など結果論だ。
>>36 そのような事実はこの時期までには無い
後の追放は佐久間・林・水野・丹羽などと同じ因縁付けだろう
>>40 テンプレぐらい読めよ、
細川は3月に義昭から離反している。
43 :
40:2006/03/27(月) 00:15:36
そうだな、>細川なんぞそれこそ情勢次第だろ。7月時点での細川の同心など結果論だ。は取り消す。スマン。
山家三方衆は典型的な国人
寝返っても不思議じゃないじゃんか
(武田からも離反してるし)
三河譜代あたりが寝返ったら大事だが
45 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 00:48:53
でも奥平氏は、長篠戦の時には2万の軍勢に500の兵で囲まれても寝返らなかった
人質を処刑されてでも徳川に寝返ったからもう退路はない、と覚悟したためかね?
>>45 基本的には筒井と松永、池田と荒木、和田と高山の関係と似ていて
長篠の時は奥平家は本家と庶家に別れて本家は武田に庶家の一部が徳川に
しかも所領を武田家に押さえられた状態で単独で徳川に
庶家の立場としては武田に寝返っても将来性は無い
信昌としては長篠城で頑張って家康に自分の価値を示すか
必死に篭城して小笠原のように武田に自分の価値を示すしかない
この時期の謙信と家康の兵力は同じぐらいなんだね
謙信の方が2倍ぐらい家康より上のイメージだった
この時期は謙信の方が2倍ぐらい家康より上だけどな。
>>29 >むしろ武田のほうが心配。優勢なときならともかく、不利になるとあっさり豪族連合体制の脆弱さを露呈して親族衆すら瓦解
>信玄は晩年、自分が追放した信虎じみた大名権力強化に走ったけど、これは仕方無いことだったのかもしれんな
比較した場合、豪族連合体制に近いのはむしろ織田
独立性のある豪族なんて存在しないし、武田の大名権力強化は進んでいるよ
取らぬ狸の皮算用
徳川倒す方策考えてから裏切りを考えたら?
宝くじ買わずに当選したときのこと考えてるようなもんじゃないか
裏切りつーか、地侍の一斉寝返りは徳川にとって致命傷になりかねないと思うが
51 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 13:29:53
>>48 具体的に
子飼いの馬場さえ小田原出陣の時、配置に従わず
穴山・小山田はじめとして領地を二重支配する体制が瓦解まで続いた武田のどこが?
>子飼いの馬場さえ小田原出陣の時、配置に従わず
詭弁。戦に従わなかったわけじゃない
>穴山・小山田はじめとして領地を二重支配する体制
そんな事実はどこにも無いw
53 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 16:28:15
>>52 大将の配置に従わないのを詭弁ということこそ詭弁じゃんかwww
織田家でんな真似したら良くて謹慎下手すりゃ改易追放だ
小山田が北条の他国衆でもあり、領内では独自性を保っていたのは有名な話でしょ。否定史料でも発見されたか?
どうみても武田は寄り合い所帯です。ありがとうございました
54 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 17:03:08
あらーきはそんな真似してたけどなwww
>>54 秀吉も手取川の時、無断撤退してるしな。
>>53 で、独自性というが具体的にはどんなのがあるのかな?
56 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 17:43:36
荒木は対本願寺指揮権を佐久間に横取りされる形になった
秀吉は謹慎
留守番役(当時の情勢だと上杉や徳川から攻撃される恐れは多いにあったから、軽い役目などではない)をほっぽった馬場は何か譴責受けた?
もし身勝手やってお咎め無し、以前と同じというのなら、かなり武田の大名権力ってユルかったんだね
領内の独自寺社支配のために富士浅間神社の御使を統制下におこうとしたり
北条氏・上杉氏と武田氏の意図を通さず外交したり
小山田氏はかなり独立的だよ
もっとも完全な、というわけではない。過料銭を領内に課す時は信玄と相談したりしている
勝頼の代になると、独自性は再び強まる傾向にあるけどな
>>56 荒木は天王寺での先鋒を断ったことじゃないか?
北条分限帳によると
他国衆 小山田信有 以下30人 3721貫
と思いっきり配下扱いだな
両属なんてよくできたと思うよ、何度も交戦してる大名間で
あるいはだからこそ、かもしれんが
>>58 オレは木津川口の抑えに回る、と主張した奴だっけ
信長公記によると、「先鋒にしなくて正解だった」と信長が述懐しているからこれは進言として受け入れられケースじゃないの?
佐久間に指揮権が取られたのは天正四年頃(三年に遠縁の波多野氏が信長に反旗を翻したのが一因とも)だし、謀反はさらにその二年後だから
>>60 荒木が拒否して、結果的に勝ったあとの信長の述懐だから命令を拒否した点は変わらんよ
>>61 ん?どこに勝った後の述懐だと書いてあった?
留守番役を命じられたのにはるばる関東までやってきたのとどう見ても同列じゃありえんが
つうか信玄が取り立てて名家まで継がせた馬場=現地の豪族の臣従者の荒木といいたいのか?
だったらやっぱり武田家の統制力が低いってことに
しかも荒木は持ち場から逃げたわけでもないしなぁ
>>子飼いの馬場さえ小田原出陣の時、配置に従わず
>詭弁。戦に従わなかったわけじゃない
>結果的に勝ったあとの信長の述懐だから命令を拒否した点は変わらんよ
馬場といえば今川館勝手に焼いたっけ
軍鑑じゃ例によって美談として扱われてるけど
これも命令違反だよな、確保命令出てたのに…
66 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 18:42:57
つか馬場が無茶苦茶で信玄が甘いだけのような気がしてきたww
>>57 いくら調べても小山田が武田に通さず外交したなんてないけどソースはなんだ?
>>62 公記に書いてあるよ、あとになって荒木に任せなくてよかったと。
これはあとになってからの述懐で命令を拒否したことには変わりない。
立案段階の命令拒否と作戦実行時の命令違反じゃ意味合いがかなり違うと思うんだが・・・
69 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 18:49:16
しかし命令違反なら明智もそうだよな
中国攻めを命じたのに本能寺にきちゃうんだもんw
>>67 ん?小山田が北条の他国衆になったり、鎌倉の寺社領に書状発して浅間神社御使の便宜を要請したのは武田氏関係なしでしょ?
関わってた史料なんてあった?
>あとになって荒木に任せなくてよかったと
嘘は良くないな
>>70 >>あとになって荒木に任せなくてよかったと
>嘘は良くないな
いやこれは本当にあるぞ
>>71 どこの訳本よ?
軍議で先手ではなく木津川口抑えを主張→信長の感想→実際の陣立てって記述の流れじゃん
穴山領は、その後の駿河に与えられた領地を含めて穴山氏発給の文書で支配が行われた
小山田氏にしろ穴山氏にしろ、元々は武田宗家とは争っていてその傘下に入った経緯がある
このあたりはどうしようもないのかもしれない
>>70 それって外交というのか?
>嘘は良くないな
これは公記読めよとしか言えないな。天正4年のところな
>>72 荒木摂津守に先を仕り候へと、仰せられ候へば、我貼るは木津口の推へを仕り候はんと、
申し候て、御請け申さず。信長、後に先をさせ候はで、御満足と仰せられ候へき。
>>73 どこも多少の裁量はもってるよ
越前の柴田なども発給文書だして統治してるよ
77 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 19:35:23
発給文書出して統治してる?なんのこっちゃ??
勝家が朱印状出してるって意味か?
>>70 司法上の優先権などがあったと言われていることから小山田氏に関しては同意
独立性は高いと思う。
それ、朱印状と言うんだけど
大名権力強化を図った武将は、力だけの時代を反映して親衛隊強化をやっている
今川義元はその走りで検地をやって出た余剰分で馬廻りを増強している
家康も、三河統一期には三備の旗本を編制してるし
信長は母衣衆を従え、後には長篠で分隊だけで鉄砲500丁装備というレベルまで馬廻りを強化している
でも武田氏にはそういった動きはないでしょ
82 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 19:51:31
織田の方が家中における大名への権力集中という面では武田よりも進んでいたのだろうが、逆に言えば信長のその強引な手法が謀反の連鎖を引き起こしたとも言える。
その点、武田は大名への権力集中という面では織田に遅れをとっていたが、その割には信玄の統制に良く服していたと言えるし、事実、信玄存命中には義信事件があったのにも関わらず大きな謀反も起こっていない。
豪族連合体の武田家を甲州法度之次第でうまく統制していた信玄、独裁権を確立し豪族連合体から脱脚しようとしていた信長(信玄もだろうが)、元亀3、4年の時点で、はたしてどちらが自己の勢力を良く統制できていたか?だな。
信長は分国法を整備していない点をどう考えるか…。作ることが出来なかったのか、独裁のために作りたくなかったのか。
穴山氏の領内宛文書は独自の角印と奉行執行方式をとっている
明らかに武田氏支配下とは違うよ
単に武田家中に謀反起こせるだけの勢力が無かっただけと違うん?
刃向うことはなくても、落ち目になったら離反はゾロゾロじゃん
そもそも大名権力が安泰なら、信虎が追放されて信玄推戴ってこと自体あがりえないような
>>84 たんに離反なら本能寺後の織田や関が原後の豊臣もそうだろ
>>82 義信事件がそもそも大きな謀反事件だが。
それから、信玄の場合は制度として武田大名家の中の武田本家の力を強めた
というよりは、一族豪族家来たちをバランスよく使っているという感じ。
信玄の領国支配や戦略のツケはみんな勝頼にのしかかってる
信玄は良い時に死んだのかもしれん
信玄は間違いなく一番悪い時に死んだろ
病身で長期遠征って普通じゃやらないよな
死去するときも氏康みたいに現実を見て方針転換の遺言残さず、瀬田に旗立てろ、で後代の戦略限定しちゃったし
>>89 その頃は浅井・朝倉が健在だったからね
しかし、氏康の方が現実は見てたと思う
氏康の場合は武田の侵攻時に再三謙信に援軍求めたけど全て無視されて
実質同盟が機能してなかったから武田と復縁しろといったのはわかるなあ
まあ信玄も勝頼に陣代任せたり代筆や連判もしてたりするけど
氏康みたく生前に家督譲渡はしとくべきだったな
あー、それはあるかもな。
当主として君臨し続けることで個人としての名声は高る作用を果たしたけれど、
家としてみると明らかにマイナス。
信玄にしろ謙信にしろ、当主の座から退いて後見として次代の当主を補佐してやればよかったのに。
>>78 司法上の優先権程度は織田配下の国人なら皆保持してる
>>81 旗本衆くらい当然いるからw
>>82 統治制度の関して、織田家の方が不備は多い。
単に文書が焼失しただけかもしれんけど
>>83 それは、穴山家の領内統治整備が進んでいただけのこと
95 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/28(火) 13:20:30
長篠で敵前逃亡した穴山・信豊を処罰できなかった時点でもうアレだろ>武田の大名権力
作戦上の意見の違いとかいうレベルじゃない。実際に交戦し苦戦してる味方を見捨てて親族衆が後退って洒落じゃすまない
信濃先方衆なんか当主クラスがぞろぞろ討ち死にするまで頑張ったのに報われないよ
後年、将棋倒しに寝返りが続出したのは当然
あれは普通に撤退しただけだろ。
大将より先に撤退するのが普通?
つかボコボコ討ち死にでてるくせに、穴山一党や信豊一党の損害は軽微じゃん
仮に命令通りの撤退だとしたら尚タチが悪くないかね?
後陣だったんだから当たり前だろう。
穴山は若き日の真田昌幸が使者に立って前線の支援を勝頼が命じた時、昌幸の出自を嘲笑って命令拒否した卑怯者ですよ
>>98 撤退を支援しない後陣(笑
大将も味方も見捨てる後陣(笑
少数の酒井隊の背後攻撃すら拒止できない後陣(笑
武田軍団ってそんなにレベル低かったんだね
親族衆で討ち死にしたのって武田信実(鳶の巣山守備)ぐらいか?
いや穴山は鷲津砦の支援のために後背に軍を向けたとの説もあるし
それに普通撤退するときは後陣からだぞ。
三方ヶ原でも後陣の織田軍から撤退をはじめてる、結果的に平手なんかが撤退中に
討ち取られてるけど三方ヶ原台地での戦中では後陣の織田はほとんど戦ってないし。
鷲津じゃなくて鷲巣だった
元々穴山一党は武田軍の指揮系統の一本化の中には入ってなかったんじゃないの?
穴山氏は独自の家臣団構成を持つなど、独立の領主だったころの気風を持っていた
親類衆といっても縁戚続き程度で例えば信玄の兄弟とかじゃない
>>102 つまり、他国からの援軍レベルだったわけか?武田親類衆は?
>>104 母親は信玄の姉だよ
>>104 >元々穴山一党は武田軍の指揮系統の一本化の中には入ってなかったんじゃないの?
さすがにそんな例はない
普通に裏崩れ(前線の苦戦を見て、直接戦ってない兵士達が士気崩壊起こす)だろ
元々、武田軍団として名を馳せたのは譜代・先方衆
親類衆や旗本は大したことない
>>107 殆ど戦わずって…
その時ですら佐久間勢からも討ち死にが続出するほど戦ってますが…
三方ヶ原ですら、佐久間勢は手勢の半数に痛手を受け、水野ははぐれて岡崎に行かざるをえず、平手は討ち死に
仮に真っ先に逃げたとしても、敵は追撃してくるはず
穴山らの逃げはむしろ芸術的かねw
111 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/28(火) 14:12:47
いやいや信長殿には及ぶまいてw
そうなると、前線から撤退戦まで終始戦いながら、部隊の秩序を崩さなかった酒井忠次の東三河衆は鬼だな
独自の被官体制を敷いてた穴山衆は、逃げる時も秩序が良かったんじゃないの?
信長公記や長篠日記によると、時系列は違っても酒井隊も本隊攻撃に合わせて武田軍後背に攻撃をかけたことに違いはない
それをかわして主だった者の被害ゼロで逃げるって普通じゃないよやっぱり
勝頼さえ従う者僅か六騎っていう大敗戦だったのに
>>94 織田傘下の国人が発給した文書はぜ〜んぜん見つかってない
かといって、織田の分国法(そもそも、あったっけ?)に従ったわけでもない。
それと、御旗本衆と御家人足軽合わせて2千人くらい居たはず
>>115 何いってるのかわからない
小山田氏や穴山氏レベルで独自発給した文書がないって言いたいの?
だいたい2千人ってソースは?
もしそれが本当なら武田軍全軍の一割無いし二割が旗本っていうおかしな編制になっちゃうぞ
大名直轄軍を増強するには、当然ながらそれを支える財源がいる
だけど例えば湯之奥金山が武田氏直轄ではなく穴山氏の影響下にあったり、駿河で獲得した金山の支配権はやはり穴山に与えられたりと
領土拡張の結果=大名自身の財源の強化
とはいってないように思える
>>117 駿河の金山が穴山の支配権とは初耳だな。ソースは?
>>118 柴辻氏の武田・穴山氏の駿河支配
金山統制に出された文書は穴山発給のもの
多聞院日記によると、信君が織田に帰順の礼として差し出したのが金子二千枚
大判なのか小判なのかはわからんけど、かなり金持ちだったことは確かだね
元々信友の代から穴山氏は金山開発に熱心だったし
>>119 その本に書かれてるのは駿河金山の管理を穴山氏に任せたのであって支配は認めてはいない
↑アホ?
元々穴山には河内領内金山があり、小山田には富士詣関連の通行税などの利権があった
長篠で積極的に戦ったり、武田に殉じなかったのは当然
彼らは元々在地領主で武田とは都合により縁戚関係を結んだに過ぎない
長篠で討ち死にした武田子飼いの武将は殆どが信玄が取り立てた層でしょ
元々スタンスに違いがあったんだと思うよ
>>121 どこをどうしたらそういう解釈になるのか教えてくれんかね
支配を認められない武将が当時安堵状や禁制・普請を命じることができたのかね?
勝頼が領内に怨嗟渦巻くほど重税かけなきゃならない状態なのに
穴山は天守閣付の城築いて城下町大規模に整備して、織田徳川に莫大な賄賂送って尚余裕があった
なんだかなーw
金山衆や豪族通じての支配って効率悪くないか?
なんで代官置くなりして直轄支配できなかったんだろ
…やったら反発食らってアボンか
128 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/28(火) 17:54:14
有力豪族の利権取り上げる真似したら信玄追放で終りでしょ
信虎の二の舞
豪族達に推戴された信玄にそんな真似ができるわけが無い
末期に誓紙取ったり自身を不動明王に仮託したりして形式的・精神的に主導権を握っただけでも上等じゃ?
>>126 それが管理だろ
実収入は武田本家に入ってるだろうが
なんか馬鹿が一人交じって必死だな。禁制の意味わかる?
>>129 本当にソース読んだのか?
金山衆介しての間接収入があった黒川金山あたりじゃねーんだぞ
>>129にはきっと安堵状・禁制・軍忠状・感状などの意味がまったくわかっていない
経済力が穴山>武田宗家ではないというソースでも示されれば、穴山が信長の生野奉行のようなものだったという推論程度なら成り立つが
なんかあるの?
>>129
>>129 じゃあ穴山の経済力はどこが源泉だったんだ?
錬金術でも心得てたのかね?
136 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/28(火) 18:25:56
一職支配と一職所有で、
武田氏が穴山や小山田に認めていたのは後者だということを言いたいんじゃないかな、
>>121は。
穴山が触れたものは全部金になるんだよ。
>>134 直接的な史料は当然あるわけないが甲斐の主要部分を直轄にして大小の金山収入に全国から
棟別役を徴収してる武田家と巨摩郡支配の穴山が経済力で上だとでも本気で思ってるのか?
>>135 湯之奥金山
最近、戦国系スレで資料捏造する輩が常駐してるので注意。
人が提示した資料を目を通したと言いつつ見ておらず、
自ら提示した資料の内容に疑問投げ掛けてもスルーします。
気を付けましょう
ちなみに>117から始まってるが何が言いたいのかを端的にいうと
駿河金山の収入は武田に入っていると言うこと
117の文章では駿河の収入が穴山に入っていることになる
>>138 勝頼は、全国の収入で武田領土全部をみなければならない。
信君は、金山収入その外を自分の家のことにのみ使っていい。
142 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/28(火) 19:21:09
駿河金山の収入が武田家に入ってたというソースは?
直轄領とされる金山すら、金山衆を介しての間接支配しかできなかった武田家が、穴山領にそこまで融通利かせられていたのなら武田家領国支配の研究にえらい一石が投じられることになるが
新田次郎ソースだろ
新田次郎は小説だぞw
新田君の小説と現実を一緒にすんなよ
新田の小説ですら書いてないだろうさすがにwww
146 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/28(火) 19:49:56
147 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/28(火) 23:08:06
穴山はわかったけど
信豊の遁走はどうなのよ?独立色が強いわけでもないし、軍役はせいぜい200騎程度で親類衆中では最大級とはいえ、武田家中全体じゃさほど強勢なわけでもないでしょ
どうして逃走しても大丈夫だったんだ?
武田信豊は突撃に加わったでしょ?
後陣中央に控えたまま戦わず命令にも従わず退いた穴山(と、いってもこの醜態にも諸説ありだが)とは同列には扱えないんじゃ
新田の小説は穴山を悪役にしてるからな
穴山の視点から見れば穴山の立場もよく分かるはず
高橋直樹氏の短編に、穴山を主人公にした作品があったな
>>149 んなもんは穴山の言い訳に過ぎないけどな
152 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/29(水) 14:47:05
穴山の言い分って例えば?
オレは決戦に反対だったんだよ、とか?
153 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/29(水) 18:20:33
武田の家臣団ってのもだいたいが、源氏の末裔だったんだね。
板垣や馬場、小山田、秋山、板垣などなど、あと山県もいたね。
エリート集団・・
だから、まとめにくかったんだよ。
154 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/29(水) 19:07:49
信玄は能力のある奴に名家を継がせて起用してけどな。高坂昌信とか内藤昌豊とか。
山県昌景も元は別の家の人でしょ。
源氏の末裔というより武田の庶家か
>>142 図書館いって少しばかり調べたが
もともと穴山領である河内地域でも武田家が経営している金山もある(市川文書)
その他の金山関係の文書でも諸役免除のかわりに
被官を設けて統治してたりする(甲州古文書)
信長も明智や丹羽・塙を改姓させてたなそういや
>>157 本当に見たの?
既出の柴辻氏や、山村史の立場から研究した笹本正治氏によって否定されてる考え方だけど…
>>160 見たよ。柴辻氏が否定しているのはしらないが笹本氏は直接支配は否定してたね
ただ俺が調べたのは>142に対する事のみだったから、そこら辺の詳しいことに
関してはよく調べてないのよ。
つまり金山の一部を抑えられて尚、独立性を保持できたぐらい豪族連合の色が強かったってことだな
まあ、穴山って戦で負けて服属したわけではないからねえ。
戦って甲斐統一していれば歴史は変わったかな?
そこまで激しくやったら隙を突かれて北条や今川に併呑されたかもしれんけど
身延町史のどこに・・・?
なんか怪しいな
借りたわけではないからどこといわれても今はこたえられないが
穴山氏関係のことが詳しく書いてあったので興味あるなら図書館へGO
中世大名と、過渡期とはいえ近世化しつつあった大名との差だろ、武田と織田徳川の力の差は
172 :
167:2006/03/29(水) 21:49:12
見つけた以下コピペ
穴山氏の金山経営については河内地域金山の文献は早川町薬袋の佐野家、
同町雨畑尾崎家文書等があるが関係文書としては、
信友花押 芳山小沢のすちかせき候てきり出し奉公申へきなり、
何事なりとも此六人衆にまかせへき者也 如件
天文十二年五月一日
村田善九郎
望月善左衛門
望月伴左衛門
望月神左衛門
望月新右衛門
望月三郎兵衛尉
があるが、天文3年(1534)の信友の宛名不明の「黒桂山はう山の事―中略―稼ぎ山栄い候は
ん事肝要たるべし」の文書(甲州古文書)とともに甲州金山関係文書として貴重である。武田氏
の河内地域の金山関係文献としては天文19年(1550)の
という相又市川喜洋家文書があり、これは武田氏の金山文書中、最も古いものと思われる。
金山の持つ経済的特殊性が武田氏をして穴山領内に飛地的な経営を行なわせたものである
と考えられる。穴山領内に対する武田氏の此の種のいわば「立ち入り」的関係は他の面にも、
多少は見られるのである。
河内地域の戦国期金山経営の遺跡とされるものは早川入りでは保・黒桂・雨畑筋の稲又長畑、
これと連関する大城・河東では毛無山金山群とでもいうべき、湯ノ奥・地蔵峠一帯・栃代から本
栖・麓等に見られる。金は鉱石を砕いて得るものを山金、川でえるものを砂金・沙金・川金とよん
でいた。もとより山金が中心であり、上記の各場所に廃坑や石臼が残っている。坑で武田氏金
山と伝えるものが河内各地にあるが鉱石の露天掘りも行なわれたようである。武田金山とはい
っても河内の場合は早川入り文書や毛無金山は信君開発とする湯ノ奥のいい伝えからみて、
大部分は穴山氏の経営だったと思われる。
そうそうそれ。でもネットで公開されてたのね・・・
河内の金山の一部なら武田家が立ち入りできたってことね
じゃ、なんで駿河の金山じゃそういう事しなかったわけ?
明らかな後退じゃん
金山はわかった
じゃあ駿河を手に入れたことで確保したと思われるもう一つの財源・港での交易利権はどうなの?
養子に継がすなんて普通でしょ。
最近はやらないけど
名家を継がせると同時に、知行も増やす
例えば親類衆がだいたい200騎前後の軍役で最大規模なのに
春日の軍役は最終的に千騎に達する
子飼いの譜代を育成するのが信玄の方針だったのかね?
なら駿河とかの経済要地を直轄にせず親類衆の穴山に与えたのもそういう流れだったのかも
少なくとも信玄存命中には穴山は裏切る気配はなかったわけだし
178 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/30(木) 00:23:50
甲斐の山国だと、浮動人口なんていなくて殆どが地縁・惣村レベルの人間ばっかでしょ
大名自身の兵力増強ってそういう意味じゃ非現実的だったんじゃないの?
法度を定めたり複数の領主支配地に跨った治水工事やったりと、武田氏が領国統治の一極化のメリットを理解してなかったとは言い難いだろうから。原因は立地的なものじゃ?
>>177 >春日の軍役は最終的に千騎に達する
本当に?多すぎないか、ソースは何?
180 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/30(木) 03:08:25
軍鑑じゃないの、例によって
ただ、小諸・尼飾・海津城代を兼ねていたとはいえ一人で差配したには人数が多すぎる
知行からの負担である450騎前後すら誤記説が常についてまわってたような記憶がある>春日千騎
>>175 商業繁栄、交易は大して利権にならないと思うけどな
府中にしても、畿内各地の都市にしても、収入より職人の確保が大きいと思う。
>>177 高坂昌信の軍役は二百五十騎程度、千騎統率しているのは組長だから。
>>178 浮動人口による兵力増強こそ、非現実的。
慶安頃の軍役規定なら二百騎持ちは相当な大身だぜ
騎1につき卒1従1徒2としても都合5人役つまり兵1000人の所帯
2〜4万石の国持ち大名クラスだよな
それが千騎となれば高坂は10〜20万石級相当を有していたのか?
それとも単に格か
勝手に都合5人役にすんなよ、しかも千騎てw
まあ3人でも5人でもいいんだが千騎の軍役という言葉が引っかかったので
浮動人口の兵力っていうと
浪人衆・お席抱え・雇い足軽あたりか?
浪人衆は扶持されることも多いけど
でも長篠戦では武田軍も千五百ほどの浪人衆抱えてたよな(鳶の巣山守備してて蹴散らされたけど…)
浪人衆を浮動人口から掻き集めた超雑兵ごときと一緒にしてやるな
山県・内藤・馬場のような要地の城代勤める武将は、本来の軍役以外にもその土地の国衆とかの統率を任されている
だから数字がでかくなるんだろう
馬場ってどこかの城代勤めてたっけ?
>>189 信濃牧島・深志城代
信玄の西進でも深志衆を率いてしたがっている
西進のときは、組長にも関わらず本人だけ手勢半分率いて参加したんだっけか?
それはそれで問題がないか?
194 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/31(金) 23:19:04
>>193 北条とは同盟中で、謙信は越中飛騨方面にかかりきりだから大丈夫じゃない?
織田軍が後詰した場合、敵兵力がどれくらいになるかわからんもん
内藤や小幡といった上杉と最大の激戦地になっていた関東の上野衆まで参陣してるし
32日か・・・
197 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 03:22:32
我こそは2党なり
書き込みのはやきこと風の如く
他人と会話せざること林の如く
ネットで煽ること火の如く
部屋から動かざる事山の如し
,. / |´ ̄`ヽー- 、 ト、 , -‐、/./.- 、
/ | | ヽ l l ( 火◇風 ノ
/o ̄`ハ._.ゝ===┴=く.ノ- 、 ノ ◇ ◇ (
/o O / l´ ノ ヽ lo ',ヽ ( 山◇ 林 }
\___/. ト、 ● ● ハ ∧ `⌒/7へ‐´
/ ,イ レ_ ( _●_) ミl~T--‐彡 /./
/ ̄ ̄l. 彡、 |∪| ノ'l l::::::::::彡ー7⌒つ、
彡:::::::::::l ト、___ヽノ /| l::::::::::::ミ {,
>>194 ということは年内いっぱいしか信玄は動けないってことだな
199 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 09:52:49
来年のNHK大河「風林火山」の男性主要キャストが31日、東京・渋谷の同局で発表され、上杉謙信役に
歌手のGackt(年齢非公表)が起用された。Gacktはサングラスにピアスを着けて登場し
「僕の中の侍スピリットを表現したい」と抱負を語った。主人公・山本勘助は俳優の内野聖陽(37)が、
武田信玄は歌舞伎俳優の市川亀治郎(30)が演じる。
Gacktは屈強な男性ボディーガード2人を引き連れて会見場に現れた。長髪を後ろでまとめ、
従来の大河の主要キャストとは、ほど遠い雰囲気。刈り込んだ頭に黒ずくめの服装の内野、和装の亀治郎
と 並ぶと、異様な迫力を醸し出した。
「僕自身、侍スピリットを大切にして生きてきた。戦いの先にある死さえ超える強い意志と志を持った魂が
大好きで、共感できる」などと独特の言い回しで抱負。「ふたを開けてみないと分からないですが、
新しい自分を表現したい」と不敵な笑みを浮かべた。
音楽活動ではビジュアル系メークだが、関係者によると、武将らしいメークも含めて検討中。これまで
一度も見せたことがない“すっぴんに近い顔”を披露する可能性もある。「プロデューサーには青い目で
いいと言われましたが、目の色は戻します」と語り、トレードマークとも言えるカラーコンタクトレンズは
外す考えだ。
ソースは
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2006/04/01/01.html 会見を終えポーズをとる(左から)上杉謙信役・Gackt、山本勘助役・内野聖陽、武田信玄役・市川亀治郎
大河も終わったな
色物使ってどうする、それ程までに金に困ってるのか?
恋愛とか見たくて大河みるんじゃないよなあ
うちの嫁は喜んでるぞ。
嫁の妹は大河の新撰組に嵌ってたし。
このキャスト、謙信よりも信玄のキャストが気になるな・・・。
勘助に信玄が圧倒されてない?
信玄にはmana様を配置してマリスミゼル復活なのです
GACKT謙信は案外いい感じな気がする
つうか大河の信玄はもういいです、たまには九州や四国でおながいします。
206 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 13:36:43
功名が辻はいずれ土佐へいくから四国ものじゃね?w
北条と今川もお願いします
各板で暴れている上杉信者が痛いな
上杉ファンは自作自演コピペ荒らしでいろんなスレに迷惑かけてるな
>>204 未知数過ぎやしないか?
ま、出番はそんなに多くはないだろうから多少下手糞でもそれほど問題にはならないだろうけど
やっぱ、問題は亀だよなぁ
いい意味で裏切ってくれればいいんだが
211 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 16:22:22
たまには姉小路とかを主役にすればいいのに
まず、姉小路が主人公で、どっかの文芸大賞をとるような作品を書かないと。
三好長慶とかどうだ?
視聴率無視なら可能性も・・・やっぱ、ないな
せいぜい2時間ドラマとしてだろ
でも、三好長慶の人生ってものすごく波乱万丈というかドラマに彩られていて
小説の題材として格好のものだとおもうがなあ。
>>215-216 橋田寿賀子に脚本書かせれば橋田ファンのお年寄りが見てくれるから自然と視聴率も上がる
218 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 01:57:15
>>210 ルックスと精悍な体はパーフェクト
対は史上初のカラコン入れて謙信碧眼でいいと思う
今回の勘助が成功すればサブキャラ路線に突入しそう
竹中半兵衛・黒田官兵衛とか、直江兼続とか、立花道雪・立花宗茂とか、山中鹿助とか、
君主を脇で支えた感じの人たち。
個人的に見たいのは武井夕庵・松井友閑、狩野永徳、武将以外の暮らしぶりが見てみたい。
後は本願寺。
鍋島や立花なら、後々大名にもなるしありそう
つーか、九州大名の大河も観て見たい
大友宗麟ならドラマになったな
ベッキバズーカ炸裂したやつw
見たけど印象がない
鍋島、立花は無理だ。
犬HKが朝鮮出兵で大活躍の奴やるわけねぇ。
それなりに知名度がある島津でさえ滅多にドラマにならないからな
ドラマは関ヶ原の時と幕末の時にちょこっと顔を出すくらいだけだし
おまいら石和の祭に行くのか?
でも秀吉が主人公の大河ってなかったっけ?
228 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/05(水) 21:02:41
竹中直人の秀吉なら見た覚えがある
229 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/05(水) 21:13:25
西田敏行って徳川家関係者にされ易いが(何故徳川家は小太りのイメージなんだろう・・・)
釣りバカ日誌みて、むしろ豊臣秀吉のが似合ってる気がした。
あの調子が良くて口の上手いキャラ、リアル秀吉にかなり近い気がするw
そこで勝新をおすすめしてみる
232 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/05(水) 22:32:34
狸=家康だからじゃね?
猿=秀吉だから岡村か
秀吉は他にも見せ場沢山あるし。朝鮮出兵は最晩年だからなぁ
んじゃ、みんなの中で武田信玄はどういうイメージなの?
236 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 14:12:15
畠山義総のイメージだよな。
リアルの方見ると中井喜一で合っていた感じだけど。
237 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 14:12:22
>>235 なんか、歳くってから、周りにおだてられて、天下取りに意欲みせたけど、
京都へ行く途中で、あぼーんしたオッサーン。
日々、アホ発言を続ける信長ヲタさんは痛いな
239 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 14:32:43
天下取りを狙ってたのかね?
普通に中世的発想から信長包囲網を口実に領土広げようとしただけじゃないの?
もし乾坤一擲の大勝負かけるのなら、朝倉が兵を一時退いただけで取り乱すなんて情けなすぎる
只今、20年前のお値段です的電波が飛び交っております
もうさ、ネタ切れなんだしこのスレ終わったら?
>>237 歳食ってからじゃなきゃ天下争奪戦に参加できそうな勢力築けなかったんだから仕方無いでしょ
243 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 15:36:46
所詮、天下争奪戦に参加する器ではなく、
信長に真っ向勝負挑んでも勝ち目がないので、
信長包囲網を利用して、家康からいくつかの城を取るのが精一杯だったオッサーン。(w
という妄想を、事実だったと思い込みたい信長ヲタ
じゃあ朝倉に負担押し付けず信長に堂々と決戦挑んだらよかったじゃん信玄w
死んだら負け
信長と信玄、両方に言える事
信玄政権末期は、過大な領国負担を強いる軍事行動に嫡男一派粛清と、信虎政権末期をなぞるような展開
中世的大名だった武田氏が近世へと順応するための生みの苦しみを逃れたい重臣豪族層に推戴され、それを振り出しに戻した時点で信玄の一生は決まっていたんだよ
なんだってー
249 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 19:01:24
死なない人間なんていないんだから、全員敗者は確定ってことね
250 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 19:23:55
そうだよ
だから諸行無常・・・・
そんなことはない。信長公も信玄公も我々戦国ファンの胸の中で永遠に生きている
>>229 リアルで家康=小太りだったらしいから。
>>252 どこかにあったっけ?
浅井長政が肥満漢だったことは記録に残っているそうだけど。
徳川家康は150cm前後・120kgだったと推定されているらしい
ググった結果だからソースはなし
>>247 わりかし近世的大名の武田家がダメなら、ばりばりの中世的大名だった織田家は
周辺情勢がすんげー恵まれてるつっても、オワットルはずなんだけどね
120kgって小太りの段階じゃないなw
259 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 22:24:58
信虎の戦略は、信玄が十数年かけた佐久・小県を数年で抑えたことから優れていることは明白だ
信玄の戦略は晩年に修正が成されるまで、機会的に弱者を侵略する効率の悪いものだった
自分を推戴してくれた豪族への遠慮が短期にかける軍役負担を減らす配慮へ動き、それが却って徹底的な支配を欠いて結局長引くという悪循環
これが中世的支配の限界。表向きの制度を糊塗するのではなく、一職支配の確立こそ信玄がまずやるべきだったのだが
残念ながら、それをやっていたらそもそも家督を継げなかったか継げても信虎同様追い出されただろう
はあ?分国法や軍役割当、軍事行動の実施は徹底してるけど?
機会的に弱者を侵略するのは王道、信長も同じ。
信玄が家督を継いでから村上を追い出すまでがおよそ12年
信長が家督を継いで尾張統一まで約8年、美濃を手に入れるまでは約16年
北条もそうだが信玄の不幸は謙信なんて化け物がいたことだろうな。
中世的云々は関係ないよ
だね
隣国の大将が謙信と義治では大分違う
徹底してる割には子飼いの馬場の違反すら罰っせなかったんじゃなかったか?
信玄は過大評価されすぎている
264 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 23:15:23
>>261 甲斐統一は親父がやってくれたんだよな
楽してるのにその程度なんだね
また荒木の話もむしかえすか?
信虎の悪評は後世の作り話だろ
信玄だって「戦争ばかりして信虎と同じだ」という民の怨嗟を妙法寺記が記録している
信玄の負債は勝頼に降りかかった点が信玄個人としてはラッキーだったかね
豪族達の自立性は瓦解に拍車という形になり
譜代・親類衆が勝手したことは戦略の不統一に繋がり
領国疲弊は戦力低下に繋がった
金山については自然の埋蔵量だからどうにもならんが
なんで村上は謙信引き入れてまで徹底抗戦したのかね?
仮に謙信が勝っても武田が上杉に取って代わるだけでは、とか思わなかったんだろうか
信虎が佐久を数年で抑えられたのは、諏訪と和睦して攻勢軸を一本化し後では?
その前の進攻はたいした成果を上げられなかったはず
>>262 自国に倍するような大国に攻め込まれるようなこともなかったけどな
謙信と六角が直接交戦したわけでもないのにどっちが強いかわかるのはゲーム厨かエスパーw
272 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 23:29:27
志賀城の惨劇が国人衆の怒りに火をつけたんじゃね?
上田ヶ原で村上軍の先手をつとめたのは志賀城の縁者だっていうし
見せしめは別に信玄だけがやったわけじゃないが、畏れない相手は怒って徹底抗戦を考えるからな
>>267 郡代を任された親族・譜代に裁量を持たせた統治はしてたが
そのために戦略が不統一になったことはないが?
たしかに後継ぎ問題はあったが長篠の敗北や北条を敵にまわして
2正面やらかしたりは勝頼の戦略性の問題で信玄は関係ないだろ
274 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 23:31:59
>>271 戦績を比較して判断することはできるけどな
>>273 山県と原が「上杉攻撃も考えろ」って勝頼に迫って攻勢兵力削減させて海津に配備しなおしたじゃんか
例によって軍鑑だから実際の信憑性は?だけどな
あんまし歴史には詳しく無いんだけど
信玄自信の強さって言うのかな?
勿論大名だから自ら槍持ってどうとかなんてのほとんど無いと思うんだけど
腕っ節の良さ?ニュアンス的にあってるか分からんが
戦場での指揮とか兵士が強いじゃなくて信玄の強さはどうだったの?
やっぱり体鍛えてたりどっかの流派に弟子入りしたりみたいな感じで強かったのかな?
諏訪、佐久、上伊那に前後して攻め込む併進作戦のことじゃないの?>迷走
総体としては信濃北上だから支配の不徹底やらは糊塗できる
勝頼はまだ当主になったばかりの時期に内藤に誓紙書かされてるからな
信玄が晩年に逆に誓紙を全家臣から取り捲ったのはなんだったのか…
甲州法度を整備したのにね、武田は
織田だと国掟を支配を任せた武将ごとに与える程度だけど…
過去レスに「法度は大名自身を縛る畏れがあるから」みたいな意見があったな
一応名目上全国を支配した秀吉はどうだったっけ?
そのかわりに信玄は高坂に精子を送ってるじゃないか
281 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 00:11:35
内藤とは内藤昌豊のことであって
山県とはおぶまさかげこと山県昌影のことであって
高坂とは高坂昌信のことであって
馬場とは馬場信房のことですか?
>>276 武田家は一応、今の大東流に繋がる武芸の宗家筋
ただ信玄自身が何をどう使えたかはわからない
武道の筋の話は伝説か流派称揚のためかもしれんし
283 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 00:39:31
武芸といえば家康は達人だったな
歳喰ってからも大鉄砲で鳥落としたりと強烈だったらしい
例によって神君神話かもしれんけど
284 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 00:40:30
加藤 段蔵 (かとう だんぞう)
文亀3年(1503年) − 永禄12年(1569年)
通称「鳶加藤」または、「飛び加藤」。永禄年間に活躍したとされる。
信州戸隠山を本拠にする「鳶ノ一族」の忍者。伊賀忍者とする説もあり。
一説に常陸国秋津の生れとある。
幻術や跳躍に優れ、上杉謙信に仕官を求めて春日山城下にやって来て、牛を1頭丸飲みに
する「牛呑の術」や、種から巨大な植物を生やす「生花の術」など、怪しい術を駆使して民衆を
驚かせたという。今で言うところの催眠術の類だと思われる。
その噂が伝わり城内に招かれ、謙信は腕を試そうと、重臣の直江山城守が自宅に所持する
名刀を盗ってくるよう段蔵に申し付けた。山城守の屋敷には、「村雨」という番犬がおり、容易
に侵入が難しいと思われたが、段蔵はあっさりと名刀と一緒に証人として11歳の少女を背負っ
て城に戻ってきた。一時上杉謙信に仕えたとも言われているが、謙信はそのあまりの腕前を
恐れ警戒し、臣下に段蔵を討取るよう命じた。段蔵はその事をいち早く察知して逃亡したという。
その後、武田信玄に引見するが、同じくそのあまりの異能ぶりに魑魅魍魎の類と見なされ、
信玄の命令を受けた馬場信春(または土屋昌次)に討ち取られたという。
一説には、彼は武田信玄の持っていた「古今集」という本を盗もうとして、飯富虎昌の配下の
忍び「突破の熊若」に捕らえられたとも言われている。
信長は刺客集団の前にわざわざ出て行って「オレを殺せるなら殺してみな(プゲラ」とかやった剛の者
平田三位っていう者に兵法習ってたらしいが何流かね?
286 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 01:40:40
>>285 平田三位と関係あるかどうか知らないが、
宮本武蔵の本名は新免だったことは有名だが、
それは、武蔵の祖父が主君からもらった姓で、
それ以前は平田姓だったといわれている。
謙信や信長は陣頭に立って戦ったわけだから
ひ弱とは考えにくいだろう
特に信長は、自身が林美作を討ち取ったりと尾張統一戦から大暴れしてるし
288 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 03:10:07
尾張統一戦や桶狭間じゃ自身が武勇を示した信長>川中島で太刀振るって自身が突撃した謙信>敵が突っ込んできてるのにずっと座りっぱな信玄
289 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 03:14:58
逆に動じる事の無い肝の座りっぷりが光る信玄
動じろよ!
戻ってきた護衛が馬の尻突いてくれなかったらどうするつもりだったんだw
単騎敵陣に殴りこみかすり傷も負わなかった謙信>>
>>天王寺で勇戦して脚を撃たれてしまった信長>>
>>座ったまま、肩を斬られてしまった信玄>>
>>信玄に追いかけられ、思わずうんこしちゃった家康>>
その家康に負けた秀吉・・・・>>秀吉に土下座した政宗>>
その他・・・・ スマソ・・・
空気の読めない動かざる事山の如しを実践する信玄萌え
高坂昌信だったっけ?剣は斬り合いの中で覚えるもので、剣術稽古はそういうことできない平時のもの、みたいに言ってたの
それだと初陣で死にそうだな。
>>276 信玄は病弱の病気持ちで武芸はなにをやらせても駄目な子。
その分、軍略に精通していて親父さえその才能だけは認めていた。
296 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 09:29:19
信玄と謙信、この両雄の一騎討ちは古来より日本人の血を湧かせ、肉を躍らせてきた。
ところが、上杉方の記録である 「上杉家御年譜」 によると、斬り込みをかえた武者は、
実は謙信の影武者、荒井伊豆守長実であり、しかもこの者は一騎討ちを敢行した後、
武田方の剣の達人、土屋平八郎昌次なる者に討ち取られたとあるのだ。
となると、この日、八幡原本陣の信玄は、影武者・逍遥軒信廉であった可能性が高いのだから、
世に名高い一騎討ち、実は影武者同士であったという事にもなりかねないのである。
いずれにせよ、真相は闇の中、いや、霧の中といったところであろうか。
297 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 09:38:56
「上杉家御年譜」ってどうも講談臭がプンプン
するのだが。この資料の信憑性は疑わしいな
298 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 09:42:24
講談的には、本人同士の一騎討ちにしておいた方が面白いと思うのだが。
何故このような、盛り下がるような事を書いたのだろうか、という疑問は残る。
謙信本人が本陣に斬り込んで来たと書いてる資料って武田に無かったっけ?
300 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 10:01:24
上杉家は留守を突くような卑怯なまねはしないってホント?
>>297 信憑性云々いってたらこの頃の史料はどれも疑わしいわけだが
家康は強いよ
新当流の有馬満盛や奥山流剣術の休賀斎に学ぶ
(長篠戦で有名な奥平信昌とは奥山流の兄弟弟子に当たる)
柳生や小野を指南役に取り立てたのも有名
氏真タンも剣術の腕はいいんだよな
でも氏真は統率力とか決断力が…
芸達者なんだけど、剣術も「芸」に過ぎなかったのかも
生き死にを賭けて戦う技じゃなかったんでしょ
個人の武勇なんてあんまり関係ないだろ
宮本武蔵も農民の投石で負傷してたりするし
織田信長と前田利家がアナル友達だったというのはホント?デマ?
武勇に優れるに越したことはないよ
生身で戦ってた時代だし
立花道雪みたいな例外を除いて自身で槍働きできないと部下がついてこないでしょ
308 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 17:20:54
家康はお世辞を含んだとしても武術の評価はかなり高いな
馬、剣、筒、水泳などなど
というか才能無くても10代のころ義元の下で徹底的な英才教育の環境を与えられ
自身の境遇から来る危機感を考えれば人並み以上である可能性は高いがな
309 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 17:34:03
虎はなぜ強いのか?
そりゃあ、爪と牙があるからだよ>熊八っつぁん
>講談的には、本人同士の一騎討ちにしておいた方が面白いと思うのだが。
>何故このような、盛り下がるような事を書いたのだろうか、という疑問は残る。
上杉家御年譜(元禄9年成立)は宇佐美系の記録「北越軍記」「川中島五箇度合戦」を
もとにしたものだが、宇佐美文書の中には御弊川で謙信と信玄が一騎打ちしたと
なっているな(ただし、永禄4年の川中島ではない)。
この宇佐美文書なんだが、紀州徳川藩の徳川頼綱が書かせたのが最近の定説で、
幕府が採用した甲州流軍学に対抗して上杉流軍学を創出したとされている。
つまり、「甲陽軍鑑」を否定するのが目的だったというわけだ。ところが、
その内容は「軍鑑」の記述をなぞりつつ、実在する謙信の感状や書状をもとに
創作されたもので、とても信用のおけるものではない。というか、「軍鑑」に依拠して
ところどころ、「わが上杉家ではそんなことは伝承されてない」という逐条的な批判。
じっさいの構成は「軍鑑」と同じなんだ。で、「上杉家年譜」の謙信に関する記述はこれを
もとに書かれている。
いっぽう、「軍鑑」には信玄と村上信清の一騎打ちもあり、伝承の史実として信玄が
一騎打ちをした根拠が見受けられる。というのも、平成10年に出た「甲陽軍鑑大成」(酒井憲二・国語学者)
によれば、「軍鑑」が高坂昌信(春日源助虎綱)の口述とする傍証が明らかになっているからだ。
室町時代の「和葡辞典」との比較で、「軍鑑」は60%以上が当時の口述表現であること、
甲州の方言が顕著であることなどが明らかになり、年号の間違いや繰り返し(重複・川中島合戦が12回もある?)
は別としても、信頼に足る伝承が含まれているとされることだ。文献史学の学者
の間でも、高坂口伝説が大半を占めつつある現況で、一騎打ち説も見直されつつある。
長文、スマソ。
>>306 本当。
なんでも満座の席で信長がカミングアウトして利家との情事を話したそうだ。
それを聞いた他の武将は利家を羨ましがったそうな。
うむ。
軍鑑を無闇やたらと非難する、偏狭、狭量の輩もおったが
やはり、真実に基づく偉大な書であったな。
やっぱ一騎討ち、あったんじゃね?
信長も桶狭間でみずから槍を取って戦ってるし、
天王寺の戦いじゃ、先頭で戦ったから鉄砲で足を撃たれちゃったんでしょ?
謙信ならやるっしょ? 信玄も受けて立つでしょ。
信玄が太刀を受けた軍配って現存してなかったっけ?
しかし武器を抜きもしなかったのは疑問
信玄が個人武勇に自身がなくたって身を守るために構えぐらいするだろ
>>316 現存しないよ、してたら「一騎打ちの証拠!!」だな。
それよりも、年譜の荒川伊豆守長実という人物が、上杉系の一次史料にない。
謙信が感状を与えた垂水源二郎を荒川に比定する見方もあるらしいんだが、
殺されたんでしょ? 荒川っての。殺された香具師に感状なんか出さんでしょ、ふつう。
319 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 19:19:48
上杉家は魁!!男塾
>>311 甲陽軍監が信憑性のない史料とされていたのは、別に著者が高坂昌信ではなく
別人だった(と思われた)からではなくて、記述の内容がとても他史料と比較
して矛盾誤認だらけだったから。
「軍監の著者はやっぱり高坂だったんだ!」となったところで、内容が信じられる
ようになるわけではない。
>>320 そうじゃないね。軍鑑が江戸初期に編集され、武田に都合よく書かれている点、
また一次史料にはない創作(誤り)が多数含まれていることは明白だが、
それにもかかわらず、伝承史料としての貴重さも含まれている点に注目すべきで
読み手の史料批判の内容が問われるという問題だ。そもそも高坂昌信なる人物名
すら、史実ではない(モデルは春日源助→香坂弾正忠虎綱)わけだからね。
高坂昌信なる人名を君が使ってる段階で、軍鑑の枠内で話をしてるわけだ。
>>321のつづき
「上杉御年譜」をふくめて、上杉系の文書は元禄(川中島合戦から130〜140年後)に成立だが、
「軍鑑」は元和(川中島から60年後)とされている(現存する写本でも明暦)。
川中島の一騎討ちがなかった説(年譜)、あったが御弊川の中だった説(五箇度合戦)という
一世紀も後の編纂書が云々されることのほうが怪しいとは思わないか?
若年時は武田に仕えていた小幡が甲斐の当時の口述表現知っててもおかしくないと思うが
はっきりいえば甲州軍学の理想論から逆算して史実を捻じ曲げた話ばっかでしょ
他に良質の史料が少ないから仕方なく持ち出されてるだけ
信長公記みたいな一級史料(こちらも写本で差異があるという問題があるんだが)があれば相手にされない程度
324 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 20:36:14
しかし甫庵信長記のほうが有名というのが現実
小幡景憲は大坂の陣で豊臣に潜り込んでスパイ働いた奴
只の奸智持ちってイメージが…
一応小野派一刀流皆伝の猛者でもあったそうだが
>>323 それを云ってしまえば、川中島合戦もどんなものだったかわからなくなるし、
高坂昌信(軍鑑にしか出てこないぞ)も居なくなっちゃうわけだが・・・。
それだけじゃない、信虎追放も義信が自殺した顛末や勝頼の来歴も・・・・
武田氏は歴史からほぼ消滅だな・・・
>>326 日記や公式文書からでもある程度歴史を辿れるだろ
春日虎綱って信野暮で記載するようになればいいとおもうよ
一番長く名乗った+晩年の名乗りだし
>小幡景憲(爺さんが川中島に出陣した)
こいつは編集しただけだ。
聞き取りは「甲陽軍鑑末書」(同時期成立)に春日惣次郎・大蔵彦十郎
とされている。
>日記や公式文書からでもある程度歴史を辿れるだろ
無理だな。「定本・武田信玄」とか読んでみ。
武田専門の学者ですら「軍鑑」抜きに主要なエピソードの検証は不可能だ。
ここのスレタイも虚しく響くな(上洛説は軍鑑にしかない)
妙法寺記なんかがあるんじゃないの?>武田家史料
>>329 それが捏造なんじゃないの?
本当に同時代の人間のリアルタイムの記録にしては、他の史料(長篠戦の勝頼書状とか。上杉氏との同盟のやりとりの書状とか)と齟齬がありすぎるで
状況によっては上洛というか織田との戦いも考えたと思うが
現実的には徳川領の侵食だろうな
>>333 「高伯済記」もあるけど、外見的なことしかわからん。
メモみたいなもんだから、妙法寺記はもっと記述が少ない。
こんにちのわれわれが信玄の人物像や武田氏内部のエピソード
人間関係などを知ってるのは、大半が「軍鑑」によるものだ。
「妙法寺記」の記述によれば、川中島合戦も「合戦があって、小山田の兵が横入れした」
という伝聞だけ。
337 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 21:04:40
用心深い信玄のことだから、いきなり上洛ってのは無いと思うよ。
上洛する気は更々無かったと思う。
甲陽軍艦は当時を知るには貴重な資料だが上杉関連は間違いが多いんだよな。
宇佐美が対抗して出した気持ちも分からないでもない。
>>338 「群書解題」によれば、宇佐美定祐(本名大関・紀州藩士→上杉家仕官)
といっしょに上杉年譜を編纂したのが吉良上野介義仲(忠臣蔵の仇役)らしいね。
上洛の準備段階の前半戦でしょ、せいぜい
徳川の完全屈服と三河領国化がなされない限り、いくら腹背に敵がいるとはいえ最大勢力の織田と正面で喧嘩できるわけない
意味分からんな、武田と織田に大した国力差が無いうえ
信長は四方で交戦中、正面から戦っても武田有利な情勢だろ
しかもあまり遠くない将来の、盟友徳川敗北が見えてるから
信玄が死去しなければ、何かしら打開せにゃならんし。
だよな。なんで朝倉の撤退に怒り狂ったのやら。
徳川攻撃がより最善でしょ、家康がぽしゃれば信長必負だかんね
だよな。織田に余裕があるならなんで3000しか援軍送らなかったのやら。
>>345 時間の問題じゃね?
過去スレで時系列並べて信長に一報が入ってから援軍の先陣発するのにそう余裕がなかったと判明
元々、佐久間や平手・水野といった織田家上層部や有力豪族が将の部隊にしては、各人の兵が小規模
動員が間にあわなかったんだろ
347 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 06:16:28
俺には信玄の脳裏がわかる気がする
信長が怖かったんだよ
信長は稲生の戦いから劣勢を一度ならず跳ね返し、またたく間に日本中央を席巻した男
自身の健康不安もある信玄としては、執拗なまでに優位を取りたかった
だから朝倉が引いただけで狼狽したんだ
信玄が信長を恐れるわけない、というのはゲーム的な後世のイメージでしかない
348 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 07:41:53
>>347 信玄厨乙
一見織田厨臭いが成り済ました信玄厨なのがbarebare
349 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 10:30:30
信玄は自分よりも巨大な織田とは戦う気はなかっただろ。
上手く徳川を削りたかっただけ。上洛なんてただの妄想
>>342 正面きるも何も信長自体武田の前面にでてきてないが?
>>346 三方ヶ原から信玄撤退まで二ヶ月あるが信長は岐阜でお篭もりだったな
いったいどれだけ時間かかるんだよw
>>318 うそ話かと思って調べてみたら本当の話だった(笑)
まあ、そういう時代だったんだね
352 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 13:02:44
しかし信玄と信長を比べる事自体がおかしいよな。
結局は滅ぼされたわけじゃん?道端の石ころ程度の存在じゃん?
朝倉と同程度。何故上洛できた!とか議論に出るのか理解できない。
武田厨は頭おかしいんとちゃう?
まともな武田ファンなら無理だと理解できそうだが
353 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 13:08:47
>>350 まあ、信長は、信玄が尾張まで攻めてこれないと読みきっていたんだろうなぁ。
―徳川が健在なかぎり。
それで、家康には、野戦をしないで篭城しなさいと言いつけて、
送った援軍3000も、篭城するなら十分な兵数。
信玄は浜松城攻める余裕ないし、徳川領を少し削って引き上げると読みきっていたのだろう。
それにしても、信玄公、半年もかけて、徳川の城をいくつ落としたんだよ?(プゲラ
最近この手の煽りが増えたなあ
話題もなくなって閑散して末期になってきたかな。
355 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 13:17:34
>>353 持久戦で十分勝つと踏んでいたんだろうね。
持久力なら織田と武田じゃ比べ物にならないからね。
織田は金持ち
武田は豪農
米だけあっても意味はないわな
>>354 枯れ木も山の賑わい
かんさんとしてるよりはいいだろう
>しかし信玄と信長を比べる事自体がおかしいよな。
>結局は滅ぼされたわけじゃん?道端の石ころ程度の存在じゃん?
織田嫡流も滅亡したわけだから、路傍の石ころだけどな。
257 名無しさん@恐縮です sage New! 2006/04/08(土) 12:52:28 ID:7Y5in47o0
甲府メンバー発表
GK 1 武田勝頼
DF 32 穴山梅雪
DF 20 小山田信茂
DF 2 跡部勝資
DF 4 長坂長閑斎
DF 31 土屋昌恒
MF 8 秋山信友
MF 7 初鹿野昌次
FW 11 原 昌胤
FW 16 保科正俊
FW 18 仁科盛信
控え
GK 21 武田信廉
DF 27 駒井昌直
MF 6 諏訪頼忠
MF 10 曽根昌世
MF 25 木曽義昌
FW 14 一条信龍
FW 23 阿部勝宝
>>353 浜松城を攻めずとも家康はのこのこ吉田へ出向いてるけどな
>それにしても、信玄公、半年もかけて、徳川の城をいくつ落としたんだよ?(プゲラ
少なくとも50は奪ってるよw
>>355 それは妄想、というか無知な発想
いつも虚栄たっぷりの的外れ信長ヲタ乙
上洛しようとしてたとしてさ、どういうルートでどれぐらいの軍勢率いてどれぐらいの時間かけて上洛できるんだ?
攻撃の側は平和を求めてるよ
相手が無抵抗のうちに全土を占領して上洛できれば言うことないからね。
戦が起こる場所、時期は攻められる側次第だよ
ツラレナイゾー
365 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 18:02:46
本日、甲府は信玄公祭り
騎馬隊真似て鎧甲冑身につけた大人どもが通りを練り歩き
今の山梨はアホの巣窟と改めて笑える日です
軍鑑の幻の伊勢上陸作戦が再来する悪寒
>少なくとも50は奪ってるよw
そんな餌で(´(ェ)`)
結局上洛に関してはもう話題がなー
知識ある人間理解力ある人間には上洛は不可能ではないにしても現実的に難しいとわかっているし
50の城でふと思ったんだが
信虎は佐久制圧時に僅かな間に30以上の城を落としたって武功話があったよね?
でも一郡になんでそんなに城が集中してたんだろ?
砦や屋敷程度でも城に数えたのかな?
371 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 20:19:25
>>365 なのに甲府は新潟に0−4で惨敗した悲しい日
武田家縁の地らしいですね☆
372 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 21:34:05
>>359 >少なくとも50は奪ってるよw
その50の城の名前を挙げてくれや。
二俣城に2ヶ月、野田城に1ヶ月かかってるのだが(笑
373 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 22:07:51
武田は屋敷でも神社でも城としてカウントするから50でも間違いでもないんじゃない?
武田の城なんて屋敷に掘りがあるだけのショボイ城もどきばかりだもんな。
374 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 22:13:20
50城=50戸
武田語の城でいうところの50城か
376 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 22:23:22
甲州流は基本的に屋根があって掘りがあれば城として位置づけるから
377 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 22:29:46
民家の庭にぼっとん便所があればぎりぎり城かな
378 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 22:35:04
それは流石に言い過ぎ
>>372-375 城郭体系などを見りゃ武田方へ渡った城が50じゃきかないのは明らかだろうに
ま、二俣城と野田城しか知らん奴に言っても無駄っぽいけどw
あと、二俣城は1ヶ月前後で落城な
いくつ小さな城をいくつ落としたかなど関係あるまい
家康がこもる城を落とせるかどうかが重要だろ
50の城の名前あげればいいだけのことなのに
あげてしまうと半分が武家屋敷になってしまうのですよ
二俣城を落す前に落城させた城はいくつかあるが
どの程度の規模なんだろね
そして家康はいつ取り戻したんだろう
信玄が落とした時のほかは記録に残らない程度の城か?
だから50の城なんて釣りだろ
当時の城郭体系から考えれば、といいつつ具体的説明ゼロだもん
あるいは武田厨が自分のでまかせ認めたくないから足掻いてるだけかもしれんがw
勝頼が東美濃を攻めたときも、またたくまに十八城を落としたってあるけどねえ。
387 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 11:03:37
>>384 >あるいは武田厨が自分のでまかせ認めたくないから足掻いてるだけかもしれんがw
そんな痛いとこを付くなよw
379が涙目になってるだろ?
>>259 亀レスだけど、
>信虎の戦略は、信玄が十数年かけた佐久・小県を数年で抑えたことから優れていることは明白だ
何これ?
佐久小県の信虎が抑えた領域なんて、信玄は家督を奪った後2年で取り返していますよ?
その前年には諏訪も制圧しているし、あっという間に信虎時代の最大領域なんて超えてしまっています。
だいたい、信虎が追放されたのだって彼の戦略があまりにも稚拙で、
一向に領土拡大が出来なかったからだとも言えるのに、
まかり間違っても信虎の戦略が優れていたなどとはありません。
389 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 11:44:49
>>388 信虎が稚拙で信玄が優れてる?
一方的に同盟を破棄して親戚を皆殺しにして反感買ったり
奴隷狩りや虐殺、弾圧、重税で反乱を作った信玄が優れている?
信勝に後を継がせるために勝頼を代理当主にした時点で武田の破滅は決定的だった。
信虎以上とは思えないが?
>>389 少なくとも領土を拡大することについてはね。
信虎の基本的な対外戦略は扇谷上杉と結んで北条と戦うというもの、
ところがそれと平行して諏訪に攻め込んで撃退されたりしている。
その後佐久方面へ進出を目指したが、それも今川とは義元が家督を継いだのをきっかけに同盟を結んだが、
北条とは敵対したままで後方が安定していないまま行っている。
不用意な戦線の拡大で、あまりにも戦略がちぐはぐ過ぎる。
まあ、信虎の場合甲斐統一までのいきさつがあるので、もともと北条今川とは敵対的だったわけだが、
数度の戦いで相手が手ごわいとわかったなら、和睦の道を模索してみるべきだった。
信玄が今川との同盟に加えて北条との関係改善を図って、信濃侵攻に目標を一本化したのとは好対照。
もっとも、十数年に及ぶ信虎の不毛な戦略を見ていれば、誰でも思いついておかしくはないことだけど。
もちろん、後継者に関するゴタゴタは武田家に深刻な問題を与えたし、
このことについては信玄の責任を問わないわけにはいかないが、
それだって、自分自身がが放逐されてしまった信虎に比べれば、
まだしも領主としてましだといえるだろう。
393 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 12:29:50
>>391 北信濃だけでなく直江津港まで狙い謙信と不毛に何年も無駄な激戦を繰り広げた
信玄が信虎と大違いと思えないが?
今川領を狙い北条とまで争ったり一本化できてないよな?
氏康死ななければ武田はあの時点で確実に滅んだだろ。
むしろ信玄の戦略を責めるなら、初期の信濃侵攻時のものよりも、
>>259が修正が成されたと言っている晩年の三国同盟破棄後の、
駿河侵攻あたりのほうが問題があったのではないかと思う。
信長の急成長や自身の年齢もあって焦りが出てしまったのではないだろうか。
>信玄は家督を奪った後2年で取り返していますよ
え?かなり縺れてるじゃん
戸石崩れが起こった時期には一旦撃破した小笠原氏に平瀬で篭られてるし
小諸まで村上氏が攻撃してる
佐久進攻だけでも、3次に渡って攻撃して足掛け4年かかってるじゃん
>>393 上杉との戦いは北条家との戦いとは状況が異なる。
北条家と争っていた時期は、他方向に信濃という容易に侵攻できる方面があったのだから、
北条家と関係改善してそちらに全戦力をつぎ込むという戦略が成り立つが、
上杉と争っていた時期は既にそのような容易に獲得できる地域がなかったのだから、
現行の敵と戦う方が妥当。上杉とまで和睦しては拡大先がなくなってしまう。
また、同じ手ごわい敵といっても、信虎時代には北条家から一遍の領土も奪えなかったが、
上杉との対立では、北信濃や上野といった係争地で領土の拡大に成功しているのも大きな違い。
駿河侵攻については前述の通り確かに問題があったと思う。
今川も弱者に入れていいと思うw
他の方角…
美濃とか、長野と争った上野方面とかは?
弱者侵略っていうけど、極端に日和見に兵を出すわけじゃなければ自分達より小さい相手を攻めるのは普通でしょ
問題は攻め取ったはずなのに反乱起こしてはまた支配権がすり抜けて出兵余儀なくされるっていう信濃攻略戦の前半面じゃない?
>>395 信虎が押えた領域はと言っているでしょう?
まず、信虎は佐久・小県の全てを押えていたわけではない。
信虎が侵攻したのはその一部に過ぎず、それも村上・諏訪との共同出兵だったので、
獲得地域も三分された。これが信虎の治世で唯一の甲斐国外の領土獲得。
で、その地域が信虎追放のゴタゴタの間に独立してしまったが、2年後には再制圧したということ。
>>398 美濃はどう考えても容易に攻め込める方面ではないし、
上野進出は結局上杉と対立するでしょう。史実同様に。
>>399 大井貞清反乱でその部分すら最確保のため出陣を余儀なくされてますが…
>>398>>401 攻め取ったあとすんなり領土化出来ないなんてどこの家でもあることでしょう。
いずれにしろ、「攻め取る」こと自体めったに出来ない信虎よりは、
はるかにましだったとは言える。
というか、信虎の代では大井貞清までは制圧していないでしょう。
信虎が嫌われたのは、躑躅ヶ先館に家臣商人を強制的に移住させたりしたせいだと思う
一族間の抗争や外部勢力からの介入で甲斐統一にえらい苦労した信虎としては、大名権力強化に過激になったんだろうな
牛馬まで信虎憎む、なんてどうやってそももそも憎んだとわかったのやらw
大井貞清は大井高台の子だろ
どこの家にもあることだけど
信玄の場合、それが全域に渡って展開されちゃったんだよな
すんなりいったように見える諏訪支配ですら、頼重謀殺のダシに使った高遠氏によって一度また崩壊してるし
407 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 13:04:54
信虎は十四歳で家督を継ぎ、いきなり伯父に攻撃されるなど苦闘続き
これが性格を強引なものにしちゃったのかね?
甲斐一国を最初から得てスタートした信玄とはやっぱり違うでしょ
むしろ信長に近いかね
信虎が降伏させたのは大井貞隆。
彼は前述のように、信虎追放の際に反乱を起こしたが、
1542年には再制圧されて捕らえられ甲斐に護送されている。
大井貞清との戦いはその後1546年のこと、
つまり、貞清との戦いは信虎時代の領土を確保する為のものではなく、
さらなる領土拡大を狙っての作戦だった。
>>406 崩壊ってほど大げさなものじゃあないと思うが。
敵対勢力に攻め込まれただけでしょう、
それこそ当時の前線にあたる地域なのだから、そのくらいのことは普通に起きるだろう。
村上義清・諏訪頼重らと連合して攻めたのは海野氏じゃなかったか?
要するに、だ。
何度も制圧→反乱→再制圧というのが悪循環なのは誰にでもわかる
ではそれをどう断ち切るか
圧倒的兵力による根こそぎの抵抗力殲滅か、あるいは在地の有力者を内部に完全に取り込むか
おおまかに考えてこの二つぐらいしかないと思うがどうよ?
>>409 大井を攻めたときともに出兵したのは諏訪氏だけだったかな?
ちょっとごっちゃになってしまったかもしれない。
>>410 信玄はその両方を行って、結果的に領土を5〜6倍にした。
戦国最強とかいうほどの大げさなものではないが、
十分に優秀な戦国大名だったといえる。
まあ、信虎とは家督相続の状況が全く異なるので、
安易に優劣を比べたのは私もよくなかったと思うが、
少なくとも信虎が制圧した地域の再制圧に十数年もかけたというのは、
明らかに事実と異なるので、それは信玄に対する誤った認識となってしまう。
信玄初期は両職以下重臣の代表者に過ぎない説があったよな
一度兵を入れたら、領国体制が再度崩壊してもやっぱり制圧したことになる?
それは贔屓の引き倒しでは…
もっとも信虎が北佐久郡まで制圧して保持した時期は短い
もし信虎がさらなる北進を指向して別の地域にかかったら、やっぱり離反の繰り返しに悩まされていた可能性は大
その気になれば武田氏以外にも国人の後ろ盾になりそうな勢力は幾つもあったからね
甲斐を視点に見た場合、信濃東部から駿河に繋がる当時の通商ルートを抑えるか
もしくは北関東へ行くルートを抑えるかは必須
単純に国人層が混在してるから北へって話じゃないと思うよ
直接今川氏や北条氏を滅ぼすのが勢力差からほぼ不可能である以上は北進は自然な流れ
「信虎の甲斐国外への拡大」と「信玄の甲斐国外への拡大」を比べるなら、
そりゃあ信玄の方が優れているに決まっている。
甲斐国外の領土としては、
信虎はその政権の最晩年に佐久のごく一部を領土にしただけだが、
信玄は信濃のほぼ全域、西上野、駿河、遠江・三河の一部を領土にしたわけだから。
しかし、これは比べる前提が間違っている。
両者を比べるならそれぞれの政権初期から、
つまり「信虎の甲斐統一の戦い」と「信玄の信濃侵攻作戦」を比べるべきだ。
この比較なら両者に明白な優劣があったとは思えない。
ただし、政権中期以降の比較では、
信玄は長尾景虎との交戦以後も木曽地域、北信、西上野と拡速度は低下したが、
徐々に拡大の傾向を維持している。
それに対して信虎は甲斐統一の前後から甲斐国外に出兵しているが、
領土の拡大は政権最末期の佐久地域に対するもののみで、明らかに停滞している。
そこら辺まで考えるなら、
総合的にみて戦略的にはやはり信玄の方が優れていた、ただしそれほど圧倒的ではない。
というあたりがこの親子に対しての妥当な評価ではあるまいか。
>>414 いつの話のこと?
高遠が諏訪を攻めたときのことなら、
別に領国体制崩壊なんてことにはなっていないと思うが?
418 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 13:55:27
ん?最初から甲斐の兵力を全て使えた信玄と
若年で家督ついで同等かそれ以上に威勢を振るった伯父筋や小山田氏と対峙せざるを得なかった信虎が優劣つけがたい?
なんかねもう…
>>418 同等かそれ以上の威勢だったなんて根拠あるの?
>>419 甲斐最大国人の小山田氏は当時信恵
信虎家督相続の際若年が祟ったか板垣・飯富・甘利・駒井らは従わず
この情勢下で信恵を撃破することにより板垣らを従え小山田を外交と婚姻で取り込んだ
信玄の初期の苦労の比ではない
大井や今井なんかは諏訪やら今川やらを後ろ盾に信虎を攻撃したからな
躑躅ヶ崎舘も焼き払われたことあったし…
信虎の苦労も分かるが、同じ状況で信玄ならもっと素早く上手くまとめ挙げていたのでは?
と言いたいわけだが。
>>422 それこそ希望的観測ではないかね?
信玄は圧倒的劣勢の兵力で大兵を打ち破ったことはないし
戦勝も有力国人の勇猛さがあってこそだよ
信虎の苦労は千七百の敵を七百の兵で撃破しなければならなかった信長初期に匹敵するかな
甲斐源氏嫡流というネームバリューは一応あったから、毛利よりはまだ楽かもしれんが
>>423 そもそも兵を用いず勝つのが信玄なのだが。
調略や謀略でなんとでもなると思うのだが?
今川の大軍とかも何度か破っているからなあ。
多分甲斐統一すらしていなかった信虎軍よりも、
当然今川軍のほうが数は多かっただろうと思われるから、
戦術的には確かに信虎は優れていたんだろう。
ところが、甲斐を統一した後はその強さが領土の拡大に結びつかない。
そこが信虎の限界。
>>425 兵を用いず勝つっていうのはそれこそ後付けのイメージじゃないかね?
兵だしまくり合戦しまくりじゃんか
信虎+信玄以上の業績を一代で打ち立てた信長公最強、とヲタ臭いことを言ってみる
信虎は甲斐一国の人物であって天下をとれる人物ではないな
>>429 そりゃ天下人に駈けあがれたのは長い戦国時代でも秀吉だけだから
その秀吉も一代で崩れ、徳川が取って代るし
追放したことで甲斐統一戦の遺恨や、躑躅ヶ崎を中心とする領国整備にともなう摩擦の恨みを信虎が一手に引き受けてくれたのも信玄には幸運だったな
板垣あたりが狙ってやってたのなら大したものだ
432 :
388:2006/04/09(日) 14:27:33
書き込みが増えてちょっと混乱してしまいそうなので、整理しとくけど。
とりあえず、私がもっとも言いたいのは、
信虎が制した佐久・小県の領域を信玄が再度制するのに十数年もかかった、
などというのは明らかな誤りである。2年後には取り返して、領土も拡大している。ということ。
で
>>388の書き込みをした後、当主になったときの状況の違いなどもあるから、
一概に信玄の方が優れていたと言うかのような言い方はよくなかったと思いなおして、
そのことは
>>412で認めている。今はすべてにおいて信玄>信虎というようなことは言いません。
しかし、甲斐国外への侵攻の戦略としては、
信虎のそれよりも信玄のそれの方が明らかに優れていたとは思う。
もちろん、信虎の失敗を考慮して戦略を立てることが出来たのだから、
ある意味当然とは言えるわけだけど。
信玄は曽我五郎(仇討ちで有名)の生まれ変わりという伝説がある
正直、どこから出た話かはわかんねーけど
で、信玄の戦略の上手下手がどう上洛に影響するんだ?
どとらかというと、信虎の場合は、
身内の反乱にしろ、甲斐守護に従わない国人領主にしろ、今川の侵攻にしろ、
その前半生はどちらかと言うと受身の立場の逆境であったと言える。
それらに対しては信虎は確かに見事に対処したが、
それらが一段落したあと、
自身で戦略を練って打って出るというところでは、
どうも上手くいかなくなってしまった。
>>428ではないがその両方が出来た信長は、
確かに飛びぬけて優れていたのだという気もする。
優秀でも討ち取られてはな。
さしずめ今川義元の強化版といったところか
討ち取られた=雑魚って考えは織田厨な証拠だなw
>>435 信秀の業績を家督相続でフイにし、斉藤竜興、六角義治、朝倉義景等の暗愚な当主や
三好長慶死後の混乱でタガの緩みまくった大名を相手にできる類稀な幸運に恵まれて
勢力を拡大したものの、最期光秀に謀反起こされて横死した信長は
他の著名な大名より優れていたとは言えんでしょ、劣っていたとは言わないけど。
>>438 信長が優れていたと言えないのならば信玄なんかは下の下ですな
440 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 16:51:52
信虎の業績を信虎追放でフイにし、諏訪、小笠原、村上等の暗愚な当主や
今川義元死後の混乱でタガの緩みまくった大名を相手にできる類稀な幸運に恵まれて
勢力を拡大したものの、最期は勝つ見込みの無い上洛行動を起こし尻拭いを勝頼に
やらせた信玄は他の著名な大名より優れていたとは言えんでしょ、劣っていたとは言えるけど。
441 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 17:00:46
顔を真っ赤にして織田厨が反論しております
442 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 17:09:01
あらら。自分の論法を逆用されたらあっさり反論を放棄するとはw
涙目乙です!
本当は誰が優秀だったかなんてわからない
例えば朝倉と村上は対戦していないのだから、どっちが本当の意味で手強かったかは不明
客観的にわかるのは、国力や基盤の強さぐらいじゃないの?
月に一回は
>>438のようなのが沸いてくるな
結局同じ事を言われることが分かってないのかなあ・・・?
それが厨房たる由縁かもしれないが、少しくらい学習能力が欲しいところ
以降放置で
>>440 出来の悪いオウム返しですねw
>>443 それはいくらなんでも随分な極論でしょ、ある程度は分かる。
義清や業正は当事者以外の評で戦上手といわれているし
小笠原勢も軍鑑で戦上手とされてる。
それに対して義景、義治は朝倉、六角系の軍記物でもボロクソだし
竜興や三好の連中は信長公記で無能、雑魚扱い。
どっちが本当の意味で手強かったかは明白
>出来の悪いオウム返しですねw
その鸚鵡返しに言うに事欠かれてもねぇ(^∀^)
そりゃ大権現様が負けた相手だから弱いわけにいかないだろうよ
>>445 所詮、そういう評判すら結果論の極致だろ
周りが雑魚なら中ぐらいでも強豪扱い
そんなもんだ
よくくだらない断定できるって感心するより呆れるよ
449 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 17:31:45
豚は織田を格下に見るのが得意なんですね
結局織田厨はまともな論理的な反論ができませんね
罵りだけで
451 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 17:33:28
武田は織田に徹底的に滅ぼされた。
信玄が生きていれば・・・・が頼みの綱 プ(ゲラ
>>445 出来の悪いオウム返しかも知れないが、全部事実だよな?
信玄が甲斐一国の兵力を保有という優位からスタートしたのに、それを何度も撃退した村上は強いだろう
篭城ならともかく、自分達より優れた国力兵力を持つ相手を正面野戦で撃退とは並大抵のことじゃない
信玄厨(極右)のよくある論理展開三段
・織田は雑魚しか相手していない!
・織田は立地条件が良すぎた!
・信玄公が生きていれば織田家は滅びていた!
あなたは何回目にしましたか?
信玄が桶狭間で勝てるとは、とても思えない…
>>453 信玄があまりにも戦べただったから〜
というのも成り立つ
>>453 相対的に考えると、甲斐一国の兵力保有という優位にスタートしたのに、
それを何度も撃退された信玄は弱いだろう。
篭城ならともかく、自分達より少ない国力兵力を持つ相手を正面野戦で撃退されるとは並大抵のことじゃない
>>458 全部事実かどうか聞いているのだが?(ニヤニヤ)
>>456 成り立ちません、謙信が「村上は戦上手」と評しているからね
残念〜
440 :無名武将@お腹せっぷく :2006/04/09(日) 16:51:52
信虎の業績を信虎追放でフイにし、諏訪、小笠原、村上等の暗愚な当主や
今川義元死後の混乱でタガの緩みまくった大名を相手にできる類稀な幸運に恵まれて
勢力を拡大したものの、最期は勝つ見込みの無い上洛行動を起こし尻拭いを勝頼に
やらせた信玄は他の著名な大名より優れていたとは言えんでしょ、劣っていたとは言えるけど。
462 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 17:44:56
謙信の評価が絶対なら「勝頼は信玄に勝るとも劣らぬ名将」
>>459 他に反論しようがないとはいえ頭痛い人だなw
(諏訪)、小笠原、村上を暗愚と評価している同時代人なんていねー
その勝頼をけちょんけちょんにした信長は最強でFA
465 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 17:46:16
440 :無名武将@お腹せっぷく :2006/04/09(日) 16:51:52
信虎の業績を信虎追放でフイにし、諏訪、小笠原、村上等の暗愚な当主や
今川義元死後の混乱でタガの緩みまくった大名を相手にできる類稀な幸運に恵まれて
勢力を拡大したものの、最期は勝つ見込みの無い上洛行動を起こし尻拭いを勝頼に
やらせた信玄は他の著名な大名より優れていたとは言えんでしょ、劣っていたとは言えるけど。
w
一人の評価が絶対の評価
すげー痛いw
勝頼は名将だ
>>463 ハゲワロスwwwwwwwwwwwwwwwww
つまり義清と信玄の国力が互角だったら信玄は義清に勝てなかった…いや、負けていたというのが信玄側主張かね?
織田厨がくるしんでおりますw
そういや美濃のマムシも信長を評価してたな
朝倉のじいさんも信長を高く買ってたし
>>469 義清が美濃の国主だったら、信長は平凡な事跡で終わっていただろうね
信玄厨右派の騎馬武者突撃!
みな続け!
信玄が尾張に居たら今川に踏み潰されるか
今川配下の小豪族
で、かわりに信濃に竜興おいてみると信玄は甲斐一国の田舎大名で人生を終わると
だから実際に互角の条件下で力量比べもしてない武将の差異がなぜわかると
我田引水丸わかりだから痛すぎる
謙信・氏康・家康に勝利した信玄公が弱いわけがない。
織田はどうかな?
義竜に負け、鈴木に負け、信玄公の上洛にびびり、謙信にも負け
最期は光秀の謀反でアボーン
テラワロス
>>476 当時の人間が全て、力量の差異が分からない人々だとすればその通り
自分の論法を逆用されると黙るか煽り一辺倒しかなくなる信玄厨乙です!
迂闊な馬鹿言うから( ´,_ゝ`)
480 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 17:58:33
440 :無名武将@お腹せっぷく :2006/04/09(日) 16:51:52
信虎の業績を信虎追放でフイにし、諏訪、小笠原、村上等の暗愚な当主や
今川義元死後の混乱でタガの緩みまくった大名を相手にできる類稀な幸運に恵まれて
勢力を拡大したものの、最期は勝つ見込みの無い上洛行動を起こし尻拭いを勝頼に
やらせた信玄は他の著名な大名より優れていたとは言えんでしょ、劣っていたとは言えるけど。
481 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 17:59:05
本人は逆用したつもりのようですw
信玄厨論殺法その1
雑魚・凡愚などの記述がない=優れた人材・大名!
483 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 18:00:50
【貴方の武田厨度チェック☆】
以下の問題に○×でお答え下さい
1.信玄が死去しなければ上洛成功!天下統一!・・・・していた。
2.織田は雑魚に勝っただけの軟弱大名である
3.武田は無敗である
4.天下人の家康に勝った武田には 武田>>>>徳川 の図式が成り立つ。
5.川中島は疑う事なく武田の完勝である
6.信玄は領民を思う名政治家である
7.武田は奴隷狩りなどしていない
8.虐殺もしていない
9.信玄公ならホモられていい。むしろ望む
10.信長は立地条件に恵まれていただけで信玄よりも遥かに格下だ
0〜3 偽者め!!氏ね!!
4〜6 修行が足りん!!毎晩信玄公の肖像画に土下座せよ!!
7〜9 その程度か?貴様に武田厨を名乗る資格などない!!!上杉厨め!!去れ!!!
10 それでこそ武田厨よ。ともにがんばろうぞ
>>482 これも加えてけれ
信玄厨論殺法その2
謙信褒めれば一人前
>>483 ソースは軍艦
それ以外認めないも入れるといいかも
悔しさのあまり織田厨がファビョっております
織田厨は論理的な反論はできないんだね
488 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 18:06:10
483は的を射てるだけに反論できんorz
つかなんでこんな急加速したんだ
490 :
440:2006/04/09(日) 18:07:47
本日も織田厨が大漁でした
491 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 18:08:52
>>489 神信玄の偉業を論破されてキレた武田厨がファビョってるから
492 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 18:09:34
>>489 織田厨が織田の惨めさを目に辺りにてファビョってるから
428 :無名武将@お腹せっぷく :2006/04/09(日) 14:18:34
信虎+信玄以上の業績を一代で打ち立てた信長公最強、とヲタ臭いことを言ってみる
この辺が気に入らなかったからアラシ始めたんだろう。
くだらん、信玄厨は本当に当時の状況で上洛出来ると思っているのか?
信玄が長命だったらじっくり徳川滅ぼすだろ
だいたい「一気に上洛だ」と考えていたのなら信玄は馬鹿だ
対徳川戦を織田に邪魔されないよう浅井、朝倉、近畿勢力に信長を足止め
してほしいだけだ、そのための戦役だ
スレタイの2万5千で上洛は不可能
と織田厨が必死に何か申しておりますが?
>>494 バカだなー
だったら岩村侵攻なんてしないよ
440 :無名武将@お腹せっぷく :2006/04/09(日) 16:51:52
信虎の業績を信虎追放でフイにし、諏訪、小笠原、村上等の暗愚な当主や
今川義元死後の混乱でタガの緩みまくった大名を相手にできる類稀な幸運に恵まれて
勢力を拡大したものの、最期は勝つ見込みの無い上洛行動を起こし尻拭いを勝頼に
やらせた信玄は他の著名な大名より優れていたとは言えんでしょ、劣っていたとは言えるけど。
極右じゃない信玄厨だが
一気は無理でも
じっくりいけばかなり可能性があると思う
畿内の包囲網がどれだけ織田を足止めできるか
によると思う
決戦になればどちらが勝つかは分からないなー
兵力的には覆せる兵力ではあるし
結局、尾張三河国境あたりで決戦
そのときに徳川が粘っていたら織田有利
徳川が滅ぶもしくは武田方だったら武田有利
その結果織田撃破できれば信玄は上洛可能
よってこのスレッドは本日にて終了いたしました。
504 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 19:22:11
>>494 「明日は、瀬田に旗をたてよ」 と、遺言した信玄は、
「一気に上洛だ」と考えていたのだろう?
その話を信じているの?
>>504 その話が仮に真実だとしたら死期がせまっていて錯乱していただけだろう
このスレは信玄が長命だったらというIFスレなので
健康に不安が無いなら慎重に行動しただろう
それが信玄が名将たる所以だ
このスレは信玄が長命だったらというIFスレなので
えーーーーーーーー
508 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 19:54:56
どう考えてもIFスレです。
長生きじゃないと史実どうりで終了です。
>>507 そういう側面も確かにあるだろう。
それよりももっと以前にさかのぼって、ああすればいいとか、
こうならよかったとか言い合うこともあるけど。
そうだな、死期が延びても健康体で無い限りは遅延は続くだろうな…
もし健康なら違う戦略とった可能性もあるし
>>386 東美濃の18城はまだ名前を挙げられるんだが
50の城は?
>>388 >佐久小県の信虎が抑えた領域なんて、信玄は家督を奪った後2年で取り返していますよ?
これは同意だが、後半はあまり同意できず
信玄も初期は北条と敵対しながら信濃侵攻している
また信虎が今川北条と争うのはある意味必然
>>420も言っているが最初から今川の敵という立場
にいて、一族国人の大半が今川について敵に回っているため父親同様上杉を後ろ盾として対抗するしかない
今川北条と同盟するなんて、川中島の頃の信玄に謙信と同盟結べとか、家督を継いだばかりの
信長に今川と同盟結べというのと同じぐらい困難じゃないかと
それと信虎は甲斐国内の今川北条の勢力を奪っているのだから、
北条から一寸の領土も奪っていないというのはおかしい
また信虎の国外戦略は今川と同盟を結べてそれが落ちついてからの数年しかないため
評価しようにも評価のしようがないと思う
そしてそこだけ見ればあまり信玄と大差ないのでは
>>404 他に棟別銭をかけようとしたことも嫌われたな
どちらも大名の権限強化に役立つことだが
>>424 自身の僅かな手勢だけで叔父の屋敷を急襲して叔父を討ち取った
だからね
512 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 20:03:14
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>>511 かなり初期のうちから北条との関係改善につとめていたことは認められると思うけど。
信虎の場合、確かに統一以前の状況もあるが、
その関係をずっと引きずらなければならないわけじゃあない。
実際むしろ北条以上に仇敵といえる今川とは和睦を模索している、
同じことを北条としなかったのだから、これは明らかに信虎の方針であり、
後世から見てしまえば明らかに誤りだった。
そして、信虎が本当に今川との同盟後に外征を始めたなら、
比べようもないということになるかもしれないが、
実際には1524年から関東に出陣して、以後も戦い続けていたが、
甲斐国外に領土を得たのは1540年がはじめて。
これは長く不毛な戦いを繰り返したとしか言いようがないでしょう。
1545年の信玄の下伊那攻めのさいに北条家から援軍が来ているから、
少なくともこの時点で援軍を送るほど関係が改善していたのは確か。
これが家督相続から4年後のこと。
当然一度や二度の交渉でそこまで改善しないだろうから、
家督を継いだ1〜2年後くらいには和睦の話を持ち出していたのではないだろうか。
今川と武田が和睦できたのは、花倉の乱という好機があったからだろ
時機を無視していわれてもね
そんな方法ならなんでもケチがついちゃう
>>515 その前に1527年に一度今川と和睦している。
その時にむしろ今川に仲立ちをしてもらって、
北条との関係も改善するという手もあったはずで、
信濃侵攻を狙うならその方が良かったはずだが信虎はそれをしていない。
むしろ、北条家と対立を続けた為に、今川との関係もふたたび険悪なものになってしまう。
これはどう考えても、信虎がそういう戦略を選んだからだとしか言いようがないし、
結果的に言ってその戦略は間違っていたといえる。
信玄が追放した信虎を肯定しちゃうと何か問題だと武田オタは思っちゃうんでしょ
>>516 そんな口利き受けたら、今川に頭が上がらなくなって支配下に入っちゃうじゃないか
今川家家臣・武田家っつー運命…
このとき武田氏は上杉氏と対北条同盟中でしょ
そしたら今度はそっち敵に回しちゃうジャン
だいたい、北条家には関東の覇権という大きな目標があり、両上杉家という敵も抱えていた。
甲斐と好んで争いたい動機がない、実際甲斐への侵攻は今川に比べて目立たない。
そういう状況の北条家と和睦できないという道理はない、
少なくとも今川とは出来るが北条とは出来ないということはありえない。
つまり、対北条強攻策はそうせざるを得なかったというよりも、
むしろ信虎が望んだ戦いで、その結果関東に寸土も得ることは出来なかった。
これはやはり、戦術が間違っていたといわざるを得ないでしょう。
521 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 20:52:24
>>520 >関東の覇権という大きな目標
なら、武田氏を敵に回すまでもなく自分達から和睦ないし同盟持ちかけるだろ
後知恵とこじつけばっか乙
>>518 川中島の時に今川に仲介してもらっているけど、傘下になんて入っていませんよ。
>>519 結果論だがその方が正しかったということ。
実際信玄はそれで領土を拡大しているのだからね。
>>513 信虎時代の今川と北条を別勢力扱いするのはどうかと思うが
それに不毛な戦いというがそれだったら信秀も今川と謙信も武田と
里見も北条と朝倉も一向宗と筒井も松永と不毛な戦いを繰り返したことに
>>515 花倉の乱が無ければ同盟は結べなかったかもしれんな
御館の乱がなければ上杉と同盟結べなかったように
>>516 和睦程度なら武田と上杉も結んでいるがその後は・・・
>>518 花倉の乱後は半ば今川の属国だったんじゃないか?
当主が駿河に挨拶にいくというのも変な話しだし
>>522 それは武田家が今川と北条の間を斡旋した借りがあったからじゃないの?
一国を領する大名と統一半ばの間じゃやっぱり力の差はあると思うよ
>>521 実際北条側にもそういう意思があったから、
信玄の代になるとすんなり関係が改善されたのだと思うけど?
もし北条家に甲斐への野心が強くあったなら、
なぜ、信玄になったとたんにその態度を変えたの?
>>522 川中島の時と信虎時代じゃ国力に差がありすぎるだろ
それに甲斐の諸勢力は今川と手を組んでいた経歴があったのに
527 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 20:56:59
雪斎がいなかったら
三国同盟できないよ
>>524 だからってその程度の恩でいきなり属領にはならないでしょう。
ちょっと論が飛躍していると思う。
>>525 その時は北条は今川とも決裂して孤立状態
武田は今川と婚姻してる
状況が違いすぎる
天文14年後半の信玄は自身が手勢を率いて義元に援軍にいってるからな
被官とはいかなくても、やっぱり今川には頭が上がらなかったんだろう
今川は家筋がよく、駿河・遠江を保有し三河も実質領国化する大勢力だったからな
信長の桶狭間以降は凋落一方だけど、武田にとっては頭がいたい存在だったんだろう
逆に後ろ盾につけられれば心強いが、それは取り込まれる畏れも内包しているわけで
今川だって慈善事業やってるわけじゃなし
結局信虎は
ある意味関東の2大勢力・上杉今川の勢力争いに巻き込まれていただけじゃないの
>>531 信虎時代はそれに伊豆駿河も加わる
後年は伊勢氏が北条と名を改め、今川から離反し
最終的に決裂して別勢力となるが
間違えた伊豆相模だ
信虎より信玄の方が戦略眼に優れているのは分かるが
その方針によって今川が圧倒的に得をしないか?
桶狭間が無かったら、本当に属国化しそうだが
信玄ファンは信虎がここまで嫌いとは意外
>>523 個別に検討しないと避けえたかどうか判断できないが、
不毛な戦いを繰り返すのはどういう場合でも無論よいことではないでしょう。
そして信虎の場合は、実際に信玄がそうしたように、
北条家との不毛な戦いを避ける方法はあった。
無論、信玄の成功を知った上での後知恵だが、実際に信玄がそれで成功した以上、
それに比べれば誤った戦略だと評価せざるを得ないでしょう。
>>529 今川と北条の決裂、武田と今川の婚姻関係は信虎の代で成立していますよ。
信玄が信虎より優れているとはとても思えん
むしろフリーハンドを得た駿河進行時の北条への根回し不足とか
その過程での約束破りでの徳川敵化とか
信玄のほうが酷い。時機を自分で悪くしたんだからな
信虎の父の代から上杉について今川と争っていたから
相手を信用できなかったんじゃない
勝頼に信長と同盟しろというようなものじゃない
>>537 >今川と北条の決裂、武田と今川の婚姻関係は信虎の代で成立していますよ。
そうだよ、そしてその後の数年の対外戦略は信玄とさほど差が無い。
信虎の甲斐統一は素晴らしい実績
>>538 その辺の顛末は確かに、信玄の失策だったと思うけどね。
しかし信虎の国外侵攻戦略が結果的に誤りだったのも間違いない事実なのよ。
>>541 いや、北条への矛先を収めたという大きな違いがあるでしょう。
信虎的には信濃侵攻より関東を狙っていたと思うのですが
その辺はどう思いますか?
>>530 花倉の乱の残党をかくまった甲斐の国人を処罰しているのも
ある程度の主従関係を示してるかもしれん
>>545 正しくそうでしょう。
で、結果不毛な北条家との争いになってしまって、
ほとんど得るものがなかった。
>>541 だな、花倉の乱が無ければ信玄の代でも今川と争っていたかも
>>544 あのまま信虎の治世が続けば北条と同盟結んだと思うが
今川次第かもしれないが
>>545 そりゃ初期の信虎は関東狙いだろう
それまでの関係に加えて、まだ上杉は強力
>>546 今川と北条の争いに反対押し切って援軍行ったりとかね
ついでにこの件で工藤が斬られたとかなんとか
武田家と今川家との関係は織田・徳川の関係と類す。
そう考えると信虎は今川との同盟のため犠牲を払ってるんだな
信虎の甲斐国外へ拡大のための戦略は、一貫して北条と敵対して関東進出を狙い、
その合間に信濃にも手を出すというもの。
信濃の豪族や仇敵であるはずの今川家との関係に変化があっても、
北条家とは常に敵対的であったことからも、対北条強硬路線が戦略の基本であったといえる。
対して信玄のそれは関東にはあまり深入りせず、信濃侵攻を目指すというもの。
北条に対してこちらから手を出してはいないこと。
家督相続後かなり早い時期から北条との関係改善を模索していることからも、
その意図は明らか。
領土の拡大という点に関してどちらが成功したかは比べるまでもない。
>>549 その可能性もあるけれど、推測の域を出ないと思いますよ。
>>550 力関係はもう少し少ないかもしれないが確かに似ている。
今川勢力として益無い戦い
上杉勢力として益無い戦い
でその後それまで戦っていた相手につくあたりとかも
今川は武田、北条をかなり見下してるよな
>>553 今川家と敵対している以上
上杉の支援が得られる関東で戦うのは自然なことだと思うが
>>555 そりゃ北条はもともと一家臣だし
甲斐は大半が今川になびいていたのだからある意味当然。
>>556 ところが、今川と同盟を結んでも関東侵攻を止めていない。
>>556 上杉との関係から北条と争ったのであって
今川家との関係は2の次、常に敵対していたわけでもない。
>>553 対北条の戦略それって結局すべて花倉の乱を前提としていないか?
まずは花倉の乱無しに武田が今川と本当に結べるか
今川が北条と敵対するか
を考えたほうが建設的じゃないか
562 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 21:35:30
信玄は石橋をもの凄く慎重に叩いてから渡るタイプの人間だから、
元々上洛する気は無かったとはいえ、
万が一の場合に備えて朝倉には信長を足止めしておいて欲しかったのだと思う。
つまり、信玄は徳川領を少し奪いに行っただけなのだが、
朝倉が足止めしておいてくれないと、本気で織田が対武田に動き出してしまうので、
信玄は朝倉に対して怒ったんだと思う。
信虎の代では、北条と扇谷上杉で北条の方が圧倒的に強いなんて、
判断できなかっただろうから、上杉について北条と戦ったのも無理はない。
それ以前の流れもあるのだから、愚かな戦略と断ずるのは不当な評価だろう。
しかし、長いこと戦っているうちは状況の違いも分かってくるだろうし、
それに柔軟に対応できなかったのはやはり失策か。
わかりきったことをageで語るな
565 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 21:39:11
何故足長坊主かというと、それだけ慎重派であったという事だ。
>>560 1527年に今川と武田が和睦した段階で、対北条との関係改善も望めたと思いますよ。
569 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 21:47:33
武田と北条は本気でやり合おうとはお互い思ってなかったと思いますよ。
単なるポーズだと思います。
違う方向を見てましたし。
>>569 そうなったのは信玄の代から、
信虎の頃は、上杉と結んで北条と戦うというのが武田家の基本戦略だった。
571 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 21:49:35
>>563 そうだな、北条と扇谷上杉で比べるなら1524年の江戸城の攻防あたりで
互角ぐらいか?
その後10年ぐらい一進一退だし
その均衡が崩れたのも13歳で朝定が継いでからか
>>566 それって今川と北条が敵対したからじゃないか?
自分としてはむしろ氏康が継いで、公方両上杉今川里見が北条と敵対した時に
何で信玄は北条を攻めなかったのだろうと思うが。
今の話題とは関係無いけど
>>567 その和睦って今川の時間稼ぎじゃないか、後継いだばかりだし
>>572 >そうだな、北条と扇谷上杉で比べるなら1524年の江戸城の攻防あたりで
>互角ぐらいか?
その両者だけの比較ならそうかもしれないけれど、実際には山内上杉と里見も北条と
敵対しているので、北条を狙うというのもある意味自然だと思う。
北条とは小山田領で問題抱えているし
>>572 >その和睦って今川の時間稼ぎじゃないか、後継いだばかりだし
そうかもしれないけれど、
直接的にその時の今川・武田の関係にひびが入ったのは、
上杉の求めに応じた信虎の関東侵攻でしょう。
やはり信虎のほうから望んで壊したというべきだ。
>>572 >自分としてはむしろ氏康が継いで、公方両上杉今川里見が北条と敵対した時に
>何で信玄は北条を攻めなかったのだろうと思うが。
はじめて見るIFだ
こっちのほうが天下狙えるんじゃないか
武蔵は上杉に
下総上総は里見に
相模は武田で
駿河伊豆は今川で分割すれば・・・
>>573 なるほど北条の情勢もきつかったわけだ、
そうするとその状況も打破できた北条の実力を見誤ったのが信虎の失敗と言ったところか。
577 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 22:00:03
信虎が全国からスカウトしまくって精強な武田軍が出来たわけです
ほとんど信虎のお陰です
三河の松平氏は強力だから本拠に近くて目障りな武田を狙うというのが
今川家としては自然な気もする
そもそも天下取るって発想は当時どの程度魅力的だったのかね?
普通に身を守るため、近隣制圧という発想だったと思うけど
>>575 いや、武田も今川の援軍として参戦していたのでは?
多分その段階では北条の底力がわかっていて、
武田・今川は北条との徹底抗戦をもはや望まなかったのでしょう。
その分割案でも今川の取り分が少なすぎると思うし。
>>580 してたね
史実じゃ河東返還により今川が抜け、参戦理由が無くなり武田も抜けて
その後は河越夜戦へと繋がっていくのだが
582 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 22:05:14
戦国時代において政略結婚というのは当然ではあります
そういうわけで武田・北条・今川はある意味親戚なんです
>>581 その状況で一気に北条を潰すよりも、
今川・武田に北条と結んだ方が利口だと思わせる北条の実力が、
かなりのものだったということですね。
氏康が継ぐ頃には江戸周辺が帰服させているし
河越方面へも浸透しはじめて、優勢がはっきりしてきたのかな
>>584 むしろ、ようやく両者が互角になってきた頃だと思う。
扇谷だけと比べれば明らかに優勢でしょう。
山内を加えて互角くらいでは?
>>583 北条は一貫して関東狙いだったから、
今川・武田としては、
放って置いてもこっちには攻めてこないだろうと推測できるしね。
>>574 そうか?
信虎の30年の関東侵攻後の
次に今川が武田に行動したのって何?
>>578 それはあるな、
あと数年清康が早く死んでいれば、今川の目も西に向いていたかもしれん
>>583 北条は普通に凄いだろ、ゲームじゃぱっとしないらしいけど
>>584 江戸城を奪ったのが24年で
朝興の死亡が37年
河越城を奪ったのが37年
国府台で下総方面の優勢を確保するのが40年
関東公方と姻戚関係になったのが41年
ちなみに朝興が死んだ時、相模の領民がこれで襲われる事は無いと喜んだという
記録が残っているようにそれまでは相模に侵入したりするぐらいだったがその後は・・・
589 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 22:28:03
北条は篭城が得意なのであって攻めるのは得意ではない
590 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 22:33:02
今川氏真は蹴鞠が得意だった
人にはそれぞれ得意分野がある
1526年に氏親死亡で翌年武田と和睦 氏輝は幼少
この時婚姻結べなかったのかな
そのころはお互い国全体を抑えきるような戦国大名じゃないわけで。
今川側に誼を結ぶ理由がないと思う
そりゃ後知恵だろ、何度も言われてるが
両家のそれまでの敵対関係や力関係、それに今井氏・栗原氏・飯富氏などの不安要素
そんな国が本国の隣にあるなら今川が甲斐を狙うのは自然だと思う
家督を継いだばかりの信長が義元に同盟を結んでくれというレベルか・・・?
596 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 22:42:13
とにかく足長坊主としての信玄に凄く興味ある
忍者とか
まあ半世紀に渡って断続的に争ってきた相手と手を結ぶのは難しいな
598 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 22:51:09
上洛作戦ではなかったのだからこのスレ自体無意味だな
599 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 22:52:56
武田厨の夢を壊すな!!!!
だが断る
602 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 22:58:50
物事には順序というものがある
駿河の次に三河というのは当然
いきなり上洛は有り得ない
有り得ないし出来るわけがないしする必要がない
信玄も当然そう思ってた
603 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 23:58:33
修学旅行がしたかったんだよ
物騒な旅行だなおいw
>>589 慢性的に後北条包囲網が敷かれていた所為で、
各方面の防衛網を最小限の人員で維持しつつ、また攻勢に出ても他方面に侵攻されれば引かざるを得ない事も多い。
しかし少ないチャンスを堅実にものにしつづけられる事を考えれば、得意ではないとは言い切れまい。
実際、調略を駆使した攻城戦はなかなかに見事なものがある。
野戦は引き分けが多い印象があるけれど。
戦バカ謙信がいなければ北条は氏康の代で関八州をほぼ手に入れることが出来たのにな
越後人の出稼ぎ略奪ツアーの対象になったのが運の尽き
608 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 00:55:51
上杉の動員力ってさほどでもないだろ
軍役帳が現存してたと思うけど、だいたい5千程度
当時は離反してたり、恐らく動員対象になかったりした連中を適当に加算しても1万いくかぐらいだと思う
それで兵数で上回る信玄・氏康が苦戦したんだからなぁ…
すげえのびてる・・・・
一体何がおきたんだ?
610 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 01:31:19
謙信も最後上洛するつもりだったね。結城宇都宮里見伊達芦名をつれて。鬼義重が入ってないのは北条対策だったためかな
でも中身はある
613 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 03:32:32
んで、今年の信玄公祭りの湖衣姫コンテストはどうだったの?
614 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 03:36:38
戦いは兵数で決まるのは、凡将同士が戦った場合
真の勇者は一人で関羽のように敵陣に踊りこんで大将を切り
また張飛の如く一人で数千数万の大軍の気を飲むものである
織田、武田などの諸大名に勇者はありや?
615 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 08:34:23
謙信は最後の関東遠征で佐竹義重と喧嘩して越後に帰ったはず
だから召集しなかったんじゃないか?
616 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 09:35:38
三国志は創作だから
617 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 11:11:14
>>610 上洛するつもりなかったじゃん
最後のあれは関東出陣の陣触れでしょ
いや、上洛説も結構根強いよ
武田厨の間ではね。
そして上洛してたら天下を取れたとか。やれやれ
簡単に上洛を口にする
信玄厨や謙信厨はイタイな
関東出陣と見せかけて北陸攻撃とか?
でも謙信がそんな謀略を使うかね
使う気だったとしても、配下の諸将にいきなり廻れ右させるのは大変でしょ
武田なら天下を取れた
623 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 11:41:41
↑
さらしあげ
織田厨ウザイね
>>614 織田は桶狭間があるぞ。
まあ、それはさておき演技で語るなよ、
大体関羽がそんなに強ければなんで呉に捕らえられるんだ?
君の言うようにとっとと孫権を殺せば済む話じゃないか、或いは数万の大軍を気で飲めばいいじゃない。
本物の正史厨さまがご降臨なされたようだ。
>>625 カンヌは手術後でヨボヨボだったから
信玄は老衰寸前で弱って部下達も心配で心配でまともに戦えなかったから
本当はあのままの破竹の勢いで上洛だったハズなのにね
この程度で正史厨呼ばわりとはな・・・
629 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 12:27:45
相手が万単位ではないが、前田利家は春日井堤の戦いで本願寺軍相手に一騎で殿軍つとめるというリアル慶次やった猛者
張飛が曹操軍を一人で威圧したってのは正史の話じゃなかったか?
信長は稲生の戦いの時、優勢な敵を一喝して流れをひっくり返したと信長公記(フィクション色の強い信長記のほうではなく)にある
631 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 12:32:37
銃声や怒号に陣太鼓に地鳴りが飛び交う中で一人の声が届くと本当に思ってるのか?
>>629 堤の上の槍だな
似たようなのに本多忠勝の一言坂ってのもあるな。
あれで傷を負わなかったならたいしたもんだ
三国志の話
ウザイ
信長は技能・大喝持ちかw
635 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 12:56:58
信長に義元の居場所を教えたのは山本勘助だったらしい
信長は見事すぎるほどホリエモンとかぶるな
信玄も掘り衛門だがな
信長も堀りまくり衛門だけどな
639 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 13:15:54
信玄は高坂
信長は利家
掘り仲間
640 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 13:16:26
不潔だな
謙信を見習え
おまえらやめとけ
上杉スレみたいに基地外の餌食になるぞ
>>629 信長公記はあまり信用できない。 首巻だけは
>>642 さすがにそれは否定できないなぁ
もっとも首巻部分でさえも軍鑑と同レベルかそれ以上だが
首巻以外でも悪く言うと捏造があったり、
本人が現場にいない本能寺がえらく詳しく書いてあったり
じゃあ信玄が西進しても戦場の信長に勝てない可能性が高いわけだな
片や病気で体調不良・片やとんでもない逸話を持つ健康な勇将
戦ってどっちが勝つかなんて分かる訳ない
んなこたーない
人間そんなにバカばかりじゃなかろーぞ
昨日の加速っぷりは、加速前の状況といい話の中身といい
いつぞやの再現Vみたいだな。 まあ、キレて煽るよりは全然いいんだけどさ‥
当時の状況じゃ
どっちも圧倒的に有利,不利ないから
簡単に予想なんてできねーだろ
>>649 このスレはループしまくってるからな
まぁ結論でねー話してるスレだし…
結論を出す事ではなく、議論すること自体に快感を覚える人間が多いからこの手のスレは続くんだよな
などと、下手な工作をする信長ヲタであった・・・
おまえら鏡に向って何をいってるの?w
首巻は時系列の混乱が激しい
信長の戦振りは凄まじいよ
桶狭間が有名だけど天王寺も凄い
これは攻撃に失敗して包囲された明智勢らを救助するための解囲戦だけど、3千の兵で1万5千の本願寺勢を撃破している
と、本当の事を言われ困っている武田厨であった
終わり
勝手に開始したり終了させたりするのが彼の特徴
織田家第一の将といえば誰かね?
また徳川や武田は?
織田家は信長自身。数々の劣勢の合戦を勝利に導いている。朝倉追撃戦のように、諸将が躊躇するなかでも自身の判断を信じて勝利を掴む信念は凄いね。もっともそれが悪い方に暴走すると手がつけられないんだけど…
徳川家は酒井忠次でしょ。徳川の勃興期を支えた武将で三方ヶ原では敗戦の中でも手勢を崩さず冷静に対処している。鳶ノ巣山奇襲で武田軍の死命を制したのもこの人
664 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 19:21:58
武田脳
武田は天下人の徳川に大勝した!!
武田>>>>>>>>>>>>>>>>徳川
織田は武田に怯えていた!!
武田>>>>>>>>>>>>>>>織田
武田厨「あん?長野に負けた?村上に負けた??最後には勝ったじゃねーか!」
武田>>>>>>>>>>>村上、長野
武田厨「あん?武田は最後に織田に滅ぼされた?信玄は負けてねーんだよ!!!!」
武田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>織田、徳川
武田厨「ひゃ〜〜〜〜〜〜ひゃっひゃっひゃっひゃ」
武田は山県を推す
>>664 こんなのばかりじゃないけどね。残念ながらこのスレにもいるが
>>664 織田厨だがくだらんコピペ煽り止めろ
織田厨がバカだと思われる、一緒にされたくない
アイアムザパニーズ
武田は四名臣とかいうけど
一人だけ選抜っていうと…
山県
板垣信方だろ
そもそもこいつがいなければ信玄は親父に追放か廃嫡・あるいは粛清されてた
上田ヶ原で討死するまで武田軍の主力として活躍してたし
織田はまあ柴田か佐久間だな。
>>588 確か1535年に信虎のほうから今川に攻めて行っていたかと。
内藤の有能さが分かってないようだな
信繁亡き後は実質武田の副将だぞ
信玄も全幅の信頼をよせていた
675 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 22:40:32
喧嘩両成敗は腰抜けのやること
もっとも多くの寄り子を付けられていたのは高坂だと思うが。
つまり、単純に任された兵力でみるならこいつだろう。
明智が織田第一じゃないの?
家老格という序列無しで、実力で城持ちを勝ち取った一番手
まぁ謀反しちゃったけど…
内藤に関してはあの辺は全て任せてたからな
内藤の好きなようにやってくれと
蹴鞠なら氏真タン
680 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/11(火) 01:34:37
徳川は忠勝でしょ
前スレまったく見てないが朝倉が戻らなきゃ可能かもね
朝倉が信玄の為にそこまでする義理は無いけどな。
浅井まで見捨ててるのはどーなんだろ?
683 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/11(火) 12:30:37
おいおい、浅井は見捨ててねーべ
滅亡直前の時だって2万の兵都合して救援に出てるでしょ
要するに、三河に留まってる武田のために疲弊した領国抱えて牽制のためだけに在陣するってことが非現実的なんでしょ
684 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/11(火) 12:49:23
柴田
まあ、連絡にかなりラグがある。
戦闘中なら、スパイ・連絡員狩りも
必死でしょ。
686 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/11(火) 15:12:08
朝倉も、
信玄が本気で信長を攻める気ないと、わかったから、馬鹿馬鹿しくなって引き上げたんだよ。
信玄の徳川領を削るために利用されるのはアホくさいからな。
いつまで経っても進歩の無い煽りだな
煽りに聞こえるのか?ならば貴様の知識不足だな
だいたい朝倉が陣払いする前から信長は岐阜に主力と一緒に帰還してるんだからさ
退陣しようが一緒でしょ。朝倉には既に織田の在地の防御陣を突破するのは難しいんだし
>>673 35年は今川と北条が共同で甲斐に攻め入った後
それらを武田が撃退、その後駿河に攻め込む
朝倉がいるとどうしても兵割かなきゃならんし
尾張に兵力集中できないでしょ
徳川は瀕死
尾張デンジャラス
それに反織田も結構朝倉につくんじゃね?
松永はいつ反乱したのか覚えてないが
こう考えると朝倉が天下統一した可能性のほうが高いかもね
orz
天下狙うなら義昭がいるうちに上洛しろよ
朝倉は保守的だったのかね?
越前一国裁量できればあとはどうでもいーや、みたいな
正面斬って戦えないことに気付いた信長厨
なぜか越前方面へ転進
「天下は朝倉殿に」って一時講和した時の起請文(だったっけ?)にあったな
若狭に兵を出してるから、まったく外征に野心なしではなかっただろうけど
朝倉が退陣しなくとも、坂本〜虎御前(もしくは横山)の防衛
ラインで防戦し、対武田への決戦へ戦力集中は可能だろ。
半年単位で攻囲されるならともかく。
697 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/11(火) 23:13:22
てゆうかさ、
信玄が健康で、死ななかったと仮定して、シミュレーションしてみれば、簡単じゃん。
2万5千引き連れて出陣したが、
半年後には、2万くらいになってるだろう。
(戦死、負傷、脱走、あと占領した城に守備兵残さなければならないから、5千くらい減少する)
この2万で尾張に侵攻して行くとする。
信長は、3万で迎撃するわなぁ。
(織田の動員可能数は少なくとも5万くらいだが、各方面に2万残すと仮定)
2万対3万で戦えば、普通に3万が勝つだろう。
武田は1万が戦死して、1万が敗走。
織田が追撃、徳川も1万で挟撃する。ほらね、三河のどこかで、信玄討ち死にということになる。
結論、武田信玄の上洛は、無理ぽ。
信長はその気になれば将軍謀反(って表現も変だが)の際に発した柴田・明智・丹羽ら先発隊ぐらいは三方ヶ原後にでも三河に送ることは不可能じゃなかったはずだよね?
でも野田城を信玄が囲んでから帰るまでの織田軍の動きはちょっと明らかじゃない
兵を出したが引き返した?それとも動けなかった?
動く必要が無かったんだろうな
武田は、長篠の大量死を考慮外としても、体質的に重臣の討死が多すぎる
よなぁ。つか、主要な重臣で天寿を全うしたヤツっている?
好意的に見れば、身を顧みない陣頭指揮が災いして・・ともとれるが、
遭遇戦の能力に決定的な欠陥があったような気がするね。
各武将の旗本が、血縁での選抜に偏りすぎ能力が低かった、それで遭遇戦
で劣勢になると簡単に主将が討たれる事象が生起するんでないかね。
御屋形様の旗本も、戦績的にパッとしないから、そのミニチュア版
である各武将の旗本も弱体だったと推測する。
戦国中期の家にしては、信玄・勝頼の代は、能力に重きをおいた
抜擢が少なかったらしいね。まだしも、信虎の時代の方が足軽大将
クラスの抜擢が多く、それが追放の遠因とかね。
まあ、髑髏で酒飲むくらいだからよっぽど浅井・朝倉に苦労したんだろうね
チャンス逃しまくりで調略ほとんどしない朝倉萌
朝倉厨かも
>>700 織田の戦死者も調べてみるといい。
親族はじめ戦死当時の重臣も結構死んでるから
703 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/12(水) 01:41:04
>>697 逃げる敵を追撃する時の織田軍は、テラツヨス(w
武田家重臣の戦死が多いのは、上田ヶ原や長篠みたいな包囲喰らった時がいくつかあるからじゃないの?
普通の戦の場合の死傷率はそう変化ないと思うけど
統計とるの('A`)マンドクセ
705 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/12(水) 02:01:11
よく分からんけど、
どっちにしろ信玄死ぬんだから同じだろ
>>702 少なくとも、上洛戦のときの主要な軍団長、佐久間、柴田、丹羽、
羽柴、明智あたりは、本能寺まで戦場で命を落としたものはいない。
尾張国内平定期の馬廻りから抜擢した中堅クラスも、ほぼ生き残った。
織田家で、野戦で討死したのは、親族武将、吏僚上がり、国人クラス
から臣従した武将が多く、野戦・攻城の実績を買われて成り上がった
連中は、ほぼ生き残った。
仮に信玄が長命しても、両家の体質から言って、過去の主要会戦の
期待値通りに推移すれば、武田の有力武将は一人死に、二人死にと
損耗し、結局は長篠と同様のキルレートで壊滅に追い込まれる。
武田が独力で戦えばそうなる。
708 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/12(水) 02:35:15
可哀相だからマジ考察すんな
710 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/12(水) 03:04:00
信玄は三河にあと10年はかかるよ
織田軍の高級指揮官は層が厚いからな…
原美濃は病死だな、一応
713 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/12(水) 07:53:14
そして上杉の家臣はかなりの者が越後内の争いで死んでるな。w
>>702 戦場の規模が違うだろ。
武田は少数の雑魚をぽこぽこ虐殺しただけ。
てゆうかさ
信玄が健康で、死ななかったと仮定して、シミュレーションしてみれば、簡単じゃん。
本隊2万5千引き連れて出陣したから、半年後には3万くらいになってるだろう。
(城番が1500人、山家さんを含めて草は武田へ靡き3000人くらい増加する)
この3万で徳川を滅ぼそうとする。
信長は、美濃にいる2万で後詰するわなぁ。
(織田の開戦前の動員可能数は4万3千くらいだが、各方面に2万残すと仮定)
2万対3万で戦えば、普通に3万が勝つだろう。
後詰なんてしねーよ。
>>715 >>本隊2万5千引き連れて出陣したから、半年後には3万くらいになってるだろう。
↑、これがすでに妄想(笑
>>715 徳川滅ぼす気あるように見えん。
焦って浜松無視してその辺の支城落としてるだけじゃん
百歩譲ってもし健康状態だったらと仮定してさらに三万に膨れ上がったとしよう
浜松城に一万一千もの兵が居て、それを落とせるかってことだ。高天神を落とせない信玄じゃ無理
ぐずぐずしてれば織田が朝倉とかを抑えて三万近くの大軍で後詰。
浜松の一万も加わって四万対三万、当然信長は対武田の構想をある程度練ってるし負ける要素無し
織田は野戦それほど強くないからなあ
徳川に助けられたことなんどかあるし
あの兵力差じゃ不安
近畿じゃ無敵だった徳川をあっさり蹴散らした武田が有利な希ガス
家康も武田滅ぼした後、武田の配下大量にやとったしなあ
武田の軍制が悪いなら、家康はまねしねーよ
だからなんで野戦せなあかんの?
引きこもってりゃそのうちトボトボ帰ってくよ。
家康の手勢は最大限9000だからなぁ、しかも見方が原の大敗で目減りしてるから
早くしないと吉田落城でゲームセット。
そのうえ武田を警戒して動けない織田は、浅井や朝倉には手を出し難い状況
どう考えても八方塞り、手詰まりだね。
釣り練習スレはここですか?
織田は野戦に強いじゃん
兵数少ない相手にボコられた事が一度じゃない武田と一緒にすんな
724による氏家氏討死の粉飾決算が発覚
原美濃は、足軽大将クラス。
「主要な武将」とは言い難い。しかも、信虎人事だ
ったりする。
武田家の勇猛さを真に象徴していたのは、抜擢人事
の足軽大将だろうけど、名前に「虎」の字を貰って
いることから分かるようにほとんど信虎人事。
信玄の代ではむしろ後退している。
野戦でのもろさの一因はこれだろ。
浜松城、1万で立て篭もった城は、2万や3万で囲んでも落とすのは不可能。
だから、信玄も最初スルーした。
なんでいまさら攻囲するのか?
待ってれば、兵糧なくなって、引き上げるだろう。
もし、信長が3万で後詰に来たらどうなるか?
近くの山に馬防柵作って、根気比べだろう。
焦って騎馬で攻めれば、鉄砲で狙い撃ち。
(ハッ!どこかで見た展開だな(w)
包囲を解けば、家康が1万で追撃するぞ(w
信玄が浜松に躍起になってる間に信濃から甲斐にせめて行けばどうだろ
大体の軍勢を上洛にまわしてるんだから、信玄が脱糞を下すよりもはるかに楽だろ
推測の積み重ねになるけど、信玄が徳川領を征服するつもりだったとして、
家康と徳川家の処遇はどうする気だったんかね?
その前に謙信に信濃突かれてあぼーんだろ
またでた、謙信が信長のためにババ引き説w
そんなこと言ったら包囲網とか
包囲網はババ引きどうこうの前に自らの生存をかけた戦いでしょうに
特に浅井・朝倉
735 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/13(木) 00:32:52
それは結果論でしょう
武田はまた別だが朝倉浅井にとって織田は不倶戴天の敵だから、
あながち結果論でもないと思うが。
義景もあの時期に身内に裏切られまくって滅亡するとは思って無かったと思うよ
所詮は信長の急激な伸張に危機感もった連中の野合だから…
そもそも足利義輝は、武田討伐の御内書を信濃国衆に与えたはず
今度は義昭がその武田に御内書とは…
しかし、足利幕府って不思議な体制だよな
体制が知られてないだけじゃねーの?
742 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/13(木) 14:06:21
今朝ラジオで今日は信玄の命日とか言ってた。けれど今日は信玄が西上作戦
に亡くなった日でないから今日の命日は勝頼が死後数年して葬儀を
あげた日って事ですか?
743 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/13(木) 21:42:23
もう何年前になるかなぁ信玄の死因を探る特番があったのよ。病死か例の狙撃死か。諏訪湖で海底探索やってね結局わからなかったけど何かドキドキしたな
病死か狙撃かを調べんのになんで海底探索なんだ?
あー、なんかその番組みたことあるような。
たしか信玄の遺体が運ばれて荼毘に付された後どこに埋葬されたか?で何故か
諏訪湖に沈められたとか言ってたやつ。
746 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/13(木) 22:28:13
>>743 いつか、テレビで、野田城に特大のってゆうか、
銃身のすごく長い火縄銃が残っていて、信玄を撃った銃だと説明していたが・・・?
湖底探索な
748 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/14(金) 09:27:24
>>746 それだと命中した時点で肉の塊になるんじゃ?
749 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/14(金) 11:46:58
銃身を長くして射程を延ばしているだけだろう。
勝頼と掘られた石が見付かった八ツ田ろ
今、思えばやらせくさかったけど
751 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/14(金) 12:28:09
そうだね。大河ドラマや角川映画が大当たりしてたからね、この時
>>748 よくわかんねーけど狙撃ライフルみたいな火縄銃なんじゃね?
753 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/14(金) 13:43:17
>>749 長くしただけでは命中率は大して上がらないかと
755 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/14(金) 18:45:43
>>754 命中率が上がらない長い銃を作る意味あるのか?
有効射程距離がのびるのはいい事です。
といっても、値段次第
758 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/14(金) 19:17:47
信玄公の年齢を考えると、最後のチャンスだし。包囲網もほぼ完璧な状態(朝倉は怪しいが)だったので、上洛を決意したような気がします。家康は間違いなく撃破、降伏は出来るし、信長は完全な兵力では、出てこれない。平地での合戦になれば、勝率も高くなる。
狙撃っつーと対信長があるけど、あれはどれほどだったんだ?
暗殺の多くが毒殺や誘い込んで襲撃、な気がする
狙撃って、三好義賢とケネディーくらいしか思い浮かばないし
成功率低いんじゃね?
761 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/14(金) 20:29:22
>>746 このとき野田城の城主だった菅沼なにがしは、
1ヶ月戦った後、交渉によって降伏、城を明け渡したが、その後も家康の家来として活躍している。
もし、狙撃によって信玄を射殺、ないし負傷を負わせたのなら、
武田軍は、城兵を皆殺しにしたと思う。
よって、狙撃説はフィクションだと、俺は考えている。
>>761 逆に虐殺すれば殺されたと確定され離反者が続出したんじゃないか?
現に信玄死後、長篠城ごと徳川に寝返ってる件もある。
黒澤明監督の『影武者』とかいい感じだよな。
763 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/14(金) 21:11:49
城攻めには10倍の兵が必要だっていうけどさ
小田原城や大坂城に10万いたら100万いないと落とせないってことになるが嘘くせえ
武田軍は、城兵を皆殺しにしたw
雑賀衆がゴルゴ並ってことで
別に信玄を褒めるわけでは無いが
信長が信玄や謙信にビクついてたのは事実。
家康も信玄の前ではうんこちゃんなわけだ。
それにもしやifを考えないならこの板の存在意義なんて無い。
それに死に際の滅美が美しければ美しいほどロマンは更に強くなる
信玄や謙信に男のロマンを感じるが秀吉や家康には感じられんな。
信長は最高級の終わり方なんだが…自業自得っぽい感じがする。
久秀が最高!って、んなあほな‥
>>766 >信長が信玄や謙信にビクついてたのは事実。
霊界通信でもしてご本人に伺ってこられたのですか?
>それにもしやifを考えないならこの板の存在意義なんて無い。
「信玄が死なずに(1つめのif)上洛作戦(二つ目のif)続行してたらどうなるのか」というスレなわけですが
何がご不満なんでしょうか?
>信玄や謙信に男のロマンを感じるが秀吉や家康には感じられんな。
ロマンと上洛できたかどうかはどう関係してくるのかご教授願えませんか?
無粋かつ空気の読めない噛み付き犬降臨
と、煽ることしか出来ない武田厨様が再臨されたようです
771 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/15(土) 00:21:50
信長が恐れていたのは信玄個人の力量ではなく、畿内が膠着している時に東から居留守狙いに入られることでしょw
畿内が膠着していたから、居留守狙いには絶好の機会だったね
それに死に際の滅美が美しければ美しいほどロマンは更に強くなる
信玄や謙信に男のロマンを感じるが
わろす
774 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/15(土) 10:56:50
外交文書だけで恐れていたと思うのが厨クォリティ
信長も家臣達も武田は簡単に騙せるアホだと公言してたんだがな
信秀の業績を家督相続でフイにし、斉藤竜興、六角義治、朝倉義景等の暗愚な当主や
三好長慶死後の混乱でタガの緩みまくった大名を相手にできる類稀な幸運に恵まれて
勢力を拡大したものの、最期光秀に謀反起こされて横死した信長は
他の著名な大名より優れていたとは言えんでしょ、劣っていたとは言わないけど。
このスレで信長を落としたり信玄を神にすると基本的にバカを見るよ
778 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/15(土) 11:25:45
>>775 そんな信長に滅ぼされた武田家は哀れですね
必死に釣ろうとしております
>暗愚な当主
>タガの緩みまくった大名
>他の著名な大名より優れてたといえんでしょ、劣っていたとは
これ以外は歴史的事実だな
著名=優秀ってのはどういった理屈で?
そして何が優秀なんだ?
785 :
ヤソ:2006/04/15(土) 14:47:35
暗殺で殺された人間が…とかいうとユリアンが怒るよ
>>784 義清や業正は当事者以外の評で戦上手といわれているし
小笠原勢も軍鑑で戦上手とされてる。
それに対して義景、義治は朝倉、六角系の軍記物でもボロクソだし
竜興や三好の連中は信長公記で無能、雑魚扱い。
>>787 それは相手が信玄だったからじゃないの?w>戦上手
信長相手だったら無能扱いで名が残ったかもね
しかし直接対決もしてない連中をよく予断だけで確定できるもんだ
武田厨の素晴らしい独善性に乾杯
789 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/15(土) 14:55:28
強い弱いなんて相対的なもんだからな。状況次第であっさり逆転するし
>>788 何このバカ?
史料とかもあげずに罵るだけw
武田厨正論言われて涙目w
>>787 その誰がいったのか知らない個人評価はそれでいいとして、三好がタガが緩んだ大名ってのは?
それと、著名=優秀って理屈の説明もわすれてるよ
お前ら、仲良くしろ
煽りあいだけは勘弁
794 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/15(土) 15:10:28
ん?軍鑑とか公記の具体的にどこよ?
例えば朝倉方印牧の働きと最後を前「代未聞の見事なる…」とか誉めたりと、(公記巻六)けちょんけちょんとは程遠い書き方なんだが
また武田厨の史料捏造の悪寒
外野からだが、どっちが強いとかは無理じゃね?
それよりも、戦国大名としての器量が問題。
信玄も一門の勝沼信元に裏切られてるが、信長家臣団の謀反は
敵に内通するわけでもなく、信長自身が「何故だ?」「何の不足ありや?」
と、わかってないところが戦国武将としての器量不足じゃねぇかと思う。
謀反の理由が何故なのか、裏切られた本人がわかってないんだもん。
その意味で、謀反で死ななければならなかった限界は明らかだと思うよ。
797 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/15(土) 15:19:53
そーすなに?
798 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/15(土) 15:21:35
俺みたいな本物の外野は勝沼某なんてやつは知らない件
>>797 「軍鑑」も「公記」も読んでないのか?
ハッキリと書いてあるよ・・・orz
「永禄三年庚申霜月三日、甲州勝沼五郎殿御成敗儀」(軍鑑)
「松永弾正謀反並人質御成敗事」「荒木摂津守逆心並伴天連事」
「磯貝丹波磯貝新佐衛門事」(公記)
>>798 勝沼五郎信元は、信玄の従兄で一門最大の軍役(馬上250騎)。
その気になれば、信玄に代って甲斐武田を乗っ取れる立場にいたらしい。
謀反は秩父藤田(のちに北条氏邦が養子に入る)の反北条派が仕掛けた
と推論されているが、信玄は謙信が誘ったと思っていたらしい。
その意味では、第4次川中島合戦の大きな要因でもある。
片田舎で昔からその土地に根付いてきた知り合い状態の家臣纏めるのと
他国を侵略しまくって得た新規取立て家臣纏めることの、どちらが難しいか想像する頭も無いんですか?
信玄>信長なのは明らかだろう
ノブヤボシリーズでさえ、信玄>信長の能力値だしな。
織田は立地条件いい上に回りに雑魚しかいないし
あれで天下取れなきゃバカだよ。
毛利とかみろよ。
>外野からだが、どっちが強いとかは無理じゃね?
どっちが強いか判断するのは無理ってことかな?
言葉足らずなあたりは同一人物にみえるけども
>信長自身が「何故だ?」「何の不足ありや?」 と、わかってない
そりゃ表向きには自分の不備をあげつらう事はしないだろうね
自分が悪いとなると相手の正当性認めることになるし
>その意味で、謀反で死ななければならなかった限界は明らかだと思うよ。
謀反で死ななければならない限界が明らかにとは
謀反で死ぬのは、それが信長の武将・大名としての器量の限界であり、それは上に書いた理由から明らかだ
という意味ですか?
>>801 一門衆のほうが手こずるだろうね、一般的には。
信長も尾張平定には時間かかってるし、新規取立てで直臣化を
図ったのは、信長も謙信(分国には手飼之者を差し置き候)も
信玄(香坂虎綱・内藤修理)も、信頼できる家臣を分国に配してる。
武田が滅んだのは穴山ら一門衆の裏切りだからね。
信長の場合は、その手飼いの者に裏切られてる。ここに戦国大名としての
資質に欠ける問題があったと。
>想像する頭も無いんですか?
どうでもいいけど、おまい態度悪いな
>>803 質問なのか反論なのか、よくわからんけど。
有力戦国大名の中で、敵の調略(内応策)ではなく、
単純に家臣が叛旗をひるがえした例は、信長に特徴的という意味だよ。
その謀反の理由「何の不足ありや?」と、まるで理解できない点に、
信長の天下取りの限界があったとさ。ほんらい歴史にifはないのであって、
繰り返し信頼した家臣の裏切りに遭い、しかもその理由がわからない信長には
人の上に立つ器量がなかったと、歴史はそう教えてくれるのさ。
そんな信長が、漏れは好きなんだけどね。
806 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/15(土) 16:09:20
>>796 その前に、信長が「何の不足ありや?」と言ったのを燃え盛る本能寺で誰か聞いたのか?
807 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/15(土) 16:12:54
なんだかんだ言って話しの根底にあるのはこれだよな
武田は天下人の徳川に大勝した!!
武田>>>>>>>>>>>>>>>>徳川
織田は武田に怯えていた!!
武田>>>>>>>>>>>>>>>織田
武田厨「あん?長野に負けた?村上に負けた??最後には勝ったじゃねーか!」
武田>>>>>>>>>>>村上、長野
武田厨「あん?武田は最後に織田に滅ぼされた?信玄は負けてねーんだよ!!!!」
武田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>織田、徳川
武田厨「ひゃ〜〜〜〜〜〜ひゃっひゃっひゃっひゃ」
信長に対する家臣の離反と人の上に立つ器量はまったく別の話だろ。
裏切る家臣がいる一方熱狂的に信長に従った連中もいくらでもいるのに
なんで片方だけあげつらって予断するんだか。
>>805 真ん中が反論 上下は文章が理解できなかったから聞いたんですよ
で、上下の文章のような理解でよろしいのですか?
謀反の理由を理解していてパフォーマンスで分らないと言ったのか、心底分らなかったのか
後者だとして、その資質は信玄にもございませんでした
人の上に立つ器量とやらの基準が曖昧だし、内応で裏切られるのは別というのも理解できん。
裏切りは裏切り以外の何者でもない。
てかそんなこと言ったら部下に宗教に走られて裏切られまくった天下人家康の
人の上に立つ器量は0を通り越してマイナスじゃねーか。
>>806 本能寺は「是非に及ばず」だよ。
「何の不足ありや??」は荒木村重の謀反のとき
「いかなる子細ありや??」松永久秀の謀反のとき
原典を読んでからにしろよ、歴史を語りたいのなら(微笑)
>>808 家来に殺された間抜けな戦国大名がほかにいるのか??
しかも、再三の謀反の理由すら自分でもわからない。
本能寺でアボンされた歴史的必然性を指摘しているのだよ。
>家来に殺された間抜けな戦国大名がほかにいるのか??
武田勝頼
>>811 松平家康のじっちゃんかとうちゃんとか。
大内さんちとか。
斉藤さんはムスコさんに殺されております。
家来に殺された征夷大将軍足利義輝。
一体全体下克上の時代に何馬鹿なこと言ってるんだ?
>松平家康のじっちゃんかとうちゃんとか。
>大内さんちとか。
残念だな、どっちも戦国大名とは云えん。戦国領主(三河国人)と守護大名だ。
>斉藤さんはムスコさんに殺されております。
だから、一門衆に殺された例と、信長みたいに直臣(家来)に殺された
ケースは180度違うってば。一門衆や兄弟・息子に殺された例はごまんとあるのよ。
信長も伯父と実弟をアボンしてるわけでよ。
分国を任せた直臣に殺されたんだぞ、あのうつけは。
そんなあんたの頭の中にしかない大名基準で話されてもなあ。
>>815 ムスコさんを家来と認めてあげないのですかそうですか。
で、信玄にも信長にもない資質について語り合ってどっちが優れてるかなんか決着つくのか?
西国最大クラスの大内が戦国大名じゃない?
てか戦国大名は呼び名であって区分けじゃない。
いったいどういう基準で守護大名と分けてるの?
加えて
>一門衆に殺された例と、信長みたいに直臣(家来)に殺された ケースは180度違うってば
どう違うんだかさっぱり分からない。一門に背かれても器量には関係ないと?
しかもその理由が
>一門衆や兄弟・息子に殺された例はごまんとある
じゃあ意味不明。例が多いからなんだと言うの?
どんなに原典を読んでも読解力がなければ意味無いし誰も耳を貸してはくれないよ。
>>817 ふつうに史実を語ってるだけなんだが??
信長=家臣(直臣)の叛乱(再三にわたる)でアボン、嫡流も滅亡し、家臣団・分国は数日のうちに崩壊。
信玄=親族の謀反(内応)はあったものの、その家臣団は死後も統制されていた。
史実はハッキリしてんじゃね?
信玄と信長じゃあ基盤となった勢力の内実が全然違うだろ。
前者を一国の軍隊とするなら後者は多国籍軍。
本当に字面しか見ないんだな。
信玄が死んでも多国籍軍はバラバラにならなかったのに
信長が死んだとたんバラバラになる一国の軍隊w
いるよね、史実を前提にすれば自分の妄想が真実になると思ってる子。
>西国最大クラスの大内が戦国大名じゃない?
>てか戦国大名は呼び名であって区分けじゃない。
>いったいどういう基準で守護大名と分けてるの?
大内義隆が戦国大名なら、上杉定実あたりも戦国大名になるわな(苦笑
戦国大名の定義はいくつかあるが、独自の分国法およびそれに準じた統制力
つまり、国人領主の直臣化(知行・軍事統制)・独自の徴税権の確立・朝廷および
室町府の統制外に権力を保持できる(この点で、大内や上杉は戦国大名と定義できない)
歴史的には、室町公方および朝廷が一国1000貫文の寄進を諸国の守護および守護代に
命じた時点から戦国大名化が始まったとされているが、その後も管領職や守護職が機能している
ので、本所への納税をやめた一国規模の地方権力を戦国大名とする。これが中世歴史学における
戦国大名の定義だ、知っておきたまい。
>信玄と信長じゃあ基盤となった勢力の内実が全然違うだろ。
>前者を一国の軍隊とするなら後者は多国籍軍。
知らなかったよ・・・爆笑
信濃・駿河・西上野・東美濃が甲斐一国のなかに在ったとは・・・爆笑
その大名の区分けと家臣に背かれたか否かに何の関連があるの?
>>822 いるよね、史実を無視(史料が読めない?)すれば自分の妄想が真実になると思ってる子。
>824
当時の国分けの話じゃなくて勢力内の統制についての例えで言ったんだが
そんなことも読み取ってくれなかったんですか?
器量がどうの言ってる人の主張まとめると
・信長は家臣(一門ではないもの)に背かれ、他に起こった反逆に関してもその原因を理解できていなかった
・信長の死後の分裂状態からみても家臣の統制は取れてなかった
・信玄は死後も家臣がよくまとまっていた
・以上から、信長には天下を収める器量はなかった
こんなところかな?
武田と織田を対比させてるところから武田にはその器量があったといいたいんじゃないかなと思うんだけどどう?
>>825 戦国大名としての統制力の問題だろ、直臣に再三の謀反を起こされてアボン信長・・・
同時に織田嫡流が滅亡し、数日後には分国も家臣団も崩壊。当時は珍しい例だぞ。
山ん中の田舎大名と天下を掌握するレベルの大勢力を同列に語る時点でバロスw
その天下を掌握するレベルの大勢力が一夜であぼ〜ん
>>827 だったら、紛らわしいこと書くなよ。
信長の軍団は柴田・滝川・明智・羽柴・森・河尻・佐々
いずれも統制がとれていたはずの信長の直轄軍団だぞ。
なぜ、その直轄軍団が瓦解したのか? このあたりに信長の家臣統制の
拙さがあったんじゃねいの?? そう考えないと、史実が説明できんわな。
だんだんおそまつになってきたな
信長の死の直後は直臣はみな結束しているよ。
それが崩れだすのは清洲会議で秀吉が動き始めてから。
それと、信長の直臣が再三謀反を起こしたというが、尾張統一後に謀反を
起こした直臣クラスは明智と荒木くらいしかいないのだが。それも一度づつ。
この程度の頻度なら信玄も変らないよなあ。
規模でいうのなら、一族で最大の動員数を持った家と、嫡男の後見を任せる
ほど信任した政権の重臣に背かれている。
だいたい信長厨は、信長礼賛の薄っぺらい歴史解説書しか読んでねぇから
戦国時代の歴史観が養われてないんだろな。これじゃ、信長公の苦労が浮かばれないね。