1 :
無名武将@お腹せっぷく:
信長が九鬼に作らせ木津河口の戦を勝利に導いたという
鉄船ってほとんど想像でしょ?
そこんとこどうなの。
2 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 22:34:03
村上水軍の焙烙
3 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 22:35:40
宣教師の記録にもあるから事実じゃないの
「こんな船、ヨーロッパにもない」
とか言ったとか。
確かに謎は多いけどね
4 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 22:48:58
本当は鉄張りじゃなかったんだよ。
てか九鬼は朝鮮でも敗走しまくり、
カス軍隊
近江産の木材が使われたそうだね。
普通の船の要所に、鉄を伸ばして貼り付けたんじゃないの?
鉄が浮くわけないじゃんwwwwww
9 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 23:43:46
>3
鉄砲がいっぱい載ってるって事だけしか書いてなかったんじゃ?
昔NHKで(堂々日本史?)やってたのでは
巨大な安宅船の喫水線より上に短冊状の鉄板を隙間なく貼り付けていた。
11 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 23:55:11
スワンボートだって
>>11 ・前面鉄貼り
・正面及び左右に大砲装備
の奴かwwwwwwww
13 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 00:07:24
口に大砲
左右四方が鉄張り
機動性と大量生産が可能
問題は、当時にプラスチックががあったかだ!!!
ビグザム量産のあかつきには・・・言ってみただけw
15 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 00:41:27
おうみ級 鉄甲船
全 長: 39,0m
全 幅: 11,0m
深 さ : 3.6m
排水量 : 500t
乗 員: 250名
機 関: 100人力
最大速力:2ノット
武 装: 口径5cm大筒 3門
口径1,5cm火縄銃100艇
16 :
鉄甲船は:2006/03/23(木) 02:05:49
都市伝説
信じてるのは童貞
17 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 02:41:42
多門院日記
18 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 04:10:02
てか
あの当時の炸裂しない大砲がそんなに役立つとも思えないんだけど
それだったら大型の鉄砲増やした方が良さげ
信長の咆哮ヲーシップコマンダー
仮に全面鉄板で張ってあったとしても、太い丸太を小早にでもくくりつけ、
丸太の先端に尖った鉄キャップを被せて勢い良くぶつければ、紙の様に
装甲が敗れたと思うんだよね。
21 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 12:04:29
その時時代が↓
……動かなかった(トモロヲ風)
23 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 15:21:56
ある日
>>1に
手紙が届きますた・・・
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| もっともっと \:\ |
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|ミ|_≡=、´ `, ≡=_、 |;/ |
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/ /. ハ - −ハ |_//ヽ__//
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/ しw/ノ__../: / /
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 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
24 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 17:30:50
でもよ、木でできた船に鉄の塊が飛んで来たり、突撃して来るんだぞ。
泳いで逃げたら射殺だぜ
25 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 22:39:39
多門院日記以外に鉄張りだという記録あんの?
信長公記には本当はなんて書いてあるの?
26 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 02:56:57
>>15 小っちぇ〜なぁWWW
その大きさで乗員250人もいるのか?
人の重さで沈んでしまうんじゃねぇの?
まるで、難民船だなW
四畳半板の鉄張り
28 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 04:58:37
静岡の小和田教授によると
漫画とかにでて昨今いわれている織田(九鬼)水軍の巨大鉄甲船は
江戸時代の小説家の小瀬甫庵(漢字テキトー)による創作であるという
この小説家はいろいろと誇張や捏造をしていてそれがウケてベストセラー作家になったらしい
なお
長篠の鉄砲3千丁による3段打ちや源義経の鵯越えなんかもコイツの捏造とする説が最近では有力
なぜなら今では事実とされるこれらの説はそれまでは全く論じられていなかったからである
ちなみに本物の鉄甲船は大型の船(安宅船より少し大きい)に鉄砲を多数搭載したものと思われる
またすこし前に旧神戸商船大学の実験、研究で多聞院日記などによる記述から鉄甲船を模型で再現したところ、
当時の技術では造れはするが
海水によりかなりの速さで腐食し、
また水の流れや風により多少は動くが自在に直進、旋回等は絶対できない
との結論がでている
韓国の捏造と変わらんな
30 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 10:14:37
どんな船かはよくわかんないが、
少数の船で村上水軍をけちらす実力はあったわけだ
鉄鋼船も亀甲船も、実在したとしても外洋にはまともに出られなかったんだよな
>>28 木津川を封鎖する為だからそれで十分ですし、役目果たしたら直ぐに
解体されたでしょう
何しろ鉄は直ぐに錆びるから、長期間浮かすなら安宅丸みたいに銅版
張るのがベストでしょう
33 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 13:44:37
延焼を防ぐ目的だけなら銅板で事足りるよな
34 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 21:47:55
こないだやってたNHKの「その時歴史が動いた」で、
鉄船に張った鉄板は厚さ3ミリ、当時はそれより薄くする技術がなかった、
とか言っていたが、鎧の厚さって2ミリより薄いぞ?
35 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 22:00:22
そういうことだよ
36 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 22:01:09
機動力がない船なんて総力戦では使えるかもしれんが
局地戦ではまったく意味を持たないだろ
37 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 23:51:28
>28
小和田センセーがそこまで言ってるのか?
っつーことは太田牛一「信長公記」には記録が無いのか。
一益です。
オレの苦労はいつもこんなものです。
信長公記ぐらい読めよ
ネットでも町田本あるだろ
40 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/25(土) 16:36:22
信長公記には単に「大船」としか書いてない。
鉄の船と言ってるのは多門院日記。
それも聞きかじりのウワサを書いただけ。
九鬼家の記録にも宣教師の記録にも鉄の船なんて書いてない。
甫庵信長記は小説。
よって信長の鉄甲船は幻想。
長篠合戦の鉄砲戦術と同じく、信長が革新的に新兵器を用いて勝利したというのは幻想。
言い切る材料にも乏しいけどね。
信憑性は薄い、という程度かと。
一応、小説でも書くにあたっては噂や言い伝えを集めただろうし、それが全て誇張や改竄とも思えない。
実際問題、火矢・焙烙とかあと小型船をぶつけてくる焼き討ちはどうやって防いでたんだろう
海戦っつーか河川(湾口)の戦いに近いしなぁ。
やっぱ普通よりでかい船に鉄砲(と大筒)たくさん載せた物量作戦だったんじゃまいか?
当時、堺の租税の半分を『九鬼兵狼』に廻せっつー信長の書状もあったみたいだし。
のちに全面銅貼りの安宅丸という船も作られてるので(幕府の公式記録による)
安宅船に金属板を張るというアイデアが、あったことはあったのだろう。
それが「信長の発明による革新的新兵器」だったかどうかは知らんがね。
>>28 鉄砲を多数搭載するだけなら巨大船にする必要が無いのではないか?
それなら関船のような機動性の高い小型・中型船を多数作った方が有利なはずで、
毛利は実際そうしていた。
防御力が普通の軍船と同じならば、動きが鈍く的になりやすい分、巨大なほうが不利になるはずだが。
45 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 16:08:14
小型船の機動力より大型船の打点の高さと大小鉄砲の数、
人員の搭載量による火力アップが狙いだったんじゃないか
焙烙
拠点を守る防衛戦なら堅牢な大型船の方が補給や自軍の士気向上にも役立ちそうだ。
48 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 22:06:17
戦の後、船はどうなったんだろう。
本能寺の変後に放置されて使い物にならなくなっちゃった、とかいう寂しい話だった記憶がある>鉄甲船
海で使うと木造船は傷みが速いから無理もないね
鉄も錆び付きゃ木も腐る、所詮おいらは使い捨て。
鉄 甲船
だから鉄甲船じゃないって。
なにかが「無かった事」を証明するのは
「あった事」の証明より難しい
実は「鉄甲」じゃなくて「鉄砲」船なんじゃねえの?
>>53 だけど、画期的な鉄の大船だったとしたら
その記録がちゃんと残っているだろうな。
特異な事物は記録されやすい。
しかし、造船した当の九鬼家の記録にさえ無い。
それがないという事は、無かったと推定する方が自然だな。
わざわざ鍛造で加工が面倒な鉄板を使った理由も解からん。
青銅なら鉄と違って鋳造で板状に出来る上に鉄より錆びにくい特長もある。
硬度では鉄より劣るものの矢弾を防ぐ目的なら充分だったろう。
敵をひきつけて、焙烙投げ込まれようが大丈夫な船なんでしょ要するに
鉄じゃなくても燃えにくい材質ってあるんじゃない?
で、それまでの船よりでかいから複数の大鉄砲搭載可能と
>>56 ただ単に原料コストの問題じゃないかな
銅は鉄より高い。それだけ。
>>57 焙烙玉はダイナマイトみたいなものではなく花火玉に近い。
>>58 火縄の代わりに火種が消えにくい高価な木綿を使ったりもしてるから
コストより生産性、耐久性を重視する気がしないでもないが。
急ピッチでの建造を命じられてたそうだし。
>>60 そう鉄の方が時間がかかると断定もできまいよ。
手工業時代の生産のスピードは職人の数に比例する。
戦国時代のこと、銅の鋳造に慣れた職工より刀鍛冶の方が多かったし、集めやすかっただろう。
>>61 発注依頼する側からすれば結局、調達しやすいというのが鉄板を選んだ理由なんだろうけどな。
どちらにしても原材料のコストが理由ではなさそうだ。
63 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 22:25:01
あった
宣教師の日記に無かったっけ?
なんかすごい船が出来たってのが?
搭載銃砲がすごいという事が書いてあるだけらしいね。
>>64-66 そこまで書いてあれば、俺には総鉄張りの漆黒の巨大戦艦が容易に想像できる。
多聞院英俊の日記では、
長さ12.3間(22m)船幅7間(13m)と掃海艇並みなんだが・・・。
5000人乗りとか総鉄張とかはっきり言って信じられないが
それでも鉄甲船ってのは一つの浪漫だと思う(意味不明
71 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/13(木) 00:34:09
もし、鉄船が実在していても鉄船のおかげで勝てたのではなく
大砲のおかげでしょう、何で?鉄甲船のおかげで勝利したと
騒ぐのか、大砲なければ、ただの安宅船、
鉄甲船だけで毛利水軍には勝てません
>>71 ちがうね。毛利水軍(村上水軍)が傭兵だったから
「おそれて近づかず」(公記)になっただけのこと。
「大砲」という記述は、確証のある史料にはない。
大鉄砲(大筒)と長鉄砲のみ!
73 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/13(木) 01:09:50
>>72 大筒=大砲は同じではないのか?
鉄船は戦わずして勝利でもしたのか?
海戦に有利な武器である大砲数門あれば、すごい戦力じゃないか
1発で敵の船など沈めることが可能では?
大砲や国崩しは据え付けタイプの炸裂しない榴弾砲で、大筒や大鉄砲は人間が取り回せるタイプ。
当時の物だと至近距離からの水平射撃で敵船体を破壊する小型カノン砲としての目的で
使われたんだろうけど、命中精度や装填スピードからいってどれだけ活躍できたかは疑問。
>1発で敵の船など沈めることが可能では?
当たれば沈んだと思うけど、命中率は極端に低かったと思う。
第二次大戦の戦車砲ですら、対戦車戦で命中率は13発に1発だとか。
>>73 大筒≠大砲
鉄砲の銃身が太いものと考えていいよ。
>鉄船は戦わずして勝利でもしたのか?
「公記」に鉄船という記述はない。九鬼の「大船」と「大鉄砲」
とあるだけ。最初の砲撃で村上水軍が崩れ、近づかなくなったらしい。
大船がずらっと並んで、上のほうに数百の砲門が覗いてたらそら近づけない。
どうあっても、火縄銃兵を乗り込ませただけの
ズングリした箱舟を「鉄製軍鑑」にしたいらしいな・・orz
79 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/13(木) 15:21:25
そう考えるのが自然で無理がないからね。
あの海戦は、鉄砲の一斉射撃と小船をふくめた数で圧倒したのが
実態だろうな。第一次海戦で大勝した村上水軍の砲烙は
火力は強いが手投げ弾だから、鉄砲を怖れて近づかなかった
が真相だろ? 鉄船だった確証のある一次史料は伝聞の多聞寺記
しかないわけだし、堺での観閲式の後は、どこにも記述がない。
81 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/13(木) 17:32:41
梅津に率いられたみらいが来てたんだと思う
82 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/13(木) 23:12:52
でも大砲って言っても直径5cmの鉛玉が出るだけだろ
83 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/13(木) 23:52:20
火縄銃はそれなりに生産インフラがあり技術もその後の時代に
継承されたけれども、この「鉄船」に関してはそういう記録がない。
船に関してはその後朝鮮出兵や南方貿易が一時期盛んになった
こともあり兵員や物資の輸送船としてのニーズはあったのでそういう
方向での技術向上はしたが、船同士で大砲や鉄砲を撃ち合って
戦闘するという概念は結局なかったようだ。
鉄船があったとしてもデモンストレーション的なもので戦艦大和みたいな
ものとは全然違ったんじゃないかな。
>でも大砲って言っても直径5cmの鉛玉が出るだけだろ
>でも大砲って言っても直径5cmの
>直径5cmの
対戦車用16ミリ特殊貫甲ライフルで撃たれて爆ぜろ
大筒で直径5センチは普通だろ、文献上も小田原攻めや大坂攻めで使用に確証がある。
ただし、大砲ではない。鉄船は当時の技術で不可能の上、曖昧な文献しかない。
よって、巨大鉄船(大砲を備えた戦艦)は甫庵の捏造。
靖国神社に国崩しだったか、戦国末期の大筒があるから見に行くべし
>>89 大坂の陣で使ったってやつか?<国崩し
これは完全な国産(芝辻作)で1貫目弾を撃ったって言うけどな。
南蛮直輸入の大筒は4〜5貫目弾を撃ったらしい。
91 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/15(土) 00:05:38
>>91 ↓これはアテにならん伝承だな。行長が船奉行になったのは
信長没後、秀吉の紀州攻めの時期(天正12年)なんだから。
フロイスは大友の大砲は知っていたが、信長の大船に搭載された
大鉄砲は初めて見たと「日本史」に書いてるし。そもそも、フロイスの
記録はいったん焼却されたものを、19世紀に編集したらしい。
イエズス会に伝承された記録を焼きなおしてみたら、こういう話だったんじゃないか。
ただし、大友宗麟が天正年間に上洛した、ないしは信長と武器での交渉(贈答)があった
らしいのは史料は不詳だが、匂わせる記録があるらしい。
>当時信長の軍船に乗り込んだイエズス会の宣教師が
>ルイス・フロイスに報告した記録に、「小西行長、
>約70般の艦隊を率いて、海上より堺に接近……
>(行長の乗る旗艦には)銃多数と砲一門あり、
>この砲は豊後の王(大友宋鱗)が織田信長に贈りたるものなり」とあります。
>>87 あったというまともな記録が無いから。
「無い」と言う記録が無いからあった、というのなら何でもアリになっちゃうぞ。
こういう特殊な物は記録に残るのが自然。
信長の船に関する記録はあるのに、鉄甲船だという記録が残らないのは不自然。
故に鉄の装甲という特殊なものでなかったと推定するのが自然だな。
>>92 >行長が船奉行になったのは
>信長没後、秀吉の紀州攻めの時期(天正12年)
それは塩飽島を与えられた時の話
行長は秀吉の配下に加わった直後(天正8年ごろ)から水軍率いてる海事のプロ