1 :
1:
4 :
1:2006/03/14(火) 23:38:27
前スレ埋めました
今日は盛り上がったね、お休み。
7 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/15(水) 02:52:33
前スレで大柿城に篭城の件に
反論した方に言いたい。
あれだけの大勢力同士の戦闘になると
戦力の多寡は勝敗に決定的な影響は与えないんだって。
小牧長久手の戦いがまさにそうだろ。
戦力からすれば圧倒的に秀吉が有利、だけど
結局決着はつかなかった。
家康、信雄が全軍を率いて正々堂々秀吉軍と衝突してたら
ほぼ間違い無く惨敗してたはず。
だから三成も家康がかつてやったみたいに
東軍の動きをみつつチャンスを伺うのがベストだったと思う。
あと小早川につられて寝返った諸侯はなりゆきで裏切っただけで
基本的には大谷の指揮下で機能していた武将だし。
小牧・長久手は、信雄が自領を侵食され、それ以上の軍事的抵抗が
不可能だったから和睦し、秀吉は天下人の立場を築きつつあった時期に、
地方勢力討伐に手間取った印象を与えたくないから、
短期決戦を望み、失敗。
家康はあくまで信雄への援軍という立場で、秀吉との全面戦争を
避けたかったから、信雄の和睦で兵を引き、祝賀まで送ってる。
政治的状況で決着付かなかっただけで、政治的決着の
付けようがない関ヶ原の場合では、純軍事的要素が
大きく影響し、だからこそ軍事的に最大規模を誇り、
絶対的な経歴の差を誇る家康が畏怖され、それに政治的権威も
加わったからこそ、西軍には内通多く、戦意に乏しかった。
だから小牧・長久手を例えに使うのは違うかと。
>輝元は総大将になるつもりで大坂入りしたんじゃないよ。
ん、でも総大将になったんでしょ。
>>7 籠城戦、陣地戦は似ている様で別物。
西軍首脳陣が大垣で籠城、東軍が包囲してしまうと、戦況情報が伝わらなくなってしまうので状況を
見つつなどと悠長な事は出来ません。
するなら、それこそ大津攻めの立花以下1万5千あたりが大垣に入っていただくと良いのだろうけど…
それは無理な話。
考えて見れば、西軍首脳率いる部隊のみが最前線に突出したあたりにも問題が有りそうです。
後方にいればそれこそ、東軍の動きを見て 大津軍を関ヶ原に向かわせつつ主力も合流みたいな
機動が可能だったでしょう。
もっともどんなお膳立てをしても、小早川・吉川・裏切りかるてっとを見るだにアレですが
>>7 小早川を動かしたのは家康だが、脇坂・赤座・小川・朽木を動かしたのは藤堂なんだが
第一、成り行きだけで裏切ったんなら、脇坂が加増を受けている説明が付かん
脇坂は予め裏切りの申し出
他の三人は前日の晩に藤堂が約束取り付けってとこだと思う
前スレ990について
学会の見解はさておき笹尾山と天満山の北国街道が通る平地に土塁を
築く理由として防御力の乏しい平地を封鎖する事は賤ヶ岳でも行なわ
れていますが?
>>12 >笹尾山と天満山の北国街道が通る平地に土塁を築く理由として
>防御力の乏しい平地を封鎖する事は賤ヶ岳でも行なわれていますが?
だから?としか言い様がないが。
賤ヶ岳は各所に陣城や砦など築かれ、周辺一帯を一大陣地化して、
その一部での北国街道封鎖の土塁でしょう?
だったら尚更、石田や宇喜多などの本陣周辺に築陣跡がないのに、
街道を封鎖する高さ3mもある土塁だけあるのは不自然なのでは?
それに南宮山・山中・松尾山にある土塁は、縦堀の堀切に屈曲がある土塁という
構築になっているのに、それらしき形式にはなってないでしょう?
ただ存在するから西軍が設けたとは暴論もいいとこ。
>>9 総大将になったんじゃなく担がれただけ。
実質的には総大将と言えない。軍議に参加してなかったりするし。
関ヶ原でも輝元や代理の秀元のいない軍議で安国寺が勝手に三成らと
話しつけたことを理由に広家は毛利の参戦を拒絶してるしな。
つか、あんかくらいつけろや。前スレじゃねーかYO
14さん、すまん、でもそんなに怒らずとも。
>>9 そもそも、常時家康・輝元のどちらかが在坂して秀頼の後見をしなければならないというきまりもある
家康が軍事行動で上方を離れるのならば、輝元が大坂に入っているのは問題ない。
改易された表向きの理由は、
西軍に荷担していないことが不問の理由だったのに、両面作戦が露見しちゃったから。
輝元の総大将就任は確信犯だと思うよ。
安国寺に担がれたっての恐らくは、安国寺からの西軍総大将就任要請の際に
敗北した際は責任はとるって条件を提示したんでないか・・。
というか毛利が西軍に加担するのは当然と言えば当然
あのまま何もせずに家康の上杉征伐を看過しちゃえば
その次に毛利征伐の槍玉が上がるの必定だしさー。
そこからいえば吉川の内応というのも輝元は知ってて黙認してたのではないか
と思ふ。
最悪負けた場合ただ総大将ですと言うだけなら毛利は取り潰し去れるの
必定だし。
二股かけたと言えば家康も西軍と東軍に二股かけてるみたいなもんだぞ。
万一西軍に敗れた場合関東には秀康がいる。
秀康は一応結城姓だし秀吉の養子で三成たち西軍首脳と親しいから
戦闘に直接参加していない秀康を持って大名としての存続を図ることは
可能だろう。
もし家康が関が原に負けてれば後世の連中に
「家康は中山道へ秀忠じゃなく秀康を派遣してれば勝てたのに」
とか言う主張がでてきそうだよ。
18 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/15(水) 19:36:48
輝元は大阪城に入場した際に、泣きながら秀頼のために戦うと宣言しておいて結局何もせず
大阪の陣で秀頼が死んだときには祝着至極と言って顰蹙を買っている
19 :
自称、関白・太政大臣:2006/03/15(水) 19:45:03
結局、輝元は大坂城に引き篭もり、石田光成が負けると
自分に国に帰り、知らん顔。
>>13 確かにその手の陣城は藤古川上流沿いの丘陵上に設けられていた様ですね
本来の西軍の目的地はここではないかとも書かれてました。
>>20 追加
そういう意味で先程の土塁は前哨、もしくは東軍の行動妨害の為に設けられたとも考えられます。
同時期に設けられた他の土塁との共通点が見られない。
よって関ヶ原時に西軍によって築かれたとは考えにくい。
以上。
23 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/15(水) 22:12:08
秀忠の軍勢が強行して関が原に到着しても、兵士が疲弊しているだろうから
意外と戦力にならなかったかもしれない・・・
でも士気は跳ね上がるだろう
小早川の心も揺れるし
25 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/15(水) 23:01:49
序盤から疲弊した秀忠軍に集中攻撃を仕掛け、秀忠軍が支離滅裂で敗走すれば
反対に士気を挫けるよ
>>7 むしろ兵力的に一方が圧倒的に優勢なのに決着がつかなかった戦闘なんて、
小牧の陣くらいのものだと思いますけど。
だからこそ家康の戦巧者ぶりが光るわけで、
もちろん、諸々の要素が重なってのことだと思いますけどね。
いずれにしてもそんな例外的な一戦をもって、
「戦力の多寡は勝敗に決定的な影響は与えない」なんて極論をいわれても・・・。
もっとも、小牧の陣のおりの織田・徳川軍のような戦略をとるという手も、
確かに西軍にはあったとも思います。
しかし、そうする為にも関ヶ原の確保は必須、理由は
>>10さんのおっしゃるとおり。
いずれにしても首脳部が最前線の城に篭城して、
他との連絡を遮断されてしまうなどというのは明らかな下策。
それから、仮に四将が成り行きで裏切っただけだとしても、
西軍主力は来ないのに東軍だけは関ヶ原に進出してきたという状況は、
これ以上ないほど東軍につきやすい成り行きだといえると思いますが。
>>25 そんな疲労困憊した部隊を前線には出さないでしょう。
少なくともいきなりは。
28 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/15(水) 23:54:17
家康本隊3万
旗本の軍勢5千
秀忠の軍勢4万
徳川だけで7万5千の兵力になるね?
29 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/16(木) 00:08:55
徳川は250万石だよな、関が原にそれだけ動員できたのかな。
難攻不落と言われた岐阜城があっさり落ちたのは何故?
31 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/16(木) 00:12:37
秀忠が到着していたら、東軍の総数は12万9千になる
そのうち、徳川が7万5千で他の合計が5万4千だから
徳川が圧倒的主導権を得る
>17 輝元が総大将を引き受けたのは、大阪城に入ってからだろ。毛利一族はやることはやっていたんじゃないか、諸大名に西軍加担の
要請文の発信、四国への出兵、確か元康の豪族に宛てた手紙も見つかったよな、若い秀元に歴戦の広家を付けて出している。元康、秀包は
もともと親豊臣だが、北陸遠征軍として派遣し大津城も攻略している、最終的には輝元の本体を除けば、殆んど出陣している。輝元が誤算
だったのは本来豊臣家の総意で総大将になったつもりだったのに、実態は三成のクーデターに近いもので
豊臣自体の意思があいまいだったこと、下手に大阪城を出れば自分が賊軍にされる危険があるため、身動きができなくなった事だろうな。
西軍事態が結束力を欠いたのもそこが原因ではないかな、毛利がへたれみたいに言われるのは、広家の絶妙の裏切りブリとその結果、家康
に軽く騙され領土をミスミス召し上げられたからだろう。
>難攻不落と言われた岐阜城があっさり落ちたのは何故?
岐阜城に篭城せず、野戦をした。
どこぞのボンボンが、家老連中の制止も聞かずに西軍に加担
挙句家老連中の制止も聞かずに野戦を挑み、物量差に抗しきれず敗退
そりゃ籠城する人数もいないってもんだわ
まぁ、お陰で家老のひとりだった百々が浪人になり、高知城とその城下ができたわけだが
まぁ数で上回ってた秀忠到着前ですら
笛吹けど踊らずだった毛利、小早川が疲弊した秀忠に
集中攻撃〜なんて普通に考えりゃあるわきゃないわな
関ヶ原を遅らせれば秀忠が来るわ、前田が越前制圧してしまうわ…
どーすんの?
>>33-34 アホだな・・・難攻不落と言われた城から打って出たらそりゃあ
負けるわなw岐阜城篭って東軍足止めしとけば戦況変わったかも
しれないのにね
でなんで、家康は決戦急ぐのよ。
別に決戦急いでないから
大垣から逃げた三成追ったら、前方に立ちふさがったから
一戦したら半日で決着ついちゃって、結果的に決戦になった
まぁ家康としても率いている軍勢のほとんどが、今自分が戦う相手寄りに近い大名連中なわけだから、
いつ正気に戻って寝返るかわからん。
とっととけりつけようとは思っていたろう。
でもそれ以上に戦場での流れってものがあって、関ヶ原では今が家康一世一代の決戦!と思った
のでしょう。 結果それが正解だったわけで、この辺の判断はさすが経験値がたけーと思うのです。
三方ヶ原の時とは状況が違うが、布陣だけ見ると誉められたものじゃないな、追いかけた相手がこちら向いて
布陣していて、おまけに包囲されてましただよな。小早川の裏切りや吉川の不戦をあてにするほど家康は馬鹿
じゃないだろ、松尾山に砦を築いていたことや大谷が築陣していたことを考えると関ヶ原に誘導して戦うのは
西軍の当初の予定のひとつに思える、いずれにせよ従来の家康により西軍はおびきだされた説は完全否定でい
いのかな。家康の凄さは合戦が始まって先鋒が苦戦しているのを見ると、陣を前進させて圧力を加えたこと、
普通は退路を心配するのだが、吉川や小早川が変な気を起こす前に西軍をうち破る覇気を示したことだろう。
仮に家康が陣を下げるような行動をとればかえって危険な状況になりかねない、ここら辺の腹の括り方は上で
も書いていたがさすがだ。
42 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/16(木) 18:00:52
>>26 西軍総大将はあくまで輝元でだから三成は
前線に出て行けます。というか出て行かざるを
得ない状態かと。
現場で武将の尻を叩いてないと諸将が動いてくれないから。
まして後方から指令ではあの三成めが安全なところから
偉そうに指図するわと反感をもたれるだけ。
そして大垣に篭城すると連絡がなくなり孤立するというけど
それは水攻めでもされない限り不可能。
相手が水攻めにしようとするならそれはそれで
時間が稼げるわけで。
家康にとって予定外なのは明らかだな。
爪を食い破る、旗差しものを叩ききる、小早川に鉄砲を打ちかける等のエピソードでも
あせりが解る、内心びくびくだな。
家康の予定どおりなんて江戸時代の家康マンセーの作りばなしだな。
・あっさり岐阜落ちた
・輝元来ない
・秀秋裏切りの噂
・来ないはずの家康が大軍で来た
・三成たちが、いきなり大垣捨てて逃げだした
・東軍追ってきた
・南宮山の毛利とか、東軍見過ごした
事情を知らん連中からしたら、だめぽと思う罠
吉川の内応なんて東軍の諸将は知らないだろうから、素通りして後ろに残すのは実際はガクブル状態ではまいか。
家康でも秀秋がなかなか裏切らないので、はめられたと思う瞬間もあったろう。((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
普通なら安心しきっちゃうような状況で
なお疑念と警戒を絶やさないあたりが流石なんだよ
それでいて東軍諸将には大船に乗った気でいさせるあたりが
47 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/16(木) 21:18:04
そこが好きになれない。
小早川秀秋の軍勢は山麓(本陣は松尾山新城)にいたが毛利軍は山上にいた。
これでは毛利軍は山を降りて隊伍が乱れたところを待ち構えた東軍に一方的に叩かれるのでは?
>>42 別に水攻めでもしなければ不可能なんてことはないでしょう。
そりゃあ助けを求める報せくらいは送れるかも知れないけれど、
首謀者である三成がそんな状況では、
ただでさえ士気が低い者が多い西軍はさらに戦意が落ちるばかり。
>>38 万が一秀頼あるいは輝元が出馬してくれば、
戦況が激変してしまうだろうからでしょう。
51 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/16(木) 22:36:09
>毛利軍は山上にいた
これも怪しいのではなかったか、あんな所に大軍が布陣などできない。
>>51 南宮大社が焼かれたのって合戦の何時頃だっけ?
毛利が陣取ったのは南宮山の南東の山腹、標高440mの場所。
山城的な作りになってて、大垣の後詰になってる。
ちなみに関ヶ原は全く見えない場所です。
当初、秀元が南宮山に布陣したのは大垣城の後詰めが目的なのかな。とすると毛利は
西軍主力にわざと合流しなかった説はどうなのかな。
関ヶ原って、有名でエピソード豊富だけど俗説が多くて本当の姿が解らない。
まあ、そこが面白いのだが。
南宮山で大垣の後詰に布陣したのは間違いないかと。
兵の数的に大垣でのこれ以上の合流は不可能ですし、東軍もいるので
あえて合流しなかったと考えていいかも。
ただ石田や宇喜多の大垣からの撤退に関して、毛利には全く知らされてなかったようで
関ヶ原当日は、あの位置に取り残された形になったらしい。
でないと戦場が見えない位置にいる理由がないそうで。
うーん、西軍主力の関ヶ原への移動目的がなんだが、少なくとも家康におびきだされた説は
スレの流れてきにはないのかな。毛利が大垣の後詰めに布陣したとすれば、そこまでは順当かな
、問題は西軍の意図がどこにあったかだが。石田等は高地に陣を構えて東軍を迎撃したところだ
けを見れば、関ヶ原の狭い地形に東軍を誘い込んで包囲殲滅を図るとも思えるが、毛利、小早川
との連携があったとは考えにくいし。やはり大垣での籠城を嫌って、陣の建て直しを図る意図と
小早川の取り込み、大谷との合流がねらいかな。家康は石田等が退却したのを見て追撃をして
東軍の追撃を察知した石田等が迎撃、これだと家康がまぬけだよなあ、どう考えてもあの初期
布陣はおかしい、正則や忠良が巧名に駆られて突出して家康も引きずれたなら解るがな。でも
そいうのから全軍が敗北するのは良くあることだから、家康ほどの男がとも思える。
長文スマソ、教えてエロいひと。
58 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/17(金) 16:01:34
56>毛利軍をスルーて考えられないな、長宗我部や長束、安国寺なんかもいる。
>>57 毛利やら南宮山の西軍を思いっきりスルーしてるって
大垣から南宮山の南を通過して笹尾山に移動してるのに、山にいた毛利はともかく
長宗我部や長束がまったく動いてないんだよ
ここからは俺的考えだけど、
どうも南宮山の後詰連中の動きが鈍いから、毛利を対東軍の最前線にしたかったのではないかと思う
勿論、秀秋の取り込みや大谷との合流も含めてだけど、大垣包囲している東軍が三成らを追ってきた場合、
普通は毛利や長宗我部などの軍勢と対峙する形になるはずだから
でも東軍が南宮山の毛利などを無視して追跡し、毛利も東軍通過を看過するという予想外の出来事になったんで
慌てて街道を封鎖するように笹尾山や天満山に陣取ったんじゃないかと思う
それでああいう布陣になったと
毛利との連携を図るための移動というのは一理あるな。
だけれど、西軍が南宮山を大廻りして関ヶ原に出たルートが理解しにくいな。
毛利軍との連携を図るなら、南宮山周辺で合流して布陣でよいのじゃないかな、毛利から
すると西軍主力が退却してると誤認すれば、東軍に攻撃はかけられないのではないかな。
それと石田が笹尾山に到着してから東軍が本格的に動いてるから宇喜多はともかく石田
はかなり時間があったのではないか、上でもでてたが本格的な壕や柵は無理でも、やはり
簡易陣地は構築したのだろうから、最初からの目的地の可能性もある。
とはいえ、毛利を巻き込んだ上で対峙というのが、59さんの言うとおりの狙いかも知れ
ない。+小早川もネ。
当時は夜間の戦闘はしない、毛利が見逃したんじゃなくて家康がスルーしたんだろ。
夜討ち朝駆け
63 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/17(金) 21:49:23
東軍は西軍を平地に誘い出すことができなかったのか?
誘い出されたのは東軍、、、のはずだった。
やはりここだけだな。三戦板でまともに機能してるスレは…
いや失礼、どうぞ続けてください。
どなたでつか。
>>60 小早川を取り込もうと考えたなら、
南宮山周辺ではなく関ヶ原まで進出するしかないでしょう。
三成の書状等によると小早川が怪しいという認識は既にあったようだから、
それに対処する為の機動だと思われる。
つまり毛利や長束、長宗我部を無理矢理前線として機能させるために
石田勢や宇喜多勢の転進をあえて伝えなかったとも考えられるってこと?
西軍ってのは統帥者がはっきりしてないから良く分からん…
70 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/18(土) 21:58:46
西軍には総大将に該当するような人物が存在しなかったのではないかと、私は思いますね。
71 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 00:40:58
島津の敵中突破で家康が戦死する可能性は僅かでもあったの?
「僅か」の度合いによるわなあ、
世の中100%ってものはなかなかないから、
0.00・・・・・・%くらいならあったかもしれないけど、
考慮する必要は全くない程度のものだわな。
島津の「敵中突破」(実際は敵の居ない前方を強行移動して
追撃受けたっぽいが)は、家康本陣に向けて行なった訳ではないので、
確率論で言うなら零だな。
島津の敵中突破ってさ
朝から戦い通しだった連中に対し、拱手傍観決め込んでた連中が逃げただけのことだろ?
士気や物量では東軍側の方が圧倒してるけど、走り回る体力じゃ島津側が断然有利じゃね?
あれが妙にちやほやされる理由が分からんのだけど
その後の本領安堵に結び付けて考えてるんだろ
兵数十分の一近くまで減らされたんじゃ
普通に退却戦としても成功してない、ほとんど壊走だよ
島津の中で義弘は過大評価されすぎ
『総大将は絶対逃がす』という信念のもとやったんだから、
死んだ兵や豊久、長寿院あたりは本懐を達したと思うけどな。
ここら辺の評価はどう?
その結果政治的には義久に屈服せざるをえなくなり、軍事的にもあの有様
後世に名声を残せたからよしとするしか無い、か?
個人的には朝鮮出兵から関ヶ原前後の義久の対応と苦労の方を評したいけど
いや、西軍に参加した時点で島津の運命は決まってたろ。
島津の不幸はあんな寡兵で参加しなきゃならなかった事だろーな。
あの当時において未だに国人が幅を利かせていたのも問題かと
秀吉の九州征伐や朝鮮の役で名を馳せたとはいえ、島津はド田舎の大名だしな。
義久の優秀さは凄かったかもしれないけど、基本的には時代遅れな地方の豪族だわな。
嶋図は国内問題が深刻で出兵どこじゃない、とりあえず飢え過ぎ征伐に形だけ参加したんだよ。
兄貴も息子も健在なんだから自分も派手に玉砕して
島津の意地を見せりゃよかったんだよ
いくら家臣だからって情の篤い義弘が弟の遺児を捨て石にして
平気だったとは思えん本人にしてみりゃ恥じ入るような気持ちだったと思うよ
68>今までのスレを熟慮して、三成になって脳内妄想してみた。
大垣で包囲されて動きが取れなくなるの避けると同時に、小早川を西軍に引き止めるために関が原へ移動する。
東軍は追撃してくる可能性があるので笹尾山、天満山に布陣して東軍の迎撃態勢をとるが、東軍は南宮山の軍勢
が気になるので、深追いはしないはず。兵力的にも小早川、毛利と連携すれば互角なので家康は秀忠の到着を
待つはず、その間に陣地を強化して東軍との膠着状態を作り出す。松尾山の城砦の整備をしていたことや、
大谷が陣地を構築していたことは、大垣で守りきれない場合に関が原の狭隘な地に高地に拠った堅陣を築いて
東軍を食い止めるための準備ではないかな。三成は広家の内応など知らないから、小早川を取り込めれば
可能と考えてもおかしくない。
84 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 23:30:00
西軍が一致団結していて、かつ大津城攻略隊が到着していれば
東軍に秀忠の援軍が到着していても、両軍とも決め手が無く戦況が膠着したのではないか?
83続き 膠着状態は西軍に不利という説もあるが、加賀の前田が南下するとしても佐和山や大津をスルー
は出来ないから、田辺城攻略部隊を佐和山に向かわせて大津の立花に後詰めさせればこちらも防げる。上杉
、佐竹・相馬の動向が不安なので家康も関東を長期に留守にはできないはず。さらに輝元、秀頼を大阪城か
ら引き出す方策も出来る、と考えたのじゃないかな。家康は小早川、吉川の内応を取り付けてあったから、
躊躇せずに追撃し、戦いになった。家康の布陣の悪さは、三成が関ヶ原で東軍を迎え撃つと思わなかったか
らではないかな。どうでしょう、マジレスお待ちしてます。
84>つまり、当初から三成の狙いは戦線の膠着ではないかと。
87 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 23:40:41
>>86 だから、三成の狙い通りになったわけだよ・・・
88 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/20(月) 10:10:58
三成は頭は良いんだよな、でも寝技で狸親父に負けちゃうんだな。
三成は頭いいかもしれないけどそれをひけらかして人をばかにしてたらそりゃ人望なくすわな。 家康の腰の低さを見習わなくちゃ人はついてこない
90 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/20(月) 21:29:31
家康は部下に対しては決して偉ぶらなかった。
家臣の意見も尊重したから、下からの受けが非常に良かった。
たしか関羽は部下に対しては優しく、目上の者には不遜な態度をとるって評されてるね。
三成も案外当てはまるんじゃない?
すまんスレが関ケ原スレだと、しらなんだ…
上からのおぼえめでたく
下の物には親しく接し
同僚からの評判最悪って
まさに主、秀吉と同じじゃん
三成も家臣からの受けはよかったと思うなー。
三成びいきはいいエピソードにだまされていると思う、不良が捨て犬にやさしくしたらいい人に見える的な。 実際身近にいたら結構いやだぞ
96 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/21(火) 01:41:10
逆でしょ、三成嫌なやつ説は江戸期に作られたネタ、チャ坊主なども同。
三成と親しい奴って結構いるぞ。兼続・義宣・行長・義弘・義継・津軽とかな、秀次事件
や蒲生の時も救済に廻ろうとしてた話もあるしな。
>同僚からの評判最悪って、奉行仲間で仲悪は浅野だけだろが、武断派は欲深で秀長も嫌っていたろ。
まあ三成マンセーの俺だがな。
要するに委員長タイプなんだと思う。
授業中携帯いじってると、「先生、福島君が携帯電話を使っています」とか即報告しそう。
先生や後輩には評判良いけど、体育会系とか不良とかにはとことん評判悪い、と。
98氏の言ってることは朝鮮出兵のときに実証されてるよな
三成の限界はいざ関ヶ原ってときに、直江とは連携を取れず、島津・小西とは戦中に疎遠になり、
佐竹や津軽からは助力を貰えず、それまで共に歩んできた長束・増田からも距離を置かれたことだろ
結局誰も三成の指導者としての質を買ってなかったんだろうなぁ
信長の野望のガイドブックだったけな。『天下の能臣になれても乱世の肝雄になれなかった』
ってあったが、それが一番しっくりくるんだと思う
だからこその魅力もあるんだけどね
乱世の肝雄な資質だったら秀吉に重用されていないかと。
乱世の肝雄になろうともしてなかったろうしね。でもそこが好き。
そもそも朝鮮出兵他、軍事面での三成の役割は兵站部門を除くと軍監。
大体、三成に恩賞を与える権利もない訳だし豊臣家だってたかだか15年の歴史しかないのだから、そもそも諸大名が彼に従うとも思えない
96 それをいうなら家康の評判が悪いのは明治以降に作られたもの。
家康がケチなのは有名、家臣が愚痴っている。彼の評判が悪いのは、エピソードやネタではなくて
彼の点火の取り方、幼君を利用して最後は殺したこと、日本人の価値観に合わない。
信長でも義昭は追放、秀吉は形だけでも織田家を大名として残している。
家康の明治以降に作られた悪評なぞそんなにない、良評も多い。
家康はけちというより節約家であり金を使う時には使う、天下の取り方が悪いというならば 秀吉のほうがはるかにえげつない、 豊臣家が滅ぼされたのは浪人を大坂城に引き入れたためやむをえない
ともかく徳川幕府300年の間、権力者により、三成は悪い方向に、家康は良い方向にバイアスかけられ続けたのは
確かでしょう。さらに豊臣家と違って徳川家は滅びず一般人になるわけでもなく、華族となり日本の支配階級の一員
ではあり続けたのだから、維新のごたごたが収まった後は、家康にそれほど悪いバイアスがかけられなかったとも
思います。
幕府の開設者が賊軍扱いされていたのは事実、明治天皇の祖先である北朝でさえ否定されているのだから徳川家に遠慮するとも思わない。 大事なのは後世の評価ではなく当時の評価だと思う、家康は律儀者でとおっており多くの人から尊敬されていた
108 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/21(火) 15:22:19
慶長14年、家康に謁見したイスパニア人のドン・ロドリゴは、家康の印象を記している。
「家康は、寛闊な衣を着、髪は束ねられ、中背で肥えており、愉快気な容貌をした
6、70歳くらいの尊敬すべき老人である」
>>107 >当時の評価だと思う、家康は律儀者でとおっており多くの人から尊敬されていた
その評価がほんとに当時のものかどうかを言ってるんジャマイカ?w
つ、律義者の仮面
107です 信長との同盟を守り続けたことは彼の信用を大きくあげたものでありそれだけでも評価できる。広大な領地をもち実績も十分である、おまけに武道や読書にはげみ性格も温厚だった、 三成と比較するまでもない。
上で家康が謙虚って言ってる人がいるけど謙虚の皮被って天下取りに利用しただけでしょ?
逆に三成は能力ひけらかして嫌われるタイプじゃないだろう
寸分狂い無い官僚(告げ口)ロボットであって、讒言で人を陥れたりもしなかった
そこに惚れるヤツ(大谷、島左近、津軽、石田家臣)
なんかは命投げ打ってでも味方するし
そこが嫌いなヤツ(福島、加藤など武功派)は本懐にそった行動をとってでも三成殺す
というくらい憎み切る
ようするに三成が人望ないっていうのは違うような、ということ。
唐突にスマソ
確かにその通りです、でもそれこそ後世の評価であり当時の人は予測できたものはすくないはず、 家康びいきではなくどちらにつくかとかんがえたら家康だと思う
114 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/21(火) 17:28:43
正義を貫くのは嫌われる、大概は人気取りをするんだな。
狸親父など豊臣の領土をばら撒いての人気取りだ。
折れは家康は嫌いだが、当時だったら家康に付くよ。自分が可愛いからな、だから三成はエロい
と思うんだよ。
111 信長との同盟を守り続けたことは彼の信用を大きくあげ って守らなきゃ武田か小織田に当に潰されている。
117 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/21(火) 17:39:50
105>大阪城が落城したときに治長が秀頼の助命をしたが、結局無力になった
かっての幼君を助けなかったんだよ、浪人や大阪城は関係ない。天下は廻りものでいいさ、秀頼政権は無理なのは皆知ってる。
118 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/21(火) 17:43:52
秀吉も律義者の家康だから大丈夫て信じて逝ったろな。
三成の義とは 所詮、豊臣家のためだけのものである。 豊臣家なんて存在そのものがうさんくさい
120 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/21(火) 17:49:01
うさんくさい、て何、それをいえば徳川だってうさんくさいぞ。
火刑の捏造、乙。
主君への忠義ってそういうものでしょ、それが普通はできないのよ強いほうに付く。
だから忠義は誉められるわけでしょ。
恩顧という言葉を連発しているのがやましさの証明、織田からうばいとった政権であり歴史も浅く秀吉が死んでしまえば権威も弱い、天下人になった秀吉は成金趣味で下品。
124 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/21(火) 21:31:42
西軍が一致団結していれば、たとえ秀忠の援軍が到着していても
東軍の一方的な大勝利には至らなかったのではないだろうか?
関ヶ原時における徳川直轄軍
大番組…江戸常駐の常備軍で小身旗本によって構成。1組50騎の6組編制で備を構成、
直轄軍の主力
槍奉行…徳川家に直属する槍隊
御先弓・鉄砲組…徳川家に直属する弓・鉄砲隊
上記二つは大番・旗本備、又は城持衆へ貸出される事もあると思われる
以上は平時は基幹要員+α、戦時に浪人を抱え戦力を整えていた
特に槍持は殆どが浪人出である
八王子千人同心…郷士による千人の槍隊
百人同心…江戸詰、一組百人の鉄砲隊で根来・甲賀の二組(当時)で構成
これらは平時から完全充足状態にあった
この他、旗奉行・使番等があり、さらに持弓・持筒(実際は弓・鉄砲隊)、徒組、近習
等の馬廻りが大将を守る
八王子千人同心以外は総て江戸常勤である事にも注目するべきだろう
これとは別に本陣付きの旗本が加わり(各足軽は槍奉行、御先弓・鉄砲頭に編入)本陣
備が構成される
当然、城持・大身旗本は他の旗本を寄騎同心制で指揮下に置き、各々備(先手備等)を
構成するので、その戦力は大名としては抜きん出たものであるのは確かであろう
因みに旗本の陣屋は江戸から一晩泊まりの場所に構えられていた
そもそも西軍が一団結するはずがない島津も小早川も成り行きで西軍になっただけ
東軍も西軍も成り行き、もとは上杉討伐軍。
128 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/21(火) 22:17:59
織田信長が西軍を率いたとしても勝ち目は無かったと思うけど?
守護代々の尾だや、どこの出か解らない松平なぞが、歴史があって上品とでもいうのかね、
それなら、狸は足利か今川に幕府を譲ればいいじゃん。
130 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/21(火) 22:25:07
前田利長は遺言どおり最低でも3年は大阪に残るつもりだったが
前田が邪魔な徳川と奉行連中が組んで「利長は淀とできている、淀と再婚し豊臣を乗っ取る気だ」と噂を流した
利長はその噂を否定するために家康の指示に従い仕方なく加賀へ帰ることにした
それにビックリしたのは先代利家の家臣たち
「利家様なら絶対に帰らなかった意地でも残ったはずだ、これで前田家も終わりだ」と家臣たち嘆きまくる
そしてさらに「国に帰ったのは戦の準備をするためだ」とまたありもしない噂をながされ利長動揺
そのうちに加賀征伐なんて話がでてきてさらに動揺
利長もうだめぽ
まあ、身分がどうのとか言うのは常套文句だからな、正統性なぞ何の約にも立たないし、
忠義なぞもエド時代に作られた価値観。
132 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/21(火) 22:29:59
前田も上杉も家康に帰国を勧められたときに怪しいと思わなかったのかな。
もともと家康軍に加わるために西国の大名は東上してきたのであって三成に味方するためではない、関ヶ原は成り行きかもしれないけど東軍についた大名は成り行きで家康に従軍したわけではない
134 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/21(火) 22:33:13
128>のぶなが自身は余り戦いは得意じゃないからね。
135 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/21(火) 22:34:38
>もともと家康軍に加わるために西国の大名は東上してきたのであって
間違い、秀頼の命令による上杉討伐軍、あくまで豊臣の軍。
秀吉は攻城戦が得意で家康は野戦が得意って言うけど、まともな戦いの勝ちって若獅子決戦位しかしらないな。
でも総大将は家康であり軍資金ももらっているはず 豊臣の正規軍は東軍では?
そうだね、豊臣の正規軍論争はどこかであったと思うが少なくとも最初は家康が秀頼の命により
上杉を討伐するということだったね。
140 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/21(火) 22:57:01
つ、ナイフ違いの条々
内府ちかひの条々は秀頼の名前で出てないからなぁ…
そこが西軍の最大の弱みさね。
でも奉行集が出せば豊臣家の正式文書では、と釣ってみる。
武断派が逆に反発するかも
144て、なんのこと
家中が分裂している時点で豊臣の天下は終わり、利家がいきていれば?
家中が分裂している時点で豊臣の天下は終わり、利家が生きていれば?
148 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 00:55:01
利家が生きていれば?
関ヶ原はないな、家康は無理をしない男だよ。利家にジャブを出して、あいてがマジできそうだと思えば
手打ちをしてきたからな、利家が伏見を急襲でもすれば面白いかも。
たしかに領国に戻って戦の準備もできないしね
毛利が利家側について兵を揃えたので家康はびびってたからね、利家の健康が良かったらヌっころがしてたかも。
151 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 14:08:53
東軍と西軍は、どちらも豊臣の正規軍とは認められないと思う
確かに関ヶ原は私闘にしかすぎない。
三成びいきの人は 三成=善 家康= 悪という短絡的な発想しかできない 人が多すぎ
>>128 信長なら勝てると思うが
準備段階で家康に後れをとると思えない
>>153 秀吉死後から関が原までの経緯を考えれば
どう見ても天下簒奪する悪党というイメージは払拭できないよ。
ましてその後豊臣家も根絶しており弁護の余地無し。
ひるがえって三成は不利を承知で義に準じたと言うイメージで
とらえられやすい。
ぶっちゃけ三成は関が原の敗者となることで
三成=善 家康= 悪とのイメージが定着しやすくなってるのは致し方ないだろ。
逆に考えてみて三成が勝者となってた場合でも
家康は秀吉死後から関が原までの経緯からして、家康=善とは見てもらえないだろう。
幼君をないがしろにして政権簒奪を企んで三成達の義挙に敗れたというイメージができて
これまた三成=善 家康= 悪になると思う。
それをいうなら秀吉の方が悪党。家康は秀吉の主家である織田家の同盟相手でありそれほど問題ない。 三成が義の人というが
松平と今川の関係は?
豊臣家を乗っ取らないとどうしていえる 秀頼の後見人として実権を握るつもりだったはず、まさか乗っ取りや幼君を利用したりしない秀吉とは違うとでもいうつもりか
松平は独立した大名
むしろ秀吉ファンは秀吉の暗黒面を一所懸命見ない様にしているのが
個人的に気に障る
庶民のヒーローという触れ込みだから見たくはないんだろうけどね
後、その暗黒面が必要なものでなくどう見てもマイナスにしかならなか
ったという面もあるかもしれない
秀吉の暗黒面は家康以上かも
162 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 21:06:53
家康の死後に「第二次・関が原の戦い」があれば、東西両軍の総大将は
それぞれ誰になっていた可能性が考えられる?
家康の暗黒面は、御家安泰の一心から出てるものだから分かりやすいモンだろ
逆に秀吉の暗黒面はなりあがり故のコンプレックスも相まって偉くドス黒い気が
織田信雄、丹羽長重、佐々、蒲生たちに対する仕打ちはもとより、秀次事件のときなんて見境なさすぎ
その暗黒面を三成も目の当たりにしたはず
166 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 21:42:28
>>162の仮説は馬鹿らしい感じがするけど、しかし想像してみると面白かったりするなあ・・・
167 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 21:53:45
秀忠が暗愚だったと仮定して・・・
東軍=総大将・藤堂高虎(総兵力・8万4千)
西軍=総大将・毛利輝元(総兵力・8万9千)
これだったら面白いかもね?
>>155 あなたのいうことは正論でもあります、ただそのイメージだけでものを いう三成びいきが多いということ、
高虎はありえないだろう、
形式的には総大将は将軍秀忠以外にありえないし、
形式的にも譜代の重臣がいるのだからその中の誰かってことになるだろうよ。
文治派・本多正信 対 武断派・井伊直政とかw
172 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 22:22:51
幕府内部で文治派の本多正信と武断派の井伊直政が対立・・・
伊達政宗が、この対立を利用して井伊直政を味方に取り込む
そして、情勢が混沌としたのを見計らって大阪に拠点を移す
こうして、再び関が原で決戦が起きた・・・
東軍=総大将・本多正信(総兵力・8万4千)
西軍=総大将・伊達政宗(総兵力・8万9千)
さて、この結果を想像するのは面白いところである
本多正信は息子の縁で前田利常を味方にするだろう
上杉は伊達が嫌いだから本多側につくね
174 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 22:29:22
>>173 東軍と西軍
どちらが多く兵力が集まると思うの?
秀康対秀忠で決まり。
秀吉が善人なんて誰も書いてないんだよ、天下は力があるものが収めるそれもオーケーだろよ、
狸が嫌われるのは、秀頼のためとか言いながら最後は殺したからだろ、秀頼を助命して捨扶持でも
アタエテいりゃーこんなに嫌われないんだよ。
小田の同盟相手なら天下とっていいって何だそれ、沸け解らん。
浅いでも武田でも上杉でもいいのか、何の正当性もないぞ。
大体小田は天下なぞとってないだろ、馬鹿な正統性議論するなら家康は天皇に大政奉還しろ。
秀康はあえて反旗を翻すような人ではないと思うが。
可能性で言うなら忠直の方が有る。
関ヶ原以後、豊臣家が15年も大坂城にいたのが悪い、家康が将軍になったころに屈服してれば高家として残れたはず歴史的に見ても殺さない方が甘い
相手を屈服させるのが天下人の器量だろうよ、だからみんなに尊敬されるんだ。
創世記には残忍なことも、悪いこともやる、だが天下を握る戦いは、こじつけでも
正義がいるんだよ、それを君臣崩落なんて変な難癖で戦を起こすから嫌われるんだろ。
>歴史的に見ても殺さない方が甘い じゃあ秀吉が関白になったときに、従わなかった連中は
みんな殺されて当然か。何で家康が嫌われるかだろ、甘いとか辛いとかの話じゃない。
181 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 00:52:27
>関ヶ原以後、豊臣家が15年も大坂城にいたのが悪い
家康は豊臣の執政として関ヶ原で勝利したんでしょ、君臣の奸を除くということで
、何で大阪城を退去しなきゃならないの。
立場があきらかに逆転してるのにいつまでも主君気取りでいればつぶされるだけ 織田家のように臣下になればいいだけ
>>159
ついでに聞いてみよう
秀家時代の宇喜多も独立した大名?
徳川憎しで凝り固まった薩長の歴史観に見事に踊らされてるよ
180 論外 勉強不足
186 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 08:32:06
人のことを勉強不足とかいう場合は、ちゃんと論拠を示さないといけないな、
でないと単なる荒らしや厨と変わらないよ。
徳川と秀吉では、時代が違う。
織田→豊臣政権交代時は、いまだ織田家は天下を征してはおらず、近隣には反織田大名が残って
いたし、織田自体政権を確立していなかった。
豊臣(羽柴)秀吉はそんな状況の中で、次期織田を継ぐ家臣間のなかで勝ち残っただけ。
対する豊臣→徳川は曲がりなりにも豊臣政権という天下統一政権が確立した状況でのヘッドのすげ替え。
しかも秀吉の様に同列家臣間で戦い生き残ったのでは無く、他人の家臣を操って勝利したわけで、簒奪感
はどうしても残ってしまう。
あと秀吉はなんだかんだ言って、織田家には譲歩して顔をたててやっている。
岐阜城を中心とした地域は結構な要地だしね。
徳川は大阪の陣にいたる15年間の難癖事件の数々と最終的に豊臣を滅ぼした事実が悪印象の極めつけ
じゃないかな。
いいわけがあるとすれば、織田は秀吉に対し比較的仲がよかったけど、豊臣はどう見ても徳川を嫌っていた
ところ、もう少し豊臣・徳川間で譲歩しあえればまだ良かったと思うのだが…
その秀吉の天下があっさり乱れてしまったことが
豊臣政権が崩壊した最大の原因なんじゃないか?
その原因を作ったのは秀吉であり、正則、三成ら家臣質だろう
いくら家康に天下への野心があっても秀吉の治世がしっかりしてれば
家康もおとなしくしてただろう
あと、秀吉が織田をたててるって言うけど
三七郎信孝の無残な最後とか見るとそうは思えん
家康だって高台院には大名並の待遇させてるし
豊臣一門で家康に楯突いてるのって秀頼含むごく少数だけじゃん
189 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 09:52:55
この場合の薩長の歴史観て何。
秀吉は信長の直参の家臣であるが 家康は織田の同盟相手であり秀吉の主筋にあたる。秀吉が織田家にしてきたことを考えれば豊臣家はどうふるまえばいいかわかるはず
189 徳川家を悪者にしたてあげるテクニックのひとつ、 豊臣家や三成を善人にすることによって必然的に家康が悪になるという図式を作りあげること
192 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 10:54:54
191 具体的には。
>>190 徳川が秀吉の主筋ってのはない。それは江戸時代に家康の行為を正当化するための方便。
だいたい清洲同盟は締結の最初から対等な同盟ではないとも言われている。
つ、主筋 足利>斯波>守護代織田>信長
三七を殺したのは信勝でしょ。大体、秀吉が主筋として担いだのは三法師だよ、
家康が大老として担いだのは秀頼でしょ、だから三七は関係ないし、秀頼を殺害
したことの言い訳にはならない。
大体、家康擁護派は秀吉が悪人だから家康は悪人でも当然と逝ってるように聞こえる。
190 論外 勉強不足
神君家康公(笑)
だいたい家康は関ヶ原で勝利した段階で唯一の大老、奉行もいないし、秀吉の様に骨抜きにして、大阪を退去させるって何でできないかな。
199 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 11:44:50
家康も秀吉も力があったから天下を取ったまで善悪の問題ではない、悪いといわれていることも必要かどうかということ
何か織田の怨念厨がいるな、織田の天下を取られ田だの、仕打ちを受け田だの
家康が織田の無念を晴らすために行動したとでもいうのか。信長直系の秀信は
広野でむなしくしんだな。
家康は必要以上に悪くいわれている、あまり面白味のある人じゃないからかな、でもこういう人の方が日本向きなのかも頼朝とか大久保利通とか
山田風太郎の「妖説太閤記」読んでると
秀吉が極悪人に思えてくるな
そうですね、小説からのイメージというのはおおきい ですね 宮本武蔵なんかほとんどそれだし
家康は秀吉が死んでからキャラが変わりすぎだよ、漏れも小さい頃は家康の電気なんか呼んで
勤勉、実直、苦労して天下人になった立派な人とおもっていたものな。家康も晩年は自分が
生きている内に全てをかたずけようとあせった気がする、まあ信長や秀吉が死んだあと忠臣
ずらしていた連中がどう動いたか考えれば、あせる気持ちもわかるがな。
205 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 13:42:06
SF小説乙
206 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 14:04:42
204>当事者乙
徳川史観
義元 名門であることに傲った愚かで無能な貴族趣味デブ。
信長 残虐、非道で神仏を恐れぬ魔王 息子と妻をころさせた残忍・無慈悲なヤツ。
秀吉 成り上がりものの猿面冠者、徳川が受け継ぐべき天下を奪った簒奪者。
家康 艱難辛苦をなめながらも、勤勉、実直で文武両道の律儀者、乱れた世を治め太平の世の中を作る、源氏長者。
まあ実際の勝ち組の徳川家なんて議論しても面白くないし
勝てば官軍だから歴史書き換え放題だしな
今の義元の評価の低さなんて
江戸時代に出来たものでしょ、気の毒すぎ。
前田利長は親豊臣です、彼は死ぬまで「羽柴肥前守」と名乗っていた
豊臣が嫌いな徳川家康はこれをにがにがしく思っていたらしい
ちなみに家康は羽柴と言いたくないため利長のことを「越中中納言殿」と呼んでいた
(もう当時は中納言じゃないのに)
秀忠も秀吉にもらった一字を変えなかったよね。おねにも可愛がられたらしいし
しね、徳川の当主としての立場は冷酷なものだけれど、内心では秀吉夫妻に感謝
していた面もあるんだろうな。家康も桶狭間の古戦場の側を通ると義元の霊に合掌
していたなんて話もあるし、駿府では人質とは言いながら将来を見込んだ義元に
雪斎まで付けてもらっている、この時の教育が後の家康に役だったらしいから、案外
感謝してたんじゃないかな。逆に織田の人質時代は扱いが酷かったらしいね。
利家時代には家康を凌ぐ権勢だったわけで、その時代を知る利長にとっての最後のプライドだろうな。
やっとレベルの高い家康批判が展開されてうれしいです
家康も狸っぷりやケチっぷりは
江戸時代から言われてるしあまり歴史改竄のイメージはないなぁ
むしろ江戸時代以降の抑圧された民衆の感情が
豊臣方を持ち上げた気がする
215 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 16:34:31
江戸時代から石田や大谷の見直しってあったんじゃまいか。
ほかに豊臣のええエピソードなんかある。
211>神君のイメージupの為に悪いイメージに義元は貶められているけど、家康には目をかけてたようだな、屋敷を与えて↑の様に学問も教えた。
人質とは名ばかりで、将来は今川の将にと見込んでいたらしい。
桶狭間戦でもこきつかわれたっていうが、先陣なんて名誉なことだし、早く手柄を立てさせてやろうという義元の親心にも思える。
若かった元康も義元の前で手柄を立てようと勇躍出陣したみたいだから、早くに親を失ってた元康にとって親代わりと言えなくもない。
家康にしたら信長、秀吉より、自分に目をかけてくれていた義元の方に好感をもってたと思うよ。
義元の孫に金を与えてわざわざ泉岳寺なんか作らせちゃう辺り、家康は義元に感謝してたんだろうな
第一駿府時代が屈辱的なモンだったら好き好んで駿府で老後に住んでる意味が分からない
家康が生涯愛した鷹狩は、元々義元が家康に推奨したものだし
義元が暗愚なデブっていうのは、徳川の家臣史観という方が正しいんじゃなかろうか
勿論、家康が公然と義元を評価したことは無いわけだし、んな発言をするほど迂闊じゃないと思うけど
218 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 17:48:46
↑それはないでしょ 先陣は名誉とはいうけど戦死率高いし、今川の三河からの横領がはげしいから家臣たちも耕作していたぐらいだから。三河の小倅とばかにもされてたし
219 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 18:02:30
家康の腰の低さは人質時代にみにつけた処世術。下手なことしたらころされかねないからね
三河の小倅って良く聞くけどソースは何なの。
家康が駿府に住んだのは、おれは支配者として帰ってきたぞ、てな感じかと思っていたがな。
家臣の苦労はあるかもしれないが、今川という傘の下で幼い時に過ごした駿府時代が家康にとって一番楽しい時だったのかな。
もし、そうなら家康の寂しさが感じられて、家康への見方も変わるな。
。・゚・(ノД`)・゚・。
222 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 18:51:17
219>信長にな。
223 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 19:18:31
宗関和尚て義元の孫でしょ、家康が拝請して寺を建立したっていうし、なにげに氏真も高家
に取り立てているし、豊臣、織田に対するより厚遇じゃない。
氏真って割と自由な生き方をしただけかもしれない。
義元の子だからどうというわけではなく蹴鞠しまくって
やりたいまま。武将としては糞だけど。
でも最近は再評価されてる音。
旧世代の代表とされている今川だけど実は戦国当初は
革新的な存在だったという話もある
新世代と呼ばれたものが次の新世代に凌駕される…歴史の皮肉を感じるな
家康からしたら義元は大恩人だよ。
なにしろ父親が急死して混乱した松平家中を押えて、他国に人質中の家康を
当主として確立させた。本来なら兄弟なり一族なり他の有力国人なりがこの
機会に乗っ取りをはかる。一枚岩、絶対忠誠の三河武士なんて後世の創作。
さらに自分の一番の側近を教育係に任じるは、一族の娘を娶わせるは。
とくに結婚については、いわば土豪松平を足利一族である名門今川家の一門
に入れたようなもの。
ただ、押えらていた家臣豪族たちにはそんな感情はなかったが。
ちなみに、桶狭間の先鋒については当時の慣習。一番新しく家臣に加わった
者が、一番最前線に近い場所に所領をもつものがもっとも危険な先陣を承る。
忠誠をみせるために。もし桶狭間で織田が屈服していたら、今度は美濃なり
伊勢なりを攻めるときに松平が織田を与子にして先陣に当てられていただろう。
228 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 22:43:09
そういえばそうだな、どこの馬の骨かわからん奴に名家の嫁を与えてるよな、
義元が松平の歓心を引く必要も無いから、それだけ元康の将来性を買ってた
ということかな、勉強になりまつた。
いい加減に歴史物での義元の評価も変えて欲しいな、馬鹿の一つ覚え。
元康と義元で新少年徳川家康をキボンヌ。
>>229 石ノ森章太郎の「日本の歴史」ではそれなりの関係を描写してましたね
ここは関ヶ原スレッド
度を越した家康論議は他所でどうぞ
では、冶部殿お題を
234 :
行部:2006/03/23(木) 23:50:56
佐吉ですぎるな、敵を知り己を知るのが肝要。
235 :
主計頭:2006/03/24(金) 00:13:23
佐吉さえいなきゃ、俺も市松も西軍についてたさ
ではお題を 三成の戦略構想や政権構想とは?
徳川打倒後の政権構造はどう考えてたんだろう
そもそも三成一人で決められるもんでもないが
当時、日本一の戦力を持つ徳川家に逆らおうと思う奴がどれ程いるか・・・
朝鮮出兵していないから進化に乗り遅れたという話もあるがとても総とは思えん
寧ろ、軍制の制度化では時代の最先端行ってるみたいだし
前田利家が家康と対立したとき戦をしてれば勝てたな
前田上杉などの北陸勢が北陸から関東徳川征伐 総勢7万
それに呼応して石田毛利宇喜多島津が西から諸大名を引き連れ東上 総勢12万
家康しぼーんw
そもそも諸大名は豊臣に武力で制圧されたわけだからうらみこそあれ恩など感じていない。 豊臣政権は秀吉のカリスマ性によるところが大きく秀頼が幼く家中が分裂しているのではどのみち先は見えていた
241 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 13:14:15
>諸大名は豊臣に武力で制圧されたわけだから
そんなのあたりまえ杉、どの時代でもいっしょ。
242 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 13:46:57
まだ何年もたってないし諸大名はそれ以前は曲がりなりにも独立性を保っていたはず
243 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 13:50:14
>239
それぐらいの戦力しかも寄せ集めだと下手すると拮抗か返り討ちになる畏れがあるな
徳川は単独の直属で万以上
前田に付く方が多くても徳川の味方が全くいないわけではないだろうから
戦力差はさらに縮まる
徳川の分が悪目でも小牧長久手のように持っていかれるかもな
244 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 14:44:27
徳川7から8万ね
その面子でやる気あるのは前田、上杉、真田、石田、宇喜多、毛利、小西、立花位だろ。
奥羽勢は徳川方に付きそう。
最上なんて娘殺されてるし。
246 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 15:14:00
徳川軍張り子の虎説だけど、小牧の陣依頼本格的戦闘がないことと、当時は少数精鋭、関東入りで水増しされたこと、大阪の陣での醜態などから言われていることだよね。
家康ブランドが高いから否定したくなるけど、否定するだけの材料も薄いなあ、関ヶ原でも戦ってないし。
247 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 16:26:51
>245 加藤、細川、蜂須賀、佐竹、相馬、堀などは利家側だろ、中国・近畿・九州
勢が殆ど味方ならノープロブレム、伊達はどうにでもなりそう。
250万石は恩賞には魅力だから、4方から攻められてぼこられる悪寒。
小牧長久手の時は関東、四国、紀州、越中と味方がいたし、九州、東北も残って多
今度は苦しい。
関ケ原では井伊隊や本多隊がバリバリに戦ってただろ
それも豊臣恩顧武将が敬遠した島津を多数討ち取ってる
250 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 17:09:38
利家側はビッグネームが多すぎて利害調整がつかないのでは 反家康だけでまとまるともおもえない、最悪前田が単独でたたかうはめになる
251 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 17:12:19
つ、井伊鉄砲傷で死亡、ホンダ愛馬を撃たれて落馬。
252 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 17:17:34
利家は家康に舐められきっていた
253 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 17:18:37
伏見の時の3大老+反家康は協力するでしょう、家康をヌっころがすまでは。
追撃戦だから島津勢を大量に討ち取れるのも当然。
大体、兵力の差を考えると本命の惟新を討てない方がおかしい。
255 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 17:25:52
大老では宇喜田だけでしょ毛利はひよるだろうし関ヶ原の時だって総大将の名前につられただけ
256 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 17:28:43
上杉は弱いし。最上相手に大敗してるレベル。頼りにならん
257 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 17:37:24
つうかよ
家康暗殺してたら徳川潰すのにはどう影響するの?
家康いなくなったら放置?それとも潰すの?
反徳川の結束の影響と当主は秀忠になるだろうが秀康とかがどう動くか気になる
258 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 17:38:12
上杉謙信なら強いけど、景勝は死ねレベル
259 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 17:45:15
でも兼続はそこそこ優秀だったでしょ?
260 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 17:52:14
長谷堂撤退戦で、上杉側はもの凄い死傷者を出してんだな、これが
261 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 17:55:32
上杉って兼続以外ろくな武将がいなかったんじゃ
262 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 17:56:47
>>260 撤退戦は最上、家康にも賞賛されてますが
263 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 17:58:10
そりあ、撤退戦だから損害大杉は普通だろ。
上杉って、どうも武者単位での武勇伝が多すぎるよね。何でかな
上杉が最上相手に失った兵は3000人に達する
266 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 19:08:52
西軍:総大将=前田利家・総兵力9万8千
東軍:総大将=徳川家康・総兵力9万2千
これで関が原の戦いになったら、どちらが有利だったと思う?
>>266 そんな大軍、関ヶ原では狭すぎる
やるんなら濃尾平野になるし、そうなると基本は運動戦
なれば野戦の名人たる家康に軍配が上がる
269 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 19:56:30
東軍が笹尾山を砲撃すれば、西軍主力を桃配山に誘き出すこともできたと思う?
270 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 20:03:39
266 そんな戦いになったら乱世に逆戻り 黒田や伊達が漁夫の利をさらう
271 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 20:24:37
三成が本陣を離れることは考えられないと思う
だから誘い出すのは困難であろう・・・
272 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 20:26:30
伊達政宗が西軍を率いたとしても勝ち目は無かったと思うけど?
>>248 徳川家の関東における大名の配置を見ると一筋縄ではいかんぞ
274 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 21:07:53
>>272 政宗なら勝てると思うが
準備段階で家康に後れをとると思えない
利家を筆頭に4大老5奉行決起、徳川征伐に総勢20万、な〜んて話を聞けば伊達は速攻で白旗揚げるよ
そして最上の領地取っただけやるとでも言えば喜んで西軍につき最上を攻めるだろう
結城秀康も家康嫌いだから裏取引でなんとでもなるな
276 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 21:28:07
利家にそれだけの器量があるわけない。反家康=親前田というわけではないし反前田だってでてくるって
277 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 21:31:14
>>276 反徳川反前田の連中は、どういう行動に出るのだ?
278 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 21:40:55
>>277 A:徳川信者+アンチ>前田信者
B:前田信者+アンチ>徳川信者
A・Bが成立するなら三国志
A・Bが成立しないなら日和見
279 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 21:46:51
あっ、C・Dも必要だった
C:徳川信者>前田信者−アンチ
D:前田信者>徳川信者−アンチ
A〜Dが成立するならに訂正
280 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 21:49:27
20万の軍を動かせる器量があったら前田が天下とってるはず
281 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 21:57:25
どっちについたほうが得かと見れば利家のほうが仲間多いんじゃね
282 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 22:02:09
275 これが出来るんだったら秀吉がやってるはず 秀吉だってできなかった
秀吉は家康を信じたんだろうな、逆に言えば家康が難癖を付けられる隙をみせなかっただけだよ。
信長なら無理難題を言って、どんな損害をだしても潰すだろうけどね。
小牧長久手の時とは違うよ、天下人になった秀吉を家康は恐れていた、秀次事件の時の家康の慌て
ぶりが証明しているよ。
利家は秀頼を担いでたからな、どちらかと言えば家康不利だろうな、
勝てる可能性もあるかもしれないが大博打だよな、だから家康は本当の意味では
利家と衝突するのを避けて死ぬまで待ったんだろな。
全然関係ないが
司馬遼の関が原の家康が大好き
286 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 22:44:39
神君マンセーの特徴
神君以外の大将は求心力がない、神君が出れば敵は四分五裂。
神君は野戦では誰にも負けない。
神君の旗本は最強軍団。
>>283 家康を信じていたというのが大きいんだろうね。
天下統一した秀吉ならその気になれば徳川をつぶすこともできただろう。
徳川討伐時の理由付けは何とでもなる。
秀忠が謀反を企ててるとか適当に。
家康は秀吉が死ぬまでは律義者で通ってたからな、秀吉にすれば家康の能力も
豊臣のために使えると考えたんだろうな。
289 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 22:58:23
秀吉は家康を脅威に感じなかったのかもしれない・・・
うまい、そうだろうね。もし脅威と感じていたら何としても潰すよね。
晩年の秀吉なら何をするか解らないしね、上洛してきたところを難癖
付けて捕らえればそれで終わりだし、上洛しなければ謀反の疑いあり
って感じかな。
291 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 23:05:08
>>290 家康が殆ど抵抗せずに早々と臣従してきたから、つい侮ってしまったのかもしれないね?
292 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 23:06:32
如水に対しては冷たいもんな秀吉
293 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 23:09:34
家康より、むしろ島津や伊達のほうに脅威を感じていた可能性がある
だから、家康を彼らに対する抑えに使えると考えていたのではないだろうか?
毛利の力を削ぐ方に力点があった気がする。
家康を関東に置いたのは、東北の抑えの意味合いだよな、もちろん相互牽制。
295 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 23:14:26
五大老という制度があることじたい豊臣政権の脆弱さ 有力大名の連合にしかすぎずあまり強行な手段がとれなかったのでは
296 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 23:16:48
本能寺の変当時なら、徳川より毛利や伊達のほうが兵力が多かったよ
五大老制は秀吉が死の床に付いてからだよ、秀長の死後は秀吉の独裁プラス奉行の補佐。
298 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 23:20:40
本能寺の変 て 鳶杉
299 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 23:25:18
秀吉と晩年が似ている三国志の人物は誰がいる?
豊臣政権知りたければ、武家清華など調べるがいい
>有力大名の連合にしかすぎず
徳川幕府以前の政権はそんなものでしょ、有力守護大名を親征で粛清した義満の
例もあるから、秀吉が生きていれば問題ない。生きていれば...
300>家康の捏造が良く解るよ。
303 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 23:37:21
秀忠が上田城を素通りして関が原に向かっていたら、真田は秀忠を追撃していたかな?
>>299 魏なんかどうよ?司馬炎にのっとられちゃう
305 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 23:40:43
もし信長が生きていたらもっと中央集権になっていたはず 秀吉にはそんな余裕がなかった
>>302 ほぅほぅ、武家清華を調べれば家康の捏造がわかるとは初耳
kwsk
余裕というより考え方が違う気がする、
>>286 求心力があって、野戦に強く、旗下の軍団は強大な一番の大名は家康
家康が天下をとらない方がおかしいです
秀吉が死んだ時の豊臣政権はカゲロウのごとき存在、家康が動かなく
ても、有力大名の間で権力闘争が起きるのは必定
そしてそれを制圧できるのは此れもまた徳川家のみ
どう転んでもそうなるのです
309 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/25(土) 00:18:29
もし序盤で東軍主力が壊滅しても、西軍が勝利するまでには至らなかったと思う?
310 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/25(土) 00:20:25
BMW 1または3 黒または紺
品川 も 3−37
20代半ばから30代半ば
地元住民が近づくなり急発進で逃走。
>>309 東軍主力=徳川の兵が壊滅した場合、もし東軍が勝っても史実のような強い立場は取れず、
更なる混沌へ・・・
正直、天下統一後の秀吉は享楽に溺れ
徳川の存在から目を背けてる気がする・・・
314 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/25(土) 01:02:09
そのような時の保険のために秀忠軍がいるのでは?
前田利家より小早川隆景が生きていた方が
西軍にとって大きいと思う
316 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/25(土) 08:43:31
それいうなら秀長
結局秀長利家隆景秀政氏郷全員いたらなって話
>>303 あの真田の勝利は、自軍の有利な地形に誘い込んでの奇襲だから勝てたのであって、
まともにぶつかったら自軍の20倍もの大軍に勝てるわけないでしょ。
逆に言えばほぼ100%負ける合戦に勝ったところに、真田昌幸のすごさがあるわけ。
つか、秀忠も上田城の抑えとして数千人は配置していくだろうから、
その時点で真田は手も足も出なくなっちゃうよ。
>>316 結局、最後まで生き残った家康が・・・・って続くわけだから
まさに「無事即是名馬」だな。
つうか家康って秀吉生存中に天下取る気あったのかね?
秀吉死亡後見渡してみたら自分が一番天下人に近かったってだけかもしれん。
もしそうだとすると秀吉には一生家康の野心は見破れない訳で
前田利家存命の時から動き合ったから生前から狙っていたんでしょう。
動いてみたら前田の方が有利だったけど、前田は既に死にそうだったから
もう一歩待った、と。
321 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/25(土) 12:29:14
家康が250万石もっている時点で大勢は決している
秀吉は自分が死ねば豊臣家の求心力が落ちることはわかっており家康を取り込むことで安泰をはかったのでは むしろ家中の乱れや諸大名の離反の方が心配
たしかに家康が行動を起こす前に
家臣団の対立や民衆の支持の下落があったわけだからなぁ・・
324 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/25(土) 18:06:43
自分の死後は頼むべき人がいなかったんだよな、五人の衆頼み申し候。
直家は秀家を秀吉に託した時と同じ気持ちだよな。
淋しス。
325 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/25(土) 18:07:27
託した相手が、アボーんじゃね。
326 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/25(土) 18:13:50
豊臣家は家康に依存しておりもし後ろ盾を失ったら一気に弱体化するはず 反家康連合でまとまるはずがなくみんな好き勝手に動くだけ
327 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/25(土) 18:33:42
328 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/25(土) 19:04:14
幸村が徳川の本陣に突っ込んで、家康が敗走した時点でもう勝ってると思うがなんで、そのとき勝利ってならなかったのか教え点
結果としてまけてないなら敗走とは言わないだろ
戦術的撤退だよ
卑怯ですな、家康は。
狡いくらいじゃないと勝ち残れない
333 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 01:00:57
堀秀政って、生きてたら西軍なの?
334 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 01:04:45
南宮山2万8千と松尾山1万9千が攻めたら確実に勝った?
堀久太郎は長久手でも徳川の精鋭相手に互角にやりあってるしな
でもまぁ池田輝政みたいにあっさり鞍替えするかもなぁ
>>334 東軍にも4万以上の予備戦力があったので、確実にとは言いがたい。
予備戦力4万以上ってそんなに入らない気がするのは俺だけですか?
せめて、3万で十分と思うのですが・・・。
>>337 家康本隊3万が関ヶ原の東方桃配山に陣して後陣となり、
そのさらに東に南宮山の西軍への押さえとして1万4千ほどが配置されているという情勢。
339 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 12:03:54
>>334 史実より厳しいながら東軍の勝ちは変わらなかったと思う
340 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 12:24:42
豊臣がマジで徳川の横暴に
危機感を持っていたら豊臣本体も
兵を差し向けるよね。
200万石もあるんだから大坂守備をおいても
3-4万は余裕で関が原に進出できるはず。
三成も豊臣から強い要請があるまでは動くべきじゃなかった。
341 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 12:27:21
>>340 上杉>>>毛利>>>宇喜多というように
次々に屈服させられて結局大坂の陣みたくなるのでは?
>>340 豊臣家からの要請って、
豊臣家の意志を決定出来るのは家康ですよ?
自分で自分を倒すように三成に要請するとでも?
343 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 12:33:24
>>341 アフォか?
上杉が簡単に屈服すると思ってる?
3万以上の兵力をもつ大大名なんだよ。
秀吉の北条家攻囲ほどの威力は家康軍には
ないって。
まして毛利に遠征ということは上杉以上に
困難というか不可能だと思う。
344 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 12:37:06
上杉などは雑魚だよ。
最上と伊達連合軍に、散々痛めつけられているわけで
>>343 石高にして小田原の陣の時の北条の半分程度、しかも国替えして僅かで足下も固まっていない。
はっきり言って当時の上杉じゃあ討伐軍に対して太刀打出来ない。
それから、上杉討伐軍は家康軍ではなく豊臣軍としてやってくる。
346 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 12:43:44
>>342 豊臣は淀君が決定権をもってるでしょ。
>>44 伊達は上杉を恐れていたから全面戦争はしてないよ。
重臣を派遣してちょっと当たらせただけ。
最上は攻めこまれまくりで城も落とされまくりだよ。
西軍敗退の連絡のあと撤退時にやられただけ。
上杉は少なくとも東北では敵なしだって。
347 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 12:48:43
豊臣は秀頼が成長するまでは家康とことを構える気はなかったんではないか そんなことしたらほかの大名をおさえられなくなる
伊達が上杉を恐れていたなんて、そんな文献どこを探しても
出てこないよ。むしろ、上杉が伊達を恐れていた。
白河口にすら出れなかったのが、その証拠だね。
家康の正規軍と伊達・最上に挟まれて会戦してれば、
上杉は滅亡したね
349 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 13:01:50
秀吉の正室だったおねの方が決定権を持ってたんじゃ というか重臣たちの合議で決めると思うけど
351 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 13:55:51
あるとき石田三成は反家康の同志である上杉景勝に会い、打倒家康の秘策を打ち明けた
それは前田家と徳川家を不仲にし両家を戦わせ
疲弊し弱った徳川家を叩くという漁夫の利作戦だった
それを聞いた景勝は「利長は父とは違う軟弱者である、内府と戦うことなどできぬ
すぐに和平の道を探すに決まっている、それに内府は知恵者である
それを好機と見て人質でも取り前田家を自分の味方にするに違いない
内府と利長を戦わせるように仕向けるのは絶対にやめたほうがよい
思うに、利長は軟弱でともに語るに値しないが、その弟利政は優れた者なり
彼を味方にし、前田家が徳川家と通じないように謀るべきである」と言った
しかし三成はそれを無視して実行
結局景勝の言うとおりになってしまったとさ
当時、反家康連合を組んで家康をたおすより 反豊臣で各地で反乱を起こす方がありえた気がする
>>351 見事なまでの、その後の展開を知っている後世の人間による創作話ですね。
354 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 15:29:15
笹尾山方面隊2万4千+天満山方面隊1万5千+=東軍主力3万9千
笹尾山西軍8千+天満山西軍2万6千+島津隊2千=西軍主力3万6千
家康本隊3万+旗本5千+南宮山方面隊1万4千=東軍予備戦力4万9千
松尾山西軍1万9千+南宮山西軍2万8千=西軍予備戦力4万7千
東軍主力3万9千+東軍予備戦力4万9千=東軍総兵力8万8千
西軍主力3万6千+西軍予備戦力4万7千=西軍総兵力8万3千
どう考えても、東軍の兵力が西軍の兵力より多い
三成が忠臣ならば秀吉の女癖の悪さを諫めてもっと健康にも気をつかわせるべき
>>355 してたかもよ
三成がいなかったら晩年の秀吉の凶行はもっとひどかったのかもしれん
まァ、小一郎がいなけりゃ駄目だったんでしょうが
357 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 23:03:08
晩年の秀吉を諌められたのは、家康でも利家でもなく三成だけ。彼の諌めをきかないときや不在のときに凶行がでた。
でも秀吉も彼を遠ざけなかったのは、それが豊臣のことを思っての事とわかっていたんだろう。
358 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 23:13:27
354 互角だね、5千の差なぞ無いに等しい。
359 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 23:47:21
本当は西軍のほうが多いんじゃないのか?
じゃなかったら家康は彼の性格上完全に持久戦を狙ってるだろ
360 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 00:32:53
西軍―
(主力)36100
(松尾山)19890
(南宮山)27900
総勢83990
東軍―
(豊臣恩顧)38500(徳川普代)7100(徳川本体)30000(南宮山)14000
総勢89600
因みに質問だけど、徳川旗本が30000もいるのは確かなのか?あと小西4000は少ないような気がする・・・
http://tekipaki.jp/~clock/software/index.html 石田三成の成分解析結果 :
石田三成の73%は根性で出来ています。
石田三成の21%は大阪のおいしい水で出来ています。
石田三成の3%は果物で出来ています。
石田三成の3%は大人の都合で出来ています。
徳川家康の成分解析結果 :
徳川家康の61%は海水で出来ています。
徳川家康の14%は欲望で出来ています。
徳川家康の9%は毒物で出来ています。
徳川家康の5%はビタミンで出来ています。
徳川家康の4%はかわいさで出来ています。
徳川家康の3%は気の迷いで出来ています。
徳川家康の2%は汗と涙(化合物)で出来ています。
徳川家康の1%は時間で出来ています。
徳川家康の1%は呪詛で出来ています。
362 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 00:43:03
福島が北に向かい、宇喜多の相手が井伊だったら蹴散らせたな。
363 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 00:47:24
小早川造反まで壊滅した隊が両軍とも皆無というのが信じられん。本当に誰も脱落してないの?特に三成の本体とか藤堂、福島とか。
三成って、奇襲策とかつくってなかったの?
もともと上杉征伐のために集まった連中とかもまとめて西軍に仕立て上げたりする事で
精一杯だったんじゃないか?とにかく軍を膨らます事に奔走してたろうし、
そこまで余裕があったとは思えん。
>>360 小西はもともと西国で軽い軍役だからか
めいっぱい動員かけてないよ。
あまりに少ないから豊臣家からかどっかの兵士を
小西隊の一部に加えたらしい。
>>363 当時の戦争なんてものは、正面からがっぷり組み合ってわいわいやってる分には、そんなに損害は
出ない物です。
ところがある一定の境界線を先に越えた側は一気にやる気が失せて逃げ出してしまいます。
これを士気崩壊とか呼ばれていますが…兵の損害はまさにこの時点でどか!っと出てしまうのですよ。
ですからお互い相手を士気崩壊に持ち込むべく努力を行い、士気崩壊後はさらなる追加ダメージを与える
べく追撃なる戦闘を行います。
追加の予備を投入したり、島津の釣り野伏せとかはこの典型的な実行例です。
関ヶ原で言えば、戦いが拮抗している状態で味方であるはずの小早川隊がなだれ込んできた時がそれに
あたります。
正確に言えばさらに裏切りカルテットが東軍参戦して大谷隊がつぶされたときですが…。
本来で有れば大谷隊は小早川が来た時点で士気崩壊を起こしても不思議ではないのですが、それに耐え
撃退までして見せたあたりは、吉継の面目躍如って所でしょうか?
>>363 有名どこなら島勝猛が開戦早々に黒田隊の狙い撃ちくらって前線から退いてるぞ?
福島隊に所属していた可児の戦果から見ても、宇喜多隊も結構な損害だったろうし
ただ、どちらも決定的な崩壊をきたす程ではなかったんだろ
369 :
367:2006/03/27(月) 02:55:37
加えて言うと、福島隊も一時宇喜多隊に押し返されています。
このときに宇喜多隊が追加で押し出せれば、福島隊は士気崩壊に至り戦闘単位を維持出来なく
なっていたやもですが、加藤と藤堂(だっけ?)の一部が援護のため宇喜多隊の側面に回り込んだ
おかげで、福島隊はなんとか持ち直しています。
宇喜多隊の戦力を考えると、敵増援部隊に対応しつつ、福島隊の追撃を行える様な気もするのですが、
例の宇喜多騒動で戦闘部隊を率いる将官クラスが欠如していたのかもしれません。
その後崩れかけた部隊を立て直し、再度突撃をかけるあたりは正則らしいですし、それを終始受け止めた
明石指揮下の宇喜多隊はなかなかの名勝負ぶりって感じがします。
>>368 石田隊に関して言えば、前線指揮官は島左近、後方指揮は舞兵庫が担当していたみたいです。
左近脱落後、石田隊を一手に率い戦ったのは兵庫でしょう。
左近の実績や逸話のおかげで兵庫は埋もれてしまいがちですが、彼はもう少し評価して上げても良い
と思うのですが…
教えてください よくifの話で反家康同盟で○万とか数字をあげる人がいますが大軍になればなるほど兵糧などの面で大変だと思うのですが実際どうなのですか?
関ヶ原で決着がつかなければそれなりに大きな問題になったかも>兵糧
ただ日本は結構豊かなんだよね
でも、一回大将になって戦したいなぁ〜
>>371 日本の戦役は実行期間・作戦行動距離の関係、または現地調達が比較的楽なところから、あまり兵糧問題は
発生しませんが、日本史有数の大規模戦役である関ヶ原では、関ヶ原合戦後の東軍は進撃が早く、家康が
大阪に着いた時点で諸大名を含む段列は延々と関ヶ原をこえ赤坂までのびていたそうです。
このときの混乱は結構大変だったみたいで、大阪の陣の際家康は各大名に3日以上の物資は持つなと厳命
しています。 もっともこれは3日で片が付くと言う含みもあったのでしょうが…
あと秀吉の中国おおがえしの時も、秀吉が姫路に着陣したとき段列の最後尾はようやく高松を後にしたところ
だったとかとか。
375 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 13:39:20
>>371 米は大変だよ、有名どころでは東軍の場合は福島が清洲の備蓄米を放出
鍋島が東海道の米を買い占め東軍に供出
西軍は三成が全財産をなげうったとか。
>>371 西軍の兵站を担ってたのは長束
しかどうも兵糧に窮していたらしく、三成が増田に宛てた書状でも逼迫しているので
大坂から援助送って欲しいと洩らしてる
>>360 だから東西両軍の軍勢数は、あくまで上杉討伐の際に、島津に出された100石3人役を基準に算出してるだけ
会津の上杉に薩摩の島津が3人役なのだから、上杉領に近い大名はもっと軍役重くなってたと考えるべきでしょう
また小早川秀秋の軍勢は8000人と書状に残っており、石田隊などには豊臣家の直参である七手組など参加しており、
付け加えて、奉行衆(五奉行だけではない)の参加が多い西軍には、豊臣家の直轄地を管理する人間も多く、
それらがそこから軍勢を出せば増えるであろうと考えられ、よって実数は全く違うと考えてよいかと
つーか、いい加減押し返しただ何だと言うのを鵜呑みにして語らない方がいい
所詮、軍記物の盛り上げだよ?
合戦の経緯を知るには参考にはなるだろうけどね
378 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 15:13:05
結局 長期戦になれば西軍が不利になるため大垣から討って出たとの解釈でいいですか
379 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 16:31:19
>>378 長期戦になれば東軍が不利。
城方は建物の中だから雨風とかしのげるだろ。
東軍の足軽は地べたに雑魚寝だよ。
風邪とかひくわで悲惨。
前田のまつは「いざとなれば私を捨てなさい」と言ってる
前田軍(2万5千)到着時に東軍が不利なら前田の裏切りもあるね
もともと前田は徳川にいい感情持ってないし
お家存続のために仕方なくしかたがってただけだからな
西軍有利で親戚の宇喜多から裏切りの誘いでもあれば一発で裏切りそう
前田到着=西軍が圧倒的不利なんだけど。
前田が北陸から南下する為に加賀・越前を攻略して来るんだよ。
実際、小松城など攻めながら南下してる訳だし、その風聞は伝わってたであろうし。
そもそも岐阜失った時点で情勢は西軍不利、しかも小早川裏切り濃厚ときたから、
大垣から出た訳だが。
前田が到着して裏切るぐらい東軍不利なんて、東軍敗走して家康生死不明ぐらいしかないだろう。
この時代家康より求心力がある人間っていたの? 豊臣に義理立てするよりどさくさにまぎれて自領拡大したほうがいいんじゃ ないの
383 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 20:15:43
何で家康は大阪の陣のあと、幼い国松までも殺したの?
384 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 20:39:07
前田ってそんな簡単に南下出来るわけ? 北陸にはかなり西軍の城がある筈。
それに前田は人質で無理やり東に付いているだけだし西には宇喜多がいる。しかも副大将。
385 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 20:46:24
西軍が勝ってたらどうなってたのかな?
前田が無理矢理東軍って何だ?
無理して東軍いる訳でもなく、宇喜多がいるからと遠慮した訳でもない
何か勘違いしてないか?
387 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 20:54:55
福島正則と黒田長政
388 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 20:58:59
>387
だから何?
389 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 21:01:44
西軍が勝っても秀吉がいない以上さらに豊臣家は弱体化するだろう そもそも秀吉政権は織田政権より弱いんじゃないか妥協の産物だし
390 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 21:10:54
383 浅井家をほろぼした信長の時もそうでしょ
391 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 21:20:44
史実の布陣に加えて、北国街道に政宗が西軍で布陣していたら
どれくらい展開に影響があったと考えられる?
どういう経緯でそうなるのか説明しないと
誰も相手してくれないと思うぞ
説明しても相手にされない、ていうか相手にしてはいけない
394 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 21:45:11
393 やっぱり学○みたいな電波ネタってこと?
395 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 21:47:30
>>393 >ていうか相手にしてはいけない
しかし、そういうことを言うと
逆に反発して相手にする奴が出てくることが多いのだよ・・・
ネタ振った人間の善し悪し、知識量の貧富に関係なく、
あまりに掛け離れたIFは妄想のぶつけ合いなだけに、
何も生み出さないから相手にしてはいけないのだよ
397 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 22:25:24
脇坂等4200が藤堂,京極の側面突けば普通に勝てた気がしない?
その後、大谷約5000(損害は含まず)と共に福島を突けば西軍は優勢になるから、迷っていた小早川は西に付く確率が増す。
398 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 22:29:12
>>397 それでも吉川は動かない可能性が高いよ・・・
脇坂らが動かないのは小早川の存在あるからでしょ
400 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 22:42:32
藤堂、京極が崩れれば福島ももたないな。東軍の先鋒が崩壊する可能性がある、その時
家康がどう動くかだな、前進して小早川等を撃破して崩壊を食い止めるか、退くか。
401 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 22:43:59
脇坂等は小早川への抑えでしょ、抑えが裏切るorz。
402 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 22:48:53
東軍の先鋒が敗走する事態になれば、家康も撤退する可能性がある(最悪の事態を回避して再起を図るため)
小早川や吉川が動かなくても、脇坂らが動くだけで西軍が勝つ可能性は十分にありえたわけだ!
小早川の動向がわからないから脇坂らは動かない
404 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 22:58:48
小早川と脇坂らが藤堂や京極の側面突けば、吉川が動かずとも西軍が勝てたと思う?
西軍に都合がいい展開になればアホでも勝てる。
406 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 23:01:26
「小早川は味方。いずれ動く」と思っている筈だから脇坂を動かすことは可能。そうじゃなかったらのこのこと関ケ原に出てこない。
可能って、小早川同様に家康に内通してたのに?
命令出来る立場でもないのに?
実際、動かなかったのに?
動かせてるなら史実でも動いてるよ
三成も必死なんだから手を尽くして動かそうとしてたはずだろ
>>406 秀秋の寝返りは東西両軍で周知の事実だよ
実際、石田や安国寺が毛利を担ぎ出し西軍を形成しただけでも大したもんだからな
家康も当初の想定以上の蜂起にかなりビビッていたという説もあるくらいだし
410 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 23:30:16
そうですね、三成や吉継でなければこれだけのいくさを仕掛けることもできなかったはず 大老にそれだけの器量がある者がいるとは思えない
高台院と秀家が首謀者の説があったね、その方がしっくり来るかも。
408 周知という程ではないでしょ、石田等は疑ってたが繋ぎとめられると考えたから関ヶ原へ移動したんだし、
小早川の家中だって、知ってるのは一部の重臣だけでしょ。
大谷を攻めあぐねたのも、その混乱があったからでは。
>>379 そんな理屈が通用するなら、
世の中落城する城なんてないことになってしまいますが、
実際には戦力差があれば城は落ちます。
確かに持久戦になることが即西軍不利とは言い切れないが、
仮に西軍主力が大垣城に篭って、東軍が先んじて関ヶ原を押えてしまっては、
圧倒的に不利になる。
それを防ぐ為にも関ヶ原方面への転進は必要不可欠だった。
>>413 ほっとけよ。
八万以上の大軍の全てを収容できると思ってる可哀想な子なんだから。
415 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/28(火) 01:07:10
関が原の戦いで西軍が1点に集中して戦ったらかっていたか!
勝利条件にもよる
417 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/28(火) 06:56:06
三成の決起が遅れて、家康がそのまま上杉を撃破。福島、米沢を、結城と伊達と最上が
進駐・占領し、それを見届けた上で、家康が西上を開始する。
上杉滅亡という前提で、関ヶ原で決戦という時系列で進んで欲しかったな
西軍は馬鹿ばかり。目先の利益にばかりこだわって、忠臣としての名声も領土加増もすべてを捨てた。
毛利一門と小早川秀秋も、あそこで徳川との約束を「計略」として破っておけば、戦後はさまざまな面でウハウハだった。
??
420 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/28(火) 11:40:04
西軍のほうがかっこいいよな。
421 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/28(火) 11:42:04
福島、黒田、は西軍について奮戦すればよかったのに。
基本的に負けた側のほうにロマンがある
源義経しかり信長しかり幕末の徳川しかり
423 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/28(火) 12:02:06
西軍の顔ぶれがかっこいい。
424 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/28(火) 12:05:30
伊達は西軍につけばよかったのに。
>>422 判官贔屓乙。
義経も幸村も西軍も豊臣もそこまで好きではないし、滅びの美学wに浪漫を感じない人間もいる。
そんなに負け組が好きならば、今川や北条、斎藤龍興らも贔屓してやれ。
真田は幸村ではなく、信繁なら好きなんだがな。
兄貴に愚痴ったりするのと、優秀な前線指揮官とのギャップが微笑ましい。
負けたものを美化するのは井沢元彦のいう怨霊信仰のひとつかな あと小説の影響受けすぎてる気がする
政治/戦争はスポーツじゃないから、正々堂々・正直者では勝てない。
つまり勝者は基本的により汚い手を駆使した方に転がり込んでくるわけです。
あと負けた側は必ず自己保存に走る輩が現れる反面、敗者側に殉じる者もいる。
潔く殉じた人物が大物であった場合、先の勝者の汚い部分や敗者の保身者に対し反比例的に
色濃く良い印象を残せる訳です。
また人間は常に敗北する事におびえるものですが負けた際、自分の周りに何人頼もしい味方が
いてくれる者か?と考えてしまうのです。 そしてそんな歴史上の人物には好感を持ってしまう。
だから負けた側に感情移入してしまうわけなのですよ。
もし西軍が勝っていたら家康違いの条々なども徳川家を滅ぼすための言いがかりといわれてるはず 伏見城も不法占拠なわけだし
家康のその後の行動も解らない訳だから、単純に豊臣家の勢力争いと見られたろうね。
三成等の評価は彼らのその後の行動次第でしょ。
家康嫌いの人でも関ヶ原が家康が豊臣家を死ぬまで守れば、さすが律義者の家康だ、太閤
の目は間違っていなかったって、誉めただろうね。
>>427 義経の戦い方は当時としては正々堂々とは言えないんだがな。
三成だって本当に正々堂々としているのなら、七将に襲撃されたときに家康の懐に飛び込むものか。
三成は切れ者だという事は言えるが、正々堂々とまでは言えないと思う。
そんなきれい事並べるよりは426のがよっぽど納得できる。
結局の所、あなたの言い分は勝つための努力をしていなかった言い訳じゃないのか?
勝つための努力をして、必死にあがいて、しかしそれでも及ばなかったから心打たれるものと思っていた。
汚れるくらいならきれいに死ねと。
まあ、勝ったほうのifなんてつまらないしな。
433 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/28(火) 18:16:24
忠臣はめったにいないし、自分でもできないから心打たれるわけ。
429>というか、そもそも家康嫌いにならないな。
三成って忠臣の鑑みたいにいわれるけどふつうでしょ それよりも西軍を結成できた手腕をほめるべき彼でなければ無理 大老連中だけじゃとてもとても
勝った方のifがつまらないって想像力がないだけでしょ
判官贔屓の感情を満たすだけが歴史の面白さじゃないよ
437 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/28(火) 20:14:12
小早川と脇坂らが、藤堂や京極らの側面を攻める⇒吉川は動かないが、それでも西軍が勝つ
小早川は加増だが吉川は減封になり、ここで大きく明暗が分かれたであろう・・・
↑くどい
第一脇坂たちは小早川とは別に、藤堂高虎に通じていたわけだし
朽木みたいに淀殿から贔屓されてた奴は別にして、他の連中は裏切ることに躊躇は無いだろ
まぁ、その後の石高の変遷と、脇坂が裏切りの一番槍だったって話を総合すれば
小川や赤座よりも朽木の方が裏切りに協力的だったんだろうけど
大垣城を攻めるときも、先鋒を自ら申し出たって言うしな
440 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/29(水) 00:40:07
本当に前半は西軍が優勢だったのか?
441 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/29(水) 00:58:15
>>440 西軍が陣地に篭っていたから、東軍の猛攻に耐えられたに過ぎない
しかも、東軍には家康本隊3万と旗本衆5千と南宮山方面隊1万4千の合わせて4万9千の予備戦力がある
しかし、西軍には確実な予備戦力は島津隊2千しか無い(小早川や吉川らは殆ど期待できない)
だから、西軍が優勢といっても東軍に逆転されるのは時間の問題であった
野球の試合に例えるなら、名古屋ドームの中日−阪神戦で
3回まで終わって5−6で阪神が優勢だけど、阪神は全ての選手が力尽きていて控え選手もいない
対して、中日は選手に余裕があり多数の主力選手を温存している状態だと考えればよい
阪神が中日に逆転されて負けるのは確実である
つまり、こういう状態だから西軍が優勢であったとはお世辞にも言えないことである
442 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/29(水) 01:03:12
そのような情勢だったから逆に先手をとらなければ苦しいってことですか?
443 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/29(水) 01:07:03
そんな情勢で西軍に勝ち目など無いだろ?
444 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/29(水) 01:13:28
徳川家康が上杉景勝と戦っていたら徳川家康が勝ってた?
大坂から軍資金が出なかった時点で終わりなのかな?
伊達に牽制されてたせいもあるが最上も潰せなかった。そこに徳川率いる上杉討伐軍くりゃ
家康勝つだろ
>>444 あのまんま上杉討伐軍がまるごと越後へ向かってしまってたら
おそらく合戦と呼べる状況にはならなかったと思われ、一方的な虐殺。
越後じゃねぇ会津だ
っていうか降伏するでしょ
直江が講談本などで言われているようなサイケデリックな奴だったとしても
景勝が首を横に振って降伏したらそれまで、だからなぁ
そういや史実で降伏後必死にかけずり回ったのは直江じゃなくて本庄だっけか
あの人、良いトシだったはずだが…
前田が家康に脅されたときに上杉が味方してくれれば十分家康とやりあえたはず
前田上杉大谷北陸連合軍7万vs家康最上伊達連合軍8万
それを待っていた石田が毛利と宇喜多を担ぎ西から10万の大軍を率いて家康討伐
毛利秀元を大将に戦闘中の北陸に援軍5万を送り、残り5万は宇喜多を大将に関東江戸襲撃
楽勝だなw
前田・毛利・上杉まで滅ぼしたら
家康も鉢植えの数が足んねーよw
453 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/29(水) 10:36:07
一次・二次世界大戦,三国志,関ケ原は負け組が好きだが、信長,秀吉と幕末と項羽,劉邦だけは勝ち組みの方が好きだな。
信長は勝ち組ではないような
実際反家康同盟が成立するほど豊臣家に求心力が残っていたのでしょうか? 反豊臣の動きはなかったのでしょうか?
豊臣家の求心力も有るにはあったのだろうけど、
同格の徳川の風下に立つのがいや。
徳川より自分がいい目を見たい。
徳川(豊臣)に付いたおかげでお家が断絶するのがいや…かと言ってどちらに付かなかったおかげで
お家断絶もいや…
豊臣政権が無くなったら職が無くなってしまう。
ただなんとなく成り行きで…
みたいな理由で反徳川連合は成り立つ? まぁ東軍も似たり寄ったりな理由だと思うけど。
豊臣220万石徳川250万石これをどう見ますか?
家康は豊臣系大名への恩賞は豊臣秀頼領から出させてるんだよな。
上手いこと秀頼の領地を削ったものだ。
結果論になるけど三成の行動は最悪のシナリオ 秀頼が元服するまで待ったらどうなっていたのだろう
大阪の陣までの立ち回りを見てもどのみち結果は同じじゃないかな。
関ヶ原の後だって豊臣家は残るチャンスはあったと思う。
豊臣の直轄領があれほど減らず毛利がそのままならば家康もそう無理はできないのでは 三国状態もありうる
その代わり上杉家がなくなりそうだが。
463 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/30(木) 06:36:57
上杉まで大大名のままならそれはそれで脅威、 さらに国内が分裂するかも
464 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/30(木) 06:45:32
景勝の弱さは折り紙付き
景勝の悪運の強さも折り紙つきだよ
追い詰めれば追い詰めるほど、何かの間違いで生き残るよ。
殺すなら権力と地位を与えて極限まで肥え太らせれ、政争で失脚させんのがいいと思う。
なにせ跡継ぎもなかなか生ませないし家中のまとまりもない。
466 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/30(木) 16:08:14
上杉は社会の動揺につけこみ越後の旧領回復を画策していた 上杉正伐の発端は景勝が一揆を扇動しそれに悩まされた堀秀治が家康に訴えたことによるもの
人望のない人間が大谷や島に
命を賭けてもらえるとは思えないがね
三成は敵には苛烈な代わりに、身内には甘々だからな
人望はごく一部からだけあるってタイプだ
そうじゃなきゃ島津の参戦拒否なんて起こりようはずもない
犬のような三河武士
471 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/30(木) 18:59:59
島は家臣だし大谷は余命いくばくもないしなぁ
人に好かれる要素はあったと思うが
人に好かれる努力はまったくしなかったっぽいな
473 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/30(木) 19:38:37
家康のような大物に下手に出られたらふつういやな気しないでしょう それに引き替え三成は高圧的な態度を取ることが多かったらしい
その辺のことは親友だった小西にも注意されてるんだけどなぁ
まぁ、それを聴いて改善できなかった辺りが三成の限界か
司馬遼太郎の関ケ原読んでて思ったけど、三成配下の舞兵庫ってどんな人なんで?
聞いた事なかった名前
舞兵庫こと前野兵庫介忠康は、前野長康の娘婿と言われている
その後豊臣秀次に仕え、黄母衣十三人衆のひとりとなる
秀次事件の際に舅・長康は切腹させられたが、彼は三成によって匿われた
後に三成から秀吉にとりなされ、赦免されて三成に5000石で仕える
この頃、前野という姓を捨てて舞と名乗るようになったらしい
関ヶ原の前哨戦・岐阜城攻防戦に織田方として駆けつけたが、既に城は落城
そこを見つかり東軍に攻撃されて退却する中、藤堂高虎から降誘を受けるが、謝して固辞したらしい
本戦においては開戦早々に銃撃を受けた島清興に代わって、最前線で指揮を執った
その中で死んだとも、生死不明とも言われている
ちなみに高虎が彼を誘ったのは、高虎の甥である藤堂玄蕃と彼が秀次の下で同僚であり、親密だったかららしい
石田勢のうち、蒲生旧臣は皆立派に戦死、秀次旧臣は皆逃げたとかいう巷説があるけど、それは嘘みたいだな
477 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/30(木) 23:06:54
469 勉強不足
もし西軍が関ヶ原で勝利しても完全勝利とはならなかったのではないか?
>>461 関ヶ原のときと同じように上杉討伐の恩賞名目で豊臣の領土を減らすだろうし、
毛利も前田上杉同様に難癖つけて攻めるだろうから、結局は同じことになる。
480 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 18:42:02
関ヶ原のような圧倒的勝利がなければ難しいはず お互い牽制しあうはずだし秀頼が成人すれば豊臣家の求心力も増す
481 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 18:46:00
その当時、そんなに徳川家康を恐れていたなら、何で密かに家康を暗殺
しておかなかったのかな?
しようとして失敗したって話なら高山公実録などをはじめとして、いくつかにあるな
どこまでがホントでどこからがガセかは分からんけど
まぁ、雑賀佐太夫とかを暗殺したこともある高虎が、家康にはついてるわけだし
簡単に行くもんではなかっただろ
石田三成=徳川秀忠説と言う物がある。
一瞬何を馬鹿なと思うだろうがちょっと考えてみてほしい。
二人が同一人物と仮定すれば数々の疑問が氷解するのだ。
たとえばなぜ三成が家康を暗殺しようとしなかったか。家康の後継者は秀忠である。
暗殺なぞ藪を突いて蛇を出すようなものだろう。
秀頼が出てくれば西軍が勝っていたと言う論をよく聞くが、実際には不可能だったのだ。
なぜなら西軍の要である三成は、秀忠として真田昌幸と馴れ合いの戦をしていたからである。
家康さえいなければ豊臣家は安泰との考えは短絡的すぎやしないか その逆なのでは
486 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 21:19:29
大大名が乱立している状態では難しい それが出来るのなら秀吉はしなかったの?
>>486 秀吉は各個撃破して天下を取っていますが?
秀吉が旧織田領の後継者争いに事実上勝利した段階では、
東海甲信の徳川、関東の北条、中国の毛利、四国長宗我部、九州島津と、
関ヶ原の段階よりもはるかに強大な大名が乱立していたが、
秀吉は唯一家康に苦杯を舐めさせられた以外は、順当に各個に屈服させている。
家康だって最終的には屈服させた。
反秀吉勢力との乾坤一擲の大勝負なんてやっていない。
結局、どんな状況でも基本的には各個撃破のほうが容易だし、
安全確実な戦略なのですよ。
489 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 21:31:41
つぶすまでには至っていないし 大大名のまま温存したにすぎないのでは
491 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 21:41:04
別に各個撃破をしていないし なんか争点がずれているような
492 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 21:44:01
訂正 各個撃破をしてないし→ 各個撃破を批判してないし
>>491 >>459>>461の流れで、三成は決起しなかった方が良かったのではないか。
というように書き込みがあったから、
もしそうなったらその場合は、順当に各個撃破していくだけだろうという話です。
494 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 22:03:18
ではそれが容易だと思いますか? 何年かかるとおもいますか?
>>494 多くの勢力を一気に相手にするよりも容易に決まっているでしょう。
現に前田家は既に降伏、上杉もあのままでは勝ち目はない状態だった。
そうなれば残る毛利も太刀打ちできない。
圧倒的に優勢な勢力に加えて豊臣政権内での立場があるから、
時間がたてばたつほど家康は足場を固めてより情勢を有利に出来る。
反家康勢の決起の時期をいうなら遅くするよりも、
むしろもっと早く、もし可能だったなら前田攻めの時にやっておくべきだった。
ただ、前田攻めは、謀反の通報、上洛命令、その命令を拒否と、
徐々に緊張が高まっていった上杉攻めのときと違って、
降ってわいたような家康暗殺未遂事件が発端で急にそういう話になったから、
いろいろと計画したり準備したりする時間がなかったのだろう。
前田もあまりにもあっけなく屈服してしまったし。
豊臣家にとって家康の存在よりも家中の分裂のほうが深刻な問題 家中が分裂したまま戦を起こしたことは愚策では
498 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 22:24:35
当時の家康は秀頼の後見人で豊臣家の代理みたいなもんだった
家康に逆らう奴は豊臣秀頼に逆らう逆賊として見られてた
前田も相手が徳川だけなら戦ったかもしれない
でも現実は全国の武将全員が相手になるわけで
降伏も仕方ないと思う。
>>497 それを仲裁できる利家は死んでしまったし、
他に仲裁するだけの実力を持ち、
政務代行者として仲裁してもおかしくない立場でもあった家康は、
逆にそれをあおいでいるのだから、
それを解決することなんて不可能でしょう。
>>497 思い切って三成が覚悟を決めて七将に討ち取られでもしたら、
豊臣譜代連中はまとまったかもね。
しかし、残った秀吉子飼も家康との政略結婚に喜んで乗ってしまう福島とかだから、
どうなったものだろう?
福島らは上杉攻めとかの家康主導の作戦とかにも普通についていっているし、
どこまで意識していたか知らないが、家康の勢力拡大に力を貸したようなものだ、
黒田や藤堂あたりは時流を見て積極的に家康に組しただろうし、
結局家康の天下は変わらなかったのではないかね?
502 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 22:34:13
それゆえ秀頼の成長を待つべきなのでは
>>502 だから、そこまで家康が待ってくれない。
対抗できる相手を各個撃破して終わり。
>>502 秀吉子飼といわれるものですら福島のように取り込まれつつあるし、
豊臣恩顧の大名でも黒田や藤堂ら目端の利いたものは家康になびいている。
その上立場的勢力的に徳川に対抗しうる存在である、
前田・上杉らが現在進行形で潰されようとしている。
その情勢で秀頼が成人するまで待つだけの余裕があると思うほうがどうかしている。
506 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 22:49:00
豊臣家がふたつにわかれて戦うこと自体どうかしているのでは 孫子が見たら嘆くよ
>>506 それは秀吉の責任だね。
まあ、後継ぎがなかなか生まれなかったという不運が最大の原因だけど。
508 :
孫子:2006/03/32(土) 23:04:21
》あぁ なんということだ!!
そういえば今日って関ケ原でイベントあったね。俺は逝って来たケドなかなかよかった。
家康が天下を取った結果からの後付けでの意見が多い 徳川だけが豊臣の敵でもないし というかはっきり敵だった訳じゃない
仮に西軍が関ヶ原に勝利したとして全国に飛び火した戦乱をおさめることができただろうか
関ヶ原があろうと無かろうと徳川の天下は揺るがなかったろうけど、
関ヶ原がなかったら、家康は前田・上杉・毛利と順当に沈めていくわけで、
なまじ関ヶ原のように大規模な形で対立構図を作ってしまったがばっかりに、
一気に勝敗は決した代わりに、大阪方との不和も決定的になったわけで、
だんだん削っていく形になってれば、小田原攻めまでの織田家の様に自然と家は残せたかもしれない、
とちょっと思った。
そんで秀頼に子が出来たら三法師を可愛がった秀吉のように、祖父になる秀忠が可愛がれば、全ては終了。
家康とすればこの形が理想だったんではなかろうか。
>>511 血族的に融合して実権を取る感じかなあ。
正直、大坂の陣での立ち回りを見ると
30越えても秀頼が使い物になるとは思えないんだが
(講談で多少愚昧に描かれてるとしても)
>>511 氏真への対応を見る限り、
俗世から離れて趣味の世界に没頭するのなら、高家として抱えてくれると思うが。
つか、前の天下人の嫡子+莫大な遺産+天下の堅城の三点セットがなあ。
時期にもよるが、秀忠将軍着任あたりで遺産を献上して、
転封(減封)を自ら願い出て、山陰か四国あたりの10〜20万石としてなら存続は可能だと見る。
家康は確かに腹黒い策士だが、必要以上に黒くはない。
>>515 ネタとして故意に流出させたんじゃねーの、これw
さもなくば、作った奴は真性ww
>>514 後に大阪の役の前に家康が秀頼に出した条件にも転封あったけど、家康が無理なことを承知で要求したって意見が多いね。
でもそこで要求呑んで大阪城出てれば、その時期でも家康は本気で豊臣家残したんじゃなかろうかと自分も思う。
むしろ大体徳川の天下になったその時期だからこそかな。無理に前の天下人の子供を滅ぼしたら史実のようにひんしゅく
買うしね。
結局豊臣家に天下を治めるだけの器量がなかったということ人材難など問題が多すぎる 徳川が滅ぼさなくても誰かが滅ぼしていたかも 実際上杉は越後を狙っていたわけだし
冬の陣が終わったあと、家康が房総半島への転封を提示したこともあったな
それなら紀伊が良いとかほざいたババァがいて、話が流れたらしいが
家康の本音からすれば、できれば秀頼を殺したくはなかったんじゃなかろうか
520 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 05:50:57
評判が悪くなるから殺したくなかったとは思うけど 家康の愛読書は「吾妻鏡」で頼朝や義経の例もよく知っていたはずだからなぁ 頼朝に自分を重ね合わせていたらしいし
恭順の姿勢示してる者は殺さないんじゃ?ほら、氏真くんとか徳川に恨みを抱く真っ当な理由あるし
そういえば本来氏真が一番恨みに思ったであろう信長の嫡孫は家康が止めを刺してるんだよなぁ・・・。
家康がすべてを捨ててお家の保身を図った場合の豊臣家を滅ぼすか?はともかく、
徳川家の将来を考えれば史実の様に滅ぼしとくべきではある。
今川はだれも担ごうとしないが、元天下人の家柄は本人が好むと好まざるに関わらず
徳川幕府にたてつくには良い材料となる。
現に徳川を滅ぼした勢力が天下を支配するのに徳川より正当性があると担いだのは天皇家でした。
つまり正当性を名乗る事が出来る、豊臣の名と血筋こそが脅威なわけです。
また豊臣が徳川を滅ぼしていれば、後に豊臣家を滅ぼす事はなかったって言うのを誰より理解していたのは
当人である家康自身のはずです。
まぁ大阪の陣の前は写経三昧だったらしいからその時にゃ滅ぼす事決めてたんかね。
しかし、関が原前、家康が秀頼の権威をもっと利用できていて好き勝手やれていたとしたら
三法師のように秀頼は生き残ったかもしれない。
家康を打倒出来るだけの人材がいなければ、いっそ家康に対抗すらできない位に人材
いなかったらかえってよかったかもしれん。
525 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 09:56:03
>しかし、関が原前、家康が秀頼の権威をもっと利用できていて好き勝手やれていたとしたら
十分好き勝手やってるよ。
三法師のように生き残るかは疑問。
秀信と違い秀頼に心を寄せる
大名が少なからずいる以上は危ない。
東軍についた豊臣恩顧の武将が全て藤堂家みたいに完全従属
したわけじゃないから。
逆にそういう大名が皆無ならば
生き残るかも。
本気で生き残りたかったら、
大坂城だけでなく豊臣の姓も捨てて羽柴に戻るべきだわな。
そのくらいの恭順の姿勢は見せないと。
なんか織田家がかわいそうになってきた。
氏真の生き残りっぷりはみごとなもんだね。
家康に面倒見てくれって任せちゃうんだから。そこは三成みたい。
528 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 11:18:48
なぜ家康だけがことさら悪く言われているのだろう 歴史的に見ても珍しいことでもなかったし 後世でも慶喜が恭順の意をしめしているにもかかわらず隆盛は討とうとした例もある
氏真には生来の人柄の良さと、良くも悪くも
「なかなかに 人をも世をも 恨みざらまじ」
なんて達観できちゃう部分があったから、信長も家康も危険性を感じなかったんだろ
氏真を戦国大名の地位から引きずりおろした温和な性格が、彼の命だけは救ったとも言えるかも
慶喜は、情けない。涙よりも笑いが先に来ましたって感じだな。
家康、それほど悪く言われてるかな?
531 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 13:07:39
このスレじゃ叩かれまくりだけど
>>528 徳川史観はプロパガンダと見下している癖に、
明治史観にどっぷり浸かってる奴が多いから。
533 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 14:38:43
そうですね あと小説などからのイメージだけで言う人
人の良し悪しは多角的なものですが、家康の場合は小説や政治的な問題から、悪の一面だけが
クローズアップされすぎな気もします。
徳川時代250年は明治初期と比べても生活水準はかなり高いものでした。市民の負担も比べものになりません。
まぁ戦争していないので当然と言えばそうなのですが…
当時の江戸は人工150万を超える大都市として栄え、治安・衛生・文化・生活水準とどれをとっても
世界最高レベルといえます。当時ビクトリア朝を満喫していた英国のロンドン以上の大都市なのです。
また250年の大平は世界史的にみても誇れるもので、豊臣の世ではこれほどまでの長期安定政権と発展は
望むべくも無かったでしょう。
徳川世界を家康一人で築いたわけでは有りませんが、彼が果たした役割は大きく評価されてしかるべきじゃないか?
と思うわけです。
もっとも自分は関西人なので、家康嫌い・秀吉贔屓なのですが、そこのとこは認めるに吝かではないと思うのです。
家康の創った江戸幕府がもたらしたものはいいんだが、だからといって何故
それが豊臣には出来ないとなるのか?
>>535 秀吉がまともな統治機構を構築しなかったから
537 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 20:47:46
豊臣政権の基盤は急成長のため非常に弱くシステムの不備や人材難は深刻な問題であるため政権を維持するのも困難であるから
538 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 21:48:59
だから秀次に暫定関白として
秀頼のつなぎにすれば良かったんだよ。
もともとその気だったのに急な変更するからこうなる。
暴君とかは後付けの印象相さ。
秀次なら武断派なので福島らも
反抗しないし三成もおとなしいと思う。
まあ三成は処分されるかもだけど。
細川、藤堂、伊達とかも秀次と親交深かったようだし
徳川が台頭する余地なんかなかった。
最上も豊臣についてたろうし、上杉軍が後顧の憂いなくすばやく伊達・徳川に当たれたろう。
540 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 23:08:52
本来なら百姓が似合う人間が大名になっていたりするのが問題だから秀次うんぬんの話ではない
>>539 その理屈なら伊達も豊臣につくだろう。そもそも徳川も豊臣につくだろう、
確かに秀次にとりあえず中繋ぎをさせてれば関ヶ原のような構図は避けられたかもしれないが、
どのみち家康を抑えられる器とは思えんな・・・。
織田信孝のように秀頼との対立構図に担ぎ出された挙句、結局家康に実権を奪われる羽目になりそう。
542 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 01:03:11
秀長が先に死んでしまった時点で豊臣家の命運が尽きた
何か意見が根底から間違っているような気がする ふつうは政権打倒が前提で考えるべきでは なぜ打倒家康が前提なのだろうか?
>>543 豊臣政権を打倒したのが徳川家康で徳川政権を立てたのも家康だからじゃない?
ひょっとしたら、家康がいなくても徳川の世になったかもだが、とりあえず家康打倒が豊臣政権維持&他政権
を樹立させない方法の大きな前提だからでしょ。
545 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 09:34:48
ふつう政権が代わるときは 旧政権×不満分子が前提で考えるのでは、そしてどちらかといえば旧政権が敵役になる気がする あまりに反家康で考えすぎている
仮に家康が利家と同時期にぽっくり逝くなり、どこぞで暗殺されるなりするとしてさ
朝鮮出兵で疲弊した民心の不満はダイレクトに豊臣政権に向かうんじゃないか?
また、豊臣子飼いの大名の中には戸田みたいに民衆に乱暴狼藉を働くことを躊躇しないのも結構いたわけだし
家康がいたからあの程度の事態で収まったわけで、いなかったら日本はもっと混乱してたろ
豊臣政権というもの自体が既に崩壊を期していたことを置いて論じるから変なことになるんじゃないか
家康に大義を奪われてる以上 やはり関ヶ原で勝つしか道はなかったんだろうな
八郎・治部以下
さて問題です 主が女狂い、実子が出来たため養子を殺す、海外出兵に失敗、主の死後後継者は幼い、親類縁者が少ない、家中は分裂 この家はどうなる?
名声第一で有能有力な外様が家中の対立を利用して簒奪、
548の家を反面教師として、確固たる権力基盤を元に天下太平の世を作り出します。
550 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 14:47:10
>>546 >朝鮮出兵で疲弊した民心の不満は
民心の不満?そんなの表立ってないでしょ。
あるのは清正とか武将の朝鮮での
仕置きに対しての不満だけ。
だから徳川がいなければ七将は三成と衝突するが
それで天下が乱れることはない。
両者とも豊臣に対して反旗をひるがえすことはない。
>>550 世界史的に見て外征の失敗が国の滅亡につながるのはよくあること 大体戦争には金はかかるし人も死ぬ あと最近のスレをよく読んでください
552 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 16:21:16
とどのつまりは秀吉の自滅っちゅうことやね
>>543 >>544 家康抜きにして徳川の天下はありえない。
そして徳川自体には例え関東250万石と三河以来の結束精強な武力があろうと
徳川家そのものだけでは求心力は史実ほどには生じない。
家康は
1)秀吉はおろか信長、今川義元や信玄謙信といった既に伝説の軍神化してた
武将連と同じ時代に生きて争い生き残ってきた戦国最後の古豪
2)秀吉の主筋に当たる信長と台頭に近い同盟国の国主で
秀吉の天下取の前後もそのステータスを守り抜いてる。
3)秀吉が実の妹や母親を人質にして頭を下げて対等の主従関係みたいな
間柄にしている。
4)秀吉の天下にあって律義者として目立たず敵を極力作らず
さりげなく諸侯に恩を売って家康殿はむごいことはなさらぬという世評を
造ってる(これは豊臣のやってた状況と比較すればねー)
5)忘れちゃいけない家康は暦とした豊臣家の身内。
家康と秀吉は義兄弟、家康の息子と秀吉は相婿、家康は秀頼の外孫
と秀吉自身が家康を豊臣家の身内にしてしまっている。
6)そのうえ秀吉は豊臣政権の筆頭にして天下政務の代行に家康を据えてる。
これだけのキャリアをもったカリスマと徳川と言う家が結びついてこそ
徳川天下なのであって
家康不在では秀康にしても他の大老はおろか武断派諸侯を抑えきれるかどうか・・
3行でまとめろ
>>550 主君のお膝元で奉行が襲われる。
それも暗殺とかですらなく軍勢を率いての襲撃をされる。
その状況で天下が乱れていないとでも?
548≫の答え この家はすでに末期症状にあり没落し、いづれ滅ぼされるでしょう
・外征による疲弊
・後継者争い
・武と官のバランスの崩壊
なんか国が滅びる要素が見事に揃ってるな。
>>550 いんや、思いっきり目立っている
だからこそ秀吉が晩年に行った花見では、醍醐の花見のときと異なって厳重な警護体制が敷かれていた
例えば豊臣政権下では伊予宇和郡の領主・戸田勝隆の圧政と、
それに反対する民衆や蟄居させていた西園寺氏への虐殺などが一切不問に伏せられた
こういった事例は他にもあり、民衆が管理能力の無い豊臣政権に対する不信感というものを強く抱いてたのは間違いない
それ以前に家康が元気だったのが最大の要因
家康がいなければ戦国時代に逆戻り、豊臣家は秀頼の元服を待たずして崩壊しただろう
562 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 14:44:41
確かに家康がいなくても長続きしそうにはない罠
朝鮮出兵の失敗は豊臣家にとって相当大きな痛手だったはず これらの戦がきっかけで明が滅びたとまで言われているぐらいだし
あれは当時の明の皇帝陛下が相当アレだった事も一因なんだがな。
「腐敗した豊臣家に替わって 信望の厚かった家康が天下を取った。」とふつう賞賛されてもいいはずなのになぜ悪役になってしまうのだろう 薩長のプロパガンダおそるべし
>>565 新政府の情報操作もさる事ながら、大阪の陣に至る過程と直接のきっかけとなった鐘事件、大阪城堀埋め
と、やることがすこしばかり汚かったのも付けいられる隙になったんじゃないかな。
最後にはかつて、もり立てますと誓った人物に手を掛けちゃったしね。
日本人はマリー・アントワネットでさえ悲劇のヒロイン化しちゃうところがあるからねぇ。
秀吉が天下取るときだって似たようなもんなんで
やっぱり情報操作の賜物でしかない気がする。
つまり、世論誘導にかけては秀吉の方が一歩上だったと
秀吉の場合は…
織田家の正当後継者を(公式には)満場一致で三法師と決定→以後は敵対勢力のみを打倒
→三法師自信は終生保護
って言うところが大きな違いなんじゃないでしょうか?
とりあえずは、要地で織田直轄地である岐阜の領主の地位は保証されていましたし、秀吉との関係
もとりあえずは良好なものでした。
彼(三法師)に刃向かった信孝は殺されちゃいましたが、最終的に恭順をしめしたノブヲくんはそれなりの
地位を与えられています。
情報操作もあるでしょうが、親父と慕った柴田を裏切りながら評判の落ちなかった前田とかの例もあるので、
その場の状況と人物の人となりは大きく影響するものです。
その辺のいろいろな条件が重なった上での今日の秀吉観や家康観なわけですね。
あと家康は確かに狸親父として有名ですが、世間的にそこまで酷い評価が定着しているとも思えないのですが。
家康も正妻の高台院や福島正則といった
豊臣家の中枢の人間を保護してるんだがねぇ
最終的に日本のほぼ全ての大名が秀頼を殺すことに
(消極的にとはいえ)同意したわけだし
>>570 福島は豊臣が片づいた後改易にしてるよ。
情報操作をしたのは秀吉ではなく薩長
>>569 三法師とその取り巻きは時勢を読み権力者に歯向かわなかった。
秀頼とその取り巻きは時勢を読めず時の権力者に噛みついた。
その差は考慮すべき。
三法師が豊臣政権の正統性を認めず、秀吉に政権の返上を要求してもなお保護されるとは思えない。
実際一度噛み付いた信雄は、言いがかりとしかいえない方法で領地ふんだくられてるしな
ま、時代の流れとはそんなもんです
576 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/05(水) 13:09:33
573 その辺は織田と豊臣の人材レベルの差でもあります 織田家は実力主義で優秀な人材が多かったが 豊臣家は急成長のため器量のない者でも取り立てねばならず人を育てる時間的な余裕もなかった
577 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/05(水) 15:53:24
領土や金子では長い間は繋ぎ止められない罠
その三法師は関ヶ原で西軍についてしまってるんだが
福島の改易は家康の死後
権現様のあずかり知らぬことでござます
嘘か真か知らないけれど、
福島も一応、幕閣に媚び売っては居るんだよな。
その相手がよりにもよって本多正純というだけの話で。
幕府に睨まれていたのはもちろん、後ろ盾が政争に敗れるような奴だったというのも要因と考える。
関ヶ原直後の伊奈図書の件では徳川に因縁ふっかけといて
大坂の陣では徳川にビビリまくり、それが桶屋クオリティ
三成の名前が出なくなって久しいな
三成の挙兵は最悪だと思います、豊臣の名を出した以上圧倒的な兵力の差をつけなければ豊臣の弱体ぶりを世に晒し家康の信望をたかめることになる そして一時的にでも戦国時代にしてしまい朝廷や人民の信をなくした
じゃあ代案は?
三成自身が、秀吉の意を汲んだとはいえ豊臣の権力基盤を徹底的に破壊しちゃったからなぁ
三成がもうちょっと自分の与党以外に目をくれたらよかったんじゃね?
まぁそれが出来てたら、彼は秀長にも並び称されてたんだろうけど
秀吉が前田利家に尾張と美濃を与えて対家康の一番手にしようとしたのを反対したアホ三成
敵は家康ではなく豊臣家自身にある まず家中の対立をおさえ 財政基盤の強化、人材の育成などの改革をするべき
589 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 09:13:49
何で織田秀信は西軍に付いたの?挙句に、わざわざ野戦に持ち込んだ理由は?
590 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 09:21:42
秀信が籠城したら何日又は何ヶ月くらい耐えられる?
>>599 >何で織田秀信は西軍に付いたの?
老臣の反対を押し切って強行した、若さ故の独断。
>挙句に、わざわざ野戦に持ち込んだ理由は?
老臣の反対を押し切って強行した、若さ故の独断。
592 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 14:09:33
そのまま若さ故の過ちを認めて早死にしちゃったね。
588 20万石の大名なのだから政治家でもあり軍人でもある 当時そのような明確な区別はなく出来る者がなんでもこなした
594 :
鳥屋尾宅間守 ◆Mzllk81HNE :2006/04/06(木) 18:03:57
>>592 秀信は殺されたんだと思う。
あれは常真や有楽と違って、若さゆえか日和ってないし。
高位の親豊臣の人物としてやっかいな存在。
生かしたら、いずれ旗頭として利用する輩が現われるかも知れない。
俺が秀信だったら殺すランク一位は光秀、二位は秀吉(光秀居ないので一位)、三位はどさくさで領地取った家康。
あとは有楽とか親族。
>>593 いや、役割ではなくスキルがという意味で
597 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 20:49:08
おまいらが織田秀信だったら西?東?
598 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 20:50:58
たしかに官僚としては一流だけど政治家としては??だからね
599 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 21:00:36
もし秀信だったら秀頼と刺しちがえる
600 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 21:21:41
史実どうり西につき出撃・・・・玉砕
601 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 21:44:14
毛利秀元ってかなりやる気満々だったみたいだなww
関ヶ原から脱出して大坂に帰る途中、黒田・福島に寝返り要求されたが、「輝元が大坂にいて何故寝返りが出来ようか!!断固拒否!!」と言い黒田の
手を握り陣から引きずりだし撤退したそうだ。黒田も福島もその豪胆さに圧倒されたそうだ。
602 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 22:26:26
>>601 一時は輝元の跡継ぎに見込まれていた人物らしい話ですな。
大阪で玉砕する位度胸があるなら動けよ土佐の四男坊
どうせ戦犯にされるんだから動けよ予言坊主
604 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 22:51:36
そうして見ると、南宮山の部隊って結構やる戦意旺盛やん
吉川広家(3000)初めから完全に動く気なし。しかし東軍不利にまれば一気に攻める筈。戦闘力・指導力は南宮山随一。
毛利秀元(15000)反徳川派。兵力・やる気は満々だが吉川に頭が上がらない。
安国寺恵瓊(1800)西軍挙兵の首謀者。士気は高いだろうが、兵力・統率力の無さ故日和見。
長束正家(1500)戦後の水口籠城で玉砕覚悟だったので戦意はかなり高い筈。しかし安国寺同様日和見せざるおえない。
長曹我部盛親(6600)東軍に付くつもりだったが外交が下手で失敗。しかし大坂での戦いぶりから戦闘力は高いと判断。戦意は疑問。
605 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 23:07:50
南宮山の武将のうち一人でも東軍に攻めかかったら、吉川は約束違反したことになるの?
その一人の後ろから毛利部隊が突撃していったら約束違反。
逆にその状況でも本隊を押し留める事が出来たら功労者。
607 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 23:24:33
漏れもよく解らん、吉川の内応の約束って何なの、
自身で安濃津落としてるし、一族が大津も落としてるよ、
家康の本体と戦わなければ桶。
608 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 23:25:47
もし仮に小早川・南宮部隊二万八千が出撃したとしたら家康の旗本三万+池田・浅野等1万4千を蹴散らせた?
余裕だろ
いくら馬鹿でも疲弊している敵なおかつ2倍の兵力、
氏真公でもいけんだろ
610 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 23:32:31
>>607大津の毛利(小早川)秀包が真面目に戦ってるな。しかも輝元は吉川の内応など知らず、
九州の大友(西軍)に援軍出してる
611 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 23:35:45
浅野、池田を破れば可能性はあるな、それより東軍全体に与える影響が大きいのでは、
持ちこたえていても、後方で戦が起きているということは兵士にとっては退路をたたれる恐れがあるから、
士気が喪失する恐れがあるよ、いくら精強な軍団でも一気に崩れることがあるしな。
逆に西軍の士気はあがるし、秀秋の迷いがどう動くかにも影響するだろう。
612 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 23:36:27
おれも余裕と思う。
家康の本隊と池田達は疲弊していないが、動かない筈の敵が襲ってきたらかなり逃げ出す兵も居そう。
613 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 23:39:26
610 そうだよな、毛利一族は真面目に戦ってたと思うよ。
広家のために後世まで悪名を残してしまった、ヒロイエも晩年なにを思ったかな。
>動かない筈の敵が襲ってきたらかなり逃げ出す兵も居そう。
広家の内応なんて普通の諸将は知らないよね、それでも南宮山の西軍は脅威
のはずだから、それが現実になれば簡単にアボーンかもね。
615 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 23:51:01
いくらなんでも、松尾山+南宮山 計約5万が総攻撃の狼煙に応え、一斉に攻撃を開始したら
家康の首は獲れなくても大勝利は確実でしょう。但し、戦闘開始と同時に攻撃を開始してたら、
戦力は拮抗状態となり「敵の背後を突く」といった戦略は崩れるだろう。
つまり西軍必勝の陣形(俺はそう思う)はタイミングと味方が皆動くという2つがそろって力を発揮すると思う。
616 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 23:57:18
そういう意味では三成の狼煙のタイミングは最良だった。
617 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 00:05:11
挙兵のタイミング・関ヶ原転進のタイミング・総攻撃の狼煙のタイミング
どれも完璧だと思う。実際歴史を知っている俺達が三成の立場だとしても、
これ以上のタイミングは無かっただろう。(もちろん秀頼・輝元の出馬は無いものとして)
じゃあ三成は猛将じゃなく大将だったのか?
619 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 00:23:05
戦下手とは思えないな 実際、関ヶ原での戦いぶりは「三成は戦下手といわれるが、戦いぶりは尋常ではなかった」
と記録されている。
豊臣家が誰からも尊敬され、三成は信望も厚く外交上手、家康はじめ東軍の武将たちがアホで戦下手ならば西軍の武将は頑張るでしょう
621 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 00:44:21
小大名で経歴的に家康に及ばず、豊臣を代表してるとも言えず。
よくぞ頑張れたという所でしょう、でも他にここまでやれる器量を持った
者もいないのも事実。
622 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 00:47:12
三成の石高が100万石位あったらなぁ・・・。
本当なら前田とか宇喜多あたりがせにゃならんことだと思うもんな
624 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 00:58:02
島津だけの献策なら退けられるが、宇喜多まで夜襲に賛成してるのに何故決行できなかった>夜襲
一応大老なのに....しかも上杉より権力上
625 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 01:01:11
夜襲はネタだよ。
626 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 01:03:51
家康の政策には三成から引き継いだものが多かった 三成は相当優秀だったのだろう それゆえか人を見下してしまい人の心がわからない所があるのだろう
627 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 01:26:24
能力はこの時期では全国一ってことだと思う。能力は
>>619 戦争と言うのは最前線で兵を指揮する、軍の作戦行動を示唆する、国家の運営をも含めた政治的なものと
いろいろなレベルの指揮官が集まって行われます。
三成の場合…
作戦家としては優れているとは思う。戦略能力も平均以上。
政治の末端としての戦争指導者として、正論や正義心だけでは立ちゆかない、人の心まで操作しきゃ
ならん政治家として見れば三流レベル。
前線で兵を実際に指揮する立場としては、兵にやる気を起こさせ、崩れそうになる士気を維持する点ではなんとか
及第点かもですが、戦場駆け引きの妙を演出できるかと言えば…どーでしょう?
629 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/04/07(金) 15:23:40
毛利の最大動員数はどれくらいなんだろう?
四国にも毛利(村上水軍)が攻め込んでるね
村上水軍と毛利水軍は別物じゃ…
>>619 小田原征伐の時に甲斐姫にボコボコにされたよ
沼の上に立ってる城なのに水攻めするんだから戦は下手じゃないか?
>>631 あれは反対してたが秀吉に強制されたて説もあるよ
兵たんに関しては能力があった ただ武功派にはそれを理解する軍事知識がなかった
634 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 21:21:00
>>628 豊臣家に対し法律に対し忠実な三成は
徳川みたいに豊臣直轄領を不正に分け与えたりできないし
朝鮮役で武断派の怒りをかったのは
その職務上やむをえないことだし。
なにより徳川は天下弟1の大大名かつ
五大老筆頭でもあるから徳川と単純な
政治能力の比較は出来ないと思う。
634 誰も家康と比較していないような… 豊臣家もまとめられないのだから政治能力に疑問符がつくのはしかたない あと挙兵は違法では?
636 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 23:30:54
何で?
日ノ本惣無事を破るから
豊臣家をまとめられなかったって言えば豊臣家恩顧武将全部そうなんだが・・・
639 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 23:54:49
だから豊臣家はだめだっていうこと いづれ滅びる運命だった
640 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 00:27:45
加藤も福島も豊臣からしてみれば単なる裏切り者で家康の術中に嵌ったバカ。
江戸開幕後に加藤清正が秀頼を守ろうとしてたがおせえよ
641 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 00:29:46
秀吉にもっと早く子供がいたらまたちがったろうね。
秀吉の長男が死なずに生きてたらなぁ。
643 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 00:43:08
>>640 確かに遅いよな。
しかもその後すぐ清正あぼーんしちゃったし。
質問です 国王は民に厳しく滅ぼした家や名家の娘を次々に側室にむかえるなど不行跡がめだった、そして外征に失敗しその後死にました 死後内乱が起こりある人がこれをおさめ王家にとって代わりました その人の評価は?
家康さえいなけりゃ豊臣が滅びなかった可能性は高い。
三成が潔癖さを抑えて泥を被り夜襲でも暗殺でもなりふりかまわずやっとけばよかった。
>>644 それだけで評価できると思う?
その人はその後どんな統治をしたんだ?先王に比べて民への厳しさは?
それから名家の娘側室にどんどん迎えたって不行跡とは思わんね。
647 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 01:12:10
そんなことしたら諸大名は国元で戦争準備するだろうな
648 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 01:14:39
追加質問です 暴君が死んだ跡、幼子を託された宰相がいました。宰相は幼子を守るためと称し、戦を起こし幼子の忠臣を殺しました。
最後には幼子とその母を殺して自分が国王になりました。その人の評価は?
誹謗中傷に耐え國の安定を図った大英雄。
暗殺はマズーだな、上洛してきた所を謀反の疑いで逮捕de桶では。
651 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 01:19:11
暴君の後なら民衆や諸公にも支持されたでしょう
簒奪だろうが禅譲だろうが、問題はその人がどんな統治をしたか、だと個人的には思ってる。
もちろん一般的には簒奪や女・子殺しは印象が悪いでしょう。
そこが日本人の気質の難しいところだろうな。
秀吉の晩年は確かに良くないが、家康のやり口も気分悪いしな。
でも家康は面白いよな、最後にはあせった気がするがそれまでは無理しない。
言いようだが、自分が先に死んだらしょうがないって感じかな。
>652
家康の統治って印象薄いなあ、徳川幕府の基礎って秀忠からだろう。
最後に秀頼を助けておけばアンチもダイブ減ったろうな。
「戦国武将家康」からしたら、未だ世は乱世、隙見せた方が悪い!であろうなぁ。
>>654 海外貿易に対する姿勢も、家康と秀忠後じゃ違うしね。
家康がもうちっと長生きしてたら、史実より外に開けた幕府になってたかもね。
>>648 手段だけ示されてもな。
しかも視点も一方的だし。
なら逆に問うけど、
慢性的な内乱状態で中世では当然の食糧問題を抱える国の一貴族が、
万難を排して王となり、彼とその子孫はそれらの問題を解決し長期安定政権を築いた。
さあ、その人の評価は?
>>645 そうは思わんな、家康がいなかったところでどの道豊臣政権が続く姿がもう想像できない。
内部分裂起こしてどうにもならなくなったところを誰かに簒奪されて終わりだろ。
少なくともそれを鎮める力は最早豊臣には無かったとしか思えない。
また三成が泥をかぶろうと思ったところでそれを見抜けない家康だとは思えない。
>>657 間違いなく英雄として讃えられるでしょうね そして元の王家に同情が集まることもないと思う
>>658 「滅びなかった」と言ってる。
確かに仮に利家と同じころ家康が死んでも加藤や福島との確執は温存されるわけで、
ごたごたする可能性は高い。
豊臣政権を続けようとするならそういうやつらも一緒に処分できる、やはり史実のように
戦に持ち込むしかなかったのであろうか
661 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 12:39:27
豊臣家を維持していくのは困難 対立の他にも権威の失墜、人材不足などの問題がある もし戦をすればさらに弱体化はさけられないし 武功派を始末すれば軍事力が弱まる
662 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 19:14:07
逆にいえば家康あればこそ一応豊臣家はあそこまでもったと思うが。
利家と家康の同時死亡にでもなっていればその瞬間に政権どころか
第二の応仁の乱になったのは必定だったろう。
利家の病状は周知のことで
秀頼の成人までの間は長く
ただでさえ信望をなくして、その上人材どころか自分の身内を族滅させて
これではねー家康という強い求心力がなければバラバラだったと思うよ。
ようは家康を担ぎ上げるか、その求心力を持って天下を纏めるか
家康を仮想敵として、彼を槍玉に標的となる敵をもって結束を図るか
どちらかで方法が分かれただけで・・
それに三成と言うか西軍が勝っても豊臣家は健在だとは思えない。
家康という敵を槍玉に政権システムを護ってしまえば
三成だとて秀頼を天下人として残したとも考えられない。
秀頼は公家関白として五摂家のお仲間に入れて体裁化し
秀秋の系譜とかを担ぎ上げて豊臣という
信望を失ったトップを更迭せざるを得なかったと思う。
その当時の豊臣家の末期的状態と怨嗟から考えれば
秀頼は公家と言う体裁的な名誉に棚上げして
実質的な武家政権から切り離しを図らないと
安定は望めなかったんじゃないかな?
663 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 19:14:39
せめて秀頼が元服する時まで秀次を生かしとくべきだったな
それよっぽど秀次が淀殿達と親密な関係を維持しないと
淀殿が家康に焚き付けられて結局豊臣が割れそう
そうなると家康と三成の共闘もあるかもしれん
665 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 23:08:57
漏れは狸親父が嫌いじゃないから、なんで秀頼を助けて手元に置かなかったのかなと思う
助命と引き換えに治長に腹を切らせて、淀はエドで人質。
当時豊臣恩顧の大名なんてへたれの正則だけだから、そんなに心配ないよなあ、
そうすればもっと好かれたよなあ、それが残念だなあ。
どうしても秀頼を生かしたかったら出家させるか幽閉するぐらいしかないかも
667 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 23:29:10
まぁ家康も秀頼を生かそうと努力して溺愛してた孫の千姫を秀頼の嫁にしたけどね
やっぱり刃向かわれたらつぶさないといけないし
家康が孫娘を嫁に出すのと
秀忠が娘を嫁に出すのとは意味が違う。
669 :
鳥屋尾宅間守 ◆Mzllk81HNE :2006/04/08(土) 23:38:11
秀頼を公の場で盛大に殺し、徳川の世を完全に世間に知らしめることこそが「大坂の陣」の目的。
その目的のためなら後世の自分の批評、謗りなどうんこに過ぎない。
by家康
670 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 23:54:30
秀頼を殺すとか殺さないとかは歴史的に重要視するところかな? この件だけだよ大騒ぎしてるのは
しかし関ヶ原まで良く生き残ったもんだ家康は、しかも前田や毛利と違い
一戦した上で和睦後、加増までされているのだから
秀吉の臣下になった後から秀吉が死ぬまで一度も失脚しなかったのだから
なおさら凄い、この間の話を誰か書いてくれないものか
なんというか、大坂の陣までに死んだ豊臣系大名は幸運だったな
福島なんて関ヶ原の戦勝後あんだけデカイ口叩いておいて
大坂の陣ではガタガタ震えてただけだもんな、無様すぎ
加藤はギリギリで恥かかなくてすんだな
673 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 01:04:31
正則も最後は大阪城を背に討ち死にすればな、あっぱれだったがな。
現実はかっこよくいかないからこそ、そういうのに拍手したい。
小市民の願望。
674 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 01:05:58
加藤なんか逸話多杉、かなり揺れて太郎。
改めていうまでもないが、家康の一生はすごすぎるな。
最初から最後まで、オチがしっかりついてから死んどる。
>>665 秀吉は潰さなかった→豊臣政権は短命
家康は潰した →徳川政権は長命
ひょっとしたら秀頼は殺さなくても、徳川政権は盤石だったかもしれない。
でも数年後、数十年後に反徳川連盟が出来て滅びたかもしれない。
やばげな物は潰しておくにかぎる。
>>665 秀信主従は秀吉に従順だった。
信孝は秀吉を否定して、信雄は秀吉の命に従わなかった。
秀頼主従は家康に反抗した。
石田重家は剃髪して反抗しないことを態度で現し、木下氏も従順な者は処罰されなかった。
従わない者、特に従う見込みの無い者に情けを掛けても仕方有るまい。
特に秀頼は誰よりも争乱の火種になりうる人物なのだから。
>>631 それ以前に忍城は名高い堅城、城内が団結すればそう簡単には落ちません。
他の北条方の城があまりにもたやすく落ちてしまったから目立っているが、
あの城が落ちなかったからといって戦下手の根拠にはなりません。
神君家康公(笑)
淀君は浅井長政と信長の妹お市の子なんだから
徳川がいかに強かろうが頭をさげるような性質じゃない
ことは簡単に想像できる。
体面を傷つけられるくらいなら死を選ぶような激しい血。
対して徳川は強いものには常に頭をさげて
辛酸をなめてきた。。。豊臣が関が原後に存続できなかっtのは
この違いだろう。
681 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 23:20:45
まあ、織田の血筋や家臣団は、宇府様存命中には格下にしか見ていなかった家康に頭下げたくなかったろうな。
サルにはやむを得ず頭下げたが、織田の軍団長より下に考えていた狸にまでは下げられんてとこだろ。
うじさと、としいえ、ひではる、つねおき等など1世はみなそうでは。
ウラく見たいなへたれは別。
>680 せめて淀殿といって
683 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 00:00:21
君は蔑賞。
織田の家臣団の脳内
信長>越えられない壁>織田の軍団長>ギュウゴの利家ら織田家臣>三河の小大名
戦わなきゃ、現実と!
その織田家臣団の二世はこぞって家康にすりよってるんだよな
なかには親父より利口そうな奴もいるし
687 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 08:30:14
まあ、すりよったのだから家の存続という意味では小利口でしょう。
プライドは別でしょうが。
688 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 11:24:41
>>678 でも忍城には女しかいなかったのに石田隊は何度も攻め込んでその度に撃退されてる。
>>688 違う、甲斐姫は有名だけど、女性だけでは決してない。
大体、城主の留守に妻などが比喩ではなく城を守るのは当然のことだ
690 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 15:34:21
大体、城攻めの一つくらいで人の価値が決まるのかね。
忍城位しかネタがないだけだろ。
石田三成こそ天下の大忠臣。
692 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 17:17:02
天下を二分する大乱をひきおこし家を一気に衰退させたのに?
しかも喧嘩を売ったのは西軍の方
>>690 元々が沼城だった所に水を引き込んだためなんら被害を与える事が出来なかったばかりか、
こちらからの攻める手段を奪ってしまった。
あまつさえ堤防が決壊し、自軍陣営が逆に水浸し…
これは明らかに、攻めて大将の失策。
これを三成が指示したのであれば、事城攻めに関しては才能無しとされてもしかたが有りません。
695 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 19:33:38
>>692-693 あの時点で決起しなければなし崩しに豊臣家は空中分解してたと思う。
豊臣家の家臣として行動は悪くなかったと思う。
悪いのは危機感欠如していた大阪城の面々
それに喧嘩売ったのは西軍じゃないと思う。
どう考えても家康が挑発していたようにしかみえん。
関が原の戦勝後、東軍武将は戦利品略奪のため佐和山城に向かったが
城はボロボロで、戦利品になるようなモノも無かったという
戦に急いだのは愚かだったと思うが、
三成自体のキャラは嫌いじゃないな
少なくともただの性格が悪くてオベッカつかいの小物ではないな
697 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 20:14:04
官僚とかいわれるが、天下り先の確保に奔走するどこかの国の役人とは違う。
698 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 20:44:27
≪695 豊臣家の分裂を決定的にしたのは三成 東軍は会津征罰軍を母体としているが西軍は元々存在していないのに三成が結成したものだから戦を仕掛けたのは三成なのでは
699 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 21:09:20
>>698 決定的も何も豊臣家の内部分裂を決定的にしたのは朝鮮出兵であって
三成に帰する問題じゃないだろう。
ついでいうが西軍結成を急いだのはこれまた三成じゃない。
彼は隠居していて中央政界から一線画していたに等しい。
西軍結成の急先鋒は宇喜多秀家あたりじゃないのか?
そうじゃないとしてもだ・・
もしも会津征伐が実現していたら全国諸侯は徳川の指揮下で働き
戦闘指揮を認めると言う先例が出来上がる。
それも豊臣の名を欲しい侭にしてね。
全国諸侯が本格的に徳川に屈する前に天下を分断し徳川の専横を
掣肘しようとするのは致し方ないと思う。
あのまま状況を黙視していたらまったく勝ち目もなく史実のような
徳川の天下に移行していたろう。
関が原の合戦は仮にでも巻き返す絶好のチャンスを拾いに行ったわけで
しかも豊臣家自体が動向を鮮明にしていれば確実に勝てた戦なわけで・・
浅野長政宛の秀吉の書状にとにかく忍城は水責めにしろと書いてある、
ってやつだね。
三成が忍城を陥とせなかったというのは後世の虚構らしい。
勿論、この嘘話が成立したのは徳川時代のこと。
三成は忍城を水攻めにする為に計画を練る
↓
準備を進めていた頃、いきなり小田原城陥落の報告が届く
↓
戦が終ったから水攻め中止
703 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 21:57:12
三成が忍城を攻めた時に同行していた連中はほとんどが後に西軍についている
もしも三成が戦下手をこの時に見せていたら誰も三成に味方はしなかったはず
704 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 22:12:18
事実失敗しているのだから 戦下手の評価を変えるのなら成功例をあげるべき 戦下手といわれていたのは事実でありその事は戦う上でマイナス条件となる
実際、戦下手だったかはともかく
当時から戦下手の評がたってたのは間違いなさそう
成功例って、
中国大返しから始まって、
秀吉軍の大規模な合戦のほとんどの裏方として活躍しているじゃあないか。
何も部隊指揮だけが合戦じゃあない、
戦全体を理解出来るのはむしろ裏方の方ですよ。
だがそういうことは一般人にも、部隊長クラスの人間にもわからない、
多分同時代でもそうだったのだろう。
708 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 22:19:52
三成より兼続の方が…
家康みたいにわかりやすい武功があればよかったのだけどね。
反対してたのを、上司の強い意向で実行せにゃならなかったと言うのは評価を変える要因には
ならんのか?あなたはまだ社会に出てないか、運がいい人なんでしょうね。
現代の戦の観念からすると、三成はかなり秀吉の戦に貢献してるんだが・・・清正たちが無事に日本に帰れたのだって
三成の手腕でしょ。清正たちは理解できなかったろうがね。
で、現在の自分たちが評価したとして、当時「戦下手といわれていたのは事実でありその事は戦う上でマイナス条件となる」
のになんか影響あるの?
711 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 22:27:55
706≪ その事は十分理解しています しかし今争点としているのはその部隊指揮能力では?
712 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 22:34:24
戦は弱いと思われるより強いと思われた方が圧倒的に有利
>>711 別にそんな限定していないでしょう。
だいたい、三成個人の部隊指揮能力なんて、関ヶ原の戦いを考察する上で大して意味はない。
その点を補う為に左近らの家臣がいたのだし、実際に関ヶ原で石田隊は十分に奮戦した。
関ヶ原の戦いにおいて三成に求められるのは、
部隊指揮の能力ではなく、戦全体を把握して戦略を練ること。
部隊指揮に関することが問題になるなら、
何度か言われているようにそれが下手だという風評がマイナスに作用するだろうという点だけ。
この点はさすがに否定は出来ないだろう。
714 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 22:55:47
とりあえず三成はいらん事し過ぎだよ
三成擁護派のいいわけはくるしいな 三成は参謀としては優秀だが大将としての器ではないと言えばいいじゃん
716 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 23:03:39
ガラシャ誘拐してる暇があるならもっと作戦練ってれば良いのに
717 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/10(月) 23:12:02
一行で話ずらそうとしてるやつら乙
718 :
鳥屋尾宅間守 ◆Mzllk81HNE :2006/04/10(月) 23:15:29
どうでもいいが福島正則が一番、滑稽だな。
加藤清正はまだいい。
彼は長雪隠だったというがおそらく関ヶ原後の症状だったのではないか?
秀頼のことを考えるとおちおちウンコもでなかったのてであろう。
710様 あなたはさぞかし言い訳上手の立派な方なのでしょうね。
720 :
鳥屋尾宅間守 ◆Mzllk81HNE :2006/04/10(月) 23:46:01
三成は虎の威を借りる狐のように諸大名には映ったのだろうか?
虎の威を借りる狐はむしろ天下統一後の徳川譜代の侍たちだろうよ。
相手が大名だろうが噛みついていたじゃない。
日本軍が無事に帰れたのは、三成のお陰ではなく、明が日本軍の反撃を恐れて
敢えて深追いはしてこなかったから。
何故なら、向こうは日本軍を深追いして、幾度となく大被害を被ってるからな。
少なくとも大規模の戦闘で、明が日本軍を深追いして撃破した例はない。
小規模でも、多分ないだろう。
まぁ三成の手腕がそれなり優れていて、制海権なりキチンと取れてさえいれば、
兵糧も朝鮮に輸送されてて、兵士の士気も下がらず、秀吉の死ぐらいで、
ああもアッサリ日本には帰らなかっただろうな。
制海権の確保って三成の責任なのか?
そもそも彼は大陸出兵の責任者でもなかろうに。(撤退の総責任者にはなったが)
>721
話がおかしいぞ。
>秀吉の死ぐらいで、 ああもアッサリ日本には帰らなかっただろうな
もなにも朝鮮出兵は秀吉の道楽なんだから死んでまで続ける必要性が全く無い。
ちなみに制海権の確保は三成の仕事じゃなくて、総責任者は藤堂高虎だぞ
だからこそ秀吉は彼に日本丸なんて軍船を作って与えたわけだし
東郷提督はバルチック艦隊に勝利した後、伊勢神宮に参詣してさらに艦隊を北上させて、
藤堂家ゆかりの偕楽公園に、「日本水軍司令・藤堂高虎」を追慕した松の木を植樹した
そして朝鮮半島からの撤退を総指揮したのも藤堂高虎
実際に明と朝鮮の連合軍との最後の海戦である観音浦での戦いの指揮もしたし
三成が朝鮮半島でしたのはそういったことではなく、軍監
要は各軍が怠慢なく戦闘しているかを監視し、主へと報告する役職
また、九州成敗の際の日向高城攻囲戦中に起こった根城坂砦での戦いなどを見ると、
軍監の尾藤が秀長の決定を覆させているし、そういった軍事上の特権も有していたんだろう
ただ、三成はそういった役職をするにしては身内への贔屓が過ぎた面があったな
戦上手、戦下手って普通指揮能力を指して言っていると思う そしてその能力は他の軍事的能力より上位において考えるのに異論はないと思うのだが
いや、気づいていた人は少数かもしれんが、すでに当時の戦は三成のような裏方能力なしでは
うまく行かないくらいに大規模な物に変化していた。
現代でもそういった補給の割合は増える一方だ。前対戦じゃ指揮能力ばっか問題にして補給
軽視して負けたしな。前線の指揮能力を他の軍事的能力より上に考えるのはうなずけないぞ。
当時、戦上手、戦下手って言えば普通指揮能力を指して言っていると思うのには異論はないぞ。
727 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/11(火) 07:54:19
>>726 戦下手の三成は裏方も無理。戦は会議室で起きてるんじゃないよ。現場で起きてるんじゃよ。
728 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/11(火) 08:28:32
表舞台で求められる能力がない=裏方もだめ?どこの世界の話ですか?
今までのレス見てる?無理も何も、三成立派に裏方やってるじゃないか。
729 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/11(火) 08:57:49
727 おばか?
兵站の重要性が理解できない椰子は、院パールかスターリン愚ラードに逝け。
てか戦下手って前線指揮についての評価だろ?
軍事行動全体を見渡せば三成が優秀な兵站管理者であった
と言われても前線指揮能力と関係ないような気がすんだけど。
ついでに事実上の重要性は兎も角、当時の一般認識は
前線指揮能力>後方管理能力も間違って無いんじゃないの?
725とか727とかがお馬鹿なこと言ったから反証しただけでしょ。
当時は戦下手って言われてた事にも兵站の重要性があまり理解されてなかった
事にも反対はしないよ。
表舞台で戦う方が目立つし、恩賞ももらえるのも事実。
奉行だとか目付なんざ、憎まれるだけで割に合わない仕事。
三成も若いときは槍働きしているよ、途中から奉行の様な仕事が多くなったので戦下手とか言われてるのでは、
大体、正則辺りも大した線香ないんでは。
735 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/11(火) 10:52:11
大将の資質としては指揮能力を重視 するのではないでしょうか? 三成にもその能力を求められる立場にいたはずでは
忍城の件がネタとしても、三成にはそういう活躍の場がなかったという事でしょう、
逆に言えば、寄せての大将位ならごろごろいるということ。
737 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/11(火) 11:06:25
問題!
幸村はなぜあんな勇敢に家康に突っ込んでいったのか?
1、他にする事がなかった2、他にする事がなかった3、他にする事がなかった4、家康を殺したかった
当時裏方も評価されていたと思う、しかし百姓上がりが多い豊臣家ではそれを理解出来なかった、無知は軍事より政治の方が深刻であったが
三成にもその能力を求められる立場にいたはずでは >殆どいません。
てか前線と後方は仲悪い。これは近代も同じ。
738 百姓差別な言いまわしは止めた方がいい。小牧の陣、九州征伐、小田原攻め等が成功しているし、奉行衆が重用されていることから見ても
豊臣の首脳陣は充分理解していたし、重視していたと思う。
関ヶ原においては軍事指揮能力が一番求められていたとおもうんだけど
関ヶ原において一番求められていたのは秀頼の出陣。
744 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/11(火) 11:42:52
秀頼があんなんになったのは淀君のせい
≪741 たしかに上の方は優秀でなければ天下などとれるはずもないが急成長のため能力がない者を取り立てなければならなかったのも事実ではないですか
>>743 秀頼が陣中で座っているだけで東軍から寝返り続出は確実だったのぅ
少なくとも福島正則、加藤嘉明は三成嫌いでも西軍に寝返っただろうと思うし
幼少の秀頼を戦場に駆り出し利用するのは政治的、倫理的にも問題がある。そのようなことになったら朝廷も和解に動くことも考えられる
当の豊臣家が我関せず、史実で朝廷も一応和解に動いとりますがな
秀頼を温室のままヌクヌクと育てたのが駄目だった
三成が小物だと言うなら指揮能力をそれほど問題視することもないが仮にも西軍の実質的な総大将であり家康の対抗馬なのだから重要だと思う
クラウゼヴィッツによると、指揮官にはグナイゼナウ・シャルンホルストの様に緻密な作戦を立案し実行を
行う能力と、ブルッヒャーの様に戦場にいるだけで兵を統括し死地に赴かせ、また敗走時に「うちの親父が次は勝つ!」
と奮い立たせる能力が必要だそうです。
一人で是を併せ持つ事はできなくても、先のように数人で補う事が出来ればナポレオンにも勝てるそうです。
と言うように、すべての軍事能力を兼ね備えた人物はなかなか存在しません。
秀吉が小早川隆景を好んだのはこれを兼ね備えた人物だったからでしょう。
また秀長もこれらを兼ね備える将だったように思えます。
実績こそありませんが、健康であったころの大谷刑部を秀吉が100万を指揮させたいと言ったのも、
その片鱗があったからかもです。
三成の場合は?と言うと、おそらく前者の能力は申し分無いように思えますが、後者の能力は、性格上はなはだ欠けた
もので有った様に思えます。
で当時の戦国武将はこの能力を分けて運用(評価)するシステムが確立されておらず、後者の能力に大きな問題点を
抱えた三成は相対的に戦下手のレッテルを張られたのでは無いでしょうか?
関ヶ原で西軍が勝っていたら慶長の乱と呼ばれる内乱状態になり、三成は内乱の張本人といわれていただろう
753 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/11(火) 14:39:59
秀次を切腹させたのが失敗だったな。
754 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/11(火) 14:53:12
そもそも武田どもが家康を潰さなかったのが失敗
755 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/11(火) 14:58:12
>754
その通りだ!
756 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/11(火) 15:01:53
武田が家康を討ち取らなかったのが失敗
いや 小牧・長久手戦役後にもいちど再戦して家康を滅ぼしとけば良かったのです。
>>751 秀吉は、別けて評価ができる当時としては数少ない人だったのでしょう。
さすがと言うべきか。
清正がもうちょっと頭がよければなぁ。
北条を滅ぼして、伊達を降伏させてから関東に転封、難癖付けて関東征伐。
家康派や三成が野望に燃えてたのは分かるけど、清正の立場がイマイチ分からない。
761 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/11(火) 17:13:11
そのつもりはあったんだろうけれどその件に関しては家康の方が上手だった
清正くんは行長くんが嫌いだっただけ。
763 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/11(火) 17:20:26
はい、だからこそ秀吉は二人を隣り合わせにした
764 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/11(火) 17:27:12
清正は如水と共に、九州を統一を狙っててたんだろ?
765 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/11(火) 17:39:17
中央が混乱しているので九州は切り取り放題だったわけだし…
766 :
鳥屋尾宅間守 ◆Mzllk81HNE :2006/04/11(火) 18:22:13
仮に
如水が関ヶ原の決着が一日で着いたことを知っても諦めなかったらどこまで家康を悩ませることができただろう?
まあ滅びるだろうが。
以下妄想
↓
しかし勝った途端に負け組たちの領土が接収されるわけではない。
現に長宗我部や島津は国元で沙汰待ち期間があったわけだし。
家康の腹の中など看破している如水は大阪城に早馬を飛ばし、
輝元宛てに『大阪城をお出になるな。すべて召しあげれますぞ。倅からきき申した。』ぐらいのことを吹き込み秀頼はキープ。淀がうるさいこと言ったらドサクさに紛れて殺してしまえばいい。
こうして日本列島を二分状態を継続させ、ひと粘りさせる。
負け組大名たちには『家康に降ったら御家はなくなりますぞ。なにせこたびの戦で彼に組した連中には加増せねばなりませんからな。
秀頼君を載いている我等が「官軍」でありますぞ。各々方うろたえめされるな。』を殺し文句に鼓舞する。
妄想終了
>>761 史実では、富士山物見と称し、佐竹・上杉を関東/信濃へ進出させ、自分は四国・中国勢を加えた軍をもって
三河に繰り出すと言う壮大な計画でした。
もっとも富士山を持ち出すあたり、ねらいは北条で徳川へは和睦の道を残していたように思います。
結局、先の戦役で徳川と同盟であった北畠の仲介で徳川との和睦交渉が始まり、中止となったそうですが、
先の上杉&佐竹にはすでに動員令を発していたあたり、脅しではなく本気ではあったようです。
てかなんで秀吉は家康をそれまでの130万石から関東250万石に加増なんてやったんだろ?
蝦夷にでも飛ばせばよかったのに。
如水の力をを誇大に解釈しすぎだな、留守城攻めと残党相手が関の山。
770 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/11(火) 18:38:45
如水の方が三成より頭良さそうだな。
771 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/11(火) 18:47:04
全てにおいて如水の方が優れてるよ。
つ忠誠心
東海道に家康がいるより安全だと思ったんじゃないの?
それにしても加増しすぎだが。
関東は北条氏が長い間治めていて統治するのが難しいと思われていた その統治に失敗して一揆が多発すればそれを口実に佐々のように潰すつもりだった
775 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/11(火) 19:17:15
前田利家が北条氏邦を助け金沢に呼んだのは、関東の家康を討伐した後に
氏邦を使ってうまく関東を治めようと考えたからである
北条征伐の直後にすでに前田利家は徳川との戦いを考えていたのである
これは有名な話です。
北条を使って、一揆扇動してオーケーでは。
如水の活躍って中国攻めまででしょ、その後は秀吉から遠ざけられていたんでは。
半兵衛にしろ如水にしろ、ネタが多い。
778 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/11(火) 19:26:16
そのような思惑があったにもかかわらず関東を発展させた手腕は見事である。 大久保長安あたりの力がおおきいけど
家康に助けてもらった三成は糞。
780 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/11(火) 19:36:51
たしかに でもその話事実かどうかわからないんだよね
>777
如水は四国征伐、九州征伐、小田原征伐、朝鮮出兵全てに参加して長政と共に活躍してる
朝鮮での態度が秀吉の勘気に触れて慌てて隠居してからだよ
如水が大坂城に出仕しなくなったのは
家康に助けてもらった
よって
三成は糞
っていみわからん
783 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/11(火) 20:21:29
普通に意味わかるんだが?
俺にもわからん。間に一行要るんじゃないか?
関東の統治に関しては本多正信あたりの功績が大きいんでは?
豊臣政権の吏僚派と徳川のそれとどっちが優秀だろう
関ケ原では、脇役なのに首謀者に祭り上げられ晒し首にされて可哀想w
一回ぐらいは三成主役で大河ドラマやってほしいなー
三成が武功派たちに殺されそうになった時に家康のもとに逃げ込んだという話のことじゃないの?
それは知ってるけど
助けてもらったから糞ってなんか違う希ガス
>>735 その大将のに必要な資質こそ、戦争全体を見渡せる裏方の能力。
少なくとも信長秀吉以降の大動員体勢では、
部隊指揮能力は前線で戦う部隊長クラスが持っていれば充分で、
総大将はむしろ三成のような能力こそが重要になっていた。
もっとも既出のように、なかなかそういうことが理解されていなかっただろうし、
そもそも実務能力に以上に総大将に必要なカリスマ性が三成には致命的に欠如していたのは事実だろう。
そして、そういうカリスマ性は主に部隊指揮レベルの功績によって作られるから、
結局そうした軍功が三成になかったことは大きなマイナスになってしまっていはいたとは思う。
しかし、実務能力として三成が申し分ないものを思っていたのも事実。
総大将に必要なのは名声だろ。
助けられたという話が本当なら家康は三成の命の恩人ということになる、まあ嘘だと思うけど
家康が福島たちをけしかける相手としての三成を必要としていた時期
ある夜、福島たちが独断で三成を襲撃するという噂が立った
三成はこれを逆に利用して、家康の屋敷に逃げ込み保護を願い出た
当然家康に拒否する理由もなく、福島たちの引渡し要請を拒んで三成を保護した
翌日家康は息子の秀康を警護につけて三成を送り出し、送り出す
三成は無事に佐和山方面の山科へと脱出し、御礼として秀康に自身の脇差を渡した
家康はこれを理由にし、三成に対して中央政界から離れることを勧めた
三成はそれを受諾し、以後中央に残った同志たちとの謀議を重ねるようになる
有名なエピソードだぞ?
越前松平家にこのときの石田正宗が残っているところから考えて、大筋は事実だと言えるだろう
794 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/11(火) 23:23:07
790 それは軍師や参謀がいればいいこと というより軍師や参謀の条件では? 大将の資質とは791の言っていることのほうが当を得ている
これまで裏方でやってきた三成が司令官役も勤めなければならなかった点で、
他の豊臣の連中は何をやっていたんだかと思う。
司令官なんて、それこそ前田か宇喜多がやることだろうに。
せめて清正が軍事の大将になって三成は裏方に集中できてれば・・・
福島には期待なんぞしませんが。
>>795 いや関ヶ原戦役の西軍陣営は、総大将毛利輝元、軍事総指揮官宇喜多なはずなのだが…
なぜか裏方が出しゃばったんじゃないか?
>>793 有名であるという事と事実であると言う事は別問題、その逸話は三成=小心者、家康=寛大という図式を作るための創作っぽい、事実だとすると内府違いの条々と食い違いが出てくる
799 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/12(水) 00:06:50
それは名目上の地位だろ
三成がいなかったらそいつらがそんな役割を担って家康と全面対決をするか?
>>794 そういわれれば確かにその通りかも。
>>797 輝元は来ないし、
秀家は直前にお家騒動起こしてカリスマだの名声だの、
大将の資質だのいえるような状況でもないし、
実務能力だけならあった三成が前に出るよりなかったのでは?
宇喜多中納言八郎五大老秀家>>>>>>>>>>>石田三成
石田が宇喜多に命令できるわけないじゃん
関ヶ原は全部宇喜多主動だよ
>>800 いや裏方でこそ能力を生かせる三成がなにやってる!に対して、本来は毛利と宇喜多が表方なのだ
と言う話でしょ。
三成本人が発起人だとしても、これでOKなのは三成も同意しているわけだ。
だったら裏方に徹するか、わざわざしゃしゃり出てこなきゃならんようなメンバーだった所に西軍発起の
根本的問題がある。
803 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/12(水) 00:39:47
七将事件て根拠があいまいなんだよな。
804 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/12(水) 00:44:09
そもそも西軍の首謀者って秀家と工団員でしょ、三成は裏方。
なんで裏方なのに市中引き回しの上斬首されなあかんのん?
806 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/12(水) 01:16:59
十分主役です。
>>798 三成=小心者という図式にはならないと思うけどなぁ
むしろ、家康の権謀を逆手に取った良い機転だと思うけど
まぁ、粗漏無く対応できた家康はその上を行っていた、という印象は残るかもしれない
後、大筋が事実云々と言ったのは石田正宗が残っているから
全てが事実でなかったにしても、一部が事実であったことを証明する大きな物証だろ
三成の能力はひとまずおいておくとして、
どれを取っても小心者とはとてもじゃないが思えんな・・・。
小心者で少しでも保身を考えるような奴なら武断派とケンカなんかせんだろうし、
秀吉から地方にそれなりの領土貰って平穏を考えるだろ。
関ヶ原にしたって余程の度胸が無ければあんな事できんよ。
三成が小心者とかまだ言ってる人いるのかよ。
結果論で語る残念な人には三成は無能に見えるだろう
811 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/12(水) 04:27:56
誰も小心者とは言ってないが
808 その話は常識的に考えておかしい、 大名クラスの人間が暗殺ならともかく自ら襲撃するでしょうか、内府違いの条々で奉行を罷免された事を非難しているのだけど
そのエピソードは全体的に話がおかしいしどうみても結果を知る後世の作り話、それだと家康は読みが鋭いを通り越してまるで超能力者としか思えない
814 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/12(水) 06:49:23
石田の堕落ぶりをみても9割方史実と見て間違いないだろうな
815 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/12(水) 10:19:02
石田の堕落ぶり>何のことだ?
つ、神君。
七将事件なんてネタだな、兵を集めて現役奉行を襲撃なんて成功しても、お咎め間違いなし。三成がアボーンされて、首謀者の加藤や黒田の豊臣系も改易で家康
だけが、ウマーでしょ、関ヶ原を待たずに徳川の派遣確定。
普通に考えれば三成の罷免を要求して、大老たる家康が認めた位のことだろう。
805>807の言う通りだよ。
豊臣やねねの責任は問えない。
秀家にしても豊臣の一族格だし、前田の縁戚。
毛利も安国寺に罪を擦り付けてOK。
関ヶ原後の家康の権力は、我々が考える以上に不安定だったのではないかな、
その証拠に有力大名は殆ど残っているよ。
諸大名にしても、死んだ大谷と石田、安国寺のせいにした方が良い訳だし、
石田や安国寺は主家に迷惑をかけないためにも罪を被るだろう。
819 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/12(水) 12:10:54
確かにそうかも 家康が有力大名に強権を発動できるのならなぜ秀吉はできなかったかの説明ができない
大阪の陣まで、すごく時間がかかってるしねる
家康が天下を取った事を前提に考えるからかな
東軍先鋒が岐阜を攻めるまでに
秀頼を出陣させて三成達と共同で
福島達を恭順させられる可能性は十分あった
さけにおしいね。
徳川は福島達を心底信用できないからこそ
出陣できなかったんだから。
もし福島達を恭順できたら
徳川は江戸に篭城するか残りの東軍諸将で迎え撃つことに
なるが徳川が折れてくることも十分考えられる。
福島は秀頼が出ても家康に付くよ
福島はそういう男
知将・石田三成
知障・福島正則
当時秀頼は諸将たちにどう思われていたのだろう? 秀吉の子だというのも疑わしいし そんなに忠誠心があったのかな?
>>823 いや当時の福島は自分が天下一の忠信であると信じ演じる自分に酔っていたのです。
なんせ岐阜城下に陣を張る平家の白襷と永楽銭文・金の唐傘の馬印見ただけで感激したくらいですから
目の前に千成瓢箪の馬印を見ただけで、もう矛を向ける事は出来ない。
その隣に大一大万大吉の旗印があろう者なら…ぶち切れてどうなる事やら。
福島はその場その場のノリで行動決めるから何するか予測がつかない。
秀頼が出れば勝ったと言うけれども
家康だって秀頼は出てこないと確信できたから決戦に持ち込んだんだよね。
福島は馬鹿すぎて家康も行動が読めないってのはあったと思う
>>828 本人に聞いてみないとわかんない。家康は関ヶ原の勝者であるから結果を知ってる私達からすると何とでもいえる
831 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/12(水) 16:57:30
言いたい事はわかるがそれほど後付けとも無理がある想像とも思えないんだけど 常識的な意見だと思う。
832 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/12(水) 17:48:10
たとえ秀頼が居ても、東軍には、三成があやつっている!としか見えないだろうな。
あと福島って実は家康の野心を知って東についているやもしれん。
833 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/12(水) 17:49:06
上杉はなぜ最上なんかを攻めたんですか?
誰が同考えても徳川を追撃すべきでしょう
徳川を滅ぼさないと上杉家は滅亡ですよ
それなのに最上攻めなんて・・・
上杉はアホだろ、今がどういうときかわかってんのか?
最上なんか責めてんじゃねーよ
秀忠の真田攻めくらいアホな行動だよな
上方で石田くんがしばらく粘ってくれるだろーなーという
あながち希望的観測とも言えない計画で行動したら即日負けちゃいました。
誰も短期戦なんか予想しないよ、だから伊達も南部漁ののかすめ取りに腐心した。
関ヶ原自体が東西両軍の想定外でしょう。
大体上杉に家康に刃向かう度胸なんかない、どさくさで領土拡大しようとしただけ
838 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/12(水) 17:56:23
景勝は政宗が怖かったのさ。
白河口に出れば、結城と伊達の
サンドイッチを食らうし。
上杉が伊達の動向を気にしていたのは事実だと思う。
本国で敵を迎え撃つのと、適地に侵攻するのとでは、後者の方が危険を伴う上に徳川領進行中に伊達が南下、
家康も本体率いて攻め上られれば、万に一つも勝ち目無しです。
加えるに、庄内領と合流する事で国力UPを図ったのではないでしょうか?
万が一西軍が敗北した場合、後背を安定させ軍を整備させれば、まだなんとかなると…
伊達と上杉は裏では和睦の交渉してたから、本気で戦う気ないでしょ。
髪型の戦が長引く間に領土拡大して既得権にしたいのが見え見え。
841 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/12(水) 18:27:32
上杉って家康をだしに豊臣に逆らっただけでしょ 越後を狙っていたようだし、 会津征罰は豊臣にとってもメリットがあったと思うが
どっちにしても豊臣は潰されそうな気がするが
前田→上杉→毛利→宇喜多で大手と。北条と同じ運命辿りそう
上杉が混乱に乗じて越後奪回もあながち間違ってないかも
>伊達と上杉は裏では和睦の交渉してたから、本気で戦う気ないでしょ
戦国時代の和睦ほど信用できないものは無いような
それこそ挟み撃ちにしてしまえば米沢取れそう
まあ、長期化を想定すれば伊達と上杉が死にものぐるいで戦えば双方大変な事になるわけで、
戦う振りして最上や南部などの格下の併呑を狙っての和睦だな。事情が変われば、すぐに亜ボーン
はお互い様。
844 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/12(水) 19:19:32
家康が上方へ転戦した時点で1ヶ月くらいの長期持久戦になると
大概読んでたんだろう。
その間に上杉は会津・米沢と庄内をつなぐ回廊の後背にある
出羽山形の最上家を併合したかった。
伊達としては義理で最上に若干加勢しつつも実際は西軍勝利の場合も考慮して
南部に揺さぶりがメイン
上杉は最上(出羽山形)併合→小野寺と合流→秋田などを従えるor越後本格占領
伊達は南部併合→津軽併合→上方の決着がついていなければ状況で上杉を攻めるか逆に手を組む
って筋書きだろう。
と、いうわけで皆の熱い声援が三成に集中してたのに
よくもまあ期待を裏切ってくれたものだ。
戦が長期化どころか豊臣政権が崩壊して乱世に突入していた。 家康があれほど早く戦乱を鎮めるとは想像がつかなかったはず。
三成の挙兵は正しかったのでしょうか?そこに義はあったのでしょうか? 世を乱し豊臣家を滅亡へと導いた罪は重いのではないのでしょうか?
848 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/12(水) 21:56:02
>>847 あのまま放置していたら徳川が鎌倉幕府の執権北条氏のようになっていたでしょうね。
でも、それで豊臣家の立場が保証されるとは到底思えず
史実同様 家康の征夷大将軍就任そして江戸幕府・・やがては時勢を読めずに
豊臣家の造反といった状況になっていたろうと思う。
まだ勝ち目のあるうちに家康の勢力拡大を止めるにはぎりぎりの
タイミングだったよ。
そして豊臣家を滅亡に導いたのは三成じゃあない。
あえていえば、あの時点で判断がつかなかった大阪城の連中
戦争に不参加と言う時点で東軍が勝ったら家康の好きなように差配される
と言う程度の判別もつかない時点で・・
秀吉薨去の後の家康の行動見て、その程度の判断も出来んのだからな。
三成が挙兵しなけりゃ世も乱れず豊臣家も滅亡しない?脳みそお花畑ちゃん?
850 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/12(水) 22:05:30
裏方役の三成ができることには限界がある
豊臣家が存続できるようにする最大の責任は秀吉本人にあることは明らか
秀次を処刑したり武断派と文治派の対立を放置している時点で豊臣家はおしまい
豊臣家政権がそのまま続くとも存続させる価値があるとも思えない。多くの人が豊臣家に期待しておらず新政権をのぞんでいたはずだ。
852 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/12(水) 22:15:32
853 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/12(水) 22:53:38
851 をのぞんでいたはずだ。>って希望?
どうしても豊臣支配を守らなければならない意義とは? かなりひどい状態だと思うんだけど… なんでみんなそこまで肩入れするのかわからない
855 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/13(木) 00:01:52
七歳のガキに天下はやりたくないよな
856 :
増厨:2006/04/13(木) 00:07:28
家継はどうすんだよ。
857 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/13(木) 00:07:43
秀吉の子かどうかもわからないしね というか外征失敗した時点で普通だめだけどね
858 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/13(木) 00:36:17
秀吉の天下統一も中身は豊臣徳川連立政権だったからな
秀吉は徳川を完全に臣従できたわけじゃないでしょ
最初から家康に天下を譲って、秀頼を豊臣政権における織田秀信みたいに生かす方法を考えるべきだったんだよ。
まぁ池沼状態に陥ってた秀吉にそんな考えが浮かぶわけ無いが。
>>848 もし三成の挙兵がなければ家康の将軍宣下はないでしょう、全国に広がった争乱をしずめたことが評価されているわけだし豊臣もあれほど弱体化していないし
>>858 いやさすがに豊臣が盟主って意味では連立とまではいかんだろうけど、
地方に権力移譲しすぎの状態ではあったな・・・。
861 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/13(木) 12:34:20
地方に権力移譲しすぎ>日本で本当の中央集権なんてなかったんじゃない。
鎌倉、室町もそうだしね、そういう意味では秀吉の権力の方が上では。
862 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/13(木) 12:47:58
政権基盤では信長の方が上、 それにもし長生きしていればもっと中央集権になっていたはず
秀吉は地方権力者を集めて、中央の行政を行おうと考えた。
結果、地方権力者の自国本意な行動の前に秀吉政権は滅び去った。
スタート地点が違うので天下を取るので精一杯でシステムや人材育成までは無理だった、それにしても秀吉の成長率は異常 ゲームでもありえないほど
865 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/13(木) 13:12:50
信長の政権なんぞないぞ。織田家のの基盤の事か、それなら最悪じゃん。
信長のカリスマ性だけだろ、織田には忠臣すらいない。
秀吉みたいな奴がいるしね
867 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/13(木) 13:31:18
≫865
豊臣家こそ秀吉のカリスマ性でもっていた。というかそれだけ
868 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/13(木) 13:52:31
家康は2人の失敗から学習したんだろうな。
869 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/13(木) 14:05:48
そういう能力は家康は天才的です
徳川も似たようなもんだろ。
信長の時代は勃興期で権力基盤固めは二の次だったし
秀吉は後継者の育成に思いっきり失敗しただけ。
秀吉に後10年寿命があればよかった。
いや、秀長に後10年寿命あれば
秀吉はいい時に死んだ あと十年も生きたら晩節を汚すだけ
既に汚れてるし、どんなに汚れようとも生前の秀吉に刃向かう度胸は誰にもなかったのも事実。
>>865 信長は秀吉なんぞ足下に及ばないくらい、政権確立後の体制を考えていたし、その下準備も行ってたゾ。
明智日向守、羽柴筑前守というのもそのビジョンの表れだしね
877 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/13(木) 16:56:52
875 具体的には、ソースも書いてね。
信忠への政権委譲準備も進めていたっぽいしな。
もし秀吉が死ななければ 朝鮮から撤退する機会が遅れどうなってたかわからない
関ヶ原の戦いは三成が徳川に言いがかりをつけて滅ぼそうとしたものである。少なくとも徳川から見ればそうである。
881 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/13(木) 18:47:16
くだらん。
882 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/13(木) 19:30:26
>>880 それでは家康が前田に言いがかりをつけたのは、問題ないの?
883 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/13(木) 19:36:34
884 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/13(木) 19:37:43
論点がずれています。
885 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/13(木) 19:55:41
≫882
では三成には問題がないと? その事は関係ないが
アンカー、普通の使えないかな?「>」を二つ重ねる。
>>870 家臣統制と統治機構の制度化という点では家康は前二者を
越える才能がある。
888 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/13(木) 21:40:03
才能 ×
実績 ○
家康が木下の息子からでスタートしててもそれが築けたのかは疑問
また、織田豊臣といった前例を反面教師に出来た点も考慮すると、そんな単純に言い切れるものではない
が、家康が優秀な施政家だったのは間違いないだろうがね
ピザ康は長生きの重要さに気付けたのは偉かったな
>>888 いや、既に三河平定時代から一門衆の譜代化、本願寺利権の収奪による
旗本先手備の整備といった中央集権政策には目を見張るものがある。
>>890 そういった実績は認めているでしょう。
でも、だからといって単純に 家康>信長・秀吉 にはならない。
比べるのなら同時期を比べるべきだと思うが、信長存命中の家康が、徳川
家中で織田家における信長を超えるような専制権力を打ち立てていたとは
とうてい言えない。
家康にとっては一向一揆が信長の対本願寺戦+本能寺の変みたいなものだろうか
家康に較べると信長、秀吉共に身内に甘い
>>891 結果として信長は謀反で滅んだのだが・・・
895 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/13(木) 23:32:28
まあ、狸が一番人を信じなかったてことだろ。
896 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/14(金) 00:00:58
>>891 信長と違い譜代の連中で固めている家康が恐怖支配をする必要がない
ウンコ漏らした時に部下と冗談を言い合うくらいが家康にとって一番安心だろ
秀吉の人事統括能力は信長に比べて一段
家康に比べて二段劣ると思う
898 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/14(金) 00:37:56
その事は、譜代もいないし武士出身でない家臣が多いせい
西軍は最初から大坂城籠城できなかったんだろうか?
900 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/14(金) 00:46:52
援軍はどこからくるの?
なんで決戦挑んだ方が篭城住んだよ。
そうでなくとも淀に反対されて没。
902 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/14(金) 00:49:27
>>900 八丈島から 泳 い で 参 っ た !
903 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/14(金) 00:52:30
宇喜田はまだ流されてないって
大津攻めのとか?
>>901 野戦陣地に籠もるのと城に籠もるのなら後者のが良いだろうと
大津攻めとかの兵も有効利用できそうだし
豊臣家も巻き込むことが出来る
あの時点で大阪城にこもっても家康君は攻めてきません。
上杉潰されて終わるだけ。
どうやって決着つけるの?
そもそも逆賊討伐をお題目に掲げてお篭りしてたら諸侯がついてくると思う?
大阪城方に内応者がでて終わりそうな気がする。
大阪の陣が15年繰り上げられただけ。
あの時点で決着付ける必要があったのは豊臣サイドであって家康サイドではないよ。
引き篭もったらこれを幸い、調略しまくり豊臣系大名の本領潰しまくりとやりたい放題に加速がかかってお仕舞い。
俺、最近はむしろ大坂の陣より早く豊臣を滅亡させるには
なにか方法はなかったかを考えてるんだがどうだろう?
912 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/14(金) 02:10:53
「秀頼は大閣の子にあらず」といって淀殿共々追放する
>>911 む、斬新かも。
とりあえず、秀忠将軍職就任以降だろうな。
徳川の世襲を示して、権力・権威の所在を世に知らしめる必要はある。
≫911
一般的に家康が秀忠にすぐに将軍職を譲った理由はこのようにいわれているがそもそも関白のように五摂家でたらい回しではなく将軍職は世襲が基本である。
>>914 鎌倉幕府の時の将軍も世襲だったんだ。へー
916 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/14(金) 13:22:11
そういうバカなつっこみする奴がいると思った。
917 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/14(金) 13:29:57
>基本である。
918 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/14(金) 13:34:35
≫915
絶対なんて言ってないだろ、そんなの誰でも知っているの前提で話してる
>>918 いや、室町と源の三代くらいしか世襲がない。
前提とかは後世から見た結果論に過ぎない。
もし世襲というのならば、
家康将軍就任以後と秀忠将軍就任以後で大坂方に挨拶に行った大名の数が違うのは何故だ?
頼朝以降、武家の棟梁の意味合いになってるから源と足利だけで当たり前
北条政権が例外
鎌倉以前のを持ち出すのは論外
当時は武家の棟梁の代名詞であり武家の場合は世襲がほとんどだが
武家の棟梁の意味合いになったって、そりゃ江戸期からの勘違いだ
きちんと征夷大将軍や右近衛大将やら調べて見れ
世襲でなければなぜ足利将軍が続いたの? 二百年も続けばそれは慣例であり常識だと思うが
つっこみどころがずれまくってる奴多すぎ
>>923 結果と過程が逆。
世襲だから足利将軍家が続いた、
わけではなく足利家の将軍職世襲がある程度成功していた。
当時世襲でない方が珍しいのでは? それより秀頼は将軍になるつもりでいたのかな?
秀頼は、というか豊臣家は将軍職に対して思い入れはないだろう。
なんといっても「豊臣」だから。
今の方が血を重視しているように思える、
当時は、もちろん世襲に越したことはないが、大切なのは家。
西軍は小早川に関白の地位提示してるから秀頼もつつがなく豊臣政権が
順調に行けば関白にはなったろうけど、将軍は無理ぽと思ってたろう。
将軍になるには武力が条件になるから当時徳川家以外なれないのでは 家康がすぐに秀忠に将軍職を譲ったのは後継争いを避けるためではないか
931 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/14(金) 17:57:08
930 そんなこたあ無い。
武力が条件、徳川家以外なれない??????
幕府開設にあたっては武力による統一は必要条件
一応血筋も重要なんだけどな、秀吉が関白になったのもそのせいだし。
それは、通常流布されている根拠のないネタ。
>>934 血筋って、捏造やほらでどうにか成る程度って事か?
それよりは家柄じゃないか、生まれついての、ではなく関白になった当時の。
家柄は家康もダメじゃん。
だから家康も色々細工をしてる。
たしか先祖は盗賊かなんか>家康
まず、源氏でなければ将軍になれないっていうのは徳川綱吉時代の政治的事情(専横を企てた老中・酒井が宮様将軍を京から呼ぼうと企てた)から徳川が流した宣伝
実際には、宮様や公家出身の征夷大将軍は何人もいた(鎌倉幕府の名目上の将軍とか)
そもそも初代征夷大将軍の坂上氏からして源氏でもなんでもないし
律令制度からいえば、天皇の全権代理ともえいる関白は征夷大将軍より高位
ただし、征夷大将軍には元々戦地の指揮官として自由に兵馬を動かせる権限があり、鎌倉幕府や室町幕府はこれを最大限に拡大解釈して実質政権を担った
秀吉と家康の差は、統治志向の違いだと思う
941 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/14(金) 21:26:34
≫940
酒井が宮将軍を迎えようとした事実はない。 将軍になるために源氏である必要はないが頼朝以来の伝統でそのブランド性があったのも事実である。あと秀吉も最初は将軍になろうとした。
少なくとも、朝廷の側には将軍は源氏のみ、なんて意識はないね。
でなけりゃ、藤原氏と平氏は名乗っても源氏を名乗ったことのない信長に
三職推任なんてしない。
秀吉が義昭に頼み込んで断られたというエピソードは、家康と源氏徳川を
持ち上げて秀吉を貶めようとする意図も見られる。
あとなんか変なアンカー使う香具師ってNG推奨ですか?
ブランド志向だとか慣例だとか常識だとかソースも無しで語ってるのが痛いな
945 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/14(金) 21:40:04
あと最初の征夷大将軍は坂上田村麻呂ではなく大伴弟麻呂
ごめん、ちょっと史実間違えてた
最初の征夷大将軍は坂上氏じゃなくて、大伴氏と言われている
征「東」将軍や、征夷将軍(大無し)も同一視するのなら多治氏だ
>>945 諸説あり、どっちでも間違ってはいない。
948 :
947:2006/04/14(金) 21:54:24
延暦10年(790年)7月13日に、大伴弟麻呂が征東大使に任命された。
延暦12年(792年)2月17日に、征東使を征夷使と改めた。
「使」はまた「将軍」とも呼ばれており、これが征夷大将軍の初見とする考えもあるが、
なお問題は複雑である。
大伴弟麻呂の下で征東副使・征夷副使だった坂上田村麻呂は、
延暦16年(797年)11月5日に征夷大将軍に任命された。
田村麻呂はそれまで頑強に戦ってきた胆沢の蝦夷の阿弖流為を京へ連れ帰り、
その地を征服した。
実質的な意味では、田村麻呂が初代征夷大将軍かも知れない。
943 人のことを批判するなら自分の意見も述べるべき。 それができないあなたの方がいたすぎる。
はい
アンカーつけなくなりましたね。
もうNG登録するからコテにしてくれよ。
>>949 たとえばさ、
>あと秀吉も最初は将軍になろうとした。
ここなんだけども、具体的なソース出してくれるかな。
漏れの手持ちの資料じゃないんだよねー
949じゃないけども、949の回答を予想
当時の征夷大将軍職は武家の人間なら誰でもあこがれるのは常識であり、
征夷大将軍になることは一種のブランドであった。
天下人たる秀吉が征夷大将軍の位に就こうと運動するのは慣例であり基本。
>将軍になるために源氏である必要はないが頼朝以来の伝統でそのブランド性があったのも事実である
五摂家以外が関白になるほうが大変ですよ。なにせ前例がないからね。
955 :
954:2006/04/14(金) 22:12:17
少なくとも、秀吉が関白になった時点で、「源氏のブランド」なんてものは説得力がなさ過ぎる。
というか秀吉が征夷大将軍になれなかったから関白になった
ってのを信じちゃってる香具師ってまだこのスレにいたのかw
どんだけ徳川幕府の情報操作に踊らされてるんだw
>>955 さらに信長に征夷大将軍を推す勅使が出てる時点で源氏云々は「意味がない」
958 :
943:2006/04/14(金) 22:37:38
>>957 さらに摂家将軍や皇族将軍が歴史上実在してるのに、「清和源氏のブランド」
って意味不明。
960 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/14(金) 22:58:57
961 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/14(金) 23:25:11
ありえないけど関白秀吉と征夷大将軍家康が同時に存在したら各大名はどっちに付くかな
962 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/14(金) 23:27:06
秀吉の寿命による
963 :
なぎさ:2006/04/15(土) 00:34:44
えー、ありえない!
秀吉が生きてれば、幕府を開こうと画策した時点で関東征伐、勅も出るでしょうねー。
源氏長者オタ、うざい。
日本一の小田原城と240万石を持っていた北条が豊臣軍にアッサリ負けてるからね
秀吉が生きてる間は家康は目をつけられないように平身低頭で生きてくに決まってる。
ていうか、ていうか、そういう風に生きたじゃん。
968 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/15(土) 02:14:15
小牧の時に味方だった連中をみんな見捨てたからな、狸は。
≫959 参考までに藤原頼経が将軍にする際幕府内では藤原姓を源姓に改めるべきではないかという議論が起きた、あと宮将軍の惟康王は源氏を名乗っています。
≫951 「後鑑」に書いてあります、異論があるなら別ですが。 ≫954 ≫955 近衛家の養子になった
971 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/15(土) 11:50:53
変なアンカーマンちねよ
972 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/15(土) 13:55:05
初心者練習スレにでも誘導してやれば?
>>970 本当に初心者でわからないかもしれないから一応。
アンカーだけど、2chでは、「≫」一文字でなく、半角の「>」を二つ、つまり「>>」
とするとみんな見やすく使いやすく助かります。
>>973 おっしゃる通り私は初心者です、教えてくださってありがとうございます。 973さんのみならず皆様にご迷惑おかけしましたことを心からおわびします。申し訳ございませんでした。
975 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/15(土) 16:43:36
>>974 あと、見づらいから改行するといいよ
@レスアンカー→A改行→B文章(長文の場合は20〜30字を目処に改行する)
複数レスするならBの後に改行してから新たにレスアンカーの流れを覚るといいよ
あと、すぐ見える程度に上のレスへのアンカーは>推奨
977 :
951:
>>970 いやあの後鑑ってさ
徳川幕府の幕命で儒者成島良護が表したものじゃんか。
そりゃ秀吉がなりたくてもなれなかった将軍職に家康はなれた
みたいな書き方はするだろ。
>あと秀吉も最初は将軍になろうとした。
っていう秀吉自身の書簡とか、秀吉配下の人間の調停工作の記録とか
ってのじゃないとこの場合意味がなくね?