1 :
無名武将@お腹せっぷく:
>>1 いちいちこんな糞スレ立てるおまいもそうとうに哀れだね
3 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/07(火) 00:23:02
4 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/07(火) 00:49:43
471 名前:名無し曰く、 投稿日:2006/02/18(土) 00:57:55 ID:Zm6ysZtO
織田厨必死ですね。プ(ゲラ
まあ、手取り川は上杉だけじゃなく、本願寺や京都の公家の日記や松永の資料にも残っているんだがな。
506 名前:名無し曰く、 投稿日:2006/02/18(土) 12:48:35 ID:ZWtSbyLn
>>471 あったとしても、それ、
>>446の「謙信の書状」に対しての各所のリアクションだろ。
特に反信長の連中は、喜び勇んで「信長ヨワスwwwww謙信上洛で
信長シボンヌww」とか書き立てただろうけど、話の出もとが、恐らく
謙信が書いたの誇大妄想の産物による書状なわけで…。
507 名前:名無し曰く、 投稿日:2006/02/18(土) 12:58:29 ID:Zm6ysZtO
はいはい。本願寺文書を読め。話しはとりあえずそれからだ。
508 名前:名無し曰く、 投稿日:2006/02/18(土) 13:08:18 ID:ZWtSbyLn
>>507 本願寺文書?
「天正4年に根来の鉄砲で信長が逃げた」って記載はあるそうだけど、
天正5年9月とされる手取川合戦に該当する内容は、記載されて
ないらしいぞ。
511 名前:名無し曰く、 投稿日:2006/02/18(土) 13:22:55 ID:ZWtSbyLn
ちなみに本願寺文書から信長関連の記載を抜粋したもの。
-----------------------------
天正5 信長,紀伊雑賀衆を討つ
-----------------------------
どうも手取川に関する記載は無いっぽい。
http://www.bigai.ne.jp/~miwa/miwa/kayanobunen.html 512 :名無し曰く、 :2006/02/18(土) 13:27:22 ID:73SNXKrf
大本営発表
5 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/07(火) 00:50:49
手取川の合戦だが・・・本当に手取川で合戦が起きたか疑わしかったりする。
なぜなら手取川合戦を記載した良質な史料が、「歴代古案」に収録されている
謙信の書状ただ1つだけなのだ。
完璧に正確な記事を記載している「信長公記」(秀吉の北陸戦線離脱と
信長の激怒に関しては記述有り)をはじめ、当時の北陸の書状や記事に
全くと言っていいほど手取川合戦の記述がないのである。
(後世(主に江戸時代)に書かれた講談的な戦記物には記載満載だがw)
と言うことは恐らく、手取川で謙信軍と柴田勝家軍との間に大規模な合戦など
無かったと思われる。
もし手取川で小規模ながら戦闘が有ったとしても・・・考えられるのは
勝家・謙信両軍共に物見部隊(偵察)などが手取川で小競り合いを
繰り返していたかもしれない…という推測が妥当と言えるだろう。
手取川合戦は我々が想像する程、大規模な合戦ではなく実情は
手取川合戦など無かったか・・・有ったとしても小部隊による局地的な
戦闘であると見たほうがいい。
上杉側は3000名の死者とかほざいてる癖に名のある武将は一人も死んでいない手取川w
7 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/07(火) 08:36:13
最近過去の名将を誹謗中傷して得意になっている駆け出し日本史馬鹿あんちゃん
が続出している。過去の名将たちも時給700円のあんちゃんたちに批判されたく
ねーみてーだぞ。
というか雇ってもらえてるかも怪しくないか?
ゴミ大名上杉の輝かしい戦歴
・戦で信玄に大勝しながらも信濃を失うという前代未聞な成果を残す(実質領土を取られた謙信の負けw
・アホのように関東に侵攻し、味方は裏切り三昧。しかも土地取れず
・10万の兵でも小田原城を落とせずw憂さ晴らしに強姦略奪三昧
・佐野昌綱の城を10度攻めたが、一度たりとも落とせず
・気に入らない家臣の嫁を馬に紐でくくりつけ引きずり殺す。
・結局北条に関東のほとんどを奪われる。関東管領の権威を地の底にまで下げ、面目丸つぶれにさせる
・間違って味方の城を攻め、そのまま落とす。しかも城主を惨殺
・敵の支配地域に踊りこみ城攻め。結局抜けなくて惨めにトボトボ逃げ帰る。憂さ晴らしに強姦略奪を繰り返す
・無用にも味方の頭を殴って、離反される。
・神保、椎名ら越中の雑魚豪族に苦戦
・政治を顧みず、一向一揆を起こされまくり。鎮圧と虐殺にモタついてる間に他大名に勢力を伸ばされる
・渡河退却中の織田を汚く追撃し、戦果を捏造
・関東豪族を裏切って北条と同盟し嫌われる。その北条にも同盟破棄されるみじめっぷり
・醜い跡取り争いの御館の乱で衰退自滅、48にもなるのに跡取りを指名せず、領地の多くを失う
・家臣に反乱起こされまくり
・便所で糞尿にまみれながら昇天
・最上に庄内取られる
・伊達と最上にすら勝てず(後世で寡兵で勝ったとお得意の捏造)
・己の愚かさから関ケ原の戦いを引き起こしてしまい、おまけに負け組へ。戦後領土を大きく減らされる
・幕末、薩摩の芋っぽに虐殺される
最近どころかなかった説は昔から専門家では主流ですよ
何しろ史料が乏しすぎる
なんで信長公記に載ってないのか。
12 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/07(火) 19:28:34
■解説・手取川合戦
各地を侵略して略奪暴行の限りを尽くしていた織田軍に、怒りの軍神上杉謙信が鉄槌を下した戦い、
それが手取川の戦い。
手取川は織田軍兵士10万の死骸で埋め尽くされ、血で赤く染まった川の水は数年に渡って赤いままだったと言われる。
あまりの惨敗に織田信長は、この戦いについての一切を語ることを厳しく禁じたため、
史料は上杉家にわずかに残るのみである。
>>11 手取り川の有無以前に、史料には修辞というものがある事を御存知ですか?
15 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/07(火) 21:02:16
>>12 織田の兵十万も死んでんのかよ
あるあ。。。ねーよwwwwwwww
信長も手取川で死んだって説が有力だが・・・
光秀にアボンされたのは間抜けな影武者だとしたら、納得がいくね。
流石は戦国最強の越後上杉軍だな。
謙信が死んで越後が内乱になっても、柴田勝家はなかなか加賀に攻め込めなかった
んだもんね。流石は戦国最強の越後上杉軍だな。信長も討ち取られてたのか。
確実な史実では、信長の首は春日山城下に晒されたらしい
んなわけねえだろ捏造大好き上杉厨共よぉwwwwwwwwwww
お前らの妄想力と捏造力には関心するよwwwwwwwwww
上杉厨のキチガイ度合いにはほとほと感心させられてるぜwwww
ゴミ大名上杉の輝かしい戦歴
・戦で信玄に大勝しながらも信濃を失うという前代未聞な成果を残す(実質領土を取られた謙信の負けw
・アホのように関東に侵攻し、味方は裏切り三昧。しかも土地取れず
・10万の兵でも小田原城を落とせずw憂さ晴らしに強姦略奪三昧
・佐野昌綱の城を10度攻めたが、一度たりとも落とせず
・気に入らない家臣の嫁を馬に紐でくくりつけ引きずり殺す。
・結局北条に関東のほとんどを奪われる。関東管領の権威を地の底にまで下げ、面目丸つぶれにさせる
・間違って味方の城を攻め、そのまま落とす。しかも城主を惨殺
・敵の支配地域に踊りこみ城攻め。結局抜けなくて惨めにトボトボ逃げ帰る。憂さ晴らしに強姦略奪を繰り返す
・無用にも味方の頭を殴って、離反される。
・神保、椎名ら越中の雑魚豪族に苦戦
・政治を顧みず、一向一揆を起こされまくり。鎮圧と虐殺にモタついてる間に他大名に勢力を伸ばされる
・渡河退却中の織田を汚く追撃し、戦果を捏造
・関東豪族を裏切って北条と同盟し嫌われる。その北条にも同盟破棄されるみじめっぷり
・醜い跡取り争いの御館の乱で衰退自滅、48にもなるのに跡取りを指名せず、領地の多くを失う
・家臣に反乱起こされまくり
・便所で糞尿にまみれながら昇天
・最上に庄内取られる
・伊達と最上にすら勝てず(後世で寡兵で勝ったとお得意の捏造)
・己の愚かさから関ケ原の戦いを引き起こしてしまい、おまけに負け組へ。戦後領土を大きく減らされる
・幕末、薩摩の芋っぽに虐殺される
予想どおり、糞スレだな
松川スレはそれなりにスレ主が史料検証をリードしてくれてるが、
ここはコピペしか出来ない無教養なアホスレ主・・・・
いや両方俺が立てた。
立てただけだけど。
26 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/08(水) 20:39:46
手取川の戦いとは、
日本の歴史上屈指の名将上杉謙信と天下の覇者織田信長が総力を挙げて戦った、
戦国史上最大の戦いである。
27 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/08(水) 23:45:51
100点
>>24(
>>1)
では、おまいが無学者かどうか、宿題を課してやる。
@「今度謙信能州・賀州被入手裏、御納馬之由、誠目出、当方満足不可過之候」
(天正6年正月9日、新発田長教宛て 止々斎=盛氏書状)
A「能・越・賀存分之尽ニ申付、越前も過半属手候条」(仁科文書)
↑の史料を解釈しろ。
B柴田勝家が謙信歿年の翌年夏になって、ようやく加賀に兵を出したことからも、
越前の少なからぬ領地が天正5年9月以降、上杉+一向衆徒に支配されていたのは明白だな。
越後が内乱状態(御館の乱)になってるにもかかわらず、勝家はすぐには加賀を攻められなかったわけだ。
↑この史実を合理的に説明してみろ。
C「謙信書状(天正5年9月29日)」(歴代古案巻一・越佐史料解釈)の概略を翻訳してみろ。
>>21 前々からそのコピペについて言いたいことがあった。
頭じゃなくて烏帽子、素手で殴ったわけではないので、打ち落としたが正解。
30 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/09(木) 06:20:13
1回の戦で越前まで手に入るものなのか
無双2で手取川のステージがあったから手取川はあった
終了
>>1のキチガイぶりは先祖が上杉軍の馬蹄に踏みにじられた怨みから
>>30 上杉は越前まで越境してない。
むしろ、一向宗(吉崎道場)が元気になったという意味だろう。
うんこいっぱいしますた^^
気持ちよかったです^^
>>34母「あんた、いい歳していっつもパンツにうんこつけてないでちゃんと拭きなさい!」
36 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/09(木) 12:59:49
長野業正
流石は戦国最強の越後上杉軍だな(藁)
で、ここ一人何役しているんだ?
39役
40 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/18(土) 15:14:03
トリプル役満だな
>>1が
>>28の設問に答えられないかぎり
このスレの内容的な伸びは期待できない件について。
生粋のゴミスレにそんな期待するのが酷
43 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 10:10:13
手取川の戦いとは、
日本の歴史上屈指の名将上杉謙信と天下の覇者織田信長が総力を挙げて戦った、
戦国史上最大の戦いである。
44 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 10:50:37
100点
45 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 10:35:49
問2
織田方の武将が誰も死んでない理由を簡潔に述べよ
答
信長が頑張って救出ミッションを成功させたから
>>45 われ先に逃げたから、雑兵が犠牲になった・・・・。
48 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 15:41:49
正解は
柴田勝家をはじめとして主だった武将が捕らえられたが、慈悲深い謙信公が全員を釈放したため。
柴田らは恥を曝すのを恐れてこの事実をひた隠しにしたため、後世に記録として残ることは無かった。
なるほど。
50 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 19:32:12
謙信の辞世の句を聞いた信長は冷や汗流してびびってたっていう話はどうしますかね。
織田厨。
51 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 19:49:13
この戦いに動員された両軍の兵力は総勢40万に上る。
関ヶ原や大坂の陣を越えた、まさに戦国史上最大の戦いと言える。
52 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 20:02:16
この戦いって5万の兵を率いた直江兼続が火計によって織田軍100万を
手取川に沈め、信長の天下統一の野望を挫いたってやつだろ
だから信長も手取川で死んだんだってば
本能寺で家来にアボンされたのは無能な影武者ってことで
54 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 22:39:42
>>52 あれ?兼続は東南の風吹かせただけじゃなかったっけ?
じゃーん!じゃーん!じゃーん!
信長:げげえ謙信 は余りにも有名すぎるから、手取り川は普通に史実だろ
命乞いする信長を謙信が逃がしてやったという話は有名だよな
56 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 23:30:18
鉄甲船が密集しすぎていたために、上杉軍の火計効果が倍増してしまったのが織田軍の敗因だな
これって織田軍が上杉の支城を次々落として上杉勢は篭城策を提案するが
篭城の図面が漏れてどうしようもなくなったため僅かな手勢で打って出て
信長の休息中に謙信率いる2500の兵が奇襲をかけて敗走させたってやつだろ?
58 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 17:22:38
捏造の上杉w
まあ所詮は便器でぶっ倒れてあぼーんしたお笑い武将なんだけどな・・・
>>57 確か川を挟んで対陣してたけど、鳥の飛び立つ音に驚いて退却したんじゃなかった?
61 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 21:11:58
>>59 そんなこといったら、信長なんて部下に裏切られてあぼーんした無様極まりない武将だぞw
董卓と同じようなもんだな。
62 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 21:35:30
便器に倒れられるわけねーだろw
どんだけ器用なんだよ?
股間蹴られてショック死した小早川秀秋が最強だろwwwww
64 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/25(土) 16:50:43
かっこいい死に方は信玄だろな
上洛(?)途中で死んだというのはロマンがある
65 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/25(土) 17:06:19
秀吉は畳みの上で死んだが、布団に寝小便状態するほどボケていたのは有名な話
大往生を遂げた徳川家康こそ最高の死に様よ
え?鯛の天麩羅?
そこで本多忠勝ですよ。
もはや手取川関係ないけど
死に様なら可児才蔵だろ。
ま、大名ですらないがな。
69 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 12:57:32
上杉軍 対 織田軍
織田軍の先発隊を率いる総大将・柴田勝家は七尾城の落城を知らないまま、
進軍を続けた。しかし、この進軍の途中で、かねてから勝家と犬猿の仲に
あった羽柴秀吉が、勝家と意見が合わなかったことから対立し、勝手に軍
列を離れてしまうなど、織田軍はすでに内部が崩壊していた。
一方、柴田勝家率いる織田の援軍が来ていることを知った謙信は、直ちに
七尾城から出撃し、手取川付近にあった松任城に入った。これに対して勝
家が七尾城の落城を知ったのは、七尾城を救援すべく手取川を全軍が渡河
し終えたときであり、しかも謙信率いる敵軍が松任城に入っていることも
知った。七尾城が落城し、しかも謙信自らが軍を率いて近づいていること
を知った勝家は慌てて撤退命令を出したが、その撤退途上に織田軍は謙信
自らが率いる上杉軍の追撃を受けることとなった。手取川の渡河に手間取
っていたこともあって、このときの織田軍は成す術も無く、上杉軍の餌食
になったと言われている。
戦いは、織田軍が二千人近くの死傷者を出す大敗であった。
信長自身、近習ら数十騎とともに命からがら美濃へ逃げ帰ったという
(wikiより)
上杉強すぎ
71 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 13:24:54
謙信は「織田は弱すぎる」と言って呆れ返ってたらしいな
ウィキペディアって捏造し放題だから結構楽しいよな
73 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 19:24:48
>>69 総大将が勝家なのに信長が命からがら逃げるとか意味不明だし
74 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 19:29:55
勝てないって思ったから逃げたんだろ?
勝てると思うならそのまま戦ってるよ。
それで信長は加賀まで出馬したのか?
76 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 19:44:29
>>69>>73 てか信長がその当時手取川に居たら
勝家が総大将の理由が見つからないな。
信長は後詰め及び援軍だったんだろ。信長公記に載ってる。
で、信長が一騎で逃げ帰ったかどうかは知らんけど、地元の狂歌とかで
そういう歌が残ってるから。そういう説が生まれたんだろね。
78 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 20:16:27
>信長は後詰め及び援軍だったんだろ。信長公記に載ってる。
見当たらない
勝家らの陣容は乗ってるだろよ。総大将は勝家だろどうみても。
秀吉帰国も乗ってるし。
どっちにしろ上杉捏造うんぬん言ってるが、手取川だけでなく三方ヶ原の記述といい
武田・上杉とやった戦の記述は意図的に避けてるよね、太田牛一w
意図的っつーより、合戦の記述は蛋白に書かれてるから
例外なのが長篠と桶狭間
>>77 信長が後詰どころか、出陣したと信長公記の何処にあるの?
>>81 桶狭間の記述は年号がデタラメ(天文21年)
>>83 内容が正しいかではなく、合戦の経緯を詳しく書いてるかどうかでの話ね
まあだから、総大将は勝家でその後信長合流、合流後謙信に蹴散らされ信長一騎で
落延びるが正しいんだろね。それは信長が命からがら落延びたって歌にも乗ってるし
何事も信長に従うという約定をしたためた勝家の退陣は、信長参陣後、指示に従った
とも言える。勝家が単独で謙信と激突するなんてのはありえないよ。
86 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 21:15:01
晒し上げ
>>85 当時の信長が京にいたことは公家の日記などから確認できる。
一方、信長が北陸に出陣したことは勘違いした謙信の手紙以外に公記にすら
ない。
>>87 誰がそんなこと書いてんだよ。まあどっちにしろ勝家は撃破されてんだけど。
>>87じゃないが
>>85は目の錯覚でなければ信長が加賀に出陣してると読めるが。
どこの公家がそんな捏造してんだよw
91 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 22:12:43
上杉厨がファビョりだした
公家の日記w
てか反信長の要、本願寺に何も書かれてないのはおかしい
毛利・上杉の挟撃とか輝元の書状とか残ってんだろ?
松永謀叛や別所離反とか、本願寺も込みであれだけ逼迫したなか、わざわざ勝家
率いる3万が小競り合いってw 信長公記はしっかり詳細に書かれてる書物だけど
なんであんな記述なんだろね。
>>93 本願寺と上杉は仲悪かったから宣伝とかはしない。
多聞院日記や兼見卿記、信長発給文書でも信長在京がわかるね
内裏の修理に色々動いてるしね
信長公記は蛋白に書かれております
謙見は日記を改竄し、光秀との親しい交流を示す記事をカットした
改竄魔謙見卿日記>>>>上杉謙信書状ww
これは、信長のアリバイ工作ですね。
101 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 22:47:51
上杉厨がファビョりだした
上杉厨は兼見卿記が天正五年も改竄されてると新説発表しますた。
まあその頃の公家は信長の宣伝に協力しただろね。
とりあえず謙信は捏造魔、信長は貴公子ってことで終了
106 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 22:56:40
上杉が捏造宣伝しても事実は変わりませんでしたとw
もしかして川中島も捏造じゃね?
108 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 23:03:15
川中島は武田も上杉も書状で捏造してるよw
川中島での一騎打ちは嘘
110 :
sage:2006/03/27(月) 23:08:37
いや一騎打ちは影武者対決w
111 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 23:35:40
信長厨は鉄砲のみが拠り所なんだよね〜カワイソスw(・ω・)
上杉厨は何故話題を逸らそうとするのか
辻褄を合わせた後世の写本にすぎない「信長公記」、これも書き写しにすぎない「歴代古案」
収録の「長尾和泉守あて天正5年9月26日謙信書状」。修辞された二次史料を云々しても始まらない。
まずは
>>28あたりの史実(柴田勝家の加賀再侵攻が謙信死後の一年半あと)
である確実な史実から、北陸戦線の実態をさぐることから「手取川」の真実は
明らかになる。まず
>>1が
>>28に答えてみるべし。
114 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/28(火) 17:02:55
思ったんだが信長が加賀にきてたんなら
秀吉が近江に帰るなんて馬鹿な真似しないんじゃ
ないのか?
信長も信長で軍律違反した秀吉に何にもしてないし。
115 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/28(火) 17:42:12
信長が出陣していたというのは上杉お得意の捏造という事でFA?
117 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/28(火) 18:18:10
だって上杉厨が信長が出陣していたとか言い出すんだもん
基礎文献嫁!
信長の動静は「公記」(天正5年の段)
謙信書状(手取川合戦)は「上越市史」(中世編収録)
>>116 信長は手取川合戦の頃、松永久秀の子供(人質)に化粧させて、
一条から六条河原まで引き回しの刑、見物人の前で虐殺したのが史実。
>>77によれば、信長公記に信長出馬があるらしい
多聞院日記・兼見卿記は信長の宣伝による嘘らしい
信長発給文書も宣伝で嘘らしい
普通に信長の京での行動が書かれてるだけだが、
何を宣伝したのかというのかは謎
多聞院日記(鉄船の虚偽で有名)
兼見卿記(本能寺の変の前の記述を改ざんで有名)
信長公記(写本複数ありだが、信長の加賀出陣はないね)
>>77の新史料ハケーンに期待。
>多聞院日記(鉄船の虚偽で有名)
>兼見卿記(本能寺の変の前の記述を改ざんで有名)
>信長公記(写本複数ありだが、信長の加賀出陣はないね)
史料の信憑性は兼見卿記≧多聞院日記>>信長公記
ていうか
>>120の書き方だと、信長公記には兼見卿記や多聞院日記以上の改竄や誤りあるが
>>117 っつうか、おまえ糞スレたくさん立てやがってよ
立てた以上は責任持って消化させるか削除しろ
ヴォケが
上杉謙信は織田軍が出陣した翌日、加賀の七里頼周に対して書状を送っている。
だがウィキではこの時点で七里は死んでいることになっている。手取川の記述共々
酷い誤りだ。
>ウィキではこの時点で七里は死んでいることになっている。
ウィキを書いた香具師の原史料は何???
七里頼周宛ての謙信書状(七里への返書)は「水野文書」と「清水文書」(越佐史料5-395)にある。
125 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/31(金) 16:58:05
織田が1000人を超える死傷者を出し、無様に逃げ帰ったのは間違いないよ
126 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/31(金) 19:14:13
勝てるなら勝家が撤退しようが信長は交戦する。
勝てないから逃げ帰った。
勝てる相手ならになんで背を向けて逃げるの?織田厨の皆さん。
逃げたというより退却と言ったほうが正しいのでは?
金ヶ崎の時のような心配は無いのに無傷の軍を捨てて単身で逃げるとは思えない
129 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/31(金) 19:41:49
>>126 信長「に、逃げ出したんじゃねえぞ!これは退却っていうんだよ、ヴァァ〜カ!!
こ、腰なんか引けてねぇよ!ウンコ〜ウンコ〜ッ!!」
そもそも、加賀を平定してない状態で能登まで進撃して兵糧はどうするつもりだったのだろうか。
七尾城救援は信長らしくない無謀な作戦だった様に思える。翌年、信長は尼子の残党が篭る
上月城を見捨てる非情な決断を下すが、七尾城の一件があったからかも知れない。
たしかに、全く味方勢力のない加賀を打通して能登七尾城救援なんて、
信長にしては他に例の無い無謀な作戦。
若狭の水軍衆が味方にいるのだから、こちらを使ったほうがまだしも
役に立つだろうに。
秀吉は正しかった、と。
133 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 02:48:29
手取川での織田軍との戦いがストレスとなって、謙信の死を早めたような気さえしてきた
信長が出陣し、加賀に行くまでの道中で
七尾城陥落、柴田敗走(といっても大敗ではない)という報を聞いて
じゃあもう柴田が兵を整えなおすまで自分が行ってもすることないな
というわけで引き返したんだと思う。
135 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 09:34:38
千人も死んで、名のある武士クラスが一人も死んでないマジック
謙信の書状によると討ち取った上残りは川に追い込んで溺れさせたはずなんだけどな
その後の北陸の織田軍の行動が停滞したこともないし
要するに織田に勝ったからスゲー!って捏造でしょ
それだけ信長が戦国のビッグネームだったってことだよ
本人は北陸出陣取り止めて松永にかかってても
武田だって織田の援軍を蹴散らしただけで織田に勝ったとしてるじゃないか
>その後の北陸の織田軍の行動が停滞したこともないし
??? 勝家が加賀に再び侵攻するのは、謙信死後一年半後(天正7年夏)だぞ。
越後が内乱になっているにもかかわらず、織田軍は動けなかったわけだが??
何か、新しい史料でも見つかったのか??
>要するに織田に勝ったからスゲー!って捏造でしょ
>それだけ信長が戦国のビッグネームだったってことだよ
ひたすら信玄と謙信に媚びて、貢物攻勢で畿内政権を保ってたうつけが「ビッグネーム」??
当時の東国武士(室町時代は源氏東国史観だった)は関東制覇が夢だったわけだが?
史実は、畿内政権はいずれも崩壊。武家の伝統である関東政権(江戸開府)だったわな。
謙信も二度上洛したが、畿内にはこだわってない。
138 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 14:39:50
>>137 は?新しい史料も何も
北陸軍は、畿内や播磨中国方面に出陣する一方、北陸で城の普請を進めてるがなにか?
要するに当時の織田軍にとって緊要度は荒木謀反などにより緊迫した畿内方面が一番だったってことでしょ
139 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 14:41:10
>>137 じゃあなんで謙信君は関東制圧を捨てて越中へかかりきりだったんでしょうか?w
北条に勝てなかったから?
豪族達に離反されまくったから?
贔屓の引き倒しって言葉しってますか〜?>上杉厨
謙信を馬鹿にしているとか思えん。関東制覇が夢だとか
元々関東管領職を得たのは信玄討伐の名目を得るため
ところが職を得たら、本来の職責に忠実にって責任感が出たのか関東進出にシフト
しばらく武田・北条と和戦を挟んでの三つ巴だったけど
結局、氏康死後は北陸方面に主力を転用。暫くは信玄が唆した一揆衆や豪族と交戦。関東制覇なんかどっかいっちゃったじゃんかw
でも、普通に考えれば実入りが少ない関東制覇よりは、根拠地に近く父祖の代から指向していた越中制圧は現実的戦略なんだよな
要するに関東に出たのは労多い回り道
>>139 天正6年3月の大遠征計画(仁科文書)は関東だよ。
この時は北条と武田とも同盟が成立(越佐史料)し、常陸の調停に越山する計画だった。
そもそも信長が北陸に出馬しなかったのは、伊達輝宗に本庄繁長を誘って
後方から謙信を攻撃してくれという依頼が成立しなかった(伊達文書)から。
ビビッて、出てくるどころじゃなかったと推論できる。
無茶な戦を任された勝家こそたまったもんじゃない。
とにかく、勝家がふたたび加賀を攻めたのは謙信死後一年半経ってからだ。
142 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 14:49:00
信長公記によると、荒木謀反による中国戦線の危機に越前衆などの柴田軍が動員されて
天正6年から7年夏ごろまでそちらに駐留している
この間播磨に押し出したりしてるな
7年末にはまた上洛して、荒木一族処刑の奉行に前田が任ぜられたりしてる
内紛だから攻めるっていう発想じゃなくて
内紛してるのならそのうちにもっとピンチのところを処理しておこうって発想だったってことでしょ
上 杉 厨 再 度 轟 沈
>>141 北陸と関東をいったりきたりか
相変わらず謙信には一貫した戦略性がねーなw
武田に攻められた北条の援軍要請放置して同盟切られたいい加減さは最後まで直らなかったと
>元々関東管領職を得たのは信玄討伐の名目を得るため
違う。信玄打倒は治罰の綸旨、および小笠原長時の信濃複領の御内書
関東進出は、もともと長尾氏の本拠が関東だから。総社長尾、白井長尾
足利長尾の地盤があったから構想された関東府計画だね。
鶴岡八幡宮への奏上を読めば、関東での長尾の正当性を自負している謙信の
本音が読み取れる。
つまり謙信は関東制覇を夢見ながら行き当たりばったりで動いて
挙句同盟の義も達成できず制圧も実現できず、のお間抜けってことになる?
147 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 14:58:05
なんか上杉厨が主張すればするほど謙信がお馬鹿扱いされていくぞw
三戦板的な成り行きだな・・・・
家来に殺されたバカ殿にどんな展望があったかなんて
言い出したかないんで、史実の検証に限定しろよ。
オレは信長も謙信も好きなもんでw
>>147 いろんな上杉叩きスレを作って自作自演つまんね
他のネタねーのかよ
武田に攻められた徳川と同盟結んだ時も、攻撃要請に応じなかったしな
謙信は義に厚いっていうけど、要するに庇護下に入りそうな相手以外とは平然と約束破るってことだろ
11万集まったともいわれる関東衆が離散したのも当然か
ん?謙信に展望があって関東制覇がそれだって主張してるのは上杉ファン側じゃないの?
むしろ、畿内のことは信長が担当し、
関東は謙信にという内儀じゃなかったの?
対本願寺の北陸戦線も、当初は信長からの情報で動いてたわけで、
長篠あたりから、信長が佐竹や伊達と直接交渉を始めて、
謙信がキレたのが同盟崩壊の序曲。山浦(元信濃村上)に
信長が信濃侵攻を進めたりしてるし。
柿崎景家・大熊朝秀・佐野昌綱・由良成繁・北条高広・本庄繁長・椎名康胤
さて彼らの共通点は?
信玄死去後、謙信は織田徳川に揃って勝頼攻めよう、と誘ってるしな
義に厚いって明らかに偏向した方向性でだろ
ま。戦国大名に後世の美徳観を押し付けるほうがおかしいかもしれんが
>>153 >柿崎景家
言いたいことはわかるが、これは間違い、初出が「北越軍談」(江戸中期の軍記書)
で、しかも宇佐美系の偽書。謙信直筆の苗字尽くし(天正6年)に柿崎の名前がある。
そう柿崎は寿命で亡くなっている
そんな基本的なことも知らんのか?
天正6年中の勝家は領内整備に努めてるな
主力軍を畿内方面に送り出してたからかね
城以外にも、橋をかけたり道路整備したりしている(九頭竜川の舟橋・足羽川の九十九橋なんかは有名でしょ)
158 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 15:17:45
しかし
>>1が作ったスレはどれかひとつが賑わうと他のスレが全く書き込みがなくなるのが毎度のお約束だなw
159 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 15:20:13
上杉厨が自慢気に書き込む→反論で粉砕
何度も何度も…
これが全部自演なら
>>1乙としか言いようが無い(w
ただひとこと
おまえ三国志板から出ていけ
【謙信謀反家臣・国人】
大熊朝秀(武田へ)・佐野昌綱(裏切り繰り返し=赦免)・由良成繁・
北条高広(二度裏切り、武田・北条へ=赦免)・本庄繁長(武田の調略=赦免)・椎名康胤
【信長謀反家臣】
松永久秀(二度謀反=自害)・荒木村重(家族惨殺)・明智光秀(謀反成功)
謙信の場合は隙が多すぎ・敵に付け入られすぎ。
信長の場合は本人に問題ありすぎ・家臣に「こんな香具師」と思われてしまう?
信長も謙信も苛烈な性格だからな。しかし謙信って中小領主には甘いんだな
二度も謀反したら普通の大名なら斬ってる
163 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 15:27:47
神保長住・姉小路自綱・佐々長穐ら飛騨の親織田豪族が、越中を攻撃してたから柴田軍の主力は別方面へ転戦できたし、勝家自身も領国整備に没頭できたんじゃね?
内紛中の上杉氏ではこの程度の攻撃も支えきれず侵蝕されていったし
>>162 甘いんじゃなくて、赦さざるを得ないという側面が強いかと。
上杉厨の
>>1認定には病的なものを感じるな
妄想が激しい
いろいろな上杉叩きスレってどこよ?w
168 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 18:15:27
苦しいと自演扱い
これが上杉厨の車懸かり的必殺戦法かね?
設問を誰も相手にしないうちはそんなこと一言もいわなかったのになw
>>161 別に信長本人に問題があって謀反したわけではなかろう
荒木と明智の謀反理由は未だに不明だし
じゃあ再度
>>28貼っとくよ
28 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2006/03/09(木) 01:30:21
>>24(
>>1)
では、おまいが無学者かどうか、宿題を課してやる。
@「今度謙信能州・賀州被入手裏、御納馬之由、誠目出、当方満足不可過之候」
(天正6年正月9日、新発田長教宛て 止々斎=盛氏書状)
A「能・越・賀存分之尽ニ申付、越前も過半属手候条」(仁科文書)
↑の史料を解釈しろ。
B柴田勝家が謙信歿年の翌年夏になって、ようやく加賀に兵を出したことからも、
越前の少なからぬ領地が天正5年9月以降、上杉+一向衆徒に支配されていたのは明白だな。
越後が内乱状態(御館の乱)になってるにもかかわらず、勝家はすぐには加賀を攻められなかったわけだ。
↑この史実を合理的に説明してみろ。
C「謙信書状(天正5年9月29日)」(歴代古案巻一・越佐史料解釈)の概略を翻訳してみろ。
Bは既に論破済みだろw
なんでこだわるかねー?
172 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 18:28:52
上杉厨最後の砦
自分もわかってない古文解釈させて煙に巻こうとしてるんだよ
手取川が無かったことは状況から明白だって論破されてるのにな
スレタイが悪すぎたな
こんな煽り口調じゃなくて、
松川スレと同じで【上杉vs織田】手取川の戦いは本当にあったのか?
みたいな感じで良かったのに
>>169 家臣の叛乱で自壊した戦国大名家という意味では特異だよ。
信長がアボンした段階で、ほぼ完全に崩壊したわけだから。
その意味では、信長個人の資質で天下布武→崩壊=本人の問題。
とくに、謀反したら絶対ゴルされるのが判ってても、あえて謀反人が出てる
不思議・・・・。
>171
別に手取川との関連では「論破」も「論及」もされてないわけだが??
しかも、一次史料なしの推論w
勝家軍が内紛中の上杉を攻めなかったのは
・主力を畿内に転戦させていた
・領国を整備していた
・地元豪族から成る飛騨方面軍(?)が越中を担当していた
からだね
もっとも飛騨の豪族達が取った富山城とかは、結局織田家の家臣佐々にとってかわられちゃうけど…
設問C
手取川の合戦でボコボコにされた(謙信書状天正5年9月29日「歴代古案」)
織田軍は越前まで攻め込まれ(仁科文書)、越後が内乱下の天正7年に至るも
能登・越中はおろか、加賀にすら侵攻できなかった。
この事情を合理的に説明せよ。
それをいったら手取川があったとする根拠は手紙一通だけじゃんw
他の一級史料にはかかれていない
大戦のはずなのに軍忠状も感状もない
状況的にもおかしい
これらはどういうこと?謙信が景広に三味線引いたんじゃね?w
>・地元豪族から成る飛騨方面軍(?)が越中を担当していた
加賀を手付かずに、いっきに越中か??
原史料は何だ? 上げてみれ
>謙信が景広に三味線引いたんじゃね?w
景広て誰?? 高広の間違いだぞ、しかもそりゃ七尾城の顛末だ(爆笑
>大戦のはずなのに軍忠状も感状もない
大戦とは書かれてないが?
軍忠状ってことでいえば、川中島や七尾でも残されてないぞ
一般に感状は堪忍分(苦戦した合戦への見舞い)
>>180 『越中志微』
飛騨口からの進撃
いわゆる月岡野合戦で、神保氏を旗頭にした斎藤新五郎軍が上杉方川田・椎名勢を撃退してる
>・主力を畿内に転戦させていた
手取川の痛敗で、北陸戦線をいったん放棄
>・領国を整備していた
越前まで上杉・本願寺に攻め込まれ(吉崎御坊が拠点)
防戦に必死だった
こういう推論も成り立つわけだが
185 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 18:46:00
また上杉厨轟沈(笑
些細な打ち間違いにも鬼の首を取ったように必死になるあたり、追い詰められている気配が丸わかりですね
なんで史料が殆ど無い戦を信じられるのか未だに不思議
月岡野合戦なら信長公記にも載ってたな
三方ヶ原のような負け戦でも書いて、討死した者の名前も挙げている信長公記が手取川だけ書かない理由もよくわかんね
>>183 『越中志微』
何だ、この胡散臭い編纂記録は?
原資料を出せと言ってるんだよ、ボケ!
188 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 18:51:34
>>187 編纂史料が胡散臭いのなら、遺文とかはどうなるw
涙目乙
手取川って松川以上に信憑性無いだろ
あっちは資料だけならたくさんあるし
>>185 さっきからおまえひとりで相手を厨だの言っておめでたいな。
ふつうに議論できないなら指でもくわえてろ。
天正六年中に飛騨から富山城とれたのなら。神通川以東と以西の連絡線を切断できた形になるな
どうりで主力を他に廻したり、呑気に橋かけたりできるわけだよ
斎藤新五郎というと濃姫の弟説もある美濃衆か
信忠に従って二条城で討ち死にしてたな
越中津毛城(富山市)だな、公記にあるのは。
やっぱ謙信急死は響いたんだな
手取川合戦があったかどうかはともかく、織田軍の七尾後詰が間に合わず上杉勢力圏が西へ伸張したのは確かだろ
でもその後は北陸軍に比べて劣勢と思われる飛騨軍の攻撃で後退を余儀なくされている(松倉城あたりは堅守してるから戦線が崩壊したわけではないが)
調べてみたら信長は河田の調略には失敗してるけど、椎名小四郎を
味方に付けてるんだな(河田と対立?)。
河田は謙信が上洛した時拾われた武将だからな
忠誠心が扱ったんだろ
本領あった近江に土地与えるといわれても内応に応じなかったんだから
197 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 19:16:56
備藩国臣古証文・黄薇古簡集なんかによると
斎藤新五郎は上杉軍3千討ち取りってあるけど…
これってマジかね?
本当なら手取川の復讐をマイナー(失礼)武将が果たしたことになるなw
仙台人うぜーなあ
199 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 19:24:13
>>198 しっかり反論すれば?
上杉厨撃沈とか言って揚げ足を取るわ
都合が悪くなれば「うぜー」しか言わなくなるわ
子供かよ・・・。
>>197 噺が大きくなるよな、江戸時代の自慢話になると・・・。
「信長公記」では、美濃の情勢を聞いて闘わずに退却した
だから、噺大きすぎ。
ちなみに、「歴代古案」の謙信書状も写しなんでしょ?
謙信の直筆は「すべて平仮名」説もあるし、宛名の長尾和泉守
が問題点。越佐史料の編者はこれを「後記」としてるが、
関東長尾に和泉守の官途を名乗った人物が不詳。
洩れも
>>1に言わせれば上杉厨なんだろうけど、手取川は合戦というほどの
もんじゃなかったと思うよ。越前過半も〜の「仁科文書」の解釈は
本願寺勢を併せた勢力圏だとしても不都合じゃないし。
>>198は誤爆じゃないの
文脈が全然繋がってないじゃん
仙台なんてこのスレに出てきてないし
>>1が答えられそうにないので、訳してみるよ。
@「今度謙信能州・賀州被入手裏、御納馬之由、誠目出、当方満足不可過之候」
(天正6年正月9日、新発田長教宛て 止々斎=盛氏書状)
こんど、謙信殿が能登と加賀を手に入れ、兵を納められたことは誠にめでたく
当方もたいへん満足に思っています。新発田長敦殿へ 蘆名盛氏より
A「能・越・賀存分之尽ニ申付、越前も過半属手候条」(仁科文書)
能登、越中、加賀平定は存分に尽くしたし、越前も半分が手に入ったので
(このあと、関左=関東出陣云々とつづく)
203 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 19:45:02
お前ら史料をまるで事実かのように語ってるが、そんなもの当てにならないよ?
結局いくら調べたところで実際どうだったかなんて分からない。史学ではっきりしたことが言えるのは、「誰が死んだ」だけ。客観的に見れば、織田と上杉で戦なんか幾度もあったろうよ。
>>203 だからってあてずっぽうや妄想で語るわけにもいかんでしょw
大聖寺城付近は織田方が確保してたから、仁科文書の奴って明らかに過大じゃね?
三味線弾いた可能性はついて回るっぽいな
>>205 だから、吉崎御坊とか一向宗の支配地域があったわけっしょ。
上杉が越前に入った形跡は史料にもないよ、軍記物では坂井郡まで入った
ことになってるが、ここには勝家の息子の居城があるんで、ちと無理。
そもそも謙信が大言壮語が好きなのは川中島(前久書状)でも伺えるが・・・。
加賀といえば一揆持ちの国
堀秀政宛連署状によると一揆衆の勢いが強いので進撃の道を変えざるを得ない事態に勝家軍が陥ったことが読み取れる
城を確保=周辺地域も支配下に、とはいえない
一揆衆と共同したことで謙信が大きく出た表現をしたのも不思議ではないと思うが
208 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 20:49:27
織田軍が主攻軸を北陸から飛騨にシフトしたのは正解だと思うよ
越前は一揆狩りで動員力が低下してるし、再建も大変でしょ
畿内に出たといっても所詮は援軍だし
神保氏を押し立てて国人衆を味方につけたほうが実際進撃も捗ったようだし
ある程度進行が上手くいった最大の理由は長尾家内乱という戦略状況の変化だろうけどな
>>206 前久から謙信への書状で「川中島で8千討ち取ったり、自分で太刀打ちしたりしてすごいね」
っていう書状はみたことあるけど、
謙信から前久への書状ってあるの?
>>209 「小笠原長時殿信濃複領の事、公方様命受け候間、信濃表で武田晴信と一戦に及び候、
兇徒八千討取候、身も晴信と一騎討ニ及、太刀二傷負被候間、典厩、両角、羽鹿野、
山本、三枝等、首級是有候、爾後、川中島之事は政虎手在候儀、爾来静謐」(上杉文書)
ウソ(現存しない)
211 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 22:43:05
山本って…w
>謙信の直筆は「すべて平仮名」説
謙信女人説でつか?
213 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 01:48:11
来年は勘助が主役だからなぁ
214 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 10:30:48
山本「菅」助という使番なら実在したらしいけど
侍大将クラスで軍師格の勘助は甲陽軍鑑の創作でしょ?
215 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 10:39:57
ただ山本勘助に関しては、口状を任せられるぐらいだからかなりの大物と思われる
大勝利を得たのなら何で敗走する織田軍を追って越前まで進撃しなかった
のだろう?長年の謎だ
217 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 11:33:47
大勝利と書いてるのは軍記書で、謙信書状は夜間奇襲で1000人討ち取り残りは川に流された、だ。
川が氾濫してなければ、越前はおろか安土まで追撃・殲滅していたであろう。
218 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 11:55:22
>>216てか七尾城攻略をメインに出陣して
ついでの手取川なんで、越前がどうのとか安土城に攻め込むとかそもそも無理な話じゃないの?
つまり越前に攻め込まなかったという事は、
攻勢終末点を誤らなかったと解釈できると思うんだがね。
そもそも手取川合戦がなかったんだろ
御幸塚・大聖寺城を普請して守備兵をいれて退却した織田軍を追ったら自殺行為
220 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 12:12:23
当時の織田家の北陸方面の総兵力ってどんくらい?
221 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 12:13:54
>>219俺はあったと思うが、深追いしたら自殺行為だと思うね。
越前・加賀・能登・越中120万石として 3万か?
>>220 勝家が七尾救援のために率いた兵は3万といわれている
ただ、これは近江・若狭・美濃衆の援軍を得ての数
北陸軍自体は1万〜1万5千程度じゃない?
越前の一揆征伐の根切りがあったから動員力は低下してるはず
>>223 越前一向衆征伐の余波かなるほど 近江衆は秀吉が勝手に帰ってるが
それは除外してるのか
225 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 12:29:57
しかし手取川の上杉、織田の兵力って資料によってまちまちだな。(特にこの戦は)
共通してるのは織田側が多いって事だな。
史料の中で一番あてにならんのが兵数だもんな 一番正確とされる北条の軍役でさえ
実際規定動員を行なってたかさえ不明w
近江衆なら数千はいくんじゃない?
この時期の秀吉はもう長浜の大名クラスだよね?
越後はまだ米所といわれるほど開発が進んでない時代でしょ
遠征であることもあって、謙信の子飼いの越後衆は1万いかなかったんじゃないの?
代わりに越中・能登それに加賀北半分の国衆・一揆衆を吸収してるだろうから、決定的に兵数が劣っていたとは思えない
229 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 12:53:26
昨日配下になったばかりの奴らなんてあてにならないじゃん?
でも戦国時代は調略や寝返りは日常茶飯事
特に国衆レベルになると昨日は武田、今日は上杉、翌日は北条か織田なんてザラ
信頼しきれないかもしれないが、戦力として稼動させるには問題ない時代だったんじゃ?
自分が保護を与える限りは従えることができるんだから、単なる忠誠よりは信用できるでしょ。わかりやすくて
中後国境だと山本寺なんかがバリバリ活躍してもよさそうだよな
232 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 13:13:28
小説を例に出して恐縮だが
山岡荘八の『織田信長』だとたしか謙信が安土城を攻める事を前提にしてなおかつ
断念みたいな話だったような?
手取川の謙信の勝利をくさす内容だった気がする。
一般的には七尾城を落としてプラスして柴田やっつけ、謙信すごい!って感じなのにさ。
まぁ信長が主役の物語だからああなるかww
一応、毛利と手紙をやり取りして信長を挟撃しよう、みたいな誘いは受けてたよ
でも晩年の謙信が向おうとしていたのは関東
手取川の大勝利があったかはともかく、謙信としては加賀に対織田の防衛ラインを敷けただけで戦略的に勝利だったんじゃないの?
234 :
232:2006/04/03(月) 13:21:19
>>173 スレタイ通り
>>1はまともな議論をするつもりなどない
最初から上杉叩きが目的で立てたスレだ
>>1は精神分裂症
手取川が否定されたから人格攻撃してるのか
238 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 15:55:43
手取川合戦は無かった。これで確定っぽいね
上杉ファンからの再反論はまだ無しか?
240 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 16:34:44
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
上杉謙信殺したる!
|謙信ヲタも殺したる!
\お腹すいた〜
 ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ハアハア
= / ̄ ̄ ̄ ̄\
=( 人____)
=|/ ━◎ー◎ー)
=(6 (_ _) )
=| ∴ ノ 3 ノ
= ヽ ノ
=/236〜239 \
(_ノヽ ノ\_)
== ( ⌒ヽ
===ヽ ヘ )
===ノノ `J
ずんずんずん
241 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 17:14:25
反論不能なので煽りのみに転じたようです。上杉厨に合掌( ´,_ゝ`)
>>240 自分で自分の首を絞めるような低レベルな煽りはやめたほうがいい
243 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 21:05:41
織田軍は松永謀反が勃発した上、重臣である羽柴が離脱したものだから御幸塚(後の小松)城に佐久間盛政入れて防備を固めることにして退却したんでしょ
一方上杉軍も松任城まで抑えて、防衛ラインをかなり前進させたわけだ
で、手取川合戦があったとされる日付の三日後にはもう謙信は七尾城まで後退している
七尾から手取川まではざっと120キロはある
もし加賀南半まで追撃したとしたら、上杉軍は撤収まで不必要な強行軍を取ったことになるような
>>243 正しくは、9月13日夜(酒宴を開いて漢詩を詠む)※「北越軍談」(小説)
9月23日夜手取川
9月26日七尾城普請開始
9月29日謙信書状日付(七尾湾夜景の風光明媚に感嘆した)※「歴代古案」(写本)
>七尾から手取川まではざっと120キロはある
地元民だが、せいぜい80キロ弱じゃね?
七尾街道(古道とほぼ同じ)で七尾〜金沢(65キロ)
金沢〜手取川(15キロ程度)自転車で1時間だし。
>>245 直線距離ではなく、当時の行軍ルートの距離では?
直線距離ならもっと近いだろ、地図で見ても
七尾―金沢間(七尾街道)65`
金沢―手取川(国道8号)15`ないよ
海岸線だから行軍を遮るような山もないし
80キロが近いのかな?じゃあ上杉軍の行軍速度は一日何キロ?
数字は能弁だな。
80`÷3日(9月24日〜26日)=26.7`(毎日)@
@÷時速3`=約9時間+休憩1時間=10時間A
A=9月24日の朝10時に行軍を開始し、夜8時には酒盛り×2=C
C=9月26日の夜8時、七尾城入城?
250 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 23:04:07
戦国の軍隊の平均速度がよくわからんけど
何日も連続で約27キロって異常すぎね?
信長軍が東から迫ってるから行きにある程度強行軍するのはわかるけど、疲労で合戦できなきゃお話にならないし
帰る時にまで暴走する理由もわからん
1日27キロ位なら平均位なんじゃないの、信長だってその位の進軍なら何度もしてる。
時速3キロの歩行というのもかなりゆるやかな速度での歩行だし。
参考までに、ローマ軍団は通常行軍で一日25kmほど踏破したそうな。
交通事情とか諸々含めても、一日27kmはそこまで驚くほどの移動距離ではない。
253 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 23:44:55
>信長軍が東から迫ってるから行きにある程度強行軍するのはわかるけど、
>疲労で合戦できなきゃお話にならない
9月15日七尾落城→9月23日夜会敵だから、
80キロを7〜8日かけて諸城を攻めながら(和議開城させながら)の西上、
松任城でのんびりと休養を取ってからの出撃でしょうな。
>帰る時にまで暴走する理由
時速3キロで「暴走」??
もしかして、ご老体様でつか?
洩れはリュック背負って時速4キロで歩く人間ですが、
これだと、一日27キロは7時間弱、残りの時間が暇でしょうがないわけで・・・。
254 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 23:53:15
255 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 23:54:00
石動山出発が18日
途中20日に津幡城到着
松任城に入ったのはだいたい22日頃じゃないの、書状準拠なら
あと七尾城(鍬入れ)登城は26日
どんなボケなんだそれは
>>250-253 そもそも大河ドラマみたく完全武装で行軍するという発想が時代錯誤
鎧兜や武具(槍や弓、鉄砲)は荷駄隊に預けて、兵士たちは水干に太刀程度の軽装
で行軍してたらしい。馬も戦闘には使わず、兵糧と武器を運ぶためにしか
使わなかった。信玄が「足長殿」と呼ばれたのは、甲斐駒を巧みに使用した
からで、武田騎馬軍団の伝承も荷駄隊のこと。
>>245の職業は競輪選手
つーか、金沢→手取川だろw
チャリで80`は怖いよ、休坂の60`でチビリそうになった経験あるし・・・
ツール・ド・フランスでも平均60〜70でしょ?
>>257 武田荷駄隊は知っていたが、前半はしらなんだ。
煽りとかではなく、ソースは何ですか?
興味があるから調べてみたい。
261 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 00:26:59
だまれ
>>252 武装も構成も地理条件が違うローマ軍と一緒にできるの?
できれば戦国の同世代軍隊と比較したいけど…何か適当な例はないかね
>>262 まあ、あくまで参考程度だから。
じゃあ、ちょっと切り口を変えてみるか。
関ヶ原の時、家康は9/1に江戸を出発して、9/13に岐阜に到着している。
ざっと330km-350kmくらいの距離が有るとして、所要日数は12日。
一日に27.5km-29.2kmほど行軍している計算になる。
秀吉の中国大返しなんてどうだ?あれは通常行軍ではなく強行進軍の
代名詞のようなもんでしょ。
あとは賤ヶ岳の行動なんかも。
謙信の越後兵の場合、強行軍とか例年の雪山関東越山とか普通だったんしょ?
このスレの例でいえば、七尾〜新潟は300kもあるわけで、モレたちの
脚力じゃ、想像できない体力とか・・
フツーだろ、1日27`ぐらい。
自転車で2時間、車だと30分の距離だぜ
267 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 01:10:55
ちなみに陸自の行軍は12時間で40キロ
>>262 ・8/20に岐阜を出発、8/23日に下京本能寺に帰還。
・6/14に岐阜を出発、6/17日に三河国吉田城に到着。
・4/27に京を出発、4/28に岐阜に帰還。
・5/13に岐阜を出発、5/14に岡崎へ到着。
・9/23に北の庄を出発、9/26日に岐阜へ帰還。
・11/14に京を出発、夜に日を継いで行軍し15日に岐阜へ帰還。
上のは信長公記から軽く拾ってきた信長の行軍の例だけども、
1日25キロ位は結構普通なんじゃないの。
>>266 できれば週末でもいいから、適当な荷物を持って自宅から13.5キロの地点を往復し(27キロ)
所要時間と感想をUPしてくれ。洩れもやってみるから。
>>269 人間の歩行の平均は時速4kmくらいだから6〜7時間くらいかかるだろうね。
疲労云々は全く体力しだい。
まあ、戦国時代の兵士は我々よりははるかに体力があったと思うよ。
対してこのときの織田軍の行動はやたら鈍くない?
北の庄を策源地とするのなら、手取川まで50キロ程度でしょ
二ヶ月近くかかってるよ
272 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 01:37:46
>>269適時に休止時間とりなよww
水分補給もな。
休憩とっても8時間くらいだね。
何日間もの行軍となれば当然睡眠もとるし、野営の準備もしなければならない。
そういう時間も考えれば、まあ1日の行軍距離としては妥当なところか。
>>271 自分のほぼ領土内あるいは勢力圏である地域を行進するのと、地元の勢力と
戦い抵抗を排除しながらでは全く違うでしょう。
まあそれでもこの時の織田軍の進軍の遅さはひどいが、やはり加賀一向一揆
がそれだけ強大な勢力だったと見るべきでしょう。
逆に、謙信が七尾から一気に加賀手取川まで出られたのは一向一揆の協力が
あったからでしょうね。
秀吉が切れたのも当然か
こんな状態で上杉と戦えるか!って思ったんだろうな
結局、勝家も城固めて退却しちゃったし
秀吉が罰せられず播磨方面の差配を任せられたのは、退却が結果論として正しかったからかな
>>275 罰は下されてますよ。まあ自主的な謹慎というか蟄居というか。
撤退が正しい選択だったとしても、主君からの命令(七尾城救援)違反、主将
との不和・命令違反(離脱による無断撤退も含む)は見逃せるものではない。
秀吉がやったのは、自己一身の保身を優先して主命も友軍も捨てたわけだから。
思いのほか罰が自主蟄居で済んだのは、信長もわかってたんじゃね?
権六にも藤吉にも、無謀な戦を申し付けたものよ、と。
278 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 04:15:15
七尾城まで後詰っつー作戦がそもそも無茶でしょ
加賀を打通して能登を後背に置きながら越中乱入ってどう見ても無理
七尾陥落の報を得た時点で勝家軍が退却したのは当然の結果
謙信からすれば「織田軍逃げやがった。大したことねーな(プゲラ」だったんだろうが
仮説・信長公は北陸の絵図(地図)を持ってなかった?
もしくは、勝家が間違って紀伊の地図を持ってきてしまった。
勝家「とにかく、進軍するよし。旧守護畠山殿から賜った絵図があるし」
秀吉「バカか、あんたっ!それ、同じ畠山でも、伊勢の畠山じゃん。もーシラソ!」
本当は信長自身も精鋭の大軍を率いて柴田軍の後をさらに追う予定だったんだけど
松永謀反で予定が狂った
元々無茶な作戦を実施した裏にあったのは織田の主力全軍を叩きつけて一気に北陸を支配しようって物量作戦でしょ
でもそれが破綻したから…
なんの根拠もないのに↑みたいに思い込みで語るのって痛いよな
282 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 11:11:09
>>281 信長後詰の件は公記とかにも載ってる
この件について連署した勝家らの書状もあるし
無知乙
どうやらまともにレスが通じる上杉ファンと
ボコられたせいで煽りしかできなくなった上杉厨に二極化されたようだな
それなら納得いくかなあ。
信長は最初はこの機会に一気に加賀を制圧して能登まで押し出すつもりだった。
たしかにこの時点では大坂本願寺は完全包囲中で毛利との激突はまだ先。全力
を北陸にかけることはできた。
しかし松永の謀反でご破算。畿内の安定を優先するために出陣中止。
これなら柴田と羽柴の意見違いもわかる。
推測だけど、柴田は「謀反が短期で終わる可能性も、信長が再出陣する可能性もある
からしばらくは命令通りに加賀にいよう」というもので、羽柴は「前提が崩れた以上
引き上げるべき」というものだったのではなかろうか。後に柴田が信長に出した手紙
は、信長の行動・判断を求めたもの、つまり進軍か撤退かそちらで指令を出してくれと。
続き
そしてこれだと、信長の対応も繋がる。
信長としてはやはり松永謀反にさっさとケリをつけて予定通り北陸出陣といきたかった
のだろう。だから使者を出して説得を試みたりもした。
そしてこの信長の未練な判断が、北陸方面軍への指示の遅さと迷走に繋がったと。
286 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 17:55:00
でも謙信の狙いは関東なんでしょ?
毛利や本願寺・一揆衆と連携とれば西進は容易くなるけど、織田と直接対峙することになって後背に強敵を直接抱えることになるじゃん
やっぱり謙信は戦略下手?
それとも一部説であるように、晩年の動員は関東と見せかけて西進狙いだった?
>晩年の動員は関東と見せかけて西進狙いだった
そんな説ないよ、誰が云ってるの?
松永久秀が謙信上洛を期待して挙兵したとしても、謙信は願文(永禄9年)で
三好・松永の「かうへをはね」(首を刎ね)としてるくらい憎んでいた
(殺された義輝を慕ってた)から、提携は考えられんし、義昭には儀礼的に
対応してるだけ。
>やっぱり謙信は戦略下手
歴史の顛末(秀吉の全国政権)を知っている現在のわれわれから見れば、たしかにそうなるが、
当時の戦国大名の意識は、とくに東国では関東制覇(謙信の場合は管領=調停者として君臨)が
リアルな天下だったんだろ。北条なんかも、自分たちのことを「公儀」「評定衆」と称して
鎌倉幕府の再現をめざしていた形跡があるわけだから。それに、当時の武士の愛読書だった
「平家」とか「太平記」とか読んでみな、東国源氏(偉い・勇敢)>>>>西国平氏(腰抜け)
288 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 18:44:16
謙信が12月にしたためたとされる台帳には
書き出しは北条親子だけど、神保・遊佐・温井といった越中豪族や、勝興寺・瑞泉寺などの一揆衆などの北陸諸勢力の名が多い
普通に考えれば関東出陣の場合背後を守らせなきゃならない兵力の動員が多い
もしマジで関東だけにかまけるつもりなら、バランスがおかしい
そもそも上杉と長年の敵だった一揆衆が何のために和解したのか、を考えると西進説もありえるだろ
もっとも中小領主相手にはともかく、一定以上の相手との約束は守らない謙信だからなぁw
>>287 それって結局新時代の発想についていけなかったってオチでは?
謙信の発想は中世的の典型か?
いや、足利義昭の誘いを一度は蹴って織田徳川と手を組んでるわけだからそんな単純な人間でもないだろう
>謙信が12月にしたためたとされる台帳
「諸将苗字尽」のこと?
あれは動員表ってわけでもないんだよ、陣触れが始まってたらしいから
そう推論されてるだけで。景勝への「手本」と同列に扱ってる歴史家も
いるくらいで(20代中盤になってる武将にいまさら手本もないがw)
マジで関東大遠征だったとしたら、このスレ的に手取川大勝利が背景に
なければおかしい(越中の小島職鎮が関東出陣OKとか言ってるし)。
でも、能登に分国法を定めてるんだから、在番衆は残すでしょ、ふつう。
それと、関東遠征=北条との対決という確実な史料はない
天正4年能登遠征の段階で、武田・北条と同盟してる可能性(上杉年譜)
が高いし、天正6年の遠征計画は、結城と佐竹(天正2年に北条と和睦関係のはず)
だから、ちょっと凶作なんで関東で兵たちを食べさせるか。ってな可能性も。
292 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 18:58:55
>>282 >信長後詰の件は公記とかにも載ってる
>この件について連署した勝家らの書状もあるし
>無知乙
奇遇にも俺の手元にある信長公記に、信長の後詰なんて書かれてない
どこになんと書かれてるのか?
勝家の連署?日付と誰宛、出来れば内容よろしく
君が捏造してないこと願う
北条と織田徳川が手を組んだのっていつだっけ?
その時期次第では関東を本気で狙うにしても背後固めにしても、一度は関東で北条に打撃を与えなきゃならんでしょ
関東→北陸と数年単位で戦略を立ててたんじゃないの?
ここまでいくとただの憶測だけど
>それって結局新時代の発想についていけなかったってオチでは?
>謙信の発想は中世的の典型か?
関東政府構想という意味だけ取り出してみると、
あながちそうも云えないよ。
これも結果解釈だけど、畿内政権(足利・織田・豊臣)は崩壊して
徳川が関東政権を作ったわけだから、武家の歴史観としては
東国源氏史観が貫きやすかった?畿内で武家政権は難しいという
発想の切り替えもあったんでは?
信長公記は知らんけど、連署状っていうのは九月十日付連署状のことでしょ
命令があり次第進撃すること、援軍は無用であることなどを信長側近に伝えている
>>294 徳川にせよ鎌倉幕府にせよ、本拠地は関東でも畿内付近に有力な親族を置いたり監視機関を設けたりと、別に西国を軽視したわけではないよ
むしろ神経質なぐらい
関東だけに割拠する平将門レベルの思想だったのならともかく…
>北条と織田徳川が手を組んだのっていつだっけ?
武田攻めの頃でしょ。謙信死後4年くらい?
謙信に本格的な関東府構想があったとしたら、
養子の山内上杉三郎景虎(北条氏康の子)を関東管領に、
景勝を評定衆筆頭に、北条と武田を配下に従えるという構造じゃないかな。
御館の乱の原因(家督相続の不明・もしくは上記推論の相続の非現実性)
もここから解ける可能性がある。
298 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 19:08:57
>>295 それなら知ってるが、それは信長が援軍として行くのを裏付けるもんじゃないのだが…
どうやったら
>>280の解釈になるのかわからん
また捏造かよ
>別に西国を軽視したわけではないよ
べつに謙信も軽視したわけじゃないよ、上杉京都代官に神余親綱を常駐させたわけだし
>>298 援軍って当時動員がかかってたのは信長信忠直轄の美濃尾張衆だけじゃん
解釈の違いを捏造かよ( ´,_ゝ`)
302 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 19:17:15
>>301 解釈の違いってアンタ
どうやったら
>本当は信長自身も精鋭の大軍を率いて柴田軍の後をさらに追う予定だった
という解釈になんの?
で、肝心の手取川合戦自体についての再反論はもうなし?このスレ的には無かったでFA?
304 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 19:20:42
関東府構想なんて謙信にあるわけないべ
あいつは戦争マニアの行き当たりばったりなんだよ
味方勘違いで殺して平然としてる武将だぜ?
安置上杉が書き込まない→内容が良くなる
内容が良くなり歴史検証が進む→安置が書き込む
→内容がなくなる→安置が書き込みをやめる→ループ
>>303FA。このところは煽りが入っただけだからな
自演乙
謙信は雪隠詰だろ
緩衝地帯だった越中加賀で織田と直接対峙することになり
西にはややこしい地元豪族が複雑に絡み合う上、北条もいる関東
南には弱体化したとはいえ、武田がいる
上杉氏の動員力は彼らに対して劣位ないし同等程度
一貫した戦略が無いから…
310 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 19:54:58
>>307自分が自演してるからそう思うんじゃないの?(笑)実際に手取川合戦関連で書き込みなくなったじゃん、上杉厨が轟沈してから
安置上杉が書き込まない→内容が良くなる
内容が良くなり歴史検証が進む→安置が書き込む
→内容がなくなる→安置が書き込みをやめる→ループ
いま、内容がない時期に入った・・・。
312 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 19:59:05
アンチ上杉になるのか、普通に手取川が無いとかいったり、戦略を指摘したりするとW
じゃ内容がある書き込みって例えば?関東府という妄想とか?
313 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 20:04:09
じゃあ切り口を変えてみようか
上杉家軍役帳(天正三年(1575)二月)によると
上杉氏の動員力は
武将三十九名
槍三千六百九丁
手明六百五十人
鉄砲三百十六丁
大小旗三百六十八本
馬上五百六十六騎
総計五千五百五十三名
このときにはまだ謀反中だった武将とか越中諸将らは当然含まれていない
ソースが「歴史群像シリーズ・疾風上杉謙信」で恐縮だけど
上杉軍は荷駄・人夫等の補助員の随伴率が低い
上杉軍の場合、騎馬50騎・足軽等50に対し150名
武田軍の場合、騎馬50騎・足軽等340に対して238名
要するに兵站に頼らず略奪で喰ってく軍隊という説が裏付けられると…
315 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 20:20:46
上杉軍は騎馬率が十パーセントか。結構高くないかね?
一方で鉄砲装備率は低いな
スレの本筋の手取川合戦に話が戻ると上杉厨が沈黙
なんでかねー
317 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 23:17:12
手取川合戦の何が否定されたんだ結局?
柴田勝家と謙信が加賀に兵を進めたことか、
柴田軍が手取川を越えたところで上杉軍と接触したことか、
柴田軍が退路を失い大敗したことか、
その結果、加賀における上杉のヘゲモニーが確立したことか、
上杉忠轟沈とか書いている割に、
結局何が否定されたのかわからないぞ。
>>317 ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \
誰も否定してない部分に、否定された部分を入れるセコイ印象操作乙
319 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 23:32:45
>>318 ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \
「否定された部分」はどれだい?
まあ、
>>5のいうように先手が少し負けただけだとしたら、
その後の勝家の行動は退嬰的すぎる。
一度は戦い敗退したのだ、と考えると非常に説得力が生じるが。
退嬰的って…明らかに過去レスを無視してるじゃんか…
北陸の柴田軍は御幸塚城を最東の拠点に領国整備に入る
その寄騎などは畿内の荒木討伐や播磨戦線への援軍へ
既出だが…
悪あがきが過ぎるなー
で、守成に入った柴田らに代わり神保氏を旗頭に飛騨口から飛騨豪族と斎藤の美濃衆で攻撃
天正六年中、富山城を奪取。月岡野合戦で上杉軍3千討ち取り(江戸期の過大評価?信長公記では首取り三百六十)
>>318>>320 粘着乙
安置上杉が書き込まない→内容が良くなる
内容が良くなり歴史検証が進む→安置が書き込む
→内容がなくなる→安置が書き込みをやめる→ループ
いま、内容がない時期・・・。
>御幸塚城を最東の拠点に
勝家は手取川以西に退却、謙信は松任城に守備陣形でよろしこ?
いずれにしても、能登は謙信の分国化。手取川合戦の成果と結論せざるを
えないわけだが?
安置上杉が書き込まない→内容が良くなる
内容が良くなり歴史検証が進む→安置が書き込む
→内容がなくなる→安置が書き込みをやめる→ループ
これってアンチをとって上杉厨に変えたら全部当てはまるよな…
後詰の必要が消えれば戦わず撤退することは別に珍しくないが
なんでそんなに必死なんだ?
元々まともな史料が手紙一通なんでしょ?信憑性なんて最初から?じゃんか
「アンチ」とか「上杉厨」とか
歴史検証よりも個人的な鬱憤を晴らすだけの記述に
おまいの底が透けてみえるな(同情・・・)。
レスの中身に新規性がない自分を少しは省みれ。
新規性のある史料解釈をキボンヌ。
326 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 23:49:33
退嬰的と考えて間違いないだろう。
織田家譜代の重臣であって、家中切っての猛将と名高い勝家が、
相手と互角以上の兵力を揃える見込みがありながら、
決戦を回避して領国経営に専念し、配下を他への助太刀に回している。
もしそれほど守備的に戦う気が、手取川合戦があったと言われた時期に勝家にあったら、
羽柴が離反して勝手に離脱した理由が説明が付かない。
それを信長が厳罰にしなかった理由も説明できない。
勝家が無謀な前進を図ったのだとしたら、
勝家、羽柴、そして信長のその後の行動が説明が付く。
柴田軍の動きが鈍かった結果→説明済み
代わりの攻勢→説明済み
じゃないの?これへの再反論の段階から全然進んでないようにしか見えないが
てっきりもう手取川は無かったで終わって、上杉絡みの横道に入ったものと
>元々まともな史料が手紙一通
というわけでもないんだが。
既出だが、仁科文書(への応答)や第三者(蘆名や新発田)による傍証もあるし、
当該の書状も「歴代古案」(写本)だから、他に原本の存在も考えられる。
編纂史料じゃ信用性ないって言ったのは上杉側のレスじゃなかったか?W
じゃ具体的に誰が討ち死にしたの?>手取川
>柴田軍の動きが鈍かった結果→説明
七尾城陥落を知らずに前進して(9月10日)、手取川を越えて焼き討ち。
陥落を知って退却中に(9月23日夜)、謙信に襲撃された。
手取川の西に反攻拠点を後退。
これでよろしこ?
>編纂史料じゃ信用性ないって言ったのは上杉側のレスじゃなかったか?
意味わかってるか???
漢文対の写し(謙信書状直筆は平仮名説がある)であって、編纂史料の地の文ではないからな。
安置上杉が書き込まない→内容が良くなる
内容が良くなり歴史検証が進む→安置が書き込む
→内容がなくなる→安置が書き込みをやめる→ループ
いま、内容がない時期だな・・・・
>>313 上杉軍団麾下八千、というから越後衆中心の主力はその程度かな
意外と総数少ないね。対武田が本格化した時の徳川家ぐらいだ
335 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/05(水) 00:05:34
じゃあ、
織田家譜代の重臣であって、家中切っての猛将と名高い勝家が、
秀吉の助力を得て、相手と互角以上の兵力を揃える見込みがありながら、
先手の小競り合いのみで満足していたと。
そして、なぜかその程度の戦いで、秀吉は不満を覚えて離脱し、
信長もそれほど厳しく秀吉を咎めなかったと。
そして謙信は書状に大袈裟に戦果を誇張して書いたと。
三千の敵を討ち取ったというのは、川中島合戦に匹敵する大戦果(本人申告)のはずだが。
全体に座りが悪すぎる。
織田方に有力武将の死者がほとんど見られないことを以て否定するには。
むしろ、勝家の基にいた「有力武将」の動静がどれだけ把握されているのかをきちんと論じるべきではないか。
>三千の敵を討ち取ったというのは、
>川中島合戦に匹敵する大戦果(本人申告)のはずだが。
ちがう。謙信書状(9月29日)は「一千討ち取り」で、
川中島は「兇徒8000討ち取り」(前久書状)だ。
新規性のあるレスを求めたところ、間違いだらけで不安だぞ。
謙信の川中島みたいな三味線じゃね?w>戦果
秀吉の処置については微妙なんだよなー。「美作江見文書」によると9月27日付けで既に江見為久に羽柴をそっちにやるから忠誠つくせ、と申し伝えている
本当に言われるような謹慎すらあったのか?という感じ
>>337 敗戦と謀反でそれどころじゃねぇだろ、信長も
謹慎はともかく「公記」は曲事迷惑と記述してる。
不届きが敗戦呼んだのなら、原田一族すらまとめて処罰した信長だぞ?
少なからぬ損害を負ったのならおかしいじゃん
>>339 久秀に志貴山に立てこもられて、謙信が南下するかもしれん瀕死の情勢でか?
信長公記なら逆鱗に触れた、とはあるが罰したとはそれこそ書いてないな
即座に播磨方面の柴田と同格といっていい地位に抜擢
なんだろうね、よっぽど信長は羽柴を買ってたのかな
342 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/05(水) 00:17:13
>>339 > 少なからぬ損害を負ったのならおかしいじゃん
謀反でそれどころじゃねぇだろ、信長も
勝家を処断した後北陸戦線を任せられる人材もないだろ
343 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/05(水) 00:17:37
勝家は10月(謙信撤退)まで動かせず、
久秀謀反は放置できん情勢だからな
別に羽柴じゃなくても、明智でも丹羽でも派遣するならいいはずだよな
懲罰もないってことは異常
あれか、「出家するか死ぬ気で功名立てるか」と迫られたのかなw
とにかく、謙信が松任城進出(手取川の至近距離)のあと
勝家は手取川の西に撤退してたんだから、両者の史料が合致する。
織田の敗戦は合理的な史実だな。
実際の秀吉出陣は10月
それまでに松永謀反は鎮圧
だから誰が討ち死にして、誰の手勢から損害が出たの?
>>346 違う。謀反鎮圧は9月17日に始まり、10月10日に終結、10日は秀吉も光秀も参加してる。
10月3日に勝家ら北陸軍も加賀から撤退(松永攻めのため)。
349 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/05(水) 00:27:21
南京大虐殺のスレみたいだ
包括的な数を推定する材料と、全体状況を推定する材料を混同して論じている
犠牲者の数はともかく、織田は負けたと考えるとうまく説明がつくんだが。
>>347 とにかく、1000人死んでのこりは川に流されたんだよ、合掌・・・。
夜戦だから、首も確かめなかったんじゃね。川に蹴落として。
勝家軍は御幸塚に城塞を築いて、大聖寺城を普請してから10月3日に帰陣(信長公記)
織田軍の被害はこの時の土木作業の事故の人々だよ
それを謙信は過大に自己の手柄としたんだ
無断撤退があったとされる柴田勢はともかく
丹羽勢まで松永攻めに参戦してるのか
大敗した挙句、北陸から駆けつけて戦闘ってどういうこっちゃw
>>352 なるほど、納得できそうな推論だが。
謙信は9月26日(少なくとも29日)には七尾にもどってるしな・・・。
信貴山は難攻不落であった・・・
追い散らして越前まで乱入された軍勢が、手取川に近い地域で一ヶ月もかけて普請?
またおかしなことになってきた・・・
>越前まで乱入
なにこれ???
>「追い散らして越前まで乱入された軍勢」
北越軍談でつか? 春日山日記でつか?
仁科文書は事実誤認もいいところだろ…
越前の過半まで謙信配下になったなんてなんのギャグだよ…
>>358 自分で読んでない史料のことは、俎上にあげないほうがいい。
「乱入」って、どこに書いてるの?
もともと越前・加賀は一向宗の支配下にあった国だからね
支配地域としては妥当でしょうな。
侵入せずに支配できるのか謙信W
さすが軍神、人間の限界を超越してるぜ!
…ってどう見ても何かの間違いだろ
>>360さんに設問
ところで「仁科文書」って、誰が書いた文書かな?
>仁科文書は事実誤認
誰が何を事実誤認したのか、曖昧にすんなボケ!
366 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/05(水) 00:47:33
つまり柴田軍は、七尾城落城を知って後詰失敗を悟ったんで停止
城をいくつか普請して兵士いれて防備固めて帰ったわけね
時間から考えると丹羽勢も途中帰陣かな。松永攻めに間に合ってるし
後詰から城作りにシフトしたわけか?その間松任城の上杉軍は何やってたんだ?
9月15日 七尾落城
織田北陸軍
9月23日夜 手取川敗戦
10月3日 畿内へ撤退
9月17日 松永弾正の謀反鎮圧開始
10月10日 信貴山落城
謙信
9月26日(ないしは29日)七尾へ撤退
こんなところ?
つまり手取川合戦で負けたはずの勝家軍は同地に留まって城作り
丹羽衆に到っては即座に舞い戻ってそのまま対松永参戦
その間上杉側からの妨害なし
???
安置上杉が書き込まない→内容が良くなる
内容が良くなり歴史検証が進む→安置が書き込む
→内容がなくなる→安置が書き込みをやめる→ループ
いま、内容が豊富になりはじめた時期・・・。
>>370 だから、織田勢は手取川の西に逃げてそこに籠もったわけっしょ?
謙信は追激戦の勝利を手に、七尾へ撤退し能登の仕置き(分国法を定める)
旧暦の9月下旬ったら、もう11月で初雪の季節だからな。
やっぱり無かった?あったとしたら不自然じゃん
なんで自然条件が同じなのに、勝った軍が退いて負けた軍が城作って支配地確保に動いてるんだ?おかしい
なかったとしたら、不自然だよ。手取川を越えて加賀を焼き討ちにした
勝家軍が、何もないのにどうして手取川の西に撤退するの??
うまく説明してちょ(懇願
松任城の城主は誰になったの?若林長門守(一向宗門徒)?
勝家→手取川越える→加賀を焼き討ち→上杉軍との戦闘に備える
→なぜか手取川を後戻りに超えて西に撤退→守りを固める???
史料がなさすぎる
あってもなくても不自然って何だよw
>>378 それが歴史学だよ、明智君。
謎解きの面白さだよ。
上杉藩の御年譜とかには記録ないの?
謙信にとっては、能登の制覇が重要だったんだろ。
七尾城の普請のあと、松波城を落としてほぼ制圧を終えてるわけだから。
関東では、北条高広とか越後国人衆を城代に派遣して失敗してるから、
越中・能登には「手飼之者」(河田・吉江・鯵坂・斎藤)を配したわけだ。
このあたりの政策の転換(天正3年以降)は、信長のやり方を真似た感じがする。
諸公はどう思われますか?
>上杉藩の御年譜とかには記録ないの?
あるけど、ほぼ歴代古案の引き写し。
江戸時代中期の編纂ものだから、とても信用はできませんね。
『加賀藩史料』には、七尾陥落の報を聞き、松任城まで謙信が来たので戻って防備を固めた、とあるが
これが隙間の真相かね?
>>383 もろ編纂史料やんけW
でもそれだとしっくりきちゃうな…なかったとして、だけど
>>383 なるほど、加賀藩史料か。原史料じゃないけど、伝承としてはそんなとこじゃないかな。
じつは、漏れも上杉専門だが、歴代古案の漢文体の写しには疑いを持っている。
前後する北条高広宛の書状は同じ写しでも信憑性があるんだが、何となく江戸時代に
写本した香具師が講談調で書いた雰囲気がプンプンで、しかも北条高広宛の書状を
真似て書いてるような雰囲気が感じられるんだな。で、実際には松任城と手取川は
指呼の先だから、謙信が松任城(当時は一向宗が籠城)迫るの報で、勝家が撤退(23日前後)
謙信は松任城を無血開城して、勝家が撤退したのを聞いた。ついでに、追いかけてみたら、
何人か溺れた(夜間渡河?)。でもって「勝ったぞ!」じゃなかったかと思う。
推論だけどね、何もなく勝家が撤退するとは思えないんで、七尾落城で上杉快進撃とか
何とか、そんな情報戦が一向宗を含めてあったんじゃないかと。以上、推論!
手取川西に逃げた柴田は松永久秀が上杉謙信の能登侵攻に呼応しようとし
天王寺砦から信貴城へ兵を引き上げたのもあって、手取川敗戦後、
手取川を防衛線として防衛拠点を築き、上杉謙信を防いでおいて先に松永久秀征伐を行い
そして上杉謙信も不穏な動きのある関東を懸念してそれより先に出でず、
能登の内治を行ったのではないか?
387 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/05(水) 01:35:46
信憑性はともかく、加賀藩史料を信じるのならピースがぴったり嵌るな
織田軍は進撃を諦め、増水期だった手取川を挟んで待つなんていう危険な真似はせず御幸塚近辺を固めに入る
一方、謙信も松任城を抑え勢力圏が拡大した戦果と織田軍の弱腰(に見えた姿勢)に満足して撤収
あるいは上杉先陣と織田後陣同士の戦いがあり、先陣が戦果を誇大に報告したのを謙信が信じたって線もあるな
織田軍は健在で城普請・一部を畿内に戻す余力もあったことも説明できちゃう
そんな小競り合いで合戦があったとしていいのか…?
つか戦略的にも意味がないだろ。合戦の結果が戦略に結びついてねーんだから
あった→上杉ヲタが喜ぶ
無かった→アンチ上杉が喜ぶ
ぐれーだろ
7月上旬 謙信能登へ出馬
8月8日〜 織田軍(勝家以下)加賀侵攻、手取川を越えて
小松村・本折村・安宅村・富樫を焼き討ち。
金沢城(御坊)の七里頼周が謙信に救援依頼し、謙信は河田実清軒を派遣。
8月17日 松永久秀が謀反。
9月10日 勝家が連署状を安土に送り、命令されれば謙信と決戦するので救援は要らないと伝える。
9月15日 七尾落城
謙信が末森城攻略
9月17日 細川兄弟らが松永久秀の支城を攻める
9月18日 越後・越中・能登の軍勢を差し向ける。
9月23日 手取川合戦?
9月26日 謙信は七尾城普請。
10月3日 勝家らが撤退。
10月10日 松永久秀自害。
10月25日 謙信が能登諸城に制札を出す。
11月16日 能登知行。
390 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/05(水) 02:12:23
捏造か誇大報告か、か?
冴えない結論だな。でもこんなもんかね
先手の小競り合いか、戦わないまでも相手が逃げて完勝(織田勢を駆逐し、加州手取川以東を制圧)
これって謙信の勝ちじゃん? 越中・能登制圧が目的の出陣で、棚ボタ勝利。
>391
ま、七尾城救援の政治目的を喪失した段階で、戦争は織田の負けだけど、
手取川の有無はわからんよ・・・
上杉厨は本当に過去レス無視がお好きのようで…
その論法でいけば、七尾救援は達せられなかったけど勢力を東に伸張させたって点じゃ織田も同じだからな
一揆掃討して橋頭堡強化できて、後の加賀制圧に繋がるわけだから
謙信の成果は結局自身の死去で失われるわけだし
上杉厨があちこちのスレで嫌われるわけだなこれは。意地でも我田引水をやめないんだもん。お話がいつまでも通じるわけがない
396 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/05(水) 02:54:50
>>395 上杉ファンとは一応話しは通じてるっぽいぞ
問題は厨
はっきりいって信憑性が低い上にあったとしても意味がないと判明した手取川よりも
謙信の晩年の戦略とか上杉家の戦力構成とかのほうが興味あるわけだが
どっちもがんがれ
399 :
sage:2006/04/05(水) 03:40:57
ってか、こいつら何者? プロ?
趣味でここまでできんよな?
勝家の作った九十九橋は半木半石で江戸時代は奇橋に数えられた
舟橋は、取り上げた武器を鉄鎖にして舟を繋いで往来できるようにしたものと
今の福井の基になる街の形成とか、内政に辣腕を振るっていた様子が覗える
>>391 > これって謙信の勝ちじゃん? 越中・能登制圧が目的の出陣で、棚ボタ勝利。
手取川の合戦が無かったとしたら、なぜ勝家は戦わずにそれを許したか?という問題がある。
勝家の性格から見るなら考えにくい。
案外勝家が慎重な性格で、機を見て撤退し防備を固めたのだとしたら、
何故秀吉は戦線を離脱したのだろう?という疑問が残ってしまう。
そういう方針なら秀吉に異論があるはずもない。
勝家のイメージっていうと甕割りとかの創作に拠るところが大きいでしょ
実際には質実剛健だが細事にも気を配ったタイプのようだ
秀吉と喧嘩した仔細がどうにも不明だが、秀吉からすれば頑張っても勝家の手柄にしかならなそうな北陸からとっとと手を引いて自分の取り掛かっていた中国方面に移りたかったんじゃないの?
あくまで推測だが
加賀藩史料だと松任城が取られたことを知ってから後退したそうだが、秀吉はもっと早い予測から退こうと主張したんじゃないの?
連書状によると、末森城からの連絡が途絶えて情報収集に難儀している様子が覗えるし
手取川を挟んで加賀の北を上杉が抑え、織田が南半を抑えた形になるけど
一揆衆を本願寺との和睦で取り込んだ上杉に対し、織田は相変わらず敵対中だからな
普通に考えたら慎重になってもおかしくないだろうが
策源地の越前だって一揆狩りで荒れてただろうし
金沢城の七里頼周から謙信に救援依頼があったんだから、勝家は手取川の東15キロ
まで進撃してたことになるね? だとしたら、15キロ撤退して手取川に押し込められた
推論も合理的に成り立つわな。松任城が取られたことを知ってから後退したとは到底思えない。
それ以前の撤退でなければ、松任城(手取川のすぐそば)を無血開城する前に衝突してるはず。
407 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/05(水) 11:29:01
だから誰も死者が出てないし、戦略的にも加賀二分してにらみ合って終りってことでしょ
合戦があったとも思えないし、あったとしても小競り合い。もうまともな議論の結果は出てるじゃん
織田勢が1000人殺されて(大将クラスだけは先に逃げる)残りが川に呑み込まれた。
両軍の行動を詳細に検証した結果、合理的に推論される史実は明らかだな。
謙信書状・仁科文書・蘆名書状を否定できる材料はないと。
>>405 何回も既出の九月十日付連署状によると
命令があり次第進撃するつもり、とある
謀反した松永の説得に信長がかかっている時期だから進撃停止命令が先行してでていたのか
それとも最初から手取川まで進撃してそこで援軍を待つつもりだったのか
どちらにしろ、七里へ謙信が後詰の書状を発したとされるのは八月九日とされる
時期と時間があわんが
410 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/05(水) 11:40:04
>>408 おい、安置自演は止せ!そんな馬鹿な勝利宣言、本当に史料持ち出してくる人間がやった試しはねーよ(^∀^)
また上杉厨が湧いたか。次は例のコピペで煽るパターンか
安置上杉が書き込まない→内容が良くなる
内容が良くなり歴史検証が進む→安置が書き込む
→内容がなくなる→安置が書き込みをやめる→ループ
上杉厨が書き込まない→内容が良くなる
内容が良くなり歴史検証が進む→厨が書き込む
→内容がなくなる→厨が書き込みをやめる→ループ
こっちのほうが正しいわけだな
あ、勿論まともな上杉ファンは除外しとるよ
いま、内容がなくなりはじめた時期・・・・
8月9日付七里頼周宛書状より「御幸塚普請幸ニ候間、国衆同心堅固ニ被相抱肝心候」
この時点では御幸塚は一揆勢の勢力範囲
織田軍が迂回でもしてない限り、おかしいだろその時期に金沢に迫ったって
松永謀反の影響で後方に不安が出た織田軍は、慎重になり手取川近辺で進撃を停止
占領地域の防備を固めて城普請(この時既に丹羽衆が援軍として畿内へ?)
10月帰陣後、内政を整備すると同時に援軍に寄騎諸将を出す
織田軍の流れとしてはこんなところかね
417 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/05(水) 12:14:30
謙信が勝ったのなら、なんで織田方の手に落ちた城を奪回しようとしなかったんだ?
上方情勢が騒がしい織田と違って上杉には手を引く理由なんてないだろう
それとも謙信の目的もあくまで後詰で、織田軍が前進を止めてたらやっぱり強いて交戦する必要はなかった?
だから戦なんてなかったんだよ
ボロ負けした軍が逃げもせず城普請に精を出して、しかも一部軍を他所の援軍に出すなんてできるか?
睨み合って終りでしょ
織田軍に内部の問題とかがなかったら決戦に及んでたかもしれないけどね
でも増水期の川筋で合戦ってまともに軍が動かせるのかねぇ?
>上方情勢が騒がしい織田と違って上杉には手を引く理由なんてないだろう
年内に能登平定(七尾城普請・能登松波城攻略で能登制圧・能登分国化)
手を引く理由は明白だがな。後詰で勝ったんだから、能登の戦後処理に向かったと。
>>419 つまり合戦する理由はなかったと
むしろ避けてたかもな。そこで負けてたら急速に拡大した支配地がまた瓦解するもんな
背水の陣でも考えてない限り川を背後に布陣するなんておかしいし
逆に川を楯に取られたら、攻めにくいだろ(上田ヶ原の信玄なんかは渡河中に前後を分断されて大打撃を負っている)
それに増水期だっていうのなら、時期的に戦したくてもできなかったんじゃね?
戦闘は夜間だぞ。織田は布陣するどころか、寝てたんじゃね?
夜間なら尚更、増水した川筋でしかも背水で野営なんてありえねーじゃんかw
手取川は暴れ川の一つ
現在の近辺に島という地名が多いのは、洪水の際に島のように孤立してしまう場所が多かったせいだとも
こんな場所で戦仕掛けたら馬鹿だろ
自然にこの河挟んで勢力圏が分かれたのは妥当
討たれて溺れたのは上杉側先陣だったりして
それを戦果と強がったと
普通に考えたら川を盾にしたほうが強い
>夜間なら尚更、増水した川筋でしかも背水で野営なんてありえねーじゃんか
増水した川の渡河に難航していたところを襲われた
これでどうよ?
仲間になったばかりの一揆衆の見分けがつかない上杉軍は、先陣として河を渡ろうとした味方をぬっころし、凱歌をあげたと
あるあ…ねーよwいくら味方殺しの過去がある謙信とはいえ、そこまでお間抜けなはずがない
>討たれて溺れたのは上杉側先陣だったりして
まず、ありえんね。退却する軍勢のほうが決定的に不利だ。
戦意はなくしてるし、取り残されるのを怖れてわれ先に逃げまどう。
退却中の被害が甚大になるのは、戦国時代の合戦の常識だぞ。
>>426 その増水した川をどうやって渡河して襲ったのよ?
>>429 はぁ?謙信は渡河してないけど?川に押し込めたわけで
431 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/05(水) 12:51:55
間違って一揆勢を殺してしまった謙信は、気付いてバツが悪くなって後退
本来なら子飼いの武将を入れるべき最前線も本願寺坊官に任せて目付けすら置かなかったのはその負い目から
やべWW
自分達も増水で川筋を移動できないのに追い込んだ???
どんなマジックやねん
←勝家・・ 川←織田兵←謙信・・・・
勝家←織田兵・・ 川アボン兵←謙信・・・
435 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/05(水) 13:00:37
つまり洪水が起こりかねない流域にわざわざ勝家らが無警戒に野営してるっていう無茶苦茶な前提が成立しない限り、謙信が自慢したような形はありえねーと
その上増水期の川筋に兵を入れるというオオボケを謙信がかまさない限りは成立しねーな
なんだこりゃあw
ま、あとは推論の領域だな
おもしろ可笑しく考えてくれよ。
謙信味方殺し説がありえそうで嫌だ…
そうなると辻褄が合っちゃうもの…
無双で手取川ステージがあったからあったんだよ!
謙信本隊(手柄じゃー!)→先陣の一揆衆(うわなにをするやめくぁwせdrftgyふじこ)→増水中の手取川
御幸塚近辺まで後退して備えてた柴田軍(( ゚д゚)ポカーン)
441 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/05(水) 13:43:16
ちょwww謙信wwwおまwww
>味方殺しの過去がある謙信
これって、何なの??
443 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/05(水) 18:46:09
手取川は昭和9年に大水害起こして本格的に治水されるまで暴れ川だったからな
よく考えるまでもなく、戦場にするには不向き極まりない
川の歴史
流域の概要
手取川は、その源を霊峰白山(標高2,702m)に発し、尾添川、大日川、その他の支川を合流して石川郡鶴来町に至り、石川県の誇る穀倉地帯である加賀平野を西流し、日本海に注ぐ流域面積809km2、幹川流路延長72kmの石川県内最大の河川です。
流域の9割を山地が占め、水源から河口までの平均勾配は約27分の1で、我が国有数の急流河川となっており、古来から洪水との闘いの中から生み出された治水技術である霞堤、村囲堤が今も残っています。
手取川の由来
手取川と言う名前のおこりにはいくつかの説があり、源平のむかし倶利伽羅の合戦を終えた木曾義仲の軍が急流を渡るために手を取り合って渡ったのがおこりだとか、氾らんのたびに渡るのに手間どったからだとか言われていますが、定かではありません。
生まれ変わった手取川
昭和9年の未曾有の出水による大災害を契機に、直轄事業として抜本的な河川改修工事に着手し、現在の手取川に至っています。また、昭和55年の手取川ダムの完成により、氾濫による被害が激減しています。
ttp://www.mlit.go.jp/river/nihon_kawa/data/hokuriku/tedorigawa/tedorigawa.html#rekisi
445 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/05(水) 19:43:01
渡河中の敵を打ち破るってのは、どうやら上杉の十八番(おはこ)らしい。
実は、松川の戦いでも渡河中の伊達軍を挟撃し、伊達軍は「全滅した」と
言ってるんだよね、これが、また。
謙信が急死したのは、味方殺しを大勝利と言い換えて誤魔化したストレスによるものだったんかね?w
上杉軍には増水期の川筋で自在に機動できる裏技でもあったんかな?
兵力の十パーセントが河童だとかW
上杉軍はなぜ強かったのか?
・人夫の数が少ないことによる機動性
・ハングリー精神
・普段はお近づきになりたくないが、戦場となれば頼りになる猛悍な主将
こんなところかね?
>>447 越後は新「潟」っていうくらい、
日本の中でも際だった湿地帯なんだな。
昭和初期まで、農民は胸まで水に浸かって農作業してたわけ。
当然ながら、そういう水郷地帯での移動にも手慣れてるんだな。
こういう次第で、これまた湿地帯である川中島でも、機動が確保できたのよ。
450 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/05(水) 21:51:51
451 :
449:2006/04/05(水) 21:54:31
新潟県史その他
どこにそれで戦闘の機動が確保できたって県史に載ってるんだよwww
453 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/05(水) 21:59:18
上杉厨が書き込まない→内容が良くなる
内容が良くなり歴史検証が進む→厨が書き込む
→内容がなくなる→厨が書き込みをやめる→ループ
今厨が書き込み始めた時期か
ちゃんと読んだら教えてやる
2ch全体で、「厨」の文字が現れるのって、
アンチ上杉スレばっかだよな。
「w」を多用するのも。
忍や臼井みたいな水手の場所での戦が苦手だった越軍なのにねぇ…
川が増水期でまともに戦できませんって説への反論が田んぼに胸まで使ってました、かよ
何かのギャグか釣りだろ
その程度でどうにかなるのなら、地元民が昭和の代まで難儀しねーべさ
上杉軍には河童がたくさんいたんだべ
上杉家軍役帳(天正三年(1575)二月)によると
上杉氏の動員力は
武将三十九名
槍三千六百九丁
手明六百五十人
鉄砲三百十六丁
大小旗三百六十八本
馬上五百六十六騎
総計五千五百五十三名
に、加えて河童が千二百三人(匹?)ほどか?普段は農業に従事W
「w」を多用するのも。
461 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/05(水) 22:23:14
言うに事欠いた上杉厨が、なにやら涙目で「w」攻撃に走っております
そんなことはいいから、県史のどこに胸まで浸かって農業してたから暴れ川での機動ができたなんて書いてあるか示せよ
じゃあ川中島で撤退時に犀川で溺死した兵は一体…
461 :無名武将@お腹せっぷく :2006/04/05(水) 22:23:14
言うに事欠いた上杉厨が、なにやら涙目で「w」攻撃に走っております
「厨」「w」
内容の無い書き込みして笑われるのは仕方無いよね( ´゚д゚)(゚д゚` )ネー
普通なら増水した川を攻めるのなら舟を用意しないか?
徒歩で進むなんて溺れたい、待ち伏せくらいたいって言ってるようなもんじゃん
467 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/05(水) 22:52:20
自然環境はでかいだろうね
柴田軍は上杉軍より早く手取川流域に達したはずなのに松任城を取ろうとした形跡がない
もし取っても川で連絡が寸断され確保できないと考えたんだろう
逆に謙信も、手取川を越えて織田方の手に落ちた御幸塚(小松付近)を攻撃した様子が無い
合戦なんかはなく、睨み合いで終り。双方加賀を二分して次回こそ、で引き上げたんだろう
後事を一揆衆にたくせる謙信に対し、自身の手で防備を調えて支配地を万全にしなきゃならない柴田軍は後退が10月までズレ込んだ、と
伊勢長島の農民は、それこそ腰まで水につかって足の指に苗を挟んで植えたとか
聞いたことがあるが、だからといって彼らが船もなく泳いで川を渡って包囲する
織田軍を攻撃したなんて聞いたことないなー。
どうも史料捏造当たり前な基地外が三戦板に常駐してるよな
こいつの所為で、まともな議論が成立しない
特徴として、やたらネット知識だからモロバレだけど
470 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 00:26:31
やっぱり捏造か…
じゃあ何のために、誰がいつの時期に捏造したわけ?
471 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 00:27:33
たまには忍びについて語ろうぜ
472 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 00:34:24
謙信が捏造→後背常ならなかったが斬るわけにもいかない北条父子に織田の弱さを印象づけて寝返り防止しようとした
秀吉が捏造→無断撤退という汚点を正当化するため、自分の判断に従わなかった勝家が大負けしたことにした
米沢藩が捏造→謙信の武名を喧伝したかった
講談師の作り話から流布→多くの合戦がこの影響を受けているから、ありえない話ではない。それに載った捏造者がいた
473 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 00:35:24
すぐに捏造捏造言う奴って、要は自分が信じたくないだけで、
こういう奴が一番タチが悪い件について。
捏造って史料が捏造と主張してるの?
それとも合戦自体が捏造と主張してるの?
それによってレスの意味がかなり変わるんだが
味方の先陣を川に嵌らせた謙信は、自己逃避のためあれは織田勢だったんだと自己暗示
自慢気な手紙を書いて送る
…ってそんな線が細いわけねーな、味方殺しに家臣の嫁馬で引きずりまわす男が
>>474 〜という史料or二次資料に書いてあると主張し、
その内容などの詳細を問われても答えられない輩の事
付け焼き刃のネット知識で、ググってテキトーに資料名拾って書いてるだけの基地外がいるんだよ
注意されたし
477 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 02:07:47
ネット知識でも問題はその真偽でしょ?
いるんだよなー。本論の議論で負けたからそういう枝道で逃げを打つ奴が
478 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 02:09:40
県史に「新潟の人間は川ン中でも機動できる」と書いてあると主張する上杉厨のことかー!
県史は史料に入りますか?w
481 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 02:29:22
またまた上杉厨轟沈…いや、今日は自沈か
予想ふぉおり、糞スレ化したな・・・・。でも、初歩的な質問には答えておこうか。
>県史は史料に入りますか?w
県史に収録されている一次史料(活字化)は、それなりに
歴史学者や学芸員が検証したものだから、原史料と認定してもいいと思うよ。
ただし、史料批判は独自に試みたほうがいいかも。謙信(手取川)関連では、
上越市史が割りと最近の編集(新しい順に上越市史>新潟県史>越佐史料)だから、
大学の図書館なら読めると思う。ほかに、米沢の上杉文書が一次史料。
ちなみに、新潟が湿地だったのは史実。今でこそ新潟は米どころだが、
謙信の時代は新潟市あたりも入り江だったらしい。海運と商業国家(特産品は麻布座)だったとする
説が有力だ。このスレ的にいうと、謙信の能登制圧も、港湾(港)を直轄地にした
制札が見受けられるので、直江津や柏崎同様に海運の収益構造を謀ったのではないだろうか。
謙信と信長、性格も発想も同じような商業大名だったとする説もあるね。
短気で独断的なところも似てるし・・。
483 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 03:01:16
まあ、糞スレ化したのは確かだがな
信長、というか織田弾正忠家が拠点とした尾張西部も木曾三川に
よる洪水と津島や長島の交易だわね。
485 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 03:12:35
つか上杉厨でも真面目に史料批判とかしてレスが通じてる奴と、いつも自爆する奴って同じじゃないでしょ?
後者が消えればまた戻るだろ
上杉厨が書き込まない→内容が良くなる
内容が良くなり歴史検証が進む→厨が書き込む
→内容がなくなる→厨が書き込みをやめる→ループ
今は内容が無い時期。マジで県史に新潟人河童説みたいなことが書いてあれば爆笑ものなんだがw
加賀手取川(謎の合戦?)という意味では、松川(本庄・伊達)の小競り合いと違って
戦国末期の華だから、謙信ファンも信長ファンも固唾を呑んで注目するってわけさ。
勝った負けたはともかく、謙信晩年の政治戦略の変貌とか、
信長の畿内制覇の正念場だったという意味でね。外野から、スマソ・・。
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‖ /( )~⌒) ‖ 上杉家の捏造史料(笑)
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「騙された・・・・」
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491 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 03:37:04
松永謀反がなければ信長と謙信の大軍が大決戦したかもしれない戦いだからな
所謂第二次信長包囲網がガチなら歴史が変わったかも
謙信が関東狙いだったことを考えると、第二次云々はちと眉唾だが
493 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 14:07:20
手取川合戦なんてありえないよ
上杉景勝は「撤退する軍を後ろから撃つような戦いは、父謙信の代からの上杉の軍法にはない」って豪語したじゃん
494 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 19:51:08
>>493 ちょwwwそれ二重の嘘か、親子どちらかが嘘吐きってことになっちゃうじゃん
なんかなぁ…
っていうか景勝思いっきり関ヶ原で撤退する最上軍追いかけてるやんw
小田原攻めでは北条勢嬲り殺しにしてるやんw
496 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 05:05:51
>>495 逆だろw 長谷堂城を10日以上かかっても落とせなかった直江軍。
関ヶ原の敗報を聞き、で撤退した上杉軍は膨大な死傷者を出しながら、
最上、伊達に追いかけられた。
497 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 21:59:22
やっぱり嘘だよ。手取川もその軍法も
498 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 22:05:38
手取川合戦自体無かったというのは暴論だと思うよ
頭冷やせよ
499 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 22:12:25
>上杉景勝は「撤退する軍を後ろから撃つような戦いは、父謙信の代からの上杉の軍法にはない」って豪語したじゃん
多分これ自体が上杉は潔いと思わせるための捏造なんじゃないかな?
合戦において追撃戦は基本だろ
深追いは危険ですがね
単に「越後の龍」「毘沙門の生まれ変わり」ってだけで過大評価されてる上杉は
「織田の大うつけ」「第六天魔王」「織田信成の先祖」の織田信長どころか
「風林火山」「信玄堤」の武田信玄の足元にも及ばないな
501 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 22:17:50
お、越後兵=河童説をまた披瀝してくれそうなのが来たか
503 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 22:23:34
マジョリティの意見として聞いて貰えればありがたい
無かった説を唱えてる人々は結局はマイノリティなのである
よくよく自覚されたし
ふーん、史料や状況証拠に反していても多数が盲信してれば正しいんだ
じゃあ桶狭間は奇襲だし、長篠戦は老臣の自殺だし、景勝は長坂を賄賂で買収したんだwww
言うに事欠くってこのことよ…
505 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 22:29:37
私は有ったか無かったかの話をしている
桶狭間もあっただろうし長篠もあっただろう
そして手取川もあっただろう
506 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 22:31:32
なんか根拠一つも示さず過去の議論否定する人が湧いてますね
多分越後兵河童説を唱えて大恥かいた馬鹿が必死に煽ってるんでしょ( ^∀^)
・討ち死にが一人も判明していない
・戦があったはずなのにそれまでと勢力圏が全く動いていない
・増水期の暴れ川でそもそも合戦ができるはずがない
・肝心の一級史料は謙信の手紙一通。しかも他の謙信の手紙と書き方が違ってかなり怪しい
508 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 22:36:42
自演乙
>>500
( ´,_ゝ`)
「どちて坊や」みたいなのがいるな
>・戦があったはずなのにそれまでと勢力圏が全く動いていない
織田は越前から加賀に進み、
上杉は越中から能登・加賀まで及んだわけだが?
>・増水期の暴れ川でそもそも合戦ができるはずがない
うん・・・? 川の中で合戦をしたのか??
>・肝心の一級史料は謙信の手紙一通。しかも他の謙信の手紙と書き方が違ってかなり怪しい
実際に読んだことあるのか?? どこが違うのか指摘してみ
512 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 23:03:11
あの辺りは一向一揆の死体も多かったろうし、誰が死んだかなんぞわからんと思う。
柴田勝家も結局引っ込んだわけだし。
というよりその後しばらく柴田は軍の立て直しに時間割かれてるだろ。
>肝心の一級史料は謙信の手紙一通。しかも他の謙信の手紙と書き方が違ってかなり怪しい
蘆名盛氏書状、仁科文書は無視でつか?
514 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/07(金) 23:39:25
いやもうなんでこう過去レスも読めないんだろうね定期的に湧く上杉厨は
で、越後人河童説の証明マダァ?(・∀・ )っ/凵⌒☆チンチン
過去レスを読んでもいっこうに説明されてないのだが??
上杉厨=文盲かやっぱり・・・
ん?どこかに河童兵の証明ができたレスってあったか?
>>516 下品な煽りだね?
中身がないうえに品性もなしか・・・
再反論もできず新根拠も示せない癖にあった、とか平気で言える神経ワロス
謙信はどうやって手取川を渡ったのかすらわからないからな
地元の人間が長い時代難儀する川を、地元の先導だから渡れるっていうのもおかしな話
良く分からないのだが手取川合戦があったとしたら謙信は手取川を渡った事になんの?
さぁ?大聖寺まで追撃したとか、越前の過半まで手に入れたとか。笑いどころはあるけどw>渡った
「信長公記」には勝家が「国中作物撫で斬りのうへ」とあり、城砦(御幸塚)を築いて佐久間を入れた
わけだから、敵中(一向宗徒)に包囲されながらの在陣だと読めますね。
しかも、はるか後方(大聖寺)にも拠点を構えてる。いったん手取川を越えた
大軍勢がそこまで後退したのなら、対峙戦もふくむ軍事的衝突がないと説明できません。
しかも、「公記」の著者である太田牛一は、京都における松永久秀の人質の引き回し
と処刑を詳細に、憐れみの情をもって記述していることから、従軍していないのは明白。
しかも、加賀出兵については伝聞記述の文体。したがって、「公記」に詳細が
記載されなかった事情は牛一の知らない紛争があったことを推察できます。
いっぽう、謙信書状(歴代古案所収)は、前後の書状(北条氏宛)と連続して
戦況の詳細、戦後の仕置きを記述していることから、確証の高いものとされています。
ほかに、蘆名盛氏の新発田長敦宛て書状、翌年の仁科文書に残る関東への書状。
さらにそれを裏付ける陣触れと応答の書状(吉江文書など)が豊富で、上杉氏の
越中・能登・加賀支配は確実な史実と考えられます。よって、手取川合戦とされる
上杉・織田両軍の軍事的衝突は史実と考えざるをえないのです。
一次史料を否定するには、一次史料を以ってが文献史学の原則。
で、軍勢の衝突があったのに一人も死んでないのはなんで?
自身が参加してない三方ヶ原での織田関係者討死まで明記した太田がそこだけ書かないのはなんで?
川中島の件もあるから、俺自慢の偽造書状の可能性のほうが高いね>謙信
手取川を挟んでその時織田・上杉双方が相手の前線基地を攻撃した形跡がないからな
睨み合いで終りじゃねーのかね
だいたい野戦で打撃を与えたられたはずなのに、織田方は手取川付近の小松に拠点を築いてる
謙信は何の戦ったんだろうね
川中島でも関東でも似たようなことばっかり
527 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 00:37:18
だから増水期の川筋に敵が近くまで来てもわざわざ織田が無警戒で陣取り
さらにそこへ上杉が兵を送るなんていう無茶苦茶で自然条件無視した前提が満たされなきゃ起因しない合戦なんてありえねーべ
>>524 「公記」の記述にも、抽象的な叙述は多いですよ。この時期に関連する片岡城の合戦は詳細ですが、
信貴山で松永氏が滅亡したことはじつに抽象的な名文で綴られていますし。
謙信書状には「千人討ち取り」とありまずが、士分以上の人物に戦死者が居なかったのは、おそらく史実でしょう。
そのうえ、謙信書状には「大利」(大勝利)などという記述がありません。
ご存知のとおり、「公記」も町田本・近衛本と写本でしか伝わっていませんので、
牛一のせいにするのは酷かもしれせんし、仰るとおり謙信が戦果を誇大に
報告している例はほかにもみられます。しかしながら、史料の検証が原則であって、
謙信書状(および北条氏宛て書状の連続性)を否定できる新史料が出て来ない
かぎり、現存する史料を素直に受け入れるしかないと思います。謎が多い合戦だとしても。
>>528 じゃ、なんで謙信君は討ち取った士分の一人の名も残さなかったのかね?
抽象的で三味線臭プンプン
同じような情報不足の記述でも謙信は肯定し太田は否定するのはなんで?
だからどうやって暴れ川を舞台に合戦なんかできたのかと
桶狭間合戦でも地形調べたら奇襲は無理、と出たし
今回は合戦自体が無理、だろ
単に脅して追い落としただけなら首取り1千は異常だし
531 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 00:51:19
>529
おまい、>528は「士分以上の死者はいなかった」じゃねぇの??
謙信は「乗り越し」と書状に書いてるんだから、自分で戦ったんだろ??
おまい、原文も読んでねぇのな??
>>440が真相。討ち取り相手の名前書いたら味方の一揆衆だとバレちゃうじゃんw
千人討ち取りで士分ゼロ?確率いくつぐらいよ?W
川中島の書状は「前久の」書状だと突っ込まれたにもかかわらず、
まだひきづっているバカが一名。
合戦で負けた側が現地に留まって城作り
勝った側の主力が脱兎の後退
アホかw
536 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 00:55:59
謙信の捏造でしょ
酒の毒で脳がやられてたんだよ
増水期の川で合戦なんて兵法を知らないことこの上ない
川を逆に盾に取られたらどうするんだ
そもそも兵を動かせたかどうか・・・
>謙信書状(および北条氏宛て書状の連続性)を否定できる新史料が出て来ない
このおかげで手取川は松川よりもあったとされてる事が多いんだな。
謙信の脳内合戦じゃないの?状況がおかしすぎるわ、これは
539 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 00:59:14
>535
史料読めねぇらしいなw
織田は御幸塚に城砦を築いて、国中の作物を撫で斬りにしたんだぜ。
一向宗一揆の作物を刈り取って、それを運び込んで籠もったか
兵糧を運び込んだんだろ。篭城じゃん、これって
>534 意味不明・・・
540 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 01:02:33
ま、小規模中規模の合戦の積み重ねで
だいたいの勢力の拡大縮小があったと思うんだが
どうも一発勝負の大合戦で全て決まったと思う奴多くないか?
この手取川の戦いも大合戦というよりは中小合戦の結果、柴田が撤兵したということだろう。
541 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 01:03:02
とにかく、新史料もさることながら
手取川を越えて進軍した大軍勢が手取川を引き返した史実は
「公記」にも「謙信書状」にも明白。これを合理的に
説明しないかぎり、手取川合戦を否定することは不可能だ
>>540 いや、謙信の行動(日時・既出)がハッキリしている以上
衝突は9月23日(夜間)に限定されるな。小規模合戦があった
としても、謙信撤退後の一向宗と織田軍ということになるが。
地元の人間だけど、治水が進んだ今でも雨降ると凄いよ
>>543 だから逃げまどった織田兵がドボンしちゃった
謙信「あれっ、みんな溺れちゃったよ。じゃあ、勝ったことにしとこーっと」
結局は憶測になってしまうわけだ
謙信はなぜ捏造したのか
矢張り織田が弱いと印象付けて内応を阻止しようとしたのか
何で「あったかどうか」から「なぜ捏造したか」まで飛躍してんの?
>>546 それ以前に、伊達も本庄も信長に内応しなかったわけだが(天正5年7月以前・伊達文書)
織田が手取川に引き返して渡河し、城砦に立て篭もったのは捏造じゃないしね。
本人直筆が却って怪しいな
軍忠状なら嘘書いたら権威失墜とかいうデメリットはあるけど
方面が違う武将相手ならボケても真相は知られにくいだろうし
「公記」の記述と「勝家連署状」、「謙信書状」が合致するからこそ
手取川の合戦があるわけで、それ以上でも以下でもない。
味方に対して偽書か。戦国大名としては当然の手だな
川が自然と勢力の境界になるケースは多いからな
増水川越しじゃ補給や連絡も大変だし
一時の嫌がらせならともかく、継続的支配を考えるなら時期ずらすだろうし
そもそも相手が出張らなければ無理に戦しかけて兵損じる危険冒す必然性が薄いわけで
>方面が違う武将相手ならボケても真相は知られにくいだろうし
戦国時代の情報力って侮れないよ。軍勢が集まる合戦にはかならず
他国の物見(間者)が出てたわけだから。このスレ的には蘆名書状なんかが
いい例で、誘われれば織田に付くかもしれない大名が謙信の勝利を祝ってる。
安置上杉からの新史料提供はないの????
では、現存する確実な史料に典拠するかぎり、大規模激戦(大勝・大敗)とはいえないにせよ
「手取川合戦はあった」でOK?
謙信が義の人なんて後世の美化だしね
嘘もつけば騙しもするし、奴隷市場を自ら差配もする
対織田の情報戦略の一環じゃね?
まともに戦ったら織田のほうがはるかにでかいもん、家中がビビったら話にならない
増水期の川流域で戦できるわけないのは、洪水の記録からも明らか
上杉軍河童説を早く立証してくれよ〜
558 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 01:48:58
確かな史料って笑うところですか?
自然現象を上回るとは、さすが軍神ですね
千人も討ち取ったのに士分ゼロとは当時の軍役形態からしてありえねーんじゃないの?
しかも謙信の主張に寄れば撤退中でしょ?陣形を組んでの後退にしろばらばらの逃げにしろ、そんなまったく士分に当たらないなんて不可能っしょ。確率的に
>>556 上杉は越後が内乱(御館乱)(新発田長敦の乱)の時期にも
上杉家中は織田にビビってないんですが? ビビってたら、内乱も出来ませんよね。
しかも、本能寺の変の翌日まで抗戦して玉砕・・・変な理屈だけど・・・。
織田信長こそ、天正2年に洛中洛外図屏風と源氏物語図屏風を謙信に贈り、
翌天正3年には「いっしょに武田勝頼を討とう」と懇願してるわけですが?
「手取川はその水路を七度も変えた」
>>560 謙信だって織田と徳川双方に武田一緒に攻めようぜ、と誘ったじゃんか(笑
つまり武田にすらビビってたわけかね?
ビビったら内乱できない?
内乱っつーのは内的要因でおこるもんでしょ
今川家は北条・武田と対峙しながら花蔵の乱起こしたし
>560>562
相互にビビっていたとw
信長も謙信も、同じ時期に伊達輝宗に贈り物交換してるねw
新発田重家は芦名の仲介で織田に通じたよな…
普通に考えれば相互に利用しあいつつ警戒もしていた、が妥当だろ
相手を見くびったりしてたらそれこそ馬鹿じゃね?
織田は当時最大勢力、上杉も強国
>内乱っつーのは内的要因でおこるもんでしょ
ビビるビビらないは、気概の問題じゃね?
景勝「織田が攻めてくる? 知るか、そんなこと」
河田「マズいっスよ・・・、越中が・・・」
景虎「てめぇ、味方に付け!」
景勝「俺の味方だろ? 河田! 織田との戦いはその後だっ!」
河田「仕方がないっス・・・、鯵坂殿、吉江殿、お覚悟されよ」
鯵坂・吉江「・・・・」
夜中に河に突っ込んで戦する謙信の部下はたまらんだろうな…
殆ど鉄砲玉扱い
織田は贈り物贈ったのに謙信側は手ぶらだったの?
それって単に謙信のケチぶりが発揮されただけじゃね?w
信玄は軍鑑によると信長に贈り物をやってた
漆とかの自然産物中心だけど
謙信は返礼もなしだったの?
>>569 蜜月時代には「珍しき鷹」とか「弟隼一居」とか、けっこう贈ってるよ謙信も。
洛中洛外図屏風は足利義輝が謙信のために狩野永徳に描かせた説が有力で、
狩野からそれを知らされた信長が謙信に贈ったらしい。
将軍府の陣幕に六角氏の紋があることから、室町幕府が健在の時期の風景。
源氏物語図屏風は不明。まともに答えてやるから「w」とかやめれ!
572 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 02:16:04
謙信が単に無礼だっただけじゃね?
何しろ源義家に馬上礼を許された成田氏の故事を知らず、無礼だからって烏帽子はたいた男…
…というのは違うだろw
確か秘蔵の鷹とかを信長に送ってたはず
信長は贈り物魔の一面があるからな
手柄立てた足軽が裸足だったのを見てわざわざ自分が腰に携帯してた草履やったりとか
案外楽しんで高価な贈り物やってたんじゃね?
自然物と芸術品だと、前者がケチだと思うのは間違った印象かね?
>574
謙信は源氏物語が好き(上洛時の史料による)だから信長が贈った説
洛中洛外図は謙信のために描かれたものだから、というよりも
足利幕府の京都を描いたものだったから、信長には不要なものだった説
信長は鷹狩りが好きだから謙信が贈った説
576 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 02:24:59
そこまでいくとケチ付けてるようにしか見えん
謙信に贈り物しても無駄のような
結局織田徳川と同盟しても武田の背後突いてくれなかったし
北条にも援軍送らなかったし
確か、家康は謙信に「虎のかしら」を贈ってるな
茶器とか刀とかなら…
>>577 違う。謙信が関東に出兵した時、信長が信濃出兵を見送り、
謙信が責めたのに言い訳している書状がある。家康は律儀に出兵に応じた。
北条との違約は、旧上杉領(上州と武蔵半国)の返還を氏康が渋ったからだったはず。
「相越一和」「尾越三の三国同盟」ともに機能しなかったのは史実だが。
>>580 なんだそりゃ。自分は約束守らなくて他人には守れってか?
にしても家康は律儀だな…
その程度ならまだマシだ
本願寺の坊主どもなんか、西進中の信玄に越中の一揆助けるためにそっちに兵だして、なんていう明後日の方向向いた要請したんだから
>>579 謙信は茶器はダメだね、刀しか興味がなかったらしく家中の史料にもない。
あと、酒の肴(海産物の樽詰めを北条とか朝廷、足利将軍に贈ってる)
あとは、初期に「鳥目」(穴あき銭)、後期は天正越座金貨。
北条からの贈り物は江川酒と蜜柑。
584 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 02:43:01
あ
なんかさー、謙信って同盟政策がものすごくマズくない?
たしかに謙信は外交戦略は下手だな、女だったらしいから仕方ないけど。
女だろうが関係ねぇw
まぁ外交云々以前に隣国に比べて何がしたいのか自体はっきりしない所あるしなぁ・・・。
謙信は関東管領としての役目を糞真面目にやってた以外の
戦略性があんまり見出せないからな‥
589 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 03:38:51
>586
謙信女性説な(微笑
だとしたら、信長は女にビビりまくって大軍を派遣したのか(爆笑
秀吉は早々に撤退し、勝家はせっかく越えた手取川を、女を怖れて引き返した??
>587
>隣国に比べて
??? 越後の隣国は信州だが、甲斐(武田)と勘違いしてねぇか??
ほかには出羽(のちに謙信の属領化)南奥州(会津の蘆名?)上州(謙信配下)
越中は富樫も居ないわけで・・・?
基礎から勉強しような、面倒くさがらずによ(微笑
むふふ、ですね。
勝家が女武将謙信に負けたのなら、牛一も書けなかったはずだよね。
>>589 別に信玄と比べた覚えは無いのだが・・・。
っていうか要するに周りは自国を守るであるとか、
領土拡張にしても方向性からそれなりにハッキリしてるのに、
上杉家だけ今ひとつ何がしたいのかどこに行きたいのかわからん部分が多い。
と言う意味だが、
>>589以外には伝わってるよね。
上杉の出陣は、謙信晩年に越中方面に主攻軸が確定するまでは、いきあたりばったり
中小領主の援軍要請にこたえて、みたいだけど関東と信濃と飛騨越中を前後して進攻してるから一貫性が感じられない
そこが魅力なんだなぁ
>>593 結果はともかく、願文なんかを読む限りは
信濃(長野)上州(群馬)武蔵(埼玉・東京)が服属し、野州(小田・宇都宮ら)
常陸(佐竹ほか)・房州(里見)が臣従し、相模(北条)とは和睦、
甲斐(武田)だけは絶対に赦さん。ってな感じだったと思う。
関東府(足利藤氏)の立場が曖昧になってからは、分国化したかったが無理(天正2年)
で、仕方ないから北陸制圧に乗り出したのかね?
仮説・手取川の戦いは、
人の意見を聞かない男(勝家)と地図を読めない女(謙信)の戦いだった。
勝家・秀吉の意見を聞かずに手取川をこえて進軍、気がついたら秀吉が離脱して戦力ががた落ちしてしまっていた。
謙信・毛利との約束で越前から近江に乱入するはずだったが、地図の見方を間違い、気がついたら七尾城に戻ってしまっていた。
597 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 19:09:07
普通に考えれば、在地豪族が複雑に絡み合う上、武田北条という強敵とぶつかる関東より
父祖の代からの攻撃対象で、統一的指導者を持たず各個撃破が可能な越中併呑が上杉氏の強化を考えた場合の戦略としては一番だと思う
>>597 本願寺との和睦(天正四年)後、二年足らずで越中・能登・加賀(手取川以東)を
制圧してることを考えると、確かにそのとおりだと思う。
でも、実際は天正三年に信長との同盟が実質的に破綻した段階で、
信長の諸国分国化をみて「え? そんなことしていいの?」状態だったんじゃないかね。
それまで、他国を領有化するのは信玄みたいな悪者だけだと考えてた謙信にとっては、
「何でもありかよ? じゃあ、もういくぜ」で、北陸侵攻を決意したと。
為景の時代にも、越中に侵攻してるが椎名に郡代(名称は守護)を任せるくらいで、
領国化という発想そのものが長尾氏にはなかったわけでしょ。
謙信が能登畠山・越中椎名から養子(上条政繁・椎名小四郎)を取ってるのも、
同盟関係だったわけだし、関東方面も管領として関東公方を北条と共同で
供奉する方針。つまり旧上杉氏の領地返還は要求しても、既存の領主から所領を
奪う目的はなかったようだ。管領だから出来ないという拘束もあっただろうし。
599 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/16(日) 01:33:32
思ったんだけど川中島合戦て本当は上杉方被害かなり少ないんじゃないんですか?
600討ち取ったー!
602 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/16(日) 01:48:17
>>601 いやあ、手取川で織田が3万だか4万だかいて千人死んでるんだから名のある将がしんでなきゃおかしくないかみたいなこと言ってましたので
川中島において上杉方は後半、三方から攻められ物凄い戦死%が高いのに名のある将の名がでてこないんでオカシイナと思いまして。
便所で死んだくせに何が軍神なのか説明してもらいたいな
604 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/16(日) 03:16:02
キモヲタのお前が便所で死のうが布団で死のうが、お前がキモヲタなのは変わらない様なもの
まあ至極どうでもいい事だな
川に流された敗残兵の名前なんか、いちいち残るかよ。合掌・・・
606 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/16(日) 06:46:20
何で織田だけが川に流されたんだろ
上杉家はズゴックでも配備されてたんかな
607 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/16(日) 09:38:50
深追いしなかったからだろ
マターリとしたスレに浅井長政が!
| ああ〜 やっぱりお市は /
| シマリがいいYO〜!! /
/ 丁\
||ヽ|ノ|
|ヽ_ニ_ノ
_/ lニニlヽ_ノ<>V<>
/ミ√・∀・|> 〃´⌒`ヽ
| |\ |`イ ノハソリ)カク
.(( |_|_ィ⌒ノリリ*' 、 ソリ
ノ と、_入`_,つ λ う
カク
609 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/16(日) 19:32:03
じゃあ名のある将が死んでないというのでは手取川合戦を否定できないでokだね。
/././,,-,,_
/// .,,,-'-,,,,__
'''---,,i.|/ ''--,, .'--, ヽ
_,--'',.イ .\ .--,, .ヽ
./,,ィ / .i , \ ` -,,_ `ヽ_
.///.'/ ,ィ ハ \ \ \ ` - .、-__
.ノ//./ | ! .\-,,,,_____\ i'.ヽ /~`,
./ノ|.|(.ノ ,---,,,_ \i .|).`./ ./
.ノ .!| | .,- '~~~ _ .| |`./ /ヽ
.! \ .' ,ノ ( .ヽ| V /,,-''~ ̄_)
.>.\) ヽ ` , < ~
,,--┴ ┳.ニ二フハ ヽ _ .` - .、
// y- ,ヽ)).ノ イ .i.>、 ノ .~ ''''''''
/.「 ' --((./.( .i ヽ`-- '\\
/ |\ '~'.、 ハ ! .` --- , _.).)
./ ,,/|, .` -、 //( .! ヽ ./
./ r'' .! \ ~ ./ ヽ ヽ, _ ノ
././ \ ,, - .ヽ - >~
ノ/ /ノ .ノ ,,--''
( ./ノノ .ノ
.\__ _ ノ .ノノ イヽ
` 7 ヽ // / ノ ノ 人
) >> ./ !
【佐倉広夢】
「んもう・・・
>>1さんまた駄スレ?駄スレ控えめにね」
「
>>2さん、2日間だけ僕の恋人になって」
「
>>3さん、デートしよ、ね!いいでしょ。デート、デート♪」
「
>>4さん、あま〜いアイスクリーム食べに行こ♪」
「
>>5さん、やっぱり女の子がいいの?男の子の僕は嫌いなの?」
611 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/16(日) 19:50:45
川中島の「血染めの感状」も知らないのか?
色部勝長・安田長秀・垂水源二郎・本田右近允・中条藤資・松本忠繁・岡田但馬らに与えられた感状だが、一族郎党から討死が続出した代償ゆえそう呼ばれている
信玄に斬りかかったのは謙信ではなくこの人だ、といわれる側近の荒井伊豆守なんかも討死している
自分の無知を棚に上げて…
千人単位で死傷者がでる戦いで、名のある武士が一人も死なないなんてありえない
越後三島郡夏戸城主・志駄義時
春日山城在番奉行・庄田定賢
大川城主・大川駿河守
上杉方も名のある武将討死してるがな
武田方武将みたいに知名度を上げるような甲陽軍鑑みたいに流布した文書がないだけ
なんで上杉厨が上杉の歴史に無知なんだ?
単に「織田に勝った謙信公スゲー」という妄想に拘ってるだけか
どうみても厨です。ありがt(ry
614 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/16(日) 20:05:17
上杉厨何度目かの轟沈
つうか一番恥ずかしい自爆の仕方だな
無知乙
川中島で上杉方は8000余を討ち取ったと宣伝しているが、
実際は4000ほどだったと言われてるし。(実際のところは全く不明瞭だが)
それを考えると手取川の1000と言うのもどうなんだろう??
616 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/16(日) 21:05:50
どうでもいいんじゃね
どうせ証明できねーもん
617 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/16(日) 23:12:15
俺もそう思う。どうせ誰も納得しないし。
618 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/16(日) 23:39:01
上杉を知らない人間は、上杉を弁護しなくていいよ
逆に物笑いになるだけだ
上杉を崇拝してるキモ信者達は全員馬鹿ばっかだってことが証明されたなw
620 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/17(月) 10:23:27
馬鹿だから信者になるんです
621 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/17(月) 17:48:03
じゃあ名のある将が死んでないということで手取川合戦を否定できるでokだね。
上杉厨、お前らの論法なんだから認めろよ
ってか血染めの感状も知らないのはちょっと上杉ファンとしてはありえなさすぎる
けっきょく、空論に終始か・・・orz
623 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/17(月) 23:43:25
やっぱり手取川は捏造でFA
625 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 00:11:50
北陸(手取川)の負けを認められん信長厨を敢えて挑発する(可愛がってやる)が、
織田軍がわざわざ手取川をこえて、富樫(金沢)まで攻めたにもかかわらず、
天正5年9月23日以後に、手取川から撤退し10キロも後方の御幸塚に篭城した
のは、どうしてなのか説明してくれんかね。加賀「国中の作物を刈り」(公記)とは、
長期篭城以外に、何の意味があるのか? 合理的に説明できるのか?
謙信没後、翌年夏まで飛騨方面からの攻勢があったにもかかわらず、
加賀方面から侵攻できなかった史実はどう説明するのだ?
上のほうのレスにあったとおり、謙信感状の存否は手取川が楽勝だった(上杉に被害なし)から
の証左であって、同じく川中島(両軍の合計被害が万単位の合戦)でも
確実な有力武将の戦死記録は数名程度にすぎないことから、手取川の軽微な
合戦で有力武将の戦死記録が残されなかった傍証は明らかだな。
ましてや、川に流された武将の首実検ができるわけもない。
さらに言えば、謙信書状(および付随する史料=蘆名書状・仁科文書)を否定できる一次史料がない以上、
文献史学の原則においては合戦の有無はもとより、織田軍敗退の史実は覆しようもない。
可哀相だが、何ひとつ手取川合戦における織田軍の敗退を示す一次史料は存在しないのだよ。
626 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 00:22:39
上杉厨は都合の悪い過去レスは一切無視するしかなくなったかW
血染めの感状の勉強しなおしてきたか?( ´,_ゝ`)
627 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 00:24:25
感状って相手の戦死記録じゃなくて味方に対してのだぞ?
負け戦で感状なんて出すものなの??
だから増水期の川筋で合戦できるわけねぇって
夜襲なんかかましたら自分達が溺れるわ
>>440だろ、せいぜい
だから過去レスぐらい嫁
>>599からの笑える流れを
何で引き上げたかって、そりゃ本来の作戦目的だった七尾城が陥落して進軍する
理由がなくなったからだろ。
その上で、暴れ川である手取川を越えての支配権確立は難しいとにらんで占領地
を放棄。御幸塚まで下がってそこまでの支配は確保しようとしたと。
じゃあ逆に大勝した上杉軍はなぜ一気に手取川を越えなかったのか
織田軍は手取川があったとされる日時から10月まで手取川南岸側に留まり、御幸塚を普請し大聖寺まで固めている
しかも丹羽軍を畿内増援に回して
野戦で大敗した軍の行動としては異常
633 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 00:31:00
>626
つまり、何も答えられないと??
>血染めの感状
おまえ、素人だなw 合戦の感状は、そもそも堪忍分といって家臣への慰労のようなもんだぞ。
一般に言われてるように、勝ち戦に出すような性格のものは少ないのが最近の史料批判だ。
>都合の悪い過去スレ
というのが何を意味するのか知らん(読んでもわからん)が、都合のいい推論を意味するのだとしたら
もはや文献史学ではなく、小説の世界だとわたしは思うが、どうなのか?
傍証でもいいから、何か史料を拾って来いよな。ここまでの手取川合戦なかった説は、読んでいて退屈だ。
加賀藩史料で辻褄があう、でもう終わったと思ってた
あった側の意見は全然説得力が無い
どうやって地元が長年難儀するほどの増水の中夜襲かませたのか?
なぜ大勝したのならまったく織田確保地を切り取ってないのか?そもそもなぜ織田方に誰も死者が出てないのか?
謙信の勘違いか、法螺と見るのが妥当
上杉側のオレ自慢ばっかだろ、結局
柴田軍には織田軍の有力な将帥とその部下が集まってたんだから、被害が出れば家督相続なり役職受け継ぎなりの動きがあるだろ
何かそれを思わせる史料でもあんの?
>>599からの流れで
千人単位で損害が出たのなら、名のある武士が一人もいないということはありえないと証明されたと思ってた
上杉側の論法なんだしなー
松川スレでも完全論破されたからってこっちで暴れる上杉厨wwww
638 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 00:39:00
わからん、どれも説明になってない
手取川をこえて富樫まで進軍した織田勢が、なぜか手取川を撤退
(謙信を怖れた? 七尾城の落城を知ったから?)
加賀国中の作物を刈り取って、手取川から10キロも後方に篭城
(この間の行動は、単に謙信の侵攻を怖れたから?)
謙信が七尾城に撤退したにもかかわらず、なぜ手取川の後方10キロ
まで撤退しなければならなかったのか、合理的に説明できないな。
>>638 だから川だろ
まともに考えれば連絡線を確保するのも大変
自然状況が勢力圏分けることは良くある
だいたいオマエのほうこそ上杉側のおかしさ全く説明してないじゃないかw
織田厨は史料ねぇんだろ?
大敗を否定する史料、ないんだろ?
なかったという証拠を出せ、か。それって悪魔の証明じゃ?
信長公記とか加賀藩史料とか出てるじゃんか
そもそも状況から不自然、というのは動いてないし
上杉軍が全員ザクマリナー装備なら可能だ
643 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 00:45:43
>639
暴れ川(手取川)が両者を分けたのは確かだと考えられるが、
10キロも後退する必要がありますかね?
>640
織田の大敗とまではいえない。退却する勝家軍を追撃し、
川に押し込め。というのが一般的な解釈だ。
644 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 00:45:49
どうやらこいつは悪魔の証明をさせたいようですね
古今東西、存在を主張する方が証明をする義務があるのですが。。。
存在し得なかった事柄を誰が何の為に書き残すんですか?
織田の士官・下士官の戦死記録がない事が合戦が存在しなかった証拠です
Q.E.D.
討ち取りだけで千人、残り川追い落としだろ?
そんなに犠牲者出たのに一人も名なし雑兵ばっかってありえんだろ。再三言われてるけど
上杉厨が出した川中島の例からも明白
>信長公記とか加賀藩史料とか出てるじゃんか
上杉側の史料を否定できんな、そんなんじゃw
蘆名文書は第三者が謙信の戦勝を祝った書状なんだぜw
公記と加賀藩史料(江戸時代成立w)の記述に、歴代古案を否定する内容はないわなw
手取川といえば有名な暴れ川。謙信が天地風水でも操って、攻めるときだけ都合よく浅瀬にしたとでも…
>>646 第三者がなんで一方だけを祝うのか(( ^∀^)
>上杉厨が出した川中島の例からも明白
はぁ? 3000〜4000も死んだとされてる川中島合戦で、
足軽大将の死者が3人(それも軍記物語の伝承だよw)??
どこが明白なのか、一次史料をキボンヌ!
650 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 00:53:05
だって軍「神」だぞ
信長公記は太田直筆の日記に拠るものだぞ(第12巻以外のものが現存・国指定重要文化財
当時史料じゃんか
652 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 00:55:26
>>644 >誰が何の為に
上杉の求心力の為に捏造
だから何度も聞くが、北陸有数の暴れ川の増水期でどうやって夜襲できたんだよ?
>651
信長公記の天正5年の記述は、最古の町田本でも写本なんですが(爆笑
上杉文書は国宝でつよ(微笑
川の中で戦ったんじゃなくて渡り損ねたのを討ち取ったんじゃない??
一次資料がどうこうというけれど、一次でほぼ無条件に信用できるのは公文書の類。
おなじ一次でも手紙や日記はそうはいかない。書いた人間の主観や誤断、認識間違い
などが出てくるから。
そして上杉側が一次として持ち出してくる歴代古案の史料は、謙信の手紙なのよねえ。
謙信が自然条件を超越したんだよ
上杉軍は全員河童かズゴック持ちで
織田軍は増水期の川で野営するほど馬鹿で
しかも大敗しても名のある武士一人も死なないどころか、以後の行動に支障ゼロなほど奇跡的に幹部を避けたんだよ
間違いな…んなわけねー。ありえねーよ
>一次でほぼ無条件に信用できるのは公文書の類。
はて? 公文書の基準は何ですか?
花押の有無? 直筆かどうか?
まさか、その家が後世に公認したとかの意味じゃないですよね?
はたまた「信長公記」みたいに、タイトルが「公」???
ちなみに、上杉家年譜には謙信書状は収録されてますが?
660 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 01:05:49
謙信のオレ自慢捏造で決定
自然こそ最高の証人
どこの世界に洪水並の川に突っ込む馬鹿がいるんだよ。しかも夜間に
661 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 01:06:36
藩政史としての評価じゃん
自分の手柄自慢する一通があり、それに迎合したヨイショ書類があれば、自然条件戦果から類推される状態一切が異常でもあったとなるのか
それはおかしい
単に追い払った、ならともかく
討ち取りの数とか明らかに異常だしな
けっきょく、勝家「謎の反転」(手取川をこえて金沢付近→手取川の後方10`)
は、説明できないんですね?
唯一、それを説明できるのが手取川の敗戦だとしても・・・
その論法でいけば加賀藩史料も藩公認になるんじゃねーの
だから謙信が松任城まで来たので危険な川筋帯陣を避けて南岸へ後退
織田軍の本格乱入を防げた謙信も仕置きのため蜻蛉帰り
合戦なしが一番しっくりくるが
>公文書の意味
一次史料(当時の書状や日記)を編纂した、おもに江戸時代の編纂記録
まぁ、自分の手柄話やお家自慢(微笑
暴れ川に対して夜襲するという奇跡を成し遂げ、大勝したにもかかわらず織田軍が南岸にいるのを放置プレイして帰った謙信の異常性は予測ですら説明されてない件
上杉厨は本当に都合の悪いレスは無視するよな
松川スレと同じ醜態
上杉軍は在地の一揆勢力を併合しただけであって
織田軍が切り取った占領地には全く手を出してないことになるしな
負けたならそれこそ策源地の越前へ逃げ帰るはず
勝った側のほうが急いで帰るってどういうことよ?
文献史学においては、一次史料およびそれを裏付ける複数の一次史料が
最優先されます。したがって、現在の史家たちも大半が手取川合戦の存在を
前提にするしかない。頑張って、一次史料を探してください。スマソ。
671 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 01:17:32
援軍に行く為に進軍
↓
落城して進軍理由がなくなちゃったんで帰って守りを固めよう
↓
謙信:(´;ω;`)もうイナス
↓
謙信:川で流されちゃった事にしちゃえ(゚∀゚)アヒャ←これ
自然条件>一次史料(というなのオレ自慢手紙)?
それじゃ「オレは富士山踏み潰したぜ」って自慢の文書が残ってれば実際に富士山が残ってても信じるわけだ(爆笑
>669
謙信が城兵を残した松任城は手取川からおおむね7k地点。
勝家が佐久間を立てこもらせた御幸塚は手取川からおおむね10k地点。
その間には暴れ川、越前国内にも一向宗徒。勝家は越前国境まで撤退してるね。
不自然な部分は全く説明されていない
手紙は主観、客観的状況はことごとくおかしいじゃんか
上杉軍は河童の群れだったとかいう一次史料でもあんのかー?
>>672 そこまで議論を不真面目にしちゃうの・・・orz
>>673 無茶苦茶言い出したな
だいたい10月になってやっとこさ越前まで帰ったのを敗北のせいだ、というのなら
合戦数日後に逃げ帰ってることになっちゃうぞ謙信公がw
がんばって、確実な一次史料を探してくるこった、な。
文献史学、文献・・・
城を普請できるってことはその周辺も自領にしたってことじゃね?
でないと作業が進捗しないし
その理屈なら、松任城ギリギリまでが上杉が出たとことしないとアンフェアだし
>678
「公記」よめよ、国中の作物を刈り取るか? 自領なら
怯えて篭城したとしか読めんぞ、ありゃ。
680 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 01:26:16
一次史料は結構だけど
まったくおかしな箇所を説明できなければ意味ないんじゃないの?
ならその他の部分を示した信長公記や藩公認史料があるんだからそちらで埋めていくべき
この辺を説明できないならただの逃げじゃんかwww
>>679 おや、公記信用していいの上杉厨?
君達の中では信用できないんじゃ?( ^∀^)
敵地で城作りって墨俣一夜城の伝説みたいだな
その後織田軍の勢力圏は東に伸張こそすれ縮小してないからな…
683 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 01:28:45
>>678-679 つうか、御幸塚はもともと本願寺勢力だから、勝家が乗っ取って
普請したというべき。越中の完全支配もまだ途上だったし、立て直した
とみるべきでしょうな。いったん。
軍神と呼ばれた謙信公の手紙を疑うとはきっさまー!
とかこんな感じか(笑
上杉を崇拝する信者は全員基地外だということが証明されたわけだ
それにしても、勝家の手取川以西への撤退は何らかの軍事的衝突をぬきには説明できんな。
あれほどの大軍を擁していたのに・・・。
信長公記によると、小松村・本折村・安宅村・富樫…という順に焼き払い箇所が記載されてるが
これって今の地名にあわせて地図で追うとちょっとおかしくね?
南下してるのにいきなり北に出てる
それにしても、謙信公の七尾への早期過ぎる撤退は何らかの問題をぬきには説明できんな。
あれほどの大軍を擁していたのに・・・。
>上杉を崇拝する信者は全員基地外だということが証明されたわけだ
漏れはどっちでもないが、おまいみたいなのがいちばん不愉快だぞ
中身のあることが書けないのならば、黙ってROMってればいいだろうが
>>689みたいにすぐ釣られちゃうのが上杉厨の特徴だなw
しかも、わざわざ自分は上杉信者じゃないと宣言してやがるwばかすぎww
やはり、ゴミ大名上杉なんかを支持しちゃう基地外は世の中のゲロ以下な存在だな
692 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 01:39:42
また、中身がなくなってきた・・・・
割と真面目なのが書き込む→厨が参入→中身がなくなる
→真面目な書き込みが減る→煽り→中絶する→ループ
上杉厨は自演と粘着とコピペ攻撃しか出来ないからな
手取川を越えたはずの織田軍が南下しつつ焼き払いを行い、松任城を頭越しにして富樫に放火…
確かにおかしいな…
スレタイがアレな時点で頭の不自由な厨が集まるスレになるのは目に見えているわけだが
マターリとしたスレに浅井長政が!
| ああ〜 やっぱりお市は /
| シマリがいいYO〜!! /
/ 丁\
||ヽ|ノ|
|ヽ_ニ_ノ
_/ lニニlヽ_ノ<>V<>
/ミ√・∀・|> 〃´⌒`ヽ
| |\ |`イ ノハソリ)カク
.(( |_|_ィ⌒ノリリ*' 、 ソリ
ノ と、_入`_,つ λ う
カク
桶狭間の奇襲説は実際に現場踏破した上で信長公記を根拠に否定されたな
元々が日本軍の都合で脚色された甫庵信長記の記述だったからアレだが
とにかく史料が少ないのがネックやね、手取川
昭和に本格治水されるまで手のつけられない川だった手取川はわかる
今でも大雨が降ると怖いぐらい流れるんだもん、当時なんて…
>>686 何度も説明されているんだが、読んでいないの?
織田軍と決戦しようと思って急進したら織田軍は南下しつつ焼き払いで一揆勢力圏掃討に忙しかった
当てが外れた上杉軍はそれを嘲笑ってでも攻めるのは秋の長雨の川が邪魔してできなかった、だから七尾へ帰った
これが真相だと思う
千討ち取り云々は捏造だが、追い払った形だから勝利と喧伝するのは全くの嘘ではない
謙信手紙の一部分を駄目出しすることによって、史料によって違う辻褄が全て合う
一次史料が一番おかしい。これ如何に
702 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 01:59:43
織田は新たに拠点を確保・強化、周辺の一揆勢を焼き払いで弱らせた
一方勝ったはずの上杉・一揆勢は上杉勢は七尾へまるで敗軍の撤退のように逃げかえり、一揆勢は普請の阻止もできなかった
やっぱりおかしー
謙信はアル中で脳がやられてありもしねー大勝利の幻想でもみたんじゃね?
うろ覚えだが昔富樫、といった地名は加賀内で一つではなかったはず
705 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 02:15:08
南の富樫なら加賀市内か
つまり手取川打越てから南下して、御幸塚や大聖寺を固めるために周辺を焼き払ったってことかね?
で、10月まで在陣して本格普請して兵を入れて帰国
この間に丹羽長秀と若狭衆は畿内への加勢に
706 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 02:59:46
1、長の援軍要請により出陣
2、渡河した後で落城の報が入る
3、戦略目的消滅の為撤退、増水していたが退却を強行する
4、川を背にした布陣になってしまったところに謙信襲来
5、渡河退却が完了するまでに1000人が討ち取られる
6、増水してたから深追いせずに謙信も帰る
上杉寄りに解釈してみて1〜4、6はまぁ解るが、やっぱズゴックが配備されてないと5がおかしい
5、川の増水で満足な軍事行動も取れず、小競り合いはあったが両者共大した損害もなく渡河退却成功
1000人とか夜なのに川に流されて何人アボンしたか数えられる訳がないしな
上杉勢の土民が同士討ちでもしたんじゃね
でもまぁ七尾城〜手取川は戦略的に上杉の勝ちだな
増水期の川で、敵がくるまでのほほんとしてるなんてちょっと考えづらい
手取川流域は川筋が定まらず、しかも長雨の秋
織田軍に一人もまともな兵法知ってる人間がいなかった、とか無茶な仮定がまず前提だからな
ついでに暴れ川に兵を夜間突っ込ませるという、やっぱり上杉軍も馬鹿ばっかということにならない限り…
そもそも七尾城後詰は加賀を打通しなければならず
しかも畿内で松永が謀反し、秀吉が無断退陣するなど織田軍は不安だらけ
この状態で無警戒ということだったらどうにかしている
まだ昼間にまともな合戦やったが士気が奮わず損害出して後退、ならわかる
でも無防備に夜襲許した上川に大量に溺れ死になんて…
手取川まで来たけど七尾落城なり松任城まで謙信が来るなりの情報をキャッチしたんで、南下して一揆勢弱体化につとめつつ、一揆勢から奪取した地域固めに入ったというほうが戦理に合う
御幸塚(後の小松)城は水城地形だから防御拠点にはもってこいだし
つまり、戦国屈指の織田軍団が物見もせず、水域在陣の不利も理解できない馬鹿揃いで
やはり歴戦の上杉軍が珍走並のドキュソ揃いでないと成立しない、と…
なんかなぁ…
710 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 05:49:32
別に難しい事じゃない
謙信の大戦果、という部分が捏造だと仮定すれば全ては符号するんだ
パズルのピースを探すより簡単だ、あまりに辻褄が合わない部分を排除すればぴったりいくんだから
711 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 08:43:30
川 Ω<今から助けに行くお
川 Ω<ksk
川 Ω<ksk
川 Ω<七尾城落ちたみたいだお
川 ΣΩ
川 ΣΩ
川 λ...
川 λ...
川 λ...
川λ<これ渡れなくね?
川λ<追撃されたらもっとやばくね?
川λ<てか渡るしかなくね?
Ω川<ナンカキタwwwww
Ω川<謙信ktkrwwww (゚∀゚)見つけたおー
川Ω<ちょwwwwwww俺まだwwwwwヤバスwwww
Ω川<乙wwwwwwww
Ω川<見送りご苦労wwww ヽ(`д´)ノマテー
Ω川<あせってうんこ漏れたwwwww
712 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 09:38:35
自演、乙
松川の戦いについてもろくな反論できないよな、上杉側は。
結局、中傷に走るだけ。
こんな連中に信奉されて上杉も迷惑だな。
上杉厨は醜いのぅ
反論できないと自演扱い
史料の内容のおかしさを指摘されると謙信直筆の手紙だから間違ってないんだ!とゴネる
詰るとそういう逃げしか打てないなら、最初から書き込まなきゃいいか初っ端からそれ一本でいけばいいのに(W
>史料の内容のおかしさを指摘
史料を読んでないお前に、具体的な指摘ができるはずもなしw
悔しかったら原文から指摘してみろよw
716 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 12:27:43
なぜ上杉は捏造するのか
上杉に自慢できる戦がないからなのかね?
川中島では激闘したけど最後には負けてる(支配権を奪われてる)し
関東の侵略も後背常ならない豪族達に翻弄されて出陣回数が多い割りに進捗してないし
これだ!というものがないからかな?
謙信の戦は小豪族相手の城攻めや、寝返りや謀反の国人・一揆掃討がほとんどだから
川中島ぐらいじゃないの?まともに合戦で同程度の勢力とぶつかったの
例によって川中島も姉川と同様、実際はそんな激闘じゃなかった説があるが
「妙法寺記」を信じるのなら、「景虎悉人数打死(景虎軍はことごとく討死)」となっちゃうからな
719 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 15:52:55
上杉家は強い、といわれるが
圧倒的不利をひっくり返した戦いとか
その後の歴史の動きに大きな影響を与えた戦いとか
そういうのに無縁だからな
捏造の一つや二つしたくもなるでしょ
またお得意の功名妬みか
謙信は強い。が、それは勝ったからではなく野戦での負けが少なかったからで、普通にイメージされる強さとは違う
そもそも大規模な野戦になるケースが戦略上少なかったけどな
じゃあその謙信に野戦で勝った氏康最強か
だいたい10万超える兵が集まったとされる関東出陣を、古事一つ知らなかったために駄目にした時点でかなり痛い
烏帽子払わんでも、こっそり咎めれば相手からも理由が返ってきて円満に済んだろうに
>>722 その女みたいに短慮なところがイイ
人の目を気にする見栄っ張りで、8000討ち取ったぞぉ、こんどは1000人じゃー
信長ってよわぁー!とかね・・・。
謙信の戦ははっきり勝ち負けがわかるものがほとんどない
負けとされる生野山合戦や臼井城攻めも例によって史料がまちまちでかつ少ないから
これらの合戦後、謙信から離反する豪族が出たがそれは関東ではいつものことだし
城攻め→降伏ないし和睦で許す→帰ると離反→以下エンドレス
だもんなぁ…
城攻めや後詰阻止で勝っても領土に組み込めないのは関東特有の事情だけじゃなく武断的に処置できないことも原因だった気がする
譜代を城代として入れるとか、養子に一族から放り込んで実質簒奪するとか
>>724 関東への出兵はおもに調停・懲らしめ・武田叩きがメインだからね。
あと、当時の越後は慢性的に食糧不足だったから、略奪容認の出兵でもあったわけだが。
働かない人達が集まって、他人を馬鹿だのなんだの、毎日毎日無駄な罵り合いを繰り返す。
うんこみたいなスレだね
>>725 >養子に一族から放り込んで実質簒奪するとか
んなことやったら、謙信が謙信じゃなくなるよ。
北陸では、上条政繁を能登畠山に、長尾小四郎を越中椎名に入れてるけど、
彼らはもともと能登と越中からの人質だったのを一族の養子にした正統な
継承権を持ってたしね。上州沼田と越中松倉に近臣を入れたのが
筋目を重んじる謙信としては精一杯のところだな。
武田・北条・織田と競りながら、
勢力拡大して、かつ、これといって負けていない。
これだけでも凄いと思うぞ。
織田とは本格的に戦いはじめる直前に死亡したしなあ。
武田・北条を同時に敵に回してのこの結果は確かに凄いが、でも結局は
関東でも北信濃でも負けてるのよね。
普通だったら今川みたいに瞬殺で取られる。
>>729 っていうか武田も北条も領地拡大してるし。
>>729 関東と信濃に限って言えば、切り取られまくってますが。
一旦は武蔵北部まで影響下に置いたものの、その後ジリジリと戦線は後退。
杉山・関宿後詰めに失敗、国府台には間に合わず、臼井城を落城寸前まで追い込んでおきながら奇襲を受け撤退。
成田からは目の敵にされ、佐竹からは信用できないと共闘を断られ、重臣の北条は武田・後北条へ寝返り。
関東遠征の後半
こと関東に限って結果論を言えば、後北条の関東制覇のスピードを鈍らせた以上は出来ていません。
一貫した戦略がない
そもそも本拠地の春日山は武田の勢力最北端から数日で攻めあがれる位置
その状況下で難所の峠越しに連年出兵しても、奔走させられるだけなのは当たり前なのに
まして相手は武田と北条。信玄は実は戦術では結構負けたりしてるが、戦略や謀略では一流だし氏康の力量は政軍両面に渡る
氏政を軽んじるわけではないが、
氏康死後の北条に対しては何もできなかったもんな、謙信。
まず国人層の謀反や一揆が多すぎるな謙信時代は
足場がそんな状態なのに、越中・飛騨・信濃・関東に前後して緊急展開式に連年出兵してたらそりゃ戦略なんて構築できようもない
それで滅亡まで追い込まれないから強い、ということか
領地を欲してない(盟友の太田資正が居城を北条に奪われても、
替地を与えられずに恨まれる・・・orz)んだから、しょうがないんじゃねの。
信玄や氏康みたく、着々と陣地戦で分国を拡大する謙信には魅力がない。
一気呵成に電撃戦を遂行して、あとは野となれ山となれ・・・グビッ・・・。
謙信「つぎの越山はいつだ?」
直江実綱「太田殿から、火急の出馬要請これあり!」
謙信「またか・・・。来年逝くと伝えよ、グビッ」
実綱「御屋形さま・・・・。頚城の中郡で、謀反らしき怪しい動静、これあり」
謙信「知るか、兵を挙げたら鎮圧するわ。もう、寝るッ」
739 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 00:51:12
過去レスで血染めの感状の話が出たけど
この件で実利を伴う恩賞じゃないってことで謙信の戦い方を批判した武将を怒って討伐したんだよな
それで謙信に不信を覚えた北条が謀反
領土欲が無い、というより単に領土の重大性を理解してなかったんじゃなかろうか
恩賞と軍役、御恩と奉公という流れの武士規範がわかっていれば自分の美学に反してでも土地を取ろうとするはず
>>736 氏政もそうだが特に北関東では氏邦、氏照を中心にした弟らの父譲りの粘り勝ちという感じ。
>>739 同意、経済的な政策はそこそこ頑張ったらしいが肝心の統治の方は微妙だし、
領土欲が無いって言えば聞こえはいいが、領土を増やすからには統治しなければいけないという部分を
放棄して攻めた先を略奪だけして撤収してるのはある意味余計酷い気がする・・・。
>謙信の戦い方を批判した武将を怒って討伐したんだよな
北越軍談??
>自分の美学に反してでも土地を取ろうとするはず
管領様が自領になんかしちゃったら、統制が取れませんがな。少なくとも関東では。
>攻めた先を略奪だけして撤収してるのはある意味余計酷い気がする・・・。
略奪もゆるしてるけど、発給した制札の数も半端じゃないよ。
むしろ、関東への動員は越後の食糧事情だろ。永禄年間は慢性的な凶作だった
とされてるしね。
>>741 制札、つまり略奪禁止の発給は一般的に金銭を払うことで貰えます。
名目を得るための管領を逆に足枷にしてたら馬鹿じゃん
そいういう美学に共感する後世の人間はいいけど、部下達はたまらなかっただろうな
しかも最高の実利だった関東豪族の参集は自分で駄目にしちゃうし
>>741 だから越後の食料、経済事情のために関東を犠牲にしたんでしょ?たまったもんじゃないぞ。
結局制札で金を得るか、それが駄目なら荒らしていくかの二つに一つ。
こんなの統治とは言わない。自分の領土にしてでも民の統治をしていた関東その他の領主と
こんな蛮族を比べるのは失礼。
信長の根斬り(大量虐殺)を蛮族とするか、謙信の乱捕り(敵地略奪)を蛮族とするか
難しい問題だな。ちなみに、信玄は人取り(人身売買・金山奴隷化)だったが、
>自分の領土にしてでも民の統治をしていた
典型的な例だけどな。
この時期、まともなのは北条氏康だけじゃね?
746 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/20(木) 02:00:25
信長の根切りはそれこそ仕方ないんじゃない?
一向一揆はそれこそ惣村レベルで老若男女問わず武器もって襲い掛かってくる
一揆勢を煮殺した前田利家も死後の直前の逸話で「自分は恥じる殺しはしてない」と言っている
後世からはともかく、直接対峙した武将達の偽らざる気持ちじゃないだろうか
もう降伏すると頭を下げてるのに、
小屋ごと焼き殺された連中は、どう感じたかな?
>>746 おまえんとこ、宗派は何なんだ??
仏壇の中に親鸞とか蓮如の絵とかあったら笑うぞ。
弘法大師か天台宗でもな(笑
いいんじゃね?
進めば極楽退けば地獄、でしょ
狂信者は殉教のマゾヒズムに浸れて幸せだったろうよ
750 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/20(木) 15:56:33
じっさい信長の書状なんかみると、吐き気がしてくる。
「(越前)府内は(一向衆徒)の亡骸で足の踏み場もないほどだ(キヒヒ)
貴公(村井定勝)も見に来い。すばらしい眺めだぞ(ゲハハハ)」(天正3年)
記録を読むと、一般の百姓も大量虐殺してるし。
751 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/20(木) 16:26:55
それがゲリラ戦の怖さ
ベトナム戦争従軍者の記録を読むと、普通の民衆に偽装して襲ってくる敵に悩まされたせいで本当は何でもない相手にも過剰反応してしまう心理に陥るケースが多いとある
この場合はそんな戦い方をした一向一揆衆が悪いだろ
まさか織田勢に紳士的に戦って殺されろ、とでも?w
>狂信者は殉教のマゾヒズムに浸れて幸せだったろうよ
信長は血に飢えたサディストでおK?
サディストなら理由なくても殺しまくりだろ
一揆相手の殲滅戦なんだから当たり前
一つには本願寺本軍なんかと違ってそもそも頭が無くてそこだけ叩く事や外交が通じない、という一面もあるな
なんかシナ人臭いのが沸いてるな
便衣兵戦術で民間人を盾にして、いざその民間人の盾が撃たれたら相手を非難するっていうおかしな思考様式
最初に女子供まで戦いにけしかけたのは信長?一向衆?どっちだ?
>織田勢に紳士的に戦って殺されろ、とでも?
紳士的に虐殺(無差別ではなく)できなかったのか、という疑問なんです。
>サディストなら理由なくても殺しまくりだろ
つーか、サディストなら快楽のためだから理由はあるんだろうが、
信長はけっこう理由なく殺しまくってるよ、一般の百姓も惨殺・・・
>本願寺本軍なんかと違ってそもそも頭が無くてそこだけ叩く事や外交が通じない
はて? 謙信は同じ一揆衆と和睦外交を成立させてるよな?
越前一揆は元々織田方に寝返った国人同士の争いに在地の一向衆が蜂起したもの
富樫氏排撃以外本願寺から坊官が派遣されてて宗教領国化していた加賀と一緒にしていいの?
質問!どうやれば一向衆とただの百姓を当時判別させることができたの?
>なんかシナ人臭いのが沸いてるな
↑こういうヤツにかぎって宗派は浄土真宗なんだぜw
759 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/20(木) 16:43:27
そもそも武器を取り上げちゃえば大量虐殺する必要ねぇんじゃね?
長島・越前の大量虐殺には信長の性癖が感じられるな。
いずれにしても、大量虐殺こそ信長の燦然たる武勲
とろとろした中世大名には見られなかった革命性だよ
どうやって武装した相手から武器を取り上げるのさ?
それも戦う気満々の
空論でしょ。柴田が刀狩したのだって越前の一揆衆の抵抗力を根こそぎ奪ってやっと、だし
無差別殺戮の鬼畜信長つーことで、やっぱ本能寺は仏罰ですか?
で、どうやって当時武装が当たり前だった一般百姓と一揆衆を見分けることができたの?
>761
もう降参してるのを大量に殺してるんですけど?
長島の場合だと、投降したのを小屋に押し込めて人間バーベキュー
食べたのかな?
なんかなぁ…
信長の根切り作戦が気に食わない、反吐が出る。こういう主観は結構だよ
でも代案はないし、単なる中傷ばっか
これは手取川論争や松川論争で負けた上杉厨の煽りか
上杉厨はみっともないな
じゃあ根こそぎ抵抗力を削ぎ取る以外にどうやって一向一揆を抑えることができたんだよ?
>>766 謙信は和戦両様で越中・能登・加賀を従えてますが?
実のところ大量虐殺自体に疑問がある
越前といい、伊勢長嶋といい、当時の人口で本当に万単位の虐殺対象がいたのか?
また動員力は一時落ちている形跡はあるものの、両国ともそれぞれの地方のその後の戦役の策源地ないし補給基地として機能している
770 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/20(木) 16:59:02
すくなくとも謙信なら大量虐殺はしなかっただろうし、現実に一向衆の
拠点を和睦以前にも平らげてる。寺社を焼いたらしい伝承はあるものの
皆殺しはしていないよ。
上杉厨の理想は謙信だからな
苦戦する→許す→また背かれて苦戦する
のエンドレスを断ち切った信長が許せないんだろう
信長が人間バーベキューで溜飲をさげたのは史実だろ。
「公記」や「信長書状」の虐殺人数を調べてみれば?
仏罰ならもっと早く落ちるべき
本願寺が退去させられ、武装集団としての一揆衆が死に体になってから落ちても…
>信長が許せないんだろう
人間バーベキューとか婦女子無差別殺戮
が嫌いなだけですよ
父親が一向一揆に破れた上、自分の治世間にも度々一向衆の蜂起を喰らって苦戦している謙信
禁止したけど効果なし、結局それまで殺しあって来た相手と織田が怖くて手を結ぶ
さすが戦術はともかく戦略低劣男
信長はポルポトでつか?
人食い人種でつか?
謙信が厠で死んだのは何の仏罰ですか?
戦って死ぬのが本懐の武士にあるまじき醜態
長尾能景(謙信祖父)も一揆衆にぶち殺されてたっけな
それと講和しちゃったから、父祖の怒りが落ちたんだろう
謙信の死因は「不慮之虫気」(景勝書状)
戦う以前に婦人病だったから、仕方ねんじゃね?
第六天魔王キタ・・・・・!!
人間バーベキューは、イヤだよぉ・・・orz
たしかに無差別殺戮が趣味としか思えん書状も残してるな、信長は
ここのレスで織田信長の一向宗殺戮を容認してる連中が
法事の時に仏前の親鸞・蓮如に手を合わせてるかと思うと、
思わず笑える件について。
狂信者はマジで怖いよ
自分達が正義と信じきってるから妥協もないし、平気で虚言を弄する
オウムという実例が現代日本にもあるだろう
で、暴れ川付近に兵を突っ込ませるという無謀な話を裏付ける根拠マダー?
河童説でもズゴック装備説でもいいから証明してみろよ
河原で人間バーベキューやってたところを
襲撃されたんじゃね?
786 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/20(木) 18:01:24
_ ∩
( ゚∀゚)彡 アッガイ!アッガイ!
⊂彡
>>782 たしかに笑えるが・・・・
江戸時代の戸籍との関係で、寺の大半が浄土真宗だからw