1 :
無名武将@お腹せっぷく :
2006/02/12(日) 22:19:26 前回非常に面白かったので勝手ながら新たに開かせていただきました。 ルールは日常使う言葉の中で武将らしい漢字に列伝をつけて人物記に します。あて字もシモもダメとは言いませんがひねりを利いたものに して下さい。(※ただし、フリガナ必須です) [初代1の良例] -------------------------------------------------- 馬刺(バサシ)???〜228 魏の将。馬超の従兄弟。渭水の戦いで曹操に敗れた後、 曹操軍に降伏、馬超と袂を分かった。 諸葛亮の陳倉攻めの際、赫昭を矢の雨から守って戦死した。 --------------------------------------------------
新しく立てたのか・・・。 大丈夫かな?
3 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/12(日) 22:40:54
4 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/12(日) 22:42:45
四 月斗
5 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/12(日) 22:45:04
6 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/12(日) 23:13:11
起立礼(キリツレイ)208〜282 字は着席(チャクセキ)で、蜀の幕僚。 かなりマナーを重んじる性格で、どんな場所であっても決して入室、退室の際は 斜め45度の礼を行う。 劉備の代の頃は「例え些細なことでも礼儀を重んじることは政治において 大切なことだ」ということでかなり重用されたが、劉禅の代になると あまり相手にされなくなった。 蜀滅亡後は遼西にうつり「礼儀塾」を開講し、礼儀の講師として 余生を送った。
7 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/12(日) 23:32:44
出摩恩(デマオン)生年不明〜249 3世紀中頃にいたと言われる 現在のロシア沿海州南部に住んでいたツングース系民族 「夫餘」族の酋長。 身長1丈(約303p)の大男で、しばしば高句麗、魏、鮮卑の領土に 侵攻、略奪を働いていた。 そして249年、海を渡って倭に侵攻し、今の島根県松江市に上陸するが、 卑弥呼の遠縁である未与呼(みよこ)の軍に阻まれて苦戦、出摩恩は 未与呼の部将である邪威安(じゃいあん)に弩で胸を射られて戦死、 それを機に出摩恩率いる軍団は一気に壊滅された。
>>7 「ジャイアン」が出てきていると言うことはその「デマオン」とか
いうやつはドラえもんにでてきたのか?
9 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/13(月) 00:10:41
>>8 「大長編ドラえもん のび太の魔界大冒険」に出てきた魔界の王の名前だよ。
魔界の星を地球に接触して地球を支配しようとしたがドラえもん達に
阻止されてな、デマオンは唯一の弱点である宇宙にあった自分の心臓を
ジャイアンが投げた光の矢に射抜かれて死んだよ。
ちなみにその「デマオン」という名前は美夜子という少女がドラえもんとのび太
に「一緒に魔界に行って欲しい」と頼んだ際に言っただけで
あとは「魔王」として通したそうだ。
10 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/13(月) 00:14:41
難しいな
>>7 へ
夫餘族について調べたけど夫餘族は厳しい環境であるロシアの沿海州南部に
定住し、その上性格が温厚な人が多いと記載されていたぞ。
それを考慮するとその人物記はあまり理にかなっていないと思うな。
12 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/13(月) 02:58:21
>>11 アドバイスありがとう。気を付けます。
では気を取り直して
出摩宣(デマセン)出生不明〜267
夫餘族の酋長だった出摩恩(
>>7 )の弟で、兄の死後、酋長になった。
兄とは正反対に極めて温厚かつ戦争反対主義者であり、兄が侵略した
高句麗、鮮卑、魏へと直に謝罪をするべく各国を回り、「二度と侵攻
など無礼な行為には出ません」と言って詫びた。
本来ならどの国もここでトップの人間を処罰するか、あるいは隷属
させるか等、夫餘族に圧迫をかける機会があったが、出摩宣の詫びぶりに
高句麗、鮮卑、魏はその様な行為に出ず、むしろ哀れみをかけたほどで
あった。
温厚をモットーにする夫餘族の鏡であった彼は人から「慈悲の宣王」と
言われたという。
13 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/13(月) 03:01:04
「起立礼」(
>>6 )の生没年を変えます。正しくは190〜282です。
10代で幕僚になることは滅多にあり得ませんからね。
@
15 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/13(月) 19:49:30
関藍(カンラン)182〜255 字は柘倫(シャリン)で、蜀の武将。 関羽の遠縁にあたり、常に敵陣の監視を担当していた。 高台に足場を幾つか設置した回転式の見張り台を設置して監視にあたった。 これは敵の錯覚に惑わされないように複数で見張り、しっかりと確認を 取るのが目的で、第二次、第三次北伐及び漢中攻防戦で地味ながら 勝利に導くことに貢献した。 後世、遊園地やデートスポットなどにある観覧車はその名残であるとされている。
16 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/13(月) 20:26:23
>13どーでもいいですよ
18 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/13(月) 21:02:42
>>17 確かに。
でも長生きすることはいいことだと思いますからね。
あとしゃれの利いた武将の名前、エピソードを待っています。
ドシドシ送って下さい。(
>>1 より)
19 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/14(火) 01:37:19
檄烈(ゲキレツ)175〜252 字は芭嘉(バカ)で呉の武将。
予州陳国武平県で、下級官吏の子として生まれた。
初めは孫策に、後に孫権、陸遜に仕え、武勇に全てをかけた戦いを
展開させた。
身長は6尺6寸(約200p)の威丈夫だがかなり明朗な性格で
常に陣中で冗談を言い、その後に「なんちゃってカクカク」をやって兵を
笑わせていたという。
そんな檄烈は何故か乗馬が下手で、数え切れないほどの落馬をし、周囲からは
「あれでも武将なのか?」と疑われていたという。
しかし、219年に関羽を捕らえたときは朱然と潘璋と共に脱出ルートに
待ち伏せしていたが、檄烈は「武功を挙げたい」と思い、配下の兵と共に
猛烈に関羽に突撃した。しかし、檄烈が乗っていた馬が石に蹴つまずいた
ため馬と共に派手に転倒し、後方の兵士らもそれに巻き込まれてしまったが、
関羽はそのアクシデントに呆気にとらてしまい、逃げることを忘れたため、
あっさりと朱然と潘璋に捕まった。
その時朱然は「名前通り激烈バカであったが安易に関羽を捕らえることが
出来たことは檄烈のお陰だった」と言って檄烈のアクシデントを褒め称えた。
以後も戦いで活躍したが228年の石亭の戦いで曹休を追撃した際、曹休の
部将だった司馬連(前スレ
>>906 )が仕掛けたトラップに引っかかってしまい、
転倒したが打ち所が悪かったため右半身不随になり、引退を余儀なくされた。
以降は隠居生活を送っていたが、これまでの自分の人生を綴った自伝「愚の骨頂」
を出し、後世にその名を残した。
20 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/14(火) 01:47:34
↑ 「檄烈」、、、以前俺が作成した新武将の名だ、、、、
>>19 「激烈バカ」かよ!!
めちゃくちゃ懐かしいな!!
よくマガジン買って読んだぞ!!特にドクターKの
パロディが好きだったなー。
22 :
?無名武将@お腹せっぷく :2006/02/14(火) 03:00:05
一堂零 冷越豪 出瀬潔 物星大 の4人がやってきましたよ。
23 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/14(火) 17:48:16
>>20 ありゃ?そうでしたか?
これは失礼いたしました。
すいませんがこの人物記についての評価をお願いできないでしょうか。
返事を待っています。
24 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/14(火) 18:57:30
波伊(パイ)生年不明〜256 吉守(キッシュ)生年不明〜256 佗留斗(タルト)生年不明〜256 ともに現在のロシア沿海州北部にあったという英李按(エイリアン)国の 共同統治の王であり、民族としては黒水靺鞨族(現在のアムール川 [中国名・黒竜江]にいたツングース系の民族でのちに女真族と名乗った) と言われているが詳細は不明。 厳寒の地に嫌気をさして南方の地を征服しようと決意、南蛮の木鹿大王 みたいにアムール虎、熊、鷲などの猛獣を駆使した鬼滅羅亜尼摩 (キメラアニマ)部隊を編成し、夫餘、ゆう(手編に邑)婁の部族を初め、 高句麗、鮮卑、匈奴の一部族である烏桓を次々と撃破し、魏に手の届く ところまで接近したのである。
25 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/14(火) 20:05:40
(
>>24 の続きです)
一方、魏の皇帝曹芳は夫餘族の酋長出摩宣と烏桓王の依頼を受け、
司馬昭を総大将とした征伐軍を編成、また諸葛亮率いる蜀軍が
木鹿大王を撃破したときのように火炎放射装置が付いた人工怪獣を
150体製造し、鬼滅羅亜尼摩軍を遼水という渤海に注ぐ川の上流で
迎え撃った。ちなみにこの地は険しい岩山の谷にあり、かなりの隘路に
なっていたという。
この作戦は見事に的中し、鬼滅羅亜尼摩軍は猛獣が怪獣に恐れをなして
混乱が生じたため苦戦を強いられた。それでも策略が長けた波伊の
指揮により持久戦に持ち込まれたが、司馬昭配下の将だった檄初と梵芭
(この二人については後に記述します)が「神雷爆」という火薬装置を
両方の山の傾斜に仕掛けて爆破、土砂崩れが鬼滅羅亜尼摩軍に襲いかか
った。それにより吉種、佗留斗は土砂に圧殺され、辛うじて逃れた波伊
も司馬昭の軍に捕らえられ、斬首され、鬼滅羅亜尼摩軍は壊滅された。
26 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/14(火) 21:19:04
檄初(ゲキハツ)228〜305 字は健柔(ケンジュウ)で魏の武将、
後に徐州の牧を務めた。
呉の武将である檄烈の遠縁だがお互い認識がなかったという。
火薬系統の武器を駆使することが得意で、遼水の戦い(
>>25 )の時、
梵芭と共に両サイドの山に爆破装置を仕掛けて土砂崩れを起こし、
鬼滅羅亜尼摩軍を撃破した。
それによって彼は「爆炎侯」という謚をさずけられた。
梵芭(ボンバ)230〜309 字は漠談(バクダン)で、魏の武将。
檄初とは仲が良く、遼水の戦いでは檄初と共に爆破作戦で魏軍に勝利を
もたらした。彼は終始司馬昭に仕え、司馬昭の死後は自ら武将を引退して
檄初が統治している徐州に隠居した。
27 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/14(火) 21:58:52
>>22 の方へ
では「奇面組」のキャラのうち一人挙げさせていただきます。
冷越(レイエツ)188〜274 字は玄豪(ゲンゴウ)で魏の武将。
益州の牧・劉璋の部将であった冷苞の遠縁にあたる。
身長は8尺7寸(約254p)の大男で、重さ8貫(約30s)の
「金剛撃砕刀」という大刀を持つが、主に戦いの時は素手で相手を
倒すことが多く、「布呂礼主(プロレス)拳」と言う拳法を駆使した。
222年に起こった合肥の戦いでは張遼の部将として戦い、孫権軍
10万のうち約5000人もの兵をなぎ倒し、孫権軍を震え上がらせた
という。また、遼水の戦いのときは高齢だったが常に
最前線で鬼滅羅亜尼摩軍の侵攻を阻止した。
没後、長年の武功を称え、「金剛烈侯」という謚を授けられた。
>>24 、
>>25 の「パイ」、「キッシュ」、「タルト」も
どこかで聞いたことがある名前だぞ!!何だったっけ?
29 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/15(水) 01:33:26
諸葛烈(ショカツレツ)206〜280 字は爽須(ソース)で呉の幕僚。 同じく幕僚だった諸葛瑾の息子で、諸葛恪の弟にあたる。 政治としての手腕は振るわなかったが、料理が大の得意で、特に小麦粉をまぶして 揚げた豚肉料理を孫権に献上したところ絶賛され、宮廷料理人の総料理長に任命 された。 しかし、魏の征討に失敗した兄の諸葛恪が処罰されると煽りを受けてしまい 宮廷から追い出されてしまった。 その後は故郷に憂いを持ち、様々な料理を追求すべく海を渡ってローマに 向かい、そこでもローマ皇帝の宮廷料理人として務めた。 なお、西洋料理の「カツレツ」は彼の名にちなんだものとされている。
>>29 話が飛躍しすぎだ!! いくら何でもこれはあり得ないだろ!!
面白かったけど。
何か前回のスレッドでも「司馬楽」という人物がエジプトの アレキサンドリアまで逃げたと書かれていたな。 この根拠は一体?
32 :
ゴボウ天 :2006/02/15(水) 03:02:58
>>27 の謚(おくりな)だけど読み方によっては
「ゴーゴーレッツゴー」になると思うのは俺だけかな?
33 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/15(水) 11:23:53
>>31 お答えします。
ただ単に敵の手が及ばぬ場所まで逃げただけであり、
エジプトでローマ帝国の高度な文明に惹かれ、そこで滞在したと
推測できます。
>>19 の者です。
>>20 の方、これまでの関連スレッドを見ましたが私以外に「檄烈」という
人物名が記載されていませんでしたよ。
どこに記載されていたのか教えて下さい。
返事を待っています。
35 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/17(金) 04:24:23
>>28 これは3年前、少女漫画雑誌の「なかよし」に掲載されていた
「東京ミュウミュウ」(原作者:征海未亜)という漫画の敵キャラの名前です。
このノリはあれだな 民明書房を今の歳になっても許せるか、冷静に見すぎてバカジャネオーノ?となるかだな ちなみに漏れは後者なんで、もう来ないようにする(´・ω・)
魯鬢(ロビン) 184〜不明 字は益駆(マスク) 魯粛の遠縁。武芸全般に優れ、素手での戦闘で超人的な強さを誇る。 魯粛の身辺警護を務め、幾度もその窮地を救う。 鉄の仮面と鎧を常に身に纏い、戦場では「狂乱の貴公子」と恐れられるが、 武人として清廉な真剣勝負にこだわり、敵味方から紳士として敬われた。 兵法にも通じ、「魯鬢戦法」という独自の兵法を編み出し「超人博士」と呼ばれた。 魯粛の死後官を辞し、遥か西を目指し放浪の旅に出たという。 統率:79 武力:96 知力:77 政治:54 魅力:84 アイテム:阿乃亜炉之杖(火計成功率100%)
38 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/17(金) 17:26:15
おおっ、初めて他の人が出してくれた!! ありがたい!! ちなみに私はバッファローマンとウルフマンのファンでしたよ。
関電工(カンデンコウ) 字は勤務(キンム) 万年ヒラ社員。本日は有給休暇を使用。
40 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/17(金) 18:47:04
冷克(レイコク)190〜260 字は武比(ムヒ)。魏の武将で、後に
鎮西将軍を務めた。
荊州の牧劉璋配下の部将冷苞の遠縁にあたり、冷越(
>>27 )の従兄弟。
動体視力が相当長けており、剣術でその能力を常に生かしていた。
性格は名前とは裏腹に温厚。初めは張こうに仕えていたが、張こうが戦没
した第4次北伐では木門道で張こうと共に矢の雨にさらされたが、冷克は
その矢の雨を青龍刀一本で切り抜けたという。
公孫淵の反乱では30種類以上のトラップを仕掛けて7万人を陥れ、敵の
戦意を削がせることに成功した。この時ばかりは敵のみならず味方にまで
「冷酷無比の手口だ」と言われた。
鎮西将軍に任命されてからは主に羌、てい族、果ては小月氏や烏孫といった
異民族の監視に厳しくあたった。その為か異民族の侵攻は全く見あたら
なかったという。
また、冷克は大の酒豪であり、1日に10リットル以上も酒を飲んでいたが、
それが祟って260年の夏、急性肝不全で亡くなった。
41 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/17(金) 19:36:43
阿都論(アートロン)186〜275 ギリシャ出身の画家。 身長は8尺2寸(約248p)の大男でよく武将と間違われていた。 赤色をベースに情熱的な絵を描くことを好み、いつも「パッション、パッシ ョン!!」と叫びながら描いていたという。完成した絵画はピカソ並みの 抽象的な印象のものだったが、当時の人たちにとっては受け入れてもらえな かったため、改めて絵画の魅力を追求すべく流浪の旅に出た。 そして223年に呉に来航、首都の建業を見たとき、阿都論は「非常に美しい 町並みだ!!ギリシャよりも遙かに文明が進んでいるような感覚にとらわれた」 と言い、このときから自分の名前を漢字に変えて名乗ったという。 そこでも自前の絵画を披露したもののやはり人々の反応はいまいちだったが 呉の皇帝孫権が「炎のごとき力強さが伝わってくる」と言って褒め称えた。 以来、阿都論は呉の宮廷画家として手腕を振るうようになり、「情熱の都」 「赤壁の炎」「世界の入口」等の絵画を作成し、「情熱の画家」という異名を 持つようになった。 以降も皇帝が孫亮、孫休と変わっても活躍したが、愚帝の孫晧になると命の 危機を感じたか行方をくらまして青州に移り、そこで人生最後の絵画である 「田園」を描いて89年の人生に幕を閉じた。ちなみにこの絵画では一切赤を 使うことはなく、絵も自然の風景画だったという。
42 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/18(土) 02:14:15
冷更門(レイザラモン) 190〜234 字は住谷(ジュウコク)。 劉璋配下冷苞の従弟(冷苞は関係を否定)。身の丈六尺一寸。寝技を得意とする偉丈夫。 益州各地で人助けを行っていたところ、たまたま通りかかった孔明に一目惚れし無理矢理仕える。 女に興味なく、男を好む性癖の持ち主で、敵将をも戦場で追いかけまわした。 腰を前後に激しく振動させ、敵の戦意を喪失する戦法を得意とし、 街亭の戦いでは山頂で鬼神のごとく腰を振りつづけ敵将張郃から避けられた。 その戦闘の凄まじさから覇亜土迎(ハアドゲイ)と呼ばれ、敵から(味方からも)恐れられた。 北伐中も孔明につきまとい、無理言って一族に加えてもらい、諸葛夫(ショカツフゥー!)を名乗る。 孔明が五丈原で病死した際、孔明の人形(住谷の自作)を抱えて腰を振りながら単騎で敵陣に突入。 浮き足立った魏軍を蜀軍は散々に打ち破り、司馬懿は撤退を余儀なくされる。 しかし住谷は腰の振りすぎで憤死した。故事成語の陰の立役者。叡智爺(エイチジイ)と諡される。
43 :
ゴボウ天 :2006/02/18(土) 02:24:37
>>41 なんかいいね。最後の作品が普通の風景画と言うところが
しみじみと思えてきたよ。
44 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/18(土) 02:28:42
>>42 ハハハハハ!! モデルの雰囲気が非常に出ていてGOOD!!
面白いです。フォーーー!!
「冒険王ビィト」の敵キャラと「ハードゲイ」か。 乙でいいね。
46 :
42 :2006/02/18(土) 08:09:33
冷更門エピソード追加 漢中攻防戦の際、魏の大軍を前に単騎尻を突き出し「抜痴来(バッチコーイ)!」と叫び 劉備に「住谷は一身これ性欲なり」と称え(?)られた。 呉征伐戦ではいつもの衣装を白に新調し、張飛を喜ばせた。 趙雲は「お前はものすごい速さで間違った方向へ進んでいる」と忠告したが、 「それは誉め言葉ですかあ〜!」と喜び誇ったという。 南征にも参加し、多大な戦果を挙げた。特に南蛮兵は彼の姿を見ただけで泣き叫び後退したという。 股間を顔面に押し付ける拷問(刑)を考案し、賞罰を重んじる孔明から重用(?)される。(馬謖を処断したのも実はこの刑)
47 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/18(土) 23:04:13
姉歯(シシ)生没年不明 字は戯奏(ギソウ)。黄巾賊の将、黄巾賊が蜂起する以前、各地に 砦の設計を任される。しかしある日、天気は大荒れになり、 地響きが起こる。そして姉歯の設計した砦は殆ど崩壊してしまう。 残った砦も黄巾の乱の際、官軍の攻城兵器でいとも簡単に破壊されてしまう。 これを聞いた張角は激怒し姉歯を処刑しようとするが、姉歯は危険を 察知し黄巾賊を脱退する。その後しばらくの間消息を絶つが後に魏へ士官し、 数々の城や砦を設計したとされる。
班虞(ハング)193〜272 字は泰植(タイショク)で、魏の武将。
身長は6尺7寸(約203p)、体重は68貫(約255s)の巨漢だが以外にも
身軽だったという。
後漢の武将であり、西域諸国の鎮圧に活躍した班超の一族。
冷越(
>>27 )に仕え、合肥の戦いでは巨体で敵を吹きとばすなどのパワーファイトで
戦い、、遼水の戦い(
>>25 )では高齢ながら鬼滅羅亜尼摩軍の猛獣を片っ端から倒しに
かかるなどで活躍、周りからは「動く山脈」と恐れられた。
また彼はかなりの大食漢で、豚2頭を平らげたことがあるという。
その後、西晋の時代になると彼は冀州の牧に任命され、主に牧畜の発展に
いそしんだ。
彼のモデルは阿都論(
>>41 )同様、「冒険王ビィト」の敵キャラです。
49 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/19(日) 17:49:50
大空(ダイクウ) 171〜不明 字は翼(ヨク) 交易商の父から伝聞した蹴鞠に、幼き頃より憧れを抱く。 友人少なく、革を縫い合わせて作った球を蹴ってばかりいたので、周囲からは好奇の目で見られた。 父の仕事の関係で南陽に移住した際、人の頭大の球体を蹴り飛ばし、 その威力で人を殺し家屋を破壊する修哲(シュウテツ)という賊がはびこっていた。 人々はその凄惨なありさまを「殺過(サッカー)」と呼び怯えた。 事態を憂いた村の若者、石崎(セキサキ)の賊討伐隊に参加した翼は才能を発揮し、 賊の頭で南陽一の使い手と名高い若林(ジャクリン)を一騎討ちで負かす。 若林・石崎らとともに新たな集団を作りその長となると、黄巾討伐の義兵を挙げる。 その戦闘力は凄まじく、黄巾から「南葛(ナンカツ、南陽のクズの意)」と呼ばれ恐れられる。 人々は尊敬の意をこめて彼を脚夫天(キャプテン)翼と呼んだ。 球を用いた多彩な技を魯辺人(ロベルト)という仙人から伝授されたという。 中でも最も得意としたのは、敵軍の頭上を超え、敵将に球を命中させる、 怒羅威武蹴斗(ドライブシュート)という技であった。
50 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/19(日) 18:42:43
いつから一人舞台の自画自賛スレになったのか
51 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/19(日) 19:21:52
>>50 一人じゃないですよ。
ちゃんと出している人もいますよ。
52 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/20(月) 15:16:20
当て字とか多くない?? 日常使う言葉の中で武将らしい漢字だぜ?
53 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/20(月) 15:26:44
名・勤務(キンム) 字・状況(ジョウキョウ) 171〜? 蜀で「忠実な仕事の神の落とし子」と言われた男。 今でいう雑務をやっていた勤務だが、その仕事っぷりは忠実で正確で いたる所まで目をやれる才を持っていた。 「勤務に頼めば事は完璧だ」と劉備は慕っていた。
54 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/20(月) 15:48:24
名は次長(ジチョウ) 字は課長(カチョウ) 生没年不明 魏で踊り子ならぬ、笑い子として使えた。 曹操は「これほどまでにおもしろい笑い子がいるだろうか」と、毎晩のように次長課長の笑い演技を見ていたという。 だが、司馬懿は次長課長の事を良く思っていなかった。 司馬懿が次長課長の大技「三流ホスト」で使う楽器、タンバリンを取り上げた。でも次長課長は怒りを抑え、誰も真似できないアホヅラで「お前に叩かせるタンバリンはねぇ!」と、笑いで対処しようとするが、 司馬懿はそのアホヅラでバカにされたと思い、激怒し、次長課長を翌日曹操には内緒で魏を追放した。 その後、蜀で「お前に叩かせるタンバリンはねぇ!」と聞こえたと趙雲は言っていたという。
唐揚(トウヨウ)182-? 魏の武将。 有能なのだが、いかんせんやることが大雑把であるために曹操は使い方に手をこまねいていた。 そこへ補佐官に生姜(キキョウ)を付けてやると二人は阿吽の呼吸で敵陣営を倒していった。 それを見た曹操は「唐揚に生姜を付けるとこれほどまでに働くものなのか」と絶賛した。 後に醤油(ショウユ)も唐揚のサポートに加わり、ほどよい戦力と化したのである。 現代にも伝わる生姜付けの唐揚のルーツはこれかもしれない。
爽健(ソウケン)、字を美茶(ミサ)と言う。 詩人なのだが、甲羅売りの娘としか出生が判っていない。 女性ながら所かまわず辺りをふらふらしながら 「鳩麦、玄米、月見草〜」と言う訳の判らない詞をたびたび連呼していたが、 その声がものすごく人々の心を和ませたため宮廷に呼ばれ、歌人として活躍する。
何この民明書房スレww しかもありそうだから笑えるww
58 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/20(月) 16:41:50
>>52 あて字も許可します。
これが私のやり方です。
もし元が分からなかったら質問をお寄せ下さい。
きっちりとお答えいたします。
(
>>1 より)
59 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/20(月) 17:47:37
武田(ぶでん)?−? ジュンイクの下で主に内政を担当していた。温厚で仁義に厚く、説得や交渉がうまかった。 そんなところが評価され内密に、当時、張ショウの下にいたカクに面会し説得。 その後、カクが張ショウを説得し帰順した。 武田はそのまま南陽に駐屯し内政を担当。 そして司馬氣の噂を聞き、官を辞して入門。その時ジュンイクは自ら説得に当たったが、 武田の意思は固かった。
60 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/20(月) 18:45:58
関門(カンモン)199〜273 字は突破(トッパ)。 蜀の武将で、関羽の遠縁にあたる関定の甥にあたる。 血気盛んで、その上拳法、剣術が得意とし、攻撃的な戦法に長けていた。 蜀の北伐では陳倉攻め、武都、陰平攻略、漢中攻め、祁山争奪戦では いずれも魏の軍を先頭で攻め込んで撃破し、勝利に導いた。 諸葛亮は「魏という天下を阻む関門を破るには関門が必要」と言い、 関門を褒め称えた。 以後は荊州・武陵の太守を務め、堅固な守りを展開した。 蜀滅亡後は司馬炎から荊州の牧に任命され、人生を全うした。
61 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/20(月) 19:50:34
荀済(ジュンサイ)173〜250字は吸物(キュウブツ)。 魏の参謀で荀ケの実弟。荀ケほどの才能はなかったが、 農業についての知識が豊富で、兵糧になるものを片っ端から調べ、 戦になれば常に十分な兵糧を満載させることに貢献した。 官渡では曹操軍が袁紹軍の兵糧を焼き払ったと言われているが、 荀済はその兵糧のうちの半分を兵を追い払った後に奪取し、 自軍の兵糧を確保することに成功した。 荀ケの没後も引き続き曹操に仕え、晩年は北海公に封じられ、 主に沼地に生育する植物、特に蓴菜(ジュンサイ)の生産に取り組んだ。 没後は蓴菜侯と謚された。
62 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/20(月) 21:33:30
確かに当て字では分かりづらいな でも風情は出ていていいんじゃないか? 俺としては分かりづらいものだけネタの元を ばらした方がいいと思うがね。
63 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/21(火) 01:16:39
当て字でもないし、普段使っている言葉でもないヤツもあるよね… そんなのただの妄想じゃん!!!
64 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/21(火) 01:25:46
>>62 へ
特に
>>7 と
>>12 のことか?
ちゃんと注釈入れとるだろうが!!
>>12 の場合は「(下手な行為には)出ません」という意味だというのは
わかったぞ。
王断(オウダン) 生没年不詳 字を歩道(ホドウ)。魏で三公に昇った王朗の庶子。 彼は軍才に富んでいたが常に慎重で、左右の確認を怠らなかったという。 また、彼は武官の徐行(ジョコウ)と仲が良く、 「私の側では徐行があって然るべき」と常々言っていた。 徐行と共に数々の功をあげるものの、飲酒(インシュ。字を運転)の讒言により処刑されてしまう。 その際、王断と親交の深かった清廉潔白な気骨の士ある、信号(シンゴウ)という人物は、 王断を見て顔を青くし、飲酒に対しては顔を赤くして怒ったという。 このことから、今日においては王断は無実であり、 飲酒に比が有るという考えが一般的である。
66 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/21(火) 16:59:04
>>65 なかなかの力作で人物の特徴を捉えていると思います。
私事ですが、このコーナーは広告の制作やコピーライターの職に就いている人、
あるいはそれを目指している人にとっては何を書けばいいのか想像を鍛えるのに
役に立つものだと思いますが、どうでしょうか?
67 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/21(火) 18:31:10
坦担究久(タンタンキュウキュウ)194〜275 字は教授(キョウジュ)。
南匈奴の部族・烏桓の王族の出で、後に五胡十六国時代、大夏を建国した赫連勃勃
とは同族と言われている。医学、科学、技工の知識は人よりずば抜けていた。
容貌は眼鏡(がんきょう)という視力矯正道具を掛け、相当痩せこけて薄気味
悪かったが、性格は明朗で、以外に社交的だった。ただ、研究や実験に没頭すると
周りを省みないことが玉にきずだった。
烏桓が鬼滅羅亜尼摩軍(
>>24 を参照)に大敗した時、烏桓王・頓陳監
(トンチンカン)は坦担究久を魏に派遣し、和平と鬼滅羅亜尼摩軍の討伐を
条件に坦担究久を配下として迎えて欲しいと依頼した。当初、魏の皇帝曹芳は
坦担究久を怪しんでいたが、幕僚の左伊、丸尾(この二人については後で記述
します)は「陛下、疑う余地などありませんぞ。ズバリ、いずれ蛮族がこの魏に
迫り、この地を支配することがあるでしょう。そうなる前にもとりあえず坦担究久
殿を迎えた方が得策だと思われます」と進言したため、坦担究久を配下として
迎えることにした。結果、坦担究久は鬼滅羅亜尼摩軍を倒すべく人工怪獣を
製造し、遼水の戦い(
>>25 )で魏軍を勝利に導いた。曹芳はその貢献を称え、彼を
幕僚として迎え、更に并州・雁門公に任命した。
それ以降、坦担究久は農業促進の為の道具を発案、例えば、車輪に無数の鋤を取り付け、自転車の
ようにペダルを漕いで耕す耕耘機を開発したが、「漕ぐには人間数人分の力が必要とする」という
ことで失敗に終わった。が、それでもめげず、81歳に亡くなるまで生涯をあらゆる研究に捧げた。
この人物のモデルはあまり分からないと思うので公表します。
彼のモデルはアニメ「灼眼のシャナ」に出てくる「教授」と呼ばれている
敵キャラです。
本当の名前は「探耽求究」(「ダンタリオン」とも言う)と言い、かなり
危ないハイテンションのマッドサイエンティストとして現在登場しています。
68 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/21(火) 18:47:41
頓陳監(トンチンカン)210〜280頃 字は不明。
烏桓の王で破竹の勢いで侵攻する鬼滅羅亜尼摩軍に王自ら出陣するも大敗、
命からがら逃げ帰った。その後、坦担究久(
>>67 )を魏に派遣し、鬼滅羅
亜尼摩軍の討伐を依頼した。以降は烏桓をうまくまとめ、平和な人生を送った。
性格はかなりおっちょこちょいだったという。
69 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/21(火) 20:54:28
左伊(サイ)176〜261 字は機巧(キコウ)。
魏の幕僚で、青州・臨し(現・山東省し博市)のからくり人形劇の役者の
子として生まれ、24歳まで家業を継ぎ、曹操から声を掛けられてからは
曹操に仕えた。
戦などの争いごとを好まぬ温厚な人柄でよく慕われ、曹操も一目置いていた。
政務では農業などを重点的に力を入れていたが、それ以上に人々に役立つ、
人々を楽しませるからくりを作る事に生き甲斐を感じていたという。
遼水の戦い(
>>25 )以前は皇帝曹芳に丸尾と共に坦担究久(
>>67 )を迎え
入れることを進言した。
坦担究久は左伊のからくりの才能を見いだし、左伊に怪獣の製造の補助を頼んだ。
しかし左伊はからくりを戦いの道具にすることには抵抗を感じ、首を縦に振る
ことはなかなか出来なかった。すると坦担究久は「このまま何もせずにいると
それこそ大きな被害を出すことになりますぞ!!」といって説得、ようやく
左伊は協力することに踏み切り、獣油を燃料とした火炎放射器をつけた150体
もの怪獣を製造した。
その後は并州の牧を務め、坦担究久と共に様々な道具の開発に取り組んでは
外で実験を繰り返していたため、人から「からくり先生」と呼ばれた。
この人物のモデルはアニメの「機巧奇傳ヒヲウ戦記」に出てきた、主人公
ヒヲウの兄である「サイ」というキャラです。
70 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/21(火) 22:35:10
丸尾(ガンビ)182〜265 字は末雄(マツユウ)。
魏の幕僚。後漢の都洛陽の上流貴族丸家で生まれた。
幼少の頃からあらゆる勉学に励み、その博学ぶりは曹操に「郭嘉の再来だ」
と言わしめたくらいだったという。
性格は生真面目で正義感が強く、ちょっとしたからかいでも本気になって
怒った事が度々あり、また口癖で「ズバリ〜でしょう」とよく言っていた
こともあった。
初めは曹仁に仕え、関羽の樊城攻めの時は兵糧を水につけたら食べられる
干し飯を100石、干した肉や魚、野菜を400s蓄えておくという兵糧
攻め防止の策を行い、難を切り抜けることに成功した。
遼水の戦い(
>>25 )以前は左伊と共に坦担究久(
>>67 )を迎え入れること
を進言し、またこの戦いの攻略を構成して魏軍を勝利に導いた。
その後は并州・朔方公に封じられ、左伊、坦担究久と共に農業促進政策を
執り、作物収穫量の増加に貢献した。
この人物のモデルはご存じ「ちびまる子ちゃん」の丸尾くんです。
ちなみに「丸尾くん」、「サイ」、「教授」の役は共に飛田展男さんです。
曹然(ソウネン)185〜? 字は子栄(シエイ) 曹丕の従兄弟、呉の学者で僧侶。 幼い頃から平和を愛していた為、曹操の跡継ぎ候補から外れていた。 従軍経験も皆無で、儒教思想を若者に教えていたが曹丕が皇帝に即位すると疎まれる。 元々争いを嫌う曹然は呉に逃亡、また曹姓であるにも関わらず寛容に受け入れた孫権に感服する。 軍事面での大きな功績はないものの242年に徳烈将軍(雑号将軍)になる等、異例の大出世を果たす。 政治の場においては太子太傅の諸葛恪の補佐をした。また諸葛恪死後は抹殺を恐れ交州に逃亡する。 交州に逃げた後、耳にしていた仏教の教えを学び、これに感嘆。早速民衆に教えを広めた。 また戦争の儚さ、争いの醜さを説き民衆は血潮に塗れさせてはならない。と熱弁。信者を増やした。 没年は不明だが、数千、数万の民衆に惜しまれて熱病で没したという。 後の呉国討伐では信者らが長江を三途の川と定め、それを渡り曹然の許に向かったと言う。 晋軍は労せずこれらのほとんどを斬り捨てた一方、呉の結束力を内心恐れたという。 後、日本の鎌倉時代の僧侶で浄土宗の開祖である法然は曹然に強い関心を抱いており 自らの房号に然の字を入れたというが詳細は不明である。
72 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/23(木) 02:47:01
中旬(チュウジュン) 生没年不明 呉・火計 工作員 ありとあらゆる戦にて火を放った男。 陸遜に「中旬がいれば私の心にまで火が灯る」と言わしめた。
74 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/23(木) 17:28:14
まあ単純に「ここのスレッドを読んで面白い!! 是非参加してみたい」と思った 方々の為に過去のサイトを読んで更に参考にしていただきたく思い、まとめサイトを 立てました。
質問の答えになってない
76 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/23(木) 18:36:45
ちょっと待って下さい。
では一体どういうことなのかをもう少しわかりやすく言ってくれませんか?
まとめサイトとは
>>5 のことじゃないのですか?
77 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/23(木) 19:03:14
78 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/23(木) 19:29:04
>1 いいか?おまえしか武将だしてないんだぞ、1かってにしろよ
79 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/23(木) 20:28:13
>>1 の者です。
確かに私はこのスレッドで多くの武将を出していますが、
他の方も力作を出して下さっているので私だけ出している、という訳では
ありません。
それに私が出すときはもう少し詳しく記載するようにしているうえ、音読みで
しか読めない言葉、また当て字などでややこしい場合の対応策として説明を
入れるように心がけています。
ちなみに前スレッドで出てきた司馬一族などでは
司馬連→「縛れん」、字の「石保」(シャクホウ)は「解放」という意味の「釈放」
司馬桓→関西弁で「殴らない、叩かない」と言う意味の「しばかん」、字の「和平」
は「平和」と言う意味または「仲直り」と言う意味の「和平」
司馬欒→「縛らん」、字の「快法」(カイホウ)は「解放」
司馬健→関西弁で「殴れない、叩けない」と言う意味の「しばけん」、字の「仲直」
は「仲直り」
袁丈→「炎上」、字の「瀑初」は「爆発」
劉朽→「琉球」、字の「斯佐」は「シーサー」
等々、また、ここのスレッドでは
檄初→「激しく爆発すると言う意味」の「激発」、字の「健柔」は「拳銃」
梵芭→英語で「爆発」と言う意味の「ボンバー(bomber)」、字の
「漠談」は「爆弾」
と、ちゃんと意味を持って作っているのでオリジナルキャラとはなりません。
80 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/23(木) 21:05:13
>>80 追記です。
[二]の方で出てきた
袁積凱は「遠赤外線」の「遠赤外」で、字の「鈴内」は「ガス器具メーカー」の
「リンナイ」から取りました。
81 :
兵卒 :2006/02/23(木) 21:53:33
楊生(ヨウジョウ)字は鞍静(アンセイ)生没不明 五斗米道(黄巾党のようなもの。党首は張魯。張角の一族とされる)の信者 名医華陀に匹敵するほど医学に通じ、信者からの信頼も厚い その腕前から後に張衛(張魯の弟)に軍医として登用される 死の間際まで患者を看病し続けた 後、宋の時代における梁山泊の名医安道全(水滸伝参照)は彼を手本としていたらしい・・・
82 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/24(金) 03:40:31
桓杯(カンパイ)175〜268 字は空頼(クウライ)で、呉の武将。 孫堅の部下だった桓階の従兄弟と言われる。容貌は色白で頭が切れた顔つきをしており、 性格は物事を冷静に見つめるなどをして冷徹だが温厚な面を持ち、周りから常に慕われて いた。 身長が7尺8寸(約236p)、体重が25貫(約94s)もあった長身痩躯だった。 幼い頃から学問に励むことを好み、特に科学的なことに関しては「桓杯の右に出る者 はいない」と言われるくらい精通していた。また、天気を予想することをも得意と していた。 従兄弟が孫堅に仕えていたこともあって息子も孫堅の息子である孫策に仕え、先陣を よく切り、また孫策の危機を自ら身を投げ出す形で守ることも度々あったという。 また、桓杯は良からぬ事をキャッチすることにも長けていたらしく、例えば孫策が 仕えていた袁術を当初からかなり警戒していた。桓杯は「いずれ近いうち孫策と袁術は 決裂するような気がする」と思っていたらしく、事実、その通り後に孫堅が持っていた 玉璽と借りた兵の再交換の時に袁術がうやむやにしたため、両者牽制し合うことに なったことを見事に的中させたのである。 孫策没後は引き続き孫権に仕え、赤壁の戦いでは風の向きを見ていつ出陣すれば いいのかを推定したり、濡須口の戦いでは天候の状態を見て呉軍の戦艦を安全な 場所へ移動させて魏軍が雷雨による川の氾濫で自滅するのを察知するなど得意な 天候の予想で呉の勝利に導くことがあった。また、司馬懿率いる魏軍に大敗した襄陽の 戦いでは狭い林道にあらかじめ仕掛けておいた数カ所の落石トラップを発動させ、諸葛瑾 率いる呉軍を最大限の無事で逃がすなど、負け戦でもせめてもの抵抗をし、かつ軍を大事に することを忘れなかったという。 後に桓杯は揚州・呉郡の太守に任命され、水の多い地域を生かし、干拓、水田開発、海上交通の 発展などに務めた。 268年に逝去、長年の功績を称え「天空侯」と謚を与えられた。
83 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/24(金) 03:41:36
>>82 の追記です。
彼のモデルは少女漫画「なかよし」に連載され、アニメにもなった「東京ミュウミュウ」に
出てきた「パイ」という敵キャラクターで、「パイ」はデータ収集した上で「東京ミュウミュウ」
という正義のヒロインに対しての攻撃を実行するか、その作戦を同じ敵キャラの「キッシュ」、
「タルト」に任せることを度々やっていました。また、言葉的には「乾杯」に引っかけ、字は
「パイ」の「空雷扇」という得意技の名前から引用いたしました。
なお、(
>>24 、
>>25 )に出てきた人物とは無関係ですのであしからず。
長くなって申し訳ありません。以上です。
84 :
兵卒 :2006/02/24(金) 17:56:20
諸葛計(ショカツケイ)字は交錯(コウサク) 蜀の臣下。諸葛亮の遠縁。三顧の礼の後、諸葛亮に抜粋される。主に工作を担当した 長坂では、趙雲が敵中を単騎で駆けている間、趙雲の現在地の情報を混乱させ、 趙雲への圧力を和らげた。加えて、曹操軍は混乱の原因を正確に把握できなかった 赤壁では、事前に曹操軍に偽の降伏。蔡冒暗殺後、蔡和・蔡仲の埋伏を進言 二人と共に呉へ向かい、連合軍の火計成功後、亮と共に呉を抜ける。 しかし、夷陵の戦いでは、朱然の火計阻止に全力を注ぐものの、呉の密偵に見つかり 一矢で落命。蜀は大敗した。
85 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/24(金) 19:22:32
檀釈(ダンシャク)202〜281 字は和宏(ワコウ)。
156年にモンゴル高原を統一した檀石槐の又甥(甥の息子)と言われる。
性格ははっきり言って秘密事項を度々漏洩させるなどをして間抜けだが、温厚で
憎めず、また策略を練ることに長けていた。
口癖があり、負け戦などで退却するときはいつも「サヨナラ三角、またくる
バハハ〜イ」と言っていたという。
和平策のため、匈奴の烏桓の王族に仕えていたが、烏桓軍が鬼滅羅亜尼摩軍
(
>>24 、
>>25 を参照)に敗北した事をきっかけに烏桓王・頓陳監(
>>68 )の命に
より坦担究久(
>>67 )と共に魏に仕えることになり、鬼滅羅亜尼摩軍討伐メンバーの
参謀役として敵を遼水の上流に誘い込んで身動きを取りにくくすることに成功した。
それ以降、魏には欠かせない謀臣として活躍、さらにその後は并州・五原の太守に任命
され、北方との交流と酪農の推進に努めた。
この人物のモデルはアニメ「こてんこてんこ」に出てくる「だんしゃく」という
キャラクターで、実際は更に間抜けで面白いです。文中に出てきた口癖も
実際に言っていますが、他にも「うれし、はずかし〜」などを言うこともあります。
また、字の「和宏」はこの「だんしゃく」の声を担当している中多和宏さんから
引用しました。
86 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/24(金) 19:29:09
>>84 この「諸葛計」という人物のモデルは誰ですか?
87 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/24(金) 19:32:08
>>85 の追記です。
檀石槐と言う人物は鮮卑族の王です。
なんか民明書房くさいなw
89 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/24(金) 22:21:25
>>87 の更に追記です。
(知っていると思いますが)檀石槐は実際に存在した人物です。
90 :
兵卒 :2006/02/26(日) 00:13:14
諸葛計にモデルはいません はじめ、敵国の諸活動を停止させるという意味で、 諸葛萄 綴嗣 を考えていたのですが、ストーリーがなかなか思い浮かばなかったので、 こうなっただけです
91 :
兵卒 :2006/02/26(日) 00:22:41
37へ
92 :
兵卒 :2006/02/26(日) 00:40:05
馬羅(バラ)駒宇陀(クウダ) 魯鬢の弟子 涼州出身だが、求める主を求めて諸国を旅し、魯鬢と出会う。常に魯鬢と共に行動した 鞭を武器とし、彼の一振りは敵を落命させるほどの威力を誇った 魯鬢が官を辞し、西への旅にも追従した
>>88 「民明書房」か・・・。その他にも確か「日本曙蓬莱武術協会」というのも
出てきたな。あれの場合は理事長(竹之元秀路氏)と総師範代(盛田慎之介氏)
の写真が入っていたな。
>>84 力作である事は十分に認めます。
しかし前スレッド考案者の方が申していた「オリジナル等面白くないからやめてくれ。
そのまま、というところに妙味があるのだ」という暗黙のルールをどうか守って
下さい。私としても言いたくはないのですが、確かに日常の言葉を使うことによって
何か「おもむき」を感じるのです。そのほか(当て字、漢字すり替え)は認めます。
ただ、その時はどうかそのモデルとなった人物、キャラクター、言葉を発表して
下さい。
どうか宜しくお願いします。(
>>1 より)
>>92 分かり易くてなかなかの力作だと思います。
では、私も。
杜黒(トコク)170〜263 字は教泰(キョウダイ)で魏の武将、後に
征東将軍を務めた。幽州・遼西出身。
西晋の将軍として活躍し、「破竹の勢い」という言葉の生みの親で名高い杜預の
大伯父にあたる。身長1丈3寸(約312p)、体重70貫(約262.5s)と
いう常人を遙かに越えた体格の持ち主で、性格は冷静沈着で正義感や人への思いやり
がかなり強かった。幼少の頃から数々の武術を修得し、17歳の時、村で暴れ回って
いた虎を鉄拳一撃で沈めたという逸話がある。
23歳の時に曹操に、続いて司馬懿、司馬昭と実力のある者に仕えていた。
定陶、鉅野、下丕βでは呂布の軍を単独で先陣切って撃破し、赤壁の戦いでは花井
(前スレ
>>970 )と共に追走する劉備軍に徹底抗戦、「埒があかない」と思ったのか
恫喝を一声させて退散させたり、合肥では冷越(
>>27 )と共に先鋒で孫権軍10万
に突入して棍棒で5000人倒し、遼水の戦い(
>>24 、
>>25 )でも高齢ながら冷越と
共に鬼滅羅亜尼摩軍(
>>24 を参照)の猛獣部隊を打ちのめすなど、枚挙に暇がない
ほど戦では大いに猛威を奮った。曹操は杜黒のことについて「あの男は魑魅魍魎を
も打ち砕くことが出来る頼もしい男だ」と高く評価した。
司馬昭の時代に征東将軍の他にも故郷の幽州・遼西の太守に任命され、北方の都市開発
にあたった。
263年に逝去。没後は「嵐剛侯」(「嵐の如く強き者」という意味です)と謚を
与えられた。
モデルは「幽遊白書」の「戸愚呂兄弟」の「弟」の方です。字では「きょうだい」と
書かれていますが私は「戸愚呂弟」のファンなので体格やエピソードでは「弟」を
強調させました。
96 :
兵卒 :2006/02/27(月) 19:58:14
>>94 わかりました。以後気をつけます
前スレッドにアクセスできないこと、2ch初めてということも含め、
その他も指摘してもらうと有難いです
侘緒(タオ)杯牌(パイパイ)
張繍配下の将。名弓手。
曹操との戦いの際、弓隊を指揮し、
典緯(糸は無し)の奮戦に狙いを定め、弓隊を展開。
「ドドン・・・パー!!」という合図のもとに射撃させ、見事典緯を討ち取った。
後、曹操にその腕前を評価され、登用。
馬超との戦いのとき、曹操の護身・敵将の射殺を任され、1.5倍の大きさの弓・2倍の長さの矢で、馬休を
「スーパードドンパー!!」
で射た。これにより、彼はドドンパの異名で恐れられた。
また、料理も上手く、曹操のために「天津飯」「餃子」を創作。絶賛された。
この二品は以後も中華料理として親しまれているのは言うまでもない・・・
モデルはドラゴンボールのタオパイパイ達です。
97 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/27(月) 23:02:14
花王 (カオウ) 後漢末期の王族。 大変な潔癖性で、領内を巡視し、汚れた衣服を着ている領民を見つけ次第首を刎ねたため、 領民はこぞって洗濯に励んだという。 また、大変な女好きで、後宮では数千人の美女が妍を競ったため、 この時代に女性の化粧法が飛躍的に発達したという。
98 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/02/28(火) 00:46:46
>>96 、
>>97 力作ありがとうございます。モデルの特徴が大いに出ていて面白かったです。
タオパイパイですが私も好きでしたよ。敵キャラだけど面白いうえ
憎めませんからね。サイボーグになってまで孫悟空に挑んだところには
感心しましたよ。
99 :
兵卒 :2006/02/28(火) 21:46:59
綿窃(メンセツ)弛虔(シケン)
魏(曹操時代からも)の登用面接官。門地に囚われず、才あるものを登用した。
「私には戦や内政といった能力はない。しかし、人を見る目はある。
乱世の姦雄よ。私を使いこなしてみないか?」と発言。曹操に気に入られる。
王断・徐行・信号(
>>65 )や、唐揚(
>>55 )の補佐として生姜・醤油(
>>55 同じく)
などを、
儘斉(ジンザイ)菩衆(ボシュウ)
が毎年連れてくる志願者の中から選抜した。
しかし、儘斉と飲酒(
>>65 )について意見が対立。そのストレスの中、病死した。
>>99 元になった言葉を100%生かしており、立派な人物記になっています。
典凱(テンガイ)193〜269 字は胡獨(コドク)。
魏の武将で、「悪来」の異名で知られる典韋、「投げの豪傑」と言われた典仁
(前スレ
>>979 )の甥。性格は頑固一徹だが反面、義理人情に厚い。
実力は地味ながら蜀の第二次北伐の陳倉攻防戦で王双を斬った魏延を追い払うなど
2人の伯父に負けず劣らずあったが、「女性を男のいざこざに巻き込むわけ
にはいかん!!」と決め通していたため、名前通り天涯孤独の身で通したという。
後に幽州・范陽侯に任命されている。
101 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/03/01(水) 01:41:21
100番を無事突破する事が出来ました。
これもひとえに皆さんのおかげです。これからもこのコーナーを
宜しくお願いいたします。(
>>1 より)
102 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/03/01(水) 03:53:34
>>72 この「中旬」という人物の元になったもの(またはキャラ)は何なのでしょうか?
>>81 名前の元が分かり易く、特徴が十分に出ていて実際にいた人物のような
感じがしました。
103 :
兵卒 :2006/03/01(水) 14:09:17
杜通羽(トッパ)項戟(コウゲキ) 劉備の臣下。 関羽千里行・長坂・夷陵など、劉備軍の血路を切り開いてきた男。 退却・包囲突破・強行進軍には必須の将だった。 このスレが100を突破したのも、彼の霊が見守ってくれてたかららしい。
104 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/03/01(水) 16:17:51
>>103 おお、それはありがたいです!!
是非この人物をこのスレッドの守護神として迎えたいですね。
前に出てきた関門(
>>60 )と組んだら最強だったと思います。
(ちなみに関門も蜀の武将です)
(
>>1 より)
董本(トウホン)183〜277 字は誠聡(セイソウ) 蜀の幕僚で主に参謀役を務めていた。蜀の黄門侍郎董允の遠縁にあたる。 義理堅く、どんな約束事でもきっちり守らないと気が済まない性分で劉備が荊州の 牧、益州の牧に就任したときは従来の州の行政方針の改善を担ったり、荊州分割問題 では呉の幕僚魯粛と共に東奔西走するなど科された任務は的確にこなしていたため 劉備は「董本は少なくとも3割強我が蜀漢を担っている」といって大いに信頼していた。 劉禅の代に変わってからも活躍、南征では三江城を背後から狙い、朶思大王攻略に一役を 担った。以降は益州・巴郡の太守に任命、蜀滅亡後も引き続き任務に就き、郡の各地を まわって善政を尽くした。 277年に他界。「走務公」(「走り回って仕事に務める」という意味です)と 謚を与えられた。 彼の名前、字は四文字熟語の「東奔西走」から引用しました。
皆さん、本日は残念なお知らせがございます。
「三国志武将っぽい漢字を武将にするスレ[二]」があと15番
残っていたにもかかわらず3月1日限りで「過去スレ」送りになってしまいました。
私は1000番台を迎えたら「有終の美」を使うか、もしくは皆さんのアイディアで
締めくくっていただきたく思いました。
しかしそれがもう出来なくなったことは悲しい限りです。
せめてこのコーナーだけでも1000番台を迎え、本当の有終の美を飾りたいと
思います。
皆さん、どうかこのコーナーを志半ばで「過去スレ」に送ることがないようどうか
宜しくお願いいたします。
(
>>1 )より
事実(ジジツ)204〜281字は無根(ムコン) 魏の幕僚で生涯何かと疑われていたという。 容貌はかなりひねくれた感じの顔つきだが性格は反対に温厚で頭の回転が速く、 てきぱきと任務に就いていた。 ライバル達は毋丘険、諸葛誕、公孫淵の反乱などの謀反は「全て事実が関与している」 と言い、事実の排除を企んでいたが事実はその事態いち早く察知して洗いざらい全て 無実であることを当時の実力者である司馬昭に伝え、難を逃れた。 後に涼州・敦煌の太守を務め、東西交易の活性化に務めた。
>>106 よっしゃーっ!!
なら遠慮なくガンガン出すぞー!!
今は考えていないけど。
109 :
痴岱 :2006/03/03(金) 03:02:58
まとめサイトのサーバがCGIエラーを吐くようになったので移転します。
http://naduke.s201.xrea.com/ 個人的には
>>94 さんに賛成です。
日常語を字を変えずに出して、そこに人物像を重ねていくのが趣があり当初のスレ主旨だと思います。
当て字や、変え字、キャラものの無理やりな漢字化などはスレ違いではないでしょうか。
「当て字で三国志風武将を作るスレ」など新設して分化された方がよいのではないかと個人的には思います。
110 :
痴岱 :2006/03/03(金) 03:25:44
過疎 (かそ) 162〜208 代々洛陽にて重要な役職を輩出した過家最後の当主。 董卓の洛陽焼き討ちの後も長安に移ることもなく、ひたすら洛陽の再建に尽くした。 その政治手腕は見事であり、廃墟の炭から火をおこし廃材を燃やした灰を土に撒き 作物を育て財を生み、その財で家屋敷を建て直し市をひらき人々を呼び戻した。 董卓から長安に、曹操から許昌に何度も招かれたが彼は 「新しき人と法は新しき地に、古き人と法は古き地にそれぞれ輝くべし」 といい遂に洛陽を離れることは無かった。 彼は新たなる時代の息吹を感じ、それを十分に認めつつも己は礎たる地にその生涯を捧げ、 大都の都としての最後に殉じたのである。 また彼には子が無く過家の家系は洛陽の歴史とともに絶えることとなる。 荀イクとの交流が深かったという話もあるが、これは彼の境遇が荀イクと重なる部分が 多かったために後世の人々が付加したエピソードではないかと今日ではみられている。
>>109 分かりました。では「当て字で三国志武将を作るスレッド」を新たに
立ち上げようと思います。
でもこのコーナーもどうか皆さんドンドン送って下さい。
以上です。
>>111 の者です。
すみません。現在都合により新スレッドの立ち上げが困難となっております。
立ち上がり次第、ご報告いたしますのでどうかご了承下さい。
馬慈(バジ)187〜265 字は東風(トウフウ) 蜀の幕僚で、「大鴻ろ」(今の外交官)を務めていた。 馬良の従兄弟で、内政で手腕を振るった。 ただ注意力散漫なところが多く、作戦などでいくら注意されても すぐに忘れることがあり、馬謖と共に劉備は「大事を任せられない」と 思っていた。 確かに馬慈は王平と共に馬謖のお目付役として共に街亭で防衛についた時、 諸葛亮に言われたとおり馬謖の暴走を止めることを忘れ、杖で100 叩きされる刑を受けたことがあった。 しかし、意外にも関羽が討ち取られてから険悪な関係だった呉と同盟を 組むなど、劉備の考えとは裏腹に重要な場面での努力を惜しまず、 諸葛亮が没し、蜀が滅びるまで呉と蜀のパイプラインとして奮起した。 蜀滅亡後は漢寿公に任命されたが、馬慈は滅亡する2年前から宿痾 (今の肺結核)を患っていたため「もはやこんな枯死した老木に出来る ことはありませぬ」と言って官職を辞退し、2年後に逝去した。
114 :
兵卒 :2006/03/05(日) 00:20:30
士様(シヨウ)字は座間(ザマ) ??? 現代→バイストンウェル→三国時代を旅する困ったオーラバトラー 交シの士氏に仕え彼の存命?滞在中は孫権も手出しできなかった 弾馬㊞を駆る彼は一騎当千のつわものである。
>>114 「兵卒」さん、いつも面白い人物記ありがとうございます。
個人的な考えですが、貴方は貴方なりのやり方を貫き通しても
構わないと私は思います。
>>115 この人物のモデルは誰でしょうか?
ちょっと分からないので教えて下さい。お願いします。
秦文(シンブン)180〜268 字は康國(コウコク) 冀州・中山出身。 魏の幕僚で、主に諜報を担当していた。 幼少の頃から文学に長け、一日中机に向かって文章を書くことが多く、 また世間の情報を多く収集してはそれを紙にありのまま筆記しては 人々に公表していた。曹操はその才能を買って秦文を配下として迎えた。 赤壁の戦いでは「苦肉の策」によって「黄蓋が降伏する」という誤報を 広めて敗戦を招いてしまい、三ヶ月の謹慎を受けたものの、以後は 石亭の戦いでは呉軍の位置と作戦を情報収集して奇襲作戦のきっかけを 作ったり、蜀の第一次北伐での街亭の戦いでいち早く馬謖が山に陣取って いて、攻略が安易であることをを司馬懿に報告して攻略に一役買うなど 地味ながら的確に戦場の状況を把握して自軍の勝利に導いた。 後に冀州・常山の太守を務め、外部の情報を人々に報告するため、多くの 情報紙を発布、いち早く情報を手にすることで戦乱などから回避するのに 効果があった。ちなみにその情報紙は人から「秦文紙」と呼ばれ、秦文が 亡くなるまで親しまれていた。 生前、彼は「情報を的確に捉え、それを一枚の紙に記して人に知らせる ことは私にとって天から科せられた使命」と言っていたという。 名前、字は「新聞広告」という言葉から引用しました。
丸尾(ガンビ)181〜266 字は正樹(ショウジュ)
魏の武将で軽車将軍をつとめた。
幽州・臨し(現・山東省し博市)出身で、丸尾(
>>70 )とは従兄弟。
同姓同名のうえ、どちらも魏に属していたため「丸末雄」、「丸正樹」と
区別して呼ばれていた。容貌は面長で丸刈り、身長が7尺7寸(約233p)、
体重が26貫(約97.5s)の長身痩躯で、性格は「丸末雄」とは正反対に
お調子者でかなりの脳天気な面があったが、人の悩みを聞いては気の利いた
アドバイスをかけるなどかなり心優しい部分も掛け持っていた。
初めは曹彰に仕え、呂蒙、張遼と代わる代わる仕えた。地味な存在では
あったが、蜀の北伐では新城で蜀に戻った孟達を討ち取り、二度目の合肥の
戦いではまたしても新城で今度は多くの呉軍の兵を引き抜きに掛かり、呉の
弱体化を図り、結果的に勝利に導くことに成功した。
後に幽州・漁陽の太守に任命され、製鉄業の推進を促した。
モデルはアニメの「成恵の世界」に出てきた「丸尾正樹」
(まるお まさき)です。特徴は文中に出てきたとおりです。
誠に申し訳ございませんが、どなたか前スレッドの
>>960 〜
>>984 までのモノをここに移動させてくれないでしょうか?
お願いします。
楼炎(ロウエン)188〜228 字は不明。
魏の武将で、匈奴の一部族である烏桓族の出だが、
驃騎将軍をつとめた。
性格は極めて温厚。容貌は肌白く、精悍かつ理知的な美男子だった
という。
前漢の高祖(劉邦)に仕えていた楼煩(北狄[春秋・戦国時代、
今のモンゴル辺りに住んでいたトルコ系の異民族]出身の武将で、
普段人から名前は「ローファン」と呼ばれ、弓術に長けていた。
彼については司馬遼太郎の「項羽と劉邦」を参照)の末裔と
いわれている。
その為か彼も普段、人から「ローウェン」と呼ばれることが多かった。
彼は「白鷲のローウェン」と呼ばれたほどのしなやかな二刀流の使い手で、
その剣術で官渡の戦いでは[目圭]元進、韓キョ子、趙叡といった有能な
袁紹配下の部将を討ち取って武功を挙げ、夷陵の攻防でも呉の周瑜軍の
包囲を薙ぎ払うなど相手から非常に恐れられていた。
だが、その夷陵で同じく二刀流で名を馳せた楚良(前スレ
>>982 )に出会い、
そこから二人は最大のライバル同士となっていった。
楚良とはそれから合肥、濡須口、石亭と計375合の決戦を受け、その石亭
で3時間の激闘の末一瞬の隙を突かれ、楚良の一太刀をまともに浴びて
息絶えたが、息絶え絶えの死に際になっても楚良の見事な一撃を誉めたという。
楚良はその心意気に胸を打たれ、その決闘の地に楼炎を葬って楼炎の剣を
墓標にし、そして「我が生涯最大の好敵手はローウェンのみにあって外に
非ず!!」と叫んで霊を慰めた。
この人物のモデルは「月刊コミックブレイド」で連載され、アニメでも
放映された東まゆみ原作の「エレメンタル ジェレイド」の「ローウェン」
というキャラです。
どなたか前スレッド(三国志武将っぽい漢字を武将にするスレ[二])の
>>960 〜
>>984 までのレスをこちらか、あるいは
「当て字で三国志武将を作るスレッド」の方にコピーで
送ってもらえないでしょうか。
何回も出してしまい、自分としてはかなり愚かな行為だと思いますが、
それほどこのスレッドを私は愛しているのです。
誠に身勝手で申し訳ございませんが、どうかお願いいたします。
>>1 の者です。
なぜ「三国志武将っぽい漢字を武将にするスレ[二]」が
dat落ちしたのか分かりました。
おそらくsageすぎてしまい、あまり目に留まってくれなかったんだなと
私は思います。
これからはageる事にも積極的にならないと、このスレッドも二の舞に
なるでしょうね。
剛健(ゴウケン)183〜262 字は質実(シツジツ)。 呉の武将で、揚州・銭唐(現・浙江省杭州市)出身。 性格は厳格だが、贅沢を嫌い、常に質素な生活を 通してきた。その為他の武将とはひときわ逞しく、孫権は 重用したが、戦では目立たず、地味な存在だった。 しかし、戦乱で荒れた村を復興させるために自らの資金を充て るなど、どんな状況でも「善意に従って」行動をとるように してきたため、民衆から非常に人気が高く、彼の没後、故郷の 銭唐に「剛質廟」が建てられ、生活の神様として崇められた。 今回は原点に帰るため、このまま載せました。
>>126 アドバイスおよび前スレッドの保管場所を教えていただき
ありがとうございます。
まだまだ自分には未熟なところがありますがこれを機に日々
精進するように心がけますのでどうか宜しくお願いいたします。
慕容四(ボヨウヨン)177〜264 字は不明。 魏の幕僚で、鮮卑族の出。文聘の部将をつとめた慕容烈の遠縁で、 五胡十六国時代、前燕を建国した慕容[皇光]の祖先にあたる。 主に駅官令(今の通訳官、翻訳者)を、後に大鴻ろ(今の外交官) を務めた。 主に北方の民族に当たり、特に韃靼とは非常に友好関係を持って いたため、「韃靼と仲の良い慕容四」という意味で人から 「韃靼、慕容四、慕容四」と呼ばれていた。 後に并州・雁門の太守に任命され、北方との交易地点として 繁栄させることに務めた。 尚、1992年〜93年にかけてテレビで放映された ピップフジモトの栄養ドリンク「ダダン」のCMで、 女子プロレスラーのレジー・ベネットが叫んでいた 「ダッダーン ボヨヨン、ボヨヨン」と「韃靼、 慕容四、慕容四」との関係は不明である。
厳冬(ゲントウ)???〜208 曹操配下の武将。字は不作(フサク)。 従兄弟の冷夏(レイカ・字は遮光[シャコウ])と共に 曹操に仕え、数々の戦で勝利に貢献した。 だが、出世するにつれて、 率いる兵の数が多くなると統率が取れなくなり、 戦場を不必要に拡大、自領をも巻き込み農村が荒廃。 兵糧の不足を招いたため粛清された。
猛暑(モウショ)生没年不詳 蜀の武将。字は日照(ニッショウ) 猛達の異母弟。火計を得意とし、 篭城する敵の陣を瞬く間に灼熱地獄へと変じるなど 活躍を見せたが、猛達の件で失脚、投獄。 絶望にためか干乾びたように気力を失い、 失意のうちに獄死した。
松葉(ショウヨウ)148〜237 字は百合(ヒャクゴウ) 呉の幕僚で、松竹の父であり、松明の祖父。 容姿端麗かつ性格は温厚で物事を冷静に見る傾向があり、周りから信頼を 得ていた。 揚州・建業で、前漢の文帝の代から続く貿易商の息子として生まれた。 家系が後漢の朝廷と関わりが深かったため、大秦国(ローマ帝国の漢名) との交易を積極的に行い、銭唐(現・浙江省杭州市)、会稽、合浦、南海 などの沿岸都市に港を持つようになった。また、大秦国のみならずインド、 ペルシャとも交易を図ったため、建業を国際都市として栄えさせるきっかけ を作った。 その後、松葉は呉に仕え、所有している港を国営貿易の拠点とし、皇帝孫権 から司農に任命され、任務を全うした。 237年に他界。息子の松竹に「財の治安」という財政の仕組み、治める方法 などを記載した書を与えた。
すいません。
>>131 の由来を入れるのを忘れていました。
名前、字の由来は植物の「松葉百合」(まつばゆり)です。
意味は特にありませんが松家の一族と言うことで引用いたしました。
133 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/03/11(土) 22:57:45
曹洞宗(ソウ・トウシュウ) 生没年・本名不詳。洞宗は字。参禅とも号した。 曹操の一族と思われるが、系譜不詳。一説には曹操の又従兄弟に当たるとも言われる。 曹操の特別の許しを受け、軍議中に居眠りをしそうになった武将の背中を棒でたたいて眠気を覚ますのを職とした。 曹操自身も、洞宗に背を叩いて起こされるたびに合掌して感謝の意を表したという。 稀に軍議で発言することもあったが、その言は形而上的、難解で、 聞いている者のほとんどがその意を解せなかったという。
>>133 元が分かり易く、特徴を十分に生かしていて面白いです。
100点あげたいですね。あと、何より久しぶりにここに出して
頂いたことにも感謝しています。
これからも宜しくお願いいたします。(
>>1 より)
松村(ショウソン)173〜257 字は邦洋(ホウヨウ)
徐州・京口出身。
呉の幕僚で松竹(前スレ
>>951 )の従兄。大食漢で日頃から人の
何倍も食べていたという。その為、身長が7尺(約212p)
で体重が80貫(300s)とかなり大きく、かつ太っていて
人から「動く鞠」と言われた。
人を笑わせることが好きで、政務の時や軍議の時で人の物まねや
一発芸を合間にやり、雰囲気を和ませるなどムードメーカー、
またはマスコット的な存在として活躍した。
彼は「今の世の中には笑いが必要」と孫権に進言し、呉に80ヶ所
劇場及び劇団を設置し、財政緩和策に取り組んだ。結果、目論見は
的中し、金で換算すると年間平均で800万両の収入に成功した。
後に富春侯に封じられ、人民の要望に出来る限り応えることに
尽くした。
没後、「笑松廟」が建てられ、「笑いの神様」として崇められた。
ちなみにこの廟では「バウ、バウ」と言いながら手拍子して参拝
しなければならなかったという。
堅何(ケンカ)164〜240 字は譲陶(ジョウトウ) 交州・建安出身。呉の鎮北将軍。 身長は8尺1寸(約245p)、体重45貫(約169s)と かなりの大柄。 若い頃から血の気が荒く、町の不良と喧嘩に明け暮れていたが、 正義感は人の100倍も強く、弱者を助けることを身上としていた。 黄巾賊の乱で孫堅に仕え、長沙の反乱を先鋒で切って大いに暴れ、 反乱軍の戦意消失を招くことに功を成し、以後、孫策、孫権と仕え、 呉の勢力拡大に貢献、重鎮の一人として活躍した。 また、彼は配下兵に日頃から「喧嘩というものは拳で語り合うことだ。 だからむやみに人を殴るような事をする人間は愚の骨頂であり、人に 非ず」と云っていたという。 58歳の時に中宿侯に封じられ、河川開発に努めた。 240年に没。「鉄拳侯」と謚された。 名前、字は「喧嘩上等」から引用しました。
陀斉(ダサイ)186〜265 字は郭公(カッコウ) 魏の幕僚で、太常を務めた。 政務に対して積極的に取り組むなど実力はあったが、普段から 服装に気を止めず色合いの悪い格好をしていたため曹操から 「小さいことだが服装をおろそかにすることは無礼にあたる。 これでは不安で大事を任せることが出来ない」と云い、重要な 軍議で呼ばれることが少なかったという。 それでも立派に自分に課された任務を遂行したため、周りから 諌言されることがなく79歳で亡くなるまで官職を全うした。 名前、字は「ダサい格好」から引用しました。
このスレ、男塾の「〜より」って解説みたいで面白いね。
>>138 ありがとうございます。
オリジナルを除いては何でもよろしいですので是非、貴方も
日常の言葉を使い、それを人物記に仕立てて投稿して下さい。
お便り待ってます。(
>>1 より)
阿尾(アビ)181〜272 字は鯨婁(ゲイル) 蜀の武将で、猪突猛進の将として知られていた。青州・北海国出身。 容貌は非常にいかつく、今でいうモヒカン刈りみたいに頭の天辺の 周りだけ頭髪を残し、後は全て剃り上げるという摩訶不思議な髪型を していた。 身長9尺(約273p)、体重71貫(約266s)と兀突骨並みに 大きな体格をし、かつ三国志の中で屈指の怪力を誇った。 性格は非常に短気だが忠義に厚く、部下とは自分の家族のように接して 大切にしたという。ただ、頭の悪さがかなり酷かったのが唯一の欠点 だったそうな。 阿尾は窮地に陥ると顔を真っ赤にして「あ゛ぁ〜〜〜〜〜〜〜っ!!」 と大声で叫んで突進し、武器を振り回したり、また敵兵にストレートを 一撃与えて吹き飛ばしながら危機から脱していた。また、彼には 「出津怒里韋怒雷武(デッドリードライブ)」という、敵を担ぎ上げて 高々と放り投げる技も持っていた。 長板の戦いでは張飛、浦賀(「当て字で三国志武将を作るスレッド」を 参照)と共に曹操軍を阻止し、漢中侵攻では徐晃と一騎打ちをして気迫で 圧倒するなど豪快なシーンを演出した。南征では野性味溢れる孟獲の軍に 対して小細工一切無しの野性的な攻撃で対抗、特に対兀突骨戦では 「矢も刀も通用しない」ことで有名な籐甲軍の兵を鉄拳で100人 倒すなど南蛮諸国に脅威を知らしめた。 後に西城侯に封じられると共に右将軍になり、彼は「真津度義阿 (マッドギア)軍」を編成し、魏軍に対抗するための部隊を編成、 「非常に鈍い」といわれた頭をフル回転させ、健康や食事、鍛錬方法 などを徹底して調べ、管理したという。その結果、北伐や蜀攻防戦で 真津度義阿軍は大いに実力を発揮し、蜀の都である成都が陥落する 間際までどの兵も降参をしなかったという。蜀滅亡後は司馬炎に過去の 功績を認められて漢中の太守に任命され、阿尾は土地の開墾を行って 農業の発展に力を入れた。 272年に逝去、「大壮烈侯」と謚された。
>>140 の追記です。
阿尾のモデルは14,5年前に登場したファミコンゲーム「FINAL FIGHT」
の第五面のボスである「アビゲイル」という敵キャラです。
作成していて非常に懐かしく思いました。
よくそのゲームをやりながら「アビゲイルは何回叫んで突進するのか」
数えてましたね。知っている限りでは35回ぐらい叫んでいて、
「うるさいうえ、厄介だったけどそのくせ面白い敵キャラだった」という
印象が残っています。
142 :
兵卒 :2006/03/13(月) 17:18:42
携帯(ケイタイ)電話(デンワ) 関羽の部下。ケイ州の狼煙台を守っていた。 呂蒙・陸遜らに捕らえられた後、開放される。 会稽にて隠居。家には数々の連絡方法についての書類が保存されていた。 書類は彼の子孫に代々受け継がれているらしい。
毎久(マイク)176〜263 字は波賀(ハガ)
蜀の武将で、左将軍をつとめた。
性格は阿尾(
>>140 )同様忠義に厚く、道理を曲げることを嫌っていた。
身長8尺5寸(約258p)、体重50貫(約188s)とかなりの大柄
で、容貌は立派な口ひげを蓄えていて、かつダンディーだったという。
10代の頃は後に魏の武将になる冷越(
>>27 )と共に布呂礼主(プロレス)
拳という拳法を習っていた。そのため冷越同様、素手で敵を倒すことが
多かった。
第二次北伐の陳倉攻略で魏延と共に出陣し、土砂崩れを起こして赫昭を
孤立させ、魏延に王双を討ち取らせる活躍を見せたが、武勇に優れて
いるとはいえ毎久は人を殺めることを嫌っていたため、王双を蜀に仕え
させるように魏延を説得したが聞き入れられず、王双は処刑されたという。
また、この説得作戦は陳倉城に籠城している病人の赫昭にも仕掛けたことが
あったが、赫昭は降参することがなく、逆に赫昭を精神的に参らせてしまった
らしく、それと共に王双戦没の報が入ったために赫昭は急逝したという。
その後毎久は益州・[牛建]為の太守と廷尉を兼任し、蜀の刑法の改善を
景伐(前スレ
>>937 )と行い、また酪農を推進するなど見事に任務を務めた。
蜀滅亡後の晩秋に他界した。
彼のモデルは阿尾同様、「FINAL FIGHT」シリーズの主人公である
マイク・ハガーです。
私はよく彼でゲームをプレーしていました。攻撃に出るとよく
「デヤーッ!!」と叫んでいたことを思い出しますね。
踏切(トウセツ)182〜259 字は横断(オウダン) 蜀の武将で、車騎将軍。 奇襲作戦に長けていて、蜀の北伐の時、同僚の近鉄と共に長さが5丈 (約15.2m)、幅7尺(約2.12m)の大型馬車を約70両製造し、 そこに弓兵を30人ぐらい乗せて攻撃に出たという。 街亭の戦いではその馬車で追撃してきた魏軍に襲撃して退散させたうえ、 祁山の途中の道でもこの大型馬車の大軍を突撃、その為魏軍はあわせて 1万3500人もの兵を犠牲にしたため、魏軍は「踏切注意」と言って 恐れた。 以後は房陵侯に封じられ、魏の侵攻の防止に務めた。
近鉄(キンテツ)176〜261 字は大軌(ダイキ)
蜀の武将で、平北将軍。
若い頃はかなり地味で主に兵糧の運搬を任されていたが、
地理に詳しく、裏道をよく知っていたため使っていたため
ほとんど襲撃に逢わなかったという。
踏切(
>>144 )とは親友で、大型馬車を製造し、
共に北伐で魏軍に打撃を与えた。後に江州侯に封じられ、
交通及び交易拡大のため複数の馬車、戦車がスムーズに往来
できるようにするため道路を拡張させ、地方都市の発展に力を
注いだ。
字の「大軌」は近鉄(近畿日本鉄道)の前身である「大阪電気軌道」
の略称です。
どうでもいいがほとんど投稿してるの
>>1 さんだけだぞ
他の人どうした?
新都 字は不明 魏の文官。若くして隠居、隠者のごとき生活をしていた。 なにをトチ狂ったのか、曹操が彼に目をつけ出仕を求められる。 が、「働いたら負け」と豪語して拒み続けた。すると「この乱世に才を出し惜しみする奴は許さん」 「拒むなら坐臥ごと引っ立てよ」という強引な要請でようやく出仕をする。 出仕後は業βにて経理を担当、意外に経済感覚に優れ、商業を大いに発展させる。 伏完らの反乱の際は屋敷から一歩も出ず、後で曹操から「火を消してまわったか?」と 聞かれ「火を消してまわったら負けだと思った」と返し、「それでこそ新都」と誉められ、逆に恩賞を受けた。 曹丕の代になり、ようやく念願の隠居が認められる。まだまだ出世の余地もあり 多くの文芸の書にも親しかった彼は曹丕の覚えも決して悪くはなかったが、それを押してなお隠居を求めたといわれる。 終始、働く行為そのものを嫌っていた節があったといわれている。また、新都とは個人ではなく、 新都とすべき場所へ配置された経済官僚の集団ではなかったのか?という説もある。 現在問題となっているニートの語源が新都であることは明白である。
>>147 ありがとうございます。
なかなかの力作で面白く、今問題の言葉の特徴をフルに
生かしたという感じがしました。
董達(トウタツ)176〜257 字は濱智(ピンチ) 呉の武将で、「暴政」で悪名高い董卓の兄董擢の息子であり、 董[王黄]の弟。性格は叔父の董卓とは違って極めて温厚かつ知性に 富んでいた。董卓暗殺後、一族皆殺しの危機に逢い、兄は殺害されたが、 董達は配下の兵に助けられ、江東まで逃げ延びた。 その後隠居生活を送っていたが、18歳の時孫策が兵を募集していること を聞いて孫策軍に参加、江東平定戦では劉ようの部将・薛礼を、また廬江の 太守陸康をも討伐するなど武功を挙げて活躍した。それから2年後に董卓の 甥という事実がばれるも、孫策は董達を大いに信頼し、気にもとめなかったと いう。しかし、いくら主君が許しても周りからは「董卓と同じ一族だから何か 良からぬことをするかも知れない」と思われていたため、この時から常に讒言 されるなど字通り危機的状況に立たされていたらしい。だが、それでも董達は 怒ることなく、戦では常に先頭部隊に立ったり、行動で事実無根であることを 証明し続けた。その甲斐あって次第に味方が増えていき、董達は生涯仲間を 大切にする事を忘れなかったという。 君主が孫権に変わってからも夷陵、濡須口、石亭の戦いや丹陽の賊の平定では 先頭を切って勝利に導き、安北将軍まで登り詰めた。 257年に他界。臨終の際、董達は「我が叔父は人の気持ちを省みず、財宝を 手に入れるという欲にしがみついていたために自らの首を絞めることになったが、 私は欲よりも人の気持ちを大切にしようという気持ちにしがみついたから人生を 全うする事が出来た。人の気持ちこそ我が宝だ」と譫言のように呟いたという。 名前、字は「『ピンチ』が『到達』する」という意味をこめて付けました。
享年(キョウネン)175?〜225 字は不明(五十という説もあり) 呉の学者、元の名は享徳である。 元々呉出身の学者であったが他人の享年を言い当てたことで有名になる。 そんな彼が初めて享年を言い当てた人物は孫策であったという。 郭嘉も予言していた為、軽率な点が目立つ孫策の享年は予測し易い、 という意見もあるが周瑜らの推挙で呉に仕官したとあるので才能があったと思われる。 そんな彼が享年を言い当てた主な人物は陳武、呂蒙、劉備、曹丕とある。 陳武の享年を知った享年は孫権に諌めるも陳武の勇を買っていた孫権は 「その様なことはあるまい」と言うが、実際に合肥にて戦死してしまった。 次に呂蒙の享年を言った際は孫権の逆鱗に触れ処罰を受けそうになるも張昭と諸葛瑾の諫言によって取り成された。 また劉備の享年を言い、実際にそうなった時は孫権は手を叩き喜んだと言う(注1)。 曹丕の享年を言うも曹丕が崩御する前年に死去、諡号は敬侯。 字は不明だが、原文に「彼ノ字五十ニ至ル」とある、しかし彼の進言は言葉数少なくそれを表したものともいわれる。 孫権は夢に享年が出てきた事で死期を悟ったという。 (注1)「手を叩き」の点は劉備の死を喜んだのではなく、享年の才能を絶賛した物と言われる。 名前は死んだ時の年齢を表す「享年」字はそのまんま「五十」です。
151 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/03/15(水) 18:47:22
詩砂(シシャ) 誤入(ゴニュウ) 蜀に使えた文官 詩を作る事を得意としていたが、時代は姜イ達による北伐の日々 いくら詩才があっても姜イ達からけなされ、しまいには無理矢理戦場に連れて行かされ軍記を書かさせられた。 しかし、ムカついた詩砂は武将の高い功や高い愚こそは書いたが低い功はまったく書かなかった。 そして気づいた時には、蜀軍に功は皆無、敵軍による被害しかしるされていなかった。 これに憤怒した姜イ以下蜀軍の武将によって殺された。 オチ無し
何かとありましたが無事150台を突破することが出来ました。 ひとえに皆さんのおかげです。 「享年」ですか。ミステリアスなところがかなり出ていて面白いと 思います。 豪放(ゴウホウ)196〜290 字は磊落(ライラク) 魏、西晋の武将で性格は名前通り豪快で、細かく物事に取りかかることを 嫌っていた。やることなすこと全て考えたままに動いていたが、意外にも 成功に結びつくことが多かったため、信頼を得ていた。ただ、やはり失敗が 生じることもあり、顰蹙を買うことも度々あった。 若かりし頃は初め張遼に、続いて司馬懿、司馬昭と仕えた。 江夏で孫権軍を後方から攻め込んで撃退し、234年の合肥の戦いでも 思いつきで先制攻撃を仕掛けて出鼻をくじかせるなど、不意打ちに強かった。 その後は遼陽公に封じられ、高句麗との交易に力を入れた。
153 :
兵卒 :2006/03/15(水) 20:05:11
>>146 厭きたんじゃね?人が減ると、こっちも段々かったるくなってくるな。
まさに「過疎(
>>110 )」状態
>>151 「四捨五入」から来ていることは分かりました。
あと初代の「三国志武将っぽい漢字を武将にするスレ」を彷彿と
させるようで面白いエピソードでした。
どうでもいいですけど 「兵卒」さん、段々くだけてきたような気がしますね。 何かあったのですか?
錆算 字 下衆野郎 劉備配下の武将。関羽に心酔し、身を削って勤めるが、悪いことにそれを部下にも要求し 常に部下を働かせることしか頭になかったといわれる。 部下が恩賞を求めると「働く喜び」「成果が伴わない」と何かにつけて褒美を拒み 挙句に「代わりなど幾らでも居る」と言い出し反感を買う。そこを曹操に突かれ、 裏陽攻防戦で離間の計にかかった部下に惨殺される。 五体を寸刻みにされたといわれ、そのことを伝え聞いた曹操は 「さもあらん。彼のような者ばかりを上に持てば、俺とて隠者の一つも気取りたくなる。 司馬懿も以前は悪い上を持ったゆえ、あのように隠者を気取ったのであろうな。」 と珍しく彼自身が嫌う隠者を庇う発言を残している。
成里(セイリ)185〜274 字は靖惇(セイトン) 魏の幕僚で、諸葛誕の反乱を鎮圧したことで有名な成倅の従兄。性格はかなり 潔癖性でとにかく塵一つ落ちていることも許さなかったという。 また、軍議でももめ事があると一人一人意見を聞いてきっちりとまとめ役に徹し、 納得ができる結論を作っていた。その為、地味ながら曹操、司馬懿、司馬師、 司馬昭といった実力者から一目置かれ、人からは「あらゆる物事を片づけるために 生まれてきた男」と言われた。 その後は64歳の時に漁陽公に封じられ、製鉄業の発展に貢献した。 名前、字は「整理整頓」から引用しました。
158 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/03/15(水) 22:31:52
蕪沱弐 逸慈弐(むだにはやじに) 即死
>>156 そんな人物が上になったらまとまるものも
まとまりませんよ。
>>158 あっさりしすぎですよ・・・。
161 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/03/15(水) 23:11:47
まあ、ゆっくりとやっていきましょう。 皆さんの気持ちもよく分かります。 私も大体一人か二人思いつくのがやっとですから・・・。 それに、まだまだこれからですからね。
周(しゅう) 静益(せいえき)184〜? 呉→蜀 孫翊の配下の将、同い年だったので気が合い数多くの戦いで 戦功を上げる。孫翊暗殺の際の宴は、風邪をこじらせてしまい 参加できず命拾いする。その後辺洪を斬り首謀者の2人も殺害した その後孫権とそりが合わず蜀へ寝返り第二次北伐で姿を消している
163 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/03/16(木) 03:49:10
紀久(キキュウ)175〜261 字は伊藤(イトウ)で、
呉の幕僚。袁術の部将で、勇猛で知られている紀霊の従弟。
そのため初めは袁術に仕えていた。
身長8尺3寸(約251p)、体重47貫(約176s)の「超」がつくほどの
偉丈夫な男で日頃から体を徹底的に鍛えていたため、かなり筋肉質の体をし、
顔つきも色黒で精悍かつ強面だったが、性格は容貌とは裏腹に気弱で、温厚。
袁術は「見た目だけでも相手を圧倒する事ができるのに戦が嫌いとはどういう
ことだ?」と訝っていたという。
198年に袁術が曹操に撃破された後袁術の息子である袁燿と共に廬江太守
劉勲の元に逃れたが、江東平定で侵攻してきた孫策に捕らえられた。紀久は
「このままだと惨めな一生で終わってしまう」と思ったのか、いきなり孫策に
「これまでの自分の人生を振り返り、自分は何も功を挙げることが出来ぬまま、
今日まで生きてきました。勝手なお願いで申し訳ありませぬが、あなた様に
仕えてせめて一つぐらい功を挙げてから死にたく存じます」と言ったのである。
孫策は紀久のその心意気に打たれ、袁燿と共に呉に仕えることを許可した。
それから紀久は同世代の宇氣(前スレ
>>964 )に仕え、雑用の他宇氣の息子の
宇桜(前スレ
>>969 )の面倒まで見るなど、地道に自分の任務を果たしていた。
孫権の代になると紀久は地道な努力が認められ、大倉令(年貢米の輸送の監督)
を命じられた。そこで紀久は輸送の安全ルートの考案や米の他にも飢饉対策
として粟、黍、稗、麦などの穀物の生産計画を立てるなど手腕を振るった。
これが功を奏し、後に安豊侯に封じられ、人生を全うした。
261年に他界。宇氣は紀久と仲が非常に良かったため、その訃報を聞いた
とき一日中泣いていたという。
164 :
兵卒 :2006/03/16(木) 15:03:53
>>155 遠近感だよ。
はじめは少し離れてたけど、段々近づいてくだけてきたということ。
>>164 分かりました。でもこれからもここを宜しくお願いしますね。
>>163 「紀久」のモデルはアニメ「まぶらほ」に出てきた「伊藤紀久」
(いとう のりひさ)です。文中に出てきたとおりマッチョで強面
な反面、気弱な他にかなりの偏食家だったそうで、「どうやったら
そんな体になるんだ?」といわれていたそうです。
166 :
162 :2006/03/16(木) 23:30:09
修正液がモデルですわかる人居たかな?
>>166 さん、
>>1 です。
私は分かりましたよ。
エピソードはなかなか内容が濃くて良かったと思います。
しかし、個人的な考えですが、「修正液」でしたら「よく軍議で
こじれた時、その修正に務めていた」など元の特徴を踏まえての
エピソードを入れたら良かったような気がします。
とはいえ、一生懸命考えて作成した力作に100%変わりは
ありませんので次回も宜しくお願い致します。
働苦 字 喜美
魏の文官。働くことを美徳とし、勤勉実直だった。
だがそれを貫こうとするあまり、虚業の類を嫌い、たとえまっとうな手段でも無用の蓄財を軽蔑したため
交易・金融などで公私共に巨額の財をなした
>>147 新都とは常に対立していた。
曹操はこうした相反する人材を置くことで都市の発展を図り、見事その構想は成功。
業βは異例の発展を遂げる。だが曹丕の代で願い出た新都の隠居願いを「人生仕事があって幸せなんだ」と
強引に隠居願いを握りつぶすような働きかけをした、、「働くことに喜びなどありえない。」と考える新都にとっては
彼は目障りを通り越して、存在自体が苦痛としか写らず、ついには謀殺された。目玉をくりぬかれた挙句、死骸を肥溜めに投げ込まれたといわれる。
証拠は残らず、新都自身、曹丕に多額の融資と共有する趣味が多くあったため
疑いはかからなかったといわれる。
>>163 の「紀久」の追記です。
安豊侯に封じられてから紀久は園芸、養蜂を盛んに行い、
蕎麦、アカシア、蓮華、クローバー、栗など他種類の蜂蜜を産出することを
実施した。これは特産物を作るだけではなく、「孫家呉起列伝」(実際この書は
ありません)によると「嘗テ仕エシ主君袁術ヲ弔フガ為ニ蜜ヲ作ルガ如シ」と
記述されており、昔、紀久が仕えていた主君である袁術の墓前に供えるために
蜂蜜を作っていたという。
170 :
ゴボウ天 :2006/03/17(金) 02:22:51
つまり、この紀久という人物はかつての主君である袁術に対しての 忠義を忘れなかったというわけだな いい話じゃないか
>>168 内容が詳しくて面白かったですね。こういった人物が
現在にいたらカリスマ的な存在になっていたでしょうね。
ただ、この「働苦」という人物のモデルとなった元は何なの
でしょうか。教えて下さい。
寿奈(ジュナ)175〜267 字は角竜(カクリュウ) 呉の武将だが、後に幕僚として手腕を振るう。 寿羅(後に記載します)の兄。 容貌は面長で、頬骨が張り、少々暗い感じの雰囲気を出していたが、 性格は冷静沈着で物事をかなり先まで見ることに長けていた。その 冷静さで趣味の囲碁では相手の手先を何百手も見通していたため、 誰一人として寿奈には敵わなかったという。 21歳の時に孫策軍に従軍し、江東平定から本領を発揮、208年 には甘寧の軍に従い、荊州攻防戦で孫家の天敵である黄祖の軍の 大半をおびき出して黄祖軍を手薄にして勝利に導いた。また、夷陵 の戦いでも陸遜の「火攻の計」のために槇を近くの民家や林から 30000本集め、地味ながら蜀の軍を撃退させることに一役を 担った。 58歳の時内政に専念。柴桑侯に封じられ、蝗、ウンカなどで 米が凶作になったとき、害虫撃退法の一つとして獣油を散布 することを考案、米の不作防止に貢献した。また、藺草の栽培も 推進し、畳の生産に力を入れた。その他にも地名が「柴桑」で あるためしゃれで桑の栽培も行い、陸遜が推進している養蚕業の 手助けをし、あらゆる農業に力を注いだ。 267年に逝去。「冷静侯」と謚された。 彼のモデルは「ふたりはプリキュア(第2期)」に出てきた 「ジュナ」という敵キャラです。字の「角竜」は人間に変身 しているときの彼の名である「角澤竜一郎(かくざわ りゅう いちろう)」の「角」と「竜」から取って引用しました。
173 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/03/17(金) 10:59:03
これは一体なんでしょうか?
寿羅(ジュラ)179〜250 字は炎竜(エンリュウ)
呉の武将で、寿奈(
>>172 )の実弟。冷静沈着な兄とは正反対に
気が荒く、勇猛果敢だったため「氷の寿奈、炎の寿羅」と言わ
れた。
赤壁の戦いでは甘寧に仕え、火攻めのポイントを絞ったりする
等で活躍、また濡須口の戦いでも火炎攻撃で撃破の一役を担う
など、火炎系の攻撃に長けていた。
しかし250年の江陵の戦いで老齢ながら善戦を繰り広げていた
矢先、魏軍兵が放った流れ矢が腰と脇腹に当たる重傷を負い、
運の悪いことにその傷により破傷風にかかり、10日後に亡く
なった。性格が正反対とはいえ仲がすこぶる良かった兄の寿奈は
その死を知った後、3日間まともに食事を摂らなかったという。
「雷炎候」と謚された。
彼のモデルはアニメ「冒険王ビィト」に出てきた「ジュラ」と
いう敵キャラです。
曼然弼(マンネンヒツ)生没年不詳 然弼は字 蜀の武将で、陳寿の幼馴染み。 文才があり、蜀滅亡時には、その文才を惜しまれて魏に降伏。 陳寿と共に、歴史書の編纂で主に、執筆活動を行った。 陳寿が病死すると、山野に籠もり執筆活動を続けたが、誰にも知られることなく病死した。
177 :
175 :2006/03/17(金) 16:48:50
モデルは万年筆です。 出ていたら御免なさい。
しばらくこないうちに・・・趣旨変わってる?
>>176 いやいや、謝ることはありませんよ。
よくモデルの特徴が出ていて短文ながら
趣を感じました。
>>178 趣旨は変わってはいません。ただ、
少々当て字が多くなりましたね。でも楽しいところですよ。
誹謗(ヒボウ)200〜264 字は中傷(チュウショウ) 蜀の檄文家。曹真・司馬懿の軍に檄文を送りつけ魏兵の扇動をするも見破られ失敗。 諸葛亮死後その角が立つ弁舌が災いし、246年、黄皓の讒言により失脚する。 264年、蜀滅亡後にケ艾に殺された。 彼の史書における記述はこのように少ないが、 後に誹謗らの檄文を寄せ集めた明代の大衆文学「痛快中傷」には以下の様な逸話が書かれている。 1.苛烈な男、誹謗。 ある者が「畏れ多くも陛下と丞相を侮蔑する若輩者がおります。」と告げ口をし それに対し諸葛亮は「陛下と余を侮蔑するとは興味深い、案内せよ。」と言い馬謖・楊儀・費イを連れて山中に向かった。 その家に着くと諸葛亮は自ら名前を言い、そして名前を尋ねた。すると、 「賊徒に名乗る名前はない。」と言う、諸葛亮は「なんで我らを賊徒呼ばわりするのか。」と尋ねた 誹謗は憚りなく 「昭烈帝はかつて仁義を兵を掲げておいて後に無実の劉璋様を攻め滅ぼした。 欺瞞の徒の本性はここに現れたと言って良い。」と言った。 馬謖・楊儀両名は憤激し「この者断罪に処すべきです。」と言うが 費イだけは「この様な賢才、見捨てるのは惜しい。是非丞相の寛容を以って用いるべきです。」と反論した。 諸葛亮は費イの言、然るべきと言った後 「先帝は無名の私に三顧の礼を尽くしてくれた。私がそれに倣うべきであって、 私怨を用いて人命は絶つべきではない。」 そういい用い、誹謗は感動したという。 曹真・司馬懿が率いる兵を逸らせる事を目論んだ諸葛亮は早速誹謗を用い檄文を書かせ敵陣営に届けた、 しかし見破られ惜しくも失敗した。 その文は「曹真は兵を多く率い、いずること知らずただただ我が君の威光に怯えている、 その勇確かなら打って出よ、偽りならば城より去れ。」 ただただ魏の諸将は出陣の許可を求めたが曹真は憫笑し取り上げなかった。 董允死後、宦官黄皓が甘言を吐き、姜維が北伐を目論むなど内外から蜀は崩れて行く。 宦官の重用を諌めた誹謗だが、元々蜀の民として劉備とその子孫を嫌っていたことがあった。 次第に諫言が苛烈になり、遂に劉禅を誹謗し讒言をされ失脚した。
>>180 の続き
蜀滅亡後はケ艾に「仕官して欲しい。」と頼まれるが拒否され、更に誹謗はケ艾を誹謗中傷した。
ケ艾も誹謗の角が立つ弁論に腹立ち口論になる、そしてケ艾は誹謗を惨殺した。
この口論が司馬昭や皇帝に対する侮蔑と取られ、ケ艾は鍾会の讒言により処刑される。
2.死後の誹謗
晋王司馬昭は蜀討伐後体調が思わしくなく、睡眠を取っていた。
すると夢に誹謗が現れ弁論をする。その爽やかな事喩えようも無かった。
議論は白熱し、司馬昭は死ぬまで夢中で誹謗と議論していたという。
名前と字は「誹謗中傷」から取りました、長文すみません。
って文の長さの割に内容があまり伴っていないorz。
法顔(ほうがん)庸梓(ようし)174〜203 後漢の将、元々長安で清流派の官僚として活躍していたが、 袁遺に使えその後袁紹の配下に入る。麴義の先鋒となり192年 公孫瓚軍との戦いでは厳綱の旗手を次々に斬ったが、厳綱を斬らず わざと麴義に斬らせ袁紹に高く評価される。麴義が殺害される前は 必死に麴義をかばったが、聞き入れられずその時は、三日三晩泣き続きたという その後は袁煕に使え官渡の戦いの際は、田豊、沮授と同じく持久戦を説いたが 聞き入れられず泣く泣く戦うしかし敗北したとはいえ魏の丸尾からは 陣立ての正確さと引きのうまさを非常に高く評価される。 その後は曹操の進行をゲリラ戦で苦戦させ袁煕を助けた。そのときの事 を魏伝では陣の立て方において袁家で彼に及ぶもの無しと評価され 曹操は何度も寝返らせようとしたが「我は袁家の忠臣である」と一蹴りされた 最後は、同僚が裏切り襲ってきたとき袁煕を遠くに逃がすため部下100人 と共に戦い50日後に討ち死にしたと伝えられている。
183 :
>>1です :2006/03/17(金) 21:06:52
ちょっとここから私独自の人物記を展開します。 楽斗(ガクト)生年不明〜249 インド中東部のカリンガ地方を治めていたパンタラッサ王国(漢名・班佗羅沙) の王で、容貌は色白で銀髪紅眼の美男子。シャチや鮫など凶暴な海の生き物を 操り、また嵐を呼ぶなど不思議な力を備え持っており、まさに「海の木鹿大王」と いえる人物だった。 マガダ王国の南半分及びサータヴァーハナ王朝の東半分、チョーラ、パーンディヤ、 シンハラ(現・スリランカ)などの諸地方を征服した。しかしそれでも飽きたらず、 楽斗は海賊の力を借りて東へ侵攻、扶南(現在のコーチ・シナ、カンボジア南部を 占めたクメール人の国で、海洋交易が盛んだった)、林邑(チャンパともいう。 現在のタイ、ベトナム南東部を占めていた王国)の各沿岸都市を征服、特に東西 交通路の要衝で国際貿易が盛んだったオケオの場合は徹底的に壊滅され、楽斗の 部下がローマ、ペルシャ、インドからやってきた金品財宝や特産品のほとんどを 略奪した上、住民の大半を殺害するなどとんでもない残忍さと力強さを露わに しながら中国、特に呉に接近したのである。
184 :
>>1です :2006/03/17(金) 22:48:05
>>183 の続きです。
一方、呉ではオケオと交易が盛んだった為、そのオケオ壊滅の報を
聞いた孫権は「このままでは海南島はおろか、夷州(現在の台湾)まで
奪われる」と思い、討伐軍の編成を命じた。その結果、伊庵(前スレ
>>958 )、
北島(前スレ
>>959 )を総大将とし、以下桓杯、董達、檄度(後に記載します)、
寿奈、寿羅、韓富(「当て字で三国志武将を作るスレッド」を参照)、堅何、
楚良(前スレ
>>982 )、孫凱(「当て字で三国志武将を作るスレッド」を参照)
が補佐をするという大きな討伐軍を編成し、続いて孫権は軍艦の造船を松竹
(前スレ
>>951 )、松村、宇氣(前スレ
>>964 )などに任命した。情報によると
楽斗軍はシャチや鮫をも戦で使っていたため、松竹は板張りの船に銅板を幾重にも
張り付け、船体の横には刃状の銅板を両サイドに突き出し、そして転覆や船酔い
防止のために連環の計にならって2対1体にした不思議な形の戦艦2000隻を
造り、その後孟鹿大王(前スレ
>>909 )に兵糧の提携を申し出るなど、準備を整え
たうえで20万の軍を率いて出陣、海南島から南東15海里(約28q)のところ
で14万の楽斗軍を迎え撃った。
吉本(キッポン) 生没年不詳 関西の人。名医として知られる。 同じく名医として知られる吉平(キッペイ)の異名という説もあるが、本項では『季漢功尊賛』所収の説を採る。 ある時、吉本は重病の患者を診断していた。このとき助手がつまらない失敗をし、吉本は大いにずっこけた。 重病の患者が大いに笑ったが、その後彼はみるみるうちに回復したという。 これに想を得た吉本は、治療に「笑い」を採用、「そんなやつおらへんやろ」「ぼくチャーリー」「パチパチパンチ」など さまざまなギャグを考案し、実行した。その笑いに曹操ですら「こやつめ、ハハハ」と爆笑し、頭痛が治ったという。 今日、笑い療法(ユーモアセラピー)は患者の自己治癒力を高めることをサポートし、 また発病予防をするものとして着目されている。
186 :
>>1です :2006/03/18(土) 00:04:37
>>184 の続きです。
しかし、水上戦に強い呉軍でも率いている将軍のほとんどが60代、
70代の将軍であるため、敵将楽斗は「あんな老いぼれに負けるはずが
ない。粉砕してくれる」と部下に憚ることなく断言し、完全に侮っていた
という。しかし、戦いは7月の中旬で、呉軍に有利な北西からの強風が吹い
ていた上、老練の将軍伊庵が編み出した「川の字戦法」という縦3列に
並んで進撃する戦法に大苦戦を強いられた。しかももう一つの頼りである
シャチや鮫の大群も船に取り付けた大型の刃に傷を付けられ、あまり役に
立たなかったという。そしてその一週間後、楽斗軍に決定的なダメージを
受けることが起こった。台風である。その日チャンパから300隻率いて
出陣した楽斗軍は海南島沖30qの地点で暴風雨に見まわれ、単独の帆船で
あるため、思うように舵がとれず、転覆する船が続出した。しかもそこに
抜群の安定性を誇った呉軍の戦艦が嵐をものともせず一気に突撃、楽斗軍は
大混乱になり、大将の楽斗は乱戦のなか奮闘したが、桓杯の青龍刀に討ち
取られ、楽斗軍はこれをきっかけに壊滅、更に呉軍はチャンパにいる楽斗軍
の残滓をも蹴散らし、完全に一掃した。
造船に携わった松竹は「オケオに駐在していた阿来(松来のこと。後に記載
します)が楽斗に殺害されたのでその仇討ちが出来たと思います。ただ、
この戦いでかなり出費したことについては頭が痛うございますね」と半ば
仇討ちが出来た満足さと冗談を、半ば悩み混じりで同僚の宇氣にこう話した
という。
「楽斗」のモデルは「なかよし」で連載され、アニメにもなった
横手美智子、花森ぴんく原作の「マーメイドメロディ ぴちぴちピッチ」
にでてきた「ガクト」というキャラです。
ちなみにこのキャラはアニメでは「ガイト」と名乗っていました。
また、原作では一度だけ名前が「楽斗」と記載されたこともあります。
ものすごく長くなって誠に申し訳ございません、以上です。
187 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/03/18(土) 00:26:34
松来(ショウライ)178〜250 字は安泰(アンタイ)
呉の幕僚であり、松竹(前スレ
>>951 )の従弟。
商才に長けており、孫権の命で扶南の港町オケオに駐在し、舶来品の
通関や取引に務めていたが、オケオに侵攻してきた楽斗(
>>183 )に
殺害された。
松来の訃報を聞いた従兄の松竹は復讐に燃え、その楽斗軍討伐を孫権に
進言したという。この海南島沖の海戦(
>>186 )は後に領土保全が目的の
他、一人の復讐劇も含まれた戦だったと言われている。
名前、字は「将来安泰」という言葉から引用いたしましたが、人物記は
「安泰」ではなかったようですね。
188 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/03/18(土) 00:30:22
「寿奈」、「寿羅」兄弟の出身地を入れるのを忘れていました。 2人は共に揚州・銭唐出身ですのであしからず。
>>175 に出てきた「寿羅」のモデルですが、正しくは
『「冒険王ビィト」の「ジェラ」という敵キャラ』でした。
間違えたことを深くお詫びいたします。
>>180 かなり長く、かつ文章構成が吉川英治の「三国志」を彷彿としている上、
モデルとなった言葉の特徴をきちんと踏まえており、そして内容がかなり
詳しくて面白かったです。
私もかなり長く記載することがよくあるのでそれほど気にしなくても構い
ませんよ。
>>182 かなり人物の特徴を詳しく記載している上、私が以前記載した「丸尾」という
人物が出ているのが非常に嬉しいですね。この「丸尾」はどちらの方ですか?
ただ、モデルになったものはどうも「方眼用紙」みたいですがその特徴は
いずこに?
>>185 良い人物です。元もきちんと踏まえていますし。事実、「笑う」ということは
新陳代謝にも良いとテレビで聞いたことがあります(間違いでしたら
ごめんなさい)。本当にこの人物がいたら幾分か平和が訪れていたと私は
思いますね。
191 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/03/18(土) 02:34:09
檄度(ゲキド)177〜265 字は羅護(ラゴ)
呉の武将で、鎮東将軍を務めた。檄烈(
>>19 )の従弟。
身長は8尺3寸(約251p)、体重が70貫(約262.5s)と
かなりの大柄。
容貌は面長で顎がしゃくれており、髪型は今でいうモヒカン刈りだが、
同僚の武将からは「蜀の武将の浦賀(『当て字で三国志武将を作る
スレッド』を参照)に似ているな」と言われていた。
性格は浦賀と同じく人なつっこく、人に頼まれると断りきれないピュアな
心の持ち主で、かなり親しまれていた。ただ、勉学に疎かった事も浦賀同様
唯一の欠点だったという。
戦では呉の各地を荒らした魏軍を駆逐、石亭では曹休の軍を伏兵の先導と
して活躍した。そして最たる活躍は海南島沖の海戦(
>>186 )で、楽斗軍の
司令塔である羅覇瑠(後に記載します)を討ち、楽斗軍の混乱を呼ぶと同時に
呉軍に勝利を導いた。
その後は成徳侯に封じられ、水田開発および露天販売の推進を図り、独自の
地域発展に力を注いだ。また海南島の素晴らしさを綴った「海南慕情」という
詩も書いている。
265年に他界。「情直侯」(情け深く、素直な者という意味)と謚された。
彼のモデルはアニメ「ふたりはプリキュア(第1期)」に出てきた
「ゲキドラーゴ」というキャラです。性格は文中に出てきたとおりで
ものすごく好きでしたね。
羅覇瑠(ラハール)生年不明〜249
インド南西部から東北部沿岸にかけて縄張りを張っていた
海賊の頭領。体格は5尺4寸(約164p)と小柄で、容貌は童顔。
しかし性格は「俺様第一主義」で気が強いうえ、実力は凄まじく、自分の
身長に近い大きさの大刀を軽々と振り回し、周りを恐れさせたという。
パンタラッサ王国の国王である楽斗(
>>183 )に「我が王国の領土拡大を
手伝ってくれたあかつきには4割の領土をそなたに与えよう」と持ちかけ
られ、海軍の司令塔として東へ遠征、林邑、扶南を征服したが、海南島沖の
海戦では呉軍の攻撃に苦戦し、呉の嵐の襲撃では檄度(
>>191 )に鍔迫り
合いの末檄度の大刀一閃で胴体真っ二つにされて戦死。これを機に
楽斗軍は総崩れとなった。
彼のモデルは今年の春にアニメで放映することになった
「魔界戦記ディスガイア」の主人公である「ラハール」という
キャラです。
193 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/03/18(土) 09:51:48
厨房やヲタが多いようです。
194 :
たんた たん♪ :2006/03/18(土) 09:54:21
何三国志説明してんですかww
195 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/03/18(土) 12:54:38
きもいきもすぎる
アニメキャラを当て字で、って……スレの趣旨が変わってきてるな。 なんかキモくなった。
197 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/03/18(土) 13:28:09
関雪(カンセツ)津雨(ツウ) 呉の将、弓の名手 遥か遠くの魏船の帆を射ぬくほどの腕を持つ 赤壁の折りには魏の先鋒の船を動けなくし完勝を得た 後の関羽との戦で関平の腕や足の関節を射ぬいた 最後は魏との戦で今までの無理が祟って関節の痛みに悶えながら死んだ。
石見(セキケン) 生没年不詳 字は銀山(ギンサン)。石苞(セキホウ、214-269)の一族に当たる。 石見は刺客として著名であり、砒素を用いた毒殺を得意とした。 石苞は魏から晋への戦乱と政変の時代、民間から身を起こして戦場・政治に才能を発揮し、 晋の建国功臣にまでのぼりつめたが、その活躍を陰ながら支えたのが石見であるという。 砒素毒・殺鼠剤のことを「石見銀山」と呼ぶのは、その故事によるものである。
延滞(エンタイ) 生没年不詳 曹洪が若い頃の親友。 あるとき、曹洪から大金を借りたが、期限を過ぎてもあれこれと言い訳をして返さず、 このため曹洪は大いに窮したという。 曹洪が稀に見るドケチになったのは、若い日の裏切りがトラウマになったせいである。
ここは「三国志武将っぽい漢字を武将にするスレ」であって アニメキャラやら何やらを武将化する所じゃないはず。
>>200 の方へ
>>193-196 の様にアニメキャラを出すことでこういった批判がくるのは
当初から覚悟はしていましたよ。
しかしですよ、ルールを見たところどこにも「アニメキャラを武将化に
するのはお断り」と書かれていないでしょう。
それに、過去にも「ガンダム」や「キン肉マン」のキャラも当て字で出て
います。彼らの出した人物記はとても面白かったですね。
言いたくありませんがこの「アニメキャラやら何やらを武将化する所じゃないはず」
という発言は「野球でボールを蹴って送球してはいけない」とか「柔道でプロレスの
技を使ってはいけない」と勝手に決めているようなものだと思いますけどね。
かなり言い過ぎて申し訳ございません。
でも、私はこのスレッドがこの中で一番好きですからね。
抗議するのは結構ですが、唯一つ!!「荒らす」事だけは
絶対にやめて下さい。
お願いします。 (
>>1 より)
遅れましたが200番台も突破する事が出来ました。 これもひとえに皆さんのおかげです。 これからもどうか宜しくお願いいたします。
>>198 大河ドラマ「毛利元就」で山陰の戦国大名である尼子晴久が妻に
石見銀山の銀の毒を盛られて死んだシーンを思い出しましたね。
短文ながらかなり元の特徴を生かしていて良かったです。
>>199 お金の「延滞」ですか。魏の将軍曹洪を持ち出したことによって
リアリティが増していて面白かったですね。
突然ですが、
今まで数々の人物記を見てきましたが、皆さんが一生懸命に考えて
作った力作揃いがたくさんあって私は涙が出るほど非常に嬉しいです。
初めこのスレッドを立てたときは「立てたのは良いけどすぐに
潰れてしまうのは?」と思ったくらいとても不安でした。
でも、さっきのように色々なトラブルがあれ、ここまで続けられたのは
奇跡のような気がします。
しつこいようですが、これからもこのスレッドを宜しくお願いします。
>>1 さん、いくら何でもそりゃオーバーだよ
感謝してくれるのはありがたいけど、ほどほどにね
その通りだ。まるで「もうすぐ自分は死ぬ」みたいな感じだよ。 気軽でいいんだ。気軽でね。
206 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/03/18(土) 20:12:05
おい!!
そんな言いかたないだろうが!!
>>1 に謝れ!!
208 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/03/18(土) 20:19:57
210 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/03/18(土) 21:19:49
つーか、ルールに「アニメキャラを武将化にするのはお断り」と書かれていないっつーけど スレタイが「三国志武将っぽい漢字を武将にするスレ」なんだから 当て字でアニメキャラを武将にするなんてのはスレ違い そもそもスレ違いの内容をルールに書いたりしないだろ、普通
211 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/03/18(土) 22:24:06
>>210 別にいーじゃねーか
お前らに何か危害を及ぼしたらそりゃ別だけどよ、
そんなことないだろ? なら好きにやらせとけよ
俺は結構好きだぜ、こういうのは
212 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/03/18(土) 22:29:05
>>211 だ
それによ、そんなに抵抗感があるなら
お前らもこのスレの趣旨に沿って人物記で
対抗したらどうだ? そうすれば荒らしにならんし
このスレもより盛り上がるだろうぜ
213 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/03/18(土) 23:15:47
『姓』電『名』柱『字』不明 175〜222 蜀の将 初志貫徹を尊び一度こうと決めたらコテでも動かない頑固者であったが 落ち着いた人柄と護衛等の際に見せる高い守備力で領民・同僚からは高い支持を得ていた また鋭い直感を持つ男であり、 何かを閃くときは頭にビビッと来るらしい(本人談) 尚、犬からはどうも好かれなく度々、尿をかけられていたらしい
214 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/03/18(土) 23:52:01
>>213 なかなか面白く、特徴を捉えていますね。
ただ、もう少し「〜の戦いでは先頭に立ち、敵の追撃を阻んだ」
など詳しく書けばもっと良くなると思います。
ともあれ出して下さってありがとうございます。
これからもどうか宜しくお願いしますね。(
>>1 より)
>213 本来のこのスレに相応しい作品超乙!
216 :
211 :2006/03/18(土) 23:59:01
ほれ、この
>>1 という人物、お前らが出したレスをちゃんと寛容に
受け止めてくれてるだろ 分かってんだよ、
ちゃんとこのスレの趣旨をよ
こんなに温厚なヤツをあまり責めてやるなよ、な?
なぁ、何をそんなに必死になってるんだ?ネタスレで
218 :
>>1desu :2006/03/19(日) 00:10:35
必死になっていませんよ。ただ、
219 :
>>1です :2006/03/19(日) 00:13:30
すいません、ミスをしてしまいました。 ただ、私は楽しくこのスレッドを続けていきたいと 思っているだけですよ。
220 :
211 :2006/03/19(日) 00:19:34
だからお前らあんまり責めてやるなっつったろ
変に動揺しとるだろ、
>>1 が
今まで普遍的にやってきたのに突然横やり入れるから
こんな状況になったんだろうが
これ以上突っ込むと「荒らし」と見なされるぞ!!
気を付けろよ
バカが沸いてるな そっとしとくからsageくらい覚えろよ メール欄に半角でsageだ。おk?
222 :
ゴボウ天 :2006/03/19(日) 00:25:35
>>211 の言うとおりだよ。
アニメキャラが何だ!!
内容が面白かったらそれで良いじゃないか!!
>>1 さんだって「それは承知している」って言ってるから
許してやれないのか!!
アニメキャラ云々で抗議している人達が何だかつまらなく
しているようにしか思えなくなってきたよ。
>>222 >>221 いい加減にしろ、アニオタピザが。糞スレageで白痴っぷり晒すなや
オナヌーなら下でやってろ
もういいですよ。私は私なりにこのスレッドが1000番台到達するまで
続けていきます。ではいきますよ。
諸葛上(ショカツジョウ)205〜289 字は京伯(キョウハク)
呉の幕僚で、司農を務めた。呉の幕僚・諸葛瑾の息子で、諸葛恪の弟、
諸葛烈(
>>29 )の兄。
性格は父親譲りの人徳者だが、反面短気。金銭には何かと
うるさかったという。
賄賂を受け取った容疑がある官僚や武人に対しては決まって
「おい、受け取ったんやろ?カネを。分かってるんやで。
受け取ったもん早よ出さんかい!!」と字通り脅迫めいた口調で
白状させ、それでも出さなかった官僚、武人には杖で100叩き
した上で受け取った賄賂を出させた。
ただ、日頃から「悪人でもしっかり叩けば鋭い刃なり宝石なりになる」
と言っていたため、、それ以上の極刑には処さなかったという。
289年に他界。没後、建業に「京伯廟」が建てられ、財の神様として
崇められた。
名前は「恐喝」という意味の「かつあげ」から、字は「脅迫」から引用
しました。
そこでながれを読まずうp 丹 凶祖 字 倍刻 魏の学者。自ら志願をして、エリートを養成する学校を開く。 だが内心、劉備と内通・結託し、国内のエリート層に「平和」の名の下の敗北主義を広める。 しかしいち早く察知した劉曄が密通の容疑で逮捕する。 あまりの卑劣な手口に激怒した曹操の手で手足をすりつぶされた後、 生きながら目玉をくりぬかれ、頭蓋に穴をあけられた後、そこから酢を注がれて殺された挙句 死骸をそのまま鳥に食わせるままとした。 時の人々は「同じ劉氏の手で討たれるとは皮肉なものよ」と嘲わらった。
226 :
211 :2006/03/19(日) 00:59:56
ほう、面白いな 「かつあげ」か・・・
高校時代、俺のダチが何回かやって補導されたが、何とか
説得してやめさせたことを思い出したぜ
しかしどうやらまだ嵐ならぬ「荒らし」がまだ吹きすさんでる
ようだな
>>223 よ、白痴ぶり満々の発言だぜ いい加減にしろよ
>>225 いくら何でもむごたらしすぎますね。
書き込みがいくら自由でも「手足をすりつぶされた後、
生きながら目玉をくりぬかれ、頭蓋に穴をあけられた後、
そこから酢を注がれて殺された挙句死骸をそのまま鳥に
食わせるままとした」というのは誰から見てもドン引き
しますよ。
228 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/03/19(日) 01:30:10
>>226 厨の典型だな。それでもしっかりsageてる辺りワロスwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>223 はsage方教えてくれたんだから感謝しろよピザ
凱図(ガイト)185〜270 字は堂本(ドウホン)
呉の武将で、威東将軍を務めた。
容貌はパンタラッサ王国の王楽斗(
>>183 )に瓜二つの銀髪紅眼の美男子。
性格は温厚で人付き合いが良く、人望が厚かった。
水上戦が得意で、赤壁の戦いでは伊庵(前スレ
>>958 )の部隊に所属し、
泳いでの奇襲作戦で活躍した。その後も幾多の戦いで常に戦果を挙げた。
海南島沖の海戦(
>>186 )では若かった頃の自分と瓜二つである敵将の
楽斗を見たとき、思わず「何すれぞ天はかような偶然を生まさざらん!!
(どうして天はこのような偶然を生んでしまったのだ!!)」と叫んだと
いう。結果、暴風雨の最中の乱戦で楽斗をおびき出して桓杯(
>>83 )に
討ち取らせるに成功したが凱図は「何だか自分を殺しているようで後味が
悪い」と云い、祝勝の宴でも終始曇った表情を見せていたという。
その後、余姚侯に封じられ、270年に他界。
彼のモデルは楽斗同様、「マーメイドメロディ ぴちぴちピッチ」の
「ガイト」です。字は同作品に出てくる「堂本海斗」(どうもと かいと)
というキャラの名字である「堂本」から引用しました。
冠隆 字 武無 三国時代に一党を率いて、群雄の間を渡り歩いた一種の傭兵団の頭目。 部下に兵 四錠雲、田弐、木無 態陽らを従え、様々な戦いを転戦する。 はじめは張角に従い、各地で官軍と戦う…といえば聞こえはいいが、 実のところ略奪暴行虐殺のみを率先して行い、肝心の戦いは真っ先に逃げ出す体たらく。 董卓、袁紹、呂布と渡り歩いた。部下の田弐の宣伝能力は優れ、 冠隆一党の悪事を巧みに寄宿先になすりつけ、自分たちは勇壮かつ華やかと 吹き込んだ。だが悪事もついに呂布の滅亡とともに露見、一党は曹操に捕らえられた。 冠隆はなおも「我々の勇猛さは三国一であり、参謀にしてもその智謀四海を見渡し…」と説くも 「お前らの勇猛さは弱者にのみ向き、肝心の強者に対して背を向けるまこと恐れ入る武勇。 智謀はおのれ等の悪事を塗りたくる捏造ばかりに優れるだけよ。」 と一笑し、「貴様ら卑劣の徒に歳を重ねさせては曹操の恥。」とまとめて処刑される。 田弐の宣伝工作と脅迫の影に隠れて、冠隆に虐げられていた人々は彼らの首を見つけるや否や かつての董卓のように蹴りまわした挙句、死骸も粉々に砕いて 肥溜めの中でまぜこぜにされたといわれる。
>>228 お前アホか? sage方ぐれえ最初っから知っとるわボケ
ただ単に付けねえだけだ 変に挑発しているお前の方が
中坊の臭いがプンプンするぜ。
ああ、あとこれまでのやり取りコピーしてよ、会社の連中に見せるぜ
ひょっとしたらお前、うちの社の有名人になるだろうよ、へっへっへ
じゃあな、ちゅ、う、ぼ、う君
>>231 いや、釣りか知らんがそれはやめといた方がいいと思うぞ。マジで。
府楼 緋 字 三五 孫権の秘書官。記憶力と文に優れ、一日の予定を任されたりすることが多かった。 だが後年、禰武出や示威出楼無に出番を奪われ、一線からは外される。 とはいえ、前の二人が人付き合いを苦手として、孫権以外の人間とあまり口を 効かなかったのに対し、府楼は様々な人間と話したことで 人望があったため、家臣団の間の折衝を行うようになる。 しかし己の能力に限界を感じた府楼はやや隠居には早い45歳だったものの 「役目を終えた」と言い残し、宮廷から去り、地方の文官として余生を過ごした。
賀祖凛(ガソリン)180〜262 字は満誕(マンタン) 呉の武将。青州・瑯邪の油売りの子として生まれた。 赤壁の戦いで呉・蜀連合軍に勝利をもたらせた「火攻めの計」では 賀祖凛が多量の獣油をこの作戦で提供し、地味ながら勝利に結び 付け、貢献を果たした。 また、夷陵の戦いでもこの賀祖凛の獣油を使い、蜀軍を火だるまに 仕立て、以後賀祖凛は敵から「火計に賀祖凛あり」と恐れられていた。 後に艾侯に封じられ、製油の発展に貢献し、ある意味「油まみれ」の 人生を送った。 名前は「ガソリン」から、字は「満タン」から引用しました。
>>232 お前さんがそう言うのなら、やめるわ
でも次またロクでもないことでもしたら
その時は容赦しないからな、マジで
覚悟しといてくれよ
本当は俺だってこのスレのんびり見たいんだよ、面白えし
>>235 sageも知らん厨が覚悟しろって?笑わせんなよ
好きなだけコピーしてくれ
>>236 そっとしといてやんなさい。わざわざあおらんでも良いって。
春なんだろうさ。
>>233 久しぶりに趣のある人物記で面白かったです。
彼のモデルはどうやらフロッピーディスクみたいですね。
そして字の「三五」は3.5メガバイトという意味なのでしょうかね?
あとライバルですが、一人はCD ROMということは分かりましたが、
もう一人の「禰武出」は一体誰でしょうか?
返事を待ってます。
>>238 三五は3.5インチ
禰武出はDVDをもじったつもり。
>>239 ありがとうございます、これでスッキリしました。
また力作をどうかお願いいたします。
晴天(セイテン)169〜210 字は不明(あだ名に「明朗」がある) 劉虞、劉表に仕えた武将。 若き頃から人格者として知られ、劉虞、劉表の元に人民が集ったのは晴天のおかげとも言われる。 また容姿端麗で「明朗」というあだ名があったとも言われる。 また軍事、政治、外交全てに明るく、劉虞、黄祖に諫言することがあった。 劉虞の公孫サン討伐を諌めたが聞かれず、劉虞が処刑されると逃亡した。 その後人民に重きを置く仁政の劉表に仕え、内政に励む。 また江夏に赴任した時は甘寧を冷遇する黄祖を諌めるなど人物を見る目があった。 荊州の覇権をめぐって劉備と対立、210年に憂死した。暗殺説もある。 暗殺説が噂となり、遂に荊州の民は関羽に懐かなかったという。
力作ありがとうございます。 この「晴天」という人物、私の好きなタイプの人物ですね。 また「こんな好人物と対立するとは劉備め、罪な男だ!!」と 思いたくなりましたよ。 また宜しくお願いします。
このスレきめぇwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
244 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/03/19(日) 15:14:25
なにこのスレ
245 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/03/19(日) 15:23:41
>>243 お前は「腕なげぇwwwwwwwwwwwwwwww」というスレから来たヤツか?
>>245 色んなスレで見るけど、sageって知ってる?
ここを荒らすようでしたらもう通報するしかないみたいですね。
248 :
兵卒 :2006/03/19(日) 23:44:45
>>201 野球→キックボール 柔道→HERO
やり方が変われば名前も変わる。趣旨が変われば名前も変わる。
だから「当て字で三国志武将を作るスレッド」には賛成
>>210 賛成
>>211 ,212 微妙、賛成
>>220 横槍は痴岱さん。つーか良い指摘ね
>>222 前半 アニメは「当て字で三国志武将を作るスレッド」
後半 泣いて馬ショク斬る(?)
>>231 ,232 もう少し言葉を選んだ方が・・・、賛成
>>235 お前もロクでもない事するなよ。でものんびり見たいのもわかる
>>237 賛成
>>243 このスレの方向についての討論は賛成するが、「きもい」一言は考えもの。
>>247 誰に?
249 :
兵卒 :2006/03/19(日) 23:47:24
>>1 なあ、まとめサイトに「三代目スレ」が無いの気付いてる?
諸葛城(ショカツジョウ)209〜291 字は由紀(ユキ)
呉の幕僚で、太楽令、後に太常を務めた。
諸葛瑾の息子で、諸葛恪、諸葛烈(
>>29 )、諸葛上(
>>224 )の弟。
「破亜度岩(ハードロック)」という歌謡を手がけ、酒焼けしたような
ハスキーボイスを生かして唄を披露、宴で「慕編美庵(ボヘミアン)」
を唄い、孫権に絶賛された。
政治的手腕はそこそこだったが、その他にも「英雄〜忍耐英雄〜
(ヒーロー〜Holding Out For A Hero〜)」「木曽山中(木曽は
山の中)」「悲哀海洋(悲しみのオーシャン)」などの名曲を世に
送り出し、人々から「情熱の太常」と云われた。
後に石城侯に封じられ、都市開発に功を成した。
彼のモデルは歌手の葛城ユキです。
「ボヘミアン」は最高ですね。
>>1 です。
「まとめサイト」に入っていないのは分かっていますよ。
でも今はそっとしておいて下さい。
>>249 マジ?!ここ釣堀?
ってことは・・・三代目はどこ?
邪酢羅句 字 尼降 劉表の下知で国内の音曲・楽譜の管理を行った文官。 著作権の概念を守るという名目の下、民衆から諸侯まで厳しく税を取り立てた。 しかしその手口は賊徒同然のやり口だった上、権力を振りかざして元の原作者すら 著作権料を取り立てるという本末転倒の状態となった。挙句、民衆が趣味で奏でた曲や 記録・教育のために作ったものにまで税を要求し、渋れば私兵を繰り出して その記録物を破壊するなどして激しく恨まれた。 しかもその取り立てた税をごまかし、私腹を肥やしていた。 荊州が曹操に降伏した際に、音楽管理の仕事の継続を望むが、すでにその悪事は曹操の耳に入っており 「民衆の税を盗み喰って太った豚の皮で作った太鼓の音が聞きたい」と、処刑された。 言葉の通り、足元の爪を一枚一枚丁寧に剥がし、耳をのこぎりで殺いでは鉄ごてで焼くなどの拷問を 百日に渡りかけ続け、悲鳴を民衆に聞かせ、最終日には民衆自身の手でのこぎりで身体を縦横無尽に切り裂かせ その音色をもって虐げられた民衆の心を癒した。
まだこの3代目はまとめサイトには入ってはいませんが、 ここの人物記は各々「バラ」の状態でまとめサイトに入れてあります。 2代目はdat落ちして数日後に入りましたので、おそらく ここもdat落ちした後に入るでしょう。
255 :
241 :2006/03/20(月) 15:08:58
>>242 ありがとうございます、ちょっと補足を。
晴天は劉備が荊州牧になると劉備による蜀討伐を耳にした為、劉備に諫言した。
「玄徳殿は天下三分の計により蜀討伐を画策していると聞くが、それは勧められないです。」
「否、それは私ではなく諸葛亮の意見だ、私は未だ劉璋を攻める決意に到ってない。」
「到ってない?、ではいつか攻めるかもしれない・・・、と。
漢王朝復興を目指すのならば悪戯に戦争を起こさず話し合いで解決するべきかと思いますが。」
「否、戦乱の世である以上、戦は避けられまい、辛いとは思うが民を兵役に・・・。」
「駄目ですぞ、この荊州の人民を駆り立てるなど。平和と人民を愛す者ならば御分かりでしょう。」
「私だって・・・、綺麗事を並べ行動しようとした。しかしこの衰退・・・。
戦で、武で何かを成し遂げなければならない苦痛、貴方にはお分かりか。」
「ではお聞きしましょう、漢が何をしました。人民を省みず痴政を行った為人民は黄巾の乱、
宗教という思想統一の構えに突き動かされ強靭な軍団の仲間入りを果たし、
それを官軍が討伐し、更に反乱が、それに乗じて大陸は混乱するのです。」
そして最後にこう言った。
「漢が何をしましたか、少なくとも霊帝は自ら漢の衰退を招いたのです、綺麗事を言っているのは貴方ではありませんか!」
これが命取りになった、この言葉に劉備は憤激し上奏、晴天は交州に流された。
その後晴天は友人の士燮に子の晴雨(後の青雲大王)を委ね、憂死した。
256 :
241 :2006/03/20(月) 15:48:30
晴雨(セイウ)198〜225 字は不明
晴天(
>>241 )の子。士燮に仕え、教養を深め兵学や権謀術数に優れていた。
後に南中の反乱勃発に暗躍、反乱では徹底抗戦不服従、魏が蜀に攻め入るまで善戦する様に進言。
また青雲大王を名乗り自ら軍を率いる、しかし高定、朱褒らが討伐された後に抵抗し戦死。
尚、演義では孟獲の降伏を知らされ毒泉の水を飲み自害した。
晴雨は父の死後士燮に仕え、勉学に励み教養を深め。古来の書物に読み耽りその将来を期待されていた。
また交州の統治、情報網、南海貿易などの進言を士燮にし、それが成功すると重用される様になる。
しかしある日、南海貿易の船に乗り、中国大陸南部、今のベトナムに辿り着く。
晴雨はベトナム民族を扇動、意思統一を画策し南中の反乱勃発に暗躍する。
父譲りの人徳でベトナム民族を慰撫し高定、朱褒らを扇動し反乱を起こす。
自らも「青雲大王」を名乗り従軍する、弩兵で抵抗するも破れ、戦死する。
また子供の晴雨計(セイウケイ、雨計は名か字か不明だが、察するに字か)225〜234
はとある将軍に育てられるが若死した。
>>241 さん、補足と新たな力作を送っていただき、
ありがとうございます。補足の方では何故この晴天が劉備に
疎まれたのかがよく分かりました。劉備もどうやら戦を避け、
話し合いで荊州を明け渡して欲しいという一面を伺うことが
出来ました。
あと、この晴雨という人物の経緯ですが、どうも似た内容が
重複しているようですが、これは「史書」と「三国志演義」の
ようにエピソードを分けているのでしょうか?
ともあれ貴方の力作は陳舜臣並みのような感じがしました。
これからも宜しくお願いいたします。(
>>1 より)
258 :
241 :2006/03/21(火) 18:02:55
>>257 重複しているのは、徳間書店の「三国志英傑伝」の様にその武将の簡略な説明をし、
それから詳細等を本文で、としてみたかったのですがその本文の内容が大雑把でした。
「演義のエピソード」を書いていればまだ良かったかもしれませんorz。
陳舜臣さんが書かれたものはまだ読んだことがないのですが巷では名書と呼ばれているみたいで、
何れにせよ陳舜臣さんの名を出し評価して頂いたのは思いもよらぬ過分です。
ありがとうございます。
いえいえ、面白かったですよ。
貴方のようにこれ程趣向を凝らした人物記は見たことがありません。
これからもこの調子でどうか宜しくお願いいたします。(
>>1 より)
尾管 字 刑団錬
魏国内の有数の資産家。優れた戦車を多数生産し、巨額の富を得る。
だが労働者の扱いが悪く、結果隠者を大量に生み出し曹操ににらまれる。
その際、言い訳がましく「文学が隠者を生み出す原因」と言い逃れようとした。
しかし、人件費を抑えるために蜀や呉からの流民を無断で採用し、
戦車を売るために劉備や孫権とも内通したため、ついに売国奴として同じ売国仲間の三盥とともに処刑された。
戦車の端に耳を括り付けられ、八つ裂きの要領で顔面の皮を剥がされ、そこから
糞尿を注ぎ込まれた。なおも命乞いを続けたところ、新都
>>147 が
「そこまで言うなら」とあえて延命の薬を投与。ただし全身の皮を剥がされ、
地面に蹴られまわされる中、痛みのあまりショック死という惨めな最後だったといわれる。
法 武蘭 字はなし 孫権に仕えた猛将。大きい棍棒を巧みに操り、次々と敵の首を弾き飛ばすという 見た目にも恐ろしげな戦い方をし、敵味方双方から恐れられ、孫権も遠ざけようとしたが だがその恐ろしさが逆に頼もしいと、孫恒から重用された。 そのことに恩義を感じた法は夷稜の戦いで包囲されている孫恒を 無断で救出に向かい、劣勢の孫恒軍を、いつもの恐ろしい戦い方で 助け出した。彼はこの戦いで戦死したが、孫恒は彼のことを忘れず、 「逆転の法武蘭」と称えて葬った。 このことから、劣勢からの逆転を逆転ホームランということになったとか・・・
雨天(ウテン)?〜248 は決行 蜀の武将、元の名は于天、魏の五大将で知られる于禁の息子。 魏に仕えていたが父が憤死した後身の危険を感じ蜀に逃亡する。 性格は父に似て厳格であったが陰湿な性格でもあった。 しかし彼の陰湿な性格は「樊城の戦い」の時に一変した。 豪雨により于禁の軍は危機に陥り、最早関羽の猛攻に耐えるのが精一杯であった。 そこで雨天は「この雨に乗じて、側面から敵軍を衝きましょう、そういえば少しは耐え凌げるはずです。」 本来厳格な于禁が許可しない様な進言内容であったが感嘆して許可したという。 しかし苦戦は免れられず雨天は潰滅寸前で軍を撤退させ、関羽軍をひきつけた。 関羽は雨天を追わず于禁軍に直行し、結局降伏したのである。 敗戦後は呉に送られたが虞翻が于禁を侮蔑するのに耐え切れず雨天は虞翻斬殺を試みるが露見した為于禁らは追い出された。 父の于禁が憤死すると、蜀に逃亡、その厳格な性格は丞相の諸葛亮に信頼される要因となった。 第一次北伐においては王平とともに馬謖の山頂布陣を諌め、また馬謖が張コウに敗れた際には 雨天は弩兵を率い、矢を雨あられの様に敵に浴びせ敵の侵攻を防いだ。 その後も確実な用兵術で諸葛亮に信任され、第三次北伐では魏延の副将も務めた。
第五次北伐、所謂五丈原の戦いでは一拠点の守備を任されるなど、その頃には異例の出世も遂げていた。 諸葛亮死後の撤退劇では魏延に味方し、彼の軍だけは王平の大喝にも脅えなかったという。 その後魏延に味方したとして皇帝劉禅に疑われるが董允が 「彼は誠実であり厳格、きっと魏延の詭弁に騙されたのでしょう。」といった為罪には問われなかった。 しかし董允死後黄皓の讒言により魏延に味方した件が問題視され失脚した。 彼は死ぬ前にこう言ったという。 「ああ、惜しいかな、忠を尽くしている国が内から滅ぶのを黙殺していることほど辛い事はない。 魏延殿、申し訳ない、蜀の命運を担うのは私にとって重荷だった。 そして父上、貴方に汚名を着せることになってしまうかもしれません、しかし許して下さい。 私の命一つで良ければこの国に捧げます、死んで詫びたいのです。」 そうして自害した、彼は于禁とは異なり兵卒に慕われていた。 ただ厳格なことは父に劣らず、「雨天でも、北伐決行するぞ!」という強い信念があった。 陳寿は彼のことをこう評している。 「父の于禁同様厳格であったが、同時に兵卒に慕われていた。これは父を反面教師にしたのだろう。 しかし、どちらもその最期は報われなかった、後主が英断に至らなかったのは惜しむべきである。」
264 :
262 :2006/03/22(水) 20:26:25
訂正 そういえば→そうすれば 長文すみません。
>>1 です。
この人物記を送ってくださった方は「晴天」の人物記を送った方と同一の方ですか?
やはり陳舜臣さん並みの文章です。これ程内容が詳細で台詞もふんだんにいれた
人物記を記載する方は貴方しかいません。再び面白い人物記を送って頂き、
ありがとうございます。
266 :
262 :2006/03/23(木) 18:47:53
はい、そうです。まあ武将の名前からわかりますがw。 度々過分な評価、ありがとうございます。今後も精進していきます。
>>252 なんかおかしいと思ったら
初代スレ立てた
>>1 じゃなくてこのスレ立てた
>>1 が全部決めようとしてるからニまでとは全然空気が違うのな。
268 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/03/26(日) 00:20:32
陳列(チンレツ)190〜273 字は整理(セイリ)
魏の幕僚で、揚州の刺史劉ようの部将・陳横の甥。成里(
>>157 )、
もう一人の陳列(前スレ
>>208 。勝手につかってしまい申し訳
ございません)とは親友。名前通りきちんと物を並べていないと
気が済まない性格で、几帳面。
軍議ではその成里と陳列とともにまとめ役に徹し、必ずと言って
いいほど満場一致するような結論に導いた。
決して華やかな存在ではなかったが、成里、陳列同様に重宝され、
亡くなるまで第一線から離れなかったという。
簾刑部 字 なし 魏の武将。戦場での働きは並みだったが、エロさにかけては三国一と言われた。 とくに曹洪が後年、侍女に素肌に透ける薄絹をつけて躍らせたところを 満寵に叱られているが、これも彼の発案である。 艶やかさを好む曹操に重用され、おおくの淫乱な舞や書を起こす。 だが後年、房中術とかのレベルを超した淫らな内容に、 曹操ほどエロさに寛容ではなかった時の政権が大半を焼き払ってしまった。 僅かに残った書籍の著書、そしてあまり知られていなかった「簾刑部」の名が見つかり エロい妄想旺盛なものを「スケベ」と呼ぶようになった。
270 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/03/26(日) 15:30:08
きもいからまとめスレいれないんじゃ?なんちゅーかさ、もっと単純に笑えるのにせいよ
271 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/03/26(日) 16:03:52
田武 子理 田豊の遠い親戚にあたる。 エン紹配下にあって黄門を守るが、法飛・雲虎らが黄門から国外に逃亡し情報を漏らした為、罪に問われる。 田武は黄門から河に出、亡命を図るが その後の行方は知られていない。 一説に、倭に流れ着きそこで 武田 となを変え一大勢力となったとも。 男色家として有名であった。
272 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/03/26(日) 18:01:09
>>270 分かりました!!
ちょっと笑いをとれるかどうかは分かりませんが
なるべくシンプルで笑いを誘えるようなものを
作成しましょう。
支柱(シチュウ)180〜252 字は防止(ボウシ)
蜀の将電柱(
>>213 )の部将で、常に電柱の支えとして活躍、
特に陽平関の戦いで電柱が敵の挟撃に晒されたとき、支柱が
裸一貫で守り通し、これによりお互い改めて信頼をし直した
という。
電柱没後は「もはや支えるべきものがなくなった」と嘆いて
いたが、妻に「電柱さんほどではありませんが私たちがいる
ではありませんか」と言われ、改めて支えるものを見つけた
のか以後も武将で活躍した。後に偏将軍に任命され、北伐では
屯田の指導に力を入れた。
余談だが、電柱同様、支柱も何故か犬に嫌われていたようで、
小便をよくかけられていた。
273 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/03/26(日) 18:08:57
結構笑えるものはあるぞ 「靼韃 慕容四 慕容四」は久しぶりの ヒットだったと思うな、俺は まあ、「列沙判朶」には及ばないけど。
274 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/03/26(日) 23:53:57
賀須潔(ガスケツ)184〜265 字は符寸(プスン)
呉の武将で、賀祖凛(
>>234 )の実弟。
実力はなかなかのものだが、性格は虫も殺さぬ位温厚であるため、
よく最後まで畳みかけずあと一歩のところで躊躇するなどの足踏みが
あり、部隊長などを任せられるものではなかったらしく、よく副隊長
クラスとして従軍していたという。
無血開城したことで有名な江陵攻略の時は呂蒙に仕え、降参を誘う
矢文を何千通もしたためて開城を求め、夷陵の戦いでは孫凱
(「当て字で三国志武将を作るスレッド」を参照)と共に蜀軍の
進路を防ぐ役目に務めるなど地味ながらも戦場で一役を担った。
位は兄の賀祖凛が上なのだが、この兄弟はとても仲が良く、
賀須潔が「兄は私よりも遙かに実行に移すことが早く、私なぞ
兄の足下にも及ばない」と言えば賀祖凛は「位は私が上でも
須潔は人間性としては私より遙かに上だ」と言い、互いに
尊敬の念を払っていたという。
後に賀須潔は彭沢侯に封じられ、水上交通の活性化にいそしんだ。
名前は「ガス欠」から、字はガス欠で空回りしたときの音である
「プスン」から引用しました。
275 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/03/27(月) 01:14:54
卒業(ソツギョウ)151〜242 字は文集(ブンシュウ) 冀州・清河国出身。同州・博陵に学習塾「文塾」を開き、数々の 生徒を世に送り出していた。彼の塾は大規模なものであったが、 身分にとらわれず誰でも入学を許したという。その中には花井、高見、 成里、ダブル陳列、ダブル丸尾、秦文、袁積凱、荀済、紀久、法顔、 法審、誹謗、晴天、曹然(いずれもこのスレッドの[一]〜[三] に登場した人物)等々、後に三国時代に活躍する英雄達がこの塾から 輩出された。生徒に対して厳しく接することが多かったが、反面悩み などをきっちりと受け入れ、共に解決する事も多かったため、信頼が 厚く、誰からも「卒業先生」呼び慕われていた。 そして生徒がこの塾から巣立つときは決まって寄せ書きを書かせたり、 修了証明書を渡すほか、自ら書いた詩「仰尊(「仰げば尊し」の意)」 を詠んで生徒の将来安泰を願っていたという。 以後も多くの生徒に教えを学ばせ、242年に人生の卒業を迎えた。 少し遅れましたが、卒業シーズンということでこの人物記を投稿 いたしました。
276 :
age :2006/03/27(月) 03:59:20
遅れて申し訳ございませんが
>>266 さん、お返事ありがとう
ございます。私もこれからよりよい人物記を作成いたします
のでお互い頑張っていきましょう。 では。
馬季 範麻(バキ ハンマ)???〜??? 「王者」に記述がある猛将。 都を暴れまわった鬼、王賀の討伐に従事した。
>>277 「刃牙」ですか。私も一時深夜放送で見たことがありましたよ。
特に花山薫が好きでしたね。
花山(カザン) 168〜264 字は雅薫(ガクン)
魏の武将で、征南将軍を務めた。雍州の刺史・王経の部将である
花永の伯父で、花井の実兄。身長は9尺2寸(約279p)、体重は
72貫(約270s)の超大柄で筋肉の塊みたいな身体をしていた。
容貌は厳ついが反面性格は冷静でどんな物事にも動じず、また部下の
面倒見も良かったという。刀をいとも簡単に折り曲げるくらい怪力の
持ち主で、素手で相手の局所を握りつぶす「握撃」という技を持ち、
敵兵から相当畏怖されていたらしい。
22歳の時に曹操に仕え、小沛では実弟の花井と共に呂布軍壊滅に乗じ、
呂布の部将である高順を捕らえ、官渡の戦いでは袁紹軍の兵站基地である
烏巣を襲撃、守備隊長の淳于瓊の軍勢の内400人を素手で叩きのめし、
勇猛さをアピール、また高幹の夜襲をいち早く見抜き、500人の手勢を
率いて両サイドで迎え撃つなど勘と戦術の鋭さをも見せつけた。
以後も花井、杜黒と共に出陣することが多くなり、赤壁の戦いでは曹操の
敗走の手助けをし、合肥の戦いで張遼に仕え、班虞、冷越と共に孫権軍を
撃破するなど最早欠かせぬ存在となっていった。
また、帯方侯に封じられてから内政でも北方交易や芋類、豆類など寒帯地域
でも育つ作物の栽培を推進して飢饉対策に乗り込むなど手腕を発揮し、遼水
の戦いでその作物を兵糧として提供し、自軍を万全の体勢にする役目を
担った。
264年に他界。「仁侯」と謚された。
字の「雅薫」は花山薫の「薫」とその声を務めた中田雅之さんの「雅」
から一文字ずつ取って引用しました。
>>278 なるほど でも字の読み方が「ガクン」っていうのは
どうも拍子抜けするな どうでもいいけどね
俺も花山のファンだよ 何というか眼鏡をかけたキャラで
こんなに強くて格好いい奴見るのは滅多に無いからな、
俺の中では あとアントニオ猪木がモデルの「猪狩」とか
いうキャラもいいな
何処茂(ドコモ) 生没年不詳 南蛮の族長の一人。 携帯洞主の座をめぐって、周辺の族長と激しい争いを繰り広げていた。 蜀書には「その性音楽を好み、巨大な帽子を被る」とある。 「南蛮征伐」の折、孔明の前に一族とともに奇妙な踊りをしながらあらわれ、 愛嬌を振りまきながら、われわれと(朝貢関係の)契約を結ぶことがいかにお得かを説いた。 蜀との契約を背景に、忙蛇本や衛融といったライバルを制圧しにかかったのだから、 かわいいふりをして中身はしたたかな戦略家と言えよう。
>>280 面白いですね。「ドコモダケ」を使うとは予想外でした。
あとライバルの「ボーダフォン」と「AU」も良かったです。
あと「通可本」(「TU-KA」のこと)もいませんでしたか?
ところでこのスレ、2人の常厨しかおらんのか?
>>282 いや、おりますよ、ちゃんと。
ただちょっと飽きているのか、または考案中ではないかと
思いますね。
田豪(デンゴウ)165〜261 字は宝陵(ホウリョウ)
魏の武将で、征東将軍を務めた。袁紹の参謀である田豊の甥。
そのため初めは袁紹の部将として仕えていた。幽州・薊出身。
身長は8尺5寸(約258p)の偉丈夫で、精悍な顔つきをしていた。
性格は正義感の塊かつ生真面目で、病弱の妹がおり、生涯非常に大事に
していた。その為か部下をも大事にする傾向があり、かなり人望が
厚かった。
彼は生まれつき頭が非常に固く、18歳の時、土砂崩れで村道を塞いだ
1丈(約3m)もの大きな岩を頭突きで砕いたという逸話があるくらいの
脅威だったという。
その頭突きで界橋の戦いで公孫[王賛]の軍の内250人を倒して武功を
挙げたが、後に優柔不断さを露わにした袁紹に愛想を尽かせて高覧と共に
曹操に降伏、曹操は田豪の勇猛さを前々から気に入っていたらしく、すぐ
偏将軍に任命、配下の武将として田豪を仕えさせた。
赤壁の戦い以降、陽平関で張魯軍を花山(
>>278 )と共に挟撃し、潼関で
于禁、張合βの軍を破竹の勢いで破る馬超を曹洪と共に阻止、遼水の戦い
では伏兵として吉守(
>>24 、
>>25 )軍の進撃を蹴散らすなど遜色の無い活躍
ぶりを見せたが、この3つの戦いで率いた兵の数はいずれも500人前後
だったらしく、楽進のように中規模の兵数を率いて巧みな戦いぶりを展開し、
いかに勇猛なのかも伺わせた。
その間、反乱を起こして戦没した公孫淵の代わりに遼東の太守に任命され、
海上交通の整備及び北方との外交に務めた。
261年に他界。「勇豪侯」と謚された。
彼のモデルはゲームの「ダウンタウン熱血物語」及び「熱血」シリーズに
出てくる「豪田剛」(ごうだ つよし)というキャラです。
字の「宝陵」は彼が通っていた高校の名前から引用いたしました。
285 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/03/30(木) 02:24:40
おお、くにおくんのキャラが出たか!! めちゃくちゃ嬉しいな 特に豪田がbPだと俺は思ってるからな
五代(ゴダイ)165〜263 字は谷花(コクカ)
魏の武将で、驃騎将軍を務めた。幽州・薊出身。
田豪(
>>284 )とは幼いときからの親友で、剣術が非常に優れており、
敵に四方八方囲まれても目に見えぬ高速回転の剣裁きで敵をなぎ倒した
という。
身長は8尺7寸(約263p)の巨漢。容貌はキレた顔つきをしており、
性格は基本的に一匹狼。一度怒ると手の施しようが無いくらい暴れるが、
田豪同様に正義に従事する事を身上としていた。
田豪同様、初めは袁紹に仕え、独自の剣術で盤河で公孫[王賛]の兵
の内、部将の厳綱を含む1500人を斬り倒し、武功を挙げたが、田豪
同様に袁紹に見切りを付けて曹操に仕え、偏将軍に任命された。
そこから袁尚が根城としている冀州城を先鋒で攻めて陥落させることを
始め、更に今度は袁尚の実兄である袁譚を挟み撃ちにして曹洪に討ち取らす
など数々の歴戦で積極的に攻め込み、敵を大いに恐れさせ、これは徒労に
終わったが、劉備の漢中侵攻では劉封軍を4里(約16q)まで追い払う
など、常に抵抗を忘れぬくらい、相変わらず好戦的な姿勢を執っていた。
また、プライベートでも「一心塾」という剣の道場を開き、部下に鍛練を
施した。そのため、五代の配下兵は非常に剣術が長けていたという。
遼水の戦いではかなりの高齢だったが、対峙するなりいきなり突撃する
指示を出し、鬼滅羅亜尼摩軍の戦意を損なわせることに活躍した。
その間、広陽の太守に任命され、麦や玉葱などの栽培推進及び人民の意見を
聞くために講演を開く制度を導入するなど安定した治安を敷いた。
263年に老衰で他界。「一閃侯」と謚された。
彼のモデルは田豪同様「ダウンタウン熱血物語」及び「くにおくん」
シリーズに出てきた「五代奨(ごだい すすむ)」です。
字は彼が通っていた谷花(たにはな)高校から引用いたしました。
287 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/03/31(金) 21:41:02
おぇ、まれにみるキモスレW
うるさいハエがきたな ageるな ボケ
元はまともなスレだったんだが・・・
>>289 さんへ
>>1 です
このような事態になったのはすべて私の責任です。
申し訳ありません。
単純にこれ以上アニメキャラをモデルにした 人物記を出さないようにする、というのはどう? それにアニメキャラOKなら「当て字で三国志キャラを作るスレッド」が あるからな
293 :
兵卒 :2006/04/06(木) 11:51:22
294 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/04/07(金) 09:04:23
>>292 賛成
アニメキャラが面白くない理由
1 元のアニメを知らない人間にはちっとも面白くない。
2 アニメの人物伝を三国志に移し替えただけになるからユーモアのひらめきがない。
もともと人物名じゃない言葉を無理に人物伝に書き替える
そこに閃きが求められ、ユーモアが生じるのだ。
鄭破 字 民愚 孫権配下の武将。魏にスパイとして入り込み、夜な夜な重鎮の武将の下へ 応援と称して金具をどんどんと打ち鳴らし、睡眠不足に追いやるという姑息ながらも えげつない作戦を得意としていた。逮捕される寸前に帰国し、孫権から賞される。 だが、宴席であまりにその功績を誇るあまりその金具を打ち鳴らしたところ 甘寧が「そんなに金具を打ち鳴らすのが好きなら貴様の頭で打ち鳴らしてやる!」と 鄭破の頭を掴み、「やめてくれ!ゆるしてくれぇ!」と無様に命乞いするのも聞かず 撥でがすがす殴りまくりついには死んでしまった。
296 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/04/08(土) 15:59:44
>>294 殿
では
>>295 殿の人物伝はいかがなものか?
私には何が元なのかさっぱり分からないのだが。
分かったからsageようぜ。
おおっ、そうだそうだ。 下げておこう。ほかの者に迷惑だからな。
黄砂(コウサ)180〜266 字は到来(トウライ) 魏の武将で、後漢の大尉だった黄琬の甥。 曹操に仕え、戦力はさほどなかったが時折、逃走するための手配を 整えることに長けていた。 その手段は海岸、または黄河の砂をたくさん詰め込んだ袋を山ほど 準備をして林や崖に隠れ、戦いで不利になればその砂を派手に撒いて 敵を目くらましにし、その隙に逃げるという方法で、劉備の漢中 侵攻では不利になった曹操軍、または張郃軍の逃走に役立った。 しかし、この逃走手段はまともに味方にもとばっちりを食ってしまう ため、漢中侵攻以来、使うことは限られるようになったという。 以後も遜色のない働きを見せ、52歳のときに修侯に封じられ、土地の 整備に力を入れるようになった。 昨日は非常に黄砂が舞っていたのでこの人物伝を作成いたしました。
>>300 確かに昨日の黄砂は凄かった。
太陽がくっきりと円形を見せていたよ。あと俺は
山の麓の辺りに住んでいるのだが、山の稜線までもが
消えうせていたな。
おお、遂に300番台突破したぞ!! ここからどうこのスレが進むのか楽しみじゃな、ハハハ!! みんな、頑張ってくれよ、ハハハ!!
>>1 よ
「責任は私にある」とかいっておきながらなんの対策をうつわけでもなく、本当お前は無責任だな。
冗談抜きに「1がこんなんだからこのスレは駄目になったのか」と思えるぞ。
せめて何かしらの気概をみせて欲しいもんだな。
>>303 さん、私は無責任ではありませんよ。
「アニメキャラを人物伝にすることを禁止にする」という提案は私が
出したものです。ちょっと我が家のパソコンが故障したため友人の
>>292 さんに頼んだのです。私だって何とかしようとする気持は非常に
強いですからね!!
それに・・・これは公言すると9分9厘「バカだ」と思われるようですが
人物伝のメモ帳も一応作っています。
ああ、後このレス及び
>>300 の人物伝はインターネットカフェで記載して
いるので悪しからず。
故障した!? そりゃ大変だな そうなると出る幕少なくなってしまうのでは?
おいおい、普通メーカーなどに問い合わせしたら大体直す手順教えて くれるはずだぞ パソコン自体壊れたから今修理に出しているのか?
>>306 さん、お返事ありがとうございます。
判って頂いただけで私は感無量です。
あと心配してくださった皆さん、またパソコンが直りましたら
また面白い人物伝を公表します。それまではインターネットカフェから
配信するか、あるいはもう少し磨きをかけるように頑張るよう心掛けます
のでどうか今後ともよろしくお願いします。
あとオーバーですが私も皆さん同様にこのスレッドの「復古」を
目指していることを覚えていてほしいと思います。
まあ、頑張ってくれ。それだけしか言えなくて申し訳ないが。 しかし、メモ帳まで作るとはそれほどこのスレを気に入ってるんだな。 このスレの魅力はどこにあるのかな?
一言でいえば想像力を働かせる、というところですね。 これ以上はうまく言えませんが、その想像することが面白いのだと 私は思います。
311 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/04/11(火) 18:32:17
紅茶(コウチャ)175〜250頃 字は花伝(カデン) 揚州の茶の専売業者かつ茶屋の店主で同州・銭唐出身。 代々、直営茶畑の茶葉をそのまま販売したりお茶にして客に提供していたが、 25歳の時、ある夏の蒸し暑い日に売り物の茶葉を不意に野ざらしにして しまった。だがこのとき茶葉は偶然にも発酵したため、香りが高まり、 不思議に思った紅茶は試しにお茶にして飲んだところ美味だったので そのまま売り、かなり大勢の客から絶賛された。ここから紅茶はこの お茶に合う様にアレンジをしたところ、牛乳と桃、そして檸檬が特に 合うことが判明、そしてそれらを客前に出すと、これまた大絶賛され、 揚州、交州合わせて50店舗以上ものチェーン店を持つくらい大規模な 茶屋に発展させた。 時の呉の皇帝孫権も「紅茶の茶を飲まざる者は常識を持つにあらず」と 言ってしまうくらい紅茶の茶を愛していたという。
紅茶花伝か。 俺は檸檬が好きだな。よく散歩のとき自販機で買うよ。 でも紅茶花伝に桃は無かったのでは?
清掃(セイソウ)186〜272 字は綺麗(キレイ) 呉の幕僚で、遼東の出。 働きぶりは終始一貫として地味なものだったが、荊州分割問題では 諸葛瑾の従者として出席し、積極的に分割の考案を出すなどの 活躍を見せた。 彼は生来、かなりの潔癖症で自宅には塵一つも見当たらなかったと いう。また性格は温厚で誰とでも人付き合いをきれいにするため、 かなり人望があったという。 272年に他界するが、彼を慕っていた人々は「清掃廟」という 祠を建立し、彼を掃除の神様として祀った。また、この祠に水を かけて手ぬぐいなどで磨くと人生や家内が綺麗さっぱり上手く いくと言われ、長年人々はこの祠を磨き続けたという。 しかし、その崇拝行為と長年の風化作用のためかその祠は明王朝の 初期に跡形も無く消えてしまったらしい。 悲しいものである。
なんじゃそりゃ? 建て替えたらいいのに でもそこがちょっと笑えたな、本当に
厳格(ゲンカク)222〜276 字は柔軟(ジュウナン) 厳格は厳然([二]の457、勝手に使ってすみません)の子供 厳然の死後、節操貫く「烈女」と賞された厳格の母は厳格に精一杯の愛情を注いだ。 その苦労あってか厳格は父の名に恥じない文武両道の士となり蒋エンは感心したという。 厳正らが処刑された時、劉禅は厳格の母に後宮に入らないか、と勧誘した。 しかし厳格の母は最後まで貞操を守り黄皓の讒言により処刑された。 本来であれば一族皆殺しになる筈だったが、劉禅は厳格の母が最期まで貞操を守り通した事に感嘆し、 厳格は慈悲により殺されずにすんだ。 しかし247年、蜀の衰退・腐敗に嫌気が差し厳格は魏に亡命する。 厳格は司馬懿のクーデターに加担、その為に破格の出世を遂げる。 厳格は伯父の厳正らと同様に清廉潔白の人であった為何度も辞退したが遂に一時期魏の廷尉になった。 また厳格は、政治的嗅覚が鋭く、巧妙な政治手腕の賈充を嫌っていたといわれるが 伯父らを反面教師にし、賄賂こそ贈らないものの賈充との交流は欠かさなかった。 その後政治が巧みな人物として活躍し晋の中華統一を見ることなく276年、没した。 因みに彼の一族は晋王朝で栄華を極め、父譲りの絶妙な政治手腕を振るったが祖父、父の面影は残していた。 賈氏が晋政権を牛耳る中でも厳氏は誇らしく働いたという。 しかしその後子の厳戒が賈氏を手を組み政権を牛耳り暴政を振るうが当然反発を招き司馬冏に殺されてしまう。 その後厳格の子孫を名乗る者が政治に携わる事になるがそれはずっと後の話である。
316 :
315 :2006/04/11(火) 20:57:18
ミスでした、「賈氏を─」→「賈氏と─」
317 :
315 :2006/04/12(水) 16:48:04
追記です。 厳戒(ゲンカイ) 厳格の子(長男) 248〜300年 厳格の跡継ぎとして政治手腕を発揮、しかし賈氏と手を組み300年司馬冏に殺害される。 厳粛(ゲンシュク) 厳格の子(次男) 255〜289年 征北将軍になる等有能で人望があった。司馬炎の乱交を諌めたが処刑される。 厳烈(ゲンレツ) 厳格の子(三男) 261〜302年 武略に長けた豪傑。杜預にその武勇を賞賛される。後に兄の仇の司馬冏を討つ。 因みに後世に厳格の子孫を名乗る者は彼の子孫といわれる。 厳達(ゲンタツ) 厳格の子(四男) 259〜277年 厳格に溺愛されるが、厳然の上司の関羽を裏切った孟達と同名であり、 その才を危惧した厳戒に殺される。
>>315 さん、貴方は以前「雨天」「晴天」の人物伝を投稿して
くださった方ですか?
だとするとやはり貴方の人物伝は内容が詳しくて非常に面白いと
思います。どうかこのスレッドの重鎮の一人としてこれからも投稿して
下さいませんか? 返事を待っています。
ところで「厳烈」という言葉の意味は何なのでしょうか?
こちらも返事待っています。(
>>1 )より
確かにこの
>>315 という人の人物伝は内容が詳しすぎる。
>>1 が以前に言った「陳舜臣並みの文章」という意味がよく分かるぜ。
この人、本職は中学、高校の教師か大学の助教授あるいは講師では
あるまいか?
三国志の事について語らせたら授業時間90分(ちなみに俺の通って
いた大学では1教科の授業時間はこれぐらいでした)は優に超えると
思うな。
雷鳴(ライメイ)169〜252 字は轟音(ゴウオン)
呉の武将で、袁術配下の部将だった雷薄の従兄弟。そのため初めは袁術に
仕えていた。
性格は豪快かつ明朗で、かなり声が大きかったらしい。怒ることはあまり無いが、
一度怒ると正に雷が落ちたかのように凄まじくなり、その凄さは孫権から
「雷鳴これ即ち霹靂なり」と言われるくらいのものだったという。
後に曹操が袁術を撃破したため袁術の息子袁燿、紀久(
>>163 )と共に廬江太守の
劉勲の元に逃れ、そこで江東平定を目的に侵攻してきた孫策に捕らえられたが、
紀久と共に仕えることを許された。
すると雷鳴は「仕えるべき主君を見つけた」と思ったのか大いに喜び、孫権の
代に変わっても武将として張り切り、208年の黄祖討伐では先陣を切って
甘寧に討たせる手筈を整えるなど活躍、赤壁の戦いでは周瑜の「苦肉の策」で
配下の将である黄蓋を棒で100叩きにするという役を買って出るなどどんな
役目でも嫌な顔を見せずに果たしたという。
以後も夷陵、濡須口、石亭の戦いで活躍、特に濡須口では陳武を討ち取った
[广龍]徳の追撃を猛突進して駆逐、更に地を揺るがさんばかりに大声を叫び
ながら魏軍本隊に突進してきたため慌てて魏は和睦を申し入れたという。
ちなみに海南島沖の海戦ではその大声で楽斗軍の戦意を喪失させ、突撃の糸口を
作った。
その間に寿春侯に封じられ、農地開拓に力を入れ、特に米作と大根の収穫に成功を
多く収めている。
252年に極度の熱病で他界したが、その最後は壮絶(?)だったらしく、臨終で
大熱にうなされた末、思いっきり「わ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!」
と中国全土を揺るがさんばかりに叫んだ後ぼそりと「かめ」と呟いて亡くなったという。
「何故にわかめ??」と多くの歴史学者は疑問を持ち、様々な追求をしたものの
現在もこの疑問は完全なる判明には全くといっていいほど至っていない。
村下(ソンカ)171〜268 字は孝蔵(コウゾウ) 魏の幕僚で、太楽令を務めた。幽州・遼東の出。 音楽と詩に秀でていて、23歳の時に洛陽に赴き、道端で愛用の月琴 (リュートの仲間である弦楽器の一種)を使って音楽を市民に披露したところ、 忽ち好評となり、洛陽で知らない者は一人もいないと云われるほど有名に なった。その評判を聞いた曹操は村下を宮廷に招き入れ、献帝に曲を披露させた。 その時村下は「踊子(踊り子)」という曲を唄ったが、献帝はいたく気に入り、 彼を宮廷音楽奏者として仕えさせた。 その後、魏の代になると太楽令に任命され、「風車(かざぐるま)」、「少女」、 「春雨」、「自由蹴(フリーキック)」、「禁止遊戯(禁じられた遊び)」など数々の 作曲を手掛けた。曹操はその中でも「非常に物悲しいが人間としての優しさが多く 秘められている」という事で「春雨」と「初恋」を気に入っていたという。 その後は臨邑侯に封じられ、飢饉に備えての芋類などの農作物栽培推進の他、豊饒を 祈るため、または音楽の素晴らしさを世に広める等の目的で音楽の講堂を設ける などの政策を執り、人を喜ばせることに務めたという。 268年に逝去。「喜楽侯(『音楽で人を喜びを与える者』という意味です)」と 謚された。 今は亡き村下孝蔵さんの曲が好きだったため今回掲載いたしました。 「初恋」はやっぱりいいですね。
「勇俊(ハイユウシュン)174〜263 字は韓流(カンリュウ)
呉の幕僚で、幽州・玄菟郡出身。6歳の時に揚州・銭唐に移住した。
インテリジェンスな上、端正整った容貌でいつも笑みが絶えなかったため
人から「微笑みの貴公子」と呼ばれていた。非常に学問に励むことが
好きで、特に外国の語学の勉強に没頭、10カ国以上の言葉を流暢に喋る
ことができたという。性格は温厚かつ清廉潔白の上、根っからの平和主義者で
人望はかなり厚かったが、身長は8尺4寸(約255cm)と非常に大柄な
うえ、かなり筋肉質な体をしていたため初めは孫策の親衛隊に所属していた。
それから間もなく内政一本に絞り、夏の猛暑に備えて各家庭に氷室を一室
設置する事や、飢饉対策として湖、海洋にに面した都市では魚介類の養殖を
推進させるなど一般市民のことを第一に考えた政策を打ち立てていた。
後に章安侯に封じられ、海洋交易の中継点として活気を与えると共に
大鴻ろ(今で言う外交官です)と松来(
>>187 )の後継としてオケオの
駐在大使を兼任し、楽斗(
>>183 、
>>184 、
>>186 )軍に破壊されたオケオの
復興に積極的に乗り出し、見事もとの貿易都市として再興させ、オケオ市民
から絶大な信頼を得る事に成功した。
263年に他界。「微笑侯」という諡を授けられた。
知っている人、知らない人が多いと思いますが、この「「勇俊」という
名前は韓国のスター俳優ペ・ヨンジュンさんの漢名です。なので字は
「韓流」にいたしました。
おれはアニメキャラだらけになって、
そのあと変な
>>1 擁護が出てきだしたぐらいが一番おもしろかった。
ある意味。
324 :
315 :2006/04/12(水) 19:07:40
>>318 ありがとうございます、再三バレるとは私も文章の進歩がないorz。
また軽薄な私で良ければこれからも投稿させて頂く次第です。
「厳烈」は「きびしくはげしい・こと(さま)」という意味です。
武人っぽさがあっていいかな、と思いました。
私はYahoo!辞書とかで単語を探しいいと思ったものを武将名にしています。
その為一発変換が出来ない単語を出してしまいました、すみませんorz。
>>319 ありがとうございます。
いえいえ、私はそんな大層な身分ではありません、それに浅識です。
少なくとも九十分どころか十分話せるかどうか・・・w。
それに厳戒らの一件は晋の八王の乱から結びつけたのですが、
八王の乱はウィキペディアで調べ、初めて知りましたw。
これは謙遜ではなく事実です、私は一介の朱桓好きです。
325 :
315 :2006/04/12(水) 22:25:05
うわ、なんで三男の厳烈が四男の厳逹より遅く生まれてるんだorz なら厳烈の生年を257年にするという苦肉の策で。
>>315 さん、いいですよ。あまり気にしていませんから。
あと私も一時期八王の乱から逃れた人物伝([二]の司馬桓、司馬健、司馬欒、
袁丈です)を投稿したことがありますが、ただ「逃れた」と書いただけで
あまりにも抽象的なものでした。それを考えるとあなたの書いた八王の乱は
非常に内容が濃厚だと思います。
そうだったのか。いや、大袈裟に言ってしまった俺の方こそ済まない。
あまりに面白かったからな。ところで貴方は朱桓のファンなのか?
あの鬼神といわれた曹仁を撃破した朱桓のかい? なるほど。
でもその朱桓だが、なぜそれ程の実力はあるのにあまり目立た
なかったんだ?あれは不思議で仕方がないのだが・・・。
まあ、とにかく一応俺も人物伝を作ってみた。暇があったら一度
目を通してみて下さい。
須禎(ステイ)字は茂笥(モス) 175〜265
呉の武将で、最高位は鎮東将軍。
容貌は精悍な顔つきで度胸もかなり良かったが、愛息子には非常に
甘かったという。身長は8尺7寸(約264p)とかなりの大柄。
音楽、特に今で言うロックのようなテンポの速い曲を好み、暇さえ
あればよく月琴(リュートの仲間)を弾き、時間の限り歌に興じていた。
武将を務めている身であるが、蜀の将軍である更木([一]の
>>897 )や
夏侯覇と親交を持って魏に対抗するための相談を度々するなど懐柔策に
長けていた。
また彼にはこんなエピソードがある。
関羽が朱然と藩璋に捕らえられたとき、当時藩璋の部隊に属していた須禎は関羽に
「関羽殿のような勇猛な将をこのまま戦場の露として消すのはあまりにも残念と
私は思う。どうかここは正式に降伏し、呉に仕えて頂きたい」と説得した。
ところが関羽は「武将たる者生け捕りにされ、そのまま敵のもとに仕えることは
劉備の兄者に対して背徳に当たる。貴方の気持ちはよく分かるが、それならば
私は潔く刑に服するまでだ」と言い断られ、関羽が刑死したあと大いに泣いた
という。このように彼は敵とはいえ自分とは意気投合できたり話が分かると思った
者と接する事によって血を流すことなく平和に解決に導こうとしていたわけである。
海南島沖の海戦(
>>186 )では赤壁の戦いのように「呉軍は風土病と船酔いに
よって混乱状態」という虚偽の情報を流して楽斗軍を侮らせることに貢献した。
その間、章句侯に封ぜられ、漁業と海洋交易の発展に功を成した。
265年、逝去。人徳が強かったためそのまま「人徳侯」と謚された。
勝手ながらで申し訳ないが
>>1 の真似をして人物伝を作ったんだ。この
作成の仕方は初心者に分かりやすくていいぞ。
モデルはNHK教育テレビで何度も再放送しているアメリカのホーム
コメディードラマ「フルハウス」に出てくる「ジェシーおじさん」の役を
やっていたジョン・ステイモスさんだ。一番面白かったな、ジェシーおじさん。
吹き替えやっていた堀内賢雄さんも役とマッチしていて良かったよ。
>>319 さん、内容が面白かったですね。特に関羽との会話はあり得そうな
感じがいたしました。
「フルハウス」ですか。私もよく見ていましたよ。
いつぞやかわかりませんが、確かダニーさん一家達と旅行に行く最中、
吹雪で乗り継ぎの飛行機が欠航したため空港ロビーでほかのお客さんたちと
一緒に一夜を明かさなければならなくなったシーンがありましたね。その時
確かそのジェシーおじさんは荷物点検するためのコンベアーの上で寝ていた
のですが、姪のミシェルがコンベアーのスイッチを何気なく入れたために
どこか行ってしまったというシーンを思い出しましたよ。
そうそう。それでどこか行っているいる最中にダニー一家の方で一悶着が あって、解決したらジェシーおじさん、雪まみれになっていたな。 あれはメッチャ笑ったよ。
檄文(ゲキブン)198〜293 字は激励(ゲキレイ)
呉の幕僚で、光禄勲を務めた。呉の将軍檄烈(
>>19 )の甥。
性格は気前が良く、明朗であるが感情の起伏が激しく、自分より位が高い
人物だろうが不服だと思うとすぐ感情を露わにしてズケズケと言いたいことを
言っていたという。だが檄文の主張は大抵正論であることが多かったため、
人から恨まれることよりも信頼されることが多く、孫権も「こういう骨のある
人物が欲しかった」といって檄文を大いに重宝したという。また部下に対しての
面倒見も良く、部下に何か問題があれば一対一で話し合って共に解決の道を
探していたという。
しかしその反論を展開するがためにやはり命を狙われることもあり、諸葛恪が
魏に対しての征討を計画したときは真っ先に「時期尚早だ!! 今は兵の状態が
盤石ではない上、魏も前の東興の戦いを参考にして作戦を変えてくる恐れがある
から9分9厘我が軍が負ける。今はやめておいた方がいい」と反論、怒った
諸葛恪は皇帝孫亮の目の前で檄文を斬り捨てようとしたが、檄文の味方をする
重臣達によって事態は鎮まった。それでも諸葛恪は挙兵し、結果、檄文の言う
とおり惨敗を喫し、しかもそれによって諸葛恪は孫峻に暗殺された。それを
聞いた檄文は一言「それ見たことか」と言い、更に「諸葛恪は確かにあらゆる
分野に対しての才能があることは認める。だが俺には奴のあの思い上がった
態度と物事に対して失敗したことが一度もないということに対しては非常に
虫酸が走るくらい腹が立つ。だから失敗を味わっていない人間はこういう
ひどい目に遭うものなのだ」と同僚に言い放ったという。
(次に進む)
(前の続きです)
そして彼にとって人生最大の危機だったのは暴政を繰り返す孫皓に檄文を
送ったことである。
その内容とは
「この欲望で太った豚小僧め!!己の欲を上げて人民の忠誠を下げるとは
どういうことだ!! そんなことを続けると一刻も経たぬ内に呉は間違い
なく晋に屈するぞ!! 今は我慢の内だろうが!! そこをキッチリと
わきまえろ!! この饅頭が!!」
と云う荒々しさ極まりないもので当然孫皓は「おのれ老いぼれめ、我が
祖父である先代孫権に重宝されたからといってつけ上がりおって!!
見せしめに殺してやる!!!」と烈火の如く怒り、檄文を引っ張り出して
首都建業の中心街でさらし首にしようとした。ところが大半の市民と処刑
執行人は檄文の行為に心を打たれたため、檄文を処刑台に引っ張り出すふりを
してこっそりと逃がし、更に檄文に似せた頭部のみの木像を中心街にさらして
処刑を執行したふりを見せたという。しかもこの時同じ幕僚の松明(前スレ
>>961 )が晋に逃亡するための手筈を整えていたため檄文は難なく晋に逃亡、
呉の現状を松明と共に皇帝司馬炎に報告し、「呉の討滅をするなら今しか
ございません」と後押しした。
その後は政界から引退し、揚州・京口に隠居して天寿を全うした。
この人物のモデルはこのスレッドの
>>190 から
>>240 番台にかけて討論、
批判した人たちです。まず「きもい」という言葉は諸葛恪に対しての批判に
出てきた「虫酸が走る」という言葉に変え、孫皓に突きつけた檄文の内容では
「厨房」を「小僧」に、「ピザ」を「饅頭」に、「age」「sage」を「上げ」
「下げ」に変えました。
この人物伝はあの時閑散としていたこのスレッドを盛り上げてくれた
ことに対しての礼です。
333 :
315 :2006/04/13(木) 17:42:33
>>319 はい、胆力の凄さは趙雲の如く、冷静なこと諸葛亮の如く、性格の酷さ関の如くw。
演義でも呉将としては珍しく損していない人物なのに、やはり目立ってないのが駄目なのかな、と。
作品見させて頂きました、エピソードや特徴が明確で分かり易く、
特にやはり関羽降伏勧誘の件は彼が人格者であったことが垣間見えます。
ひょっとしてそれは
「厨房やヲタが多いようです」
「何三国志説明してんですかww」
「きもいきもすぎる」
「アニメキャラを当て字で、って……スレの趣旨が変わってきてるな。
なんかキモくなった」
「ここは「三国志武将っぽい漢字を武将にするスレ」であって
アニメキャラやら何やらを武将化する所じゃないはず」
「バカが沸いてるな
そっとしとくからsageくらい覚えろよ
メール欄に半角でsageだ。おk?」
「このスレきめぇwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww」
「厨の典型だな。それでもしっかりsageてる辺りワロスwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>223 はsage方教えてくれたんだから感謝しろよピザ」
と言っていた連中のことか?
>>315 感想ありがとう。そう言ってくれると非常に嬉しいね。
これからもがんばるので宜しく。ちなみに感想からすると
貴方も「フルハウス」見たことがあるのでは?
あとさっきの話だが、あれ確かスティーブとかいう
食いしん坊のおっさんだったような気がしてきたぞ。
雪まみれになった人。
>>334 さんへ
ご名答です。あの時私はこれらのレスが来た時、単に嫌で仕方が
なかったのですが、今にして思うとこれは「お前、このまま続けると
ここのスレの住人が離れていくぞ」という「警告」だったのでは
ないかと思うようになりました。この「檄文」という人物伝は
2、3週間前に考えていたもので、それらの人たちが云った言葉の
集大成として考えたのです。
337 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/04/13(木) 18:10:27
>>336 よ、
ハッキリ言ってこれは
ある意味危険な「賭け」だと俺は思うな。
また何してくるかわからんぞ。覚悟しとけよ。
338 :
315 :2006/04/13(木) 18:19:13
あと厳粛に関しては同名の人物が厳格の伯父にいたので説明を。 「厳格は伯父厳粛が軍事に長けておりながら先帝死後の戦い(北伐)に出ることが出来なかった事を悔いていた。 そこで厳格は二人目(子供)の名を厳粛とし、彼の成長の楽しみにしていた。 厳粛は厳格の死後、征北将軍となり用兵の才を存分に発揮する。 しかし司馬炎の乱交に嫌悪感を抱き諫言する。司馬炎は当然激怒し 処刑しようとしたが何分司馬炎も皇帝としての通例を過ぎ美女を一万人も後宮に溜め込んでいた。 なので殺そうにも正当性に欠けるため殺せなかった。 しかし281年、賈充が政敵を駆逐せんが為に讒言する。 『厳粛殿はかつて呉の大都督となった魯粛と同名です、魯粛は揚州に割拠した孫権を皇帝に導いた人間、 多分に厳格は揚州に割拠する皇帝(厳戒)を見つけ、厳粛をそれの補佐に・・・。』 無理のある讒言であったがそれが元で289年に厳粛は処刑される。(晋書)」 この内容は晋書のものであるが「皇帝」と名が出てる厳戒が処刑されず、後に賈氏と組み得たとは考え難い。 また晋書編纂者の一人房玄齢は厳戒を「袁紹の子、袁譚の如き、家の誇りを忘れた匹夫。」と散々に非難した。 しかし小説家として知られる魯迅はそれに対し 「袁譚は外に敵を作らぬ様にして作って地方の将軍として殺される。厳戒は内に気を配りきれず中華の宰相として横死する。 少なくとも晩年を除けば為政者としても子としても厳戒の方が優れており、なぜ袁術と同盟を試みた袁譚と比べるのかが理解出来ない。」と主張した。
339 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/04/13(木) 18:19:17
あげんなタコ
340 :
315 :2006/04/13(木) 18:20:18
>>315 そうか、それなら仕方ないですな。でもこれからも頑張ってください。
>>339 「あげんな」と言いつつお前さんも上げてるではないか。
説得力が皆無になるぞ。
それもそうか、ハハハ
343 :
315 :2006/04/13(木) 18:33:26
>>1 です
>>315 さん、追記ありがとうございます。やはりここまで
記載することは非常に至難の業だと思いましたね。陳舜臣
どころか吉川英治という感もしてきました。
あと私は今ネットカフェから配信していますが、そろそろ
ここらで帰ります、では。
345 :
315 :2006/04/14(金) 17:56:55
>>344 ありがとうございます。吉川英治とは望外の褒め言葉です。
羅針(ラシン)?〜280 字は盤上(バンジョウ)
蜀の武将、羅憲の子。後杜預の配下。
羅針は父の羅憲に似ず武芸は下手で体は針の様に細かった。
しかし天文に通じ「破軍星」「奇門遁甲」も心得た。
蜀滅亡時、父の羅憲は陸抗らの蜀侵攻を阻んでいた。
だが羅針は即刻ケ艾に降り、ケ艾死後は鍾会の配下となる。
鍾会死後は杜預と共に逃亡、両者は羅針が方角を指し示したことで殺されずにすんだ。
厳格の子厳達とは交友関係で、厳達は天文を羅針に教わっていたという。
そんな彼が活躍したのは279年の呉討伐。
羅針のおかげで命拾いした杜預は羅針を信頼し、
「どの方角でどうすれば戦況に吉をもたらすのか。」と真剣に訊ねた。
羅針は「奇門遁甲に則り戦場に赴き、夜は破軍星を背にし敵に備えるのです。」といった。
そのお陰で杜預は「破竹の勢い」で晋に勝利をもたらすことが出来た。
しかし羅針は凱旋中に呉の住民の凶刃に倒れる。
杜預と羅針の距離は離れていたが杜預は驚愕し暗殺者を矢で射ろうとしたが出来なかった。
この時杜預は自分の武術の拙さを嘆き、凱旋後には声をあげて泣いた。
杜預は羅針の子を我が子の様に育てた。しかしその子は300年、厳戒に誅殺されてしまった。
因みに「演義」の羅針は障害を患っており、張悌の大喝に驚き長江に落ち死んでいる。
>>315 さんへ
とんだ結末ですね、羅針と言う人物の最期は。
でも私の当て推量ですが、放っておくとその羅針を殺害した
住民はいずれ近いうち孫皓の暴政によって葬られていたと思います。
それを考えるとむしろ呉を攻略したことは正解のはずだと思いますが。
何かしたのですか? その羅針と言う人物は?
ともあれ今回の人物伝もかなり面白かったです。
「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花」という美人を例える
言葉がありますが、貴方の場合は
「理の叶いぶりは諸葛亮 文章のみは陳舜臣 台詞を入れると吉川英治」
という言葉が当てはまると思います。
このスレッドに従って人物伝を作るところは主君である劉備玄徳に終始臣従した
諸葛亮孔明を彷彿させるような感じがあると思いこの言葉に入れました。
私からは以上です。 では。
>>323 そうか、それは良かったな、ある意味。
だがな、野次で傍観するより参加してみた方がいいぞ。
よりエキサイトになるかも知れんからな。
天都(テント)158〜247 字は網走(モウソウ) 魏の武将で、幽州・遼東郡出身。 性格は義理堅く、人が困ったときは迷わず助けねば気が済まなかったと いう。 はじめは一介の農民だったが、太平道の素晴らしさを知ったため初めは 黄巾賊の兵に参加し、主に青州を拠点としている部隊で活躍、天都の 部隊は済北国の黄河のほとり辺りにある高台に陣営を張り、鎮圧に かかった曹操軍の動向をよく見定めた上で攻撃に出たため、さすがの 曹操も手を焼いたが、兵糧を焼き払われてからはあっさりと降伏、その後 曹操にその才能振りを見込まれ、青州兵の部隊長に任命された。 戦闘能力はほかの兵と比べたらやや並より上という、至って普通の一兵卒 という感じであったが、見張りの能力がかなり強く、常に陣を構えるときは 高さが約30m位の小山を造ったうえで植樹をするというカムフラージュ を仕掛け、その木々の間に見張り番を設けるという敵に悟られにくい 見張りを施し、官渡の戦いでは高幹の夜襲をその見張りでいち早く察知、 すぐに迎撃できるように貢献した。またこの見張りは第一次北伐でも 馬謖が山地に陣営を張っていることを察知して自軍を勝利に導くこと にも役立ったという。 またその義理堅い性格で漢中攻略戦で張飛の攻撃で不利に陥った張合βを 瓦口関から急行して助け出すなど年を追う毎に徐々に逞しさを養って いき、72歳の時に鎮北大将軍と朔方の太守に任命され、北方民族の 警護強化に務めた。 ちなみに彼は戦の時だけではなく普段でも風景を眺めることを好み、 時に「望北都」などの詩を書いていたという。 彼の名前と字の由来は北海道網走市の郊外にある「天都山」という 標高207mの山の名前から引用しました。ちなみにこの「天都」と いう名前は国鉄の急行の名前にもなったことがあるので「仲間の ピンチに急いで駆けつける」意味を人物伝に入れました。
社会(シャカイ)176〜262 字は波揉(ハジュウ) 呉の幕僚で、黄門侍郎を務めた。徐州・東海郡蘭陵県の出身。 実家は酒の醸造業だったが、社会が生まれたときから羽振りがよく、 孫策に資金を時折提供していたため、孫策没後、孫権に目をかけられ、 魯粛の元に仕えることとなった。初めは書類の作成にしかり報告を 伝えたりすることが遅く、1日2回は叱責を受けるなどパッとしなかった。 しかし、その経験を積み重ねたためか次第に幕僚としての任務を的確に こなすなどをして力をつけ、魯粛没後は宗正を務めた。 孫[糸林]が専横を極めていたとき、社会が「酒宴を開いて盛り上がって きたときに孫[糸林]を討ちましょう」と皇帝孫休に進言、見事その 目論見が当たり、丁奉に孫[糸林]を討ち取らせることに成功した。 ちなみに社会は丁奉とは若い頃から親交があり、よく「お互い今は目立た なくてもいつか大きな事をしよう」と言って励まし合っていたという。 この一件で社会は司徒に任命され、262年に他界するまで国家の舵を 取った。 この人物の名前と字は「『社会』の『波』に『揉まれる』」という意味を こめて付けました。
>>350 「社会の波に揉まれる」か・・・
面白みとしては無いが遠回しに「人は社会でしごかれて大きくなる」と
いうメッセージを伝えているという面ではいいと思うな、俺は
352 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/04/17(月) 17:00:54
徐行(ジョコウ)180〜240 字は不才(フサイ) 曹操配下の将。 兵は拙速を尊ぶという孫子の言葉を信じず、常に行軍は鈍足であった。 急襲を不得意とした凡将であったが、定軍山の戦いでは戦場到着が間に合わず、 法正の策に惑わされることもなく、黄忠に斬られることもなくて済んだ。
>>352 短文ながら運の良さが非常に良く伝わっています。
「人間万事 塞翁が馬」を地でいった人物伝だと
私は思います。
禿髪照明(トクハツショウメイ)195〜260 字は獺毛(ダツモウ) 鮮卑族の武将。頭に毛が一本もなく、常時はそれを恥じて兜をかぶっていた。 あるとき姜維の北伐に呼応して南下し、曹真を狼狽させた。 毌丘倹らが迎撃に向かったが、禿髪照明は乱戦の中突如として兜を脱いだ。 するとあまりの頭のまぶしさに敵味方ともに目がくらみ、一時休戦になってしまったという。 なお彼の子孫は五胡十六国時代の禿髪樹機能である。
おおっ、これは面白い。 うまく人物の特徴を出しとる。 しかし、「禿髪」という名前が ある自体笑えるね。
356 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/04/17(月) 19:45:24
了朮(りょうじゅつ) 諸葛亮または張嶷の南征のときに抵抗した人物。 毒泉を蜀軍に通らせても孟獲の兄が孔明に助言して突破され、酒に眠り薬を入れられて捕虜になり、 激怒して孔明に斬りかかるも1メートル手前で落とし穴に落ち、藤甲をまとって戦うも谷に誘われて火をつけられたりと、 何をやっても失敗した「出ると負け将軍」。 あまりにもくだらない失敗ばかりしたため、羅貫中はかえってリアリティがなくなると考えて、 三国演義では了朮の失敗談は木鹿大王・孟優・孟獲・兀突骨らの失敗に置き換えられている。
「了朮」の元となったものって何だい?
字の形じゃね? 了朮 アホ
359 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/04/17(月) 22:11:37
節操(セッソウ)198〜258 堅固(ケンゴ) 濮陽の人。非常に義理堅く、主君が死なない限り、けして別の主君に仕えなかった。 しかしこれは演義によって強調されたイメージであり、主君である曹丕が死ぬと孫権に仕え、 孫権が死ぬと劉禅に仕えるなど、主君が死んだとたんに、待っていたかのように主を変えている。
天真(テンシン)176〜256 字は爛漫(ランマン)
魏の武将で、天都の実弟。幽州・遼東郡出身。
性格は名前の通り底抜けに明るく常に笑い、常に場の盛り上げ役として
戦友達を和ませることに徹した。
赤壁の戦いでは杜黒(
>>95 )、花井([二]の
>>970 )らと共に曹操の逃走の
手助けを一役買い、渭南では韓遂軍の張横を討つなど遜色の無い活躍を
見せていた。
だが、曹操が「あの男は戦よりも宴ではその100倍も活躍をしておる」と
言うほど宴会ではその明るさを武器に一席小咄をして皆を笑わせており、
オールマイティーぶりを発揮していたという。
後に土鼓侯に封じられ、名産品を輩出するため西瓜の栽培に手がけた。
362 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/04/17(月) 22:31:03
鷽嘘(ウソウソ)幼名は欺瞞、字は孟毒 曹操の幕臣。幼いころから嘘をつくことに長け、多くの人を騙してきた。 あるとき曹操にその噂が伝わり、「それほどの才があるなら謀略もお手の物だろう」と考えて登用された。 果たして官渡の戦いでは袁紹陣営に潜入し、烏巣に兵糧を集中的に保管させ、 曹操軍に舞い戻ると「烏巣を襲いなさい」と献策し、半信半疑で作戦を開始した曹操軍は大勝利を収めた。 曹操はあの袁紹に勝てたという衝撃のあまり「ウソー!」と叫んだという。 それ以降は曹操に智謀を恐れられ、まったく官位などを与えられず裏方に徹したため、正史には記載されていない。 なお、曹沖が病死したとき、曹操は鷽嘘を殺害した。 これは曹沖ならともかく曹丕には鷽嘘は扱いきれないと考えたからだとされる。
363 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/04/17(月) 22:32:36
>見直したよ。 誰(何)を?
>>362 曹操の名前をもじったパロディーやな。
字が「孟徳」ならぬ「孟毒」であることと曹操が
「ウソー!」と叫んだところがメッチャおもろかったわ。
>>363 >>356 の人物伝を作った方にだよ。
こんな形で出すという手段を用いた者は
今までいなかったからな。
366 :
352,354,356,359,362 :2006/04/17(月) 22:45:45
とても好評のようでうれしいです。 ちなみに鷽嘘の末路は周不疑の末路のパロディです。
>>366 さんへ
貴方の人物伝はこのスレッドのあるべき姿に戻りつつあるような
反面、新たな形へと変わるための脱皮を促しているような感じがして
良いと思います。
これからも宜しくお願いします。
368 :
315 :2006/04/17(月) 23:29:44
>>346 ありがとうございます。
私は今PC使えないので(大したことではないですw)補足等はPC使用可能になってからになります。
褒め言葉は毎度望外です、私自身は「文は王平、喋りゃトウ艾、思慮浅きこと呂奉先」と思っていますが
人様から望外の評価をもらった以上邪魔にならない範囲で書くつもりです。
>>348 はい、誹謗は私が書きました。
ってすごい方が来ましたね、精進しよう。
>>315 さん、お返事ありがとうございます。
私の方も一時期故障したのでその投稿したい気持ちはよく分かります。
早くPCが直ると良いですね。
山下(サンカ)177〜259 字は達郎(タツロウ)
吟遊詩人だったが、孫権に気に入られ、呉の幕僚として、
特に太楽令になった。洛陽出身で、幼少の頃から文学に長けていた。
初め華北各地で詩を読み歩き、人々に披露して人気を博したが、江東に
赴いたところ孫権に気に入られ、宮廷詩人に。
「高気圧少女(高気圧ガール)」、「聖夜(クリスマス・イブ)」、
「消防用散水(スプリンクラー)」、「朝之輝(モーニングシャイン)」、
「密林振(ジャングル・スゥイング)」「風吹(BLOW)」、「繁華街
(DOWNTOWN)」、「雨歩(RAINY WALK)」、「何時晴天日(いつか晴れた日に)」
「愛之地、島(LOVELAND,ISLAND)」等々を手がけ、常にその詩を
諸葛城(
>>250 )が曲にして山下が唄うという事を儀礼または宴で
披露、孫権は「我が元に歌の神が二人君臨したようで縁起がいい」と言い、2人を
太楽令に任命したという。
そして後に何と詩人として例外の平都侯に封じられ、文学、音楽の推進を促した。
またその平都に「山下塾」を開き、山下自身が音楽、国語の講師を務めていたと
いう。
この人物のモデルは読んでの如く歌手の山下達郎さんです。
「モーニングシャイン」が一番好きですね。
370 :
352,354,356,359,362 :2006/04/18(火) 00:32:46
ネタ解説します。
>>352 夏侯淵の列伝のパロディです。しかしまとめサイトを見るとすでに複数の同名武将が出ていましたね。
>>354 字の獺毛は宇文泰の字の黒獺(こくだつ)のパロディで、常に兜をかぶっていたのは、美貌を隠していた蘭陵王の逆パロディです。
あと禿髪樹機能は、過去レスにて兄の禿髪多機能という創作武将が出ていたのに気づきました。
>>356 指摘の通り「アホ」という字からつけた名前です。孟獲が7度敗れた原因を全部盛り込めば
もっとよくなったと思いますが、楽して4個だけにしました。
>>359 単なる単語だけのネタです。
>>362 命名は曹操ネタ、功績はダジャレ、末路は周不疑のパロディです。
>>367 実はこのスレに書くのは初めてです。
2年ほど前に初代スレを見たことがあって、このたび三国志について検索しているうちにこのスレに来ていました。
自分で見返しても偽タイプと誤タイプが混在していますが、これからも気が向いたら書いていこうと思います。
糞スレはさげてくれ 目眩がする
372 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/04/18(火) 01:02:00
冠一族って、寇の間違いでは? 劉封の旧名は寇封だし。
>>371 勝手にしていろ。 と言うか何でそれを見て目眩がする?
何も悪い放射能など発していないだろう。
>>372 確かに劉封の旧名は「寇封」だよ。 でもそれとこのスレと
どう関係あるんだい? 教えてくれ。
>>371 目眩がするのはネタの内容がハイレベルだからか?
それしか考えられんな
375 :
373 :2006/04/18(火) 01:48:08
>>373 いやいや、この事を何かに使えないのかな、と
思いましてな。
376 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/04/18(火) 02:14:47
今ひどい自演を見た
377 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/04/18(火) 06:30:59
あげんな、地下でやってろ!きしょい
>>377 早朝からそんな罵声をあげるとは、ご苦労なことですな。
貴方、社会人じゃないのか? もし徹夜でそんなことをやっていると
健康にまこと良くないぞ。 抗議なら夕方頃にやれ。
そうそう、あと貴方もあげているな。「あげるな」といいながら。
379 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/04/18(火) 17:54:07
陳皮(チンピ)181〜232字は温州(オンシュウ) 袁術の部下。ミカンが大好物なあまり、袁術の食べ残したミカンの皮すらも食べていた。
380 :
三国弘 :2006/04/18(火) 18:06:20
短文ながらネタの元がよく現れています。 袁術の部下で名字が「陳」ということは陳紀とは 何か関係があるみたいですね。 あと余計に追求して申し訳ないのですが、232年に他界している ということは後に誰の元に仕えたのでしょうか、この人物は。
381 :
兵卒 :2006/04/18(火) 19:25:29
将棋(ショウギ)字は不明。
姜維の指が動き、音が響く。心地よかった。同時に、辛くもあった。
幼少から、父に将棋を教わっていた。そのせいか、将棋では誰にも負けたことは無かった。
その腕で、呉にある父の店を手伝ってもいた。料理と将棋。父の店はいつもそれが売りだった。
だが、会稽の母の病で、店を移した。久々に見た母は、弱っていた。薬のため、将棋と父は前にも増して働いた。
そして、華陀という名医の噂を聞いた。しかし、所在が掴めなかった。自分の無力さに嘆いた。
母に何もしてやれないのが、心苦しかった。
そんななか、店に一人の男がやってきた。あらゆる連絡手段の研究をしているらしいが、行き詰っているそうだ。
将棋は彼に、華陀への連絡について聞いた。先生の研究は何代にもわたりかかるらしいが、それでも今あるものでと必死になった。
家に来い。その先生は携帯と名乗り、そう言ったのだった。
「どうした、将棋?」
「いえ、少々昔を思い出してまして」
懐かしかった。携帯は、関羽の配下であったので、華陀とは親しいらしく、足の速い息子に書簡を持たせて華陀に送らせてくれたのだった。
だが、間に合わなかった。母は、時に負けた。悔しかった。携帯も、遅れてきてくれた華陀も、悔いていた。
それから、二人の推挙で蜀の配下に加わったのだった。
「今でも、私がこうして姜維殿と将棋を指せるのも、彼らのおかげだと思っております」
「そうか。私も、お前の将棋を軍略に役に立てられると思うと、幸せ者だな」
〜将棋はそれからも、姜維の軍略補佐として働いたのだった〜
携帯
>>142
382 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/04/18(火) 20:21:41
ウホッ、糞スレの
383 :
三国弘 :2006/04/18(火) 23:01:46
>>382 さんに質問です。
では貴方にとって「良スレ」とは一体何なのですか?
俺は
>>382 ではないが良スレとは単純で分かり
やすいものだと思う
またその人にとって「これなら加われるな」という思いがあることもまた
良スレではないのかと思うがね
385 :
三国弘 :2006/04/18(火) 23:16:56
「兵卒」さん、人物伝ありがとうございます。 段々小説みたいになってきましたね、貴方の人物伝は。 それもまた面白くて、あっても良いと思いますが。
386 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/04/18(火) 23:48:36
三国弘さんは初代1さんとおなじ人なのでしょうか?
>>375 ・・・訂正ないと意味不明です。
はい、そうです。 数字だけでは何か覚えてもらえないような気がしたため 少なくとも「三国志に関わっている人」という感じを出すために この名前で名乗ることにいたしました。
>>375 済まない、今見たが番号間違いだった。
正しくは372だ。
389 :
三国弘 :2006/04/19(水) 00:27:14
>>386 さんへ
ちょっと待って下さい。
このスレッドを立てたのは私ですが、
[一]、[二]は別の方です。
間違えたことについて深くお詫び申し上げます。
390 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/04/19(水) 03:12:40
醜態(シュウタイ)字は傭兵(ヨウヘイ) 呉の将。女物の下着を着用するのが趣味だった。 体中に刀傷があり、長年の武功を象徴するかのようだった。 あるとき宴会で孫権に「♪あなたの傷を数えましょう」と歌いながら裸にされて、 女物の下着を着用していることがばれるという醜態をさらした。 正史にも精子にも登場しない。
もう完全に[一][二]スレと別物になってしまいましたね。 私はもうこのスレを離れます。 残念です。 当初の主旨に共鳴して良作を投稿してくださった職人の皆様、楽しかったです。 ありがとうございました。
おつかれ!じゃーね! あと あげんな!
>>392 お前が言うな!!
あと
早朝からそんなブーイングをいうのは
よほどのヒマ人だな!! お前!!
石塚(セキチョウ)165〜258 字は英彦(エイケン)
魏の武将で、最高位は鎮東大将軍。
匈奴の一部族である羯族出身で、後に後趙を建国する石勒の
高祖父に当たる。幽州代郡高柳県出身。
身長は9尺1寸(約276p)、体重100貫(約375s)と
物凄く大柄。性格は極めて温厚で怒ることは生涯で15回ぐらい
しかなかったらしい。ただ、その怒った回数15回は全て騎乗した
時で、その時だけ性格が180度豹変したという。また彼は
大食漢としても知られ、よく美味いものを食べたとき癖でよく
「まいうー」または「これ優勝」と言っていたらしい。
10歳の時に洛陽郊外に移住、19歳の時黄巾賊討伐に参加、ただし
この頃から肥り始め、騎乗ではなく歩兵として出陣、桁外れのパワーで
敵兵を悉く退けた。それを見た曹操に「是非、我が部隊に入ってほしい!」
と声をかけられ、「美味いものが食べれるのでしたら」という条件付きで
曹操に仕えることを決意した。
それ以降、呂布との戦いでは小沛で高順を捕らえ、えん州奪還戦では城外に
討って出た李封の部隊を蹴散らし、許ネ者に討ち取らせる切っ掛けを作っ
たり、下丕βでは兵糧の運送を担当、兵糧奪取に来た敵兵を悉く投げ飛ばし、
また寿春では袁術との戦いで李豊を捕らえるなど武功を挙げている。
赤壁の戦い以後はしばらくの間は曹仁に仕え、夷陵城の攻防では周瑜軍に、
樊城攻防では関羽軍に向かって大箱に入れた直径15〜20p位の大きさの
石をばらまき、敵兵の手足を負傷させるなど、防衛に活躍、更に公孫淵の
謀反では公孫修を待ち伏せで捕らえ、遼水の戦い(
>>24 >>25 )では高齢
ながら伏兵部隊を率いて登坂部に駐留、切り倒した材木を転落させて
鬼滅羅亜尼摩軍を攪乱させた。
>>394 の続きです。
その間に57歳の時、沮陽侯に任命され、酪農の推進と北方民族との交流を
深めるなどに功を奏したが、反面、市民とのふれ合いを大切にすることを
目的として料理コンテストを開き、114回開催した内いずれも自ら審査員
として出席した。しかし、そのコンテストで呉の諸葛烈(
>>29 )の元で仕えて
いたという料理人が作った豚肉料理を食したところあまりの旨さに気絶、
そのまま他界したという。この時の実力者だった司馬昭は「美味い料理で
天国に行けたことが彼にとってそれが本望だったのではないか?」と言って
いたという。「宇昧侯」と謚された。
モデルは読んで字の如くタレントの石塚英彦さんです。また謚の「宇昧侯」
は出雲・松江藩主で風流茶人として名高い松平治郷公の号名「不昧公」から
引用しました。
>>391 さんへ
私は[二]の後半から参加いたしましたが、あまりにも面白かった
ので続きを立ててこのスレッドの存続を保たせようとしただけです。
あと何故に「別物」と決めつけるのかが不可解です・・・。
確かに途中、路線を外したことについては反省していますが。
前とどう違うのかを教えて下さい。お願いします。
397 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/04/21(金) 01:04:06
そこは確かに知りたいよな。
せっかく三国氏が王政復古ならぬ「良スレ復古」を目指している
最中にこの仕打ちは少しきついと思うよ。
俺は
>>391 のように「まとめサイト」等インターネットの作成なぞ
出来ない素人だから大きな事は言えないが、もし
>>391 の立場だと
「そうですか。違う方というのは少々気に掛かりますが宜しくお願い
します」と言って去らずに残るけどね。
>>1 俺は391じゃyないけど前スレで何個かネタを投下した。
今は離れようとまでは思わないけどネタも投下する感じじゃないなーという気分。
雰囲気変わったのはやっぱ
>>1 が過剰に感想書きすぎてるからじゃない?
あとキャラモノ。「モデルが〜」というのは違和感強い。
とりあえず
>>1 は本当はスレだけ立ててあとは名無しにもどって感想書きすぎなきゃ良かったんじゃマイカと思った。
でも時は戻らんし今の流れで好きな人たちで新しい流れを作るのは自然なことなんじゃない?
ついていけんヤツは降りるだけだしまとめサイトの更新終了なんて2chじゃよくある話。
・・・根本的なことを一つだけ言わせてくれ・・・
>>1 がでしゃばり杉ってかかなり浮いてる・・・色々な面で
それはあれだ、スレ主=神みたいなアホ信仰があるからだ。
って良く考えたらここの
>>1 は元々のスレ主じゃねーじゃねーか!
アレ? なんででしゃばってるの?
>>398 ほぼ同意かな。
スレの流れが時の流れと共に変わるのは仕方が無い。
それが本当に良い流れならスレは伸びるだろうし
逆にグダグダで面白くもなけりゃ、人が減って人知れず落ちるだけ。
まぁ・・・こんな議論してネタ投下が無いと言うのは終焉近し。
403 :
三国弘 :2006/04/21(金) 23:56:00
他の人が書いた人物伝の感想を書くのは私なりにスレッドを立てた人間の
責任としての任務を務めたまでです。言い方が強めで申し訳ありませんが。
あと「モデルは〜」と入れるのは「それオリジナルだろ?」と思われる事から
徹底回避するためです。以前疑惑を持たれたことがありましたからね。
あと、終焉は決して迎えさせません。一度スレッドを立てた以上、最後まで
頑張る所存です。
雷度恩(ライドオン)171〜253 字は泰務(タイム)
呉の武将で、最高位は征北将軍。袁術配下の部将だった雷薄の従兄弟で、
雷鳴(
>>320 )の実弟。弓術に長けていて、一度に数本の矢を引いて放つと
いう離れ業を持っていた。
はじめ袁術に仕えていたが、雷鳴同様、袁術が曹操に撃破されたため袁術の
息子袁燿、紀久(
>>163 )と共に廬江太守の劉勲の元に逃れ、そこで
江東平定を目的に侵攻してきた孫策に捕らえられたが、雷鳴、紀久と共に仕える
ことを許され、荊州侵攻では黄祖との戦いで得意の弓術をフルに発揮、一気に
弓だけで150人もの兵を倒すなどどれほど猛者であるのかを知らしめた。
年老いてからも常に軍の先頭部隊を務めていたが、諸葛恪の魏征伐で流れ矢、
しかも悪いことに毒矢が雷度恩の肩、背中に命中、慌てて引き返し、揚州・
章安の自宅で療養に努めていたが、逃亡の途中から容態が悪化、自宅に
到着したときには既に危篤状態だったという。
親友の山下(
>>369 )が見舞いに来たものの快方に向かわず、矢を受けてから
3ヶ月後のある朝、山下は途轍もなく大きな銀色の鳥が雷度恩の自宅の上を
通り過ぎ、遙か海の彼方へと飛び去るところを見たという。
それから3時間後、雷度恩は息を引き取った。山下は「あの鳥はもしかしたら
雷度恩の魂だったのでは」と思ったらしく、雷度恩の葬儀の後、山下は雷度恩
の霊を慰める為の詩を三日三晩夜を徹して書いたという。
404 :
三国弘 :2006/04/22(土) 00:28:22
(
>>403 の一応続きです)
その詩がこれです。
「雷度恩泰務」
青青水平線 現在駆抜行 (青い水平線を 今駆け抜けてく)
研澄時流感 嗚呼至歓喜 (とぎすまされた時の流れ感じて AHときめきへと)
出動始世界 忘掛遠夢訪 (動き出す世界は 遠い夢の訪れ)
雷度恩泰務 彷徨場合想 (RIDE ON TIME さまよう想いなら)
優受止静包 (優しく受け止めてそっと包んで)
雷度恩泰務 我之心点火 (RIDE ON TIME 心に火を点けて)
溢喜拡大給 雷度恩泰務 (あふれる喜びに拡がれ RIDE ON TIME)
(※注 この後数行続いていたが長年の風化により、ここまでしか
現存していない。)
ひどいエゴイズムを見た
その発言に待った!! 「ひどいエゴイズム」といっても君たちに何も被害を 与えたわけでは無かろう
407 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/04/22(土) 07:03:50
猪木(いのき) ?ー? アゴイズムだった
>>403 あなたの独善でスレを腐敗させるとは、救えん。
410 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/04/23(日) 00:51:57
>407ワロスWW
管惇(カントン) ?〜? 字は包珪(ホウケイ) 賊将管亥の弟。若きころ勃起時に無理やり剥いたため包皮が戻らなくなった。 名医華佗の手術を受けたが既に手遅れで、亀頭が壊死した。 その後アナルを開発し、部下を慰安した。 馬のチンポを試そうとして直腸が破裂し死亡。 一応調べたが既出だったらごめんよ
>>408 「糞して寝ろ」は余計。 普通に「読みなさい」で
済ませろ。
「荒族」(こうぞく)・・・ 匈奴の一部族。常に定住せず、主に各地方の住人の物品を略奪したり、 傭兵として雇われるなどを生業としていた。五胡十六国時代にてい (氏に一)、羯、匈奴、羌、鮮卑の各民族に「略奪しか働かない民族 なんぞ目障り」として粛清され、滅亡した。
>>403 殿、
安心せい。このスレは放っといても勝手に進んでくれるわい。
途中で倉庫送りなぞならんわ、ハハハ!!
それに逆に考えてみればこのスレを愛しているからこそ批判
している者もおるかも知れんからのう、ハハハ!!
三国殿だったかの? 貴方はもう普通に一住人として投稿しても
良かろう、ハハハ!!「分かりづらい」と言われても後々その者が
「教えて」と言われた時だけ教えれば良いのじゃからな、ハハハ!!
ああ、ちなみにわしは「こやつめハハハ 王」から来た者です、
ハハハ!!
415 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/04/25(火) 00:12:51
豪傑真ちゃんだっけ?
その名はもう捨てたはずだがのう、ハハハ!! まだ覚えてくれていた方がおったとは、正直嬉しいのう、 ハハハ!! もう普通にいこう。
>>416 お前、名前に「豪傑」と入れながらほとんど
豪傑らしいところ無かったなー、ホント
まあ、俺にとっちゃあお前は「何か憎めない奴だ」と
思ったがね 料理の作り方のレスを確か出していたな、お前
また出してくれよ
あれ本当、参考になるからな
>>417 ならお前は「リア中」か?
そんなこと言われたらお前、腹立つだろ。言葉を慎んだ方がいいぞ、
本当。リアル社会人さんよ。
煽りつつ説得するところが乙!!
421 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/04/25(火) 00:59:33
今ひどい自演を三田
許可(キョカ)179〜258 字は承認(ショウニン) 魏の武将で、最高位は奮威将軍。勇将・許ネ者の従兄弟。 かなりあっさりとしており、何でも「どうぞどうぞ」と譲って しまう、傍目から見たら損な性格だが、曹操は「面白みがあって 良いかも知れん」と云い、彼を仕えさせた。 許ネ者と違い、戦場で目立ったところはさほど無かったが、何でも 言うことを聞き、兵糧調達したり、兵のマッサージを務めたり、料理を 作ったり等の雑用を嫌な顔を一つも見せずにこなしていたことに曹操、 司馬懿といった実力者は感心し、これが功を奏して京陵侯に封じられた。 彼はそこでも住民の要望を許可し、大いに慕われ、子供からは 「どーぞおじさん」と言われていたという。 258年に他界。没後、彼の銅像が京陵の中心街に建てられ、 「恩徳の人」と称えられた。
大泉(ダイセン)174〜296 字は逸郎(イツロウ) 幽州・玄菟郡出身。 吟遊詩人で、主に孫のことについての内容の詩が多く、 曹操は彼の詩を気に入っていたらしく、時々大泉氏を 呼んでは詩を堪能していたという。 「三国」がエゴイズム、「猪木」がアゴイズムなら 「大泉」はマゴイズムだった。
>>423 えらい長生きやのう。張魯の祖父・張陵(五斗米道の開祖)も
確かそれぐらい生きたっけのう。
辛辣(シンラツ)166〜254 字は言葉(ゲンヨウ) 袁紹配下の部将・辛評の従兄弟で、初め袁紹の幕僚、のち曹操の 幕僚として活躍。 性格は人情味溢れているが人物の評価が厳しく、劉備に対しては「中山王 劉勝の末裔というが、その証拠がなければただの自称だ」とか、「周公瑾 (周瑜)は文武通じて優秀だが、呉に居る以上、自身の能力が伸びること はない」等と痛烈に言い放ったという。そのために多少嫌われることが あったが、その要所をつくところは見事で、曹操は「よく人を見ている」 といって彼を褒め称えたという。 優柔不断となる袁紹を見限った高覧、張合β、許攸を曹操側につかせた 要因になったのは辛辣の進言が元と言われ、どうも彼は197年に曹操が 徐州の劉備に攻撃した際、曹操の本拠地である許城を田豊と共に進言 したが、子供の病気で乗り出さなかったことから不信感を抱き始めたという。 この時は「まあ子供の病気なら仕方あるまい」と思い、気にも留めなかったが、 辛辣の友人である田豊が官渡の戦いでは「持久戦に持ち込んだ方がいい」と 進言したのを袁紹に「不吉な発言」と言われて牢獄に入れられたことを 知った途端に憤慨、戦いの時に従軍のふりをして曹操の元に早くも走り、その後 前述の高覧、張合β、許攸を「曹操こそ天下に最も近い男」という内容の手紙を したためて勧誘した。 曹操に仕えてからは地味ながら随所で働き、漢中侵攻で敗走する曹操を長安まで 先導、また呉軍に敗死した関羽の首が送られてきたときは司馬懿の進言で首に つなぎ合わせる為の胴体を作るため、香木を調達して自ら胴体を製造するなど 一見変わったことでも見事にやり通したという。 後に馬城侯に封ぜられ、戦馬の養成推進を主とした内政を敷くと共に彼が仕えた 曹操と司馬懿を英雄とした「操懿傳」という書を手掛けた。 254年に他界し、「痛烈侯」と謚された。
さて・・・。思いつかないな・・・。 どうしようか・・・。
三国弘、字は不明 ?〜2006 日本が産んだ糞賊、独自の観点で物事を語るが所詮エゴでしかなかった。 この世界のあらゆる戦争で活躍したと言われるが嘘っぱち。 実は捕虜になり、肥溜めに突っ込んでストレス解消していた。 遂には自惚れ「私が祖だ」というが相手にされず糞に集って悶死した。
429 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/05/02(火) 19:15:08
引きこもり状態の
>>428 (「肥溜め太郎」と命名する。)に
言われたくないね。
それに、私は「神」だの「祖」だの最初から
思ってないし。
英文(エイブン)180〜273 字は翻訳(ホンヤク) 呉の幕僚。前漢の武将・黥布(本名は英布。顔に入れ墨する「黥」を 受けたため「黥布」と名乗るようになった)とは同族。幼い頃から あらゆる書物、特に異国についての書籍を愛読してきたため、外国の 言語を僅か3ヶ月で修得するという秀才ぶりを発揮し、長く重用されて きた。 呉はローマ帝国とは貿易が盛んだった為、翻訳が得意だった英文は孫権に 見込まれて大鴻[月廬](外交官)に任命されて手腕を発揮、「羅馬事情」 という書を手掛け、ローマ文化の素晴らしさを世に広めた。 呉の滅亡後は政界を引退し、悠々自適の生活を送った。
434 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/05/03(水) 00:12:43
ぶっ潰す!!!
辛抱(シンボウ)170〜254 字は忍耐(ニンタイ)
魏の武将で、鎮西将軍。
性格は忠義に厚く、忍耐強い。ただ、容貌がパッとしなかったために
重要視されることがなかった。
辛評の従兄弟で、辛辣(
>>426 )の弟。初めは袁紹に仕えていたが、
辛辣と違って一兵卒として見られていたため、軽んじられていたが、
曹操に降った後、烏桓討伐に活躍、潼関では韓遂の部将である程銀
を討つなど最早欠かせぬ存在となった。
蜀の北伐では馬上で趙雲と互角に鍔迫り合いをしたが、馬が転倒した
ため勝負ありと思われたが、更に辛抱自身も崖から転落、奇跡的に
軽傷で済んだが「再び趙雲と一戦交えてみたい」と言っていたと
いう。
後に代侯に封じられ、北方民族の交流につとめた。
夢創(ムソウ)生没年不明 字は仲(チュウ) 「無双彩黄」と名乗る山賊の頭。 妄想が得意だが、それ以外の才は無いとされている。 元々は普通にのんびりとした日々を過ごしていたが 「無双」なる遊戯が流行った事がきっかけで「無双彩黄」を創りよく近くの村を襲うそうになった。 出没しては撃退されるがまたすぐに出没するほどしつこいため、ほとんどの村人から蔑まされている。 そのため最近は遠くの村にもよく出没する。 事態を重く見た一部の住民は隔離施設を作ったほうがいいと役人に訴えかけている。 直、燕祇の「演義雄諸」や成祇の「正史誅実」と共に「三仲賊」と呼ばれることもあるが 夢創率いる「無双彩黄」は「三仲賊」の中で知識も志も圧倒的に低いと言われている。
樊煕(はんき)172〜221年 河北の出身。字は雲昇。 元は袁紹に仕えていたが、曹操によって河北が平定されると傘下に加わる。荊州進行や上庸を劉封から奪い取るなどの活躍、晩年は安陽君として余生を過ごす。
張力(チョウリョク)200〜284 字は表面(ヒョウメン) 魏、西晋の武将で、威武将軍。「遼来来」で有名な勇将・張遼の 息子で、張虎の実弟。 敵陣ギリギリの所に陣を張るという大胆な方法で敵を油断させ、 蜀の北伐、公孫淵討伐に活躍、綿竹城攻防戦では諸葛瞻を討ち 取っている。 後に晋陽侯に封ぜられ、農業の推進を図った。
最近、いいネタが思いつかずこまったわ、うむむ・・・。
何雅(ナニガ) 字は有無惰(ウムムだ 劉備配下の論客。とにかく相手がつまると、「何がうむむだ」と迫って 相手を追い詰める論法を得意とした。 馬超説得の際にも李恢を補佐してその才能を生かし、見事に劉備陣営の引き込みに 一役買っている。だが常に誰かの補佐の域を出なかったあたり 本人はたいしたことがなかったといわれている。
満開(マンカイ)187〜265 字は花弁(カベン) 魏の幕僚で、曹家四代に仕えた名官僚・満寵の従兄弟。 実力は満寵ほどなかったが、非常に思いやりがあり、花を 観賞することを趣味とするくらい温厚な心の持ち主で人から 諫めることが生涯一度もなかった。 主に内政担当、特に農業中心で、黄河の水を大規模で引き上げる 事に功を成し、しばしば農作物の収穫増加に成功した。 その為人から「満開が農業を仕切れば作物が満開になる」と言い、 その功績を称えたといわれている。
陳沈(チンチン)173〜201 字は渤紀(ボッキ) 袁術配下の武将、豫州は中牟の出身、元山賊の頭目で槍の名手。 素行が悪く婦女子を姦淫して汝南にて処断された。
天下(テンカ)210〜280字は統一(トウイツ) 廬江郡安豊の人で、呉将。戦術家。 若い頃から武勇に優れており、同郷の丁奉に見出される。 山越賊が反乱を起こした際は、揚州(詳細不明)の山越賊出没地北部に「天郡」を新しく作る様進言。 そこから南に進軍(地図だと下)し、反乱討伐し統一したという。 天郡太守となった後はそこで兵を蓄え、孫権による遠征の際はそこから進軍した。局地戦では不敗伝説を誇った。 その後孫晧に疎まれ、讒言により命に危機に襲われるも回避。 司馬炎による呉国討伐では謀反を企み、天郡から進軍する。敵味方問わず他の軍勢を蹴散らしたが首都につく前に病死した。
段禰(ダンデイ)167〜? 字は坂乃(サカノ)
袁紹配下の武将。
『疑矢具(ギヤグ)』と呼ばれた武器のようで武器でない物をよく開発したと言われる。
黄色い鎧の武器をまとい、『月津(ゲッツ)』という疑矢具を愛用して数多くの戦いに参加した。
月津を愛用する段禰の姿を見た者達の多くは失笑したという。
段禰の作る疑矢具を気に入った袁紹は面白半分で自らの護衛を務めさせた。
しかし、203年を境に段禰に関する記述は次第に減っていった。
その後の記述は無いに等しいため、何処で何をしていたかは不明。
彼の開発した疑矢具の一つ『来弩遠(ライドオン)』は後に冷更門(
>>43 参照)の手に入ることとなる。
段禰(ダンデイ)167〜? 字は坂乃(サカノ)
袁紹配下の武将。
『疑矢具(ギヤグ)』と呼ばれた武器のようで武器でない物をよく開発したと言われる。
黄色い鎧をまとい、『月津(ゲッツ)』という疑矢具を愛用して数多くの戦いに参加した。
月津を愛用する段禰の姿を見た者達の多くは失笑したという。
段禰の作る疑矢具を気に入った袁紹は面白半分で自らの護衛を務めさせた。
これを聞いた在野の者たちは「疑矢具を作ると出世する」と思い込んで
独自に疑矢具を開発し始めたことが、後の『御笑武得無(オワライブウム)』に発展する。
『御笑武得無』の最先端に立ち、その武名を中華全体に轟かせた段禰であったが、
203年を境に段禰の存在は次第に薄れていった。
その後の記述は無いに等しいため、何処で何をしていたかは不明。
彼の開発した疑矢具の一つ『来弩遠(ライドオン)』は後に冷更門(
>>43 参照)の手に入ることとなる。
446 :
445 :2006/05/10(水) 01:54:01
447 :
445 :2006/05/10(水) 02:07:34
>>42 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
またもネタが出てこん、むむむ。
観念(カンネン)192〜263 字は覚悟(カクゴ) 蜀の武将で、車騎将軍。涼州・隴西郡白石県出身。 性格は思いっきりがよく、囲碁などの遊興に対しても妥協を一切許さない 傾向があり、勝負強かったという。 初め馬超に仕え、潼関で曹操軍に包囲されても気迫で蹴散らし、劉備に仕えて からは曹操軍と引き分けに終わった斜谷で曹彰に気迫で後退させるなど 立派な戦いぶりを展開、内政でも旄牛侯に封ぜられると土地税の細分化と蓮根の 栽培を推進し、名物にさせるなどなかなかの腕を見せた。 綿竹城攻防戦で老いても迫るケ艾軍相手に大奮闘を見せたが、一人の兵が放った 矢に当たり、それが元に破傷風になって亡くなった。 ただし、「演義」では諸葛瞻と共に威を決して突撃し、壮絶な最期を遂げたと いう。
淡泊(タンパク)197〜283 字は軽薄(ケイハク)
呉の幕僚で、諸葛烈(
>>29 )の元で宮廷副料理長も務めた。
揚州・銭唐出身。
性格は快活で好漢だが、反面物事に対してはあっさりしており、
極端に言うと「じゃあ、それでいこう」という感じだったという。
その為政治としての才能はあまりいいものではなかったが、料理の
腕は素晴らしく、主に薄味の料理をうまく仕立てるのが得意だった。
そして一つ、その薄味の料理についてのエピソードがある。
ある日、呉の皇帝孫権がいつものように昼餉をとっていたときの
ことである。
孫権「淡泊殿。そなたの料理は美味であるが、何故にそこまで薄味に
こだわるのかな?」
淡泊「昔、私の友人で濃い味付けの料理を好む者がおりました。その者は
その料理を過度に食しすぎたために一度身を崩し、生命の危機に瀕したことが
あったのでございます。それを国に例えると、濃い味付けの料理を求めることは
いたずらに領土の拡大をしたり、派手な建築に取り組んだりするなど、欲望の
ままに事をすすめ、自滅することを意味します。なので『国を慎重に、かつ
控えめに治める』という意味合いを込めて淡泊な味の料理を私は日々、作って
いる所存であります。」
と淡泊は言った。孫権は一言「そうか、それなら納得した」といい、無理な事業を
控えることに決めたという。
諸葛烈引退後は宮廷料理長に昇格し、283年に他界するまで孫家5代の元で
料理の腕を振るった。ちなみに「暴君」孫晧もまた彼の料理を大いに気に入って
いたといわれている。
暴飲(ボウイン)170〜200 字は暴食(ボウショク) 董卓配下の将軍、後に李カク→張繍→曹操と主を変えた。涼州出身。 暴飲は、大食漢で食通でもあった。 王允らの董卓暗殺に加担し、董卓に大量の食物を食わせ身動きをとり辛くし、 このおかげで呂布は董卓を討てたという。 李カクらにも同様の策を使い成功した。また胡車児と並んで膂力があった。 降伏後曹操に疎まれたので逃走、長江の魚を食したところ当たって死亡した。
蘇生(ソセイ) 生年不明〜249 字は復帰(フッキ) 蜀の武将で、安遠将軍。袁尚配下の部将・蘇由の6つ年下の従弟。 容貌は女性並みの整った顔つきで、文武に優れていた。 冀州城攻防戦で曹操軍と戦い、出撃したが敵兵の槍で胸、腹部を数カ所刺された 上、棍棒で頭部を殴打されて脳内出血を起こすなど、どう見ても戦死の 状態にされたが、奇跡的にも遺体収集の際、偶然処理班が蘇生が生きている ということを知り、その中の一人が引き取って看病、蘇生は自分の記憶が 戦いのショックで失ったものの、見事に回復、引き取った人を父のように 慕ったという。 後に荊州に移住、改めて今度は劉備に仕え、新野城の警吏を任された。 しかし、曹操が荊州に侵攻したことにより、劉備と共に南へ逃亡するが、 長板で曹操を見た途端、記憶が蘇り、怒りで趙雲と共に曹操軍に突入、 阻む敵兵を悉く斬り捨てて趙雲の通り道をつくった。 また赤壁の戦いでもしつこく曹操を追跡、あと一歩の所まで追いつめるなどの 勇猛ぶりを発揮した。 以後も漢中侵攻で葭萌関にいる韓浩の軍を背後から急襲して黄忠に討ち取らせる などの伏兵ぶりを発揮、また244年の曹爽の蜀征伐では補給通路を断ち切って 失敗に終わらせている。 その同年に徙侯に封じられているが、5年後に他界、「勇優(呼んで字の如く、 『勇ましく優しい』という意味)侯」と謚された。
僭越(センエツ)192〜282 字は振舞(シンブ) 呉の幕僚で、黄門侍郎を務めた。 性格は几帳面で礼儀正しく、仕事をテキパキとこなすが、私生活ではストレスを 一気に放出する質(たち)がある所為か、度が過ぎた振る舞いが多かったという。 存在が地味なため、表舞台で目立ったところはあまりなかったものの、石亭の 戦いで周魴と共に曹休に降伏するふりの芝居を打ち、呉軍に勝利をもたらす 一役を担った。 後に陸凱没後、丞相となり、呉が滅亡するまで自国の防衛や農業改革の 切り盛りに務めた。ちなみにその時の皇帝である孫晧は彼の働きぶりを見直し、 若干ながら考えを改めて防衛の補強の補助に努めてという。 呉が滅亡したその2年後に僭越は他界、「礼直侯(「礼を正した者」という 意味)」と謚された。
(´・ω・`) なにもおもいつかんがな
>>454 昨日、「タモリのジャポニカロゴス」を見たのだが、四文字熟語の
オンパレードだったぞ。そこから何か一つ使えたらいいのだが・・・。
産近(サンキン)200〜291 字は甲龍(コウリュウ)
呉の幕僚で、大司馬を務めた。
性格は真面目かつ仕事熱心で相当人から信頼されていたが、遊ぶときは
派手に羽目を外し、様々な賭博や遊興、芸能に興じていたという。
経済知識が非常にずば抜けていて、孫家5代にわたって重宝された。
不思議なことに何故かあの「暴君」で有名な孫晧も彼を大事にしたと
いわれている。
僭越(
>>453 )とは親友で、飢饉が起これば度々普請をおこし、田畑の
開発に乗り出して民を救っており、大体の人からは「僭越、産近がおっての呉」
と言われるくらい民から支持を得ていた。
呉の滅亡後は政界を引退し、これまでの自らの経済論を綴った「産近経済傳」を
手掛け、晋の宮廷に経済のテキストとして託し、291年に他界した。
>>1 が発言せんとここまで平穏が戻るのかと感心。
まとめの人投函再開させたらどう?
ある意味、巻き返したんと違うか?
母斑(ボハン)190〜271 字は黒子(コクシ)。 魏の武将で、右将軍。涼州・富春県出身。3歳の時に洛陽に移住し、そこで 曹操に仕えた。前漢王朝に対抗した大宛国(現在の中央アジアのシル河中流域 フェルガナ盆地にあった西域の国で、寒地に逞しい「汗血馬」の産地として知ら れた)の王・母寡の末裔。 特徴はほくろが非常に多いことで、性格は正義感に富み、味方を庇うことが 多く、攻城戦では味方を守るために投石攻撃などに立ち向かうことが多く、 その為体中に痣をつくることが度々あったという。 曹操の涼州侵攻では馬騰の次男である馬休を捕らえ、また渭南では韓遂の 部将である張横を討ち取るなどの活躍を見せた。また、司馬師が政権を握って いた時代では司馬師打倒の反乱を蜂起した毋丘倹の息子である毋丘甸を討ち取って いる。 その間に敦煌侯に封じられ、大宛国の名産馬である「汗血馬」の産出に 打ち込んだ。 271年に他界、「西猛侯(「西域の猛者」という意味)」と謚された。
ちなみに産近(
>>456 )は280年に政界を引退した後、呉の首都だった建業に
「近大塾」という塾を設立し、これからの中国の経済を担う若者を11年後に
亡くなるまで育てていったという。
>>456 200年に生まれた人間がなんで孫家五代に仕えられるんだ?
孫堅(191or192)→孫策(200)→孫権(252)→孫亮(260)→孫休(264)→孫晧(284)
カッコ内は没年だ。零歳児でも用いたなんて「ヨッ、流石江東の小覇王」だな。
デタラメかいてんじゃねぇよ。
こりゃ大失態ですわ、ハハハ。 くそっ!!!!!
「孫家5代にわたって重宝された」→「孫権から孫晧までの4代にわたって 重宝された」 これでいいかい?これなら理にかなっていると思うがね。
兀本骨(ゴツポンコツ)生没年不明 兀突骨の従兄弟で、烏戈国の王族。体格は兀突骨同様、身長が9尺 (約273p)と大柄であるが、生まれつきかなりの虚弱体質だったと いう。 その為、戦の経験が皆無に等しく、蜀の南征の時、兀突骨に「自分も 出陣したい」と要請したが、「使えん!! お前は本当に使えん!! (大瀧秀治風の口調)」と言われ、却下された。それを聞いてショックを 受けた兀本骨は、烏戈国を去ったという。 一説によると彼はその後、パルティア王国に出仕したと言われているが定か ではない。
梅嘉婁(バイカル)189〜273 字は北海(ホクカイ) 魏の幕僚で、尚書。并州・上党郡襄垣県出身で、漢人と匈奴とのハーフ。 性格は非常に猜疑心が強く、本当に信用できるまで10日を要する くらいだったという。その為曹操から「梅嘉婁の疑り深さは海の如き なり」と言われた。 しかし、軍議でもその「海の如き」奥深い意見を述べるなど常に重要人物と して活躍、蜀の北伐では第二次の時に援軍の兵の調達を素早く起こし、陳倉城に 留まっている蜀軍を追い払うことに成功している。 後に武都侯に封じられ、牧羊業に力を入れた。
>>465 「海の如き」?、「海が深き如き」とかでは?低脳。
あの時は寝ぼけまなこで書いていたんだ。仕方なかろう。 それに・・・。以前、あんたと同じように他のスレで間違っているところを 度々指摘したことがあってな、その時他のモンに「重箱の隅を楊枝でせせる お前はやりすぎ」と言われたことがある。つまり、注意するのはいいが、 適度にしてくれ。あと、「けなし」は禁物だ。 以上。
適度な注意じゃyないの? と思ったら低能ってあったのか。そりゃいかんな。
成立(セイリツ)185〜266 字は法則(ホウソク) 魏の幕僚で、光禄勲。司馬昭の部将を務めた成何の叔父に当たる。 性格は何事にも調べることを非常に好み、物事がどうやったらうまくいく のかをよく探求していたという。 赤壁の戦いでは、火攻めで大混乱の中、冷静かつ的確に遭難した兵を多く 集めて退却させ、華容道を突破した曹操と合流、曹操を匿って江陵城まで誘導 した。ただし、それは「演義」の内容で、「正史」では風土病と船酔いで弱った 兵を無理して戦場に赴かせるよりわざと自滅して退却させるべきだと主張、自ら 火を放って退却を促し、諸将を無事、無傷で撤退させたという。 以後も戦いでは的確な進言を推して活躍、反面日常ではあらゆる物事に成功する ための方法を綴った「物事開道」という書籍を作成している。 58歳の時に幽州・房侯に封じられ、小麦、米、大豆の三毛作に挑戦し、ある 程度の収穫を収めている。
袁護(エンゴ)177〜270 字は補佐(ホサ)
袁術の部将。汝南袁氏の一族で、袁術の又従兄弟。後に呉の武将で、左将軍
を務めた。
性格は正義感が強く、よく喧嘩などで友人などを庇っていたという。
袁術に仕えていたときは紀霊と共に度々戦いで活躍したが、対劉備戦である徐州の
戦いでは一瞬の隙を突かれて紀霊が張飛に討ち取られ、怒って張飛を追い払った
ものの、「紀霊を見殺しにした」と責任を大いに感じ、戦いのあと自刎を図ったと
いう。この時は袁術が直に押しとどめたため、未遂に終わっている。
袁術が曹操に撃破されてからはその息子の袁燿とともに廬江太守の劉勲の元に
逃げ、護衛を任された。しかし、江東平定で侵攻してきた孫策の侵攻で奮闘するも
捕らえられ、あわや処刑寸前にまで陥る危機に逢うが、孫策に味方を一生懸命に
守るその奮闘ぶりが認められ、孫策配下の将として戦うことを決意した。
孫策没後は引き続き孫権に仕え、黄祖討伐では主力部隊を撃破、黄祖の部将である
蘇飛を捕らえるなどの健闘を見せた。
また赤壁の戦いでも緒戦で曹操軍の舟のうち2、3隻を背後から急襲、乗っ取って
呉軍に献上した。
以後も呉の防衛として活躍、海南島沖の海戦(
>>186 )では老将ながら楽斗軍を挟撃
して呉軍を有利に導いている。
その間に廬江の太守に任命され、法律を少なめに、自ら地方の観察に赴くなどの
善策を執り、市民の生活を豊かにすることに務めた。
277年に他界。「英烈侯」と謚された。
471 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/06/07(水) 13:29:52
きも
472 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/06/07(水) 14:45:46
自慰(ジイ)169〜? 字は精子(セイシ) 出生は不明。一説には秦の始皇帝の末裔とも言われている 性格は、大人しく内向的。無口で、とても物静かだったと言われている 孔明の知恵袋として、数々の計略を孔明に進言し、蜀に多大な貢献をしたが 全てエロ関係だったという。 故に知恵袋というか玉袋だ。という中傷も常に付きまとった悲運の武将 孔明が司馬懿に送った女性用着衣も、 自慰自身がブルセラショップにて選定した物だと言われている また、計略を考える時には自室に篭り、そのまま一週間出てこない事もザラだったという そして彼の死後、何故かその部屋から大量の春画が出てきた事は 今もって、その理由は不明とされている
473 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/06/07(水) 15:14:01
>>467 けなし禁止ってアホですか?
ここどこだと思ってます?ミクシィや個人掲示板じゃないんですよ?
2 c h で す よ ?
ネタ投下してもレヴェルが低けりゃ叩かれて当然ですよ?
それが嫌なら引きこもってチラシの裏に書いたらどうですか?
頭 お か し い ん で す か ?
ついでにバカ晒しあげときますね?
黙ってさくらたんのクリトリスいじっとけっつってんじゃん
このスレまだあったんだ
>>473 バカは君だ。「低能」と書くはずが「低脳」となっていたぞ。もう一度
小学校からやり直した方がいいのではないのかな? まあ、これは言いすぎで
すまないがね。ちなみに俺は引きこもっている暇なぞ全くない。普段は仕事で
忙しいんだよ。
>>474 だから、いじれるにいじれないと言ったはずだぞ。
これからは乱世かな、このスレは・・・。
>>473 チラシに下書き? ふざけるな!! やっぱりお前アホだ。
そんなもんとっくにノートとワードに下書きをしたためとる!!
この、
い か れ ポ ン チ !!!!
>>473 後もう一つ、真っ昼間に出しているとは、これはどういうつもりだ?
お前こそ、その「引きこもり」ではなかろうな?
会社や学校のパソコンでそんなもん書き込みしとったら、お目玉食らう可能性が
大だからな。
彭言(ホウゲン)生年未詳〜251 字は罵成(バセイ) 後漢の議郎・彭伯の従兄弟。自身も議郎となり、後に魏の尚書となった。 気性が激しく、自分に納得がいかない事があると直ぐにマシンガンの如き暴言を 吐くことがよくあったため、人からは「これでは彭言ではなく暴言だ!」と言わ れていた。また後漢王朝の実権を握った董卓も彼の気迫に度々圧されていたため、 不思議なことに彭言は厳罰に処されることがなかったという。 後に曹操の元に仕え、幕僚として地味ながら度々有効な進言を行い、魏王朝の 地盤固めに一役担った。 ちなみに彼は曹爽討伐のために司馬懿が病で療養しているという嘘の情報を流し、 曹爽を油断させるという手段を使い、司馬懿を丞相に据える一役を担ったという。
481 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/06/10(土) 12:16:48
性 鉄 名 骨 字 亜怜 生没年不詳 劉備が挙兵するとそれに従い各地を奮戦した 一説には呂布を叩き殺せるほどの武勇の持ち主だったと言われている
慈愛譲(ジアイジョウ)190〜275 「慈」が姓で、字は任堯(ニンギョウ)。
蜀、西晋の武将で、蜀では破羌将軍、西晋では鎮東将軍を務めた。
慈英尊(前スレ
>>907 )の従兄弟。
性格は正義感が強く、好戦的。先鋒をよく務めていた。劉備の荊州侵攻では宜都で孫桓軍を
背後から襲撃して総崩れにし、夷陵の戦いでは敗走する劉備の護衛を務め、白帝城まで誘導
させた。南征でも囮として真っ正面から金環三結に立ち向かって金環三結の気をそらせ、魏延、
趙雲に奇襲の機会を作ったり、兀突骨の軍勢を徹底的に誘き出したりして活躍。「まさに戦いを
生業にしているような男である」と諸葛亮から言われた。老年に達してからも衰えることがなく、
姜維の北伐では廱州で姜維が敷いた背水の陣に参加、王経の軍をサイドから攻めて撃破した。
その間に永安侯に封じられ、養蚕業の推進に力を入れる反面、軍事でも魏の侵攻に備えて
狼煙台を20基以上設置するなどの防衛線を強化させ、常に戦いを先に考えて内政を執っていた
らしい。
蜀滅亡後は西晋の皇帝・司馬炎から現在の地位を保全することと引き替えに、呉の討伐に
出陣する事を命じられて羊[示古]と共に西陵に出陣、陸抗の軍勢に一度たりとも怯むこと
なく戦い、容易に近づけないようにし向けた。
しかし、彼にとってそれが最後の戦いとなり、3年後の275年の晩夏、永安で85歳の高齢で
逝去、「快進侯(『臆することなく突き進む』という意味)」と謚を授けられた。
ちなみに彼は手先が器用で、若い頃から勇ましく戦う兵の人形を作っては、同僚や子供達にその
手作り人形をあげていたという。
面白いよ 良スレだと思う。 職人さんGJ! だが誰とは言わんがあやまれ つд`;)
1・2スレとじょのスレ後半は良スレ
485 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/06/19(月) 20:14:29
このスレの1きめぇwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
486 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/06/19(月) 20:55:22
あげんなチンカス
於馬鹿(オバカ)155〜? 南匈奴の単于・於夫羅の従弟。性格はうっかり者で、優柔不断だったという。 南匈奴で反乱が起こったときは部下の防戦するという主張を一切聞かぬうえ、 一切戦わず、そのまま南へと逃亡し、青州に移住したと言われている。 それ以降は歴史の舞台に登場していない(当然だが)。
488 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/06/20(火) 12:50:17
糞スレ晒しage
489 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/06/20(火) 17:17:35
屁亡魏触・へなぎさわ 柳沢のバーロー
>>489 気持ちは分からんでもない。あの絶好のシュートチャンスを
逃したからなあ・・・・・。
まあ、次のブラジル戦で一縷の望みにかけてみようじゃないか、一応。
491 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/06/22(木) 04:18:36
武将ではないが・・・。 張魯笈(ちょうろきゅう) 五斗米道の教祖・張魯が考案した小型の四輪車。 ぜんまい仕掛けで自走するため、土民は張魯の妖術と畏怖した。 その後、漢中の庶民にも製造法が伝わり、とくに子供達の間で一世を風靡した。 様々な塗装・装飾や改造を施した張魯笈の走り比べがさかんに催された。 のちに漢中を訪れた諸葛亮は、張魯笈をヒントに木牛・流馬を考案したと言われる。
492 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/06/22(木) 05:39:49
ふ
493 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/06/22(木) 13:01:11
人物にこだわんなくてもおもしろきゃいいな。
と言うか
>>1 のオナニー臭い(>>〇〇の××の兄)とかって設定の垂れ流しより
単純にダジャレとかの方が面白いよ
495 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/06/22(木) 16:11:30
498 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/07/22(土) 07:58:15
俺、まとめ人に嫌われてる
>>1 初めて見た。稀有なスレだな。
499 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/07/22(土) 12:36:50
>>498 スレの主旨をはきちがえた>1だからな。
それもしょうがない。
鬼霧 字 和 出生不明。魏の将であり、「少尉」(現代の軍の階級ではない)地位にあった。 軍糧に詳しく、特におにぎりの改良に熱心であり、日持ちのするおにぎりを 常に自軍に携帯させていた。そのため、部下から「おにぎりわしょうい」と仇名された
502 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/08/24(木) 13:29:09
>1です。みんな盛り上がってきたね!俺もガンガル!
波浪 字は敬奉(演義では警報)182〜242 波才の子、過去に李カク、楊奉と鞍替えした魏将。 大兵力を用い他を打倒する戦術を得手とする。 軍を展開しながらも優勢を保った為死後鍾会に模範とされた。 精強な青州兵を操り正攻法で他を圧倒。大規模戦争において彼は軍の中枢を担った。 学問を身に着けず短気であった為、 兵は文句をいっていたがいざ戦闘になるとその優れた戦闘力を存分に発揮した。 彼の子には波動(字拳武) 波状(字大海)がいるが両者ともに韓信に比された名将である。 波動は討呉の際、巧みに水軍を操り、 波状は討蜀において起伏激しい山々の中速やかに行軍した。
504 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/09/01(金) 13:41:52
煩躇(パンチョ)生没年不詳 字は李淘(イトウ) 曹操に市中ひきまわしにされ、頭がズル剥けになったといわれている。
505 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/09/01(金) 14:15:32
汚魔恵喪奈(おまえもな 151〜208) 字は喪裸螺 平原育ちの名家出身。161年に中央に出仕。 幼き頃から禰衡とともに将来の英雄を語っていたという 高官にも屈せず嫌みを「おまえもな」と言い返す性格が霊帝に気に入られ、そのあと着実に功を重る。霊帝崩壊時には大司農になっていた。 189年、董卓に讒言したことにより中央を終われ、曹操が帝を擁するまで諸国を旅していた。 復帰後光禄勲に就任しエンショウ討伐時には献帝自ら司空に任命した。 208年、曹操が荊州攻めをする際に諫め、曹操が「我に逆らうことは朝廷に逆らうようなものだ。貴様は逆賊か?」 汚魔恵喪奈「(´∀`)オマエモナー」 これにより処刑された。 赤壁後、民は汚魔恵喪奈を憐れみ曹操を憎んだとゆう
506 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/09/01(金) 15:53:07
曹麺(そうめん? - 235年) 魏王朝の王族。曹操の第二十子 兄の曹丕に殴られ川に転落、溺死。 部下たちはその不甲斐無い姿を「流しそうめん」と嘲笑ったという。
507 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/09/01(金) 17:27:37
>>506 235年に曹ヒはとっくに死んでるとマジレス
508 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/09/06(水) 14:04:21
509 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/09/12(火) 19:07:26
あげ
小枝(コエダ)164〜270 黄巾賊。100年以上生き抜いた武将。黄巾賊随一の豪傑であり知将。 その当時は関羽や張飛にも勝る武将だったという。 張角の死後、およそ40年間盗賊として各地を暴れまわった。 後に魏の武将となるが279年に病没するまで一切戦場に出なかった。
ミスってた。 279年ではなく270年。
512 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/10/06(金) 19:29:47
513 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/10/06(金) 23:22:13
あげんなカス
514 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/10/14(土) 01:45:17
初代スレがおもしろすぎる。
515 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/10/16(月) 09:40:01
真止目才登って消えちゃったのかな?
517 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/11/01(水) 16:43:54
曹式(ソウシキ)160〜221 字は参列 魏の文官。 常日頃から白無地の着物と香典を持ち歩いており、 いかなる場所でも涙を流せるほど涙腺が弱かったという。 古くからの風習、因習、礼習を重んじる性格であったため 王粲の葬儀の際、驢馬の鳴き声を真似して故人を見送ろうという 曹丕の奇妙奇天烈な提案に真っ向から対立した。 のち、これを根に持った曹丕は皇帝に就任した際、彼を誅殺している。
518 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/11/02(木) 04:26:15
どうも。初代1です。久々に来たよ。 まだあってうれしい。まとめサイト見たけどお前らバカだろwwwwwww
まぁ、いっちゃん上が愛液だからな
審中 字は無理 ?〜207年 審配の弟。審配が鄴で敗北した際、自らは他の一族の者を召集し、 脱出、烏丸の元に向かった。 のち曹操が烏丸討伐をした際、危機に陥る。 すると審中は仕えていた者と自らの一族を悉く殺害し、遂には烏丸兵も斬殺し始めた。 最後には「我が兄は忠義をまっとうしたのだ!私もそれに殉ずる」と言い自害した。 この行為を知った曹操は「自害ならまだしも、周囲の者を斬殺したのは理解に苦しむ」 と郭嘉に相談しようとしたが、郭嘉は既に亡き人となっていた。 のち赤壁ではそのもやもや感が消えず、曹操は本領を発揮出来ず大敗した。 「奉孝ありせば・・・」と曹操が嘆いたのにはこんな理由があったのだ。 因みに陳寿も彼を「理解し難い」と評した。 尚、のちに日本で心中が多発し、社会問題となった。 その頃日本における心中は男女の相愛を意味するもので、審中は極一部の作品で美男子として描かれた。 しかし三国志演義には登場しない為知名度は著しく低かった。
521 :
http://tadadenetoge.web.fc2.com/index.html :2006/11/04(土) 09:14:57
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風卑(フウヒ)163〜251 字は竜待(リュウタイ) 蜀の左将軍で、幽州・漁陽の出。 黄巾賊討伐では皇甫嵩配下の将として活躍、50人斬りをやってのけ、張梁・張宝の 軍勢を圧倒した。後に劉備の人柄に惚れ込み、劉備に仕えた。徐州の戦いでは曹操軍の 猛将夏侯惇と300合打ち合うなどをして気を引かせ、劉備の逃走経路をつくった。 赤壁の戦いではその前哨戦で呉将甘寧と共同戦線を組み、曹操軍を圧倒。その間船を 奇襲によって10隻奪っている。 以後も成都攻略戦、南蛮遠征で斬り込み隊長として活躍した。 しかし活躍したのは南蛮遠征までで、以後は特殊な神経病を患い、251年に 亡くなるまで寝たきりだったという。
ここのスレッド随分来ていないが、また再び近いうちに漢和辞典などを読んで やるか!!
陸上(りくじょう) 205〜275 字は競技(きょうぎ) 呉の衛将軍。陸遜の子。 走る速さは当代一といわれ、健脚の虞翻にも賞賛された。 若い頃から魏との戦いで父に従軍するが、水上で軍を巧みに操ることは不得手だった。 しかし、陸の上で軍を率いれば「呉で敵う者なし」と称されるほどで これは日ごろより配下の兵の脚を鍛えさせていた陸上の慧眼であった。 騎馬の扱いも慣れ、孫権は一時期騎馬の管理を陸上に託したこともあった。 父が憤死すると孫権から怨まれるが、陸上はとてつもない速度で 私邸から脱出した為、どうにか難を逃れた。 その後隠遁し政治に参与することはなかったが、270年に孫晧に召抱えられた。 孫晧が「汝は健脚で、更に足が速いと聴くがどうなのだ?」と問うと 陸上は「この地の上ならば、敵う者なしと自負しております」と言った。 孫晧は疑い、配下の者達と陸上を競わせたが敵う者はいなかった。 孫晧は手を叩き「これは面白い、汝と伯仲の者がいたとしたら、これは見物だ!」と言った上で、 配下の者達を競わせ、陸上と対抗出来るほどの健脚に仕立て上げた。 この頃になると陸上も老齢で273年、遂に負けてしまった。 孫晧は「あいや、こうして人の足を競わせるのも一興だ」と娯楽の一環として 呉国に陸上競技を採用した。陸上は馬に脚を踏まれて以来走ること叶わず275年、死去した。 晋の将軍、杜預は陸上をこう評している 「かつて陸遜が子陸抗は羊コ将軍相手に奮闘し、退かせた。 かと思えば、このような名将がいたとは。 皇帝が孫晧であった為に文化面の功績しか残らぬが、 もし魏晋に仕えていれば東奔西走し、英名轟き一族は繁栄したであろうに。」 その後、陸機・陸雲という詩人が陸一族から出ているが、悉く殺されてしまった。
蒯統(カイトウ)190頃〜282 字は婁藩(ルパン) 魏の武将で、車騎将軍。兄の蒯良と共に孫堅を討ち取った事で有名な蒯越の 息子。 蒯越の息子と言うことだけあって仕え始めた頃からかなり曹操から優遇されて いた。武将ではあるが、かなり知的なタイプで、かつ武芸よりも物を盗る事に 長けていた。劉備の漢中侵攻では、ある夜、部下10名あまりを囮に馬鹿騒ぎを 起こさせ、劉備軍が動転している隙に兵糧や武具、貴重品一式などを盗み、戦闘 困難に陥らせたことがあった。この巧みな手口は年老いても衰えず、時には敵に なりすましたり、特殊工具で進入するなどをして蜀の北伐では地味ながら蜀軍に 決定的な勝利をもたらさぬ事に貢献、後にその神出鬼没ぶりに蜀からは「盗みに 対しては蒯統婁藩これにあり」と恐れられたと言う。ただし、盗んだ貴重品などは 貧しい人々に分け与えるなど、非常に心優しい一面も持っていたと言う。
圭談連(けいだんれん) 後漢帝国の商人連合。労働者を苛み私腹を肥やしていたが 董卓の入京によって皆殺しにされた。 特に億田、手洗の二人は生きながら皮を剥がれ、そこに塩を刷り込まれ 手の部分だけから揚げにされた挙句、死ぬまでその首を民衆に蹴り続けられた。 董卓唯一の善行として伝えられている。
527 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/12/28(木) 09:37:53
>>526 お前は経団連に何か怨みでもあるのか?wwww
528 :
愚公 :2007/01/01(月) 13:50:52
差鵡巽:???〜259 字はない どこの出身かは不明、ただ漢人ではないことは確かで、 金髪・青と緑という左右違う瞳を持ついう異形で怪力の持ち主であった。 呉の都の大商人の下で白人奴隷兵として入り口の警護に当たっていたものの主人である 大商人の死後売り払われ酒家で用心棒として雇われて強盗を捕らえた功績により太守に 気に入られ衛士の一人となるものの、 その異形を珍しがり、 またその功績を聞いた孫策により護衛兵となると同時に落籍され解放奴隷となり自由の身になる。 その後、力をつけ副将になる、 黄巾の乱では黄巾軍による落石を投げ返したという逸話も残っている。 孫策の死後孫権の元で引き続き副将となり赤壁の戦いで戦功をたてた。
529 :
無名武将@お腹せっぷく :2007/01/01(月) 14:45:06
牛角 魏の武将、牛金の親族。牛金に従い各地を転戦するが赤壁の戦い後の 江陵攻防戦において戦術感の相違を理由に出奔してしまう。 その後各地を放浪し炭火焼肉酒家なる商売で大成功する。 居酒家で成功した土間土間は牛角の一族である。
男性諸君、結婚すると不幸になる。幸せにして当たり前で感謝無し。都合の良い奴隷としてだけ感謝され、搾り取って用済みになればゴミ箱へポイ♪
女の外面は綺麗で清潔で良い人、内面はずるくて汚いため、口も悪い+薄情+嘘+女同士も上辺仲良し裏では悪口三昧
女の成分はA(性悪陰湿残忍+損得自己中感情)+B(良い女演技+体形+整形化粧+ファッション)
↑良い女演技は好きな男>>異次元>>男集団>他人の順に良くなる。年齢とともにBのメッキがはがれ内外ともに醜くなる(Aの良い女は極少数)
女は「人生の不良債権、北朝鮮、金メッキを施したゴキブリ」
男女は対等で平等。男が女を養ったり守る必要はない「見切れ!見切り千両!私不幸なの?嘘!泣いてます?演技!情けは不要!つけこまれるぞ」
女は社会的優遇、過剰な法的保護、仕事と家庭の二束のわらじを得て、女尊男卑〜結婚しようとする君を彼女は陰で小馬鹿にしている事でしょう〜
★結婚は保留し、沢山の女と自由に恋愛(sex)を楽しめ♪★避妊必須
★捨てた女は優しい真面目男が結婚(残飯処理)してくれるさw★
それでも結婚する君へ究極護身法→[夫婦財産契約登記]
夫婦財産契約により、自分の稼いだ財産はすべて自分の物
弱い者いじめは最低と言いつつ、赤ちゃんを殺す母親(そして無罪判決(笑
狙撃は女子のほうが強い。男はノイローゼになってやめてしまうが
女は何人殺してもノイローゼにならない。骨盤が安定しているため
ナチスの拷問で、女の拷問の残虐非道さを見て、拷問をしていた男達もひいたという
拷問しながら楽しそうに笑みをうかべていたそうだ。罪悪感や引け目が無い
・有史以前が女尊男卑の時代だったことを指摘したのは、スイスの学者バッハオーフィン
アマゾン女族の女王は、法律を定め、男達には卑しい奴隷の仕事を課した
男児が生まれたら、生き埋めにするか、脚と腕を不自由にして、戦えなくし奴隷とした
・王位継承権が女性にだけあった古代エジプトでは女性権力が非常に大きかった
・日本でも卑弥呼が女王
http://kr.img.dc.yahoo.com/b1/data/dci_etc/76.wmv ←女集団が女一人をリンチしている動画(執拗に蹴り続けながら皆楽しんでる 一部エロ有
女は虐げられてきた?父系社会など人類の歴史から見ればほんのわずかな期間に過ぎない。むしろ
531 :
無名武将@お腹せっぷく :2007/01/01(月) 20:00:11
きめぇ
532 :
無名武将@お腹せっぷく :2007/01/01(月) 20:04:34
胡錦涛
保守(ホシュ)生没年未詳 五斗米道の教祖・張魯配下の将で、主に宝物庫の管理を務めた。 曹操に攻められた際、張魯と共に宝物庫を焼き払う事に反対している。 張魯が曹操に下った後は偏将軍に昇格しているが、その後の動機は不明。