島津vs上杉vs毛利vs伊達vs武田vs北条vs立花 4回戦
2 :
無名武将@お腹せっぷく:
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3 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 18:54:25
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無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 19:11:42
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5 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 19:24:06
なんで手動なの?
上杉厨の主張する伊達が上杉に負けたって、松川合戦の事かな?
これはもう、上杉方の捏造らしいという事がじょじょに明らかになって
きているのに、得意気になって言いふらしていると、
恥をかくことになるかも知れんよ。
あと、伊達軍は大崎に敗れはしたが、政宗は出陣していなかったと思うんだが、
これは伊達政宗の敗戦と言えるのかな?
色々難癖をつけたいみたいだけど、弱冠23歳にして奥州に覇を唱えるような形に
もっていけたのは、十分凄い事だよ。
この年齢の時の島津義弘や上杉謙信や毛利元就は何をしていたの?
結果
○伊達 ●島津●上杉
毛利?なにそのゴミ大名
関ヶ原でも島津上杉毛利は全部負け組みにまわったからなw
伊達の勝利だろ、どうみても
木崎原の戦い ○義弘軍2百 対 ●伊東軍3千
島津のお家芸、釣り野伏で見事勝利。 義弘、槍の達人柚木丹波を一騎打ちで討ち取る。 この戦いでミリタリーバランスが島津に傾く。
耳川の戦い ○島津軍2万 対 ●大友軍4万5千
九州の覇者を賭けた戦い。 義弘の冷静沈着な側面攻撃と家久の同時攻撃で勝敗が決定。 こんな大規模な野戦をガチでやって大友軍の死者2万人、 重臣多数戦死という一方的な大勝利を収めている。
稀な大勝利、武田信玄 対 上杉謙信の川中島合戦と比べるとその大勝利ぶりが際立っている。 以後、大友は衰退。
沖田畷の戦い ○家久・有馬連合軍5千 対 ●龍造寺軍6万
龍造寺はこの戦いで隆信、四天王を失い島津の傘下に入る。 戸次川でも長宗我部信親・十河存保を討ち取るが、指揮官を討ち取るというのは野戦では珍しく、それを何度もやり遂げている島津家久は戦国一の戦上手といえよう。
戸次川の戦い ○家久軍1万 対 ●豊臣四国連合軍
寄せ集めにすぎない連合軍は歴戦の勇将・家久の敵ではなかった。 この戦いで長宗我部信親・十河存保戦死。 長宗我部元親、ショックで廃人になる。
泗川の戦い ○義弘軍7千 対 ●明・朝鮮軍20万
慶長の役の末期に秀吉が死んだので、 朝鮮にいる将たちに帰国命令が下りる。 それを知った明軍・朝鮮軍は20万の軍勢を日本軍の中央を守る義弘の泗川に向ける。
義弘は、泗川にいくつかあった支城を破棄、泗川に新たに築いた城に立て籠もる。
ここで敵を引きつけるだけ引きつけてから鉄砲の一斉射撃ののち突撃し散々に打ち破った。 また自らも刀を振るって奮戦した。 明軍の死者は8万。
露梁津の海戦 ○義弘軍 対 ●朝鮮水軍
この時も義弘は水軍を率いて活躍。 順天の小西行長を救出し、さらに全軍の殿を務め、 朝鮮の名将・李舜臣と交戦し見事討ち取る。日本軍退却成功。
もし義弘が朝鮮出兵に参加してなかったら日本軍は朝鮮で全滅してた。 秀吉は大名の領地加増を禁止してたが 島津だけはあまりの戦功の大きさに加増された。
関ヶ原退却戦 ○義弘軍3百 対 ●東軍8万
福島隊を突破、追撃してきた井伊直正と松平忠吉に重傷を負わせる。 この傷が元で2人は数年後死亡。
大阪城に残された妻を取り戻し、薩摩へ無事帰還。 家康は島津を恐れ、関ヶ原後も減封する事が出来なかった
◆郷土食が支えた最強の島津軍団
戦国時代、勇猛で強い軍団といえば、武田信玄の甲州軍団、上杉謙信の越後軍団、三河武士(徳川軍団)があげられるが
忘れてはならないのは命知らずの島津軍団である。秀吉、家康でさえ島津と戦う事を避けたほどだった。
島津一族を強力な戦闘軍団につくりあげたのが、島津中興の祖、島津日新斎忠良である。
日新斎は、古代国家の頃、その荒々しさで都人に恐れられた熊襲の子孫、隼人族(猛人ともいう)
を家臣としてとり立てて、軍団の核としていた。
この島津軍団の兵糧のひとつに「ちまき」がある。ちまきは本来保存食で、兵糧などの携帯食料として使用されていたが
薩摩のちまきは一風変わっていた。
(中略)
薩摩のちまきは、灰汁でつくることから「あくまき」呼ばれる。ゆうに二,三ヶ月はもち、しかも高カロリーなのだから、理想的な食料だったのだ。
また鹿児島の特産品「かつお節」も高タンパク、ビタミンB郡を多く含み、保存性の高さはピカ一。「武教全書詳解」にも
「かつお節は、薬にあらずといえども、時にして飢えに及ぶときには、これを噛めば性気を助け、気力を増し、飢えをしのぐのみならず、役に立つものなれば
必ず用意すべき事なり」とある。
鹿児島県では、豚や鶏は、歩く野菜といって食べてきた。これら古代以来の野趣に富んだ郷土食が、薩摩武士の体力を強靭にし、最強の島津軍団を支えたのだ。
◆日本の英雄島津氏
明治時代に
帝国陸軍は長州の軍隊と呼ばれるほど長州出身者が幅を利かせていた
帝国海軍は薩摩の軍隊と呼ばれるほど薩摩出身者が幅を利かせていた
なぜ海軍が薩摩出身者が多かったのかというと島津斉彬公の近代化政策によって
幕末薩摩は反射炉や造船所など近代化のための施設があり、幕府につぐ軍監を保有していたために
近代兵器に特に軍艦の操船に慣れていた為である
帝国海軍は日露戦争においてロシアのバルチック艦隊を日本海海戦で壊滅させるという
海戦史上に残る快挙を成し遂げている
よって島津氏は日本の危機を救った英傑であり英雄
12 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 19:32:30
◆アル中大名上杉謙信◆
謙信の酒好きは有名で、斗酒お辞めさず、の酒豪だった。
謙信が用いた杯はいくつも残っている。黒塗蒔絵であったり、朱塗無紋であったりと色模様はさまざまだが
型はきまって朝顔型で。そのどれもが大きい。馬上盃という、馬にまたがったままで飲むための杯であり、愛用したのは三合入りの杯だった。
また家臣に酒を与えるとき使わせた春日盃というものもある。
謙信はよく養子の景勝や家臣の直江実綱、石坂検校などを相手に縁側にでて自然を愛でながら酒を飲んだ。
大勢の家臣との酒盛りも好きで、ひとしきり飲むと別の座敷に何人か連れてまた飲み直すほど。
三十六歳で左足が動かなくなり、そのストレスもあってか、以前よりも酒の量がめっきり増えた。
四十一歳のときには、手の震えで署名もおぼつかない状態だった。戦勝祈願のために諏訪神社に参拝したことがあり、
その間は酒を断っていたのだが、夜になるとアルコールの禁断症状に襲われ、中毒による幻覚賞状を体験していることからも謙信はアルコール中毒だったと思われる。
酒の肴はいつも梅干しだった。確かに酒の量も凄いが、塩分の量も凄い。
脳卒中で倒れたのは四十九歳のときだ。
13 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 19:33:54
これだけは言える
有名な第4次川中島合戦
武田信玄の相手が謙信ではなく、島津義弘率いる島津軍1万3千だったら
武田信玄はアボーン確実だっただろう
謙信は武田の別働隊が戦場に合流するとすぐさま退却したが
島津軍の場合は信玄を討ち取るまで退却しなかっただろう
まず武田別働隊は捨てガマリ戦法なんて使える島津の別働隊に足止めされて合流できなかっただろう
霧が晴れたら目の前に島津軍1万、対する武田信玄8000
島津軍の決死の別働隊3千が武田軍の別働隊1万3千を足止め
島津義弘必勝だろう