この厨板でカッコつけてもしょうがないっしょ。
意味が通じればそれでいいっす。
話を王渾に戻すが、晋書武帝紀では、征呉の功労者に関して、
王濬、杜預、唐彬、王戎の四者は論功行賞の内容まで書かれているが、
賈充や司馬伷は増封とだけ、それ以外の王渾や胡奮はその他として扱われている。
王濬とその部下唐彬、杜預は明らかな開戦派だったろう。
彼らと同じように取り上げられていると言うことは、王戎も王濬らと考えを同じにしていたのだろうか?
しかし王戎は、西陵の戦いの際に羊祜に処罰されそうになって以来、彼を恨んでいた。
その羊祜の悲願であった征呉戦役に、王戎が積極的に賛成するだろうか、という疑問はある。
三国志呉書や資治通鑑などには記述が無いが、晋書には、
273年秋7月、魯淑らが弋陽・新息に兵十万と号して出兵した事が記されている。
この時、王渾は魯淑らの不意を突いて攻撃し、彼らを撃ち破っている。
この辺を見ても、王渾が判断力に乏しいわけでも臆病なわけでもない事が分かる。
やはり派閥闘争やら何やらの、政治的な思惑が絡んでの停止と見て間違いないとは思うね。
何ツの予測も、そこを考慮してのものだったんだろう。
関係ないが、この魯淑らの出兵は、号十万という大遠征でありながら、
武帝紀と王渾伝くらいにしか記述が無いのはどういうわけなんだろうか?
542 :
529:2006/12/27(水) 01:51:29
>>531>>532>>533 レスありがとう。
田租や塩鉄の専売っていうのは流通から利益を得ようとしていることを示していると思っていて、
荘園っていうのは基本的に自給自足であり、
これが拡がるってことは流通から得られる利益の減少を意味するだろう。
荘園拡大の対抗策として屯田を行うならば、益々流通の重要性が低くなり、
どんな土地をどれだけ確保するかという局地的な話しが重要性を持ってくるのではないかな。
そこで、山林藪沢のようなものが注目されたりしないのかなと思うのだが、どうなんだろう。
少し調べてから何か書こうと思ったんだが、調べる時間が中々とれなくて曖昧な妄想だけで済まない。
というか誰か良いwebのfreeな漢和辞典を教えてください。
543 :
529:2006/12/27(水) 03:00:48
無理矢理っぽいが、
もし王渾の停止に賈充への配慮が大きな要因として作用しており、
何ツもその点を考慮していたとすると、
「渾暗於事機,而欲慎己免咎,必不我從。」(上のwikiの資治通鑑 第081卷からとってきた)
という言葉も、単純な軍事的な意味のみではなく政治的な意味も含んでいるのではないだろうか。
とすると、咎とは建業攻略に成功したとしても及ぶであろう賈充派からの攻撃をも含み、
機とはそれに乗ずることができれば、少なくとも咎を考慮する必要がない程度のものが得られることを示しているのかもしれない。
例えば、反戦派の賈充は征呉後に力を落とし開戦派も追い落としにかかるだろう。
そこで征呉時の華々しい功績を持って上手く立ち回れば、かなりのポジションを得られる可能性がある
ということ含んで機といっているかもと妄想もできるかもしない。
544 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/28(木) 08:34:01
討蜀の将軍たちがどんな目に遭ったかを考えたら、慎重にもなるわな
三国時代の戦争に関して、何か普遍的な考えが見つからないものかと思っているのだが、
なかなか思うようには進まないね。
姜維の時代の魏蜀の戦争を見てると、流行なのか知らないが、
特徴的な作戦コンセプトが見受けられるんだが、
それ自体は三国時代にかかわらず、戦史的にも有名な用兵術だから、
三国時代と結びつけるわけにも行かないしね。
当時の軍制や社会制度あたりと絡めた考察ができればいいんだが、
俺の知識じゃまだまだだな。
ブログ見た。
張嶷といえば、費禕が降伏者を信頼しすぎることを諌めたと言う話しがあるが
降伏者への風当たりを緩和する為のパフォーマンスとして、
夏侯霸が張嶷へアプローチをしたということはないのかな。
あと、張嶷が得たのは高潔の評判以外に無かったのかな。
パフォーマンスという面もあったとは思う。
いずれにしても、ただ尊敬しているという理由のみの事ではないと思うね。
そうであれば、張嶷の態度はあまりにも不遜だと思うし。
ただ、「然れども放蕩にして礼少なし」とあるように、
不遜な態度をとっても、張嶷ならばおかしくはないのかもしれないが。
保守にきますた
西陵の戦いについてまた考えていたが、敗因は羊祜の攻城技術の未熟さなんじゃないかと。
羊祜の南進が陸抗の策源を制する事にあったと言うのは変わっていないが、
やはり最重要であったのは直接の策源である楽郷ではなく、江陵にあったんだろうと思う。
江陵は長く魏呉の角逐となった地であるし、後の征呉戦役では江陵陥落が大きな転換点となっている。
そもそも、陸抗麾下の諸将も、羊祜の江陵への前進を聞き、
すぐさま江陵への移動を提言しているしね。
江陵はやはり、呉の荊州における重心であったと見て良い。
故に、楽郷や公安などの周辺の拠点が、江陵陥落の衝撃を受けて尚強い抵抗力を保持できるほど、
強固な意志と戦力を有していたとは考えにくい。当時の呉軍は物理的にも精神的にも劣勢であったからね。
つまり江陵の陥落は、取りも直さず陸抗の策源を丸々制圧する事にもなる。
楊肇の兵力が小さく、連絡線も脆弱だった事は、直後の上奏で見て取れる。
これは兵站の制約上仕方ない事だったのかもしれないが、
羊祜が江陵攻略にどれほど重点を置いていたか、という事の証左にもなろう。
恐らく羊祜は楊肇に、監視以外の事は命じていなかったのだろう。
羊祜にとって重要だったのは、どれだけ長く呉軍を西陵に釘付けできるのか、という事だったろうから。
羊祜は物事の軽重を理解していた、が、勝利を達成するに足る、
すなわち江陵を陥落させるに足るには、城攻めが巧くは無かったと。
ま、城攻めの名手であっても、当時の江陵を陥落しえたかは計りかねるが。
陸抗は、「仮に江陵が落ちても損害は小さい」と語ったが、これは諸将を落ち着かせる為の方便だろう。
堅固であったのは事実としても、江陵が落ちる事が重大ではないという事は無いだろうから。
江陵陥落があまり問題にならないってのは長年の間、北に対して作られていた防御構造はあるが
南に対しては無防備状態だったからじゃない?
そもそも南側からの防衛を考えるという発想自体がまず生まれないと思う
地形的には、大河を前面に置く南側の方が防御に適していそうだけどね。
呉がわざわざ堰を築いて水を江陵に向けて注がせたのも、
桓沖が拠点を江陵から上明に移したのも、長江という自然の防塞を利用したいが為だしね。
人工的な防御設備という点では、確かに北側の方が充実していただろうけど。
陸抗の発言の意図なんて推測するしかないんで、結局なんとも言えんのだけど。
ちなみに江陵包囲の知らせを受けて急遽引き返してきた関羽が
江陵陥落を聞いた瞬間、奪回を諦めて馬首を返したというエピソードがある。
そのときの関羽の言葉。
>あの城は私が作ったものだから、攻略など不可能だ。
これは水経注に書かれている。
魏延が作り上げた漢中防衛策を止めたのは姜維
魏延びいき的観点からは、「姜維ごときが生意気な。魏延の策通りにしてたら蜀は滅びなかったのに」となるんじゃないかなあ
>>553 誤爆かと思ったが、もしかすると俺のブログに対するコメント?
だとすると俺の、「魏延オタは姜維を低く評価する傾向がある気がする」という意見に対するものか。
三戦とか、Web上で、魏延を名将と言いつつ姜維を貶すような意見を何度か見たから、
もしかするとそんな傾向があるのかな、と思っただけなんだよね。
ただ確かに、その漢中の件もあるだろうし、姜維を低く評価した方が、
「魏延が孔明死後の蜀軍を率いていれば、姜維より遥かに戦果を挙げられただろうに」
という風に持っていきやすいというのもあるだろうね。
ほ
ケ艾は蜀を平定した際、
「姜維は自ずと一時の雄児なり、某と相値し、故に窮せるのみである」
と述べ、識者に笑われたらしいが、何故なのかよく分からない。
渡辺精一氏は、その著作「三国志人物鑑定事典」で、
「ケ艾は剣閣の姜維を避けて成都へ来たので、彼に勝ったわけではない。
それなのに姜維に勝った気でいるのはおかしな話だ」
という意味で笑った、と述べているが、北伐では二度にわたって撃破し、
この討蜀の戦役でも、緒戦の彊川口会戦では破っているのだから、
ケ艾は図に乗っていたとは言え、笑うほどの事でもないと思うのだが。
当時の価値観だと、こういうのは嘲笑の対象だったりするのかね?
>>557 「来たのが我輩でよかったな。呉漢だったらオマエラただじゃ済まなかったぞガハハハハ」
という発言に続いて書かれているし、
「我輩に出会ったのが運の尽き」という謙遜せず自分を誇る発言は当時の知識人なら避けるものだったんだろうね
ケ艾の出自も影響したかもしれないね
関係ないが、某ゲームにて沈瑩がキャラクター化決定と知り結構衝撃を受けた。ついにメジャーデビューか…
>>558 尊大なのはいかん、という事か。
調子付いての発言とは言え、姜維を英雄とまで言い切っているのはケ艾だけだし、
北伐の時も、誰よりも姜維を警戒していたのはケ艾だった。
姜維を最も苦しめたのはケ艾だけど、最も評価していたのも、またケ艾だったのかもしれない。
>>560 三国志大戦の追加カードにあるんだっけ?
三国志大戦はやらないから分からないが、使い易いカードじゃないと気にも留められないんじゃないか?
あ、でも著名なゲームに出るのはこれが初めてだったりするのか。
よくわからんけど、そのうち張政あたりもキャラクター化されるんだろうか
沈瑩出すなら、張悌やら王渾やら王濬やらも出して欲しいが、その辺どうなんだろうね?
>>563 呉の名将とか言われているわりに、杜預にボコられた事くらいしか記述の無いあいつか?
>>562 言われてみると、確かに劉備と曹操みたいなものかもしれんね。
姜維を侮らなかったからこそ、幾度も破る事ができたんだろう。
討蜀直前の段階でも、「未だその時期ではない」として、
司馬昭に度々異議を唱えていたようだし、事実遠征は頓挫寸前だった。
それを自分の力で何とかしてしまうあたり、ケ艾は凄まじいものがあるけどね。
566 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/27(土) 08:51:00
なんで沈瑩なんだろ
大戦はやってないんだが、呉に武将が少ないからとか?
>>566 なんか後期武将を大量投入した一環っぽい。
丁奉・陸抗・朱拠・諸葛恪ぐらいまではある程度予想通りだったが、文欽・文鴬親子は呉で出たことは驚きだし、
張悌・沈瑩・留賛の名前は期待以上でちびった。
しかも計略も留賛「最期の戦歌」沈瑩「決死の攻城」と悲壮感に溢れてるのが素晴らしい。
後は吾彦と諸葛セイあたりが出てれば完璧だったのに…李異とかいらねぇ…
大戦wikiを見てきた。
陳泰とか郭淮とかケ艾とか、果ては羅憲辺りまで追加されてるんだね。
個人的には、王濬入れるなら王渾も入れて欲しかった。
呉に関しては、朱異とか施績あたりを追加しても良かったんじゃないかと思う。
アーケードゲームに興味は無かったが
今回の追加カードで俄然大戦に興味が出てきた
こうやって大戦は三国オタの心を掴みつつあるんだな
それに引き換え、新作が「三国・戦国武将が魔王オロチと戦う」となどいう設定の
無双はどこに逝こうとしているんだ・・・orz
ケ艾とかをメインにして出しても売れないと思ってるんだろうな。
大戦効果で人気が出てくれば変わるかもしれないが、
大戦から三国志に入った、ってあまり聞かないからな。
>>566-570 今回の追加が大変嬉しかった一人ですわ
使わないカードまで集めてしまいそう
しかしカードを買うってなるとやっぱりはまれないなあ・・
鮮于輔とか孫観とか劉纂とか蘇林とかトウ展とか閻宇とか出てくるならやってみたい
能力スレとかでも、過疎ると「ケ展や劉纂を評価しようぜ」って言う人がいたが、
ケ展とか劉纂ってそんなに人気あるのか?
575 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/03(土) 00:43:47
俺一人に決まってるじゃん
一人だったか。まぁ、そんな気もしたが。
ケ展とかをプッシュする人が大勢いるとは思えないしな。
大戦に関しては、王嗣とか王基とか王昶とか王渾とか出てくるようだと、
始めるかどうか悩むな。
漢書を読んでてただの学者だと思ってた彼が武芸も達者で漢の将軍だったというギャップに萌えたのですよ
王渾と聞いて王雄の子供の方を思い出す俺は多分偏ってる
漢籍電子文献でケ展を検索したが、随分色んな所に注釈してるんだな。
三国志だけだと、ケ展は、「曹丕と手合わせして負けた奴」くらいにしか思わないが。
ギャップかぁ。そういうので好きになるってのもやっぱあるんだな。
俺はあんまり無いけど。
>>578 王昶の子よりそっちが先に出たら笑う
まぁ、ライト層の間での知名度は、どっちもそう変わらんかもしれんが。
王渾はかの王戎の父だし、王雄の得意技は暗殺だし、琅邪王氏だし
ところで唐咨が司馬昭に生かされたのは彼が水軍指揮に長じてたから?
でもまぁ、王渾は出ないだろう。出すなら王戎じゃない?
唐咨はよく分からんね。
蜀討伐のおり、大戦艦建造の指揮を執っていたらしいが、
華陽国志には、同時期に呉側の将軍として羅憲を攻めてる記述もある。
最も、華陽国志のこの記述はあり得ないと思うがね。
もともと徐州の人間だし、水軍の指揮に関してそこまで長じていたとも思えないし、
パフォーマンス以外の理由があったかどうかは、自分には分からない。
ただ、大船建造の指揮を執ったという事は、そういうノウハウを持ってはいたんだろうね。
それも理由かもね。
583 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/03(土) 01:47:05
俺も初めて(王昶の子)王渾の話しを聞いたとき、王戎の親父のことかと思った。
竹林の七賢でけちんぼの王戎の方が王昶や王渾よりインパクトがあっただけだけど。
>>582 徐州は下半分が湿地帯つか細々した河川が入り組んでる
また淮水、シ水、キ水などが会合する地で水運による物流が盛ん
それに古くから徐方は海浜の地と呼ばれてる
>もともと徐州の人間だし、
>水軍の指揮に関してそこまで長じていたとも思えないし、
よってこの部分は不適切な判断と思われ
徐州出身で、水軍指揮に長じた人物を知らなかったからな。
でも、呉の人物で言えば、歩一族や徐盛なんかは徐州だったな。
俺の認識不足だったかもしれんね。
ただ、徐州出身である事が、それが生かしておく事の理由になるほどの、
水上戦の巧みさには繋がらないとは思う。
魏や晋では徐州出身者が珍しい、というわけではないだろうし。
いずれにせよ、唐咨を取り立てた理由は俺には分からない、という事で。
>>585 >ただ、徐州出身である事が、それが生かしておく事の理由になるほどの、
>水上戦の巧みさには繋がらないとは思う。
そらそうさ
けど、
>>582を読み返してみなよ
真っ先に
>水軍の指揮に関してそこまで長じていたとも思えないし、
というように自分の先見、憶測で、唐咨が配置されたのは
もしかしたら
>>584という地域背景から水戦指揮ができると
見込まれたかもしれないと言う可能性を恣意的に切り落としてるだろ
唐咨を取り立てた理由が分からないと斬り捨てるまえに
唐咨に水戦またはそれに類する経験があったかどうか、記述がないか
史書を洗いなおし検証してみるべきじゃないのか?
若しかしたら面白い知見が得られるかもしれないじゃない?
マンドクサイならいいんだけど
諸葛亮死後の戦争ならある程度は調べてるので、唐咨についても多少は分かる。
まぁ、唐咨に関しては正史くらいしか知らないけど。
その中には、交州の反乱鎮圧とか、256年の孫綝による淮水への侵攻とか、
東興の役で丁奉らと共に先鋒を担ったとか、そのくらいだったかな。
ただ、色んな場面で使われてはいるから、水上戦以前に、
ある程度、将軍としての能力は見込まれていたと思う。
唐咨は別に好きな人物と言うわけじゃないので、深く掘り下げるのはめんどくさいね。
そういうのは孫ぽこさんとかにお願いしたい。
資治通鑑の魏紀と、晋紀(呉の滅亡まで)を読んでみたが、
唐咨の水上戦関連の話は無いね。
三国志に載ってるのと同じ話しか見当たらない。
見落としがあるかもしれないから、断言はできないけど。