【黄昏】三国無双―後期伝―キボンヌ参【黎明】

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ここでいう三国志後期とは諸葛亮の薨去から晋の統一までのことです。
当初は三国無双の三国志後期版を考えていくスレでしたが、
その時代の人物・戦役・文化などの考察も行うようになりました。
ステージや、キャラモーションなどの無双の案も勿論随時お待ちしています。
三国志後期(正史・演義)について語りたい人もどうぞ利用してください。

前スレ
【盛者】三国無双―後期伝―キボンヌ弐【必衰】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1117024613/
三国無双―後期伝―キボンヌ
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1106584453/
2無名武将@お腹せっぷく:2006/01/28(土) 00:22:07
後期年表(正史版)

238年 襄平の戦い 魏軍対燕軍
244年 興勢の役  魏軍対蜀軍
248年 羌族の乱  魏軍対羌軍
249年 洛陽城の乱 司馬懿軍対曹爽軍
249年 麹山の戦い 魏軍対蜀軍
250年 南郡侵攻戦  魏軍対呉軍
251年 王?の乱  魏軍対王?軍
司馬懿死亡
252年 東興の戦い 魏軍対呉軍
253年 合肥新城の戦い 魏軍対呉軍
253年 襄武包囲戦 魏軍対蜀軍
曹芳廃される
255年 ?丘倹の乱 魏軍対?丘倹軍
255年 狄道城包囲戦 魏軍対蜀軍
256年 祁山の戦い 魏軍対蜀軍
257年 諸葛誕の乱 魏軍対連合軍
257年 沈嶺攻防戦 魏軍対蜀軍
258年 孫?誅殺戦 孫休軍対孫?軍
260年 高貴郷公の変 曹髦軍対司馬昭軍
曹髦殺害される
262年 ?陽(侯和)の戦い 魏軍対蜀軍
263年 漢中の戦い(傅僉が死に姜維が降伏するまで) 魏軍対蜀軍
263年 成都攻略戦(ケ艾が別行動で蜀を攻略するまで) 魏軍対蜀軍
蜀滅亡
264年 二士の乱 司馬昭軍対鐘会軍対ケ艾軍
272年 西陵の戦い 呉軍対晋軍
280年 呉平定戦 呉軍対晋軍
三国平定
3無名武将@お腹せっぷく:2006/01/28(土) 00:25:20
後期年表(演義版)

237年 襄平の戦い 魏軍対燕軍
240年 洛陽城の乱 司馬懿軍対曹爽軍
248年 羌族の乱 魏軍対羌軍
249年 麹山の戦い 魏軍対蜀軍
司馬懿死亡
251年 東興の戦い 魏軍対呉軍
251年 合肥新城の戦い 魏軍対呉軍
253年 南安郡の戦い 魏軍対蜀軍
曹芳廃される
255年 毌丘倹の乱 魏軍対毌丘倹軍
255年 狄道城包囲戦 魏軍対蜀軍
256年 祁山の戦い(董亭攻略) 魏軍対蜀軍
256年 諸葛誕の乱 魏軍対連合軍
257年 沈嶺攻防戦 魏軍対蜀軍
258年 孫綝誅殺戦 孫休軍対孫綝軍
258年 祁山の戦い(魏蜀陣比べ) 魏軍対蜀軍
260年 高貴郷公の変 曹髦軍対司馬昭軍
曹髦殺害される
260年 祁山の戦い(魏蜀計略戦) 魏軍対蜀軍
262年 トウ陽の戦い 魏軍対蜀軍
263年 漢中の戦い(傅僉が死に姜維が降伏するまで) 魏軍対蜀軍
263年 成都攻略戦(ケ艾が別行動で蜀を攻略するまで) 魏軍対蜀軍
蜀滅亡
264年 二士の乱 司馬昭軍対鐘会軍対ケ艾軍
272年 西陵の戦い 呉軍対晋軍
280年 呉平定戦 呉軍対晋軍
三国平定
4無名武将@お腹せっぷく:2006/01/28(土) 00:27:37
>>1
5無名武将@お腹せっぷく:2006/01/28(土) 11:39:38
>>1
乙!
6無名武将@お腹せっぷく:2006/01/28(土) 23:41:28
次スレに移行したのを機に、再び各人物のキャラ付けを考えるというのはどうか?
スレの最初から真面目な考察というのも、堅苦しくなりがちかと思うので。

前スレで、主要な人物についてはある程度意見は出されたが、
手を付けられてない人物も大勢いたしね。
どういう人物として描けば物語として魅力的か、というのも重要な問題だろうし。
7無名武将@お腹せっぷく:2006/01/29(日) 12:13:21
<登場候補武将(暫定)>

曹髦、司馬懿、司馬孚、ケ艾、鍾会、郭淮、陳泰、王基、王凌、?丘倹、諸葛誕、文鴦


孫休、孫皓、孫?、陸抗、陸凱、諸葛瑾、諸葛恪、丁奉、朱然、歩?、魯淑、張悌


劉禅、蒋?、費?、姜維、張翼、廖化、董厥、夏侯覇、霍弋、張嶷、傅僉、羅憲


司馬師、司馬昭、司馬炎、司馬望、司馬?、何曽、荀、賈充、張華、羊?、杜預、王濬

漢 (隠し)
劉淵
8無名武将@お腹せっぷく:2006/01/29(日) 13:35:23
呉に全ソウ入れてくれ
9無名武将@お腹せっぷく:2006/01/29(日) 14:14:02
前スレでもちょっと出てたけどネタの投下の自由性を高めるため登場キャラは定めない方がいいと思われ。
10無名武将@お腹せっぷく:2006/01/29(日) 15:48:39
劉ジン(言甚)はだめですかそうですか
11無名武将@お腹せっぷく:2006/01/29(日) 17:29:25
そういえば、劉ェって初代スレの頃から推す人が結構いたな。
国家に殉じたってのは、人気を高める大きな要素になるんだろうな。
劉ェの場合、劉禅のおかげで悲壮感が一層高まってるし。
12無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 12:38:51
演義しか読んだ事ないけど、劉ェは聡明とか書かれてるけど
劉禅を罵って奥さんと自殺するイメージしかない。

具体的なエピソードとかないのかな・・・・。
もしあれば、もっとイメージが膨らむんだが。


13無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 12:51:43
>>12
剛毅なだけで、ステージ案も無いから仕方が無い。
レギュラー入りはキツいと思うなぁ。
14無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 14:21:15
馬バクの奥さんは出すべきだろう。
15無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 14:28:32
焦周や黄コウ(白告)も出して欲しい。
16無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 14:30:46
>>15
軍師でもなければ武将でもない人物はどう扱うかだな。
ことにその二人は内政官的な役割すら担っていない…
17無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 16:56:46
黄皓とかは、朝臣連中をぶっ叩いてシンパを増やしていき姜維を失脚に追い込む、
みたいなネタステージなら作れそう、と以前言われていたような。

蜀の場合、ステージ数を稼ぐには姜維の北伐をなぞるしかないからな。
南中だけじゃそれほどステージ作れないだろうし。
18無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 16:58:47
劉ェはイベントで出るぐらいがいいんじゃね?
イベント起こると蜀軍の士気上昇!みたいな
19無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 22:00:55
>>16
黄晧は張魯のようなネタキャラ系顔無し希望。
宦官なら甲高い声もあの喋り方もOKだろうw

>>18
3にあった張ホウの吊橋イベントみたいな感じかな?
こう見てみると、モブ武将の顔ぶれやイベントについては
まだまだ考察の余地があるみたいだな。
20無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 22:28:18
前スレ見返したが、成都のステージ案に劉ェのイベント入ってないな。
入れたような気もしたんだが、どうやら入れ忘れたらしい。

戦略戦術に関わるイベントばかり考えて入れてたが、そういう、
場を盛り上げるイベントも積極的に考えた方が良いかもしれないな。
21無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 18:01:48
前スレが落ちたところで保守
22無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 23:32:20
保守ついでにビジオタ参加禁止ルールを設けたい
23無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 06:40:02
まぁいいじゃないか・・・
意見を無視するわけでもないし・・・
24無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 19:45:28
新ルール

・隠れ麋竺オタもしくは翠嶺と名乗るコテのこのスレへの参加は禁止とする
・上記のコテによる書き込みがなされた場合、スレ住人全員による叩きが行われる
・庇う者も同罪として、スレ参加権を剥奪するものとする
25無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 20:12:00
呉の登場キャラに諸葛セイを入れたいのは俺だけ?
張悌の最期を見たり、司馬炎と友人だったり、晋朝に仕えなかったり。
まぁ、息子は東晋に仕えてるけど。
26無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 20:41:23
>>25
誕の息子か。
諸葛誕のステージや呉対晋のステージに無理矢理登場させれば、作れなくはないな。

でもまあ、俺にはその魅力は分からんな。よくは知らないし。
27無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 01:03:05
前スレの流れでは特に登場人物を固定せずに、自由にネタを投下していいんじゃなかったっけ?
2824:2006/02/06(月) 16:59:09
新ルールをより確固たるものにするため、
次スレを立てる場合、>>1>>24を加えることを決定する
29翠嶺 ◆ccqXAQxUxI :2006/02/06(月) 17:14:43
ずいぶん嫌われたものだな
30無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 17:16:33
>>29
トリ違い
31翠嶺 ◆ccqXAQxUxI :2006/02/06(月) 17:18:34
>>30
なんのこと?
32無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 17:26:22
>>31
蜀国内における荊州閥・益州閥・徐州閥・劉備子飼い・それ以外の任免事情を論ぜよ

ホンモノなら以前語ってたから簡単に答えられるはず
33無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 20:01:52
>>27
そもそも、既に無双という括りにすら拘る必要は無いので、
ネタがあったら何でも投下して良いと思う。過疎スレなんだしね
34無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 21:37:38
テンプレに
264年:白帝城の戦い(魏軍VS呉軍)
は追加しないの?
35無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 22:21:38
>>34
そういや入ってなかったね。
ただ、この時の羅憲の扱いは魏で良いのか、というのが少し分からん。

今戦術レベルのifステージを考えているが、なかなか難しいな。
盛り上がりに欠ける。
やはり戦役全体のifを考え、その中の一会戦として考えないと、
自然に且つドラマティックに展開させるのは難しい。
戦略部分をすっ飛ばして考えると、淡白だし少し不自然かもしれん。
36無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 22:26:00
ステージ作るならビジオタが欲しいなぁ
戦略・戦術各レベルの事象を明快なイベントに仕立て上げたステージを幾つも投下してくれてたし
37無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 22:45:23
>>36
そもそも、ステージ案を投下していたのが、自分とビジオタしかいなかったような。
初代スレでは他にも見かけたが、前スレは多分二人だけだったと思う。
38無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 02:22:20
自分、ごく最近末期スキーになったから、ここで勉強させてもらってる
ステージ案はとても作れんが、よろしくノシ
39無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 12:31:06
>>38
ステージ案作成は結構面倒な作業なので、無理に考えようとする必要は無いと思うよ。

質問でも、ふと思った事でも、適当に書き込んでけば良いと思う。
40無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 01:12:02
南中は演義の南蛮行をそのままステージ化すりゃいいんでないの?
41無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 01:50:21
>>40
それはそれで難しくないか?
夜を待って川を渡ったりとか、無双で表現し難いイベントが多い気がする。
42無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 02:01:11
いやもう雰囲気だけでいいよ
象と戦ったりさぁ
43無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 21:59:46
相手が戦象を使い、それを見事に無効化して勝利したと言うと、
アレクサンドロスのインド遠征におけるヒュペスダスの戦いや、
第二次ポエニ戦争のザマの戦いなんかがあるな。
そういう戦例を参考にステージ案考えるか?

ただ、それだと南中の異民族全てを連合させて、一大会戦のステージにする必要があるな。
諸部族が独立して行動してたって事を考慮すると、一つ一つ潰してくようなステージにするというのもあるが。
44無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 23:14:44
普通に封神演義モドキな南蛮でいいんじゃないか?
どう考えても人間じゃない連中多いし

史実の南中だとどうにも貧弱だ
45無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 09:57:59
封神演義は読んだ事ないが、妖怪や妖術満載のステージにって事か?
そうすると、南中ステージは他ステージとだいぶ毛色が変わってくるな。
それはそれで面白いのかもしれないが。


どうでも良い話だが、このスレで扱ってる時代の人物には、
少なくとも三戦内では突出した人気を持つ人物がいないように感じる。
姜維ですら、廖化などと比べて人気面で隔絶してるとは言い難い。
前も同じような事が言われたと思うが、後期無双では、三国無双の趙雲、戦国無双の幸村のように、
特定の人物を主役格としてクローズアップするのは相応しくないのだろうな。
46無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 10:51:35
関索が(昔の中国の人に)大人気
47二条景時 ◆HADESWLMNM :2006/02/12(日) 01:43:39
苻健の帰順・魏狼の乱平定・冬逢征伐、隗渠暗殺・狼路の帰順

このあたりを纏めて一つのステージにしたらどうだろう?
張嶷の南中統治に当っての戦は、単独では小規模でつまらないだろうからな。
48無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 01:10:27
>>47
汶山の羌族や南中の諸蛮族の反乱を一つに纏めてステージを作るのは、
一つ一つではステージにもならないから当然と言えば当然だし、異論はない。

ただ、張嶷のその記述を見ると、族長を説得したり間者を籠絡したりといったものが多く、
無双のイベントにしにくいようにも思える。
なので戦闘の描写は、ステージ案作成者の想像力に拠ってくるのではなかろうか?
49二条景時 ◆HADESWLMNM :2006/02/13(月) 01:36:24
>>48
無論。張嶷は武力による制圧と同時に、
調略によって南中を平定しているからな。

個人的に、イベント発生後に対象の敵将に接触、または撃破すると降伏させられるとか
そんな感じで無双風にアレンジすればいいと思ってる。
50無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 19:14:16
>>49
史実では金品で籠絡した敵の間者を、無双では倒して説得させたりとかにするって事か。
それならなんとか6,7個のイベントは作れるかもしれないな。

氐、羌、南夷全て一纏めにするから、異民族統治のステージ数は1個か。
やはり張嶷も、北伐従軍でステージ数稼ぐしかないのか。
北伐を含めれば、異民族、襄武、狄道、長安、洛陽と5ステージ確保できるな。
51無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 21:27:50
蜀将スレでも能力値スレでも関羽の話だな。
毎度の事ながら、関羽の話は盛り上がるようで…

後期の人物の議論もあのぐらいの熱があれば良いんだが。
52二条景時 ◆HADESWLMNM :2006/02/13(月) 21:31:41
>>50
イベントよりも地図を作りにくいかなと危惧している。
むじん書院の地図見ながらじっくり考えて見るよ。

>>51
後期人物は華は薄いかもしれないけど
面白いエピソードには事欠かないんだがなぁ・・・
魏・呉の後期人物のこととか、三戦であまり語られてない事象も多いはず。
53無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 21:41:08
羅憲で呉を防ぎつつそのまま征呉する荒唐無稽シナリオがやりたい
54無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 21:51:10
>>52
ステージ案作りやってくれるのか。そいつは有り難い。
ビジオタも最近は作ってないし、俺も姜維関連以外は遅々として進まんので。

地図に関しては、南夷だけじゃなく氐羌も含めちゃうわけだから、
各地の座標とかは参考に出来ないと思うよ。
西部が切り立った山々、西部が丘陵や低山のある高原地帯という事とかを考慮しつつ、
ある程度オリジナリティの入ったマップで良いと思う。
55無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 21:58:38
>>53
そりゃ確かに荒唐無稽だな。
ただ、羅憲の場合、史実じゃ白帝城の防衛と巫城の攻略ぐらいしか記述が無いから、
ある程度ぶっ飛んだシナリオ構成じゃないと成り立たないようには思える。

北伐に従軍した明確な記述があるならともかく、そうでない人物まで皆が皆北伐では面白みに欠けるし。
56二条景時 ◆HADESWLMNM :2006/02/13(月) 22:08:16
>>54
ここに粘着が来てたし、ビジオタ氏も入りにくいんだろうな。
ステージ作りはネタで何度かやっていたので頑張ってみよう。

もちろん縮尺は滅茶苦茶になるが、地形などのみ参考にしようと思う。
57無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 22:26:39
毋丘倹や諸葛誕の乱は、有名なのにあまり語られてないな。
呉でも話題になるのは二宮の変や西陵戦役くらいか。

語られる機会が少ないのはもとより、そもそも論者が少ないように見受けられる。
58無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 22:38:50
カンキューケンの乱は結構知的な戦いなんだがな
59無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 22:43:38
>>58
知的な戦いとは?
60無名武将@お腹せっぷく:2006/02/14(火) 00:07:18
>>51
盛り上がってるというより不毛なだけって感じ。
あのふたつのスレはどうにもつまらなくなってて、あまり。
揚げ足取りと重箱が多いみたいだし。
61無名武将@お腹せっぷく:2006/02/14(火) 00:53:00
関羽の話は、煽り合いや罵り合いに発展しやすい嫌いがあるからなあ。

今度議論する時の参考になるかもしれんと、諸葛誕の乱を簡単な年表形式に纏めてみた。
意味があるかは分からんが張ってみる。

諸葛誕の乱
257年
5月  諸葛誕が寿春を根拠として、4,5万の兵力を以って反乱を起こす
6月  大将軍司馬昭が項に到着。魏軍総勢26万
    呉が文欽・唐咨ら歩騎3万を救援として派遣。
7月  朱異率いる5万が解囲の為派遣される。
8月  朱異が敗れて帰還する。
12月 全端らが魏に降伏
258年
正月 諸葛誕らが包囲陣に向け総攻撃
2月 寿春城陥落

1年以上持つだけの食糧を備蓄したとあるのに、半年で欠乏してる。
文欽らが考えなしに寿春に入城したのはまずかったな。
62無名武将@お腹せっぷく:2006/02/16(木) 00:48:42
さて、誰もいないようなので諸葛誕の乱について語ってみる。概要もついでに付けて。

・概要
257年5月、司空任命の詔勅を受け取った諸葛誕は、粛清を恐れ寿春にて決起、
呉に救援を遣いすると共に、司馬氏打倒の兵を挙げた。
彼の兵力は凡そ五万、その糧秣は軍勢を1年間支えるに足るものだった。

6月、魏は大将軍司馬昭率いる討伐軍を編成、諸州より兵を集め、総勢26万もの大兵力となった。
討伐軍先鋒は、毋丘倹の乱でも功を挙げた楊豫諸軍事王基である。
王基は遅くとも6月初めには寿春に到着、方位陣を作り始めた。
そこへ呉より文欽ら3万の軍勢が救援に現れ、包囲の完成していない北東側より寿春へと入城した。

7月、項へ集結していた軍からも、陳騫らを包囲陣に派遣すると共に、石苞、州泰らを遊軍として
周囲に配置し、呉よりの救援に備えた。更に大将軍自身は司令部を前進させ、丘頭へと移した。
呉の方でも、朱異率いる救援軍第二陣約5万を派遣した。

8月、呉よりの救援が到着し、黎奨より黎奨水を渡河して南より寿春に迫り、その包囲を解かんとした。
しかしこれには、遊軍として警戒していた州泰、石苞が当たり、朱異の前進は阻まれる事となった。
朱異は敵線を突破する為戦力を前線に集中、猛攻を掛けていたが、
呉軍を迂回しその連絡線へ迫っていた胡烈が、呉軍後方、都陸にある物資集積基地を攻撃、
これを破壊しその糧秣を悉く焼き払った。
連絡線に対する奇襲を受け、物資まで失った朱異は継戦意思およびその能力を失い撤退した。
以後救援の軍は現れず、諸葛誕は完全に孤立する事となる。

12月、反乱軍は長く包囲に対していたが、その食糧も尽きかけ、士気も沮喪し始め、
将軍蒋班や呉将全端など、魏に対して降伏するものが現れ始めた。
63無名武将@お腹せっぷく:2006/02/16(木) 00:50:01
258年正月、諸葛誕らは状況を打破する為方位陣の突破を試み、多くの兵器を繰り出し、
幾日にも亘って包囲陣への攻撃を続けたが、死傷者を増やすのみで成果は挙がらなかった。
その様な中、方針の違いから諸葛誕が文欽を殺した為、城内に更に動揺が広がり、
数万もの降伏者を出してしまった。

2月、決死の覚悟を決めた諸葛誕は、残った兵を集め最後の攻撃を掛けた。
しかし衆寡敵せず、迎え撃った胡奮の軍勢によって斬られ、ここに半年に亘った諸葛誕の乱は集結した。

・総括
1年分の食糧を集めたはずが、結局半年余りでその食糧は費えた。
これは、文欽ら開戦間もなく寿春へと入城した救援軍によるところが大きい。
彼らが到着した当初は、方位陣も未完成であり、寿春に到着していたのは先鋒の王基だけである。
城内と救援の戦力を結集すれば、決して劣勢な戦力にはならなかったはずであるにも関わらず、
彼らはただ包囲の完成するのを眺め、結果、敵の大軍を集中させるに至った。
この時点で、諸葛誕らは戦略的な閉塞状態に陥ってしまったのである。
劣勢な軍の採るべき基本的な戦略も、彼らは理解していなかったのである。
これ以降の戦局の推移は、既に語る価値すらも失っていたのだ。
64無名武将@お腹せっぷく:2006/02/20(月) 00:16:28
こうも過疎ってると、些か不安になってくるな。
65無名武将@お腹せっぷく:2006/02/28(火) 23:29:49
保守
66無名武将@お腹せっぷく:2006/03/10(金) 23:11:28
少々話題が古いが、4エンパでは味方にある程度の指示が出せるようだから、
やはりそういう要素は後期伝に入れるべきものだろう。

あと、戦国2では槍衾だったり鉄砲2段射撃だったり、特殊な動きをする兵も出てきた。
こういった兵士の特殊な動きを、軍団毎や部隊毎に持たせて、
各人物の戦術に特色を持たせるというのも面白い要素になると思う。
67Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/11(土) 11:20:56
過疎ってるようなのでステージ案でも投下しますよ


寿春攻囲戦(諸葛誕軍VS魏軍)

諸葛誕軍
★諸葛誕−呉鋼・諸葛靚・蒋班・焦彝
(以下援軍)●文欽−文鴦・文虎、●全懌−全端、●于詮、●朱異、●唐咨、●王祚

魏軍
★楽綝
(以下援軍)★曹髦−鐘会、●司馬昭、●王基、●陳騫、●石苞、●州泰、●胡烈、●胡奮

勝敗条件

諸葛誕軍−○曹髦の撃破、●諸葛誕の死亡
魏軍−○諸葛誕の撃破、●曹髦または司馬昭の死亡
68Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/11(土) 11:22:09
寿春攻囲戦(諸葛誕軍VS魏軍)

・イベント1
楽綝の撃破で発生。揚州城の魏兵が降伏、自軍兵士増加、拠点出現、士気↑
・イベント2
時間経過で発生。呉鋼・諸葛靚が呉に向かう。拠点通過まで護衛すると成功。士気↑
・イベント3
時間経過で発生。曹髦、司馬昭、王基軍が出現。王基が進軍して包囲開始
・イベント4
時間経過で発生。文欽軍が出現、北東より入城。
・イベント5
時間経過で発生。項より陳騫、石苞、州泰軍が出現。士気↓
・イベント6
5と同時に発生。司馬昭軍が丘頭に進軍
・イベント7
6と同時に発生。朱異、全懌、于詮、唐咨、王祚軍が出現
・イベント8
時間経過で発生。文欽軍が包囲突破を試みる
※分岐ポイント
1分以内に450人撃破で成功。味方進入拠点出現、士気↑。失敗すると士気↓
69Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/11(土) 11:23:13
・イベント9
時間経過で発生。朱異軍が黎奨より黎奨水を渡河して寿春に向かう。胡烈が都陸に向かう。
※分岐ポイント
胡烈が都陸に到達前に500人+州泰、石苞の撃破で成功。味方進入拠点出現、士気↑。
失敗すると補給拠点封鎖、朱異撤退、誅殺。士気↓
・イベント10
時間経過で発生。兵糧が欠乏する。士気↓、肉まんが出現しなくなる
・イベント11
10と同時に発生。蒋班、焦彝軍が魏軍に降伏。全懌軍が撤退。士気↓
・イベント12
時間経過で発生。諸葛誕、文欽、唐咨軍が包囲突破を試みる。諸葛誕軍兵器出現
※分岐ポイント
1分以内に550人撃破で成功。味方拠点出現、士気↑。失敗すると士気↓
・イベント13
時間経過で発生。諸葛誕が文欽を誅殺。士気↓、文鴦・文虎および大量の兵が魏軍に降伏。
・イベント14
時間経過で発生。唐咨、王祚軍が魏軍に降伏、于詮が討死。諸葛誕軍が敵に突撃
・イベント15
諸葛誕が撃破されると発生。寿春の民兵が一人も魏軍に降伏せずに全員処刑される実機ムービー
70Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/11(土) 11:23:47
以上。何か問題があったら言ってくださいな
71無名武将@お腹せっぷく:2006/03/11(土) 13:27:18
>>70
GJ!
やっぱりこのステージはイベント15は外せないね。

できれば魏軍に陳泰も入れて欲しい。
司馬昭に同行していたらしいから。
ただそうすると魏に顔ありが偏りすぎてバランス悪いかな・・・
72Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/11(土) 16:08:29
なるほど。陳泰を入れても顔ありの比は2:5で偏りすぎということもない
しかし「とりあえずいるだけ」ってのはあれなので何か見せ場がほしいところ
ただ、史実を無視してイベントを作ってしまっては後期無双の方針にそぐわないので
>>66の言うように陳泰独自の兵法や兵科を考えるのもいいかもしれない


ステージには関係ないが朱異は朱桓の子で、鎮南将軍・大都督と昇進した人物。
だが、この寿春に援軍に赴いた際には胡烈に都陸を攻撃されるという汚点もある。
この人物はどう評価したらいいものか。
73無名武将@お腹せっぷく:2006/03/11(土) 22:01:05
>>72
以前別の所でも書いたが、朱異に関しては、諸葛誕の乱の際の指揮のみを取り上げるなら、
司令官としての適正に欠けていたと言わざるを得ない。
連絡線の防護どころか、その警戒すら怠っていたというのは擁護できない。
ましてや物資を集積していた拠点に対してではね。

ただ、それ以前、東興の戦役などでも活躍してるところを見ると、
軍事に対する識見が著しく劣っていた人物とも見受けられないので、
何らかの理由で視野狭窄に陥り、攻勢のみにしか頭が回らなくなっていたのではなかろうか?
個人的には、寿春の解囲をするにしても、ただ南から直接接近するのではなく、
何か別の作戦も立てられたのではないか、とも思う。
74Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/11(土) 22:52:30
>>73
なるほど
そういえば、朱異の誅殺で諸葛誕軍の戦意が上昇する可能性があったが、
味方を故意に弱いと見せかけて呉の救援は近いと言いふらし、
城内の弛緩を促してそれを未然に防いだ点で司馬昭は上手だったな


晋書文帝紀の引用

八月、呉将の朱異が兵一万余人を率いて、
輜重を都陸に留めおいて、軽装の兵だけで黎漿に到達した。
監軍石苞・兗州刺史州泰が防禦し、朱異は撤退した。
泰山太守胡烈は奇兵をもちいて都陸を襲い、呉の軍糧を焼き払った。
石苞・州泰はさらに進んで朱異を攻撃し、大いにうち破った。
朱異の残兵はひどく飢え、葛の葉を食べてしのいだが、呉側では朱異を殺した。
文帝は言った。「朱異が寿春にたどり着けなかったのは、当人の罪ではないのだが、
呉のほうで殺してしまったのは、寿春にわびて諸葛誕の決意を堅くさせ、
救援の望みをつながせるためである。
もしこうしなければ、諸葛誕は包囲の突破をこころみ、のちの運命を決しただろう。
大軍では持久できず、食餌を少なめ人数を減らして、
他日の事変があることを期待しているという。
賊軍の兵糧事情をみるに、この三箇月(?)をこえないだろう。
いろいろな方法で敵を撹乱し、敵の逃走に備えるべきで、これぞ勝利の計略である」
そこで命じて城を包囲し、疲れたものや病の者を分離して淮北に送って養い、
軍士には大豆をひとり三升ずつ支給した。文欽はこの様子を聞くと、やはり喜んだ。
文帝はいよいよ弱々しい形勢を見せて、多数の間者を放ち、
呉の救援がすぐに到着すると言いふらした。
諸葛誕らは軍糧制限をゆるめて多く食したため、城中は俄かに軍糧が乏しくなった。
75無名武将@お腹せっぷく:2006/03/11(土) 23:36:14
確かに、味方を弱く見せて敵の油断を誘った、というのは良策ではあり、反乱鎮圧の時期を早めたが、
それ以前の段階で勝敗が決していた、というのがつまらん話だ。
諸葛誕にせよ毋丘倹にせよ、それまで軍事で大きな功績を挙げていた人物であるにも拘らず、
何故自らの生死に関わる反乱において、ここまで精彩を欠いてしまうのか。

やはり、追い詰められての反乱というのは上手くいかないものなのかもしれんな。
精神的な余裕がなくなるから、どうしても判断が鈍ったりしてしまうのだろう。
鍾会とてあっさり死んでしまったしな。

鍾会の反乱が成功し、彼の中原進出の戦略が実行されていたら面白かったかもしれんが。
76Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/12(日) 00:34:12
>>75
鍾会は後期三国志でもひときわ野心の強い将だから面白い。
天下の形成が定まって以降、自力で国を刈り取ろうとした人物はいないからな。

だが、たとえ鍾会が益州で独立していたところで
五胡十六国時代への突入は避けられなかったかもしれないな。
77Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/12(日) 00:42:37
『世説新語』を見ると、いくつか面白い鍾会のエピソードがあるな
鍾繇の酒を兄の鍾毓と盗み飲んだ際に機転を利かせた言い訳をしたり、
他人の筆跡を真似るという特技で甥の荀勗の名剣を騙し取ったり、
人材推挙や軍功、論文など優れた功績を挙げる一方でダークな小才も見せているのが
なんとも彼らしいと思う
78無名武将@お腹せっぷく:2006/03/12(日) 11:15:10
今このスレって姜維オタ名無しとシーザーしかいないの?
79無名武将@お腹せっぷく:2006/03/13(月) 17:28:53
>>76-77
確かに益州のみで独立しても、歴史の潮流に大きな変化は与えなかったかもしれない。
だがまあ、俺自身は、鍾会の反乱が歴史に与える影響よりも、
鍾会がどんな戦略を以ってして北伐を行うか、の方が興味あるからな。
その点に関して、なんとか反乱まではこぎつけて欲しかった。

世説新語の話は、以前古本屋で立ち読みした時に読んだ記憶があるな。
安かったので今度買おうと思う。
鍾会はダークな所も彼の魅力だからな。そういう人間がいた方が物語としても面白い。

>>78
ROMまでは分からんが、今書き込んでるのはそうじゃないかな。
1ヶ月近くまともなレスがつかなかった程の過疎スレだし
80Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/13(月) 18:00:15
>>79
北伐もそうだが、私は叛乱が成功した後の益州のまとめ方も気になるな。
姜維などは間違いなく鍾会に心服して従ったわけではないだろうし、
蜀の旧臣もいきなり魏の元老の子息の鍾会に臣従するとも思えない
もし独立まで漕ぎ着けていたとして、そこをどうまとめるのかで
鍾会の才覚も測れると思う
81無名武将@お腹せっぷく:2006/03/13(月) 18:36:14
鍾会は幼少時からあまりに優秀だったから
基本的に人を見下した態度取るし人心を集められるタイプとは到底思えない
82無名武将@お腹せっぷく:2006/03/13(月) 19:07:29
>>80
鍾会伝では、遠征軍中の護軍や牙門旗督以上の人物や、蜀の旧臣を閉じ込めた、とあるな。
鍾会が蜀の官吏たちをどうまとめようとしてかは分からんが、
姜維に対してはその才幹や人格に惚れ込んだというのも大きいが、
蜀の軍部をまとめる為にも必要な存在だったんだろうな。
兵士や中級指揮官連中は、蜀の滅亡直前まで姜維を支持していただろうし。

状況によっては、鍾会自ら劉禅を戴く、という選択肢もあったのだろうか?
83Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/13(月) 19:17:27
>>82
姜維伝にあるように、入蜀後に姜維を諸葛誕・夏侯玄になぞらえて賞賛したり
姜維に(叛乱をそそのかす意図で)隠遁するように勧められると
「もっともであるが私には浮世離れしたことはできない。他に手段はあるだろうか」
と野心を見せた発言もしているし、あくまで自分がトップに立つつもりだったんだろうな。
劉禅を戴くつもりなら蜀の旧臣を閉じ込めるより篭絡するように努めると思う
84Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/13(月) 19:22:34
二士の乱のくだりで批判すべきは衛瓘かな。
鍾会に従いケ艾・ケ忠父子を逮捕し、洛陽に護送しながら
鍾会が叛乱を起こすとこれを平定して滅ぼし、
その後、ケ艾・ケ忠父子の部下が洛陽に護送中の主君を助け出そうと向かうと
彼らに恨みを買うことを恐れて田続に頼んで殺害させた。

杜預に批判されているが、反復常無い将軍だと思う
85無名武将@お腹せっぷく:2006/03/13(月) 19:24:41
>>79
これを機にお前もコテ名乗れば考察コテが増えるのに
86無名武将@お腹せっぷく:2006/03/13(月) 20:04:53
>>84
司馬昭に対する忠誠にブレはない
司馬昭が送り込んだ目付としてはこの上なく良い働きをしてる。
むしろあの兵力で結局は二将を滅ぼしたんだからかなりスゴ腕だ
87Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/13(月) 20:14:01
>>86
二士の乱のくだりでっていうことね。

晋代に司空を拝命し、鮮卑の内紛を実現させ、
貴族の門閥化を促進する九品官人法の廃止を進言している。
間違いなく全体を見れば晋の名将だと思う

暗愚の恵帝を皇太子のうちに廃立すべきと勧めたことで賈皇后の恨みを買い、
司馬瑋が残忍な性格であることを懸念して国に帰らせようとした事で彼の恨みも買い
結局謀殺されてしまったが、正しい事をしようとして命を縮めたのは残念
88無名武将@お腹せっぷく:2006/03/13(月) 20:19:27
>>84
これだけ他人を陥れていれば非業な最期を迎えたの道理だろうな。
鍾会にも言えることかもしれないが・・・

鍾会が何を基盤に独立するつもりだったかは自分も疑問に思う。
蜀の旧臣が従うはずがないし、かといって魏の将兵も鍾会に心服していた訳ではない。
諸葛誕のように地方での実績や基盤がある訳でもない。
名士層の間で評価は高かったかもしれないが、基本的に彼らは司馬昭のシンパ。
叛乱を起こしたはいいが、その後どうするつもりだったんだろう?
このスレ的に言えば鍾会の無双モードはどういう展開になるんだろうな。
89無名武将@お腹せっぷく:2006/03/13(月) 20:21:18
>>87
俺が言いたいのは征蜀んときのことだけどね
独断専行やりすぎの将を始末したのもむしろナイスプレイ
90Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/13(月) 20:27:54
>>88
あくまで私の想像だが、
鍾会は遠征軍中の護軍や牙門旗督以上の人物や、蜀の旧臣を閉じ込めた上で、
何らかの方法で自分に賛同する家臣団を形成していくつもりだったんじゃないかな。

無双のステージにするなら、ケ艾を撃破後に姜維らがイベントで離反、
それを撃破してクリアでいいと思う

>>89
司馬氏の手足としての働きは始終優れてたよなぁ。
91無名武将@お腹せっぷく:2006/03/13(月) 20:32:37
>>88
遠征軍の将軍らを幽閉する時に、軍の指揮権を信頼の置ける者に替わらせたらしいが、
そいつらは反乱についてどう思ってたのかが気になる。
そもそも反乱を知らされていたのかすら分からないし。

無理にやれば、例え反乱を起こせたとしても、
毋丘倹の時のように鎮圧軍を相手にする前からガタガタになってしまう可能性もあったな。
その功績ゆえ驕ってしまい、足元が見えてなかったのかもしれないな。

>>85
別に名無しでいるのが信条というわけでもないが、コテを名乗ると余計な火種を生みそうで怖くてな。
前スレの終盤から新スレへの移行にかけて、ビジオタのアンチも湧いたし。
92Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/13(月) 20:36:48
>>91
叛乱を実行前に誰かに漏らせば露見する恐れがあるし、
信頼のおける者に指揮権を与え、叛乱を起こした時に初めて知らせて
無条件に呼応してくれればそれでいい、ぐらいのつもりだったのかも

ただ、結果的に魏兵も鍾会に心服していなかったし焦りすぎた感もある
こういう形での叛乱はやはり成功しにくいものなのかもな
93無名武将@お腹せっぷく:2006/03/13(月) 20:41:04
>>91
三戦も歴史が語れるコテが少なくなってるばかりか歴史考察する人間も減ってるし考察レベルも低くなった
そういう意味でこのスレは依然落ち着いてレベルの高い議論をしてると思って目をつけてたんよ
ビジオタは自治やら大使館やらで失敗して消えたが、歴史が語れるコテがそういう形で減るのは遺憾なんでな
強制するわけでもないし差し出がましいとは思ったけど
このスレで名無しなのに以前から存在感のあるお前に薦めてみただけ すまんな
94Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/13(月) 20:49:44
>>79
レス見落としてた。
世説新語は曹丕が曹彰を毒殺したりトンデモな内容もあるが
面白いので買ってみるといい。
95無名武将@お腹せっぷく:2006/03/13(月) 20:52:41
>>94
曹丕による曹彰毒殺はガチだろ
世説の話通りかは別にしろ、トンデモとは言えんよ
96Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/13(月) 20:54:07
>>95
信憑性はどうよ?って話
可能性はあるにせよ・・・
97無名武将@お腹せっぷく:2006/03/13(月) 20:55:15
>>92
確かに露見の恐れを考えると、反乱を告げてなかった可能性は高いと思うが、
反乱した時に呼応してくれればいい、という博打的なスタンスは、
どうも鍾会という人物のイメージに合わない気もする。

>>93
あやまられてもなんだか恐縮してしまうな。

ただ、正直言って俺のやってる事も大層なものじゃないよ。
ニセクロ氏が日記で忠告してくれたが、事実その忠告通り、空中楼閣になっちゃてる感があるしな。
98無名武将@お腹せっぷく:2006/03/13(月) 20:55:32
世説の話自体は怪しい。
しかし曹彰の死因が曹丕による暗殺なのはほぼ間違いない
そういうこと
99無名武将@お腹せっぷく:2006/03/13(月) 20:56:23
>>96
よせ。相手にするな。
最近よく考察スレに現れてはそういう可能性もあるって類の話を
絶対あったと断定して自分の妄想を語る荒らしだと思われ。
100無名武将@お腹せっぷく:2006/03/13(月) 20:57:06
>>98
根拠は?
曹彰が上洛した際に急死したからでは「ほぼ間違いない」というには弱いと思うが。
101100:2006/03/13(月) 20:57:45
>>99
すまん、リロってなかった
102無名武将@お腹せっぷく:2006/03/13(月) 20:59:56
>>100
注に「暴崩」とはっきり書いてる
103Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/13(月) 21:00:45
>>97
そう・・・鍾会という人物は司馬昭に「我が子房」と言わしめたほどの
謀略家だし、もっと慎重に動いてもおかしくはなかった
歴史の記述には無いし、憶測で語るしかない考察だが、
姜維にそそのかされたりなんだりで冷静になれなかったのかもしれない

>>98
スレ違いになるけど、決定的な証拠って何かあるかな
104Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/13(月) 21:02:00
>>99
リロってなかった
105無名武将@お腹せっぷく:2006/03/13(月) 21:02:38
ニセクロ氏って?日記の忠告って?
106無名武将@お腹せっぷく:2006/03/13(月) 21:03:46
すまん「暴薨」だったね
暴は「にわかに」
大抵は不審な急死に使う字だよ。
暗殺でなければ自殺だが、その理由がないから自殺ということになるね。
107無名武将@お腹せっぷく:2006/03/13(月) 21:05:44
>>105
三国志の考察とかやってる人。宝島社の「僕たちの好きな三国志2」に執筆もしてた。
サイトはここ
ttp://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/
108無名武将@お腹せっぷく:2006/03/13(月) 21:10:39
>>107
dクス。
そこの日記の1ページ目のこと?
スレタイと内容がかみ合ってないってこと?
109無名武将@お腹せっぷく:2006/03/13(月) 21:14:19
>>108
そこの2/24の話なら
「姜維の考察をしたいなら三国志だけでなく晋書や通鑑も読まないとあかんよ」
と名無し姜維オタに忠告してるんじゃないか?
110無名武将@お腹せっぷく:2006/03/13(月) 21:17:12
>>108
いや、姜維に関する所だけ見て考察しても、吹けば飛ぶような脆い考察にしかならないって事。
晋書や資治通鑑なんかも押さえておいた方が良いよ、というような事が書かれてる。

>>103
確かに記述不足で憶測が多くなってしまうな。何か新史料でも見つかって欲しいものだ。
まあ、こういうスレで物語を考えるというだけならば、憶測でも十分ではあるだろうけどな。
111Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/13(月) 21:25:14
>>110
そこを読んでみると、厳しい意見だがうなづかされてしまうな
私もそこまで詳しくないし、実行は難しいことだが

そういえば前スレで荒れた内容だが、スレタイと内容の不合致も指摘されてたな
112Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/13(月) 21:26:10
うなづかされて→うなずかされて
113無名武将@お腹せっぷく:2006/03/13(月) 21:59:03
>>111
荒れたと言っても、無双の文字を取り払おう、という話に反発があった程度だったような。
まあ、スレタイの問題に関しては、再燃するにしてもまだ先の話だろう。
114無名武将@お腹せっぷく:2006/03/13(月) 22:04:56
>>113
それこそニセクロ氏が指摘したことなんだろうがな。
ここは謳ってるスレタイと実態が違うスレの一つだし。
115Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/13(月) 22:15:42
>>113
そうだな

話を考察に戻すが、狄道で王経を破った際、
姜維が張翼の諫言を容れていればと思った
116無名武将@お腹せっぷく:2006/03/13(月) 22:31:03
>>97
例の日記は俺も読んでたが、あそこで指摘されてたあんたか。
たぶん姜維スレの1スレ目からいた人なんだろうけど。
117無名武将@お腹せっぷく:2006/03/13(月) 22:43:49
>>115
張翼の諫言を容れて撤退したとしても、それほど大きな影響は無いと思う。
あの年の戦役自体では、蜀に被害は殆ど出てないからね。
ただ、あのタイミングで撤退すれば、当然翌年の作戦も変わってくるだろうから、
段谷の大敗に繋がらなかった可能性はあるけど。

>>116
1スレ目からいたはいたが、積極的にレスするようになったのは2スレ目からで、
本格的に考察を始めたのは3スレ目からだな。
118Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/13(月) 22:49:43
>>117
上邽県で合流するはずだった胡済が現れなかったし、想定の外だったんだろうが、
あの敗戦で西方で離反が相次いだ事も含めて、致命的な敗戦だったな
119無名武将@お腹せっぷく:2006/03/13(月) 23:18:43
>>118
胡済が来なかった事も大敗の一因ではあったが、ケ艾が祁山を押さえた時点で姜維の勝利は無かったと思うよ。
胡済の兵力も捻出できて1万程度だろうから、それ単独では魏に大きな脅威は与えないだろう。

恐らく胡済の役割は、姜維が祁山を押さえた後、その付近で対峙するであろう魏軍の連絡線の遮断。
また姜維が南安へ転進したのも、他を狙うそぶりを見せてケ艾を誘引し、
渭水岸の平地で撃破するのが目的だったんだろう。
防備の整った祁山でケ艾と対陣する余裕も、南安を落としている余裕も姜維にはなかったろうから。

鍾提での長期の駐留が、姜維の予想以上に負担となっており、胡済の準備が整うまでの時間が稼げなかったんだろう。
結果、糧食が欠乏し作戦開始時期を早めざるを得なかったのではなかろうか。


何にしてもあれが致命的だったのには変わりは無いが。
120Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/13(月) 23:29:24
狄道から撤退して鍾題に駐屯したのが延煕十八年、段谷での大敗が翌十九年
北伐の全貌はさほど詳しくないので何とも意見しがたいが
一年以下の駐屯で食料が逼迫し、作戦自体の見直しを余儀なくされたのは辛いところだな
121Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/13(月) 23:33:20
ケ艾は祁山さえ押さえてしまえば、あとは防備を固めるだけで良かった。
食料の補給線が続かず持久戦に持ち込めない時点で
蜀の北伐には慢性的な欠陥がある。
如何ともし難いが残念だ
122無名武将@お腹せっぷく:2006/03/13(月) 23:37:55
>>120
一年程度と言っても策源である漢中から遠く離れており、敵地である上、
更に蜀は輜重が使えないので、相当厳しかったと思うよ。
現地の羌族の支援に拠る所も大きかっただろう。
123Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/13(月) 23:45:39
>>122
二十年の沈嶺着陣も魏の糧秣の奪取を試みていた
その時はケ艾は渭水岸に布陣していたが、
対陣しているうちに諸葛誕が討たれて撤退したんだったな
124無名武将@お腹せっぷく:2006/03/14(火) 00:23:38
>>123
糧秣の奪取、と言うより、諸葛誕の乱によって魏が漢中の軍勢を東下させたので、
その間隙を突いて一気に長安を陥落させてしまうか、若しくは、
姜維の対処の為に隴西より現れる魏の諸軍に急接近し、決戦を求めようとしたのだと思う。
関中に兵無く、中央は諸葛誕の対処に追われ援軍を送る余裕もない、
その上隴西駐屯軍が敗れたとあっては、長安以西に与える影響は大きい。
いずれにしても、これまで同様、魏の領土を奪う事が目的だろう。

まあ、姜維の北上を逸早く察知し、それに先んじて秦嶺の出口を押さえたケ艾にしてやられたが。
125Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/14(火) 01:27:14
>>124
もちろんそれが目的だ、とは書いてないよ。
沈嶺の北の長城に魏軍の糧秣が貯蔵してあり、
司馬望らと対陣する上でその奪取を試みていてもおかしくないのではないか?
と思っただけ
126Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/14(火) 01:56:49
姜維オタ名無し氏と話していると北伐に関してとても勉強になる
元来が魏オタでこっちのあたりはよう理解していないので
今日なんかも全くレベルがついていけなかったが随分ためになった。
127無名武将@お腹せっぷく:2006/03/14(火) 21:58:41
>>93
このスレでレベルの高い議論が存続しているのは
初期からの後期に詳しい少数メンバーで成り立っているからなのかも。
あまり人が増えてしまうと煽り合いの混じった不毛な議論が展開されかねない。
その意味でスレタイを「後期無双」のまま続けたのは正解だったのかもな。
128無名武将@お腹せっぷく:2006/03/14(火) 22:40:09
それは2ちゃんの三戦板でやること自体を否定しているようなものだよ
閉鎖的にやりたいなら2ちゃん以外でやればいいんじゃないかな?
129Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/14(火) 22:50:08
むしろ過疎ってるから考察する人は増えてほしいってのが本音だがねぇ
130無名武将@お腹せっぷく:2006/03/14(火) 22:57:20
気心の知れた少数メンバー以外のレスはウザく感じるなら、そのメンバーだけで一般サイトに移住した方がいいよ。
煽り抜きにマジで。
131Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/14(火) 22:58:42
蜀の北伐には慢性的な欠陥があり、蔣琬は漢水を東に沿って進む計画を立てたが
持病が発症して実行に移せないうちに撤退の困難を指摘されて沙汰やみになった。
実際、この計画は、北伐よりも現実味を帯びないものだったのだろうか。
おそらく後期無双ではifステージとして蔣琬の章に入る事になると思うが
132Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/14(火) 23:01:17
>>130
>気心の知れた少数メンバー以外のレスはウザく感じるなら

今までの流れからして恐らくそんな香具師は>>127だけだろうから放置してくれ
私は移住する気も無いしここに住人が増えてほしいと思っている
133無名武将@お腹せっぷく:2006/03/14(火) 23:07:17
>>131
話の本筋から離れるかもだが、
むじんの説を思い出すな。
漢水下りそのものの評価はともかく、ショウエンからヒイへの継承がクーデタだというのはなかなか卓見だと思うがどうだろう。
134Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/14(火) 23:11:41
>>133
その説は史的考証とかは置いておくとしても面白いと思う。
漢水の沙汰やみだけに限れば、費禕は劉禅に命じられただけだろうが
政争とかに強い費禕の人柄を考えるとわりとイメージできるかもな。
135無名武将@お腹せっぷく:2006/03/14(火) 23:11:46
ちょっと↑の方で挙がってた偽黒さんとこの日記。
俺も読んでたけど、俺が抱いてた考えと似通う部分が多くて面白い。
姜維に対する評価や諸葛亮時代の北伐との差異、司馬懿の事績との関連性なんか、
俺が思ってた事が文章にされてる感じで。
この時代好きなんで「晋書」やら「資治通鑑」なんかは読んでると面白いのは確か。
136無名武将@お腹せっぷく:2006/03/14(火) 23:13:46
>>132
それならいいんだが…
>>127のように言われては入りたくても新参者は話に入る気も無くすというものだよ。
137Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/14(火) 23:16:42
>>135
晋書は和訳が無いまま辞書片手に必死に読んだりしてたが
資治通鑑っていうのはどういう書籍なんだ?

>>136
人がいなければ議論そのものが成り立たない
新しく入ってくる人がとてもいい議題を持ってきてくれるかもしれない
だから基本的に新しい人の加入は歓迎したいところ
138無名武将@お腹せっぷく:2006/03/14(火) 23:25:28
>>137
あの時代に限れば、通鑑は三国志と注を再編成したものと思えばいい。
編年体だから年代矛盾は解消されているが、それは司馬光らの見解(恣意)が入ったということでもある。
流れを知る参考には出来ても、議論などの際に信頼を置くべき書とは言えない。
139Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/14(火) 23:28:48
司馬光の著であれば信頼のおける書だという印象があったが違うのか・・・
とにかく実際を知りたいので捜してみることにする。
編年体の歴史の参考書はほしいと思っていたしな
140無名武将@お腹せっぷく:2006/03/14(火) 23:33:39
>>139
もちろん間違いばかりとかいうわけじゃあないよ。
胡注も見ればたまにはツッコミが入ってたりするし。

ただ再編集したからこそ、原資料の持つ本来の意味が失われたり、司馬光によりミスリードさせられてしまうという危険もあるわけ。
読み方次第。
141Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/14(火) 23:38:30
なるほど。
それなら正史等と平行して読めば効果的だな
142無名武将@お腹せっぷく:2006/03/14(火) 23:45:01
あとは漢書百官公卿表、続漢書職官志、晋書職官志、宋書百官志を嫁
143Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/14(火) 23:50:09
前漢代と宋代の百官公卿や職官を記した表と志は
どのような点で有用?教えてほしい。
144無名武将@お腹せっぷく:2006/03/15(水) 00:09:29
漢の官職は前後通じて理解すべき。
侍中のような中朝官の成り立ちだとか。
丞相・相国や大司馬のように続漢書には説明が事実上無い官もある。
曹操の時には前漢への復古が叫ばれているし、三国時代を知る上でも無益ではないはず。

宋書百官志は九品を列挙した最初の史書。
というか、成立自体が晋書より早いので、三国時代以降に生まれた官職・制度を解説する最初の史書とも言える。
145Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/15(水) 00:14:59
>>144
なるほど。前漢への復古といえば曹操による丞相・御史大夫の復活だとか
あのあたりのくだりは知っていたがやはり全体を知らなければならないしな

宋書百官志が九品を列挙した最初の史書とは知らなかった

聞いてみると、やはりそれらは読まなければならないな
146無名武将@お腹せっぷく:2006/03/15(水) 00:21:53
流れを無視する形になるが、一応レスしとく

>>125
長城に蓄えられていた豊富な物資を奪取する、というのも、開戦前、
作戦計画の段階では考えられていた可能性は確かにある。
だが沈嶺に着陣した後は、そういう事を試みてはいなかったと思うよ。

長城は魏軍の本営となっていたから、渭水に沿って陣を固めたと書いてはあるが、
渭水そのものではなくその支流、駱谷水か芒水に沿って陣営を固めていたと思う。
長城を放棄して後方の渭水まで下がったとは思えないからね。

そうなると、姜維が長城を攻撃する為には、敵戦線を突破するか、
敵翼を大きく迂回してその後方に出るかしかないけど、
魏蜀の間で戦闘が起こった記述もなければ、姜維が軍を迂回させた記述も無い。
奪取したいとは思っても、手が出ない状況だろう。
147無名武将@お腹せっぷく:2006/03/15(水) 00:29:53
地勢とかはどうやって勉強すればいいのかワカンネ
よければ教えてくれ
148無名武将@お腹せっぷく:2006/03/15(水) 00:39:18
>>147
中国歴史地図集を見たり、現代中国の地理から類推したり、
図書館で読んだから詳細は分からんが、中国語の本で「三国志事典」とか言うのがあって、
それに地名や官職などを含めた三国志の用語の解説が載ってるからそれを読んだりしてる。
あとは実際の記述から戦役の経過を読み取って、軍事的な合理性が取れてるかを確かめたりかな。

簡体字のものであれば、中国歴史地図集はweb上でも読める。
ttp://www.kzeng.info/book/print/21
興味あれば行ってみると良いかもしれん
149無名武将@お腹せっぷく:2006/03/15(水) 00:47:56
王祥に呂虔剣を持って暴れて欲しいものだ
150無名武将@お腹せっぷく:2006/03/15(水) 10:02:49
むじん書院は剣とかも載ってるからいいな
後期なら張華の「龍淵」、それと対を成す「太阿」とか
151無名武将@お腹せっぷく:2006/03/15(水) 10:03:29
>>148
すごいサイトだな
参考にするには十分すぎる
152無名武将@お腹せっぷく:2006/03/15(水) 12:26:40
>>134
俺がむじん説を面白いと思うのは、
むじん説では姜維の不自然とも言える出世・軍事掌握の理由が説明されていること。
姜維が大将軍都督中外諸軍事とまでなるのは、どこかで政変でもなければありそうにないから。
153無名武将@お腹せっぷく:2006/03/15(水) 23:47:17
みなさん、
閻宇は姜維に代わるために右大将軍にされたとか思ってませんか?
逆です。

姜維の後釜にするという話の前から右大将軍ですよ。
154無名武将@お腹せっぷく:2006/03/17(金) 22:30:37
他のオタも多いとは言えないが、呉オタの数が格段に少ない気がする。
これまで投下されたゲームに関するアイデアや考察の内容を見ても、
呉のものがやはり少ない。

呉オタを含めた住人の増加が望まれる所だな。
155無名武将@お腹せっぷく:2006/03/18(土) 15:32:14
呉オタだけど、考察出来るほど詳しくない
156無名武将@お腹せっぷく:2006/03/18(土) 22:05:57
魯育出して劉纂もプレーヤーキャラに
157無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 08:25:35
>>155
俺も
158Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/19(日) 18:46:55
>>152
荊州閥が中枢を握る蜀で涼州の姜維が人事権を得たのは異例中の異例だからね 確かに
159無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 21:42:26
>>155>>157
無理に考察を投下せずとも、ふと気になった事とか、後期無双に関するちょっとしたアイデアだとか、
そういう事でも書き込んでくれればありがたい事だよ。
そこから大きく話が広がっていくかも知れない。

まあ、欲を言えば考察を、個人的には特に戦争の考察をしてくれると嬉しいけどね。
160無名武将@お腹せっぷく:2006/03/20(月) 00:19:01
>>158
むじんの説になるが、費イは姜維に兵一万しか与えなかったのではなく、
兵一万も与えて出兵を許していたんだという見方をするべきというのも大事だ。
北伐をしなかったショウエン時代と比べ、費イ時代は北伐にずっと積極的なんだよな。
161無名武将@お腹せっぷく:2006/03/20(月) 01:16:57
以前姜維スレで議論した事だが、費禕は姜維を出兵させるに当たって、
蒋琬時代に涪まで下げた軍を率いて、自身も(恐らく)その後詰の為に漢中に赴いた。

費禕のスタンスは、勝算があるならば北伐を敢行する、というものだったと思う。
162無名武将@お腹せっぷく:2006/03/20(月) 01:42:15
>>160-161
そう見方を変えてみれば、時期を得ずにただ大軍を導入したがる
姜維の戦略眼はという疑問が湧いてくるんだがどうだろうか
163無名武将@お腹せっぷく:2006/03/20(月) 02:05:10
>>162
戦争を行うのであれば、できるだけ大きな戦力を動員した方が勝算が高まるのは自明。
魏で内乱等が起こるのを待つべきであった、というのであればその通りかもしれないが、
魏が騒乱状態になるという保証も無ければ、それがいつかも分からない。
姜維のように自身の戦略戦術に自信を抱いていたならば、開戦に踏み切ってもおかしくはない。
その判断が妥当であったかは置いておいてね。

出兵するのであれば、費禕の様に中途半端な戦力で作戦させるよりも、
大規模な戦力で作戦させた方が良かったと思うよ。
249年の戦役にしても、姜維の指揮する兵力がもっと大きければ、
麹山だって簡単に包囲できなかったろうし、包囲されたとしても対応できた可能性もある。
ただあれが、姜維が成功し次第費禕率いる主力が祁山方面に出兵する、というものであったなら、
前衛である姜維に大きな戦力が割けなかったのも仕方なかったと思うけど。
164無名武将@お腹せっぷく:2006/03/20(月) 02:21:47
専守防衛は成り立たないしね。
魏(晋)は成立前夜の曹操と夏侯惇の話なんかからわかるように、蜀呉を征してから即位すべきなんて言われてたわけで、
自らの正統性のためにいつか近いうちに必ずガチで攻めて来る。
毎回追い返せるという保証はどこにもないし、地勢上発展性に欠ける蜀はじり貧になるばかり。
博打同然だとしてもやらざるを得ないというところだろう。
165無名武将@お腹せっぷく:2006/03/20(月) 19:16:30
国土を守る、というだけならば険阻な地を恃みとしてある程度は出来たと思うよ。
少なくとも姜維が蜀の滅ぶ姿を見る事は無かったと思う。
徒に出兵せず、防衛に徹していればね。

しかし、中原を回復するというのであれば、出兵は止むなしだろう。
蒋琬も北伐計画変更の上疏の中で、呉と掎角してとにかくも魏領を蚕食すべし、と述べているしね。
166無名武将@お腹せっぷく:2006/03/25(土) 21:43:34
気分転換に呉平定戦でも考察しようと思うが、主資料が晋書になってしまう為、
面倒くさくて取り掛かれずにいる。やっぱり晋書の全訳を出して欲しい。
取り敢えず適当に考えたやつを

呉平定の作戦計画や実際の戦略機動から考えると、南下する陸軍が各拠点間の連携を断ちつつ、
主力が長江を下り一気に建業を目指す、というものであるのは分かる。
しかしながら、これは機動の粋を凝らして相対的優勢を局所的に確保するものでもなければ、
敵の意図しない場所へ出て、その司令部を麻痺させるような効果も無い。
また、敵主力との決戦が主眼に置かれた作戦でもない。

ではこの戦略の優れた点、特徴的な点は何か、と問えば、敵の防衛線を全線に渡って、
同時且つ大規模に侵攻する事で、進軍そのもので敵の継戦意志を挫く事ではなかろうか?
これが、前述の拠点間の連携遮断と相まって、敵の精神に大きな衝撃を与える事が可能であるのだろう。

何にしても、敵を大きく上回る潤沢な戦力あってこその戦略であり、
晋軍の特権のようなものだろう。
167無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 01:00:44
>>166
呉平定戦については杜預スレでも進めていたが
あの時にいた名無しはおまいさんかね
168無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 01:07:23
>>167
どの名無しを指してるのかは分からないが、杜預スレでも呉平定に言及した事はあるよ。
169無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 01:09:00
杜預スレでは呉側の立場からすると防ぎようがないものだった、で終わってしまったが
六方面攻撃のうち鍵となったのはやっぱり王渾だろうか
170無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 01:24:55
>>169
それは分からないな。張悌が撃破される前から呉側は士気も沮喪してたから。
例え王渾が張悌撃破に手間取っていたとしても、王濬が建業に迫った時点で降伏してたと思うよ。
まあ、王渾が大破されたってんならどう抵抗を試みたかもしれないが。
ただそれにしても、王濬の次にも後続として胡奮や王戎、司馬伷らが迫っていたから、
呉の滅亡は時間の問題だっただろうけど。

しかし単純に戦果で言えば、呉で唯一機能した野戦軍を撃破した王渾の功績は大きいと思う。
171Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/04/02(日) 01:39:49
張悌軍といえば、指揮下の沈瑩は張悌に牛渚で晋軍を迎撃するよう進言しているが、
恐らく時とともに兵士はばらばらになり、互いになすすべもないまま
敵の到来を待って、君臣共々に敵に降伏することになるだろう、と言って長江を渡河し王渾に撃破されている。
どちらにせよ呉の滅亡は避けられないというのは他ならぬ張悌の発言にも述べられているが、
最善の道を採るというなら張悌と沈瑩のどちらの策が安全だったといえるだろうか。
172無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 02:09:35
>>171
指揮官である張悌自身が、「待っている内に士卒が四散する」と言っている以上、
そうならないにしても士気の低さが目に見えていたのだろう。
川を前にして敵を防ぐとしても、まともに迎撃できたかは分からん。

また、士気を考えず作戦面で見ても、前に出ないのは失敗だろう。
敵が王渾だけならばそれでも良いが、王濬率いる水軍も迫り、
更に下流部には司馬伷が迫っている。
そういう状況を考えれば、王渾が無理に渡河して被害を出すと言う事も無いだろうし、
王渾と対峙してる間に別の軍団が建業に迫ったり張悌の側背へと迫ったりする可能性もある。

渡河するにせよ、しないにせよ、無駄な抵抗である事には変わりないのだがね。
173無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 10:12:22
要するに大和特攻か本土決戦かくらいの差しかないって事
174無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 01:37:50
華陽国志を調べると、王濬の呉征伐のくだりの所で、
「濬因自成都帥水陸軍及梁州三水胡七萬人伐呉」
という記述があった。

太平御覧には「因」の字が無く、「梁州三水胡七萬人」が「梁州三十七萬人」であるという。
これの訳し方がよく分からん。

梁州三十七萬人だとわけが分からなくなるので、因の字が無い事のみを考慮すると、
「王濬が成都より水陸軍及び梁州三水の胡族7万人を率いて呉を征伐した」という感じか?
詳しい人に解説願いたい
175無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 14:09:04
>>174
それで合ってるよ。因は前の文章や状況を受けてという意味のことだから
特に訳さなくてもいいと思われ
176無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 20:08:41
>>175
おお、ありがとう。

とすると、王濬の戦力は7万であり全戦力の約3割を王濬が担ったわけだな。
やはり王濬が主攻であったと見て間違いない。
これには、王濬の意向に沿って荊州で羊祜、中央で張華らと呉征伐の戦略を練った何攀の意思、
延いては益州人士の意思が絡んだ結果にも思える。
177無名武将@お腹せっぷく:2006/04/14(金) 09:38:43
保守
178無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 23:38:31
呉平定戦を鑑みるに、何れか一軍団の攻勢や機動が、決定的なほどの勝利の要因であった、とは言えないだろう。
しかし、晋軍の勝利を決定付けた瞬間そのものは存在すると言える。

それは恐らく、長江の流れを晋軍が制した瞬間であり、呉の首都に通ずる極めて優良な連絡線を得た時であろう。
これによって晋軍の揚州における大軍の展開が容易になり、国力差・戦力差が直接かかってくるようになる。
このような状態では、呉軍が揚州で巧みに戦闘に勝利したとしても、
晋呉両軍の戦力差が加速度的に拡大するので、敗勢が覆る事は無いだろう。

晋軍が長江を完全に制したのは、呉軍が武昌を破棄した瞬間であるが、
呉軍が長江を明け渡さざるを得なくなったのは、西陵の陥落した瞬間であると思われる。
西陵が陥落すれば、呉は荊州における長江最上流部を敵に押さえられると共に、
敵軍による益州から荊州平野地への展開が極めて容易となってしまうので、
下流部の江陵、楽郷等も長江を防塞として抗う事が難しくなり、
西陵の陥落は西陵そのものだけでなく、荊州全体の防衛をも困難にしてしまうからである。
179無名武将@お腹せっぷく:2006/04/20(木) 01:40:22
西陵が落ちたのは益州が陥落したからで
結局呉初期の長江流域を反北方勢力で固めるって構想が崩れたからなのよね
魯粛の考えていた通りの結果になってしまったわけだな
180無名武将@お腹せっぷく:2006/04/20(木) 09:52:38
西陵督の張政は敗戦を隠蔽したおかげで更迭されますた。
後任の劉憲はあっさり敗れますた。
181無名武将@お腹せっぷく:2006/04/20(木) 14:14:08
そもそも留憲の場合、まともに抵抗したかどうかも疑わしい。
王濬伝には、
「王濬が蜀を発って以来、兵は刃を血にぬらす事無く、堅城を攻める事無く、
夏口、武昌も相連なって抵抗する事が無かった。」
とか書かれてるくらいだし。
182無名武将@お腹せっぷく:2006/04/22(土) 17:56:40
益州陥落後も西陵を持ちこたえたと言うと、陸抗が西陵の歩闡を囲んだ戦役だな。
この西陵攻囲の記述を読むと、陸抗は西陵に対してと、
自分たちの外側に対してそれぞれ封鎖線を作り上げ、その後に敵に対応した。
こういった包囲のやり方で真っ先に思い浮かぶのは、カエサルのガリア遠征におけるアレシアの戦いだろう。

この内と外の堡塁、所謂ContravallationとCircumvallationによる都市全周攻囲は、後世広く行われてきたが、
ジョミニは、スペイン継承戦争におけるオイゲン公のトリノ救援の戦例を上げつつ、
この方式を馬鹿馬鹿しいものとして一蹴し、全周包囲線に自軍を埋めるのではなく、
攻囲に干渉可能な敵野戦軍の撃破と駆逐こそが、都市攻囲における最善の手段であると述べている。

俺自身はジョミニの批判に賛成だが、この方式による西陵攻囲が見事に成功した事や、
晋の解囲軍に比して陸抗の率いた兵力が大きく劣っていた事などを考えると、
少なくともこの戦役においてはジョミニの批判は当たらず、陸抗の判断を良しとすべきだろうな。
183無名武将@お腹せっぷく:2006/04/24(月) 21:12:58
上のレスに引き続いて、西陵の役について更に考察を進めたので、
あまりレスも無いので投下しようと思う。
考察の内容をWordで纏めてるが、途中なのにかなりの分量になってるので、なるだけ簡潔に。

今回は西陵の役での羊祜の機動に関して。羊祜は襄陽を発って江陵に向かったが、この理由は何か?
陸抗に対し旗下の諸将が進言しているように、江陵を攻める事で西陵の包囲を解こうとしたのか?
恐らく羊祜の目的は陸抗を撤退に追い込む事なんだが、陸抗旗下の諸将の言う様に、
江陵を攻める事でそれが達成されると考えていたわけではないだろう。
羊祜の江陵への機動は、陸抗を少しも動揺させる事が無かったのだし。
じゃ何なのか?というのは、その後に陸抗が行った、公安の諸軍によって羊祜の南進を防いだ事実から分かる。
陸抗が恐れていたのは、実は江陵の陥落ではなく、羊祜の南進だったのではないか?

羊祜の目的は江陵ではなく、長江を越えて、陸抗の本拠地であり策源であり、
且つ手薄となっていた楽郷を攻め、陸抗の連絡線を遮断する事にあったのだと考える。
その場合、江陵は晋軍連絡線の側方に位置し、晋軍にとっては敵の側面陣地となっていたので、
これを無視する事が出来ず、楽郷に向かう前段階として江陵に向ったという事だろう。
江陵を落とせるようならば落とす、でなければ監視の兵を留めつつ長江を渡り、楽郷に向かうつもりだったと見る。

全体としては、羊祜率いる5万の内幾らかを西陵に分遣させて(楊肇)、歩闡らの士気を高めつつ、
陸抗の撤退に際して追撃できる態勢を整えておき、羊祜自らは迅速に楽郷を攻め、
その連絡線を遮断して陸抗を待ち受け、陸抗の軍団を殲滅する、という事だろう。
実際には陸抗に看破され、撤退する羽目になってしまったけどね。
184無名武将@お腹せっぷく:2006/05/01(月) 21:34:38
age
185無名武将@お腹せっぷく:2006/05/04(木) 00:32:27
結構前に杜預スレも落ちたし、このスレも閑古鳥が鳴くようになってしまったな。
186無名武将@お腹せっぷく:2006/05/11(木) 12:46:42
だなー。
187無名武将@お腹せっぷく:2006/05/13(土) 21:49:32
盛り上がりそうな話題って無いものだろうかね?

この時代は取り扱われる事が少ないから、書籍や作品談義なんかも殆ど出来ないしな。
かといって、堅い感じの議論ばかりだと話しに入りづらい雰囲気になるだろうし。
188無名武将@お腹せっぷく:2006/05/14(日) 14:48:58
西晋の功臣の話してたらおのずと三国後期に繋がってくるんじゃないかな
呉滅亡以前に死んでる功臣も結構いたりするし
189無名武将@お腹せっぷく:2006/05/14(日) 23:52:45
西晋の功臣か。
俺はまだ晋書の方まではそれほど手が回ってないから、西晋の人物の議論はそんなに
積極的には参加できそうも無いな。
ただ、詳しい人の議論などは聞いてるだけでもためになったりするので、
語れる人には積極的に語って欲しいとは思う。

しかしながら、西晋の功臣の話でスレ全体が活気付くかという事は、俺には分からない。
190無名武将@お腹せっぷく:2006/05/15(月) 15:02:39
そういやまだ周処ここに出てないのな
死に様が格好いい
191Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/05/17(水) 23:27:39
ちょっとネタ出ししてみる。
魏が蜀へ侵攻した時、呉の人はこの討伐の失敗は目に見えていると言ったが、
張悌は蜀滅亡を予見していてその意見を否定した。

蜀滅亡の簡単な理由としては蜀が天嶮の地であり、
外からの侵入が困難であるとともに内からの外征も困難であるため
姜維の北伐で国力が疲弊し、兵も将もいなくなっていたことが挙げられると思う。

張悌は呉にいながらそれを把握していたんだろうか。
192無名武将@お腹せっぷく:2006/05/18(木) 00:48:36
>>191
そもそも蜀の滅亡の原因は、国軍の総司令官である姜維と政府との間の
信頼が失われていた事が大きい。
確かに国家が疲弊してはいたが、全軍が姜維の指揮下で団結し、
防衛の為の適当な部署が行われていたら、滅亡は免れていた可能性は高い。

張悌が指摘したように、蜀では宦官が権力を専らにし、民衆も疲弊していたので、
張悌が蜀の情勢についてある程度確かな認識を持っていたのは確実であり、
長いスパンで見れば滅亡は確実であったが、あの時点、あの戦役に関して言えば、
魏の勝利は紙一重のものであり、蜀側の失策とケ艾の奇策に助けられた勝利であった。

失敗が目に見えているわけでもないが、成功が確実だったわけでもない。
張悌の言葉の方に理はあったが、その予測が当たった事には運も多分に含まれていただろう。
193Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/05/18(木) 01:21:29
>>192
なるほど。よく解った、ありがとう。

俺としては姜維の政治的孤立はどうあっても免れなかったものだと思う。
生前の孔明との繋がりはあったものの出身地からして蜀の全権を握れば反感を買う立場にあり、
まして全軍を指揮下に入れて統率というのは難しかっただろう。
(現に楊戯のように荊益の名士は彼に反感を覚えていたし、
それ以外でも皇帝に近しい立場の宦官である黄皓が姜維と敵対したのが大きい。
だからこそ姜維も沓中への異動という保身策に出たのだろう)

姜維の指揮下で適切な防備が行われなかったのが滅亡の要因というなら、
中央にいる者が現状を把握し、それなりの部署を行うのが現実的な対策だっただろう。
その判断が出来ないほど首脳部が機能していなかった蜀において、
滅亡は時間の問題としか言えないな。
194無名武将@お腹せっぷく:2006/05/18(木) 03:00:42
>>191
>張悌は呉にいながらそれを把握していたんだろうか。

たとえば、滅亡の数年前に蜀へ派遣された五官中郎将の薛珝が末期的な政情を
述べていたりなど、それなりに知りえる手がかりはあったはず。
195無名武将@お腹せっぷく:2006/05/18(木) 09:10:07
孫権が魏延と楊儀の不仲まで知ってたりするしな
呉のスパイは優秀なんじゃねーの
196Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/05/18(木) 19:03:19
>>194
>主君は闇愚にして自らの過ちに気付かず、
>臣下は我が身を可愛くてひたすら罪を被らぬようにと努め、

このあたりが既に首脳部の機能停滞を表しているが、
内間という意図があったのは十分に考えられる事にせよ、
馬を求める為に蜀へ赴いただけで宮廷の内情までよく探りえたものだな。
『孫子』にも「三軍之事、交莫親於間、賞莫厚於間、事莫密於間」とあるように
薛珝は呉中でそれなりの信頼を得ていたんだろうな。

>>195
孫権はわりと蜀の事情について明るい。
244年に歩隲と朱然が蜀は魏と結んで軍備を整えている、と上表した時も
蜀の国使の様子や司馬懿の動向からこれを否定していて、結局孫権の言い分が正しかった。
197無名武将@お腹せっぷく:2006/05/18(木) 21:02:15
そういえば、呉と蜀、あるいは魏と呉は互いに国交がある時期があり使者のやり取りもあるが、
魏と蜀の間にはそういったものがなく、呉は他二国に比べて情報が得やすい立場にあったのかもね。
198無名武将@お腹せっぷく:2006/05/18(木) 21:53:56
敵対していても貴族や士大夫は国を跨いで交誼があるのは普通だけどね。
199無名武将@お腹せっぷく:2006/05/18(木) 22:12:46
まあねwでも、使者が送られてくると(あるいは使者が帰ってくると)決まって君主は相手国について詳しく質問したりしてるし、
実際にそこで見聞きしたりした情報は結構高い価値があったと思うんだがどうだろう?
200Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/05/18(木) 23:05:22
>>199
むしろ使者を送る第二の目的が間諜(内間)だと考えれば
価値があったと自然に考えられると思う。
201無名武将@お腹せっぷく:2006/05/18(木) 23:11:20
>>198
蜀の司徒の許靖も往年の名声と交友関係で華歆・王朗・陳羣らと親交があったしな。
そう考えると、名士同士のネットワークって無視できないんだな。
曹操もそれを利用して清流名士層を取り込んだしな。
202無名武将@お腹せっぷく:2006/05/19(金) 00:14:25
諸葛亮に対しても中原の名士から手紙来てたね
表向きは降服勧告だけど顔ぶれからすると諸葛亮個人に対するスカウトのようにも思える
あと劉表伝には京師の様子を探らせる目的で韓嵩を使者にしたとはっきり書いてるくらいだし
203Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/05/19(金) 00:51:27
>>202
三国志後期の例でいえば、ケ艾は諸葛瞻に降伏勧告(懐柔か)の書状を送っているしな。
思えば、劉備の三顧の礼というのは孔明に才能があるからというよりは、
瑯琊の諸葛家の出身だったからというのが大きかったのではないかと思えるが、どうだろうか。

まず劉備は孔明に政治こそ任せたが軍を指揮させた事は無かったし、
吏才+家柄のある孔明を配下に入れることで大義名分と政治的基盤を欲していたけれど
演義などにあるように戦に勝つための軍師として欲してはいなかったように思う。
204無名武将@お腹せっぷく:2006/05/19(金) 08:25:35
>>203
入蜀時に一応軍は率いてる
205無名武将@お腹せっぷく:2006/05/19(金) 10:37:31
>>203
諸葛家というのは確かに悪くはない家柄だが、かと言って諸葛家に支持されたから名分を得るとかはないだろう。
彼の郷里と荊州は別の地域なので、生まれ持っての家柄よりも荊州遊学時代に得た人脈と名声の方が重要じゃないかと。
206無名武将@お腹せっぷく:2006/05/19(金) 12:31:42
>>204
あんなん率いたうちに入らん、本格的に率いたのは南征・北伐のみ
207無名武将@お腹せっぷく:2006/05/19(金) 13:17:05
>>206
何を根拠に?
208無名武将@お腹せっぷく:2006/05/19(金) 13:36:00
>>207
入蜀の時は全軍の方針を決定付けられる立場での軍統率じゃなかっただろうが
一将として戦に参加ってのが正しい言い方
209無名武将@お腹せっぷく:2006/05/19(金) 14:14:19
一将軍としてでも軍を部隊を任されて参加してれば「軍を任されて」と書いていい
全軍の方針を決定付けられる立場でないといけないなら
曹操在世中の魏の将軍大半が軍を指揮した事がなくなっちゃうぞ
210無名武将@お腹せっぷく:2006/05/19(金) 14:23:09
>>209
それは正しいけど、>>203を見るとどうもそういう事を言ってるように見えるじゃん

>劉備は孔明に政治こそ任せたが軍を指揮させた事は無かった
って言い方は言葉が不足だと思うけど、
>劉備は孔明に政治を任せながら軍を統括する立場には据えなかった
と解釈すれば意味が通るように思う
211無名武将@お腹せっぷく:2006/05/19(金) 15:14:03
劉備時代の役割と立場を考えればノーカウントでも問題ないと思うがね
なんで>>209=207? はそこまで拘るんだろう
212無名武将@お腹せっぷく:2006/05/19(金) 15:47:46
>>210
それはお前の解釈に対して意味が通るだけ

>>211
実際に率いているんだからしょうがない
213無名武将@お腹せっぷく:2006/05/19(金) 15:55:16
なんだ、ただの揚げ足取りか

そろそろスレ違いだから話を戻すと、
シーザーが言ってるように成都にただ一人もまともな提言した奴はいなかったのか?
また、いたとしても宮中の状況から軍備を整えることが不可能だったのか?
214無名武将@お腹せっぷく:2006/05/19(金) 15:55:50
まあ放置すればいいだけでしょ
215213:2006/05/19(金) 15:56:46
>>213は264年の遠征時に蜀の軍備が全く整ってなかった事について
216無名武将@お腹せっぷく:2006/05/19(金) 17:21:12
>>213
ただの揚げ足取りじゃないぞ
「諸葛亮は将軍としても劉備に期待されていなかった」
とするのはおかしいという論拠になる
新顔に一軍もしくは一部隊を任せていると言う事は劉備は諸葛亮に対し軍事面でもそこそこの期待をしていた事が伺える
諸葛亮の官位を見ていると丞相になるまでは常に将軍位だったり、軍事関係の地位に居る事もその証左
ただし、それ以上に諸葛亮の内政面での能力に期待をかけていたと言う事は諸葛亮の実績からわかる事だ
ホウ統や法正が目を掛けられているせいであまり目立たないが、劉備は諸葛亮にも軍事面で「それなりの」期待をしていたと言うわけだ
217無名武将@お腹せっぷく:2006/05/19(金) 21:42:21
>>213
魏軍の侵攻に備えようとした人物は、少なくとも自分は姜維以外には知らない。

朝廷に姜維の言に耳を貸す人物がいたとしても、姜維が防備を整えるよう上奏したにもかかわらず、
政府がそれを取り上げようとしなかった事は事実であり、少なくとも首脳部は呆けていたとしか考えられない。
また、ケ艾と鍾会の侵入を知った時点でとは言え、廖化や張翼らの派遣は行っているわけで、
姜維の言葉を重く見ていたなら、当初から彼の指示通り廖化らの派遣は出来ていただろう。
218Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/05/19(金) 22:36:15
鍾会軍は張翼らが到着する前に陽安関を陥落させた事からして、
張翼・董厥の陽安関への派遣は遅すぎたとしかいえないな。
いくら首脳部が呆けていたとはいえ、
国の存亡が懸かっている魏の蜀遠征の対策としては疎かすぎる。

どうして朝廷は切羽詰るまで楽観的でいられたのかを推測したが、
俺には赤壁前に魯粛が孫権に言った事と被るように見える。

>いま魯粛が曹操を出迎えれば、名望・位階を格付けすれば最低でも下曹の従事を下回ることはなく、
>犢車に乗って官吏・士卒を従え、士林を交遊し、任官を重ねればまず州郡を下回ることはないが
>将軍が降伏しても・・・
というやつ。

それなりの家柄と名声を持っているから降伏してもそれなりに出世できる、というのは
蜀の朝廷で中枢を占めていた荊益名士にもいえるように思う。
ケ艾が陰平まで進出した時点で「南方の要害に拠る」「呉に身を寄せる」など非降伏論も出ているが、
そもそもこういう事態を招かないために見通しを立てておかなかったのは、
少なからず荊益名士達の中に上で挙げたような発想があって甘えが出ていたのでは?と思えるんだが・・・。
219無名武将@お腹せっぷく:2006/05/19(金) 22:38:51
朝廷が姜維の言を容れなかった原因の一端は姜維自身にもある
度重なる無謀な出征要請に朝廷のみならず軍部内部にも厭戦気分が漂っていたのは事実
姜維が張翼らの忠告どおり守りに徹して兵力を蓄えていれば
朝廷ももう少し姜維の言葉を重んじたのではないか

まあたらればの話でしかないがね
220無名武将@お腹せっぷく:2006/05/19(金) 22:49:40
信頼を失ってしまった責任は、寧ろ姜維の方にあると言って良いだろうな。
斉の公子小白への出仕を躊躇する鮑叔を説得した管仲はその時、
君に仕える心構えとして、第一に君に信頼される事の必要性を挙げて、鮑叔に忠告した。
信頼されていなければ、どれほど優れた建議であろうと容れられる事がない。
そうなっては、どのような賢臣であろうと、その力を発揮する事は出来ないだろう。

姜維がそういう事を意識していたようには思えない。
信頼関係を保とうという努力を怠ってしまっては駄目だ、という事だな。
221無名武将@お腹せっぷく:2006/05/19(金) 22:53:30
>>218
>>219>>220は君が嫌いだから君を無視してるんだよwwwww
だいたい、住人に嫌われてるのに書き込んでる理由がわからんwwwww
もう来ないでくれる?
222無名武将@お腹せっぷく:2006/05/19(金) 22:58:38
>>218
陽安の陥落には蒋舒の裏切りも少なからず絡んでおり、もしかしたら張翼らも間に合った可能性はある。
ただ、張翼達よりも、沓中から撤退してきた姜維の方が前にいた事を考えると、
廖化はともかくとして、張翼の派遣は時機を逸しすぎていると言わざるを得ないがな。

蜀政権内の名士連中の思惑に関しては類推しかねるが、そういった考えがあった可能性はあるかもな。
223Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/05/19(金) 23:11:56
>>219-220
姜維の沓中屯田は事実上の政治的失脚だしな。
蔣琬・費禕はといえば、姜維のように中央政府を空ける事が多かったが
国家の重鎮として人事問題はかならず彼らの意見を聞いたうえで決定されたことを見ると、
宮中での発言力の差が見えてくるというか。

>>222
史書に無いことだから推測に過ぎないんだが、
蜀滅亡後に蜀政権にいた人間で魏に登用されている者もいる事を見ると
そうではないか、と思えてね。
224無名武将@お腹せっぷく:2006/05/19(金) 23:22:51
・陰平で一ヶ月も時間を浪費した廖化
・漢寿に達するまでに時を浪費し過ぎた張翼・董厥

戦局を悪化させた原因にはこのふたつがあまりに大きい。
それに漢城と楽城を倍の戦力で封鎖された蒋斌と王含の消極さも問題。
このふたりが魏の攻囲軍を撃破できていれば魏の兵站に大打撃を与えられた
公算が大きい。
彼らを戦犯扱いする気は毛頭ないが、少なくとも蜀軍の防衛戦略が有機的に
機能していればこの時の滅亡は避けられた可能性は大いにある気がしてならない。
225無名武将@お腹せっぷく:2006/05/19(金) 23:25:11
>>224
漢城楽城はまず包囲された時点で詰まれたと考えたほうがいいんじゃ・・・。
226無名武将@お腹せっぷく:2006/05/19(金) 23:35:39
>>223
陳祗が実権において姜維を上回っていた理由は、姜維が常に軍を率いて外におり、
朝政に親しもうとせず、加えて陳祇が君主にへつらい宦官とつながった事とされている。

姜維が政権内での発言力を増す余地は、幾許かはあっただろう。
姜維に政治に親しむ気があったなら、修復不可能なほどの信頼関係の喪失は無かったかもしれない。

ただ、姜維がその政治的影響力を高める最も手っ取り早い方法は、
武勲を挙げることだったんだろうけどね。
227無名武将@お腹せっぷく:2006/05/19(金) 23:45:43
少なくとも陳祇は、黄皓が政権中枢に食い込み諸葛瞻ら高官と結託した時代と
較べれば、遥かに蜀の現状を見通し姜維よりも客観的な見識を持っている官僚。
姜維を問題視するのも尤もだけど、グダグダの馴れ合い政治を行っていた末期の
高官どもももう少し注視されてもいいはずなんだが…。
228無名武将@お腹せっぷく:2006/05/19(金) 23:47:05
>>224
廖化は微妙だね。
諸葛緒の作戦が分からない以上、留まって迎撃した方が良い、という判断だったんだろうが、
それが真に妥当であったかは分からない。
廖化は臨機応変な対応が苦手な嫌いがあり、ここでもそれが出た可能性はある。

漢・楽に関しては、確かに2倍程度なら逆襲によって撃破する事も可能な戦力差ではある。
だが、それまで会戦の指揮などまともに執った事が無いであろう蒋斌らに、それを求めるのは少し酷だろうね。

ただ、張翼・董厥に関しては問題がありすぎる。
姜維の行った防衛戦略転換の建議でも、陽安の防衛は要である事が言われており、
興勢の役でも、王平らが最も心配したのは敵による陽安の占拠。
ここを守りきる事が最大の焦点であったのに、遥か辺境にいた姜維にすら前を行かれる始末。
一つだけ擁護できる可能性があるとすれば、姜維が権力を失い北へ行きっ放しになって以来軍縮が行われ、
当初は張翼らが率いるだけの戦力そのものが無かったかもしれない、という事だけかな。
まあ、そんなものは確証がなく、苦しい擁護になるだろうけどね。
229Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/05/19(金) 23:52:57
>>226
陳祗と姜維の発言力を比べるのは、政治への意欲だけではなく
陳祗の侍中兼守尚書令という役職を考えれば少々理不尽にも感じるけどな。

侍中は皇帝の側仕えのことで、近侍して皇帝の相談役や小間使となるから
劉禅や黄皓に極めて近しい立場にいることになる。

守尚書令は皇帝の秘書官、尚書の長である尚書令の代行。
皇帝が下す詔の文面を実際に作るのは彼ら尚書であって、
人事など大きな権力を持つ要職だった。

そんな二つの職を兼ねた陳祗と、完全に帳の外にいる姜維じゃ
政治的発言力に天と地ほどの差があっても特別なことじゃないでしょ。
230Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/05/20(土) 00:00:48
>>227
諸葛瞻など、七光りで破格の出世を遂げたが
そこで黄皓と結託して地位を維持しようとしたのが問題。
能力のある官僚というのは案外逆境でも何とか状況打開に向けて動くもの。
過度の期待に対して心労で薬を手放せなかったほどの諸葛瞻が
要職を享受して中枢にいるべきではなかった。
それにしても、成都の官僚って張紹や麋威、麋照など貴族化したような二世が多いな。
231Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/05/20(土) 00:04:50
張・廖は戦歴もあって軍人でいえば姜維に準ずる立場にいた将なんだが、
それまでの功績を考えると彼らにしてはお粗末というか、
何か理由があったのかと勘ぐりたくなるが・・・。
232無名武将@お腹せっぷく:2006/05/20(土) 00:15:18
俺の考えで言えば、恐らく姜維は、陳祗に政治を任せる事に不安を感じてなかった。
陳祗が北伐に反対した記述は無く、譙周が仇国論を著した時、その議論の相手は陳祗であり、
仇国論の中で譙周自身に準えた人物と論を交わし、積極的な遠征を主張しているのは恐らく陳祗だろう。
陳祗の死後、姜維が再び権力を手にできたのも、陳祇との仲が良好だったからではないだろうか?

姜維の誤算は、陳祇の手によって黄皓が力を持ちすぎ、陳祇の後任として(恐らく)姜維自身が指名し、
次代の政権を担わせた諸葛瞻らが、黄皓と結託し姜維を追い落とそうとした事だろう。
233Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/05/20(土) 00:41:47
『仇国論』は周の文王と楚漢を比較することで
北伐に対する慎重論を主張したものだったか。
高賢卿が陳祗を指し、伏愚子が譙周を指す人物とは知らなかった。

陳祗が姜維の言い分をある程度通そうとしたとしたら
宦官との癒着は避けられないものだったろうし、
諸葛瞻はまず姜維に大権を与えようとは考えないだろうね。
234無名武将@お腹せっぷく:2006/05/20(土) 00:50:04
>>233
いや、そう指していると考えているのは俺であって、一般的にそう言われてるわけではないと思う。
因余国を蜀に、肇建国を魏に準えているのだから、伏愚子と高賢卿も蜀の人物の誰かを準えているのだろう、と。
そう考えると、消極策を主張する伏愚子は譙周になるだろうし、
高賢卿は彼の議論の相手となった人物、すなわち陳祗ではないか、という事。
235Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/05/20(土) 01:01:22
>>234
なるほど。因余国を蜀に、肇建国を魏に喩えているのは知っていたけど
伏愚子と高賢卿の議論を陳祗と譙周との議論に喩えているとまでは考えてなかったな。
あなたは本当に詳しいと思う。

譙周はといえば、著書など学術的な功績は目立つものの政治には関与していなかったが、
中枢で何もしていなかった官僚連に比べて、
陳祗同様蜀の国勢について客観的な見識を持っていたといえるな。
236無名武将@お腹せっぷく:2006/05/20(土) 01:17:58
>>235
いや、この考えも決して強く語れるようなものでもないと思う。
譙周が、世人を説得しやすいようにと、自身と逆の主張をする人物を、
陳祇と全く関係ない所で仮定し、それを言い負かす様を見せているという事も、当然考えられる。
寧ろそちらの可能性の方が高いかもしれない。

譙周は自国の現状について、しっかりとした認識を持っていたかもしれないが、
劉禅に降伏を勧めたことに関しては、孫盛などがしきりに批判しているな。

まぁ、降伏論に関しては何とも言えないね。
軍事的に見れば、ほんの僅かではあったが、未だ可能性はあったかもしれない。
降伏を決めた時、姜維が凄まじい速さで救援に向かっていたからね。
それでも一縷の望みに過ぎないし、譙周らは姜維の迅速さなど知る由も無かっただろうから、
譙周の視点で考えれば、あれは妥当であったのだろう。
237Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/05/20(土) 01:34:02
記述が無い以上諸説あるだろうが、面白い見解だと純粋に凄いと思ったよ。

結果論でいえば降伏を勧めた臣下が高く評価されることはないと思うけど、
同じ学者で降伏後に細やかに劉禅の補佐をした郤正と比べてみても、
政治に関してそれなりのスパンが有ったか無かったかという点で劣らないんじゃないかな。

ただ、姜維の行軍速度の速さは北伐を見ていると明らかではあるが、
たとえ剣閣からの救援が間に合って成都前のケ艾を撃破したとしても、
すでに諸郡を魏に奪われていた状況を考えると、その状態で長く持つとも思えないし、
却ってあの時点で降伏しておいた方が劉禅や蜀の民衆に対する処遇は良かったのかもしれないよ。
238無名武将@お腹せっぷく:2006/05/20(土) 01:57:24
>>237
鍾会は剣閣を突破した後、麾下の諸将を3軍団に分け、姜維に対する戦略的包囲を部署した。
ttp://blogs.yahoo.co.jp/antoine_henri_jomini/5093398.html
ここに幾つか地図を載せてあるので、見てくれれば分かりやすいと思う。

外線作戦を採り求心的に迫る魏軍に対し、姜維は内線態勢に置かれている。
姜維は不利ではあったが、内線作戦はナポレオンも多用し、ジョミニもその有効性を大いに論じており、
ともすれば敵軍の各個撃破も可能な態勢。

姜維が迅速にケ艾を撃破して成都を救援しつつ、迫り来る敵軍団を各個に撃破する事が出来れば、
或いは四川盆地くらいは取り戻せたかもしれないし、
百世の模範ともなるような素晴らしき会戦指揮によって敵軍を撃滅できていたら、
魏の侵攻作戦を根底から覆せたかもしれない。
ただ、そんな事になる可能性は、魏延の長安奇襲よりも低かっただろう。

結局は、ほんの僅かの可能性であり、まさに一縷の望みであり、そんな事にかけるよりも、
さっさと降伏した方が良い、という事になるのだがね。
この作戦は、大胆と言うよりも無謀だからね。
239無名武将@お腹せっぷく:2006/05/20(土) 02:08:04
>>238
そもそも外線作戦と内線作戦では意図する戦の流れが違うからな。
地図を見る限り魏軍は蜀軍に数で勝る兵力を備えてたので
包囲・殲滅を意図する外線作戦を執っただろうが、
姜維が迅速な戦力集中と短期戦による各個撃破を成し遂げていれば・・・という希望はあるのか。

ただ、やはり内線作戦というのは危険な賭けだとも思う。
外線に防衛部隊を配置した場合、敵軍の同程度の戦力を防ぎきれなくなるし、
そうしているうちに包囲されたら負けは確実でしょう。
内線作戦で成功を収めたのはナポレオンほどの戦の天才だったからで、
それもワーテルローの戦いで上記の戦術で敗退している。

しかし、ここで西洋史の話が聞けるとは思わなかった。
陣法や戦術というのはどこかで共通点があるものなのかもしれないな。
240Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/05/20(土) 02:08:51
名前入れ忘れ
241無名武将@お腹せっぷく:2006/05/20(土) 02:29:12
魏も輜重が芳しくはないだろうから、益州くらいは取り戻せるんじゃない?
ただ、漢中はどうあっても死守してくるだろうから、ジリ貧だろうけどね
242無名武将@お腹せっぷく:2006/05/20(土) 21:35:11
>>239
内線作戦それ自体は危険でもなんでもないと思うよ。
大兵力を運用する敵に対しては、内線作戦を採らざるを得ないだろうし。
フリードリヒ大王の、ロスバハ、ロイテンと続いた、1757年の戦役での勝利、
ナポレオンのイタリア戦線、対オーストリア戦争で見せた勝利。
内線は輝かしい勝利の可能性を秘めている。

ジョミニや孫子、リデルハートらの唱える、「広く分散した敵に対し、主力を結集して投入する」
と言うのは、内線原理そのものと言える。
速戦即決による勝利は、内線によって得られるものだろう。
そして内戦において重要なものは軍隊の速度であり、ナポレオンやマッカーサーは、
軍隊のエネルギーを表すものとして、mv^2の数式を挙げている。mは兵力、vは速度である。
その機動力、会戦手腕に自信を持っていたであろう姜維が、内線作戦を好んでも不思議ではない。

>>241
四川盆地での姜維の勝利が伝われば、漢、楽城の蒋斌と王含や、
黄金囲に籠もっていた柳隠なんかが、動揺した敵を蹴散らして漢中を再度押さえ、
敵を圧倒殲滅できた可能性も0ではなかっただろう。
司馬昭もまさに長安入りしようとしていた時期だし、可能性は極端に低かっただろうけど。


何度も言うけど、可能性はあった、と言うだけで、賭けるだけの価値のある可能性ではないね。
243Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/05/20(土) 22:38:34
>>242
ナポレオンに関していえば、後期になるにつれ内線作戦の穴が露呈しているのでは、と。
ワーテルローの戦いにおいては外線の防衛が堅く敵軍の各個撃破に失敗し、
敵軍に多大な損害を与えてはいるものの、最終的には敗北した。
無敗のフランス皇帝近衛軍の敗北はそれまでのフランス軍の威信を傷つけたしな。
敵の分断に乗じて各個撃破というのは確かに速戦即決を必要とする戦において戦術的にとても優れているが、
緻密であるが故に一カ所でもつまずけば全体が狂ってしまうという欠点はある。

この事は、第一次世界大戦で小モルトケが取った
内線作戦のシュリーフェン作戦計画の失敗からも分かるんじゃないかな。
244Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/05/20(土) 22:51:23
とはいえ、>>238の地図の魏蜀の進軍ルートと兵力を見る限り
姜維が失地を挽回するには内線作戦による各個撃破しかありえないとは思う。
ケ艾軍を撃破してから鍾会軍の分断を誘発し、
その上で自軍の兵力を結集してから各個を迅速に撃破すれば或いは…という可能性はあるが、
事前に鍾会が諸葛緒の兵力を吸収して膨張していた事は各個撃破の障害になったかな。
245無名武将@お腹せっぷく:2006/05/20(土) 23:09:02
>>243
ワーテルローに関して言えば、内線作戦自体の拙さではなく、
フランス軍自体の質の低下が大きな敗因だろう。
リニーでは、ネイが緩慢な攻撃によってカートルブラの占拠に失敗した為に、
プロイセン軍撃滅の機会を逃し、更にその後、グルーシーは拙い追撃でブリュッヒャーを見失い、
プロイセン軍のワーテルロー来着を許したばかりか、会戦の間完全な遊兵となっていた。
こんな様では、例えフランス軍が外線作戦を行っても勝利はおぼつかなかっただろう。

後、シュリーフェン計画に言えば、西部戦線でフランス軍を撃破し、後に東部戦線でロシア軍を撃破するという、
計画全体で言えば確かに内線作戦であった。
しかし、西部戦線のみに焦点を当てた場合、右翼側ベルギー正面より敵を突破し、
敵を大規模に包囲撃滅すると言う、外線作戦が行われたのであり、且つシュリーフェン計画の失敗は、
この西部戦線の失敗に起因する。

そもそもより緻密な計画を必要とするのは、内線作戦ではなく外線作戦である。
外線作戦は軍全体を多数に分割し、敵に対して大きな包囲を行うというものであるから、
個々の軍団の無数の戦闘計画を足し合わせたものとなり、その無数の戦闘計画の内どれかに、
致命的な失敗が生じれば、それがすぐに計画の失敗に繋がる。
小モルトケは左翼の安全を意識する余り、最も重視せねばならない右翼の戦力を減退させ、
それによってドイツ軍右翼側が敵に撃破された為、陣地戦型の戦争に移行し計画全体が狂ってしまった。

蜀平定戦においても、姜維の撃破を企図した外線作戦はあっさりと破られ、姜維に剣閣に入られ、
それが作戦計画全体を狂わせ、ケ艾の働きが無ければ撤退せねばならなくなるところだった。

ここまで語ってなんだが、この辺りの話はさすがにスレ違いにならないか?
246Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/05/20(土) 23:14:04
>>245
>スレ違い

ごめん。学ぶところが多いので、つい突っ込んでしまって。
247無名武将@お腹せっぷく:2006/05/20(土) 23:56:14
>>246
それほど賑わっているスレでもないので、多少のスレ違いはありだと思うが、
5レスも10レスも使ってナポレオンだモルトケだのと語るのは、やはりまずいかと思ってね。

それと、>>239の最後の段に関して言えば、戦略、戦術と言った、勝利の為の原理に、
洋の東西の違いは無いと思うよ。
ナポレオンが孫子を愛読したのは有名な話だし、孫子の「囲師は周することなかれ」という言葉と同様なものが、
西洋にも「敗者には黄金の橋を与えよ」という形で存在する。
また、孫子もジョミニもクラウゼヴィッツも、その思想の根底に流れるものに違いはない。
248Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/05/21(日) 00:19:33
>>247
と同時に、戦術に関して新旧もあまり変わるものでもないと思った。
第二次大戦以降の現代戦争に関してはその範疇ではないが、
第一次までの近代戦争は全体的な流れとタクティクスに関して、
兵器が進歩しただけで、似通った点も多い。


ところで>>238のブログに書いてあった事だけど、
地図と解説を併せて見ると姜維軍の行軍速度は半端なものではないな。
249無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 01:17:04
>>248
古代ローマは、各所に張り巡らせた軍事用高速道路網を用いて、
通常行軍20数km、強行軍40数kmなので、碌な道路もなく、
山地であったあの地で、1日30km行程と言うのは、確かにかなりの強行軍だと思う。

だが、あの計算自体、詳らかでない上に恣意的なので、自分で書いてて強引過ぎるとも思った。
あの結果より1日当たりの行程が伸びるかもしれないし、縮むかもしれない。
ただまぁ、ケ艾が包囲に失敗し、その後も姜維を捕捉出来なかった事、
諸葛緒が易々と突破された事などを考えれば、速い事は十分分かるんだけどね。


話は変わるが、歴史街道と言う雑誌で三国志が大きく特集されていたので立ち読みしてみたが、
孔明死後はたった1ページのみ、それも蜀滅亡のくだりをさらっと流しただけ。
仕方ない事とは言え、世間での扱いがこの調子では、人気など出るわけが無いな。
「人気が無いから取り上げられない→取り上げられないから人気が上がらない」の悪循環だな。
250Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/05/21(日) 02:46:32
「全ての道はローマに通ず」か。土木建築はローマ人が最も得意とした分野だからな。
アッピア街道(全長540km)に代表される軍道はローマから各地に延び、総延長は85000kmに達したといわれる。
しかしまぁ、レギオンの中心となった重装歩兵は山岳の移動を全く考慮していない部隊・陣形だし、
それだからこそ古代ローマも大掛かりな交通整備をしたのだろう。
山地を通っての戦を前提とされた蜀の姜維軍と行軍速度を比べるのはいささか難しい印象も。

機械でない以上は一日あたりの行軍日程に差が生じるのは当然のことだし、
そもそも行軍速度は天候・地形によっても大幅に左右されてしまうもの。
>ケ艾が包囲に失敗し、その後も姜維を捕捉出来なかった事、
>諸葛緒が易々と突破された事
と、ある程度のポイントを押さられているのであれば、
それから十分に速いという事は分かるし、そう神経質にならなくても良いように思うけどね。

>歴史街道
ttp://www.php.co.jp/magazine/detail.php?code=84218
これのことかな。
読んでいないけど、表紙の印象からして少し三国志に興味がある程度の一般向けだと思うんだよね。
『三国志』の範疇で見ると曹操・劉備・諸葛孔明ぐらいしか一般の認識にはないだろうし、
ある程度は仕方ないもの。
でも、左伝注の中でも完成度が高いといわれる杜注の著者の杜預は三国志後期〜晋の人物だし、
竹林の七賢、清談など三国志後期〜晋代にあって重要な事柄も多い。
見方を変えれば決して前期のオマケとはいえないだろう。

広く一般に受け入れられないとはいえ、それでも悪くはないと俺は思うな。
一般に受けようが受けまいが見るべき点がある事には変わりはないし、
一般の中でも俺らみたいにこのスレとかでその時代について話そうって人間はいるんだし。
251Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/05/21(日) 03:08:27
ちょっと語弊がある事を言ったかな。一般というか、大衆。
252無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 22:16:30
>>250
人気が出ないと言う事は、それを議論したり考察する人も少ない、という事だ。

人気が出れば議論は活発になり、多くの考察が世に出る事になる。
そしてそれは、取りも直さず自身の議論、考察の資となる。

人気が出て欲しい、というのはそういう意味
253Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/05/21(日) 22:44:28
>>252
人気とは、そもそもどの範疇の人気のことを言っているのかで話が違う。

広く大衆の人気が必要というのなら、演義→史書の順に三国志に入る人間が多い以上は難しいことだ。
演義における三国志後期は羅貫中が主軸となる主人公(前期でいう劉備、曹操、諸葛亮)を置かずに書き、
多少の創作は加えたものの紀伝体の史書を一本化して書いたようなものであるので
対象となる大衆に感じさせる魅力が薄い、というのがそもそもの原因。

そうではなく、三国志後期が歴史的に重点が置かれ、専門的な世界でさまざまな議論を呼ぶようになり、
それを考察の考察の糧としたいのであれば、広い人気というのはむしろ二の次となり
三国志後期時代に起こった事象の歴史学的な大きさが問題となるのではないだろうか。
254無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 23:07:42
>>253
この板において、三国志に関する考察をしたり議論をしたりする人の内、
専門家なんてのは一握り、いや、もっと少ないかもしれない。
俺自身、専門家どころか、歴史を本格的に学んだ事もない人間だしな。

この板でも結構有名な、ニセクロ氏やむじん氏、孫ぽこ氏も、専門家ではないだろう。
だが、彼らの考察に触発された人も、この板には相当数いる。

そもそも、専門的な世界でいかに議論が深められようと、
史学と縁の無い身には、それに触れられる機会は少ない。
だから、最終的な影響は大きくとも、すぐにはここでの議論に直結しないだろう。
しかし、ニセクロ氏のような人が増えれば、ここでの議論にダイナミックに影響する。
それに、専門家以外の考察や議論が、後の考察の資とならないと言うのであれば、
そもそもこんな所で議論する必要もなくなってしまう。

専門家であるか否かを問わず、議論する人の増加は、俺のような人間には有り難い事なのだよ。
だからその対象が何であれ、人気の上昇を望んでいる、という事だ。
255Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/05/21(日) 23:40:59
>>254
確かに。真っ当に知識と呼べるようなものもなく趣味で三戦に来ているような俺も
その三人のような方のサイトを見て三国志考察にあたって多いに勉強になっているし、
ここに来ている理由の一つとしてあなたのような詳しい方と実際に話すことで
三国志後期の知識をより掘り下げたいと思っているからというのもある。

考えてみれば自分がこの板で役立てているものは専門的な議論よりも
むしろ一般層の考察を肌で感じてというものだし、
上の書き込みは軽率だったといわざるを得ない。


姜維スレやこのスレの過去ログを見て思うことは、
三戦板における考察スレとして、その質は読んでいて本当に勉強になるということだった。
ただ人気が無いことが板内の考察層の固定化、つまり多様な意見の参入が起こらないという事に繋がるなら
三国志後期人気の上昇は俺も望むところ。
自分が見る限り目立つ後期考察の殆どが姜維の北伐から蜀の滅亡までだから、
そこから考察の範囲を広げてみるのも良いかなと思ったが・・・。
256無名武将@お腹せっぷく:2006/05/22(月) 00:28:40
>>255
まぁ、そういう事だね。
少人数で、同じ人とばかり議論していても、驚くような解釈や発見は、
そう得られるもんじゃないし。

こういうスレは活発に議論されていて欲しい。
257ニセクロ:2006/05/22(月) 18:19:13
皆の考察が進んでいるようで何よりです。

>>255
>自分が見る限り目立つ後期考察の殆どが姜維の北伐から蜀の滅亡までだから、

自惚れかも知れんけど、それ多分、ウチがそこしかやってないからかも。
ピンポイントがコレ↓で。最終更新が2001年12月末。
蜀末期について現在行われてる考察の雛形殆ど全てが入ってると思います。
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/gkbd.147.401.html

あと姜維については↓の将の勝利の方程式(2)「蜀将編」(2004年8/17)
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/gkbd.700.502.html

姜維が諸葛亮よりもより辺境で軍事行動しなければならなかったことについて
それが司馬懿による成國渠の再整備が大きく影響したのではとの指摘をした
「北伐再考(2)その2」(2005年3/14)↓
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/gkbd.700.503.html

なんかの参考までに。

最初は厨房みたいな所からであっても、人の影響モロ受けな所からであっても
少しずつ足腰鍛えてその人だけが語れる論考を作り上げて欲しいものです。
俺も初まりはゲームやコーエーの爆笑三国志からのスタートだったしね。

飽きずに諦めずに倦まず弛まず続けてゆけば、きっと先にゆける。ゆけるよ!
258Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/05/22(月) 22:30:10
>>257
改めて拝見させていただきましたが、
今まで知りもしなかったことが細部まで考察されていて
自分の中で合点がいかなかった部分を繋げるために、とても良い参考になりました。
三国志後期の知識をより深めて一日でも早く自分なりの考察ができるよう、
精進させていただきます。ありがとうございました。

>将の勝利の方程式1、2
特にコレが印象に残った。
実際の戦の勝敗に裏づけされた将の得意な戦い方、というものがあると
彼らの取った戦法、勝敗をより客観的な眼で、またある程度分かり易く見ることが出来て便利だな。
259無名武将@お腹せっぷく:2006/05/23(火) 01:09:01
趣向は人それぞれだから、意識して独特の考察をしようとしなくても、
考察していくうちに自分の色みたいなものは出てくると思うけどね。
260無名武将@お腹せっぷく:2006/05/24(水) 22:37:35
考察が姜維の北伐から蜀の滅亡まで範囲で留まっているのは、
戦争に関して言えば、考察が可能な戦争が少なくなっているという理由もある。
正直な話、蜀滅亡後の戦役で、考察が可能なものは西陵と呉平定くらいなもんだと思う。
261無名武将@お腹せっぷく:2006/05/24(水) 23:14:58
>>2のテンプレに241年の芍陂の戦いが無い気がするんだが
262無名武将@お腹せっぷく:2006/05/24(水) 23:27:19
>>261
確かあれは、今までステージ案の挙げられた戦いをまとめて年表にしたものだったはず。
芍陂の戦いはステージ案が投下されてないから載ってないんだと思う。
268年に行われた、朱績らの江夏侵攻の戦いや、253年の姜維による南安の包囲もない。
263無名武将@お腹せっぷく:2006/05/25(木) 22:30:37
年表を改訂しました。

後期年表1(正史版)

238年 襄平の戦い 魏軍対燕軍
241年 芍陂の戦い 魏軍対呉軍
244年 興勢の役  魏軍対蜀軍
246年 高句驪討伐 魏軍対高句驪
248年 羌族の乱  魏軍対羌軍
249年 洛陽城の乱 司馬懿軍対曹爽軍
249年 麹山の戦い 魏軍対蜀軍
250年 南郡侵攻戦  魏軍対呉軍
251年 王淩の乱  魏軍対王淩軍
司馬懿死亡
252年 東興の戦い 魏軍対呉軍
253年 合肥新城の戦い 魏軍対呉軍
253年 南安包囲戦 魏軍対蜀軍
254年 襄武包囲戦 魏軍対蜀軍
曹芳廃される
264無名武将@お腹せっぷく:2006/05/25(木) 22:31:38
後期年表2(正史版)
255年 毋丘倹の乱 魏軍対毋丘倹軍
255年 狄道城包囲戦 魏軍対蜀軍
256年 祁山の戦い 魏軍対蜀軍
256年 徐州侵攻戦 魏軍対呉軍
257年 諸葛誕の乱 魏軍対連合軍
257年 沈嶺攻防戦 魏軍対蜀軍
258年 孫綝誅殺戦 孫休軍対孫綝軍
260年 高貴郷公の変 曹髦軍対司馬昭軍
曹髦殺害される
262年 洮陽(侯和)の戦い 魏軍対蜀軍
263年 漢中の戦い(傅僉が死に姜維が降伏するまで) 魏軍対蜀軍
263年 成都攻略戦(ケ艾が別行動で蜀を攻略するまで) 魏軍対蜀軍
蜀滅亡
264年 二士の乱 司馬昭軍対鐘会軍対ケ艾軍
268年 呉軍大侵攻 呉軍対晋軍
272年 西陵の戦い 呉軍対晋軍
280年 呉平定戦 呉軍対晋軍
三国平定
265無名武将@お腹せっぷく:2006/05/26(金) 21:22:29
気が早い話かもしれないが、やはり次スレあたりから「無双」の字は取っ払って良いと思う。
無双の名を冠して今までやってきたが、後期を知らない無双ファンが質問や話に来るわけでもなく、
結局無双とは特に関係ない話をし続けている。

もはや無双に拘る必要は無いのではなかろうか?
266無名武将@お腹せっぷく:2006/05/27(土) 02:40:09
>>265
それを言ってしまっては以前ビジオタがそれを提言して思いっきり叩かれ、
このスレが荒れた前例が再び繰り返されかねないと思うんだが・・・
267無名武将@お腹せっぷく:2006/05/27(土) 09:55:10
>>266
確かにビジオタは叩かれていたが、強硬な反対意見があっただけで荒れるまでは行かなかったような。

スレタイを変えることで、

・スレタイと内容との間の乖離を修正する事が出来る
・無双スレだと思って敬遠してた人が新規住人となってくれる可能性がある

こういう効果があるが、

・後期無双の話がしづらくなる
・ライトな層が入りづらくなる

というデメリットもあると思う。
ただ、未だ反対意見の挙がるのが現状であり、且つ、
新規住人の増加などにあまり効果が見込めないならば、現状維持でも良いかな、と思う。
268Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/05/27(土) 16:17:50
少々個人的な見解を述べさせてもらいたい。

スレタイというのは所謂玄関口のようなもので、一旦入ってしまえば
雰囲気の違いや話題の違いでスレの趣旨はすぐに理解できるだろう。
また、このスレが後期全般考察を始めてから長らく経ち、住人の目に触れる機会も少なかったとはいえない。

スレの歴史が長くなれば、その分住人の目に触れる機会はそれだけ長くなるにも関わらず、
現状は開始当初の盛り上がりと比べて過疎化してしまっている。
その理由は、無双スレだと勘違いされて敬遠されているというよりは、
三戦住人の中に後期全般の考察に対する興味がある人間が少ないからではないかと思う。

姜維スレのように考察の範囲を限定してしまえばその人物に興味を持つ人間は集まってくるだろうが、
「後期全般」と広く銘を打ったスレでは考察の範囲が非常に広いぶん、
どこから切り出せばいいか分からないといった事態も起こる。
自由度も高いが、それ故にスレの本来の目的「後期全般考察」を行うのが難しくもなってしまう。
(現在を例に挙げると、姜維関係以外の話題があまり出ないとか)

しかし、後期無双と銘を打てば、ある戦役の大体の流れを知っていれば気軽にネタを投下できる。
また、そのネタの鑑賞後にはそこから派生した歴史考察も行うことが出来るし、
ネタの投下が流れを作る助力にもなると思う。
ステージ投下→ステージについて考察→派生して歴史考察・・・というのがこのスレらしい形ではないかと。

確かに現在のスレの雰囲気からして無双ネタを投下するには場違いな印象もある。
真面目な考察を主体にするのもいい。しかし、より多くの人に後期について親しみを感じてもらうには、
ある程度ライトな切り口(このスレでは創作した後期無双ネタ)を提供するのも良い案ではないか?
投下されたネタと実際の後期の話題を上手く連動させ、活発な三国志後期考察の場を作るために
スレタイは今のままにしておくのがいいと思う。
269無名武将@お腹せっぷく:2006/05/27(土) 21:28:13
スレタイは現状維持の方が無難ではあるのかね、やはり。
ならば、無理に変化を与える必要はないのだろう。

話題というわけではないが、陸抗の話になると、稀に彼を祭り上げようとする意見が見られる。
あれがよく分からない。
西陵の戦役を考察すると、確かに彼が優れた戦略家である事は分かるんだが、
神だ神だと囃したて、神聖視するようなものでもないように感じる。
270無名武将@お腹せっぷく:2006/05/27(土) 21:44:32
具体的に言うとどの部分が神聖視されてるんだ?
全体の読みは確かにすごいと思うが
271無名武将@お腹せっぷく:2006/05/27(土) 21:53:04
>>269
その人物に対する思い入れの違いじゃないか?
姜維に思い入れのない人間から見ると、このスレの考察も
随分姜維を持て囃しているな・・・と感じることがしばしばある。
272無名武将@お腹せっぷく:2006/05/27(土) 22:00:24
>>270
いや、何処とか言うわけじゃないんだよ。

確か能力値スレとかだったと思うが、「西陵の攻防は中国史上最高の模範とすべき」だとか、
「西陵での陸抗は神」だとか、「西陵での勝利は奇跡」だとかって意見が散見されてた。
俺も曖昧な記憶で語ってるんで、何処か間違って記憶してる部分もあるかもしれないけど。
273無名武将@お腹せっぷく:2006/05/27(土) 22:01:49
>>272
別にわざわざここに持ち出すレベルのもんでも無くね?
陸抗が好きだから言ってるだけって印象
274無名武将@お腹せっぷく:2006/05/27(土) 22:03:02
西陵の戦いでの陸抗の手腕についてだとすれば、夷陵と同年の江陵の戦いが
同時に連携されたものだったら、と仮定して考えてみると分かりやすい。
275無名武将@お腹せっぷく:2006/05/27(土) 22:06:46
>>271
それは俺自身分かってる。
俺が姜維を評価する為に、強引且つ恣意的な解釈をしているというのは自覚してる。
できるだけ公正にやろうとは思うんだが、どうしても贔屓が出てしまう。
そういうのを抑える為にも、色んな人に考察して欲しいと思う。

ただ、そうすると、確かに、俺の陸抗に対する意見への疑問というのも、
思い入れで片付ける事が出来る程度のものなのかもしれない。
276無名武将@お腹せっぷく:2006/05/27(土) 22:08:50
>>273
陸抗はファンが多そうだから、多少挑発的な意見を書けば、何か面白い話をしてくれる人がいるかなと思って。
強引過ぎたな、すまん。
277無名武将@お腹せっぷく:2006/05/27(土) 22:16:37
>>272
では仮に、西陵の戦いで呉が大敗ないし放棄なり撤退なりしていたら、
という状況を予測して考えてみては?
278無名武将@お腹せっぷく:2006/05/27(土) 22:30:24
>>277
どのように負けたかによっても変わるとは思うが、西陵のみを敵手に渡した場合でも、
江陵や楽郷などの荊州における長江流域の拠点の維持は非常に困難になるし、
それらも奪われてしまえば、あとは滅亡を待つのみだと思う。
279Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/05/28(日) 01:03:26
陸抗好きとして少々贔屓目な解釈になってしまうが。

陸抗は戦歴は少ないとはいえ、圧倒的不利な状況を打開して国を守った点で名将と呼ぶに足ると思う。
陸遜や自らが補修し守備した要害である西陵城を奪回しなければならなかった上、
西陵・江陵・建平と三箇所で対敵する事を余儀なくされていたにも関わらず
西陵での持久戦法の方針を変更することなく、絶妙な部隊配置で目的を果たした。
西陵が晋に呼応している以上、西陵の包囲を解くわけにもいかず(かといって早急に落とす事は不可能)
自らが晋軍を各個撃破するために移動する事はできない。
この状況で各方面からの攻撃をよく分析して最適な配置を行わない限り、呉が勝利を収める事は不可能だった。
280無名武将@お腹せっぷく:2006/05/29(月) 23:33:13
>>265-268
ageなければ人は来ない
281無名武将@お腹せっぷく:2006/06/01(木) 21:35:43
今までだって何度もageられたが、その度にレスも付かずに沈んでったような。
ageかsageかで変わるものでもないのかも知れない。
それはともかくとして、ステージ案


272年 西陵の戦い

ステージ構成:マップ南部を東西に長江が横断。マップ中央に西陵、東部に江陵、
        西部は三峡となり山地を長江が流れる。江陵周辺は水で覆われている。
        マップ中央北端に晋軍本陣、長江南岸に楽郷と公安がある。

備考:陸抗軍団中に蛮族部隊有

呉軍
○勝利条件-歩闡の撃破、○敗北条件-陸抗の敗走
晋軍
○勝利条件-陸抗の撃破、○敗北条件-歩闡の敗走

呉軍:★陸抗-吾彦、蔡貢、左奕、●張咸、●孫遵、●朱琬、●雷譚、●朱喬-兪賛、●留慮
晋軍:★歩闡
晋援軍:●羊祜-楊肇、●徐胤
282無名武将@お腹せっぷく:2006/06/01(木) 21:36:36
・※イベント1:ステージ開始時に発生。歩闡謀反の報告。
・※イベント2:陸抗が西陵に到着すると発生。陣地の構築を指示。西陵東門前に呉軍本陣出現。
・※イベント3:イベント2発生後一定時間経過で発生。諸将の反発と雷譚への攻撃許可。
・※イベント4:イベント3後、雷譚が西陵門前に到着すると発生。歩闡の激しい抵抗。
       雷譚軍団士気大幅低下、呉軍士気低下、晋軍士気上昇。
・※イベント5:イベント4発生後、時間経過で発生。包囲陣地完成。西陵周囲に二重の柵と堀が出現。
       封鎖線の所々に呉軍防御陣地出現。
・※イベント6:イベント5発生直後に発生。羊祜軍団が戦場に到着。楊肇は西陵に向かう。
       晋軍士気大幅上昇、呉軍士気低下。
・※イベント7:イベント6発生直後に発生。羊祜が江陵の堰を切ろうとしているという報告が届き、
       陸抗がそれを聞き、堰を切るように指示を出す。江陵周辺の水が引く
・※イベント8:イベント7発生直後に発生。江陵の堰が切られたため、羊祜が進軍を停止。
       陸路で補給を行う為の準備を始める。羊祜軍団士気低下。
・イベント9:羊祜到着後、一定時間経過で発生。徐胤が到着、船団が出現。
      晋軍士気大幅上昇。呉軍士気低下
283無名武将@お腹せっぷく:2006/06/01(木) 21:37:59
・イベント10:イベント9発生直後に発生。陸抗の指示で、留慮と朱琬を伴い、呉の船団が徐胤に向けて移動。
・イベント11:羊祜の江陵到着後、一定時間経過で発生。公安にいた孫遵が、江陵の南、長江南岸に移動。
・※イベント12:楊肇の西陵到着後、一定時間経過で発生。朱喬と兪賛が晋軍に寝返り。
       陸抗が蛮族部隊の守備位置を変更する。晋軍士気上昇、呉軍士気低下。
・※イベント13:イベント12発生直後に発生。楊肇が攻撃をかけるも、撃退される。
・イベント14:イベント13発生後、時間経過で発生。晋軍撤退開始。呉軍士気大幅上昇。歩闡軍団士気大幅低下。
・※イベント15:留慮が撃破されると発生。徐胤が西陵に到着。呉軍士気大幅低下、晋軍士気大幅上昇。
・※イベント16:イベント15発生直後に発生。羊祜が渡河を行う。長江に浮橋出現。
・※イベント17:孫遵が撃破されると発生。羊祜が楽郷へと進軍開始。陸抗が楽郷へ撤退開始。
        晋軍士気大幅上昇、呉軍士気大幅低下。
284無名武将@お腹せっぷく:2006/06/01(木) 22:01:15
人が来ない原因はステージ案だろうな
考察する気が失せる
285無名武将@お腹せっぷく:2006/06/01(木) 22:07:42

ちなみに、楽郷へ撤退後、どうやって陸抗は西陵を落としたんだ?
286無名武将@お腹せっぷく:2006/06/01(木) 22:12:08
>>284
そうかい、そいつは悪かった。

だが分からんのは、ステージ案の投下が考察を阻害するというのなら、
なぜ無双の文字を取り払う事に反発があるのかという事と、
ステージ案の投下など殆ど行われないにも拘らず、考察しようとする人が非常に少ない事だな。
活発に考察や議論がなされている状況ならば、ステージ案を投下しようと思う人も少ないだろう。
俺も含めてね。
287無名武将@お腹せっぷく:2006/06/01(木) 22:15:08
>>285
いや、一応分岐のつもり。史実の西陵とは関係ないイベント。
晋軍撤退の前に、各所に配備された軍が撃破され、策源に迫られれば、撤退せざるを得ないかなと。
288無名武将@お腹せっぷく:2006/06/01(木) 22:19:23
自慰妄想と考察が入り混じれば、多少の荒れは仕方ない
289無名武将@お腹せっぷく:2006/06/01(木) 22:23:25
>>288
スレが立って1年、荒れた事はそうそう無いんだがね。
290無名武将@お腹せっぷく:2006/06/01(木) 22:24:30
>>287
ああ、そういう事か。なる。
291無名武将@お腹せっぷく:2006/06/02(金) 23:59:04
今ちょっと王渾に関して記述を洗い直しているが、実際彼の功績はかなり大きいものかもしれない。

呉平定における作戦計画では、王渾は寿春から横江へと向かうよう計画されていた。
だが、侵攻の開始された当初、彼は誰よりも早く呉領へと侵入し、
予定された作戦方向より大きく西へ逸れた、尋陽一帯の攻略を行っている。
これは恐らく、彼の独断だろう。だが、この効果は大きい。

尋陽は荊州と揚州の境にあって、西塞山等の要害もある、少なくとも陸軍の通過には困難な場所。
もし敗走する呉軍が、尋陽・柴桑あたりを根拠としつつ、州境の要害によって抵抗していたら、
荊州方面軍の揚州への通行は非常に困難になっただろう。

先んじて尋陽を押さえ、しかも後には呉軍に残された最後の野戦軍を撃ち破る。
僅か5日で丹陽から楽郷まで拠点を陥落させた王濬の活躍も華々しいが、実は王渾もかなり凄い。
やはり王渾は、父親同様の名将であったと。
292無名武将@お腹せっぷく:2006/06/04(日) 12:58:34
良スレ(゚∀゚)



ゲームしか見たことなくて
後期の出来事とか興味あるんで
是非頑張って欲しいです。
293無名武将@お腹せっぷく:2006/06/07(水) 00:15:14
諸葛亮から費禕の時代までは、前後左右中の都督や護軍、軍師などが見えるが、
姜維の時代に入ると、廖化や張翼、胡済などの高位にあった将軍でも、
前後左右中の都督や護軍などに就いた形跡は無い、と言うか、
姜維の時代はそういった職にあった人物が見られない。

姜維が遠征軍の編制を大幅に変革し、前後左右中の五軍から一個の軍団にし、
独立した戦闘が可能な複数の軍団による戦闘ではなく、
単一の集団による戦闘を、いわばレギオン的な戦闘からファランクス的な戦闘へ変えたのでは?
というのは、やはり俺の考えすぎだろうか?
294無名武将@お腹せっぷく:2006/06/08(木) 15:17:31
なんとなく逆のような気がする。
諸葛亮は蜀全土の兵士を漢中に集めて超巨大軍集団を作り、
それを適度な規模に分割して各部督に統率させたんだろう。
そうすると各部に複数の将軍が配置された形になる。
姜維はそれを解体して普通の編制に戻し、各部を分散配置し(○○の督とか)、
部将一人を作戦の一単位として運用したんだと思う。
295無名武将@お腹せっぷく:2006/06/08(木) 19:35:59
>>294
姜維は247年から250年までは、廖化や句安を分遣して支作戦を行わせるなど、
軍団の分割を積極的に行っていたが、253年以降、軍を全く分割せず、
全軍を自分で指揮してる状態で作戦を行っていた。

武興督や西安囲督、漢城護軍や楽城監軍、督漢中や督建威など、
各地の防衛に配された軍はあったが、これは遠征軍とは別物だろう。

中国古代兵制という本によると、蜀では前後左右中の軍を置き、
その内の前後左右が魏での外軍に相当する、という内容であった。
これを元にすると、中軍が首都にあって、右軍が江州などの様に、もっと大きな視点での分割になる。
本には、荊州で前線にあった関羽が前軍を率い前将軍に、
巴にあった張飛が右軍を率い右将軍になっていた事などが挙げられている。

李厳の弾劾状に名を連ねるのは、恐らくは遠征に従軍した人物たちだろう。
この弾劾状には、前後左の督が見えるので、遠征軍が前後左右と孔明自ら指揮する中軍から成っていた、
と考える事が出来ると思う。
つまり、〜方面軍のような形の他に、遠征用の戦力も師団制に似た形で幾つかに分割されていたのではないか?
そして姜維はそれを一個の集団にまとめてしまったのではないか?という事。

ただ、そういった方式は、全軍の集結なくして効果的な戦闘が出来ないので、
自由に機動できる複数の集団による戦闘よりも鈍重となってしまい、機動力重視、と言う姜維像とは合わないかもしれない。
296無名武将@お腹せっぷく:2006/06/18(日) 02:48:27
良スレ
297無名武将@お腹せっぷく:2006/06/20(火) 00:26:54
すげえ
ますます面白くなってきた
後期に興味津々なんで期待
298無名武将@お腹せっぷく:2006/06/20(火) 00:37:32
李厳を弾ずるの表での連名23名は
直接北伐に関与した武文官のほぼ全員みたいだね。
299無名武将@お腹せっぷく:2006/06/20(火) 02:35:59
改めてスレ全部読んだけど凄いよみんな。
足元に鱗が積もってるよもう!
もともと後期に興味あったけど、
ますます好きになりそう。結構深いんだね。
ゲームでも漫画でも何でも作れそうだと
思うんだけどなぁ…このテーマ。

私は読んで驚くことしか出来ないけど
たまに読んでる奴がここにいるぞ、ってことで
考察励んでくださいまし。
(゚∀゚)っ【落ちまくった鱗】
300信玄:2006/06/21(水) 21:57:41
李舜臣「300!」
朝鮮義民「嗚呼、李舜臣提督! おお、世界三大提督の一人、朝鮮の至宝よ!」
301無名武将@お腹せっぷく:2006/06/21(水) 22:36:07
戦略面についてはそれなりに考察可能ではあるが、戦術面は、
不可能なんじゃないかと思うくらい困難なんだよな。

戦術を考察するには、会戦の経過を詳細に追った記述のある戦例が不可欠だが、
そんなものは殆ど存在しない。戦闘教義なんて明らかにしようものなら、
そういった戦例が多数必要になってくるのに。

例えば姜維に関して、戦術面での彼の用兵の特徴を考察しようとするならば、
適当な戦例を考察して導き出すしかないんだけど、その戦例が無い。
唯一使えなくも無いと言えるのは対王経なのだが、それにしたって姜維伝と陳泰伝からは、
・洮水西岸での会戦
・王経は数万の兵を失った
・洮水に落ちて死ぬ兵が多数いた
という程度。
そうすると、この会戦とその前後に関する、様々な人物の伝から拾い集めた些末な記述や、
>>295でやったような、軍制や行軍序列、戦闘序列に関する考察、
地形的な要因の考慮などによって考えていくしかないが、結局仮定の山積みとなり、
とても考察とは呼べない代物になってしまう。

パズルを解いていくような面白さはあるが、「こんな事に果たして意味があるのか」
と思ってしまう事もあるね。
302無名武将@お腹せっぷく:2006/06/22(木) 02:38:26
>>301
少なくとも
読んで何かを感じる人がいる限り
意味はともかく意義はあると思う
303無名武将@お腹せっぷく:2006/06/22(木) 21:21:23
>>302
そうかもしれんね。
まぁ、考察を楽しいと感じている限りは、意味のあるなしにかかわらず続けてくつもりだけどね。


あと、どうやら面白いと感じてくれている人もいるようなので、差し出がましい事かもしれないが、
自分が247年以降の三国の戦争について解説したものを紹介しておく。
今後の考察や、話のネタ作りに役立ててくれれば嬉しい。

姜維の指揮した戦争について
http://blogs.yahoo.co.jp/antoine_henri_jomini/folder/602485.html
それ以外の戦争について
http://blogs.yahoo.co.jp/antoine_henri_jomini/folder/801126.html
304無名武将@お腹せっぷく:2006/06/23(金) 10:23:41
おお、ありがたや
後でPCからじっくり読むぞー

最初はどう見ても「歴ゲ板にカエレ!」な感じだった私が
「本当はどうだったんだろう」
「もしここがこうなっていたら」
とか考えるようになったのは
このスレ、ひいてはこの板のみんなの
お陰だと思ってるよ

もっと詳しくなって考察にも参加するのが目標です。
305無名武将@お腹せっぷく:2006/06/27(火) 01:12:24
呉平定の戦略は、前任者羊祜の戦略を、後任の杜預が引き継いだ形になっている。

少し前に話題に出たが、これに似た例として、第一次大戦のシュリーフェンとモルトケがあるんだけど、
その時のドイツ軍の戦略は、呉平定と同様に右翼を主攻として、敵の左翼を破壊し、
そこから包囲に持ち込んでいくというものだった。

モルトケは左翼の安全を意識する余り、当初の作戦計画と比べて、戦力の配分を大きく変えてしまい、
結果としてはそれが敗北の一因となってしまった。

杜預としても、呉の中軍と当たる左翼、すなわち揚州方面軍の安全は意識していたと思う。
そこで、戦力配分を変えずに左翼の安全を確保する方法として、もしかしたら斜行陣を取り入れたんじゃないか?
と思って記述を見てみたが、見落としがあるのか確実視するだけのものは発見できなかった。

左翼である王渾や司馬伷を、右翼や中央と比べ相対的に遅く行軍させる事で、
左翼の安全を図った、とは言えないのかもしれん。
そもそも、真っ先に呉領に侵攻したのが王渾だし。
ただ、どうやら司馬伷は結構後方を行軍していたようなので、
ある程度は斜行陣の形を為していたのかもしれない。
306無名武将@お腹せっぷく:2006/06/27(火) 01:24:47
間違っている所もあるかもしれんが、晋書武帝紀から取った呉平定の経過

280年
1月1日 己丑
1月25日 癸丑 王渾が尋陽・頼郷の諸城を攻略
2月1日 戊午 王濬・唐彬が丹陽城を攻略
2月3日 庚申 王濬らが西陵城を攻略。留憲らを殺す
2月5日 壬戌 王濬らが夷道・楽郷を攻略。陸晏、陸景を殺す
2月17日 甲戌 杜預が江陵を攻略。伍延を斬る
2月18日 乙亥 今後の作戦方針に関する詔が出される
2月下旬?  王渾が張悌を破る
3月上旬?  陶濬が帰還し、王濬の迎撃を行おうとするも、兵が離散する。
3月15日 壬寅 王濬石頭城に至り、孫皓降伏
307無名武将@お腹せっぷく:2006/07/02(日) 00:08:54
また俺の日記帳のようになってしまいそうで不安だな。
何か打開策を考えるべきなのか、それとも無理な延命を考えず流れに任せるべきなのか。
ともかく、また姜維のことですまんが、一つ意見があったのでここで。

姜維に関して、「諸葛亮の培ってきた戦闘システムを捨て去った」とか、
「彼のシステムは諸葛亮のものより魏のものに似てる」とかの意見がたまに見受けられる。
だが、この意見には賛成しがたい。

そもそも、それまでに構築してきた軍隊運用システムの一切乃至殆どを捨て、
新たにシステムを構築し直すという事は、一朝一夕に出来る事ではないし、
一国家において、たった一人の人間の手によって為し得る事ではない。
13世紀、モンゴル帝国や英国で最高潮に達した歩兵と騎兵による戦闘システムも、
火薬と小銃の出現によって即座に大きな変革が起こったわけではなく、
新兵器出現による既存システムの陳腐化と、新兵器運用システムの高度化によって、
じわじわと変革が進められ、そのシステムは、15世紀の銃の出現より300年以上後の
ナポレオンの時代に頂点に達した。

諸葛亮の築き上げた、火力と重装歩兵の戦闘システムも、大規模な変革ではなく、
既存のシステムを改良したものであると考えた方がいい。
そしてまた姜維のシステムも、諸葛亮のシステムを彼なりに改良したものであり、
それを捨て去ったわけでもなく、魏のシステムともまた違う、蜀という国家で発展してきた
戦闘システムの最後の形態である、と考えた方が良いだろう。
308無名武将@お腹せっぷく:2006/07/02(日) 10:30:06
涼州方面を狙うには、装備を軽くする方がやりやすかったというだけなんじゃねーの
309無名武将@お腹せっぷく:2006/07/02(日) 13:04:18
>>307
や、まったり進行でいいんじゃないかな
変に荒れたりするよりは、こうしていい考察が載る方が。
書きたい人が書き、見たい人が見る。いい傾向かと。


ちなみに>>307かつ>>308だったのかな、とふと思
310無名武将@お腹せっぷく:2006/07/02(日) 22:44:27
>>309
そうかな。
話題や考察が、何かしらポンと出て終わりではなく、
それについて議論が交わされるようでなければ健全ではない、
と思ってやってるんだが、肩肘張りすぎかな。

>>308
結局、実際のところは分からないんだよな。
姜維が軍権を握って以降は、基本的に単一作戦線が採られてたから、
姜維時代には作戦の柔軟性を低下させるような変化があったのでは、と思ったが、
諸葛亮時代も単一作戦線が採られる事は結構あったしな。
数次の戦役だけでは、十分な根拠を得ることは出来ないかもしれん。

戦術面に関しては、諸葛亮にしろ姜維にしろ、よくは分からないし。
311無名武将@お腹せっぷく:2006/07/03(月) 03:21:42
興味深く読ませてもらってはいるんだけど、
議論に参加できるほどの知識はとんとないという俺みたいなROM専が結構いると思われ
312無名武将@お腹せっぷく:2006/07/03(月) 07:37:30
・史料を丁寧に読み込む
・三国時代に限らず古今東西多くの戦例を学ぶ
・軍事に偏らず、当時の制度や情勢の変遷にも目を向ける

少なくともこのあたりを踏まえて考察すると見えなかったものが見えてきたりする
313無名武将@お腹せっぷく:2006/07/03(月) 12:20:32
>311
ノシ
前スレができたときからずっとROMってる・・・
勉強させてもらってます、みんなトンです
314無名武将@お腹せっぷく:2006/07/03(月) 13:11:29
>>307
それはどうかなー
一切を捨て去ると言うのはまた違うかも知れないが大半を捨て去っているのは的外れじゃないと思うぞ
姜維は当初、一万までの兵数しか与えられなかった為に現地調達メインにして、
本来輸送兵に充てられる筈の人員をほぼ全部とは言わないまでも大半戦闘要員にしている
この時点で、諸葛亮の築き上げた重装歩兵を中心とした会戦で打ち勝つシステムは成り立たない
そして長年、身軽な戦闘を続けてきた姜維が軍権を掌握してから、それを打ち捨てて火力重視の戦い方が出来るかと考えると
おそらく無理なんじゃないかと言う結論に達するんではなかろうか
結局漢中陥落以後の動きも驚異的な機動力で何とか剣閣に立て篭もると言う事で
機動力重視、火力軽視の魏にも似た速さで勝つ戦闘を晩年までも捨てていない事を証明しているわけだし
蜀と言う国家の戦闘システムは諸葛亮で一応の完結をして、姜維はまた別の物を途中から組み直したと考えた方がいいのではなかろうかね
315無名武将@お腹せっぷく:2006/07/03(月) 13:14:53
書いてる途中で頭の中が捩れて前半と後半で言ってることが反対だけど気にしないでくれ
>>314で言いたい事は多分、こうだ
「姜維は前半生で必要から捨て去った蜀の戦闘システムのまま最期までつっ走った」
316無名武将@お腹せっぷく:2006/07/03(月) 16:13:40
>>314
姜維が現地調達を目論んだという記述があるのは、斉王紀注の漢晋春秋のみだったはず。
しかもそれは、253年の準備不足の遠征の事だし、その時の姜維は重兵を率いていたともある。
257年の戦役ではきっちり兵站を維持してるし、彼は別に兵站を軽視していたわけではないと思う。
羌族の支援を大いに利用はしただろうけどね。

また、兵站に従事する兵を戦闘に当てたという記述も無いし、要塞守備兵すら野戦軍への転用が困難なのに、
更に困難な輸送兵を戦闘に回すというのは、戦闘教義を揺るがせにし、逆に戦闘効率を落とす結果となる。
姜維がそういった行為に及ぶとは思えないな。

それと、別に諸葛亮のものをそのまま継承したと言ってるつもりは俺も無い。
諸葛亮のものに手を加えて、彼独自の戦闘教義を作り上げたと考えているだけ。
元戎などの、諸葛亮時代に行われた技術向上は姜維の時代にも失われはしないし、
そういったものを利用しないはずはない。

諸葛亮時代より長大な作戦線を採りつつも、魏の対応に先んじて兵を進出させている事から、
姜維が諸葛亮時代より機動力を向上させた事は分かる。
だから姜維が、機動力を失わせるような重装備の歩兵の比率を、諸葛亮時代と同様にしてたとは思わない。
だが火力に関しては違う。魏に対する大きなアドバンテージとなる火力優勢を、簡単に捨て去るはずが無い。
火力部隊の戦闘力はランチェスター二次法則に従うので、火力減少の負担は大きくのしかかる。

軽装甲歩兵の比率を増やしつつ、火力優勢を恃みとした、
重装歩兵又は重騎兵による突破を中核に置いた戦闘教義であり、
諸葛亮のものを姜維流に発展させたものであった、というのが俺の意見だな。
317無名武将@お腹せっぷく:2006/07/03(月) 19:01:09
そうかそうか
結局まあ俺の勘違いだったようですまなかったな
318無名武将@お腹せっぷく:2006/07/07(金) 06:17:43
>>311
ノシ
しかも実は原典読んでなくてスレから入っちゃったから
知識が疎らでorz
319無名武将@お腹せっぷく:2006/07/12(水) 01:15:43
ほっしゅ(゚∀゚)ケガヌケタ
320無名武将@お腹せっぷく:2006/07/19(水) 23:06:00
考察する上で一番重要なのはモチベーションの維持だと思う。
興味がある、という事以外に、何らかの大きな動機付けがなければ、
途中で考察を続ける気力がなくなってしまうだろう。

世間一般や、三戦を初めとしたネット上での評価と、
自分の認識との間に大きな差異があったりすると、
それを埋めようとして考察する気力が湧いたりすると思う。
少なくとも自分はそうだしね。
321Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/07/19(水) 23:48:17
一つ一つの戦闘の考察をするに於いて、
どういった本が有用だったのかを教えて欲しいのだけれど・・・。
正史だけではここのレベルについていくのは難しいと感じた。
322無名武将@お腹せっぷく:2006/07/20(木) 00:17:20
>>321
戦役の経過自体を考える上では、基本的には三国志正史と華陽国志、それに晋書くらいかな、俺は。
そこから軍事的な考察を引き出すのに、種々の軍事理論書を読んで軍事に関する知識を付けてるけどね。

東洋のものでは孫子と呉子はかなり有用で、戦略の根幹を学ぶのに非常に役立つ。
細かい部分まで突っ込んで考えようとすると、クラウゼヴィッツの戦争論、
ジョミニの戦争概論、リデルハートの戦略論という、西洋の三大軍事理論書は殆ど必須みたいなものだな。
後は洋の東西を問わず、多くの戦例を知る事で戦役が、会戦がどのように行われるかを知ったりとかね。

日本人の著作では、石原莞爾の戦争史大観は読み応えがあって良いと思う。
確か、戦争史大観はweb上で全文読めたはず。

とことん突き詰めようとするならば、軍事だけじゃなく、当時の政治や社会風俗に関する
知識もかなり増やしていかなきゃならないだろうけど、自分はまだそこまではいってない。
軍事に関する知識すら不十分だしね。
323Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/07/20(木) 00:29:08
>>322
軍事理論書なら、孫呉やマキアヴェッリの『戦略論』ならば読んだことがあるが、
純粋に読み物として読んだのであって、そこからどう解釈し得るかを深く考えたことが無かった。
戦役を考察するときには、手持ちの本から将の行動の意図を引き出すだけで随分程度が上がってくるんだな。

現時点の自分の知識で分かる事は、優れた軍事理論は上記の通り確かに東西共通だという事だった。
マキアヴェッリも孫子も突き詰めれば同じ事を書いている。
324無名武将@お腹せっぷく:2006/07/20(木) 00:51:45
>>323
ある程度の軍事的知識を身に付けたら、その先は戦例が大きなウェイトを占めると思う。

それがあっているかはともかく、呉平定戦の晋軍が斜行陣を戦略レベルに拡張したものを用いたのでは?
という疑問も、テーベのエパミノンダスやプロイセンのフリードリヒ大王が用いた、
斜行陣に関する知識がなければ生まれてこない。
そして斜行陣の効果を知る為の最も手っ取り早い方法は、エパミノンダスやフリードリヒの代表的戦例を知る事。
エパミノンダスであればレウクトラの会戦、フリードリヒであればロイテンの会戦かな。

戦争を批判する上で必要な、理論と現実を結び付けるという技術は、戦例を知る事で得られるからね。
325無名武将@お腹せっぷく:2006/07/20(木) 01:12:43
うお、久々に進んでる
いつもお疲れ様です
326無名武将@お腹せっぷく:2006/07/20(木) 01:34:32
>それがあっているかはともかく、

態度悪ぃー
327無名武将@お腹せっぷく:2006/07/20(木) 01:49:44
>>326
態度悪かったか?

晋軍が斜行陣云々と言うのは、一応自分の意見だけど、確信が得られないものなので
文頭にそういう文章を挿入したが、>>324を第三者のレスとして見ると、
確かに他人の意見を無下に否定する感じで態度悪いかもしれないな。
以後は気を付けるよ。
328無名武将@お腹せっぷく:2006/07/23(日) 18:50:43
良スレage
329Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/07/26(水) 00:43:11
フリードリッヒ2世はロイテン会戦で2倍の敵を打ち破っているけれど、
同じ戦術を用いたコリン会戦では敗戦した。
つまりは彼の斜行戦術の最重要目的は速戦であり、
そのための敵前での回転が是と出るか非と出るかで戦争の結果は大きく変わってくるということだろう。

晋軍が斜行陣の知識を戦略的に拡張させた進軍ルートに回頭は含まれていただろうか?
そこで晋軍の戦略の意図の解釈を分けられると思うのだが。
エパミノンダスの斜行陣とフリードリッヒの斜行陣の意図は違うからね。
330無名武将@お腹せっぷく:2006/07/26(水) 20:57:59
フリードリヒ大王に関しては、未だ知識不十分な為、七年戦争の経過は分かっても、
個々の会戦について詳細に知っているのはロイテンくらいだから、
コリンの会戦の敗因が何だったかを、自分が言及する事はできない。

ただ、エパミノンダスの斜行陣も、フリードリヒ大王の斜行陣も、意図する所は同じだと思う。
どちらも、片翼への戦力集中による局地的優勢の確保と、それによって弱化したもう一方の翼と
中央への防護措置を講じたものであることに違いは無い。
エパミノンダスの場合は、強化された翼以外の、中央ともう一方の翼を後方に下げる事で、
大王の場合は、斜行機動による片翼への戦力集中を、前衛と地形によって隠蔽する事で、
弱化した翼と中央の防御を講じたので、片翼と中央の防護措置に違いは見られるものの、
バトルドクドリンの基本的概念は相違ないだろう。

従って、どちらの斜行陣も弱化した部分への攻撃が行われる前に勝敗を決する必要があるので、
速戦が不可欠な事に変わりは無いし、斜行陣のコンセプトが分かっていれば、それは分かる。

また、コリンの敗戦の一因について、「OSPREY MEN-AT-ARMS フリードリヒ大王の歩兵」に拠れば、
斜行機動に関与しなかった部隊、すなわち前衛が、バラバラな行動を取った事が挙げられている。
331無名武将@お腹せっぷく:2006/07/26(水) 21:04:41
続き

晋軍の戦略に関しては、フリードリヒ大王よりはエパミノンダスに近いだろう。

フリードリヒ大王の斜行陣を戦略レベルに拡張するならば、晋軍は、
まず揚州に戦力集中する事で、呉軍の戦力配置を揚州に偏らせる。
その後、揚州に集結した戦力の一部を前進させて大規模な陽攻を行わせつつ、
その多くを南西方向に迅速に機動させ、荊州に集結させる事で、
荊州正面での圧倒的優勢を確保する、という形になるだろう。

しかし実際にはそういった機動が行われた形跡はなく、唯一、
徐州軍の南下が遅れていた事が分かる程度。
従って、単純に片翼を下げる事で講じられる防護措置、すなわちエパミノンダスのもに近いのかな、と。
332Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/07/26(水) 23:20:16
斜行陣の「陣の従深の深さと横隊の広がりの両立できる」という利点は分かるが、
そもそものコンセプトはどういったものなのだろうか。


フリードリッヒは敵前での迅速な隊形変換で攻撃目標とは逆の敵翼に小規模の部隊で偽装攻撃をしかけ、
次に密かに標的の敵翼に向かって斜めに行軍して側面に回り込み、旋回しつつ縦隊から横隊に変換することで、
直角(実質的にはへの字型だった)に敵の戦列と対峙して、局地的に戦力が優勢である状況を作り出し、
敵の配置転換が終わる前に敵を撃破することを意図していた。

この時代の部隊組織は隊列や歩数を重視していて、巨大で動きが遅く硬直的だった。
フリードリッヒはそのために生じる戦闘中の隊形変換や配置転換は困難であったという事を突き、
奇襲での速戦即決を狙ったといえる。
(ただし、これで敵は側面を集中攻撃されて壊滅するというのはあくまで理想であって、
現実的には途中で行軍が妨害される危険が大きい。
ロイテンでは図に当り、コリンでは失敗したと考えるのが自然な見方ではあるかもしれない。)

フリードリッヒに関しては少々の知識はあったが、エパミノンダスに関しては知らなかったので調べてみたら、
フリードリッヒほど速戦に特化した斜行陣を取っていなかったという印象があったので
上で「意図するところが違う」と書いたが、
もう少し考えるべきだったのかもしれない。
333無名武将@お腹せっぷく:2006/07/26(水) 23:50:43
>>332
斜行陣の根幹の部分は、優勢な敵に対抗する為、
片翼を厚くする事で局地的な戦力優勢を確保するというもの。

他方の翼を下げるのは、薄くなった部分が敵と接触するまでの時間を引き延ばす為。
例え後方に下げていても、主攻となる強化翼が突破に手間取っていては、
劣勢な自軍の敗北が迫ってしまう。
その為にエパミノンダスは、主攻となる左翼を縦隊の如き隊列にする事で突破力を高め、
更に左翼の左側方に予備となる神聖兵団を置き、決勝点において敵右翼側方に投入する事で、
迅速な突破を図っている。

もともと斜行陣というのは劣勢な側が採る奇策に近い陣形なので、
敵に弱点を悟られる前に、迅速に勝負を決しようという形になる。
石原莞爾の言うところの、第一線決戦主義の典型と言える。
334Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/07/26(水) 23:58:14
なるほど。その目的から逆に考えてみると、
確かにフリードリッヒもエパミノンダスも至極根幹に沿った動きをしていたと見えてくるな。
335無名武将@お腹せっぷく:2006/07/27(木) 00:26:17
>>334
エパミノンダスとフリードリヒ大王では、2000年以上の隔たりがあるからね。
陣形の基本概念は同じでも、運用方法などが大きく異なってしまう。
同様の目的で作られた機械であっても、長い時を経れば様相も操作方法も変わってしまうようにね。

エパミノンダスの時代は重装密集歩兵陣が中心であって、戦闘における火力の重要性が低かったから、
銃剣と大砲による火力が重要となっていたフリードリヒ大王の時代とは異なる。

フリードリヒ大王の斜行陣に当てはめられるものは、強いて挙げるならば255年の北伐だと思う。
虚報によって、祁山から金城までの広正面を同時に進軍すると見せかけ、
主力を集中して左翼方向に文字通り「斜行」する事で、涼州の魏軍を迅速に撃破しようとしている。
陽動に戦力を割かず、主力の進行方向を秘匿する為の陽攻を行わなかった為、
陳泰に簡単に見破られて失敗してしまったけどね。
336Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/07/27(木) 01:01:59
そもそも、ギリシア時代の戦争においては戦列の一角が崩れれば軍が崩壊したから、
右翼の突撃を遅れさせて敵への接触を遅れさせるだけでも
兵力集中・精鋭配置した左翼の攻撃でスパルタ軍撃破に効果があったと考えてよさそうだな。

陳泰は魏蜀の戦力さから姜維の目的を正確に把握して
戦力の分散を提言する王経に襄武への戦力集中を命じたのみならず、
王経が味方の救援のために動いて姜維に大敗するという計画の穴が生じたときも
敗戦から持久戦をとるのではなく、中央からの援軍で兵数を揃えて進軍し、姜維軍を瓦解させようとした。
ここまでで戦術レベルでの判断力の高さをうかがわせるが、
涼州からの南下軍に補給線を遮断させて挟撃をとるという決定的な姜維の敗因を見ると
戦略レベルでも優れていたといわざるを得ないな。
337無名武将@お腹せっぷく:2006/07/27(木) 01:27:32
>>336
中央からの援軍を得ての急行も、戦術と言うよりは戦略だと思うが。
敢えて戦術的な評価をするべき事跡は、自身の急行によって、
狄道城中の将兵に奮起を促した事などだと思う。
あとは、狄道付近に到着し姜維と対峙した時、姜維の突撃を受け止めた事かな。

彼の美点は、多くの名戦略家と同様に情報分析と状況判断に優れていた事と、
代替作戦を容易に採りうるような柔軟且つ効果的な作戦を立案し続けた事だろうね。
司馬昭には都督の理想像と言われているし、もっとファンが多くても良い人物だと思う。

また、あの戦役での姜維の敗北が、涼州諸軍によって決定付けられた事と、
姜維が開戦当初その涼州諸軍を撃破しようとした事を考えると、
敗北はしたものの姜維とて馬鹿に出来ない慧眼を持っていたと分かる。
338Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/07/27(木) 01:45:59
あれは間を置かずに迅速に前進して姜維に迫る事で瓦解を図るという奇襲的な案だと解釈した。
そのために戦術の一端として数えてよいのではと思ったんだが・・・。

その作戦も姜維がことのほか善戦して対応した事で完全に図に当りはしなかったが、
涼州軍を南下させて挟撃するという次段階の作戦で蜀軍を後退させている事からも
「代替作戦を容易に採りうるような柔軟且つ効果的な作戦を立案し続けた」事が見てとれる。

確かに姜維は敗北を喫したが、逆に考えれば涼州軍の投入まで狄道の包囲を継続し、
陳泰を険阻で迎え撃って善戦している。
姜維の場合、戦略眼よりもむしろ傑出した戦術手腕を持っているといえるな。
339無名武将@お腹せっぷく:2006/07/27(木) 15:39:14
http://see.cartoonwin.com/seecart/sgyyrw.html

肖像画集があるが、これは当時描かれたものだろうか
それとも後世想像されて書かれたものだろうか
340無名武将@お腹せっぷく:2006/07/27(木) 21:30:48
>>338
俺自身は戦術を、個々の戦闘における戦闘力の使用法、という辞書の言葉通り、
また、軍事で一般的に用いられている通りに、会戦における軍隊の運用と考えている。
陳泰は姜維に対する前進を決定した際に、一気に兵を進めて姜維を狼狽させ、
高所を占めて勢いに拠れば、戦いを交える事無く敗走に追い込むことが出来る、
と断じており、姜維との会戦を想定していなかったと取れる。

この前進が会戦における軍隊運用ではないならば、戦術上の評価事項と言うより、
戦略上の評価事項と考えた方が良いと思う。
ただ、高所を占める、という陳泰の企図した行為が、戦術上の要地を占める事による、
会戦での有利な状況を作り出す意図を持っていたならば、これを戦術上の評価事項と考えて良いと思う。

あと、姜維の戦術手腕がその戦略手腕を凌いでいた事は事実だと思うが、
戦略手腕も決して否定されるものではないと思う。
仮に勝者が90点の戦略を、敗者が70点の戦略を採ったとしても、その成果は9:7になるわけではなく、
一般的には勝者に偏った配分となる。
だから成果のみで測ろうとしても、どちらの戦略が勝っていたかしか分からず、
両者にどれだけの差があったかを知る事は非常に困難。
姜維の作戦計画と、そこから類推できる作戦意図を、実際の戦況の推移と照らし合わせると、
合理性と妥当性を持ったものである事が分かり、戦略家としても無能ではなかった事がうかがい知れる。

>>339
さすがに当時の物という可能性は皆無だろう。
見た感じは連環画とかに近いけど、よく分からんね。
馬超とか見て思い出したが、それって以前むじん氏が、「初期の光栄三国志の顔グラのパクリ元だ」
って言ってたやつだな。
341可児彪 ◆JOKER/qwI. :2006/07/31(月) 00:37:41
ひとつ質問があるんだけどいいかい?

魏の263年の蜀遠征の事だけど、中央からの援軍の廖化が陰平に到着した時に
諸葛緒を迎撃する為に姜維とすぐに合流せずに陰平に留まったとあるだろ?
それは圧倒的に勝る魏軍の包囲を受ける位置に留まるって事のように思うんだよな。
廖化ほどの将軍がそんな危ない判断をするってのがどうも納得できないんだが・・・。

彼は諸葛緒を迎え撃つためにも諸葛緒の進軍ルートを予測してそちらに動くべきだったのか?
それとも廖化は何かしらの考えがあって陰平に留まったのか?
342無名武将@お腹せっぷく:2006/07/31(月) 02:47:16
包囲を受ける事によって少しでも蜀内部に雪崩れ込む敵を減らしつつ
姜維を捕捉しようとする魏軍の足止めとかでどうだ
343可児彪 ◆JOKER/qwI. :2006/07/31(月) 22:57:16
>>342
地理関係を見てもどうもひっかかるんだよな・・・。
344無名武将@お腹せっぷく:2006/07/31(月) 23:55:23
諸葛緒が建威に向かったという知らせを受けた時点で、
廖化に予測しえたであろう諸葛緒の行動は、

・下弁を抜いた後、東に出て陽平関経由で漢中に入る
・下弁を抜いた後、南に向かい橋頭を経由して景谷道に入り、姜維の背後に出る
・橋頭より東に出て関城の背後に出る
・橋頭より南に出て剣閣を経由し、四川盆地に殺到する

の4つだと思う。
この報告を聞いたのが陰平だとすれば、下弁の救援に間に合わせるのは困難だから、
橋頭で防御するか、兵力差を考えて、その後方白水関で防御するかのどちらかが妥当だと思う。
しかし史書に忠実に考えるなら、橋頭の更に西、陰平に留まった事になり、
防御する方策としては不適当だと考えてもおかしくない。

陰平は南下する諸葛緒に対して、何とか側面陣地を形成できる位置にあるので、
陰平にいても諸葛緒の南下を牽制する事はできるが、
諸葛緒が一部を橋頭に残置すれば連絡線の防護は可能なので、やはり少々妥当性に掛ける。

廖化は愚直すぎて、状況の変化に作戦を修正して対応する柔軟さに欠ける嫌いがあるので、
ここでも状況に対応し切れなかったという可能性も無くは無い。
345可児彪 ◆JOKER/qwI. :2006/08/01(火) 00:10:51
丁寧なレスありがとう。
自分はやや廖化びいきな見方になっていたのかもしれないわ。
346あぼーん:あぼーん
あぼーん
347あぼーん:あぼーん
あぼーん
348あぼーん:あぼーん
あぼーん
349あぼーん:あぼーん
あぼーん
350あぼーん:あぼーん
あぼーん
351あぼーん:あぼーん
あぼーん
352無名武将@お腹せっぷく:2006/08/01(火) 00:40:11
>>345
原文では
「比至陰平、聞魏将諸葛緒向建威、故住待之」
だから、陰平で待ち受けたと取るのが妥当だろうね。

これに対しては、俺も以前疑問を持ったが、原文を尊重した方が良いと言われたので、
とりあえず廖化の能力不足としておいている。
353無名武将@お腹せっぷく:2006/08/01(火) 00:41:47
しばらくアンカーつけないほうがいいよ
レスあぼーんしたときにレス番がズレるから
354無名武将@お腹せっぷく:2006/08/01(火) 00:42:36
ちんぽーーーー
355Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/08/01(火) 01:21:12
この遠征はそもそも戦略的に魏軍が優勢だったからな。

ケ艾は兵を三分して一軍に姜維軍の足止めをさせ、もう二軍を迂回させて退路と補給を断絶を目論み、
さらに諸葛緒は姜維軍の後方に回って退路を遮断していた。

もし姜維の将才が実際より優れておらず、北上して諸葛諸をかわし、
山道を驚くべき行軍速度で踏破して剣閣に至ることが出来なければ、
蜀は実際よりもさらにあっけなく滅亡していただろう。
356無名武将@お腹せっぷく:2006/08/01(火) 03:27:55
「この方が、今年度の3-Aの担任となってくださる、公台・スプリングフィールド先生だ」
「よろしくお願いします」
桜の舞う季節。ここ洛陽学園の職員室では新任の教師の挨拶が行われていた。
今回赴任してきた教師は、まだ年端も行かない10歳の少女。黒い長髪をポニーテールに仕立て上げ、大きな黒い眼で辺りを見回している。
背が小さいので何処からか持ってきた温州みかんの箱の上で挨拶をしている。その背には、何故か本物の弓矢を背負っていた。
一通り挨拶が終わると、彼女は箱の上から降りた。他の教職員からざわめきがもれる。
「あの3-Aの担任か……」
「何であんな小さな子が……」
「公台タソ……ハァハァ……」
しかしそんな周りの視線は全く気にせずに、一通りの教材と出席簿を鞄の中に入れると、そろそろ授業が始まる教室へと歩いていった。
357無名武将@お腹せっぷく:2006/08/01(火) 03:28:29
「やあ、公台先生」
廊下を歩いていた公台は、後ろから声をかけられたので振り向いた。そこに立っていたのは顔に笑みを浮かべた中年の教師だった。
「あ、こんにちは。えーと……」
「文台だ。明石文台。よろしく」
そういうと、文台は公台の横に並んで歩き出した。
「3-Aの担任になったんだって?」
「はい」
並んで歩くと、本物の親子のように見える。まあ、親子ほど歳が離れているから当然ではあるが。
「そうか。あそこには俺の子供が居るからな……会ったらよろしく言っといてくれ」
「へぇ、お子さんがいらっしゃるんですか?」
「ああ。しかし……3-Aか」
そこでふと、公台は先程から疑問に思っていた事を口にしてみた。
「あの……。3-Aってどんなクラスなんですか?」
この学園に着てから、3-Aと言う名前を口にするたびに周囲の表情が変わっていた。どうも良くない噂が流れているようなのだが、一体どんなクラスなのか実際の話は全く聞いていなかった。
そこで、人の良さそうな文台に聞いてみたわけだ。
しかし、文台もその質問を聞くと黙り込んでしまった。少し間があって、
「はっはっは……まあ、言ってみれば分かるさ」
と、誤魔化すように笑った。どうも相当問題のあるクラスらしい。
「おっと……ここが3-Aだ」
そうこうしているうちに、3-Aの教室前まで着いたらしい。
「あ、どうもありがとうございました」
「いや。新しい担任の仕事、頑張ってくれよ」
それだけ言うと、文台は鼻歌を歌いながら去っていった。
その背中を見送った後、公台は目の前のドアを見上げた。ドアと言うより壁のようにも見える。一応、黒板けしの挟まっている様子は無い。
何度か深呼吸をした後、決心をした公台は勢いよく扉を開けて、叫んだ。
「おはようございまーすっ!」
358あぼーん:あぼーん
あぼーん
359あぼーん:あぼーん
あぼーん
360無名武将@お腹せっぷく:2006/08/01(火) 20:19:25
なーなー
いつの間にか後期スレじゃなくなってない?
361無名武将@お腹せっぷく:2006/08/01(火) 21:02:17
>>360

>当初は三国無双の三国志後期版を考えていくスレでしたが、
>その時代の人物・戦役・文化などの考察も行うようになりました。
>ステージや、キャラモーションなどの無双の案も勿論随時お待ちしています。
>三国志後期(正史・演義)について語りたい人もどうぞ利用してください。
362あぼーん:あぼーん
あぼーん
363無名武将@お腹せっぷく:2006/08/01(火) 23:35:15
そもそも微妙だろ は置いといて、


>>360
多分ここんとこ荒れすぎだろ、って言いたいんだと思。
いつの間にかマジ検証に戻ってるのがここのクオリティだから
安心しる
364Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/08/02(水) 00:07:58
雰囲気として姜維スレの後継的な役割を果たすスレになっているが、
たまには違う三国志後期の話題を出してみようと思う。

曹芳・曹爽らの高平陵参拝の隙を突いて司馬懿が兵を挙げた際、桓範は

「範説爽使車駕幸許晶、招外兵」
「範重謂羲曰、当今日、卿門戸求貧賤復可得乎。且匹夫持質一人、尚欲望活。
今卿与天子相随。令於天下、誰敢不応者。」

の記述から分かるように、
曹爽に向かって「天子を許晶に移して諸州の兵を招集せよ」、
曹羲に向かって「一族が生きられさえすれば貧民になってもよいと願ってもどうして許されようか。
つまらない男でも人質が一人いれば生き残る事ができる。
今あなたは天子を擁しており、天下に号令すれば、それに応じない者がいようか」
と進言している。

俺はこれはなかなか筋の通った策であると思うんだが、曹爽も曹羲もこの献策を退けた意図がよく分からない。
「爽兄弟、猶予して未だ決せず。」「羲、猶ほ納るる能はず。」とあるが、
政敵である司馬懿が兵を挙げたという事態に際して憂慮して具体的な対策を取れないのはなぜだったのだろう。

そもそも、何・丁・ケが私利私欲のために司馬懿排斥を進言し、それを受け入れた時点で、
司馬懿と関係改善の余地の見込みをつける事をやめなければならなかった。

こう考えると、曹爽はいわずもがな、曹爽を諌める気概があったはずの曹羲も
ここぞという時に正しい判断の取れないほどの器でしかなかったのかもしれないな。

また、降伏を勧めた許允・陳泰も情勢を見てこの後の展開ぐらいは予測できていただろうから、
彼らの献策も意図的に司馬懿に肩入れしたものだったと考えるのが自然だろうな。
365無名武将@お腹せっぷく:2006/08/02(水) 00:56:21
>>364
突然の出来事には狼狽して正しい判断が取れないものだからな。
間接アプローチが有効なのも、司令部にショックを与える事によって、
その活動を麻痺させる事が出来るからだし。
仮病を信じきって安心してただろうから、曹爽らにとっては青天の霹靂だったろう。

それでも直ちに判断力を回復させる事が出来るかが、凡人と英雄の差だろうけど。
諸葛瞻なんかもだが、曹爽や曹羲も凡人という枠から抜け出す事は出来なかったんだろう。

あと、陳泰は、高貴郷公を殺すという、一線を越えた所業に出るまで、
司馬氏とは懇意にしてたから、司馬懿に便宜を図った可能性は大いにあるだろうね。
366Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/08/02(水) 01:39:09
>>365
>仮病を信じきって安心してただろうから、曹爽らにとっては青天の霹靂だったろう。

だからこそだよ。まぁ結果論でしかないし、曹兄弟は英傑の器ではなかったで済む話なんだが
凡人か英雄かを度外視しても、司馬懿挙兵の報によって李勝の情報が虚報だと悟った時点で
「9年間も時期を狙い続けて自分を謀っていた相手に隙を見せれば命を失う」と悟れそうなものだ、と思って。


俺は曹爽政権の崩壊は魏朝の存亡の分かれ目になった大事だと考えている。
そもそも魏は皇族を危険視して遠ざけた結果、司馬家を始めとした重臣・名士・豪族の権力が拡大して
帝権が薄弱になって禅譲を迫られたのだからね。皇族の曹爽と名士の巨頭の司馬懿の二頭政治が生まれた時点で
魏の運命は 皇族強化→安定 か 皇帝孤立 → 名士台頭 かの二つに絞られたといってよかったと思う。
だから仮に曹爽一族が司馬懿を追い落とし、権力を失わなければ長命国家になったかもしれない、と。

まぁ、高堂陵が遺言で明帝に「鷹揚の臣(司馬懿)の権力拡大に注意し、皇族の重用で帝室を固めなさい」
と警告している事を考えればこの体制が生まれたのは不適切としかいいようがないんだけれどね。

(ちなみに当初皇帝を補佐する予定だったのは曹宇・曹肇・夏侯献・秦朗だったが、
劉放・孫資の暗躍で現実の体制に変更されたんだよな。劉・孫は名士層の人間だから、
自分達の側の立場の代表格である司馬懿を皇帝の補佐にねじ込んだと考えると、
皇族曹氏・清流系名士の暗闘という裏舞台が見えてくるようで面白い。)
367あぼーん:あぼーん
あぼーん
368無名武将@お腹せっぷく:2006/08/03(木) 01:24:59
これを改変しろと?
スレ違いだ
369あぼーん:あぼーん
あぼーん
370無名武将@お腹せっぷく:2006/08/06(日) 00:25:35
クーデターの後の混乱がさほど大きくなかった事や、孫資らの策動などを考えると、
司馬懿を支持する層が多数いた、と言うか、そちらが多数派だった可能性も高い。
司馬一族を初めとした名士勢力を一掃し、皇族の権力を安定化できればいいが、
支持が得られなければ逆に追い落とされる。

それを曹爽らが感じていたなら、彼らが逡巡したのも仕方ない面があるかもしれない。
もし大規模な抵抗を催していたら、最悪帝国を二分するような内戦に発展する可能性もある。
そうなれば呉蜀に付入る隙を与える事になり、自らの権勢の維持どころか、
帝国の存立が危ぶまれるところまでは行かなくとも、領土を大きく削られていたかもしれん。


魏帝国が確固たりえてこそ自らの権勢が維持されるのだから、司馬懿への激しい抵抗は、
土台を切り崩してでも高みにいようとするような行為であり、受け入れる事ができなかった、
と考える事が出来ないだろうか?
371無名武将@お腹せっぷく:2006/08/06(日) 01:03:34
>>370
官職面から考察してみる事も勧める。

政変の際のポイントは御輿と兵力、拠点のみっつの確保が大きな鍵。
如何に中央軍特に宮中を掌握できるかは特に重要。
この政変時、司馬懿の長子である司馬師が中護軍の官にあり、更にもう一方の
中領軍(の兵力)は曹羲が曹爽と共に不在だったため、司馬氏寄りの太僕・王観が
掌握する。
では曹爽の兵力はといえば司徒・高柔が押さえた。
運のいい事に太尉が司馬懿と親しい蒋済だった事も成功の要因のひとつ。

曹爽が握っていたのは皇帝のみ。
要するに如何に事を起こしても曹爽一派が圧倒的な戦力を保持していれば
ここまで司馬懿がすらすらと事を運ぶ事はできなかった可能性も高いんじゃ
ないかと。
372無名武将@お腹せっぷく:2006/08/08(火) 00:19:22
>>371
彼らが逡巡したのは、豪族の支持が得られていないという事以外に、
掌握していた戦力が著しく小さかった、というのもあるって事?
俺の意見を補強してくれているのか?


話は変わるが、呉平定の時の王渾についてちょっと。
開戦当初に王渾が尋陽を押さえたのは話したが、それに関して地図を見ながら考えてた。
寿春から尋陽までは、真っ直ぐ進軍するのは天柱山がそびえていて難しいし、
陸路を行軍するのは輸送上の困難が大きくなるので、個人的には、
作戦計画に沿った前進方向、すなわち横江への進軍を肥水に沿ってまず行い、
徐塘の辺りで長江に出てから西南へと進出した、と考えた方が良いと思う。

舒県、ユ県を越え多数の輸送隊を引き連れて行軍した後、前進方向と支援正面を
北東へ一気に転換するのは難しいからね。
長江との合流点に集積基地を作り、そこを根拠として西南へ部隊を派遣した方が合理的。
ただこの方法だと、作戦地域における制河権を得てないと、補給路を遮断される恐れもある。
王渾の作戦を最も合理的にできる解釈の仕方は無いものだろうか?
373無名武将@お腹せっぷく:2006/08/08(火) 01:35:13
>>372
補強というか、視点を変えて考察すると他の要素もみえてくるんじゃ? という感じ。
偉そうに感じたらもうしわけないが。

王渾の征路に関していえば、俺よりもずっと史料を読んでるだろうからとうに理解
されてると思うけど、本隊は横江から牛渚へぬける方針。

>部隊を派遣した方が合理的
とあるけど、長江北岸域の呉の諸城(尋陽含めて)攻略は本隊から分派された
陳慎、張喬、李純あたりがしっかり地ならししてるはず。
374無名武将@お腹せっぷく:2006/08/08(火) 02:05:38
>>373
偉そうに感じたわけじゃないよ。
ただ、最初の一文が、俺の意見の間違っている所を修正してくれる旨を言っている様に感じたが、
それ以降を読んでみると、追加的な考察という感じだったので、一応聞いてみた。


王渾に関しては、王渾伝では参軍の陳慎らを派遣したと書かれているが、
尋陽攻略は呉平定における最初の支作戦なので、主力の前進方向を決定付ける要素になり得る。
陳慎らの分遣のみで尋陽攻略を行ったとしても、寿春から彼らだけを大きく方向を変えさせるのも、
輸送上の困難から言って不自然だから、当然行進しやすい地域に出るまでは同一作戦線上にあったと
考えた方が良いと思う。
軍隊に生じる機動上の制約は、兵站上の制約によるものが大部分だから。

だから多分、俺の言った様に、全軍を以って肥水・濡須水を下り、長江との合流点において、
十分な戦力を預けられた陳慎らが分遣された、と見るのが最も自然なんだとは思う。
でも、そこから尋陽まで数百kmあるんだよね。
その長大な連絡線を、川の流れを制さずに維持し続ける事が出来たのだろうか?
というのが少し疑問なんだよ。

もともと尋陽を攻める気は無かったが、長江に出てみたら呉があまりにも無防備だったので、
その隙を突いて一気に尋陽まで押さえ、荊州方面の敵軍の退路を遮断しようと思い立ったのかもしれない。

まあ、色々考えて感じるのは、王渾は実は、呉平定に参加した司令官の中で、
軍事戦略レベルの判断力と戦術指揮は一番なんじゃないかって事だね。
王昶の息子って事で贔屓目に見てるってのはあると思うけど。
375無名武将@お腹せっぷく:2006/08/09(水) 13:48:46
三国志ファンには蜀のファンが多くいらっしゃると思います。漢朝最高の志半ばにして倒れた劉備玄徳や諸葛孔明、関羽や張飛、その他多くの将兵たちや文武百官…。そんな彼らに哀悼の念を禁じえない方々はおおくらしゃっるのでは?
そこでこのスレではどうすれば蜀が天下を取れたかを考えていきたいと思います。荊州を失わなければ、あるいは孔明が皇位についていればなど、みなさんの中にあるたくさんのifや方法論を、自由に述べいってください。
376無名武将@お腹せっぷく:2006/08/09(水) 13:51:12
     ,/””   ”ヽ
   ,/   __ _ ゛
   /   /““  “” ヽ |
   |   / -━  ━.| |
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   (ヽ |   r ・・i.  ||
   りリリ  /=三t. |
   |リノ.      |
    |   、  ー- ' ノ
   |   ”ー-- '|
377無名武将@お腹せっぷく:2006/08/09(水) 16:40:23
>>375
スレ違い
378無名武将@お腹せっぷく:2006/08/09(水) 16:45:42
一応主要な所をば。

姜維→全ては丞相のためだけに。夢見るシンデレラは今ここに。
劉備→弱弱しくも強い、そんな言葉がぴったり。実は妻(孫尚香)の趣味?
張コウ→美を追求する彼にとっては鬼に金棒。どこぞのエリート弁護士の如き末路は勘弁。
周瑜→本当に女性と見分けつかなくなりそうなので、ある意味鬼門。
呂蒙→ホスト。
呂布→武勇一筋の豪傑が茨の道へ一直線。「馬鹿な、何故俺がこんな…!」は御約束。

政宗→生意気で妙な悪知恵が働くという点では、今時の女子高生に一番近いかも。
蘭丸→デフォルトがほぼ女装なので素で通用する。全ては信長の思いのままに。
光秀→っていうか濃姫はお前の変装やろ。
孫市→ホスト系かと思いきや、かなりのやり手。どの女性よりも口説くのは難しい。
五右衛門→恐怖の花魁。2メートル近い長身の「どすえ」女房ここに極まれり。
379無名武将@お腹せっぷく:2006/08/09(水) 19:39:46
380無名武将@お腹せっぷく:2006/08/11(金) 21:41:44
>>375を見てちょっと思ったけど、特定の国のファンだ、ってのはそんなに多いのかな?
俺の場合は、国と言うより人物のファンなので、好きな人物をランク付けしても所属勢力はバラバラになるんだが。
381Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/08/11(金) 22:08:13
好きな人物と好きな歴史的事象、および語れる部分を整理した結果
「自分はこの国が好きなんだな」と実感するパターンはそれなりにあるんじゃないかな?
ただ、最初にパッと好きな国が浮かぶというパターンは俺にはよく分からない。
382無名武将@お腹せっぷく:2006/08/11(金) 22:28:47
俺は姜維と姜維の指揮した戦争は好きだが、好きな人物と言うと、
姜維以外は王基や王昶だったり、ケ艾だったり陳泰だったりと魏の人物が多いんだよな。

でもまあ、単に俺がそうじゃないというだけで、好きな人物や事件が特定の国に集中している人も多いのかも知れないな。
383Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/08/11(金) 22:51:57
人物も事象も独立して存在しているのではなくて、戦闘や政治を介して繋がっているから
一人の伝を読み出すと他の人物の側面も同時に見えて連鎖的に好きになるということが多いな、俺の場合。

ところで、俺は王基といえばまず毋丘倹や諸葛誕の乱鎮圧を思いつくな。
二者とも同じ土地で叛乱を起こしているが、どちらも対応が後手に回って敗北しているから印象深い。
最初から兵の統制に手間取っていた毋丘倹は置いておくとしても(彼はその程度の将器ではないと思ったんだが)、
諸葛誕については蜂起当初は十分な兵と食料があったのだから、
まずは王基の包囲陣完成の前に攻撃をかけるべきだったと思うよ。
ただ篭城して敵を待った結果、魏軍との戦力差が拡大して完全に包囲され、食料も逼迫したのだし。
384無名武将@お腹せっぷく:2006/08/11(金) 23:03:35
>>383
連鎖的に好きになるというのはあるね。俺が陳泰らを好きなのも、姜維との関連が発端だし。


諸葛誕に関しては、同様の事を自分でも何度も言っているし、
集結する前に敵を叩くべきだったというのは確かな事だが、
もしかすると兵站面で不安があったのかもしれない。

根拠地に食糧があるというだけでは、軍隊を長躯前進させることは出来ないからね。
食糧を運ぶ為の膨大な数の車両、馬匹や牛を養うだけの飼葉、
そして何より、それらを滞りなく運用する為の兵站組織が必要になるから。

でも、どうやら諸葛誕は淮水が氾濫する事を予想し、それによる敵の包囲陣地の崩壊や、
補給の為の道路の損壊によって、待っていても敵は退却する事になる、と思っていたようだけど。
だが、自然現象を当てにするなんて、それこそ僥倖を恃みにしているようなもんだから、
指揮官としては採るべき判断ではないね。
385無名武将@お腹せっぷく:2006/08/11(金) 23:19:02
>>384
そう考えるとなんか諸葛誕の篭城と呂布の篭城って似てね?
386無名武将@お腹せっぷく:2006/08/11(金) 23:22:47
>>385
呂布の篭城って水攻めにあった事くらいしか印象に残ってないが、
そんなに似てる所あったっけ?
387無名武将@お腹せっぷく:2006/08/11(金) 23:24:52
>>386
外との連携を活かせずに城内で弱体化したとか
388無名武将@お腹せっぷく:2006/08/11(金) 23:33:11
>>387
そういう事か。確かに統制がとれず、内側から崩壊してった所は同じだね。
でも呂布って、高順らに城を任せ、自分が外で敵を牽制しようとしたけど、
結局取りやめたような。
389Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/08/11(金) 23:36:19
>>388
呂布の事なら、泰山や琅邪と連携していたが、泰山を曹操に陥落させられているし、
あまり外部勢力と上手く連携出来ていなかったというのはあると思う。

まぁ、この話はちょっとスレの趣旨からずれるかな。
390無名武将@お腹せっぷく:2006/08/11(金) 23:41:52
>>389
そうだったか。その辺の時代は、本腰入れて考察した事無かったからなぁ。

でも、同一組織での連携ではない、他勢力との連携は誰がやっても難しいけどね。
それぞれがそれぞれの利害の元で行動しているから、簡単に退いてしまったり、
見当違いな作戦を行ったりとかがよくある。
391Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/08/11(金) 23:57:34
>>390
諸葛誕の乱の時の呉も寿春に援軍に赴く前に孫綝が朱異に孫壱を攻撃させたりと、
諸葛誕にとっての戦略的利益を無視した無駄な動きが多かったね。
朱異は朱異で州泰に敗れて寿春の解囲に失敗しているし・・・。
392無名武将@お腹せっぷく:2006/08/12(土) 00:22:10
>>391
鎮圧に動いた魏の兵力は膨大なものだったから、徒に正面から包囲を解こうとするより、
その連絡線に向けて軍を指向させた方が、包囲を解く早道だった可能性は高い。
でも朱異は、安豊を抜いた後、陽泉から寿春に向かおうとしていた。
安豊より北進して慎県周辺に出て、潁水を用いたであろう魏軍連絡線を遮断した方が良いだろう。
目標に直進する事が全てではない、というのが分からなかったのだろうか?

ただ、朱異の軍団が潜水を連絡線としており、安豊から陸路を用いる手段が得られなかったのなら、
そこから陽泉へ向かうのも分かるけどね。
陽泉一帯を押さえれば、そこから汝水や潁水を連絡線として北進する事が出来るから。
ただそれでも、寿春に敵が集結している以上、連絡線が絶えず脅かされているのは変わらないけど。
393Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/08/12(土) 00:41:10
>>392
仮に陽泉を占拠していたら最短距離で寿春解囲のための拠点を得る事が出来ただろうが、
州泰に敗北して一旦鑊里まで退いて孫綝と合流して黎奨水に進軍、
そこでも渡河に失敗して・・・という経緯を見ると、時間も移動距離も無駄にかかりすぎている。
朱異が補給線の守備を怠って胡烈の都陸奇襲を許してしまったのも、
そこからくる焦りが生んだものかもしれないな。
394無名武将@お腹せっぷく:2006/08/12(土) 00:55:49
>>393
どうだろうね。
朱異の兵力は3万であり魏とは隔絶している、仮に陽泉での渡河に成功したとしても、
連絡線の防護を考えると敵への攻撃に使える戦力は3万を更に下回る。

包囲陣地の守備に必要な戦力を除いても、魏軍は尚朱異を大きく上回る戦力を抽出できただろうから、
直接寿春に向かい包囲を解くには、戦力はやはり少ない。
孫綝の軍団と連携しつつ、なんとか魏軍の連絡線を脅かす機動を行いたかったな。
395Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/08/12(土) 01:04:38
やはり寿春周辺の圧倒的な魏の兵力がネックになるな。

>孫綝の軍団と連携しつつ連絡線を脅かす機動

これ以外にあの状況を打開する方法は無かったのではとさえ思えるが、
それにしても呉だって魏に補給線を狙われ続けるという状況は変わらないわけだし、
諸葛誕の最初のミスがあった時点で鎮圧は八割がた決まってしまっていたのかな。
396無名武将@お腹せっぷく:2006/08/12(土) 01:19:58
>>395
寿春を包囲した兵力自体は20万を越えないだろうから、城内の戦力と孫綝の戦力を併せれば、
なんとか寿春周辺に貼り付ける事ができるかもしれない。

だから司令部と前線の間に入り、その連絡線を脅かす場合、向かってくるのは
丘頭に駐屯してたであろう数万になると思う。
朱異も当然連絡線の防護に戦力を割く必要があるから、会戦に使える戦力は多くて2万程度だろう。
1,2万はあっただろう彼我の戦力差を埋めるだけの戦術的手腕が朱異にあれば、
或いは何とかなったかもしれない。

理想としては荊州諸軍を撃破し、荊州正面から突破する事だけど、荊州を守るのは名将王昶だからなぁ。
397無名武将@お腹せっぷく:2006/08/13(日) 00:28:31
またちょっと別の話題を。

華陽国志には李厳弾劾の件で督運領という官が出てくるが、この官の職掌は、
前線にいる丞相の下で必要な軍需品の量などを計算する長史や各種掾と、
後方の根拠地にあって前線の需要を満たす量の物資や車両を用意する組織の間をつなぐ為、
補給部隊の実際の運用を管理する、という理解で良いんだろうか?
398Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/08/13(日) 09:22:39
督運領という字面、及び李厳が輸送をストップした後に
保身のために殺害を試みた点から推測してそう考えて良いと思う。

しかしふと思ったが、李厳の独断は勿論弾劾されて然るべきものだとは思うが
あれほどの軍事の才覚を持った人間が再び起用されず、
諸葛亮の死後も自身の予想通り罪を許されなかったことを考えると些か残念だな。
特に蜀は人材不足だったきらいがあるし。
399無名武将@お腹せっぷく:2006/08/13(日) 13:43:19
皇帝に偽の上奏までし、時の丞相を陥れようとした人物を、
たった数年で復帰させるわけにはいかないし、ある程度年数がたってしまうと、
組織が固まってしまって李厳を使う余地は無くなってくるだろうしな。
例え才能があっても、李厳のような性質では扱いに困るだろうし。

遠征軍の司令官には姜維が就くのが規定路線だったろうし、使うとなれば後方だけど、
兵站総監の仕事は失敗した、と言うかそれが元で庶民に落とされたんだし、今更使いづらい。
姜維の麾下で部隊指揮官をやるというのも、プライドの高い李厳が承服するかどうか。

能力は惜しくとも、やはり用いる事が出来ない、というのが結論だと思う。
400無名武将@お腹せっぷく:2006/08/13(日) 14:10:56
仮に復帰させたとして、魏延みたいに節持ちで将軍と軍師を兼ねさせたらどうだろう?
姜維の良いストッパーになってた希ガス
401無名武将@お腹せっぷく:2006/08/13(日) 14:56:00
李厳に節持たせるなんて危ない真似ができるか!
402無名武将@お腹せっぷく:2006/08/13(日) 18:08:04
腹に棘があるような奴だしな。
それさえなけりゃ、と思うが、そういう人物も扱って見せるのが上に立つ人間の器量なのかねぇ。
403無名武将@お腹せっぷく:2006/08/13(日) 20:13:44
劉禅廃してアンタ皇帝になっちゃえよなんて言うアホには節なんて持たせられませんがな
404Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/08/13(日) 21:23:06
魏延といえば少し話を変えてみる。魏延と姜維は似たようなタイプの将だと言われるが、それは本当だろうか。
諸葛亮の死後に軍を掌握したのは(真偽定かならないが)謀反人として誅された魏延ではなく姜維だったが、
確かに二人とも武断派で、姜維はストッパーが没するやいなや連年のように北伐を繰り返したし、
魏延も生きて軍を預かっていればおそらくはそうしただろう。
ただ、戦略眼は魏延よりも姜維の方が優れていたように思う。

(個人的に蜀将の中では魏延が最も好きだし彼の戦術手腕や長期の漢中経営はかなり買っているが。)

魏延が最初に唱えて殺されるまで引きずっていた子午谷から長安強襲するという案は
運用が難しいぶん成功した時の成果は凄まじいし、早い段階で潼関を制圧して封鎖してしまえば
洛陽方面の魏の援軍を無力化させられるという点で魅力的に見えるが、
仮に長安を制圧したとしても涼州方面へ出た本隊と合流するまでの間は敵中に孤立することになり、
その維持のための軍需物資の運用が負担を生むことになっただろう。

姜維が諸葛亮の死後も魏延と同じ策を執らず、遠回りの涼州進出を執ったのは
そのあたりの事を把握していたからなんだろうな。
405無名武将@お腹せっぷく:2006/08/13(日) 21:29:58
>>404
あー盛り上がってるところ悪いのであるが
ttp://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/gkbd.700.503.html
このサイトさんの説をどう受け取る?
406無名武将@お腹せっぷく:2006/08/14(月) 00:17:22
>>404
洛陽から函谷関経由で来る魏軍はある程度抑えられるかもしれないが、
たったの数千では長期間耐えられるとも思えない。

それに、それほど良好な道路ではないだろうし、呉軍への対処から大軍は割けないだろうが、
荊州北部から武関を経由して長安の南に出るというものもある。
これまた異民族への備えから大きくは割けないが、并州から黄河に沿って南下する道もある。
だから例え落とせても、それほど長期間長安を占拠する事はできないと思うよ。

「長安を落とせば漢中の守備兵を使えるから大丈夫」などと言ってた人もいたが、
拠点の守備兵など、そう簡単に野戦軍に転用できるわけじゃないし、
戦力を大量に前線に送ろうとすれば、輸送の面で確実に無理が生じる。
恐らく早期に破綻を来たし、前線の兵は困窮するだろう。

あの作戦は、長安の陥落がまず非常に困難だし、落としたとしてもその後すぐに手詰まりになる。
「長安陥落のインパクトで、隴西方面は一挙に手に入る」などと楽観視する人もいるけどね。
407無名武将@お腹せっぷく:2006/08/14(月) 00:22:42
調略の仕込みもあったんだろうが諸葛亮が北伐しただけで
成果もなんも無いのにいきなり蜀にたなびいてる郡県がある事を思えばあながち楽観視とも俺には思えないんだが
408無名武将@お腹せっぷく:2006/08/15(火) 23:41:09
>>407
隴西の郡県の幾つかが寝返るという事は当然あると思う。
だけど、魏延の案では隴西に兵は出さないし、その後の戦況によっては、
容易に態度を翻すと思うよ。
游楚の様な太守であれば、そもそも寝返らないだろうしね。

そもそも長安陥落自体が、楽観論に基づいた成功率の低いものだと思う。
魏は諸葛亮が漢中に駐屯を始めた時点で、明帝自ら群臣とその対応を協議している。
「魏延は長年漢中太守を務めていたから、諜報も十分で分析に信頼性がある」という意見もあるが、
魏延より遥かに長く漢中におり、かつては雍州刺史の従事まで務めていた姜維でも、
駱谷から長安を狙った際は、隘路の出口で完全に押さえられてしまった。

これは姜維にも言える事だが、会戦や攻囲などの軍事行動の影響を計量するのは良いが、
その効果を過大視し、それを恃みにし過ぎた作戦を立てても、非常に不安定なものにしかならない。
万が一という事は確かにあるかもしれないけどね。

大胆な作戦は博打とはまた別物であって、博打の様な作戦を優れているとは言わない。
博打は、それ以外に選択肢が無い時のみ許される作戦だよ。
409無名武将@お腹せっぷく:2006/08/17(木) 01:02:38
改めてみると、どうも魏延の策には辛辣になりすぎているかもしれん。

今更ながら>>405の意図が分かりかねる。
ニセクロ氏のサイトの考察は、皆大いに参考にしているとは思うが、
彼の北伐再考をどう受け取るか、と改めて聞くのはどういう事だろうか?
410無名武将@お腹せっぷく:2006/08/19(土) 23:32:58
木牛って日に8kmしか進めないんだよね。
これを主要な輸送手段としていたとして、木牛の前進に戦闘部隊の前進を合わせてしまうと、
漢中から狄道までで70日も掛かってしまう。
でも記述からは、それほど長期間前進して到達したようには読み取れない。

という事は、戦闘部隊は物資を後方に置いたまま前進し、補給梯団が追いつくまでは、
自国内の都市に備蓄された物資や、羌族らの支援、敵地での徴発や売買で食いつなぎ、
その間に後方で支援態勢を確立する、という世界でも一般的に見られた方法が採られたのだろうね。
狄道までなら1ヶ月強で補給梯団が追いつく、だから開戦1ヶ月が、姜維にとっても肝心だったろう。

この考えに沿えば、祁山侵攻を予測したケ艾の言葉の意味も分かる。
船を使ったと言うのは、やはり補給に河川を使ったと言う事になる。
開戦から1ヶ月間程度は、戦闘部隊は連絡線の制約をあまり受けないので、
一気に枹罕に兵を進めるのも難しくは無い。
補給部隊が洮水近傍に到達するまでに狄道周辺に進出してしまえば、
洮水の線を補給に用いる事が出来る。
枹罕から涼州へ向かわず、狄道の王経を狙ったのは、戦略的側面を敵に晒さないようにするという、
作戦上の考慮以外に、補給の負担を軽減するという兵站上の考慮もあった事になる。
411無名武将@お腹せっぷく:2006/08/26(土) 22:21:38
呉平定を考察する上で、高望城とか楊荷橋とか版橋とかの位置が知りたいのだけど、
そういうのを簡単に知る方法って無いものかねえ?

本当は研究論文とか読むのが良いんだろうけど、入手方法も知らないし、
例え手に入っても自分に読めるとは思えないしね。
比較的簡単なのは晋書辞典を読む事なんだろうけど、近くの図書館には無いし、
裕福ではない身にとっては、中身を見ずに買うには少し躊躇する値段なんだよね。
412無名武将@お腹せっぷく:2006/08/26(土) 22:32:51
中国の書店から出てる歴史地図帳を買え
413無名武将@お腹せっぷく:2006/08/26(土) 22:45:33
>>412
中国歴史地図集の事?
それなら図書館にあるから結構見てるよ。
簡体字のやつならweb上でも見れるしね。
あれだとカバーしきれない部分があったりする。
414無名武将@お腹せっぷく:2006/08/29(火) 04:31:54
ミ・д・ミ
415無名武将@お腹せっぷく:2006/09/07(木) 01:34:28
他に適当な話題も無いので、ちと姜維の事を。

費禕が死ぬ前の姜維の出兵ってのは、為翅周辺に集中している。
247年は為翅にいる夏侯覇を攻撃し、248年は恐らく為翅の少し西方にある成重山に城を築き、
249年は為翅近傍の麹山に城を築いている。

これには作戦上の理由も当然あるんだが、ひょっとするともう一つ理由があるかもしれない。
祁山方面も隴西方面も望める位置にある為翅周辺に永久陣地を築く事が出来れば、
祁山、隴西どちらに軍隊を進めるにしても、大きな助けとなる。
敵の動きを掣肘する意味としてもそうだし、何より兵站の助けとなるのが大きい。

255年、姜維は遠く枹罕まで、数万という大軍を前進させることが出来たが、
これには前年の戦役によって得られた戦果も大きいだろう。
晋書文帝紀にある、「邸閣を作り終えている」という記述である。
254年は狄道城の物資を当てに出来たが、翌年はそれが不可能になっている。
そんな中、涼州との境界にまで軍隊を前進させることが出来たのは、
この邸閣の影響が大きいだろう。

もし247年〜249年の戦役という、比較的早い段階で、為翅周辺に要塞を建設できていたなら、
その後の北伐も大いに変化したかもしれない。
416無名武将@お腹せっぷく:2006/09/10(日) 11:07:52
いつも思うのだけど、ここでいろいろ書かれる方の発想とかに
大変関心する。読んでて面白いです(´∀`)
417無名武将@お腹せっぷく:2006/09/10(日) 11:32:24
この時代って、どれだけ橋頭堡を築けても動員できる戦力が僅かなんよね
少ない戦力ってのは機動力と兵站への負担は軽減できるけど、どうしても
予備戦力が殆どないから作戦上の制約も大きいし
418無名武将@お腹せっぷく:2006/09/10(日) 12:01:31
数が少ないから橋頭堡を築きやすいとも言えるわけで
419無名武将@お腹せっぷく:2006/09/10(日) 19:19:15
「この時代」って、費禕時代の蜀って事?
420無名武将@お腹せっぷく:2006/09/10(日) 22:35:14
でしょ
421無名武将@お腹せっぷく:2006/09/10(日) 22:42:48
>>416
特異な発想をしているつもりは無いけどね。
それに俺の場合、軍事の知識だけで突っ走ってる感もあるし。

>>417-418
成重山に築いた城にしろ、麹山に築いた城にしろ、工事に費やせた期間から考えれば、
木柵と堀、逆茂木などによる簡易なもので、野戦築城のような簡易要塞に過ぎなかっただろう。
山を利用して堅固に作ってあるとは言え、長期間の使用に堪え得るほどの基地ではない。

当然羌族と合体した後に魏軍を撃破する事が目的だったろうけど、
最悪、春ぐらいまで持ち堪えて魏軍を一旦でも撤退させてしまえば、
その間の工事で物資の集積や多数の戦力の駐屯に堪え得る物に出来たかも知れない。

そこまで出来れば、費禕も本腰を挙げるだろうから、数万規模の遠征になっただろう。
その場合、司令官は費禕になるだろうけど。
422無名武将@お腹せっぷく:2006/09/13(水) 01:12:39
馬忠と張嶷の異民族鎮圧でも考察しようと思うんだが、あれって、
各地の異民族を各個に撃破してるから、戦略的な機動とかが見出せない。

それぞれが連携をとって、連絡線方向に機動したりとかそういうのが無い。
やっぱ国家同士の戦争の方が考察しやすいし、個人的には面白いね。


これは余計なお世話かもしれないが、これから戦争の考察をしようと思ってる人にアドバイスを。
各将軍の行った機動や、攻撃、防御は、どんな意図があったのかを考える事が、
勝敗の要因を考える際に、かなりのウェイトを占めると思う。
それを考える為には、各拠点の地理的関係、それらを結ぶ交通線の状態、
各行動の時間軸上の位置などを把握する必要があるだろう。
その上で、正面や連絡線などの幾何学的要素、士気などの精神的要素などが、
軍事においてどのような意味・効果があるのかを知らなければならない。

軍事上のそういった知識を得るには、孫子に加え、ジョミニとクラウゼヴィッツ、
更には戦史を知る事が必要。
あと、兵站を語る際にお薦めなのは、マーチン・クレフェルトの「補給戦」だね。
俺は戦略戦術に関してはジョミニの、兵站に関してはクレフェルトの受け売りだし。
423無名武将@お腹せっぷく:2006/09/16(土) 22:38:01
むじん氏が馬隆に関する記述を訳したみたいだな。
馬隆ってあまり興味なくて、八陣使ったとか、樹機能を斬ったとかしか知らなかったけど、
なにやら車陣を使って鮮卑を破ったみたいだな。

車陣は騎馬民族が用いたものだけど、やはり車陣というとボヘミアのヤン・ジシュカを思い出すね。
装甲を施した馬車を連ね、高速で敵の弱点に回り込み、車陣を組んで弓や鉄砲で攻撃する。
馬隆は、訓練不十分な兵を率いて騎士団を翻弄したジシュカと似てる所があるかもね。
馬隆の率いた兵も正規兵じゃなかったようだし。

しかし、八陣と車陣って何か関係あるのかな?
424無名武将@お腹せっぷく:2006/09/17(日) 01:07:12
もし敵の騎兵が左右両翼より襲来し、歩兵が行軍中に戦闘に入った場合、
利用可能な丘陵がないならば、車蒙陣を組んで敵の襲撃を待ち受けるべきである
地形が狭い場合には、鋸歯状に配置して敵を待ち受けるべきである
425無名武将@お腹せっぷく:2006/09/17(日) 01:50:18
>>424
それは初見だな。もしかして八陣の記述?
だとしたら俺の知識もまだまだだな。
426無名武将@お腹せっぷく:2006/09/19(火) 00:35:08
呉平定の考察をもう少し進めた。

荊州で目立った(作戦計画との差異)のは、胡奮が真っ直ぐ夏口に向かったわけではなく、
まず公安を攻撃した事かな。

で、王渾が尋陽を攻略した事と合わせて考えると、呉平定の作戦計画のコンセプトは、
薄く展開した中央(王戎、胡奮)が敵中央を牽制し、その間に両翼(王渾、杜預)が敵を破砕、
右翼後方の予備(王濬)が敵軍後方に迂回する事で包囲を為す、という感じだと思う。
実際には道路が無いので、王濬は敵軍後方を迂回と言うより、
敵の拠点を長江に沿って串刺しにしてる感じになるけどね。
完全な陸軍の作戦だった場合、上記のようなものになったんじゃないかって事ね。

詳しくは、以下を参照して欲しい。図もあるので
http://blogs.yahoo.co.jp/antoine_henri_jomini/20035782.html
427無名武将@お腹せっぷく:2006/09/20(水) 23:30:57
晋書食貨志に、済河論に関する詳しい記述があるな。以下に原文を

遂北臨淮水、自鍾離而南石以西,尽沘水四百余里、五里置一営、営六十人、且佃且守.
兼修広淮陽、百尺二渠、上引河流、下通淮潁、
大治諸陂於潁南、潁北、穿渠三百余里、漑田二万頃、淮南、淮北皆相連接

二万頃の田地を灌漑したってのは、結構凄いな。
二万頃って言うと、約1000km^2だから、おおよそ東京都の半分の面積だな。30km四方くらいか。

この記述によると、良田二万頃で、毎年五百万斛(99000m^3)を軍の兵糧として集積できるわけか。

大変だが、やはり食貨志は何とか読まないと駄目だな。
じゃないと、兵站面の論考が進まないだろうし。
428無名武将@お腹せっぷく:2006/09/21(木) 00:21:49
成国渠、臨晋陂の恩恵をうけた灌漑農地は数千頃というから、それ以上なんね
429無名武将@お腹せっぷく:2006/09/21(木) 00:37:57
>>428
淮水流域は、水と人が無かっただけで、良質の田地が潜在していたようだしね。
資本と労働力の投入で、産出が大幅に伸びる余地があったんだろう。

成国渠・臨晋陂は恩恵を与ると言っても三輔のみだからね。
技術進歩くらいじゃないと産出が伸びる余地は大きくなかったんだろう。

因みに、この淮水流域の運河の開通した翌年、司馬懿が皖城で屯田中の諸葛恪を襲ってるが、
運河によって交通線が整備された事も、この攻撃を進める要因になったのかもしれんね。
430無名武将@お腹せっぷく:2006/09/21(木) 01:57:37
元々淮水流域は人が住んでたのに国境地域になったせいで両国の人狩り政策で荒廃したからな
中原の生産力も回復したんだし人いないところに入植させようってのは至極真っ当
431無名武将@お腹せっぷく:2006/09/22(金) 01:56:13
済河論に関連してもう一つ。
ケ艾は済河論において、「三千万斛で兵士10万人の食糧5年分になる」
と述べているが、これは誇張か、もしくは輸送コストまで含めた必要量だと思う。

後漢及び魏、西晋の1斛は日本での1斗1升2合になる。
三千万斛を10万人で割り、更に5年で割ると、兵士一人当たりが1年で消費する量になるが、
これを計算すると、6石7斗3升3合になる。
1年を360日として1日当たりの消費量を計算すると、18.7合になる。
いくら通常より食べる兵士とは言え、1日約19合も食べるわけが無い。
精々この3分の1程度だろう。

上記や、>>427の内容を考慮した兵站に関する考察も、もう少し進んだらblogの方にも書くつもりだが、それともう一つ。
しつこいと思ってる人もいるだろうが、姜維の戦略思想、戦略概念とも言うべきものを、
blogに書く前に少し述べようと思う。
432無名武将@お腹せっぷく:2006/09/22(金) 02:02:07
これまでは、姜維の戦略概念は絶対戦争的色彩を強く帯びたものであると考えていた。
雍涼二州の防衛軍をほぼ完全に壊滅させる事で、一挙に支配を認めさせるものだと。

だが、彼の最初の言葉である、隴西の切り取りという言葉に立ち返り改めて考えると、
これまでの考えより、些か制限戦争に近いものであったのではないかと思い始めた。

国家元首としての姜維が定めた、当面の政治目標は、
・隴西の切り取りによる国力の増加
・上記に伴う、対魏緩衝地帯の確立
であり、姜維の軍事戦略は、如何にして隴西を領有するかという事に集約されただろう。

基本的な概念として、会戦によって敵軍の撃滅する事を主眼にしていたのに変わりは無い。
だが、それは敵の防衛戦力を無力化するほど苛烈なものではなく、
もう少し緩いものであったのではないだろうか。
433無名武将@お腹せっぷく:2006/09/22(金) 02:13:57
端的に言えば、姜維の戦略は弱者の採る常套手段である、瀬戸際戦略に近いものだったと考える。
隴西に進出すると共に、その地域に派遣される野戦軍を幾度か撃破する事で、
隴西を奪還するコストと、放棄する事による損失とを、魏帝国政府に天秤にかけさせる。
これは、魏帝国が一旦は領有を放棄し、
期間を置いた大攻勢による奪還が望ましいと考えるようになるまで続けられる。

姜維の戦略概念は、戦争によるコストを強調する事で、領有を事実化するという、
まさに制限戦争そのものと言うべきものであったのではないだろうか?
制限戦争の主流であった時代に、絶対戦争を標榜した異端の司令官とするよりも、
制限戦争における政治手段である戦争を、その本質に近づけたと言うだけの存在であったとした方が、
より自然な解釈だろう。

ナポレオンは戦争の形態を絶対戦争に限りなく近づけたが、
それは彼の内から発したもののみによって生起されたのではなく、
下地があってのことであった。
異端ではあっても、生まれてくるには何らかの下地が必要だろう。
434無名武将@お腹せっぷく:2006/09/22(金) 14:08:19
>>431
悉知の事ならもうしわけないが、戦場での兵士の一日あたりの食糧の
消費量の手がかりをもとめるなら、参考までに「漢書」の「趙充国伝」と
「晋書」の「楽志」の顧臻の上表文をお勧めする。
ついでに、漢から晋代の政府の困窮者等への基本的な食料配給量が
おおよそ五升なのも念頭にあれば幸い。
435無名武将@お腹せっぷく:2006/09/22(金) 14:55:47
>>434
御指摘有難う。
該当部分を調べてみると、趙充国伝には、馬一頭が佗負する30日分の食糧という所で、
米2斛4斗というものが見える。
これを漢代の単位から日本の単位に換算し、一日当たりの米の消費量に直すと、
一日15.2合となる。

晋書楽志の該当部分には、兵は一日7升を食すとあるので、これも晋代の単位から日本の単位に直すと、
一日7.9合となる。
加えて、漢書匈奴伝に見える、王莽を諌めた厳尤の言葉には、兵士一人の300日分の食糧として、
糒18斛という記述がある。
これを新の単位から日本の単位に直すと、300日で1石9斗8升であり、
1日で6.6合消費する計算になる。

趙充国の所だけ突出して大きいが、普通の人が1日に消費する3合という量の約倍の量を、
兵士が消費すると言うのは変わっていないように思える。
俺の趙充国伝の読み方がおかしいか、趙充国の言葉に誇張があるかではなかろうか?
今度は訳本を読んで確認してみるが、読み方があっていたとしてもイレギュラーとして扱う可能性が高いと思う。
15.2合と言うと、2.7gもの量だからね。重量で言うと2.3kgにもなる。
それだけの量を1日で食べるとは考えにくい。
436無名武将@お腹せっぷく:2006/09/22(金) 15:44:35
>>435
現代人でも副食無しで塩、味噌、醤油などで味だけ付けて飯を食うと一食で二合や三合食える
昔は栄養学なんか無くて食えればいいってのが兵士の食事の常だった
米に塩なんかの調味料、あとその辺で捕まえた動物、むしった野草とか食ってるわけ
一日6-7合どころか10合くらいなら食ってても不思議じゃないぜ!

ただ15合という数字になると運送コスト込みって主張が俄然説得力を増すな
437無名武将@お腹せっぷく:2006/09/23(土) 01:56:06
>>436
確かに食べられるか食べられないかだけを考えれば、10合くらいなら食べられるかもしれない。
だけど兵士が食べられるかどうかよりも、それだけの量を兵士が消費する事を、
軍隊という組織が許容するかというと、やはり許容できないと思う。

銃器が出現するまで、詳しく言えば、第一次世界大戦で弾丸の消費量が急激に拡大するまでは、
補給の大部分は食糧であった。
補給が軍隊の足枷であり、古今東西の軍司令官がその困難の解消に努力した事を考えれば、
例え兵士がそれだけの食糧を消費できたとしても、軍隊は不必要な量の食糧を与えないと思う。

やはり6,7合が軍隊の食糧消費量としては適正だと思う。
438無名武将@お腹せっぷく:2006/09/23(土) 02:49:22
>>437
あー戦国時代の記録になるんだが(昔読んだ本に書いてあったんだけど出典不明)
味噌、漬物だけでご飯3合一食で食うのが普通だったらしい
軍隊という組織で飯をケチればどうなるか、曹操が身を以って実証しているし
軍隊という組織は10合食うのを許容してたんだと俺は考える
439無名武将@お腹せっぷく:2006/09/23(土) 05:28:18
1日の食事量なら、2回に分けて10合いけなくもない?
440無名武将@お腹せっぷく:2006/09/23(土) 21:26:21
>>438
当然糧食をケチれば兵は飢え、士気も下がるだろうけど、
6,7合という量は決して少なくは無いと思うんだよね。
そりゃ、2,3合しか供給しないってんならおかしいだろうけど。

近代のフランスの話になるんだけど、ルーヴォワによって軍需品倉庫が出現し始めた頃、
兵士一人に供給される穀物は1日に2ポンドで、米で言うと6合になる。
既に挙げた厳尤の話でも、6.6合だし、顧臻の話でも約8合になる。
また、「戦略戦術兵器事典 中国古代編」によれば、
前漢では、兵士に与えられる俸給は月に穀物2斛(68.6g)だしね。

と、ここまで書いて思ったんだが、ケ艾の言葉にあった兵士1日あたり19合という量は、
戦時に消費する量を言っているのではなくて、兵士に与えられる俸給の事なんじゃなかろうか?
ケ艾の言葉通りの量を、漢代の単位に直すと、月に約3斛で、俸給と考えればおかしくはない。
441無名武将@お腹せっぷく:2006/09/23(土) 21:38:23
戦争中の食料って、給料から天引きされるんかな?
442無名武将@お腹せっぷく:2006/09/23(土) 21:41:00
>>441
そんな事したら兵士の不満がたまりそうだけどな。
知らないだけでそういう記述もあるかもしれんから、
天引きしてなかったとも言えないけど。
443無名武将@お腹せっぷく:2006/09/24(日) 21:31:40
墨子なんかだと人間の一日の穀物摂取量は一斗くらいに定めてるし、
福祉政策で政府が配給する穀物はたいてい五升だし、五丈原で諸葛亮が
数升しか食べないって話で司馬懿が余命を計ってるし、現代ほど僅かな食事で
高い栄養価を得られるわけでもないし、>>440は多くの書を読んでいる割に
その辺の考え方や基準が現代的っぽい感じ
444無名武将@お腹せっぷく:2006/09/24(日) 22:08:25
ごめん、皆、俺頭悪いからお願いなんだけど、これリットル換算だとどうなるの?
俺は後漢・三国時代は1斛=約20リットル、1斗=約2リットル、1升=約0.2リットル
と理解してたんだけど。
出来れば()付きでリットル換算の値も入れてくれたら嬉しいんだけど。ダメ?
445無名武将@お腹せっぷく:2006/09/24(日) 22:49:35
>>444
来ますたね
それであってるよ
446無名武将@お腹せっぷく:2006/09/24(日) 23:24:31
>>443
「学びて思わざれば 則ち罔し」というやつかな。確かにそういう面もあるだろうね。

史書の記述を掻き集め、そこから帰納的に法則を導き出そうとする以上、
意にそぐわない記述も当然出てくる。
それを切り捨てるか受け入れるかは、自身の知識や感覚に拠るだろう。
俺の場合、自身の知識に基づいて、そういう記述を修正したり無視したりする事も多いし、
感覚や基準が現代に近いものであるという批判も出るだろう。

ただ、この件に関しては、やはり現状では受け入れがたいものがある。
少なくとも近代以降で、軍隊の消費する食糧の量が劇的に変化したという話は聞かないし、
新代から後漢にかけて数倍にもなったり、三国から東晋にかけて数分の一になるというのも、
普通に考えればおかしい。
中国古代全体にわたって、軍隊の食糧消費が高かったというのであれば、
時代による大幅な変化を認める事も出来ようが、自身の軍事常識と合致するものも散見するとなると、
増大してる記述には、何か別な要因も絡んでいると考えるのも、完全な間違いとは言えないと思う。
当然、減少してる記述が例外であって、恒常的に多量の穀物を消費していた方こそ、
当時の状況を表しているという可能性もあるけどね。

この辺は蓋然性の問題になってくる。
他者の素晴らしい考察によって、または自身の知識の増加によって、
古代の軍隊における食糧消費が現代より大幅に増大していると言う事が認められるなら、
俺はそれを受け入れるべきだろうし、受け入れもする。

>>444
幾つかはリットル表記も書いたし、分かり易いように日本の合や升に換算もしたが、
今後は逐一リットルも併記する事にするよ。
447無名武将@お腹せっぷく:2006/09/24(日) 23:31:04
>>446
疾病は風土以外に栄養の偏りも大きかったのかねえ?
448無名武将@お腹せっぷく:2006/09/24(日) 23:43:19
>>447
当然あったと思うよ。何人も言ってるけど、当時は栄養学なんて確立されてないしね。
そもそも、身近な例として、たった100年前の日露戦争においてですら、
脚気の蔓延というのがあったわけだし。

管子に拠れば、周代の成人男子は月に塩を5升3合(約1リットル)を消費したと言われ、
塩を摂らないと体が腫れるとされていたらしい。
こんな感じで、ある程度の事は経験的に分かっていただろうけど、
どの栄養素の不足が何を引き起こすか、なんて事は分かっていなかっただろうしね。
449無名武将@お腹せっぷく:2006/09/25(月) 00:57:01
>>445
や。両漢、魏晋の時代なら度量衡は概ね一致するし、誤差もせいぜい原器の誤差内だと思うんだけど、
墨子とか出てくると、その墨子で言ってる単位は秦の度量衡統一以前の単位で言ってるのか、
前漢の時に書かれた(或いは書き直された)テキストでの単位なのかって話になってね。
とすると、消費している食糧が多いとか少ないとかってのの言いあいも、お互い了解しあってのこと
なのかそれともどこかでお互い理解してる度量衡単位のズレがあってのことなのか分からなくなった訳。
加えて漢代の単位と日本の単位が、それも呼称が同じ単位が入り乱れてる中に始めてそういう予備知識が
ない人が入って来てログ読んだ場合、すごい混乱すると思って確認の為に訊いて見た部分があります。
と言うか、最初にログ読んだ時にお互いP to Pで分かりあえてるのかが分からなかったので。

独り言:ここで木牛・流馬について訊きたいことがあったけど、自己解決しまつた
450無名武将@お腹せっぷく:2006/09/25(月) 01:07:16
>>449
聞きたい事ってのは何?気になってしまうのだが
451無名武将@お腹せっぷく:2006/09/30(土) 10:55:06
軍の消費する食糧について、また別の記述を調べてみた。典拠は後漢書南蛮伝

永和二年(137年)の、李固駮が4万人による日南までの遠征計画を諌めた記述に拠れば、
兵士一人が消費するのは、後漢の単位で1日5升(1リットル弱)、300日の遠征で計60万斛とある。
452無名武将@お腹せっぷく:2006/09/30(土) 11:07:39
それに似た記述で王莽が匈奴を討伐しようとして厳尤が諌めた件があるけど、
どちらも消費量の水準を最低ラインで見積もってるのか、そうでないかを
見極めないといかんね
民への支給でさえそうなんだから、五升は最低ラインにしか思えんけど
453無名武将@お腹せっぷく:2006/09/30(土) 21:08:02
李固駮の記述には、注釈として「古升小、故曰五升也」とあるが、
劉宋における升の量が分からないな。
東晋は0.2リットル程度だが、南朝斉は0.3リットル程度だって事を考えると、
劉宋は南朝斉と同様の0.3リットル程度だったと見た方がいいな。

>>452
厳尤にせよ、李固駮にせよ、兵站面で無理があるからという理由で遠征に反対している以上、
計算に用いた消費量は、当時の軍隊の兵站面での限界を述べていると見た方がいいと思う。
もし消費量を低く見積もり、可能供給量の限界未満で計算してしまっては、正当な批判とならない。

あと、漢代から晋代の福祉政策で飢民に与える穀物が5升だってのは、何処の記述にあるのか教えて欲しい。
正史の記述は探しているんだが、三国志魏書管寧伝付胡昭伝に、
隠者の焦先に対し日に5升を与えた事しか見つけられてない。
これも、侯武陽が恩のある焦先に便宜を図っているようにも見えるしね。

他には参考になりそうな記述と言うと、
・公孫瓚が、天下の趨勢を見極めようと易京に篭った時に積んだ穀物が300万斛(6000万リットル)
・袁術が呂布を支援した際に送ったのが、米20万斛(400万リットル)
・陶謙に軍隊解散の勅命が下った時の、陶謙の返書に拠れば、彼は100万斛の穀物を調達していたとある
・曹操が馬超らを渭水で破った時、残った軍糧が20余万斛
・劉璋が劉備に張魯討伐を依頼した時、兵力3万の劉備に送った穀物が20万斛
とりあえずこんなところか。
454無名武将@お腹せっぷく:2006/09/30(土) 22:38:28
(・∀・)<後期伝か〜イイネ!俺も呉の滅亡付近とか…ん?

(゚Д゚;≡;゚д゚)<え、え〜と張悌&沈瑩&諸葛セイトリオとか…皇族ながら殉じた孫震…

(;゚д゚)<ゆ、勇将吾彦に、あ、あと陶濬と…
  _, ._
( ゚ Д゚)<ば、場違い!?
455無名武将@お腹せっぷく:2006/09/30(土) 22:48:39
>>454
場違いじゃないよ
思う存分語ればいいじゃない
456無名武将@お腹せっぷく:2006/10/01(日) 01:53:39
>>455
えっと、じゃあ俺の妄想ステージを聞いてくれ。

呉平定戦(呉軍側)
マップは長江沿いに中央を画面左から建平、西陵、江陵、夏口、武昌、牛渚にそれぞれ城、右端に建業方面からの自軍侵入路。
敵侵入路が画面上部に五つ(左から襄陽・江夏・安西・寿春・下ヒ方面)と左端に一つ(蜀方面)、画面下に広州と、さらに敵侵入路。
戦闘は主に画面中段の長江流域の諸城を巡って争われる。
勝利条件:敵総大将賈充撃破、賈充の撤退(イベント)
敗北条件:総大将張悌の敗走、孫皓の降伏(イベント)、自軍潰走(イベント)

呉軍PCは丹楊の陥陣営ことw「青巾兵」率いる沈瑩と、「猛獣殺し」の異名を誇る豪腕、吾彦。
顔有りNPCに総大将の張悌、参謀の諸葛セイ、NPCに陶濬、孫震など…(孫皓は戦場に出ない)

(以下沈瑩の場合)
まずステージ開始と殆ど同時に西陵、江陵、夏口、武昌が晋軍の猛攻を受け、次々に陥落していく。
留憲、鄭広、陸晏、陸景、虞忠、伍延、周興らが次々に討ち死に、あるいは降伏(一言セリフあり)。陶濬は「まだだ!」と言いつつ撤退。
ただ左端の建平城は吾彦の奮戦で保っているが、孤立状態。晋軍も包囲したまま放置して進軍。
また画面下で郭馬が反乱を起こして広州で独立状態。

総大将の張悌、参謀の諸葛セイ、友軍の孫震と共にまずは牛渚まで進軍。
・イベント発生して牛渚堅守を訴えるが張悌に反論される。(以降張悌軍の士気が一定以上下がると自軍潰走イベントが発生して自動的に敗北となる)
張悌軍は橋を渡って北岸に行くため橋付近の拠点を守る張喬を撃破して降伏させる。
・イベント発生して諸葛セイが「処刑しよう」というが張悌は降伏承諾。(以降一定時間以内に王渾を撃破できないと再び反旗を翻す。士気低下)
王渾軍を無事撃退すると士気上昇。以後張悌軍は一丸となって長江沿いに前進する。
457無名武将@お腹せっぷく:2006/10/01(日) 01:54:11
以降のイベント
・「孫皓の降伏」:建業付近まで敵軍の進入を許す。敗北。
・「司馬チュウ軍撃破」:司馬チュウを撃破する。自軍士気上昇。
・「司馬チュウ軍奮戦」:司馬チュウが指定地点到達。自軍士気低下。
・「王戒軍撃破」:王戒を撃破する。自軍士気上昇。
・「王戒軍奮戦」:王戒が指定地点到達。自軍士気低下。
・「胡奮軍撃破」:胡奮を撃破する。自軍士気上昇。
・「胡奮軍奮戦」:胡奮が指定地点到達。自軍士気低下。
・「南方の鎮圧」:郭馬を撃破する。自軍士気上昇。
・「反乱の拡大」:上記イベント発生まで定期発生。一定時間経過とともに自軍士気低下。
・「吾彦を救出」:建平の包囲を解く。自軍士気上昇。
・「建平の陥落」:上記イベント発生前に吾彦が敗走。自軍士気低下。吾彦は戦死。
・「増援軍到来」:一定時間自軍士気を保ち続ける。陶濬が軍を率いて再度登場。自軍指揮大上昇。
・「増援軍潰走」:上記イベント発生前に一定時間経過、士気が低い。陶濬軍が出発前に兵が逃亡。自軍指揮大低下。
・「破竹の勢い」:王濬と杜預が武昌で合流。敵軍士気大上昇。自軍士気低下。王濬と杜預が覚醒状態に。
・「杜預軍撃破」:杜預を撃破する。自軍士気上昇。
・「王濬軍撃破」:王濬を撃破する。自軍士気上昇。
・「呉軍の崩壊」:自軍の士気が一定以下になると発生。自動的に敗北。
・「賈充の撤退」:杜預を撃破、且つ戦況が呉有利だと発生。自動的に勝利。
458454:2006/10/01(日) 01:56:10
以上。

正直言って書ききった時点で1人勝手に満足した。以後スルーしてもらっても結構。
459無名武将@お腹せっぷく:2006/10/01(日) 02:28:04
>>456-458
MAPは荊州と揚州両方含んでるみたいだな。
開戦直後の王渾の尋陽攻略や、胡奮の公安攻略とかを入れても良いと思った。

個人的には、
http://blogs.yahoo.co.jp/antoine_henri_jomini/folder/1486861.html
ここを読んでみてくれると嬉しい
460無名武将@お腹せっぷく:2006/10/01(日) 02:59:54
>>459
まさかこんな自己満オナニーにレスくれる人が居るとは思わなかったw感謝。

そのブログはもしや貴方の?凄いな。なんかイメージがより鮮明になった感じ。
江陵攻略を公安・西陵などの陥落を経た上での一つの山場に持ってくる方がいい感じになりそうかな?
晋軍側からの呉平定ステージの時はその方針でw

王渾の尋陽攻略は正直言って軽視してたね。なんせ張悌を討ったにくk(ry
もとい、如何せん地味な印象は拭えなかったもので。
461無名武将@お腹せっぷく:2006/10/01(日) 22:22:08
>>460
この大戦の山場は、江陵陥落と楊荷橋会戦の二つだろうね。
江陵の陥落で晋の荊州領有が確定し、楊荷橋会戦で呉の防衛力がほぼ0にまで落ち込む。
統一の流れを変えることはできなかっただろうが、晋内で反対意見が根強かった事を考えれば、
呉が踏ん張れば、何かが起こった可能性も無いとは言えないからね。
江陵を落としたにもかかわらず、前進を停止するべきという意見が出るくらいだし。

無双後期伝を考えた場合、史実通りだと、この大戦は最終ステージなのに晋側だと簡単な感じだな。
462無名武将@お腹せっぷく:2006/10/02(月) 13:39:06
>>461
俺の妄想ステージの晋側では、呉の守護神陸坑存命バージョンとなってるw
即ち腹心吾彦から「蜀方面から侵攻の恐れあり」を聞いた陸坑が万全の体制を整えて待ち受ける設定。
幻の水軍二万と大型船団もここでは無理を推して開始と同時に出陣。

陸坑の守る西陵を落とすまで江陵は開かず張悌軍も牛渚〜建業間を湾岸で堅守。
一定時間以上粘られると「敵増援の到来」「吾彦の後方強襲」「最後の勝機(陸坑ハイパー化)」が同時発動して王濬軍大ピンチ。
ちなみに陸坑が戦死すると戦意喪失した江陵の兵が内通して城門開門、張悌軍も死守を諦め死に場所求めて王渾軍に突撃。
陸坑、張悌戦死で孫皓の降伏と…

とまあ妄想の垂れ流しはここまでにして、実際に晋の呉平定時に呉が取り得た最善策を探ってみるのはどうだろうか?
江陵陥落までは多くの人間が降伏を拒んで討ち死にしてるのに、それ以後雪崩をうったかのように降伏が相次ぐわけで、
ご指摘の通り江陵陥落をどうにかして引き伸ばすしかないのだろうけど、どうすれば守りきれる(可能性だけでもでる)のだろうか…
463無名武将@お腹せっぷく:2006/10/02(月) 21:36:51
郭馬の存在は無視なの?
464無名武将@お腹せっぷく:2006/10/02(月) 22:21:05
>>463

>>456
>画面下に広州と、さらに敵侵入路。
>画面下で郭馬が反乱を起こして広州で独立状態。
>>457
>「南方の鎮圧」:郭馬を撃破する。自軍士気上昇。
>「反乱の拡大」:上記イベント発生まで定期発生。一定時間経過とともに自軍士気低下。
465無名武将@お腹せっぷく:2006/10/02(月) 23:34:07
>>462
あの状態から持ち直すのはかなり難しいね。

会戦当初、王濬、杜預、胡奮の三箇軍は、江陵を目標とした求心作戦線を採っている。
付入るとすればここかな。荊州をなんとかすれば、揚州は耐えるだけで大丈夫だろう。
急進的に迫る敵に対する常套手段である、内戦作戦を採るべきだろう。

まずは、西陵以西に駐屯している軍勢を西陵まで引っ込める。
できればもっと西方で遅滞行動を行いたいが、この戦役で最大の戦力を有す王濬が相手だから無理だろう。
西陵周辺で王濬に対する防御戦闘を行い、出来得る限り時間を稼ぐ。

その間、江陵周辺で編制できる最大の野戦軍を以って胡奮に攻撃を掛け撃破する。
その際、一部を北の杜預に対して向け、遅滞行動をさせる。
後は、順次敵を撃破していけばよい。

敵を撃破する主力は、機動力を持った軍を戦術手腕に優れた指揮官が率いる必要があり、
杜預に対しては、地勢を読む力に優れ、防御戦闘の得意な指揮官が必要だな。
王濬に対しては、篭城の上手い指揮官と、外で水軍を率いる名提督がいるだろう。
あとは戦力ももう少し要るだろうな。

主力指揮官に255年頃の蜀野戦軍を率いた姜維、対杜預にケ艾、西陵で篭城するのが羅憲、水軍を周瑜が率い、
江陵で鍾会が全軍を指導すれば、光明が見えるかもしれない。
466無名武将@お腹せっぷく:2006/10/03(火) 00:45:56
>主力指揮官に255年頃の蜀野戦軍を率いた姜維、対杜預にケ艾、
>西陵で篭城するのが羅憲、水軍を周瑜が率い、江陵で鍾会が全軍を
>指導すれば、光明が見えるかもしれない。

無茶言い過ぎ
征呉戦で史料から窺える呉の将官どもって、沈瑩も指摘してるけど
ほんと戦意なしか能無しか経験不足ばかりかってくらいあっけないよね
張政あたりも名ばかりで実なしって感じだし、史料をみてると無駄に位階の
高い将官ほどあっさり降ってて、太守や一拠点の督に過ぎない程度の連中の
方が幾分はまともに戦ってたりするから情けない
一番のネックは陸抗以降の総司令官がいない事なんだろうけど
467無名武将@お腹せっぷく:2006/10/03(火) 01:26:33
>>466
そんな無茶を要求しなければならないくらい困難だ、って事が言いたかったんだよね。
史書に見える当時の呉の人物だけでは、はっきり言って不可能だと思うよ。
士気が崩壊している上、指揮官の質も劣っているのでは、手の打ちようが無い。
あとは、晋側の失策に掛けるしかないな。

まぁ、そういう状況だからこそ、晋の方も開戦に踏み切ったんだろうけど。
468無名武将@お腹せっぷく:2006/10/04(水) 23:59:51
てか、陸抗以後は荊州諸軍を統括するような都督はいないんじゃない?
469無名武将@お腹せっぷく:2006/10/05(木) 00:21:20
呼んだルー?
470無名武将@お腹せっぷく:2006/10/05(木) 00:45:21
>>468
そういや、陸抗以降は、方面軍全体を指揮する権限を与えられた人物は見られないな。
豪族の私兵が中心だった呉の軍制も原因だろうし、
孫皓自身が外に大きな権力を持った人物を置きたくなかったのかもしれん。
反乱や投降が頻発してたしね。

中央政府の統制力が弱いと言うのは、こういう場合には問題だろうな。
どれだけ優れた作戦を構想しても、指揮権を持たなければ実行する事はできないし。
蜀の場合も、姜維の戦力が削がれ、実質的な指揮権が縮小された事も敗北の一因となってるしな。
471無名武将@お腹せっぷく:2006/10/09(月) 23:45:18
472無名武将@お腹せっぷく:2006/10/13(金) 17:31:27
473 ◆Henri9gNlM :2006/10/14(土) 23:59:43
トリのテストをかねてちょっとレスを。

呉には中央政府直属として、虎騎や無難などの大規模単一兵科部隊が存在したようだが、
豪族が世襲する私兵が彼らの戦力の大部分だったことを思えば、
呉は必然的に、規模のバラバラな諸兵科連合部隊を最小単位とした戦闘を行わざるを得ない。
こういった形態は戦国時代の日本に近いね。

有事には中央政府より指揮権を与えられるとは言え、豪族共は自前の戦力で戦うのだから、
無能だからと言って代えられないし、有する戦力の大きな人物を無碍にする事も難しい。
呉の軍隊は大規模な会戦には向かないのかもしれないな。
諸軍団を指揮する立場の人間にカリスマ性が要求されるし、明快なバトルドクトリンは定めにくい。
少なくとも会戦の初動で勝利する事は困難だっただろう。

当時の呉と同じ条件と言う事では、いくら考えても、晋より防衛する為の良い方策は浮かばんね。
474無名武将@お腹せっぷく:2006/10/15(日) 09:29:03
陸抗死後、その軍は5人の息子に5分割されてるし、主君の介入も普通にあった
475無名武将@お腹せっぷく:2006/10/15(日) 10:14:42
>>474
言い方が悪かったかな。
平時に、私兵の相続に関して介入したりとかって話ではなく、
有事に都督として豪族を指揮する場合に、鍾会が諸葛緒に対してやったように、
その豪族の兵を取り上げて別の指揮官に指揮させる、という事ができないと言う事。
476無名武将@お腹せっぷく:2006/10/15(日) 18:59:28
>>473
> 豪族が世襲する私兵が彼らの戦力の大部分だったことを思えば、
> 呉の軍隊は大規模な会戦には向かないのかもしれないな。
それは呉に限らず程度の差はあれ魏や蜀にも当てはまること。
たとえば朱霊の私兵召し上げはそういう文脈で読まれるべき。
477無名武将@お腹せっぷく:2006/10/15(日) 19:23:17
>>476
うん、それは分かってる。
蜀だって、魏延なんかは私兵を率いて従軍したとはっきり書かれてるしね。
ただ、魏と蜀は時代が下るにつれてそういった傾向が薄れ、
中央政府の管理する軍隊を、これまた中央政府から派遣された将軍が率いる、
という形の制度へと変貌を遂げていっているように読める。
呉では一貫して、豪族の死の記述の後には、その子弟が兵を引き継いだ事が記されている。

従って、呉は他二国と比べ、中央集権化の進行が著しく遅かったと考えている。
478無名武将@お腹せっぷく:2006/10/15(日) 23:28:38
呉の人口が少ないというのは、単に皇帝直轄の戸籍が少なかったということか
479無名武将@お腹せっぷく:2006/10/16(月) 18:36:19
>>477
いわゆる二宮の変も、あまり集権的でない体制の中での出来事として捉えないといけないよね。
全て孫権の思い通りに出来る体制でなら単なる老害による乱かもしれないけど、実態は逆で孫権は始めから事態収拾に力を尽したんじゃないかと思うんだよな。
480無名武将@お腹せっぷく:2006/10/17(火) 16:02:51
そうだとすればそれこそ途中までは火に油注いでるだけで耄碌したとしか思えないが・・・
481無名武将@お腹せっぷく:2006/10/17(火) 17:42:40
事態収拾だけが目的なら道理に沿って太子をたてれば済むことだろ。それ以上は抗議のしようがない。
482無名武将@お腹せっぷく:2006/10/17(火) 18:02:55
太子はすでに立ってたけどね。
しかし太子や皇后を立てるにも豪族の後押しが必要なんだよ。
483無名武将@お腹せっぷく:2006/10/17(火) 18:17:49
>>482
言いたいのはそゆこと
「道理に沿って太子を立てる(決める)」ことが豪族や有力者の関係で簡単じゃなかったんじゃないかと

良くも悪くも大臣や有力者の顔色を見ながらでないと思い切ったことは出来ない
もし大臣や有力者の意見が既に割れていたら…
決定を割って先伸ばしするしかないわけで
484無名武将@お腹せっぷく:2006/10/17(火) 18:46:54
豪族に軒並み反発されてたならともかく、呉土着の中でも最大手の4姓の内の陸顧朱の三家や
流入組の有力者として張、諸葛、朱(施)などから軒並み支持されてるわけで。
しかも彼らの「太子と魯王の待遇を別けるべき」ってのは道理に則っていたわけで(例え罪を被ると云えども)
抵抗するやつはするし、実際決着以前に何人も左遷や処刑されてる。

決着を先送りどころか孫権自身が積極的に魯王推してるし、そうでなければ本来魯王派は抵抗のしようがないだろ。
「魯王の親族だから」という歩シツらに大義名分はない。
485無名武将@お腹せっぷく:2006/10/17(火) 19:11:16
豪族にも色がある
むしろ四姓みたいなのに反発的と言える勢力もいたということ
つまりは四姓らよりも新興で権益をこれから奪い取る側
四姓らは既ににある既得権を守る側
太子を四姓ら既得権側で固めてるから、新興層は魯王を利用して権益を獲得したい

また孫権も四姓らがとりまきすぎた太子にある種の危機感を抱き、二宮の対立を利用しつつ四姓らの有力大臣(豪族)を抑えるというメリットがあったし、新興豪族の力も使いたいからむげにはできない

陸遜の件など、孫権は見た目には悔んでいるようだが、まんまと発言力の強い陸遜を消せて内心では舌を出していたのではなかろうか

既得権を持つ側と新興層との間での微妙な梶取りが孫権による二宮の対応かな、と
486無名武将@お腹せっぷく:2006/10/17(火) 19:34:06
>>485
孫権は目障りな重臣を粛清するために新興勢力を利用したなら
「実態は逆で孫権は始めから事態収拾に力を尽した」わけでも「豪族や有力者の関係で簡単じゃなかった」わけでもないじゃん。
最初から「孫権は耄碌したんじゃなくて陰謀を用いて陸遜らを嵌めただけ」といえば反論はしなかったのに。

結果的には以後孫家の求心力は急速に低下し、豪族間もまとまりを失って国内は恒常的に不安定になったわけで失策もいいとこだが。
487無名武将@お腹せっぷく:2006/10/17(火) 19:56:41
新興豪族の動きに孫権が乗ったんだよ
四姓や名士の力があなどれないからこそ二宮並立から始まったわけで、孫権にもっと力がありゃ、んなまわりくどいことしてないっさ
あと事件以後って孫氏の支配力は相対的に強化されたと言えないだろうか
孫峻政権、孫和、孫皓と引き継がれて
488無名武将@お腹せっぷく:2006/10/17(火) 20:54:45
>>487
孫権に力がない?張昭らがどんなに反対しようが遼東出兵は強攻してるし。反対されるだけあり大失敗だが。
発言力も糞も正当な手続きを踏んだ道理に沿った行動を重臣らに曲げられたなんて結果は孫権政権では起ってない。

そういったのは後の(孫和はミスかな?)孫休政権等になってからが顕著なわけで、
相対的に強化されたって何を見てそう思ったか聞きたいくらい。

489無名武将@お腹せっぷく:2006/10/17(火) 21:57:25
まあ、そんなにかっかすんな。
490無名武将@お腹せっぷく:2006/10/17(火) 22:03:52
閣下あげ
491無名武将@お腹せっぷく:2006/10/22(日) 22:45:04
492無名武将@お腹せっぷく:2006/10/23(月) 02:52:59
493無名武将@お腹せっぷく:2006/10/24(火) 13:37:33
いも(゚∀゚)


初期と後期で食生活に大きな変化は
あったのだろうか
494無名武将@お腹せっぷく:2006/10/24(火) 14:03:05
そりゃあるだろ
初期の群雄割拠の頃は「是歳穀一斛五十餘萬錢,人相食,乃罷吏兵新募者.陶謙死,劉備代之.」とかだぞ
農業政策に各国が力を入れて飯に困らない後期とは全然違う
495無名武将@お腹せっぷく:2006/10/25(水) 01:14:22
また食料の話を始めるかい?

>>494
その時は、飢饉に加えて董卓の貨幣改鋳によってハイパーインフレーションになってたしね。
1斛(19.8リットル)の穀物が50万銭ってのは凄いな。
嘉平六年(254年)に徐邈らの家に下賜されたのが、穀物2千斛(40.4立米)と30万銭だった事や、
元康七年(297年)の飢饉でも1斛(20.2リットル)で1万銭だった事を考えると、
董卓によって引き起こされたインフレの凄まじさが分かる。

泰始元年(265年)の大赦では、自活できない人々に、一人当たり5斛(101リットル)が与えられてるね。


食生活と言う点だとどうだろう?
中国社会風俗史によれば、漢から魏晋の頃は、豆や粟の粥がよく食されたらしい。
石崇なんかは、韮の葉の塩漬けを客に出してたという記述もあるようだ。
496無名武将@お腹せっぷく:2006/10/31(火) 00:32:29
どうやらまた流れが止まっているようなので、蒋琬の漢水下りでも考えよう。

この計画、241年に呉との共同作戦という形で行えれば、案外いけたかもしれない。
朱然の包囲陣地に攻撃を掛けられなかった事から、
宛にいた夏侯儒は精々1,2万程度の戦力しか率いていなかっただろう。
呉と蜀で戦力を結集できれば、かなりの優位を得られたはず。

問題は、呉の北上をどこまで認めるか、という事に合意を得られるかどうかだろう。
呉も荊州を北上する場合、襄陽の獲得は必ず要求するだろうし、
例え南陽を蜀が得ても、連絡線確保の為に襄陽は必須となるので、蜀としても襄陽は欲しい。
襄陽を得ないと漢水の線が使えないからね。
ただ、徒に対立して歩調を合わせられねば意味が無いので、
やるならば、思い切って南陽から豫州に出るルートは捨てるべきだろう。
代わりに、南郷・房陵以西の領有を目指す。

晋書によれば、
魏興郡:12,000戸、上庸郡:11,448戸、新城郡:15,200戸、順陽郡(南郷郡):20,100戸
とあるので、合わせて58,748戸、1戸当たり4人としても、20万人以上の人口増加になる。
それに加えて、武関より長安東方へ出るルートも用いる事ができるので、
益州のみよりは有利になるだろう。
ただし、荊州を手に入れるならば、城を落とすだけでなく、救援の軍勢を叩く必要もある。
夏侯儒の撃破と、救援の軍(恐らくは司馬懿か?)の撃破を、呉と共に早期に達成しなければならない。

大規模野戦軍を鍛え上げ、それを姜維に率いさせたものを中核とした軍を遠征軍とし、
途中魏興や上庸の監視に軍を割きながら、一気に漢水を500km下り、山間部を抜けた所で、
魏の軍と決戦を行う、というのが望ましいだろう。
497無名武将@お腹せっぷく:2006/11/01(水) 22:51:31
たまに来ると面白いのが投下されてるのが
このスレの素敵クオリティ(゚∀゚)
498無名武将@お腹せっぷく:2006/11/02(木) 22:31:51
ショウエンの計画はヒイとキョウイで潰してるよね
生前からヒイが大将軍になってるし、どうもショウエンは派閥争いに実質負けた印象
499無名武将@お腹せっぷく:2006/11/03(金) 01:23:03
姜維の場合、病床にあった蒋琬の代理として、費禕や馬忠などの慎重派と、
最終的な意見の調整に行ったのではないだろうか?
姜維は蒋琬の司馬だったし、軍事面の経験に乏しい蒋琬の補佐として、
作戦立案等にも深く関わっていただろうから、慎重派との議論を行うに丁度良い。
500無名武将@お腹せっぷく:2006/11/03(金) 02:56:08
議論と言うと聞こえはいいが、実際には計画を放棄して涼州攻めに転換してるから、要するに失脚だよね。
まあ病気で元々政務などを見る状態じゃなかったかもだが、それなら漢水下り計画を進めた事はどうなるんだろうか?
501無名武将@お腹せっぷく:2006/11/03(金) 08:02:49
むじん氏などのように、あれを蒋琬を失脚させる為のクーデターと考える人もいるようだが、
自分はそこまでの意味を持った事じゃないと思ってる。
単純に、病気がひどくなってきたんで次代の体制を整えただけだと思う。

漢水下り計画については、恐らく240年頃には大司馬府内で具体化されており、
艦船の建造も進められていたが、241年の費禕との協議で方針転換が規定路線になってたんだと思う。
で、その241年の協議で、蒋琬と姜維が費禕らとの議論の上で練った涼州攻めが、
漢水下りに代わる計画として指定されたのだろう。

242年の姜維の涪駐屯は、涼州攻略計画に沿った涪の拠点化の準備の為で、
ついでに成都で馬忠、費禕との最終的な協議を、蒋琬の代理として行ったんじゃないかと。
502http://tadadenetoge.web.fc2.com/index.html:2006/11/04(土) 09:32:42
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503無名武将@お腹せっぷく:2006/11/04(土) 13:55:06
みんな深いなぁ
ここ来る人の見識を見ていると
まだまだ知らない解釈や事実が眠ってるんじゃないかって
万事穿ってみたくなる……
504無名武将@お腹せっぷく:2006/11/13(月) 17:56:42
揚げます。じゅーじゅー。
505無名武将@お腹せっぷく:2006/11/13(月) 21:13:22
はにゃーん4回、もじもじ2回
506無名武将@お腹せっぷく:2006/11/13(月) 21:16:17
     ,.-―┬-、
    /,. z===、ノ
    `i ハノヽハ〉    〓 モ ス バ ー ガ ー 〓
    ヾゝ!|,,゚ ヮ゚ノi   みんな大好きモスバーガー!
     _/i)_∀ト_    下のスレに1番だと思うモスのメニューを
     ゙ーく_,/_jー'    書き込んでプリーズ☆
      〈 〈 〉 〉    
      ゙-' `-'     書き込むと夢の中で今夜お腹いっぱい
              モスが食べられるよ!

   http://anime.2ch.net/test/read.cgi/iga/1163311228/l50

507無名武将@お腹せっぷく:2006/11/21(火) 01:22:42
蜀平定戦に関して、剣閣に至るまでの姜維や、ケ艾の陰平越えを中心に見てる人も多いと思う。
だが、剣閣を放棄した後の姜維と鍾会の機動というものも、実は面白い。

劉禅が降伏していなければ、していたとしても姜維がそれを無視して戦っていれば、
あれは少数精鋭による内戦作戦と、大軍による外線作戦の模範的とも言える戦例になった可能性が有る。

姜維は剣閣を放棄した後、巴に入り(恐らくは三巴という意味で、江州ではなく巴西)、
ロウ水に沿って充国、若しくは安漢まで南下し、そこから西へ転じ、
広漢、シ県を経て、大渡より洛水を渡って成都と雒城の間に出ようとした。

この機動を、王商の孫で西晋の時代蜀郡太守となった王崇が、
真っ直ぐにケ艾に向かわなかったと批判しているが、これは的外れな指摘。
別スレで劉備の益州攻略について述べた時に言ったが、雒城を押さえられた場合、
姜維の通った道か、若しくは更に南下して江原や武陽を経由して南から向かうしか、成都へ至る道は無い。
雒城を落として南下するなど、はっきり言って愚策だしね。
単純な距離ではなく、各種の抵抗まで加味すると、姜維の採った道が最良と言える。

それに対して鍾会が採ったのが、外線作戦の好例とも言える機動。
ロウ水を南下して姜維を追う軍、涪より涪水を南下して姜維の側面に出る軍、
涪より陸路五城を経て大渡を遮る軍と、三箇軍をそれぞれ姜維を包囲するよう部署した。

姜維は剣閣より300kmもの距離を踏破しシ県まで来ていた。すぐにでも大渡へ向かっている魏軍に気付いただろう。
もし姜維が降伏の詔勅を受け取らず、敵の各個撃破を企図・実行していたら、
と考えると、劉禅の降伏が非常に悔やまれる。
508無名武将@お腹せっぷく:2006/11/26(日) 02:38:24
一人でもスレを回し続けますよ。

羅憲最大の見せ場である、蜀滅亡時の永安での攻防に関して、
華陽国志には歩協(文章では歩闡となっているが、歩協の誤りだろう)と共に、
唐咨が攻撃に加わった事が記されている。
唐咨は諸葛誕の乱の際に魏に降っている筈なのに、何故ここで名前が出てくるんだろうか?
509無名武将@お腹せっぷく:2006/11/26(日) 02:47:55
ここにいるぞー
あんまり詳しくなくて書く方は全く出来ないけどいつも読んでます
柱の影から応援しております |∀゚)ノ
510無名武将@お腹せっぷく:2006/11/28(火) 00:23:47
>>509
ありがとう。
応援は嬉しいし、ROMだけでもありがたいんだが、
俺自身そう大した事書いてるわけじゃないし、気張らず、
できれば何でも良いので書き込んでくれると尚嬉しい。

別なスレだが、雒城で劉備が手間取った事を、「援軍を待っていた」
と言っていた人がいて、それを読んでそういう可能性もあると思い、
諸葛亮らの動きの意味を考察する気が沸いたしね。

三国志読んで疑問に思った事でも、適当に思いついた事でも書いてくれれば、
それが考察や議論のきっかけになるかもしれない。
511無名武将@お腹せっぷく:2006/12/03(日) 01:25:09
ほっしゅがてら

>>510
例えばネット上でも書籍でもなんでも、同じ事柄について
時折矛盾とか異説があったりするのだけど、実際に本当は何れが
正しかったのかは我々にしてみれば推測による判断でしかないのかも、
だからこう、数多の情報を寄せ集めて、やれコレが正しい、コレが可笑しいと
言い合うのは、各々の捉え方の差異が見えてとても楽しい。

↑に付随して裴松之って凄いなって思った事がある。余談だけど
512無名武将@お腹せっぷく:2006/12/07(木) 00:30:59
>>511
三国志だけでは材料が足りないというのは、やはり痛感するね。
晋書や華陽国志も読むが、それでも足りない。
これは三国志に限った事じゃないが、あなたの言うとおり、
かなりの部分を推測に頼る必要がある。
その推測の蓋然性をどれだけ高められるか、ってのが重要なんだろうな。

各々の見解が大きく異なるのは、知識や嗜好などが人によって大きく異なるから、
当然起こる事なんだろう。
俺の場合、考察する時には軍事的知識をかなり利用してるから、
別な角度から考察しようとしてる人とは、当然内容が大きく異なると思う。

あまり関係ないが、殆ど読んだ事のない水経注や御覧あたりの訳が出てくれると、
考察もはかどりそうなんだよな。
むじん氏がなんとかやってくれないかと期待してるんだが。
513無名武将@お腹せっぷく:2006/12/07(木) 01:19:03
読んだ事無いと言えば、「剣州志」なる本も読んでみたいんだよね。
清代の李溶という人物が編纂した、全十巻の本で、剣州の歴史を著した物らしいが。

その剣州志によれば、剣閣に役所とその責任者が置かれたのは、
諸葛亮の指示のもとで221年の事らしく、その後、諸葛亮が宰相となると、
彼の手によって剣門関が築かれたらしい。

蜀が滅んだ時、剣閣が最後の砦となっていた事を考えると、
剣閣の地に目をつけて関門を築いた諸葛亮の慧眼は素晴らしいと言える。
514無名武将@お腹せっぷく:2006/12/08(金) 09:25:17
吉川三国志だと五丈原以降はほとんど分からないので、後期知りたいなら、英雄生きるべきか死すべきか、とかがいいのかな?
515無名武将@お腹せっぷく:2006/12/08(金) 23:12:56
本屋でパラパラ見ただけだから、内容がどうとかは言えないが、
確かに柴錬のは後半姜維が主人公になってるね。

でもまぁ、知りたいというだけなら史料が一番だろうし、
演義にしても完訳が出てるからね。
単に知りたいだけなら、柴錬じゃなくても良いんじゃない?
516無名武将@お腹せっぷく:2006/12/09(土) 00:43:10
まあ知りたいっていうか物語楽しみたいクチなんで…スマソ
517無名武将@お腹せっぷく:2006/12/09(土) 01:13:22
じゃあ演義でいいんじゃん?
518無名武将@お腹せっぷく:2006/12/09(土) 13:44:55
やっぱり小説で読みたいって人が多いのかね?
自分は小説自体さほど読まないから、初めから史書に行っちゃったが。
519無名武将@お腹せっぷく:2006/12/09(土) 15:09:16
俺の場合は面白い三国志の小説がなかったってのが大きいな
520無名武将@お腹せっぷく:2006/12/09(土) 21:57:50
この時代は扱われる事が少ないからね。
面白いかどうかって言う以前に、数が少ない。
521無名武将@お腹せっぷく:2006/12/10(日) 00:53:51
呉は施績、陸抗と、荊州方面軍司令官を代々楽郷に置いていたが、
この楽郷城の造成はいつ頃だったんだろうか?

少なくとも二十四史に詳細は載ってないが、
施績が朱然の跡を継いだ時に楽郷督を拝命している事を考えると、
朱然の時代には既に楽郷に鎮守府が移っていたのかもしれない。
余談だが、blogで222年の夏侯尚らの江陵攻撃を論じた時、
長江南岸に布陣した諸葛瑾らを、「楽郷に入ったのでは?」と考えたが、
この頃は楽郷はまだ無かったと考えた方が良いのかもしれない。

この移動は当然、後に桓沖が江陵から上明に移った時と同様に、防衛上の観点からの事だろう。
江陵は地味肥え、道路は四方に通じ、楚の都でもあった歴史的にも重要な拠点だったが、
北に大きな勢力がある時は、長江を盾にできない為に些か防衛が困難である為の移動と考えられる。
ただ、後の時代にこの城を鎮守府としていない事や、
呉が平定された時、楽郷陥落の衝撃が江陵のそれと比べて非常に小さい事を考えると、
あくまで軍事上の拠点であり、経済の中心はあくまで江陵だったと考えられる。

陸抗の死後は、孫賁の孫である孫歆が楽郷督となっているが、
荊州全体の指揮権が彼に与えられた様子は無い。
宗室と言えど信用が置けないという事だろうか?
522 ◆Henri9gNlM :2006/12/13(水) 01:01:53
今更だが、分かりやすいように、このスレではトリを付ける事にする。
一応blogでも色々述べてるので、こうした方が説明が楽になるだろうし。

こっからが本題。孫歆について少し話す。
孫歆は、杜預の放った奇襲部隊が楽郷の間近に迫ったのを確認したにもかかわらず、
彼らへの警戒を強化せずに軍を繰り出して、まんまとその侵入を許している。
また、杜預が江陵に、胡奮が公安に迫っている中、
自らの留守を突かれて彼らが楽郷へと攻撃を掛ける可能性も考えなかったのだろうか?
江陵と公安は抜かれる事は無い、とでも考えていたのだろうか?

確かに外線作戦に対して内戦作戦を行うのは常套だが、
楽郷の軍単独で、敵中で最も大軍である王濬を撃破できるわけが無い。
孫歆が王濬を抑えている内に、友軍に杜預らを撃破してもらう作戦だったのかもしれないが、
そんな指示が出ていた記述も無く、実際江陵や公安は全く動いていない。
やはり孫歆は直率の兵にしか指揮権を持たず、且つ、周旨らへの警戒を失していたとするのが妥当か。


また、王渾は、「勢いに乗じて建業に迫るべし」という何ツの進言を却下し、
横江で前進を停止したが、これは少し慎重すぎたかもしれない。
王濬が武昌を陥れ、既に大勢が決していたのだから、建業に迫っても失敗する事は無かったろう。
まぁ、大勢が決していたからこそ、無理せず王濬の到着を待ったのかもしれないが、
王濬がおとなしく自分の指示に従うと考えていたのは、少々いただけない。鷹揚に構えすぎだ。

王渾は、開戦当初の大胆な前進とは違い、戦役の終局点では慎重すぎる行動を採ってるが、
開戦そのものに反対していた身だから、「長江を渡らず、その北岸を制すべし」
という詔勅に違えてまで行動しようとは思わなかったのだろうか?
523無名武将@お腹せっぷく:2006/12/16(土) 02:57:24
保守するよ。
たまにはあげてみてもいい?
524無名武将@お腹せっぷく:2006/12/16(土) 16:17:37
上がってないぜw とかいいつつ俺もsageるが

まあ、あまりにヤバかったら上げてもいいんじゃね?
個人的に面白いスレだから読者増えて欲しいとは思う。
525 ◆Henri9gNlM :2006/12/16(土) 21:50:02
俺は、わざわざメル欄変えんのがめんどくさいから常にsageだけど、
agesageは自由だから、ageたかったらageりゃ良いんでないかい?
526無名武将@お腹せっぷく:2006/12/17(日) 01:08:04
王渾の前進停止については
もう少し政治的な配慮に関しての考察もできそうな気がしたんですがどうなんでしょうか。
例えば、スタンドプレイによる巨大な功績の独占が引き起こす危険や
蜀降伏後に起きたような混乱への懸念あたりで。
527 ◆Henri9gNlM :2006/12/17(日) 11:03:12
>>526
ふむ。
王渾に関しては、http://blogs.yahoo.co.jp/antoine_henri_jomini/25383653.htmlでも
書いたが、そこでも巨大すぎる功績を挙げる事による危険に関しては思い浮かばなかった。
そういう点で考える事も重要だな。

俺は、王渾を指揮官としてはかなり高く評価しているので、
何ツの言葉がそのまま当てはまるとは思っていなかった。
やはり、政治レベルでの判断によるものと見た方が良いのだろうね。
528無名武将@お腹せっぷく:2006/12/18(月) 00:22:23
わかり易そうな政治的理由付けととしては
賈充派対旧羊祜派の対立のなかで
賈充が開戦後も工作を続けているのに
賈充派の王渾が足を引っ張るようなまねはできないといった辺りになるのかな。

王濬の弾劾も旧羊祜派への攻撃の一環として行われたようにみえるし、
後に司徒にもなる王渾が自身の手にによる建業攻略にどれ程の価値を見出していたのかは
少々疑問があるように思う。

と根拠なしの茶々入れで済まないが、
枯木も山の賑わいということで許してください。
529無名武将@お腹せっぷく:2006/12/18(月) 01:04:05
茶々入れついでに、何か知っていたら教えてほしいのだけれど、
春秋戦国の頃に国富の基とされた山林藪沢(宋の孟諸や楚の雲夢など)の三国、晋辺りでの扱いってどうなっているの?
530523:2006/12/19(火) 05:57:27
ほんとだ、あがってなかったorz
今度こそあげてみる!
531無名武将@お腹せっぷく:2006/12/19(火) 08:55:01
>>529
おそらくだが、漢においては田租や塩鉄の専売が財政の根幹となり、後漢末の事実上国家としての体制が崩壊して以降は実質的に荘園を国家権力により運営するという屯田が朝廷=曹操政権の根幹となっていたようだ。
山沢の税は規模としても重要度が下がっていたと思われると共に、後漢末までにはそもそも国家が掌握できていたかどうか疑わしいのではないだろうか。
532隠れ麋竺オタ ◆AQI/vjrPPE :2006/12/19(火) 18:26:50
魏の税制といえば毎畝四升を賦課する定額田租と毎戸絹二匹・綿二斤を課する戸調があったよね。

>>529>>531
魏朝の財政の基本となる収入を賄う屯田制を打ち出せたのも
戦乱の長期化によって人口が減少して耕作者不在の田地が生じていたという背景があったからで、
華北を勢力範囲として実質上漢帝国の制度や文化を継承する立場にいた魏が
必ずしも漢と国家体制を同一にしなかったのは乱の有無によるものといえると思う。

ちなみに豪族が大土地を所有して荘園を経営して
農民が荘園に囲い込まれて国家の税制から外れてしまうという問題は前漢時代から見られたが、
これに対応する策が曹操の時代まで打ち出せなかったのもやはり上記の要因によるものだと思う。
533 ◆Henri9gNlM :2006/12/19(火) 18:45:08
税制等に関しては、とりあえずは食貨志を読めばいいんじゃないかな?
534無名武将@お腹せっぷく:2006/12/19(火) 19:50:09
>>533
気になってたけど徐盛オタ?
535 ◆Henri9gNlM :2006/12/19(火) 21:02:18
>>534
どこで判断したのか知らないが、俺は生粋の姜維オタだよ。
徐盛はあまりよく知らない
536無名武将@お腹せっぷく:2006/12/19(火) 23:47:07
生姜維持のどこがいいのか滔々と語ることを許可する。
537無名武将@お腹せっぷく:2006/12/19(火) 23:49:44
なんであんなに出世するのかわからないところ
538無名武将@お腹せっぷく:2006/12/20(水) 00:23:03
>>536
いいかげん、痛いと気づけば?
539無名武将@お腹せっぷく:2006/12/20(水) 00:28:33
この厨板でカッコつけてもしょうがないっしょ。
意味が通じればそれでいいっす。
540 ◆Henri9gNlM :2006/12/23(土) 01:12:16
話を王渾に戻すが、晋書武帝紀では、征呉の功労者に関して、
王濬、杜預、唐彬、王戎の四者は論功行賞の内容まで書かれているが、
賈充や司馬伷は増封とだけ、それ以外の王渾や胡奮はその他として扱われている。

王濬とその部下唐彬、杜預は明らかな開戦派だったろう。
彼らと同じように取り上げられていると言うことは、王戎も王濬らと考えを同じにしていたのだろうか?
しかし王戎は、西陵の戦いの際に羊祜に処罰されそうになって以来、彼を恨んでいた。
その羊祜の悲願であった征呉戦役に、王戎が積極的に賛成するだろうか、という疑問はある。

三国志呉書や資治通鑑などには記述が無いが、晋書には、
273年秋7月、魯淑らが弋陽・新息に兵十万と号して出兵した事が記されている。
この時、王渾は魯淑らの不意を突いて攻撃し、彼らを撃ち破っている。
この辺を見ても、王渾が判断力に乏しいわけでも臆病なわけでもない事が分かる。
やはり派閥闘争やら何やらの、政治的な思惑が絡んでの停止と見て間違いないとは思うね。
何ツの予測も、そこを考慮してのものだったんだろう。

関係ないが、この魯淑らの出兵は、号十万という大遠征でありながら、
武帝紀と王渾伝くらいにしか記述が無いのはどういうわけなんだろうか?
541 ◆Henri9gNlM :2006/12/23(土) 01:15:27
知ってる人もいるだろうが、面白いWikiがあったんで張っておく

ttp://zh.wikisource.org/wiki/%E5%8F%B2%E6%9B%B8
542529:2006/12/27(水) 01:51:29
>>531>>532>>533
レスありがとう。

田租や塩鉄の専売っていうのは流通から利益を得ようとしていることを示していると思っていて、
荘園っていうのは基本的に自給自足であり、
これが拡がるってことは流通から得られる利益の減少を意味するだろう。
荘園拡大の対抗策として屯田を行うならば、益々流通の重要性が低くなり、
どんな土地をどれだけ確保するかという局地的な話しが重要性を持ってくるのではないかな。
そこで、山林藪沢のようなものが注目されたりしないのかなと思うのだが、どうなんだろう。

少し調べてから何か書こうと思ったんだが、調べる時間が中々とれなくて曖昧な妄想だけで済まない。
というか誰か良いwebのfreeな漢和辞典を教えてください。
543529:2006/12/27(水) 03:00:48
無理矢理っぽいが、
もし王渾の停止に賈充への配慮が大きな要因として作用しており、
何ツもその点を考慮していたとすると、
「渾暗於事機,而欲慎己免咎,必不我從。」(上のwikiの資治通鑑 第081卷からとってきた)
という言葉も、単純な軍事的な意味のみではなく政治的な意味も含んでいるのではないだろうか。
とすると、咎とは建業攻略に成功したとしても及ぶであろう賈充派からの攻撃をも含み、
機とはそれに乗ずることができれば、少なくとも咎を考慮する必要がない程度のものが得られることを示しているのかもしれない。

例えば、反戦派の賈充は征呉後に力を落とし開戦派も追い落としにかかるだろう。
そこで征呉時の華々しい功績を持って上手く立ち回れば、かなりのポジションを得られる可能性がある
ということ含んで機といっているかもと妄想もできるかもしない。
544無名武将@お腹せっぷく:2006/12/28(木) 08:34:01
討蜀の将軍たちがどんな目に遭ったかを考えたら、慎重にもなるわな
545 ◆Henri9gNlM :2007/01/06(土) 01:21:06
三国時代の戦争に関して、何か普遍的な考えが見つからないものかと思っているのだが、
なかなか思うようには進まないね。

姜維の時代の魏蜀の戦争を見てると、流行なのか知らないが、
特徴的な作戦コンセプトが見受けられるんだが、
それ自体は三国時代にかかわらず、戦史的にも有名な用兵術だから、
三国時代と結びつけるわけにも行かないしね。

当時の軍制や社会制度あたりと絡めた考察ができればいいんだが、
俺の知識じゃまだまだだな。
546無名武将@お腹せっぷく:2007/01/07(日) 06:51:09
ブログ見た。
張嶷といえば、費禕が降伏者を信頼しすぎることを諌めたと言う話しがあるが
降伏者への風当たりを緩和する為のパフォーマンスとして、
夏侯霸が張嶷へアプローチをしたということはないのかな。
あと、張嶷が得たのは高潔の評判以外に無かったのかな。
547 ◆Henri9gNlM :2007/01/07(日) 13:26:33
パフォーマンスという面もあったとは思う。
いずれにしても、ただ尊敬しているという理由のみの事ではないと思うね。
そうであれば、張嶷の態度はあまりにも不遜だと思うし。

ただ、「然れども放蕩にして礼少なし」とあるように、
不遜な態度をとっても、張嶷ならばおかしくはないのかもしれないが。
548無名武将@お腹せっぷく:2007/01/13(土) 12:13:05
保守にきますた
549 ◆Henri9gNlM :2007/01/13(土) 23:54:12
西陵の戦いについてまた考えていたが、敗因は羊祜の攻城技術の未熟さなんじゃないかと。

羊祜の南進が陸抗の策源を制する事にあったと言うのは変わっていないが、
やはり最重要であったのは直接の策源である楽郷ではなく、江陵にあったんだろうと思う。
江陵は長く魏呉の角逐となった地であるし、後の征呉戦役では江陵陥落が大きな転換点となっている。
そもそも、陸抗麾下の諸将も、羊祜の江陵への前進を聞き、
すぐさま江陵への移動を提言しているしね。

江陵はやはり、呉の荊州における重心であったと見て良い。
故に、楽郷や公安などの周辺の拠点が、江陵陥落の衝撃を受けて尚強い抵抗力を保持できるほど、
強固な意志と戦力を有していたとは考えにくい。当時の呉軍は物理的にも精神的にも劣勢であったからね。
つまり江陵の陥落は、取りも直さず陸抗の策源を丸々制圧する事にもなる。

楊肇の兵力が小さく、連絡線も脆弱だった事は、直後の上奏で見て取れる。
これは兵站の制約上仕方ない事だったのかもしれないが、
羊祜が江陵攻略にどれほど重点を置いていたか、という事の証左にもなろう。
恐らく羊祜は楊肇に、監視以外の事は命じていなかったのだろう。
羊祜にとって重要だったのは、どれだけ長く呉軍を西陵に釘付けできるのか、という事だったろうから。

羊祜は物事の軽重を理解していた、が、勝利を達成するに足る、
すなわち江陵を陥落させるに足るには、城攻めが巧くは無かったと。
ま、城攻めの名手であっても、当時の江陵を陥落しえたかは計りかねるが。

陸抗は、「仮に江陵が落ちても損害は小さい」と語ったが、これは諸将を落ち着かせる為の方便だろう。
堅固であったのは事実としても、江陵が落ちる事が重大ではないという事は無いだろうから。
550無名武将@お腹せっぷく:2007/01/14(日) 00:08:55
江陵陥落があまり問題にならないってのは長年の間、北に対して作られていた防御構造はあるが
南に対しては無防備状態だったからじゃない?
そもそも南側からの防衛を考えるという発想自体がまず生まれないと思う
551 ◆Henri9gNlM :2007/01/14(日) 00:40:05
地形的には、大河を前面に置く南側の方が防御に適していそうだけどね。
呉がわざわざ堰を築いて水を江陵に向けて注がせたのも、
桓沖が拠点を江陵から上明に移したのも、長江という自然の防塞を利用したいが為だしね。
人工的な防御設備という点では、確かに北側の方が充実していただろうけど。

陸抗の発言の意図なんて推測するしかないんで、結局なんとも言えんのだけど。
552無名武将@お腹せっぷく:2007/01/15(月) 03:06:36
ちなみに江陵包囲の知らせを受けて急遽引き返してきた関羽が
江陵陥落を聞いた瞬間、奪回を諦めて馬首を返したというエピソードがある。
そのときの関羽の言葉。
>あの城は私が作ったものだから、攻略など不可能だ。
これは水経注に書かれている。
553無名武将@お腹せっぷく:2007/01/17(水) 19:39:18
魏延が作り上げた漢中防衛策を止めたのは姜維
魏延びいき的観点からは、「姜維ごときが生意気な。魏延の策通りにしてたら蜀は滅びなかったのに」となるんじゃないかなあ
554無名武将@お腹せっぷく:2007/01/17(水) 20:57:07
>>553
誤爆乙
555 ◆Henri9gNlM :2007/01/18(木) 01:40:21
>>553
誤爆かと思ったが、もしかすると俺のブログに対するコメント?
だとすると俺の、「魏延オタは姜維を低く評価する傾向がある気がする」という意見に対するものか。

三戦とか、Web上で、魏延を名将と言いつつ姜維を貶すような意見を何度か見たから、
もしかするとそんな傾向があるのかな、と思っただけなんだよね。

ただ確かに、その漢中の件もあるだろうし、姜維を低く評価した方が、
「魏延が孔明死後の蜀軍を率いていれば、姜維より遥かに戦果を挙げられただろうに」
という風に持っていきやすいというのもあるだろうね。
556無名武将@お腹せっぷく:2007/01/22(月) 11:20:19
557 ◆Henri9gNlM :2007/01/23(火) 00:31:18
ケ艾は蜀を平定した際、
「姜維は自ずと一時の雄児なり、某と相値し、故に窮せるのみである」
と述べ、識者に笑われたらしいが、何故なのかよく分からない。

渡辺精一氏は、その著作「三国志人物鑑定事典」で、
「ケ艾は剣閣の姜維を避けて成都へ来たので、彼に勝ったわけではない。
それなのに姜維に勝った気でいるのはおかしな話だ」
という意味で笑った、と述べているが、北伐では二度にわたって撃破し、
この討蜀の戦役でも、緒戦の彊川口会戦では破っているのだから、
ケ艾は図に乗っていたとは言え、笑うほどの事でもないと思うのだが。

当時の価値観だと、こういうのは嘲笑の対象だったりするのかね?
558無名武将@お腹せっぷく:2007/01/23(火) 07:46:15
>>557
「来たのが我輩でよかったな。呉漢だったらオマエラただじゃ済まなかったぞガハハハハ」
という発言に続いて書かれているし、
「我輩に出会ったのが運の尽き」という謙遜せず自分を誇る発言は当時の知識人なら避けるものだったんだろうね
559無名武将@お腹せっぷく:2007/01/23(火) 12:02:29
ケ艾の出自も影響したかもしれないね
560無名武将@お腹せっぷく:2007/01/23(火) 14:22:18
関係ないが、某ゲームにて沈瑩がキャラクター化決定と知り結構衝撃を受けた。ついにメジャーデビューか…
561 ◆Henri9gNlM :2007/01/23(火) 22:44:03
>>558
尊大なのはいかん、という事か。

調子付いての発言とは言え、姜維を英雄とまで言い切っているのはケ艾だけだし、
北伐の時も、誰よりも姜維を警戒していたのはケ艾だった。
姜維を最も苦しめたのはケ艾だけど、最も評価していたのも、またケ艾だったのかもしれない。

>>560
三国志大戦の追加カードにあるんだっけ?
三国志大戦はやらないから分からないが、使い易いカードじゃないと気にも留められないんじゃないか?
あ、でも著名なゲームに出るのはこれが初めてだったりするのか。
562無名武将@お腹せっぷく:2007/01/23(火) 23:48:34
>>560
次は劉纂だな

>>561
曹操と劉備の関係に似てますな
563無名武将@お腹せっぷく:2007/01/24(水) 00:12:25
よくわからんけど、そのうち張政あたりもキャラクター化されるんだろうか
564 ◆Henri9gNlM :2007/01/24(水) 00:16:37
沈瑩出すなら、張悌やら王渾やら王濬やらも出して欲しいが、その辺どうなんだろうね?

>>563
呉の名将とか言われているわりに、杜預にボコられた事くらいしか記述の無いあいつか?
565 ◆Henri9gNlM :2007/01/24(水) 00:47:57
>>562
言われてみると、確かに劉備と曹操みたいなものかもしれんね。
姜維を侮らなかったからこそ、幾度も破る事ができたんだろう。

討蜀直前の段階でも、「未だその時期ではない」として、
司馬昭に度々異議を唱えていたようだし、事実遠征は頓挫寸前だった。
それを自分の力で何とかしてしまうあたり、ケ艾は凄まじいものがあるけどね。
566名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/27(土) 08:51:00
なんで沈瑩なんだろ
大戦はやってないんだが、呉に武将が少ないからとか?
>>566
なんか後期武将を大量投入した一環っぽい。
丁奉・陸抗・朱拠・諸葛恪ぐらいまではある程度予想通りだったが、文欽・文鴬親子は呉で出たことは驚きだし、
張悌・沈瑩・留賛の名前は期待以上でちびった。

しかも計略も留賛「最期の戦歌」沈瑩「決死の攻城」と悲壮感に溢れてるのが素晴らしい。
後は吾彦と諸葛セイあたりが出てれば完璧だったのに…李異とかいらねぇ…
568 ◆Henri9gNlM :2007/01/28(日) 00:04:51
大戦wikiを見てきた。

陳泰とか郭淮とかケ艾とか、果ては羅憲辺りまで追加されてるんだね。
個人的には、王濬入れるなら王渾も入れて欲しかった。

呉に関しては、朱異とか施績あたりを追加しても良かったんじゃないかと思う。
アーケードゲームに興味は無かったが
今回の追加カードで俄然大戦に興味が出てきた

こうやって大戦は三国オタの心を掴みつつあるんだな
それに引き換え、新作が「三国・戦国武将が魔王オロチと戦う」となどいう設定の
無双はどこに逝こうとしているんだ・・・orz
570 ◆Henri9gNlM :2007/02/01(木) 00:43:33
ケ艾とかをメインにして出しても売れないと思ってるんだろうな。

大戦効果で人気が出てくれば変わるかもしれないが、
大戦から三国志に入った、ってあまり聞かないからな。
>>566-570
今回の追加が大変嬉しかった一人ですわ
使わないカードまで集めてしまいそう
しかしカードを買うってなるとやっぱりはまれないなあ・・
鮮于輔とか孫観とか劉纂とか蘇林とかトウ展とか閻宇とか出てくるならやってみたい
574 ◆Henri9gNlM :2007/02/03(土) 00:40:02
能力スレとかでも、過疎ると「ケ展や劉纂を評価しようぜ」って言う人がいたが、
ケ展とか劉纂ってそんなに人気あるのか?
575名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/03(土) 00:43:47
俺一人に決まってるじゃん
576 ◆Henri9gNlM :2007/02/03(土) 00:50:02
一人だったか。まぁ、そんな気もしたが。
ケ展とかをプッシュする人が大勢いるとは思えないしな。


大戦に関しては、王嗣とか王基とか王昶とか王渾とか出てくるようだと、
始めるかどうか悩むな。
漢書を読んでてただの学者だと思ってた彼が武芸も達者で漢の将軍だったというギャップに萌えたのですよ
王渾と聞いて王雄の子供の方を思い出す俺は多分偏ってる
579 ◆Henri9gNlM :2007/02/03(土) 00:59:09
漢籍電子文献でケ展を検索したが、随分色んな所に注釈してるんだな。
三国志だけだと、ケ展は、「曹丕と手合わせして負けた奴」くらいにしか思わないが。

ギャップかぁ。そういうので好きになるってのもやっぱあるんだな。
俺はあんまり無いけど。
580 ◆Henri9gNlM :2007/02/03(土) 01:05:33
>>578
王昶の子よりそっちが先に出たら笑う

まぁ、ライト層の間での知名度は、どっちもそう変わらんかもしれんが。
王渾はかの王戎の父だし、王雄の得意技は暗殺だし、琅邪王氏だし

ところで唐咨が司馬昭に生かされたのは彼が水軍指揮に長じてたから?
582 ◆Henri9gNlM :2007/02/03(土) 01:32:06
でもまぁ、王渾は出ないだろう。出すなら王戎じゃない?

唐咨はよく分からんね。
蜀討伐のおり、大戦艦建造の指揮を執っていたらしいが、
華陽国志には、同時期に呉側の将軍として羅憲を攻めてる記述もある。
最も、華陽国志のこの記述はあり得ないと思うがね。
もともと徐州の人間だし、水軍の指揮に関してそこまで長じていたとも思えないし、
パフォーマンス以外の理由があったかどうかは、自分には分からない。
ただ、大船建造の指揮を執ったという事は、そういうノウハウを持ってはいたんだろうね。
それも理由かもね。
583名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/03(土) 01:47:05
俺も初めて(王昶の子)王渾の話しを聞いたとき、王戎の親父のことかと思った。
竹林の七賢でけちんぼの王戎の方が王昶や王渾よりインパクトがあっただけだけど。
>>582
徐州は下半分が湿地帯つか細々した河川が入り組んでる
また淮水、シ水、キ水などが会合する地で水運による物流が盛ん
それに古くから徐方は海浜の地と呼ばれてる

>もともと徐州の人間だし、
>水軍の指揮に関してそこまで長じていたとも思えないし、
よってこの部分は不適切な判断と思われ
585 ◆Henri9gNlM :2007/02/03(土) 16:16:25
徐州出身で、水軍指揮に長じた人物を知らなかったからな。
でも、呉の人物で言えば、歩一族や徐盛なんかは徐州だったな。
俺の認識不足だったかもしれんね。

ただ、徐州出身である事が、それが生かしておく事の理由になるほどの、
水上戦の巧みさには繋がらないとは思う。
魏や晋では徐州出身者が珍しい、というわけではないだろうし。

いずれにせよ、唐咨を取り立てた理由は俺には分からない、という事で。
>>585
>ただ、徐州出身である事が、それが生かしておく事の理由になるほどの、
>水上戦の巧みさには繋がらないとは思う。

そらそうさ
けど、>>582を読み返してみなよ
真っ先に
>水軍の指揮に関してそこまで長じていたとも思えないし、
というように自分の先見、憶測で、唐咨が配置されたのは
もしかしたら>>584という地域背景から水戦指揮ができると
見込まれたかもしれないと言う可能性を恣意的に切り落としてるだろ

唐咨を取り立てた理由が分からないと斬り捨てるまえに
唐咨に水戦またはそれに類する経験があったかどうか、記述がないか
史書を洗いなおし検証してみるべきじゃないのか?
若しかしたら面白い知見が得られるかもしれないじゃない?
マンドクサイならいいんだけど
587 ◆Henri9gNlM :2007/02/03(土) 20:59:52
諸葛亮死後の戦争ならある程度は調べてるので、唐咨についても多少は分かる。
まぁ、唐咨に関しては正史くらいしか知らないけど。

その中には、交州の反乱鎮圧とか、256年の孫綝による淮水への侵攻とか、
東興の役で丁奉らと共に先鋒を担ったとか、そのくらいだったかな。

ただ、色んな場面で使われてはいるから、水上戦以前に、
ある程度、将軍としての能力は見込まれていたと思う。

唐咨は別に好きな人物と言うわけじゃないので、深く掘り下げるのはめんどくさいね。
そういうのは孫ぽこさんとかにお願いしたい。
588 ◆Henri9gNlM
資治通鑑の魏紀と、晋紀(呉の滅亡まで)を読んでみたが、
唐咨の水上戦関連の話は無いね。
三国志に載ってるのと同じ話しか見当たらない。
見落としがあるかもしれないから、断言はできないけど。