「氏真=バカ殿」イメージ一色(広く言うと「今川=軟弱」イメージ一色)というのは気に食わない。
以下、あちこちの受け売り。氏やんは、名君・名将とはいえないにしても、すくなくとも並程度だったんじゃあるまいか。
・松平元康は今川家の一門であったにもかかわらず肝心なときに裏切った、ともいえる。
「われらが神君家康公」が忘恩不忠の徒であっては困るから、
今川家は悪辣な支配者、氏真は「裏切られても当然な愚君」である必要があった。
「今川=悪の帝国」「氏真=無能」というのは、江戸時代以降につくられたイメージが大きいのでは?
・妻(蔵春院早川殿=北条氏康の娘)は、夫が没落しても流浪しても最後まで連れ添ってる。
早川殿1613年没、氏真1614年没。杉並のお墓に並んで眠ってる。いい夫婦だったんじゃない?
(「人柄」と「大名・武将としての有能さ」は別だし、他人の幸不幸を今日の感覚では測れないけれどもね)
・義元とともに政権首脳部が消滅。沖田畷後の竜造寺家状態。(弁解としては
>>105の引用)
でも、そこで氏やんが求心力をアピールできなかったのは、やっぱり失策かもね。
・武田家に通じた堀越氏延や飯尾連龍を討ったり、「怪しい」井伊直親を謀殺したりしている。
蹴鞠ばかりで無為無策じゃなくて、支配を維持するために血なまぐさいこともちゃんとやってるぞ。
・蹴鞠は武家の基本教養。信長だって、薩摩武士だって(上井覚兼日記)蹴鞠はやってるぞ!
蹴鞠やってることだけ取り上げて公家公家いうな!
・塩止め=経済封鎖は「卑怯」なんかじゃなくて立派な戦略だろう!
もしも完全に実施されていたのなら、商業を掌握・統制していたことになるわけで、これは大したものだ。
(でも、塩止めの効果は謙信を持ち上げるために過剰に言われている感じもする)
・並の武将でも、徳川家康と武田信玄じゃ相手が悪すぎるわな。
劉禅の子孫は(怪しいのはいるけど)壊滅したけど今川家は存続
劉璋の子孫はくぐっても出て来ない。
息子の劉循と劉闡に子がいたかどうか・・・
秀忠の子孫は会津松平と越智松平(綱吉の甥の清武の系統)
の両家くらい。
>>142 それは劉璋の戦闘相手が悪かったのと同じ。
暗愚でなくとも凡将の劉璋が歴戦の猛者の劉備とか曹操じゃ
まずかったのと同じ。張魯の場合はわからんが。
それに若き劉璋が自分を裏切った張魯の母と末弟を惨殺した武断面もあった。
尤も一番の原因は最初から蜀を乗っ取る計画を持った劉備と
裏切った家臣の法正が凶悪だと思えるが・・・
>>143 高家今川家の嫡流は明治に入って断絶。
ただ、次男高久の品川さんの方は続いていると、どっかの今川スレで聞いた。
秀忠の系統の会津家も越智家も途中で養子が入り、
秀忠の血統は事実上断絶した。
「友達になりたい、でも上司にはしたくない戦国武将」
149 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/28(火) 03:30:45
徳川家康は鬼畜!国松を殺した!
150 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/28(火) 04:39:25
氏真は文弱の徒でもなく、馬鹿でもないよ
むしろ文武両道の人
和歌:権大納言冷泉為和らより学んだと言われ、現在も1000首を超える歌が遺る。また後水尾天皇選の集外三十六歌仙にも名を連ねている。
蹴鞠:飛鳥井流宗家の飛鳥井雅綱より手ほどきを受けたとされる。
剣術:塚原卜伝に新当流を学んだという
氏真が本当に無能でどうしようもないような香具師なら、今川家の滅亡の仕方はもっと悲惨だったかもしれない。
氏真も(まあ勿論最後は豪族に裏切られまくり)だったが、一方で、見捨てずちゃんと城に迎え入れてくれた家臣もいたわけで。
滅亡後の流浪時代なんかも家臣数十人は他家にも仕官せず氏真にずっと付き従っていたらしいから、相当な人間的な魅力もあったのではないかと妄想してみる。
あと氏真が無能の代名詞の如く描かれているのは、その後の今川からの独立を正当化させるための徳川史観による歪曲を含んだものが大きいと思われる
>>148 そういえば、氏真の助命嘆願を成功させた朝比奈泰朝なんか
氏真と同じ年ってこともあって主君の間柄といよりは、仲のいい友人みたいな付き合いだったみたいだが
その辺りの付き合いが逆に土壇場で生きたのかもしれない
152 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/01(水) 04:42:03
確かに、同じ滅亡でも朝倉義景や武田勝頼の死に方は哀愁を漂わせるものだったが
氏真の場合、最後まで従ってくれる家臣がいたものな。
滅亡したといっても仇敵の織田や徳川と和解しているし、世渡りや付き合いは上手かったのかもしれない
153 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/01(水) 10:52:52
家康は名家好きだったから生き残れた。。。
織田秀信は容赦なくぶっつぶされておりますが?
ひさしぶりにwikiで氏真を見たら、とても詳しくなっててたまげた。
太閤立志伝Vで速攻今川家を辞めて(辞められたらの話だけど)
風流人エンディングを目指すのも味があっていいかも。
158 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/12(日) 16:53:35
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し' ヽ_) | (⌒) し (_) ,(__つ
し'⌒^ミ
氏真苦難スレの早川殿か。ナツカシス
氏真の嫡男の範以って何か事績とかある?
どこ調べても生没年しか分からない。
範以(1570-1607)の「事績」といっても派手なのはないわけで。160氏の期待に添えないかもしれないが、
観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974)
で範以関係をしらべてみた。参考にしたのは古い本だから、もっと新しい研究があるかもしれない。
範以は元亀元(1570)年生まれ。『寛政重修諸家譜』などに書かれた没年からの逆算なんだそうで、月日はわからない。
氏真が掛川を出て北条領で暮らしてる時代。小田原だか伊豆戸倉だかが出生地だろう。生母は北条氏(早川殿)。
幼名は五郎、左馬助と称した。
京都時代の氏真一家は山科言経と交流があったので『言経卿記』に時々顔を出す。
文禄3(1594)年7月5日には範以(25歳)が下冷泉為将ととも山科言経を訪ね、冷麺と酒を勧められているのが範以の記事の初出らしい。
8月21日にも下冷泉為将と一緒に山科家を来訪している。仲が良かったのかもしれない。
同年10月、建仁寺両足院での僧や貴族(言経や下冷泉為将、冷泉為満も参加)の「講釈」で三体詩(唐詩の選集)を取り上げることを
範以が発起している。範以は学問に関心があったらしい。この「三体詩」の勉強会はその後も続いたそうだ。
今川氏真・範以親子は、山科言経・冷泉為満などのサークルに連なっていたらしく、そのあたりの仲間でお互いの屋敷を訪問したりしている。
(冷泉家も山科家も、今川家が駿河国主だったころからのお付き合いだ)
慶長8(1603)年からは冷泉為満が主宰して冷泉邸で月次和歌会を行っていて(メンバーは山科とか四条隆昌とか古市宗超とか蜷川親長とか)、
ここに毎月のように氏真親子も顔を出しているし、慶長9(1604)年2月10日に言緒(言経の子)が主宰した連歌の会に父子ともに出席している。
慶長10(1605)年頃から、こうした月例の会に氏真が参加しても範以が参加したという記録がなくなる(この頃から病気だったろうか)。
慶長12(1607)年11月27日、京都にて歿、享年38歳。法名・徳報院殿秀山長英大居士。葬地は不詳だが、杉並区の観泉寺に墓碑がある。
範以の歌はいくつか記録が残されているようだ。
「夕日影うつるはやしにむら鳥のねくらもとむる声あまた也」東山御文庫蔵丹冊手鑑
「齢猶つきせぬつゑのつくつくと君かゆるしやまたんとすらん」穴八幡神社蔵手鑑
範以の弟の(品川)新六郎高久は慶長3(1598)年、氏真の願いで秀忠にお目見え出仕している。
ちなみにその前年慶長2(1597)年、範以の甥(姉の子)の吉良義弥も秀忠に仕えているが、
範以は結局最後まで仕官しなかった。学問や文芸のほうに興味があったのかもしれないし、病弱だったからかもしれない。
範以の妻は吉良義安女。姉の夫である吉良義定のおそらく妹。範以の子は二男三女。
嫡子は、吉良義安女との間にできた主膳正直房(幼名五郎。初名・範英)。
直房は『寛政重修諸家譜』によると文禄3(1594)年生まれ(異説:『今川記』所載系図によると慶長6(1601年生まれ)。
慶長16(1611)年に秀忠に出仕し、高家今川家をひらいた。
範以の次子蔵人は西尾以庸を称した(詳細不明)。
娘の一人は大友義親(義統の孫)に嫁ぎ、一人は吉良義弥(義定の子)に嫁いだ(イトコ同士だ)。
もう一人の娘の嫁ぎ先は不明。未婚のまま没したのかもしれない。
範以夫人吉良氏は、夫の没後、大炊御門経頼(権大納言)に(側室として?)再嫁、慶長18年12月には嗣子となる経敦(のち左大臣)を生む。
吉良氏は寛永4(1627)年歿。法名・利正院殿紅巌慈峰大姉。はじめ江戸万昌院に葬られ、のち観泉寺に改葬された。
dクス。範以死ぬまで仕官しなかったのか。そら記録も少ないわ。
高久は普通に出仕してたんだな。
丸々一世代空いたところからよく立て直したよ直房。
氏真には秀吉か家康かから扶持が出てたんだっけ。
ん?って事は範以は氏真より先に死んだのか。
親子で一緒に勉強会や連歌の会に連なってたって事は、趣味の合う中のいい親子だったろうに…
氏真カワイソス
氏真って信長に従って長篠の戦に従軍してるんだね
長篠の合戦には徳川軍も合流してるから、ていうか徳川の領地内だったな。
家康の傍に侍っていただけで、部隊を指揮したわけじゃなさそうだが。
リアル消防のときに読んだダイジェストだと、元康は今川家から「独立」したと簡単に述べていて、
そのときはそんなものだと読み流してたんだ。
でもやってることは同じなのに、何故「謀反」と書かれていないのだろう?
謀反っつーか離反?
えーと、家康の下で、一時的に氏真が城主を務めたことがあったわ。
諏訪原城の城主。
元来は武田勢が築城した諏訪原城は、1575に交戦の上、徳川勢の手に陥落してる。
で、長篠の合戦があったのも同年。
諏訪原奪取と長篠合戦とで、時期的な前後関係はどうなのか、
また、諏訪原奪取後すぐに氏真を城主に据えたのか、
これらの情報があれば、長篠合戦時における氏真の立場を想像できるかも。
というか、氏真は武田信虎の外孫。
つまり、信玄の同母姉が産んだ子。
むかし某スレに投下した、今川・北条・武田の系図。入り組んでてかなわん。
改善策あったらよろしくたのみます。
┌─ 伊勢長氏 ── 北条氏綱 ── 北条氏康 ─┬─ 北条氏政(生母は瑞渓院殿)
│ ┃ │
│ 中御門宣胤 ─ 寿桂尼 ┌─ 瑞渓院殿 ├─── 桂林院殿(武田勝頼後妻)
│ ┃ │ │
│ 今川義忠 .┠───┴─ 今川義元 └─ 早川殿 ┌─ 今川範以
│ ┃ ┃ ┃ ┠────┼─ 品川高久
│ ┠─── 今川氏親 .┠───┬── 今川氏真 ├─ 西尾安信
│ ┃ ┃ │ ├─ 澄存
└─ 北川殿 武田信虎 ─┬─ 定恵院殿 .└── 嶺松院殿 └─ 女(吉良義定妻)
│ ┃
└─ 武田信玄 ─┬─ 武田義信
│
├─ 黄梅院殿(北条氏政妻)
│
└─── 武田勝頼
ついでに、今川家と吉良さんち。(某所でひろったもの)
系図ややこしいよ系図。
今川氏真 ―┬― 今川範以
. │ ┠――─ 女
. │┌─ 女 ┃
. ││ ┠── 吉良義冬 ─── 吉良義央
. └── 女 ┃
. │ ┠――― 吉良義弥
吉良義安 ――┴― 吉良義定
範以、高久はまさに戦国のサラブレッドだな。
>>174 吉良義冬の両親は、二重イトコの関係か?
超近親結婚だな〜
とりあえず長氏ってのが気に入らない(せめて宗瑞にしてくれ)以外GJ。
氏真が勝頼や氏政に較べてそれほど無能とは思えん
氏真って今で言うところの癒し系だったのかもしれん。
そんなら劉璋も癒し系。
見るだけでホッとする人物。
181 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/06(木) 03:58:40
劉禅はスルーか、おまいら・・・まあ当然か
氏真って、近世大名か、逆に戦国の一武将かだったら、
結構いいとこまでいったんじゃないかって気がする。
>>181 むしろ劉禅は守成型としての役目を果たしてるけど・・・
政治家の素質がある程度は備えてるが。
>>181さんは、何に対して当然だと納得してるのでしょう?
>>183さんは、
>>181さんが「劉禅は擁護のしようが無いから話題にならなくて当然」と考えている
という前提で、擁護してみたように見受けられます。
自分は一週間、「このスレ住人は興味の対象が日本お戦国時代に偏っていて、
中国の三国時代にはほとんど興味がないから、話題にならなくて当然」と読解してたので、
>>183が全く噛み合ってないレス返してるように感じてました。
185 :
183:2006/04/16(日) 17:44:17
別に劉禅を擁護してるわけじゃない。
ずっと前から劉禅は氏真とは似てるようで似てないと思ったから。
他スレでもカキコしてるが氏真は劉禅よりも劉璋に似てると思ってるから。
だから、昔はともかく今ではこのスレの題自体が咬み合ってないと思った。
それだけ。
むしろ【劉禅と徳川秀忠、どちらの方が有能なのか 】か
【劉封と徳川信康、どちらの方が有能なのか 】がいいと思ってるくらい。
以上
>>186 激しく同意。
魏に降服した後の劉禅が漢王朝再興の意思があったどうかはわからんが、
政治家としての素質があったこと、守成型の役目を果したことは
実際あったと思う。
何気にあれから3年以上経ってんだな。
既に結論が出た事を蒸し返されるのも無理ないか・・
俺は二年目だから、ここ(三戦)で劉禅有能論の結論は知らなかった。
>>187に貼り付けたスレを久々に見たけど。(特に上のほう)
あれから一年も経ってるんだなあ・・・
歳月の流れは早く、あの時の奇矯屋さんの意見は筋が通っていると思う。