1 :
無名武将@お腹せっぷく:
2 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 21:27:08
2
3 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 21:44:47
3なら大一大万大吉
葵・徳川三代の島・蒲生がカッコよかったな
でも関ヶ原関連の文献を読んでたら蒲生がすごく地味でがっかりした・・・
平塚為広のほうがまだ目立ってる。
前スレで三成は上杉領で戦闘が始まってから挙兵すればよかったのでは、
といっていた人がいるが、それはどう考えても不利になるだけ。
まず、西軍は基本的に上杉討伐の後続として関東・東北へ向かっていた部隊を足止めし、
なかば無理やり自軍に組み込む形で成立している。
長宗我部・立花・小早川・吉川あたりは皆そうだし、主力の一角となった宇喜多軍も同様、
さらに首謀者の一人である大谷もそう。
もし、挙兵の時期が遅くなれば西軍は兵力が揃わず、場合によっては挙兵自体出来なくなる可能性もある。
次に、上方には徳川方に親しい者も多くいる。
最初から西軍参加に反対で早速家康と連絡を取っていた吉川、家康に人質を送っていた片桐、
内府違いの状の発起人の一人となりながら、その後直ぐに家康に内通した増田。
なにより伏見城には徳川家の鳥居がいる。
そういう状況で挙兵の時期を遅らせると、情報が漏れてしまう可能性がかなり高い。
そうなってしまえば挙兵前に鎮圧されてしまう。
結局挙兵を遅らせてもリスクは高くなり、デメリットも増えるだけ。
そもそも秘密裏の内に事を運ばなければならない西軍には、悠長にタイミングをはかる余裕自体がなく、
家康本隊が関東に下った後は出来うる限り早く挙兵するしかない。
6 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/30(金) 10:19:19
>>5 そもそも三成としては前田に続いて上杉まで家康に屈服したらもう家康の天下を
阻むことはできないと感じたからあのタイミングなんですよね?
しかしよくよく考えると家康が何をしてもほっておいたら、家康が天下なんて
取れなかったような気がする・・・
家康の権力が増大していっても家康は謀反人という形は好まない。
家康のやることは全て秀頼の命としての行動とすることで家康が死ぬまで我慢
したほうがよかったんじゃないかな。
まあ三成はその間につぶされるかもな。
しかしそれが豊臣のために一番なるような肝する。
7 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/30(金) 10:21:04
要は豊臣の力が徳川に勝てないかもしれない状態であるなら
朝廷のマネをして名誉的な存在で我慢すればそのうち可能性もあっただろうにと思いますが。
「そのうち可能性がある」なら多分家康は意地でも潰したかと。
実権も権威もかなぐり捨てて、
例えば豊臣政権下の織田家くらいの存在になるなら或いは残れたかもね。
というか、
西軍が決起せず、討伐軍が総力で攻め込んできたら上杉は即座に降伏するだろう。
よっぽどの馬鹿か自殺願望でもない限り。
まともにやったら勝ち目なんてほとんどないわけだし。
10 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/30(金) 13:30:42
家康は三成が血気するのを待ってたのかな?
それともビックリして必死に対処したら天下がぶら下がってることに気づいてつかんだ七日?
前者じゃない?
討伐するにはゆっくりし過ぎてたし、大坂の連中から知らされてたんじゃないのか?
西軍決起が伝わった直後は、黒田長政を使って予め福島を味方につけておいて、
小山会議を自分の有利な方に誘導したりとかなり手際よくことを進めている。
ところが、いざ先発隊が西へ向かってから、長政を呼び戻して、
福島は本当にこちらにつくのか確認したり、本隊の江戸出発が1月も後になっていたり、
その後の動きに若干戸惑っている様子が見て取れる。
このことから、西軍決起自体は予想していたが、その規模は予想以上のものになっており、
その実態が明らかになると、かなり慌てたのでは?
というような推論はよく聞くね。
13 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/30(金) 16:18:09
>>12 ほう。
つまり三成とその近辺が挙兵する可能性は考えていた、というより
もしかしたらそれを待っていた節もあるわけですね。
しかしさすがに後の世にまで語り継がれる東西2分しての大戦にまでなるとは思ってはいなかった
可能性は考えられると。
やはりあれですね。
関が原の勝因は徳川単体で7万程度の軍隊を動かせてしまうことにあったかもしれませんね。
家康もそれを頼りにしてた部分もあるでしょうし。
家康をそれだけの大国にせざるを得なかったのなら、
確実に豊臣の味方をする誰かにも同じ程度の力を持たせて
パワーバランスをとらなければいけなかったですよね秀吉は。
権力的な面では前田を押し上げて対抗させようといてたみたいですが、
実質の国力では2倍弱の開きがあり、しかも前田はもともと強いほうに付くタイプなわけですからね。
もっと頑固でどうしようもないやつにやるか豊臣が畿内全域を直轄領にしておかないと
徳川を臣従させ続けていくのは無理がありますよね。
14 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/30(金) 16:50:50
>13
となると、徳川家の関東移封が結構ポイントなのかも。
朝鮮出兵にも行ってないし。
前田もそうだけど、会津に蒲生を入れたり上杉を入れたり、大名をその人でしか判断できなかったような印象があります。
ちょっと意味不明?
利家、氏郷が生きていれば大丈夫だったかもしれないけど、死んだ途端に破綻するようなプラン。
(頑固でどうしようもないやつに、っていうのもそれに含めます)
こう考えると、300年続いた徳川体制っていうのはよくできていたんだなあ、と最近思う。
北条残してたほうが良かったのかもな
あの組織構造が足枷になって助かる可能性もあったろうに
16 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/30(金) 17:56:33
>>14 なるほど。
つまり豊臣からして秀吉に力があったのであって、豊臣に力があったわけではない状態であったということが問題であった。
しかし徳川には家康に寄らない力も持たせてしまった。
一大名としての動因可能兵力は秀吉全盛のころから関東徳川の方が多かったのではないでしょうか?
豊臣は金で臨時にやとうような形だったのかもしれませんので一概には言えませんかね
17 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/30(金) 18:11:14
>>16 挙げ足鳥でごめんなさい。徳川に関しては家康が豊臣の後継体制の不備からの瓦解を後に実感したのであって、まだこの段階ではあくまで家康あってのものかな
18 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/30(金) 18:32:32
>>17 磐石になったのはそうかもしれませんが、
広大な領地がなければ跡目にすんなり渡そうがどうしようもなかったりしませんかね
秀長本人か秀長の性格・資質を受け継いだ壮年の息子がいて後見していれば
違うんだろうけど
家康に比べるとこの兄弟の生殖能力の無さが致命的だな
20 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/30(金) 23:28:29
後は息子たちが短命ってことか
まあ寿命以外で死んだやつも多いけど
そう考えてみる不吉な血だな
織田家を乗っ取った鬼畜農民豊臣秀吉一派を討ち滅ぼし
同盟してた織田家の無念を晴らした家康は義の男といっていいだろう
>19
秀長本人ならともかく、秀長に壮年の息子がいたら、秀次よか後継者候補としては上の立場だろうから、史実の秀次の運命を辿ることになりかねんよ。
23 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/31(土) 07:28:16
24 :
・・・。:2005/12/31(土) 07:53:41
上に同意
25 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/31(土) 08:33:13
あのさ話かわるけど家康が朝鮮出兵に参加してたら関ヶ原はどうなってたの?
人望あがる分東軍勢力ふえたりする?
輝元「ワシの人望上がった?」
そりゃあ、上がったでしょう。
上がってあの程度。
28 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/31(土) 18:14:54
>>25 色々考えられるけど
三成、武将派を糾弾
家康、武将を擁護?
で、ますます、結びつきが強固になったのでは
29 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/31(土) 18:52:39
もし徳川家康が7万5千の兵力を総動員して、最初から陣場野に布陣していたら
東軍は史実以上の勝利を果たせたであろうか?
30 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/31(土) 19:15:26
そんなところにのこのこ出てくる西軍はいないと思うがな
31 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/31(土) 20:45:15
>>30 その情報を西軍が把握していなかったらという仮説はなら成り立つのでは?
兵力が圧倒的に不利で、
その上情報までつかめていないようではボロ負け以外の結末はないわな。
33 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/31(土) 21:04:44
>>32 家康本隊75000で笹尾山の三成本陣に総攻撃を仕掛けるのか?
圧倒的な状況を見て小早川が直ぐに東軍につくだろうから、
直接攻める必要すらないんじゃあないかね。
まあ、実戦に投入するなら、比較的スペースが開いている盆地の南側へ展開し、
山頂に城に陣取る小早川はともかく、山麓の4将に即座に裏切るように圧力を加え、
直ぐに動かないならそのまま押しつぶして大谷の陣へ攻め寄せるって処ではあるまいか。
小早川へは警戒の為の部隊のみ残しておいて。
もっとも、実際にそうなったら前述の通り、
そこまでする前に小早川も率先して西軍を攻めていると思うけど。
35 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/31(土) 21:45:02
もし毛利輝元が3万を動員して、笹尾山に布陣していたら
東軍は史実通りの勝利を果たせたであろうか?
その場合は東軍も簡単には動かず、
少なくとも秀忠軍の到着を待つのではないかね。
どっちにしろ徳川が完全に関東を留守にして全軍を動かすなんてありえないし、
輝元だって軽はずみに大坂は動けない。
もう少し現実的な仮定として、
秀忠軍が間に合ったらとか、大津攻めの部隊が間に合ったら、
という話にしておいた方が良いのではあるまいか。
まあ、散々繰り返させたネタだと思うけど。
38 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/31(土) 23:09:57
>>37 秀忠軍と大津攻めの部隊が両方とも間に合ったら、どうなるのだ?
39 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/31(土) 23:53:15
それは、わからんよ
40 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/01(日) 01:15:50
>>37 無知ですまんのだが、輝元3万が大坂を離れられなかったのは何で?
大坂城には豊臣の旗本衆もいただろうし、大坂の近辺に西軍の大敵はいなかったんじゃない?
秀頼の側近連中、具体的には片桐且元が家康側だったし、
五奉行の一人で当時唯一大坂城にいた増田長盛も既に家康に内通していて、
輝元が抑えていないと、その豊臣の旗本衆そのものがが家康よりになりかねないのよ。
実際輝元が関ヶ原に来なかったのは、
増田長盛が敵に通じているという噂があったから、それを警戒したからで、
後世の我々にはわかることだけど、その噂は事実だった。
42 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/01(日) 01:54:03
43 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/01(日) 02:01:43
というか何で豊臣は西軍につかなかったの?
普通に豊臣の兵隊を西軍に出せばよかっただけでしょ。
1マンでも2マンでもいれば違ったはず。
一番いいのは秀頼出陣。
これで間違いなく東軍についてる大名はやりづらくなる。
家康が完全に謀反人扱いでの関が原になればもう少しかわったかもしれない。
東軍は豊臣家に害をなし、
西軍は豊臣家を守ってくれるなんて認識は当時別になかっただろうからね。
我々はその後の家康の行動を知っているから西軍につけばよかったといえるが、
当時の認識では政権内の権力争い以外の何物でもないのだから。
45 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/01(日) 02:20:58
>>44 >東軍は豊臣家に害をなし
そんなこと思っていたのは馬鹿大名だけだろ。
>>43 >これで間違いなく東軍についてる大名はやりづらくなる。
根本的に間違ってる。やりづらくなるも何も東軍そのものが存在しなくなり、東軍西軍という枠組み自体が存在しないよ。
家康も豊臣家として三成討伐を掲げてるんだから。
48 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/01(日) 04:33:34
そもそも、当時は「豊臣家の意志」を決定できる人間が存在しないんだよね。
あえていうならそれが出来るのは秀吉に政務代強者に指定された家康しかいない。
秀頼は幼年だし淀にそんな権限はないし、側近連中にだってそんな事は出来ない。
一応豊臣家の政策決定及び執行者集団である五大老・五奉行の内、
二大老・三奉行が家康を弾劾しているから、その限りにおいては、
「豊臣家の意志」は示されており、だからこそ西軍にもかなりの兵が集まったわけだが、
それでも福島ら東軍についた連中にとっては、それが「豊臣家の意志」だとは受け取られなかった。
それ以上の意思決定を出来る者が存在しないのだから、もうこれ以上はどうしようもない。
家康も豊臣家の公式出兵軍の司令官で、
>>49氏が言う通り、西側も二大老・三奉行が連携してる。
なんら、実質的な権限を有さない豊臣家としては中立、あるいは関与せず、の立場しか取れないな。
比較的、豊臣家に忠実な立場である西側も、勝てる自身があまり無い以上、豊臣家を巻き込みたく無い、ってのもあったろうし。
逆を言えば、西側に秀頼を要して、実質自分が今後の天下を動かす、くらいの野心家がいれば、否応なしに豊臣家を全面に出したかもしれない。
秀吉死後の豊臣体制はいわゆる五大老・五奉行による執行体制になったわけだけど、
その中で特に家康に政務の代行がまかされ、利家が秀頼の後見人となったことから、
「豊臣政権」としての意思決定は主に家康が行い、
家としての「豊臣家」の意思決定には利家が強く関与するという体制だったと思われる。
ところがその利家が死に、その子も家康に屈服したことにより、
関ヶ原当時は「豊臣家」の意思を決定出来る者が存在しなくなっていた。
加えて石田・浅野両奉行が失脚、浅野は家康側についてしまう。
残った家康を除く三大老・三奉行の内二大老・三奉行が家康を弾劾、
上杉は既に対家康に蜂起しているから、当時の状況で豊臣政権の意思を表明できる存在としては、
正に最大限の意思表示はしたことになる。
ところが、それでも福島・加藤・黒田ら豊臣家譜代の連中がそれを豊臣政権の意志とも、
豊臣家の意志とも認めず、家康側へついてしまった。そうなった以上もう他にどうしようもない。
他の手段として公的な意思決定だの何だのかかわりなく、
秀頼の側近を抱きこんで、秀頼を戦場に連れ出してしまうという方法もあったかもしれないが、
この点については家康の方が一枚上手で既に家康の方に抱き込まれてしまっていた。
むしろ誰かが押さえ込んでおかないと、下手をすると家康よりの行動をしかねない。
そうか
>>50 >比較的、豊臣家に忠実な立場である西側も、勝てる自身があまり無い以上、豊臣家を巻き込みたく無い、ってのもあったろうし。
それはない。秀頼が動けば負ける見込みは無い。
つか、恵けいと三成は再三秀頼の出馬要請してる。秀頼(周辺)に断られてからは輝元にも再三出馬要請してるし。
家康の意向を受けた広家が秀頼輝元双方が大坂を動かないように輝元に秀頼警護のために大坂に留まるよう説得してる。
三成に無理やり引っ張り出された秀頼君をお助けしろ、とか、
いいようはあったと思うけどね。
まあ、どうしたって東軍諸氏は動揺はするだろうな。
いずれにしても西軍側に、あえて秀頼を出さないようにしたという様子は見受けられない。
出馬を頼んだが断られたってところだわな。
>54
じゃ、豊臣家としては家康の真意を知らない以上、三成等の挙兵は、ある意味迷惑みたいな感じだったのかな。
上杉討伐までの家康の行動は、ちょっと勝手が過ぎる部分もあるが、挙兵まですることは無いんじゃないの?みたいな。
豊臣にとって、西軍挙兵は歓迎すべき行動だったとは思う。
少なくとも秀吉死後の家康の態度はどう取り繕っても、豊臣政権の代行者とは
思えない越権行為が目立ったし、内心では家康を何とかしたいとは思ってたと思う。
ただ徳川の軍事力と家康個人の大きさが恐くてみんな萎縮していたところ、
代わりに成敗してくれるってんだから有り難い事このうえない。
ただ周りの諸大名を見ても解るように、勝てるかどうか解らないから、豊臣家も東西対決
を横目に見て日和っていたんじゃないかと思う。
豊臣家は同じことを大阪の陣でもしようとしていたな。
自分たちはあくまでも超然とした存在で、
その下での総大将・織田有楽斎(当初予定では常真入道)が率いた浪人勢と徳川方の戦、と。
そのアホ過ぎる態度が、豊臣政権崩壊の何よりの理由だと思う。
>56 >57
それじゃ、徳川が潰れくれれば大歓迎だが、自分自身では能力が無いし、どうすれば良いか分からないから、他人がやって欲しいなぁ・・。
みたいな感じかね?
そんな無責任体質じゃぁ、誰もついて来ないわな。
その辺りが根本的な問題かね?
いや、家康は専横しているが戦にまでする必要はないと思っていた者もいたと思うよ。
上で既に言っている人がいるが、豊臣家が大っぴらに西軍につけば、
西軍の勝率はぐっと上がる(個人的には勝利確実とまでは行かないと思うが)
もしどうしても家康を除きたいと思っていたならそうすべきだったし、そうしたはずだ。
いずれにしても、当主秀頼が幼少で自身で判断できない以上、
実際の秀頼の行動について判断をするのはその側近たち。
しかし、彼らの中にもそれぞれいろいろかな考えの者がいたのだろうから、
一概に豊臣家の考えはこうだったとは言えないでしょう。
要するに結局のところ当時の豊臣家には「豊臣家の意志」を決定できる者が存在しなかったということ。
だから、豊臣家がはっきりとした行動が取れなかったのはある意味当然。
豊臣家にとっては、当主が幼少で後見人も死んでしまったという状況が、
いかにも不味すぎたというか。
60 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/02(月) 13:46:11
関が原に布陣した両軍の兵力は、
東軍8万9千
西軍8万4千
なので、東軍のほうが僅かだが兵力が多い
東軍は西軍に包囲されている布陣だが、東軍は兵力が集中しているのに対して
西軍は兵力が分散しているので、西軍に有利な布陣であるとは限らない
東軍は魚鱗の陣であり、西軍は鶴翼の陣であるが
笹尾山の兵力は8千(石田隊6千+豊臣麾下2千)であり、
東軍が一丸となれば一点突破も可能であり、こうなれば西軍は脆い
以上の3つから考えても、西軍が東軍より優位な点は1つも無い
うわぁ、厨丸出しな意見だ・・・・・
西軍が東軍よりも有利な点がまったくないってのは事実だけどね。
63 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/02(月) 19:17:52
>>62 佐和山城・大坂城などの堅城を持っていたことが西軍の最大の利点。
これを活かさなかったのは愚かとしか言えない。
>80
些細な点だが、西軍は高地に陣し、東軍はそれを見上げる形で戦闘しなきゃならん点とか。
小早川・毛利等が、三成の計画通り動いてくれるハズ、ってのが前提だが、その両軍が東軍の側背を突くまで、高地を堅守してれば良い、と言う部分で利点はあるかと。
実際の戦闘でも石田軍、宇喜多軍等が寡兵ながら半日近く持ちこたえたのも、石田軍等の士気の高さだけでなく、地形的な部分もあったかと。
>>63 そこまで攻め込まれてはもうお終いってものだが。
66 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/02(月) 23:56:48
>>65 だから野外決戦せずに篭城戦をすれば良かった。
まず、三成本人の部隊を含む軍勢で篭城した場合、
事実上の首謀者である三成の動きが取れなくなってしまって、
唯でさえまとまりのない西軍はほとんど行動不能になってしまう。
次に三成を含まずに篭城するなら、かなり信頼できる軍勢をそこに当てないと、
さっさと降伏してしまい話にならない。
その為三成は唯さえまとまりのない西軍の中で、
数少ない信頼できる軍が一部削られた状態で援軍に向かわなければならなくなる。
どちらにしろ極めて不利。
というか、そもそも篭城戦は援軍が来ることが前提の戦いで、
援軍が来れば結局その援軍との間で野戦になるだけ。
篭城した場合後詰で来るであろう立花隊とかは、直前までの大津城攻めで疲弊してるしな。
相良隊や秋月隊、高橋隊みたいに東軍に通じてるのまできたら酷いことになる。
そうして時間をかければ、北陸から上ってくる前田隊が仮に一万としても、
これに対する備えを若狭なり北近江になり置かねばならないし。
これらは結果論に過ぎないけど、
やっぱ関ヶ原で野戦に及ぶ以外の手ってどうにもならんじゃね?
そこまでの大局観が三成にあったかは分からんけど、
元々あそこに家康がいるとは西軍は知らなかったわけだし、
あそこで東軍の西上軍を叩いて、一発大きな戦果を上げようと考えたのが最善だったのかも。
関ヶ原ではなく、大阪で野戦and大阪城籠城ってのはアリじゃないか?とは思う。
大阪城を中心に布陣したとたん大阪城の門を閉じられたりして終わってしまうかもだが…
70 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/03(火) 09:54:13
ヒストリーチャンネルで一挙放送された、「そのとき歴史が動いた」の
おねのエピソードで、三成がおねとの接近を図るべく娘を養女に差し出した
とか、北の政所が西軍の戦勝祈願に参加するか思い悩んだ末に結局参加しなかった
ことなどが紹介されていた。
淀−三成派、北の政所−武断派という通説を覆すもので、
関ヶ原関連スレではこれまで散々議論されてたことだが、NHKの番組で、
過去にそのようなことに言及があったとは驚き
おねの政治的影響力が司馬以来過大評価され続けている、
というところまで言及しなくちゃまだまだ片手落ちだと思う。
>>69 せっかく美濃まで進出したのに大坂まで戻ってくるようでは、
西軍の士気崩壊してしまうよ。
史実以上に寝返り頻発するし、何より輝元が史実同様、
所領安堵といわれて和睦してしまう可能性が高い。
それ以前にさすがの豊臣家もそんな状況になれば三成を見限って、
家康を正当とするするような声明を出すかもしれないし、そうなれば篭城自体出来ない。
決起していきなり大坂に立てこもるというほど消極的でも結果は同じ。
そもそも前田利家が家康相手のにらみ合いで
圧倒的有利な状況に合ったにもかかわらず
消極的な態度を取ったためにあっというまに求心力を失って
自分の派閥の有力者である細川や浅野などから
家康に頭下げに行く事を求められたことを考えると、
利家よりさらに威厳がない秀家や三成が楼上策取ったらおわり。
74 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/03(火) 17:04:55
おまいら、大坂には秀頼様がおられるのだぞ。
そんな簡単なもんじゃないだろ
秀頼がというか豊臣家が、
大坂まで攻め込まれるような不甲斐ない三成を支持するわけないでしょう。
そもそも、美濃から三成が一戦もせずに帰ってきたりしたら、
丸っきり見放されてしまってもう大坂城に入れてすらもらえないと思うぞ。
利家なき後「豊臣家に意思決定者がいない」
と誰かいってたが、それに尽きるね。
三成もそれがわかっていたはず。わかっていたなら
「秀頼君に御出馬をお願いする」なんて、ぬるい方式をとらずに強引にでも主力軍に連れていくべきかと。
権限がないとか関係ない。二大老、三奉行の意思だとでも言って無理矢理に引っ張りだせばいい。
そこまでしなくても勝てると踏んだ三成の甘さか。
かの幼童が戦場にいれば、その時点で格段に勝率があがるのがわかっていたのに、淀&豊臣家中に遠慮したのが命とり。
毛利輝元にしても、たとえうまく引っ張りだしても、秀頼は戦場に来ない。
が、秀頼を引っ張りだせば、自然と毛利輝元は付いてくる。
だからなおさら、どんな強引な手を使ってでも秀頼を引っ張りだすべきだった。
とにかく「意思決定のない集団」にいくら理を説いても意味がないので、この火事場においては非常の手段をとるべき。
上記の私の説はかなり暴論なんで、いまひとつ。
「大坂城まで攻められたら終わり」
との意見があったが、それはどうだろう。
秀頼、輝元が出馬しないなら、逆転の発想で、そもそも大坂に主力をおく。つまり籠城も案外よい手かも。
まあそうなれば、戦に発展するかもどうかもわからないが…。
この場合、家康がそう簡単に軍を解くとも思えないが手詰まる可能性はある。
>78
援軍が来なきゃ、手詰まるのは籠城側かと。
もし全軍こぞって籠城となれば、武具・兵糧の補給もすごい量になる。籠城側はそれを確保出来るのか?
もし、一部籠城で、基本的には野戦、と言う意味なら、野戦で敗れた段階で開城するハメになるだろうな。
80 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/03(火) 20:01:03
>>79 >武具・兵糧の補給もすごい量になる。籠城側はそれを確保出来るのか
篭城が決まればそこらじゅうからかき集める。
その手腕で三成に敵う奴はいない。
>>77 西軍が一枚岩で固まっていたなら強引に秀頼を連れ出すのも良かったかもね。
しかし、現実は違う。
そんな無茶をすれば、三成は幼君を無理やり操ろうとする逆臣である、
という東軍のプロパガンダが客観的な事実であるということになってしまって、
そもそも西軍そのものが瓦解してしまう。
西軍は三成が何をしてもそれに従いついていくというような結束力があるものではないのだから。
大坂城篭城はさらに論外。
篭城するには当然城主である豊臣家がそのように決断しなければならないが、
この時点で豊臣家にそんな意思はない、もしそんな意思があったなら、
史実の関ヶ原のときにもっと大っぴらに西軍を支援している。
篭城するつもりがない以上、じゃまなのは三成等一部の強硬派で、
彼らの方が廃絶されてしまうだけ。
この場合も西軍が一枚岩の結束力があるものなら、
協力して無理やり篭城してしまうことも出来るだろうが、
西軍はそうではないためやはりそれは不可能。
結局西軍決起が広範なコンセンサスを得ないまま、
一部の密謀のみによって行われたことが尾を引いているといえる。
もちろん状況から密謀によるしかなかったし、
にもかかわらずあれだけの大軍の集めた三成らの手腕は傑出したものではあるが、
その結果西軍は否応もなく結束力のない存在になってしまったし、
三成のリーダーシップもかなり限定的なものになってしまい、
諸将が納得しないような無茶な行動は取れなくなってしまった。
>80
1ヶ月分くらいなら、なんとかなるだろうが、それ以上長引いたら?
外部と遮断されてる城方は援軍が来なきゃ飢え死にするだけ。
それも大軍であればあるほど、その危険は早く来る。
それ以前にどうやって豊臣家を説得して篭城戦に持ち込むのかと。
うまく豊臣を説得できて籠城できれば海路は西軍優勢っぽいから外部との繋がりも遠回りだけど可。
兵糧さえ持てば籠城で不利な事はない。家康は大坂の陣の時のような大砲も用意してないだろうし。
でも現実的には籠城で東軍を撃退するより、それ以前の籠城に持ち込むまでの方がよほど難しい。
つか、そもそも篭城許すくらいなら秀頼の関ヶ原への出馬を拒否しないだろ。
淀は幼い我が子を戦場の矢面に立たせたくないから断ったんだろうに。
そもそも関が原当時の豊臣家は徳川に対して敵意なんて持っていないし。
篭城とか出陣とかいうレベルじゃない。
徳川を警戒していたのは徳川以外の五大老クラスの大名だけ。
そして五奉行→五大老→豊臣家と潰していった。
豊臣の直轄地を徳川が独断で切り与えてたりするのも
見方によればそれにより豊臣体制を維持するためと出来るし。
徳川自体が豊臣政権を支える筆頭であり公儀そのものと言えるんだから。
88 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/04(水) 17:40:56
>>49 >>50 戦自体を辞めさせる命令はできなかったのかね?
そもそも関が原が豊臣家内の内紛ならどうしてその後家康は天下を取れたのかわからない。
あくまで臣下としての戦であったのは上杉征伐だけだと思うんだけど。
西軍とぶつかることを秀頼から許可をもらってたわけではないでしょ?
89 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/04(水) 17:45:15
>>54 つまり豊臣はまさか関が原の勝敗で豊臣家の天下様としての将来が左右されるとは思ってなかった
というオチかしら?
多分そうなんだろうなぁ。
やはり関が原の家康の勝因は秀頼が幼すぎて、無能であったということだったな。
そう考えると利家が後10年生きてれば、その後関が原のようなことが
起こっても秀頼は西軍を正式に官軍とできたんだろうか。
90 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/04(水) 17:46:28
単純におねが家康側についたのが勝因・敗因だと思うけどね。
91 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/04(水) 17:47:45
>>59 >実際の秀頼の行動について判断をするのはその側近たち。
その側近の筆頭が家康だったからどうしようもなしでFA?
92 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/04(水) 17:49:17
>>66 そんなことしたら上杉をつぶしたあと悠々と万全の体制で東軍が迫ってくるんだが?
93 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/04(水) 17:54:08
>>73 >そもそも前田利家が家康相手のにらみ合いで
圧倒的有利な状況に合ったにもかかわらず
今まで利家は強いほうに付いてきた。
なのでこの時も強いほうに尽きたいが悩んでる最中だったりして。
多分トシナガが家康に屈服したことをあの世で知って安心しただろう。
94 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/04(水) 17:59:39
>>77 それは間違いだと思う。
秀頼がいればいいのではなく、秀頼が正式に西軍に付かないと意味がない。
強引に連れてきたら、三成は下手したら謀反人になってしまう。
そうなれば完全に賊軍だね。
東軍は「秀頼様を助ける為」といって戦えばいいので、豊臣恩顧は逆に東軍に言ってしまう。
95 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/04(水) 18:01:07
家康を朝敵アンド豊臣敵にすればよかっただけのこと。
>95
朝廷は日和る。結果がでるまでは、なんやかんや言って先延ばしする。
豊臣家にしても、はっきり西方が勝つと言う保障が無い以上、徳川を敵、と断言するのは無理だろうな。
朝廷&豊臣家に無理強いすれば、
>>94氏の言う展開になってしまう。
豊臣としては西軍に勝って欲しいと言う願望があったのです。
しかもこの戦が誰が起こしているかにかかわらず、豊臣vs徳川の政権争いなのは明白、つまり本来であれば
自分自身が渦中の中心なのです。
でも負ける可能性も有るわけで、負け組にはなりたくない。
端から見ると子供の我が儘とも思える内容を事実として通しきったのが関ヶ原の豊臣家なのですよ。
これが、「意志決定できるシステムがない」の真実。
無いのではなく、責任を取りたくないから無いことにしちゃったのです。
ただ徳川としても、豊臣恩顧の大名を配下に多く抱える以上、打倒豊臣の戦さは行えないし、西軍
切り崩しには、一部の過激大名が起こした反乱とした方が都合がよいわけです。
もっとも意志決定機関があやふやでなにも決定できなかったと言うことは、逆にすべての西軍行動を
認めていたと言うのと同じ。
曲がりなりにも、日本の政権を担う本家であると自負するなら、いやだれも決定権ないから…なんて通じる
訳がない。
それを各大名は口には出さずとも理解しているから、関ヶ原後徳川は幕府を、開くことが出来たわけです。
>>88 無理だね、秀吉死後の豊臣政権の政策決定及び執行は、五大老・五奉行によって行われる。
それに対してストップをかけれる人間はどこにも居ない。
もちろん、秀頼本人にはその権限があるはずだけど、何しろ幼児に過ぎない、
また、取り巻き連中がそんな事をしようとすればそれは重大な越権行為。
それから、内紛の結果絶対的な権力を握った家臣が主家を追い落とすというのはよくある話。
そして、実力に加えて天皇家という存在と直接結びつけば、
建前上も容易に君臣の立場が逆転してしまうというこの国独特の状況もある。
実際秀吉だって、信長死後織田家中の内紛を制して圧倒的な実力を得て、
その上で朝廷と直接結びつくことによって、それまで織田家の家臣であったはずなのに、
そして織田家の当主も幼少とはいえ存在したのに、それを押しのけて天下人になってしまった。
>>97 「豊臣としては」というが、
それは一体誰のことを、あるいは何のことを示して言っているのです?
100 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/04(水) 19:04:58
>>96 つまりあの状態で西軍が勝たない限り家康の天下は不動であったと?
101 :
淀:2006/01/04(水) 19:05:05
なんだかんだ言っても
あんたたち石田ちゃんと関ヶ原が大好きなのね・・・
102 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/04(水) 19:07:47
で、結局このスレは存在意義がないということでFA?
103 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 12:06:08
>>100 違う。家康を暗殺しておけば良かっただけの話。
104 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 12:56:50
秀吉死後、大身で天下を狙う大名が家康しかいなかった気がする。
利長は継いだばかりだからしょうがないが、輝元の守成ぶりには呆れる。
ほかの大身大名が腰抜けだから、家康が天下をとって当たり前。
三成みたいな粋のいいのが大身の主だったら、おもしろかった。
105 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 13:25:07
>>104 表向きはそう見せるだけで、実際は違うと思うよ
106 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 14:03:14
107 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 14:14:01
108 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 14:19:57
>>106 大半。
今からタイムカプセルでタイムスリップして大名に直接野心を聞きに行っても本音を言ってくれる人なんてどれだけいると思う?
109 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 17:49:31
>>108 だから例えば誰よ?
わけのわからんこと言ってないで答えれ。
それと粋の良さと腰抜け如何は内心とは違う話だよ。
内心思ってるだけで行動を起こす勇気がないやつのことを腰抜けという。
結局討ち死に覚悟で天下を取ろうと考える大名がこの時にはずいぶんと減っていた。
だから中途半端に西軍についたり、家康のご機嫌伺いみたいなことをする。
例えば毛利輝元の中身が秀吉や信長になったら勝敗は別として家康はもっとしんどかった。
もしも30万石以上の大名の中身が全て信長になったら家康は天下は取れなかった。というより乱世に逆戻り。
実際それもそれで困るんだけどね。
>>107 ハァ?とっくに死んでるわボケ。
110 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 18:23:09
>>109 そんな匹夫の勇がみたいなボンクラが大名じゃ家臣は誰も付いてこないよ。
状況によって柔軟に対応するのは当たり前だろう。江戸時代の治世に誰が無闇に謀叛した?
いちいち成就しえない人の思いが歴史に残るわけないだろ。それでも伊達や黒田が大望を抱いていたと後に伝わっている事自体が異例の事。大体何でこんな当たり前の事を説明しなきゃわからんのかね。
視野が偏狭過ぎる。
ニート乙
毛利の場合、家訓が「天下なんて狙うな」だからな。
家臣ほとんどの総意も御家安泰が前提だろ。
安国寺が異分子なだけで。秀元は若いから血気盛んだったようだが。
もし輝元が天下取り目指したら、毛利家が天下争う前にお家騒動だな。
>>112 対信長の時代にすでに遺命にそむいて天下に関わっているけどね。
>>110 黒田や伊達が天下を狙っていたというのは後世の俗説だけどね。
>113
織田と対立したのは、天下を狙った訳でなく、膨張して行く織田に自家存続のため、対抗しただけだろ。
織田家が「天下」統一事業を担ってたため、それに対抗する毛利家は結果的に天下に関わっただけ。
天下に関わる、と天下を狙うじゃ大違い。
>>108 このレスが飛びぬけてアホをさらしているな。
大望を持った者が少なかったというのに対して、
そうとは言い切れないというだけならともかく、
自分は大半と言い切る神経が意味不明。
大半だといえる根拠は何なのかと。
116 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 19:26:39
>>110 >そんな匹夫の勇がみたいなボンクラが大名じゃ家臣は誰も付いてこないよ。
あれだけいい家臣がいっぱいいた信長を匹夫の勇って・・・
君が言ってたのは黒田と伊達かぁ。
いきなり名前を出して、まるで今まで伊達と黒田を批判していたみたいな論調はいかがかと。
早く言えといわれてたのがわからなかったのだろうか。
別に黒だと伊達についていうことはないが、残りの数十名はいつ発表するの?
>>108ではお前は大半とのたまわってたんだが
早く大半に含まれてる名前を全てあげろよ。
そんでその根拠をだせよ。伊達と黒田はもういいよ。反論なしだから。
117 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 19:36:19
>>110 関が原の時期でも大名たちの野心に戦乱時代と差はなしだって思ってるの?
例えば江戸時代は戦国期ほどは野心を助長する時代ではなかったので、当然戦国時代に比べると
野心を持つものは少なくなるだろう。
それと同じで一度まとまってしまった後の関が原の時も戦国真っ只中に比べると
野心たっぷりの人間は少なくなってると考えるのがしぜんなのでは ?
まあ極端に誰もいなかったというのも変だけど。
118 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 19:44:12
>>116 推論とか考察なんてのを知らない奴に言う事はないよ。
大半とは表現が過ぎたようだ。ただ現状に満足して簡単にお腹いっぱいと栄達を放棄するようなもんじゃないよ。戦国大名は。
もう戦国大名じゃあないから。
>118
戦国時代と言っても、織豊政権で一時的にせよ統一がなり、秩序が作られてるでしょ。
能力もあり、努力もし、やっと大名として生き残った家ばかり。
戦乱期から織豊時代を生き抜いた現当主も、ほとんどが老境に差し掛かって、世代交代の時期。
天下狙うより、自家存続を目指してた大名がほとんどでしょうね。
>121
一部を除けば、ほとんど織田・豊臣の家臣上がりか、国衆からの成り上がりかと。
123 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 20:00:51
織豊時代の当主達も今さら戦乱の世に逆戻りするような事する意味もないよ
ある程度の身分が保証されれば大乱なんて御免だ
ってのは当たり前の考え方だよ 自殺志願者じゃないんだから
大体、戦国時代真っ只中だって、
「天下を狙う」奴なんてめったにいなかったのに、
秀吉の天下統一以後にそんなのが沢山いたなんて妄想もいいところ。
戦国時代に夢見すぎ。
戦国時代→生き残る
統一後 →所領安著
ってのが、ほとんどの大名・領主の本心だろうな。
>>123 現代人からすればよほど命を賭けて生きているからな。
腹切る覚悟なんて想像もつかないよ。
おまえら、腹切るくらいの覚悟で生きてるか?
127 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 20:53:17
もうここらへんでやめて
これ以上いじめると事件でも起こしかねないよ
128 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 21:38:00
結局、関が原で西軍が負けたので、今でも大阪人の東京に対する敵愾心は
拭えないわけだ。
129 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 23:12:51
>>128 いじめられたからって新たにわけのわからんことをのたまわるのはやめとけ
130 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 23:16:49
>>128 四百年間の関西人の鬱積かよ(汗)
わし関西人やけど、東京に対して敵愾心なんて持ってへんで〜
ホンマかウソか、自分で調べるとヨロシ
>>128 自分が今まで色んな情報に踊らされ偏見に満ちた虚偽を信じ込んでいたこと後悔しとけ。
普通の人間なら信じ込む前に調べる。
132 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 23:32:49
133 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 23:44:44
で、結局、このスレの本題はどこへ行った?
関西とか関東とかは関係ないはずだが
>>132 お前はなんでもかんでも一事が万事で片付けちゃうんだな。
根拠大好き。1つ正しきゃそれが全てですか。
もう少し視野を広げないと見えて当たり前の事も見えないぞ。
この多様化のご時世になんだかなぁ・・・
呆れるよ。
どちらにしろ黒田が天下狙うなんて絵空事じゃねえの
言ってはなんだか大友の残党を倒すなど豊後国内で働いていただけで、島津を除いて九州制覇なんてよく言われるが、豊前攻略が既に大坂入城を果たした井伊直政を通じての家康の指示
その後は加藤清正による宇土城攻略など関ヶ原の東軍勝利を伝えての開城が多いので、中央での決着が長引いていたら彼等もおとなしく開城しなかっただろう
家康や三成みたいに大老や奉行でもない奴にどれだけの大名が従うかも疑問
>>135 そういうドリームを信じたい人がいるのさ。
137 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 00:29:59
うむ
138 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 00:57:34
真田昌幸か幸村、関ヶ原にどちらかがいればなぁ。上田城では三千人で迎え討ったみたいだから、五百人でもいいから布陣してれば結果は変わっていたかもしれない。
真田500人なら立花3千人の方がよくないか?
こっちの方がまだ可能性あるしさ。
140 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 02:31:19
真田を妄想しすぎでは?
実際大阪の陣での真田は活躍はしたが現実敵な活躍というか
今妄想してるような異常な活躍はしてない。
だから関が原に居れば当然活躍してたろうけど、戦局をひっくりかえすまでには至らないでしょう。
立花四千って、よく連れてきたよな
やる気満々じゃん、宗茂
関ヶ原の頃、信繁は、ほとんど活躍してないし。
親父にしても、上田近辺の地形と言う要素があっての活躍と言う部分も大きい。
寡兵で決戦に参加出来ても敢闘までじゃないかな。
大阪の陣で真田が強かったのは、全軍死兵と化していたからって事を忘れるな。
命捨てる覚悟でかかれば、命を捨てる気は無い連中より強くなれて当然だからな。
関が原で真田の軍勢は命を捨てる気になれるのか?
それに昌幸が平野での野戦でどれだけ活躍できるのかがわからん
ゲリラ戦なら得意なイメージがあるがね
145 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 12:10:09
上田城攻防戦は自分の根拠地の防衛戦だから、いわゆる根こそぎの動員だったはずで、
畿内への遠征であれば費用や城の守りを考慮すれば確かに500程度が精一杯。
500の兵力は石高でいえば2万石程度の大名に相当するが関ヶ原戦で2万石程度であれば
例え安房守昌幸が出陣していたとしても20〜30万石クラスの大名の与力がせいぜいでは
ないか。
そうすると真田が神掛かり的な強さがあったとしても作戦面で主導的立場には立ち
得ないし、いいとこ大谷与力の戸田・平塚のような活躍止まりだろう。
146 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 12:29:55
>>145 げんじつてきな話をすれば真田などそんな目を見張るほどの存在ではないのでそんなことを言われても困る
147 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 13:05:52
今日4時からNHKで関ヶ原やる
関ヶ原前で宇喜多や島津の夜襲の意見を三成が無視してなければ
勝てたと言う意見は?
さっきCSで関ヶ原見終えてからの意見ですが…
149 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/07(土) 22:30:49
>>148 家康の美濃赤坂着陣で西軍に相当の士気ダウンが見られた事から考えても、家康着陣
前に東軍を一撃しておく事は日和見大名の動揺防止にもなる上に決戦前に大いに士気
が上がるはずであり夜討の価値は大いにある。
翻って東軍の立場からみても家康はのらりくらりと東海道を下ってきており、不安と
焦燥は十二分にあったはずで、もしも西軍の夜討が実行されていれば「内府公遅し!」
不満と西軍への内応を考慮する者も現れよう。
ただし夜討が失敗したら、その被害は数倍となって西軍に返ってくるはずで、夜討を
敢えて敢行しない、という戦術にも一理はあるのは留意せねばならない。
150 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/07(土) 23:13:02
西軍としては一か八かの賭けではあっても、
東軍に夜襲をかけておくべきだったかもしれない
ただ、関ヶ原までの行軍に兵士たちが疲れていたら夜襲どころの話ではなくなるが・・・
151 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/07(土) 23:21:20
夜襲ってのは大概は自らの不利を認めての作戦だからなぁ。
それで失敗した日にゃ傍観、二股組は一気に相手に流れる恐さがある。
やるなら相当な戦果をあげるつもりでやらないと割りが合わない。
正義を掲げる上でも姑息と思われやすい作戦は抵抗あるだろうし。
夜襲は奇策なわけで、どう転ぶか読みにくいよな。ハイリスク・ハイリターンだし。
ただ、一枚岩には程遠い西軍の内情を考えれば、リスクよりリターンの方が大きい気もするね。
関が原は結局、有利な布陣なのに、内応で崩れたしな。
まあ、結果を知ってる俺らだからそう見えるんであって、
当時の三成らには、西軍の分裂具合の深刻さはわからなかったのかもしれないが。
153 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/07(土) 23:26:40
もし上杉景勝と伊達政宗が西軍として関が原に参戦していたら?
>>153 質問の意味がわからん。
どうやったら、その二人が関が原に来るんだ?
>153
前提が・・・・。
関ヶ原が起きたのは、上杉を討伐するため家康が京洛を後にしたからで・・・。
伊達も、関ヶ原行くまでに徳川の本拠地を通らなきゃならんし・・・。
156 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/07(土) 23:43:47
>>153 上杉や伊達が、関ヶ原戦場で、一同に会して戦うことをおっしゃっているのであれば、
兵站の確保と兵士の移動、他大名の領地をまかり通るなど・・・
あらゆる障害をクリアしなければならないので、かなり困難ではないかと思いますが・・・
つーか、上杉と伊達が手を組んで家康と対決するなら、関が原まで出てく意味も無いしな。
関東平野の北部で雌雄を決すればいい話だし。
158 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/08(日) 00:31:52
家康が陣場野に進んだところで、石田隊から家康本隊に大砲を撃ち込んだら効果は期待できたのか?
159 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/08(日) 00:39:08
>>148 でも島津の夜襲献策って江戸時代後期に言われたもので、維新義弘公と三成は仲が悪かったのだと宣伝するための薩摩藩の創作じゃなかったけ(「真説 関ヶ原」あたりにあった希ガス)
>>145 家格、人望、経験、実績、能力、装備(鉄砲)、あらゆる点で
真田を数十倍する島津でさえ、兵1000人では
軍議では軽んじられていたから、真田500じゃハナクソ扱いだろうね。
161 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/08(日) 08:47:36
昌幸と三成は相婿だぞ
扱いはいいだろう
>>161 その程度の血縁関係は
兵力を持ってきていない場合、
三成に無視されるだろうな。
娘婿で真田の倍(12万石)の大名の福原長尭も
全然軍議に影響を及ぼしていないし。
そもそも真田以外にも嘘八百のはったりを配って歩いた
書状以外に、三成が真田を重要視した痕跡はない。
来たら来たで邪険に扱ってへそまげられて
決戦時におたおたと頭下げに行く醜態先を増やすだけではないか。
>>158 この時代の大砲は弾丸の中に火薬が入ってないので、
着弾しても炸裂しない。ただ金属の玉が飛んでいくだけ。
だから建造物に対してはそれなりに効果があるけど、
野戦陣地に対してはあまり効果ないだろうな。
164 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/08(日) 09:45:03
そこで東軍到着時に一気に奇襲をかける。
165 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/08(日) 10:32:39
家康本隊は、本当に3万も兵力があったかのか?
特に否定する根拠もないからあったと考えて間違いないだろう。
167 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 13:55:38
実数が3万未満でも3万と公称することは可能だろ?
169 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 14:13:09
小早川と小西を反対に布陣させる手段は無かったのか?
送信しちまった…
三成失脚後、家康が福原から早川長政に府内城を明け渡させた。三成が福島らに襲われたのは妹婿の福原を庇ったからともいわれている(当時日本に来ていた朝鮮人の観察)
軍監の福原は慶長の役の蔚山城攻防で、勝利したにも拘らず敵に追撃をかけなかったのを怠慢として三成を通して秀吉に報告し、秀吉は福原を12万石に加増したため彼等の恨みを買っていた
早川も同じく軍監だったが彼も追撃に消極的だったためか福原に訴えられた
あと福原は大垣城の留守居役を任されているから特に軽視されたともいえない
長々と補足スマソ
福原は三成の娘婿とは関係なく、個人と仕事の境界がはっきりしているところとか、規則に厳しい委員長系な
ところとか、当時では珍しい性格の持ち主だったみたいです。
その辺三成と似たところがあるので、案外気が合ったのかもしれません。 あくまで想像ですが…
福原は当時、大垣城代として7千5百ほどで籠城しましたが、関ヶ原敗戦で東軍への内応者が続出する中、
内応者と東軍の攻撃を防ぎきり、開場したのは9月23日だそうです。
水野勝成率いる東軍が大垣の攻城を開始したのが本戦当日の15日ですから、途中攻撃軍に中弛みが
有ったとしても、本体の敗北にもかかわらず都合9日も持ちこたえたのは賞賛に値するのではないでしょうか?
福原自身っはその後幽閉され剃髪自害したそうです。本戦での諸大名の裏切り行為が有名なだけに、
ひょっとしてすごい奴なのかもと思っちゃいました。
蛇足スマソ
>>167 それいったらあらゆる兵力が信用できなくなってしまうけど。
家康本隊3万を特別疑う理由が何かあるの?
173 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 18:58:04
>>172 それだったら、赤壁の曹操軍100万を特別疑う理由だって何かあるの?
>>173 曹軍百万って演技の表現でしょ。
フィクションの話を持ち出されても困る。
曹軍が百万でないことを検証することは容易だが、
家康本隊三万が誇張であることを検証することはまず不可能だよ。
175 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 19:14:42
まぁ中国は今も昔も「白髪三千丈」なとこあるからね。
日本でも太平記とかは、ちょっと兵力多すぎって感じはある。
戯曲や琵琶の弾語りみたいなものがベースになったりしてると表現手法として
語呂とか語感が良い言いまわしとかが使われる可能性は十二分にある。
>>173 人口。
三国時代当時の国家が把握していた人口はせいぜい500万人、
実数はもっとずっと多かったといわれるが、国家が把握していないということは、
徴兵もできなかったということなので、
実際の徴兵はその500万人くらいの中からしなければならない。
当時曹操の掌握していた地域が仮に人口で半分を占めていたとしても、
250万人中100万人を動員するのは普通無理でしょう?
まあ、絶対とは言わないが、徳川軍3万を疑わしいとするなら同程度の根拠は示さないとね。
スレ違いだが、曹操の場合、当初の兵力が15万前後、荊州の降兵が7万前後で計25万ほど、と周喩が推測してるな。
それ+して楊州方面への手当てもあるんで、南征総計で30万前後、ってトコかと。
100万では無いが、当事の曹操としては総力を挙げた遠征ではある。
>>178 あなたには見飽きた話でも、
>>177にとっては誰かに言いたくてたまらない
最新知識なんだよw
180 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 22:34:29
家康本隊を敗走させる可能性は皆無だったのか?
182 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 22:46:56
>>180 小早川の裏切り、吉川の内応とかがなければ、
関ヶ原戦場で、東軍本隊(家康)との戦いがあったと漏れは勝手だが、推測する
その前提で言えば、西軍全体(は無理でも何割か)が家康本陣めがけて突出する可能性はあるはず
そこからは、どの程度、西軍が家康を押し切れるか、逆に、家康がどこまで持ちこたえるかによって、
家康本隊が敗走する可能性は大きく左右されると思うのだが・・・
ただ、家康は野戦の名手であるのに対し、三成は戦争の指揮が家康ほど巧みでないから、
よほどの好条件が整わない限り、徳川家康敗走・・・は難しいと思われる
183 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 22:48:11
>>182 もし家康が敗走したら、絶対に西軍が勝つと思うのか?
当時の徳川領の石高はおよそ250万石、
関ヶ原当時の通常の動員である万石あたり300人で計算すると兵力は7万5千。
一般的に言われる関ヶ原のときの徳川軍の兵力は、
関ヶ原にいた部隊が家康本隊3万、井伊隊忠吉隊6千で合計約3万6千。
秀忠隊の3万8千のうち徳川家の部隊が約3万。
そうすると、関東に残っていた兵力は約9千となる、
結城秀康・蒲生・里見等その他の関東に残った大名とあわせても2万ほどで、
関東の守りがやや手薄いように見えるが、
このことはむしろ家康が本隊が西へ動いた後のことをずい分気にしていたことと合致する。
もちろんこれは通常の動員による場合で、無理をすればそれ以上の動員もありえる、
実際関東など後方の城の守備要員も含めればもっといただろうと思われる。
いずれにしろ、当時の標準的な動員数から考えて、家康本隊3万は別段不自然ではない。
185 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 22:53:22
>>183 西軍が絶対に勝つ・・・とは言い切れない
家康は一度敗れても、再び再起してくる可能性が高い
討ち死にでもしない限り、一度の合戦で家康を倒すのは難しいと思う
186 :
名無し武将:2006/01/09(月) 22:54:44
>>180 可能性はある。
吉川が動けばまず成功する。
187 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 22:57:40
>>184 上杉軍の抑え、小山の結城秀康の軍が1万5千じゃなかったっけ?
188 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 22:57:44
家康本隊が敗走しても、戦場に残った東軍が奮戦して石田隊も敗走する可能性だってあったのでは?
189 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 23:00:26
>>188 家康本隊が敗走してるってことは、他の諸大名の部隊も西軍にやられていると思うが・・・
仮に残っていたとしても、西軍に寝返りを打つ奴がいるとか、再起を期して逃走・・・あたりじゃないかな?
190 :
名無し武将:2006/01/09(月) 23:03:07
この時代は兵器ではなく人です。当然精神的なダメージも受けます。
将も然り。
大きな戦でまければ、あれよあれよという間に離反者が出て体勢は決します。
三国の袁家などの末路と同じです
191 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 23:03:42
>>189 石田隊が敗走したあとでも、吉川が家康本隊を背後から襲撃すれば、家康本隊も敗走する可能性だってあったと思うの?
>>187 その1万5千の全てが徳川家の部隊とは限らないでしょう。
そもそも結城秀康は徳川家とは別計算だし。
193 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 23:08:56
>>189スマヌ
あなたの問いには少し無理があるように思われる
総大将(西軍は三成、東軍は家康)が敗走した時点で、
この時代の合戦は「終り」ということになるのです
なので、三成が敗走した後・・・ってのが、
具体的に西軍・東軍のどちらかが勝った後でのことなのかが、
漏れには分かりにくい
194 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 23:09:22
家康敗走の場合、どのような敗戦だったかがポイントだね。
小早川・毛利・吉川らが参戦した上での敗走なら、相当ヤバイだろう。
小早川ほか4将前面の藤堂・京極とその延長線上で宇喜多勢と激闘中の福島は壊滅的打撃
と思われる。当然のこと笹尾山前面に展開してた黒田・細川・加藤ら東軍前衛は腹背を
突かれ大名級が何名か討死しておかしくない。
毛利・吉川参戦のケースではタイミングにもよるが有馬・池田・浅野もやはり相当な窮地に
置かれるだろう。
小早川と毛利&吉川の両方のケースが併発すれば(するだろうけどねw)相乗効果で東軍は
文字通り四分五裂に。
小早川参戦と毛利・吉川参戦のどちらかが先に発生するかで結果も変わりそう。
195 :
193:2006/01/09(月) 23:10:20
196 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 23:11:01
家康が7万5千を関が原に動員していたら、結果はどうなったであろうか?
197 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 23:13:01
>>196 関ヶ原に75000を全力投入したらって意味ですか?
198 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 23:15:16
>>197 もちろん!
それで、どうなったと思うの?
199 :
名無し武将:2006/01/09(月) 23:18:09
>>196 戦いは単純に足し算じゃありませんよ。
関ヶ原の盆地にそんな兵力投入して大筒でも打たれたら、大混乱に陥り、東軍は
自滅します。実際に関ヶ原(特に黒田・細川・加藤・筒井・田中の周辺)
は過密状態でまともに戦えませんでした。
それに、単純な足し算だったら、石田三成(6000)vs黒田・細川等(20000)ですぐに本陣は崩されてます。
>196
全力投入しようとしたけど、秀忠が間に合わなかったのだが・・。
201 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 23:20:05
>>198 江戸の守備がゼロってことだから佐竹も動く。上杉の支隊と佐竹勢が関東乱入。
江戸落城のリスクがコレほどの高さなら伊達・最上も積極的に上杉攻略には
動くまい。
江戸失陥は東海道・中山道の東軍諸将だけでなく徳川勢の足軽なんかも逃亡の
恐れ大だね。議論以前の問題で西軍勝利!
202 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 23:20:27
>>200 だから、秀忠も同行させて来たらということだよ
203 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 23:20:37
>>196 味方をどの場所に部署するかで、(東軍内部で)揉め事が起きることも予測される
全力投入=全部隊が戦える、わけじゃありませんしね・・・
204 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 23:23:29
>>203 家康本隊75000が陣場野に布陣したら、この場合どうなる?
205 :
名無し武将:2006/01/09(月) 23:24:33
徳川家は、家康が率いた軍勢は家康(30000)井伊直政(3600)松平忠吉(3000)本多忠勝(500)
計37100人 対する秀忠は秀忠直属(15000)酒井家次(4000)榊原安政(4000)他外様など
計37000人 大体半分づつです
206 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 23:25:12
>>204 秀忠隊も含めてですか?
つまり、史実での秀忠の遅延もなく、家康本隊と無事、合流できたらと言うことでしょうか?
207 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 23:28:31
おいおいネタだろ、75000関ヶ原布陣って?
関東は誰が守るの?ゲームじゃないんだしさw
日本が太平洋戦争で本土に一兵も置かずに軍事力のずべてを海外に派兵・駐留
するようなもんだぞ。ありえねぇよ。
208 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 23:29:24
>>206 というより、秀忠も家康に同行して東海道を通るという仮定だよ
史実のように中山道を通らない
家康本隊75000が、全て最初から陣場野に布陣するという前提だが
どういう予測がありえる?
とりあえず、家康の指揮能力の限界を超えてしまうな。
当時の家康の経験と武威とでは、3万が限界なのは
関ヶ原でのもたつきぶりで証明されている。
桃山時代〜関ヶ原において
秀吉と羽柴秀長以外に五万以上の混成軍団を
破綻せずに動かせる指揮能力がある武将は、
15年後の家康まで存在しなかった。
>>208 関東の守りは残しておかないと話にならない。
せめて7万5千ではなく秀忠軍と合わせた約6万6千にしておきなさいよ。
まあ、秀忠隊についていた外様の兵力約8千もあわせれば、
合計で7万4千ほどにはなるけど。
211 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 23:33:04
>>209 陣場野に大砲が撃ち込まれて東軍は大混乱ということか?
212 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 23:36:27
>>208 家康と秀忠が同じ道を行ったら、多くの兵士のために道が混雑する
結果、戦場への到着が遅れてしまう
だから、行軍のルートを別々にしたんだけど・・・
とりあえず、208さんの問いにお答えします
家康本隊75000が関ヶ原で布陣したらどうなるか?ですよね
たぶん、布陣しきれないと思います、冗談ではなくて
例え布陣しても、全軍が戦うとは考えられません
いくら関ヶ原が広いと言っても、戦闘に使用できるスペースは限られていますので・・・
特に関ヶ原は盆地のような場所ですから、全軍が一同に会して戦うのはほぼ不可能かと
なので、戦前の兵数においては、家康が多いってことになります
この兵数の多さによって、小早川の裏切りも案外早くなったかもしれませんが・・・
213 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 23:37:48
>>209 九州征伐って秀吉自身がやったっけ?
秀吉が出ていなかったら如水がまとめたことになるけど。
214 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 23:43:02
中山道を通った秀忠の到着が間に合っていれば
徳川軍は6万8千(ただし、外様の8千を含むが・・・)になっていたわけで
これで、もし・・・
秀忠が6万5千の兵力で陣場野に布陣して、家康が3千の兵力で桃配山に布陣していたら
どうなったと思う?
215 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 23:47:11
>>214 家康がたった3000の部隊で桃配山に布陣するとは思えない
しかも、戦の経験のない秀忠に大軍をあづけてしまうような冒険をするとも思えない
だから、214さんの「もしも」的な話には少し無理があるように思いますが・・・
肥後から攻めたのが秀吉。日向からは秀長(黒田はここに含まれていて軍監)。
だいたい黒田って方面軍率いたことないんじゃね(軍監とか軍奉行とかだろ)
関ヶ原の北側は東軍の大軍がひしめき合って三成の陣に押し寄せているからもうあまり配置の余地はないが、
それに比べて南側には比較的スペースが開いている。
もし、史実の関ヶ原の陣形に加えてさらに部隊を配置するならそこになるだろう。
仮に秀忠軍3万8千をそこに配置するなら、
秀忠の本体といわれる1万5千は家康の本隊がそうしたように後方に控え、
残り2万3千くらいの兵力で大谷隊を攻撃したと思われる。
如何に大谷が名将といってもこの大軍が相手では史実以上に苦戦するのは明白、
その状況を見て、しかも東軍の予備軍がさらに1万5千もいる状況では、
小早川も西軍につく気にはならなかっただろうから、かなり早期に大谷隊を攻めるだろう。
そうなればさすがの大谷もなすすべがなく崩れるだろうし、後は史実の通り西軍総崩れ。
まあ、勝った方の戦力をさらに増強しても、
勝利の可能性が高くなるだけで、別段面白みのある仮定ではないと思うけど。
>>213 秀長がほとんど全部やって、
秀吉が後からよっしゃよっしゃと占領パレード。
如水は秀吉兄弟が死んだ後で、
「実は俺が色々やったんだよ」と
はったり半分で喋っただけ。
219 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 23:51:49
秀忠を北側に配置して、他の部隊を南側に配置することもできるが?
220 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 23:53:55
たとえ織田信長が西軍を率いても、勝ち目は無かったであろうか?
>>219 もちろん、そういう配置もありでしょうね。
とういうか、本来なら敵の大将と当たる手柄の立てどころな戦闘は、
徳川譜代に任せたかっただろうから、もし秀忠隊が間に合ったなら、
そうなっていた可能性が強いでしょう。
まあ、それ以前に関ヶ原で戦うことになったかどうかのほうが疑問だけど、
あえて関ヶ原でというなら。
223 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/10(火) 00:13:46
毛利の動員可能兵力は3万6千だから、輝元が3万の兵力で笹尾山に布陣することも可能だったわけで
もし、そうなっていたら西軍にも3万の予備兵力があることになり
結果的に予備兵力が相殺されたわけで、史実より西軍が有利になっていたと思う?
その代わり秀元の1万5千は無かったわけで、史実に比べて差し引き1万5千の増強になる
西軍は史実では8万4千だから、これに1万5千を加えて9万9千になる
これは、西軍が圧倒的に有利だな・・・
225 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/10(火) 00:18:36
>>224 東軍の兵力は南宮山の押さえの兵力や、大垣攻めの兵力をあわせると約10万になるよ。
まあ大垣城内にも西軍約5千がいるからあわせれば約4千くらい西軍が優勢。
史実どおりの布陣なら西軍有利だが、そうでないならほぼ互角ってものでしょう。
227 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/10(火) 00:24:41
>>220 「信長」本人が西軍を率いるってことなのか、
「信長のような器量を石田三成」が持っていたらなのかが
わからないですなぁ・・・
>>225 信長は三成みたいなことはしないと思われるからでは?
私も普通にそう思う。
>>225 家康は、信玄も謙信も信長も秀吉も秀長もいない時代だからこそ
日本最強の武家として東軍を率いることができた。
信長が生きていれば、もう格的にどーにもならない。
だいいち、家康自身が子供たち全員差し出しても和睦しようとするよ。
最近、一行二行程度のレスで、自分の考えも述べずに、
稚拙な仮定を言いまくってる奴がいるが、どうなのよ?
231 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/10(火) 02:20:41
>>220西軍の大将は文官です。
文官が戦の指揮を取るのは有り得ない時代です(特に日本だと)だから寝返りやらが起きた訳です
織田が大将なら寝返りも無く、作戦通り動いて勝てたでしょう
232 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/10(火) 02:31:57
もし小早川の寝返り以前に島津の敵中突破が実行されていれば、西軍が有利になったと思う?
>>232 義弘さんは退路を敵中に見出だしたから突っ込んだだけ。
戦況になんら影響を及ぼすわけでもないだろう。
せいぜい島津追撃に多少の兵が割かれるだけ。
敵中に孤立しての決断だしな。
戦場からの離脱が目的だから、もし東軍が素通ししてやったら逆に西軍が動揺しそうだ。
235 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/10(火) 21:20:47
新しい関が原のシミュレーションゲームを作るなら、どんなのがいい?
236 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/10(火) 22:29:05
>>235 勘違いしてない?
このスレ、関ヶ原を語るのが目的のはず・・・
そういう質問はスマヌけど、ゲーム板でやるのがよろしいのでは?
>>229 政治的な駆け引きで下手打つ家康ってのはIF小説でしか見れんからなぁ
>>237 小牧・長久手の戦役は家康の政治的敗北ですが、以前の家康は大きな外交戦略はあんま
行っていません(今川捨てて信長との同盟くらい?)。
対信長同盟以降は外交関連は信長が行い、家康は忠実な同盟者としてふるまっています。
まぁこれもりっぱな外交かも…。
対秀吉以降、家康の政治外交スキルは大幅あっぷしてるような気がするので、がんばって
勉強したのではないでしょうか?
239 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/11(水) 13:09:19
>>238 というか立場・実力によるのでは?
政治力がいくらあっても、軍事力がなければどうしようもないということも
信長従属時代は信玄と対抗するために謙信と同盟したと思う
何もしてなかったわけではないだろう
信玄と→信玄に
榊原康政が謙信との連絡係をしていたようだ
>>238 そういや知己の広家と会うと元就の話をよくしてたみたいな手紙があったな。
そのとき学んだことを関ヶ原の調略に役立てたんだろか?
>>240 仮にも一国の主だから、外交はする訳だが…
信玄が駿河侵攻のため、北条との同盟反故を行い上杉と休戦。
その後、氏康の死をきっかけに上杉→北条と再同盟ってな具合に多彩な外交を行っているのに
対し、家康は一歩遅れている様に思えます。
信玄も今川が滅んだあとの外交では結構苦戦していますが、それでも老獪じじい感が漂ってますよね。
まぁ外交とか政治の世界は経験と年齢が大事なので、家康に多くを期待してもって所もあるでしょうし、
幸い家康に関しては経験と年齢を重ねた姿を見る事が出来ますからね。
245 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/11(水) 19:15:45
強者の謀略は実力を背景にしてるだけに一手一手の効果も上がるということか。
対して弱者の謀は深謀遠慮なんて余裕なくて受身になるしね。
家康VS石田やは勿論、北条VS豊臣や先述の小牧の豊臣VS徳川もそういうことかも。
246 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/11(水) 19:21:22
>>245 そう考えると弱小で頑張った真田昌幸はやっぱ凄いな。
247 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/11(水) 19:33:44
>>246 もはや名人芸の域だな。
黒田如水軒・本多佐渡守など辛口の謀略家は世にいるが、この小勢で北条・徳川
という圧倒的な対戦相手を防ぎきるような手並みは聞かないな。
竹中半兵衛の稲葉山城占拠などがかろうじて比肩し得るか?だがちょっと質が
違うしねぇ。
やはり真田はスゴイということか。
248 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/11(水) 19:53:11
>>247 そりゃ如水や半兵衛や本多正信は当主じゃないからな。
比べてもしょうがない。
しかも本多正信は所詮卓上の軍師。
249 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/11(水) 20:22:54
関が原では、啄木鳥の戦法は通用しないのでしょうか?
>>248 如水は真田よりでかい大名家の当主でしたが・・・。
啄木鳥の戦法って敗戦率めちゃ高いというイメージがある。
たとえれば、山下大ちゃん監督采配と同じくらい。
戦国大名と織豊大名では全然違うだろ。
真田は言うなれば中小企業の社長。
黒田は言うなれば大企業の支店長。
>>249 あれは武田が兵力で優勢で、
指揮系統を分けてもそれぞれきちんと機能する組織力とそれを運用できる将が居て、
本隊と別働隊が互いに信頼が持てていて実行に移せた訳だ。
内実はともかく兵力はほぼ拮抗していて、
武将の能力はともかく、双方寄り合い所帯のために指揮系統を一つ確保するのがせいぜい、
しかも西軍に結束力は無く、家康も豊臣恩顧に全幅の信頼を寄せれた訳でもない。
秀忠隊か立花らかどちらか一方だけ戦場に着いていたならともかく、
そうでない以上兵力分散は極力避けるべき。
>249
よっぽど連携が取れない限り無理。
分散した両部隊が各個撃破される可能性の方が高い。東西が拮抗してたからね。
啄木鳥の戦法って
必要な指揮能力が高いから、
旧日本軍の司令官は
自分の能力を証明するために
好んで採用してことごとく失敗したという
いわくつきの戦法です。
これが成功できる準備や条件を整えられるほど
能力の高い指揮官は絶対に
他のもっと効率のいい戦法を取るw
255 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/11(水) 21:41:54
真田が強いのは間違いない
しかし本戦で三成が負けてジエンド
もし勝てるというのなら降伏せずに徹底抗戦している
あ、別に信玄が能力が低いと言っているわけではないよ。
信玄なんかの試行錯誤の末、
「指揮官の能力が高いことが必要」という評価が出て、
その評価をもとに旧日本軍がさんざん失敗して
「好き好んでこの戦法を選ぶ奴は馬鹿」という結論に達したわけだし。
彼我の兵力差が三倍以上、出来れば五倍は欲しいところだからな >啄木鳥戦法
まあそれだけ居れば普通に力押しで勝てるだろうけど。
258 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/11(水) 22:13:56
秀頼や淀殿が関が原に来たら、どうなったのだろうか?
その前に片桐且元をどうにかしないとな。
260 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/11(水) 22:24:56
淀殿に戦闘指揮能力などあったと思う?
むしろしっちゃかめっちゃかにかき回した挙句に味方の士気をゴッソリ削ってくれそうだ。
262 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/11(水) 22:35:14
263 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/11(水) 22:36:53
秀頼を拉致するのは無理
天皇を拉致はできないだろ
絶対無理とは言わないが・・・・
264 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/11(水) 23:00:25
淀君が大阪之陣の如く悪影響を及ぼすのは関ヶ原後だ。
豊臣政権が単なる豊臣家へと凋落した際に一族の男性に適当な年齢と声望のある人物が
皆無だった事もあるが、世継ぎ秀頼の生母というだけで無位無官の女性最高権力者という
世にも珍しい権力構造を生み出した。
また事のついでではないが淀君側近の女官達が豊臣家における家宰的な役割を専横にする
事により大野兄弟や渡辺糾ら女官の息子らが地位を得ていくことになり、これが大阪之陣
で最悪の害悪を撒き散らす事になるが、関ヶ原当時は形骸化の兆しはあるものの豊臣政権
は大老職・奉行職・中老職・七手組・堺や各鉱山の代官らも太閤存命時の任命のまま健在
であり、世継の生母であり信長の姪・浅井家の忘れ形見という程度の尊崇が得たとしても
政治的には何の影響力もない。
言うまでもないが秀頼出馬は相当困難な作戦オプションだが効果は大きいだろう。
淀君については戦場に出てくることはあるまい。出てきても足手まといなだけ。
ぶっちゃけ秀頼は影武者でも言いから金の千成瓢箪の馬印だけでも良いから関ヶ原に
あれば…。
265 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/11(水) 23:13:27
秦良玉のほうが石田三成よりは、まだ戦闘指揮能力があったと思う?
言っておくが淀殿は「従五位」の官位を持っている(詳細は不明)
少なくとも無位無官で叩かれる謂れは無いぞ
あと「藤原菊子」という名前も持っている
268 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/12(木) 00:45:22
>>266 従五位?初耳だな。詳細不明って割には居丈高だね、アンタ。
でも高台院は従一位だよ。雲泥の差なんだけど…。例えていうなら従一位の人が濡縁に
いたら従五位だと庭で土下座くらいの差なんだが…。ちなみに成人後の秀頼でさえ
正二位(従二位かも?)右大臣だ。
もう一つ言うと武家では生母より正室の方がはるかに地位は高い。太閤正室で従一位の
北政所ではなく、世継生母とはいえ側室で従五位(仮説)が家政を牛耳った事でおかしな
展開になっていった端緒と見ることはできよう。
ま、これ以上は高台院と淀君の議論は止めよう。スレ違いゆえ。
側室ではないが、生母が実権を握ることは武家でもあるけどね。ただ、大抵は
実家の権威を背景に行うことだけど、必ずしもそうとは限らない。
有名どころだとまず源頼朝死後の政子、室町幕府歴代の将軍正室たち、駿河
今川家の女性(名前忘れた)などなど。
270 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/12(木) 07:58:15
淀にはその実家がもはや当てにできん。近親者って織田常真入道と有楽だしな。
常真入道なんぞ豊臣に捨扶持貰ってたくらいだし。
従一位ほどの高い位階で正室なのに大阪城を出なければならなかったって事が問題。
ネネなら子飼大名との繋がりもより強固だし、家康でさえ粗略に扱わないほどだからね。
大阪城に留まって秀頼の養母としてあればまた違った展開もあったろうにな。
271 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/12(木) 10:13:57
>>270 まあ淀との関係で、自分が身を引いた方がいいと思ったんだろうな
浪速の夢とともに引退
272 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/12(木) 10:37:38
浪速の事は夢のまた夢…
足軽の嫁から従一位で天下様の御正室。
仲の良い夫婦だっただけに秀吉亡き後の政治的なゴタゴタとかが煩わしく、余生をノンビリ過ごしたかったんだろうね。
スレ違いだが高台院ってなんか良いなあ。
今度高台寺行ってこよう。
273 :
名無し武将:2006/01/12(木) 22:20:05
寧々は関ヶ原では自分自身の人望・権威を上げて淀を見返すつもりだったかもしれない。
寧々の考え=東西両軍長期戦で疲弊し、そこを、寧々が仲裁し一気に権力奪取(淀から)しようと
考えたってのはおかしいですか?
274 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/12(木) 22:31:42
>>273 そこまでの野望を抱いていたとするには論拠が必要じゃないか
権威に執着するような行動はしていないのでは?
275 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/12(木) 22:47:21
>>273 おかしい、と言うよりも、ありえないような気がします
寧々に野望があれば、秀吉が死んだら、あの手この手を使って
淀を大坂城から追い出そうと画策するでしょうが、
逆に寧々のほうから先に大坂城を出てしまいました
結果、寧々は二度と大坂城に戻っていません
寧々は秀吉の若年から一緒に過ごした来た人だから、苦労人でもあり、
淀を見返したいとかは考えてなかったでしょうね
276 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/12(木) 22:56:42
同感
官位が高いのは疑問だが、権力志向であるのならば秀吉存命中に色々できたはず
秀吉がそれを許すかどうかは要検討だが、何らかの形で権力を得ることは可能かと
あとは子飼いの武将を使って、陰で支配するとか
子飼の武将と言うのは過大評価。
福島や加藤は、たとえばねねの命が危ないとかいう状況だったら
死地にも飛び込んでいくだろうが、
武家の本能として自家の保存をねねの一言に掛けるということはしない。
現にねねは家康に恩を売った分、三成の娘を養女にしたりして、中立を守った。
司馬遼太郎は個人的ひいきでねねの実像を大きく描き、
以下の作家はそれを模倣したが、あまりに過大評価しすぎ。
そもそもがねねの人望は、そういうことをしない「女」だからに尽きる。
ご隠居しているからこそ、まわりの人間が立て、守り、尊重する存在。
ねねには夫亡き後、権力の表舞台はおろか裏舞台にも登る
野心も資格も能力もなかった。
>>277 基本的に賛同なんだが一つ。
ねねが権力に関わらなかったのは本人の志向・意思の問題であって資格や能力を
持ち出すのはそれこそ根拠は?となる。
そもそも資格云々するのなら、秀吉の正妻という以上の資格なんてない。
それと厳しいことを言うと、ねねには正妻として秀吉死後の豊臣家を差配する
義務があったとも言える。そういった部分をいっさい放棄して隠棲したのはある
意味賢い選択であり生き方だったと言えるが、別の観点でみれば個人の事情を
優先させて公的な義務・立場を放棄したとも言える。
>>277 その「正妻」が「最高の資格」であるのは、
秀頼の養育権を保持していた場合のみ、正解。
秀吉が秀頼の養育権をねねに与えなかった時点で
ねねには権力につく資格がない。
と同時に、ねねは豊臣家を差配する義務や責任の
半分以上というかほとんど全部から解放されていた。
秀吉の後宮政治はそういう方向にむかって建てられていた。
具体的に言えば、秀次を切った時点で
ねねは豊臣家の権利と義務の両方から解き放たれたと言ってよい。
281 :
272:2006/01/13(金) 01:02:00
>>280 いや違うよ。
今度京都に転勤が決まった事もあって書いただけだよ。
護国寺とかには割合いくんだけど高台寺ってなんだか行く機会なくてさ。
それと知り合いが高台寺で結婚式挙げる(寺でやるのは初耳だったがw)と
何だか偶然が重なったからなんとなく高台寺いこうかって気になっただけだよ。
282 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/13(金) 01:12:06
戦国時代の場合、正妻であるからと言って、夫の死後権力を振るった例というのは
少ないのでは
283 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/13(金) 01:18:22
側室が権勢を欲しいままにした例もね
284 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/13(金) 01:35:37
そうだな
しかし正室が子ナシで側室が子アリの場合
側室の力が強くなるのは普通だ
子アリでも、子供が将軍かどうかで力が違うよな
>>280 お前さん、済ました顔で指摘してるが、そんなスレ見てるのかよw
286 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/13(金) 18:25:26
287 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/13(金) 21:29:32
家康には、奉行派(三成ら)と共闘して武断派を一掃する選択は無かったのか?
何の為に?
290 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/13(金) 22:45:49
>>287 負けないまでも、勝つのが大変と判断したんだろ
関ヶ原時点では、完全な勝利よりも、とりあえず寡占状態を目指した
それから、三成が家康に味方しない
291 :
名無し武将:2006/01/14(土) 01:42:51
三成が自分の不人気を利用して、家康に媚売ったらぢうなる?
福島「小癪な三成め!!太閤殿下の次は徳川の側近になるのか!?」
黒田「三成憎し!!徳川・三成を討つ」
みたいに自分が犠牲になって豊臣をまとめる。これやってたら最強。
跡になって、豊臣家の重要人物。淀の場合・・・
「実は三成どのは自分の不人気を利用し、内部部列を抑えてくださったのです。」
とかいって豊臣家に復帰。
福島「三成!!見直したぜ!!これからゎ仲よくしようぞ」
加藤「武断派も文治派も協力して豊臣家を守り立てていこう」
豊臣家磐石になる
>>287 福島的武断派は、豊臣家は大事だが 自家も大事 武人としての名声も欲しい。
三成的奉行派は、豊臣家は大事だが 官僚として国家を差配して行きたい。
自分の名声は特に気にしない。
の違いがあります。
とりあえず豊臣を残して、福島らを幾ばくか加増してやれば、武断は納得するが、
奉行派は徳川が立てた新しい政権内で活躍させる場を与えてやらねばなりません。
自分の腹の中に新しく やっかい事を抱えるようなものです。
又武断派は物で解決しますが、奉行派は信念とか理想を追い求めますから、扱いが
やっかいなのですよ。
要するに家康の方が三成と近づこうとしないから無理だね。
294 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/14(土) 16:09:29
>>291 豊臣家の基盤が磐石になるとは言い切れないと思うぞ
確かに当代(三成と清正とか)は豊臣家への忠誠心は強いかもしれない
けど、2代目、3代目になるとどうだろう?
徐々に豊臣への忠誠心は薄れていくかもしれない
そこに徳川が付け入る可能性もあるから、
数十年ほど遅れて豊臣対徳川の戦いが行われたかもしれないな
それに三成が一芝居を打ったところで武断派の人間が三成を認めるとは思えない
誰だって、嫌いな人間を好きになるのは、中々難しいじゃない?
三成への憎しみを消すには、三成自身が死ぬしかないだろうな、史実みたいに・・・
というか三成死ねば実は不満は家康にイッタンジャねーの?
296 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/14(土) 21:05:57
それはどうだろう?
家康は自分への不満をそらす方法として、他の大名を糾弾したりしているからなぁ
加賀の前田征伐、会津の上杉征伐はその最たる例でしょう
別に三成がいなくても、豊臣家に連なる大名の関係を分裂させ、
それによって派閥を作らせる
その上で、両方の派閥が争うように仕向けるだろうな
後は史実みたいに、どっちかの派閥に親分として乗っかって、
戦争をして天下をとる・・・
つまり、豊臣家の分裂を狙って、豊臣家を弱体化させるのが、
家康の史実でのやりかただよ
>>296 でもそれだと家康の尻馬に乗る奴がどれだけいるかが重要。
ぶっちゃけ、時期的に太閤崩御前後に三成が暗殺されたとすると
伊達と黒田と細川と藤堂位しか有力大名がつかねえと思うんだが、
というか、三成死んだら浅野が名実共に筆頭だぜ?
ねねの弟に逆らうと思うか?武断派が・・・。
それと三成以外に武断派と修復不可能な位仲悪い
奉行派って小西位だろ?結局政権はゆるがねえじゃねーか?
三成が死んだら益田が奉行の実質的な筆頭。
実は権限も領土も三成以上の存在だったんだよね。
でも西軍の謀主は宇喜多になるんだろうな。
299 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/14(土) 22:07:49
武断派が奉行派のもとにつくと思う?
結局、政権の中枢にたつのは小西とか増田、長束あたりだろう
そうなると、武断派の豊臣家での立場は低くなってしまうでしょ、
奉行派が武断派をたてない限りは
それと、三成亡き後に浅野が豊臣の筆頭に立つとは思えないな
まず、豊臣家を守るために、三成のように積極的に豊臣家のために働くかどうかが微妙
筆頭に立つとしたら、秀頼の貢献を秀吉から託された前田になるはず
史実でも、利家は病体を押して家康に秀頼を害さないよう注意しているしね
けど、利家の子供の利長は家康と争う気はなかったから、
家康に母を人実として差し出して、徳川についている
そういう意味で、三成がいてもいなくても、徳川が秀吉亡き後の天下を窺うと思うし、
三成が暗殺されても、豊臣家の内部崩壊を狙って調略をするだろうな、
ってのが漏れの推測です
当時の多くの事なかれ主義者が期待したように
家康が盟主の室町幕府のような弱い連合政権ができた。
それはたぶん、秀頼が生まれず秀次が関白として後継した場合の
豊臣政権と同じくらいの弱ーい連合だったろうけど。
>>299 >武断派が奉行派のもとにつくと思う?
立つも立たないも、武断派が政権中枢に興味があると思う?
そもそも武断派と奉行派のあらそいって朝鮮の役の扱いの不満
が三成にいったのと、小西と加藤の争いなだけで、
別に政権自体に不満があるわけじゃねーし、そもそも三成以外の
奉行って武断派と仲が悪くないぞ。
そもそも、上とか下とかじゃなくて争う意味自体がなくなると思うんだが。
逆に争う理由あったら教えて。
302 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/14(土) 22:32:25
>>301 争う理由は家康が作るって書いてるじゃん(笑)
豊臣内部だけを考えれば、三成さえいなければ争わないわな
けど、あなたの考える豊臣家にも、必ず家康は出てくるでしょ?
漏れの私見としては、三成のような嫌われ者もそうだけど、
家康のように豊臣家の天下を覆してまで、天下を狙う大名がいたら、
豊臣家も危ないって言いたいだけなんで・・・
>>302 >争う理由は家康が作るって書いてるじゃん(笑)
いやさ、家康ってそもそも作れる立場じゃないんだって、
三成がいた時にお前大老筆頭なのに煽ってんじゃねーよ
とそこかしこで言われているんだが。
長期的に見れば可能かもしれんが、火種が無い状態でそこかしこ
突付けないと思うよ。
そもそも、7人の有力武将が政権の実務担当者を首都で白昼堂々襲うって
自体に匹敵する火種があると思うか?
で、政権代理の大老筆頭がそんな争う理由を作れると思う?周りから非難されて政権とるのに
必要な人望を得られないぞ。
政権ゆるがす火種っていうのは結局、朝鮮の役っていう馬鹿でかい下地がないとだめで。
三成の死がそれを解消しちまう(若しくは下火にしちまう)っつーことだ。
>>301 政権中枢に興味のない武将はいません。
どう見ても視点の営業所がお似合いの人間も、
支店長のポストを貰うと、やっぱ本社のことが気になるのだよ。
それに豊臣家の官僚機構があわない人間が大坂で実権を握れば
それまでの組織などは崩壊して
新しい制度と組織が生まれる。
大学出のエリートが作った組織が、
営業所出身者が実権握って泥臭いシステムに切り替わった会社は数多い。
非効率で赤字出したり、つぶれる会社が多いが、
それでも中の人間はつぶれるまで気にしないw
305 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/14(土) 23:00:00
>>303 作れる立場じゃないのにやったのが家康だよ
秀吉が禁止した縁組とか大名との私的な交際もやっていたし
まあ、縁組に関しては五奉行とかの注意もあって止めたけどね
朝鮮の役での武断派と奉行派との不仲が三成の死でなくなったとしても、
戦争で多大な出費をしたツケは確実に残っている
しかも、秀吉は新たな領地の加増は秀頼が成長するまで禁止したよね
つまり、大名負担の戦費を豊臣家は面倒見ないってことじゃない?
史実でも、豊臣家から大名へ金銀とか支払われた形跡はなかったし・・・
これでもって、豊臣政権への不満がなかったって言えるのだろうか?
>>305 >つまり、大名負担の戦費を豊臣家は面倒見ないってことじゃない?
戦費負担って政権が担当するんだっけ?普通各大名家の自家負担
のはずで、だから戦がきらわているんだと思ってたんだが漏れの勘違い?
>これでもって、豊臣政権への不満がなかったって言えるのだろうか?
基本的に政権の不満は秀吉に対する不満で武断派は政権(秀吉)に対する
不満を三成にぶつけていた訳、で、三成が死んだらその不満を改めて、
政権にぶつけるか?具体的に誰が目標になるの?
普通に考えたら政権担当者の家康という事になるんだが。
307 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/14(土) 23:24:03
>>306 その場合は、家康が豊臣の領地から、恩賞を出して
諸大名の歓心を買うんじゃないかorz
小早川に領地を独断でやったりしているしな
>>307 それが一番ありえるんだよな・・・。
で、それを阻止していたのって三成なんだよな。
というか奴以外が阻止しようとした奴っているか、
長束あたりも阻止しようとしなかったんだろうか・・・。
ぶっちゃけ、他人の財産つかってほいほい恩賞あたられる
時点でファイナルアンサーな気がする。
309 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/14(土) 23:43:56
結局気づいたら、好き放題になっていた
現代でもオーナー社長でもないのに絶大な権力を振るう椰子がいる
まともな上場会社なら、チェック機能が働くはずだが、事実上独裁政治
ましてや戦国時代には形式上の民主主義も憲法もないからな
正則らも遺訓を破って、婚姻しているし、暴走を止めようとするのは
三成ぐらい
ちょっと訊きたいんだが
野戦になったとき大将が寝る場所ってどんなとこ?
やっぱりテントみたいなものを造って地べたで寝るの?
311 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/15(日) 01:32:33
>>309 いやぁコワイね。ウチの会社まさにそんな感じ。
三成よろしく立ちあがった常務は、不在時の緊急取締役会で罷免された…。
>まともな上場会社なら、チェック機能が働くはずだが、事実上独裁政治
う〜む、まさに独裁だ…。ウチはまともな上場企業じゃなさそうでつ
>>310 もちろん状況によってかわるけれど、
陣(陣城)を築いて小屋立てて、そこで寝る。
>>310 あるいは、そこらの農家の家などを徴発してそこで寝る。
ただしこういったまともな寝床を用意できるのはそれなりの地位にあるものだけで、
他の雑兵は基本的に野宿雑魚寝。
日本ではちゃんとした野営道具(テント類)や防寒用具が近代までなかったと聞いたこと
がある。
314 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/15(日) 02:10:30
>>313 >あるいは、そこらの農家の家などを徴発してそこで寝る。
その農家には、ちゃんと保証するのですか?
農家で寝泊まりは聞かないがお寺なんかはよく利用してるよね。
正則らも遺訓を破って婚姻したっていうけど
そもそも秀吉はそんな遺訓(遺言?)は残してないじゃん
秀次切腹事件の直後にだされた御掟の中に
許可のない大名同士の婚姻を禁ずという条があったというだけが根拠なんでしょ
それが秀吉が死んだ後も有効だったのかとか
仮に有効だったとしても、じゃあ秀吉無き後婚姻する場合には一体誰の許可を得ればいいのかという疑問が残るんだけど
そもそも大名同士の婚姻は無条件で永久に禁止ってわけじゃないんでしょ?
例えば奉行・大老連中の総意が許可というんなら
どんな婚姻でも自分が不利になりそうな者が誰かしら反対するから絶対にまとまらないだろうし
これをもって家康や正則が豊臣の遺命に逆らったというのは
ある意味三成サイドがつけた言いがかりじゃないかと
>>316 牽強付会だな。
もちろん無条件でもないし、永久でもない。
成人した秀頼がそれを許可する。
それまでは禁止と言うこと。
で、奉行と大老の相違がなければだめと言うのが実際的ではないというが、
今の国連がまさにその制度を使っているが、
物事が絶対まとまらない、破綻しているとなっているかい?
現実にいろいろ各国が折衝し、あるいはどこかがそれを破りながらながらまわっている。
君の狭い事実認識では不可能でも、大人はちゃんとまとめるものなのだよ。
つか、君の言いがかりって、相当お馬鹿じゃない?
>>317 国連がではなくて、国連の安全保障理事会は常任理事国に拒否権があるです。
国連も総会とかは違いますよ。そして安全保障理事会は実際にまともに動いていません。
いくつかの実績はあるものの、コソボ空爆、アフガン攻撃、イラク戦争と、
自国に不都合ならアメリカさんはそんなの無視して勝手にやってしまいます。
なんでも話し合いでどうにかなると思ったら、現実を知らな過ぎですよ。
>>318 だからそういう実力行使も含めて、そういう制度は成り立つものであり、
>>316が絶対にまとまらないからありえない
=秀吉の遺訓は無効=福島悪くないは
ガキの牽強付会にすぎないといっているだけ。
遺訓が無効=福島悪くない、
というのは無茶な論法だと私も思うけど、それを言いたいなら、
奉行大老の総意なんて条件はない、
秀頼が成人するまではだめだという条件だったとだけいえばいいのであって、
全会一致制度の可否云々を語る必要ないのでは?
ちなみに私は、どうせ拒否権行使で可決されないからという理由で、
有力国がそれに諮りもせず実力行使をしてしまうようなシステムが、
まともに成り立っているとは到底思えない。
常任理事国であるアメリカが自らその存在を無視すると言う現状が、
そのシステムの構造的な欠陥を顕わにしている。
所詮枝葉のことなら妥協できても、根本的なところでは無理。
321 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/15(日) 11:08:39
>>316 遺訓は秀頼成人までの時限立法みたいなもの。
それまでの諸侯の婚姻等は大老奉行の合議に諮って承認を得る。
それに大名同士の婚姻を政権の承認に図るのは武家政権なら
逆にいえば当然の行為だろう。大名は公的立場でもあるのだし
逆に放任する方が異常(まあそんな疑問を持つこと自体が・・)だろ。
322 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/15(日) 18:32:22
輝元が関が原に出陣していたら笹尾山に布陣していたと思う?
三成の予定では、輝元は松尾山に入るはずだった。
そう書いてある書状が残っているそうだ。
324 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/15(日) 22:38:49
輝元が出陣したとしても、三成は史実どおり笹尾山に布陣するってことだな
325 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/15(日) 23:30:59
>>323 輝元を入れたいと言うことで、輝元が入るかどうかは未定・不明じゃないか
>>317 なぜそこまで言われなきゃならんのか判らんが
まあ後半の書き込みが余計だったか・・
別に正則と三成のどっちが正しいかは正直どうでもよくて
とにかく俺が知りたいのは大名間の婚姻禁止が秀吉の遺命であるということの根拠なんだが
これらしきことを定めた掟が数年前にだされているのは判ったけど
秀吉の死後にそれが
>成人した秀頼がそれを許可する。
>それまでは禁止
ということになったのが何を根拠にしているのかがわからないということ
特に秀吉の遺言の中に該当する部分が無いでしょ?
327 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/16(月) 19:45:25
>>326 317じゃないが一言。秀頼成人まで一切の婚姻は無効というのは無茶だわな
確かに・・そんなのがあったとも思えない。
恐らく正則が事前に申し出していたら許可も出てたかもしれない。
が貴殿も肝心な点を作為的にはずして自分に都合よく解釈してるようにしか見えん。
当時の天下は
天下政務の代行 徳川家康=伏見政権
豊臣家の後見 前田利家=大阪政権
の二つが牽制しあい天秤でバランスを取ってた微妙な連立内閣で
その周囲で3大老&5奉行が二人の補佐や牽制を担ってるわけで、
正則の婚姻の相手が家康ということが問題なんだよ。
それも事前申し出のない秘密裏の
実力の家康に対して豊臣家を神輿にした元老前田利家を反対側に
もっていくことでかろうじてバランスとろうとしていた
この恐怖の均衡を誰もが承知のはずで・・
それも前田利家の病気のことを承知ならば、利家亡き後を考えて
家康の反対軸に結集して天秤のバランスを取るのが豊臣恩顧としては
当然の行為だろう。
ましてや福島正則は秀吉の血を引く一族なのだから
彼の行為は天下を家康に譲るのだと満天下に宣言しているような裏切り行為
彼が家康に加担した事実で豊臣恩顧が大勢家康に迎合した事実でも明らかだろう。
糾弾されていたのは明らかに彼らの婚姻と、そこに至る経緯が
恐怖の均衡を突き崩しかねない行為だったからだろう。
をいをい、遺言に“朋輩中の徒党を作らない”ってキッチリあるぞ。
家康は当然御掟にもきっちり署名した。
客観的にみて家康は明らかに、徒党を組もうとして私婚しようとしたわけだ。
というか家康自身御掟を失念していたとかとぼけているので御掟は当時無効じゃないっていうのは苦しいと思うぞ。
329 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/16(月) 21:31:49
秀吉が小牧・長久手の戦いで負けた。ここが関ヶ原での敗因。
家康は野戦では秀吉より強いという印象が付いてしまった。これがなかったら
240万石もやらなくてもよかった。せいぜい信濃・甲斐60万石程度。
奉行に入ってたかも 筆頭は三成で
330 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/16(月) 21:38:59
>>329 となると、池田輝政への大幅加増は小牧長久手で負けた戦功のおかげだね。
332 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/16(月) 22:08:20
秀吉は小牧長久手の戦いのときに
池田恒興と森長可が死んでせいせいした、
これで開運が開けるとかコメントしたらしいね
それが後にこんなことになるとは
家康は宣伝上手だね
>>327 案外 福島や清正は豊臣政権には固執していなかったのかもしれない。
戦国の武将の考えとして、天下は強者持ち回り。
豊臣は時の権力者徳川政権の一有力大名であればいいと。
秀頼が成人して、有能な人財であれば、また権力者の座に着くこともあろうし、その時は及ばずながら
協力しようなんて…
まぁおれの思いつき。
>>333 思いつきって、お前、それ、
司馬遼太郎の時代から使われている設定だぞw
そうだったのか…
オレ司馬の福島ってのは、徳川の豊臣政権簒奪を代理としての行動と見誤ったやつだ
と描かれていたのかと思ってた…読んだのはかれこれ25年前だからな。
いらん知識が入ってねじ曲がっていたらしい。
336 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/18(水) 19:13:53
なぜ家康は秀忠の到着を待たずに決戦に挑んだの?
337 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/18(水) 19:17:21
338 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/18(水) 22:36:59
340 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/18(水) 22:41:34
>>340 お前こそ思考能力はないのか?
俺がこんな事言うのなんでだと思う?
自分では待っていた方が良かったと思う、
待つことが出来ない理由は思いつかない。ってことろか?
まあ、家康が決戦を急いだもっとも直接的な原因は、西軍の大津城攻めのだろうね。
大津城は関ヶ原から1日2日程度の距離で、しかも家康が赤坂に到着した時点で、
正に西軍に攻められている真っ最中、その上家康の陣営には、
大津城を守る京極高次の実弟高知がいる。
この大津城を見殺しにしては、自軍の士気が下がる上に、家康に対する不満すら出かねない。
それ以上に大津攻めに係わっていた約1万5千が東軍主力に合流する可能性も大きい。
そのことを考えれば、こちらから積極的に動いた方が得策と思ってもおかしくはないだろう。
343 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/18(水) 23:36:56
>>336 如水もそうだが、まさか一日で終わるとは思ってなかったからだろ。
兵数的にも拮抗してるし、早くとも半月、下手すりゃ応仁の乱みたく離合集散繰り返し長期戦もありうるって考えてたからじゃね?
士気が落ちたところで援軍到着士気上昇、ゲームでよくあるパターンだw
>>336 家康tとて万能じゃないから。
東軍武将のほとんどは秀吉子飼い。今は自分に味方しているが、いつ何時企西軍になるか解らんだろ。
黒田や藤堂ですら家康が強さを固持する以上自分の味方だけど、損得勘定にめざとい分、
福島らが寝返ったら一気に敵に早代わりする。
あと西軍の状況も100%つかめていない。
輝元が明日にでも気が変わって秀頼引き連れて出陣するかもしれん。
つまり東軍が一つに固まっており、西軍に見えない亀裂のある事実が見えているこの瞬間こそチャンス
だったのです。
>>327 余談だがこの時期に加藤清正も水野忠重の娘(忠重は家康の叔父だからこの娘・お清は家康の従兄弟にあたる)を妻に迎えている
こちらは何故か福島などと違って話題に上らないが、清の兄である水野勝成は一時期加藤清正に仕えていたので「旧臣の妹を娶ったのだ」という理屈が通ったのかもしれない
347 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/20(金) 23:23:08
>>345 >>輝元が明日にでも気が変わって秀頼引き連れて出陣するかもしれん
そんな状況なら家康は勝負に出ないだろ、輝元&秀頼を大坂に留めておける確信はあった筈
ただ福島正則なんかは単純に利で釣れない程愚かで、しかも回りに影響力のある
危険な不確定要素だったとは思ってただろうが。
堺屋太一氏は「巨いなる企て」を書くにあたり、秀吉死後から関ヶ原までの
750日間の石田三成の所在地の変遷をすべて調べ上げたという。
それによると三成は、家康の会津征伐軍出発後の貴重な10日間を、敦賀5万石
の領主にすぎない大谷吉継の説得にあてている。
もちろん、史実をみるかぎり吉継の活躍は10日間の浪費を上回るものがあった
のだが、もし仮にこの説得を行わなくても吉継から少なくとも好意的な中立が
得られると三成が考え、この10日間を他のこと(たとえば前田家重臣、奥村助
右衛門の説得)に当てたとすれば、また違った関ヶ原布陣図ができあがってい
たかもしれない。
350 :
九郎:2006/01/21(土) 01:56:44
しっかし、お前ら好きだね―w
今ざっと読んだけど、荒らしの入り込む隙さえね―な―w
良スレ確定!
>>349 吉継を説得した直後には輝元の担ぎ出しに成功しているでしょう、
実際には平行して安国寺エケイと折衝を続けていたと思うよ。
輝元を総大将にするという作戦自体が吉継の提案だったとしても、
事前の調整なしで、いきなりそれを承諾するとは到底思えない。
352 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/21(土) 18:32:25
>>349 前田家重臣、奥村助右衛門がどんな人物なのか知らないが
前田はまつを人質に出しているから西軍になるのはまずないのではないか
>>352 つーか、家康が要求する前にいきなりまつ人質にだしているんだな。
それも家臣団の重臣も出しているし。
つまり、あるいみ人質の意味が無くなっているんだな(苦笑)。
西軍が勝ったら素知らぬ顔で人質を見殺しにしたと思う。
無論家康が勝つと踏んだから人質を出したんだろうけど。
354 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/21(土) 21:52:59
>>353 人質の意味がないという意味がわからないが?
前田家にとって、まつの存在は大きいと思うのだがどうか?
もちろん最悪のケースではまつを見捨てて家の安泰を計るというのはある
仮定を考えるなら、やっぱ現実的に興り安そうなのじゃないと難しいよ。
で、立花宗茂が関ヶ原本戦に参戦していたらどうだろう?
大津城攻めは別に宗茂の参戦が絶対必要だったわけでないし。
やる気満々で、西国でも一、二を争う戦上手が3千という、必ずしも戦力的に非力でない部隊が参戦したら?
あるいは西軍の勢いに弾みがつき、小早川の形勢観望に影響を与えたのではないかと思うが。
特に宇喜多と大谷隊の間を埋めるように布陣していれば、恐らく福島、藤堂隊などは早い段階で崩されていたのでは?
>>355 宗茂だけじゃなくて他の九州系の武将もわすれないでくれ。
かなり戦意があるぞ。
まあ、正直それでも関ヶ原で負けると思うが一日で終わることは無いと思う。
ふと思ったが、漏れって一戦で決着が付かなかった場合の事あんまり考えていなかったな
立花は四千じゃなかったか?
ホントやる気満々だよな。動員数限界突破してんじゃん
>>355 同意!
福島、藤堂、京極、寺沢どれも役不足だね。本多は少なすぎ。
>>355 その場合は井伊&松平+旗本衆の早期投入ではないかと
上田だってそれこそどうしても落とさなけりゃならない城ではなかったわけで
秀忠軍が到着してれば本多は忠政の手勢も加わるし
西軍に一方的に都合のいいifがあと3つぐらいないと大勢は変わらないかと
立花は朝鮮役でも五千を動員している豊臣にとって超優良大名。
意外に城攻めは苦手だけど、野戦は強い。
ただ、一万五千の連合軍の盟主として良いかと言うと、
あきらかに人選ミスなんだよな。
この部隊こそ関ヶ原に前哨戦の勘働きから
最終決戦まで投入するべき純野戦部隊。
こいつを大津攻めに入れちゃうというところで
すでに三成の戦略センスのめちゃくちゃさが
自ら負けを選んでいた。
ちょw
大津城攻撃部隊1万5千人の総大将は毛利元康だぞ
362 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/22(日) 11:29:41
大津城を素通りしても、大きな脅威では無かったと思うが・・・?
大阪(西軍)−大津(東軍)−関が原西(西軍)−東(東軍)−上田城(西軍)−宇都宮(東軍)−会津(西軍)ー仙台(日和見)
包囲(西軍) 包囲(東軍)
主力部隊の配置はこうでしたっけ?
>>362 上方との連絡線が断たれてしまうじゃあないか、
1日で決戦が終わるとわかっていればともかく、そうでないなら放置は出来ないよ。
365 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/22(日) 13:02:21
>>360 家康の進出が想定外の早さ
それを予知できるのは相当の天才
三成は素人
というか、戦意のあるそこそこ信頼できる部隊が後方にいたから、
大津城の離反にも早急に対応できたわけだが。
逆に言えば、そういう部隊がいたのに大津城は離反した、
いなければもっと多くの離反が相次いだ可能性もある、
何でもかんでも前線に送ればいいってものじゃあない。
というか、戦意のあるそこそこ信頼できる部隊が後方にいたから、
上田城の逆襲にも早急に対応できたわけだが。
逆に言えば、そういう部隊がいたのに上田城は逆襲した、
いなければもっと多くの逆襲が相次いだ可能性もある、
何でもかんでも前線に送ればいいってものじゃあない。
368 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/22(日) 13:34:25
まあ立花ならば、有事の際にはすぐに駆けつけてくれると思ったのかもな
ただ家康の進出が予想以上の早さだったわけで
>>367 上田城に早急に対応してなんかいませんよ。約1ヶ月間も放置。
街道からも外れていて緊急に手当てをする必要はなかったからね。
それから、もちろん東軍も自陣営の離反には気を使っていた、
だからこそ、家康も秀忠も関東に一ヶ月以上いたわけで、
その間に情勢を見極めて、大丈夫だと判断して西へ向かっている。
結局東軍にはそれだけの余裕があったが西軍にはなかった、この違いが大きい。
前田討伐が起きて家康が加賀に入りかけたとき
西軍挙兵
こっちのほうが勝算ありそうだ……
371 :
九郎:2006/01/23(月) 02:53:20
ふむふむ。なるほどなるほど。
それは面白い仮定だなあ。
そうなったら、周りを取り巻く状況はどうなるかなあ。
家康「忠勝!!!!」
忠勝「あっ・・・あふぅん・・・・ん」
パン!パン!パン!パン!
家康「はっ・・・あっ」
・・・ドピュッ!
忠勝「中はダメって言ったでしょ?もう・・・知らないんだから」
家康「・・・ごめん」
忠勝「チュウわぁ?」
家康「?」
忠勝「チュウ!」
家康「わかってるよ・・・」
チュッ
忠勝「・・・大好き」
家康「俺も大好きだよ」
忠勝「関が原に行かないで!」
家康「・・・それは出来ない」
忠勝「行かないで!お願い!もうわがまま言わないから・・・」
373 :
九郎:2006/01/23(月) 06:06:32
お前らのホンっトに楽しそうな関ヶ原談義に触発されて、「TBS関ヶ原」、引っ張り出して見ちまったよ。ほぼ五年振りくらいだな。
やっぱり、配役も脚本も非の打ち所が無いね。
三本立ての二本目最後、淀川堤のシ―ン、いつ見てもシビレるね。マジでカッコE―。
加藤三成サイコ―!
>>371 浅野が裏切らない可能性が高くなると思われるから
毛利が大阪からでやすくなる?
清正が微妙なとこか。
真田・上杉・大谷・織田が西軍につくと仮定すると
現地は包囲される形になるね
現地はかなり慌てるね
>>374 誰を引き連れて前田征伐を行うのかがよく解らんのでまずそこから論じねばならないのでは?
376 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/23(月) 17:42:52
戦闘開始直後くらいに東軍が笹尾山に大砲を撃ったら、西軍を誘い出せて良かったのでは?
>>359 言いたい事が意味不明だが・・・
本戦に宗茂が参加したらどの程度の活躍を見せたか?という話に何故秀忠が出てくる?
378 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/23(月) 20:00:19
藤堂高虎って戦上手だろうか?
経歴からいって百戦錬磨であるのは間違いないが、単体で見るとあんま強くないよな。
379 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/23(月) 20:06:50
彼が、百戦錬磨であるのは運がいいのか、先見性が優れているか。
どちらにしろ、武将にとって非常に大切な能力で
単体で見たときも決して弱いわけではないので、一介の戦国武将としては、
なかなかよい方だと思う。
781 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/01/23(月) 20:08:46
チョウソカベってただの「世の流れを読めずに滅んだ無能」でしょ?
何か野望を持って西軍に参加したわけでもなく
大谷みたいに敗北を予見しながらも義により参加して戦死したわけでもなく
なんとなく流れで西軍に参加し
島津みたいに意地を見せることもなく戦わずして逃げ
戦わずして逃げたくせに毛利と違って領国を全部奪われ
まさに無能!
地方に覇を唱えた戦国大名でも
生き残った島津・毛利・伊達・上杉とかならともかく
滅んじまったチョウソカベ・武田・北条なんかの無能どもは糞だよ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1134409076/781
>>378 九州征伐の根白坂の戦いでいち早く宮部の救援に赴いている
根白坂砦の戦いのことか。
島津義弘、島津家久、島津忠隣、伊集院忠棟らを中心とした2万の軍団が、
高城を包囲した一角、宮部たち1万が守る砦を襲撃した。
救援に向かおうとした羽柴秀長を、『もうあれじゃ無理』軍監の尾藤が制止したが、
自身の親友でもあり、正妻との仲人も務めてくれた宮部を見捨てられないと反発。
主・秀長に許可をもらって500の手勢で救援にかけつけた。
藤堂と宮部の奮戦を見た小早川、黒田勢がなし崩し的に加勢し、島津が大敗した。
英雄ってのはどこでか命かけて一発勝負するもんだけど、高虎の場合はここだと思う。
その後も朝鮮の役では、秀吉から日本丸一隻を授かって海軍総督としての地位を与えられてる。
李瞬臣には苦しめられたが、元均を打ち破ったり、蔚山篭城部隊を救援したりと活躍。
朝鮮撤退時の統括者に家康から指名されたのも、彼と家康のつながりを示す一方、
諸大名から彼の実力が信頼されていた証であると思う。
人間的に嫌いな奴は多いと思うが、実力的には当時でも最高峰のものだったな。
>>370 史実では家康本隊と親家康派の多くが関東に行っていたから、
その間に密議を凝らして挙兵できたわけだが、
加賀出陣では位置的に近すぎて、時間的に十分な準備をしての挙兵は無理でしょう。
だいたい、加賀に攻め込んだタイミングで挙兵するには、
それ以前に打ち合わせをしておかなければならないが、
加賀攻めということになれば、本陣はおそらく越前あたり。
越前に家康の本隊がたむろす状況で、近江佐和山で挙兵の相談はちょっと無茶だろう。
本来蟄居中の三成のところに要人が尋ねてきていればかなり目立つし、
それが隣国にいる家康の目に付いて詰問の使者でも送られてくれば万事休す。
即座に露見はしなくても挙兵決行は不可能に近い。
つまり、加賀出陣の際に、反家康で挙兵すること自体がかなり難しい。
少なくとも三成主体で挙兵するのは、かなり難しいと思われる。
木崎原の戦い ○義弘軍200 対 ●伊東軍3000
島津のお家芸、釣り野伏で見事勝利。 この戦いでミリタリーバランスが島津に傾く。
耳川の戦い ○島津軍20000 対 ●大友軍45000
九州の覇者を賭けた戦い。最初は大友が押しまくるが、義弘の冷静沈着な側面攻撃と家久の同時攻撃で勝敗が決定。
こんな大規模な野戦をガチでやって大友軍の死者20000人、武将多数戦死という一方的な大勝利を収めている。
稀な大勝利、武田信玄 対 上杉謙信の川中島合戦と比べるとその大勝利ぶりが際立っている。
以後、大友は衰退。
沖田畷の戦い ○家久有馬連合軍5000 対 ●龍造寺軍60000
龍造寺はこの戦いで隆信、四天王を失い島津の傘下に入る。
戸次川でも長宗我部信親・十河存保を討ち取るが、指揮官を討ち取るというのは野戦では珍しく、それを何度もやり遂げている島津家久は戦国一の戦上手といえよう。
戸次川の戦い ○家久軍10000 対 ●豊臣四国連合軍
寄せ集めにすぎない連合軍は歴戦の勇将・家久の敵ではなかった。
この戦いで長宗我部信親・十河存保戦死。 長宗我部元親、ショックで廃人になる。
泗川の戦い ○義弘軍7000 対 ●明・朝鮮軍200000
慶長の役の末期に秀吉が死んだので、 朝鮮にいる将たちに帰国命令が下りる。 それを知った明軍・朝鮮軍は20万の軍勢を日本軍の中央を守る義弘の泗川に向ける。
義弘は、泗川にいくつかあった支城を破棄、泗川に新たに築いた城に立て籠もる。
ここで敵を引きつけるだけ引きつけてから鉄砲の一斉射撃ののち突撃し散々に打ち破った。
明軍の死者は8万。
露梁津の海戦 ○義弘軍 対 ●朝鮮水軍
この時も義弘は水軍を率いて活躍。
順天の小西行長を救出し、さらに全軍の殿を務め、朝鮮の名将・李舜臣と交戦し見事討ち取る。日本軍退却成功。
もし義弘が朝鮮出兵に参加してなかったら日本軍は朝鮮で全滅してた。
秀吉は大名の領地加増を禁止してたが 島津だけはあまりの戦功の大きさに加増された。
関ヶ原退却戦 ○義弘軍300 対 ●東軍80000
福島隊を突破、追撃してきた井伊直正と松平忠吉に重傷を負わせる。 この傷が元で2人は数年後死亡。
大阪城に残された妻を取り戻し、薩摩へ無事帰還。家康は島津を恐れ、関が原後も減封する事が出来なかった。
http://www.m-network.com/sengoku/sendai01.html 第1位 島津家(忠良・貴久・義久・義弘)
日本の戦国時代において、名君続出の大名家といえばまず島津家があげられよう。
後に「島津に暗君なし」と言われることになるが、これは決して誇張表現ではない。
島津家は鎌倉以来の名家であったが、室町時代後半には本家と分家の対立が激しくなってきた。
その時分家の伊作島津家に忠良が登場し、彼の策謀から子の貴久を島津本家に送り込むことに成功したのだが、ここから「薩摩隼人」として広く知られている島津の家風が生まれてくるのである。
島津忠良は後に日新斎(じつしんさい)と号し、島津家の心得とも言うべき「いろは歌」を作り家臣たちを教育した。
忠良はこういった功績から薩摩人の間では後に神格化されている。
さて、後を継いだ貴久は政治に力を入れ着々と足場づくりを固めていったが、分家やまわりの豪族たちとの抗争は絶えなかった。
貴久は陣頭に立って果敢に攻め込んでゆくタイプではない。合戦の際は彼の4人の優れた子たちの力が大きかったのである。
長男の義久、次男の義弘、三男の歳久、四男の家久とそれぞれ個性的な子たちに恵まれた。
義久は軍政両面、特に統率能力や状況判断力に優れ、義弘は戦国屈指の猛将で無敗の強さを誇っていた。歳久は知謀に富み、家久も勇猛無比な武将として知られ、かの沖田畷の合戦では龍造寺隆信5万の大軍にわずか三千人あまりで戦いを挑み、撃破した上にその首を挙げている。
義久の代になって秀吉軍と衝突するが、彼は家中の反対を押し切り、かなわぬと知るやあっという間に頭を丸めて降伏したのである。
これは臆病卑怯な行為ではない。彼は島津家の存続を第一に考え、最善の方法を瞬時に考えて行動したのである。
後に関ヶ原の際、行きがかり上やむなく西軍についたが、戦後素早く詫びを入れ本領を安堵している。これも義久の判断と指図である。とにかく政治力に優れた人物であった。
義弘の代になっても兄弟仲はすこぶるよく、こういう家は戦国では非常に珍しい。そのおかげで戦国の荒波をうまく乗り切れたのであろう。
剣術においても東郷重位により薩摩示源流が広まり、その強さは後々まで天下にとどろき渡った。
「島津に暗君なし」…この言葉には誰も異論はないと思う。
386 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 00:59:24
◆郷土食が支えた最強の島津軍団
戦国時代、勇猛で強い軍団といえば、武田信玄の甲州軍団、上杉謙信の越後軍団、三河武士(徳川軍団)があげられるが
忘れてはならないのは命知らずの島津軍団である。秀吉、家康でさえ島津と戦う事を避けたほどだった。
島津一族を強力な戦闘軍団につくりあげたのが、島津中興の祖、島津日新斎忠良である。
日新斎は、古代国家の頃、その荒々しさで都人に恐れられた熊襲の子孫、隼人族(猛人ともいう)
を家臣としてとり立てて、軍団の核としていた。
この島津軍団の兵糧のひとつに「ちまき」がある。ちまきは本来保存食で、兵糧などの携帯食料として使用されていたが
薩摩のちまきは一風変わっていた。
(中略)
薩摩のちまきは、灰汁でつくることから「あくまき」呼ばれる。ゆうに二,三ヶ月はもち、しかも高カロリーなのだから、理想的な食料だったのだ。
また鹿児島の特産品「かつお節」も高タンパク、ビタミンB郡を多く含み、保存性の高さはピカ一。「武教全書詳解」にも
「かつお節は、薬にあらずといえども、時にして飢えに及ぶときには、これを噛めば性気を助け、気力を増し、飢えをしのぐのみならず、役に立つものなれば
必ず用意すべき事なり」とある。
鹿児島県では、豚や鶏は、歩く野菜といって食べてきた。これら古代以来の野趣に富んだ郷土食が、薩摩武士の体力を強靭にし、最強の島津軍団を支えたのだ。
泗川の戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%97%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 背景
豊臣秀吉が死んで、朝鮮半島に侵攻中の日本軍にも撤退命令が下っていたが明と朝鮮の連合軍が黙って撤退を許すはずもなく戦闘は継続されていた。そんな状況の中で董一元率いる20万と称する明軍が泗川城に攻め寄せる。
泗川城は船舶の運航を守るために築かれた城で落とされたら退路を断たれて日本軍が全滅する危機にあったが駐屯していたのは島津義弘と島津忠恒率いる島津軍7000のみだった。
宗氏や立花氏が援軍を申し入れるが義弘は何故か断り、島津家の軍勢だけで明・朝鮮の大軍を迎え撃つことになった。
経過
泗川には文禄に築かれた泗川古城と、慶長の役の時に築き上げてまだ完成していなかった泗川新城の二つがあって、古城に500の兵を置き、義弘忠恒親子は新城に駐屯していた。
明軍は古城に殺到。明軍に5000の損害を出るものの守備隊も150の損害を出して古城から撤退。古城陥落から二日後に明軍は新城を攻撃するが明軍の陣営の中にあった弾薬庫が爆発するという事件がおきる。
鉄砲の流れ弾が火薬にあたって引火したという説と島津兵が火薬庫に火をつけにいったという説があるがどちらなのかはわからない。
(また爆発したのは泗川古城の食料庫で、食料庫に蓄えられていた食糧を燃やすことによって籠城戦を断念させて短期決戦にに持ち込むために撤退時に爆破させたという説もある)
いずれにせよ明・朝鮮連合軍は混乱に陥り、その隙をついて島津軍は外に打って出た。
猛烈な勢いの前に明軍は後退するものの1万の別働隊で城の手薄な部分を襲わせるが、別働隊の接近に気づいた島津忠長が100騎だけでこれを迎撃。
苦境に陥るものの味方の援軍が間に合って迎撃に成功。義弘や忠恒も自ら刀を振るって敵兵を切り殺すほどの乱戦になるが島津軍の優位のうちに戦況は進み、明・朝鮮連合軍は京城までの後退をよぎなくされた。
この結果、連合軍は島津軍の報告では38717人、明の報告書によれば8万あまりの戦死者を出したという。この戦いにより島津義弘は「鬼石蔓子」と恐れられた。
勝敗の原因
明軍の敗因は短期決戦を選んでしまったことにあるだろう。
島津の軍勢は万にも満たない小勢であり、短期決戦を選んでも勝てると判断したのだろうが相手は日本一の強兵の島津兵であり確実を帰すのなら籠城戦を選択するべきだった。
いくら島津兵であっても食料が尽きれば戦うことができなかった。
ただ、明軍が短期決戦を選んでしまったのは島津軍が短期決戦をさせるように誘導していった節がある。
つまりは島津軍が得意とする釣り野伏せに明軍は引っかかってしまったというわけだ。
その後の影響
泗川を落とされていたら出口をふさがれたことになり、最悪の場合は日本軍が全滅していただろう。明軍を防いで陸路の安全を確保したことは大きな功績になった。
その事は五大老たちから高く評価されて文禄・慶長の役唯一の加増に預かったがそれ以上に重要なのは島津兵の強兵ぶりを天下に知らしめたことである。
後に関が原の戦いで西軍について存亡の危機に立たされたが本領安堵を勝ち取った原因の一つが泗川での戦功にあったことは言うまでもない。
また小林市では戦勝を記念して輪太鼓踊という舞踊が今に伝えられている。
関ヶ原で驚異的な強さを見せた島津義弘の年齢は64。
これだけでも島津の強さは伺える。
のちに徳川に恨みを持った薩摩は大久保利通や、西郷隆盛などの偉人達を輩出し、
徳川幕府を倒すことになるのである。
明治時代に
帝国陸軍は長州の軍隊と呼ばれるほど長州出身者が幅を利かせていた
帝国海軍は薩摩の軍隊と呼ばれるほど薩摩出身者が幅を利かせていた
なぜ海軍が薩摩出身者が多かったのかというと島津斉彬公の近代化政策によって
幕末薩摩は反射炉や造船所など近代化のための施設があり、幕府につぐ軍監を保有していたために
近代兵器に特に軍艦の操船に慣れていた為である
帝国海軍は日露戦争においてロシアのバルチック艦隊を日本海海戦で壊滅させるという
海戦史上に残る快挙を成し遂げている
よって島津氏は日本の危機を救った英傑であり英雄
色々ご苦労様なことだけど、高城攻防戦について一切触れてないあたりとか、
戸次川の戦いの後諸将から足軽に至るまで驕り、ただ褒賞を求めるばかりだったとか、
一切書いてないのはかなり無理がある気がするが。
まるでどっかの半島国家みたいに書くと事実でも信頼されなくなるって好例じゃないか?
つーか、このスレの趣旨に合ってないしな。
どうせコピペだろうが、ご苦労なこった。
三成、安国寺辺りが首謀者だったってのが通説だけど、
三成の自分でも事態を把握して無さそうな手紙とか、
安国寺の関が原当日の腰砕けの動きとか、どうも腑に落ちないんだが。
三成挙兵の裏には黒幕がいたとしたら、誰なんだろうな?
と、言っても、これといって思いつかないわけだがw
三成ではないなら宇喜多あたりだと思うけど。
>>384 関ヶ原退却戦って、
どれだけの犠牲の上に成り立っていると思ってるんだ?
あれを勝ちと言い切るのはどうよ。
>>393 しかも相手は朝から戦闘して疲労している連中ばかりな罠
拱手傍観決め込んでいて、頃合見計らって命からがら逃げただけとしか思えない
むしろ関ヶ原前後における義久の外交手腕なら称えられるべきだと思うがな
島津兵が戦そっちのけで 乱取り人さらい強盗を働いてたことが 宣教師の手記で明らかになってるよなw
当時の島津一族とその家臣団が優秀なのは認めます。
ただ、義久⇔義弘の当主争いからくる確執とか、家久系の排斥とかとかの暗部事情を抱えていたのも事実。
また、家久率いる島津軍が大友領に侵攻した際、大友家臣の佐伯軍に野戦で撃退されていますから、
常勝島津とも言い切れません。
あとこれは個人的な考えですが、城攻めに関して、九州勢はおおむね下手くそで、島津も例外では無い
と思ってる。
もっともお家騒動や負け戦なんてどこでも経験する物です。最終的に生き残って、あれだけの軍歴と名声
を得た事については賞賛されるべきでしょう。
ようはプラスとマイナスの要因を見比べなきゃって事ですね。
397 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 14:14:24
島津は貧乏なのが際立っているな
朝鮮でも関ヶ原でも兵がいなかったり、渡航できなかったり
組織力は疑問だ
あげ
幕末でも島津は負け組み
西南戦争でボコられ
西郷、大久保はあぼーん
宣教師は宗教と商売の関係大友寄りだから鵜呑みには出来ない。
それに戦国時代の強盗、人さらいは珍しいことじゃない。
最近島津厨とアンチがどのスレにも湧いてるな。
義弘が無双に登場したからその影響じゃないと言ってみるテスト
何も知らない無双厨が島津の戦歴だけ見たらマンセーしそう
>>400 だな、乱取は珍しいことではない、当然島津もやってただろう。
ただ、それが本当に戦そっちのけだったのかとかは疑問。
一段落ついた時に行われていたのを偶々見たとか、そんな感じだと思うけど。
あと、島津アンチはこのスレにほとんどいないと思うが。
十河とか三好残党って関ケ原のとき何やってたの?
政康は大阪夏の陣で戦死したとかいうが。
>>402 俺様は島津アンチでも宣教師マンセーでも何でもないが
城攻めそっちのけで 人さらいや乱取りをやってた記録は確かにあるし
朝鮮役では佐吉から指摘されてたようだし あながち間違いではない気がする
>>400が言うようにどの大名もやってることだから それを根拠に
島津叩きの材料には出来ないが 宣教師の ひいき目を除いても
他よりひどかったんではなかろうか
405 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 16:15:00
「気がする」「なかろうか」
つチラシの裏
つ便所の壁
ちなみにここは関ケ原スレなんで。
史料がないのに それ以上は推測でしか語れんだろw
つチンコの皮
チョウスバベ盛親は大阪行かなきゃ立花みたいに大名に返り咲けた?
409 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 16:37:19
>>406 史料が無いなら、島津の乱取りが他より酷かったとか妄想で決め付けんなよ。
>>408 実績と名声が立花に比べ、低いのでダメだろう。
もし大名になれるなら、大阪攻めまでに取り立てられているように思う。
ただ大名は無理でも、家臣としてどこかが抱え込む可能性は有るんじゃないか?
まぁ本人がOKするかどうか…
411 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 21:20:37
>>410 まあ、こういっちゃああれだが、世渡りが下手だったんだろうな
外交も下手だし・・・・
魑魅魍魎がうようよいるし
大名でなくなっても、旗本や家臣になったのも多いが長宗我部は・・・・
>>392 西軍決起の謀議はほとんど佐和山城で行われているんだよね。
わざわざ蟄居中の三成の居城で行ったということは、
三成をどうしても外せなかったからだと思われる。
蟄居して政務から遠ざけられた三成の下に重要人物が集まっては、
他に集まった場合よりも目だってしまうのだから、
もし三成が参加していなくてもよかったなら、他に集まって計画を練っただろう。
つまり、三成は少なくとも計画を進める上で、
決して外せない程度には重要な立場にいたというのは間違いないだろうと。
413 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 21:42:20
つか安国寺の動きは自然
安国寺は毛利の家臣だからな
独立大名ではない
それから武勇を誇る武将でもないし
>>413 行火のつけ方くらい勉強して来いw
30レスも遡っちまったじゃねーかよ。
415 :
九郎:2006/01/25(水) 00:22:26
高ころびにあおのけにころばれ候ずると見え申候
島津厨のせいで、藤堂についての話が止まってしまった・・・
417 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/26(木) 11:07:51
ホリエ信長
418 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/29(日) 14:13:54
戦国自衛隊
419 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/29(日) 14:40:57
小早川も主役級だな
420 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/29(日) 14:45:25
ポイズン
島津厨は本当になんとかならんのか
そんないろんなスレで吼えてるヒマあったら小説とか書いたらどうか
池宮のようなパクリじゃなく真面目なやつな
アレはアンチ島津だろ。
嫌韓厨のふりしてコピペ荒らしをしてるホロン部みたいなもの。
423 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/29(日) 17:02:44
読んだほうが良い本があったら教えて
424 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/29(日) 17:51:45
学研
425 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/30(月) 20:35:09
宇喜多が首謀とい
ふと思ったんだが、黒田と福島を初回の激突で殺せたら
普通に西軍勝っていたかもね。
黒田長政は先頭切って突撃するのが趣味だし、
福島も第2陣にいたはずなので、ちょっと運が良けりゃ殺せたかもな。
そうしたら最悪士気崩壊で、午前中に西軍の勝利になったかもしれない。
午後にずれ込んだら東軍の勝ちだろうけど。
427 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 00:42:49
西軍が勝ったらどうなってたんだろ???
428 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 00:57:41
西軍は烏合の衆なので、短期で決めないと確実に東軍に負ける。
勝った場合は、毛利家を中心とした連合政権になるのかな。
だが、島津なり伊達なりが、かなり好き放題出来る環境になりそうだが・・・・
伊達は上杉がいるので、結構出来る事は限られてくると思うが、西軍が勝ったと言っても
徳川がとうなったのかによって大きく変わってくるとは思う。
九州も奥州とおなじく、黒田・島津・加藤の三すくみ状態かな?
いちばんベターなシナリオは秀頼とそれを擁護する立場の毛利なりに対して、一時的にでも
恭順してくれる事だね。
まぁ長続きはしないとは思うが…
烏合の衆と言ったら東軍もそう言えなくもないぞ。
まあ中核となる徳川がずば抜けて有力だが。
432 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 14:24:55
会津の上杉は南下できなかったのかな。
仙台方面中立だし、大部分引き上げてるんだから宇都宮の備えを破れない?
難しいけど不可能って事はないんじゃないかな。
ただ少し時間は欲しい。
迅速に進めれば秀忠を反転させることはできたかも知れないが、
結局三成も史実以上に上手くやらないと大勢に影響し得ない。
徳川が有力だというヤシが多いが、
正直、関東移封以来まともな勝利ってあったっけ?
幕末でも負けの方が多いし。
位攻めしかできないヘタレ軍団だと思うんだが。
何で関が原前後と幕末を一緒にする・・・・・・
437 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 21:41:24
関東移封以後は戦争そのものが少ないかも。
つかとりあえず数多いしな。関ヶ原当時の徳川軍。
ぶっちゃけ、朝鮮の役位だよな。
で朝鮮の役で結局火縄銃装備率が50%から80%になったんだっけ?
徳川軍ってそのへんどうだったのかな?
440 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 23:47:35
>>435 関東移封の1590年以降、大規模勝利を経験したのって徳川だけなんですけど
あとは半島で小早川隆景が大陸人相手に戦術的勝利を取ったぐらいか?
関ヶ原だって結局傘下の徳川が豊臣を喰らう下克上の戦いだったわけだし
一概に位攻めとも言い切れないぞ、数だけなら西軍のほうが多かった瞬間もあったし
つーか『幕末でも』って・・・・ネタか?
>>440 家康がうまかった所
1度東軍に付いた大名には常に東軍有利であり続けていると思い込ませ続けた所
442 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/01(水) 00:09:28
西軍が多かった瞬間って、いつのことだ?
西軍はもともと少ない。
毛利・吉川・小早川も入れりゃ
西軍の方が多いだろ
大津城攻撃の大将を、吉川・小早川もさせて、実は西軍の主戦派の多い、史実では大津城を攻めた
連中を関が原に持ってくる、立花を先鋒にして配置
毛利の本体は自然、毛利秀元になるが、主戦派だから、いきなり戦闘参加したらどうか?
更に島津義弘も積極的に戦闘に参加したとしたら、かなり勝算が高くなってくると思うがどうだろう?
兵が2000足らずしかおらず、中央との繋がりも薄い島津が士気が高いとは…
後、吉川が大津攻めてるのに毛利が関ヶ原にいるって状況はありえないと思う
小早川にいたってはそのまま東軍に寝返って伊勢路を占拠しかねないし
大垣籠城
宗茂の参加
島津の夜襲案受け入れ
西軍起死回生の策はこんなところか?
448 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/01(水) 22:04:28
>>444 東軍も南宮山方面に1万4千の予備兵力があるから、やっぱり東軍のほうが多いよ
449 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/01(水) 22:22:28
島津隊と南宮山にいた毛利連中が名前通りの働きしてくれてたら
あれほど一方的にはならなかったろうね。
450 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/01(水) 23:03:20
>>445 同意。
結局西軍の敗因の一員は、無駄に兵力を丹後と大津に置いたのも原因だろうから
丹後宮津攻めは 吉川に、大津攻めは小早川に任せて
その兵力を関が原の主戦場に投入すべきだったと思う。
>>445 その条件だと布陣もかなり変わるよなぁ
でも三成はやはり毛利抜きでの戦闘には躊躇しそうだなあ
形の上の兵力でも上になった家康がどう動くかも難しそうだな
452 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/01(水) 23:05:11
ついでに、秀頼を関が原に来させるというウルトラ技で勝負をかけるとか?
長期戦になった場合、丹後と大津は重要になってくるから無駄とは言えない
454 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/01(水) 23:12:01
>>453 しかし、丹後にしても大津にしても、付け城を作ってそこにそれなりの兵力を置く事で
対処できるわけだし…。
>>454 真田の上田城なんかはそういう風に無視してもなんら問題ない城だけど、
丹後や大津というのは京や大坂にも近いから是非とも確保しておきたいだろうな。
特に大津は京まで一日でたどり着くことができる。戦略上の要地ってやつだ。
456 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/01(水) 23:21:36
>>455 それは理解できるけど、
小早川一万数千の兵力で包囲しておけば問題は無いのでは?
457 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/01(水) 23:24:33
>>456 肝心の小早川が寝返ったら、どうなるのだ?
458 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/01(水) 23:46:52
>>457 手駒と考えているなら寝返りは想定しない。
古来よりあれだけの戦力が決戦直前から決戦中に掛けて寝返った場合、寝返られた側が勝った事がない。
だから大津の地と限定して小早川を語るのはナンセンス。小早川が寝返るならいつのタイミングでも勝ち目なし。
というか、普通裏切る場合は開戦前に行うのが慣わし。
戦っている真っ最中に裏切るなんてのは本来は認められない行為。
関が原の小早川があまりに有名な為、裏切りに関してはあんなイメージがあるが。
他に類例というと、賤ヶ岳の前田の敵前逃亡が近いか?というくらいのもの。
>>457 小早川の寝返りは、関が原の戦場心理が重要要素だと思う。
むしろ、主戦域から離れた大津で、しかも半分出来レースのような
城攻めの真似事をしてる間に、全てが終わるとおもうが…。
462 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 17:54:52
まあ、小早川の一万数千と 吉川の数千がいなくなっても
大津攻めの、主将である立花と毛利元康の率いる、一万数千と
石田の息のかかった武将が多数を占める、宮津攻めの一万数千が
戦場に来たほうが安心できる。
しかも、吉川がいなくなれば、毛利秀元が指揮権を握る訳だから
マジで参戦しただろう、しかし、この状態になれば
家康は、関ヶ原に出てこなかったと思う。むしろ赤坂にとどまっただろうな。
463 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 19:03:31
松尾山と南宮山の部隊は伏兵として配置すれば良かったかもね?
>>462 毛利勢の采配を任されていたのは吉川広家だから、
吉川広家と毛利秀元はワンセットで考えないと。
465 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 21:03:06
輝元が関が原に出陣した場合のみ、吉川の影響を無効にできる
466 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 22:31:47
あえて、西軍主将の、軍事面担当の武将として
吉川広家に、細川幽斎を制圧を求めるのは
至極普通の戦略だと思うが…
467 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 23:45:02
西軍は、雑兵で良いから数万を動員して正面に布陣すれば
まだ東軍に抵抗できたと思う?
とにかく吉川は毛利と離れようとしないだろう
面と向かって「オマエ内通してそうだから隔離する」とも言えんし
469 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 23:55:34
470 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 23:57:42
>>469 女子供老人という解釈もあるし、民の弱卒という解釈もできる
もし9月14日夜に西軍が夜襲を掛けず、関ヶ原に移動もせず、大垣篭城を
続けていたらどうなったろう?
松尾山の小早川はそのまま東軍の軍勢に合流しただろうか?
それとも西上する東軍を傍観していただろうか?
また、その場合西軍の抵抗ラインは長浜・佐和山の線、というより点になるかな?
この場合のポイントとしては北陸から南下してくる前田勢、西軍の丹後、
大津攻撃隊、伊勢方面の西軍、中山道進軍中の秀忠隊。
東軍も下手に主力部隊が近江に乱入してしまうと、東西お互いが
ものすごい多重包囲戦やらかしそう。
それとも家康は三成動かず、を見ると秀忠到着まで美濃に留まっただろうか?
やっぱ赤坂滞陣じゃね?
473 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 00:10:21
西軍が史実の兵力に7万5千の雑兵を追加するなら、どこに布陣させるのが良い?
三成大垣篭城継続、家康も赤坂で睨み合い続行だとすると、
周辺地域の諸隊の動向が鍵なんだけど、まず田辺城攻城軍は前田への
警戒から若狭、北近江あたりに移動するのではないかと思う。
前田勢が北国街道沿いに南下してきてもこの西軍部隊との睨み合いに
終始するのではないかと思う。
大津城攻撃隊はやはり関ヶ原、大垣方面の西軍との合流を狙うのではないかと思う。
もし合流できれば三成は計算のできる部隊が増えることになる。
最も鍵を握るのは伊勢方面の西軍部隊の動向と秀忠隊の動向だと思う。
秀忠隊はおそらく家康との合流を目指すだろうが、
伊勢方面の西軍が尾張乱入、もしくは木曽三川沿いに南濃方面から北上、
西軍主力との合流等、伊勢方面の西軍隊の展開次第では面白くなったんじゃないかと思う。
あげ
477 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 12:13:29
吉川込みの毛利秀元の部隊と、小早川の部隊を
それぞれ、丹後大津に送って、そこにいた部隊を関が原の取り込む
戦意の面から見て、そっちの方が良い選択だと思うが…。
>>477 飾りとはいえ盟主の軍がいないのは厳しいっしょ。
後丹後送りは、吉川主導で丸ごと東軍寝返り前田勢に合流して南下とかだと目もあてられん気がする。
吉川主導での寝返りは出来ないんじゃないかと思う。
戦場での差配は吉川の担当だが、徳川に付くから勝手な行動をすると言うのは
さすがに輝元の指示が無いと毛利は動かないでしょう。
戦術指示は吉川で好きに出来るけど、戦略指示は毛利宗家の管轄って事。
吉川勢が単独で動くってのは有りかもだけどね。
毛利勢丸ごと寝返りは無いにしても
吉川なら前田勢が南下するのを華麗にスルーしてみせることくらいしそうじゃない?
気づきませんでした。って言い訳して朽木谷辺りまで出させちゃうの
481 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 05:57:22
>471
まず金吾がどう動くだが、大津勢の西軍合流を防ぐには大谷攻撃しかないが
(家康はそう指示しただろう)、まず動かないだろう。
不破の関は無事通過。しかし、
毛利元康はは秀元の陣に合流(以後、吉川に阻まれて何もできず)。
与力の筑紫広門は大蔵の陣近辺に着陣というところか。
立花勢&高橋勢は大津城守備を命じられていたから、本戦参加は無理。
西軍にとって、あまり有利ではないな。
>>481 そうだね、多分そのような経過に至ると思う。たしかに野戦を前提に考えると
思ったほど西軍には有利には働かないかもしれない。
でも三成があと半月ほどは大垣篭城を続けていたらどうだろう?
東軍は秀忠隊が合流してかなり増強されるだろうがそれでも家康は大垣城を
力攻めしただろうか?仮に力攻めしたとしても後詰のような立場にいる
南宮山付近のおよそ3万(大津勢含む)の西軍諸隊はそれでも大垣救援をしなかっただろうか?
あとは伊勢方面の長島城攻防の状況と鍋島がどう動いてくれるかではないかと思う。
長島が早期に落ちるようなら清洲も狙えるかもしれないし。
ただ、西軍って美濃近辺では他には丹後田辺城攻撃隊と大坂の毛利輝元、
増田長盛の軍勢くらいしかまともなのは残ってないよね?
>>481 大垣あたりでモタモタしてると上杉に山形城を落とされる恐れがあるから
大垣や佐和山を落とすまでは遮二無二攻撃してくるんじゃないかな。
最上がやられても家康は何の痛痒も感じません。
つーか、見殺しにしたい捨て駒ですから!
上杉は最上を斃した後あとは長ーーーーーーい冬休みをはさんで
越後に出兵します。越後占領したらまた長ーーーい冬休み。
関東に出てくるには二年後ですw
ところで、大坂の毛利輝元の本隊って
どれくらいいたの?
486 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 12:13:29
>482
篭城しては勝ち目はないと思う
逆に三成が不破の関に移動したとき東軍が反応しなければ
ほぼ西軍の勝ちではなかったか
金吾は西軍に囲まれれば再び西軍につくと思う
そうすれば大津勢が到着したとき、西軍が数的優位に立てる
篭城した場合
どうだろうか
確か吉川は大垣城攻防の場合は明確に東軍として行動すると
約束していたはず。秀元を説得できるか否かは別として。
西軍にとって最も良い仮説で、毛利不戦程度でいいのではなかろうか。
鍋島は化け猫直茂が東軍支持なのであまり期待できないのでは。
487 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 12:40:27
島左近の娘婿が主将を務める、宮津城部隊
主戦派、 立花・毛利元康コンビが率いる、大津部隊
あわせて三万が戦場に現れたインパクトは強いんじゃないかな?
西軍が大垣に篭城していると、東軍が関ヶ原を占拠してしまうからね。
以前から寝返りの約束をしていた小早川は普通に東軍につくだろうし、
そうすると、大津攻めの部隊と合流しても総兵力で西軍のほうが劣るようになるし、
小早川のいた松尾山はもとより、史実で西軍が占拠した笹尾山等有利な地勢も東軍のものになる。
そして西軍は大垣の本隊と戦意の高い大津攻め部隊+大谷隊とが分断されてしまう。
その上、岐阜城のみならず大垣周辺の諸城も東軍の手に落ちているから、
大垣だけで東軍の後方連絡線を遮断するのも無理。
で、時間がたてば東軍は前田隊・秀忠隊も到着する。
特に西軍が有利になるような要素はないと思う。
489 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 15:24:11
少なくとも秀頼とテルトモでたら
福島軍6000はいなくなり、
毛利軍18000はつかえると思う
>>482 増田長盛の本隊って大和郡山城にいたんじゃなかった?
息子の盛次を主将として、渡辺勘兵衛了たちはそっちにいた記憶があるが
>>488 オレもそう思うな。
石田が籠城したら、それこそ大垣に一部の兵を置いて(寝返らせた小早川+αとか)、関ヶ原を占領
一気に佐和山も攻められる。
大津攻略部隊も視野に入れられるし、引いては大阪にも影響がでてしまう。
びびった増田や片桐とかが、単独で秀頼を担いで和平でもされた日には…
もう一つ籠城を行った場合、周りの情報を遮断されるおそれがある。
西軍の首脳がそうなった時点でもうだめそうですよ。
石田、小西、宇喜多、美濃の西軍諸将らが大垣城で東軍に包囲さる、となったら
大坂の輝元は大垣救援に出陣しないだろうか?
史実では三成の矢の催促でも関ヶ原に出陣しなかったみたいだが、大垣城が
包囲されているこの状況、もし大垣落城しようものなら西軍敗北は必至、
大垣を救援するしかないと思わなかっただろうか?
たしかに大坂の輝元の手勢はあまり残っていないだろうが、関ヶ原に出陣し、
秀元、元康の軍勢に合流してくれるだけでいい。
そうすれば吉川広家の妨害はかなり弱まると思う。というか輝元が大垣救援すると
言ってるのに広家は反対はするだろうが最終的には輝元に従うのではないかと思う。
ただ、輝元が南宮山に着いたところで広家と安国寺が大垣救援する、しない、
東軍につく、つかないで大論戦、悩む輝元、という図が思い浮かぶが。
ただ、輝元が大垣救援を決めてさえくれれば、西軍の戦力として期待できなかった
毛利勢(3万5千くらい?)が計算できるようになる。
さらに毛利勢が大垣救援するなら小早川も東軍には寝返らず、悪くても日和見してくれるんじゃないだろうか?
ただ、それをもってしても西軍が勝てる可能性はあまり高くないような気がする。
【純東軍】
徳川家康(30000)
井伊直正(3600)
本多忠勝(500)
松平忠吉(3000)
黒田長政(5400)
福島正則(6000)
細川忠興(5100)
加藤嘉明(3000)
筒井定次(2850)
田中吉政(3000)
京極高知(3000)
藤堂高虎(2490)
生駒一正(1830)
寺沢広高(2400)
金森長近(1140)
古田重勝(1020)
織田有楽(450)
-------------------
合計(74780)
【不東軍】
有馬豊氏(900)
山内一豊(2060)
浅野幸長(6510)
池田輝政(4560)
-------------------
合計(14030)
494 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 01:30:43
西軍に勝ち目があるのなら
家康が向島城にいて、利家が生きていて、合戦をする事を主張した時
利長の仲裁を無視して、一気に大阪から攻め上る。
水口、佐和山のラインで東からの家康増援を全て抑えることができるし
逆に、大和・丹波・近江・摂津などの近隣の兵力を動員できる
西軍のほうが有利。
【純西軍】
石田三成(4820)
宇喜多秀家(17220)
小西行長(6000)
大谷吉勝(3500)
島津惟新(1660)
戸田重政(1500)
島 左近(1000)
蒲生郷舎(1000)
大谷吉継(600)
-------------------
合計(37300)
【不西軍】
毛利秀元(16000)
吉川広家(3000)
安国寺恵瓊(1800)
長宗我部盛親(6600)
長束正家(1500)
-------------------
合計(28960)
【叛西軍】
小早川秀秋(15680)
脇坂安冶(990)
朽木元綱(600)
小川祐忠(2100)
赤座直保(600)
-------------------
合計(19970)
【東軍】
純東軍(74780)
不東軍(14030)
-------------------
合計(88810)
【西軍】
純西軍(37300)
不西軍(28960)
叛西軍(19970)
-------------------
合計(86230)
東軍88810のうち、純東軍は74780で全体の84.2%に対して
西軍86230のうち、純西軍は37300で全体の43.3%に過ぎない
純東軍は純西軍の約2倍であり、これでも本当に序盤は西軍が優勢だったのだろうか?
498 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 01:52:29
家康本隊は参戦していないから、東軍は44780だろう・・・?
しかし、それでも東軍のほうが多いのは事実だな
>>497 近年に行われた調査によると、三成は西軍軍勢の前に堀や馬防柵を張り巡らしていたらしい。
だから序盤は東軍が苦戦していたわけ。
>>499 つまり、武田軍の徹を踏んだってわけ?
関が原も大阪の陣も結局、防御側の優勢
を徹底的に活用して序盤は徳川方は苦しめているね〜。
その辺の学習能力なかったと見るべきかそれとも
関東移封の影響で戦術的柔軟性が失われたのだろうか?
いや、この規模になると
各隊の戦術指揮まで家康が口を出せる状況になかったと見るのが打倒だと思う。
502 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 14:48:31
東軍が先に関が原に布陣していれば万全だったのに・・・
>>500 家康自身は陣地構築した相手の強さを良く知っていたと思う。
実際小牧長久手の戦じゃ自分たちもそれを用意したわけだし。
ただ関ヶ原の合戦では個別の作戦までは家康に指揮権が無いし、
それぞれの隊だって同じ目標を攻めるときもタイミングを合わせてるわけじゃない。
まぁ連合軍のそういった意味での脆さってのは他の戦争でも時々見られることだけど。
>>492 まず、輝元が出てきても吉川はともかく小早川は動かないもはや毛利の一門という立場でもないし。
で、当時の東軍西軍の兵力差は、
>>496を使わせてもらえば、東軍88,810西軍86,230で東軍やや優勢、
そこに小早川及び史実で小早川に連動して寝返った連中もその情勢で踏ん張るはずはないと思われるので、
あわせて東軍につくとすると。
西軍本隊が大垣城に篭城して関ヶ原が東軍の手に堕ちた場合の兵力は、
東軍108,780 西軍68,653西軍に大津攻めの部隊を加えても83,653。
ここに秀忠軍38,000と前田軍20,000加えると、
東軍は166,780となってしまい、仮に輝元が畿内一円の西軍をかき集めて、
3万くらいで援軍に行っても、東軍の数的有利は動かない。
計算の途中でかなりの概数が入るので兵力差は確実とはいえないが、
東軍の方がかなり有利なのは間違いない。
その情勢で援軍に行っても返り討ちにあう可能性が高いし、
そもそも援軍に来るかどうか。
505 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 16:03:43
>>500>>501 あほか!
誰が将帥であろうが防御側に備えられたら不利に決まってるだろ。そうそう毎回奇策なんかでてくるとでも思っているのか?おめでたいな。
506 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 16:07:31
>>499 氏の言うように、西軍は、笹尾山・天満山・松尾山・南宮山を総て占領していて、
高所に陣を敷いている。尚且つ柵・堀などがかなり設置されており、城とは言えないがかなりの
防御力があったに違いない。宇喜多秀家は5段もの陣を構えていた。
対する東軍は、盆地から山の西軍を攻める格好になる。
宇喜多秀家隊17220
■11_
\■11
\■11
\■11
\ ■11 ← □□□ 11□ 福島正則隊6000
507 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 16:15:51
攻城戦の場合は攻者が3倍あれば攻め落とせるという。
陣では流石に城ほどの防御力はないが、かなり有利には出来るはず。
関ヶ原での西軍の陣は家康の計算外であったらしい。
家康は、大垣城から出てきた西軍を関ヶ原に転進する前に捕捉・殲滅するつもりでいた。
しかし、霧・雨・伝令の遅れなど不都合が生じ知らせを聞いたのは西軍行動開始から7時間後だった。
508 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 16:24:38
西軍が時間稼ぎをし、大津・田辺攻城部隊を待つとしたら・・・
このような布陣はどうでしょう?
伊吹山▲____________________
___________ _________________________
笹尾山▲ (この辺)→西軍■- -□
桃配山▲
509 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 17:27:47
桃配山も西軍が占領したら、かなり有利だったと思う?
>>507 攻城戦ではなく、攻撃側は防御側の3倍いるってのが、セオリー。
これが攻城戦になるとさらに攻めてには兵力がいる。
過去の城攻めをみても、10倍相手でがんばった例も多々あるでしょ。
もっとも、これは純粋な戦闘比率なわけで、関ヶ原の寝返りや開城工作なんかは別の話。
当時そこまで明確な考えは無かったとしても、防御陣へは攻めての方が多数の兵力を必要だった
のはみんなが知っているはずです。 これは戦術柔軟性とは別の話なのです。
それでも戦には勢いってものがあり、攻めなきゃ勝てないのです。
あと攻めてには、好きな場所に対し主導権を持って戦争できると言う利点がある。
勝頼の場合は、間違った勢いで倍する兵力が防御陣を張る中に突撃したわけですから、数字の計算を知らない
バカだっただけです。
つーかさ、東軍って、捕捉に失敗したという作戦レベルの失態が
あって、陣地造営の確認の偵察の失敗もあって、戦術レベルの
調整もしなかったっツー事?
東軍も褒められたもんじゃねーな・・・。
>>511 もちろんそう。
全戦国史を通してみてもあの規模の軍勢を動かしたのなんて、
信長と秀吉くらいだし、それが明白な主従関係がない連合軍となると、
戦国史上初、その上相手も同規模の連合軍というさらに稀な状況。
家康にも完全には御しきれていなかった。
むしろ西軍の方が前夜の行軍とかについては手馴れているようにも見れる。
秀吉の下で軍政に深くかかわった三成の面目躍如といったところ。
しかし、そういった戦術的な有利さも、
寝返り工作という、戦略的・作戦的或いは政治的優位を突き崩すほどのものではなかった。
513 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 21:13:04
逆に、三成が家康なみに手紙やら恩賞やらで東軍大名を勧誘してたらどうなっただろう?
大義は西軍にあるわけだし・・・福島正則とかに頭下げて和解とかしたら結構いい感じじゃないのかな?
ちゃんと関ヶ原で闘ってるわけだから、東軍が西軍の補足に失敗した訳じゃないんじゃないか?
陣地構築については、ものの3時間もあれば簡易壕や柵なんざ構築できる。
野戦で陣地を要塞化した場合、攻めにくいって欠点がある。
兵ってのは、しゃにむに攻めてる時は勢いで士気を維持できるが、守りに成れば冷静になって徐々に士気が
下がり出す。 この辺をうまく操れるのが将ってもんだ。
攻める方もそんな簡易陣地を築かれた位で攻めないって訳にはいかないのですよ。
関ヶ原の場合、宇喜多・小西の正面は防御陣地は築かれていないから、おそらく一番恨みを買っていて、
東軍が群がるであろう三成が東軍を引き受けて、中央〜西軍左翼で押し返すみたいな考えだったのだろう。
逆に東軍(家康)としては、三成を突き崩しさえ出来れば、いいわけだし、いくら陣地があっても、数で押せば
なんとかなる。
もともと三成憎しで味方してくれてる豊臣恩顧大名に対して、三成陣を攻めるなってのは無理な命令なわけで、
しかも傷つくのは豊臣の軍勢じゃん。これが戦争ってものなのですよ。
>>514 行軍距離はほぼ同じ、というか東軍のほうがやや短いのに、
西軍はその3時間くらいを稼ぎ出したということですよ。
まあ、家康を責めるよりも三成を褒めるべきだと思うけども。
>>513 そのくらいしていると思うよ。
ただ三成は闇討ちして殺そうとしているほど憎まれているからねえ。
良くも悪くも三成は優秀な官僚だったってことなのでは。
517 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 21:41:55
東軍のうち、三成を攻めていたのは豊臣恩顧大名の軍勢だけで
徳川の軍勢は守りに徹していたはずだが・・・
518 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 21:41:56
架空関ヶ原
三成and奉行等 内府家康の元に走る
・三成等の西軍首謀者格の人物が家康方にいく 東軍有力大名・・徳川家康・石田三成・大谷吉継・小西行長・宇喜多秀家(奉行派と親しいので)・上杉景勝(直江・三成との友情・
南部・津軽等・佐竹義宣(三成との友情)・真田昌幸・増田長盛・立花宗茂・長曹我部盛親(なんとなく)・鍋島直茂・前田利長・織田秀信(秀吉に天下盗まれた恨み)
・それに対して福島正則等武断派が挙兵する 西軍有力人物・・福島正則・黒田長政・細川忠興・加藤嘉明・藤堂高虎・田中吉政・島津義弘(秀吉への恨み)・伊達政宗・最上義光
近畿大名多数・豊臣秀頼・毛利輝元・小早川秀秋・加藤清正など
家康 東北の反乱を平定しに行く。最上・伊達征伐(直江が上杉なので、三成との友情により東軍に)
西軍挙兵 西軍大将(実質的な司令官)福島正則 盟主毛利輝元(ここは史実どうり。因みに吉川広家が担ぎ出す)
東軍 西軍挙兵の報を聞き西上 上杉 最上領へ侵攻開始
東軍 東海道がみな西軍で苦戦するので信濃経由で関ヶ原へ
西軍 伏見の鳥居元忠を討つ
西軍 岡山・大和郡山・佐和山・敦賀等を攻撃開始
東軍 清洲城攻撃 落後岐阜城へ入城
西軍 東軍到来の報を聞き 城には押さえを置き急遽関ヶ原へ
>>514 確かに城にいた西軍と会戦を行うのに成功したので捕捉に
失敗したとは言わないけどね、敵のケツを蹴飛ばす好機を逃したばかりか、
敵に陣地構築の暇を与えて、真っ正直に防御陣つーか、
キルゾーンに丁寧に攻め込んだのは補足に失敗した以上に拙いと思う。
>>517 三成が家康にちょっかい出しまくってたのを全部本多隊が撃退していたんだっけ?
後、実際の動きを見ると、悪戯に陣地に突っ込んだというよりも
相手を陣地から引きずり出そうとしてる向きが強い気がするが。
521 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 21:57:38
>>518 関が原の東西両軍の布陣は史実通りなのか?
>>519 キルゾーンは言いすぎでしょう、家康としては小早川裏切りを想定していたと思う、
だからこそ、なかなか動かない小早川に対して、謀られたかと憤ったのだろうし。
まあ結果的に小早川がなかなか動かなかったからキルゾーンのなりかけたわけだけど。
で、前日には既に東軍として動いたと思えるような行動をした小早川が、
土壇場で西軍を攻めるのを躊躇したのは、三成が直前に出した、
関白という破格の条件がきいていると思う。
もしそれが成功して小早川が東軍を攻めていれば西軍が有利になったのは間違いない。
いわば家康が小早川を自陣営だと思っていたのを逆手にとって策にはめたことになり、
計略面でも一本とった形になったと思うが、こちらについては成功はしなかった。
523 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 22:06:36
布陣図
福島隊6000■- -□石田・小西・大谷(脇坂等含む)・立花等25000
島津隊1500■- -□宇喜多隊17220
池田隊4500■--□松平・井伊・本多7000
細川19000■--□前田隊20000
黒田等
加藤・寺沢・藤堂等(清正)
15000■--□佐竹対15000 -□徳川隊30000 -□長曹我部隊6600 -□真田隊1500
織田・金森等4000■- -■安国寺・長束・増田隊9300(内通)
小早川秀秋15600■- -■毛利秀元15000 -■前田対(玄以)浅野対6500
-■吉川隊3000-■蜂須賀隊5000
524 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 22:09:21
>>521訂正
布陣図
福島隊6000■- -□石田・小西・大谷(脇坂等含む)・立花等25000
島津隊1500■- -□宇喜多隊17220
池田隊4500■--□松平・井伊・本多7000
細川19000■--□前田隊20000
黒田等
加藤・寺沢・藤堂等(清正)
15000■--□佐竹対15000 -□徳川隊30000 -□長曹我部隊6600 -□真田隊1500
織田・金森等4000■- -■安国寺・長束・増田隊9300(内通)
小早川隊15600■- -■毛利秀元15000 -■前田対2000(玄以)浅野対6500
-■吉川隊3000-■蜂須賀隊5000
525 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 22:21:53
>>524 つまり、東軍と西軍の合計は
それぞれ何人になるのだ?
包囲+高地
西軍がやはり有利じゃないか?
しかも背後の南宮山には、毛利以下3万近い兵力があった訳だし。
家康程の名将が、あんな用兵したのは、やはり毛利一族の内応に相当の確信を持っていたんだろうな。
527 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 22:39:48
西軍最大の失敗
家康が背後の上杉を牽制し、江戸に溜まっていた時。
東軍は、戦力の逐次投入という、最も戦術上稚拙なミスを犯していた。
あの時期に東軍先鋒を全力で叩きすべきだった。
実際には、畿内の地ならしに西軍は戦力を分散させていて、岐阜付近には、むしろ東軍先鋒に劣る戦力しかなかった。
伏見は流石に落とすべきだろうが、独力で行動をとれないような、東軍方などほっといて尾張まで進出、個別撃破を計るべきだったのではないか?
528 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 22:43:20
>>527 しかし、東軍先鋒は4万5千はいるのでこれが守りに徹した場合、
必ずしも鎧袖一触に滅ぼせるほど簡単な相手ではない。
そして家康本隊・秀忠隊合計6万8千が後詰でやってくる。
その情勢で後方に東軍の拠点が複数あるというのは、
ちょっとあまり良い状況ではないと思うよ。
確実に東軍先鋒を家康到着前につぶせるというなら話は別だが。
>>526 確信持ってたなら南宮山側の押さえに兵を配置したりせんだろ。
当日早朝は霧が立ち込めてたっていうから家康は布陣を正確に把握できてなかっただけジャマイカ?
>>530 南宮山はそこにいる部隊全部ではなく、
その中の吉川だけが内応している状況だからね、一応押さえも置くでしょう。
小早川に対しては、特にそういう部隊も置いていないし、
かなり味方と思っていたと思うよ。
532 :
秀康:2006/02/05(日) 23:30:49
531さんに賛同
>>531 毛利に置いたのは自軍の背後だから当然、しかも毛利の兵力考えると時間稼ぎ程度の兵数だから、
たぶん小早川には兵を割く余裕がなかっただけだろ。
背後の毛利と違って動きを見て対応できるからその必要もなかっただろうし。
小早川に対してはいざとなったら徳川本体でしかければ無問題。
実際松尾山に鉄砲を撃ちかけたのだって、「やんのかオラ?」
みたいな感じだし。
影武者・徳川家康
>>519 別に東軍が戦下手とか上手とかではなく、捕捉してもいない敵が、夜間に整然と移動を行う
のを走って捕捉撃破出来るような軍や将はそうそう存在しません。
人が歩く速度なんて戦術移動レベルでは同じ様なものです。無理して駆け出したりしたら
それこそ夜間だと言うことも加わって攻め手がちりじりになってしまいます。
当時の軍隊は固まっていてなんぼの物ですからね。
三成は当初から防御陣を張り敵に対し防御戦闘を行うつもりだったかと思われ、その場合
お互いが正規に布陣を終え夜が明けるまでに十分陣地化は可能です。
松尾山は要塞化されていたと言う説もありますので、ひょっとかするとあらかじめ防御陣地に適した
場所をいくつか選んでいたのかもしれません。
これを阻止出来なかったからと言って相手を稚拙とするならば、当時の武将はほとんど稚拙呼ばわり
されるのではないでしょうか?
防御陣地に対し攻撃を行うのは危険で被害を伴うものでしょうが、マンガの様に奇策がぽんぽん
出てこないのが現実です。だからと言って決戦を前に立ちすくむのはさらに愚作だと言えます。
だからみんな戦術ではなく戦略レベルで勝負しようとするのですよ。
世界史レベルでもそれは言えることだな。
第二次大戦直前に入るまで、陣地構築された場所を圧倒できるような兵器や戦略は無かった。
だからこそヴェルダン戦みたいなことが起きるわけだし。
後、三成は自分たちが守勢に回らざる負えないことを理解していたと思う。
多分それは毛利輝元が出馬するまで、という限定条件つきだったとは思うが…
あの戦場で唯一、大砲を李氏朝鮮の仏浪機に見立てて用い、
東軍の攻勢速度を遅滞させたりしたのもその辺りの守勢の発想からだと思うし。
後、逆に東軍の南部戦線って物量で圧倒的に負けてないか?
福島、藤堂、京極、寺沢、松平、井伊、古田、織田、金森全部合わせたって1万8000前後だろ?
宇喜多、大谷父子、小西、平岩、戸田、木下だけで軽く2万8000はいそうなもんだが。
まぁ、これに小早川勢と脇坂、朽木、小川、赤座を加えれば一気に逆転するけど、
良くそれまでに壊滅する隊が無かったな、と。
やっぱ後詰の徳川本隊を警戒しすぎたのかな?
それは東軍のいくつかが三成陣に向かったためじゃないかな?
普通の判断だと、もう少しまんべんなく西軍陣営に東軍の兵を当てるべきでしょうが、
東軍も所詮は三成憎しでの寄合い所帯。 家康自身も自由に差配できる軍ではなかったって事
でしょうか?
もっとも、精強福島軍で西軍の多くを引き留め、倍する兵力で三成軍を撃破後西軍側面を
脅かす…と言う作戦にもとれます。
西軍にしてみれば、三成が東軍の多くを引き留め、東軍中央を突き崩し三包囲を縮めて…
と思っていたのかもしれませんし開戦序盤はそう推移していたみたいです。
惜しむらくは史実通り、西軍攻勢軍として機能したのが宇喜多隊だけだったという事かな?
江戸末期の石高
徳川・松平家が断トツで
支藩含めた外様実高ベストテン
一位前田家、156万3千石
二位伊達家、111万3千石
三位毛利家、100万1千石
四位池田家、90万8千石
五位島津家、78万8千石
六位細川家、71万6千石
七位黒田家、57万9千石
八位佐竹家、41万2千石
九位蜂須賀家、40万9千石
十位は鍋島家といいたいところだが、意外な伏兵、
真の十位は有馬家、36万6千石
鍋島家は十一位でした。
スレの流れで西軍の高地の堅固な陣、包囲網にとびこんだ状態の東軍に対して(しかも統率がとれていない)
西軍諸将が不戦をきめこんでたのがよくわからない。名目上西軍なのだし
戦局が明らかに西軍に有利ならここぞとばかりに参戦してもおかしくないと思うけど。
>>540 戦局自体は西軍やや有利で推移していた、といったところ。
なぜ参戦しなかったかは
島津→夜襲提案を拒否られて面白くなかった。だから傍観した。
朽木・赤座・脇坂・小川→松尾山の小早川の動向が気がかりだった。
下手を打つと後背の小早川から挟み撃ちにされる。
小早川→東軍寝返りの約束をしていたが三成に関白をちらつかされ大いに悩む。
関ヶ原当日は西軍やや優勢には見えたが南宮山の毛利も動いていなかったので
さらに大いに悩む。
毛利秀元→参戦しようかと思ったが麓に陣取る吉川広家があーだこーだと
理由をつけて邪魔をした。
長束・安国寺・長曽我部→毛利が動かない以上怖くて単独では攻撃できなかった。
結局のところ明らかに西軍有利ではなく西軍やや優勢だった所がミソ。
>>540 東軍には徳川という心強い後詰がある。
だから安心して突っ込んで、安心して撤退できる。
西軍でそれに相当するはずの毛利は、下山するのに時間がかかる南宮山にいてはっきりしない。
また、毛利たちが動いたとしても池田や浅野を突破するのに時間がかかるのも分かっている。
そんな中、自分だけ突出して死にたがる奴はいないんじゃないかな。
>>536 マジレスすると、捕捉するなんて妄想以前だろ?
東軍は西軍の城から引っりだして野外決戦を強要できた。
その代わりその場所は西軍も十分な防備体制のある場所であった。
西軍も東軍もやる気満々だったわけだし、見た目の戦力比で
双方互角なわけだから双方特に拙いというわけじゃない。
強いて言えば、西軍のミスは信頼できる兵力をあちこちに散らしたて
決戦の場に呼び戻せなかった事と、決戦を急ぐあまり、事前協議が
不十分だった東軍っつー事位だ。
当然これは、攻勢の東軍が主導権を握った結果。
>>541−542
回答サンクス。総大将の毛利が動かなきゃ他は動けないってことね
なんとなく囚人のジレンマ思い出したw
545 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 01:58:52
TBS関ヶ原の加藤剛はカッコいいなぁ。原作よりもはるかに光成がカッコよくみえる。
江守徹なんかよりはるかにいいね。
最近光成は神君考の反動で美化されすぎって気もするけど、実際どの程度の野心があったんだろうね。
>>540 すでにお二方が当日の状況を説明してるようなので、もっとさかのぼって。
三成のすごいところは、大坂に集まった上杉討伐軍の諸将を、家康討伐軍に変身させてしまったことだ。
これによって、謹慎した一奉行にすぎない三成が、家康を超える兵力を動かすことができた。
が、これ自体が最大の弱点でもある。
三成は謀反人を上杉から家康にすり替えることで、この離れ業をやったわけだが、当然突然の展開に諸将は動揺した。
諸将の目標・利害・正当性が統一されぬままに、豊臣政権筆頭の家康と合戦・・・
結果、西軍に属した諸将は自己の判断でばらばらの行動をとってしまった。
547 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 05:11:29
>>539 浅野がないね。外様じゃないってことか?
戦国自衛隊・関ヶ原の戦い
「完結編〜愛する者のために死す
命を賭け隊員の運命!石田三成になった男の愛と野望!
裏切り略奪亡父を待つ幼女を犠牲にする非情戦乱を生きろ!号泣衝撃ラスト」
戦国自衛隊・関ヶ原の戦い
http://www.ntv.co.jp/sengoku/ 第一部 1月31日(火) よる9時放送〜
第二部 2月 7日(火) よる9時放送〜
役名 ………… 配役
伊庭明義(3等陸佐) ………… 反町隆史
嶋村拓也(3等陸佐) ………… 渡部篤郎
徳川家康 ………… 津川雅彦
本多正信 ………… 長門裕之
石田三成 ………… 竹中直人
島 左近 ………… 松方弘樹
小早川秀秋 ………… 藤原竜也
豊臣秀頼 ………… 杉村怜音
549 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 17:39:18
西軍勝利の場合、上杉は
戦前の会津・米沢・庄内・佐渡120万石のほか
自力で滅ぼすであろう最上領、
さらに旧領越後の加増を受けて200万石くらいにはなるだろうな...。
上杉には、最上攻略など無理だよ。会津は伊達へ返還だろうし。
551 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 18:58:23
俺、厨房なんだけど今日社会で関が原の問題が出てきた時
三成が豊臣方って書いてあった。ほんとにテストを作るやつ頭わりーなと思った
歴史の問題って良く知ってるとときにくい。前も豊臣秀吉は本能寺の変後○○と倒して天下を統一したって
いう問題があったけど本当に分からない
答えは明智だったけど実際は北条とかだってある。
また楽市楽座、刀狩だって今川、柴田のほうが先だしほんとにむかつく
そういうときって間違っても良いから本当の答え書きたくなる
お前の頭がオカシイ
まぁ厨房なんてそんなもんだろうが
554 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 19:51:58
>>551 中間テストとかなら
問題作った先公が各教室回って
質問受けつけるだろ?
カッコつけたいならそん時にそーゆう質問すればいい。
そんなんでイチイチ点落とすなどマヌケだ。
しかし次回から意地悪く
>>551にも分からんような知識の出題とかしそうだ。
まあ、歴史に興味が無い頃の俺など石田三成と明智光秀を混同していたわけだが
556 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 20:11:34
別教科の先公が採点手伝ったりして
「西軍の総大将」を
石田三成と書いたら○、
毛利輝元と書いたら×だったりしたらさすがにゴルァ!もんだが。
そういや、俺も歴史に興味ある香具師にはややっこしい問題なんかあると
答案用紙の余白に系図書いたり
「こいつ?orあいつ?」みたいな答え書いてみたりとか。
変に知識ひけらかすガキみたいな感じ。
>>540 というか、西軍は陣地によっていたから戦闘では優勢だった、
つまり、東軍は西軍の陣地に攻め寄せてているという状況だったということ。
その状況を傍から見れば、またその実際の内容も、
到底西軍優勢とは言えないものだったと思うよ。
>>537 やっぱり、宇喜多家の家中がぼろぼろで本来の力が出せなかったのが痛かったのでしょう。
関ヶ原の戦いのほんの7・8ヶ月前にお家騒動を起こしたばかりで、
家老級の主要家臣の多くは東軍についてしまっているような状況だったからねえ。
558 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 21:12:08
>>557 それでも、小早川の裏切りさえ無ければ
東軍に秀忠が到着するまでは、西軍が奮戦していたかな
いや、三倍もの兵力を持った敵の猛攻に晒された
石田隊の防衛線が突破されるのは時間の問題だと思う。
そうなる前に宇喜多が福島を蹴散らしてしまえば何とかなるかもしれんが、
宇喜多勢の実情は
>>557が言うとおりだからねえ。
560 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 21:41:35
小早川が裏切ったから東軍が勝ったというより、東軍が勝つから小早川が裏切ったというようなものだね
>>555 俺と一緒だw 漢字もぜんぜん似てないのになぜか混同してた時期が
あった。興味を持ち出してからそんなことはないけど。
>>559 でも一時的とは言え三倍もの兵力の猛攻に耐えたのは凄いよな。
関ヶ原の激戦区は間違いなく石田隊陣地近くだったわけだし。
そこは確かに三成をほめるべきだと思うよ。
ぶっちゃけると石田周辺は兵でごったがえしていて東軍はまともに動けなかったんだよ
側面に回りこんで石田隊先鋒の島左近を銃撃したり、
盛んに機動していますがね。
それ最初じゃん
時間が経つにつれどんどん動けなくなるんだお
戦っていた兵力は変わらないのに、
途中から兵でごったがえすってことはないだろう。
藤堂・寺沢・京極等って本格的に戦闘に介入する可能性はなかったのかな?
藤堂と京極は大谷たちと、寺沢は遊撃で、戦ってたんじゃないの
藤堂は大谷にコテンパンにされて後退を余儀なくさせられておりました。
571 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 00:07:37
ま所詮は藤堂・京極だからねェ・・・
家康は福島隊が苦戦しているのには動揺したが、藤堂・京極隊が苦戦した時は・・
「藤堂・京極などは初めからあてにしておらぬは!!!」
とか言ってたそうだ。
572 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 00:08:53
東軍の部隊が混雑しているのを利用して、西軍に起死回生の奇策は無かったのか?
573 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 00:21:44
>>572 そこで 松尾山の小早川と南宮山の毛利&吉川の投入!…のはずだったのだがorz
575 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 01:05:54
>>570 藤堂家もそのとき旧家臣と新家臣でもめてたんじゃなかったかな
それ違う大名だっけか
576 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 01:09:05
新家臣と旧家臣でもめると弱くなるのか
ヘリコプターで最初から家康本陣を空爆してたら勝ったのに
578 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 01:14:08
579 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 01:29:02
弾切れで結局・・・
580 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 01:36:39
宇喜多がお家騒動にならずに、優秀な家臣団引き連れてたら福島隊を撃破出来たかな?
宇喜多がお家騒動にならない状況が想定できないのだが。
あれは家臣団の対立というよりは、もうはっきりと秀家含む在坂衆vs国衆だし。
例えば秀家ではなく直家だったらそんな問題は起こらなかったろう、
しかし秀家と家臣団が苦楽を共にした期間がほとんど無い上の、秀吉による在坂義務化だからね。
国元がなんなのかわかっていなかった節もある。
お互いに顔の見えない相手同士で信頼関係もない、そして利害の対立、と。
秀家が秀家であり、大坂詰めである以上起こらざるを得ない問題だと思うよ。
582 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 05:21:42
あれは秀吉の外様弱体策の一環だろうな。
しかし、歴史の皮肉や恐ろしい。徳川と戦ってくれる部隊の弱体化になってしまったんだからな
そういう事になるな。そういう意味で言えば小早川秀秋だってそうだしな。
>>581 宇喜多騒動は、地方豪族の寄合い所帯的な戦国大名から近世の中央集権大名国家になる過程
で豪族出身の家老達が自分の利権を維持しようとして起こった対立です。
ですからどこの大名家でも起こりうる事態なのです。
問題は近代化(中央集権化)を推し進めたのが豊臣派遣の人物だったと言うことですね。
ただ一つだけ言えることは、騒動後の宇喜多家は信長軍の様なシステム的軍隊を維持できる力
を持ち、明石と言う優秀な人物に指揮された強力な戦力になっていたのも事実です。
惜しむらくは兵数と明石を補佐する下級指揮官の質を欠いていた事でしょうか?
もう少し時間的余裕があれば、良い軍隊になれたはずなのですが。
>>564 陣場野と石田隊の場所からみて、石田隊に相当の圧迫加えてるよね〜。
ここまで来ると、石田隊を褒めるべきか、東軍(徳川本体も含んじまう)のだらしなさを
責めるべきか分からなくなる。
>>582 外様どころか準一門弱体化じゃねえか?
586 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 14:25:23
「島津奔る」では
黒田や細川が猪突パー的に描かれてたり
宇喜多のお家騒動は不平分子取り除けてウマーみたいな
描かれ方してる。
岡や戸川らが除かれるって大きな損失だと思えるけど...。
587 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 14:35:52
団結力が高まったという見方もできないことはない
確かに一枚岩になったとみれるか、好意的に見れば。
>>584 つまり、在坂衆の莫大な濫費を支えるための重い負担を国衆に課したり、
先祖伝来の宗派の改宗を迫ったりするのが中央集権国家になる為には必要なんですね?
しかも豪姫付きの家臣ばかり重用して国衆を軽んじる、側近政治も必要ですか。
中央集権への過程というよりは、秀家の所為だろ。
あと、宇喜多勢が精強と言われますが、
実際に一進一退の攻防を繰り広げたのは宇喜多勢の2/5、兵数6000の福島勢なのはどういうことでしょうか。
>>588 そういうスキャンダル系の話は眉に唾つけて読んだほうがいい。
改易になった後、面白おかしく脚色された可能性があるからな。
確かに、近世大名に脱皮するために出血をともなうことはままある。
佐竹家では秋田に行った後、謀反疑惑で重臣の誅殺・若返りが行われた。最上家のお家騒動は失敗パターンだな。
同じようなことが宇喜多でも起こったのだろうが、秀吉や家康の意図的な介入のせいで、騒動は宇喜多の屋台骨を揺るがす事態にまでなったと思う。
>>588 宇喜多家の財政圧迫の主たる原因は、度重なる出兵と豊臣家の普請工事費捻出のためです。
まぁ在坂家臣の浪費もあったかもですが…
秀家が必要以上にがんばったから金の浪費につながったわけですが、それとは別に豪族家臣のリベート
問題があります。
彼らにして見れば自領はいわば自分の国なのです。そこでどんな税を取ろうが自分の勝ってみたいな。
これでは宇喜多王国としてはなりたちません。
また軍役に置いても秀家は命令ではなくお願いと言う形になります。
宗教にいたっては、流石にかの一向宗みたいじゃなければ、自由を認めるべきかとは思いますが…
要は「俺たちが大将のお願いに答えてやってる」みたいな部下(しかも強力な力を持つ)がいては近代国家
としては成り立たないのです。
>>590 連続カキコすまん。
上で述べた様な状況は、中世形大名にはさけて通れない道なのですが、探題職の家系とか歴代守護職を
預かる家計みたいな、いかにもな成り立ちの大名であればともかく、親父はただの地方豪族な宇喜多家では
なかなかに難しいものだったのでしょう。
本来ならゆっくり事を進めるべきなのですが、秀吉の贔屓もあって、豊臣&前田家臣のてこ入れがなされます。
彼ら在坂家臣が物事をわきまえた人物だったらよかったのですが、地方武士をバカにした対応と強行
手段を取ったがために、お家騒動にまで発展したのだと思われます。
秀家も面識の好きな井家老衆に対し、天下人で第二の父親とも言うべき秀吉が絡んだ家臣に傾倒したのも
問題だったのでしょう。
ただじゃまな物はすべて排除するは、ベストかどうかはともかく物事の解決手段の一つですし、
騒動後の明石の活躍とも相まって、宇喜多家の財政再建や中央集権化は急ピッチでなされたのも事実なのです。
まぁそのツケが軍事的人財不足として響いてきたはいるのですが、当時日本は安定期にあり、軍事を後回しに
出来たはずだったのですよ。 関ヶ原で宇喜多戦力の半分しか活躍出来なかったのは、この人財不足が原因ですね。
>>588 一枚岩になるといっても、
主要家臣が抜けてしまっただけだから、単純に弱体化と言っていいでしょう。
少なくとも数年前にそういう騒動が起こったなら、
まだ新体制を固めることも出来たかもしれないが、
関ヶ原が起こったその当年にそんな事を起こしてしまっているようでは、
幾らなんでも時間がなさすぎ。
実際宇喜多勢は、先鋒の明石隊が壊滅した後の攻勢は先細りだったらしいな。
小早川の裏切りばかりがピックアップされてあまり注目されて無いが。
594 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 00:03:43
十二国記の陽子が東軍を率いていたら、結果はどうなったと思う?
>>593 本多正重もいませんでした?活躍・・・・してなかったのかな。
もし西方が勝ったら各大名への西軍勝利時の公約はどのくらい守られたのだろうか。
599 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 21:23:10
福島隊は、なぜ兵力が三倍もある宇喜多隊を相手に善戦できたの?
600 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 21:24:07
>>599 宇喜多がお家騒動のお陰で弱体化してたから。
601 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 21:25:44
>>600 宇喜多隊の戦闘成績が悪かったことも、西軍の敗因に直結しているの?
602 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 21:28:30
>>601 宇喜多が福島隊を蹴散らしていれば、西軍左翼の援護に周れただろうから、少なからずは関係してると思う
603 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 21:34:39
>>602 宇喜多が福島隊を蹴散らして西軍左翼を援護できていたら、形勢逆転に至っていたの?
604 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 21:40:05
>>603 そりゃあ石田隊は細川、黒田、嘉藤など自軍の三倍もの東軍を相手に奮戦してたからね。
最終的には崩れたけど。
逆に奮戦していた分、宇喜多も加わればまあまあいい線行ったかも。
605 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 21:42:15
>>604 反対に、東軍は福島が崩れたことで動揺するのでは?
606 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 21:44:53
>>605 そのまま放っておけばかなりやばいことになったでしょうね。
その場合は予備として控えていた家康本隊3万を動かすしかないと思う。
もしそうなれば東軍にももはや余力はないから、
それこそ本当に小早川隊の動向が東西両軍にとって勝敗に直結することになっただろう。
608 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 21:51:52
>>607 小早川に裏切られなければ、西軍のほうが優勢になるだろうか?
>>608 宇喜多が福島隊を撃破して、その上小早川まで攻めてきたら、
という話なら、それはさすがに東軍不利でしょう。
小早川がどちらにも動かないという場合なら、それでもやや東軍有利、
ただし日没までに決着がつかず、長期戦になるという可能性もあるとは思う。
610 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 22:02:41
>>609 小早川が動かなくても、東軍も決め手がないから簡単に決着はつかないと思う
兵力で圧倒しているから、
西軍が敗れるのは「時間の問題」でしょう、
問題はその時間があったかどうか。
まあ、小早川が西軍を攻撃した段階で正午、
日没までにはまだ4・5時間はあったと思うから、
そのまま小早川の裏切りなしで推移しても、
結局西軍は支えきれなかったでしょうね。
実際石田隊は小早川裏切り前の段階でかなりやばい状況だったし。
612 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 22:14:10
>>609 日没になった場合南宮山の連中はどうなるんだろう。
空弁当の手はもう使えないだろうしなぁ
宇喜多が福島隊を撃破したところで家康に和議を申し込めば、受け入れられたかも?
>>613 戦闘中にそりゃあどう考えても無理だろう。
617 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 22:24:39
小早川が裏切っても、南宮山の連中に背後を奇襲されたら
一概に東軍が有利とはいえなかったのではないか?
そりゃ、どの時点でも南宮山の連中が裏切ってたら、徳川は大ピンチだよ。
抑えしか残してない背後を数万の部隊が突くわけだから。
619 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 22:35:16
小早川が裏切り⇒西軍主力が総崩れ⇒三成敗走
ところが、そのあと・・・
吉川が内通を反故⇒南宮山の連中が家康の背後を奇襲⇒家康本隊も総崩れ⇒家康敗走
こうなっていれば、両軍とも総大将が敗走する前代未聞の珍事になっていただろうね?
輝元って大阪城内の内応組が恐くて動かなかったんでしょ?
一族の者を大阪に置いて自らが関ケ原に向かえばよかったんじゃね?
それで、残した連中に大阪城と秀頼を乗っ取られたら、それでお終いだぞ?
賊軍にされちまうじゃないか
本家が出兵してるならさすがに裏切れないんじゃね?
623 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 23:35:41
それにしても、西軍も東軍も「小早川裏切り」までに脱落する1部隊も出なかったかが不思議でしょうがない。
西軍で言ったら小西行長隊
東軍でいったら、京極高知隊 これらが崩れなかったのはすごい
624 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 23:41:08
>>619こういう状態ね。
小早川秀秋 石田三成 東軍諸隊
■■- □- -■■■■■
-■■■■ -■徳川家康3万-□毛利秀元1万5千(奇襲)
625 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 23:57:49
>>624 東軍が優勢に見えるけど、どうなのかな?
626 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 00:04:04
>>625 東軍は勝った気でいて背後なんて警戒すらしてないとしたら・・・・・・・
全く警戒していない軍の背後を襲えば、流石に首を取れなくても、本陣わ崩せると思う
627 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 00:06:00
>>626 それで、家康を敗走させる事態になれば
両軍とも総大将が敗走する結果というのもありえたわけだね?
628 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 00:11:28
おまいらは毛利に期待しすぎだよ。元就が死んでからの毛利家は大所帯ゆえの内紛で、足元ぐらぐらだぞ。
家康の背後にいる吉川とエケイ自体、家中の主導権を巡って対立してる。
エケイとの対抗上、吉川は意地でも動かないだろうし、エケイもそんな状態では動けない。両者が動かないのに、秀元が独断で動けるはずもなし。
友軍の長曾我部も、隣が不穏すぎて出撃なんか無理だしな。
輝元はそういう家中の分裂があったから、自身が大坂に残るしかなかったのだ。
毛利秀元もそこまで馬鹿じゃないだろ。
あの位置なら戦況がよくみえているはず。
西軍総崩れなのにその時点でなぜ毛利だけ動かなきゃならんのよ。
631 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 00:16:21
632 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 00:16:33
633 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 00:18:38
関ヶ原の戦いで、小早川が裏切る前に、
毛利元就が降臨したら何するかなぁ?
というか、小早川もエケイも、秀吉に独自の所領を貰ってるんだよな。だから独立した大名と言える。
つまり、毛利の軍勢と言われているものは結構複雑なわけだ。
いうなれば、毛利派諸大名連合軍。小早川なんて毛利派ですらないか。
635 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 00:23:45
天満山・・・宇喜多秀家の代わりに、宇喜多直家
松尾山・・・小早川秀秋の変わりに小早川隆景15600
南宮山山麓・・・吉川広家の変わりに、吉川元春3000
南宮山頂・・・毛利秀元の変わりに、毛利元就15000
南宮山南・・・長曹我部盛親の変わりに長曹我部元親6600
636 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 00:26:59
石田三成>
島津義弘>
小西行長> (東軍) <吉川元春・毛利元就・ 長曹我部元親
宇喜多直家>
大谷吉継> 小早川隆景>
確か、小早川秀秋って秀吉に領地を召し上げられていたけど、
死後家康と高台院に阻止されたけど・・・。
代官は三成が濃厚だったので相すれば筑前兵は完全に三成
が使える兵力だよな?
638 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 00:32:45
西軍 東軍
宇喜多直家 黒田孝高
小早川隆景 細川藤孝
吉川元春 筒井順慶
毛利元就 池田恒興
長曹我部元親 浅野長政
639 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 00:36:54
>>637 もし使えると仮定したら、小早川秀秋が名島35万石なので35×300で約10000
+近江佐和山19万石なので10000+6000
よって三成の総兵力は16000
三成本隊が10000を率い 島左近・蒲生郷舎3000ずつ
640 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 01:06:26
>>639 そうなると石田隊がかなり充実してくるな。
黒田、嘉藤、細川ともいい勝負だな
641 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 01:25:46
兵といえど雑兵
関係ない質問で悪いんだけど
井伊・松平隊って開戦直後に宇喜多隊襲撃したあと
島津追撃までずっと控えだったの?
そうなると家康は直属の三万の他に八千近い
予備兵力があったってこと?
643 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 01:41:47
>>640 不確定要素が強く、尚且つ戦闘に参加していない小早川隊の15600より、
実際に戦闘に参加している石田隊16000の方が遥かに計算出来るってわけだ。
644 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 02:03:51
十二国記の陽子が西軍を率いていたら、結果はどうなったと思う?
>>633 何も変わらない。
何故ならば元就の真骨頂は戦の下準備だから。
西軍決起前後なら職人芸を我々に魅せてくれる!
兵「申し上げます!吉川が裏切りました!
騎馬およそ五百、南宮山を降り我が陣へ向こうてまいります!」
家康「迎え討たん」
忠勝「殿、ただちに陣払いを!山内、浅野、有馬らの軍勢も吉川に同調し、
こちらに押し寄せて参りまするぞ!」
無念…
勲功武将 佐備:小早川秀秋
(吉川より一早く大谷隊に切りかかり、浮かれていた敵将三成の首をもとる。
筑前福岡74万石の大守(゚Д゚)ウマー )
>>620 多分内応組みの兵力を恐れたというよりも、その政治的な動きを警戒したのでしょう。
もともと内応したり親家康だったりするのは、秀頼側近の片桐や五奉行の増田と、
その軍事力よりもその地位ゆえの政治的影響力のほうが重要な連中だし。
それらの政治的な動きを封じ込めるには、
こちらもただの兵力ではなく、大老という権威が必要だったかと。
人取橋の戦い ○伊達軍8千 対 ●佐竹・蘆名・畠山連合軍3万
反伊達の連合軍は数に任せて攻め込んだ。政宗はこの報に接し、最上に対する押さえに2千、大崎に対する押さえに3千人を配し、総勢8千人を率いて布陣した。
政宗、成実らの奮闘によって連合軍は本陣を抜く事が出来ず、伊達軍は圧倒的劣勢の中から持ちこたえた。
この戦いは政宗生涯の戦いのうちでも激闘をもって聞こえ、彼の武名が高まり、伊達氏の運命を大きく開いた戦いであった。
窪田の戦い ○伊達軍6百 対 ●佐竹・蘆名連合軍4千
佐竹義重と蘆名義広に加え、これに白河氏や二階堂氏が加わり、4千人が安積郡に侵入した。
政宗は大崎や最上などへの備えのため、六百人の軍勢であたらなければならない劣勢であった。
政宗は伊達領最南端の郡山城と窪田砦で連合軍の侵入を阻止しようとし、両軍が激突、連合軍が2百人程度の犠牲が出たのに対し、伊達軍は6十人程度だった。
伊達軍は劣勢の中持ちこたえ、40日間の持久戦のすえ和議が成立した。
摺上原の戦い ○伊達軍2万3千 対 ●蘆名軍1万6千
緒戦は蘆名勢優位のうちに進んだが、伊達成実の側面攻撃によって形勢は逆転。
伊達軍の厚い壁を破る事が出来ず、蘆名軍は敗走。蘆名軍は死者2千という大被害を出し、蘆名義弘は佐竹家へ逃亡。
南奥羽の雄蘆名家は滅亡する
童生淵の戦い ○伊達軍 対 相馬軍
相馬勢は当主義胤の弟隆胤を始め多くの家臣が討ち死にするという大敗を喫した。
その後、この戦いは豊臣秀吉の総撫事令により戦いは止まることとなった。
なお、以後戊辰戦争まで駒ヶ峯が伊達氏と相馬氏の藩境となり、駒ヶ嶺以北の現在福島県新地町は伊達領となり、この戦いの影響が大きかったことが分かる。
白石城の戦い ○伊達軍 対 ●上杉軍
伊達軍は首級7百を上げ、わずか1日で白石城を落とした。
長谷堂城の戦い ○伊達最上連合軍 対 ●上杉軍
伊達と最上の巧みな連帯により、直江兼継は城を落とせずに撤退する。
西軍についた上杉は大幅に減封され、伊達と最上は大幅に加増された。家の命運を分けた戦であった。
大坂夏の陣 ○伊達軍 対 ●豊臣軍
騎馬鉄砲隊によって後藤又兵衛と薄田兼相は戦死。政宗はやはり生まれてくるのが遅かったのだろう。
むしろ遅かったから生き残れたとも
早ければ上杉、北条、武田、織田、今川・・・・・。
とても京まで行けないYo!
650 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 13:34:22
>>649 全部と同時に敵対する必要は無い
たとえば上杉と武田は敵対関係だから、一方と共闘して他方を攻略する方法もある
上杉や北条以前に、
10年早く生まれると蘆名の最盛期にぶちあたるんで、いきなり頓挫する可能性が高い。
あと輝元は地味に足元を固めていい具合で政宗にバトンタッチしてくれたことも考慮すべき。
652 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 13:41:28
>>646 東軍諸将は、家康を守ることより三成を攻めることを優先するだろうから
吉川の裏切り奇襲に対しては、徳川譜代の部隊だけで守らなければいけなくなるのだね?
653 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 13:42:59
むしろ、秀忠が暗愚だったら政宗に機会があったかもね?
654 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 17:21:07
政宗は天下は取らん
世の流れをちゃんと読んでいるから、無茶はせずに大大名として君臨する
655 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 17:30:25
豊臣政権下での家康みたいにか
そこまで大大名じゃないがね。
正宗の器量は多分最大150万石までだろうなあ。
あのちょっかいをすぐ出したがる性格から想像するに
大所帯になると動きたくても動いてはいけない状況が
あることに適応できまい。(特に若いうちは)
政宗本人も政宗ファンも
25歳の時点が人生最盛期だということを理解しようとしない。
25歳であそこまで行ったんだから・・・と
その後の成長を水増しで考えるから天下取れるとかいう話になるけど、
摺上原が政宗の全盛期で、あとは余禄みたいなもの。
大体が、奥羽の大名にしては派手好き、先進的というのが最大の強み。
奥羽で似、三百万石を中世と近世との中間くらいの支配体制で
従える器量は合ったかもしれないが、天下までは至らない。
天下をとる人間が伊達家から生まれたとしても、政宗の孫あたりになる。
どの道、奥羽はあらゆる点で50〜100年遅れていたからしょうがない。
659 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 22:24:22
信長の器量だって、本能寺の変が起きた時点の領地で限界に達していたのではないかな?
>>658 そりゃ「絶対に天下取ってた」なんて言ったら言い過ぎだろうが、
「摺上原が政宗の全盛期」というのもまた根拠薄弱だな。
「あらゆる点で50〜100年遅れていた」だなんて、そんな歴史の平行移動みたいな現象あるわけないだろ。
661 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 23:15:10
政宗がそこまで阿呆なら外様のくせに副将軍格にならない
>>660 所領的にはまちがいなく全盛期だな。
なんかね、政宗って、
「俺って高校時代の模試で全国3位だったんだぜ」と一生言い続ける
地方国立大学→地方公務員(まあまあ勝ち組)のような気がしてならん・・・。
というか、関が原のときの対応で政宗の限界は明白じゃん。
彼はこの戦が天下を決するというところまでは読んでいた。だけど特に何もしていない。
津軽為信なんか、領国ほっぽり出して、中央に出張ってるはず。田舎の争いなんか意味がないと見抜いていた。
その行動力と思い切りのよさ、政宗にはなかったようだな。
さらには、片倉なんか「上杉と最上を戦わせて漁夫の利を」とか言い出す有様。
伊達家の天下は東北で止まってるってこった。
本気で天下を狙った人物なんてごく僅かってことだな
東北じゃなくて、中央に近くて、
間近で信長や秀吉の動きを見ていれば、もっとビッグになれたかもな。
それくらいの器のでかさは感じるけど、確かに関が原の対応には限界を感じるわな。
結局、野望が己の領地を拡大したいという以上のものにはならなかったと。
惣無事令が出ているのを判っていて葦名攻撃。
豊臣の配下になってからの葛西・大崎一揆。
関が原での和賀一揆。
むしろ、政治的な状況を理解していないんじゃないかと思わなくもない。
「二十年遅く生まれた戦国大名」ってのは言いえて妙なのかもしれん。
667 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 02:30:28
正直、蒲生氏郷と政宗、どっちが器量人だったんだろうな。
しかし現実問題伊達の作戦としては対上杉攻撃で別に間違っちゃいないと思うが。
いったいどうせよと?
政治的状況がわからないわけでもないのに
諦めが悪いというか、セコイというか
器量が実力と比べて矮小なんだよなぁ
後知恵でなら何とでも言えるし。
波風立てずに小さくまとまるよりは
勝算が低くても、高い方のオッズにかけてみる、と言うのも一つの考え方だと思うよ。
張らなかったら博打にもならない。元々出遅れてるんだし。
>>668 上杉攻撃でも間違ってない。
問題は、政宗がかなり曖昧な態度をとっていたということ。
上杉とともに徳川に喧嘩を売るか、黒田官兵衛のごとく独自の天下を目指すのか、隣の最上義光のように徳川政権下での大大名を目指すのか。
政宗はそういった重大な決断に迷い、上杉と和睦したうえ、一応最上にも後詰めを出し、一揆を煽動して領地を横領しようとした。
迷うのは分かるが、やってることがどうにも煮え切らない。飛躍が無い。
おれは佐竹義宣と似た印象を受けるな。軸足が家康にあったか、三成にあったか。それぐらいの差に見える。
蒲生は関ヶ原まで生きてりゃ会津にいたわけだからなぁ。
利家シンパだったんだよね。
自分は、反徳川で結託しようと言う腹案があったが、交渉が不調で開戦してしまい、
事態の収拾を図っているうちに終わってしまったのではないかと思ってる。
戦略不在と言うわけではなく技術的問題だったと。
674 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 04:20:58
>>671 そこで思い切った決断をして裏目に出たら、後世小早川秀秋と並べて語られたりしちゃうんですけどね。
結果だけを見てどうこう言う人って多いもんね。
すごいぞすごいぞと言いつつ、
この期に及んでやっていることが和賀一揆程度で
しかも大失敗しているところが痛い。
>和賀一揆程度でしかも大失敗しているところが痛い。
はあ? 意味がよくわからん。上の政宗の人物評も的はずれだな。当時の武将間
では、景勝は一本気の武辺者、氏郷は名将で器量人。奥州仕置きの際に、氏郷を
手玉に取っていたのが政宗で、若いのに野心家かつ教養があってしたたかな世間師、
というのが秀吉や家康当たりの共通認識。特に家康の肩入れは相当なもんだったからな。
「遅れた奥州」云々と言っているのは、坂口安吾なみの馬鹿だね。
>>663 >というか、関が原のときの対応で政宗の限界は明白じゃん。
彼はこの戦が天下を決するというところまでは読んでいた。
だけど特に何もしていない。
小山当たりでの家康の基本方針は「奥州戦争の不拡大」方針。だから、
最上の援軍程度でじっとしていた。家康は、政宗に「あくまでも牽制役
に徹して、決して景勝を攻めるな」と繰り返して警告している。
「福島城」攻撃も1日で早々に引き上げているのはこのためだよ。政宗に
へたに動かれて、戦乱が宇都宮あたりに拡大するのが、家康にとっての最大
の懸念だったから。
政宗的には関ヶ原戦役で天下を取れるとは思っていないでしょ。
それは、上杉も官兵衛等も同じ。
望んでいるのは、関ヶ原戦役が長期化&泥沼化して戦国乱世時代に戻ってくれはしまいか?って事。
その際同盟を創るのなら徳川が良いと踏んで徳川についた。
泥沼化で徳川が奥州まで手を出せない様なら、上杉と同盟を組み直すのも良しみたいな。
伊達&上杉は過去も同盟してるしね。
その際の行動として官兵衛や上杉は軍事力を使っての行動に出たが政宗は裏工作に時間を
費やした。 それが良くも悪きも政宗流なわけだ。
679 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 11:32:09
一回の合戦で決着が付くとは思ってなかったかもね。
南北朝動乱みたいに長期化するのを期待してたのかも。
680 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 16:07:46
どっちかと言うと、戦う前に勝つ方策を考える謀略家だろうし。
関ヶ原終了後の感想は、勘兵衛やらと同じように「ちぇ、決着付いちゃったのか」みたいな。
つか、伊達に「上杉征伐、本気でガンバ!」なんて声掛けた日にゃ…
上杉征伐の拡大解釈して周辺一帯の大混乱を狙いかねん。
まあ本戦が一日で終わるなんて誰も予想してなかっただろうし、
家康が上方を発ってから、戻るまででも約三ヶ月しか無かったわけだ。
そこまでは誰も読めないよな。
上杉征伐が発起したときはまだ三成は挙兵してないわけで。
三成が何か狙っているのはわかってたとしても、史実のような規模での戦乱は、
通常の予測を超えたところにあった。
初めから全体を読み切ってた奴なんて一人もいない。
そうした中で機敏に戦略を修正していけるのが戦国大名の器ってもんだと思う。
少なくとも伊達家の置かれた情勢で、最初から方針決め打ちしてるようじゃ逆に小物だよ。
戦略家の政宗にとって、関ヶ原での狙いは何かといえば、家康へできるだけ
高く己を売っておくこと、それに尽きる。家康の次の座は、間違いなく
射程に入れていただろうから。
和賀の一揆策謀も、面白い博打だった。当時、南部利直は最上支援にきていた
ため、後方で一揆が起これば、領内は混乱に陥る。南部は当然対応できない。
それを、伊達が平定しておけば、戦後南部のみならず大御所へ恩を売ることも
できる。そもそも和賀は、奥州仕置きの際に、浅野長政が勝手に仕切って、南部へ
編入したもので不安定要因が高い。やはり、南部では実力不足、ここは伊達に仕置
きを任せようと、家康が了解すればしめたものだと、そんな計算もあっただろう。
ただ、1日で関ヶ原が終わったことでそのシナリオが崩れたわけで。
妥当徳川も視野には入ってたと思うぞ。
事態がそちらの方向に進まなかったので不発に終わっただけで。
徳川が潰れてくれた方がより飛躍できるし、
そもそも政宗はそういうの好きだろ。
しかし、和賀一揆といい阿曽沼といい
関ヶ原時の南武対策はみごとに北親子にしてやられているな。
和賀一揆のことだが、一般的なイメージでは関ヶ原の戦いの際に、政宗が
「思いつき」で、どさくさ紛れに和賀に挙兵させたことだと思われている。
ところが、南部に奪われた所領を回復しようと、政宗の保護を求めてきた
のは和賀忠親の方からで、その時期は慶長3年の春のことだ。
政宗は、この和賀を手駒として使えると考えて庇護し、策謀時期を虎視眈
々と狙っていた。南部の最上出兵で国境線が手薄になった慶長5年9月中
旬は最適の時期であり、ここでかねてからの計画を実行したことになる。
これは、伊達が支援しようがしまいが、あくまでも表向きは南部と和賀両者
間の遺恨戦争という形をとっており、それを伊達が収束させ、ひいては徳川
へ斡旋という手の込んだ謀略だった。
張本人を匿ってかつ挙兵の支援を行っている時点で「伊達が収束させた」なんて
とてもいえない。ようするにやっていることはマッチポンプじゃないか。
689 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/14(火) 10:27:05
伊達のマッチで尻に火のついた南部が慌てて帰った、と。
1日で関ヶ原が終わっていたから、ぼやで済んだ。
家康に感謝だな、>>南部(w
つか、そのどさくさにまぎれて南部は阿曽沼つぶして
岩手県内の勢力を増大しちまったがな。
伊達が火事場泥棒狙って、南部に全部かっさわれた感じだ。
691 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/15(水) 07:33:41
>>688 マッチポンプってのは、自分で火をつけて大騒ぎして消防車呼んで、
消火してもらう自作自演のことで、ちょっとたとえが違うな。
伊達がそしらぬ顔で、わざと乾燥したワラ(南部国境)へ火のつい
たタバコを捨てて成り行きを見守っていた。
この煙の臭いを嗅ぎ付けて大騒ぎをしたのが最上義光で、徳川という
消防署へ通報して、発覚したというのが顛末。
>>691 で、南部は火災保険で焼け太り。
最上義光は警察から表彰。
伊達は裏で手を回して起訴はされなかったけど、
睨まれて派手なことできなくなったヤクザ。
その、なんか騒動起こすんだけど、結果的に自らの首を絞めてる具合が伊達政宗って感じで好きだw
>>687 それがこすいって言ってるのよ。
そんな策謀、戦国時代の初期から行われてる。家康だって南部だって片腹痛いと思ってたでしょうよ。見え透いてて。
和賀一揆みたいな手が通用したのは、豊臣政権でもド田舎大名だけ。
田舎は地元に根を強固に張る大名が多かったため、ある程度のところは見逃されていた。
全国的な争乱を収拾した家康が、こういうのを見逃すはずがない。結果、伊達家の加増は微々たるものだった。
そもそも和賀一揆が成功したとしても、増える領地は南部と伊達の間のグレーゾーンだけ。
それが欲しいために、百万石をふいにした男が伊達政宗。小利に溺れる者はついに大利を逃す、てね
政宗のこすさは関ヶ原に始まった事ではなく、秀吉を無視して芦名を滅ぼした時や蒲生のときも同じ。
本庄にもひどい目に遭わされてるし…。
関ヶ原の一揆も、次の天下人は家康と定めて彼から百万石の約束を取りつけはしたけど、万が一家康が失敗or
泥沼化した時を考えて自国の勢力アップの一貫だったのでしょう。
家康がぐずっていたら、上杉の最上領侵攻につけこんで領土の一部をかすめ取とろうとして逆にに一括されちゃう
くらいはあったかもですね。
ただ他の大名が同じ事をしたら滅ぼされるか、今日のイメージダウンに繋がる様な行為でも許せてしまうのは
政宗本人の人柄なのか?とも思います。
軍事力でも用兵能力でも政治家としても一流じゃないけど、一流かもと思わせちゃう。
まさに伊達ものって言葉の通りなのかも。
>>694 >家康だって南部だって片腹痛いと思ってた
「片腹痛い」なんてのは、それは君の幼稚な主観だろう。両者にそんな
余裕などないよ。結果的に、徳川に対してブラフと脅威を与えることに
成功しており、戦後、政治的発言力が一層増しているのだから皮肉な話しだ。
無論、南部にとっては、悪夢と恐怖以外の何物でもなかった。怯えながら
公儀に訴え出たのが実情だろう。南部の場合は。
>そもそも和賀一揆が成功したとしても、増える領地は南部と伊達の間のグレー
ゾーンだけ。それが欲しいために、
和賀が支配しているのは「3万6千石」しかない。政宗は、特に危険を冒して
「3万6千石」の領地を奪いに行ったわけではないんだよ。そう見えるかなw
目的は、南部に不当に略奪されていた和賀の旧領の回復、すなわち和賀家の再興
支援だから。(意味わかるかな?)
>百万石をふいにした男が伊達政宗。
家康は単に、「覚」と書いているのにすぎないよ。それを素直に信じ込むほど、
政宗はお目出度い男でもなかったろう
>>695 >本庄にもひどい目に遭わされてるし…。
これじゃ、厨房の主張だろう。何、「ひどい目」って?
本庄が、いつ、どんな風に、伊達を「ひどい目にあわせた」か、
せめて5W1Hを交えて説明できなきゃ、説得力はゼロだよ。
これは、相当難しいから、君にはおそらく「説明できない」と思うが。
>軍事力でも用兵能力でも政治家としても一流じゃないけど、
一流かもと思わせちゃう。まさに伊達ものって言葉の通りなのかも。
「伊達もの」の定義間違ってるし。ま、厨房君みたいだから仕方ないかw
>>696 南部による旧和賀領支配は、秀吉つまり当時の公儀によって認められたもの。
不当に略奪?復興を支援?自分こそ何を言っているか理解してますか?
「覚」が信じられないからいろいろ策動して、結果すべてご破算。それが政宗。
しかも和賀領「3万6千石」をどうにかしようとして、何十万石の褒章をふいに。
この場合は毛利の口約束とは異なるのだから、政宗がやったことはみすみす家康
に約束を反故にする理由を与えたようなもの。バカだね。
>>698 >南部による旧和賀領支配は、秀吉つまり当時の公儀によって認められたもの。
不当に略奪?復興を支援?自分こそ何を言っているか理解してますか?
これは「認められた」とはいえないんだよ。君は何もわかってないんだね。
秀吉の奥州仕置とは、基本的には、小田原攻めに参加しなかった諸大名に
対して行われたものだ。(例:葛西、大崎家らの小田原不参人組。)ところが、
和賀は、名代を派遣し、秀吉に誓っている。にもかかわらず、奥州情況を
よく把握していない浅野長政の差配で、領地没収され、南部信直へ与えられた。
この結果、和賀は流浪の身となるが、和賀にすれば理不尽極まりない話だ。
彼を庇護したのが政宗であり、和賀家の再興をもくろむ忠親を「支援」した
という論理。
>「覚」が信じられないからいろいろ策動して、結果すべてご破算。
>政宗がやったことはみすみす家康 約束を反故にする理由を与えたようなもの。
政治的な駆け引きだし、「信じない」とは戦国武将、特に政宗のような野心家に
とってはとしては極めてスタンダードな行為だと思われる。
そもそも「100万石」の「覚え」の意味すら理解できていない。
ただの結果論なら、子供でも言えるよ。
で、本庄の件はどうしたの?w
700 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/16(木) 20:36:29
ポ舞らの意見を聞いてると・・・
家康が伊達政宗に100万石与える約束を守ると言う前提で話しているんじゃないかと
聞こえてしまう。
たとえ関が原で和賀一揆や上杉への対応などでへまをせずとも100万石が与えられる
はずもあるまい。上方の戦じゃない関東の後背を支える役割でしかない政宗に与える
には法外な恩賞でしょう。どうころんでも加増はある程度知れていたとおもう。
あの場所ではそんなもんだろう。
政宗が上方に手配りしておけばよかったんじゃないかと言う意見もあるようだが
関東の後背に政宗100万石という危なっかしい配置を、「徳川」がいつまで放置
するか考えてみてください。
家康の覚えめでたいことだけやって100万石まるまる頂戴できたとして
そっちのほうがよほど危険だということに
考えが及んでないよ。
家康が徳川に恩恵をもたらした福島や最上が大加増をうけた後日談を
見れば・・連中よりもよほど危険極まりないわな・・
実際大久保長安の件を考えれば、むしろ恩賞が無かったことが
最高の恩賞だったようなきはするな。
実際問題伊達政宗に100万石を与えるのが必定となる戦功を
考えなければいけない状況と言うのは
よほど徳川の勝利が危ないということで、そんな状況とあれば
逆にいえば和賀への支援とかは目をつぶる必要性がでるし、
和賀への支援は西軍勝利の際への布石と
することも出来ると思うが。
701 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/16(木) 20:39:37
>>695の文は、芦名と蒲生は伊達自身がやったことを書いているのに対し、本庄には逆に何かやられたというのが理解出来ない。
普通こういう書き方をするのなら伊達が何かした場合だろ。
日本語勉強して直して来い。
695の文が腹が立つのは、よく知りもしないで
和賀一揆のことなど論じていることだ。
まあ、アンチなんだろうが。
俺は695が、本庄の件をどう説明できるか興味があるけどね。
703 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/16(木) 21:32:38
695は逃げたようだな。
一揆と言うものが慶長の時代に大きな影響力をもっている時点で
「 遅 れ て る な 、 奥 羽 の 喧 嘩 は 」
と言われても反論できないシコルスキー政宗。
>>700 関が原で激闘やった者より、地方での戦乱を制した者のほうが加増は大きいよ。
これは戦後の論功を見ればわかる。理由はまあ色々あるだろうけど。
それに、福島潰しと最上お家騒動はまったく質が違う。大領を与えたから潰す、なんてことやってたら新政権の権威と信用が揺らいでしまうよ。
>>704 遅れている。これはどうしようもない。中央から離れてるからな。
一揆によって影響力を強めよう、中央への政治圧力にしよう、なんて発想自体が地方大名。
まあ、米沢に生まれ、人生の頂点は会津だ。それも仕方あるまい。
>>706 これだからお前みたいな馬鹿は困る。
戦国で活躍した大名はほとんど地方大名だろうが。
伊達・上杉・武田・毛利・島津などなど。
そもそも、人間の発想に中央も地方もそんなに違いなんかあるわけないだろ。
政宗が公家や文化人と親しかった事も知らないのか?
>>704 朝鮮出兵時、奥羽の伊達軍は兵站がしっかりしていて、
餓死者を出さなかった事で有名だけど?
中央の勢力は補給に苦しんだみたいだが。
文化や京との交流は その前後の時代に比べ 実は戦国時代の方が進んでいたという見方があるよな
>>707 ところで、「馬鹿の壁」という本はご存知ですか?
伊達、上杉、武田、毛利、島津・・・みんな田舎大名だと思うけど。
近畿や東海の大名のような政治組織は構築できなかった家ばかりだからね。
あなたは誤解してるのかもしれないが、おれは地方大名を馬鹿にしてるわけじゃないよ。
中世において、中央と田舎では文化レベルも政治レベルも違いすぎると言いたいのだ。それが当然であって、蔑視でもなんでもない。
おや、関が原とは関係なくなったね。
711 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/17(金) 00:39:14
六角とか畿内に居たけど全然駄目だったじゃん。
中央/田舎の対比ではなく、
100万石と200万石の間辺りにボーダーラインがあるように感じる。
単なる規模の問題というか。
規模が大きくなると近代化を図る必要性と余力の両方が生まれる。
>>710 織田や徳川も地方大名と言えると思うが?
結果的に大勢力を築いたから、中央の勢力っぽくとらえられるけど。
>>711 大友の例もあるし、石高ではないと思う。
今のように、情報が画一化された時代ではない。話し言葉は別地域と通じないような時代だよ。今よりはるかに複雑で多様な時代だ。
そういう中で、地域間の差は大きかったと思うね。
>>712 ん、中央って言い方がまずいかな。
いわゆる先進地域の政権だね。近畿や東海はこれ。農業や商業の発達、街道での流動人口の多さなんかが理由だとおも。
話し言葉が別地域と通じないと言う話は聞いたことがないな。
ソースは?
715 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/17(金) 01:51:50
田舎のお婆ちゃんの訛りが何を言ってんのか理解してあげられない
薩摩訛りはわざと解らなくしたと聞いた事があるが、東北訛り…ズーズー弁とか言われてるやつ
は素なんじゃないのか?
あれは何しゃべってるのか解らん TVやラジオがある現代ですら解らない言葉使うのだから、
昔はもっとすごかったんじゃないか? 当方大阪人です。
言葉の地域差は、一般に時代が下るほど大きくなる。
元は同じ言葉をしゃべっていたものが、隔離された状況で徐々に異なる方向に変化するためだ。
近現代に至って人為的に均質化させる動きも出てきたが、
基本的には古い時代の方が言葉の差は少ないはず。
718 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/17(金) 03:00:29
島津と南部・津軽とかが大坂嬢とかであってたら話が通じないんだろうな・・・
会話してる姿が想像できん。。。
719 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/17(金) 04:07:39
島津「・・・・・」
南部「・・・・・」
大阪嬢「・・・・・」
修羅場だなwwwwww
720 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/17(金) 04:08:53
池田輝政・細川忠興・藤堂高虎あたりは
中央出の大大名といえるんじゃないか?
出身がどの程度身代に影響したかはわからんが
あと蒲生もあてはまるか
721 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/17(金) 04:18:11
722 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/17(金) 06:53:44
伊達は、基本的に相手が老獪な徳川家康であろうが、一見丁重に臣従する
ふりをしながら、完全に独自に行動し主張している。
それに一揆を含め、「100万石のお墨付き」というのを誤解しているのが上
にいたが、(本庄が政宗を「いじめた」といった香具師)、この旧領回復をそ
もそも持ち出しているのは、伊達の方だ。
上杉征伐の準備で江戸に滞在中の家康に伊達の家臣の山岡重長が派遣された際、恩賞
条件として伊達が切り出した。実際の「100万石の覚え」が出たのは白石城攻略後。
政宗に実力で上杉領を切り取られ、既成事実化されることを畏れた家康が、ここにきて
慌てて持ち出したのだ。ただし「上杉攻めへの禁止」を条件にな。
伊達は常に傍観者を装っていたが、上杉が、伊達にみせた慶長5年〜6年にかけての怯え
ぶりは、傍目からも痛々しい。翌年、伊達がちょっと上杉の国境に出ただけでも、とんで
もない交戦記録が上杉方に残されていること等は、軍家の上杉が、いかに伊達に過剰反応
していたかの証だろう。
>>717 >元は同じ言葉をしゃべっていたものが、隔離された状況で徐々に異なる方向に変化するためだ。
なんで元は同じ言葉をしゃべってたと言えるんだ?
時代が下るほど交流が活発になって統一されてくんじゃね−の?
>>723 >なんで元は同じ言葉をしゃべってたと言えるんだ?
柳田国男の研究でも読んでからレスしろ。
>>724 アンタ頑張ってるようだけど…
政宗が関ヶ原の前後で判断ミスしたってのはどう考えても否定できんと思うぞ
100万石は空手形だったにしても、小賢しいことしなけりゃ前田位の取り分はあったろうに
奴が偉かったのは、野望潰えてからは川村孫兵衛みたいなのをヘッドハントして、
伊達家の近世大名としての体制を作り上げることに尽力したことだと思うが
それ以上に、徳川の幕藩体制が磐石になっていくのを見続けるのは不快だったと思うけど
花の大都会で暮らしていると田舎育ちが恨めしい、疎ましいと思いながら
自分の一番の売りは結局奥羽に土着したものから生まれる
ということを絶望と共に受け入れた東北人のさきがけ。
多くの東北人に支持されるのは、この矛盾した切なさ。
>>725 俺が書いた柳田国男読めと、政宗擁護はイコールじゃないよ。
つーか、このスレに来たの今日が初めてだし(w
政宗は典型的な田舎大名で、長宗我部元親と大差無いと俺は思ってるから。
>政宗は典型的な田舎大名で、長宗我部元親と大差無い
これには異議がある。
良くも悪くも、二人とも定型外の人物。
まあそんなことどうでもいいか。
伊達と長曾我部が似てるって、まるで司馬遼太郎ですね
730 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/18(土) 04:44:21
>>727 >政宗は典型的な田舎大名で、長宗我部元親と大差無い
と俺は思ってるから。
おまえが勝手にそう勝手に「思ってるだけ」だよ(w おそらく、坂口安吾
的にな。ただの居酒屋で愚痴る 親爺のネタにしか思えない。その「大差」を
説明して欲しいもんだな。上で、本庄繁長が「政宗をどういじめたんだ?」
と突っ込まれて、答えられずに、尻尾を巻いて退散したのがいたのが、
おまえも一緒だな。ま、馬鹿っぽいおまえには無理だろうが(w
731 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/18(土) 05:00:18
しかし関が原なんて純粋に盤上の戦力と配置を見たらどう考えても
西軍が勝つだろ。人間的な連携や交渉術などの差で東軍が勝っただけで。
つまりこれを論じるって、交渉術の差を論じるだけのような気がして
そんなの結論は出ないんじゃないの?
732 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/18(土) 06:42:20
関ヶ原に明智光秀の息子が従軍してるって本当ですか??
>>731 それを言っちゃお終いよ。
戦術面ではともかく、戦略面では西軍は家康に到底及ばなかったんだからな。
俺はいい勝負だったと思うけどね。
むしろ、駄目な子も自分の力を妄信すればいい勝負は出来るけど、
結果はやっぱり負けるのでサラリーマンはリストラされても
起業は考えず、給料が下がっても再就職を考えたほうがいい、という教訓だと思う。
736 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/18(土) 12:24:01
>>730 、の打ち方が変だぞ
どっちも馬鹿っぽいが、お前の文のが馬鹿っぽい
>>736 2chで誤字訂正する馬鹿。これを馬鹿の2二乗という。
論理で説得してごらん?
本庄はいつ、どこで、政宗をいじめられたのか?
あれ、虐められたんだっけ?w
>>732 織田有楽斉なら出てたらしい。
信長の一族が出てたのは驚いた。
>>738 兵数450人らしいから、たいした意味はない。
>>739 蒲生頼郷を倒したのは織田有楽斉の部隊。
有楽が初めて武名を上げた。
有楽は有名だが、織田信高(信長の七男。信成君の御先祖様)は西軍に属していた模様
黄衣衆とともに笹尾山近辺に居たみたい
742 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/18(土) 18:26:16
島津だって別にいてもいなくても変わんなかったじゃないか
744 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/18(土) 20:00:55
>>737 どういう意図で熟語ごとに「、」打ってるんだか論理的に説明してみろよ
文を打つときのお前の息継ぎか何かか?
誤字以下だから指摘されたんだろ。どうやったら間違って「、」打つんだよ??
確かに
>>730は酷い文章だけど、誤字なんて
>>736で指摘も訂正もしてないだろ。したのは誤用の指摘だ
それとも文盲なのか?
しかも誤字の意味が分かってないのが伺える。やっぱ文章通りに馬鹿だったか
・お前の義務
前半から後半への意味不明な繋がりの意図と、後半の文に見当外の俺が答える義務を論理的に説明しろ
最後に質問だが、何で君の文章はそんなに支離滅裂なんだ?
まぁあれだな。ムキになるな。ネットで小馬鹿にされて腹が立つ気持ちもわからんでもない。
ここはひとつ大人になるべし。それができなきゃさんざん罵って書き逃げ。もうこのスレ見ない。コレオススメ。
はいはい、皆さん喧嘩しないで仲良くして下さいね。
秀吉の巧妙な大名配置により、力を相殺された奥州の大名は誰も活躍する事が出来なかった。
石田三成は、豊臣秀吉に敗れたと言っても過言ではない。などと断言する三戦クオリティ♪
747 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/18(土) 20:48:55
>>744 必死さが哀しい。図星を指されて真っ赤になっている。
おまえはそもそも馬鹿だから。そうムキになるな。 (w
「馬鹿馬鹿言う馬鹿、己の馬鹿知らぬ馬鹿」
傍観しててふと頭に浮かんだ。
このスレで
>>744の馬鹿さ加減が突き抜けてるから、
客観的に指摘されているだけ。他意はない。
さて、そんなことはどうでもいいから、
蜂須賀隊と生駒隊の関ヶ原の兵力教えれ。
特に生駒は何していたのか動きがさっぱりわからん。
751 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/18(土) 22:17:51
徳川家康の動員可能兵力は7万5千であり、毛利輝元の動員可能兵力は3万6千であるから
この時点で、最初から西軍は不利だったのではないか?
752 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/18(土) 22:58:46
>>747 反論出来なくて自演か(苦笑
やっぱ馬鹿だな
753 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/18(土) 23:12:06
関ヶ原に光秀の息子が出陣しようとしてどっかの川で溺れたというのなら聞いた事ある。てか後北条の一族も何気に関ヶ原にいるよな
>>751 単純に徳川家単体の関ヶ原時の石高だけで言っても上杉+毛利ぐらいあるからねぇ・・・
毛利の場合もともと一族で一塊と考えられていた。
毛利輝元 120万石 36000
毛利秀包 13万石 4000
吉川広家 14万石 4000
安国寺恵瓊 6万石 1800
小早川秀秋 36万石(52万石) 15000
で、本来200万石、6万以上の動員ができる一族。
で、小早川家が毛利一族から完全に外れてしまった。
結果としては西軍総大将の力をそいだのは秀吉と言う皮肉な結果に。
吉川って大名?陪臣?結構あいまいになってると思うんだが
日本戦史の大名一覧では大名扱いされてなかったがどうなんだ
あと上杉は越後の一揆扇動に成功しているし、潜在的な勢力ということで120万石+αとしていいかも
毛利は石見銀山やたたら製鉄とか明との貿易とかあって国力は徳川と互角くらいあったんじゃなかった?
>>756 吉川も小早川も形式から言えば、元就時代から独立大名で毛利の同盟国。
もっとも世間(実状)では元就の家臣扱いのまま桃山時代に至る。←毛利両川ってやつ。
これを名実共に独立大名として毛利から切り離し体制を崩す事で毛利の勢力を合法的に
低下させようとしたのが秀吉。
ついでに世界の大名はみんなオレの部下!だから吉川・小早川もおれの直臣みたいな
気持ちもあったのかも。
それに対して断固拒否したのが吉川(広家と息子達)で毛利と秀吉両方の顔を立てようとしたのが
小早川(隆景)。
こんな感じじゃないか?と思ってる。
>>744=
>>752自演乙。こいつだろ、政宗が本庄に「いじめられた」などと低次元な煽りをしたものの、
具体的に示せなかったのは。論破され必死になっている姿が、傍目からみても痛々しい。
だから、いってご覧なさいよ? 生兵法は怪我のもとだよ。w
760 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/19(日) 07:35:43
まあまあ喧嘩はやめましょうよ(;´Д`)
安国寺とか本当バカだよな〜。何で敵に突撃しないんだよ!
761 :
w:2006/02/19(日) 08:03:24
家康が死ぬまで待つ、これが最善策。ジリ貧だけど・・・
嫌がらせしつつジワジワと天下を取りにくる家康。
年一回ぐらいの大名取り潰しもある
ただその手で15年で天下を完全に取るのは難しい
取り潰すか力を抑えないといけないだろう大名として
上杉、毛利、福島、加藤、宇喜田、石田、大谷
豊臣、前田、島津等々
どちらにしても、総大将が役不足、
義理硬いが嫌われ者の小大名石田三成
肝心な野戦に参加しない2代目ボンボン毛利輝元
対して1560年から独立して戦国を40年生き抜いた
家康じゃあ・・・
762 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/19(日) 10:28:57
この家康、命に代えても秀頼君をお守り致す
秀頼のこと、お頼み申す・・・
/ ̄ ̄ ̄ヽ
__ /ヽ)―- 、 l
,―γ ___ヽー、 q`´ハ ミ ヽ }
| ̄ ̄| | |(/),(ヽ)| | ̄ ̄| <_))_, | /
| ヽ (6 ー ) ノ | ヽ___/_ノ
-――  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄――- (t) ̄ ̄ ̄|
| ,―  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ― 、 | (/_ )/ / |
| | | | ( ) ○ |-o
| | | | `ー―― ´
| | | |
| | | |
>>758 独立大名と言うのはどうかと?
そうなると、輝元なんか同盟相手に折檻されながら育てられたことになるぞw
764 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/19(日) 11:13:19
両川は確かに当初は独立の豪族だったけど
元就の時代に息子を送り込んで乗っ取ったんじゃなかった。
織田信長が信雄を北畠へ、信孝を神戸へやって乗っ取ったのと同じじゃないの?
>>764 あってるけど、別にそれは論点になってない。
>>758 「家臣扱い」って言うより、はっきり家臣だと思う。
立花家みたいに、服属した大名の有力な家臣を切り離す例はほかにも多少ある。
766 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/19(日) 13:21:16
毛利輝元が出陣していれば、毛利家の軍勢を掌握できたと思う
毛利家全体では、徳川家と同じ7万5千くらいの兵力が動員可能であったはず
三成が百万石を貰っていれば・・・
そもそも輝元は家康と決戦するつもりも無く西軍の総大将に祭り上げられることも知らず、恵瓊の書簡で家康不在の大坂を護り
秀頼を補佐することを目的に急遽呼び出されただけだから家を傾けるような総動員はしてないだろうけどね。
>>755 吉川の14万石って、毛利120万石の一部の筈だけど?
ちがったっけ?
>>768 その前提にifを入れるんじゃないの?
三成側の手回しだけで可能か、輝元自身の意識が史実と違わないといけないかはわからないけど。
771 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/19(日) 14:09:34
秀吉・信玄と戦ったことのある家康と三っちゃんじゃあね・・・
772 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/19(日) 14:14:21
輝元に天下統一の野望は無かったのか?
773 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/19(日) 14:14:24
反論出来なくて、答えられないから、泣きながら敗走、可哀相に
>>749 本当だ、
>>730の幼稚さが、際立ってる
よく、こんな風に、無駄に、「、」打てるな
利家じゃ役不足だし、せめて隆景が生きてりゃね。
大軍を率いた合戦経験も外交調略人望においても家康と対抗できる唯一の人間だったのに。
まー、気苦労かけて隆景の寿命を縮めたのも、小早川を毛利から切り離して
毛利の弱体化を図ったのも秀吉自身だからね。因果応報だね。
パワーバランス考えると毛利と徳川の力を拮抗させた方が政権のバランスが保てると思うんだが。
>>772 無いんジャマイカ?
輝元の手紙に、祖父元就と二人の叔父に折檻されながら厳しく育てられたために
恐れてた事なんかが結構書かれてるけどあの性格で元就の遺命に背くほどの度胸があったとは思えん。
実際どうだったかは別として能力的にも祖父や二人の叔父に遠く及ばないと認識してたみたいだしね。
776 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/19(日) 14:39:21
>>774 秀吉は徳川より毛利を敵視していたからでは?
777 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/19(日) 14:50:32
敵視してたら外様の大大名の毛利に対して検地を自前でやらせたりしないんジャマイカ?
国替えもさせられてないし。(朝鮮出兵に成功してたら加増と称して徳川みたく九州に追いやられてたかもしれんが)
778 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/19(日) 15:37:44
松野主馬首重元てどんなひとすか?
役不足と力不足は違うよ。
780 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/19(日) 18:50:02
>>774 仕えた家がみっつとも改易されたアンラッキーなひとす。
つか、疫病神を雇った大名のほうがアンラッキーだったかもw
781 :
780:2006/02/19(日) 18:50:44
>>774 隆景は秀吉政権維持に協力的ではあったけど、それは秀吉が毛利家安泰と優遇を態度で示して
くれたのに対する協力だったわけで、最終的には主家である毛利のため。
秀吉亡き後他家の天下支配が俄然現実味を帯びてきて、その人物が秀吉時代と変わらず毛利家
を優遇してくれるのであれば、あっさりと豊臣家滅亡を容認するかもしれません。
しょせん毛利家大事なのを秀吉も見抜いていたため、結果として小早川家を豊臣に取り込むか
弱体化を図ったのでしょう。 一族に連なる人物を小早川家に送ったのはその両方が得られるから。
それより問題なのは、毛利弱体化だけでなく徳川も弱体化を図らなければならかかったと言う事。
秀吉がそのことに気が回らなかったとは思えないのですが…
実際にはなにも手を着けていないのが現実 なんでだろう?って思うのですが…
783 :
780:2006/02/19(日) 19:14:39
>>782 >その人物が秀吉時代と変わらず毛利家を優遇してくれるのであれば、あっさりと豊臣家滅亡を容認するかもしれません。
これはないんじゃね?徳川の天下になったら最大の仮想敵国にされるのは目に見えてる。
豊臣のような連合政権ならともかく徳川一極集中の政権で2になることの危険性を認識できないほど隆景はアフォじゃないと思う。
>一族に連なる人物を小早川家に送ったのはその両方が得られるから。
小早川家に送り込んだって認識は間違い。
後継者として頼み込んで秀秋貰ったものの秀頼生まれて、今更いらんからと木下に返すわけにもいかず、
処遇に困った挙句の養子だし。力殺ぐ気なら秀秋の正室に輝元の娘迎えたりせんだろうし。
784 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/19(日) 19:26:04
豊臣政権自体に徳川を潰す力が無かったって事でしょ
まあ簡単に言えば秀吉なんてホリエモンみたいなもんですよ
蓋を開けて見たら中身は大した事ない
所領は徳川以下でそれも全国に散らばってるからなお不利
頼りになりそうな藩屏となるべき身内も唯一優秀なのがとっとと死んじゃってるもん
>>783 780です。
ちょっと書き方が悪かったかも。
秀吉が毛利の力を殺ぐために小早川を切り離したのが間違いって意見に対しての自分なりの考えを述べた
のですが…だからあえて家康には触れませんでした。
なんで毛利・小早川を切り離したのかって事です。
小早川に一門を送った云々は書き方が悪かったです。
秀吉自身は隆景の能力と実直さを好んでいたと思うのですが、反面それが自分ではなく最終的に毛利本家
に向いていた事にたいして嫉妬というか危険性を考えていたんじゃないかと。
だから必要に小早川家を独立大名として扱おうとし、画策を繰り返すのです。
秀秋の件にしても、秀頼を優先したのと、毛利本家に送り込めば豊臣に毛利を取り込める、小早川に送り込
めても良し。って具合だったんじゃないかと。
787 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/19(日) 20:25:49
>毛利本家に送り込めば豊臣に毛利を取り込める、小早川に送り込めても良し。って具合だったんじゃないかと。
結果的に秀頼に天下人としての地位を奪われることになった秀秋が、
秀頼を恨む事はあっても豊臣のために働こうと考えるだろうか?
実際朝鮮役で大幅減封されかけたわけだし、秀吉にとってはていのいい厄介払いだったと思うけど。
つかね、そこが秀秋の馬鹿な点であって、
本来なら、毛利秀就が生まれたときの秀元や
藤堂高次が生まれたときの藤堂(丹羽)高吉や
鍋島勝茂が生まれたときの鍋島(横岳)茂里
自分から後継者資格を返上する事を申し出るものなの。
普通なら。
(秀元の場合は、輝元のほうが養子関係を引き伸ばしたけど)
それに思いいたらないで、逆切れするような愚鈍者だから、
せっかく与えた過分な所領までやっぱり預けてられない、ということになったの。
普通なら、高吉や茂里のように、
「今までありがとうございました、これからは家来としてご実子にお仕えします」
というのが普通の武士の反応であって、秀吉もそれを当然期待していたわけ。
つか、秀頼生まれた当時は12〜3だし、そこまで思いが巡らなくても仕方ないんじゃね?
同じ年頃だった茂里なんかも勝茂が成長するまでは養子であり続けたわけだし。
まぁ、二十歳超えればそういう知恵も働くようになってたかもしれんが、
そうなる前に追い出されちゃったからね。
そういう助言のできる家臣に恵まれなかったってことか?
秀吉については、その時の問題点を洗い出し接伴・解決する手腕にかけては、当代随一の能力の持ち主
だろうから、戦国時代のめちゃくちゃな状況を納め天下をとる事ができた。
彼の制作は4〜5年はうまくいくだろうから、指示もされる。
でもどんなにその時なんとかなった方法でも10年、20年たつとほころんでくる。
本来であれば、そこまで考えて方策を練るか、あら編めて対応しなくちゃ逝けないのだろうけど、彼には
そこまで気が付かない。
だから秀秋事件にしても、やっかい払いしたのは事実でも彼をかわいがっていたのも本当。
本来で有ればなんの取り柄もなく一生過ごすのを大名にしてやったのは自分だから 最終的に豊臣に牙を
むく事はあるまい。すくなくとも味方にはなってくれるなんて思っていたんじゃないか?
このへんの対応は弟の得意分野だったんじゃないかと思うけど、死んじゃったし秀吉も弟のホントの価値
には気付かなかったんじゃないかな。
791 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/19(日) 21:15:36
>本来で有ればなんの取り柄もなく一生過ごすのを大名にして
>やったのは自分だから最終的に豊臣に牙をむく事はあるまい。
>すくなくとも味方にはなってくれるなんて思っていたんじゃないか?
もし、そう思ってたなら秀次も殺さなかったんジャマイカ?
792 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/19(日) 21:15:38
西軍が雑兵を十万ほど雇って笹尾山に配置していれば、東軍の士気を下げて諸将が脱落することが期待できたのでは?
平家物語の軍勢ですか?そんなに一気に沢山雇うのは、この時代でも無理ではないかと。
>>774 挙げ足鳥で悪いが、役不足の意味が間違っているから正しい意味を覚えるまで使わないほうがいい
795 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/20(月) 01:25:48
>>794 挙げ足鳥で悪いが、遅レスの上重複なんで正しい使い方覚えるまで書き込まないほうがいいw
>>795 純粋な国語的意図だけど伝わったのかな?
797 :
795:2006/02/20(月) 07:41:45
安心しろ。漏れには伝わったぞw
遅レスだけに774に伝わったかは不明。
798 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/20(月) 09:36:22
799 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/20(月) 21:14:38
>>792 東軍が迫ってきたら、雑兵が一斉に脱走してしまう可能性が高い・・・
これでは、むしろ反対に西軍の士気が下がる危険がある!
800 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/20(月) 21:25:52
農民ナメんなよ。その辺の戦国武将よりは強いよ!
801 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/20(月) 22:54:50
防衛戦以外では農兵は本気出さないよ。
ちゃんと陣を布いて待ち構えているときというのは脱走の危険性は低い。
脱走が多いのは行軍中、特に退却中だよ。
804 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/21(火) 08:46:55
>>801 小早川田中徳川
ま、小早川が改易された時には出奔してたけどな。
しゅっぽんしゅっぽん
>>757 秀吉は九州征伐後の論功で一時毛利を中国から北九州一帯へ移してしまおうと毛利へ打診したそうだ
従っていれば徳川クラスの石高になっていたかもしれんが、それを隆景が断ってしまったとのこと
石高が増えるより現在地に留まる方がいい大名もいるんだろうよ
>>806 上杉が越後から離れたら、いざというとき(関ヶ原時)に
越後の土豪が統率とれずてんでばらばらに蜂起して
堀程度にあっさり討ち取られているのを見ると、
昔の領地になったゆと影響力ってイメージより簡単になくなるのな。
808 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/25(土) 20:29:20
>>806 たぶんそれが普通かと。
加増といっても京から離れることと先祖伝来の地を奪われることは
決して喜ばしいことじゃないからな。
>>806>>808 毛利の九州転封計画はかなり変則的だよ。
なにせ本拠の安芸と長門・周防・石見は許容する・・が
それ以外の中国路の版図は没収し
(つまり備後、出雲、伯耆等など)
変りに豊後、豊前、筑前、筑後を代替地にして与える
というもの。
冷静に考えれば本能寺の変直前の講和の際に毛利が
割譲を約束した土地を、約束どおりに回収し
九州征伐、四国征伐での恩賞としてその土地を与えるというもの。
その点でも徳川が関東征伐の恩賞と言う形式だったのと一致しているが
毛利は根拠の安芸はそのままで旨みのある石見はそのままという点が
かなり信頼というか警戒心の違いが如実に出てる。
また毛利の場合は、元々吉川を筑前、小早川を伊予の独立大名として
加えて毛利を九州に移すと言うものだったから実現してたら
恐らく吉川小早川双方とも
史実の隆景が毛利からわざわざ三原を所領に貰い、他の所領も毛利を経由しての
追認と言う形で独立大名になった・・という形を取ると思うので
小早川、吉川とも事実上毛利の一員という体裁は残ったはず。
実現してたら石高と立地条件から考慮して毛利一門の総石高と経済力は
史実の徳川の比じゃなくなるくらいの力になる。
810 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/26(日) 02:43:37
銀山に博多に関門海峡か、確かに美味しいな。
唯一難点があるとすれば、備後の没収で本拠地安芸が丸裸になる事くらいか?
本拠を筑前周防長門辺りに移すって手もあるが、安芸を捨てられなかったってことか?
ただ朝鮮出兵での負担はもっと増えただろうな
ふと思ったんだけど、
備前・備中・備後の三国を保有した大名っていないんだよな。
つ毛利
宇喜多を従属させた間接統治を含んでだけどな。
どんなに美化されようとも小早川秀秋だけは好きになれない
>>813 いや、それは保有とはいえまい。
越前・越中・越後もそうだけど、
意外と前後に分けられた国って、他の隣国とセットになることはあっても
分けられたもとの国ともういちどセットになることないのよね。
備前お買い上げのお客様にはにもれな美作がく着きます!
加賀をお買い上げの皆様には能登をもれなくプレゼント!
また越中もお値打ち価格でセット販売!
肥前をご購入の皆様には筑後を格安でお売りいたします!
てな感じで。
輝元の九州転封が実現していたら
その後の経緯に与えそうな影響として
@小早川&毛利に秀秋の養子縁組の話は持っていき難くなる。
それはそうだろう。毛利と小早川ともに九州四国征伐にかりだされ
大胆な転封を強いられた上に朝鮮出兵の役回りが重くのしかかってくる。
いくらなんでもこの上に秀秋の養子なんぞ持ち出されても・・
と角が立たない形で断りを申し出られると思うし秀吉サイドでも
強要できかねよう。
A吉川広家が毛利家中にはいなくなる。これは結構大きいと思う。
吉川が独立大名となるのだから当然と言えば当然。
B家康の関東転封、上杉の会津転封ともに
その後家臣団の統制強化再編成が進み近世大名への転進を可能ならしめたが
毛利の場合関が原の敗戦で長州に押し込められてやっと実現できている。
一応本拠の安芸は残っているが、上方から丸裸になるし
広い後背地を運営する上でも、毛利の家中統制が強まると思われる。
C朝鮮出兵組の統括や後援は毛利一族が主体になってやることになる。
負担も大きいが、逆にいえばこの時点で豊臣武断派諸侯をはじめ朝鮮出兵組は
多分、史実以上の毛利の役回りが大きくなり毛利の指揮下に入ったりもするだろう。
出兵後の不満が噴出した形となった豊臣武断派諸侯と、出兵で主力および支援を強要され
不満が大きく彼らの統括も行なってた毛利の関係がでてくるとおもう。
史実でこそ家康が大老筆頭の実力者としてしゃしゃりでてたが、
こうなると秀吉死後に、その影響がどう出るか・・
D当然ながら秀次失脚の際に、どうなるかもでてくるわな。
この辺は史実と大差ないかもだが・・
史実と似た陣容で関が原があったとしても
毛利の足並みはそろっていたと思うし、逆に武断派の切り崩しすら可能になった
かもしれない。
Aはないんじゃね?
隆景は毛利からも所領を貰い、他の所領は毛利から追認って形で家中に残ったし、
小早川と同様の形になったと思う。
上杉を対家康の牽制のために東海道に持ってくるってのも難しそうだな
上杉は「羽柴対柴田」の決戦時に越中、能登を切り取っていれば・・・
150万石はあったはずなのでその後の会津転封で更に加増
多分越中能登の代わりに会津米沢で
越後(佐渡込み)60万石
北信 18万石
庄内 30万石
会津 42万石
米沢 49万石
合計 200万石
この大封なれば伊達最上も沈黙
関が原でなく会津で天下分け目の決戦が・・・
つか、越後を残すような転封は意味が無いからせんだろ。
822 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/04(土) 12:31:44
上杉景勝は30万石程度の大名
五大老でござるよ
景勝の器量はともかく、名門上杉家の名と謙信の遺産を受け継いでる事も考えてやらんと。
謙信死んだときのお家騒動を乗りきった狡猾さが
なんであまり出なかったのかな。
そういえば信長軍侵攻時に本能寺の変とか
家康軍侵攻時に西軍決起とかなんか因縁めいてるね。
信長みたく家康が大坂に残ってたら
大坂城の変とかなってたかも。w
時間が無さ杉・・会津転封してからの時間が短すぎて地盤が固まっていない。
それはお家騒動を起こしていた宇喜多も同様
同じくカリスマ創業者の利家死後の前田家も家中がまとまっていない時期を
上手く突かれた格好だろ・・利長の器量は悪くは無いんだが。
三成にしても秀次粛清と朝鮮出兵をひきずって政権を固め
ルールやシステムを十分に充実させる余裕も時間も乏しいおかげで
家康というカリスマにしてやられた格好
毛利にしても小早川隆景が死去して2年程しか時間がたっておらず
まして朝鮮出兵だの秀次事件で関与してたりの・・内部ガタガタの
状態なのは他に同じだし
家康率いる徳川だけが無傷に等しい格好で温存
これではね・・
これを見ると徳川、もしかして計画的に関が原を起こしていたって事?
状況があまりにも出来すぎているよ
この状況でやらなきゃ男じゃねーよとは思ってたろうな
どんどん布石打ってるから、時期がずれてたらさらに有利になってた可能性だってある。
そうなると家康の敵は寿命くらいかね
結果論からいえばそれさえ余裕だったが
あと関が原に直結しないから話題にはならんけど
蒲生氏郷の早世もでかいかねぇ、家康と比べ格下なのは否めないが
でも上杉蒲生で最上伊達くらい封じれるが家康の相手にはならんし
結局どうころんでも関が原は家康が死なない限りきてたっぽいな
蒲生が生きていれば大老は確実で、前田+蒲生+宇喜多の閨閥ラインが
ひとかたまりになっていたかも。
利家の死の前後の伏見での睨みあいの時に
まちがいなく前田方の副将格だったろうから、
そこで決戦を主張していれば、どうなったかはわからない。
あの時に引っ込み思案の利家&利長の尻を叩けるほどの
実力&格をもっていた武将はいなかったし、
あの時点の勢力配置は前田方が圧倒的に有利な状況。
完全に関ヶ原が起こりえないシナリオは豊臣秀長が生きていて
秀頼を後見していた場合だろうね。
この場合は、そもそも五大老の権限そのものが小さくなっていただろうけど。
>>831 秀長が生きてても関ヶ原は起きてるだろ?
武将としての実力は家康>秀長
秀吉さえいなければごり押ししてくるはず。
秀長健在だった場合関ヶ原の合戦で豊臣方につくとしたら福島くらいじゃないか?
834 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/05(日) 15:31:56
秀長と家康の対決は
豊臣家対徳川家になるから
豊臣恩顧の武将は秀長につくだろう
秀長が生きていた場合、家康が兵を挙げるかどうかってのがそもそも疑問
関ヶ原時に家康はもう60歳近いはず。
当時ならもう寿命で残り少ない命だから、強引に事を起こすんじゃないかな?
上であがった清正、正則、は豊臣に協力するかもしれないけど、
後の豊臣恩顧の連中はお家大事で、秀長と家康を天秤にかけて
どちらが有利か判断基準はそれだけ。
秀長が生きてた場合、文治派と武談派の対立は起きたかな?
それが起きなきゃまず家康も事を起こさないだろ
生存時の秀長の立場は太閤存命時の三倍は
身をすり減らす物になるだろうし
五大老・五奉行制度が本格的に決まったのは、秀長の死後の話なので、彼が存命であったなら、また違う体制
になっていた可能性はある。
No1の秀吉(秀頼)の下に5人の大老が五大老制。
No1の下にNo2の秀長、以下大老となるか、No1の下に秀長を含む大老制となるか?でも秀吉死後の状況
はだいぶ変わってくる。
そもそも、家康が天下を狙う覚悟をしたのは、豊臣政権が秀吉個人で成り立つ不安定な政権であったのを理解
していたからで、それでも秀吉存命中は(水面下ではともかく)政権を狙う素振りを見せていませんでした。
秀吉死後、代行者であろう秀長への移行がスムーズに行われ、政権に揺らぎが見られなければ、やはり家康は
チャンスが来るまで外様筆頭としての地位に甘んじていたでしょう。
結果彼の寿命が先に尽きる事になっても、徳川の維持を優先するんじゃないでしょうか?
豊臣家の内情が万全ならわざわざ外様の大大名たちを政権に参加させる必要もないだろう(江戸幕府みたいに)
840 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/05(日) 21:58:46
笹尾山に大砲を撃ち込めば、西軍主力部隊を東軍陣地内に誘引できたと思う?
>>832 残念ですが石高と官位以外のあらゆる点で
秀長が家康を上回っています。
個人の能力ではなく、それまでの実績でね。
特に家康の最大の売りである戦闘実績も
「諸大名の混合軍を10万単位で指揮して勝った」という点で
未経験者と熟練者の差が出てくる。
(小牧長久手の戦いで家康が自在に操ったのは1万7千。
関東移封後は自前の総力戦を指揮して戦った経験さえない。
対して秀長は四国・九州で関ヶ原クラスの戦力を指揮して圧勝している)
その戦闘実績は、秀吉が死ねば、家康の評価以上にビックネームになる。
官位は秀吉が死ぬ前にいくらでも上げただろうし、
石高は自前の110万石プラス豊臣本家の200万石を代行してこれも圧勝。
結局は家康は身を謹んで長生き&大義名分を与えない冷戦維持に努めるしかない。
家康はしんどいのは全部義元や信長や信雄に請われて参陣するとき
基本的には有利じゃないと動かない
あと結果論で言うなら、関ヶ原で圧勝よりも豊臣を潰しあいさせて徳川温存のほうが凄いじゃないか
第一に秀長だってそんな大軍自在に動かせるわけじゃないでしょ
各人の采配では?
>>839 秀吉政権が諸大名の寄り集まりなのは、その秀吉の人生と豊臣政権の成り立ち故のしかたなさ
みたいな物です。
家康を初めとする諸大名は、なんであれ日本が統一政権になって行く過程であらかじめ有った人材や
親から継承した組織を改定して行く事で対応して行けましたが、彼の場合ほとんどが一からのスタート
になります。
これは彼が他家より一歩抜き出し、やがて天下を手に入れる上での原動力ともなる訳ですが、いったん
革命期が終わり安定期にはいった場合、時間的つながりの無い秀吉一派にとっては致命的材料として
残るのです。
又秀吉の天下統一事業は信長のソレを継承したものですが、信長が古いもの不必要な物を灰にして
新しい天下を目指したのとは反対の融和によるものです。
この二点が絡み合ったおかげで豊臣政権は、求める利益がてんでばらばらな国家同士の寄合い所帯な
物になってしまいました。
それでも、豊臣一派の内部分裂がなければ、秀吉の死後15年ほどで消滅するなんて事は無かったかと
思われます。
>834 秀長が存命なら、高虎も彼のために働くしね。
秀長の価値は兄とともに戦国を切り開いて、天下をとった事だよね、
このブランドは利家、家康に劣らないでしょ。
845 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/06(月) 13:40:34
秀長が短命じゃなければ・・・・(秀吉よりも長ければ)
秀次を斬らなければ・・・・
小牧長久手で家康に負けなければ・・・
蒲生氏郷と堀秀政と羽柴秀長と前田利家の寿命が全部長ければ無問題。
石田三成の寿命を秀忠より長くすれば
豊臣秀長
豊臣秀次
蒲生氏郷
堀秀政
前田利家
小早川隆景
この五名の寿命が長ければ豊臣家の政権を安定させる間
家康を牽制できたろうに・・
かえすがえす残念でござる
けど関ヶ原っていうドラマが生まれた
堀や蒲生は反徳川かも知れないが、豊臣をもり立ててくれるとも限らないのでは。
とすると、やはりキーマンは秀長でしょ。
秀長が秀吉より数年長生きしてれば、
・秀次事件なし、利休も生存、子飼いの無用な混乱なし。
・藤堂高虎の裏切り無し。
・文治派と武断派対立ない。(朝鮮出兵が無い可能性もある。)
・家康に権限を与える五大老制も不要。
・豊臣家内でも頭があがる人はいない、意思の統一が出来る。
・戦になっても、如水、正則、清正等も味方に出来る率が高い。
さらに秀頼の代わりに出陣出来る、不敗の総大将。(これ重要)
四国・九州征伐での連合軍の差配、
井伊さえ死に追い込んだ島津の瞬殺、
主力不在下での毛利の猛攻に対する防戦。
実績では無敵ですね。
秀長が総大将で出て来たら家康に出来るのは
精々和睦でしょうね。
853 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/07(火) 11:18:20
>>848 俺もそう思う
それを考えれば考えるほど家康は運がよかった
と同時に天下が家康を欲したのかもね
ま、そもそも秀吉が子だくさんだったら、関ヶ原は起こってなかったわけだが。
高虎は秀長に心酔していたからな
その高虎が秀長の下で培った情報網を用いて家康の天下取りを助けるってんだから
世の中皮肉というか何と言うか…
案外、一部を除いて多くの大名が秀頼自身の資質にも疑問を持ってたのかもしれないね。
秀頼が無事成人したとしても日本全土に睨みを効かせる器量は無いと思って、
家康以外に選びようが無かったとか・・・・・・
857 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/07(火) 12:34:07
秀忠が暗愚だったら、徳川政権も二代で滅んで
結局は豊臣の二の舞になっていた可能性が高いと思う?
かりに暗愚でも大丈夫なように、家康は大坂を叩き潰したんじゃないの?
ガチの体制を整えてから逝ったでしょ、家康。
859 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/07(火) 12:43:00
秀忠が暗愚だった場合、政宗に機会は無かったのか?
しかしだな 寿命は天命だからどうしようもないと思うぞ
関ヶ原で西軍が勝てる要素を見つけるのが困難だから たぶんこの流れになってると思うが
それなら家康の関東入部が避けられなかったかとか 秀次の切腹は回避できなかったかとか
議論の余地があるところで話をしないと ただの妄想スレになってしまわないか?www
つーか淀と秀長は上手い事行ってたのか?
案外、淀、秀頼派と秀長、北の政所派にぱっくり分かれて
その辺りを家康なら突いてきそうな気がする
二代以降の徳川幕府に組み込まれた人たちは、幕府体制に対し忠義を掲げているのです。
ただ体制は形がないので、形有る忠誠物として将軍がいる。
まぁ将軍といえどあまりにアレなら嫌気もさすだろうが…。
>>860 やっぱ小牧戦役、翌年の「富士山物見」を実行すべきだったのです。
864 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/07(火) 14:56:25
誰が生きてたら西軍についたとか
あるけど怪しいものだよ。
福島、加藤、浅野、細川、小早川、京極なんて戦い以前に
死んでたら西軍は勝ったとか空想されてるはず。
家康だってそう、織田信雄が取り潰されなかったらとか
秀忠軍が間に合っていたらとかあるし。
北条も生き残ってたら豊臣恩顧の手を借りずとも
徳川、北条、織田信雄の連合軍で豊臣は叩きつぶされてるって。w
その場合東軍総大将が家康だったかかなり疑問だがな。
桶狭間がなかったら
まで遡ろうぜ
そこまでいくと、『徳川家康』が存在しない可能性すらあるな。
>>866 そこまで遡ると豊臣家自体が登場しないから・・関が原スレの内容にならない。
>>864 徳川、北条、織田信雄の連合が温存されてたら
まず確実に朝鮮出兵が起きない。そんな余裕はなくなるぞ・・
それに、そんなどう考えても怪しい明確な仮想敵国の存在が
放置されるはずも無く
北条と織田信雄が顕在なら徳川が大老筆頭などになる余地も無く
家康が豊臣恩顧を束ねる大義名分も何もない状態になる。
>>861 俺は豊臣内紛の最大の要因が、政権内部に年長者、筆頭格が不在だったことだと思ってる
蜂須賀・秀長は既に無く、生駒はその座に遠く、黒田はその気が無い上に警戒されていた
淀はあくまで目下(と考えてた)秀吉の子飼いに過ぎない連中に対して居丈高だったわけで、
秀長のように存命中は家中で名実ともに筆頭であり、尚且つ秀吉の弟として別格だった男には噛み付けないだろ
同意。
惜しい男を亡くしたな、だから利家なぞに頼らざるを得なくなったんだろうな。
>864 徳川は北条を見捨てたんだし、3者連合はないだろう。
北条が生き残ってるって事は、徳川が間を取り持ったからって考え方もできる。
実際、徳川vs豊臣が怒らなかったのは北畠が間を取り持ったからだし。
874 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/08(水) 00:47:34
まあ、利家にしたって元気な時は家康と張り合っていた訳だし、
秀長がいれば、家康は手も足もだせないんじゃないか。
秀長は利家のスーパーアッパーバージョンだしね。
なんらかの形で三成が早死してればよかったんじゃない?
そしたら上杉が地図から消えて終わり…だったのかなぁ?
宇喜多秀家が秀頼を担いで挙兵するんじゃないか?
秀家にそんな根性あるのか?
つうか三成いないと秀吉の子飼い大名がそれぞれに懐柔されて終わりって希ガス。
福島も加藤も家康警戒してないし。
881 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/10(金) 19:56:17
福島正則、加藤清正は戦場での戦闘力は
ありそうだけど
豊臣恩顧を反家康で纏めて指揮することは
できないんじゃないだろうか。
結局そこまで行動力があるのは三成しか居なかったってことだな
>>882 決断力はないが、妄想力が人一倍あるのは、関ヶ原の結果を見ても分かる。
884 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/10(金) 21:13:00
取り敢えず秀頼担ぎ上げらんなかった時点で三成の負け。
>>881 福島、加藤じゃ武力はあっても頭が足りないからな
886 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/10(金) 21:31:52
福島はともかく、加藤はかなり頭いいだろ?
888 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/10(金) 21:40:04
いや、経済とか城造りとか。
三成がいなければ関ヶ原は起こらなかっただろうね。
そのかわり、大坂の陣の前倒しだろう。
家康が200万石超の巨大大名を放っておくとは思えないし。
890 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/10(金) 21:42:32
そっちの頭は良くても、外交面では特に目立った功績って無くないか?
>>890 清正は三成を失脚させたりしてるし、以外に政治力はあるかも?
892 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/10(金) 21:48:12
外交も普通以上には出来るっしょ。
893 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/10(金) 21:53:51
をいをい朝鮮の役があるだろ
万余の軍勢の総大将として戦争を経験している武将自体が当世少なくなっているんだから、清正は貴重な大将だよ
894 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/10(金) 22:00:08
895 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/10(金) 23:54:51
隆景が生きてたらどうなった?
896 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/10(金) 23:58:19
蒲生でもいいけど
897 :
トリビア:2006/03/11(土) 01:38:34
宮本武蔵は石田三成方についていた
佐々木小次郎は徳川方についていた
>>870 遅レスだが同意、秀吉死後でも秀長が豊臣家総大将として君臨されたら、
家康は恐らく何も出来ないだろう、政治的にも軍事的にも。
ただひとつ気になるのがその余りにも突出した秀長の能力を、
秀頼が生まれた後の秀吉はどう思うんだろうか?
今までどおり自分を補佐してくれた小一郎はきっと秀頼も補佐してくれると素直に思ってくれれば、
全く問題は無いわけだが、どうにもこの時期の秀吉の身内に対する行動は常軌を逸している、
仮に自分が死んだら秀頼は・・・と思った時に秀秋は他国に追いやられ秀次は無惨に殺された。
性格や人柄を一切無視すれば、はっきり言って秀長のそういう簒奪の危険性と能力は
秀秋や秀次など比にならない。なんと言っても諸国の大名との連係が素晴らしすぎる。
それまでの経歴だけ見れば間違いなく小一郎は兄の遺児を守ることは間違いない、
しかし彼とて戦国の世を槍一本から駆け抜けた紛れも無い猛者の一人。
家康だって1590年で死んでたら、義理堅い人物という評判のままだったに違いない。
そういう秀長を頼朝のごとく秀吉が粛清に入る事は考えられないだろうか。
余談だが、神奈川県藤沢市白旗には頼朝公のの像があって、
ここに秀吉は同じ天下人という親近感から参拝した事があるそうな。
>>898 秀長の養子は秀次の弟の秀保だしね。
秀長が生きていたら、秀次派の力は桁違い。
つーか
秀吉+秀頼+淀 vs 秀次+秀長+秀保+寧々 の派閥争いになりかねない。
中国の古代にでよくあったパターンだ。
その他の人間全員が長じた養子/皇太子についているのに、
君主一人が末子とその生母側について頑張っている冷戦状態。
秀長死後にすぐに変死している秀保は、秀吉に暗殺された可能性は高い。
秀長も生き延びていたら、秀吉に暗殺されていたかもしれん。
足利尊氏兄弟も仲がよかったことで有名だったが結果は・・・。
>>898−899
どうでしょうね・・。
自分の身内を粛清していく割に外様の家康や利家を盲目的に信じ込む
態度なのは確かだし・・・
秀長は粛清する大義名分とか隙がなさそうなので、病死に見せた毒殺
しか手は無いと思う。
実際秀長が秀吉の毒殺されたと言う俗説は有名な話しだし・・
さもなくば徳川家康と前田利家にやったように大老制度の枠を
秀長にも適用するかもね。
大老筆頭として
豊臣秀長が大阪城で秀頼と豊臣家の後見
大阪詰め大老として
前田利家が大阪で秀長の補佐、実際は牽制役も兼ねる。
次席大老として
徳川家康が伏見で天下政務を差配する。
そして家康が東国の総取次ぎを担い
伏見詰め大老として
小早川隆景と毛利輝元が天下差配を補佐、実際は牽制も兼ねる。
そして隆景と輝元が西国の総取次ぎを担う
中老には
中老筆頭として宇喜多秀家ないし上杉景勝
あとは
前田利長
結城秀康
毛利秀元
を据えて
位のシフトが理想だな、これだとさすがに家康の身動きも取れまい
秀吉、家康、利家の順に天命が尽きる場合
家康逝った時点で利家VS三成で天下分け目の大戦
ナンバー2って大事ですな。
織田も本能寺の変で信忠が生きてたら
どうなってたか分からないし。
毛利輝元じゃなく、隆元なら生きてたらどうだろうか。
武田信繁も・・・これは違うかな?
関が原ん時に隆元が生きていたとしたら80歳くらいだからとっくに隠居してる
輝元に家督譲って
秀次と秀長を同列に扱うのはどうかな、秀次にしろ秀頼が生まれた段階で関白を
返上するのがあたりまえ、養子とはそういうもの。
スレ違いだが信繁も生きていれば、信玄死後も家中をまとめられただろうから、
あんな惨めな滅び方はしないだろうな。
>>905 >養子とはそういうもの
んなこたあない。「養子は実子に比べて権利を制限されている」なんて、現行法でも
過去の慣習法でもありませんよ。
>>905 同列って言うより上でも言ってるように、秀長自身が秀次の立場も守ろうとするに違いないという事。
それだけじゃない、利休とも仲が良かったし、朝鮮出兵にも反対した可能性が高く、
難しい立場になる可能性が高い。
もっとも秀長が死んだのは秀頼も生まれて無い時期なので、秀吉による毒殺説は流石に無いと思うけど、
秀頼が生まれた後はどうなるかわからん要素が多く含まれてるように思う。
また秀長はあっさり毒殺されるような甘い男じゃない、
伊勢や近畿のような旧体制の権力が多く残る難しい土地の舵取りを行って、見事に指揮下においてるし。
外交面での豊臣政権の潤滑油としての存在感は人柄だけでできる事じゃない。
この兄弟に不和が生じたら、そうそう簡単に済むとは思えない、秀次だけでは結局嬲られて終わりだが
秀長が混ざってくると、大老と奉行も絡めた大きないさかいになってしまう可能性すら否定できない。
気がつけば150年前の応仁の乱と構図がまるっきりそっくりだし。
それこそ家康の付け入る隙も出来てしまいそうな気もする。
法律や権利の話をしているのじゃないよ、戦国を生きる身の処し方。
秀元を見習うといいよ。
909 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/12(日) 01:41:41
秀長はそれほど馬鹿ではないだろう、豊臣政権内に彼に対抗できる人材は
いないしな、どちらかと言えばボケかけた兄をうまく操縦できるのは彼し
かいない。三成なんぞが台頭するのはだいぶ後だしな、そもそも大老制自
体がない、足利兄弟とも時代背景が違いすぎる。
秀長厨がだいぶ痛くなって来た
夢一杯だからな
>>905 >朝鮮出兵にも反対した可能性が高く
存命中から反対してましたけど…。
>もっとも秀長が死んだのは秀頼も生まれて無い時期なので、秀吉による毒殺説は流石に無いと思うけど
鶴松がいましたけど…w
つか、後継者が成人してるならともかく他に信頼できる後見役がいない状態で殺しはせんだろ。
>>912 というかむしろ存命中に反対してたから可能性が高いと書いたわけで
とは言え実際は死んでたわけだから断定は避けただけ。
状況によっては賛成したかもしれん、そんなのわからん。
鶴松に関しては言及しない、一行目で書いたように俺はあくまで秀長が秀次に連座する事の危険性だけ書いてるので
鶴松存命なら秀次も関白になって無いので話が全然変わってくる。
914 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/12(日) 11:05:34
もういっそのこと秀長の半生を描いた大河なんてやらないかな。
すごく見たいんだけど。
>>913 可能性が高いも何も存命中に反対してたから実行されてなかったんだけどな。
秀長が死んだあと、悪いことがどんどん起きた。
つまり、彼が歯止めだったということでは。
917 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/12(日) 11:41:28
秀吉恩顧の大名達は、後年の秀吉の横暴をどう思っていたんだろう?
918 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/12(日) 13:50:37
小牧長久手の戦いの家康の
立場に比べれば西軍の状況は余程有利だったのに。
当時既に西軍の一部が三成の思うように
動かないのは薄々分かっていたんだかr
東軍が関が原に乗り出してきても
相手にせず東軍の分隊が沢山城なり
大坂に進出しようとしたら
宇喜多を中心とした主力でその
分隊を叩けばいい。
しょせん東軍も遠征軍で寄り合い所帯なので
長期の対陣なんて耐えられないし、なにより
大坂をはじめ西軍は地元の要衝を押さえているから
圧倒的に有利。
三成は大勝か敗北かという決戦にこだわりすぎたのが敗因。
>>918 後から口で言うだけならゴミ人間でも天下取れるねwww
総大将がいない西軍。
関が原の決戦は小早川の裏切り封じ、との説が最近有力なんだが。
つまり完全に裏切る前に、好餌で釣って戦いに巻き込んでしまう。
922 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/12(日) 16:05:44
>>919 日本史板へ帰れ。w
西軍があのまま大垣に篭城した場合、その押さえは
家康本隊になるだろう。
で福島率いる先鋒隊がさわやまを攻めるだろうが
簡単には落とせない、なざなら屈指の名城だから。
そうしているうちに大津を落とした立花率いる1万数千の軍が
展開してくると尚膠着状態に。
小早川は旗色を鮮明にして立花隊を牽制する可能性は高いが
それでも事態は好転しないだろう。
秀忠隊も到着するも細川攻略隊も到着するのでまさに
がっぷりよつの状況に。
そこで佐竹氏が兵を挙げ関東進出の気配をみせると
東軍は動揺、元々西軍の鍋島が秀元と合流する。
家康は不利とみるや秀頼に自らの隠居を条件に和睦の使者を送るのであった。
923 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/12(日) 16:48:37
924 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/12(日) 21:17:09
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925 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/12(日) 21:18:30
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926 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/12(日) 21:20:01
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927 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/12(日) 21:21:06
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928 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/12(日) 21:21:56
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929 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/12(日) 21:24:04
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930 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/12(日) 21:24:59
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931 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/12(日) 21:25:48
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932 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/12(日) 21:26:45
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933 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/12(日) 21:27:49
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934 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/12(日) 21:29:28
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935 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/12(日) 21:30:47
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936 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/12(日) 21:31:45
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ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
あああああああああああああああああああ
937 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/12(日) 21:32:43
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
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ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
あああああああああああああああああああ
938 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/12(日) 21:33:42
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
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あああああああああああああああああああ
939 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/12(日) 23:20:11
リアル気違いが来てたみたいだな。
史実通り秀長が消えた瞬間に荒れ始めたな。
つーかいまどき「あああ・・・」で荒らすのも珍しいな。
懐かしい気分にさせてくれてありがとう。
>>924〜
>>938 それともし誤爆だったらゴメン。