2 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/07(水) 00:06:54
糞スレ
3 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/07(水) 00:08:32
終了
孫臏だけに限定されてもスレは伸びないだろ
孫子を語ろう!スレなのか?
1の考えが分からんのだが‥?
7 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/08(木) 11:06:12
連投すまん
孫33213←スレタイが意味分からん
>>7 孫ピンのピンの字を出したかったのだと思われ。
中国の戦国時代だから、板違いなはずだが。
9 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/08(木) 12:29:59
この板は中国の戦国時代も三国史記もOKですよ。
魏武註孫子がなんなのか考えてみろと(m9´ー`)
実戦に用いられた兵法の考察で良いだろう。。。
それなら日本の戦国時代もカバーできる(m9´ー`)
ヘンなコテが偉そうですね。
三帝会戦の折、二帝連合軍は高地に布陣しながらも惨敗を喫した(m9´ー`)
行軍篇には「生を視て高きに処れ。隆きに戦いて登る無かれ。」
軍争篇には「高陵には向かう勿れ。」
と孫子では高きに布陣することの有利、高きを攻めることの不利を語っている。
高きに布陣しながらも敗れた連合軍の敗因とはなんであったのだろうか?
いいネタ提起なんだが
キモいAAは止めて頂きたい
高地を占めれば勝てるなんて考えは甘い。
兵力にしろ、地形にしろ、その優位が絶対であるという事は無いのだから。
アウステルリッツは、ナポレオンの偽騙に引っかかって中央を薄くしてしまったのが敗因。
結果、仏軍に高地を奪われると共に、その中央突破を許してしまった。
戦術の要諦は、突き詰めれば、巧みな偽騙と迅速な機動に尽きる
九変篇「兵を治むるに、九変の術を知らざれば五利を知ると雖も、人の用を得ること能わず。」
クゥトーゾフ将軍はナポレオンの偽計を見破っていた(m9´ー`)
しかし、ロシア皇帝アレクサンドル1世はこの言を聞き入れなかった。
ナポレオンはそのようになることを見抜いていたのだろうか?
それとも、見抜けるものがいないと驕っていたのだろうか?
ナポレオンの用兵と言うのは、小戦を繰り返しながら勝機を窺い、
決勝点を見極めた時初めて猛烈な衝撃を敵に与える、所謂第二線決戦主義である。
例え敵が中央を薄くしなくとも、その大なる予備を以って別の勝機を作り出しただろう。
彼がどのように考えていたかは俺には量りかねるが、彼の言葉に、
「名将とは、殆ど過失を犯さない将軍の事だ」とある事を考えれば、
失敗した場合の対応を何かしら考えていたのは明白であろう。
>>15 どうやらアウステルリッツ会戦についてはよく知っているようだから、
高みより見下ろして他者の意見を聞くだけでなく、自身の意見も述べるべきだろう。
そういう高慢な態度は反感を買うだけだ。
孫子はナポレオンの座右の書としても知られる。
軍形篇「善く戦う者は、先ず勝つ可からざるを為し、以て敵の勝つ可きを待つ」
「善く戦う者は、不敗の地に立ちて敵の敗を失わざるなり」
をナポレオンは常に実践したと言える。しかし同じ軍形篇の
「戦い勝ちて、天下、善なりと曰うは、善の善なるものに非ざるなり」
「善く戦う者は勝ち易きに勝つ者なり、故に善く戦う者の勝つや智名も無く勇功も無し」
は守ることはできなかった。これはフランス革命後の対外政策上仕方ないともいえるが
どちらにしても名誉欲の強いナポレオンには守ることは無理だったと言える。
孫子の中でも有名な言葉に謀攻篇「彼を知り己を知れば、百戦して殆うからず」があるが
皮肉なことに孫子を学んだもの、及び孫子自身にも共通して見える慢心がある。
それは戦うべき相手は常に自分よりも戦術眼が劣ると言う考えだ。
これは孫子の成立した春秋戦国時代の背景を考えると仕方がないとも言える。
春秋戦国時代の戦争は謀という概念自体がなく、正面からのぶつかり合いで天の加護が
どちらの君主にあるかを競うと言う一種の運動会のようなものであったからだ。
その中で天を無視し、人を騙すことをよしとした孫子は異質であった。
このため孫子にはわずかながら敵を軽視した部分がある。
孫子に書かれる敵への注意事項は敵の数、士気、統率状態だけで
戦略的考えを敵も持つという部分が欠落してしまっている。
センセー魏武注孫子と孟徳新書の違いが解りません
孫月賓の〔月賓〕って字は両足を切断する刑の名前らしく
本名なんだったんだろうな
つーか失礼な呼び名だ
孟徳新書は演義の創作。魏武注孫子のイメージを貶めようとしたのだろうが、
注釈つきで孫子をまとめた功績を昔の兵法書の真似事と言うのはひどい話だ(m9´ー`)
宮城谷先生の「孟嘗君」では孫ビンはもとももと孫賓と言う名で龐涓に嵌められ、
ビン刑を受けた際に孫〔月賓〕と自ら名乗り、龐涓への復習を誓っていた。
本当の名前は不明だけどね(m9´ー`)
>>20 それは宮城谷氏の『孟嘗君』ではなく、海音寺潮五郎氏の『孫子』と思われ。
それはそれとして、魔旦伍ってただの低俗荒らしコテかと思ってたけど見直した。
ナポレオンのアウステルリッツやら、そのあたりを語れる三戦スレなんて皆無だし、
知ってる住民も初めて見た。
>三戦スレなんて皆無
板違いだからじゃね?
本当は高地布陣の話題なら馬謖だろというツッコミ待ちだった(m9´ー`)
馬謖飽きた
>>20 孟徳新書かどうかは知らんが、曹操が自身の兵法をまとめた『新書』って書物は存在するみたいよ。
李衛公問対の中でちょっとだけ引用されてる。
武経七書:『孫子』,『呉子』,『尉繚子』,『六韜』,『三略』,『司馬法』,『李衛公問対』
『李衛公問対』は他の六書が秦代以前に成立したのと比べ、唐の李世民、李靖の対話集と時代が下る。
読んだことがなかったので調べてみたが確かに曹操の『新書』と書かれている(m9´ー`)
だが、李世民言うことを信じるのなら兵法書と言うよりも教本のようなものらしい。。。
魏武註孫子とともに残らなかったことからもあくまでマニュアル本のようなもので
汎用性のあるものでなかったのは確かなのだろう(m9´ー`)
このスレは、実際の戦例をもとに、戦略戦術を論じていくという方向で行くのか?
こういう風にしろと決めるよりは流れにまかせて、その時その時の雰囲気でやったほうがいい(m9´ー`)
とは言え、実際の戦闘を例にしたほうがネタ振りはしやすいから自然とそういう方向になるだろうけど
戦略を論じるならばともかく、戦術を論じるならば自然と西洋の話になってしまうだろうな。
会戦の経過などが詳細に残ってる分、西洋の方が論じやすい。
戦国期の合戦についても不明瞭な部分が多いながらも語るに足る資料はある。
また戦術というよりも兵法書について語るのならば、
『鳴条の戦い』ぐらいの資料でも十分考察に値すると思う(m9´ー`)
兵法書について語る、というのがよく分からんな。
具体的にはどんな議論をするというのだ?
兵法書の多くは内政について多くを語り、むやみに兵を興さないことを説いている。
実際の戦闘について語らずとも富国強兵策や外交についてや徳の在り様についても語ればよい(m9´ー`)
また、例えば三略の中から有名な「柔よく剛を制す」という言葉を拾ってきてみる。
この言葉の持つ本来の字義について考察してもよいし、太公望呂尚の時代での実例を探してみてもよい(m9´ー`)
語りようなどいくらでもある。
一つの定型に拘るのもわかりやすくてよいが時には自由に思索を広げてみるのも上策かと。。。
三略について語るなら張良の戦略を語るほうが妥当だったかな
「柔よく剛を制す」って考えてみれば、劉邦と項羽のことを指してるのだろうし(m9´ー`)
兵書の文言についてどうのと論じる、というのは俺には性に合わんな。
俺は、兵書や軍事理論書の類は、戦略戦術とは何か、というのを学ぶ為の手段に過ぎず、
その文言自体をどうこう論じるものでは無い、と思ってるからな。
大意を掴んだ後は、戦略戦術の根幹は何か、というのを戦例より学ぶのが良いと思ってる。
この辺はスタンスの違いだから、どうこう言い合う事ではないがな。
まあ、雰囲気に応じて参加させてもらう事にするよ。
ただ一つ、その指差しAAは若干不快に感じるので、できればやめてもらいたい。
北条早雲は三略の最初の一句を見て、兵法の極意を悟ったと言われるが、
三略の最初の一句は「務めて英雄の心を攬る」、人心掌握が大事と書かれているだけ'`,、('∀`) '`,、
兵法を学ぶとは確かに文言の一字一句を追うことでなく、
大計を理解する心を育むという事だろうね (・∀・д・)
そのことを理解せず、兵法を諳んじることで天才といわれたのが
趙の趙括、蜀の馬謖といったところか。。。
これは以前別のスレでも言った事だが、馬謖の失敗の原因は、
彼が兵法を真に理解していなかったという事にあるのではなく、
軍隊という組織そのものを理解していなかったが為、
その能力を上手く活かせなかった事が原因にあると考えている。
彼は実戦経験の無さから軍隊という組織を勘違いし、本来、部下部隊の指揮を受容するという
ボトムアップで形成されるべきところを、指揮官の詳細な指示で全てを動かそうとしてしまったのでは無いだろうか?
南北戦争のリー将軍も、指揮官の仕事は緊要な時機と場所に部隊を配置する事で、それ以上の干渉は有害だと説いている。
例え彼の頭の中に、高地を占めた後に行う素晴らしい戦術があったとしても、
まともに部隊を動かせないのでは失敗は免れようが無い。
己の意思で全てを動かそうという慢心が、部隊の崩壊に繋がったのだろう。
ただこれは、指示する措置が煩雑を極めた、という記述から想像を膨らませただけの考えに過ぎないのだが。
馬謖が軍隊を統率しきれず、そのために水源の確保ができず敗れたというのなら
やはりそれは馬謖が兵法というものを勘違いしていたと言える (・∀・д・)
よい戦術を編み出し、それに拠れば必ず戦に勝つ。それが兵法だと思っていたのだろう。
必ず勝てる戦術などなく、必ず勝てる将もいない。故に必ず勝てる戦などない。
特に街亭は北伐と言う大局からすれば、守る事こそが第一義(m9´ー`)
砦にこもらず、山頂に布陣したのは初陣でわかりやすい戦功を立てたかった馬謖のあせりに過ぎず、
兵法を知ることで自らを古の孫呉の如く、必勝の将と勘違いしていたが故の過ちだとキノコは思う。
孫呉であろうと、いかなる名将であろうと必ず勝てる保障があったわけではないのに。。。
38 :
魔旦伍 ◆777orzrao. :2005/12/13(火) 11:19:32
作戦篇「善く兵を用うる者は、役は再びは籍せず、糧は三たびは載せず。用を国に取り、糧を敵に因る」
まぁ水源を寸断された時点で、おそらくは速攻をかけて街亭から
離脱ぐらいはしたと思われるのでそこらへんの判断は適切だったと思う。
作戦篇「兵は拙速を聞くも、未だ巧の久しきを賭ざるなり。夫れ兵久しくて国に利するは未だ之有らざるなり」
魔旦伍さん詳しいな。
俺も
>>21の様に、
「魔旦伍は魔玉などと同レベルの糞コテ」
だと思っていたよ。
いやマジで見直したわ。
俺も一応、徳間書店の
「中国の思想10 孫子・呉子」
を、だいぶ前に読んだけど、とてもそこまで兵法語れねーよw
何かの本で読んだ事ある気がする・・・コピペか?
なんだかんだ言っても、戦例を知っておく事は重要だよな。
実際に兵を率いて戦う事は無くとも、史実の戦争を批判する機会はこの板にいればあるだろうし。
その時の指揮官の判断が正しかったのか否かは、多くの戦例を知ってないと判別が難しい。
>>40 俺が前に似たようなサイトを貼ったことがある
コピペとかサイトとかって、どのレスを指してるんだ?
孫子からコピペしてたのが、バレタか(m9´ー`
47 :
魔旦伍 ◆777orzrao. :2005/12/18(日) 21:20:44
小牧・長久手の戦いは戦術的には圧倒的に家康側が有利だった。
だが秀吉は戦略的に優柔不断な信雄を懐柔することで難を退けた。
謀攻篇「上兵は謀を伐ち、其の次は交わりを伐ち、其の次は兵を伐ち、其の下は城を攻むるなり」
ナポレオンが読んでた孫子ってやっぱ魏武注孫子なの?
操曰く「寡兵で勝つの難しいけど俺は官渡でやっちゃったよ!」
とかちょっと天然入った曹操注釈をボナパルトおじさんは読んでたわけ?
49 :
魔旦伍 ◆777orzrao. :2005/12/18(日) 21:31:55
フランス語翻訳の孫子があったのかどうかも知らないけど
現在伝えられる孫子が魏武注孫子を基にしてるのは確か。
で、よく考えたら斉孫子スレなのになぜか呉孫子の注釈本である魏武注孫子の話しかしてない。
斉孫子はそもそも読んだことないし(m9´ー`)
発掘された孫臏兵法って、保存状態が良くなくて所々抜け落ちてたような。
以前少しだけ読んだ記憶があるが、それをテキストに軍事を語れるとは思えない代物だった気がする。
53 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/27(火) 09:59:38
「兵は国の大事。死生の地、存亡の道なり。察せざる可からず。」
54 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/02(月) 06:59:33
いやだから
兵糧少ないときは迅速に動くとか
兵数が少ないときは密集陣で多いときは包囲形態とかじゃなくて?
「いやだから」が何に対してかかってるのか意味不明
何を言いたいのかも不明
56 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/02(月) 11:41:43
勉強になる
孫ピン兵法って後漢末には、まだ普通に読まれてたのか?
>>57 どうだろうな。漢書にはその名が見えるらしいが、隋書では完全に消えたらしい。
また、上記の理由以外に、曹操が孫子を注釈した際、孫臏兵法について触れなかった事などから、
孫臏兵法は2世紀末から7世紀の間に散逸したと考えられてるらしい。