勝成の晩年(五)
例四:法と情と
時代は乱世から治世に変わりつつあった。それにあわせて、武士も、官僚へと変貌していく。
当然ながら、官僚を管理するための機構が編成されていくこととなる。
目付(めつけ:諸臣の動静を報告する役。もちろん、逸物の寸法等も)
横目(よこめ:行事・事務や武士の行動を監督し不正を摘発する。もちろん、はみ○ンは許さない)
機構ばかりではない。不正をせぬよう、あらかじめ言質をとることもあった。
誓紙(せいし:誓いの言葉を記した紙。サインたる花押や印のほか、精も付けられていたという。
精のイカ臭い匂いの故、ごまかしは利かない)
しかし、勝成の時代、福山藩にはこれらのものは一切なかったという。
「私は世を治めるべく日々腐心しておるが、なかなかうまくいくものではない。しかし聞くところに
よると、日向守(勝成)殿のところでは目付も横目も置かず、誓紙もとらぬというに、よく治まっ
ておるという。…(中略)…近世における良将の中の良将とは日向守殿のことであろうか」
備前岡山藩主にして、江戸時代初期の名君として知られる池田光政は、このように語ったという。
(高名な儒者・熊沢蕃山の登用や閑谷学校の創設等)学問を修め、法理によって藩を治めた光政と、前
半生を乱世に過ごし、その豊富な人生経験から培った情によって藩を治めた勝成。方向性は違うがとも
に名君であったことは確かであろう。
その勝成にも最期のときが来た。快癒を願いつつも、主の危篤におろおろする家臣達に、勝成はこの
ように言ったという。
「お主達、そう取り乱すでない。わしの体のことはよう分かっておる。…わしは十五日に生まれ、十
五日に病に倒れた。ゆえに、十五日にこの世を去るであろう」
その言葉通り、十五日、眠るように息を引き取った。
福山の市街地、線路のすぐ北側に勝成とその子孫達の墓がある(賢忠寺に葬られたのだが、現在は、線
路のために寺は南側、墓は北側に分かれている)。勝成の墓は五輪塔であるが、その高さは実に5.1
mにも達し、その股槍の如き威容を今に示している。
勝成 追記(没後)
その後、水野氏は四代続くが、五代藩主・勝岑がわずか二歳で亡くなったため無嗣改易となった。しか
し、勝成の功績が考慮され、勝成の子の子孫が新たに藩をたてることが許され、明治維新に至った。
勝成は死後「聡敏大明神」として祀られた。これは、「聡明俊敏」からきているのだが、このスレ的に
は、「聡(「聡」く敵の尻を見つけ)敏感(股槍を「ビン」ビン)に立てた」というところであろうか。
その他のネタ
○勝成公の正室・お珊の方(三村氏)は生涯歯痛に悩まされたとかで、死後、歯痛の人を救うとして
祀られているそうです。
どうも、肛談・豪尻 塙団右衛門 氏のようなネタの練り込みが不足しておりますが…。ともあれ、拙い
ながら、鬼日向・水野藤十郎勝成公でのネタ、これにてひとまず完結でございます。