周瑜は最近存在が無くなってきた。
光栄三国志シリーズでは曹操の次に有能な武将。
だが演義で諸葛亮に躍らされ正史でも影が薄くなってきた。
そんな周瑜の良い所、悪い所に語れるだけ語るスレです。
2 :
つるじょあ ◆MANKO/NnuA :2005/11/18(金) 21:58:49
___
/∵ ∵ \
/∴ ヽ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
, |∴ / \ |、 /
|`──-( / )-( \)l | < 和製 周瑜見参!
| [ , っ l | \
`-, 'ヽ、_ソ }' \____________
ノ ヽ、 `' ノ、
/ ゝ ── ' ヽ
おっちゃん何しとんのや
4 :
つるじょあ ◆MANKO/NnuA :2005/11/18(金) 22:03:18
___
/∵ ∵ \
/∴ ヽ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
, |∴ / \ |、 /
>>3 おっちゃんの良い所、悪い所を語るスレやて。
|`──-( / )-( \)l | <
| [ , っ l | \ ワシに悪い所なんてあったかな??
`-, 'ヽ、_ソ }' \____________
ノ ヽ、 `' ノ、
/ ゝ ── ' ヽ
禿
6 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/18(金) 22:05:04
つるじょわやめんかい!
真面目な考察系には手を出すな
首吊る女亜、いくら領土が欲しいからってこんな良スレの予感がするスレに手を出したらあかん
本城にひきこもってなさい
良スレの予感なんて全然しねえし┃━┏┃
>>1 真面なスレだよ、真面なスレなんだけどね。
なんでだろ、パッと見おもしろくないね。
光栄三国志で云々書かれてる時点でやる気が抜けるよ。
>>1 × 美周朗
○ 美周郎
====糸冬了====
再開!!
良スレのヨカン!
周瑜って長生きしてれば絶対天下の状勢変わってたよな。
ホウ統も孫呉に留まってただろうし。
14 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 22:17:45
あげようか
15 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 22:24:49
栄光か破滅か
三国にはならなかったかもな
周瑜の天下二分の計って反曹操連合を結成するって事だよね
最近正史普及の影響で孔明の方が叩かれてるけど
周瑜って結構慎重だったから孔明の行動先読みできても失敗したらどうしようとか言う考え持ってたりして
周瑜って別段慎重じゃないと思うが
それにその頃の孔明はまだなんも活躍してないんじゃない?
保守age
22 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/28(月) 00:46:46
天下二分て呼び方に納得がいかんよ。
呉、魏、涼の三分だろ?!!!!
魏VS呉&涼の連合だからいいんじゃない?
それより、呉と西涼が本当に連合組めたか疑問。
漢に対する姿勢とか、勢力としての在り方に共通項を感じないんだが。
曹操に対抗する意思は同じでも、西涼勢は一旦同盟組んでた劉備を飲み込んだ呉を警戒したんじゃないだろうか。
馬超って滅茶苦茶疑い深い感じだしな。
曹操を疑って、韓遂を疑って
韋康を疑って、趙昂を疑って、張魯を疑って、彭ヨウを疑って。
安易に信用せずに疑うのは大事だけど、
こいつに関しては疑心暗鬼っぽい印象がある。
>>23 お互い曹操をなんとかしたいと思っていて、さらにそちらに手を回す余裕はないわけだから、
最初は間違いなく上手くいく。問題はいつ割れるかで、それは予想つかないな。
2分が上手くいっても
>>25の言う様に賈クあたりが策を練って同盟に亀裂を入れさせそうだな。
呉が吸収した益州・荊州勢もつつけば反旗を翻さんとも限らんしな。
ただ、周瑜が生きていたら同時に軍を出して牽制したり、呂蒙が上手いこと育ったら、
魯粛とタッグで2方向から攻め上がったりホウ統を重用して活躍させることも出来たかもしれんかな。
馬超って潼関の役までは、どっちかっつーと曹操側の人間、
曹操が呉を警戒して漢中遠征取り止めてたら、馬超と曹操は敵対関係に無い可能性も高い
「協力して張魯攻めようぜ」と言われただけで先手を打って襲撃をかけてくるぐらいだからほっといても近いうちに独立するだろう。
突けば今にも爆発しそうな爆弾だよ。
むしろ、馬超を放置して呉と事を構えてる間に馬超が突如大軍勢で侵攻、とかやらかして漁夫の利を持ってく可能性もある。
だからこそ曹操は先手を打って漢中方面以西をまず片付けようとしたんだろうし、そういう意味では馬超の判断も間違いではないな。
「協力して張魯攻めようぜ」じゃなくて
「張魯攻めるからそこちょっと通して。あ、ついでに韓遂捕縛してきて。ヨロスコ」だし
いつの間にか馬超スレになってる希ガス・・・
元のつるじょあスレに戻そうぜ
32 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/11(日) 16:41:18
age
33 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/11(日) 18:06:04
age
34 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/15(木) 20:02:03
孔明の引き立て役にされたり、やおいネタにされたり、キモイ女顔にされたり・・・
ロクでもない扱いが多いが、
「外にあっては孫家の牙となり、内にあっては柱石となり、主公のために骨身を削り、
節度を守り、しかも死とは天命であって、安らかに還る場所であると考えていた・・・」
とかいう死後に語られた人物評を読んで、思わずホロリとしたことがある
孫策の死後、政権乗っ取ろうと思えばかなりの確率で実現のメドがあったし、
そもそも孫家の急激な勃興じたい、根幹にこの人の存在がなければ不可能だった
最後まで攻めの姿勢を貫いて前線で死ぬのも男前だし
対立してた魯粛の現実路線に事後をゆだねたことにも感服してしまう
立派な将軍、見事な漢だと思っている
>>34 >孫策の死後、政権乗っ取ろうと思えばかなりの確率で実現のメドがあった
する必要があったの?
恨みを抱えてる孫家よりは、周瑜が取り仕切った方が統治は上手くいくので
民意を考えれば「する必要あった」かもしれん。
でも、それをしない周瑜の忠心スゴスという話なんだろう。
そんな簡単に乗っ取ることなどできんだろ
>>36 新たな恨みが発生し、孫家を恨む者もあーやっぱりねで終わりそうだ
それまでバラバラだった豪族達を孫家という強力な牽引力でまとめあげた以上
それをそっくり奪うというのはかなりバクチだろ
もっとも成功率がそれなりにあったからこそ
劉備も孫権相手にほのめかしたりしてたんだろうけど
39 :
34:2005/12/15(木) 22:21:27
>>37 簡単だとは思ってないよ、ただ周瑜自身にその野望があったなら、
成し遂げ得る土壌は十分にあっただろうな、と思ってるまでで。
38が言うように孫家の領袖の座をそっくりを奪うのは確かにバクチだけど、
大豪族たちの力の根強いあの地方で、
短期間のうちに領袖の座を占めた孫策の軍事的志向の強さについて行けず、反発してた人々も多かった。
結局、それらの豪族が完全に孫家の傘下に入るのは孫権の時代になってからのこと。
婚姻政策で血縁関係を結んでみたり。
まぁ、なんやかんやで、周瑜がつけいろうと思えばつけいるスキは十分にあったのではないかと。
なんといってもあの周景を輩出した名門周家の出身だし。
父孫堅の名声や地縁を受け継いでなお前途多難だった孫策が成功できたのは、
周瑜やニ張といった士大夫層の取り込みが上手くいったことを大きな一因とする説がある。
しごく的を得てると思う。
それに孫策の死後、周瑜が率先して臣下の礼をとったことで、混乱なく
まだ20歳にもならない孫権への権力移譲がスムーズに進んだことも明記されている。
…などなど、考え合わせるとね。
力も才もありながら、忠心篤い名臣だった、と思うわけで。
クサイけど、美周郎というのなら、北方が書いたようにまさに生き方が美しい男、つうか。
容姿は演義系の小説でいわれるほど、超絶美形ではなかったようだけどね。
ただ彼が非常に幸運だったと思うのは、孔明と違って、
最初に心から臣従した主が死んだあと、それを継いだ者の器の違いかな。
「孫権が駄目なら、君が取れ」と諸葛亮よろしく言われたのは張昭なんだよな。
呉において多大な影響力を持っていたのは張昭と周瑜の2人。
この2人が率先して、派閥争いも起こさず支えてくれたんだから孫権はある意味とても恵まれてる。
周瑜が軍を担い張昭が内を取り仕切る両輪体制が初期の孫権政権を支えていた。
周瑜は後世でも好かれてるね。
魯粛・呂蒙・陸遜も優秀だが、周瑜は将の将たる魅力があったんだろう。
魯粛が去りかけたときも止めにくるなど小まめなフォローしてたみたいだし。
43 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/17(土) 00:25:33
名士の周瑜が率先して孫家に従う事で
どうにも軽んじられ気味だった孫家の名声が高まったという。
程普曰く「芳香な美酒を飲んでいるようで酔っている事に気づかない」
との事だが、実際に会って見るとおもいっきり圧倒されて信者になってしまうか、
逆に大嫌いになってしまうかのどっちかなんだろうな。
大嫌いになった奴はその程普ぐらいじゃね?その後の態度も含めて特殊な例だと思うが。
程普両極端だよ程普。
両極端ではあるけど、でもその潔さは将に軍人としての美徳なんじゃない?
そりゃ、誰だって自分よりも若いヤツにあれこれ言われるのは快く思わないだろうからね。
しかも自分は最古参な訳だから。
それでも力を認めれば、付いて行くっていう。
そして周瑜はしっかり認めさせてるっていう、ね。
周瑜ってすげーなって思うところは
蜀ヲタや魏ヲタにも意外と好かれてるところ。
あの時、孫一家が引っ越してこなければ、
もっと違った人生を歩んでいたのだろうか?
引越して来た説と周瑜がわざわざ訪ねて行った説、どっちが本当なんだろ
訪ねて行った説は「江表伝」が出典で、あれは美味しい話が多いよな
周瑜=美酒エピソードもそうだし
いずれにしても孫策との出会いが人生を決定的に左右したのだと思う
孫家と関わってなかったら曹操のとこで頑張ってたかも
>>49 順当にいけば袁術の所だが、「林檎が木を選ぶ」と豪語する周瑜はきっと他に流れただろう。
そうするとやはり当時北方の名士を集めていた孫策に招かれたか、中央に目を向けて曹操に仕えたかな?
曹操の所に仕官。有能な地方行政官として一生を過ごす・・・
あれ?こっちのほうが幸せ?
孫家と関わってなかったら劉備のとこで頑張ってたかも
それはさすがに…
孫家と関わってなかったら公孫淵のとこで頑張ってたかも
孫家と関わってなかったら韓玄のとこで頑張ってたかも
孫家と関わってなかったら周尚のとこで頑張ってたかも
孫家と関わってなかったら小喬とは別の女性の上で頑(ry
58 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/25(日) 08:20:07
死の間際に孫権に宛てた書簡の内容というのを以前この板で見掛けて感銘を受けた記憶があるのだが、どなたかそれをもう一度貼ってはくれないだろうか
自分もみたいっす
60 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/27(火) 00:31:25
魯粛を後継に指名したやつ?
うん
558 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 2005/10/16(日) 23:25:35
上の方でも触れられていたが周瑜の孫権に宛てた遺言。
泣ける・・・
私には取りたてて才能もありませんのに、かつて討逆将軍(孫策)様より特別の御礼遇をいただき、
御信任を受けて任務に就き、軍の指揮に当たってまいりました。御君主の為に犬馬の労を取り、
軍旅の間に手柄を立ててご恩報じをしたいと願ってまいりました。巴蜀の地を取り、続いて襄陽を
手に入れようと計っておりますが、我が君の御霊威をお借りするならば既に手中にあるも同様、
元より容易な事でありました。
しかるに、身を謹みませんでした事から、途上にあって急病を得、先ごろより療養に努めてはおりますが、
病は衰える気配がございません。人として生まれた以上、死は運命であって、ここで命を捨てる事は惜しくはありません。
ただ私のいささかの志が為されぬままに終わり、もう御命令を奉じる事ができない事が心残りでございます。
ただいま曹公が北方にあって国境地域はなお多事であり、身を寄せて来る劉備にも油断はならず、
天下は未だ帰結が知れません。これこそ朝廷にある者達が寝食を忘れて力を尽くすべき秋であり、
陛下も御聖慮を巡らせられる日(とき)でございます。魯粛は真心を尽くして役目に励み、事に当たって
なおざりな行動は致しません。私にかわって職務にあたる事ができます。
人が死のうとするとき、その言葉に邪意はないとされます。私のこれらの言葉に御採用頂ける所がございますならば、
私が死にました後も、魂は永遠に生き続けるのでございます
63 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/27(火) 18:28:18
うん泣ける・・
36才か・・・早過ぎる
もし60才まで生きていたら、歴史はまったく違っていたかも
しれないな
これです!ありがとうございました。
保存します。
普段は魏贔屓なんですが、どの国の人間であれ、その痕跡に触れてみれば皆ドラマを感じる
66 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/30(金) 00:11:41
天下二分だけは絶対無理だったと思う
67 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/30(金) 00:40:45
やべぇ泣けた
しゅうゆマジかっこいいな
68 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/30(金) 00:42:57
魂は永遠に生き続ける、てのが泣ける…
イケメンで若くして出世してて超綺麗な嫁さん貰ってて・・・
すべてにおいて俺とは対照的だ
ある意味三国志全人物中一番好かん
>>69-70 そうだよなー
自分は女だけど、そう思うのも無理ないよなぁ
周瑜が本格的に孫家の家臣になるべく東呉へやって来たとき、
孫策が屋敷だの軍楽隊だのをいろいろ与えて、それに際して、
「これでもまだ、最初の旗揚げの時の周瑜の支援に報いるには足りないのだ」って
令をわざわざ発布してるじゃない?これも結局、
そういうモヤモヤした嫉妬まじりの気持ちを抱いていた家臣がたくさん居たからだろうね。
でもって、嫉妬羨望交じりで見られてることも、そういう人たちの気持ちも理解してて、
だからこそ謙虚にふるまって人と争わず、次第に程普などの古参たちも懐柔し得た、と。
合理的というか、人柄が練れているというか。
>>69 安心しろ。
そのかわりおまいは無駄に長寿だ。
>>71 ぶっちゃけ孫策の身内びいきに見えて逆に羨まれそうだが。
若くして出世も何も、
名家出のボンが、急造の台頭軍閥に頭下げてる事に
むしろ感服する人のが多いんじゃないか?
モヤモヤした感情を抱かれるのはむしろ、孫家の方だろうし
75 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 12:58:04
そういや赤壁の映画はどうなるんだろう?
周瑜好きとしては楽しみだけど、ちょっと不安だなぁ。
76 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/21(土) 16:09:01
演義準拠っぽいしな
77 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/26(木) 19:58:49
umu
孔明の引き立て役だろうな
79 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 00:27:49
美周朗とはいっても当時の中国で「美」の意味は今と違うと思うよ
そりゃ、 爺=若君 だからな
81 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 05:58:11
>>80 いや、それ違う。強引に定義すれば爺=様
老爺=旦那様
少爺=若様
これは本来の使い方
その変形
大爺=1、おじいさん(尊敬と親近を含める)
2、俺様(自分を指す時に尊大語)
「美」の漢字としての意味は昔も今もほとんど同じ。
無論美に対する見方は変わってきた。
ん?国姓爺は“朱姓もらった(鄭家の)若”で良かったはず
83 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 17:20:54
漫画だけど蒼天航路の周瑜の死に様は泣けた
84 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 14:37:07
園田三国志を忘れるな!
85 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 01:42:52
あれは逆に神
86 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 07:10:10
魯粛と曹仁が一騎打ちで互角
ご存知の方も多いでしょうが「美周郎」なんていうてるのは演義だけだから。
正史では単に「周郎」。美なんてつかん。
長壮にして姿貌あり。デッカクて(もしくは中年になって)見栄えのする男でした。
ぐらいなもん。渋いイメージの程普とかも同じ形容詞されとるし、
あのレベルの容姿表現は他にも結構出てくる。
無双のキモイ女顔は禿しく 間 違 い。
それをうけいれたくない奴がいるんだもの…
89 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 01:01:01
ジュンイクとどっちがイケメン?
>>87 キモい女顔ではないだろうが、
民間伝承から演義の成立過程で「ヒゲがなくても鑑賞に耐える」メンツに
入れられているらしい
成都で売られている切り絵セットから推測すると
同様の人物は曹丕・趙雲・馬超・孫策・陸遜だそうだ
(ソース:超おもしろ三国志/阿部幸夫)
それでも当時の中国人の美形だから
石原裕次郎とか藤岡弘とかそっち系統よりさらに骨太だろうね
91 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 00:37:01
瑜の後は魯粛に!
なんと悔い無き天命よ
(ノ∀`)タハー
>>62 こんな素晴らしい人が早死にするとは。
いや、早死にしたからこそ耄碌した醜い姿を晒さずに済んだと言うべきか。
いずれにせよ・゚・(ノД`)・゚・
最後の魂が〜のくだりは原文だと
瑜死不朽矣.
でより一層名文だ
96 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/14(火) 04:31:23
この遺言って実際に書いたの?それとも蒼天のオリジナル?
?蒼天に遺言の内容なんてでてきた?
後の世の歴史家が書いた
99 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/14(火) 14:51:58
いや、発言などはともかく、このような重要人物の遺書は本物の可能性がかなり高い。
曹操の遺書もそうなんだけど、出師の表も実物が残されていたと思う。
瑜以凡才,昔受討逆殊特之遇,委以腹心,遂荷榮任,統御兵馬,志執鞭弭,自效戎行.
規定巴蜀,次取襄陽,憑ョ威靈,謂若在握.
至以不謹,道遇暴疾,昨自醫療,日加無損.
人生有死,修短命矣,誠不足惜,但恨微志未展,不復奉教命耳.
方今曹公在北,疆場未靜,劉備寄寓,有似養虎,天下之事,未知終始,此朝士[日干]食之秋,至尊垂慮之日也.
魯肅忠烈,臨事不苟,可以代瑜.
人之將死,其言也善,儻或可採,瑜死不朽矣.
101 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/15(水) 04:35:55
実は孔明より年上
102 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/15(水) 07:26:55
そりゃそうだろう
103 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/15(水) 07:41:05
東郷・秋山コンビとと戦わせて見たい。
104 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 05:33:23
周瑜の女性関係が分からないんだけど、小橋以外に奥さんいないの?
105 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 05:34:25
とりあえずアンディ・ラウにやってほしい。チョウ・ユンファじゃない。それだけ。
東尾・秋山コンビとゴルフ対決
>>104 不明
ただし、ニ喬は周瑜の方が孫策に話を持ちかけてきているので
周瑜は惚れ込んでいた可能性大
孫策にとっての大喬は妾でしかないがな
>>107 正室説もあるよ
日本と違って中国は嫡子を生めば側室から正室に繰り上げになるからね
甘夫人と糜夫人の関係みたいに
伝説どおり孫策が大喬を迎えたのが24歳の時とするなら
大喬一人で子供三人は(当時の価値観から獣腹は却下)ありえないんで
他に妻か愛妾がいたのは間違いないけどな
大喬が生んだのが女の子だった場合、側室のままかもしれないし
ただ、正妻ってのは正室と側室ひっくるめて正妻
(子供が私生児にならない身分なら何番目の妻だろうと正妻)なので
安易に妾とか言うのやめれ、近代日本じゃないんだから
は?
妾ってのは側室って意味なんだが?
お前言葉のイメージだけ記憶して意味ちゃんと調べてないだろ
いちいち煽るなよ…
111 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 14:20:05
側室は女嫌いと憶測される趙雲でさえもいたのに・・・
諸葛亮もたしか3人ぐらい居た気がする。
周瑜位の地位の人で側室0人てどれくらい普通なんだろ?
見当たらないけどいたのかな?それとも愛妻家は実像か?
鋏事件伝承もあるしな・・・。
妻の地位って、嫁して後は実家の家格が、子を設けて後は子の身分がモノをいって
変動するからなんとも微妙。
要は黄巾の乱なんだろ?
当時、金があれば女を囲うのは十代からでも普通にやるもんだ
116 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 23:02:28
孫堅の女性関係はすごい。10代から浮名?悪評?を流しまくり
117 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 23:40:48
なんせ儒教は子供を多く生むのは善で子供を生まないのは悪と考えていたからね。その為に複数の女と関係を持つことはむしろ良い事とされていた。
118 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 23:48:26
>>117 えっ!?そうなんだ!
でも孫堅の場合は住民に嫌がられてたみたいだよ。
孫堅それなりには地位があったのにね;
119 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/03(金) 00:42:40
>>117 子供を生まないのは悪○
子供を多く生むのは善▲
子供というか、男子の跡継ぎを生まないのは最大の不孝の一つ。
多く生むのは善って話がないが、ま、悪いことじゃないのは確か。
>側室は女嫌いと憶測される趙雲でさえもいたのに・・・
> 諸葛亮もたしか3人ぐらい居た気がする。
趙雲の息子二人の母親は側室?
ソースは?
121 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/03(金) 02:17:20
>>120 なにかの本で読んだ気がするんだけどネットで検索しても出てこない・・・。
ガセネタ認定で結構です。
諸葛亮の地位じゃ三人いてもおかしくないし、趙雲にいてもおかしくはなかろう
ただソースはないな。以上
「〜てもおかしくない」で言うと、なんでもアリになるよ。
諸葛亮なんか長いことかかってやっと自分の子が生まれたけど、
その母親が黄承彦の娘じゃないなら、正史か裴注に記述があってもおかしくない。
>>123 黄承彦の娘なら、えらい高齢出産ではないか?
当時の女性は何歳まで子供を産めたんだろうか。
現代でも30代後半で初産は大変だぞ。
隆中時代に既に結婚していたのだから、それなりの年齢だろうに。
125 :
Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/03/21(火) 16:23:37
諸葛瞻の年齢から逆算すると、
母親が黄承彦の娘であれば50過ぎで彼を産んだことになる。
女性が子供を産めるのが50までとすると、
別の女性に産ませたと考えるほうが自然ではある。
126 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/21(火) 17:24:30
>>111 郤正の論文に拠れば、姜維は妾を持たなかったらしい。
昔の中国の妻は基本4人だっけ。天帝の妻の数に習うとか何とかで。
>>104 亀レスだけど
周瑜の子供って周循と周胤と娘1人なはず
側室いたらもっとうじゃうじゃいそうな気が・・・
それに真実かわかんないけどあの時代で夫にハサミぶんなげるほどの妻だからありえない話じゃないお
130 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 14:11:24
131 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 17:18:29
子供いるし
中国の女が強いのは今も昔も変わらないと思う…。
男尊女卑ってのは、そう唱えないと男が女に虐げられるくらいに強い女が多い国であるほど発達してたんじゃないかという気がするんだが。
134 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/08(土) 22:34:25
お前あほか?昔は女家畜以下だったんだぜ?特に中国。一生肉便器。
135 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/09(日) 09:43:15
>>134 女≠肉便器
女=子を産む道具
国家のことには勿論口出しは出来ないが、世継ぎに関しては口出しする。
また、自分の息子の邪魔になる子どもは、姑息な手段で消していく。
男同士が戦で殺し合うより、はるかに陰湿で残酷。
子供の数、特に女児が何人居たのかはハッキリしないよな
中国の女って=物凄い教育ママだろ
耶律楚材とか顧炎武とかみるに
劉備の母も強けりゃ、徐庶の母も孫権の母もやたらに強い。
いくらフィクションとはいえ、これが中国で長年人口に膾炙してたことを考えると、さあ。
子を産む道具であろうが人権なかろうが基本的に中国の女は烈女っていうんだか、強ぇーくて怖ぁーいイメージがある。ケンカしたくない。
女は弱し、されど母は強し
列女伝くらい読もうよ
美周朗って捏造って本当?
当時の美男子は、今の美男子とは大きく違うはず
144 :
無名武将@お腹せっぷく:
蒼天の美周郎は良かったな〜