張昭に対してはともかく陸遜に対して行なった「名士・大豪族としてかなり配慮した態度」って何を指してるんだろ?
張昭に対しても「大豪族だから」という域を越えた待遇で、仮に他の大豪族や名士が同じことをしていたら
即刻クビが飛んでた。
むしろ孫策や母親にわざわざ頼まれたということがでかいんだろう。
張昭が大豪族?
えーと…張昭の地盤は徐州でありまして呉では豪族でもなんでもないですよ
張昭は名士であって豪族ではない
呉の四氏の朱・張・顧・陸の張とは別物なんだっけか。失礼した。
そのまま「名士だから」と読み替えてくれ。
218 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/28(土) 14:54:53
陸遜については、孫氏との婚姻、要職への登用、さらには死に追いやってからの処遇などが上げられるかな。
でも一番大事なのは、いわゆる四姓など大豪族が要職を占めて国政をコントロールしてたこと。
大豪族たち=自民党
皇帝孫権=小泉首相
要職への登用とかは単に功績・能力共に飛びぬけてたからだろ。
死後の処遇もいたって普通。
婚姻は間違いなく豪族だからだろうけど。
陸遜も荊州攻め以前は定員無し6品官の定威校尉とか、帳下右部督(恐らく会稽太守の属官の帳下督の補佐?)など。
そこから呂蒙の後任としてやっと偏将軍右部督になり、関羽を破って一気に太守職・将軍位・侯位を授かる大物になった。
あれがなければ陸遜のあそこまでの栄達はない。
むしろ陸凱の例の方がよっぽど「大豪族陸氏だから」という感じはする。
>219
陸孫の場合、陸孫の親世代で孫家と険悪だったから、孫策の娘を娶って家単位での和解はしたけど、組織としての要職への登用には躊躇があったんでないかな?
荊州攻め以前が、ちょっと処遇が軽い様な気がする。
荊州攻め後は、明らかに本人の能力の方が影響力大でしょうけど。
>>220 荊州攻め以前は陸家筆頭は陸遜じゃなくて陸績だから
豪族社会においては筆頭が他にいるのにその家の者を重用するわけにはいかんでしょ
>>221 本当にミカンが筆頭だったのか。
彼らとは別に栄えていた陸凱系はどうなのか。
そもそも○家筆頭という概念が当時存在していたのか。
ただ、いずれにしろ、当時の呉が豪族中心の社会であったことは間違いないね。
皇帝ですら豪族には勝手な振る舞いは出来なかった。まさに南北朝や隋唐のさきがけ。
例えば袁紹と袁術は袁家本流をどちらが引き継ぐかで大揉めに揉めてる
袁術は袁紹を妾の子が本家の養子になっただけと考えるし
袁紹は自分が本家の養子で正当な後継ぎと考える
筆頭という言い方が変なら当主って言い方に変えればいいかな?
224 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/29(日) 11:49:16
あれそんなに揉めてたの?
政治的スタンスで割れてたのかと思ってた。
225 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/29(日) 12:20:53
だって袁術だし
226 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/29(日) 12:27:09
孫氏政権は袁術の後継者
>221
陸家は、陸績(だっけ?)が幼かったんで、とりあえず陸孫が一族を代表してたのでは?
そんで、孫策の娘を娶ったのだと思ってたんだけど。
陸績は確かに陸遜よりも年下だけどほんの数年の差だし血筋は陸績が嫡流
袁術から蜜柑を盗んだので名士間の評判がガタ落ちしたために陸遜に孫策の娘が回って来たんだよな
230 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/30(月) 13:29:14
みかんage
231 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/30(月) 23:40:46
そして陸績の蜜柑は後に左慈が中身だけ食べたらしい
左慈、おなか壊すよ
233 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/30(月) 23:46:56
雷鳴の左慈
折角「孫呉の政権構造」の話題で盛り上がったからこそ確認しときたいんだけど、
一言に名士豪族といっても内容的にはより細分化して捉えないと誤解を招かないかな?
北方出身の者も多い名士と揚州に地盤を巡らす豪族は別物だし、
孫策政権下では前者の張昭・張コウといった面々は厚遇され陸康らは迫害された。
北方出身に限らず同じく揚州出身の名士である周瑜・虞翻も孫策に厚遇されている。
他にも直接政治に関与しないが現実的な実力を保有する軍人達も無視できず、
孫堅・孫策時代は特に彼らによって支えられていた部分が大きかった。
周瑜なんかは尚書令・尚書朗・大尉・大尉と続けて排出するなど袁紹に近い家格を誇る名士であり、
故郷盧江では絶大な影響を持つ豪族、軍人のトップでもあるなど
明確な線引きはできないけどね。
235 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 22:29:36
みんな分かってるだろうが、
「寒門」は必ずしも貧困層ではないので注意
「ある程度の財力や教養はあるけど、大豪族のネットワークから外れてしまっているために官位などをうまく得られない新興の豪族」
おそらくだが呂壱なんかはそんなタイプではなかろうか
「寒門」という言葉自体には「低い・賤しい家格」という意味しかないと思うが。
「上品無寒門、下品無世族」
この場合は世族が上流貴族を指すから豪族の中でも低い家格の豪族を指して言ってるのだろうが、
「寒門」だけで「ある程度の財力や〜」と限定的に説明するのはどうだろう。
そういった者も含んだ語ではあるのだろうけど。
呂壱について調べてみたが、中書朗・校事になった以外の来歴が全く追えないので判断不能。
誰に推挙されたとも、どういう生まれとも見つけられなかった。
>>234 陸康が殺されずに降伏してればそれなりに厚遇されたと思う
ついでに虞翻・賀斉は会稽四姓の有力な豪族
>>237 うん、だから周瑜もそうだけど明確な線引きはできないけどねって話し。
虞翻は土着の豪族としての側面よりも孔融にも評価されるような名士的側面の方が強いかなと。
陸康が積極的に孫策を支援するようならそうだろうけど、そうじゃないから宗族の大半が殺されたわけで。
揚州豪族を弾圧したから陸康を迫害したわけじゃなくて、陸家を迫害したから揚州豪族と対立したのが正しいか。
>>236 皇帝に直接取り上げられる時点で、最低限度の教養があることは間違いないわけ。
で、教養がある以上は貧困層というのはむしろ稀。ありえないとは言わないけどさ。
限定してもあまり問題ないと思う。
あんたも言ってるように家格が低い=豪族・名士(貴族)のコミュニティに入れてもらえない、言い換えれば高い官位・重要なポストには事実上就けないランク。
実力でのし上がり、皇帝または群雄の目に留まるというのが寒門のほぼ唯一の出世コース。
呉にしたって、呂壱があれだけ嫌われる汚れ仕事に手を染めたのはそれしか出世の道がない寒門だからだろうし、豪族・名士の層からは蔑まれる寒門だったからこそあそこまでひどく言われたという側面もあったはず。
240 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/01(水) 08:06:55
孫登は即位したら孫皓のようになるかもな。
>>239 皇帝に直接取り上げられるものなんて寒門の極一部じゃあないですか。その一部を全体のように語るってのはおかしな話し。
「ある程度の財力や教養はあるけど、大豪族のネットワークから外れてしまっているために官位などをうまく得られない新興の豪族」
というような限定的な意味合いはありませんよと言ってるわけで。
財力があろうがなかろうが、教養があろうがなかろうが、新興の豪族であろうがなかろうが寒門は寒門なわけですよ。
資財巨万と言われた陳書の劉テンも豪族ながら貧賤に喘ぐ名門の王元規に家柄を理由に婚姻を断られる寒門もいれば、
家が貧しくて油も買えない晋の孫康や薪取りの合間に学問に励んだ黄蓋やわらじ売りながら親戚を頼って師事した劉備もいる。
そうやって豊貧に関わらず教養ある寒門もいれば、字が書けぬ王平や基本的な書物に目を通したことのなかった呂蒙もいる。
河北郡の馬氏・韓氏のような大豪族でもただの無頼の徒と呼ばれるし、
裕福で教養もあって周瑜・諸葛謹・劉曄らとも親交のあった魯粛も、そもそもは何らかの家業に従事していた
富豪の家系であって豪族貴族ではない。
例に挙げたように寒門であっても千差万別だし、上に挙げた例も歴史に名を残すような極一部の例外達。
寒門の多くは貴方のいうように家格が低いため出世もできず、
その結果貴方の例とは逆に家も裕福でなく教養も劣るもので占められてるでしょう。
多分貴方の想定してる郷里の官位選抜制度(魏でいう九品中正官、呉だと太交平)による官僚出世コースには
実力でのし上がり、皇帝または群雄の目に留まる道すら皆無だと思う。
成立当初ならあったかもしれないが、
そもそも実力で目通りできる所までのし上がることのできる制度で無くなってしまったので
貴方のいう豪族のコミュニティなるものが重要になった。
寒門唯一の出世コースは古来から変わらず戦乱期の軍部だと思う。
時代は下るが恩倖ってパターンもあるし
皇帝と直に結びつくのも出世コースのパターンだと思うが
そもそも有力者も皆が皆親類縁者ばかり推挙するとは限らなくない?
実力と、なにより運さえあればチャンスは僅かながらあったと思う。
魏では孫資・劉放、蜀においては陳シの類だったんじゃない?
陳シは許靖の娘婿だ
246 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/01(水) 19:54:06
>245
許靖の兄の外孫。
陳シは不適当だったな
248 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/01(水) 20:41:39
孫弘だろ
249 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 12:31:02
孫盛は孫資の子孫で別伝著者age
結論としては、孫登が後を継いでも呉にとって特別に良いことはない、ということだな
あるよ
252 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 00:46:37
あるよだけで具体的なこと言わないと納得できないあるよ
ニ宮の乱が起きないだけで充分特別に良い事ジャン
乱じゃなくて変ね
間違えた
孫登が長生きするのが条件だが、蜀が滅ぶ263年位まで生きてたなら、もう少し面白くなったかもね。
天下統一してない司馬炎が酒色に溺れるとは思えんので、結局滅んだかもしれないけど。
その後は英が継ぐんディスカ?
257 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 11:23:10
孫登が蜀を魏に先んじて併呑でもしない限り、滅びるまでの期間はあまし変わらんよな
しいて考えるなら、国内の混乱も無くがっちり固まってたら晋の279年の征呉も撃退できた可能性はあるかな?ぐらい。
外的要因に変化はないので駄目なものは駄目だったかもわからんが。
259 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 06:57:58
>258
晋の南征は、呉の混乱に乗じて、ってのが前提で、呉の国内がしっかりしてたら、動かなかったかと。
なんせ、数人を除いて、カ充以下主だった重臣のほとんどが南征不可を主張してるし。
まぁ、先延ばしってだけだとは思うが。
二宮の変が起きなかったとすれば、
嘉平二年(250年)夏〜冬の遠征は無かっただろうな。
尤も、結果的に魏は撤兵しているが。
ちくま誤訳あげ
262 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/14(火) 10:44:24
楊竺無罪
263 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/16(木) 20:18:38
腹黒陸遜伝説
愛国無罪