孫登が孫権の跡を継いでいたらどうなっていた?

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241無名武将@お腹せっぷく
>>239
皇帝に直接取り上げられるものなんて寒門の極一部じゃあないですか。その一部を全体のように語るってのはおかしな話し。
「ある程度の財力や教養はあるけど、大豪族のネットワークから外れてしまっているために官位などをうまく得られない新興の豪族」
というような限定的な意味合いはありませんよと言ってるわけで。

財力があろうがなかろうが、教養があろうがなかろうが、新興の豪族であろうがなかろうが寒門は寒門なわけですよ。
資財巨万と言われた陳書の劉テンも豪族ながら貧賤に喘ぐ名門の王元規に家柄を理由に婚姻を断られる寒門もいれば、
家が貧しくて油も買えない晋の孫康や薪取りの合間に学問に励んだ黄蓋やわらじ売りながら親戚を頼って師事した劉備もいる。
そうやって豊貧に関わらず教養ある寒門もいれば、字が書けぬ王平や基本的な書物に目を通したことのなかった呂蒙もいる。
河北郡の馬氏・韓氏のような大豪族でもただの無頼の徒と呼ばれるし、
裕福で教養もあって周瑜・諸葛謹・劉曄らとも親交のあった魯粛も、そもそもは何らかの家業に従事していた
富豪の家系であって豪族貴族ではない。

例に挙げたように寒門であっても千差万別だし、上に挙げた例も歴史に名を残すような極一部の例外達。
寒門の多くは貴方のいうように家格が低いため出世もできず、
その結果貴方の例とは逆に家も裕福でなく教養も劣るもので占められてるでしょう。

多分貴方の想定してる郷里の官位選抜制度(魏でいう九品中正官、呉だと太交平)による官僚出世コースには
実力でのし上がり、皇帝または群雄の目に留まる道すら皆無だと思う。
成立当初ならあったかもしれないが、
そもそも実力で目通りできる所までのし上がることのできる制度で無くなってしまったので
貴方のいう豪族のコミュニティなるものが重要になった。

寒門唯一の出世コースは古来から変わらず戦乱期の軍部だと思う。