1 :
無名武将@お腹せっぷく:
長安を奪ったり、李カクを脅かしたり結構強い西涼勢について語りましょう
馬超をはじめ韓遂、ホウ徳、馬岱、揚シュウなど人材豊富で兵馬は強いのも魅力
2 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 14:47:36
2
3 :
華丹:2005/10/16(日) 15:03:50
まず西涼にどういう人いたっけ?
それ教えて
西涼の人ってどんな人?
5 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 15:20:43
馬玩がいる
6 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 16:27:09
錦馬超
7 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 16:29:36
そういや董卓もここ出身だっけか?
どんな人種なの?
9 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 16:38:05
うん 張遼やカクもそう
10 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 16:38:50
騎馬最強馬鹿移民賊退治軍団
11 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 16:41:22
強いのが多いね
颯々としてる印象もあるし
12 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 16:46:54
>>9 張遼もなの?なら、関羽も?
そういや、セイギ(字忘れ)と一緒に徐晃が西涼方向から攻めてたな。(曹操配下になる前)
13 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 17:36:31
韓遂大好き!!
この部下の7人って誰やったっけ?
西涼か。閻温も語っていいの?
15 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 18:17:02
閻行と成公英を忘れてないか?
張遼は幷州。西涼じゃない
呂布も幷州
↑ヘイ州ね
18 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 18:40:03
なんか、マニアックに感じるのは俺だけ?
まあ、どうぞ語ってくださいって感じ?
西涼一帯と長安と漢中取ったら、
晋建国以前なら天下狙えそう
20 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/18(火) 20:20:04
馬超と報徳以外はマイナーだろ
確か馬超は、母親がチベット系の人でしたっけ。
董卓軍が強かったのは匈奴系やチベット系の兵士を引き連れていたからだ
そうで漢兵をはるかに凌ぐ力量を持っていたそうです。
さらに、呂布が寝返ったさいに山西省の匈奴兵を連れて董卓陣営に加わったので
カナリ恐れられたと言われています。
董卓死後の争いも、匈奴系とチベット系の派閥争いだそうでそこを曹操に攻め込まれ
異国の兵も下り、先に青洲兵を加えて更に異民族兵を傘下に収めた曹操軍は
当時、最強の軍閥集団だったといいます。
23 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 17:58:03
そういやチベット系って、顔が日本人と似てる
24 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 18:38:23
JICAでモンゴルに派遣されて2年ほど住んでた人に、聞いたけど日本人と顔が一緒だから
市場に紛れると、どれが日本人かモンゴル人かわからなかったって。(雰囲気で違いが判るって聞いた)
シルクロードの番組でも、ウィグルやチベットの人達って日本人とそっくりな
人も結構いるね。
西涼の人間もどうだったんだろう?
兵が馬術に優れてるかどうかは大陸じゃ大きな違いだろうな。
逆に山間部の多い日本では弓術が重要なわけだ。
モンゴルの血入ってる?
西涼の話題とは関係ありませんが、モンゴルでの軍事訓練でお互いが
すれ違いざまに、弓を射あうことをヤブサルメルと言うそうです。
日本の流鏑馬と似ているので、関係があるのかな?
それと遊牧民族が貴人の前で膝をつく体制が、武士が貴族や大将の前で
ひざまづく格好が、似ているので関連があるのでは?っていうのを
昔テレビで見た覚えがあります。
ついでに、中国大河ドラマの三国志では馬超軍と曹操軍との合戦の回で
逃げる曹操を馬超率いる騎馬群が、追撃していましたが馬超軍の兵が
馬に乗りながら弓を射掛けて、曹操軍の兵を射殺している場面がありましたが
異国の兵だったのですかね。
韓遂と馬超の仲たがいの計略を仕掛ける場面でも、曹操が敵の城の前で西涼兵達に
話しかけるシーンがありますが、西涼兵が異民族っぽい感じに描かれていたので
異民族の比率がかなり高かったのかも。
29 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/20(木) 05:52:13
羌族の源流ってトルコ系らしいね
西の人物は、アクが強くて大好きだ。
形式上の道徳よりも、現代的な理念で動いてたり
実利を取る人物が多いから、読んでてスッキリする。
儒教に囚われて、大義名分を唱えながらゴニョゴニョやってる勢力が多い中では、
涼州方面の勢力ってかなり特異な存在だよね。
ところで、"西涼"ってスレタイだけど
涼州〜雍州の人物って定義でいいのかな?
それとも、勢力として割拠してないと駄目なのかな。
賈ク、法正、姜維あたりも語りたい。
擁州も漢帝国からみたら、似たような扱いだったらしいから
いいと思うよ。
異民族も多かったらしいし。
そういえばトルコ系って、中央アジアに傍流がいっぱいいるね。
馬超馬騰も、割拠してる地域は雍州だし。
どうでもいいけど、三国志大戦で西涼陣営出来た事に、かなり驚いた。
一つの勢力として、認知される時代が来ようとは
33 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/20(木) 17:33:19
そういえば、ゲームでもシルクロード交易ので資金が得られることが
ありましたね。
実際、涼州もそれで得られる富は、莫大だったらしくゲーム上でもあともうチョット
多くても良かったかも。
当時、漢帝国は銅銭しか流通していなかったのに対して、西域では金銀が流通していたので
漢帝国にとっては驚きだったそうです。
董卓や韓遂、馬騰も恩恵を受けていたそうです。
ただ、匈奴にとっては西涼やさらに奥地を、漢に押さえられたことは匈奴にとって
大きな打撃で、そのために匈奴が攻撃を仕掛けてくることが多々あったそうです。
しかし、中原の騒乱や漢帝国の崩壊により、中国の西域交易も沈滞期に入り暫く寂れたと言います。
韓遂軍や馬騰、馬超軍の兵が、精強だった一つの理由によく挙げられることは
異民族兵の他に、中国の馬よりも頑健な西域馬にあったと伝えられています。
当時、中国では武帝が汗血馬を求めて、ワザワザ探検させたように異国の馬は
魅力的だったみたいです。
中原の騒乱期には、軍馬の絶対数が不足していた様で、歩兵中心の戦が多くそのために
精強で馬術、弓術に優れた遊牧兵に遭遇すると苦戦する事が多かったとか。
時代と場所は変わりますが、ポーランド騎兵はヨーロッパでも名を轟かせていましたが、
騎兵100隊、敵兵1000(徒歩)でも敵側はカナリの苦戦を強いられたそうです。
ただ、異民族は数も少なく、まとまりに欠けるためそこが弱点になっているみたいです。
36 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/21(金) 18:11:27
馬・・ショク
羌族
三国時代も終わり晋が、天下を統一すると江統、郭欽らが従戎論をとき始めます。
中国の異民族を全て、塞外の地へ追い払おうとするもので、郭欽らの主張によると
漢末から三国以降、カナリの数の異民族が中国国内に、入り込んでおり危険な
状態であるとのことで、涼州方面でも漢人に対し同数以上の異民族が定着していたそうです。
天災やなにか起こるたびに、漢人と手を組反乱を起こす、異民族は漢帝国や他の勢力にとって
厄介なことで苦労したそうです。(韓遂や辺章が起こした反乱では、十万!!)
馬騰が収めているときは、特筆するような乱も起きていないそうなので、異民族をうまく
収めるコツでも知っていたのでしょうか。
異民族が反乱をおこす前に
異民族へ対する漢王朝側の搾取があるわけで。
反乱が起きないってのは、コツとかそういう問題じゃなくて
そういう搾取を無くした共存が出来ていたって事じゃないかな。
どうも♪やっぱり、そうかもしれませんね。
知人で、甘粛省に五年ほど住んでいた人がいましたが、現地の人と
仲良くなって、色々と伝承や歴史博物館にも連れて行ってもらい、教えてもらった
そうですが、三国時代の民話にも胡族と漢族と密接に交流していたと思わせる
ような話を聞いたそうです。(確か漢人と匈奴人の話で、匈奴人が戦に駆り出される際に、漢人に愛馬を送る話)
あと、いつまで時代がさかのぼるかは、わからないそうですが、他民族との通婚も
珍しくなかったと、現地の長老に聞いたそうです。
なにか…改めて見てみると、私が書いてること激しくスレ違いかも…
あと少し書いたら消えますね。
誰か彼女に裏の白いチラシを
42 :
勇魚 ◆Cl39TXJnDE :2005/10/27(木) 19:52:55
前から疑問に思ってたんだけど、この辺りの軍事系人口ってめちゃめちゃ多いの?
董卓が大軍を連れていった後に、馬超が曹操と渡りあえる軍勢を起こせる事になんだか違和感が。
董卓は洛陽の人間まで連れて長安に戻ってるから、
その後の混乱で、死者や流民は増えたとしても、
人口そのものは、かなり底上げされてるはず。
馬騰は三輔を安定させた事で、
軍事に動員出来る人間も、それなりに確保出来ていたんじゃないかな。
特に遊牧民の兵は、成年男子は全員が武器を取って戦うことが可能
のようで、動員力もかなりあったと思われます。
後漢 涼州 102491戸 西晋 涼州 64320戸
後漢 擁州 115011戸 西晋 擁州 57480戸
賽外の、民族は含まれないそうなので、これらも含めるとソコソコには
なるかもしれません。
馬騰一族は異民族との、縁戚関係も結んでいたことも、軍事の面で大いに
有利だったみたいです。
45 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/29(土) 02:24:11
良スレ
普通に三国志を読んでいたら、見えてこない場所だよね。
三国志正史でも、読んでみようかな。
普通に正史読んでも、比較的スルーされてる部分な気がする。
韓遂伝とかあれば、色々ハッキリしそうなのになぁ。
正史でも、そんなに重く扱われていないんですね…ちょっと残念。
漢帝国では国民皆兵制度でしたが、中原騒乱期に入ると、魏では屯田制が始まり
兵士は世襲制となり兵士の家に生まれた女も、兵士と結婚しなければならなかったそうです。
呉でも、奉邑制と呼ばれるものが、あったそうで兵士を諸将に授けて、それらを養うために
県を数件、奉邑として与えたようです。
この制度ですと、将と兵士の間に特別の恩義関係が生まれて、団結も強まったみたいです。(建安末に廃止)
蜀も兵農分離に向かい、そのなかで涼州兵を含めた、異民族の傭兵が重宝されたそうですが、生活レベルの
低い異国兵は、僅かな褒美でも満足していたそうなので、魏にとって使い勝手が良かったそうです。
>漢帝国では国民皆兵制度でしたが
え?
>漢帝国では国民皆兵制度でしたが
は?
53 :
土人:2005/10/30(日) 22:05:50
俺が書いてもいいかな?受け売りだけど。
当時の兵隊は徴兵制で、兵役も割り当てられた。
23才以上56才未満の一般男子の、健康なもの全てに兵役義務があり
一年間は、材官、騎士、楼船などの群兵になり各地方の軍隊に編入され、他の一年は衛士として郡に行き
天子の近衛兵になるか、辺境に送られ戊率として、国境警備に従事した。
残った義務期間は在郷の予備兵として毎年一回査察を受け、異変があり現役兵が不足した
場合には、召集されて軍務に服した。
大変そうだな。
「漢帝国 兵役」と検索したら「第三部 漢倭奴国王の金印が証明する情報…」って
書いてるとこに入ったら、色々漢帝国の制度で興味深いことが書いてたよ、行ってミソ。
董卓は西涼の刺史
55 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/30(日) 22:45:54
56 :
土人:2005/10/30(日) 23:01:35
>>55 ホント?ウソだよね。
なんか調べてみると、三国志の時代ってスゴク、人口が減ってるね。
流民も沢山いただろうけど、戦に駆り出されて、死んだ人も多そう…。
五胡十六国時代も戦場に引っ張られていって、
全滅した村も多かったらしいな。
働き手をとられた村は、飢え死にするしかなかったんだと。
戦争は悲惨だな。
横山光輝しか知らないけど、数万だか数十万だかの大軍が全滅するようじゃ↑みたいになってしまうね。
劉備(蜀)が呉に侵攻したときも40万(4万?)で攻めて一人で帰ってきたり…
軍隊が死滅するってことはそうそう無いと思うけどね。
逃亡とかが増えて、まともに機能しなくなる方が多いんじゃないかな。
軍隊は3割消滅で大敗北だよ
1割じゃなかったっけ?
時代にもよるのか?
1割消滅でまともに機能しなくなって、3割消滅で大敗北?
誰か、詳しい人教えてくれー
参考になるかは、しんないけど黄文雄氏の著書で清の中期末から、日中戦争
までの中国の情勢を書いた本の中によると中国では、死人の数が半端じゃない
らしいね。
その中で、古来からの兵員補充方で「拉夫」ってのがあって、軍隊が村や都市を
通過するとき、男達を強制的にさらって兵士にしてたんだって。
中国の古代からの、基本となる考えや戦争の仕方や天災の記録も載ってるから
読んでない人は、読んでみるといいかも。
3、4年前NHKスペシャルで、今も続くアフリカの内戦の、特集を見たけど
村の男がゲリラや武装勢力に、無理やり兵隊にさせられて残された村の人たち
が生活できなくなって、病気や飢饉で大勢亡くなったって…ある地域だと
3千人いた人口が、三か月で500人以下まで減少したらしい。
続き
じいちゃんの話だけど、中国で戦争に行ってて大陸打通作戦にも
傘下したとき、村を通過したら住んでいた中国人の死体だらけで
生き残っていた人間に聞いたら、国府軍が略奪と男を徴兵していって
ので村民は、死ぬか難民になるかでだれもいなくなったんだって…
追撃でも国府軍の兵士の死体の量が、すごくて後方の部隊に後日きいたら
じいちゃんの部隊が通過した場所だけで、4000以上あったって
聞いたって…少し聞きかじっただけだけど、戦争ってイメージすると大量の
死体が頭に浮かぶようになった…。
日中戦争知られざる真実 黄文雄 光文社(本はこれね)
傘下× 参加○
徴兵していってので× 徴兵していったので○
スマソ
興味深い話だけど、近代の話題はスレ違い過ぎ。
>>66 そうでもないんじゃね?俺もその本持ってるし、
俺も中国史を多角な面から見て、少しわかったが
古代から国共内戦まで、根本の戦争方式はそんなに
違わないようだから、中国の戦争体系の大まかな参考になるぞ。
>>58 俺も横山三国志から、入ったからわからんコトが、多かったぞ。
>>66 軍事関係のはシロウトだから、なんともいえないけど天災と
難民はいつの時代も差はないかも。
とりあえず、スレタイと
>>1確認してみれ。
戦役考察のスレとかならともかく、
ここで多角的な戦争方式をツラツラと語る必要は無いだろ。
せめて、スレ主旨と絡めようや
>>64 >大陸打通作戦にも傘下したとき
凄い…悪路の行軍や物資と人員の不足、多数の落伍者、病気の蔓延とか
凄まじかったらしいけど…
>>70 第二期作戦の先遣隊かもね。
西涼って意外と、強いんだな。
遊牧民は、モンゴル軍くらいしか知らないが
そんなのが、三国志に出てたんだな。
三国志の時代の羌族は、純粋な遊牧じゃ無く
定住して半農の生活。
>>72 熟藩と生藩もあるようですね。
更に奥地の未開の異民族は、中国寄りの部族と比べると
カナリ精強だったみたいです。
74 :
72:2005/11/01(火) 12:50:11
>>52 どうも…すみません…いい加減に書いてしまいまして、徴兵と書いておけばよかったです。
参考資料はコンナ感じです。
宮崎市定氏の著書
九品官人法の研究-科挙前史 中公文書
大唐帝国 河出書房新書
歴史群像 学習研究所
歴史群像シリーズ 学習研究所
歴史読本(三国志の英雄達など) 新人物往来社
草原とオアシス 山田信夫 講談社
匈奴 古代帝国の興亡 沢田勲 東方新書
シルクロード 長澤和俊 講談社
騎馬民族国家 江上波夫 中公新書
アジアの歴史と文化 北アジア史 角川書店
アジアの歴史と文化 中央アジア史 角川書店
西域 河出書房新書
他は図書館や、インターネットや、NHKの歴史関係を参考にさせてもらっています。
75 :
72:2005/11/01(火) 12:54:43
世界の旅行関係や地理関係を調べてみると、西域関係や涼州付近の人々の生活や
習慣、歴史が載っていて参考になることも多いです。
考古学関係でも、西域の暮らしぶりや民族の移動、わかって面白いです。
歴史群像と群像シリーズは、面白いな。
バックナンバー見てみたら、西涼のこと書いてるかもしれんな。
探してみよう。
間違えました…スンマセン。
「前漢西北辺境と関東の戊卒-居延漢簡に見える兵士出身地の検討を通じて」駿台史学
高村武幸
書き忘れましたので…。
そうだな、辺境の記録ってそんなにないからね。
別の地域の記録で繋ぎ合わせないと、わからんからつらいな。
西涼や幽州の近くにいた、民族の記録をモット残して欲しかった…orz
559 :無名武将@お腹せっぷく :2005/10/30(日) 23:27:33
>>558 張既伝の中にある記述通りなら、共同作戦のはずだったんじゃないか?
漢中遠征前にすでに、曹操側から馬超に対して
「韓遂を捕らえろ」っていう打診が行ってた事になる。
曹操(鍾ヨウ)は西方を確保するために、
馬超に韓遂を処理させつつ漢中への軍事行動を行う予定だった。
ところがその要請に不信感を抱いた馬超はこれを拒絶し、
他軍閥と一緒に韓遂を誘って反乱。
…っていう流れかな。
↑これって本当?
「夷を以て夷を制するは是古への上計」ってやつ?
馬超が、反乱を起こした理由はよくわかってないからね。
こういった可能性もあるかも。
なんか、西涼勢力で大陸統一がしたくなってきた。
董卓か韓遂にしようかな。
曹操は騎兵重視の作戦を取り、短期に華北を統一しましたが、
董卓軍や呂布軍の異国兵に、注目していたからだといわれています。
ゾウ覇や張遼を重視したのも、その表れだそうです。
荊州攻めでは難民と共に逃げる劉備軍を、騎兵による追撃で打ち負かしたのは
典型といわれています。
洛陽復興の任を受けていた、鍾ヨウは涼州豪族を鎮撫しながら、西涼方面の
軍馬を山東方面に、補充し続け袁紹との戦いを有利に進めたようです。
>>79 「三国志 武帝伝」には、曹操の益州侵攻に対して、馬超や豪族達が疑念を
抱いて反乱を起こしたと、書かれていますがどうなのでしょうね?
烏巣を奇襲した時も、5千の騎兵を率いてたもんな。
>荊州攻めでは難民と共に逃げる劉備軍を、騎兵による追撃で打ち負かしたのは
>典型といわれています。
これは騎兵戦術というまでもなく機動力をもとめられる局面の戦術としては至極
当然なんだけど、
>曹操は騎兵重視の作戦を取り、短期に華北を統一しましたが、
>董卓軍や呂布軍の異国兵に、注目していたからだといわれています。
>ゾウ覇や張遼を重視したのも、その表れだそうです。
これの根拠はなに?
時折これを唱える人いるけど、いまいち曖昧だったりで納得できた事ないんだけど。
臧覇が重用されたのは、異国の兵云々とは違う所にあると思うが
臧覇の最重要課題は、徐州の安定と統治だろうし。
>>82 益州侵攻?
>>82 「馬超らの反乱は曹操の挙動に疑念を抱いての挙兵」ってのは基本として
>>79が気にしてるのは、その時の具体的なプロセスなんじゃないか?
>>84 呂布の配下だったからじゃない?徐庶が赤壁の前に馬騰が謀反を
起こしたって、嘘っぱちを曹操に行って、ゾウハと一緒に出撃したらしいから
騎馬戦に期待されてたんじゃないかな?
89 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/03(木) 01:28:04
良スレだけと人が少ないのでアゲ(・∀・)/
せっかちそうな、曹操の性格にあってるかもね♪
90 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/03(木) 01:35:20
董卓の暴虐っぷりはすごいよな。
赫連勃勃に比べたらかわいいもんだよ
92 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/03(木) 02:14:29
馬騰とか馬超が好きなのはわかるけど、董卓一派萌えってひといる?
三国演義の華雄が、好きだけどあのメチャクチャ暴れたあとに関羽に
アッサリやられるギャップが好き。
ああ、華雄ね。
演義に出てくる方の華雄ね。
ああ、まあ、いいんじゃない?
どうでも。
俺は華雄と紀霊が同じくらい好きだ
キレイに紀霊を斬れい!
95 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/03(木) 03:38:23
李儒タン……架空なのが残念。
96 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/03(木) 03:54:10
董卓といえば西涼にも深く縁のある人じゃのう
97 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/03(木) 04:00:29
董卓死後、馬騰は襲撃に失敗もしたな
98 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/03(木) 05:00:25
>>85 漢中も益州だべさ…その時期の記録を、調べてみれば鬼畜曹操めの
目的さわかるだすよ。
>>64 あともうチット詳しく、教えてくれんかのぅ。
董卓が皇甫家の使いっぱしりだったってのは本当なのかな?
>>98 せっかくスレタイ通りの話題に戻ったんだ、
>64の話題を続けたいなら、場所変えてくれ。
102 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/03(木) 13:58:00
>>99 仲が悪いって話はよく
聞くよな。
反乱軍との戦い最中の作戦の
食い違いがきっかけとかいわれてるけど。
103 :
64:2005/11/03(木) 19:04:55
すみません、スレ違いですが最後ですからカンベン…。
>>70 >>71 >>98 コ号、京漢作戦の先発隊です。(12軍)
70さんの書いてる通り後方の車両や輜重関係が、滞って苦労したと聞きました。
詳しくは、37師団関係に書いてると思います。
西涼以外のことは、もう書かないので失礼します。
104 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/03(木) 20:33:33
>>103 わざわざありがと。
俺も話膨らまれるようなレスですまんかったわ。
106 :
76:2005/11/04(金) 11:31:59
ふぅ、やっと見つけたが、そんなに載ってないな。
曹操にとって、擁州や涼州は絶対に押さえておかないと、不利だったみたいだな。
夏候淵が騎兵戦に長けてるって知らなかった…。
107 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/04(金) 13:27:02
>>106 マジ?じゃあ山岳戦は不得意だったのかな。
定軍山で負けちゃったし。
108 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/04(金) 13:49:10
>>107 確か戦中に味方の軍が負けそうなので自軍兵を送ったら
自分の軍が不利になり負けてきられたんじやなかった?
109 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/04(金) 15:29:08
法正の作戦だったね。
曹操も夏候淵に勇敢に過ぎることを
たびたび諌めてるみたいだから思慮に欠ける部分があったんだろうね。
110 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/04(金) 15:41:28
>>109 淵のおかげで涼州の反乱は防いでたけどね
もう少し冷静さが欲しいところかな?
>>106 史料を読む限り、厳密にいえば騎兵戦というより機動戦じゃないかな。
その点では姜維と同類っぽい。
迅速な長距離行軍は落伍者や蓄積した披露という問題を生むけど、少なくとも
夏侯淵の用兵にはそれらが見当たらない。
騎兵戦術は攻城野戦に限らず限定された局面で兵科の特性を活かした効果的な
運用を行う事でしょ。
漢中で敗れたというのは、長い戦歴をみれば西方での点を巡った機動戦が主で
拠点防衛の戦術と陣地戦は不得手というかあまり経験がなかったのかも。
馬超も劉備勢力に入ってから、パッとしないね。
山が多い場所と関係あるのか?
活躍はしてるようだけど…まぁ臣下になったら仕方ないか。
113 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/04(金) 18:10:44
>>111 勇猛だったそうだから、性格が現れてるね。
中国は広いから、地形も複雑だろうしね…ところ変わればってやつか?
馬超も張飛と共に、武威方面へ出撃はしてる見たいだけど、
目立たないよね。
114 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/04(金) 19:53:57
李確って演技だと、妖術を好むって書いてるけど、
妖術の内容知ってる人いる?。
>>114 正史の注にも李カクが妖術好きであった話があります。要約すると、
「李カクは生来鬼神や妖術を好み、つねに道士や巫女に神下ろしをさせて
六丁の神(遠方の物を引き寄せ吉凶を予知する神)を祭り、
お札やまじないの道具の類で用いないものは無かった。
また、朝廷の門の前に董卓の祭壇を作って度々牛羊を供えて祭り、
それが終わると三振りの剣を帯びたうえに、
手に鞭と抜き身の剣を持ったまま宮中に参内し帝に拝謁を求めた。
それを見た侍中達は恐れおののき自分たちも武装して帝の周りを固めた。
帝に拝謁した李カクは武装した侍中たちを見て
『こいつらは俺を殺す気か?みな刀を持っているとは』
と人びとに不満を語った。
こうした言動に恐怖を覚えた帝が李カクを大司馬に任命すると、
李カクは鬼神のおかげであると喜び、巫者たちにねんごろに褒美を与えた。」
と言う話が出てきます。しかしこれだと妖術好きというよりは只の基地外…
宋建も牛馬を屠って神に祈ってたらしいな。
涼州の民俗宗教でないの?
117 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/05(土) 11:42:26
118 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/08(火) 00:25:02
質問なんだが、馬超は子供居なかったんかな?
ショクは人材不足だし、馬超クラスの子ならそれなりの活躍しそうなんだが。
関張の子みたいにさ。
関張の子がいつ活躍したのよ。関平以外
>>118 確認できるだけでは、嗣子となった承、安平王である劉理の妻となった女、
張魯に奇遇していた時代の秋(張魯が曹操に降伏した際に殺されている)がいる。
たいていの場合、功臣(大物の武臣)の子は爵位だけ継ぎ、後に基本的に中央で
官僚コースにあがる。
ただ官歴すら不明で、ほとんど活躍しなかったか出仕するまでもなく歿したかの
いずれかも。
馬超はたしかに涼州出身の大物軍閥で涼州への影響力も期待されたけど、早くに
歿して求心力を失い、蜀での馬氏の政治的な存在価値も薄れたんだと思われ。
涼州へのネームバリューは馬氏ではなくあくまで馬超個人に帰す部分が大きかった
という事なんだろうと思う。
馬岱が馬超のかわりにはならなかったのもそのためじゃないかと。
>>119 その突っ込みは‥
カンサクとかチョウホウは演義キャラ?
勉強になった。ありがと
>>120 マジd
居る事は居たのか‥
でもショクでの馬一族って微妙な存在なんだね。
少しセツナス(´・ω・`)
妻子もろとも皆殺しとかにあってるから
元々はけっこういただろうね
冀で殺されてるのもカウントしていいか微妙だしね。
124 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/14(月) 14:15:27
不定期
125 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/14(月) 14:30:20
>>115 だから曹操伝の李カクは占い好きだったわけか
126 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/14(月) 15:22:50
結局、馬超の死因は病死?こいつは役にたたずに死んだな
127 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/14(月) 17:26:47
成都開城させたじゃん。
マニアックだから、進展しないね…。
130 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 06:43:32
しかし良スレ
資料がもっと残ってたらなぁ…ナカナカ面白い場所だと思うのに…
馬超関連は、他スレで事足りてるっぽい
誰もいないか?
( ーω−)。oこっそりおいらのねぐらにしよう
そういえば昔バテツってスレ立てた事があったなあ…
俺はいる( ̄_`)
ひ、ひー!(;ΦДΦ)
せっかくだからage
馬鉄スレ懐かしいなー
137 :
無名武将@お腹せっぷく:
age