1 :
無名武将@お腹せっぷく:
周瑜は確かにすごい。あの赤壁での大勝は呉でも最強といって過言はない
魯粛は関羽から荊州を一部取りかえしたのは評価できる。劉備と結ばせたのも呉にとって大きい
しかし
呂蒙は魏との戦いに集中してる関羽を背後から襲って倒しただけ
陸遜は戦下手な劉備を当たり前のように火計使って倒したので精一杯
その後、魏には一進一退だし、曹叡にすら敗れてる。敗走しても「撤退がすばらしい」とか意味不明に誉められてる
正直異民族との戦いなんてどうでもいい。ゲームではなぜか水軍が得意だが特に目立った功績はない
よって私の評価は
周瑜>魯粛>陸遜>呂蒙
分野別に見ると
軍の統率・戦術は周瑜、大局、戦略眼は魯粛、武勇は呂蒙、確実性は陸遜といった評価が出来る
2 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 18:51:54
2get
とりあえず、人物の評価に一方は好意的、一方は否定的っていうのはいかんぞぇ。
どの人物においてもプラス面は好意的、マイナス面は否定的に書く風にしないと
私見が入りまくったクソ評価に取られかねないからね。
>>1 呂蒙について無知すぎる。
将軍としての能力でいえば呂蒙が抜きん出ている。
劉備は数々の修羅場を潜り抜けて戦下手とは言い切れないし、
曹叡は優秀だし、ネタ臭がプンプンするぜ
>>5 「当たり前のように火計」とかの表現に作為を感じるな
7 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 19:13:01
水戦の周瑜
籠城戦の魯粛
奇襲戦の呂蒙
持久戦の陸遜
篭城戦?
9 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 19:19:23
中間管理職の魯粛
10 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 19:20:10
太史慈最強でFA
11 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 19:26:12
防衛で実績があるのは呂蒙くらいじゃね
13 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 19:38:30
僕は凌統だと思います(^。^)
モーションが早いですから
^。^
15 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 19:41:34
あと、魯粛って誰ですか?顔なし武将(?‐?)
16 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 19:44:22
早死がなけりゃ周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜で合肥新城包囲だよな
魯粛が後ろ守って、周瑜が水軍による奇襲で、呂蒙が前線指揮、陸遜が火計かな
17 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 19:47:09
魯粛が早死に・・・
18 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 19:50:26
陸遜は長かったな
19 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 19:52:11
シュウユのユが変換できない
20 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 20:02:44
もちろん劉禅様でしょう
21 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 20:04:26
一番は魯粛だす
22 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 20:16:08
魯粛の長期的戦略性は、他の三人と比べても圧倒的。
天下二分を早々に主張した先見、漢王室に固執せず天下を見る合理性、洞察力。
死後、早々と蜀との同盟が崩れたのを見ても、その有能さが分かる。
周喩の赤壁戦での功績は大きいが、周喩一人の能力によるものとは言えない。
呂蒙の関羽討伐は、そもそも関羽を動かしたのが呂蒙の計略。
荊州奪還は、呂蒙の功績が非常に大きいと思う。
周喩が呉初期を支えた中心人物なのは確実だし、荊州における呂蒙の功績も
呉の歴史にとって燦然と輝いているはず。
ただ、能力の幅と呉内での信頼度を考えると、周喩>呂蒙か。
陸遜の主な功績は、夷陵戦、曹休戦など。
劉備死後、蜀との外交を行うなど戦以外の才能も十分備えていたはず。
関羽戦で早々に夷陵を確保して蜀に備えるなど、先を考えた冷静な戦略性が
陸遜の強みだったと思う。
ただ、攻めよりも守りの得意な印象がある。
23 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 20:24:47
呂蒙以外は皆守りのイメージがある
甘寧が一番だよ
25 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 20:27:19
甘寧は攻めだな
26 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 20:31:19
このような呉の4提督比較スレ、たまに思い出したかのように立つな。
28 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 20:50:43
ロシュクが1番
シュウユ二番
リョモウは関羽の油断とか内部崩壊だから微妙
>>28 呂蒙の軍功は後漢末でも最高レベル。
関羽討伐しかしてないと思ってるヤツは氏ね。
30 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 21:02:27
呉下の阿蒙wwwwwwwwwwww
31 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 21:19:17
君子三日云々のネタって呂蒙だったっけ?
>>28 そんな理屈なら曹操だって
董卓軍も内部崩壊で倒したのは残党連中
官渡の戦いも袁紹の油断
袁家に勝利したのも内部崩壊のおかげ
馬超や張魯に勝ったのは圧倒的な軍事力のおかげ
地盤のできた劉備、孫権には結局勝つことができず
かなり微妙な戦績
33 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 22:54:21
呂蒙はやっぱ魯粛とかには無い武勇が長所ぢゃね?陸遜とか周愉も多少出来たとは思うけど呂蒙には及ばないと思う。
周愉は実力だけで言えばかなり強いけどね。将軍としての器はどうだったんだろ?兵は動かせたのかな?将を動かす分にはトップクラス。陸遜はあんまり攻めないけど強いと思う。慎重さが長所みたいな。魯粛は外交官のイメージが強いのは漏れだけ?
一番すごいのは作戦を実行した兵士達ぢゃないか。
そいつらがすごいのは家柄だけだ
ところで陸コウは?
>魯粛は外交官のイメージが強いのは漏れだけ?
横光で、翻弄された彼の姿が印象深い人も多いのでは。
あれはなんとなく愛嬌があった。現代で言うところの、ドジっ子。
>>34 呂蒙のうちは貧乏。名門出の陸遜も子供の頃お父さん亡くして、
親戚の陸康に身を寄せてる。その陸康は孫策に殺されてるし。
家柄だけで大都督になったわけじゃないぞ。
38 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 00:03:40
全 王宗
39 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 00:13:14
22よ、
『天下二分の計』(蜀を平定後、馬超と同盟)は周瑜が発案者だ
魯粛は呉よりの『天下三分の計』だ
40 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 00:19:49
>>39 周喩に推挙された孫権の会見で、天下二分の計を説いている。
周喩・呂蒙との違いは、漢王室復興を諦めて孫権が皇帝になるように
進言している点。
この発想は、漢王室に固執していた当時として画期的。
大抵は「甲乙つけ難し」で終わってしまうスレだが、結構好きなんだよなこういうの。
魯粛の策略といえば、呉・蜀が天下を狙うのには共に荊州が必要不可欠だと思うんだが、
ここを巡る問題をどうやって解決するつもりだったんだろ?
>>40 細かい話しだが魯粛の策は「劉表を討って長江流域を全て押さえた上で、王となって天下統一の機会をうかがう」といったもの。
益州や涼州にはノータッチで「天下二分の計(南北大戦)」というもんではないんでねーかと。
とりあえず
>>1の文章は小学生並だな
厨のニオイがプンプンするぞ
44 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 01:41:52
>>42 いや、荊州を獲った上で益州を獲り、南半分を手中にして曹操と対するように
進言している。
又、そうしなければ、現時点で曹操打倒が困難である事も同時に説いた。
涼州に関しては、ノータッチだったと思うが。
45 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 02:13:54
のちに孫権が陸遜に向かって、
魯粛が劉備に荊州を分け与えるように進言し、実行したことは
魯粛の唯一の失策だった と言ってるね。
孫権はこの4人の中では周瑜がもっとも優れてると思ってたようだよ。
46 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 02:18:47
>>45 孫権でもないのに、よくそんなこといえるな
魯粛が権力を得た時代と周瑜のそれはまったく異なる状況下での事
単純に比較はできないわけ
魯粛の益州攻略は、当時南方の治安悪化により流された
魯粛は益州と刑州を上手く使えば曹操と互角に戦えるとよんでいたようだ
大陸間弾道ミサイルの魯粛だろ
49 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 02:39:16
>>46 45じゃないけど、孫権と陸遜の談話はちゃんと正史に載せてあるよ。
ただ、なぜかよく誤解される表現だけど、呂蒙に対する評価。
「公瑾に次ぐ」という文言は周瑜に次いで二番手という意味ではなく、
周瑜と同列できるという意味。
孫権の評価は、周瑜=陸遜>呂蒙(軍略は前の二人と同格だが、存在感が及ばない)>魯粛だと思う。
無論、この評価にも背景があるし、陸遜との対話なので陸遜に対する評価も本音かどうかわからんし。
わたしはその段落から、孫権の周瑜への強い憧れが読み取れるが、
もし本当に陸遜を周瑜の後継者としてみていたなら、後年あの行動採らなかったはずだ。
評価や、功績のみを見ればそうなるかもしれない
45は「孫権はこの4人の中では周瑜がもっとも優れてると思ってたようだよ」
と、言ったのでそれは違うと思っただけ
人物の優劣や評価なんて時代や状況、価値観によるものでうつりかわるモノだからさ。
>>44 あの会談の最中に「益州」の文字も「劉璋」の文字も見受けられないと思うんだが一体どの文言を根拠としているの?
魯粛の方針の大まかな考えは彼が冒頭に述べている通り「江東の地盤に割拠し、天下(恐らく曹操陣営)の乱れるのを待つ」のはず。
>>50 後に評価が覆ったという話しがなければ、
>>45の発言は間違ってないと思うが。
>>46も根拠の部分がいまいち良くわからない。
あくまで孫権一人の評価でしかないわけだしな
>>53 >>45は「孫権はこの4人の中では周瑜がもっとも優れてると思ってたようだよ」
が正しくないと言ってるのだからそれはないと思うが…
55 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 11:42:28
>>49 >もし本当に陸遜を周瑜の後継者としてみていたなら、後年あの行動採らなかったはずだ。
あの行動って?
イイヨイイヨー、喧嘩しない程度に熱くスレ伸びてって欲しい。
楽しくROMってま。
いわゆるの老害孫権の取った行動なら、
それが周瑜であったとしても似たような行動取りかねない状況だったと思うのだが
58 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 14:11:47
孫権は 呂蒙>魯粛
と言っているようだけど
>>58 周瑜>呂蒙>魯粛だね。
ある意味で妥当な評価とも言える。
魯粛の国家戦略は、周瑜が生きている頃は周瑜の軍略を、
周瑜の死後は周瑜に匹敵する軍略家の登場を、
呂蒙の完成後は呂蒙その人を必要とするものだったから。
柴桑で抗戦を主張するからには赤壁で勝利できる将軍が欠かせないし、
南郡貸与も外交で取り戻すつもりがない=外交的糸口を残した上で戦争によって取り返す、
というものだった以上、その戦争を自分で遂行できない、またするつもりもないというのは、
かなりぶっちゃけた国家戦略理論と言える。
で、そのように評価した上で、「あなたは周瑜と並ぶ」と陸遜を褒めてるわけだ。
ただしこれは陸遜評にはならないと思うが。
60 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 14:28:21
一番は陸遜だよ
61 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 14:41:36
62 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 14:43:20
陸≧周>呂>魯
63 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 14:58:52
64 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 16:19:30
>>62 どうしても陸遜をトップにしたいのかこいつは。
65 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 16:33:11
陸遜嫌いじゃないけど、陸遜トップはやっぱり違うと思う…。
66 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 16:46:34
やはり諸葛格かと
67 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 16:54:39
まあ陸遜が無難なわけだが
68 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 16:55:18
69 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 16:56:17
アンチ陸厨必死杉
70 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 16:57:06
71 :
68:2005/10/15(土) 16:57:12
いや、アンチでもないんだが
今までの書き込み読んでるとどうも違う気がしてな。
72 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 16:57:37
むしろ自演臭い
73 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 17:21:46
魯粛の天下二分論の特徴は、『漢王室復興を諦める』『孫権が皇帝になる』
当時の孫権には性急過ぎる考えだったが、後の孫権は魯粛の論を何度も称えている。
それだけ魯粛が画期的、長期的な視野を持っていた事が分かる。
元々、魯粛は人と違う価値観(というよりは、客観的な分析力)を持っていたと思う。
これらの要素は、周喩・呂蒙・陸遜を大きく越える資質だろう。
>>73 まったく同意
でも
>>59の言う通り、自分で実行できないのが厳しい
孫権より孫策の相談役の方が向いてたかもね
>>73 魯粛の策は長期的というより漸進的と言って見る。
魯粛って、他の3人とはタイプ大きく違うっぽいな。
魯粛ってなんか呉より魏の方が似合ってるな
78 :
73:2005/10/15(土) 18:04:33
魯粛は、北の曹操に対抗するには、黄祖討伐→荊州制圧→長江流域制圧(益州確保)の
手順を経た長江以南の支配が前提条件と説いた。
その為には、とりあえず曹操という巨大な敵があり、南に孫権と劉表の2大勢力。
呉は、機を見て劉表を併呑し、南から基盤を固めて行くという手法である。
周喩の場合、3大勢力→2大勢力という段階は踏まず、一気に2大勢力となって
曹操との決戦に移る手法。
ただし、この手法だと孫権が皇帝になるのが魯粛論よりも遅れる。
だが、実際には劉表が病没すると、曹操が魯粛の想定を越えて早々と南下を始める。
この時、呉の勢力範囲は江夏にすら辿り着いていない。
魯粛論は、あくまでも3大勢力→2大勢力という段階を経て完成する。
曹操という勢力が江南にまで範囲を広げると、その時点で魯粛論は潰れてしまう。
そこで、魯粛は劉表の欠けた荊州を劉備に任せ、3大勢力の維持に努めた。
多分、3大勢力→2大勢力という図式は、常に魯粛の中にあったと思われる。
劉備との同盟は、単に鼎のバランスを取る為のもの。
魯粛が穏健派というのは幻想で、彼は持論に基づいて常に孫権皇帝の最短ルートを
模索し続けたと言える。
ふうん
なるほどね
80 :
73:2005/10/15(土) 18:16:01
戦に関しての魯粛は、周喩・呂蒙・陸遜の3人に劣ると思われる。
だが、赤壁という歴史のターニングポイントを乗り越え、呉を最終的には
国家として成立させるまでの外交力を持っていたのは、魯粛のみ。
劉備を2大勢力の1つにする事で、周喩のいなくなった呉は楊州の軍事に
専念出来る様になり、呂蒙登場まで軍事的にも丁度良い大きさでいられた。
孫権は、皇帝になる時に「魯粛は、この事を知っていた」とも言っている。
魯粛の長期的な視野が、この事からも分かる。
周喩・呂蒙・陸遜は、軍事において魯粛を圧倒する才能があった。
だが、軍事を含む『呉という国家の行く先』のレールを敷いたのは、魯粛。
彼らは、魯粛の天下二分論(3→2)に基づいて動いたに過ぎない。
3人を駒とするなら、魯粛は打ち手である。
そして、その死後であったが、彼の目論み通りに孫権は皇帝になっている。
81 :
73:2005/10/15(土) 18:20:04
結論として、4人の中で一番なのは魯粛。
後は、誰が誰でもいい。
天下三分とか二分とかは別に魯粛の専売特許じゃないし
他の連中を動かしてたのが魯粛みたいな結論にはならんと思うんだが
83 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 18:43:09
蒙ちゃんが一番なわけだが
84 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 18:51:01
周瑜と魯粛は頭脳は同レベだっただろうけど、
赤壁まで魯粛は無官。
それに魯粛をスカウトしたのが周瑜だったことや仕官した時間をみても
周瑜のほうが功績面では勝る。
『彼らは、魯粛の天下二分論(3→2)に基づいて動いたに過ぎない。
3人を駒とするなら、魯粛は打ち手である。 』
天下二分は周瑜と甘寧の言い分だろ
尚香結婚時には周瑜派(劉備暗殺派)と魯粛派(劉備はエサに使おう派)
にわかれていたことだし、それに魯粛は孫堅・孫策時代からの文官に疎まれていた
ことを考えると80がいうほど魯粛は権力ないしえらくない。
周瑜からのスカウト時にそれを断ってリュウホウとかいう湖賊についていっていれば
プチ皇帝ぐらいには魯粛はいっていたんじゃないのか
>>80 分析そのものは魯粛という人物の核心を突いていると思う。
でも他の三人についての評価が一方的すぎるよ。
まず、
>そこで、魯粛は劉表の欠けた荊州を劉備に任せ、3大勢力の維持に努めた。
という部分。
ここに至るまでに、魯粛が様々な意味で周瑜を必要としたことは言うまでもない。
また、周瑜の三大勢力無視という戦略も決して魯粛に劣るものではない。
確かに思想的飛躍(後漢なんかどうでもいいらしい)という面からすれば魯粛に及ばないが、
純粋に戦略論として考察すれば、魯粛は劉備を見誤り、周瑜の方が正しかったとも言える。
事実、三大勢力→二大勢力という段階目標を達成できなかったわけだし。
魯粛案があらゆる意味で正しくなるのは、周瑜を失ったことによって荊州の軍事的維持が
困難になってからのことであって、周瑜生前の魯粛案は外交の限界について甘さを残している。
さらに言えば、「呉下の阿蒙にあらず」の逸話からも解るように、
魯粛は必ずしも軍事行動による荊州の奪還ということまで視野に入れていたわけではない。
呂蒙がいくつかの案を提示したということ、それを魯粛が喜んだということ、
あるいはそれらの話が信用できなければ、呂蒙があまりにも鮮やかに荊州を得たという事実だけを根拠としてもいいが、
呂蒙は魯粛の駒としては明らかに魯粛の敷いたレールを逸脱する存在だった。
まあ魯粛だけは別物というならいいが、同じように扱った上で魯粛を最上とするのはおかしい。
魯粛の戦略は結果論に対して滅法強いから、単純に「目論見通り」とは言えないし。
86 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 18:57:57
ひさしぶりに見たよ・・・
こんないいスレ・・・
明日はいいことあるかもしれない
そもそも魯粛には軍事的な実績が殆ど無いから他の三人と比較するのは難しくないか?
一人だけタイプが違うのでは。
>>87 それを敢えて同列で比較した場合、
周瑜≧魯粛>呂蒙>陸遜
ということになるかもしれん。
積極的に国家戦略を策定し、実行したという意味において。
89 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 19:08:50
上に同意。
あと呂蒙も代表戦(?)みたいなのが荊州奪還戦しかない。
>>89 代表戦ってなんやねん。いろいろな意味でお前は相当な馬鹿だなpgr
91 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 19:14:24
なんで陸遜の評価低いん?
謝玄は確かにすごい。あの淝水での大勝は東晋でも最強といって過言はない
桓温は簒奪狙っていたとはいえ、益州を取りかえしたのは評価できる。
しかし
桓玄は孫恩との戦いに集中してる北府軍団を背後から襲って倒しただけ
魯粛の天下二分が他より圧倒的に勝っているのは長江を防衛線と考えたところ。
現在までの歴史を見れば戦略面では周瑜や諸葛亮の上をいっている事は明らかだと思う。
ただし軍事面では3人より大きく見劣りする。
95 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 19:23:34
長江を防衛線って考えたの魯粛だけ?
呉って最初からそんな感じだったような
周瑜には江東平定戦、対黄祖戦、江陵戦の戦歴が
呂蒙には数度の対魏戦の戦歴が
陸遜もまたしかりなのに、何でか無視されて語られてるよな
そして、勝負に参加させて貰えない陸抗が可哀想なんだが
>>94 周瑜も同じ。
その上で襄陽を攻撃拠点に定めているところなどは、魯粛よりも遥かに勝っている。
それに長江を防衛線とするためには、漢中まで抑えとかなきゃ不安要素が残る。
たとえばだが、劉備が荊州に居座ったままで蜀併呑に乗り出さないうちに、
劉璋が劉jみたく曹操に無条件降伏しちゃったりしたら、
後に呉が滅亡した時と同じ手順で一気に攻め込まれ滅ぼされてしまったかもしれない。
純軍事的には周瑜の方が正しいよ。
98 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 19:34:37
陸遜と呂蒙は不利だな
後任だから周ユとか魯粛の駒扱いしかされない
99 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 19:37:30
呂蒙は亡くなる時期早かったら余計に不利な感じが。
個人的にはとても好きな武将だがやはり活躍が他と比べて少なく見える。
>>98 呂蒙は魯粛の死後あまり長い時間活躍出来なかった。
陸遜は膠着状態のなかでしか活躍出来なかった。
というのが不利な理由だと思う。
今のところ議論されているのは戦績の華やかさではないだろう。
陸抗の芸術的な戦いっぷりは鼻血が出るほど凄いとは思うが。
4人が試行錯誤しながら頑張ってきて
陸抗で花開いたっつう事でひとつ
陸抗は花が枯れるのを必死で食い止めてたんだよ
この4人の中で最も軍略的に優れていたのは呂蒙ではないだろうか?
周瑜、陸遜は孫家をも凌ぐ名門。豪族が支配していた東呉で孫子の子孫という怪しい
家柄の新興勢力が力を伸ばすために絶対的に必要な人材だった。
魯粛も割と名門、しかもかなりの富豪。彼の場合、能力もさることながら財力も買われていただろう。
しかし、呂蒙は卑賤の出である。孫権に買われていたとか、周瑜、魯粛が早逝したとはいえ、
名門が都督になっていた孫呉で並みいる武将を指揮できた時点ですごいと思う。
104 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 20:40:20
みんなベクトルが違うなー
それが呉クオリティ
106 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 21:23:10
いや……みんな遠い目で見てるけど、実際兵率いたら誰が一番強いのよ?
107 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 21:32:48
兵率いたらってことなら…魯粛は違うよねぇ?
>>1はどういう意味の『一番』って言ったんだろうか?
>106
周喩でないのかな。赤壁で曹操を追い返してるんだからさ。
三国時代のキーポイントで大活躍してる訳だし。
赤壁で曹操が勝ってりゃ、三国時代そのものが無かった可能性が高いし。
>>103 成り上がったから凄いってのは変な解釈だ
その理屈だと、中華史上では朱元璋を超える人間は居なくなるし
日本史においてもっとも優れた人物は豊臣秀吉ということになる
>>103 魏に赴いた使者が孫権を称える一文のなかで「身分を気にせず魯粛を取り立て…」とあったと思うから魯粛の生まれは
あまりアドバンテージにはならんかったと思うな。
家が名門かどうかと、実績そのものにはなんの関係もないしな。
>>109 秀吉は、日本史史上で稀有な人物だと個人的には思っているが、ここでは軍師としての
凄さだったね。そういった意味ではすれ違いだった。スマソ
>>110 その経緯は正直しらなかったが、彼は豪族(新興の成金かもしれないが)である事に変わりはないと思う。
確かに、周家などと違い官職についたものが一族にいなかったが、三千斛の米の一件を考えても多少なりとも
名は知られていたのでは?
113 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 22:01:20
大体よロシュクって軍事に関係無いよな
まあ兵を持たせて指揮とかを見れば解るが
114 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 22:03:40
結局何で一番なのかが知りたい
115 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 22:11:19
「全米第一位」つーのと同じノリだな
117 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 22:18:10
シュウとリクはどっちが美男子だったの?
志の大きさと実行力では周瑜
利益の大きさでは魯粛
経験を100%生かすことにかけては呂蒙
主君の為に才略を絞る事にかけては陸遜
四者ともタイプが違うからな。
呂蒙は戦術家、魯粛は戦略家としての特化タイプだし
周瑜は戦略眼、統率力、実行力等を広く備えた万能型軍人、
陸遜は軍事・政治両方に精通したジェネラリスト。
120 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 22:22:56
軍師としては、周喩だと思う。将軍としては呂蒙じゃね?
孫権にとっての周瑜って、劉禅にとっての孔明みたいなモンだからなぁ。
アレは軍師なんだろうか。
122 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 22:25:44
劉禅にとっての孔明?
ちょっと待ち給へ
>>122 どーも、いわゆる軍師(謀臣、大略を示す人)というより、主君の補佐役つまり君主代行のような…
124 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 22:28:55
確かに後見人っぽいかも
うーむ
>>116 その軍師って評価が難しいんだよね。
@カクや陳平のように策略をめぐらせる事
A張良、諸葛亮のように大局的な戦略眼を持っている事
B韓信、司馬イのように軍の指揮官として非凡な才をもっている事
軍師と一概に言ってもいろいろな捉え方があるから難しいな。
ちなみに周瑜は@とB、魯粛は@とA、呂蒙、陸遜はBを満たしていたと思う。
周瑜を例えるなら魏における司馬懿のポジションじゃないか?
諸葛亮は陸遜の方がしっくりくる。
多分シュウユ、前に見た中国のドラマか何かでは
リクソンがただのでぶちんだった記憶がある
大分前だから間違ってるかもしれん
しくった、レスアンカー忘れた
>117
>>126 呉が周瑜の力で天下を取ったら周家が王族になっていた可能性か…司馬懿になぞらえると、先々が空恐ろしいな。
130 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 22:31:43
大統領の肩書きが似合うのは陸遜だけ
共和党リクソン大統領
>>129 よく史書を読んでみると、それはありえないんじゃないかという結論に落ち着くよ
よく、周瑜は益州で独立……なんて説もあるが、周瑜という人物、言動を吟味すると、ここまで孫家に忠実な人も珍しい
孫権が一番と評するもの判る気がする
実際、周瑜って本当に身も心も呉に捧げ続けた人生だったね
江陵のあたりでの勝因は周瑜の執念だと思うぐらい
>>129 もし孫登が生きていたら周瑜は外戚、しかも嫁さんを通して先代の孫策とは義理の兄弟だから
周家は魏における夏侯家のような待遇になったかもね。
134 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 22:45:16
なんつか要領悪そうなイメージはあるね
>>125に同意というか、いちいち「軍師」なんて呼称に囚われるからおかしな認識に
なってると思うね。
このスレで重要なのは、如何に属する陣営にとって有益で長期的にみて繁栄を
もたらせる軍事と戦略を統轄する司令官ってことでしょ。
戦略方針を設定し、随時うつり変わる対外情勢を正確に認識して自陣営にとって
最も相応しい方針へ修正していける人物でなければならない。
そうみれば呉にとっては周瑜・魯粛の二人が健在している時期が最も統一を狙える
状況にあったわけで、呂蒙・陸遜の時代は呉という江南政権の意地と守成を主眼に
おいた戦略を展開しているに過ぎない。
俺は
>>73に概ね同意するけど、やはり周瑜・魯粛をセットで第一に推すけどね。
>>129 そもそもそんな人間なら赤壁は無かったろうにな。
周瑜は、独立しようと思えばその前にやっていると思う。
英雄の素質のあった孫堅が死に、孫策がエン術の客将になっている時や(江南平定では
孫策の威風が伝えられているが実際江南随一の周家の御曹司が味方した事はでかいはず)、
孫策という無二の親友が死に孫権が後を継いだ時など。特に孫策が死んだ時なんかは
名門の出自に加え、軍才も認められていたはずだし、孫策の後を継ぐといって
独立しても民心を得られたと思う。それでも独立しなかったんだから、かなりの
忠義の士であった事は間違いないでしょ。
138 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 22:52:09
ガリクソン(投手)
139 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 22:54:05
135的に考えると一番は周喩か魯粛だな。陸遜はもう地盤固まってたし
周瑜伝の蒋幹とのくだりに、周瑜の心情が如実に現れているよ。
魯粛の場合、富豪であったという背景から漢帝国の威信の影響を受けなかったから
漢を無視した天下二分という柔軟な発想ができたのかもしれない。
一方、周喩の場合は超がつく名門だった故に一族から官僚を多数輩出していたため
魯粛の策を理解できなかったんだろうなぁ
魯粛は淮南方面からの北上の困難さに気付けなかったことは多いに問題じゃないか?
荊州(江陵)を明け渡した以上、呉にとって唯一の進軍路だが結果的に最も困難な進軍路だった。
143 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 23:07:08
孫策の死後、魯粛をはじめかなりの人間が呉をはなれようとした。
それをひきとめたのは周瑜。
まっさきに臣下の礼をとって、自覚のなかった孫権にももっと君主らしく
あるべきだと行動でしめしたりもしてた。
周瑜はよく頭がいいとかそんなんでほめられているが俺的には
こういう周瑜の義理固さもすごいと思う。
はっきりいって周家のほうが孫家より家柄数倍いいし。
それでも孫策についていって、孫権にしたがい、死ぬまでずっと呉のために
働き続けたのを考えると、周瑜が独立なんてありえないだろうな。
養生しろってすすめられても魏と蜀が活発に動いてるからって休みなしで働き続けて
死ぬのは人間的にすごい偉人だと思う。
どうでもいいけど周瑜の遺言泣ける。
>>141 魯粛の最大の理解者が周瑜だろ。
あの二人の相違点は危険を冒して益州領有を目指すかどうかぐらいだ。
>>143 周瑜の遺言を読みて泣かざるは忠臣に非ず。
呂蒙は戦略眼なさすぎ。すでに不可能な戦略をひっぱりだして
呉と蜀の命運を縮めたと思う。
>>142 結果的にそうなったが、荊州方面も決して楽な進軍路ではないのでは?
襄陽方面からの進軍は、攻め込んだ時に江南が留守になるという不安要素も
あったんではないのかなぁ?
周瑜が生きていた時点で、呉の基本路線は周瑜案で動いてた
周瑜が居れば可能であるという見通しがあったからだ
その周瑜が倒れた際に、周瑜自信が後任を魯粛にし、案に呉の基本路線の変更を是認したのは
周瑜もまた、大局がよく見えていて、自分を欠いた際のベストが魯粛路線であることを認めていたからだ
また、魯粛は事をみて策を練るのに柔軟で、その点においても周瑜は期待する部分があったんだろう
149 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 23:19:44
ホント甲乙付けがたいな
>>149 この四人が連続して出て来たことが呉にとっての奇跡。
前三者が相次いで夭折してしまったことが呉にとっての悲劇。
151 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 23:28:13
なんか周瑜とロシュクどっちがすごいかになってるなw陸遜あわれ
>>146 あの時点での呂蒙の戦略は間違っていないと俺は思う。
呉にしてみれば、荊州は父祖孫堅の最後の土地であり、周瑜の悲願の土地でもあった。
呉は、魯粛の死後ずっと荊州を狙っており、呂蒙は最高のタイミングで荊州を奪還した。
陸遜の手柄になってしまったから微妙になっているが、劉備の復讐も返り討ちにしている
事を考えても、この作戦は悪くないだろう。
事実、関羽のあだ討ちを蜀の重鎮がことごとく反対をした事から、蜀呉両方にもし関羽のあだ討ち
が行われても、呉が勝つという確信があったのではないだろうか?
都督って役職が独特で面白いよね
魏・蜀でこの四人と較べられる人がいない
>>152 呉が勝つっていう確信より、魏が攻めてくるって確信の方が強かったと思われ
逆に、純粋に呉との勝負なら、蜀に部があると思っていた節も無くはない
>>153 蜀なら関羽かな。ただ関羽が半ば独立してる(孤立してる)感があるのに対し
呉の四人は同時に呉軍全体に戦略にも携わってるからやっぱり別物かな?
>>153 軍の指揮官としては、魏のカク昭やケ艾などは匹敵すると思う。
むろん、周、魯のような国の大局的な戦略などはなかった気がするが・・・
157 :
73:2005/10/15(土) 23:38:18
>>85 確かに魯粛の最大の欠点は、他の3人と並べると軍事の才が大きく劣る点だろう。
軍事的には、周喩の天下二分論の方が優れている。
だが、魯粛の目的は、制圧範囲の拡大では無く、最終的に孫権を皇帝にする事。
その場合は、周喩論よりも魯粛論の方が正しいと思われる。
呂蒙の献策に関しては、戦術に疎い魯粛が普通に関心しただけの話だろう。
魯粛が荊州奪回を考えていなかったとすれば、むしろ呂蒙を諌める立場と言える。
そもそも、『荊州を貸した』という形式。
これは、劉備が荊州での権益を確保するかしないかの内に、魯粛が打った外交手段。
劉備は、元々荊州での人望もあり、最も荊州を治めるに適した人物と言えた。
孫劉の同盟が続いたとしても、このまま行けば劉備が実質的に荊州を支配する事は
容易に予見出来ただろう。
そこで、魯粛は孫呉の権益を保ったまま劉備に荊州を任せる『貸し』の形を取った。
こうする事で、劉備に一方的な恩義を与えたと思われる。
当然、貸したという事は返してもらう事を前提としており、魯粛が劉備に荊州を貸し
与えたのは、長期的に考えて得策であると判断したからだろう。
>>154 蜀は劉備自ら指揮を取り、主力を率いて長江を下っての大遠征。
一方呉はまたしても大黒柱呂蒙を失った状態だからな。
159 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 23:41:11
呉の約立たずを語るより↓
蜀と魏を語ろうぜ
>>159 他所でやれよスレタイも読めない日本の役立たず。
161 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 23:43:28
なんかスレを立てた
>>1の予想を越えて、意見が飛び交ってるなw
やっぱ三戦版はこうじゃねーとな。ぶっちゃけ最初
>>1を見た時は若干糞スレの
匂いがしていたんだがな。
ということで、亀だが
>>1乙。
>>158 いや確かにその通りなんだが、もう少しよく読んでくれ。
これは、呂蒙が荊州を攻めた時点の評価に端を発している。
呂蒙が死んでしまって呉が不利になっていたのは同意だが、
果たして蜀が復讐戦を挑んでくるのが目に見える状況で
あえて呂蒙がとった行動は
無謀だったのか鬼謀だったのかという事なんだ。
まぁifを語ってもしょうがないかもしれんけど、
もし周瑜が荊益攻めを完遂して、尚まだ生きてればねぇ
164 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 23:55:30
周瑜と魯粛は他の者と同列には論じられないよ。
国の行く末を考えるという、軍事的才能や戦果では計れない功績があるわけだから。
普通、新製品の開発者と小売りへの営業は違う人間だろ
165 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 23:56:31
>>163 呉じゃ負けてるよ、とか思うんだが。
想像力不足で想像がつかないだけかな
166 :
73:2005/10/15(土) 23:56:33
さらに、魯粛は益州への出入り口を孫呉の統治から切り離している。
これは、劉備に益州制圧を促して、早く3大勢力の鼎立を成立させようという
魯粛の意図が感じられる。
曹操を最大の敵と位置付けた魯粛論にとって、劉備は単なる鼎の1つ。
将来的に併呑するとすれば、劉備に荊州・益州を支配していてもらった方が、
楽と考えたはずだ。
赤壁まで最重要地としていた荊州を、状況に応じて簡単に手放す思考。
これは、恐らく周喩にも呂蒙・陸遜にも無い柔軟なものだったと言える。
最も、周喩存命の場合、魯粛の戦略も違うものになっただろう。
167 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 00:01:46
呉は逝って良し
張遼や趙雲を語ろうぜ(呉ならカンネイか)
>>157 俺は魯粛の積極的意思でそうなったというよりは、周瑜を失い益州攻めが困難な以上そうせざるを得ないという状況のなせる業だと思うな。
実際周瑜&魯粛の策には中華南部の三州(益州・荊州・揚州)が一致協力して北上を目指すのは必須条件。
劉備が益州に赴くには南郡は必須だし、周瑜を始め文字通り命を削って落とした拠点をただでくれてやってはさすがに他の人間が納得できんだろう。
だからそれを見抜いて実行に移した魯粛の慧眼は評価できるし、奪い返す方策もないくせにと責めるのは酷に思える。
他に取るべき道は思いつかんし、魯粛もその後最大限の努力はしたと思う。
169 :
趙雲:2005/10/16(日) 00:03:28
周瑜は荊益を全部取って…そのあと馬騰と同盟を組んで共に曹操と戦う所まで考えていたからな。
本当に惜しいなと思う…なぜ周瑜は早死してしまったのか。
はっきり言うと後任の魯粛にはこのようなことはできなかったと思う。
そして劉備と同盟関係を結んでしまったことで…天下二分は無理になってしまったし。
魯粛は一番無能だったと考えてしまう。
>>166 周喩、魯粛とあとの二人は戦略眼にレベルの違いがありすぎるね。
171 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 00:06:30
陸遜が劉備を退けた時、あと蜀が征服された直後の混乱の時、呉が蜀を取るチャンスはあったよ。
>>171 その時は既に後継者問題で実質内乱状態じゃなかったっけ?
>>165 ・劉璋が暗弱
・北の張魯と交戦状態
・三国屈指の水軍
・劉璋配下の法正、張松らの存在
・周瑜、呂蒙、甘寧ら城攻めは得意
・一年以上の準備を経た侵攻作戦
俺の想像力(というか妄想力)では十分射程圏内だ。
>>172 それは魏を無視してるだろう
呉蜀両方にとって魏という存在は大きくのしかかり、戦略の幅を大きく狭めてる
それから、蜀が呉に勝てるっていう勝算は何より孫皎の死が第一
呂蒙が死ぬのは既定路線だし
いつのこと?
蜀が滅びた後の呉のことなら、全然そんなことないぞ。
177 :
73:2005/10/16(日) 00:13:20
周喩と魯粛の比較。
荊州での劉備の勢力が無視出来ない大きさになった事で、2人の戦略性の
差が垣間見れる。
孫劉連合の維持という立場で、周喩と魯粛は同じ考えだった。
だが、荊州を貸すという魯粛に対して、周喩は劉備擁立という論に至る。
劉備擁立は、漢王室に関する価値観という要素もあったはずだ。
それに対して、魯粛は漢王室を思考から切り捨てていると言っても良い。
劉備擁立となれば、荊州が将来的に劉備のものとなる可能性が高い。
孫呉よりも劉備の方に土着の利があり、万が一統治に失敗すれば、劉備が
堂々と支配してしまう事も考えられただろう。
荊州を貸してしまえば、実質の統治を任せても権益を孫呉が保留出来る。
178 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 00:14:11
>>173 法正、張松が呉に降るわけないだろ。
呉って国力の割りにかなり見下されてんだぞ。
魏>劉備>>呉
旧劉璋配下が呉の犬に降りたくないって理由で魏にいくくらい
>>177 ゴメン、勝手に史実を君の妄想とすり替えないでくれるかな?
>>178 初耳だ。それって誰?まさか黄権じゃなと思うが・・・
182 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 00:19:38
169でも蜀と争ったら得するのは魏
勝手に先に益州奪っても……守りと寝返りが期待出来ずに滅びます
183 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 00:20:56
ちょい話はそれるけど、地の利とか考えないで4人に1万兵を与えて統一するのは誰かを考えてみたとき、周喩が統一しそうな気がする
>>180 悪い不勉強で、
>>177の何処がすり変えられているのか分からん。教えてくれ。
劉備奉戴ってとこか?
185 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 00:22:48
喩ではなくて瑜
186 :
73:2005/10/16(日) 00:23:06
又、益州を制圧するにしても、連合維持は絶対条件。
劉備が孫権との益州共同攻略を断れば、その時点で周喩の二分論は破綻する。
(赤壁後、劉備勢力が拡大してしまった時点で想定出来た結論)
劉備が益州入りしようとしても、孫権が後ろにいる。
又、孫権も劉備が前にいる為、益州が確保出来ない(曹操もいる)。
最悪、劉孫の隙を突いて曹操が益州を制圧する可能性もある。
その硬直状態を未然に防いだのが、魯粛の荊州貸与という選択だろう。
もうこれしか無かったとも言える。
これは、魯粛の自由で柔軟な思考が切り開いた活路だ。
周喩と魯粛では、軍事面での才能がそうである様に、外交や国家の指針決定に
おいて大きな差があったはずである。
益州進行は兵站が非常に細くなるという諸刃の剣を抱えてる
ただ、そんな状況でも成功できる男が呉にはただ一人いた
孫 策 だ
奴ならやる。もう、兵站が潰れようが、そのまま進軍しちゃう。そして勝っちゃう
そして軍を翻して、荊州も取り戻しちゃう
そんな男だ
188 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 00:24:52
>>178 人材によって見下されたのかと考えてみる。
蜀は国力はないと言えど…五虎大将や諸葛亮やホウトウと言った優秀な人材が存在していたからな。
蜀は人材でものを言わせていた。
魏は圧倒的国力や兵力によるものと考える。
呉は人材にしても国力にしても劉章から見れば中途半端に見えたんだろうな。
>173
周瑜は城攻め得意じゃないよ。でも益州攻略は成功しただろう。
問題はその後の統治で、すぐに襄陽目指して進撃しないと大変なことになったはず。
>>180 劉備擁立は「呉書見聞」の説だな。
非常に面白い説なんだけど、当たり前のように提示されるとなんかヘコむな。
>>183 話がそれすぎw
多分、軍才で周喩=呂蒙=陸遜>魯粛って事になってる。
戦略で、周喩=魯粛>呂蒙=陸遜って事になっている。
それと一万を与えただけで統一は出来ん。
>>186 お前の前提はおかしい
何故なら、周瑜の天下二分論には劉備は存在しないからだ
現実には荊州の南方4群に劉備は勢力を構えたわけだが、それで尚周瑜が益州進行したのに
その周瑜の頭の中のプランが劉備割拠以前のままで変わらないことを前提として
お前は周瑜のプランに穴があるとほざいている
>>182 いやでも、劉備が蜀を取ったのは周瑜が死んで掠め取ったみたいな形だからねぇ。
周瑜がうまく益州を落とせたかはさておき、落としたならむしろ魏の方が困ったはず。
赤壁での敗戦と、呉の水軍、涼州、漢中。
魏が攻め込むにはキツイんじゃね?
実際、フビライが南宋を落とす時も結局は南宋の水軍取り込んでようやく勝ったわけだしな。
それまでは、北からはどうしても南に攻め込めなかったのよ。
>>189 統治要因として孫瑜がいるんだと思うが
城攻めが得意じゃないってのは江陵から?でもアレは周瑜は赤壁の兵をそのまま使ってるのに対し
魏は守りの名将曹仁に無傷の魏兵だから、逆に一年で落としたのは御の字だろう
>>189 「呉書見聞」?聞いたことない資料だなと思ってググってみたら個人サイトやんけ!
断わりなしに名前出しちゃうのはいかんのでない?
>>187 真の孫策好きならこう言うべきだ。
「孫策なら許都から献帝をかっさらって歴史を変えていた」
>>188 そういう定義で蜀の人材が豊かだというなら、呉の方が人材豊富だよ。
で、そういう定義であろうとなかろうと、あらゆる意味でもっとも人材豊富なのは魏。
呉が見下されたのは、孫家の家柄がショボすぎること、官爵が低すぎること、
孫権が若すぎたこと、赤壁以前にこれといったことをやってないこと、その他もろもろ。
>>194 呉好きなら誰でも知ってるようなサイトだから良いかと思ったが。
マズかっただろうか。
197 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 00:33:29
孫ぼこはこの板にも来たし、みんな知ってるから問題ないよ
198 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 00:34:06
192まだカンチュウは曹操の物ですが
なぁ今でこそ、劉備対曹操 そしてそれを邪魔する孫権みたいな図式が出来上がっているけど
その当時はどうだったの?
やはり反曹=劉備というのはあったんだろうか?
もし、そうであったなら呉が低く見られるのは仕方がない気がする。
それと
>>188さん、蜀っつーのは劉備陣営のことではなく地方名だからw
紛らわしくて最初意味わかんなかった。
200 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 00:39:58
>>186 >周喩は劉備擁立という論に至る。
こんな話聞いたことがないんだけど?
擁立ってどういうこと。
むしろ、呉にやってきた劉備をそのまま留めて
さらにカンウと張飛を別々の場所に置いとけって
孫権に進言するぐらい、劉備一党を警戒し強硬な態度取ってたのに。
魯粛は劉備たちを甘く見すぎだろう。
漢中はそのころ張魯ですが……
周瑜は張魯とは同盟路線だからな。宗教の怖さをよく判ってらっしゃる
>>198 いや五斗米道はまだ下ってなくなかった?
203 :
73:2005/10/16(日) 00:41:00
>>191 周喩の二分論は、劉備勢力も呉に組み込んでのものだったと思われる。
関張の軍を含め、独立以前の劉備でも呉にとっては危険な要素だったはずだ。
周喩論で行けば、劉備を第3勢力とする道理は無い。
潰すか吸収するかであり、リスクの高い前者よりも後者を選ぶだろう。
ただし、劉備が孫権に仕える人物だとは、周喩も思っていない。
劉備勢力を効率良く運用する場合、劉備擁立が得策と思われる。
魯粛が孫権を皇帝にしようとしていたのに対し、周喩は曹操打倒を前提に
考えていたと思う。
劉備軍団はなんだかんだで中原で暴れまくってたから、知名度高いんだよ
魏の中に一時いたこともあるし
でも益州も孫権じゃなく周瑜だったら従いそうな気がするな
205 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 00:42:56
ドチラにしてもカンチュウは曹操の物になりますよ
だって張魯は戦う気が無かったようですし(維持する程度しかない)
206 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 00:43:11
203
そこで孔明というおもわぬ布石がでてきたわけだ
>>203 >周喩の二分論は、劉備勢力も呉に組み込んでのものだったと思われる。
いきなりお前の妄想から始まったら、レス読む気も起こらん
>>199 曹操が簒奪の意志をあらわにするのは赤壁後だから、反曹ってのはさほど重要じゃなかったんじゃね?
むしろ人間としての格の問題でしょう。劉備は色んな意味でビッグマンだった。
たとえば孫堅がずっと生きていたとしたら、呉もそうは見下されなかったと思うんだが。
>潰すか吸収するかであり、リスクの高い前者よりも後者を選ぶ
リスクが高いのは後者。低いのは前者です
見下された前提だが、本当にそんな話しあったのか?
>>203 おいやっぱり君の仮説かよ・・・
なかなか君の意見は好きだったんだが・・・・
今度から自分の仮説を書く時は、そのように「思う」の一言をつけてねw
君の意見は結構好きなので、頑張ってください。
213 :
趙雲:2005/10/16(日) 00:50:12
>>203 その魯粛の孫権を皇帝と成すという考えは…曹操と同じ路線だな。
周喩はまずそれ以前に曹操打倒をしていたが孫権を皇帝にしていたのか?
また魯粛と食い違ってたと考える。
陸遜が殆ど話題に挙がってないな。ここで誰か奴の深い考察をやってくれないかと期待。
>>211 元ネタは個人サイトの物凄く面白い仮説なのよ。
つーかそいつの意見は全部そのサイトの受け売り。
216 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 00:53:25
劉備一党は
赤壁後のどさくさまぎれに荊州南を制圧。
そのあと呉に、荊州の北を貸してくれって言って借りた。
この時点で劉ショウ側が、ぽっと出の劉備たちを
曹操や孫権たちと同等に見てたとは思えないなあ。
加えて魯粛厨だから始末に悪い
218 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 00:54:22
とりあえず呉では無理
例え益州とカンチュウが有っても劉章の寝返りと山等の戦いに不馴れな呉に維持出来るとは思えん
つ 周瑜
おまいら、いいかげん登録しておけ
220 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 00:56:33
劉備はぽっと出じゃないぞ
荊州に入る前から左将軍で予州牧だぞ
>>217 実際周瑜・呂蒙・陸遜が魏・蜀ファンの間でも一応名将として扱われてるのに比べ、
魯粛は呉ファンの中でも中々認められていない感じもするし気持ちはわかる。
>>221 将じゃねーもんっていたらそれまでよか
ってか、史実で劉備左将軍だっけ?
223 :
73:2005/10/16(日) 00:57:57
>>207 それは、周喩にとって曹操・孫権の2大勢力が絶対という事であり、劉備軍の
吸収が前提の論という意味では無い。
劉備が勢力を増した以上、周喩論に乗せるには呉への吸収が望ましかった。
>>209 潰す場合、結局は劉備(或いは、残党)との交戦も回避し難いと思われる。
結局は…呉は水軍だけ長けていて陸戦はさすがに下手であると否めないか。
南郡攻略の時もそうだったように。
225 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 00:59:05
名「将」ではないからな魯粛は
呉にとっては名将たち以上に重要だと思うけど。
>>218 呉の山越との戦いをご存知ない?
>>224 南郡こそ呉が陸戦においても引けをとらない証明じゃないか?
>>214 陸遜を考察しようと思って陸遜伝を読み返していたんだが、関羽にあてた手紙が面白いな。
徐晃の戦術を見抜いてるっぽい。つーか状況に詳しすぎだ。
>>226 ぶっちゃけ
>>218に真面目にレスしてもなぁw
劉璋も字が違うし・・・
ただ、山越との戦いは対ゲリラ戦っていうイメージがあり、守りの戦いって感じなんだよなぁ
230 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 01:10:16
魯粛のおかげで劉備は荊州を手に入れられて、
この地盤をもとに益州をも手に入れることが出来たという事実は
変わらないわけだからなあ。
何の速報だよw
>>223 そのリスクを含めても、潰す方が易いっていってんだろ
獅子陣中の虫を抱え続けるのは馬鹿のすることだ。
234 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 01:15:52
カンチュウの山と移民賊の山では違うよ
だって雨が激しいしタダノ山じゃないよ
変なのに反論するより自説を展開してほしい
ちょっと前までの方が面白いスレだった
判った。久々に三戦で活性化してるまともなスレだったから、スルーを忘れてた
237 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 01:34:16
呉は毛利
魏は織田
蜀は武田
以下でよろしいか?
てか呉は弱小で無能な君主を倒しただけじゃないか?
魯粛の考え方は全体的アナザーチョイスって感じに思えてならないんだよねぇ。
周瑜が生きてたら、実際劉備は黙って指くわえながら益州攻略を見てるしかなかったように感じるし。
あの段階で呉に反抗するなんてやるわけないし、
かと言って周瑜が益州攻略に直接劉備を使うとも思えないから、それこそ周瑜が死んでなかったら、
劉備の出番は対魏戦の一軍位に自然吸収されてたんじゃないかな。
まぁ劉備だって馬鹿じゃないし、天才軍師様二人も抱えてたんだから、
何もしないってこともなかったかもしれないけど。
だから魯粛の取った道は最善だったかもしれないけど、
あくまでそうなってしまった段階での最善でしかないような気がする。
なんか全体的にアバウトでスマソ
239 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 01:39:40
>>237 呉が無能君主を倒したってい何のこと??
240 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 01:41:59
やっぱり呉が魏に勝つの無理じゃねえ?
例えが悪いが地の利を得た袁紹だ
>>238 いや、伝わっている
結局魯粛の策はその時その時はベストでも、呉全体からみてベターだったな(それしか取りようがなかったのだけど)
劉備はね……周瑜があのまま益州に進行したら、魏と結んで(公式にじゃなくても)攻撃仕掛けるとかやらかしそうだわ
伏龍さんは反対しそうだけど、劉備軍団最大の軍師は劉備本人だしねぇ
>>240 孫策なら勝ててた(呉というのか微妙だが)。奴ははっきり言ってカリスマだった。
孫策健在の頃の二張とか、もうなんか二張じゃないくらいだったしw
そんで次に勝つ可能性があったのはやっぱり周瑜の二分論だろう
それぞれ蜀でいうところの荊州失陥がない場合の北伐と、第一次北伐に相当すると思われる
243 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 01:47:55
劉ヨウ&袁術の事ですが
244 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 01:50:20
忘れ物
孫策がやった事ですが
後は何をしました?移民賊の反乱ぐらいでしょ(コウカ太主のコウソも)
245 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 01:51:05
とりあえず呉は孫権の代になってから内政ばっかだったからダメだったんだな。
246 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 01:51:45
>>242 そうなると…所詮孫権では無理だったとなるね。
孫策が長生きしてたら…もしかしたら大きく変わってただろうし天下も見えてただろうな。
247 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 01:52:20
無理だって(´_ゝ`)マンチョウすら倒せない呉がシバイも相手ならボロ敗けだな
袁術は自滅なんだけど……
それに劉ヨウは周りから群雄として認められていた強大な勢力
孫策が規格外だったのであっという間に滅びたが、結果論で弱小とされても困る
雑魚に勝った程度なら、孫策の快進撃に世間は驚かないだろう?
>>245 その内政のお陰で南朝の開発基盤が出来た
まぁ、その恩恵に預かったのは東晋だが……
250 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 01:57:15
一回孫策と戦いましたが
他からしたら弱小ですが
無能は間違いないですが
言わばカントの時の曹操(孫策にアテハマル)袁紹は劉ヨウ
袁術はヤツ自身が無能でなければ、天下も狙える勢力だったのにな…
官渡での曹操=孫策、袁紹=劉ヨウなら
やっぱ奇跡だな。孫策が劉ヨウに勝ったのって
しかも、正攻法。流石小覇王
>>238 劉備の最大の恐さは、荊州に人的基盤があったこと。
油断すると、曹操が張バクの反乱で大ピンチに陥った時と同じ状況になりかねない。
荊州が劉備を担いで一斉に離反、という。
ただ、それを言うならその荊州を劉備に与えるというのも同じくらい危険なんだよね。
関羽討伐が容易に進んだのは結果論に過ぎず、たとえばホウ統あたりが関羽と共に残されていて
荊州閥というものをしっかり構成していたとかいう場合には、徹底抗戦されてしまったハズ。
魯粛案というのはかなり行き当たりばったりで、テキトーなところもあると思う。
呂蒙伝の孫権による評価が、魯粛という人物をうまく言い表している。
>>240 どうして袁紹に辿り着いたのかが皆目検討もつかないが、マジレスすれば正直全く違う。
まず袁家は後漢最高の名門である。それに比べ孫家は堅が起こした新興勢力である。
加えて当主の袁紹は、人材活用下手であるが、孫権は随所にすばらしい活用を見せている。
孫権は若い頃、遊び人で度々公費を使って遊んでいた。それでも足らず呂範に賄賂をせびりに
行って手痛く断られている。孫権はそれをとても恨んだらしい。しかし、自分が君主になった時
彼は公費流用を隠してくれた役人は用いず、呂範を重く用いた。呂範が名政治家だった事は周知
の通りである。この逸話だけでも、孫権の人材活用の上手さが出ている。
それと、状況が全く違う。袁紹は曹操と対決する前は中華最大の勢力であり、孫権が孫権と対峙する
頃、曹操は河北を手中に収め国力差は3倍から4倍あったと言われている。
地の利を得た袁紹っていうのを詳しく教えて欲しい
255 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 02:06:40
兵力の差は違うかも知れないけどね(武将の数と能力に違いが有りすぎだね)
>>254 だから変なのはスルーしろよ。
孫権と袁紹は似ても似つかねぇ。
孫権の人材活用は、人物の才能を限定しないだけに曹操以上といっても良いくらいだ。
そもそもここに取り上げられた四人のうち、周瑜を除く三人はみんな孫権に抜擢された人物じゃないか。
257 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 02:07:42
周瑜が生きていたとして、荊州は?
劉備は荊州での人望も厚かったし、周瑜が曹仁との戦に勝った頃には
荊州での強さも無視出来ないものになっていた。
孫権か劉備かといわれれば、荊州では劉備側につく人間の方が多いのではないか。
劉備は曹操にすら反逆してたわけだし、呉相手に覇業を止めるとも思えない。
やっぱり、最終的には蜀に逃げ込んでたような気もする。
周瑜ならその前に劉備を殺すかな・・・・とすると、周瑜と孔明の全面対決も?
258 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 02:09:05
タダノ袁紹ぐらいの軍事能力の奴に地の利を得たと言ってるだけですが
>>254 >孫権が孫権と対峙する
そろそろつっこんであげようぜ
>>254 一つ言っちゃえば、袁紹ナメ杉
人材活用下手?あれだけ優秀な人材を集め、曹操が統治後も袁紹の旧領の民は袁紹を慕ったんだぞ?
後漢末の動乱で最高勢力だったのは袁紹。官渡の戦いは赤壁と並ぶ重要かつ大きな戦いで、結果が大どんでん返しという点で共通してる
261 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 02:12:41
みんな読んでないってことだ
>>257 その頃の諸葛亮に一体何が出来るって言うのよ
劉備軍団って、以外と脆いかもね。もし万が一劉備が死んだら瓦解する可能性がある
>>257 >劉備は曹操にすら反逆してたわけだし
でもそれはまだ可能性があったからでしょ(限りなく可能性は低かったけど)
それに比べてもし周瑜が益州とったら、残りは曹操か孫権かしかないわけで、
その段階で孫権を裏切るというのは、孫権諸共曹操に潰される道を選ぶってことになりかねないんじゃない?
>>262 だから周瑜は劉備を関張と引き離せって進言してるんだよな。
劉備が関張と一緒にいると凄いことになりそう、っていうマンガ的な認識が当時からあったのが笑えるけど。
265 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 02:22:32
そりゃ劉備が死んだら崩壊するって
官渡あたりまでなら曹操死んだら曹操軍団だって崩壊してるって
>>260 名門に仕官が殺到するのは当然の事ではないのか?
それと俺は、官渡の戦い以前最大勢力は袁紹であるといっている。よく呼んでくれ。
「官渡の戦いは赤壁と並ぶ重要かつ大きな戦いで、結果が大どんでん返しという点で共通してる」
これを書いた時点で矛盾している事に気づいてね。
267 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 02:25:56
だがデンポウ等を使いこなせなかった
しかもカントの敗北は袁紹に不満を持っての寝返り……つまり袁紹は自ら滅んだ
その国力の逆転(袁紹の国力が曹操になる)と臣を使いこなした(心中)孫権な訳だが……地の利が有って国が成り立っている(袁紹も地の利が有れば容易く散らなかっただろう)
268 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 02:27:31
267はまず日本語を学び直した方がいい
袁紹は敗者だからいろいろ悪く言われるのさ
まして、かって袁紹配下だった人間が曹操の元には大勢いる
そんな中で旧主を良くは言えないし、むしろ悪く言う人間の方が多い
270 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 02:34:13
袁紹が本当に良い君主なら寝返りはしないと思うが
袁紹は必ずしも無能とは言えないけど、人材の使い方は下手だな。
ああ、でも後継者問題では孫権と袁紹は似たような失態を犯してるね。
曹操も
>>270 本当に良い君主なら、劉備も孟達に寝返られていない筈だよね
本当に良い君主なら、曹操も張繍や魏諷に裏切られて(ry
本当に良い君主なら、歩シツは(ry
孫登がさっさと逝ってしまったのが呉には大きな打撃だっただろうなぁ。
生きてたら陸遜だって普通に天寿をまっとうできたやもしれんのに…
二宮がね……孫権は二宮で、それまでの高評価を台無しにしてくれたよ
275 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 02:41:17
孫登が長生きしてたら、戻太子の乱みたいのが起きた鴨試練
>>273 孫登の死は大打撃すぎる。
ツラくて考えたくもない。
277 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 02:42:54
モウタツは訳ありですが………てかモウタツは関羽が悪いと思う……
278 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 02:44:58
キョユウやチョウコウも訳あり
悪いのはカクト
>>277 許攸も一族の横領があって、袁紹の下に居られなくなって曹操に重要機密を持って裏切った訳ですが
……袁紹が悪いの?へー(´・∇・)
旗色が悪くなっても投降するなっての?呉蜀の末期はどーなんの?魏なんてほとんど司馬氏に乗り換えたね
全部良い君主じゃなかったのがいけないのフーン
ま、いいや。そろそろ寝る。明日起きたら、sageの一つくらい覚えといてくれや
なんで三戦板に良スレが育たないのかってーと・・・
たまに活気のあるスレが生まれても、
その度に品の悪いヤツがグチャグチャにするからだな。
281 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 03:02:49
ごめん、孫登ってだれだったけ(ってか、どういう人物)?
忘れてもうた・・・
282 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 03:03:46
呉の仙人
捜神記に出てる
悪い。袁紹を擁護していたのが
>>279のような電波君だとは思わずマジレスしてスレの
趣旨からずらしてしまった・・・orz
まぁ基地外も寝た事だし、スレタイに戻そう。
結論
陸遜は馬鹿が付く正直
>>281 孫権の長男。人望、能力ともに申し分なく孫権から皇太子に任命されている。
が、呉の運命とも言うべきか、良い奴程早く死ぬ呉の宿命から逃れられなかった。
286 :
一住人:2005/10/16(日) 03:12:32
>>280さんに、激しく同意
もう少し品性を学んでください
まあ、こんなこと書くと、そういう奴はまた調子のるんやけどな・・・
みんな、嫌なことかかれても、大人になって無視するようにお願いします
287 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 03:14:23
煽りを入れずにはいられない286も同類だにゃー
功績で考えたら揃って優秀である事は間違いないが、実績なら呂蒙、(魏を倒す)可能性なら周瑜では?
周瑜が長生きした場合はホウ統も呉なわけで。
289 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 03:20:42
>>286 そうそう、そんな人や ありがと!
俺的には、魯粛が好きやな
頭が切れるってわけじゃないけど、なんかすごくいい人
290 :
289:2005/10/16(日) 03:26:19
さっき書いた
>>286は
>>285の間違い、すまん
あと、
>>286かいたんは俺
「煽りを入れずにはいられない286も同類だにゃー」を心に刻んどくわ・・・
>>284 陸遜は最初に都を訪れたいと願うべきだった。こじれてから言っても遅すぎ。
地方で軍権を握ったまま政争に関わることの危険性を全然認識できてなかったと言える。
でも張昭が健在だった頃の孫権なら、張昭はウゼーけど陸遜まで言うなら聞いとく、という感じだったからな。
猜疑心にとらわれていく晩年の孫権を間近で見ていなかった陸遜にしてみれば、青天の霹靂だったかもしれん。
中央を長く離れるってのは良くないね。
>>289 孫権と陸遜にも、壮大な気宇と勇気胆力を持っているが
知略には些か欠ける、とか言われてるなんて魯粛っぽいよね
俺的には、周瑜≒陸遜>呂蒙≧魯粛だけども。
>>291 猜疑心が強くて残虐なのは生まれ付きじゃないか?
呉書みてると相当に粗暴で執拗な人間だと思えるし。
しゅうゆ
りくそん
りょもう
ろしゅく
この順で間違いない
周瑜が突出していて
陸遜と呂蒙はほぼ同じだが陸遜が先だね
魯粛は残念ながら最後
周瑜に比べると他の3人は近い位置にいるようだね
まぁ、五十音順ですがね
じゃあそろそろ張昭・張紘・諸葛瑾・顧雍の中で一番が誰か決めるか
張昭だと思うけど
豪族でありながら徹底して忠臣であることを自らに(息子にも)課した顧雍。
彼も張昭に劣らないと思うぞ。
張昭は孫権のメンタル面に欠かせない人物だった(それだけと言ってるわけじゃなく、張昭にしか出来ないという意味)が、
顧雍は群臣の派閥化を防ぐという意味で呉のシステム面に欠かせない偉大な政治家だった。
297 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 08:17:09
みんないい奴なんだな
孫権は周瑜には頭が上がらなかった?
それとも周瑜にも暴言吐いたり注意したりしてました?
299 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 09:57:52
呉が蜀漢を滅ぼした
荊州を奪われ(南部まで)更に蜀漢の益州の上ヨウを魏に奪われ、多くの将兵と将軍失う(関羽、関平、シュウソウ)で戦いの後は(戦う前に部下に暗殺される張飛→コレも孫権のせい)コウケンは魏に、馬良、シャマカ、陳○……他にも沢山居る(下手したら趙雲まで死亡)
コレでは曹操の賊と変わらないね(´_ゝ`)
馬鹿な呉だろ?魏は滅ぼしに来るが、蜀漢は陽州を納めさしてくれるのに
つまり呉は間違った選択をした
アチャー
301 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 10:18:49
確かに呉が、蜀に何もしなかったら、蜀は曹操を倒したかもね
302 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 10:20:33
周瑜が4人の中ではトップだとは思うのだけど、益州攻めが成功したとは思えない。
劉備の場合、当初は劉ショウ側に招かれての益州入りで援助もされてるし、涪付近を任されてる。
そんな多少有利な状況でもラク城では1年も拘束され激しい抵抗を受けてる。
周瑜の場合、最初から侵略目的だから、益州側の抵抗も相当あるだろう。しかも進軍路は巴東からのみ。
劉備が益州入りした時の劉備と孫呉の国力の差は若干孫呉の方が上なくらい。
しかも兵站ルートが長江のみ。劉備もなんやかんや理由つけて支援には消極的だろう。
魯粛は孫呉の国力では益州は取れないし、仮に奪取出来ても維持が難しい、と言う辺を踏まえて考えたんだろう。
劉備が孫呉の完全に配下になってくれればそれも可能かもしれないけど、劉備の経歴と実力からそれは無理。
しかも、梟雄とされてる人物。そんな人物が孫呉(と言うか江東政権)の安全保障の命運を握る長江中部を押さえるってのはかなり危険。
ならば一時的に荊州を貸与して益州に入らせ、劉備が重心を荊州から益州に移したあとに荊州を確保しよう、と。
そうなれば、梟雄・劉備を益州の山の中に封じ込める事にもなる。
実際、劉備が益州を支配した後に紛争はあったにせよ荊州3郡は返還させてる。
その後も状況が許せば荊州の経略は進めたんじゃないかな。じわじわとね。呂蒙の様に速攻ではないだろうけど。
仮に荊州問題で対立が続いても結局劉備は曹魏と相容れない関係であるから、原則的には孫呉との友好を求めるはずだろう、ってんで。
長文、申し訳ない。
益州攻めは成功する可能性が大きかったから
孫権に進言したんだと思うよ。
周瑜の場合、どうしても攻めのイメージがないんだよなぁ。
江南平定の時は孫策がいたし、曹仁が相手だったとはいえ城攻めに1年以上かかってるからなぁ。
普通に考えて攻城戦に1年ってのはかかり過ぎな気がするのは俺だけか?
>>305 赤壁の続きだったから兵も弱ってたのかもね。
確か援軍来てくれなかったんだよね。
周瑜って攻めしかしてないじゃん
308 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 10:47:09
呉に英雄は居ないんだよな
やはり魏と蜀の戦いが1番良い
孫堅と孫策が長く生きたら…呉は4州を手にしたろうね(益州と荊州と揚州と交州)
>>307 赤壁を攻めこんだと思っているお前に天晴じゃ
周瑜は好戦的
>304
周瑜はそう思ってたんだろうね。でも、周瑜個人がそう思うのと、実現性は別問題。
死去直前で焦りとかあって、判断力に狂いが生じてたのかも。
五丈原に出兵した諸葛亮と似た感じかね。
呉関係でスレが伸びるなんてめずらしいですな。
>>311 そうだな。亡き主君の悲願を達成させようという悲壮感もかぶるな。
全部俺の自演だからな
>311
周瑜の案(益州攻め)を魯粛は反対できなかったのですか?
318 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 11:04:39
呉は1番天下に遠かった国
>>306 孫権が合肥に、張昭が当塗へ、それぞれ兵をだしてるはず
>316
表立って反対していたかどうかは不明です。
周瑜なら可能と考えていたかもしれませんし、周瑜の死去が近いのが分かり静観してたのかもしれません。
周瑜がいなければ実現は無理、と。
ただ、周瑜の遺言に触発されて孫権が益州進出を企てるとは思ってなかったでしょうけど。
なぜ合肥だったんだろう
322 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 11:22:40
呉って魯粛が逝ったのが痛かったな……せめて劉備が逝くまで待って欲しかった
323 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 11:36:01
総合的に見ると、魯粛の評価は低いな 仕方ないとは思うけど・・・
俺の中では、魯粛が一番なんだが・・・
良さがうまく説明できんから、誰か説明してくれ
晩年の呂蒙>魯粛>周瑜≧呂蒙>陸遜
>>305 江陵や赤壁、樊城、襄陽の辺りは守りやすく攻めにくい土地だから、
そこを落としただけでもかなりのもんだと思う。
それにもし平原での戦だったとしても、城攻めならばある程度時間はかかってしまうもの。
周瑜の益州攻略は水軍を使って川遡上での兵站確保が視野に入っていたから、
成功したかどうかはわからないけど、確率は高かったと思う。
孫策は確かに凄いけど、あまりに急進的過ぎて敵たくさんいたし、
結局長生き出来なかったような気がする
でも、彼の許昌急襲は見てみたかった。
三戦板で第三位の盛り上がり
328 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 13:48:49
周瑜・魯粛→領土拡大
呂蒙・陸遜→国として生き残らせる
・・・ベクトルが違う
周瑜の益州攻略・・・成功したと思うけどな。
329 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 13:52:51
ハイハイ呉は強かった
さあ劉表について語ろうや
何度も言うが周瑜の益州攻めを語る上で張魯の存在は見逃せないと思うんだよね。
劉備の場合に比べ2年早く始めることになるこの作戦の場合、張魯とは交戦状態にあり、
またかつて趙イの反乱を招き、当時ホウ義・李異らは功績をたのんでつけあがり外部と結ぼうとしていると言われた。
内に問題を抱え、君主は暗弱、その上敵は二正面作戦を強いられるわけだから勝算は十分にあったと思うんだよね。
劉表=やられる為に居る中ボスクラス
>>298 頭上がらなかった。
が、周瑜の方から率先して臣下の礼を取っていたので無問題。
理想の君臣関係といえるかもしれん。
>>330 同意
揚荊州を抑えて、相手が極め付きの無能劉璋
成功しないはずが無い。
>>333 兵力が超少ないのが心配だが。
まあ、あの手勢で曹仁と愉快な仲間たちの江陵を落とせたわけだしね。
成都強襲を基本にしとけばイケたと思う。
>>305 黄祖討伐を忘れてないか?
それと篭城する相手を落とすのは難しい。
1年といってもまず野戦で撃ち破って城内に押し込め、その後曹仁が撤退するまでを含めて一年。
一方劉備はラク城を包囲すること一年以上に及びようやく陥落させたわけだが、
江陵と比べどちらがより堅牢で、より備えがあり、より優秀な人材に守られていただろうか?
>>334 さすがに一年に渡る準備の過程である程度補充はしただろうが、孫権の治める揚州からのバックアップも重要だよな。
>>293 ちょっと孫権に対して一面的な見方じゃないか?
潘濬伝や諸葛瑾伝など孫権の度量の深さを示すエピソードも沢山ある。
>>337 諸葛瑾伝における度量の広さって? 朱治との喧嘩のこと?
339 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 14:43:21
ロバでも才能があれば召し抱える度量
「子瑜どのが私を裏切らないのは、私が子瑜どのを裏切らないのと同様だ」みたいなやつじゃないか?
>>319 それは孫権が欲を出したのもあるけど、曹操が牽制として仕掛けた部分も大きいかと
周瑜のプランでは、赤壁の勝利後、孫権の増援を得て荊州を席巻という過程で進めてた筈
それを熟知した上で曹操は合肥方面で蠢動、江陵には曹仁らを置くことで周瑜の侵攻を阻止と考えていた筈だ
曹操の中では、最悪の場合は江陵失陥もあり得るが、上手くいけば守りきれると踏んでいた筈
ところが周瑜は、そのまま増援を得られないとみるや、赤壁の手勢のまま進軍を開始、江陵との交戦状態に入って、一年で攻略した
>>330 劉備はその上でまず蜀内部に入った地盤を固めて、
さらに劉璋から人材・兵力を吸収して、
一年以上掛けてやっとの蜀制圧だから、
陸抗の例を見るに、劉璋は内憂を抱えてるとはいえ
正面から攻めざるを得ない周喩にそこまで勝算があるとも思えないな、
荊州も南郡を抑えているけど、南部には劉備、北部には魏が割拠してる状態だし、
楊州から兵を率いるにしても益州までは距離がありすぎて
大軍を引っこ抜けば防衛に不安が出るだろう、
率いる兵の地盤にしても南郡+荊州南部を領した後の劉備と比べても不安材料が残る。
個人的な感想だけど、益州攻略作戦から一連の天下二分の計は
全体的に周喩の焦りが見える、無理のある劉備と関張の引き離し工作、
魏の動きをあまり勘案してない蜀制圧計画、あの時点では反曹操と言える程でもない馬超との同盟、
ともかく性急というか気負い過ぎの感がある。
343 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 15:17:24
だから呉は蜀と魏に比べて無能しか居ないの(´_ゝ`)
呉が手強いならシバイは呉と戦わなければならない
しかし!マンチョウで充分だったのだよ
よって魏》蜀》呉に間違いない
まるで満寵が平凡だったかのような書き込みだがまともに漢字変換できないってことは小学生か
345 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 15:36:52
何気に満寵を陸遜並みに評価している俺が来ましたよ
346 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 15:40:05
満寵は守りの固い人間ですなら
>>345 それは無いw
かなり初期に仕えているから、将軍としては五将軍より下。
>>342 まず劉備が内部に入り当面の張魯の侵攻を抑えている間に、張魯は曹操の関中侵攻によるゴタゴタに巻き込まれたのか動きを止めてしまっている。
周瑜の率いてきた揚州の兵は拠点を南郡に移しているので補給線は劉備軍の援軍と同じ。水軍にかけては人材・物資ともに豊富。
曹操の濡須侵攻は212年、周瑜の進行は210年。仮に揚州の兵を動かしたとしても防衛ラインを再編する時間的余裕は十分ある。
元々長江を挟んでの防衛戦。さらに劉備も当然防衛に協力させる。
後半の部分についてだが、
・無理のある劉備と関張の引き離し工作→当時の力関係では「単身会いに来い」と言われても断われない状態。その気なら防ぎようがない。
・魏の動きをあまり勘案してない蜀制圧計画→むしろ関中は未だ平定されておらず、敗戦直後のあの時以外ないと言ってもいいくらい。
・あの時点では反曹操と言える程でもない馬超との同盟→後の行動を見るに、それを見抜いた周瑜の情報収集能力を褒めるべきところ。
俺には気負い過ぎからの性急ではなく、純粋に状況の求めに従っただけだと思う。
多少(?)無理があったかも知れないが、成功すれば前途が大きく開ける
一種の賭ではあるが、やるだけの価値はある。そういうものでしょ?
確かに勝率が高くない策を実行するのは愚者だが、国家の命運を賭けた投機なら6割程度の勝算でも賭けるのはアリだろう
赤壁もそうだったんだから
350 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 16:07:41
>>342 周瑜あのころには発病してたらしいから、死期を悟っての行動ともとれるだろうし、
別に焦りでもなんでもないと思う。
魏は赤壁を気にしてあまり積極的に攻めてはこず、蜀は蜀でまだ地盤が固まってなかった。
あの時以外いつ攻めろっていうんだ?
351 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 16:08:58
赤壁は勝算が高過ぎた
352 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 16:11:06
天下二分がそもそも成り立つかが不信だ
353 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 16:13:32
まあ蜀が有ってこその呉かな
不信
@その人の言動を疑うこと
A約束や発言内容を守らないこと
B信仰心がないこと
355 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 16:20:58
別に間違ってなくね
@だとその人物が信用できない、不信感をもつ、という意味なので用法上おかしい。対象が人物じゃない。
Aは約束みたいに守る・守らないじゃないんで当てはまらん。
Bのつもりはないよな?
357 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 16:48:41
周瑜高評価されすぎ。
赤壁も魏蜀呉説が分かれるため周瑜のみの功績だとは言いがたい。
赤壁のちの曹操軍撤退後の荊州南部も結局劉備に抑えられるはめに。
劉備(諸葛亮)に実を取られた、出しぬかれたってわけだ。
そんなヤツに益州攻略はムリだろう。
評価するべきは、やはり魯粛や呂蒙だろうか。
陸議は夷陵で劉備らを撃退したが、その後はあまり進捗しないし、敗北も
目立つ、その上終わりもよろしくない。
358 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 17:04:05
>>356 スレ違いだけど
不信って人物限定なの?
考え方とかでもいいんでは
>>357 赤壁における最大の功績が周瑜でないとする持論でもあるのか?あるなら詳しくお聞かせ願いたいな。
それと荊州における実こそ江陵(南郡)だろう。
361 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 17:07:05
昨今まれにみる良スレ余は満足じゃ
>>359 禿同
赤壁は周瑜の一人舞台ってぐらい
開戦に踏み切らせたのも、勝利に持って行ったのも、利益を得たのも、周瑜の働きによるところが大きい
そもそも呉建国自体に周瑜の功績は多大。周瑜が居なかったら呉が成立してすらいない
363 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 17:07:49
>>360 いや別に深く考えてないけど
どう違うの?
364 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 17:08:52
荊州南部は大した実ではないだろ。
南郡=江陵が大事。
周瑜は出し抜かれてない。
劉備が荊州の支持を得て荊州牧になったのが問題なんだから不可抗力。
>>357 何をソースにして、言っているのか分からないが、かなりの矛盾を感じる。
>周瑜高評価されすぎ。
赤壁も魏蜀呉説が分かれるため周瑜のみの功績だとは言いがたい。→同意
だがそれ以下が少しおかしい。
荊州南部が劉備陣営に取られたのは、確かに出し抜かれたと言えるが
ぶっちゃけ荊州南部は中原にも遠く豊かとはお世辞にも言えない。そこで劉備は
孫権に荊州北部の貸与を求めるが、周瑜は最もそれに反対している。
ここで魯粛が登場して、これを孫権に認めさせる事になる。
この荊州一体の騒動をして周瑜の評価を下げるならば(その事は別に良いと思うが)
なぜ魯粛の評価が下がらないのか?理由を教えてくれ。
>>362 開戦については魯粛、勝利への貢献では黄蓋らの働きも見逃せないので一人舞台は言い過ぎだが、
主役は誰だと言われれば間違いなく周瑜だろうな。
周瑜って、彼自身の才能も素晴らしいけど、人を良く使い、人の意見を良く用いる、本当に理想的な上司だよな。
っていうかさ、結局孫権に赤壁の会戦を決意させたのは誰だったんだ?
正史を読み返したら、周瑜伝は周瑜が、魯粛伝では魯粛が、諸葛亮伝では諸葛亮が
それぞれ説得してるんだが・・・
369 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 17:22:46
孫権が色々聞いて自分で決断した
>>369 正史を読み返してからレスしろ。全員が説得したら時間的に矛盾するだろうが。
>>368 俺は、周瑜だと思う。この当時の魯粛にはさしたる軍功もないので、圧倒的な不利な
状況で会戦を説得できたのは周瑜だけだと思う。
371 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 17:30:21
あのさ、荊州南部は豊かなんだが。
後漢末の郡国別人口で、荊州南部のうち「長沙」「零陵」
ベスト13位入るほどの人口なんだが?
その2つが豊かじゃないって言うの?
+戦乱から逃れてきた人を含めると。。。
まぁ、ゲームじゃ鄙びた土地だしな。
ちなみに郡国別は1位南陽郡、2位汝南郡、3位永昌と続く
372 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 17:31:19
平和だったから人口は増えてたらしいね
373 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 17:31:57
374 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 17:32:03
孫権いい奴だけどもちっと部下の言うこときいてりゃ周瑜もっと輝いたのに・・・
普通に色んなやつの意見聞いたと思うんだけど
何が矛盾するんだろう
伝ってのはその人に有利で輝かしく書かれるのが基本だからね
で、自分が孫権の立場だった時、諸葛亮や魯粛の言には動かされなくても、周瑜の言葉には動かされるだろう
現在の周瑜の地位、周瑜の過去の実績、周瑜の孫家への忠誠、これをもって更に的確かつ爽やかな持論を展開され
「戦うべきです」って言ったなら、諸葛亮や魯粛とはその重みが違う
377 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 17:35:06
荊州南部は実じゃないって無知にも程がある。
んなもん武将ファイルにだってのってるわい。
ゲーム厨多すぎ。
>>373 孫策の楊州統一の戦い
・孫策のために軍勢・船・食料を調達する。
・孫策の横江と当利の町陥落、秣陵でサク融・薛礼の撃破、曲阿で劉ヨウを撃破に参加。(周瑜伝)
後にこの戦いの功績を踏まえ建威中郎将の任と様々な賜りものを受け、その厚さは並ぶものがなかった。(周瑜伝)
孫策の荊州奪還戦[中護軍(軍の長官の一人)として参加]
・孫策と共に皖を落とし、尋陽で劉勲を破り、江夏・豫章・盧陵を平定。(周瑜伝)
孫瑜の山越討伐(目付け役として参加)
・麻屯と保屯の討伐に参加、一万余人を捕虜にする。(周瑜伝)
・周瑜と協同して麻と保の砦を落とす(孫瑜伝)
黄祖の部下のトウ龍が柴桑に侵入するのを追撃して撃破、生け捕りにする。(周瑜伝)
孫権の江夏征伐
・前部大督(先鋒部隊の司令官)として参加、黄祖を滅ぼす。
俺だったら孔明に動かされるぜ
381 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 17:37:07
>>375 君の意見であってると思う。
呉と言う国がら豪族らの意見には耳を傾けなければならない。
1人の意見を聞いて決断ってのは難しい、特に孫権に目だった実績も
ない頃だし尚更。
江東平定、黄祖撃退
warosu
荊南が実がない訳ではないが、江陵より上とは言い難いだろう
今後の伸張の為にも、足がかりとして重要。土地とは単純に裕福かだけでなく
政治的戦略的に重要かということも、その価値を上下させる
>>383 少なくてもKOEIの三国志2の武将ファイルの典末には掲載していた。
サイトも探せばでると思うが
なんだかんだ言っても
劉備一味に掠め取られたのは事実
おいおい、ゲーム厨だと自分は批判しといて
ソースは肥の武将ファイルかよw
>>384 軍事上では江陵の方が上だが、進捗を狙うならばやはり荊南を
狙うべきだろう。
人口面でも特に呉は問題があるし、兵の人口足らなくて夷州(台湾か?)
に徴兵狩りに行くぐらいだからな。
それに結局のところ、南郡を得た劉備らが蜀へ侵入するわけだからな。
江陵・南郡双方とれれば万々歳だがな。
ゲーム厨って言ったの別の人じゃね
周瑜は益州狙ってたんだから、軍事上重要な江陵を取るのは当たり前だろ
まぁ、周瑜本人も両方欲しかったんだろうけどね
さぞ劉備の狡っ辛しさに歯噛みしただろうね
夷州に人狩りに行ったときは事情が違う
あんときは北からの難民がほとんど帰ってしまって、本当に人口問題が深刻だったんだ
赤壁頃の呉とは比べらんないよ
>>375 呉主伝・諸葛良伝共に諸葛良が同盟の使者としてやってきて、周瑜・程普らと共に返っていった。
呉主伝によれば当時呉の大部分の人間は降服派で、周瑜と魯粛のみが交戦を強硬に主張、孫権と意見が一致した。
魯粛伝によれば周瑜は元々任地に赴いて居た所を引き戻らせたとある。
周瑜伝によればやってきた周瑜の主張こそが孫権のものと一致、ここで交戦が決定する。
時間順に考えると
魯粛が孫権を説得→周瑜が来て開戦決定→諸葛良がやって来て同盟を結ぶ。
になるので、諸葛良が来た時にはもう孫権の腹は決まっていた(諸葛良伝の孫権と一致しない)ってことじゃないか?
あそこは諸葛良を試していたと考えれば筋は通ると思うが。
そもそも諸葛亮って赤壁の時劉備の配下じゃないんじゃ
>>387 お前バカだろう。
光栄の武将ファイルに載ってるぐらいな「当たり前」のことぐらい
知ってろ、そして自分で調べろって言ってるんだよ。
後漢末(西暦140年)の史料しかねえだろう。
そんなこともわからない?
>>381 おかしいだろ。まず、孫権が魯粛や周瑜に説得されていたら諸葛亮伝でわざわざ孫権を
怒らせるような事を孔明が言って説得するってくだりと矛盾すると思うんだが。。
それか西暦280年の(西晋)の史料か
>>393 光栄の初期の頃の三国志持ち出して当たり前って言われてもなぁ。
っつーか武将の能力値すらでたらめだった初期が裕福で、最近割りとまともになってきた方
ではめちゃめちゃ人口少ないんですけど。。
>>371にソースを教えてもらいたい。
>>あんときは北からの難民がほとんど帰ってしまって、本当に人口問題が深刻だったんだ
こりゃ嘘だろう
西晋時代の人口統計みても楊・荊州が激減したは思えない。
むしろ予・徐は減りすぎ
>>393 イヤ、だからさ・・
後漢末140年の人口統計しかないの。
次は西晋の280年の人口統計しかないの。
普通は知ってるぞ・・
晋の時代の書物は基本的に信頼できないな
401 :
393:2005/10/16(日) 18:04:12
>>399 だったら、その西晋の280年の人口統計っつーのはどこにあるのか教えてくれ。
ヤフーでくぐったら、三国志2を参照に書いてあるサイトしかなくいまいち信憑性が
ないんでお願い。
403 :
371:2005/10/16(日) 18:13:42
後漢書郡国志だったと記憶してますが。
404 :
371:2005/10/16(日) 18:15:23
>>402 西晋280年の史料は
晋書地理志かと。
まあ後漢の時より減ってるってことはないよな
406 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 18:16:42
>>399の真相
荊州4郡が貧しかったっていう説を真っ向から否定。
「光栄ゲーム厨はこれだから困る。荊州4郡は人口が多かったのは常識」とのたまう。
しかしソースは?と聞かれ「三国志2の武将ファイルからだ」と電波を発する。
だんだんとレベルが低くなってきました。
荊州4郡ってところがゲーム厨っぽいでつねw
で
後漢書軍国志ってのは何処行ったら読めるの
資料がないんだったら
貧しいとも富裕とも言えんじゃないの
411 :
402:2005/10/16(日) 18:24:15
>>404 サンクス。
だが、俺は中国語読めない・・・orz
どっか訳してあるサイトないかなぁ。
明日になったら帰り図書館行って確認しとくかな。
逆に荊州南部は貧しいってデータ欲しくなるわけだが。
何か根拠があって食らい付いてくるのでは?
少なくても、「後漢書」郡国志に掲載していると言うソースを
出してるわけで。
後漢末の人口関係は、ニセクロ氏が考察してたと思う。
確か郡国志の邦訳もしてたはず。
415 :
371:2005/10/16(日) 18:28:52
>>411 晋書の方は記憶では州別しか掲載してませんが。
郡別掲載は後漢書郡国志の方ですね。
基本的に三国時代の人口はこの2つの史料を参考にされます。
一応別に蜀や呉滅亡期の人口や兵数が掲載されてる史料もありますが。
416 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 18:31:35
荊州四郡ってさ、あのさー
荊州南部って四郡じゃあないわけだがーーーー
なぜかKOEIだと毎回四郡だよね。
なんでだろうね。
417 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 18:33:13
>>412 図書館行って読んで自分に恥じる1000ぺりか
中国全体の人口は
280年の晋のやつが1600万人で
157年のが5600万人なんだよな
人口が把握できなくなってたのか知らんけど
減りすぎじゃね
しょうがないなお前ら
適当に検索して調べたから引用してみるわ
http://www.daito.ac.jp/~oukodou/tyosaku/ryuuhyoutojyouyou.html >>
全国的視点から見た場合、『漢書』地理志と
『後漢書』郡国志との統計的数値に基づく
単純な比較に過ぎないのであるが、
(中略)
特筆すべき点は荊州の中でも特に
長江以南の南部四郡の大幅な増加で、
戸数が十二万六千八百五十八戸から
六十四万九千七百三十九戸へ、
口数が七十一万七千四百四十九人から
二百六十万九千二十五人へと、
実に戸数で五倍強・口数で四倍弱の
増加が認められることである。
このことは、荊州南部が持つ
潜在的農業経済力の大きさと、
実際にそれが大幅に開発されたこととを
明白に示すもので、
赤壁の決戦後にすぐさま諸葛亮が劉備に進言し、
どさくさに紛れて荊州南部四郡を占拠させた行為が、
この地域の重要性を端的に物語るものである。
<<
劉備らの開発によって大幅増加したとも読めるし、
もともと豊かだったので劉備らが目をつけたとも読めるが、
ともかく荊州南部はけっこう豊からしいぞ
420 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 18:38:20
>>418 1、戸籍簿に登録されていなかった人が多くなった。
2、漢民族が滅亡した。(岡田説)
3、数え方違った。
一番有力なのは1、だけどどれも推測の域。
421 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 18:39:46
>>419 イヤ、みんな知ってるし。
訳一名が鼻息荒くしていただけ。
とりあえず乙
華北は戸籍逃れが多かったって可能性はないのか?
豪族の荘園になって、実際は力があるが、数字では貧相ってよくあるケース
423 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 18:46:29
>>419 そんな豊かな土地を火事場泥棒しといて、
さらに北の4郡もよこせって言うんだから
劉備ってのはとんでもない男だよなw
425 :
419:2005/10/16(日) 18:50:32
しまった、h抜くの忘れてた
ところで周瑜伝・先主伝を読むに両者は共同して江陵を落としたように思えるんだが劉備はいつの間に南部を奪取したんだろ?
427 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 19:04:13
呉は要らん………蜀と魏が有れば三日は語り続けれる
所詮第三勢力
429 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 19:37:17
430 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 19:41:45
>>426 周瑜が攻めるのも陥落できず、その隙に南部。
で、援軍とした形で劉備軍が江陵攻撃。
ではないか。
>>429 嬉しいのは分かるが程々にしとけ。
荒れるからさ。
いくら的外れな意見がでたからって、誘導するなり紳士的に応えるなりすれば
いいだけだろうに、
>>429の方がよほどおバカに見えてならんわ
wだの、ぷぷぷ だの、こいつの方がよほどスレのレベルを下げてるっての
433 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 19:44:41
三位が永昌って時点で、大事なんのは数字じゃないと思った
まあ資料が乏しいのは事実
まあたしかにはっきりと根拠を示せてる住民は、余計な揚げ足取りや煽りなんて
いれてないもんな。スレの雰囲気わるくなるだけだし。
437 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 19:46:16
やっぱり蜀を語ろうぜ!呉は卑怯者国家さ
俺が仕官するなら蜀か魏だな。呉は駄目だ
>>434 そうでもないだろう、諸葛亮や張疑がなぜ南蛮と呼ばれる場所に
拘ったかよく分かる数字だろう。
>>426 周瑜が南郡を落とした後、遠征準備の最中。
>>392 たしかに赤壁の時点では諸葛亮は無官っぽい。
はじめて軍師中郎将として官職にありつくのが荊州南部を切り取った頃だと
すると、縁故はあるにせよ孫権はよく無位無官の人物を相手にしたとは思う。
要は根拠がないの知った風な口を利くな!
ってことだろう。
443 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 19:53:40
無位無官っても劉備の使者なんだろう?
そもそも劉備が無位無(ry
445 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 19:57:25
446 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 19:59:42
なら魏に仕官しようぜ
448 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 20:02:38
やはりこう見ると、荊州南部を劉備に掠め取られたってのは
明らかに周瑜が出し抜かれたね。
江陵が軍事的要所であったとしても、呉郡や会稽郡よりも豊かな土地を
抑えられたのは痛すぎる。
少なくても全て無理でも二郡は抑えるように手は打つべきだった。
>>448 出し抜かれたわけじゃないだろ。ただ益州遠征を優先させただけで。
優先させるにしても急ぎすぎじゃないか
決して見過ごしていいような土地じゃないわけだし
452 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 20:12:49
というか魯粛がそんなこと劉備はしませんよって孫権に言ったから
孫権はそれを信じて周瑜の案を一部変更したんじゃなかったっけ?
453 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 20:14:44
だから呉は辞めろ
所詮は蜀の影になった国だ
>>450 敵や中立の群雄が保有しているよりは、同盟軍の劉備が治めていた方がいい。軍事上の要害はすでに抑えている。
それよりも曹操が勢いを盛り返す前に、益州を巡る混乱に漬け込み一刻も早く益州が欲しかったんだろう。
同盟軍か…
益州が手に入ればほとんど配下と変わらなくなるかもな
>>452 周瑜が江陵を落とし南郡太守になり、劉備に長江南岸の土地を割り与える。
→劉備の元に魏から多くの投降者が出たっために劉備が土地が足りなくなったと主張、孫権からさらに数郡借り受ける。
これが魯粛伝にある魯粛の勧めで土地を与えた話しのことなら間違ってないが、
周瑜死後に南郡を譲った時かもしれず、はっきりしないな。
457 :
452:2005/10/16(日) 20:36:26
えーと、今家にいないから不確かなんだけどPHP文庫の周瑜っていう本はロシュクのせいになってたかな
>>455 実力的に主導権を握ってるのだからそのまま持っていきたい所だったろう。
もしかしたら劉備と対等条件での外交戦に自信が無かったのかもな。
459 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 20:39:37
シュウユが蜀をとれば
呉本土と挟撃してリュウビなどいつでも葬り去れるだろう。
同盟軍を葬ってどうする。そこまでいけばそうそう逆らえないだろうから、まずは関係を強化して南北決戦に全力を注ぐべき。
>>459 わざわざ挟撃なんかしなくても劉備ごときあっさり倒れる
462 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 20:47:44
だな。だけどその後が大変。ギと正面対決。周瑜はそれもよんでリュウビを配下の将にしようとしてたけどな。
463 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 20:52:20
益州益州と言っておられる方がいますが、やはり未来の益州より
荊州南部を取るべきだった。
呉とも連結しやすい土地ではあるし、益州を攻め取るっても
すんなり行くとも限らない。天然の要害と謳われてるだけあるし。
周瑜がどれだけの兵を率いて蜀を攻め入る予定だったかは分からないが
劉備でさえ、一年じゃムリだった。
結局結果論とはなるが、蜀を得たの江陵を得た周瑜ではなく南部を有した
劉備であった。
戦略ミスと言ってもいい、実を取られた。
>>463 劉備が蜀を得たのは江陵を譲り受けたからだし、天然の要害とは主に北からの侵攻に対して。
どの辺が誰の戦略ミス?江陵を貸してやった魯粛を責める気か?
465 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 20:59:26
周瑜公瑾:
文武両道、容姿端麗、楽曲や舞に通じ、家柄も良い上に妻は美人の完璧超人。
張昭、張紘、魯粛などの重要人物を呉に招いている。
孫策の蜂起に合流してからは、共に横江津の樊能、于糜、当利口の張英を撃破。
光武帝廟で太史慈の襲撃を受けた孫策を、救出もしている。
別働隊として曲阿を陥落させ、再び孫策と合流してから共に皖を陥落させた。
赤壁では、開戦を主張。
苦肉の計、火攻、間者の操作などを駆使して曹操を撃退する。
荊州攻略では、窮地だった夷陵の甘寧を救い、約1年で曹仁を南群から退けた。
孫策に次ぐ江東平定の貢献者であり、その後の呉を支える人材も多く招いた。
軍事的才能は、誰もが認める所だろう。
呉の事務を一手に取り仕切るなど、政治的手腕も優れていたと思われる。
孫権にとって非常に大きな存在で、呉での発言力も大。
魯粛、呂蒙、陸遜との違いは、常に呉の中心であり、幅広い才能で多方面から呉を
支えたという点だと思う。
466 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 21:00:03
でも周瑜病死しなかったらどのみち蜀とられてただろ
467 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 21:02:11
>>466 なんでやねん。
そこからはif出しなんとでも言える。
>>465 陸遜も呉の中心人物として政戦両面で長く呉を支えたぞ。
>荊州攻略では、窮地だった夷陵の甘寧を救い
これは呂蒙7 周瑜2 凌統1くらいの功績かな
470 :
466:2005/10/16(日) 21:07:14
ごめん、ミスった。463に対する反論。463の言い方は益州だけを周瑜が狙ってたみたい。
471 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 21:07:26
早死にしていいから周瑜位な完璧な人間に生まれたかった
472 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 21:07:49
全土が震える曹操を破った
シュウユに攻めてこられたら
電光石火で成都開城だと思われ。
俺は簡擁タイプで
475 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 21:11:00
461諸葛亮とホウトウが居ますが
早死には、小橋大橋と3Pしたことがばれて誅殺されたのが真相
477 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 21:11:33
じゃあ文武両道じゃなくていいから容姿端麗になりたい
>>448 >少なくても全て無理でも二郡は抑えるように手は打つべきだった
兵力がないんだよ。本土に残ってる兵は孫権がもってって合肥で戦っちゃってるし
レベルが下がってきました。
やはりこの辺が三戦板と言うべきかなw
基本知識量が違うってのもあるが。
詳しい方もいますが。
>>472 さすがの劉璋もそこまで暗愚では無かったかと。あの降服は成都包囲まで持ち込まれたから…だと思う。
>>478 尚更、蜀侵攻なんかできねーよ。
蜀なめんな。
スルーできてない件
むしろ、合肥専念すればよかったんじゃないか?
合肥落として、寿春や南徐を狙う。
予州も夢じゃなくなるし。
>>481 荊州侵攻の時と、益州侵攻計画の時じゃ、年代が違うんだけど
周瑜の蜀攻めルート予想は?
>>483 スルーできてないのはそいつの自演と思えばおk
少ない兵力で蜀に攻めこんで、敵の兵を吸収しながら戦い抜くつもりだったんだろ。
孫策のときのように。その心意気や良し!泣かせるぜ美シュウロウ!!!
489 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 21:21:01
呉の拡大は蜀のお陰
蜀が滅んだのは呉のお陰
魏の息を吹き替えさしたのは呉のお陰
周瑜・魯粛・陸遜・呂蒙ともに政策が違うんだし難しいところだ。
周瑜の政策を魯粛が受け継いだわけではなく、周瑜は魏呉の天下二分
ではあったが、魯粛は第3者、中立地帯もありでいい天下二分だったし。
魯粛が失脚?孫権の政策変更か?(死亡ではない)があると、呂蒙・陸遜による、
荊州侵攻がはじまるし。
491 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 21:22:05
魯粛子敬:
裕福な家柄だったが、家業よりも識者との交流、錬兵などを重んじた狂児。
交流のあった周瑜の招きで孫権に仕官。
謁見では、中国南部を平定し、孫権自身が皇帝になるべきと進言する。
劉表死後、劉備に逸早く接触。
周瑜と共に曹操との開戦を主張し、劉備との同盟は赤壁での勝利にも繋がる。
劉備への荊州貸与を提案し、長く続く荊州問題の発端にもなった。
だが、関羽との単刀会見などで同盟瓦解の危機を回避、死ぬまで同盟を維持させた。
軍事的才能は凡庸だったが、長期的戦略に優れた。
無官であった魯粛の才能を見抜き、孫権への仕官を薦めた周瑜の功績も大きい。
又、周瑜と共にあった事が、魯粛の呉での存在確立のポイントだったとも思える。
劉備との荊州を巡る駆け引きは、非常に不安定だったが絶妙な外交戦略によって
維持されたと言っても良いだろう。
ただし、周瑜や呂蒙などの軍事的天才と共にあってこその人物だったと思う。
戦略家としては、周瑜、呂蒙、陸遜をも凌ぐ。
お前ら宇宙大将軍・都督六合諸軍事の
侯景様をなめんな。
493 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 21:24:06
489の言う通りかも
494 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 21:25:29
呂蒙、陸遜は、蜀をいじめて弱体化させて魏に取られたあとのことを
考えていなかったので大減点です。
>>488 いや、準備にあれだけの時間かけたんだから、情報を集め、兵を鍛え、人員装備を揃えて攻め込む予定だったんだろ。
周瑜って江陵から蜀に入ろうってわけだろう?
蜀へ遠征中に劉備から後方突かれたらどうするつもりだったんだろうか。
後顧の憂いを残したまま行くのか?
同盟しているのは分かるがそれが当てにはならないものだってのもわかるだろ?
劉備らだって、呉ばかりが大きくなるは孔明構想の天下三分の計に叶うものではないし
何らかの手は加えると考えられるが
497 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 21:29:16
統べは呉のせい
>>496 劉備が遠征の後方突いて何の得があるんだ?
ようやく荊州南部を押さえたばかりの劉備が孫権を敵に回し、
当然益州に遠征などできず呉と劉備が争う隙に曹操は勢力を盛り返す。
素晴らしい作戦だな。
>>348 劉備の場合で言えば張魯が動いてない事はむしろ有利な事だろう、
後背を気にせずに活動出来る様になる、呉にとっても確かに二面作戦を強いてる
事にはなるけど、張魯は別に呉と同盟を組んでる訳でもないので、
連携等は限りなく期待できない。
それから、補給線も援軍と同じではないね、劉備は南郡に南部4郡を統治していたから、
周喩の補給線よりさらに厚くなるし、北方と南方に割拠されてる状態の
南郡だけの周喩とでは南郡防衛の安全面にも違いが出る、
水軍も蜀制圧ではその水軍がそこまで役に立つかは疑問だしね。
さらに、劉備の蜀侵攻をみても、蜀は難所で制圧に1〜2年は掛かるところであり、
真正面から攻めざるを得ない周喩はもっと時間が掛かる可能性が高い、
210年に出発して212年に濡須に来られては大問題だろう、
もっとも呉が他に兵力を割いているなら曹操も漢中に食指を動かさず、
がら空きの南郡や、兵を抽出してる楊州を狙う可能性も十分ある。
・力関係はその通りだろう、だが劉備を監禁した挙句に関張を自身の支配下に置くというのは
無理があると言わざるを得ない、孫権でさえ無理として却下してる。
・関中勢力の放棄は曹操が漢中に手を出したから起きた事、当時の関中勢力は統制が取れておらず、
呉が空白地を作れば曹操はそこを突けば良くなり、漢中に食指を動かす事自体無くなる可能性がある、
・これまた馬超の蜂起は曹操が漢中に手を出そうとしたから、
防衛的な蜂起であり反曹操から来る蜂起とは言えない。
500 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 21:42:44
呂蒙子明:
汝南から江南に渡り、近習となって孫策に仕える。
その後、軍功を重ねて黄祖も捕縛している。
荊州での曹仁戦では、別働隊だった甘寧の窮地を救った。
武勇だけの人物だったが、孫権の言葉で学問に励み、文武に優れた人物に成長。
魯粛に対して、関羽討伐の5つの献策をして称賛された。
皓城陥落、儒須での曹操撃退、関羽討伐など大きな功績を残す。
周瑜以来の軍事的才能に優れた人物。
「士、別れて三日、刮目して相対す」の逸話は、成長性にも優れていた事を物語る。
荊州奪還という功績は大きく、軍事においては周瑜と同等か、それ以上だろう。
生きていれば、さらに政治家、戦略家としても成長していたかも知れない。
特に軍事面では、非常に非常に優れた人物だと思う。
501 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 21:48:59
周瑜、魯粛、陸遜、呂蒙ってみんな死後財産はほとんど残ってないか
国庫に返還してくれってのがほとんどじゃない?
502 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 21:54:03
4人とも長生きしてたらどうなってたんだろう
>>499 張魯について→そちらに兵の一部を割かざるを得ない、その存在が重要。特に連携がなくても問題ない。
補給路・水軍→水軍は長江を遡って進軍するということ自体に重要。船による輸送の方が楽。
防衛→南北に割拠〜というか南部は同盟軍だから。荊州方面の備えはむしろ厚い。揚州に来たってそうそうは抜かれないだけの
防備をその二年に調えておけばいい。
・孫権が無理と思った理由は2つ。対曹操に劉備の力が必要だと思ったことと、劉備をいつまでも抑留しきるのは難しいと思ったこと。
主君から遠く離れた関張に何ができる?逆らって主君を殺すか?
・上段参考
・つまり関中諸侯は独立を守るためなら魏と雌雄を決するのも厭わないということ。単独でことを構えるより呉と結んだ方が、
少なくとも魏が巨大な内はいいに決まってる。
504 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 21:59:31
>>350 >あの時以外いつ攻めろっていうんだ?
ぶっちゃけた話、攻め時なんて無かったと思うよ。
呉は荊州において南郡を獲得したけど、
それ以外の結果は芳しく、動くに動けない状況。
根拠地である楊州から南郡までのラインは遠く細く、
荊州においてもほぼ南郡のみという状況は防衛的にも、
国力的にも宜しくない状況、北方に北荊州を領する魏、
南方に4郡を奪取して地盤を得た劉備が割拠しているから。
だからこそ魯粛は荊州を劉備に貸すことで、荊州の国力の一元化
を測ったのではないかと思う(まあ俺の推測だけど)。
当時の荊州割拠はどちらかといえば北荊州を魏が有利な状況、
敗戦後動けないといっても、それは時間が立てば立て直せる話、
一方劉備と呉は蜀を巡って争うかもしれない情勢にあり、
仮に争いでも起きれば魏の一人勝ちになる可能性が高い、
こういう動けない状況を打破するために、呉は兵を引いて
楊州に戦力を集中して蜀を諦め、荊州の国力を一元化して劉備のお膳立てをしてやる、
その代わり劉備が蜀を得れば、呉が荊州を領して防衛ラインを確立させるという
戦略に方針転換したんではないんだろうか。
>>492 反乱おこしといて、梁武が出てきたとたん汗かかきまくる人なんて知りません
506 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 22:03:19
陸遜伯言:
孫権政権になって仕官し、最初は内政業務に携わる。
さらに後、人材資源確保の為に各地の反乱や賊の制圧に明け暮れる。
呂蒙の推薦で荊州前線の司令官になると、共に関羽討伐に参加。
この時、逸早く劉備の復讐に備えて夷陵を押さえた。
蜀軍を夷陵で撃破した後は、劉備死後の蜀との外交を任される。
その中で曹休を撃破するなど、軍事的にも呉の中心であり続けた。
荊州に駐屯したまま丞相に任命されるなど、孫権の信頼や政治的能力も
高かったと思われる。
後継者争いに巻き込まれ、病死。
軍事、政治共に優れていた。
呉の情勢もあったと思われるが、守勢から撃退する戦が主な為、地味な印象。
与えられた仕事を適確にこなすという点では、非常に優秀だったと思う。
後継者問題に足を掬われてしまったのは、受動的だったからだろうか?
周瑜、魯粛、呂蒙の様な「物事を切り開く人物」という印象は、陸遜には無い。
優秀な子孫を遺した点では、他の3人を凌ぐ。
江陵は軍事的な要所だ。曹操も劉備追討の際に真っ先に江陵を抑えたぐらいだからな。
江陵を陥したのは及第点A、B、Cで言うとCだな。
赤壁(様々な説はあるが)で活躍したのは主力であった呉軍であったとは言える。
そのはずであるのにも関わらず旨みである荊南が劉備に全て抑えられたのは失点。
してやられた、出し抜かれたと言っても過言ではない。
同盟軍として活躍したかも知れないが、その報酬としては多すぎる。
B評価は、少
なくても荊南二郡だな。
A評価は、荊南全郡。
周瑜の天下二分は劉備は入らないはずだから。
509 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 22:12:18
>>506 乙!周瑜もやるの?
大体同意。そういや、陸遜には息子っていうアドバンテージがあったな。
510 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 22:13:35
呉への貢献度、軍事能力、政治能力、孫権の信頼度
以上の要素で4人を評価してみる。
A=超スゴイ、B=スゴイ、C=普通以下
周瑜:貢献度=A、軍事能力=A、政治能力=B、信頼度=A
魯粛:貢献度=B、軍事能力=C、政治能力=C、信頼度=B
呂蒙:貢献度=A、軍事能力=A、政治能力=C、信頼度=B
陸遜:貢献度=A、軍事能力=B、政治能力=B、信頼度=B
>>498 関羽遠征の後方突いて何の得があるんだ?
ようやく荊州南部を譲渡してくれたばかりなのに孫権が関羽を敵に回し、
呉と劉備が争う隙に曹操は勢力を盛り返す。
素晴らしい作戦だな。
>>503 一部兵を割く程度では、劉備と諸葛亮等の侵攻ほどの効果は無い、
特に劉備は劉璋から兵力を吸収しまくってさえ、蜀制圧には手間取っている。
何度も書いたが真正面からの周喩とは大違い、
陸抗でさえも圧倒的優勢という状況でありながら蜀の玄関の突破さえ出来なかった、
それを考えれば優勢といえるかさえ微妙な状況では周喩といえど厳しいと思われる。
補給が楽なのはそうだが、山間部では戦闘面ではさほど役に立たんよ、
劉備も別に補給に困らなかったし、劉備に比べても優勢とは言えない。
劉備も蜀は狙っている、周喩に死後の呉の蜀攻略を邪魔したように、
呉が蜀を狙えば必ずしも友好的な関係を保てるとは限らない、
それに二年というのは曹操が関中の反乱を招いたから掛かった数字であって、
楊州が手薄なら漢中に手を出す必要も無い。
・無理な理由はその孫権の判断+劉備が捕まっているのに劉備勢力が黙っている訳ない、
劉備を殺せば下手すれば関張と4郡ごと魏に降伏して呉は終り、
つまるところ力の差はあるが、そこまで無理できるような情勢じゃあない。
・馬騰が朝廷に入っていたり、関中勢力は独立は守りたいが、
別に曹操に敵対的でもない、呉と結ぶ事は=魏と敵対する事、
ことを構える気が無いのであれば呉と結んでも良いことは無い。
周瑜:貢献度=A、軍事能力=A、政治能力=C、信頼度=A
魯粛:貢献度=A、軍事能力=C、政治能力=A、信頼度=A
呂蒙:貢献度=A、軍事能力=A、政治能力=C、信頼度=B
陸遜:貢献度=B、軍事能力=A、政治能力=B、信頼度=C
周喩
515 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 22:20:16
お前ら周瑜と並んで孫権が頭が上がらなかった呉の大黒柱、張昭を忘れてませんか?
>>515 今思えば、張昭の説が一番正しかった。
降伏すればよかったんだよ。
結局滅びたわけだし
江陵陥したこと自体凄いことなんだけどな
518 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 22:22:42
>>517 そうでもないよ。
曹操軍撤退後だし。しかも単独じゃなく劉備と一緒にだし
520 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 22:24:07
>>517 関羽キラーの徐晃までいたからな。もしかして、徐晃さんの唯一の敗戦じゃね?
周瑜:貢献度=A+、軍事能力=A、政治能力=C、信頼度=A
魯粛:貢献度=A、軍事能力=C、政治能力=A、信頼度=B-
呂蒙:貢献度=A、軍事能力=A+、政治能力=C+、信頼度=A
陸遜:貢献度=A、軍事能力=A、政治能力=A、信頼度=B
522 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 22:25:15
張昭は忘れてるわけじゃないけど専門分野がちがうだろ。・・・孫策の遺言がなかったら別の人生歩んでいたかもな。
>>521 魯粛って信頼されてないかー?
なぜだー?
後は納得がいく。
524 :
509:2005/10/16(日) 22:28:40
>>518 周瑜、もう書いてたのね…orz
GJ!
大体合ってると思うよ。魯粛をはっきり狂児と書いたのにワロタw
魯粛が信頼されてないというか、周瑜と呂蒙が信頼されすぎで
いまいち薄いんだよな
>>511 荊州全てを無傷で一気に手に入れ、関羽は捕えた。
そもそも魏に臣従した所なのでしばらく魏とことを構えるつもりもないし、
益州侵攻といったような軍事行動の予定もなく、長江流域を押さえて防衛ラインも固まった。
素晴らしい作戦だったよ。
527 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 22:33:01
523→ロシュクはその性格ゆえに文官や古参の将に嫌われてた。
529 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 22:35:25
>>522 遺言が無かったほうが才能を発揮できただろうな。
>>509 ( ´∀`)っ旦~~ どうも。
キチガイにしようか迷ったけど、狂児にしました。
こう書いてみると、周瑜と呂蒙の早逝が非常に悔やまれます。
呉の人物は、主君含めて一時輝いて消える星の様なのが多い。
滅茶苦茶やった曹操が長生きして、ちょっと江東で暴れた孫策が早死に。
こういうのが、人物の差なのだろうか・・・・・
それに荊州全てではないけどな。襄陽以北は魏の領土。
襄陽抑えても良い事がないんだよな…防衛むずかしすぎ。
>>532 なじぇ?
ゲーム厨なので分かりません。
ゲームだと防衛の要所ってイメージが
534 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 22:40:33
呉っていい土地なんだけどまわりが微妙というか動きにくい場所だよな
>>515 張昭は孫権との漫才コンビしてるときが最も輝いていますw
>>519 魏の拠点としての江陵は赤壁も曹操も関係ないですが
>>532 襄陽さえ抑えればハン城と連携して、何年でも戦線を維持できるのは、後世の歴史が証明する所なんだけどな
>>530 信長でさえ比じゃないですからな、乱世の姦雄は…。周りに迷惑かけっぱなしでキチガイと天才は紙一重を地でいった人の様な。それこそ、英雄に必要な要素かも。
周・呂は真面目過ぎたのが欠点かも。寿命が長かかっなら…期待感はあるけど。特に周瑜。
>>535 士気さがってんだろうが
敗残兵って言葉しらない・・か。
ハン城から石が飛んできても大丈夫だよなー
襄陽は守りやすいよなー
>>533 まず、孫呉が江陵の上に襄陽まで取ると、まず防衛すべき都市が2つに増える。これは単純な足し算だよね。
次に、襄陽を守り抜くためには、新野に備えるために、襄陽にも兵を駐屯させなければならない。
もしも、襄陽が落ちた時に江陵を守り抜くためには、樊城にも、兵をある程度駐屯させなければならない。
襄陽を保持し続ける為には、西の宜都、新城にも睨みを利かさなければならない。
で、呂蒙と陸遜が関羽をやっつけた時、公安と江陵を落とし、宜城にも侵入したが、
新城の孟達と劉封は関羽の呼びかけに応じなかった為に兵が残留していた。
また、襄陽にも続々と魏の兵が集結しており、とても落とせはしなかった。
そこで、江陵のみに留め、宜城と夷陵を抑えて、江陵防衛の為の計画を実行したと。
それが、後の夷陵の戦いでの大勝利に繋がった、と。
>>512 劉備と諸葛亮等の侵攻ほどの効果は無いっていうのはどういうこと?
劉備の場合持てる兵力を荊州と益州に別け、その一方が劉備本隊、残りが荊州軍。
一方周瑜は大部分の兵を動員して、張魯軍は外部の漢中の兵。
陸抗の時と周瑜の時では備えも状況も違う。劉備が吸収した兵は李厳のものくらいでは?
誰も水軍を山間部での戦闘に直接役立てろとは言ってないし、補給線の長さの困難は輸送・移動の困難だ。
仮に江陵が落とされれば劉備も益州侵攻は不可能。そのうち益州は曹操に取られ、曹操に対抗するのはかなり困難に。
仮に揚州が落とされれば劉備がどれだけ頑張っても曹操の天下は間違いない。
つまり劉備はどちらも落とされるわけにはいかず、不本意ながらどちらの救援にも力をつくさねばならない。
その時間を稼げないかもしれない程の大軍を周瑜に預けるなら上部の不安が当てはまらんだろう。
・関羽たちが従えば殺されないだろうし、従わないから殺される心配が出てくる。順番が逆だ。
・つまり関中諸侯はそれまで曹操に殆ど敵対心も警戒心も持ってなかったが、曹操が張魯遠征を決めた瞬間に
都の家族を見捨ててまで反旗を翻すほど過剰に反応したと?
>>535 そりゃ、襄陽を押さえるだけの兵力が有ったらのそうだが…。
>>537 江陵の兵は赤壁に参戦してないって
そりゃ、曹操の負けに動揺は出るかも知れないけど、守将が曹仁、楽進、徐晃だよ?
それに、赤壁は魏兵と荊州兵の混合部隊だけど、江陵は純正魏兵部隊
543 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 22:54:19
張昭は呂布をも凌ぐ剛の者。
遺言で内政は張昭と言われたから戦闘にでることはなかったが
もし軍事を任せれていれば関羽など一閃の元に切り捨てていた。
>>528 498とは状況が全然違うことを揶揄したつもりだったが。
なんか誰が一番かっていうよりそれぞれの人物の考察になってきた?
で、結局襄陽は守りやすいの?にくいの?
>>546 人材より立地条件より人口問題がな…orz
それでも滅亡時には人口が二倍になっているあたり仲謀はネ申だったと思うんだが…
551 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 22:58:48
だから呉に天下は無いんだよ
552 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 22:59:45
>>547 っぽいね。蜀や魏と違っていい意味で拮抗してるからもあるかねぇ。
>>547 四人に関係があるならなんでもバッチコーイって感じだな。
呉って豪族の連合体で遠征は嫌っていたって聞いた事がある。
556 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 23:02:09
暇だし孫登が武昌に遷都した件について語ろうぜー
天下・・・狙っていたのかな?
558 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 23:25:35
上の方でも触れられていたが周瑜の孫権に宛てた遺言。
泣ける・・・
私には取りたてて才能もありませんのに、かつて討逆将軍(孫策)様より特別の御礼遇をいただき、
御信任を受けて任務に就き、軍の指揮に当たってまいりました。御君主の為に犬馬の労を取り、
軍旅の間に手柄を立ててご恩報じをしたいと願ってまいりました。巴蜀の地を取り、続いて襄陽を
手に入れようと計っておりますが、我が君の御霊威をお借りするならば既に手中にあるも同様、
元より容易な事でありました。
しかるに、身を謹みませんでした事から、途上にあって急病を得、先ごろより療養に努めてはおりますが、
病は衰える気配がございません。人として生まれた以上、死は運命であって、ここで命を捨てる事は惜しくはありません。
ただ私のいささかの志が為されぬままに終わり、もう御命令を奉じる事ができない事が心残りでございます。
ただいま曹公が北方にあって国境地域はなお多事であり、身を寄せて来る劉備にも油断はならず、
天下は未だ帰結が知れません。これこそ朝廷にある者達が寝食を忘れて力を尽くすべき秋であり、
陛下も御聖慮を巡らせられる日(とき)でございます。魯粛は真心を尽くして役目に励み、事に当たって
なおざりな行動は致しません。私にかわって職務にあたる事ができます。
人が死のうとするとき、その言葉に邪意はないとされます。私のこれらの言葉に御採用頂ける所がございますならば、
私が死にました後も、魂は永遠に生き続けるのでございます
俺は蜀オタなんだが…孔明の出師の表(今では孔明の作かどうかもあやしいらしいな)はうわっつらの部分もあるが、
これは真心だよなぁ。
いわば友が友のために、兄貴が弟のために、父が息子のために残しているような文だ。
(つД`)周瑜・・・
魯粛とか呂蒙とか陸遜の遺言はない?
>>559 出師は前の方は諸葛亮で間違いないけど
アレ自体、劉禅に対する訓戒書の部分が殆どだからね。正気の歌と並べられる名文だけど
>>562 後に行くほど怪しくなる辺り、滅亡時には神格化でもされてたんかなぁw
前の方はって、"前”出師の評って意味ですが……
周瑜、魯粛、呂蒙の子供はどうなったんだ?
566 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 01:41:27
周循:周瑜の長男。父の風があると言われ、孫権の娘・魯班を娶るも早逝。
周胤:周瑜の次男。何かの罪で廬陵群に流刑同然に流される。
諸葛謹、歩隲、朱然などの上陳で許されるも、時すでに遅く病死。
周氏:周瑜の娘で、名は不明。孫登に嫁いだ。
魯淑:魯粛の子。魯粛の死後、生まれる。
武昌の督、夏口の督などを歴任し、魏や晋との最前線を守備、厳正な政治を行った。
呂j:呂蒙の長男。呂覇の後を継ぐが、若くして死去。
呂覇:呂蒙の次男。呂蒙の爵位を継承したが、若くして死去。
呂睦:呂蒙の三男。父と兄達の後を継ぐ。
567 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 01:41:45
周瑜:息子2人と娘1人
娘 孫登の妃
周循 公主を娶り、騎都尉に任ぜられた。父の風があったが若くして死去
周胤 はじめ興業都尉に任ぜられ、皇室の女性を娶るが(略)罪を犯して配流、病没
ごめん、力尽きた。魯粛、呂蒙の子供は他の人、よろしく。
568 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 01:43:42
567だけど、ごめん。被った。
呂蒙は息子も早死か
遺伝子的なものか?
570 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 01:53:59
呂蒙もそうだが、周瑜の家系も呪われてるな。
まぁ、昔も昔の大昔だから、ちょっとした疫病で家族全滅とかあったかも。
魯粛の子供は、なかなかの人物だったらしい。
571 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 02:26:50
昔は盲腸や結核でも亡くなったからね。
呂蒙って結核で亡くなったってイメージがあるんだけど、結核って家系関係ある?
卑近な例で申し訳ないのですが、祖母が6人兄弟姉妹のうち上2人を結核で亡くした
というのをちょっと思い出してしまった
呉って若死に多いよな。
孫堅、孫策、周瑜、魯粛、呂蒙が長生きしてたら、呉が天下取れた・・・かな?
>>571 家系というよりも、家庭内で感染する代物だから。
あと、これは知り合いの爺様の言葉だが「頭イイやつほど結核で死ぬ」と言っていた。
因果的には不明だが、思い当たる事がないわけではない。学問や家内業をよくする
家だと、まぁそんなところだろうと思う。
>>572 彼らの現役時代には、おそらく天下取りは無理。
後継者を育成できていたら、魏が乱れるときに彼らが働けたらチャンスはあったかも。
>540
横からなんですが、劉備の場合、荊州から率いていった兵力は「数万」としか記載されてませんが、1万余り程度と思われます。当事の劉備軍の規模からしてね。
その後、劉ショウの援助で3万ほど。で挙兵して涪を占拠したあと迎撃してきた呉懿等が降伏、綿竹では李厳らが降伏。
大部分の兵力が益州からの降伏組かと。
劉ショウ側の状況ですが、張魯を問題としてますが、対張魯は巴西で睨みあいしている程度であり、益州側も手詰まりだけど、張魯側もそれ以上の侵攻は難しくなってました。
周瑜軍にどれほど寄与出来たかどうか・・・。
補給ルートについては水軍がいかに有利と言えど、大部分の補給を楊州から賄うには長すぎるかと。
それに、益州の入り口は有名な三峡の険です。水軍の有利さを打ち消してしまうかもしれません。
575 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 06:45:22
呉は長江にいる寄生虫のせいでみんな早死にしたっていう説があった。赤壁時、曹操サイドは寄生虫による病が大流行してたし。
576 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 07:33:25
だから呉は五時間有れば語れるから(´_ゝ`)
蜀と魏は三日は語れるぜ
577 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 08:11:44
このスレの流れを見て思った
周瑜>魯粛>呂蒙>陸遜だな
順位つけるなんてこどもじみたこと止めよう
4人の功績を、それぞれが称えて、個人個人の視線から独自の評価をすればいいじゃないか
580 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 09:46:11
このスレの流れを見て思った
呂蒙>魯粛>周瑜=陸遜
プッ
このスレの流れを見て思った
呂蒙>魯粛>周瑜=陸遜>>>>負けた劉備
まあ陸遜≧周瑜>呂蒙>魯粛
が妥当なわけだが
陸遜なんて殆ど語られてないが
630 :無名武将@お腹せっぷく :2005/10/14(金) 14:36:03
実際には陸遜はそれなりに腹黒。
皇太子派閥の領袖として、荊州の実質的な支配者として、皇帝孫権と政治的に対立していた。
皇太子問題だけ見ると陸遜らが正しいように思えるが、要は自分たちが擁立する後継候補が脱落しないように政争してただけのこと。
陸遜は自害したのかな
可愛い顔してなんて恐ろしい子(((((( ;゚Д゚))))ガクガクブルブル
孫権はボケてなかったのか?
陸議は終わりがよくないしな。
政争で敗北ってのが、もうマイナス点だろうな。
肥三国志でなんで政治が高いのか不思議
孫権はボケてただろうね
変な神様に凝ったりしてたみたいだし
ある意味典型的な晩年
591 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 10:49:19
りくそん憤死
夢想厨が居た
周瑜や魯粛や呂蒙の評価が高いのはわかるよ。
陸遜は地味に凄いんだけど最後がな…
ボケてたかもしれんが陸遜を罰した時はどうだったんだろうね
讒言だろうあれは
陸遜が正しいかどうかはわからんが
これで内部が揉めてぐだぐだになったのは事実
讒言←なんて読むの?
ザンゲン
ざんげん 厨房か?学校はどうした?ひっきー?
まぁ、がんばれ
孫権が周瑜魯粛呂蒙を評価してたよね
その時は周瑜と同等なんて言い方してたけど、
最後の方はどう思ってたのか聞いてみたかった。
>>597 でも演義にそった横山陸遜は可愛いって顔じゃなかったような
>599-600
ありがとう!
運動会の振り替え休日
陸遜に具体的な容姿の記述はない
だから普通かそれ以下だったんだろう
俺の中では三国志英傑伝の陸遜のイメージが濃すぎるんだ
609 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 10:59:44
つまり現代基準だとイケメンだった可能性がある。
当時の容姿ってデブヲタがもてたんだろ?
威風堂々ってやつだな
いかついやつが美男子
陸遜の話になるとレベルが下がりますね。
っていうか、このスレの伸びが止まる時間帯って何時なんだw
>>609 別に現代基準にあわせんでも良いだろうが
昔の人の話なんだから
何で当時の他の者をヒキオタとまで貶める発言をする
無双陸遜好きの腐女子にしか見えんぞ
>>614 ヒキヲタなんか言ってねえじゃんw
ワロス
デブがもてたのは聞いたことがあるよ。
無双陸遜ってそんなに可愛いのかね
やってみようかな…
ちなみに三国志演義によれば「身長八尺,面如美玉」と体躯堂々たる美男として描写されている。
らしいよ
腹黒いから地黒になってるよ。
まぁまぁ
陸遜の評価に戻ろうぜ
陸遜は美男子って評価で
>>617 【ヘソ出し】陸遜伯言を語るスレ【狙いすぎ】
↑ここを読めば陸遜のことが大体わかるよ。
>>622 美男子評価
周瑜(正史演義)>陸遜(演義)>魯粛>>呂蒙
三国志の美男だったら真っ先に周瑜を思い浮かべるな
美女だったら実在はしてないらしいが貂蝉か
>>624 演義の周瑜って呑みすぎてゲロ吐いてるシーンあるぜよ。
腐女子からしてみたらあの辺は見ない事にしているのかな。
それとも、「周瑜さまのゲロを直接飲み干したい」と思っているのが
多いのであらしゃいますかな。
美女だったら大喬・小喬だろう。
曹操も欲しがったくらだし、孫策と周瑜の妻だしな。
正直臥龍・鳳雛より大小の方が欲しい。
>>626 ちょWおまえそれ尚香のWWWいや何でもない WWWWW
ゲロ吐いてるから何なのかがわからん
腐女子云々が言いたいだけだろ
?
趣旨を戻そうぜ
630 :無名武将@お腹せっぷく :2005/10/14(金) 14:36:03
実際には陸遜はそれなりに腹黒。
皇太子派閥の領袖として、荊州の実質的な支配者として、皇帝孫権と政治的に対立していた。
皇太子問題だけ見ると陸遜らが正しいように思えるが、要は自分たちが擁立する後継候補が脱落しないように政争してただけのこと。
633 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 11:22:02
徐々にレベル低下
徐々に?
急激にですよ
この4人を評価するのに演義話し出したらダメじゃね?
裴注が一部しか書かれてない陸遜伝しかみたことない
だから陸遜について良くわからない。
石陽で民を虐殺したとか本当に書かれてますか?
639 :
638:2005/10/17(月) 11:29:59
×636
○635
>>638 今からって言うか、ずっと正史の話をしてきた訳だが・・・
641 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 11:31:56
裴注も正史にはいるのか?
実は混じってたわけだが
演義なら間違いなく諸葛亮が一番だろう。
>>640 あわわ…
最近来たもんで…
本当に済まんかった
どんまい
孔明は妖術師
この時間は自分のような厨が多いや
648 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 11:43:25
魯粛が一番。
益州攻略を反対し、統治者が独立し反乱するのを恐れ劉備に治めさせた。
美周郎は自国の領土にすることしか頭になかったと思うし。
649 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 11:47:43
>>648 その辺は政策の違いだね。どちらも良し悪しがあるし。
周瑜の天下二分も悪くはないけど、やはり当時の情勢では実現化は難しい。
何か良いなぁ、このスレ
お互いを罵りあう訳じゃなくまったりと冷静に議論する
久しぶりだ、こんな三戦
651 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 11:55:44
>>649 天下二分は呉の力じゃ無理がある罠
周瑜って曹仁の落し穴、南郡攻略に1年、孔明に嘲笑われる・・・っておい。
良い事が無いイメージの方が俺は多いんだよね。
652 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 12:09:21
まあ所詮は呉だの(´_ゝ`)
曹操について語ろうぜ
>曹仁の落し穴、南郡攻略に1年
これは極めて妥当な結果だと思うが
周瑜以外だったら、撤退もあり得たかも知れん
周瑜vs曹仁って三国時代でも屈指の名勝負なのに、スルーされてること多いな
654 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 12:20:37
>>652 長期的展望という意味では魯粛に、戦略・戦術では周瑜に負けた人
曹操は詰めが甘い
才能で言えば誰よりもある
656 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 12:31:36
>653
そもそも純粋に周瑜vs曹仁ではないしな。
聞くところによると劉備と共同作戦みたいだしな。
>>656 曹仁の伝をみても指揮をとっていたのは周瑜で間違いない。
劉備の存在は「呉録」において張飛と一千の兵の代わりに二千を借りて、
江陵に篭る曹仁の退路を断とうと進言したことしか残ってない。
私見だが野戦は周瑜軍単独、その間に劉備軍は迂回して退路を断ち、
曹仁が江陵に撤退した後、包囲を共同でじゃないかな。
658 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 13:05:17
周瑜伝、呉録、曹仁伝を読む限りだと、救援に向かった周瑜・劉備連合軍が
曹仁ら救援軍と激突した感じだが。
659 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 13:08:01
孫権伝周瑜伝でも、「劉備と共に曹操軍を追撃し、江陵(こうりょう)・南郡(なんぐん)に至った」という記述がある
>>609 なら正史とかには張飛は超イケメンで周喩はキモメンとかいう感じで書かれてるの?
>>657 「李通伝」などをみても、劉備の軍勢は江陵を封鎖するための助攻くらいは
行っていた様でも、積極的に城攻めに参加していた様子は覗えないね。
なんにせよ江陵って長江の北岸にある城だから、地勢や連絡線の問題などを
考えても、曹仁サイドの方はある程度の守勢に適した条件は揃っていたかな。
曹操が南下の際に劉備の江陵入城を阻んでいることからも、軍資が豊富だったの
かもしれないし。
劉備と共に曹操軍を追撃し、江陵(こうりょう)・南郡(なんぐん)に至った
ある以上共闘だろう。
>>663 李通伝って関羽が江陵の封鎖失敗したってあるだけだろう。
普通に共同してる証拠ではないか。
それを逆解釈して、「それだけしかしてない」ってどうであろうか?
>>662 その年表だと208年の12月に赤壁を終え、その頃曹仁と周瑜は激突しているが、
同じ年の12月に江南の諸郡を手に入れたとなってる。
これは周瑜と共にそのまま南郡に至ったとする記述に矛盾してないか?
さらに周瑜が劉備に長江北岸の所領を与えたのは南郡太守に任命された後の話しだから209年に入ってから。
すでに江南の諸郡を手に入れた後なら「所領が少なすぎる」と孫権に直訴しさらに借り受けた話しとも合わない。
>>668 とりあえず全部あげた史料読んでみては?
どっちにしても劉備はスレ違い
この時の劉備の動きは周瑜・魯粛の行動を語る上で無視できない要素だと思うのだが…
劉備は参加してるけどなんの役にも立たなかったんだろ
>>668 周瑜が単独で撃破したと言う説を支持するサイトとかありませんかね?
>>667さんのページとか分かりやすいし、全貌が見えてくる。
初心者の私にも分かりやすかった。
正直今の段階、都合の良い部分だけ抽出して何が何でも周瑜の単独にしたい
ただの周瑜マンセーにしか聞こえなくなってきた。
記述に無い部分は想像するしかないからね
675 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 14:05:44
>>675 そうだよ赤壁もだよ
同盟を結んだところが劉備軍の一番の働き
>>676 おいおい・・・赤壁は諸説あるだろうが。
劉備が役に立たないとか言ってるやつは
ゲームやらなすぎ
まあ、結局は陸遜に落ち着くわけだが
>>661 のサイトなんか演義・正史の比較があっていいね。
682 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 14:12:07
ゲームでも劉備使えるか?
天地を食らうとか?
周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜の比較なので劉備の能力を出すな
>>682 劉備軍がすごいのです
劉備はまあまあです
688 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 14:17:49
要は江陵で曹仁(一年)と周瑜が交戦してる隙に劉備は主力で荊南を占領
それからちょっぴり共同で江陵攻めか。
演義のまんまやな。
周瑜って想像していたよりもしょべえ
劉備がしょぼいんじゃ…
>>688 その考えでいくなら周瑜はほぼ単独で江陵を落とした事になり、江陵を占拠したのも周瑜軍。
劉備が江陵攻略に周瑜と共同して尽力したのなら、荊南攻略は江陵陥落後になる。
そういうことだよね?
みんないろんな考えを持ってるね。
692 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 14:28:50
>>690 君はもうがんばった。
ゆっくりお休み。
この緑はこのスレにずっと張り付いてるね
もっと勉強した方がいいよ
694 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 14:32:26
張り付いてるといえば論破完了だしねw
楽でいいよなーw
>>692 そうじゃないと思うならそうじゃないと思う理由を述べればいい。お互いに思うところを述べて論理に基づいて指摘しあうことが
噛みあった議論に繋がる。
>>695下手な煽りしかしてないからスルーでいいよ。
697 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 14:34:14
劉備は周瑜に「張飛に千の部下をつけて同行させるから、二千の兵を分けてほしい。両軍で曹仁を攻め退路を断とう。」と言った。(周瑜伝注「呉録」)
劉備は江陵攻略戦の際、北道に関羽を派遣し、曹仁を退路を断とうとしたが失敗した。(李通伝)
698 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 14:35:13
どう考えても参加してんだろ?
お?
参加はしてるだろ、はっきりただのオマケだが
700 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 14:38:34
劉備の活躍はない
>>697-698 >>688において君が主張した「周瑜が交戦してる隙に劉備は主力で荊南を占領」と、
「江陵方面で劉備の働きが小さくなかった」という考えが相反する事柄だと指摘したつもりだったが、
君に理解してもらうにはあまりに説明不足だったみたいだね。
703 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 14:44:25
ok
もういいよ
あとは詳しい方が論じてくれるさ
荒れる原因になって悪かったな
じゃあな
ポカーン
705 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 14:45:49
劉備はコウキンとトウタク戦で活躍した………後は諸葛良とかのお陰
劉備に荊州掠め取られた周瑜
破竹の勢いで攻め入ってくる劉備を完膚なきまでに撃退した陸遜
陸遜>劉備≧周瑜
>>705 427 :無名武将@お腹せっぷく :2005/10/16(日) 19:04:13
呉は要らん………蜀と魏が有れば三日は語り続けれる
708 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 14:51:34
破竹ではないけどな
710 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 14:53:45
では三日間このスレで語りましょうか
おお民よ…
周瑜呂蒙陸遜>魯粛
孫権は周瑜がいなければ、自分は皇帝になれなかったと言っている。
長期的な視野で考える魯粛も凄かった。
陸遜は、軍事・政治、両方に功績がある。
呂蒙は、たたき上げの武人+晩年の知略で軍事的に最強。
4人ともタイプが違いすぎる。
だが、無理やり、貢献度、信頼度etc、総合的に考えて不等号つけるなら
周瑜>魯粛=呂蒙>陸遜
>>714 孫権が陸遜に言った3人の評価って素直だよね。
周瑜と陸遜て話したことあるのかな?
>>717 大分間が空いてるし
ないんじゃないだろうか
どうなんだろう
教えてエライ人!
孫権の批評によると、
・周瑜の才を継いでいるのが陸遜
・呂蒙は魯粛に勝るが、周瑜には及ばない
・魯粛は、一つの失策をしたが、二つの立派な行いを損ずるほどのものでは無い。
周瑜=陸遜>呂蒙>魯粛
こんなところか。陸遜相手に話しているから、陸遜の評価は正確かわからんが。
>>719 評のニュアンスもそれに近い感じだし
周瑜=陸遜>呂蒙>魯粛、でいいんじゃないの。
結局陸遜が一番で落ち着いたわけだが
こらこら
周瑜もだろう
みんなオンリーワンだよね!
725 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 16:33:18
陸遜は、晩年、主君からの信頼度が・・・。
魯粛は、早くから孫権を皇帝につけようとしている。
赤壁の時は、新参者で発言力が及ばない中、孫権のために独断で劉備と
盟を結ぶなど行動力がある。
客観的に見て
周瑜>陸遜=呂蒙=魯粛
何か勉強になったスレだ
取りあえず意見出した全員に感謝しよう
孫権の四者評って、客観的にみた呉への貢献という見地での評価というよりも、
孫権の意望にどれだけ沿いつつ応えたか、ってところに主眼がおかれてる気が。
このスレで論じてるのは優秀か否かってところが主の様だし、孫権の評価を
大きく加味する必要はないでしょ。
>>725 孫権は猜疑心が強く残酷な主だから、本人の力量とは関係無いべ
それに、魯粛の荊州を貸し与えながら強奪されたチョンボは大きい。
孫権への貢献度は無視できないだろ
>孫権は猜疑心が強く残酷な主だから、本人の力量とは関係無いべ
意味わかんね
わかりづらいけど意味わからんと言うほどではない
俺のために解説お願いします
733 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 16:50:01
周瑜>呂蒙>魯粛=陸遜
だな。
陸遜は、若い若い言われているけど、司令官になった時、実際は30代後半以上。
34で、曹操を撃退した周瑜は最強。
荊州取り返した呂蒙も貢献度大。
魯粛は、チョンボはあったけど、周瑜が後事を託した点、長期的構想を立てていた点を
評価して、この位置。
陸遜は真面目過ぎて二宮に巻き込まれてしまったんだろうかね。
734 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 16:55:09
>>730 725は「陸遜は、晩年、主君からの信頼度が・・・」と言っているが、それは
「孫権は猜疑心が強く残酷な主」であって、陸遜の「力量とは関係無い」。
晩年、陸遜の信頼度が落ちたのは、孫権の猜疑心が強いせいって事が言いたいのだろう。
>>732 もともと猜疑心が強い上に
耄碌してて判断力が落ちてる状態の孫権の信頼を失ったことは
本人にとってそれほど汚点にはならない
みたいな感じではないかしら
>>733 長生きしたからじゃない?
真面目過ぎってのもあるけど、周瑜、(呂蒙)、魯粛が長生きしても
いずれは粛清された気がする。
あと、やけに評価を下げたがるが陸遜に恨みでもあるのか?w
>>730 725の「晩年の主君からの信頼度」を受けての発言かと。
陸遜を疑った孫権側の非を責めてるんじゃないか?
むしろ憤死云々は陸遜の評価を上げる要素にもなり得る
739 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 16:59:25
陸遜って、あんまこのスレで評価されてないよな。
攻めより守りの印象が強いせいか?
陸遜擁護の人は、陸遜のどこが優れていたか、書いてくれ。
顔
>>736 絡むなよ…orz
唯ですら荒廃してる三戦板の貴重な議論スレなんだ
まったり行こう
陸遜より孫が凄いイメージ
↑
孫じゃなくて、子供だorz
皆さん、どうもありがとうございます
おかげで理解できました
陸遜について、実は呉スレの前スレ、前々スレあたりでかなり
白熱した議論が展開されいた覚えがあったり
745 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 17:11:00
個人的には、与えられた仕事をこなす人より、多勢の意見に惑わされず、
自分の意見と展望を持ち、どうすれば国のために最良かを考えられる人が凄いと思う。
赤壁の周瑜や魯粛が、これに当たる。
ただ魯粛は、荊州貸与がな…。
しかし、荊州貸与が無くて、呉があの土地をあの時代に治めきる事ができたのか、わからないな。
国を会社に変えると、会社経営にちょっと似ていると思ったw
746 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 17:13:54
魯粛は金持ちだったからねぇ…それだけでも大きなプラスなんじゃ?
747 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 17:24:57
少数で多勢に勝った周瑜が一番だと思うが(周瑜だけの功じゃ無いにしろ)
他の三人については、他の人も言ってたようにタイプが違いすぎて評価し辛い。
ところで、赤壁の曹操vs孫・劉連合軍並の兵力差で、少数が多勢に勝つ戦って
他にありますか?(官渡もそうか)
748 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 17:25:02
逝ってよし
∩
( ゚Д゚)彡)Д`)
⊂彡
749 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 17:30:12
荊州は魯粛の段階では劉備に渡すしかなかっただろうよ
孫権が支配を強行しても多分続かない。劉備が傀儡に甘んじるわけもない。
孫権は改めて力と機会を得てから荊州支配をじっくり進めるべきだったし、それで成功した。
呂蒙陸遜が荊州占領防衛を果たしたので、魯粛の段階でもやれば出来たはずだと呉を過大評価したんだろう。
実際は無理だよ。
魯粛のころは魏と交渉できたわけでもないし。
>>747 三国志に限るなら合肥とか?歴史全般なら沢山あるべ。
>>749 劉備が実効支配していた領土と、呉から切り離して与えてやった領土は別物じゃね?
んだんだ。
呉が占領した領土は十分に支配可能だと思うな。
出来そうもないことをやってるのが他のメンツ
754 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 18:25:36
>>752 現に荊州の豪族や民の多くが劉備についていった。
占領と統治は別物で、荊州人の支持と荊州牧という官位を持つ劉備の方が荊州の支配者になる。
ここで孫権が支配を強行しても、劉備支持派が反対し支配もうまくいかないことが目に見えている。
周瑜が占領した土地であってもね。
劉備と違い、孫権たちは荊州にとっては占領軍なんだよ。
だから一気に併呑するのはあきらめ、江夏→南部→江陵と段階を踏んでいったんだろう。
いや呂蒙が普通に奪い取れてるから
力ずくで出来るだろ
756 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 18:32:51
だから、魏の動向とか孫権の官位とかいろいろ考えれ
呂蒙ん時は状況が違いすぎる
>>754 >現に荊州の豪族や民の多くが劉備についていった。
周瑜が占領した時には、そんな事起きてないけど‥
それに劉備支持派が反対するワケが無い、南部だけで満足せず
民を扇動して呉に喧嘩売る様なアホなマネは、まずしないでしょ。
>>754 荊州の豪族や民の多くが「曹操から」劉備についた、じゃないか?
孫権の支配を嫌って江夏から逃げ出した、みたいな話しはあったっけ?
>>756 官位で決まるならなら当時の曹操の官位はなんだった?
759 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 18:51:35
荊州に食い込んだ劉備は、無理に抜けば深い傷になる。
周瑜も魯粛も、その点は感じていたと思う。
長坂で劉備と逃げた民の数然り、劉備の人気は当時の荊州で最高だった。
荊州において、劉備の勢力を数で推し量る事は出来なかっただろう。
赤壁戦から荊州平定もままならない呉が劉備と戦う事は、相当の疲弊も伴う。
荊州から呉が退く事にでもなれば、益州への道も途絶えてしまう。
呉の存亡に関わる事態へも、陥りかねない。
その意味で、魯粛の荊州貸与策は、適切な打開策だったと思われる。
博打性も強かったが、劉備との荊州争奪戦よりも遥かに妥当では?
劉備を殺したとしても、荊州を穏便に支配する事は難しくなる。
楊州方面と合わせた北への警戒に加え、荊州に爆弾を抱える羽目になりかねない。
劉備との戦を回避、荊州の安定に加え、貸与する事で大義を呉に持たせる上策。
魯粛の判断は、大胆だが非常に合理的で冷静なものだったと思う。
ふと思ったんだけどさ
荊州もろくに治められない呉がどうやって益州治めるつもりだったの?
761 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 18:54:06
曹操のリベンジと劉備の煽動のダブルパンチになりかねないわけよ
江夏一郡じゃないんだし
呂蒙ん時はがら空きでしかも魏(漢)と形の上にしろ臣従してるから魏はあまり気にしなくていい
しかも荊州の大物は劉備も豪族も多くが蜀にいる
だから出来たんだよ
魯粛だって支配が簡単そうなら明け渡さないって
魯粛の判断はまあ良かったとして
じゃあ周瑜が生きてたらどうなってたのよ
とは思うね
763 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 19:10:22
周瑜は、孫策と共に江東平定に多大な功績がある。
呉の建国において、周瑜の遺したものは土台とも言うべき重要なものだろう。
周瑜は、三国鼎立時代まで呉を支えた最大の功労者。
これは、譲れない。
魯粛も又、赤壁〜荊州安定までの混沌とした状況を巧みに乗り切った。
後の呉の発展にとって、これは大きな働きだったと思う。
三国鼎立の立役者と言っても、過言では無いはずだ。
魯粛の判断なければ、呉が安定した国力を保持出来たかも疑問が残る。
呂蒙は、呉の軍神。
三国鼎立の均衡を崩してしまったが、当時の呉にもたらした利益は大きい。
逝去していなければ、周魯悲願の天下二分を果たした可能性もある。
陸遜は、息子が強かった。
764 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 19:17:13
周瑜>呂蒙≧魯粛>陸遜だな。
陸遜は嫌いじゃないんだが、どうも前三人以上に評価は難しい。
先に死んだやつは美化されていーよなー
陸遜が一人で独立した伝になっているのは何でなんだろう
>>759 なんでいきなり呉が劉備と争うとかまで理論が飛躍してんだろ。
劉備は領土譲ってやんなきゃ将来の展望を全て捨てて襲い掛かってくると思ってんの?
俺は周瑜≧陸孫>魯粛>呂蒙=陸抗
周瑜が居なかったら孫権政権は無かった
陸遜が居なかったら孫呉は滅亡していた
この二人の功績は呉という国に多大だと思う
続いて、魯粛が居なかったら呉は続かなかったので三番目
>>768 何故に陸遜が居なかったら呉が滅亡していたと言えるのか?
>>761 魯粛が譲ったのは魯粛伝に書いてあるとおり「味方(劉備)の力を伸ばし、敵(曹操)の力を弱体させる」という理由だろう。
その珍説の根拠はどこらへんにあるんだ?
必要だってんならみんな必要さー
>>769 多分夷陵だろう。
それより突っ込むべきは魯粛・呂蒙が居なくたって滅亡必至だった点じゃないか?
呂蒙はどうだろう
別にいなくても…
夷陵で呉が滅亡まで行くとは思えない
濡須の方が滅亡の確立は高かっただろう
>>773 もし濡須を落とされていたらやばくないか?
776 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 19:53:10
呂蒙が攻めるタイミングで攻めたから荊州取れたんじゃないのか?
呂蒙がいなかったら、蜀が益州・荊州支配し続ける可能性はある
陸遜は夷陵より何より
ずっと荊州に居て、呉そのものを支え続けた功績が大きいと思うが
まあ、本国に居なかったせいで二宮の変では割食ってしまうが
劉備がどこまで勝つかにもよるが、直後に攻めて来る曹丕を考えるとやはり滅亡は免れんのじゃないかと。
781 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 19:59:39
ソレは呉のセイ
周瑜>呂蒙=陸遜>魯粛
荊州は呂蒙がいなかったら陸遜が奪ってたような気もする
陸遜って領土拡張する戦した事あったっけ?
>>783 呂蒙が居なかったら陸遜は荊州の総司令官になれないか
なったとしても史実より相当後れるのでは、と考えますが
いかがでしょうか?
周瑜の功労と、周りから(敵からも含む)の評価を鑑みるに周瑜が頭一つ出ていて、
あとは同じくらいに感じる。
787 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 20:04:32
ハイハイ呉のセイ
呉は語る必要無いね
俺は、皆きちんとした後継者を見出しているところが、凄いと感じるのだが。
蜀が攻め込んできた時に闞沢が陸遜を司令官に推薦した理由って何?
周瑜>陸遜≧呂蒙>魯粛
周瑜は負け戦を知らない、建国の立役者の一人。
陸遜は、呉を支え続けた忠臣。
濡須の戦いの呂蒙は軍神。彼が居なかったら荊州奪回は、もっと遅くなっていた。
魯粛も長期的視野なところが素晴らしい。が、軍事には自信なかったのか?
荊州問題は、周瑜が生きていたら、また変わっていただろうな。
>>788 ここで呂蒙の隠れた後継者・朱然に脚光が…
>>790 そうなん?
じゃ正史では誰が推薦したの?
>>793 その才能は呂蒙に見出されすでに荊州侵攻で証明されてるんだから単純に孫権が任命したんだろう。
呂蒙かよ
>>784 陸遜が都督になった時点で、領土拡張できる策があったら教えて欲しいわけだが
周瑜だったら普通に益州奪ったり徐州奪ったりできるよ
798 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 21:31:15
徐州は奪っても維持するの大変だってば
800 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 22:17:30
800頂き
孫権の人事は周瑜、魯粛、呂蒙あたりまでは
ずばり好きな人間を推挙だな
まあ見る目があるんだが
魯粛が1番下なのは確定でいいよ
アル中、陸遜が言うとおり、荊州貸与は完全に失策っぽいし。
呂蒙も大気と鋭さに欠けるらしいから、3番手でいいと思うな
ゲーム脳な奴って多いな
周瑜 妖術使い
魯粛 輸送隊
陸遜 妖術使い
呂蒙 戦車隊
806 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 22:59:27
魯粛は、他の3人に比べて軍事が弱かった。
この点は、比較する場合に大きい。
これまでの流れを見ると、周瑜が一番なのは大体一致していると思うが・・・・・
魯粛の戦略能力、呂蒙の軍事能力、陸遜の軍事・政治能力
この3つを比較すると、陸遜>呂蒙=魯粛だろうか。
やはり、政治と軍事の両面で秀でていた陸遜の存在は、どちらか一方で卓越した
能力を持っていた2人よりも優秀だと思う。
ただし、魯粛と呂蒙の能力も天賦の才に近い極めて優れたものだったはずだ。
さらに、3人の功績について。
魯粛は、周瑜から呂蒙まで軍事の天才が出現するまでを、外交政治で乗り切った。
呂蒙は、卓越した軍事能力で楊州の防備をし、さらに荊州奪回まで果たした。
陸遜は、荊州奪回・夷陵戦・曹休戦などで勝利し、丞相にまで上り詰めている。
呉という国の存亡において、荊州奪回は必要不可欠だったのか?
魯粛と陸遜の功績は、確実に呉の存亡に関わるものだったと思う。
対して呂蒙は、荊州奪回の必要性を考えるとして、他の功績だけを見ると2人に
弱冠見劣りするのではないだろうか・・・・・・
>>801 でも周瑜は孫策時代から武官トップの扱いだからな。至極無難なチョイスとも言える。
魯粛は孫権が気に入っていたのもあるが、周瑜の推薦も大きかったんじゃないかな。
呂蒙はまさしく孫権子飼いの武将って感じだ。
>>806 言わんとするところに頷くべき点も多いが、俺は貴方よりも呂蒙の楊州の防備を高く評価したいな。
809 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 23:26:49
>>808 それを言う場合、孫権の合肥に対する執着に意味があったのか問う事になる。
楊州が北との最前線になったのは、孫権の意図もあったと思う。
又、下手に攻めず守勢であれば、必ずしも呂蒙の軍事能力は必要だっただろうか。
荊州奪回については、樊城陥落に合わせても良かった気が。
関羽を完全に潰してしまわず、北への牽制に使えなかっただろうか・・・・・・
この辺りは、勉強不足で確かな事は言えないが。
北上である程度戦線が安定すれば、荊州を奪われても途端に帰還して包囲されたり
しなかったのでは・・・・・・或いは、関羽に呼応して合肥を攻めた方が・・・・・・
荊州問題が出たところで荊州の人間(特に楚のあたり)は孫堅が暴れたのを怨みに思ってるから
孫策も孫権も構わず孫家の戌っころに支配されるのを潔しとしなかったという説があるんだが。
反董卓連合の時に孫堅が荊州に乗り込んでって太守だったか誰だったかをいきなり殺した事件。
ニセクロとか庭園でも指摘されてるが、これについてはどう思う?
当時の荊州の人間が積極的な消去法で「劉備>孫権」と考えてたのなら
魯粛の荊州貸与は必ずしも下策とは思えないし呂蒙の荊州奪取は快挙だと思うのですよ。
呂蒙と魯粛はもうちょい評価されても良いと思うんだけど、被統治側の感情とか世論とか
当時の世風とかは考慮しなくていいのかな。
周瑜が劉備を恐れたってのも当時の「建前としてはやっぱり漢王朝」ってのもあっただろうし、
なんだかんだでやんごとなき身分っぽい劉備の「名声」は空恐ろしく感じてたと思う。
あの頃は新聞もラジオも無いわけで、人々の噂・風評すなわち名声ってやつが大きいウェイトを
占めてたと思う。
長くなったけど荊州における人望として孫堅一派の孫権と劉備じゃどっちが上だったかってこと。
荊州の連中が本当に孫権を嫌ってたなら荊州問題もまた違った見方ができると思うんだ。
>>807 まぁ魯粛には何かしら思い入れがあったんだろうな。
皇帝の地位についた時、めちゃめちゃ嬉しかったのもあるだろうけど
ここぞとばかりに「子敬の言うことは正しかった」とか言っちゃうし。
呉の首脳部も例にもれずドロドロしてたんだろうな…
荊州人が孫政権を嫌ってたっていうのは妄想の域だと思うが。呂蒙の占領統治も上手くいってるし。
なにより、民衆にとっては孫堅は数々の反乱を鎮圧してくれた恩人。王叡殺しにしても情勢からしたら、そんなに非難されるべきでもないだろう。
>>806 確かに呂蒙は見劣りするな。呉の荊州奪回は結果的に魏を強めることになり
荊州周辺の蜀→魏の圧力をほとんど皆無にしてしまった点は
この作戦呉にとって本当に必要かと考えてしまう。
むしろ必要だったのは荊州の関羽を上手く操る
外交官だったのではないだろうか。
孫権が言うように周瑜>陸遜>呂蒙>魯粛が妥当なところだと思う。
周瑜から呂蒙にバトンが渡らなかったところを見ると、周瑜が存命中は、まだ呉下の阿蒙
だったのだろうか。
>>813 >むしろ必要だったのは荊州の関羽を上手く操る
>外交官だったのではないだろうか
幾らなんでも、こんな希望的観測を対案にされては呂蒙があまりにかわいそう。
仮にも他勢力の人物である関羽を都合よく操る…なんて事は、
あまりにも都合よい考えで、戦略として成り立たないと思う。
赤壁直後でも荊州を簡単に支配できたり、関羽を自由自在に操れたり、呉は凄いなあ(棒読み)
周瑜は劉備を呉に留めておけと進言しているけど、留めてどうするつもりだったんだろう?
劉備擁立なんて説もあるようだが、そんなに大人しく擁立される人物で無いのは、
わかるだろうに。
819 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/18(火) 01:59:35
言い方を変えると、荊州を呉が支配するためには劉備は野放しに出来ない奴なんだよ
かといって素直に言うこと聞く奴でもない
だから支配自体を一旦やめる
この発想の転換は何気に凄い
劉備が素直にとどまるとは、思えない
呉にしてみれば、軒を貸して母屋を盗られる展開は看過せざる話ってとこだね
>>816 都合よく操るという言葉をとらえてこねくり回されてもこまる。
同盟組むことなど外交全般も相手を
こちらの都合よく操ることに含まれますからね。
関羽(劉備ってめんどくせ。)との外交関係を保ち
曹軍が荊州に攻めてきたときに使う+
関羽が荊州の曹軍を攻める
(実際関羽が曹軍せめたところを呂蒙がたおしたんだからね。めんどくせ)
という蜀→魏の圧力があった方が
呉方面と交州以外に兵力もつかわなくてすむし
呉方面の曹軍の兵数も少なくなると思いますね。
いいたいこと
呂蒙の軍事能力って凄いけどその戦略ホントに重要?
陸遜の代まで持ち越しになっていたら、荊州手に入れるチャンスあったか?
あの時は、攻める好機だったんじゃないのか?
荊州いらねってこと。
蜀との同盟を堅くして北上策とるのが
蜀建国以降の呉の
一番いい戦略だと思いますね。
そうか?
826 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/18(火) 02:58:49
四人ともタイプがまるっきり違ってるからこそ並び立ってるわけで
そんな四人に順位をつけるのはばかばかしいよ。
マイラーとスプリンターとステイヤーとダート馬を比べてるようなものだ
そこをあえて順位付けするのが、このスレである。
まあ、826の言う事には同意なんだが。
荊州無かったら呉はどうなる?
>>824が蜀好きのアンチ呉にみえて仕方ない件について
830 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/18(火) 03:09:21
いかんともしがたい
>>822 全てが、相手が思う通りに動いてくれればという、非常にご都合主義。
>蜀→魏の圧力があった方が
呉方面と交州以外に兵力もつかわなくてすむし
呉方面の曹軍の兵数も少なくなると思いますね。
特に、これは呉が魯粛存命時でも陸口に、多数の兵力を裂いていた事実。
呉が魏と密約を結ぶまで、魏が居巣に大兵力を置いていた事実に反する。
>>824 揚州と交州のみの国力で、北上が可能とは思えないし、
さらに江東の弱点である江陵を他勢力に委ねたままであり、自己防衛すら確立できない状態。
また益州と荊州を持つ劉備に国力で風下に立つことになり、
第3位の国力で、如何に外交上のイニシアチブを握るかも明確でない。
勿論、国力的に魏はもとより蜀にさえパワーポリティクスを行使できない。
まさに、じり貧。良い戦略とは思えない。
824が上に立ったら、すぐに呉は滅びそうな予感
蜀が信用できるか謎
誰かが「劉備は裏切りまくりだから信用できないよ」とか言ってたな
835 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/18(火) 07:29:29
↑周瑜じゃね?
836 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/18(火) 07:31:48
周瑜なんか23の時に中朗将を孫策から命じられて
それからずっと呉のナンバー2だったって今思えばすごいよな
陸遜=司馬懿
魯粛=陳群
呂蒙=曹真
陳羣?
司馬懿は陸遜よりうんと賢い
陸遜はトップだっだのにゴール寸前でコケて最下位。
「お前は最下位になったけど一生懸命やったよ、頑張ったよ」
さて、このスレも850くらいまできた訳だが
結論としては公瑾が一位で確定?
>>841 そうだね。
でも他の三人がなかなか決まらない。
ん?一番だけ決まれば終了か
登場順だね。
次スレからは蜀将討議スレみたいに、その四人に限らず朱然や呂岱なんかも含めて貢献度とか考慮して議論してみたい。
勢いとか
呉将討議スレいいね
朱然のこと もっと知りたい♥
いいね
賛成!ところで朱然ってそんなにすごいの?
呂蒙が後継者にしたかったのは陸遜じゃなくて朱然って聞いたことあるけど…
>>818 いつの時点からいつの時点まで留めておけるか、これも重要じゃない?
劉備を呉に留めたのが210年に孫権のところに赴いた時として、
史実通りに劉備の荊州牧を認めてやるなどして劉備勢力懐柔を謀りつつ
仮に一年以上留めておけたとしたら既に周瑜は益州討伐の真っ最中、
益州を落とされ江陵に蓋をされ交趾が降服してしまったら、
劉備は同盟といえどもう呉には逆らいがたい状勢となる。
その間劉備は相談する部下もなく、情報も恣意的なものになり、
部下は遠く君命を仰ぎつつ領地経営に勤しむしかない。
江陵戦の時のように劉備の命ということで張飛らを借りて益州侵攻に臨む手もあり、
これには戦力の増強や関係強化といったメリットもあるが、
戦いに参加してもらった以上なんらかの報酬が必要になるので、
江陵や江夏、交趾といった領土が惜しければお奨めできない。
次スレは呉総合スレに合流ってことで
むしろ呉総合スレが要らない
周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜が呉の大部分で
アル中他はオマケってことだな
>>855 正直そうだね…
でも蜀も魏もそんなようなものだよ
内治の功績が国家にとって最も重要視されるべきものだってのはわかるけど、
語ってて楽しいのは戦争・戦略・国家間の駆け引きとかの方かもね。
>>851 継がせたかったじゃなくて朱然は呂蒙の後を継いでる
>>855 アル中と仮病爺は欠かせない存在だろ
このスレ楽しかったし勉強になった!
まぁ周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜だったら魯粛は一番地味かも。
呉ファンには人気だけど。
朱然て小さかったんだ〜
孫権「おい、おまいら!!曹操が攻めてきますた。柴桑に集合しる!」
張昭「詳細キボーヌ」
孫権「曹操が江陵に迫ってきてますが、何か?」
張昭「魏軍キターーーーーーーーー」
秦松「キターーーーーーーーーー」
魯粛「魏軍ごときで騒ぐ奴は逝ってヨシ」
孫権「オマエモナー」
張昭 --------終了-------
孫権 --------再開-------
張昭「再開すなDQNが!それより降伏文うpキボンヌ」
孫権「周瑜うp」
張昭「↑誤爆?」
魯粛「決戦age」
張昭「ほらよ降伏承諾の書>all」
秦松「神降臨!!」
魯粛「決戦age」
張昭「糞決戦厨ageんな!sageろ」
孫権「決戦age」
張昭「決戦age厨uzeeeeeeeeeeee!!」
秦松「決戦ageって言ってれば決戦できると思ってるヤシはDQN」
周瑜「イタイ皇帝がいるのはこの宮廷ですか?」
孫権「氏ね」
張昭「むしろゐ`」
孫権「決戦age」
周瑜「孫 権 、 必 死 だ な ( 藁 」
863 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/18(火) 14:40:02
>>862 糞スレをそのまま持ってきたようなかんじだな
72点
結構高得点だなw
865 :
夏侯淵 ◆i6jwvBOktc :2005/10/18(火) 14:43:24
甘寧=チョウヒ
陸遜とか司馬懿ってなぜか人気ないね
夏侯淵殿は誤爆?
周瑜と魯粛と陸遜が海で遭難して無人島に漂着した。
3人は島から容易には脱出出来ないことに気付き、
生きていくのに必要な物を探しに各自島を探索しに行った。
3人はそれぞれ食料になりそうな植物や狩りに使えそうな道具を持ち寄った。
その際、周瑜は古ぼけたランプも見つけてきた。
汚いランプを拭いていると、突然ランプから煙が出てきて見る間に南蛮人の姿になった。
南蛮人は低い声でこう言った。
「お前達の願いを一人一つだけ叶えてやろう。ただし同じ願いは許さん。言ったらそいつを犯す。」
周瑜はとっさにこう言った。
「家に帰りたいのだ!」
びゅ〜ん!!
周瑜は家まで飛んでいった。
魯粛も家に帰りたかったが同じ願いは言えない。
そして少し考えてこう言った。
「家の風呂に入りたいですな。」
びゅ〜ん!!
魯粛は家の風呂まで飛んでいった。
最後に残された陸遜も家に帰りたかったがやっぱり同じ願いは言えない。
少し考えてこう言った。
「二人に会いたいです!!」
びゅ〜ん!!
周瑜と魯粛が戻ってきた。
>>831 お前しつこいな。
1強2弱で2弱が争えば滅亡するしかないでしょ。
2弱の2位になっても意味ない。
3つ巴まで魏呉蜀の国力が均衡してから次の展開にはいるべき。
大体史実でジリ貧で滅亡してるだろうが。
>>871 いやしつこいのはお前だろ
反論も、もっと具体的にしろ
>>851 呂蒙の死後、重要拠点である江陵を預かったのは朱然。
関羽討伐以前は周泰指揮下の偏将軍に過ぎなかったことを考えれば異例の大出世かもしれない。
これには死ぬ間際の呂蒙推挙や、孫権の学友であったことなども影響していると思われる。
その後劉備が攻めてくると孫権は陸遜を大都督に任じ、勝利した後には荊州牧、江陵侯に任じられているいるが
直後の魏の江陵包囲に際、防衛の指揮をとったのも朱然なので引き続き江陵を任されていたものと思われる。
陸遜とは先の夷陵の戦いで別働隊で活躍したことを始め、
後の石亭においても左督を任され勝利を得るなど二度に渡り共闘している。
ちなみに魏の侵攻に際、呂範・韓当・朱桓・朱然・潘璋・徐盛・全j・賀斉ら当時の主だった将は皆いずれかの戦いに
参加していたのだが、陸遜の名前だけがないのが少し奇妙に思える。
私見だが陸遜はこの危機に劉備が再び軍を動かすことを警戒して西方に留まっていたのだと思う。
実際この時劉備から(表面上は)救援の申し出の手紙が陸遜に送られ、陸遜が断わっている。
敗北直後とはいえ劉備は都に戻らず未だ白帝城に軍を留めたままであり、
彼が死ぬまでは陸遜は動かしがたかったのかもしれない。
オレがいってるのは簡単なこと呂蒙の荊州攻略は呉より魏を強めた。
よって呂蒙の荊州攻略をオレは評価しない。
以上
それは神の視点だ
>>874 別に魏は新たな領土を手に入れたわけでもなければ、関羽との戦いも膠着状態だったわけで、
関羽の侵攻が取り障られてやれやれ助かったといったとこだろう。
一方呉にしたらまるで信用の置けない関羽は取り除かれ、荊州の多くをほぼ無傷で手に入れ、
長く一進一体が続いていた揚州方面に代わり新たに襄陽方面からの侵攻という道筋も見え、
大いに勢力を伸ばし展望を広げたところじゃないか。
明らかに魏より呉の方がはるかに得をし、得るところが多かっただろう。
その通りだし、約一名を除いてみんな分かってると思うから以後スルーでいいんじゃね?
御意
>>874 呂蒙が荊州を攻略したことにより、魏からの防衛もしやすくなった
実際、陸抗が死ぬまでは魏に呉の地が侵されるということは無かった
国を守るという意味でも、攻めるという意味でも
優秀な戦略であったのではと思う
>>873 かなり正確な考察じゃまいか。
陸抗も微妙に似たような立場で用いられたことがあると思う。
魏の蜀侵攻に際して、はじめ荊州から北上するよう命じられたのは朱績と留平。(留平の動きはあやしい)
蜀滅亡の報せを受けて巴東を攻める時には、歩協と留平、そして陸抗が軍を進めている。
ちょっと見なかった間に凄い伸びてた。
結局周瑜が一番か。予想通りというかなんというか。
遅くなりましたが皆さん乙!!
誰だテメー
魯粛は文武両道なのか?
しかも金持ちです
魯粛死ね!
その愚直なまでの嫉妬心にワロス
文武両道、金持ち、権力者。
あとはルックスくらいか、魯粛。
>>886 ちょ、おま、そんなこと言ったら誰かさんは
・イケメン
・名家の次男坊
・上司は無二の親友とその弟
・嫁さんは美人
・20代で組織のトップにつき多大な成功を収める
・天才的な才能
・話術が巧みで人に好かれる
・芸術的才能にも恵まれた風流人
889 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/18(火) 21:16:03
関羽が樊城陥落後、そのまま北上した所で荊州奪回。
さらに、関羽が北上する様に仕向ける。
関羽が許に到達しても良し、撃破されても良し。
もっと関羽に魏を疲弊させた方が、呉としても良かった気がする。
まぁ、関羽は拠点占領されたと知ったら、どこまで進んでも戻りそうだが。
その辺りの情報戦も重要になって来るだろう。
荊州奪回は、貸与した時から魯粛も目論んでいた事だと思う。
魯粛の軍事能力では無理だった為、それが外交という形で留保されてただけで。
それに、呂蒙というより呉の戦略だったはず。
陸遜が守備で確実な戦果を上げた様に、それを呂蒙は攻撃の方で成した。
守勢と攻勢の戦、どちらが軍事的難度が高いかは、判断出来ないと思うが。
>>888 寒門出身で現場叩き上げ、天才というよりは努力家であれだけの成功を収めた呂蒙は本当に素晴らしいよな。夢があるよ。
周瑜はそれに人並みの寿命があったら逆に今ほど好きになれんかったかもなw
891 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/18(火) 21:32:39
魯粛は、軍規を重んじた。
軍事能力は、普通。
「最後まで生き残ったやつが強いんだよ!」
結論:陸遜最強
>>891 並の将帥ではあったよな。若い時から兵法に親しみ、軍中にあっても書物は手放さず、
軍令は行き届いていたらしいからね。
憤死=「ちくしょおおおおおお」と叫びながら血を吐いて死ぬこと
凄い死に方だな
寂しさで死ぬウサギみたいなもんか
898 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/18(火) 22:11:09
古代中国って憤死多い印象だな。
春秋の頃も、出陣の手向けに自殺した奴とかいたし・・・・
感情の起伏が激しいから、ノリで死んだり憤死するのか。
正直最近の中韓のデモとか見てると
怒り狂ってそのまま死にそうな勢いは感じる
900 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/18(火) 22:25:07
憤死って大抵は自殺の言い換え。それか隠蔽。
憤死=自殺?
本当?
船覆って死ぬ人もいるし
まぁ、憤死としておけば儒教的には格好が付くからな。
904 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/18(火) 23:11:06
精神的にダメージ受けて、食も通らなくなり、栄養失調で死亡ってところじゃないか。
905 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/18(火) 23:13:57
そんな奴めったにいないっての
漢書に自殺を憤死と言い換えてる実例があるんだってば
全部でなくとも憤死のほとんどは自殺だろ
906 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/18(火) 23:23:23
>>905 例えば?
しかし、自殺は自殺と書かれてある人もいるのに(ジュンイクとか)、何故、
自殺じゃなく憤死と書かれたのだろうか
孫権って酷い奴だな。
909 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/18(火) 23:28:30
漢書王商伝と漢書五行志を見れ
漢書は漢書
911 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/18(火) 23:30:39
憤死=感情が爆発して自殺
自殺=自殺
憤死=衝動自殺
自殺=計画的自殺
一番幸せじゃなかった奴なら4人の中で陸遜だろう
914 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 00:04:44
周瑜公瑾:
戦略■■■
軍事■■■■
政治■■■■
魯粛子敬:
戦略■■■■
軍事■■
政治■■■
呂蒙子明:
戦略■■
軍事■■■■
政治■
陸遜伯言:
戦略■■■
軍事■■■
政治■■■
915 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 00:14:11
戦略と柔軟性の魯粛、軍事の呂蒙、汎用性の陸遜
常に重宝するのは、陸遜だな。
確実な成果が期待出来る。
魯粛と呂蒙のコンビなら、陸遜も周瑜も越えるかも知れない。
だが、個々の能力だけを見ると、状況に応じて発揮すべきものだ。
バランス型である周瑜に次ぐのは、同様に多局面に対応出来る陸遜。
続いて、外交を含む国家戦略が優れていれば、軍事は不要という理由で魯粛。
傑出した軍事能力を持つ呂蒙は、ある程度の指針に沿ってこそ価値がある為、
3人の中では4番目とする。
ただし、軍事であれば周瑜をも凌ぐと思われる。
>>909 王商伝だと病死、五行志だと自殺と書いてあるように読める
言い換えてるというより矛盾しているように思った
917 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 00:23:38
心を燃やすは、帝王の軍略 心を包むは、孫家三代
>>916 本文良く読んでね
大将軍王鳳との政争に敗れた直後の「病死」なんだよ。
つまり五行志が真実を伝えてて、列伝等は公式発表ってとこ。
>>915 汎用性はうっかりすると器用貧乏になりかねん。
>>914 政治なら陸遜が一番でしょ。
もしある種器用貧乏と言えるなら周ユじゃないか?(あくまで比較してだが)
ただ周ユは軍事上の不利を戦略眼で、戦略上の不足を軍事力で補い、
さらに4者の内でもっとも部下を上手く使うことで、
孫呉で並ぶものなき偉業を成し遂げたんじゃないかと思う。
921 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 01:37:56
周瑜公瑾:
戦略■■■■
軍事■■■■
政治■■■
魯粛子敬:
戦略■■■■■
軍事■■
政治■■■
呂蒙子明:
戦略■■
軍事■■■■■
政治■
陸遜伯言:
戦略■■■
軍事■■■
政治■■■■
922 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 01:59:04
寝るまでにこのスレ、おわらしたる!!
どうしても呂蒙に戦略眼がないことにしたいヤツが湧いてるんだな。
呂蒙が荊州を落とした方法は、戦略的にも政治的にも最高の結果をもたらしてる。
本来は劉備が地盤を持っていたはずの土地なのに、無傷で手に入れたことによって
人材ごと吸収できた上に、戦後統治にも支障が出なかった。
もちろん、陸遜が荊州の人材を重用するよう進言してることも忘れちゃいかんが。
>>918 いやだから憤死と書いてないんだから
>>905のいう実例とは違うでしょ?
それとも政争で敗れた直後の死を全て憤死と言いたいのかな?
925 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 02:15:14
諸葛謹に一票
926 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 02:17:12
魯粛が一番なんだよ!!!
俺的にだけど・・・
周瑜公瑾(イケメン兄ちゃん)
戦略■■■■■■■■■■■■■
軍事■■■■■■■
政治■■■■
魯粛子敬(たぬき)
戦略■■■■■■■■■
軍事■■
政治■■■
呂蒙子明(いいひと)
戦略■■
軍事■■■■
政治■■■■■
陸遜伯言(白ブタ)
戦略■■■
軍事■■■
政治■■■
戦略■■■■■■■■■■■■■
軍事■■■■■■■
政治■■■■
魯粛子敬(たぬき)
戦略■■■■■■■■■
軍事■■
政治■■■
呂蒙子明(いいひと)
戦略■■
軍事■■■■
政治■■■■■
陸遜伯言(白ブタ)
戦略■■■
軍事■■■
政治■■■
929 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 02:27:40
魯粛をたぬきとは何をぬかすか!!!
・・・と心の中で思う俺
930 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 02:28:57
ってか時代の違いもあるんだしさ、一番とかってどう決めるんだよ
ま、俺は周瑜がやっぱ一番かなぁと。思うわけでありますよ
オールマイティって言っても、どれも傑出してるわけで。
苦労人ナンバー1が陸遜。
彼は基盤を整えていった人じゃないかと。
道を開いた人じゃないことは確か。
チャレンジャータイプではないね
呂蒙さんはやっぱり戦人にとどまる。
多彩な才は持ち合わせてないみたいだし
基本的な器はなかったんじゃないかと。
国を任せるわけにはいかないわな。多分最下位…っていうかジャンルが違うんじゃ?
魯粛はあれだ。陸遜とちょっと道がかぶってるけど、
褒めるべきかそうではないのか悩むところ。いやスゴイひとなんだけど
この人いなきゃ周瑜亡きあと呉は絶対滅んでたし…
でもやり方では、天下に出遅れた感じがする。
周瑜が長生きしてれば、って思うんだけどなぁ
ズバズバっといくんだけど、それが一番正しくて慎重なわけだ。
外交もまじえた考えで動けるし。
国ごと引っ張って動いていい器なのは確か。軍を率いるのはいいけど、
細かな指示を出すのは、やっぱり意見をうまく融合して適切なものを出していくに過ぎないところ、
実際の統率力なんかも見せるけど、軍事的才能は中の上くらいってところか
まぁとにかく、戦でも国勢でも、全体を見渡せる目がスゴイんだこのひとは
周瑜(張良にして韓信)
戦略■■■■■■■
軍事■■■■■■■
政治■■■■
魯粛(ブッ飛び范増)
戦略■■■■■■■■■■
軍事■■
政治■■■■
呂蒙(馬上の孫濱)
戦略■■■■■
軍事■■■■■■■■■■
政治■■■
陸遜(守りの楽毅)
戦略■■■■■
軍事■■■■■
政治■■■■■
周瑜公瑾(俺の前世)
戦略■■■■
軍事■■■■
政治■■■
魯粛子敬(ちょびひげ危機一髪)
戦略■■■■■
軍事■■
政治■■■
呂蒙子明(かんちゃんを殺っちゃったおっちゃん)
戦略■■
軍事■■■■■
政治■
陸遜伯言(くれないのブタ)
戦略■■■
軍事■■■
政治■■■■
周瑜(少し知恵のついた軟弱項羽)
戦略■■■■
軍事■■■■■■■
政治■■
魯粛(闘う范増)
戦略■■■■■
軍事■■■■■
政治■■■■■■■
長江をこえんと天下統一なんてできんよ。
長江なんて俺が将軍だったらすぐこえたよ
まずかんうを殺って、そのあとに張遼を殺って
そのあとに曹操を殺って
朝鮮半島まで殺りにいけただろう(過去完了)
>>934 きみ最高!
でも
周瑜の超必殺技使えないうちはまだ子供だな
フッ
周瑜は軍事指導者
魯粛は参謀
呂蒙は現場指揮官としてずば抜けてると思う
陸遜はオールマイティだけどその分これってものがない印象
4人の中でなら政治家として抜けてるけど…
周瑜公瑾:
戦略■■■■■■■■■
軍事■■■■■■
政治■■
魯粛子敬:
戦略■■■■■■■
軍事■
政治■■■
呂蒙子明:
戦略■■
軍事■■■■■
政治■■
陸遜伯言:
戦略■■■
軍事■■■
政治■■■■
張遼文遠(オマケ):
戦略■■■
軍事■■■■■■■■■■
政治■■
周瑜の言葉の中にはよく調べてんなーと思えるところがあって評価しやすい
周瑜公瑾:
戦略■■■■
軍事■■■■
政治■■
魯粛子敬:
戦略■■■■■
軍事■
政治■■■
呂蒙子明:
戦略■■■■
軍事■■■■■
政治■■
陸遜伯言:
戦略■■■
軍事■■■■
政治■■■■
具体的な戦略案を出していない陸遜よりは呂蒙のほうが上だと考える
徐盛:
戦略■■■■■
軍事■■■■■■■
政治■■■■■■
孫堅、孫策、孫権の中で一番は?
周瑜公瑾:
戦略■■■■■
軍事■■■■■
政治■
魯粛子敬:
戦略■■■■■
軍事■
政治■■■■
呂蒙子明:
戦略■■■
軍事■■■■■
政治■
陸遜伯言:
戦略■■■■
軍事■■■
政治■■■■
司馬懿(オマケ):
戦略■■■■■
軍事■■
政治■■■■■
諸葛亮(オマケ):
戦略■■■■
軍事■■
政治■■■■■
孫堅(オマケ):
戦略■■■
軍事■■■■■
政治■■
孫策(オマケ):
戦略■■■■
軍事■■■■■
政治■
孫権(オマケ):
戦略■■■
軍事
政治■■■■
諸葛亮:
戦略■■■■■■
軍事■■■■
政治■■■■■■■
司馬懿:
戦略■■■■
軍事■■■■■
政治■■■■■
周瑜:
戦略■■■■■
軍事■■■■■■
政治■■■■
陸遜:
戦略■■■■
軍事■■■■■
政治■■■■■■
魯粛:
戦略■■■■
軍事■■■
政治■■■■■■
呂蒙:
戦略■■■■
軍事■■■■■
政治■■■
一気に糞スレ化してまいりました
■厨のせいだな。ところで、次スレはどうする?呉将討議スレにするか?
是非
朱然や潘璋なんかについても意見交換したいし
958 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 11:45:27
劉阿や麋芳、晋宗、劉纂なんかもな。
傅士仁と糜芳なんかもな。
だから総合スレ使えって
あれはモトモトそういう趣旨のスレなんだし
ぜひ丁奉について語りたい
孫策ってカスだよな
曹真のがまだつええよ
曹真のが
曹真のが
曹真のが
曹真のが
曹真のが
曹真のが
曹爽のがまだつええよ
曹真はザク
曹真=ザク>孫策=トリアーエズ
トリアーエズw
セイバーフィッシュぐらいだろ