【西軍】関ヶ原の戦い総合スレ3【東軍】

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1無名武将@お腹せっぷく
130年あまり続いた戦国時代晩期の合戦である「関ヶ原の戦い」。
東西両軍合わせて20万人もの動員を繰り出した、想像を超える大規模なものだったにも関わらず
わずか数時間の戦闘で勝敗が決したという希有な戦い。
全国津々浦々から名立たる武将・智将が一同に会した、戦国屈指のドラマ「関ヶ原」を
あらゆる角度から検証するスレ第三弾です。

過去ログ
関ヶ原の戦い総合スレ
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1106458926/
関ヶ原の戦い総合スレ2
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1108139654/
2無名武将@お腹せっぷく:2005/08/24(水) 14:00:40
2かな
3ο丁児 ◆71izTCnSlI :2005/08/24(水) 14:52:28
関ケ原に三成を家康がおびき出した。と言われてるが、布陣図を見るかぎり、どうみてもおびき出されたのは東軍だねぇ。
あといつも思うのは「野戦決着」について

家康はなんとしても野戦で短期決着をつける必要があった。
だって大坂城と秀頼が西軍の手に渡っている以上、長期戦になれば離反者もでるだろうし、へたすれば賊軍とみなされる恐れもある。豊家が朝廷を動かし、朝敵とすることも考えられ、
とにかく家康にとって長期戦はもっとも怖れていたことでしょうねぇ。
しかし一方、三成のほうはどうか?
たしかに西軍も烏合の衆にすぎないが、なんといっても「秀頼」という統合出来る存在がある。
しかも西軍はほとんど西国大名の集まりなので、自分の領土が東軍領を囲まれるという心配もなく、長期戦の場合、兵站輸送も自在である。(逆に東軍の細川家などは最悪。
自領は包囲され開城。大坂屋敷は妻とともに灰になった。このような情報を耳にして東軍諸将は長期戦に耐えられるだろうか?)
とにかく三成は城に拠って、守りを固くし守ればよかったのだ。さすれば東軍は自然と瓦解する。
よく籠城は援兵あってこそ意味があるというが、まさにこの場合は大坂の陣の時と違い、援兵だらけ。守りを固くするだけで、まず勝利は間違いなかったのだ。
4ο丁児 ◆71izTCnSlI :2005/08/24(水) 15:02:39
あっ一番書きたかったことが抜けた。
つまり秀頼と大坂城を手中に収めた三成は「短期野戦決着」にこだわる必要はなかったのだ。
5魔玉 ◆TLOxROt30I :2005/08/24(水) 16:18:39
ο丁児の名前の由来・・・
丁はチンコが勃起している状態で、左に付いている
οは、玉袋がぶら下がっている状態を意味している。
 すなわちο丁児はチンコ・金玉(アホさ)を露出している稚児の意味で、
可児才蔵とは全く関わりが無いので、聞き分ける為にチンコ(通称)と呼ぶ。
6無名武将@お腹せっぷく:2005/08/24(水) 16:45:26
>>5
魔玉は好きな戦国武将誰よ?
7魔玉 ◆TLOxROt30I :2005/08/24(水) 16:48:00
>>6
信繁が好き( ^∀^)ゲラゲラ
8無名武将@お腹せっぷく:2005/08/24(水) 16:53:39
武田信繁なのか真田信繁(幸村)なのかわからんがwww
けっこう渋めの好みだというのはわかったwww
9無名武将@お腹せっぷく:2005/08/24(水) 16:55:01
スレ的には幸村と見たが。
10無名武将@お腹せっぷく:2005/08/24(水) 16:57:35
>>7
武田信繁は川中島で戦死。
真田信繁は夏の陣で戦死。
両方とも関ケ原で絡まない・・といいたかったが上田合戦で信繁が絡んでるな・・・・。
よし魔玉さん。上田合戦の君なりの所見を聞こうか?
11無名武将@お腹せっぷく:2005/08/24(水) 17:28:45
上田城の戦いの意義は一つしかないと思う。それは「秀忠が戦ったこと」に尽きると思う。
秀忠の関ヶ原遅参の理由が、巷間言われてきた上田城釘づけではなく
東軍本隊からの伝令の遅れだったことが分かってきたことからも、
極端に言えば真田と戦おうがスルーしようが、秀忠が遅れることに変わりはないわけで
真田から見れば秀忠が戦ってくれたおかげで「秀忠の進軍を遅らせた」という名誉は
自動的に真田家に入ってくるわけだな。


さて、そろそろ秀家いっとく?w
12ο丁児 ◆71izTCnSlI :2005/08/24(水) 17:49:03
秀家は大垣城に着陣して早々、夜襲を三成に提案してるよねぇ。
あれはあとから考えたら、やはり実行したほうが良かったのかねぇ?
豊久の夜襲案より数の上で成功率が高かった気がするけど・・・
13無名武将@お腹せっぷく:2005/08/24(水) 19:47:16
>>3
まず豊家が朝廷を動かす前に豊家が動きません。
西軍には成り行きで西軍に参加したものが多いので、
放っておけば離反者が続出した可能性が高いのは西軍の方です、
というか、現に続出していました。
それから、関ヶ原で東軍を捕捉しておかなかったら、
三成の居城佐和山は粉砕されてしまうよ。
14ο丁児 ◆71izTCnSlI :2005/08/25(木) 12:55:48
>>13
長期戦になれば、大坂城で毛利輝元が秀頼を膝の上に乗せている以上、西軍はなかなか離反しないのではないでしょうか?

たしかに家康は260万石の大大名で、豊臣家の大老筆頭です。それが与信になり、配下でもない諸大名を引き連れて大返しが出来たわけですが、
 
>>3でも語ったですが、国許を空にしてついて行ってる諸大名の心理的圧迫はかなりのものだったのではないでしょうか?

東軍にとっても長期化はいわば、「流軍」の態をなすと考えます。「内府殿についていって大丈夫だろうか?」とたった一人の大名が逃亡すれば、

シーソーみたいなもので、一度そちらに傾くと、一気になだれ込むのと同様、東軍にも離反者が続出する可能性は非常に高いと考えます。

現に小山会議だって薄氷を踏む思いだったではないですか。正則がかねてからの約束を破り「清洲に帰る」といってしまったらそれで終わっていたわけで、

東軍諸将も決して結束が固いわけではなく、正則を使った下手な芝居で乗り切ったことも事実。

とにかく東軍のほうが離反者が多いと考えます。

居城佐和山粉砕・・たしかにそうだね・・・三成もこれにこだわらなければよかったのに・・・
だって私財投げ打って、この関が原に賭けたわけでしょ?
なに佐和山にこだわってるねん。
この城を落とすことは、味方の士気を揚げ、敵の士気を下げる効果はあるかもしれませんねぇ・・・・

15無名武将@お腹せっぷく:2005/08/25(木) 13:23:13
読みずらいから適度に改行すれよ糞コテ!
16ο丁児 ◆71izTCnSlI :2005/08/25(木) 17:06:47
( ´・ω・`)・・・すみません、場当たり的に考えながら打っていたもので・・・
17無名武将@お腹せっぷく:2005/08/25(木) 19:21:46
>>14
いや、あなたがどう考えようとも、
現に西軍の方に大量の離反者が出ていますので。
大坂を掌握などというが、その大坂にいて家康弾劾状の発起人の一人である、
増田長盛からして家康に西軍の内部情報をもらしているほどです。
それに、確かに西国から東軍に参加している武将はいるが、東軍の多くは東海道沿いの諸大名です。
そもそも、西軍がほとんど西国の大名だということは、東国はほとんど全部東軍だと言うことです。
その状況で、東軍が流軍の態をなすというのは全く的外れ。

それから西軍は豊臣家の支持を受けたわけではありあません。
秀頼を膝の上に乗せているという言い方はあまりにも誇張しすぎ。
18 ◆wBMJacV/86 :2005/08/25(木) 19:58:12
大坂城二の丸にいる毛利輝元が
秀頼を「膝の上に乗せ」ているとは言えないでしょうか
19無名武将@お腹せっぷく:2005/08/25(木) 20:44:13
>>18
言えません。
もしそれが秀頼、というか淀含む秀頼側近等による「豊臣家の意志」を、
意のままに出来ると言う意味ならね。

もしそうなら、とっくに家康を逆臣として豊臣家の敵と表明しているはず。
20無名武将@お腹せっぷく:2005/08/25(木) 20:57:00
淀君や側近でも一方の支持をしたところで何の効力もないだろうな。
秀頼がそんな判断できる年齢でないことは天下に認識されているのだから。
21無名武将@お腹せっぷく:2005/08/26(金) 00:14:11
別スレでも書いたけど、淀君は関ヶ原当時に豊臣政権に口出しできるような立場ではないよ
豊臣政権が形骸化し、徳川と立場が逆転して豊臣家が一大名(置く影響力考えれば、言いすぎだけど)になってから
大名家としての豊臣家に口出しできたんです
22ο丁児 ◆71izTCnSlI :2005/08/26(金) 00:44:41
>>17
なるほど、たしかにそこは突かれると思いました。
たしかに東西綺麗に両軍に別れているように感じますが、東には上杉、佐竹がいることを忘れてはないでしょう。
西と長期戦になった場合、両大名の存在は俄然不気味な存在です。東軍から一軍を割いて、差し向けて倒せる大名じゃありません。
では、西を放って両大名を駆逐しますか?それも無理があります。
では西国の東軍領はというと、加藤清正、黒田、中川、寺沢、生駒、蜂須賀、筒井、細川とみな小粒ぞろい。束になっても上杉家や佐竹と比べるべくもない。
まあ長期戦で上杉家佐竹家が東軍に下る可能性は否定しませんがね。
で増下の件、なるほどたしかに裏切って内通しているように思えます。
しかし増下も「完全な内通者」ではありません。あくまで家康の勢威を怖れて、二律背反的行動を取ったに過ぎず、西軍優勢ともなれば手のひらを返して打倒家康になるクチでしょう。
23ο丁児 ◆71izTCnSlI :2005/08/26(金) 01:15:59
>>21
そのとおりです。淀はただの側室。その当時は女帝として権力はもってないですね(後の「権力」も城内限定だったが)。
くどいようですが「秀頼」が幼子だろうがなんだろうがその権威は絶対です。
いうなれば秀頼は「裁きの剣」です。その剣を手にすれば、いかように天下を切り裂くことができるのです。
太閤の死後、まずその「剣」を手にした男はわかりますね?
もちろん家康です。秀頼の名を使い、大いに様々な事象を裁いたではないですか。
が、ついに会津征伐で彼は東下した。でもこの時点では彼は「剣」を手にしてます。なにせ会津征伐は秀頼の了解をとった形になってますからね。
しかし三成が挙兵した。
この時点で秀頼は「持ち主不在の剣」となったのです。
剣は持ち主を求めます。まだ幼子、みずからの意志で行動できないですからね、しかし権威は依然絶大。
この剣の次の持ち主、つまり秀頼を隗儡できるは三成か輝元かは知りません。
しかし長期戦になれば西軍にそのような男があらわれるに決まってるではないですか。
その男が秀頼を使って、様々な策(大老筆頭剥奪、朝廷動かす等など)を講じれば、東軍など浮き足だって一気に瓦解する。
あくまで豊臣家は「現政権」です。現政権に楯突く諸大名はよほどの覚悟と規模が必要でしょう。
24無名武将@お腹せっぷく:2005/08/26(金) 01:34:39
諸刃の剣というが、秀頼担げるのなら、西軍は最初から担いでるでしょ?
豊臣家としては、一方にあくまで干渉せずっぽくない?

担いだら担いだで、担いだヤシが君側の奸と言われそうだしね
25援護爆撃?:2005/08/26(金) 01:41:53
結局、秀頼が【誰と一緒にいるか】が重要ってわけです。

(トリビア→)関ヶ原の戦いで、伊達と上杉がどーも密外交をしていたらしい。
(基礎知識→)家康と福島は、いわば職場の同僚。家康が部長としたら福島は
係長あたりとか(^^;)その場合、社長は秀頼だな。会長が朝廷とくるかな?
26援護爆撃?:2005/08/26(金) 01:46:25
>>24 肝心の豊臣家の親玉が幼君なので、干渉能力がない。もしあれば家康は
(豊臣家臣ってことになるので)大義名分が得られず、手も足も出ない。
27無名武将@お腹せっぷく:2005/08/26(金) 02:06:37
>>25-26
家康は豊臣政権の執政代表だよ
上杉征伐も秀頼の命を受けての形で行ってる

福島などが家康に付いたのも、三成ら西軍が家康排除の為、旗揚げしても
正当性がないと判断したのも一因では?
関ヶ原の時点で、家康に豊臣政権・秀頼に対して、何ら落ち度は無い訳だし

西軍が秀頼を表立って担げなかったのは
豊臣家が深く介入するのを拒んだとも、三成らが豊臣家に害が及ばないように
介入させなかったとも言える

担げるなら、輝元を西の丸に入れずに、本丸へ入れて、それをアピールすればいい訳だしね
家康は家康で、豊家の為と言いつつ、豊臣家の力を使うのは極力避けたいだろうし
使えば、それだけ豊臣家の影響力を残すことになるからね

というか、関ヶ原の時点では、家康は律儀者としての風評で
それを最大限に活かしてる、豊臣家の側近連中が、家康が簒奪狙ってるとは思っても無いだろうし
逆に三成や輝元と、家康や福島などの豊臣政権内での権力闘争としか認識してない
当時の多くの人間が、そういう認識だったのでは?
だから豊臣家としては積極的な介入を避けるはず、秀頼が幼く判断できなくとも
家宰であった大野などの連中は、そう思っていたと考えられるがどうか?
28ο丁児 ◆71izTCnSlI :2005/08/26(金) 02:23:13
>>27
大野はたしか西の丸に天下人の如く振る舞ったことに激高し、家康を暗殺しようとした人物だったよね、まあ真偽の程はわからんが。
とにかく家康に対してかなりの警戒心をもっていたことは想像にかたくない。

西の丸占拠、などいくら高台院に譲られたとはいえ、臣下のとるべき行動ではない。
李下に冠を正さず、というではないですか。
29無名武将@お腹せっぷく:2005/08/26(金) 02:29:12
>>28
でも輝元も西の丸に入ってるけど

家康は北政所から譲られ、形式上は秀頼から認可受けて入ってるが
輝元は占拠でつよ

>家康に対してかなりの警戒心をもっていた
ごめん、大野は東軍に思いっきり参加してた・・・orz
当時は大坂にいないや
30ο丁児 ◆71izTCnSlI :2005/08/26(金) 02:36:48
>>29
無論です。前述したように暗殺事件の嫌疑で茨城の結城に流されたからね。
小山は結城のとなりだからその時に従軍したのでしょう。
大野もこのまま配所で朽ちるわけにもいかないから東軍に便宜上加わっただけとみるが・・・。
31援護爆撃?:2005/08/26(金) 02:55:38
「秀頼を担ぐ」っていうのは「秀頼と一緒にいる」ってこと。一緒にいれば「秀頼の命」
って大義名分が成り立つ。別に本丸とか西の丸とか関係ない。

>西軍が表立って秀頼を担げなかった… に関して
結局東軍が勝ったから、そういう見方になるんだろうな。1週間も戦況維持していれば
悠々と担いでくるんじゃないのかなって。

(架空)関ヶ原2日目…大阪城でのんびり→3日目…秀頼(毛利輝元)京都で能興行を
見る→4日目…雨なので出発順延→5日目…佐和山城に入る→6日目…関ヶ原到着

>三成や輝元と、家康などの権力闘争…云々について
だから豊臣の名代(←西軍)が関ヶ原に来たら、家康の立場マジでやばい

豊臣家の影響力?関ヶ原でどうこう出来る問題じゃないので、話が違う。また別の機会で
どーぞ。
32援護爆撃?:2005/08/26(金) 02:56:54
>>31 は>>27 さんへのお返事(^^)
33援護爆撃?:2005/08/26(金) 03:13:28
『織田秀信って実は東軍だった!?』……ってウソだけど(^^)まさか岐阜城が
たった1日で落ちるって誰も思わないよ。三成にとって大誤算ってヤツだね〜☆
34無名武将@お腹せっぷく:2005/08/26(金) 07:03:19
>>31
成り立ちません。
一週間も戦況維持していればというが、
実際には挙兵後2ヶ月以上たっているのに、
とうとう秀頼を担いで家康を逆臣とすることは出来なかった。
あと一週間やそこらでどうこうなるような情勢ではない。

>>22
西軍優勢ともなれば、ってそうなるような要素がないから問題なのだけど。
35無名武将@お腹せっぷく:2005/08/26(金) 07:06:26
というか、西軍決起の直後に、
即刻その内容を密告した長盛が完全な内通者以外の何者なのかと。
36ο丁児 ◆71izTCnSlI :2005/08/26(金) 12:59:01
>>35
はい、たしかに「完全な内通者」ですね。認めます。
では言い方を替えます。「完全な離反者」ではありません長盛は。
まだ西軍の勝ち目もあると彼は踏んでました。
「治部や大谷らに不穏な動きあり」と一報を送ったのは万が一東軍が勝った場合、罪一等減じられるかもしれないから
送った。といった程度のものでしょう。自分の精神を安定させるための行動ですよ。
だって、
@彼は連判状に署名してます。
A彼は伏見も攻めてます。
これでは内通しても家康は「こいつ日和見をきめこんでるな」と彼を味方として認めるわけないですね。
戦後の彼の処遇をみても、彼の一報は家康を喜ばせる情報ではなかったことが分かります。
37無名武将@お腹せっぷく:2005/08/26(金) 18:16:34
>>31
輝元は西の丸に居座ったままだったけど、当時は輝元が秀頼の命握ってるとか
秀頼を担いで操ってるという印象をもたれてない
輝元も秀頼とは一定の距離を置いて、積極的活用を避けてる

豊臣の名代が来たらというが、それが出来るなら、当初からそうしてる
豊臣の馬印でも使う
でも使用されなかった、しなかった事実があるでしょう?
ならば、何故使用できなかったのか、しなかったかの理由を考えるべきで
使用すればという、その理由を無視した結果を求めるのは、その背景を無視することにならないか?
その理由、背景を考慮し、その「何故名代などを使わなかったのか?」という問題をクリアして
初めて名代が来たらという仮定が成り立つかと思うが、どうですか?
38無名武将@お腹せっぷく:2005/08/26(金) 18:25:15
増田長盛については>>36に同意
天秤に掛けてるだけと思う

精神的に安定かは、確かめようが無いが、自分は長盛の政治的判断と思うけどね
ただ長盛からすれば、動揺しまくって泣き言や愚痴の書状を送ってきた三成と
表面上は、精神的動揺を一切見せなかった家康とどちらが安心出来るかと言うと・・・
39無名武将@お腹せっぷく:2005/08/26(金) 19:02:44
小間使い官僚と有力な大臣の差だな
40無名武将@お腹せっぷく:2005/08/26(金) 21:17:54
問題は家康への弾劾状にも署名しているような、
本来西軍の中心人物となるべきものでさえ東軍に内通していた。
あるいは少なくとも両天秤にかけていたという事実だろう。

しかも、この増田の内通はある程度西軍内部にも漏れていたようで、
三成の書状によれば一般兵ですらそう噂していたそうだ、
そんな状況で戦わなければならないとは西軍も不幸だとしか言いようがない。
41援護爆撃?:2005/08/27(土) 06:34:36
>>34 成り立ちませんって言われてもナー(´Д`)〜3
あと1週間とかなんとか、枝葉ばっかり詮索してるけど。毛利輝元(西軍代表)が秀頼と一緒で
関ヶ原に現れた時点で「家康逆臣」が成立する。なぜなら西軍の主張に「秀頼の命」という大義
名分がつくから(この際、秀頼本人の意思はあまり関係ない。ていうか大人の話だからよくわか
んないと思う)

>>37 じゃあ、なぜ使用できなかったのか?の問いに対して
関ヶ原の戦いがたったの1日でケリがつくと(誰も)思わなかったから。(少し話題を変えるが
1615年大阪の陣の役の際、徳川秀忠が大早稲で行軍したのを家康に咎められた経緯がある)
秀頼については「関ヶ原の戦いの頃合を見て、颯爽と登場するのがふさわしい」と考えたの
ではなかろうか。
>>31 に(架空で恐縮だが)秀頼の行軍パターンを載せておいた。
42援護爆撃?:2005/08/27(土) 06:38:42
>>40 ていうか日本全国、両てんびん状態だし。
43援護爆撃・・・補足?:2005/08/27(土) 07:22:47
>>41 (秀頼本人の意思はあまり関係ない…)に関して
まだ元服してないので、後見の正当性が成立するから。
44無名武将@お腹せっぷく:2005/08/27(土) 07:33:53
>>41
いやだから、大坂城に毛利がいるだけでは、豊臣家が西軍についたということにはならないのよ。
例えば、豊臣家の名での家康追討の命等ですらとうとう出されなかったでしょう?
挙兵してからの二ヶ月間にそういうものが出ていれば、
状況はかなり変わったはずだが、結局西軍はそれに失敗している。
まして秀頼本人の出馬なんて全く不可能。

それから、家中の意見が割れたり身内が東西に分かれるようなことはあったが、
弾劾状の発起人の一人というほど中心的に係わっていながら、
同じ当の本人が敵に内情を密告しているなんてのは増田長盛くらいだし、
ましてそれが一般兵にまで噂されていたとなるとかなりヤバイ状況だぞ。
45無名武将@お腹せっぷく:2005/08/27(土) 11:31:29
>>41
>毛利輝元(西軍代表)が秀頼と一緒で、関ヶ原に現れた時点で「家康逆臣」が成立する。
現れませんでした
大垣籠城、もしくはそれ以前から輝元へ出馬要請は行われてます
松尾山城は、大垣城の後詰の城と考えられ、三成は中国衆の入城を考えており
それは輝元だったという事です
>>37でも同じ事かいてます、輝元が出馬しなかった理由を、秀頼(正確に言うならば、豊臣家)が
一方に加担しなかった事実を先ず認識して、なぜ出馬しなかったのか、なぜ一方に加担しなかったのか?
という理由を考え、それをクリアすべきですよ

前提と過程を無視し為し得なかった結果を仮定することはナンセンスです
そんな御都合よい展開を一方的に押し付けるのは、論議のやり取りになりませんよ
それを是とするならば、東軍・家康に、もっと楽な展開を押し付けられますけど
そうすると双方とも会話にならず、荒れるだけでは?
46無名武将@お腹せっぷく:2005/08/27(土) 11:32:52
つづき

>関ヶ原の戦いがたったの1日でケリがつくと(誰も)思わなかったから。
関ヶ原合戦自体は1日でしたが、7月17日の弾劾状から始まり、9月1日には家康が江戸を出立
三成は、家康が出てこなければ輝元の出馬要請は必要ないと書状で述べて(ここで注目なのは
三成は、あくまで「輝元の出馬」であって、秀頼の、豊臣家としての出馬ではない事)、家康の出馬を
確認したのであろうが、輝元に出馬要請をしてる
しかし、その輝元が増田長盛の謀反の噂を理由に大坂出立を断ってる

これは輝元が噂を信じたかどうかもあり、またその噂を理由にしたとも取れるが
ここで確かなのは、出馬しなかったという事実であり、その背景

そして関が原合戦は1日で終わったのは確か、誰もが1日で決着付くとは思ってなかったのも確か
しかしながら、それ以前から大規模な軍事衝突がある事は、ある程度予期しており
その為の輝元への出馬要請であったのも疑いようがない
その時に、馬印の使用なり、秀頼の出馬を要請してない
これをどう考えるのですか?

秀頼を担いで利用した方が有利なのは、当時の人間でもわかっている
しかし担げなった、出馬させられなかった事実がある
ならば出来なかった理由、諸問題を解決してから、出馬した仮定の話をすべき
でないと、当時の状況、人間関係などを一切無視するようになるから
よくよくの熟慮を願う
47無名武将@お腹せっぷく:2005/08/28(日) 00:28:26
ややスレ違いだけど昔お正月特番の再放送で観た
加藤剛主演の関ヶ原は傑作ですた。
石田三成(加藤剛)
島左近(三船敏郎)
徳川家康(森繁久禰)
本多正信(三國連太郎)
など豪華キャスト。

捕らわれた三成に唾吐く丹波哲郎演じる福島正則の憎らしさは
今も鮮明に記憶に残る。
昨今のジャニ大河に辟易してる方は是非ビデオで観てくだされ。
48ο丁児 ◆71izTCnSlI :2005/08/28(日) 00:50:01
>>47
情報ありがと^^
ただこの過疎板の、この過疎スレに来る椰子は大体すでに観てると思いますがね。
49無名武将@お腹せっぷく:2005/08/28(日) 01:02:02
スレ違いの上にageてすまそ。
今検索したらおいらが生まれた年に放送だったよ(1980年)
これ観て司馬さんの原作も読んだけど3回くらい泣いたw

鳥居彦衛門カワイソスつД`)・゚・。・゚゚・*:.。
50ο丁児 ◆71izTCnSlI :2005/08/28(日) 01:54:03
漏れはむしろ、彦衛門が足をひきずり退出した後、「両手で顔を覆った」家康に(T_T )ブア
51援護爆撃?:2005/08/31(水) 10:08:46
>>45 輝元が出馬しなかった理由は
 「戦況を見て有利なほうにつく」
じゃないのか?まぁこれは輝元に限った話じゃないけど。

毛利とは関係なく、秀頼は西軍方にいる。それはすなわち
朝廷を後ろ盾とした軍組織を形成している(西軍)
一方、東軍には掲げる旗がない。三成の人間関係をうまく
利用したとも言えるけど、それも豊臣の名代が来たら瓦解
してしまうし、北では上杉が頑張っている。家康は短期決
戦での決着を迫られている。決して有利じゃない。

西軍は賤ヶ岳〜小牧長久手の際に作られた馬防柵をさらに
改修して、その陣地内で構えている。(一説には高さ5mの
壁だったとも)
だから基本的には迎撃オンリーで良かった。本戦が始まれば、
朝廷から宣旨をとって(関白が手元にいるので、ほぼ確実)関
が原へ駆けつければ良かった。

そうなれば毛利も西軍につくしかない。よく
「西軍は中立を決め込んで、三成や秀頼とは一定の距離を
置いていた」
と言われるが、それは東軍が勝った際の申し開きと見る。
現に輝元は大阪城に詰めているし、吉川などは現地に布陣
をしている。つまり、状況しだいで西軍に加わることを意
味している。

52無名武将@お腹せっぷく:2005/08/31(水) 17:38:51
>>51
>朝廷を後ろ盾とした軍組織を形成している(西軍)
朝廷は中立を保っています、どちらにも加担しておりません。

>豊臣の名代が来たら
タラレバ言えば、どんな状況でも変るでしょう。
繰り返します、来なかった事実を省みて、なぜ来なかったか考えましょう。

>西軍は賤ヶ岳〜小牧長久手の際に作られた馬防柵をさらに
>改修して、その陣地内で構えている。
馬防柵に関しては、大掛かりな跡は残念ながら発見されておりません。
現在の調査では大谷本陣周辺でしか発見されておりません。

>朝廷から宣旨をとって(関白が手元にいるので、ほぼ確実)関
>が原へ駆けつければ良かった。
関白とは誰ですか?秀頼は関白ではありませんよ?
未成年の関白は存在しませんから。タラレバでは問題外ですよ。
三成が輝元の出馬を要請した事実と、出馬しなかった事実があるのです。

>そうなれば毛利も西軍につくしかない。
タラレバで西軍の都合の良い展開になれば、有利な方に付くのは当然でしょう。
だから何度も言うように「都合の良い展開を一方的に押し付けるな」と書いてます。

有利な状況にならなければ、毛利は動かなかった。
有利な状況になる為には、輝元の出馬、毛利勢の戦闘参加は必須。
これで答えは出てると思いますが?
53無名武将@お腹せっぷく:2005/08/31(水) 19:30:03
>>51
だから、朝廷どころか秀頼も豊臣家も西軍についたりしていない。
一体何度言えば分かるの?
54無名武将@お腹せっぷく:2005/08/31(水) 20:49:34
今日のその時歴史が動いたを見ろ!
55無名武将@お腹せっぷく:2005/08/31(水) 22:04:22
>>54 ありきたりな内容で面白くなかったね。
ところで、
吉川って、豊臣氏とは元々そりが合わなかったでしょ。
毛利氏内部でも、豊臣寄りの安国寺とはことごとく対立していたし。
それらのことを考慮すれば、吉川が徳川と内通しているであろうことは
容易に想像がついたと思うんだがね。
なぜ南宮山という重要なポジションに吉川広家なんかを配置したんだろう?
せっかくのすばらしい陣形も、これではまったくその効力を発揮できないでは
ないか。
東軍を背後から突く位置にある南宮山にはやる気満々で一説に影の首謀者と
言われる宇喜多秀家を、逆に前線の天満山に毛利秀元を配置していれば、
西軍の勝率はぐーんとアップするように思えるんだがどうよ?
56無名武将@お腹せっぷく:2005/08/31(水) 22:11:04
面白かったけど
この調子で歴史的敗者をクローズアップする内容をシリーズ化してくれ
57無名武将@お腹せっぷく:2005/08/31(水) 22:17:27
松尾山に入る予定だった中国衆というのは、毛利で確定なのか?
宇喜多や斎村の可能性もあるのでは?
58無名武将@お腹せっぷく:2005/08/31(水) 22:24:57
>>57
毛利で確定でよろしいかと

書状が出された時点では、秀家は三成と同行してるし
斎村を入れるにしては規模が大きいし、場所的にかなり重要拠点なので

もしかしたら秀元の部隊(吉川や安国寺含む)を入れたかったのかもしれない
59無名武将@お腹せっぷく:2005/08/31(水) 22:32:48
>>55
吉川が豊臣とソリが合わないのではなくて
小早川独立後、毛利は吉川や福原などの合議制を導入し
豊臣政権の取次ぎ役に吉川広家が担当してたんだよ

その頃の豊臣家の毛利の担当は黒田父子で、如水が朝鮮出兵で失脚し
毛利の担当が安国寺と繋がりがあった三成に代わった
すると、豊臣政権から半独立的立場を許されてた吉川は
三成に担当が代わると、その権利を奪われ、毛利本家の権限強化を図ったんだよ

その結果、安国寺と吉川は対立し、黒田父子と三成は対立したという訳
ちなみに秀吉死後、三成は家康によって毛利担当を外され、黒田長政が復帰してます
関ヶ原における毛利家や周辺の構図が見えて、ちょと面白いかと
60無名武将@お腹せっぷく:2005/08/31(水) 23:01:18
>>55
総司令官の命令のもと秩序だって布陣したわけじゃあないからでしょう。
毛利家の先陣は吉川が承る、とか言われたら誰も止めさせられない、
いや立場上輝元なら何とかできたかも知れないが、
着てくれなかったし・・・。
61無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 00:10:19
輝元が関が原に来ていたら、どれだけ影響があったの?
62無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 00:21:06
>>61
南宮山の吉川広家が桃配山の徳川本陣に突入する。それにつられて長曾我部、長束、安国寺勢が
攻撃に参加する。
63無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 00:37:08
>>62
輝元は、どこに布陣するの?
64無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 00:42:18
>>63
いつの時点で到着するかによるんじゃない?
65無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 00:44:26
輝元が笹尾山に布陣すればよかったのか?
66無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 00:48:50
普通に考えたら笹尾山か?
三成も毛利本軍になら譲るだろうし
家康を討てという御教書を持った輝元が笹尾山に布陣して東軍諸将に
揺さぶりをかけたら福島正則あたりなら戦意をなくしそうだ
67無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 00:54:08
>>66
三成は、どこに布陣するのだ?
68無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 00:56:08
>>55
南宮山に毛利勢が登ったのって吉川広家が戦をしたくないから軍議もせずに自分勝手に
登ってったんじゃないの?
関が原の西軍は一部を除いたらみんな自分勝手に布陣したんじゃない?
それに戦意旺盛な宇喜多秀家が南宮山みたいな高い山に登りたがるの?
69無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 00:57:05
しかし西軍ファンとしては淀君が一番腹立つよ。
関ヶ原でも大阪の役でも秀頼を絶対前世に出そうとはしなかったし。
結局ジリ貧で滅亡させるし。

何万人も率いてる総大将が討ち死になんってよっぽどの奇襲受けないとないのに。
たいてい危なくなれば撤退の時間ぐらいは周囲が稼ぐだろうし。

関ヶ原の合戦でももう少し頭がよければ大阪城から毛利の大軍とともに大垣城まで出てきたのに。
目と鼻の先に秀頼がいれば東軍も浮き足立っただろうし。
70無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 01:00:15
>>67
笹尾山で前衛でもするか北側の麓に布陣すんじゃねーの?
71無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 01:01:05
>>67
三成は後方の上平寺あたりで良いのでは?
72無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 01:01:52
>>69
関が原の時点では淀殿は関係ないんじゃないの?
73無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 01:03:08
上の書き込みで朝廷担ぎ出しと書いてたけどなるほどと思うよ。
せっかく伏見城を陥落させて京都を勢力下においたんだから皇居のまわりでも包囲して
無理やりにでも徳川追討の命令を出させるべきだったのに。
そうすれば400年早く徳川勢の前に錦の御旗が翻ったのに。

朝廷は中立とか書いてる人いたけど関ヶ原の役の間は拉致してどこかに監禁して偽の追討令を
ださせてもよかったし。
西軍が勝てば豊臣氏の天下が続くんだからあとになってあれは偽でしたって朝廷が言い出すこともないだろうし。
領地なり金なり与えておけば追認するだろうし。
74無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 01:05:04
>>72
あるよ、大阪城に三成が毛利氏や秀頼の出陣を要請しても淀君が反対してできなかったんだよ。
後の大阪の役でも同じ失敗してるし。
信長の娘のくせに淀君は戦が全然わかってないし。
絶対的な総大将が現場にいるかういないかで大きく情勢はかわるのに。
75無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 01:06:45
>>71
輝元が出てくるなら、大垣城篭城案に固執した小西行長には大垣城に残ってもらって
大垣の守備に残す予定だった諸侯を連れて小西行長の布陣予定だった島津隊の
南に布陣すればいいんじゃない?
76無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 01:08:56
>>72
淀殿が反対したというよりそのブレーンが反対したんじゃない?
77無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 01:12:51
>>76
同じ事だね、臆病すぎる。
特にブレーンなんか秀吉存命中の直接の部下なのに。
総大将が出ないで勝てるとでも思ってたのかな?甘すぎる。
78無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 01:13:07
>>73
この当時は錦の御旗なんかより、秀頼の御教書のほうが効果があったから
じゃない?
79無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 01:15:04
ところで織田信孝が当主になったらどうなってたと思う?
80無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 01:15:21
>>74
淀殿が信長の血筋ってのは関係ないだろうな。信雄や、秀信、有楽斎
を見ればわかるだろw

81無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 01:17:07
>>77
淀殿と秀吉のブレーンが同じ????
どういう事???
で、秀頼が総大将???
名目はともかく輝元が総大将
82無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 01:17:51
この作戦無理かな?

関ヶ原で決着つけずに西軍は大坂まで引き返すんだよ。
で、大坂城に入城して秀頼&毛利本隊を強引に戦に巻き込む。
物資が大量に備蓄してる大坂城に対して東軍は補強線が大幅に長くなって兵糧がもたなくなる。
しかも東軍の半数は豊臣恩顧の大名だし。
ちょくせつ大坂城を攻めるわけにはいかないでしょ?中に秀頼がいるのに。

西軍内でも小早川や吉川も近くに秀頼や毛利輝元がいたら裏切るわけにはいかないし。
西軍&大坂城内の全戦力が一つにまとまるよ。

西軍必勝体形じゃないかな?
83無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 01:19:04
>>78
でも秀吉が関白の地位を利用して全国を治めたみたいに朝廷を反することはできない雰囲気はあったと思うよ。
84無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 01:19:07
>>79
正式に織田家の後継者として版図を相続するって事?
85無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 01:23:44
>>84
秀吉暗殺やら何やらでね
86無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 01:24:10
>>83
この頃は追討令なんかより現実の武力のほうが効果あるだろうね。
だいたい皇室が高貴なものなんて価値観が生まれたのは江戸時代の
水戸史観でしょ。
そもそも錦旗なんて岩倉具視の偽造だし。
87無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 01:26:20
>>86
じゃ、どうして関白や将軍の任命権合ったの?朝廷
周囲が名目上でも日本の国王的な立場と認めてなきゃ敬わないだろ?
88無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 01:30:45
しかし、関ヶ原の戦い見てるともったいないね。
西軍が勝つチャンスがかなりあったのに。
大垣城篭城案、大坂まで引き返す案。

三成も東軍と上杉軍が交戦状態に入ってから挙兵したらよかったのに。
そうすれば簡単には西上してこれなかっただろうに。
当然、上杉家にはできるだけ防御戦に徹して時間を稼いでくれってことで事前に話を通しておく。
89無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 01:31:27
>>87
どちらが効力があるかって話なんだけど?
じゃ仮に朝廷が家康追討の勅令出すのと秀頼が家康追討の御教書出すのなら
どっちが効果ある?
90無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 01:33:28
>>89
どっちが効力あるとかいう話じゃないでしょ?
話の発端は。
朝廷を利用して徳川家を朝敵にするっていう作戦なんだから。
で、当然秀頼も担ぎ出すように動く。
二面三面の策だよ。
91無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 01:34:18
>>88
それには同意。せめて島津や宇喜多秀家の夜襲案を採用して一当てして
ればなあ。
92無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 01:34:25
西軍をなんとか勝たせるための仮想戦記を無理やりつくるのはもういい加減やめよう
過去スレでさんざんやってきたことじゃないか
93無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 01:35:52
>>92
そういう仮想的な話が面白いんじゃないの?
歴史的な事実を話すだけじゃすぐ話終わるじゃないの?
94無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 01:37:34
>>90
じゃああんたと俺では論点が違うんで語る事はなにもないよ。
95無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 01:39:30
>>90
秀頼を担ぎ出すって話はどこからでてきたんだ?
総大将は毛利輝元だろ?
それに家康の上杉征伐は勅命だよ?
96無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 01:40:33
>>92
もう過去スレはDAT落ちして読めなくなってるよ。
同じような話がループしても書く人が違えばまた別の展開や新しい発見や解釈が生まれるんじゃないかな?
過去でやったからもうやるなっていうのはおかしいぞ。
97無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 01:42:38
>>94
論点じゃなくてあんたが勝手に勘違いして暴走しただけでは?
現に過去ログにはどちらが効力あるとかいう話の起点じゃないし。
98無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 01:44:08
>>97
じゃあそれでいいよ。俺さっきこのスレ見つけて書き込んだばっかで
過去ログ見てないからよくわからんわ。
99無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 01:45:06
>>95
勅命は後から出した方が有効だよ。
先に出した上杉家討伐の勅命は取り消し。
改めて徳川家追討で出しなおさせればいいし。
100無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 01:48:15
家康に味方した諸侯が勅命程度でぐらつくとは思えないけど?
東軍諸侯は家康が武力統一すると見越して味方してると思う。
最終的に家康が天下をとれば>>99のいうとおり後出しの勅命
で朝敵なんて汚名はどうにでもなるし。
101無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 01:51:20
そもそも関が原の戦いって秀頼を巻き込む案ってあったの?
102無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 01:56:42
>>100
やれることは全部やっておくのが戦の常道。
どれが功をそうするかわからないし。
103無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 02:01:23
>>100
人間は一人じゃないからね。
各人弱みや考えはそれぞれ。
朝廷を重く見る武将なら勅命で朝敵になるのを恐れるし。
石田なら倒してもいいけど秀頼には弓をむけたくないっていう考えの武将もいる。

色々別の手で切り崩しておく必要はあるよ。
104ο丁児 ◆71izTCnSlI :2005/09/01(木) 02:01:36
すごいな、こんなにレスがのびてる
105無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 03:43:08
>>104
ヒント:今日のNHKの番組
106無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 07:13:48
徳川追討令があっても、家康が勝てば追討令は取消だから
東軍諸侯に着せられた朝敵の汚名は無効になるわけでしょう?
107無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 07:48:20
まず第一に朝廷は自主的にどちらかには加担しない、勝った方を承認するだけ。
戦国時代はづっとそうやって命脈を保ってきたのだから当然。
よって朝廷から家康追討の詔だの何だのを引き出すには、
それを強要するか偽造する以外にはない、
しかし内応者がぞろぞろいる西軍でそんな事をすればことは即座に露見する、
逆に朝廷を蔑ろにする朝敵となってしまう。
そうなれば元々烏合の衆の西軍なぞ戦わずして瓦解してしまう。
108無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 07:53:41
>>82
西軍の面々がみんな本国がら空きにしても、
大坂城に篭って戦うほど根性が座っているなら可能だろうけどね。
残念ながらそうではない。

というか、大坂城の物資は使わせてもらえないよ。
史実でも断られた、無理強いすれば無論主家に仇なす逆臣ということになってしまう。
109無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 08:07:10
>>87
「雰囲気」で秀吉は日本を統一したのか?
じゃあそれ以前の藤原氏の関白はなんで日本を統一しなかったんだ?
違うだろ、武力あっての関白の地位だろ。目的と手段をはき違えてる奴がいるな。
110無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 09:11:17
>>109
頭悪い子だね、きみはw
111無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 09:44:33
>>110
本当におまえの馬鹿さ加減にはもううんざりだよ。
112無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 11:56:27
>>111
いや、お前の馬鹿さ加減に笑えるw
113瓶長短吐露に義理:2005/09/01(木) 13:28:23
110が寒いレスを先に書き込んだということは
114無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 18:23:36
>>82
全く話にならない。
そんな恐ろしく消極的なことをしては、
戦意が旺盛だった者は、そのあまりにも弱腰な態度に嫌気が差すだろうし、
もともと戦意が低かった者は戦う気を全くなくしてしまってもおかしくない。
そんな作戦を実行しようとすれば、それだけで西軍そのものが崩壊してしまう。
115無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 18:44:02
朝廷から勅貰うとか、輝元が出馬してたら関ヶ原のどこに布陣してたとか
西軍を勝たせようと必死なのがいるが、何がしたいの?
西軍勝利という結論にしたいだけのための理由付けしてるようにしか見えないが

朝廷からの勅なんて、貰えるものなら貰ってる
伏見攻城の時に貰える訳もなし、それ以降は西軍はどんどん不利になる一方で、なおさら
脅迫するなんて馬鹿な事書いてるのがあったけど、大名の妻子人質の件はどうだったのか?
人質をとるのも、誰を取るのか?浅はか杉

輝元が出馬するなんてのは、何度も言うが、西軍が有利な展開にならないとあり得ない
輝元が関ヶ原のどこに布陣するのかなんて、松尾山城を予定してたのは三成
輝元の軍勢を率いてたのは名代の秀元
そして肝心なのは、輝元が出馬してたら関ヶ原での決戦の可能性が低くなり、あのような布陣に
なり得なかったという事だ

決戦せずに大坂籠城選ぶと、畿内を押さえてた意味がなくなり
北陸からは前田が南下し、秀忠もやって来て、大坂内では、豊臣家からの援助が受けられず
傍から見れば、西軍が圧倒的不利に見られ、城内外から造反者が出てきて
戦わずに崩壊
116無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 18:57:35
腹が減ったら戦線を後退させなければならない。
117無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 19:03:12
兵站の問題がないんだよね
何故東海道を押さえたのか良く考えような

大坂籠城してる間に、佐和山落とされ、朝廷工作され、宇喜多・毛利本国侵食され、
よく籠城できますね?豊臣家もさぞ迷惑がるでしょう
118無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 19:27:34
西軍が腹が減って戦線を後退させなければならない、と言う意味。
大垣に籠もっていられるのはあの時期までが限界だろう。
関ヶ原で決戦しなければ、西軍が自壊する。
119無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 20:28:51
三成も兵糧が足りないとか愚痴っていたらしいから、
どう考えても潤沢な物資に恵まれていたということはありえんわな。
具体的にどのくらいまで持ちそうだったかはともかくとしても。
120(援護爆撃?の親戚)『後向きの歴史観』が横行してるのを嘆く会ヶ長:2005/09/01(木) 21:04:06
昨日の放送は表面だけサラッと流しただけ。つまらんかった…

たとえば
「竹中の城に陣所を築いて、ある程度の長期戦に備えていた(家康)」
「大垣城水攻めの秘策(家康)」とか
もっと深いソースを期待していたのに、残念。
121無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 22:28:49
長期化すれば黒田の親父が怖いからなあ
122無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 23:02:39
>>115
大坂城に篭城する案は関が原後にあったね。関ヶ原戦に参加しなかった無傷の西軍諸侯が
秀頼を擁して篭城すれば、東軍の豊臣家恩顧の諸侯は攻城戦に参加は出来ないだろうから
篭城が長期化すれば面白い展開になっただろうなあ。
123無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 23:58:49
>>122
籠城しなかったのは、しなかっただけの理由があるのです
そら傍から見れば面白い展開とか言えるが、当事者達、特に敗れた西軍諸大名には
その選択肢は残されてないんですよ

それに攻城戦にはならないから
関ヶ原前でさえ諸将が疑心暗鬼になっていて崩壊寸前だと三成が書き残してるのに
敗れた後に豊臣家の城に籠城可能だったと考える方がどうかしてると思うが
124無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 23:59:00
ケンミジンコ
125豊系 落武者:2005/09/02(金) 00:45:51
もと三法死の秀信に並の技量があれば…
難攻不落といわれた岐阜を1日て…どんだけヘタレなんだよ。
おかげで長期的な戦いを展開できずに滅んだじゃないか
126無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 00:52:02
>>125
岐阜城難攻不落説は嘘。鎌倉以来何度落城したか知らんのかお前はwww
127無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 01:00:23
確かに難攻不落じゃないわな。

水源が離れてて、大軍が籠城するには適さないらしいけどね。
128無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 03:38:44
それにあの数でおされちゃ落城も必至だろ
129無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 14:17:09
小早川が裏切る前なら、西軍有利の条件で和睦できたかもしれないね
130無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 15:07:41
とりあえず、石田三成の身柄を福島正則に引き渡せば、東軍は自然消滅
131無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 15:15:58
ならそもそも七将に土下座して謝れば良かった
朝鮮から帰ってくるのを迎えたときにでも
132無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 15:50:19
岐阜城は斉藤氏の本城として大規模普請したんじゃ…
133ο丁児 ◆71izTCnSlI :2005/09/02(金) 17:19:47
>>132
だね。道三が工夫を凝らして縄張りした稲葉山城を、さらに信長が岐阜城としてさらに極めたから
城の防禦は相当なもんなんじゃあないかな?
でも、>>127がいうように大軍で押されたら、いかな難攻不落でもねえ・・・
もうこの時期になると篭城戦は地形よりも「火力」の多寡で決するんじゃあないかな。当時の岐阜がどれほど鉄砲を保有していたか知らんが・・・

まあ、最初に寄せ手の出鼻をくじくために出戦したのがまずかったね。
あれで城方の士気は大いに下がり、なし崩し的に陥落してしまった。結果論だがねぇ。

>>131
それでは弱いかと・・せめて三成が腹ぐらい切らないとねえ・・・
でも、わたしは清正にしろ、正則にしろ結局、家康に追随すると思うな。やつらはそういう男だよ。
強いものに従い、自家の安泰を図る。
三成がこの世にいようが、いまいが家康があの勢威を維持できる限りやつらは付いてゆくと思うよ。

134無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 17:45:55
>>133
いや、むしろ正則は無意味に家康にたてついて、自分で自分の首を
絞めると思う。
135無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 18:01:50
その岐阜城が城も狭く、水源が遠く、長期籠城出来る城じゃないんだがね

>>129
小早川裏切る前とは、伏見城攻略直後か?
136無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 18:46:22
岐阜城は難攻不落の城じゃないですね。
一度、行ってみたんだが、確かに峻険な山城なんだけど、長期戦などできない。
水源がないから。井戸もないし、あるのは雨水を溜めるだけの水溜りだけ。
郭も平坦部が狭いから、兵を大勢置けないし、あれで長期の篭城は無理っしょ。

安土城も大手門から一本道の登城路のことを考えると、信長は居城自体の堅さを
重視してなかったのじゃあるまいか。
137無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 19:02:41
美濃方面への兵力の集中が遅れたってのも問題だわな、
岐阜城救援に間に合わないどころか逆に前線から撤退しなければならないとは。
まあ、総司令官的な立場でその実力もある者が存在しないから無理もないのだけど。
138無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 19:08:38
まあ、仮に岐阜城がもっと持ちこたえたとしても、
それほど西軍に有利になったかね?
例えば一週間堪えたとしたら情勢はどう変わっただろうか?
もちろん、全く変わらないとは言わないが。
139 ◆1Ixlm5F0XU :2005/09/02(金) 19:13:27
がいしゅつかも知れないけど立花宗茂が間に合っていたらなあ・・・
そもそも大津城なんて攻めていなければ
140無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 19:31:43
>>138
岐阜城で関ヶ原と
141無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 20:38:35
>>138
岐阜城が持ち堪えれば、畿内平均をして後顧の憂い無く主力を決戦に注ぎ込めたのでは?
田辺、大津派遣軍は当然のこと、下手をすれば毛利、増田、七手組のどれかは前線に出て來たかも。
後岐阜を維持する戦略上の意味は、東海道と東山道の合流点を抑える事にもあったと思う。ただ信州の戦争職人の活躍で、徳川主力は決戦に間に合わなかったから結果は変わらなかった。
西軍は岐阜失陥という失敗はしたものの、北陸、上田、伏見と緒戦は良くやったと評価すべきじゃないかな。
142無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 20:45:53
秀吉が、徳川を東海から関東に移す為に100万石強も加増したよね。
昔は秀吉も馬鹿な事したなぁって思ったけど、今は一概には失敗と言えないと思ってる。
それは関東に入ってからの徳川軍に、それ以前程の強さを感じないから。やっぱり地生えの大名は強さが違う。
あと西軍が勝ったら大名配置はどうなったかな?要地関東は宇喜田辺りか?
143無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 21:07:06
佐竹義宣や結城朝勝はスルー?
徳川だって壊滅は不可能だろうに
144無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 21:20:01
佐竹は常陸に加え下総辺りか?約90万石。
結城は秀康か…
徳川が圧倒的に関ヶ原で破れて、家康戦死→江戸包囲。
の展開になったら、秀康を残して高野山行きだろうか?下野18万石。
三成は近江、大谷は越前、毛利は中国、島津は肥後を加え、上杉は当然越後。小早川は豊臣に改姓の後播磨か?小西は筑前。
大国武蔵を預かるとしたら、宇喜多位しかいないような。佐竹が常陸+武蔵だと大体130万石。大きすぎないか?
145無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 21:32:34
宇喜多には東海道があるからな。
北関東は佐竹結城那須、南関東は豊臣(木下)一門や糟屋などの直参で分配とかね。
146無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 21:37:50
おっと、京極や生駒、真田もいる。
長曽我部への加増で弾き出される蜂須賀もいるな
147無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 21:49:55
東海道か…確かにあるかも。
でも東海道には中堅を並べるんじゃないかな?あんまりデカイと畿内政権に直撃しますし。
立花は本来なら筑前だけど、筑前は九州探題を兼ねるから流石に譜代だと思うんだよね。だから小西かな?立花は九州以外か、豊後。大友は負けすぎたから3万石位かな。
あと真田は長男の件から、結局信州一国に。
東海の尾張〜駿河っていう垂涎の地は、う〜ん確かに宇喜多がしっくり来るけど。
西から増田、小野木、長束、長束。長束は8→40は加増されすぎかな?
148無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 21:56:10
生駒!二股かけたからな〜蜂須賀もか。
確かに阿波は間違いなく、長曽我部の領地になるし、讃岐は直轄or木下一族になりそう。
恐らく150万石以上になる毛利の抑えとして、山陽道は播磨に秀秋が来るからいいとして、山陰が不安。
ってことで、譜代中の譜代の両家は但馬、因幡辺りか?微妙に減封だし。
149九條殿 ◆1Ixlm5F0XU :2005/09/02(金) 22:10:47
西軍が勝ったら約通り秀秋を関白に据えるかな?
そしたら上の兄達も豊臣だよね。

>>142
八郎は広大な関東の地+八丈島でw
150143・145onぷらっと ◆QqQquqqauQ :2005/09/02(金) 22:39:26
妄想につき合ってくれてうれしいねおい。
島津・立花らの加増で弾かれる小西はどうしましょ。
151無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 23:02:46
島津=薩摩、大隅、日向、肥後…約90万石
琉球は重商主義の豊臣政権では直轄or亀田琉球守
立花=豊後の大半…約30万石
筑前=小西…約50万石
小早川秀包=豊前?…約25万石(検地しなおし)毛利間接統治
鍋島=肥前の大半…約30万石
筑後は誰かな?鍋島は巧くやったら筑後貰えるか?
152無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 23:11:06
チラシの裏でやってろ
153無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 23:30:15
>>152
ドラマスレあるしな。

あれだな、西軍厨は史実知らないから妄想にはしるんだよな。
関ヶ原スレは、いつも西軍厨が妄想でつまらなくするんだよなー
筋が通る妄想なら読んでも楽しいけどな。
154奇矯屋onぷらっと ◆QqQquqqauQ :2005/09/02(金) 23:31:46
>>151
亀井!亀井!

三戦で妄想を語ってはいかんのか。史実のみなら史板のほうが相応しいだろうに。
155無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 23:34:28
>>154
妄想語るならチラシの裏
仮定の話したきゃ筋の通る仮定をやれ
156無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 23:37:18
ほらな?西軍厨は逆ギレはじめるだろ。
だから痛いんだよ。
157奇矯屋onぷらっと ◆QqQquqqauQ :2005/09/02(金) 23:47:32
別に西軍どうこうじゃないけどなあ。
東軍が勝ったら歴史どおり。西軍が勝っても徳川は滅びない。
筋通ってない?
158無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 23:51:51
東軍の勝ち方でも随分変わる
西軍は勝ち方次第で想像もつかん

どういう配置になったかとか、西軍厨の自己満足だけ見せつけるな
オナニーなんて、どこの板でも嫌がられるんだよ、チラシの裏でやってろ
わかったか電波コテ
159奇矯屋onぷらっと ◆QqQquqqauQ :2005/09/02(金) 23:55:40
じゃあ仮定ならどこまで続けてもいいわけだな。
160無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 23:56:15
中途半端な知識でやる妄想ほど痛いのはないからな。やってる本人は自覚症状ないのが更に痛い。
161無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 23:56:47
仮定の話したきゃ筋の通る仮定をやれ
一歩間違えれば妄想だ
162奇矯屋onぷらっと ◆QqQquqqauQ :2005/09/02(金) 23:58:35
32秒か。早いな。

小早川が寝返らない、あるいは大谷に返り討ちにされるくらいから始めればいいのか。
163無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 00:01:55
>>141
あのね、田辺城や大津城が落ちたのは岐阜城陥落後二週間以上後なのよ。
一週間やそこら岐阜城が持ちこたえたって、後顧の憂いはなくならんよ。
164無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 00:03:41
自演認定しはじめてる。w
165無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 00:04:12
小早川が寝返らないとは?

大谷に返り討ち←有り得ない
押し戻したのを返り討ちできるとするなら、宇喜多勢が福島勢に押し返されたのを
福島勢が返り討ちにしたと出来る訳か

西軍の都合のいいように考えるから、史実が見えずになるんだよ
166奇矯屋onぷらっと ◆QqQquqqauQ :2005/09/03(土) 00:06:51
どこか譲れよ。じゃなきゃIFは始められない。
167無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 00:09:23
勘違いしてないか?>>166
筋が通る仮定じゃなきゃ妄想なんだよ

譲れよって何だ?西軍を勝たせる為に、東軍に不利になるよう
当時の情勢や人間関係、利害関係を全て無視して、僕の都合のいい妄想に同意してくださいって事か?
168無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 00:12:25
関ヶ原当日に状況ひっくり返そうというのが間違いだな。
169奇矯屋onぷらっと ◆QqQquqqauQ :2005/09/03(土) 00:12:37
筋を通すもなにも、どこかで史実か時間軸を捻じ曲げなきゃ
IFが始まらないと言ってるんだが。
170無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 00:17:58
>>169
おまいのは捻じ曲げるのではなく、有り得ない事を有り得るとしてるだけ
無理に無を有にしてるだけ

仮定とは、有り得る状況からの可能性から話を広げるもんだ
171無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 00:20:03
まずはどうすれば小早川が東軍につかないかを考えるべきだわな。
172無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 00:20:19
どうして無理にIFすんの?
173無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 00:20:28
小早川も迷ってたみたいだし
関白保障につられて寝返らなかったぐらいはアリなんじゃない?
まぁそれでも東軍が勝ちそうだが
174奇矯屋onぷらっと ◆QqQquqqauQ :2005/09/03(土) 00:20:55
あり得る状況か。戦場以外・以前から持ってこにゃいかんね。
ちと練る時間をもらうとするわ。

>>172
夢見がちな年頃ですから。
175無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 00:22:52
>>173
むしろ、その条件でも実際には東軍についてしまったというのが重要。
いかに小早川を西軍につなぎとめることが難しかったかよく分かる。
176無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 00:23:15
>>171
そうそう、そこから考えるべきなんだよね
伏見城攻めの直後から、家康に謝罪の使者寄こしてる秀秋を西軍に留める為にはどうするか?
かなり難しいけどすぐに裏切らなかったら?と過程を無視されても萎えるだけだよね
177無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 00:27:33
西軍を有利な状況に持っていければ、伏見城後でも秀秋を西軍に留め置けると思う
その為には、美濃の攻防で西軍が勝利または優位に立たなければならない

とすると、伊勢や近江、丹後に向けた軍勢を美濃へ廻す必要に迫られるが
すると西軍は長期戦の選択肢がとり辛くなる
どうすっぺ
178無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 00:31:58
つ毒殺
179無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 00:39:04
秀秋の関白推任は、否定説もあるしな
・三成に権限がない
・豊臣家が許すはずもない
・釣りエサとして大きすぎて、逆に信頼性がない
・豊臣政権の根本的に揺るがす人事になりかねない
・他の西軍大名(特に秀家)が許すと思えない
180無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 00:41:46
>>178
数少ない豊臣連枝なのにw
181無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 00:52:18
>>179
輝元だって許すはずないだろうしね、
いくら今や独立した大名で秀吉の縁者が当主でも、
もと自分の分家が一足飛びに関白とは・・・
まあ、その場合は豊臣姓を名乗ることになるのだろうが、
あまりいい気がしないと思う。
西軍の総大将は誰だと思ってるんだ、って感じかと。
182無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 01:00:05
178に賛成。
不安定要因はいっそ排除するのが一番だ。伏見城攻め後ぐらいかな。

183無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 01:10:20
秀秋毒殺し、今度は誰が味方に殺されるかと疑心暗鬼になって(ry
184無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 01:10:48
よっぽど明白な裏切りの証拠でもあれば別だが、
そうでないなら、そんな無茶しちゃあ西軍の士気崩壊してしまうぞ。
185無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 03:42:38
誰も話題にしないみたいだから書くけど関ヶ原時の徳川家の支配する関東は何万ぐらい
兵力残してたんだろ?
徳川家だけで合計8万人近く動員してるからほとんど関東は守備兵残してないんじゃないの?
まあ、家康も乾坤一滴の勝負だから持ってる兵力全部一度に投入するっていうのは賢いけどね。
西軍みたいにあちこちに兵力散らす愚は避けられたし。

で、がら空きの関東を上杉の別働隊が襲うっていうシナリオはないかな?
伊達家がいるからうかつには動けなかったとはいえ、上杉家も防御戦に徹すれば半分もあれば
持ちこたえられるだろうし。
最大動員兵力3万ぐらいとしても半分ぐらいの1万5000ぐらいで江戸襲撃とかできなかったのかな?
関ヶ原前夜ぐらいに江戸襲撃で火の海っていう情報入れば東軍は完全に浮き足立つと思うんだけどね。
186無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 05:26:49
高台院に西軍支持してもらえたら、秀秋を説得してくれるんじゃないか?
挙兵後でも高台院に大坂に移って貰うか、秀頼に高台院の元に行って貰うか、三成か宇喜多が淀に変わって高台院に秀頼養育を頼みつつ説得。
巧く行けば両加藤、福島辺りの戦意も鈍くなる。
187無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 05:33:17
>>185
宇都宮に結城秀康を中心に二万弱。江戸には忠輝を名代として一万。広大な関東を守備するには少なすぎる兵力だった。
石田と上杉に密約があっての、東西呼応なら佐竹と共同しての追撃は当然無くてはならないが、実際は領土防衛の為に最上攻め。
石田と上杉の間に密約は無かったのかも。
188無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 09:57:45
>>185
まず、戦争っていうのは遠征軍の方が不利なんだよ。
地理に不案内。物資の輸送路も伸びる。
しかも>>187の言うように、兵力的に圧倒的に有利というわけでもない。
関東勢が殻に籠もるかのように守備を固められたら、簡単には打ち破れない。

こういう電撃作戦っていうのは成功すれば戦果は大きいけど、
失敗すれば一気に敗勢が濃くなっていく。
江戸を落とせず兵を損耗させただけですごすごと引き揚げてくれば、
味方の士気は消沈。背後の最上・伊達は勢いづくってもんだ。
それでも電撃作戦を取るか、史実のようにまずは後顧の憂いを立つか。

当時の人はほとんど誰も、関ヶ原が一日で終わるとは思っていなかったろう。
そう考えれば、上杉の採った作戦は妥当だよ。
「上杉が江戸に攻め込んでいれば」っていうのは、
合戦がわずか一日で終わったという結果を知っている我々だからこそできる想像だ。
189無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 13:19:04
187氏のいうように石田―上杉密約は、上杉の動きを見る限り無かった臭い。
直江状だって贋物説もあるしねぇ。佐竹も中途半端に過ぎて家康の動きに
何ら掣肘も加えられてないし上杉の援護にも成り切れてないし、大まかな
感じでの対徳川の意思疎通はあったとは思われるけど、戦略面での具体的な
連携のイメージは無かったのかも。
ただ>>188氏が言うように長期化した場合には伊達・上杉・佐竹の動きは
もう少し違ったものになった可能性はあるだろうけどね。あ、九州もそうかな。
190無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 15:14:28
密約があろうがなかろうが、
背後の最上・伊達を無視して関東侵攻なんて全くナンセンスだよ。
最上伊達への押さえの兵を割いた上で関東にも兵を進めるなんて、
兵力の分散以外の何物でもないし、如何に関東が手薄だったとしても、
その程度でどうこう出来るような無人の野というわけでもない。
最低でも最上を制し、伊達も屈服させるかせめて和議を結んで、
後方の安定を確保しなければお話にならない。
191援護爆撃?:2005/09/03(土) 16:35:02
ども(*^^*)久々どす

>>190 上杉・伊達の密外交の節があるんだが、どーでしょう?
192無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 16:37:26
>>191
そんなの全く当てにできないよ。
秘密外交なんて反故にされても何の文句も言えないし。
193援護爆撃?:2005/09/03(土) 17:07:12
>>191 そりゃそーだ

いや、僕が言いたいのは伊達が中立の立場になったら、上杉の
関東侵攻の話も可能性でてくるでしょ?てこと。政宗は親家康
のイメージ強いから、やっぱ不安だと思うんだ。「もし西軍が
勝ったら…?」みたいな考えは当然あったと思う。だから南部
領にもちょっかい出してるわけで。当然、上杉にだって伊達と
和議結ぶのはメリットあるし。

(オフレコ)史実では「伊達軍、がら空きの白石城侵攻」って
なってるけど、実は上杉の留守部隊にもなり得た?とか。もう
小説の範疇だな(^^;)こりゃ
194無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 19:47:59
伊達は東軍にとっても信頼しきることが出来る相手じゃあなかったが、
西軍にとってはそれはなおさらのこと。
まあ、上杉が一気に最上領を抜き圧倒的な強勢を示すなら、
或いは上杉につく可能性もゼロではあるまいが、
長谷堂城で手こずっているようじゃあお話にならない。
195無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 23:46:22
長谷堂を含めて最上が維持出来ていた城は3つ。山形からの援軍を撃破したりと直江遠征軍は一応の成功を修めていた。
ただ西軍主力があまりにも早く撃破されたので、じっくり攻める事が出来なかった。
ただ庄内侵入の喉首にあたる要地とは言え、前田の小松のように抑えを残して、主城山形に向かう選択肢は無かったのか?
直江は領地縮小の際や、撤退の際に見せた手腕から政戦両面に優れた名家老の名に恥じない人物だ。
しかし少し型にこだわり過ぎる欠点があったのかもしれない。
196無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 00:05:47
適当にレスしてスマソが、じっくり攻めようとしたからこそ抑えを残したんではないの
後方に敵の拠点を残すと不安はあるだろうし
197無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 00:08:45
ギャグじゃなく政宗は純粋に領土を広げたかっただけなんだろうな。勿論皆そうなんだろうが、他の大名はそれ以外にも大小様々だろうし、捧げる対象も様々だが忠誠心と言うのを多少は備えてた。
政宗にそういう物が気持いい程に無い。
同様の存在に黒田如水がいるが、自分が豊前を中心に巻き起こす事態の全国への影響、又全国からの影響というものを考慮に入れている。
政宗は「どっちでもい〜よ。とにかく領土!取っちまえば、後はどうとでも言い訳してやるぜ!」
という自分の欲望により純粋な爽快さがある。
政宗はかなりめちゃめちゃな奴だが、有能だし、有能な癖に運が滅茶苦茶なかったり、潔悪すぎたりと、戦国晩期のスーパースター。
198195:2005/09/04(日) 00:16:32
>>196
分かり難くて申し訳ない。
じっくり攻め落とさないで、抑えを置いて山形へ行くという選択肢の事を書いたんです。
勿論後方に拠点があるのは不安であるのは確か。
199無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 00:29:31
>>189
上杉は会津に飛ばされたことを相当根に持ってたからね。
秀吉存命中は押さえつけられてたけど、秀吉が死んで重石が
取れていっきにその不満が噴出した。
反徳川というより、反中央政権なんだよ。徳川が政権の音頭を取るように
なったから、たまたま反徳川となっただけ。
上杉にとって徳川など実はどうでも良かった。

200無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 00:42:54
真田に足止めされてる秀忠の本軍も、
関東でのいくさならすぐに駆けつけられるんじゃないか?
201無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 03:31:52
>>200
真田が江戸襲撃を知ってあわてる秀忠軍を背後から奇襲と。
そんな好機を見逃すような真田家ではないw
202無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 03:36:41
思うんだけど、なんで三成は上杉討伐軍が上杉家と戦闘状態に入ってから挙兵しなかったんだろ?
上杉家に密書を送り込んで文面に「できるだけ防御戦に徹して時間を稼いでください、そちらが戦闘状態になれば即、上方で兵を挙げます」と。
上杉領まで進軍した上杉討伐軍は移動距離ものすごいよ。
仮に引き返してきても疲労困憊でかなり弱ってると思う。
西軍もじっくりと東上できるし。

なんで挙兵するタイミングをもっとずらさなかったんだろう?
203無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 05:28:59
>>201
真田のような弱小勢力では、攻勢は不可能。
204無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 06:29:57
挙兵のタイミングをずらしたらずらしたらで会津征伐に参加する大名が増えてしまう希ガス
205無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 06:47:03
>>204
そのかわり西軍の方も加勢が増えてくるし。
より大規模な激突になってすごい戦になりそう。
206無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 06:49:54
西軍って大坂を出発する前に秀頼名義で豊臣恩顧の武将あてに徳川家に加勢せずに不戦を貫くようにという命令書を作って各豊臣系東軍武将に送ることはできなかったのかな?
そうすれば東軍に参加した兵力は激減したのに。
207無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 07:19:58
秀頼名義で会津攻めの命令が出ているから。
208無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 07:51:27
>>201
真田は、自軍に有利な地形での防衛戦だからあそこまで勝てたのであって、
のこのこ出て行こうものなら大軍に飲み込まれて壊滅させられるぞ。
真幸はそこまでバカじゃない。

>>202
今みたいに情報伝達が瞬時に行われる時代じゃないのよ。
会津で合戦開始の報せが上方に届くまで、1週間以上かかるだろう。
「そちらが戦闘状態になれば即、上方で兵を挙げます」なんてのは不可能な話。
しかも、西軍に参加した大名のほとんどは、そもそも会津征伐に向かう目的で
東へ向かっていたところを三成に足止めされたのだから、
佐和山での決起が遅れれば遅れるほど、東軍に参加する兵力が膨れ上がることになる。

>>205
増えない。減る。

>>206
三成だって秀頼の花押が入った書状がどれだけ価値を持つか十分に知っているから、
当然依頼はしただろう。だけど、秀頼とその周辺に拒否されたんだろう。それだけ。
209無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 08:05:13
>>205
増えないよ
そもそも西軍なんてごく一部のヤル気ある奴以外は
会津攻めの家康に合流しようと東に向かってたのに途中で三成にインターセプトされちゃったもんだから
やむなく成り行きに流されたような形で西軍になったようなのばかり
なんで俺がこんなのに加わんなきゃなんないんだよ・・・って思いながらしぶしぶ西軍にいたんだから
もしほっといたら家康の引き連れる軍勢のほうが増えるばかりだろう

こいつらがヤル気無いのは当たり前、機会があれば東軍に寝返ろうとするのも当たり前
このスレには三成の思惑通り働いてくれなかった西軍武将を非難する奴が多いが
むしろ彼らはただ単に自分の気持ちに正直に行動してるだけじゃないか

三成贔屓が過ぎるあまり冷静に事実を見れないから糞スレ化するんだよ
とにかく贔屓の引き倒しをまずやめるべきだと思うね
まともな議論にならん
210無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 12:07:16
>>202
なんか散々言われた後みたいだけど、
要するにタイミングをはかるなんて余裕は西軍にはなかった。
決起が遅れれば家康側の兵力が増えるだけだし、
そもそも先延ばしして決起の前に事が露見すればそれでお終い。
結果的にはあの時期に決起したのがベストだったと思うよ。
211無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 12:37:11
>>202
三成が挙兵したんじゃないでしょ。
彼にとって挙兵するメリットなどまったくない。
いくさが起これば、それに乗じて家康が勢力を伸ばし、
豊臣が不利になる。そのことは十二分に理解してたでしょう。
だから7武将に襲撃されたときも、あっさりと引きこもってしまった
わけだし。

挙兵したのは宇喜多・安国寺らであって、三成は巻き込まれてしまっただけ
なのでは。
212無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 12:53:59
>>211
佐和山城で謀議を開いて作戦を練り決起を決定しているのに?
213無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 13:21:43
三成が首謀者でないなら、
たかが失脚した元奉行の居城でわざわざ謀議をねる必要は全くない。
宇喜多が先に挙兵したなんて事実もまったくないし。
214無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 14:24:36
ベストは四大老+五奉行と、家康が対立した時だろうな。
前田の軍事的な威力ってどんなもんだったのかな?よく前田81万石って言われるけど、あれは利政の能登20余万石込みの数字?
あと動員力はどれくらいか?利家の遺言からは、守備隊を除いた機動兵団は16000と思える。
しかし越前に侵攻した利長は24000を率いていた。守備隊を殆ど残さないで24000が限界なのかな。
215無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 21:16:53
三成が首謀者かは微妙
でも主導者の一人であったのは間違いない

>守備隊を殆ど残さないで24000が限界なのかな。
守りに必要な兵力は残してるだろ
単に遠征に派遣した兵力では?
関ヶ原が1日で終わると思ってないのだから、余力残しておくと思うが
216無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 00:11:14
>>211
じゃあ宇喜多は何で挙兵したのか?

安国寺は毛利の家臣だが、毛利とは無関係に挙兵したのか?
217無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 00:19:15
>>211
宇喜多・安国寺は、いくさが起これば家康が勢力を伸ばすことを理解していなかったのか?

三成はなんで拒否しなかったのか?
218無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 05:27:15
>>209
それだけ東軍&徳川家康が嫌われてるってことだよw
219無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 12:09:04
そんなに嫌うほどのことはないと思うのだがw
220無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 12:18:27
天下分け目の戦いが裏切りで決着って言うのがw
221無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 12:22:32
小早川の裏切りなんて、大谷にだってわかっていた

三成だってわかっていた

それを理由にされてもな

雨が降るのがわかっていて、雨が降ったから負けたとういうようなもんだ
222無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 12:59:14
四大老としては徳川の権力奪取に対し漠然とした不安と不満があって、
何らかの掣肘は加えるべきだろうという共通する動機はあったものの
石高に懸絶した開きがあり、矢面に立たずに徳川に掣肘を加えるのが
Betterという思いがあったかと。また豊臣政権の中枢においては、
・五大老→決定機関
・五奉行→執行機関
という経緯もあって元五奉行筆頭の石田らが実行する場面が多かったのでは。
察するに西軍は全体的に漠然とした空気の中で東軍に相対することになったかと。
毛利・上杉・宇喜田・前田(利家)の連携の拙さはそれを象徴しているように
思える。20万石以下の中堅・小大名としては大大名とは違って寄らば大樹の陰で、
日和見は当然の事。東軍のようにまとまりのない西軍が脱落者をだしたのは
当然の帰結だったと思う。
223無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 13:03:16
>>222
利家は死んでいる

利長は母を人質に出して骨抜き、東軍にされた
224ゆきだるま ◆2eAi0OJQSA :2005/09/05(月) 13:15:37
三成は決戦を急ぎ過ぎて地盤が固まる前に攻めちゃったから裏切りに遭って負けたんだよ。
225無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 13:44:35
>>223
分かってるよ。言いたかったのは利家存命中が214氏のいうように西軍最大の
戦機だったはず。利家と家康の双方の伏見屋敷(だったかな)に支持する大名達が
集まって緊張状態こそ発生したものの、細川忠興ら親利家&親徳川派の画策により
事なきまま沈静化した場面があったかと思うけど、その辺りのタイミングで四大老+
五奉行が立場と職権を活用して対徳川へ当れなかった、ってこと。
利家没後は西軍はその支柱を失って貴方の言うとおり前田氏は骨抜きだね。
後は家康の謀略と西軍のまとまりのなさから東軍支持へ鞍替えが続出したってこと。
226無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 14:04:13
>>225
やるとすれば、利家が総大将になって、断固戦うということだな

しかしそこまでは思い切れなかったと
227無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 15:01:09
>>226
そういう事になるかなと。家康は「徳川家の天下取り」として確固たるヴィジョンに
基づいて行動したのに比べ、四大老はじめ西軍諸将は徳川が露骨な動きを始めた
頃、豊臣政権という枠組みの中の「政争」というような心持で当ったと思われ。
開戦も辞さずという「覚悟」、と政争の一環という「静観」と当初の認識ギャップが
初動の差をはっきりさせたと思われる。また皆、長期戦を予期していたために余計に
四大老ら諸将にも様子見気分が蔓延したかも。まだ家康自身の声望と関八州250万石
の実力があっては、みな腰砕けになるのも当然かと。
結果的に四大老のうち前田氏は東軍、毛利氏は日和見で家康の戦略勝利。
利家存命の頃は家康の貫目は重いながらも圧倒的ではなく、特に上方では未だ
「東軍閥」というべきものは完成しておらず戦略的には東軍が最も弱体であった
上に四大老・五奉行の大多数が家康の露骨な仕様に警戒感を強めていたおり
反家康のシチュエイションが最も醸成しやすかったはず。
このタイミングで西軍に何ら戦略的アクションが無かったのは上述の通り、
何の具体的ヴィジョンと覚悟が無かったからだと。同様に石田―上杉密約説は
存在しなかったと考えます。
むしろこの状況で最後までガチだった石田・大谷・宇喜田・小西はある意味立派。
228無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 16:04:33
>>220
賤ヶ岳
 前田利家
壇ノ浦
 田口成良
鳥羽伏見
 津藩
229無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 18:24:45
>>227
オレは石田―上杉密約説があったと考えている
もしないとするならば、西軍が負けた後、何故戦闘をやめて和睦しているのか
230無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 18:34:36
他は知らんが賤ヶ岳はちがくね?
231無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 18:44:12
>>227
旗頭になったのが前田利家だったのが不運だった、
まあ立場上彼しかいなかったから仕方ないわけだが。

彼の半生は、賤ヶ岳で勝家を裏切って立身の糸口をつかみ、
若い頃からの秀吉との中という縁に助けられて重く用いられ、
さらに好色な秀吉に娘を差し出すことでその関係をより深くするという、
典型的な寄らば大樹の陰という人生。
もちろん、それなり以上の実力もあったからこそ重要な地位に置かれたのだろうが、
独立した大名として独自の判断のみで行動したという経験は全く存在しない。

そんな状況で晩年にいたっていきなり最大勢力徳川とトップに立って戦えと言われても、
そりゃあ無茶ってものだ。
まあ、彼なりに覚悟を決めて対決しようともしたようだが、結局肩透かしを食らって、
何も出来ないでいる。そこら辺の器の違いが如何ともしがたい。
232無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 18:44:56
>>230
あれは明白な裏切り行為だよ。
まあ、利家だけじゃあないが。
233無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 18:47:20
>>232
利家については同感だが、他にもいたのか?
234無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 18:49:34
>>231
なるほど器量が足りなかったのだな
兵力と肩書きはなかったが

三成は構想力はあったがその他が欠けていた
235無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 18:51:48
>>229
書き方がはっきりし過ぎていたかもしれませんが、少なくとも具体的な密約は
無かったように思います。繰り返しになりますが反徳川の漠然たる空気とそうした
四大老(この時点では毛利氏・宇喜田氏のみ)及び五奉行の密書くらいは上杉にも
届いていただろうし、誰かも書いてましたが上杉は上杉なりの領土欲はあったかと。

加えて言うと伊達氏・最上氏と北方で小競り合いするくらいなら伊達・最上には
押さえの兵力を置いて堅守し、一歩でも関東に押し出す、或いは押し出す構えを
せねば十分な徳川氏牽制ともいえないかと。
逆に結城秀康ら留守部隊と矛を交えず伊達・最上と小競り合い、というのは
対徳川牽制というよりは、徳川勝利の場合は申し開きの余地もあるし、西軍勝てば
黙ってても伊達・最上とは和議が可能な上、後ろ盾を無くした結城氏ほかを駆逐
出きるという、結構絶妙な一手と思えます。

また上杉が西軍敗戦と同時に降伏したのは、上方での膠着を前提にした「長期戦」
を想定していたが、大前提が崩壊した以上、これ以上の抗戦は全滅以外の選択肢は
ないので降伏は当然でしょう。
この一点も上杉氏は豊臣氏への報恩から兵を挙げた訳ではないかと思います。

236無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 18:57:53
>>235
ということは、上杉は上方蜂起を確信していたということか?

なぜ最上を攻めたのかというと、やはりあれだけの早期決着を
想定していなかったからではないかと思う
237無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 19:08:02
>>233
金森長近とかもそうじゃない?
238無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 19:17:21
>>236
それは推測の域を出ませんが、毛利・宇喜田・石田などから密使も出るでしょうし、
上杉自身にも当然情報網もあるでしょうし、一定以上の情報はあったかと。
また前田利長の経緯を見て、いずれは上杉も・・、との思いもあり、不穏な上方の
情勢を逆に利用した可能性もあるかと(推測です)。
前出でですが、利家派VS家康派の緊張状態、徳川の専横からも開戦は回避し難い
という認識はあったかと。最上攻めは正に>>236氏の言うとおりかと。235で書き
ましたが、短期決戦の囮・牽制なら関東勢とせめて一戦せねば。当然、佐竹氏の
動きも違うものになったはずです。
239無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 19:20:58
領土欲の為にそこまで賭けする必然性でもあったの?
240無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 19:25:58
>>239
あのさぁ、戦国時代だよ、戦国。
領土のため以外の何があるの?
241無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 19:38:11
領土が大事なら何故自国危機に晒すような手段なんだ
242無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 19:39:34
他に手立てが無かった
手段を選ぶ余裕が無かった
なら何故密約も結ばない??
243無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 19:50:28
三成と上杉家家老の直江は仲がいい
三成はとにかく全く私心なく豊家につくした義将で
その三成の友達もみな大谷を初め全て義将に決まってるんだよ
だから上杉も天下を私しようとする徳川に対抗すべく義によって立ったということにすれば
このスレも丸く収まるんだからそれでいいだろ、な
244無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 19:51:50
>>241
それは歴史を知っている現代人だから言えること。現在の常識で
過去を図ろうとしているような気がします。
下手な中立は命取りになるような時代ですから。戦国時代は。
また241氏の考え方からすれば信長の桶狭間、元就の厳島とかは自国を
危機に晒す愚の骨頂という事になりかねないのではないでしょうか。
>>242
あくまで私個人の推測ですから。勿論密約のあった可能性だって当然
ありますよ。むしろ個人的には石田治部と直江山城の密約や直江状は
事実であった方が面白いと思うほどですが、客観的にみての私の看方を
書き連ねただけですから、あんまり責めないで下さい。
245無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 19:57:38
上にもあるように、密約を結んでも地理的に有効なモノと成り得ないんだよ。
情報に一週間も差が出てしまうと共同作戦もとれない。
だから、密約そのものはあったとしても、さほど重要な要素じゃない。
大軍の激突となれば、長期戦を予想するのは妥当だ。

上杉にすれば、前田家が骨抜きにされた次に徳川家が目をつけるのは自分達以外に有り得ない事は感じ取っていたはず。
関東のすぐ北に位置する大大名は目障りだし、家康の専横は見ていたわけだから。
だが対徳川の備えをするにしても、近隣の領土欲旺盛な伊達は厄介だし、
その他の大名達も家康に取り込まれればマズイ。
とすれば足場固めに最上家を攻めるのは理に適っていると思うが。

密約はあっても無くても同じ、
義だろうが領土欲だろうが、上杉としては周辺大名をどうにかしなきゃいかんのも同じ事よ
大名とそのブレーン達は、ここの俺達より真剣に命賭けてやってたんだから、
たらればが無意味なのはわかるはずだ
246無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 19:58:11
関東+飛び地で250万石って圧倒的すぎるよな…
確かに秀吉の思惑通りに、関東転封の後徳川軍団は以前の強悍さは薄れたが、毛利+上杉よりデカイのはどうしようもない。
事実かどうかは知らないが、前田家史にあるように秀次没落後に、秀次の旧領+伊賀、三河150万石を前田に与える構想が秀吉にあったらしいが、実現したらどうだったかな?
場所的に徳川と対立は絶対にするだろう。ただ利家の器量がどの程度だったのか分かりにくい。
戦はうまかったんだろうし、人望もあったんだろうが、今一つの感あるな。
秀長のポジションに置くとしたら、確かに利家が最善だとは思うが、やはり荷が重いか。あの死に時は利家にとって幸せだったのかもしれない。
247無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 20:01:39
うむ、さすがに謙信公の遺鉢を継ぐ景勝公であらせられる。
石田&直江の死を賭とした感動の友情物語!!
にっくき家康を蹴散らせ!GOGO佐吉!
248無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 20:06:50
最上を攻めたのは、本拠地会津と米沢30万石の間にあって、軍の移動の妨げになるからだろう。
上杉討伐の際の防衛戦略でも、主力の白河口で決戦。
常陸は佐竹+与力なので手当て無し。
越後からの侵入口は、一揆を起こして防ぐ。
仙道からの伊達に対しては、白石+福島両城で時間を稼ぐ。
しかし最上からの侵攻に対しては、選択肢が広い為有効な防衛手段を見つけられていない。
ネガ潰ししたくなるのも分かる。
ただやはり関東乱入は面白い選択肢だったと思うな。
249無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 20:10:41
上杉は、最上を単独では絶対に滅ぼすことはできないだろう。その意味でも
上杉の状況認識は非常に甘かったといわざるをえない。
関ヶ原では、伊達は、終始牽制役・傍観者であったが、仮に最上が上杉
に併呑される自体になれば、徳川からの責任追及は必至となる。叱責どころ
ではすまない。胸に暖めていた仙台城の築城そのものが却下される可能性もで
てくるため、伊達はしゃかりきに、全勢力を挙げて上杉に挑みかかるだろう。
そうなった場合、上杉は、最上、伊達両家を相手に、衰弱していくしかない。
250無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 20:26:13
そうなんだよねぇ
最上と上杉の抗争となれば
一年どころじゃ決着はつかないだろうから、どうにもならない状況だった。

だが地理的に言っても最上はなんとかしなきゃいけない相手だったわけで
和議に持ち込めれば良いんだろうが、徳川もそれをさせる程甘くない。
上杉が生き残るには、伊達と同盟する以外無かったんじゃないかな。
もっと同盟したところで、正宗が信用に足る相手かというと、滅茶苦茶程遠いがw

関東乱入にせよ、周辺の事情がそれを許さないし
上杉軍が二万程度来ても、一ヶ月二ヶ月で関東平野をどうにかするわけにもいかない。
大体、江戸城なんて土豪の砦程度だったっていうんだから、
家康としては東海道諸将の城をもらっていたんだから、そこに入れば良いわけよ。

動揺を突いて関が原で家康を討てない限り、どうにもならない行動だと思うな。
251無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 20:42:10
伊達が本気で来援したら難しいが、最上単独+言い訳の為の援軍なら、最上を攻め潰す事は半年、最低3月もあれば可能だったんじゃないか?
上杉は大規模な集兵で5万弱という、120万石に不釣り合いな程の大軍を集めてたし。
援軍を派遣出来る力があったのは、周辺では伊達だけだったし。
252無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 20:56:36
いや、五万のうち半数は防衛に残さないとならんだろうし
防衛に専念すれば、半年で落ちるとは思えん。
防衛戦なら五万をフルに使えるが、侵攻作戦では全軍動員なんて出来ないもんだよ。

それに伊達が最上を失う利点が無い。上杉があれ以上強くなっても困るだろ。
253無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 21:17:50
>>252
確か最上侵攻3軍の合計が、35000前後だったよ。それが目一杯だろう。最上24万石→動員7000強。山形に5000弱として籠城されたら難しいのかな?
あと上杉が徳川と対抗出来るくらいに巨大化したら、伊達は自由な外交に切り替えないかな?
俺は政宗好きだから、過大評価をしてるかもしれない。徳川―上杉の拮抗下で仙台60万石は垂涎の存在だろうから、関東+東北の主導権を握る位の外交能力があると思うんだが。
ただ政宗宿願の地が、会津だからなぁ。
254無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 21:21:53
ごめん、政宗が欲しいのは会津よりも米沢かも?
どっちにしろ上杉領か…
まぁ政宗は何でもいいから領地広げて〜!周りのウンコ共皆死ねばいいのに…って感じかもしれないが。
255無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 21:26:52
陸奥守なんだから東北完全支配を狙ってると信じたい
256無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 21:47:00
>>253
最上家の城や周辺の地形がどんなもんなのか知らないんであれだけど
基本的に城攻めは難しいと考えて間違いないはず。
孫子は防衛側の十倍の兵を以て当たれって言ってるしね。

まあ、十倍はオーバーにしても、例え4万動員しても、
一度に四万全てが城攻め出来るわけじゃないから、絶対的な数の差が出難いんだよね。
確かに政宗は、あの時代の東北地方の鍵を握る中心人物だったけど
家康や秀吉の様に全国規模で戦略を立てる能力は無かったんじゃないだろうか。
英傑と呼ぶに相応しい人物だとは思うけど、東北以外に目が届いてる節がないんだよな・・・・・
257無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 00:12:55
>>256
政宗の評には同意。
もし、政宗が天下を意識していたら関が原の時に内府には味方してなかったと
思う。三成と内府の決戦で内府が勝つと見ているなら、なおさら九州の官兵衛の
ように上杉と手を結んで東北や関東を荒らしまわるぐらいの事はすると思う。
内府から戦後の恩賞の100万石のお墨付き程度で満足して喜んでいるあたり
野心家として、とても天下を狙える器とは思えない。
258無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 00:43:40
>>257
上杉と同盟するならば、さらに進んで、三成とも密約を結んで
家康包囲網を形成すべきだったな
それでも勝てるかどうかわからないが相当な脅威となったはずだ
しかし烏合の衆と化す可能性がある

東軍が強いのは誰が見ても総大将という、しかも軍事的・政治的実力を
伴った武将がいるってことだな
259無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 01:01:26
>>238
まともな軍事判断ができるのであれば、形だけでも挟撃して
有利な体勢に持ち込もうとするものだ

三成が事前に上杉と連絡もせずに何もしなかったのは
(密約なしとした場合)
軍事的無能であったせいか?
260無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 01:11:35
西軍が会津征伐による上方の空白を利用したと考えられんのか?
会津と佐和山ではどれだけ離れてると思ってるんだ

連絡して連携取れれば、それにこした事はないが
距離と情報漏えいの危険を考えれば、そんな手段取れるわけない
軍事的無能とか言う以前の問題だ>>259

三成首謀者説には、否定的なのもあるし
何でも三成が単独で図面描いていたんじゃないと思うが?
真田昌幸宛の書状でも、連絡遅れたのは自分が知らなかったからと弁明してるし
フロイスの日本史?には、関ヶ原後、京で馬に乗せられ晒し者にされてる三成を
「まるで石田三成が首謀者のように晒されてる」と書かれてるしね
261無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 01:14:05
>>257
>内府から戦後の恩賞の100万石のお墨付き程度で満足して喜んでいる

 その「約束手形」とやらに、別に政宗は満足してなどいないよ。
 アンチにはクソ面白くもないだろうが、天下を狙える器だし。
 (伊達のことが分からない人に限って、奥羽戦線の政宗の動きを誤解する)
 家康にとっての政宗とは奥羽の重鎮であり最大の同盟者であったが、
 これほどの危険人物はいないという認識だった。家康は政宗が必ず
 上杉へ軍事侵攻することを予想しており、切り取った領土を既成事実
 化されるのを非常に警戒していた。白石城進攻なども、家康から見る
 と出過ぎた行為といえ、その直後「兵をみだりに動かすなかれ」と警告
 している。要は、伊達家は上杉領へは勝手に手出しをするな、頼むから
 大人しくしてくれ、それに従ってくれれば旧領を保証すると意味での
 「お墨付き」であり、政宗の行動に縛りをかける巧妙な政策だった。
 無論、政宗はこの申出に表向きは歓迎の姿勢は示したが、内心は相当
 不満であったことは間違いない。つまり全然喜んでなどいなかったわけだ。
262無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 01:19:26
>>261
政宗に対する兵を動かすなの指示(指示って程でもないが、頼むからヤメテって感じ)は、
西軍決起の報告を増田長盛から受けてたからでは?

でもアンチの政宗に対する評価の酷さは同意
天下狙えるかは、また別だけど

伊達の突出は会津征伐軍あっての事で、上杉と真正面からぶつかって戦えない
家康は、西軍決起の報を受けて、伊達の突出による上杉勢との本格抗争を避けたかった
それによる注進として考えるべきかと
263無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 01:20:17
>>260
オレは三成が首謀者だと考えているが
そうではないということか?

それならそれで話が違ってくるが

そうすると誰が考えてやったのか?
そいつは三成にも事前に話さなかったのであれば上杉に話さなくても
不思議ではない

しかし何ら事前に根回しなしで勝てると思っていたのかね?
264無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 01:22:29
>>260
そうすると上杉は西軍が蜂起するとは知らなかったと言うことか?
265無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 01:32:21
>>261こそ、図星を言われて面白くなく思ってる政宗ファンに見えるがw

>>256の政宗評は真っ当だと思うな

真田昌幸に通じるモノを感じるな・・・・才はあっても、環境がその開花を阻害したと言うか
もっと中央に近ければ、もっと凄い人物になっていた気がする。
ま、その運不運も実力のうちなんだろうが。
266無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 01:33:11
>>263
首謀者否定説もあるよって事で

>>264
西軍決起の為に上杉が家康と対峙したというのは別と考えたほうがいいとは思う
理由として

家康の詰問に対して、(直江状は偽書説あるから、この際、置いておく)上杉が
難癖つけて喧嘩売る気なら買うしかない的な返書したのは、間違いないでしょうが
それはあくまで交渉上での態度と見るべきで、会津征伐を受けてから周辺勢力への交渉を始めてる事や
西軍も会津征伐から随分後になって動き出してることから、連携しての行動ではないと考えるけどどう?

上杉としては、前田みたいに扱われるのを良しとせず、しかし完全に敵対はしたくない
だから交渉によって上杉家の地位を豊臣政権のNo2ぐらいに引き上げたかったのではないか?
そう考えるけど

267無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 01:42:10
>>266
あるってことだけなら、それでもいいが、まあ腑に落ちないよってことで

>会津征伐を受けてから周辺勢力への交渉を始めてる

これについてはよくわからない

具体的にどのような交渉を開始したのか?

ひとつ考えられるのは、上杉は売られた喧嘩は買うが、積極的に
喧嘩を売る意志はなかったのではないかということ

>西軍も会津征伐から随分後になって動き出してる

これは散々言われているが、ひとつには東軍をできるだけ引き離す
もうひとつは可能ならば東軍と上杉を交戦状態にして上方に来れないようにする
目的があったため

>交渉によって上杉家の地位を豊臣政権のNo2

よくわからないが、家康が攻めてくるとまでは考えていなかったということか?
268無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 01:54:51
>>267
具体的に言えば、佐竹との交渉も7月に入ってから
それまでは自国防衛に関する作業で手一杯
逆に言えば、これが会津征伐が行われる事がなかったと考えていたと言う根拠の一つ

とするなら、連携なんてサラサラありえないって事で

西軍決起の事だが、これも7月には言ってから
今現在は7月11日の佐和山会談が最初となってるけど、とするなら遅すぎる

東軍を引き離す、上杉と交戦状態にするというのは上杉と連携するしないに関わらず
会津征伐を利用した場合は、誰もが考えることで、これをもって上杉と連携を肯定する理由付けにはならない

交渉に関しては、交渉のやり取りが、全くなかったから
通常、どんな場合でもある程度の交渉期間を置いて、決裂して戦争となるのだけれども
この場合は、景勝への詰問から返書あって、いきなり討伐令
上杉は挑発もしなければ、積極的に家康と事を構えようとしてはいない
これは上杉家にとっては想定外の事では?
269無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 01:55:01
>>265
 何が図星なんだか…w
 家康的には上杉に勝たれたても困るし、伊達に勝たれても困るということだろう。
 ともかく、上杉を伊達・最上に牽制させ、何としてでも会津に貼り付かせておく
 という狙いは見事に成功したわけだ。
270無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 01:56:57
>>260
情報漏えいが怖くて事前に結託できなかったけど、勢いで挙兵しちゃいました by景勝

チキンなのか大胆なのかwww
271無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 01:58:36
いつ景勝が挙兵したの?>>270
272無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 02:01:55
家康が先だから挙兵じゃないとでも?
273無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 02:02:44
佐竹との交渉は早くとも7月下旬以降
景勝は防衛する為に兵を動員したが、挙兵したのは会津征伐を行った家康

餌に釣られたのは西軍
しかし、釣った魚が思いの他大きすぎて、慌てふためいた家康

こんな感じ
274無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 02:03:59
きょへい 【挙兵】


(名)スル
兵を集めて戦いを起こすこと。武力行動を起こすこと。旗揚げ。
275無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 02:07:29
頭悪いのが一匹紛れ込むと一気にスレが萎える。
276無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 02:08:24
>>268
あからさまに交渉したらまずいと思ったから交渉しなかったのではないか?

また水面下でやっていた可能性もあると思うがどうか?

7/11だと遅すぎる?
何が遅いのか?

誰でも考えること?誰か尋ねているやつがいたが、おまえじゃないのか?

誰でも考えることなのに、連携はしようと思わなかったのか?

もうちょっと時間をかけてと考えていたかもしれないけど、全く考えていないことはないだろ
で、上杉は西軍蜂起を知らなかったとすれば、何で後で降伏したのか?
277無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 02:11:00
佐竹との交渉の中身は?
軍事同盟?

迎撃作戦計画の相談?
278無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 02:22:06
>>276
水面下での交渉を裏付ける物がありません
交渉自体が7月下旬だというのです

>7/11だと遅すぎる?
遅すぎる理由、7月11日に三成と増田と安国寺と大谷の四名による謀議
佐和山で話しついたのは、それより更に6日後ですよ?遅すぎますよ
上杉征伐の攻撃開始の日付は、7月20〜25日となってます。
しかし、突発的な討伐令により、諸将の招集が送れた為、上杉と交戦状態にならなかった
万が一、予定通りだったなら、西軍へ参加出来る諸将は激減するのは必定ですが

>誰でも考えることなのに、連携はしようと思わなかったのか?
連携は、誰もが会津討伐が行われるとしなければならない
しかし何度も言うようだが、上杉側は会津征伐の号令が出た後に行動してる
連携してるなら、会津征伐の号令が出る前から合戦の準備をし、号令が出るのを引き伸ばし
十分準備してから、家康を挑発なりする
何も準備してないのに、連携していたと考える方が不自然
というか、連携してたという説自体、今ではどれくらい支持されてるか知ってる?

>上杉は西軍蜂起を知らなかったとすれば、何で後で降伏したのか?
情勢悪化したからでしょ?降伏したのは半年後では?
関ヶ原後は、会津征伐直前の構想どおり、専守防衛に徹する為、軍引いただけかと
279無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 02:26:07
悪魔の証明はどうかと
280無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 02:33:02
あぁ、降伏したのは半年後どころじゃないね
慶長6年7月1日だね、謝罪で伏見に上洛したのは
4月まで最上やらと交戦続けてるよ
281無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 02:35:20
>>278
>情勢悪化したからでしょ?降伏したのは半年後では?

 慶長5年12月から降伏交渉を開始してるよ。
282無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 02:36:18
>>278
そうすると上杉と佐竹はそれ以前に全く交流がなかったのか?
あるいは人の出入りもないと?
記録がないから?

7/17に話がついたとして、7/20征伐開始で、何が遅すぎるのか?

上杉は人を集めたり、城の修理をしていたんじゃないのか?
7/20以前には何もしていなかったということか?

さあ、どれぐらい支持されているのか?

情勢悪化?
別に特に他から攻められてはいなかったが?
半年後であり、確かに直後ではないが、和睦だって時間が必要だろ?
283無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 02:37:52
>>281
和戦両方
最上などと戦いつつ、交渉

だから降伏したと書いてるけど
284無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 02:40:02
東軍10万近くに攻められる方が、最上と苦戦するよりも状況がわるいんじゃないか

家康率いる東軍10万の方が、最上より楽と考えていたと言うことか?
285無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 02:41:06
>>283
じゃあ半年だろうが1年だろうが、あまり意味がないのでわ?

島津なんかはもっと時間がかかてるよね
286無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 02:44:02
>関ヶ原後は、会津征伐直前の構想どおり、専守防衛に徹する為、軍引いただけかと

では構想通り攻めて来たら迎撃すれば良かったじゃないか
287無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 02:46:20
>>282
人に聞く前に、まず自論を肯定するものを探したらどうかね?
反証してれば、お前が正しいとなるのではないのだが

>上杉と佐竹はそれ以前に全く交流がなかったのか?
交流あった=会津征伐に関しての交渉をしてたになんの?

>7/17に話がついたとして、7/20征伐開始で、何が遅すぎるのか?
話がついたのは4名での謀議、それから同志集めてなんですが?
島津や鍋島、立花、長曾我部など遅かったから西軍に参加したんだよ

>上杉は人を集めたり、城の修理をしていたんじゃないのか?
城の修理とは?以前から認められていた城の修復はした
奥羽は奥州征伐の際の城割で、城の数が激減してる
しかし、会津征伐以前に認められた城以外の普請してませんが?
それと人集めたりとは?

>別に特に他から攻められてはいなかったが?
会津征伐の際には、伊達から攻められても、寺領から動かなかったが?
徳川主力との合戦する為の戦力温存だろ?
だったら、関ヶ原以後は、引き返してくるかもしれない東軍、家康主力に対して戦力温存するのは当然だろ
288無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 02:49:01
>>285
戦いながら交渉したら意味ないのか?意味ワカラン

>>286
攻めてこなかった訳だが
289無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 02:57:09
>>287
探すとは史料か?

必ずしも証拠にはならないにしても、可能性は高いだろ
それとも攻められても特にどうでもいいと思っていたのか?

>島津や鍋島、立花、長曾我部など遅かったから西軍に参加したんだよ

遅すぎたから、島津らが西軍に参加した?
じゃあ西軍にとっては良かったんじゃないか?

人集めとは軍勢集めだが?

城の修理はしなかったということか?

>だったら、関ヶ原以後は、引き返してくるかもしれない東軍、家康主力に対して戦力温存するのは当然だろ

で、構想通りになぜ迎撃しないのか?
290無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 02:58:27
>>288
戦いながら交渉してもいいが?

構想通りに、攻めてくるようにすれば良かったんじゃないか?
291無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:05:54
>>289
>必ずしも証拠にはならないにしても、可能性は高いだろ
可能性が高いとはお前の中の可能性
可能性が高いとだけ主張しても、誰も納得せんな
俺がいう事を、可能性が高いとだけ言って、お前が納得するのか?

>じゃあ西軍にとっては良かったんじゃないか?
島津や立花などが、遅(おく)れて、遅(おそ)かったという意味だ

>人集めとは軍勢集めだが?
軍勢?浪人衆集めたのが準備だとするなら、江戸転封の際の家康、会津転封の蒲生、肥後転封の加藤清正
皆、謀反の準備か?加増されたのだから、浪人衆集めるのは当たり前
家康がそれに難癖つけたに過ぎん

>城の修理はしなかったということか?
なら修理したと言う城挙げてみろ

>で、構想通りになぜ迎撃しないのか?
?徳川勢来たか?迎撃する為引いたが、徳川は来ず、最上が庄内に侵攻してきたので、そちらで小競り合い繰り返し
西軍諸将の減封や改易で、交渉続けるも周辺の状況悪化、そして7月に上洛降伏で何が不満なのか?
292無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:06:41
遅すぎたということだが、何が遅すぎたのか

遅すぎて、島津らが西軍になったということなのか?

では遅すぎて良かったのか?
293無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:08:58
>>290
構想は攻めて来られた場合での話、攻めて来られたと、攻めさせるのは違うんだよ
関ヶ原後、周辺がどのようになったか調べてみろ
294無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:09:29
日本語を理解しましょう>>292
295無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:12:05
>>291
まあ、納得はしないな

じゃあ聞くが、交流はあったけど、全く戦の話はしていないというのが
おまえの主張なのか?
あくまでおまえの主張かどうかで構わない

>島津や立花などが、遅(おく)れて、遅(おそ)かったという意味だ

島津が遅すぎたということか?

加増?
関ヶ原の頃に加増されたのか?

構想通り、何で迎撃しないのかと聞いているんだが?
徳川が抗そう通り攻めてきて何が不満なのか?

周辺状況の悪化とは?
296無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:12:55
>>293
特に変わりはないだろ
297無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:13:04
>>295
聞くばかりじゃなく、自論の肯定を先ずしろ
聞いてばかりで、持論の説明を一切しないのは、いい加減ウザイ

298無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:13:51
>>294
日本語になっていないのだが?
299無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:15:22
>>297
肯定してるが?

何が知りたいのか?
300無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:16:56
島津らが会津征伐へ向かうのが遅かったから、謀議が遅くても引止めが間に合った
結果論として遅くて良かっただけだ

>>296
全然違うが、攻めて来るのは計算外だった
しかし攻めて来るからには迎撃する
それだけ、上杉から、積極的に徳川勢招いて迎撃したいと考える方が謎
301無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:18:51
なんかコイツ、まともに話す気ないみたいだ
アホらしくなってきた
言いたいことあるなら纏めて書けばいいのに、1〜2行レス
わざとスレ潰す気か・・・

>>299
自論の説明、根拠
こちらの問いに関しての返答
302無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:20:18
>>300
もっと速く会議をしておくべきだったということか?

>全然違うが、攻めて来るのは計算外だった

構想通りと書いていなかったか?
別人か?
303無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:20:51
>>302
はぁ?何が言いたいのかさっぱりわからん
304無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:21:44
>>301
三成と上杉には密約があった

おまえこそまともに答える気があるのか?

遅すぎるって何が遅すぎるんだか
305無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:22:47
>>303
徳川が攻めてくるのは、構想通りではないのか?
306無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:24:07
自分の中で出来上がってる関ヶ原の概念が常識とでも思ってるのか?
上杉の浪人雇用にしても、関ヶ原と何ら関係なく、それを家康が理由にし、後に関ヶ原が起きたことをもって
準備してたとする謎の理論掲げるわ、城の普請聞けば答えないわ

自分でどう認識してるから、こっちらとはどう違ってるという説明もなし
一方的に聞くだけ
アホらし過ぎる、何が言いたいのか?
307無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:24:39
>>304
あったとする証拠plz
話はそれからだ
308無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:25:46
>>305
徳川が攻めてきた場合の迎撃構想だろ?
いつから徳川が攻めてくるのが戦略みたいになってるんだ?
309無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:27:26
自分だけ適当なことを言って、辻褄があわなくなってくると逃げるとはどういうつもりなのか

質問に答えられないのならば、仕方ないが捨てぜりふを言って逃げるのはどうか

密約説だと前に書いているがそれが何か問題なのか
310無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:28:49
>>307
構想通りだとする証拠plz
311無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:30:33
>>308
攻められるのが戦略とは言っていない

(迎撃戦略という意味ではあるかも)

構想通りだろということなんだが?
312無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:31:48
>>309
自分では何も語らず、人には質疑ばかりいい
人の問いには委細答えず、辻褄が合わない事を言い出すのはお前

俺は答えてる、お前は一度もマトモに答えてない
人のレスに対して意味不可解な解釈ばかりしてるだけ


自論の説明、根拠
こちらの問いに関しての返答
聞くばかりじゃなく、自論の肯定を先ずしろ
聞いてばかりで、持論の説明を一切しないのは、いい加減ウザイ
313無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:34:54
>>310
構想通り?
会津陣物語でも、上杉家の会津征伐の際の迎撃構想書かれてるが?
この通りだとは言わないが(佐竹が上杉に加勢すると書かれてるのは、時期的に有り得ないから)
迎撃構想はあった、関ヶ原後はこの構想に立ち返ったと言うんだよ
じゃなければ、引かずに最上攻め続けてたし、慶長6年4月まで周辺で小競り合いも続けず
西軍と連携してたなら、西軍が負けた時点で降伏しとるわ
314無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:36:32
>>312
密約説だと言ってるだろ

辻褄があわなくなってくると逆切れするとは哀れの極み

答えもせずに答えているとばかり繰り返すのは嘘つきだ

意味不明?
どこが意味不明なのか?
おまえの説明がおかしいから聞いているだけだろ
おまえが答えられないから意味不明にしているだけだ

どこがわからないのか?

遅すぎるとはどういうことなのか?
315無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:36:42
>>304
あったとする証拠plz

自分だけ適当なことを言って、辻褄があわなくなってくると逃げるとはどういうつもりなのか

質問に答えられないのならば、仕方ないが捨てぜりふを言って逃げるのはどうか

密約説だと前に書いているがそれの根拠は何だ?
316無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:37:42
>>314
密約あったとする証拠plz

自分だけ適当なことを言って、辻褄があわなくなってくると逃げるとはどういうつもりなのか

質問に答えられないのならば、仕方ないが捨てぜりふを言って逃げるのはどうか

密約説だと前に書いているがそれの根拠は何だ?
317無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:38:36
>>313
構想通り、つまり構想に立ち返ったということだな?

であれば、降伏せずに迎撃すれば良かったのではないか?
当初から東軍と決戦するつもりだったんだろ?
318無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:39:44
>>315
構想通りという証拠plz
319無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:40:11
>>317
まず先に

密約あったとする証拠plz

自分だけ適当なことを言って、辻褄があわなくなってくると逃げるとはどういうつもりなのか

質問に答えられないのならば、仕方ないが捨てぜりふを言って逃げるのはどうか

密約説だと前に書いているがそれの根拠は何だ?
320無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:41:01
密約あったという証拠ないなら、密約はなかったっつー事だね
ならば、連携の話も何もないから無問題
321無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:41:02
まず先に

遅すぎたとする証拠plz

自分だけ適当なことを言って、辻褄があわなくなってくると逃げるとはどういうつもりなのか

質問に答えられないのならば、仕方ないが捨てぜりふを言って逃げるのはどうか

遅すぎたと前に書いているがそれの根拠は何だ?
322無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:41:58
構想通りという証拠ないなら、構想はなかったっつー事だね
ならば、構想の話も何もないから無問題
323無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:43:21
>>322
>>313
上杉の迎撃構想>会津陣物語

密約あったという証拠ないなら、密約はなかったっつー事だね
ならば、連携の話も何もないから無問題
324無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:44:37
>>323
その物語が証拠?

であれば、何でも証拠でいいだろ
325無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:46:23
>>323
それの資料的価値は高いのか?
326無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:51:55
密約あったという証拠ないなら、密約はなかったっつー事だね
ならば、連携の話も何もないから無問題

自分では何も語らず、人には質疑ばかり
人の問いには委細答えず、辻褄が合わない事を言い出す>>325

俺は答えてる、お前は一度もマトモに答えてない
人のレスに対して意味不可解な解釈ばかりしてるだけ

自論の説明、根拠
こちらの問いに関しての返答
聞くばかりじゃなく、自論の肯定を先ずしろ
聞いてばかりで、持論の説明を一切しないのは、いい加減ウザイ

以降、>>325の独り舞台
327無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:55:13
>>326
質問するのが、辻褄があわないということなのか?

哀れな奴だな
328無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 03:56:09
自分だけ適当なことを言って、辻褄があわなくなってくると逃げるとはどういうつもりなのか

質問に答えられないのならば、仕方ないが捨てぜりふを言って逃げるのはどうか
329無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 04:06:10
>>326
他人を馬鹿にする前に、自説の根拠を示したらどうか

自分は根拠は示さないが他人には要求するのか
330無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 04:31:51
でもやっぱ金満腹だよな
331無名武将@お腹せっぷく :2005/09/06(火) 04:33:15
そりゃ外せないけどよ
332無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 04:33:41
>>330
様々なスレに書き込んでいるようだが、つまらんぞ。
ラウンジ厨は巣に帰れよ。
333無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 04:34:29
つーか金満腹は三国志のほうの武将じゃん
334無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 04:35:30
>>332
金満腹知らないからってひがんでんじゃね?
335無名武将@お腹せっぷく :2005/09/06(火) 04:36:37
>>332は金満腹を勉強してからここに来い
336無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 04:36:55
>>333
知ったか乙^^
337無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 04:38:29
>>333-336
ジエン乙
338無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 04:41:57
金満腹って誰?朝鮮人?
んな奴聞いたことが無い
勝手に作ってんじゃねーよ
339無名武将@お腹せっぷく :2005/09/06(火) 04:43:04
>>338 おまえの知識のなさを俺らに押し付けるな
340無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 04:44:50
>>338
ラウンジの低脳の妄想。
相手するだけ無駄。
341無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 04:46:52
>>338
可哀想に…
342無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 06:12:32
疑問なんだけど、なんで豊臣家って直轄領増やさなかったの?
関ヶ原後には70万石ぐらいしか無くなってるし。
秀吉が存命中に直轄所領増やしておかなきゃ。

部下が金持ち揃いなのに社長が普通のサラリーマンみたいなもんだし。
何かあったときには次々に離反していって当然だと思う。
343無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 06:15:01
もし関ヶ原時に豊臣家が200万石以上あれば利から東軍についた武将も減ったと思う。
あの時点では日本で一番の所領持ちは徳川家なんだし。

そもそも秀吉の徳川家の関東移封が間違っていたんだよね。
東北ぐらいに押し込めておかなきゃ、もっと遠くに。
344無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 07:12:10
上杉家は、輝元のようにすぐに剃髪でもして家康に謝っておけば、領地削減は
もっと寛大で済んだだろう。どうもハッキリしない主君だ。じり貧状態のくせに、
翌年まで戦いながら和平交渉などということをやっているから、家康にすればま
すます不信感がつのってくる。「戦い」といっても、伊達などは全然やる気なく、
家康への義理立て出兵のようなことをポーズとして見せているだけだし。戦後の
上杉と戦っても、伊達にとっては何のメリットすらないわけで、国境の水争いの
ようなちゃちな「小競り合い」に興奮している上杉などは滑稽でしかない。
結局、会津60万石、出羽庄内33万石を失うわけだからお話にならない。
345無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 10:08:09
>>343
だが、転封の時点では関東より北へは追いやれないだろ。
北条家の後釜として関東に入ってもらったわけだし。
秀吉とすれば、あの時点で少しでも権力の中枢から遠ざけて、
足場固めに力を費やさせたかったんだから、失敗とはいえないだろ。
それだけ力のある徳川家をまるで関係の無い地方の僻地に飛ばすなんて事は不可能じゃないか?
346無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 12:19:00
>>342>>343
いや、関ヶ原の時点では豊家の直轄領は蔵入地など諸々込みで200万石強はあったよ。
島津、堀尾の加増で秀吉存命時より10万石は減ってたけど。
秀吉の統治構想が、配下大名に兵士は抱えさせて、直轄兵は最小限。
そのかわり全国の鉱山、大都市を抱えて財力による相対的優勢を築くという考え。だから直轄領の石高は徳川以下だったが、金はもの凄く持ってた。
秀吉が戦国時代最高の軍指令官と評価される所以は、誰よりも大軍を集めて、そして扱える能力があったからだと思うんだが、それは兵站、軍備に関して当時最高の意識があったから。
よって大軍を動かすには膨大な金がかかるのも知っててああいう支配体制にしたんだろう。
347344:2005/09/06(火) 12:32:46
絶対的な支配力を持っていた秀吉が存命中は、全国の監視、速やかな軍派遣という蔵入地の存在意義は成立してた。
ただ秀吉死語は、各地代官が豊家の承認を経ないで統治してしまっていた節があり、機能していなかった。
例えば佐和山19+親兄弟4=23万石の石田が、関ヶ原で守備兵込みで8000以上動員出来てたのは、近江の豊家蔵入地10万石程度の代官をしていたから。
ただ豊家直轄兵である7手組は、約2万。これは本拠摂和河70万石でちょうど養える位の数である。
蔵入地は全国各地への速やかな軍勢派遣の為の物資集積所という性格が強く(関ヶ原で尾張蔵入地の代官福島正則は、30万石という途方もない米を抱えていた)普通の大名の石高と同じ目線で見てはいけないのかも。
一大名豊臣秀頼としてみれば、関ヶ原で削られる前でも70万石弱の実力だっただろう。
348ο丁児 ◆71izTCnSlI :2005/09/06(火) 12:33:03
三成&上杉密約説については、真偽の程はしらないが、上杉家の働きは十分であったと思う。
@会津以北の東軍勢(伊達、最上等)を釘付けにして、南下させなかった。
A秀康2万を釘づけにした。
だから「関東に乱入すればよかった」とか「何故、東軍を追撃しなかった?」と責める向きがあるが、
それは酷というもの。
景勝にしてみれば、「秀康2万と、以北の大名は引き受けた。これで勝てなきゃおかしいだろ?あとは任せたぞ!」てな心境でしょう。


>>342
よく一般的に云われるのが、農本主義から商業主義への転換だよね。秀吉は直轄領を増やすより、鉱山や貿易港(堺、博多)を押さえるほうが
ほるかに儲かると踏んだんだろうねぇ。秀吉の読みどうり、大坂城には膨大な富が集まったわけだが、その富を守るのが実は「所領」だったのだねぇ。皮肉な話・・・
349無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 12:38:40
>>346
我ながら分かりにくいな。
秀吉の統治構想=大名に兵士は抱えさせて、それを動かすのは俺様。
これを言いたかった。>>347は、普通大名の領地は家臣を抱える為にあるが、蔵入地は同様の観点から捉えにくい、って言いたかった。
長々とすまんかった。反省している。
350九條殿@前関白 ◆1Ixlm5F0XU :2005/09/06(火) 12:46:27
佐吉&喜平次の密約についてだけど、
挙兵以前の現存書簡からは密約の存在は確認出来ないねい(偽文書除く)
二木が書いてたです
351無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 12:53:26
>>348
確かに上杉の働きは充分だったね。会津120万石って巨大だからわかりにくいが、実はかなり孤立していたから。東北全部と秀康以下約2万。確かに奮迅の働きだわ。
ただ秀吉の重商主義への切り替えには?
確かにそれまでの極端な農本主義からの、移行期として捉える事は可能かもしれない。
ただ明確に重商主義的な方向性を持っていたとしたら、商業に対する統治体制がいかにも不十分すぎると思う。
特に徴税や、貿易に対する体制だが、徴税に至っては矢銭、冥加金という酷く曖昧な形だった。
>>348さんの言う通りその方向に進もうとはしてたが、実際は進む前に滅びてしまった感じ。
352ο丁児 ◆71izTCnSlI :2005/09/06(火) 12:58:19
やはり三成&景勝密約説の真偽を解くカギは「直江兼続」かな?
@後世の彼についての語られ方、評判。
Aなぜ彼はあそこまで主戦論を強気に主張できたのか?
B戦後の家中での彼の立場は?(毛利家の広家と対比してしてみるのも面白い)
Cなぜ直江状は捏造されたのか?その意図は?

以上のような部分を総合的に判断すると、ぼんやり見えてくるかも・・・いや私もわかんない・・超無責任だけどW
353無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 13:57:28
>>351
>確かに上杉の働きは充分だったね

おかげで家康は後顧の憂いなく西軍に当たれたわけだからな。
354無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 14:38:42
>>345
関東に転封して即、攻め滅ぼしたらどうだろ?
地盤固めてないから兵も集められないだろうし。
355無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 14:40:20
>>346
なるほど、自前で兵力を養うよりもそれを雇う金を稼ぐ方に専念したわけだね。
356無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 15:24:38
>>287
奥州征伐の影響はさすがにないでしょw
357無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 15:30:58
>>348
>@会津以北の東軍勢(伊達、最上等)を釘付けにして、南下させなかった。

伊達、最上、秀康は南下する意味もないw
358無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 16:24:37
まあ、豊臣家は滅んで正解だったような気が俺はするが・・・
血族はいまいちパッとしないし、
後の日本を任せるには少々怖いと思うのだが?
359無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 16:25:36
>>351
>特に徴税や、貿易に対する体制だが、徴税に至っては矢銭、冥加金という酷く曖昧な形だった。


日本銀行金融研究所 貨幣博物館
http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature.htm

◆貨幣の散歩道の17話でも読んでみな
360無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 16:31:29
>>354
ネチネチ苛めて潰せばよかったのに、秀吉はお人よしなのか。
家康が逆の立場なら、苛めて潰すだろうに。
361無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 16:35:12
もうこれしかないね。
中国お家芸の適当な理由つけて潰すか殺す。
関東には北条でも入れとけばいい。

362無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 17:32:14
>>360
海外への出兵を考えていた秀吉には仕方無かったんじゃね
そんな回りくどいこと
363無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 17:47:11
関東転封後なんてまどろっこしい事せずとも、小田原の時みたいに
正面から堂々と滅ぼしてしまえば良かったんですよ。

小牧・長久手のときは 北畠/徳川連合に加えて、伊賀・紀伊・四国と
仮想敵が不穏な行動を取っていたし、毛利も完全に信用出来なかった。
北条も徳川と同盟結んでたし…な状況だった。

これが 1年度には徳川には北条との同盟のみ。 
秀吉側は、がんばれば毛利の軍事支援すら可能かも?な状態。
少なくとも前年に中国地方に駐屯させていた兵力の多くを転用できたはずです。

これは対徳川戦略的に見れば ほぼ秀吉の勝利。
惜しむらくは最後に徳川追討の軍事行動を起こさなかった事だと思う。
364ο丁児 ◆71izTCnSlI :2005/09/06(火) 17:54:57
>>353
後顧の憂いを断つために徳川は秀康二万を割かざるを得なかった。
>>357
南下する意味がないと?
まるであなたは、当時の人々が「一日で決着がつく」と知っていたかのような言い方ですね。
誰も一日で決着がつくなんて思ってなかったでしょ。
戦が長期化すれば、東北の兵力だって家康に召集される可能性は十分ある。
そうなった場合、上杉が会津に居座っていたら、おいそれと南下できないでしょ?
だから以北に蓋をした事実と秀康二万を釘つけにした功は動かしようがない。
真田みたいにホントに真田軍によって秀忠三万六千を足止めしたのか、それとも天候不順で単に足止めされたのか、というあやしい話より、はるかにハッキリした事実だよ。



・・・まあ、でも実際、一日で決着したわけだから、その意味では、あなたの言うとおりだね。
365無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 19:20:07
>>364
その通りですよね。東北に上杉が無ければ、伊達最上以下の大名の軍勢も中央に来たかもしれないし、少なくとも宇都宮に大規模な軍勢を残さずに済んだはず。
あと徳川の関東移封について。関東は日本最大の平野で、侵攻地点を絞り難い=防衛が困難、という狙いもあったと思う。そして小田原征伐で予行練習もされていたし。
ただこう書くと、明確な防衛地として箱根があるじゃないかと言われるだろう。
勿論大軍の移動に最も適した東海道を東下する軍勢は、箱根で阻まれる可能性が高いかもしれない。
ただ信濃から、越後から上野、東北から下野、常陸から房総など様々な可能性があり、それを実現させるための日本全土支配力に秀吉は自信を持っていたんだろう。
細長く伸びる東海や、侵攻路が木曾と善光寺に限定される信濃よりだだっ広い関東は防衛に困難だったと思う。
366無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 19:26:59
>>359
大変勉強になりました。長年戦国期の農民以外への課税体制に疑問がありましたが、啓蒙されました。
それ以外にも米本位制であった事や、皇室の財源の事など面白い内容。
かなり面白いサイト教えて貰えたな、とりあえず全部読んでみるね。
367無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 19:30:18
>>363
>これが 1年度には徳川には北条との同盟のみ。

秀吉はこの頃に本気を出せば十分に徳川を滅ぼす力はあったよね。
でもそれをやらずに、恭順させる戦略をとった。
つまり、天下取りを急ぎすぎたんだ。簡単で早く結果が出る方を選んじゃったんだね。

この辺が百姓出身の秀吉の限界かなあ……と思う。
早く出世したくてたまらなかったんだろうな。
368無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 20:06:26
>>367
一応大友から悲鳴のような救援要請があったけどね。確かに徳川は秀長辺りが主張してたように、攻め潰しとくべきだった。
博多が欲しくて仕方なかったのかな?
369無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 20:21:00
>>365
>東北に上杉が無ければ、伊達最上以下の大名の軍勢も中央に来たかも
 しれないし、少なくとも宇都宮に大規模な軍勢を残さずに済んだはず。

西軍にとっては、むしろ上杉が東北にいるデメリットの方が多いよ。
関東か関ヶ原へ上杉が出てきた方が、遙かにいいわけで。上杉は、
戦略でなく感情で最上攻めをするなど、大局を見失い、西軍の破滅の
引き金をひいたとはいえるだろう。
370無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 20:35:20
上杉は西軍と連動してないから
連動してるなら家康の反転後に徳川勢を誘引する行動にでてるだろ
連動ならば、上杉の役割は徳川勢の釘付けにあるのだから

でも、連動してないから徳川勢を釘付けする役割もなし
長期戦睨んで最上と合戦始めたんだよ
371無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 20:44:43
でも歴史の教科書とかでは上杉家は西軍に色分けされてるけどね。
372無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 20:47:28
できれば徳川家は朝鮮出兵の時に中心になって行かせるべきだったんだよ。
で、家康が朝鮮に渡った直後に兵を動かして家康がいない関東に攻め込む!
必勝の策。
373無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 20:47:48
そんな君は教科書が絶対だと信じてなさい
毎年内容変わって大変だろうがw
374無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 21:02:51
>>372
ヒドス

でも家康に征朝鮮大将軍の称号与えて、責め滅ぼしたら朝鮮上げるって
送り出せばよかったのに(征服するまで帰ってくるな)。
375無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 21:20:44
>>374
家康とニダーを相討ちさせるわけだね。
どっちが勝ってもいいし。

家康が勝ったらそのまま朝鮮に封じ込めて、家康が負けたら罰として領地を蝦夷地にでも転封する!
376無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 21:26:26
>>363
>>これが 1年度には徳川には北条との同盟のみ。
とはいうけど、秀吉の場合、あそこで徳川攻めたりしたら、とりあえずの臣従をしてた
諸大名がみんな離反しちゃうんでは?後の豊臣と違って、家康存命の徳川が
下手な挑発に乗るとも思えないし。一度休戦和合してるものを、理由もなく攻められない。
徳川と違って豊臣子飼いの兵力なんててんで大したことないし、
織田から継承した足元の危うい政権が揺らぐような背信行動は取れないのでは。
377無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 21:26:59
>>369
>上杉は、戦略でなく感情で最上攻めをするなど、大局を見失い、西軍の破滅の
>引き金をひいたとはいえるだろう。

全然違う。最上攻略は、戦略的になんら間違ってはいない。
上方の戦況の進展の速さがあまりにも想定外だっただけ。
378無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 21:38:51
>>372
多分秀吉君は本気で大陸制覇するつもりだったと思うからね。
徳川なんかに先陣を任せて大手柄でも立てられて、
これ以上勢力をのばされては困ると思ったのでしょう。
379無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 21:50:27
>>372
家康のような名声と実力のある大名を遠征軍の総大将にすれば遠征軍を掌握してしまう。
戦後、内地に残った秀吉より海外で苦難をともにした家康に人望が集まり政治的に問題
が発生するのは明らか。
これを見越して秀吉は家康を出陣させなかった。
まあ普通に考えれば当然の事だな。


380無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 21:53:55
>>374
五大老筆頭の内府にそんな台詞を吐ける人物は当時存在しなかったと思うが?
381ο丁児 ◆71izTCnSlI :2005/09/06(火) 21:55:42
>>367
なるほど、天下獲りを急ぐゆえに家康を滅ぼす体力を使いたくなかったのは容易に想像できるね。
となると問題は天下を獲ってからも、家康を滅ぼせなかったことだね。
私の中では秀吉は漢の高祖とダブる。
ふたりとも雑民から成り上がって天下を獲ったことが共通してるからね。
高祖はそこへゆくと、実に手早い。
天下を獲った途端に功臣の韓信、英布、彭越を罪に落としいれ殺し、一度与えた領土を奪ってるからね。
天下人になれば家臣の命などたやすく獲れるってわけだね。
秀吉にもそのようなチャンスはあったと思うけどね。
適当に罪を着せ処刑できるチャンスはあったと思う。刺者を仕掛けてもよかった。
家康が死んだら秀忠が江戸で反旗を翻すかもしれないが、たとえそうなっても誰が秀忠に味方しようか?
諸大名は海道一の弓とり家康の勢威を恐れているわけで、こわっぱに汲みする大名などいないだろうね。
刺者を仕掛けては天下の声望が落ちると危惧する向きもあるかもしれないが、朝鮮征伐の二度の失敗より遥かにマシというものだ。
まあそこで家康を殺さなかったところが、秀吉らしいといえばそれまでだがね。
だから今でも秀吉は人びとから人気があるのだろうけど・・・



※英布、彭越は高祖存命時に粛正されたかどうかは忘れた。呂后かもしれない。とにかくそこらはあいまい。
382無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 22:00:58
>>381
英布、彭越は劉邦が粛清したんだよ
というか粛正でなく粛清と書け
383無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 22:11:28
>>381
単純に秀吉を信じ込ませてしまった、
家康の策略というか腹黒さが一枚上手だったということよ。
384無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 22:50:20
英布も彭越も韓信も、戦争の能力では高祖を圧倒していたけど、
政治の権謀術数では高祖にあしらわれた、というところだろうね。

同様に、政治的な駆け引きでは秀吉は家康に一歩後れを取ったと言えなくはない。
385無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 08:32:33
家康を暗殺しておけば、なんてのは結果論だね。
仮に秀吉が天下人の時点で五大老筆頭の家康を暗殺なんかしたら、
体制の脆弱な豊臣政権と秀吉の人望は一気に地に落ちるし在坂、在京の家康の駐留軍は秀吉の首を狙って全滅覚悟の市街戦を始めるよ。
家康もそれを見越して秀吉に膝を屈してるだろうし、刺客を放つとしても家康に気脈を通じてる者の耳に入れ
ば家康は江戸に戻り箱根の天嶮を守って反乱を起こすだろう。
そもそも秀吉がなぜ家康を滅ぼさず強大な外藩としての存在を許さざるを得なかったかを考えればわかるはず。
386無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 08:43:48
>>384
賤ヶ岳や小牧の時の秀吉は政略家として、家康よりも数段上でした。
特に小牧・長久手後を終戦に持ち込んだ時とその後の鮮やかさは家康
にとって良い教訓となったはず。

その後の豊臣政権に組み込まれる課程で家康は政治家として成長したんだと
思う。

戦は信玄、政治は秀吉を教師として成長に結びつけれたのが家康の最大の評価だと思う。
387無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 10:06:47
>>386
いや、小牧の戦役の収め方は秀吉にとってそれほど良いものではないよ。
もちろん後世の歴史や全体的な情勢を知っている者から見てしまえばという、
後知恵での評価になってしまうけど。

妹を家康の正妻、事実上の人質として送り出し、そのうえ母親まで送って、
やっと臣従してもらうというのではあまりにも家康の評価を高くしすぎる。
確かに長久手では一敗地にまみれたが、総戦力的には秀吉の方が優れているのは事実で、
戦い続けていればやばかったのは徳川も同じ、秀吉の方に和睦する必要があったとしても、
戦い続ければ徳川有利だったというわけでもない。
そういう情勢で、あまりにも下手に出たのは、短期的には良くとも、
長期的に見ればそれほどいい手ではない。
少なくとも秀吉の圧勝というほど一方的なものではない。
388無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 10:15:51
もちろん、家康を臣従させるという目的は達成したのだから、
秀吉の外交は大成功以外の何物でもない。
しかし、家康の方から見ても、これ以上秀吉と徹底抗戦しても、
最終的に勝てるという見込みはきわめて低い。
ならば出来るだけ有利な条件で秀吉に臣従し、
豊臣政権内での確固たる地位を築くというのは、至極現実的な選択肢。
そしてそれを見事に実現したのだから、
家康にとってもやはり成功した外交であったと言って良い。
389無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 10:25:30
実際の戦闘は戦術レベルで、外交・裏切り工作を含めた戦略が勝負を決めるということで。
秀吉も三成も戦略的にミスをした時点で、戦術レベルで頑張っても勝負の負けは見えていた。
390無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 12:40:12
常勝将軍の秀吉を一敗地にまみれたさせたという実績と関ケ原の時点で東西両軍の諸侯の中でも
最も長い軍歴を持つ家康と一官僚で軍人としての履歴がほとんどない三成では比較にならない
だろうしね。
391無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 14:03:00
毛利(´・ω・)カワイソス
ttp://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/data_5over.html
392援護爆撃?:2005/09/07(水) 14:04:10
>>387 同意。これにより秀吉は征夷大将軍としてふさわしくないと、朝廷から
判断された。
393無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 14:07:57
>>385
秘密裏に暗殺すれば誰がやったかわからないよ。
甲賀か伊賀の者を使って。
捕まれば自殺して自ら口を塞ぐぐらいのプロ集団。
394援護爆撃?(釣りに引っかかったのかも ´・ω・`):2005/09/07(水) 14:10:56
>>390 三成に軍人としての履歴がない?賤ヶ岳の一番槍も彼だし。
それに、兵站の輸送に関しては三成の右に出る者がいない。つまり
戦略レベルで語るなら、一流の素質があるってことでしょ!?

ただし、三成には運がないような気がする…。ある意味最も重要な…orz
395無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 14:12:53
>>393
いいや、暗殺しても、豊臣家の関与が疑われたらお終いだ。
伊賀だの甲賀だのって、おまいさんちと夢見すぎじゃないか?
396無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 14:19:22
>>393
諸説あるけれど、忍者でしんだ大名はほとんどいない

もし可能なら家康が秀吉を暗殺してるだろ
397無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 14:20:49
>賤ヶ岳の一番槍も彼だし

参加したというのはあったかもしれんが、武功とはされていないだろ?

それとも七本槍の一人なの?
398無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 14:45:48
>>395
はあ?暗殺には忍びの者だろうが。
暗殺のプロなんだし。
お前こそ寝ぼけるなよなw
399無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 14:47:08
>>396
たいてい暗殺された武将は体面が悪いから病死扱いになるわな。
歴史の影で不自然な死に方してる武将多いし。
400無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 14:48:43
>>398
じゃあなんで秀吉、家康は暗殺されんかったのか?
師ね
401無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 14:53:09
>>397
賤ヶ岳の三成はあまりにも目覚しい働きだったから七本槍とは別格だよ
長さ4mの蛇矛を軽々と振り回して縦横無尽に戦場を駆け巡って万夫不当の豪傑と称された
一振りで百人の敵が一気に吹っ飛んだらしい
402無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 14:54:46
>>401
超必殺技も持っていたので?
403無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 14:57:00
http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/digest.html

疑問なんだけど西軍が大垣城に入ったのが8/11、東軍先鋒が清洲城に到着したのが翌日8/10〜14
で、家康本隊が到着するのが9/11
実に1ヵ月後。

なぜ西軍は家康到着前に人数が少ない東軍を各個撃破しにいかなかったの?
先に勝利すれば味方の士気もあがるし、近隣から援軍も増えるだろうし。
どちらかにつこうかと決めあぐねてるコウモリ的な武将も西軍参加を決断するんzたないかな?

家康到着前に戦端を開くという動きはなかったんでしょうか?
西軍が勝つ最大のチャンスのような気がするんですが・・・
404無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 14:57:18
結構暗殺って成功してるのか!?
405無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 14:59:33
訂正

疑問なんだけど西軍が大垣城に入ったのが8/10、東軍先鋒が清洲城に到着したのが翌日8/11〜14
で、家康本隊が到着するのが9/11



あきらかに行軍距離も東軍の方が長く兵も疲れきってたはずだし。
東軍が集結前に叩けなかったのかな?
406無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 15:01:35
大垣城と清洲城の西軍&東軍の兵の集結状況とか日を追って見ていけば西軍の最大のチャンスはあったような気がする。
407無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 15:03:45
>>400
そんなこと知るか!お前が氏ね!
408無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 15:11:15
暗殺言ってる奴
見苦しいから、その辺にしとけよ。
そんなに暗殺好きなら架空戦記でも読んでれば良い
409無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 15:17:26
伊賀と甲賀が暗殺のプロ集団ってwww
信長の野望でもやっとけ
410無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 16:03:27
小西行長は関が原ではあまり活躍してないと聞いたけど、実際のところはどうだったんだろう?
411無名武将@お腹せっぷく[] :2005/09/07(水) 16:04:47
まじじゃないレスすれば

その1
殺す方が忍者使えば 殺される方も忍者で守る。
家康・秀吉クラスなら雇われる忍者も一流でひきわけ。

その2
秀吉は家康を殺したかったが、伊賀も風魔も滅ぼしたので雇えなかった。

歴史の陰では 山田風太郎泣かせの忍者の歴史があったのです。




なわけないよねー。

忍者といえど万能力者じゃないってことですな。
412無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 16:58:17
>>403
西軍も戦力が分散していて数的有利を確保できていなかったから、
まあ、後から考えれば、他の戦線を全て放棄してでも兵力を集中し、
先に仕掛けるべきだったのかも知れないが。
413無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 17:11:32
>>394
三成の兵站を含む軍政面での実績が、尾張系諸侯に軍人(武将)としてまるっきり認められていないのを
知らないの?
414無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 17:14:17
>>413
彼らはそういう本当に大事な部分を軽視するからね。
415無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 17:38:42
>>414
帝国軍人にも兵站は認められていませんが?

むしろ三成は何の実績もないのに口だけでのし上がったと見られたんだろ
416無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 17:40:29
家康は本当は口から火を吐けた

秀秋がびびったのも、武断派がなびいたのもそのせいだ

これを知らないのは西軍厨
417無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 17:41:56
>>415
彼らもそういう本当に大事な部分を軽視するからね。

まあ、実態はともかくそう見られてはいたのでしょうな。
本当は兵站を知っているということこそ、
戦争を知っているということな分けだが。
418無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 17:45:01
大坂の陣では東軍は兵站で苦しんでいる

三成がいれば、マシだったろうなw
419無名武将@お腹せっぷく[:2005/09/07(水) 17:48:51
武人は前線で命のやりとりをする 真剣勝負。
官僚は後方で そろばん勘定 さらには前線の武人に命令する。

「安全な後方から あごで指図しやがって 我は戦の最中ゾ!」



営業は汗水ながして顧客を確保。
経理は クーラーの効いた部屋で 試算勘定 さらには経費節減と予算わださない。

「安全な後方から 文句ばかりたれやがって お客に頭下げて金稼いでるのは 俺らゾ!」



いつの世も同じ事。
420無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 17:49:54
>>418
確かに。
421無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 18:44:25
>>393
じゃあ家康だけじゃなくて伊達も島津も毛利も強大な外様は全員暗殺したらいーんじゃねーの?
朝鮮や明にも大軍を送りこまなくても忍者をいっぱい送ればいーじゃんw

ところでおまえは服部半蔵を黒づくめの忍者とおもってねーか?
422無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 18:55:23
>>405
福島正則と徳永、市橋、西尾、一柳などの諸大名の軍勢に、殆ど
濃尾平野を制圧され、釘付け状態だった。
423無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 19:27:25
>>421
いつの世も暗殺が一番いいんだよ。
一般民衆や人民に被害でないから。
派手に戦をしようとする輩がいるから不幸は拡大する。
424無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 19:30:06
>>422
で、徳川本隊が到着までに西軍が東軍よりも大幅に人数が増した瞬間とかなかったのかな?
最後の関ヶ原の敵味方の人数見てると徳川本隊が到着するまでに西軍が決戦挑んだら西軍が東軍を各個撃破できてたと思うのだが。
425名無し募集中。。。:2005/09/07(水) 19:39:00
>>405
家康が東海道を上ってくる前に東軍を討つといっても
実際関ヶ原の決戦当日だって家康の軍勢は全く使わずに勝負がついたくらいなんですから、残念
426無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 19:45:16
>各個撃破
各個撃破なんって銀河英雄伝説の中でしかうまく行かない。
寄り合い所帯の軍団運用は容易ではない、そんな機動的に動けないでしょ。

427無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 19:48:42
>>424
関ヶ原当日ですら真面目に戦った西軍は、
東軍の先遣部隊と同数程度だったからね。

まあ、早めに伊勢方面から手を引いてしまって、
兵力集中していれば、美濃方面は確保できたかも知れないけどね。
428無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 19:49:04
>>424
南宮山の軍勢も、家康到着直前まで伊勢で福島(弟)の軍勢と対峙して
いたのだから、西軍が東軍を圧倒していた時期などない。
429無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 19:57:19
伊勢の長島城さえ抜いてしまえば、
尾張の東軍を挟撃できるし、あの段階で伊勢放棄して軍を美濃に移す必要はない。
結果的には先に岐阜城を落されてしまって、
慌てて大垣方面に呼び寄せることになったわけだが、
だからといって、先に呼び寄せておけば良かったなどというのは、後知恵に過ぎない。
430無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 21:42:40
>>397
賤ヶ岳の七本槍

福島市松正則
加藤虎之助清正
加藤孫六郎嘉明
平野権平長泰
脇坂甚内安治
糟屋助左衛門武則
片桐助作且元
431無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 21:45:00
んな、誰でも知ってるようなコピペ貼りつけてなんのつもりよ?
432無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 21:50:38
>>431
しらねーやつがいるじゃねーか。お前文盲か?
433無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 21:54:50
>>432
文盲呼ばわりする前に>>397よく嫁、>>397が疑問に思ってるのは「一番槍」だ。
434無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 21:59:29
>>430
そいつらは出遅れて
三成が倒した敵の首を拾って歩いて自分の手柄にしただけ
三成が通ったあとは柴田兵の死体しか残ってなかったから
435無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 22:02:27
>>433

>それとも七本槍の一人なの?

お前がよく嫁
436無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 22:03:28
>>434
それなんて戦国無双?
437無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 22:10:58
>>435
いやぁ、>>397のその部分が煽りに見えたのよ。>>397は一番槍が三成か?という疑問を投げ掛けたあと
「それとも七本槍?」と来ているからその部分は皮肉なんじゃないの?
438無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 22:13:39
>>426
この時代に携帯電話があったら超兵器だね。
439無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 22:16:34
>>391
上杉(´・ω・)カワイソス
440無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 22:19:28
でも徳川家康が到着する前に戦端開いてしまえば向うも烏合の衆だよ。
徳川本隊が来る前に撃破できればかなり有利にその後は西軍に動いたはず。
441無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 22:26:35
先手必勝狙うか、陣地に相手を誘い込むか。

結果見れば先手必勝で動いてれば、裏切りもやり難くなってたかもしれないけど、
必勝を取るなら、やっぱり先に布陣して迎え撃つ方が兵の疲労もないし、いいじゃないの。

442無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 22:33:32
>>440
豊臣諸侯同士が潰しあいをしてくれればそれこそ家康の思う壺だろう。
443無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 23:22:46
夜襲提案を却下したように、三成に軍を縦横に動かす才能も心意気もないが?

まあ元々裏方の天才なんでしょうがないだろ
444無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 23:25:05
せっかく、7本槍を張ってくれたんだ
努力を小馬鹿にするのはやめようぜ

7本槍には複数説あったと思ったが

襲撃7将も色々だよな

なんとなくゴロで7をつけてるような希ガス
445無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 23:37:39
>>443
所詮は官僚として立身したのであって武将としての閲歴はほとんどないからね。
長年軍監として野戦派諸侯を見てきた三成としては実戦経験豊かな島津義弘や
朝鮮で辛酸をなめてきた宇喜多秀家の夜襲案も、三成にとっては功名狙いに
しか思えなかったのかもしれないね。
三成って大将としての実戦経験って忍城攻略戦以外にあった?
446無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 23:52:34
夜襲も成功するかどうかは別問題だしなぁ
447無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 00:15:19
>>446
三成も同じような考えだったと思う

必ず成功する策があるのかと小一時間(ry
448無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 00:16:20
相手が福島正則なのだから、その強さを熟知している三成としては、
先端を開くのにためらいがあったのだろう。家康は東北と上方両方に
睨みをきかせて、しばらく関東を動かないので、余裕があると思った
だろうし。
449無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 00:24:26
>>447
宇喜多や島津の夜襲案は強行軍で疲労の烈しい東軍を襲うという
もので成功の確率は高いと判断したので献策したのだと思う。

そもそも必ず成功する夜襲なんてあるのか?
450無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 00:26:26
>>448
その戦端を開く決断ができずに家康到着まで手をこまねいていたのが
三成の戦略家としての限界だな
451無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 00:30:19
戦略家っていうのは、時にハイリスク・ハイリターンを覚悟して動く肝っ玉がなきゃいけないわけだが
三成は官吏として、正確さを要求される兵站なんかをずっと担当してきてたから
自然、そういう見方、姿勢になちゃったんだろうな。
それが突然、天下の大軍の指揮官になっちゃ、
上手くやれと言われても酷な話だ。上手く出来なかった為に首切られたわけだが・・・・
452無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 00:34:21
>>449
同意

いやだから、前の奴が成功するかどうかというのを受けて
必ず成功しなければならないのかと疑問を提起しているのだが
453無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 00:39:46
迷ったら前に出るが猛将
迷ったら様子見るのが官僚
454無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 01:04:31
肝っ玉の小さい上司が、部下の斬新な提案を受けて
「必ず成功するの?失敗したら責任取れるの?」と言っている情景

他にも色々あって優秀な島津君はこの会社に未来はないと悟る
455無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 01:19:13
メッケルをして「西軍の勝ち」と言わしめた、
三成の完璧な布陣を、ボンクラ西軍諸将は理解することすら
できなかった。
家康ものちに、あれほどのものは自分にはとてもできないと
賞賛している。
456無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 01:24:06
つかメッケルが調略を理解していなかったんだろ

家康の賞賛は初耳だが、どこに書いてあった?
457無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 01:38:22
三成の布陣じゃないけどな
行きがかり上、ああなっただけ
458無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 02:03:58
毛利と小早川の布陣位置は絶妙
まるで関ヶ原決戦を想定していたかのようだ
さすが両川w

とはいえあのあたりで決戦と言うことになると関ヶ原になるわけだが
459無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 02:08:42
>>458
小早川の位置は当に西軍撃滅の絶好の場所だな。
稲葉は美濃出身だからよく理解していたのだろう。
460無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 07:33:17
>>440
だから、しなかったのではなく、出来なかったんだよ。
理由は再三言われている通り、兵力の集中が出来ておらず、
美濃方面においては、東軍先遣隊のみと比べても数的に劣勢だったから。
撃破なんて出来ません。
461無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 09:01:04
>>459
そうだな、あの位置から東軍撃滅は難しい

野戦になるとすれば関ヶ原

関ヶ原で一番安全なのはあそこ

ということで位置取りとしては最高だ

小早川の評価は低いが、意外と戦略的に動いていると言えるな

奇跡的に本戦に参加もできているし

もし参加していなければ、伏見攻撃を理由に取り潰しが濃厚
462無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 10:46:54
松尾山城の場所は交通の要所を押さえる要ですが。
463無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 11:59:46
メッケルのような生粋の軍人には日本的な調略や寝業は理解出来なかった好例だね
464無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 12:25:11
日本的も何も、ああいう調略は当たり前だろ。
まあ、あれだけの規模で寝返りだの行なわれた例は稀有だろうが。
メッケルは純粋に戦術的観点から見て、西軍の勝ちを言っただけであって
戦略的な状況は、また別問題。
465無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 14:31:23
そうそう>>464の言うとおり。軍事顧問かなんかで参本かどこかで戦史研究か
なんか分からんけど、関が原東西布陣図見て戦術家として西軍の布陣は必勝である
と評価しただけでしょう。後で西軍敗北と聞いて、その理由を耳にして納得した
っちゅうエピソードでしょ。
466無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 15:01:50
確かに家康来着前の東軍は西軍同様に烏合の衆で夜討ち朝駆けって成功の可能性は
あるとは思うけど、東軍も歴戦の諸将が揃ってるし、当然相当警戒してただろうし
簡単には仕掛けられなかったということではないか。
西軍も伊勢など諸地方に敵対勢力もあって後方・側面に絶対の安心が出来ない為に
後詰めが不十分という思いもあったのでは。そんなこんなしてるウチに内府来ちゃった
って事に・・・。
467無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 16:10:57
家康到着以前云々に関しては
すべての戦況を知っているからこそ言えるわけで、当時の西軍は清洲に展開
する敵兵力を完全に把握していたわけではなかったんじゃないでしょうか?
いわゆる戦場の霧ってやつですね。

本多・立花と言った空気で戦争をする奴らならともかく、治部なんかは理詰め
で戦争するタイプらしいのでとくに戦場の情報混乱に弱いんじゃ。


468無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 17:27:32
当時は旗印・馬印とかでこれは誰々の軍勢とか見分けてたんだし、東軍が故意に
欺瞞工作で家康来着を伏せる可能性以外は、家康未着は承知していたのでは。
まぁ家康来着が確認できていたかはともかく西軍に確固たる作戦方針が無かった
のが濃尾戦線の西軍のていたらくの原因かと。
466で自分で書いといて言うのもナンだけど普通に考えて宇喜田勢15,000余が
到着した時点で兵力格差もよほど縮まったはずだし、夜討ちとは言わず後詰めは
伊勢・越前方面に友軍が展開中の西軍が有利なような気も。このタイミングで
西軍が濃尾平野で一戦に及んだら史実とはまた違った展開もあり得るような気が
します。
469無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 17:37:17
>>467
政争上の謀略ならともかく戦場では西軍諸将は東軍のそれと比べてたたき
上げの野戦指揮官が少ないからね。やはり佐吉クンが大将ではキツイかも。
さっさと備前中納言に采配まかすべきだったろうけど、こちらもボンボンで
腕利きの侍大将達はとっくに家康の謀略で引き抜かれちゃってるから兵力は
兎も角、西軍の濃尾方面軍とも言える石田・小西・島津を含めた指揮は無理
があったのかな。だとしたら惜しいねェ。やっぱり家康の鬼謀恐るべしって
ことか。
470無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 17:45:11
>>467
義弘も軍事的勘はあっただろ
軍事的状況分析ではプロとアマの差

三成は純粋に算数でしか戦争を見れなかったんじゃないか
471無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 17:47:50
>>469
無理を承知で言うが、あの時点で西軍最高の軍事指揮官は義弘だから
彼に全権委任すべきだった

現実は、ないがしろにした
472無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 18:08:50
>>471>>470
実績で言えば西軍では文句無しに島津維新入道なんだけど、先ず第一に率いる
軍勢が2,000未満だったからなぁ。古来、戦の指揮は最も軍勢多き者が執る、という
のもあるし、第二に島津氏は豊家にとっては外様だからなぁ。石田は政権内の
中枢である五奉行筆頭(元ね)だし、秀家は五大老の一角であり太閤の猶子だった
上に官位も中納言(関係ないか)だからなぁ。
>>471氏の言うようにムリだったとは思うけど指揮官としては彼が適任だったかと。
それにしても島津ほっぽって撤退しようとしたり、夜討ちの提案をすげなく却下
したのはいかにもマズかった。この辺りの機微が分からないのが吏僚あがりと
いわれる所以ですなぁ。
473無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 18:32:48
>>471
島津に数千の兵力があれば もう少し発言権を得られたと思うのだが…

関ヶ原本戦から考えるに、義弘自身は今回の戦役を自軍の兵力を顧みて手伝い戦
程度にしか思っていなかったのではないでしょうか?

尾張で対陣中も島津軍は最前線で警戒線をはっていました。
東軍のおよその状況は把握していたでしょう。

ただこの時点で戦端を開いたとしても、所詮はたんなる小戦で決戦ではありません。
闘わなければ敗北につながる戦では無い以上より上位の判断にゆだねたのです。

中公の関ヶ原本によると、家康着陣の際に あわてて軍を引くのは愚作であると進言
しています。
万が一敵が押し出してきても、本軍が数刻持ちこたえてくれば 自分が島津兵をまとめて
横っ面を叩いてやるから、その後堂々と陣を移動したら良いと…
このとき義弘は作戦に対してはじめて意見したのではないでしょうか?

自分の役目を心得、意見する。 歴戦の猛者ならではって感じでかっこいい。
なんて勝手な妄想してたりするのですが…
474無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 18:48:06
小山から慌てて帰ってくる福島を桶狭間あたりで待ち伏せて奇襲する。
若しくは清洲へ帰城したところで、スカウトして西軍に引き抜く。
これで戦局は一挙に西軍優位に傾き、家康は江戸から動けなくなる。
475無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 18:57:46
>>474
福島をスカウトって・・・
三成憎しの一心で内府に組した福島をどうやって?
476無名武将@お腹せっぷく[] :2005/09/08(木) 19:02:29
>>475
三成の首を抱えた秀頼が
「ふくしまのおじちゃん ぼくをたすけてよ ちからおかしてよ」
とお願いする。

正成土下座して感激!
477無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 19:04:53
>正成
だれ?
478無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 19:09:00
島津維新は渋い。しかし何故2,000前後の小勢だったのか?いろんな解釈はあるけど
なんか解せない。
前に上杉の辺りでも書きましたが島津も長期戦を前提にして名目上出兵(領内での
伊集院忠棟の乱もあったが)しかしなかった可能性もないだろうか?
東西両軍の長期的対立の末、勝ちそうな方へ竜伯が本隊を率いて参陣・・・。
また九州は黒田・加藤ら以外には目ぼしい東軍はおらず、かといって西軍も小西・
鍋島・毛利秀包・立花などはすべて出払っており、中央の情勢次第では島津の
草刈場とする事も可能との憶測を立てたとしても何ら不思議はないような・・・。
479無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 19:16:29
>>477
うにゅー
正成 ×
政則 ○

もうしわけねー。
福島正成じゃ 北条家か今川家だよね。 スマソ
480479:2005/09/08(木) 19:18:58
>>479
政則 ×
正則 ○

ですよね orz

オレ 腹かっさばいて責任とります ぐふっ!

481無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 19:28:15
>>476
good idea!
482無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 19:41:07
正ぷり
483無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 20:08:01
まぁ福島左衛門大夫を西軍にスカウトするとしたら秀頼の馬印持ち出すか、
輿にのせてでも美濃までつれてくるしかないわな。
しかし関ヶ原がイレギュラーの短期決戦だったとしても豊臣家の動きは
まるでないのは、やっぱり臣下同士のイザコザくらいにしか淀君は考えてなかった
ってことかな。これも惜しいところ。関ヶ原以前なら秀頼そのものに絶対的な
政治的価値があったというのにねぇ。
484無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 20:13:40
そもそも三成も自分の野心の為に起こした戦だから、そこを勘違いしちゃいかんよ
ただし徳川の力なら豊臣に取って代わるのは可能で事実そうなったが
三成の場合はそこまでの力はない、だからあくまでも秀頼を立てて傀儡として
その下で自分が実権を握るという形にするしかなかっただけ
三成は私心なく義の為、豊臣家の為だけを思って行動したなんていうのは何の根拠もないし常識で考えてありえない

関白秀次を讒訴して一族すべて殺しつくしたのも秀吉亡きあと自分が実権を握るために邪魔者を取り除くためだろう
幼少の秀頼なら傀儡にできるからな、自分の子に継がせたい太閤の意を汲んだからとか馬鹿馬鹿しい
それだけでは秀次に関係した大名が今後自分の敵にまわって邪魔になってしまうので連座っとことでこれも取り潰して未然に排除すると
ただし自分と仲のいい田中吉政(それでも結局東軍につかれるのが、三成のどうしようもなさ)だけは秀吉にとりなして助けてる
清正や正則の朝鮮での功を握りつぶして無かったことにしたのもまた然り

結局三成が欲したのは自分が実権を握った上での豊臣の天下の存続に過ぎない
西軍側のほとんどの諸将が徹底して非協力的だったのは当然のこと

むしろ三成は負けてよかったんだよ、狸が天下をとって260年続く幕府をつくったからこそ
その狸に立ち向かった人物として後世の評価でここまで不自然に持ち上げられてるんだよ
やったことは全て正義感から、傲慢で嫌われ者だったのは生真面目すぎたらとか、どこまでも都合よく解釈してもらえる
もう十分過ぎるほど過大な評価をされてるんだら、この上さらに西軍をどうやったら勝たせることができたのかとか考えてやることもないだろ
485無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 20:15:27
>>472
どうでも良いことだが、石田は五奉行第4位だな。筆頭は前田玄以。よく筆頭と勘違いされる浅野が第2位。以下、増田、石田、長束。揚げ足取りに見えたらスマン。
あと戸川、花房、浮田などの譜代?とも言うべき功臣達の退去は、石高に比して少なすぎた直轄領からくる財政難(勿論秀家、豪の贅沢が最大の原因)を緩和したのと、秀家への支配権力の集中など、家中統制、内政面ではプラスに語られる事が多い。
そして宇喜多軍の威力は当然に落ちているものと当時の衆目は一致していた。
しかし大量退去後に台頭した、明石や長船、新たに召し抱えられた本多などが有能であったため、関ヶ原一連の戦いでは充分な強さを発揮していた。
秀家個人で言うと、諸書から言って人望、勇気、軍事的センスを持ち合わせた人物だったのでは?贅沢癖以外には悪く書かれているのを見た事ない。
出奔した戸川も、後に八丈島にいる秀家を思い遣る行動を見せた事もあり、純粋に加賀から来た中村を憎んでの行動だったのだろう。
まぁ長々と書いたが、秀家が軍事的能力を有しているといっても、あの義弘と比べちゃどうしたって差があるのは同意だね。
486無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 20:15:51
>>484
物凄い勢いで西軍厨を敵に回したな
487無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 20:17:46
島津維新じゃない、惟新だ
488無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 20:25:19
>>484
勿論忠誠心だけで起こした行動ではないだろうが、大きな一要素ではあったんじゃないかな?
それ以外には、豊臣を柱とした明確な国家像を持っていて、それを実現させたいという仕事欲もあっただろう。
ただ石田が勝利しても、秀頼を御輿に上げて自分に権力を集中させることは出来ないだろう。勿論有力者の一人にはなるだろうが。
結局秀頼が成人するまでは、有力諸候の連合会議制で行くしかないだろう。その形だけの議長としては、関白を約束された秀秋がつくんでしょ。
489無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 20:29:57
秀秋関白推任は嘘。

秀吉が築いた政権構成そのものの破壊に繋がる。
関白になれるのは豊臣家の跡継ぎと、藤原長者のみ。
490無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 20:39:53
>>489
確かに他家に遣った養子が関白に就けるとは思えないけどね。
もし豊家の天下が続いたら、遅かれ早かれ開幕したと思う。源氏の長者云々は権力で何とかしただろう。
やはり官位を与えた所で武家は武家だし、国内最強の武力を背景とした国内統治には関白位より将軍位のが自然だし。
491472:2005/09/08(木) 20:42:36
>>485
なるほど、そうでしたか。勉強になりました。確かに宇喜田家中は老臣達がはばを
きかせていたらしいし、一概にマイナス面だけじゃなかったってことですね。
>>487
誤字とは情けなき次第・・・。御指摘深謝。
492無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 20:46:16
島津の実数は定かじゃないが、2千どころが1千居るかどうかも怪しいな。
とは言え、向背の定かじゃない小早川とかほっといて、島津の献策した
夜襲やってた方が勝つ確率高かっただろうなぁ。

あんな小勢で東軍8万を中央突破しちゃうような連中だから
夜襲なんぞ先鋒でさせたら(((( ;゜Д゜)))ガクガクブルブル
493無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 20:46:39
>>490
征夷大将軍になれる可能性はあると思う。
源氏云々は関係ないから問題ないし、家康を、関東征伐が出来て成功したら
秀頼が成人するまで関白は空位で、政権の第一人者を征夷(関東征伐に)に成功したという理由で
就任させるかと。
494無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 21:01:50
>>484
確かに西軍勝ったら大変だろうね。大大名がひしめくなか、室町幕府程度の貴族化
した豊家が調停機関として存在するって感じになるんだろうか。
250年後にゃ西洋列強がやってくる頃には、国内バラバラで侵食されまくって植民地
だったかも・・・。
でもね,,,やっぱり疑問だよ。>>488氏に全く賛成なんだが、豊臣政権の高級官僚と
して自分が参画して作り上げた政権を存続させて運営していきたい、という吏僚として
の本能もあっただろうと思うよ。でもなけりゃ関八州250万石・内大臣に逆らうかね?
同じ奉行の浅野・前田は生き残ってるし、流れに身を任せて右へ倣えもできたはず。
ましてや太閤在世中には、家康と間に訴訟事などの目立った対立など無かったのだから。
そういう『義挙』に近い戦いだったと世間も認めていたからこそ、250年の徳川治世を経て
なお語り継がれたのではないだろうか。当時から営利的なニオイがしてれば、いくら何でも
ここまで良くは言われまい。時の政権へのガス抜き的要素を差し引いてもね。
495無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 21:21:43
>流れに身を任せて右へ倣えもできたはず。

そうだね。保身と栄達を考えるなら、三成ほどの頭の良さを持ってれば
秀吉の死後真っ先に寝返る事の方がメリットが大きいのは解ってたはず。
それをしなかったのは、三成の人柄だろう。恥を知るってとこかな?

徳川の世の中になってから、浅野は「三成が在世中は世の不正を同様に憎んでいたが
三成が居なくなったらさほどの事とも思わなくなった」と語った逸話がある。
三成ってのはそうゆう人だったんだよ。
496無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 21:46:02
当時の人の眼から見てやはり変わった人だったのかもね。実利主義の戦国末期で
まるで南宋末期の文天祥の如き行動だったと思う。とここまで書いててふと思ったが
もしかして頭脳明晰な三成の事、大陸の歴史上の烈士達の事も知っており、歴史上の
偉人になぞらえて青史に名を残さん、という秘めた思いがあったのだろうか・・・。
ともかく利己的な意味での無用の役を起こしたとの意見は合点がいかないな。
室町末期の将軍候補を担いでの戦とは全く異質だと思うよ。
なにより494でかいたとおりまともな野心家なら一もニもなく家康に擦り寄っていくわな。
わざわざ挑みかかって一かばちかの大博打を打つ必要がそもそもない。
497無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 21:48:45
>>495
あと、徳川政権のもとで豊臣小飼いの有力大名が存在するのが難しい事も知っていたのかもね。
細川や黒田は、秀吉無しでも一応の権力地盤を持っていた。
秀吉無しでは、何やってたんだか分からないような連中は徳川の日本には必要無いだろう事をね。
例えば、浅野、両加藤、福島、増田、石田辺りは、秀吉がいなければ、武士だったか、もし武士だったとしても大名では無かった連中。
徳川のもとで厚遇されたのは、浅野だけ。もしかするとこれは高台院の影響があったのかも。
498無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 21:53:31
引責隠居して政権から外されたからでは?
同じ理由で浅野も蟄居
499無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 21:59:19
>>497
それもありだね。先が見えていたという訳だ・・・。
だとすると三成は両加藤・福島なんかの振る舞いを見てて歯がゆかったに違いない・・・。
何故分からないのか、と煩悶としただろうね。
こういう風に考察を加えていくと石田治部少輔三成という人物はやはり興味深い
人物だとあらためて思う。
500無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 22:03:58
僕には難しい事は分かりません。
ただ言えるのは>>484のソースは漫画と小説だけだってことです。
501無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 22:31:07
>>500
いや、徳川御用史観がそうらしいが

しかし、そこまで三成を貶めなければならないとすれば
三成が実は相当な忠臣だった証拠になると思うが

戦前、将門とかが貶められたように
502無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 22:40:08
>>501
だからさ、徳川の時代になってからも石田三成は悪人だっつー風に
広められてたらしいけど、それに異を唱えたのが、あの水戸黄門様よw

三成が家康に弓引いたのは豊臣の臣下として当然であり褒められる事だ。
福島や黒田なんぞよりよっぽど偉い!と賞賛したそうだが、当時はそうゆう意見を
言うのは危ない空気だったけど、黄門様じゃしょうがないだろうって将軍も
苦笑いしたそうだよ。
503無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 22:53:00
水戸家は、まさに徳川の獅子身中の虫だったからな
何と言うか、御三家として徳川幕府安泰の為に作られたのに
光圀辺りから尊王思想が家風になって、
後の討幕運動の精神的支柱になっちゃうんだから、
親族に厳しかった家康も開いた口が塞がらないだろうな
504無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 22:57:00
水戸家としてのアイデンティティ、イニシアティブを握るためだったかとも邪推できるが
ちょっと危険思想だよな
よくガチガチの徳川本家が許したものだ
505無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 23:21:54
水戸家同様尾張家も反抗的なんだけど、なんか反抗の種類が違うよね。
水戸は言いたい放題!って感じだけど、尾張は取って代わりたい感じが満々とある。
紀伊も8代以前は反抗的だったけど、割りと以降御三家の中では優遇感があったから、大人しくなった。
三成の評価の事もそうだけど、光圀は水戸という御三家の新参者に独自の価値観を持たせる事によって、徳川という天下を統べる家の偏りを防ぐ役割を担わせたかったんだと思う。
まあ後々その通り行ったかは別として
506無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 23:58:05
>>492
ビミョー
507無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 00:03:00
>>505
紀伊の同母弟なので、一般的に水戸は将軍家の継承権がないとされていますね。
508水戸黄門:2005/09/09(金) 00:14:38
いっつも思うけどちょろっと言っただけなのに
異を唱えたやら大絶賛したやら論文でも書いたかのような反応だよな。
509無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 00:16:24
>>508
よっ!悪人!
510無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 00:32:26
もともと西軍に勝ち目など無かったのだよ
511無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 00:37:15
>>510
あぁぁぁぁぁぁぁぁ・・・・それを言っちゃあ・・・。

会津征伐軍が反転してくるのが早かった時点で、西軍のプランは破綻してるからね。
畿内制圧も征伐勢が上杉とやりあってて、戻って来ないうちに完了させ、福島正則も同調してくれて
悠々と家康を迎撃するはずだったんだけど。

戻ってくるの早過ぎ。
512三成:2005/09/09(金) 00:52:50
ぶっちゃけ

・数が少ない
・本来は徳川に加勢する為に上ってきた
・無駄に戦闘力が高い

扱いに困るよね
近くに居てほしくない感じ 
513義弘:2005/09/09(金) 01:01:15
ぶっちゃけ

・机上の空論を語りたがる
・理想論ばっかで現実見えてない
・疑心暗鬼で挙動不審
・人の話し聞かない
・ピンチになったら人に頼る
・こっちがピンチの時は人を見捨てる

扱いに困ったのはおいどんでごわす
514増田長盛:2005/09/09(金) 01:06:03
ぶっちゃけ

・人巻き込むな
・輝元出て行け
・内府も何か返事寄こせ
・淀君黙っとけ

扱いに困る連中しかいない
515輝元:2005/09/09(金) 01:35:22
ぶっちゃけ

・メンドイ(;´Д`) 三成の相手は恵瓊やっとけ
・タリー タリー ⊂(´Д`⊂⌒`つ  秀元逝って来い
・(´ρ`)ネミー・・・・・・ 広家、家康の相手でもしとけ

扱ってもない
516秀秋:2005/09/09(金) 02:35:17
ぶっちゃけ

気がついたら周りが西軍

嫌だと言ってるのに何回も関白にすると言ってきた

考え事してたら鉄砲撃たれた

しょうがないから西軍攻めたら裏切り者って言われた
517正則:2005/09/09(金) 02:37:47
ぶっちゃけ

三成ぬっころす

ぬっころしたら、徳川にすり寄った?
ハア?
518秀元:2005/09/09(金) 08:35:18
ぶっちゃけ


こんどの戦争はどーなってんじゃ?
親父殿が総大将とおもっていたのに??

きーきーうるさい奴は大将面して、攻めろと五月蠅いし

叔父ごは まぁ待てと戦いに加わらない。

ふだん説法をたれまくる ぼーずは スルーよろ。


しょーがないから 弁当つつきながら 時間つぶしたヨ
519無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 10:13:24
西軍ファンだけど、やっぱり西軍の勝利は難しいわな。
それでも勝利の可能性を探るなら、できるだけ現実的な戦略案はないだろうか。

◆徳川が圧倒的になる前、前田利家在世中に家康が上方にいる間に屠る。
◆家康暗躍に対抗し上杉・佐竹・島津には具体的な戦略案を作成・提示していく。
◆伊達・最上には西軍加担と上杉との不戦条件で西軍勝利後に伊達には旧葦名領、
 最上にも相応の加増を大老衆・奉行衆連名の秀頼書状で確約する。
◆戦場に秀頼の馬印持ってくるor秀頼を輿に乗せて出陣。

皆さん如何ですか?
 
520無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 10:18:45
>>519
却下
521無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 10:35:48
1:前田利家には、家康に対抗出来る器量は無い。戦上手だが政略はからきし
2:出来る奴がいない
3:豊臣家が動かないから無理(関が原は家臣団の内紛みたい扱い)
4:三成にそこまで請求出来る権力は無い

つーか、過去レス読め。
読めば全部否定されてる事がわかる
522無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 11:59:35
>>519
全部無理な作戦案だな。
可能性としてあるとすれば秀頼の馬印くらいか。
あとは三成が関ヶ原に出ないで大阪城待ち組だったら
面白い展開になったかも。

>>521
利家が戦上手か?槍の又左とか言って一騎がけの武者としては
武勇あったけど、指揮官として勝利した戦なんて殆ど無い。
523無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 12:58:10
利家最大の存在意義は、武士としてのキャリアと誠実さ、先人としての威厳じゃないか?

利家がいれば豊臣家中の武断派vs官僚 の争いもあそこまで悪化しなかった
のではないかと思う。

家康も上杉征伐を起こさなかっただろうし、上杉征伐が実行されたとしても、
三成は挙兵には及ばなかったんじゃないかな?

524無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 14:12:20
確か利家がしんだ後に三成が襲撃された

利家はイイ意味で豊臣の重しだったんだろうな

しかし利家には戦争を起こしてでも徳川を排除しようと言う気はなかった

何故か武断派が家康についているから、負けないにしても必ず勝てる戦いではない

総大将としての能力は明らかに家康が上

そうなると三成のように負け戦になりかねない

そうなるとかえって豊臣を害することになってしまう
525無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 14:29:42
もし長引いたら応仁の乱のようなことになっていて、また戦国時代に戻った。
526無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 14:32:44
今で言えば、徳川排除は、郵政と道路公団と公務員と年金を一遍に改革しようというようなものだろ

やりたいけど、なかなかできない
527無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 14:37:02
>>525
如水が大喜び。
528無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 14:42:46
今でいえば、竹島、北方四島、武力奪回と中国ガス施設の爆撃のようなものだろ、同時に
全面戦争だから、もっとすごいか
529無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 14:52:40
そういえば、戦乱が長引けば、本当に如水は頭角を現して
家康との一騎打ちが出来たのだろうか?
530無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 15:21:24
>>524
やっぱり器量の違いと言わざるおえないな。言っちゃあなんだが
利家なんて、せいぜい10万石程度の男だろ。それが秀吉の友誼で
取り立てられただけだ。

利家は「内府違いの件」で大阪城下で家康vs大老衆の合戦にまで
騒ぎが広まった時に勝てるチャンスがあった。てか攻めれば戦力的に
圧倒的優位だったから勝てたにも関わらず、攻めなかった。

何故か?利家自身も解ってたんだろう。徳川とじゃ器量が違うって。
ビビってたんだよ。病気で弱気になってたしね。
531無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 15:23:26
>>529
無理だと思う。何故なら九州には戦力を温存したままの島津がいたからね。
如水なら島津を抱き込んで徳川と対抗するってやると思うが、そうなると一騎打ち
じゃないしね。あと、鍋島直茂もくせ者だしさ。
532無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 16:48:22
利家個人の能力よりも豊家重鎮としての重みだろう。また文治派・武断派と分断して
いる豊家子飼いの大名達をまとめあげるのは加賀大納言しかいない。
>>530の言う通りで実力の差を埋める最良の方法とは奇襲。だが三成や清正らだけでは
共闘するのもままならない。そこで戦歴を重ねた古強者の利家が率先して家康を
襲うというのが最良だったのでは、と思う。
家康vs利家で関ヶ原やろうって意味じゃないだろう。
533無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 16:55:09
まぁ上杉・伊達・島津・毛利などは混乱の長期化を願っていたはず。混乱期に稼ぐだけ稼ごうって
ハラはあったと思うが、その後天下を狙うかどうかまでは考慮してないだろう。
なるほど西軍はバラバラのヨレヨレだが、戦は水物でどんな拍子で流れが変わるか
読めないし、とりあえず手近なところを攻めておけってかんじだろ。
誰かも上で書いてるが応仁の乱後の様に「天下、麻の如く乱れる」ってことになったろう。
534無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 17:40:02
>>533
ちょっと違うと思う

上杉:領土拡大の意欲はあるが、天下までは・・・

毛利:みんなで仲良くしようよ・・・

伊達:野心満々、領土拡大してあわよくば天下まで狙っちゃる!

島津:どーせ家康と大老衆の内輪もめだろ?(空気読めてない)

こんな感じだと思う。
535無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 17:55:29
家康が奉行派に味方して、先に武断派を一掃する戦略は無かったのか?
536無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 18:03:02
>>535
え―ッ!考えもしてなかったが面白いね。だけど仕掛けるのが難しいかも。
三成襲撃事件を盾に、武断派七将に城下に無用なる私闘を徒党を以って起こした咎で閉門・蟄居を
大老衆・奉行衆の命じる。武断派七将が不満を見せれば討伐。
牙の抜けた豊臣家奉行衆を・・・、ってやっぱり面倒かもね。
何よりも蟄居を命じられた七将は恐れ入って本当に恭順する可能性大かも。
騒動の種がないと家康も大鉈振るえないしね。
537無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 18:11:53
>>535
面白い考えではるが、ダメダメだと思う。
武断派を一掃するとしよう。恐らく三成もそれは邪魔しないと思うが
じゃあ何処まで叩くか?取り潰しとまでは行けないでしょ。

仮に取り潰しまで持っていけたとしても、それは家康の領地にはならない。
奉行衆が管理する豊臣の直領ってなるだろうね。

こう考えてみると、家康の七将取り込み作戦は絶妙だと言えるなぁ。

その七将叩くって発想は凡将が考えつきそうな作戦だ。
いや、>>535を馬鹿にしてるんじゃなくて、豊臣の手足をもぐって直線的なとこがね。
538無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 18:14:02
>>535
こざかしい奉行派よりバカ一直線な武断派の方が御しやすいのです。
武断派は豊臣政権を維持するのではなく、豊臣家を徳川政権内で
維持出来ればいいって考えに傾きやすいと言うか、半分傾いてるって言うか…
その時点でもっとも強いものが政権を牛耳るってのは わかりやすいシステムだから。

奉行衆はやはり豊臣政権に未練があるのですよ>自分の仕事なくなっちゃう。

清正→小西との肥後国分割に不満たらたら。
三成→遠くの大国より都会の小国

この辺がポイントかと。
539無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 18:19:38
>>519
>西軍ファンだけど、やっぱり西軍の勝利は難しいわな。
それでも勝利の可能性を探るなら、できるだけ現実的な戦略案はないだろうか。

ここまで丁寧に言っても、その後に続くレスは、にべもない。
「却下」「過去レス読め」「全部無理」とかさー。
>>519さんは西軍が勝てないと認めた上で、東軍厨のあんたらに「ではどうすれば勝てたのでしょう?」と真摯に教えを請うてんだよ。
東軍厨は、なにか代替案だせよ糞ボケ。このレスの流れをみるだけで、おまえらカスのごとき東軍厨の狭量が一目瞭然&吐き気がするわwwwwwwwwwwwww
「全部無理」等の否定する行為は>>519さんに対する回答になってない。さっさと答えろよ、カス東軍厨さんwwwwwwwww
まさか西軍の勝てる可能性が思いつかない程、糞石頭集団ってわけじゃねーでしょう?おまえらwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
540無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 18:24:32
西軍は勝てないと認めた
     ↓
ではどうすれば勝てたのか?


勝てないと認めたのに、勝てる方法を教えろという矛盾
541無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 18:26:48
>>535
東軍に付いた面子は家康と個人的繋がりがあったから。
戦略ではないよ。
542無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 18:39:11
wwwwwwwwwwwwwwww>>540みたいな賢しらぶった糞野郎が湧いてきましたよwwwwwwww
史実の状況では勝てないと認めたんだろーが。
では最低どーすれば勝てたんだって聞いてるんだろ?わかるか?この田子作wwwwwwwwwwwww
543無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 18:39:23
>>539殿
御声援、かたじけない・・・。

>>540
西軍勝利は困難だけど、勝てないとまでは書いてないよ。
あんまり荒唐無稽では語るに落ちるって事もあるけど、だからこそ
出来得る限り現実的な線で語れればと思った次第。
2ちゃんだし、多少の中傷誹謗は覚悟で書いてますが、日本史板じゃなくて
三戦板だし、大目に見てやって下さいな。
東軍方の皆さんも、こうなったらヤバかったってな意見もあるかと思いますしね。
御意見待ってます。
544無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 18:40:58
西軍厨が火病起こしたw
しかもage忘れw
545519:2005/09/09(金) 18:41:12
>>543は私(519)です。
546519の現実的な戦略:2005/09/09(金) 18:41:55
◆徳川が圧倒的になる前、前田利家在世中に家康が上方にいる間に屠る。
◆家康暗躍に対抗し上杉・佐竹・島津には具体的な戦略案を作成・提示していく。
◆伊達・最上には西軍加担と上杉との不戦条件で西軍勝利後に伊達には旧葦名領、
 最上にも相応の加増を大老衆・奉行衆連名の秀頼書状で確約する。
◆戦場に秀頼の馬印持ってくるor秀頼を輿に乗せて出陣。
547無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 18:46:07
てか秀吉が在世中に徳川潰しとけば良かったんだよw
548無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 18:55:15
>>546
話題提起は良いけど、自分自身の考えを書かなかったら、
過去レス嫁!とか、却下、とか言われても仕方ないと思うよ。
だって、何度もそういうお題で話は繰り返されてるんだから。

とりあえず、519がそれを実現可能とするには、どうしたら良かったのか書いてみてよ。
549無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 18:56:44
>>547
それをいっちゃあ、おしめぇよ。
550無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 19:10:45
スレ違いだが、秀長が長生きしてても家康って天下狙ったかな?
利家に秀長の代わりをさせたが、家中統制能力で及ぶはずもなく…
流石に奉行派も、武断派も秀長には無条件に従うだろうし、特に三中老や蜂須賀なんかは秀長の指図を忠実に守るだろう。
ただ書いてて思ったのは、秀長が長生きしてたら、秀次の件も朝鮮の件もどうなったか分からないし、もう考えるとキリがないかも。
551519:2005/09/09(金) 19:14:17
>>548
いや、だから西軍が現実的な方法で善戦していく方法は無かったか?という
問題提起の上で>>546氏が貼ってくれた方策を書いたつもりなんですけど。
とりあえず書き足します。
1)家康:上方で打破
  「内府違いの件」で家康派と利家派で一発触発の状態になった際に、利家一人に
   舵取らせないで積極的に毛利・宇喜田や奉行衆が加担し、故太閤遺言への違反
   の咎で関東から増援がくる前に短兵急に攻め寄せる。これには豊家守護という
   精神的な意味合いから加賀大納言しか適任なし。決して前田を大将に関ヶ原などと
   いう意味ではない。
◆西軍諸将への各々の戦略的役割の徹底
   史実は上杉・佐竹・島津等の大名達の動きはどうも密約などに裏うちされた綿密な
   作戦計画は無かったような感じ。そこで前田利長屈服の前後は諸大名の間で次は我が身
   という思いがあったであろうから、それを大老・奉行連署にて綿密な計画を作成、伝達。
   無論、勝利後の恩賞・官位についても通知。
つづく
552無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 19:17:08
>>550
家康はずっと天下を狙ってた訳だが、秀長が生きてたら
難しいだろうなぁ。秀長はある意味、秀吉より人望あったからね。
領地もそのままなら100万石あった訳だし、家康ならそれでも何とか
狙っただろうけど、、、
553無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 19:23:53
>>551
史実の西軍を見ると、緒戦全般的にかなりの評価を与えていいとおもう。
まず一個づつ西軍のかなり不味かった事を考えると、まず最初に来るのは早すぎる岐阜城失陥でしょう。
織田勢4000+石田援軍2000=6000もの兵士が最初から籠城に徹していれば、東軍先鋒が30000近くいたってどんな城でもかなり持ち堪えるはず。
ましてや鉄壁との評判がある岐阜城。
早すぎる失陥の原因は、長良川を挟んでの緒戦で惨敗して、兵士を散らしてしまったから。
ではどうすれば織田秀信の方針を、籠城に徹底させることが出来たか?
ここら辺から考えるべきじゃないか?
554519:2005/09/09(金) 19:25:01
続き
3)伊達・最上の抱込み
  西軍への事実上の加担と上杉との不戦を条件で西軍勝利後に伊達には旧葦名領、
  最上にも相応の加増を大老衆・奉行衆連名の秀頼書状で確約する。
  これによって上杉の対関東への作戦面での自由度を向上させ、徳川の軍勢の拘引を
  より現実的なものとする。佐竹の援護が加われば、家康は江戸から動けなくなるか、
  関東に相当数の留守部隊を置く必要があり、上方での西軍に兵力的に優位に立たせる
  可能性と戦局全体に徳川包囲のイメージを強くさせることで東軍諸将の切り崩しの端緒
  にもなり得るかと。
4)戦場に秀頼の馬印持ってくるor秀頼を輿に乗せて出陣。
  これが最も実現性高い。誰かが書いていたが豊家は家臣の争いとみて
  関わらなかったかもしれないが上記3)の要素が実現すれば秀頼出陣案も
  実現の可能性はないとは言えまい。
長文ですいませんがこんなとこです。皆さんの御意見宜しくどうぞ。



555無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 19:31:37
>>552
確かにそれでも家康は天下を狙ったとは思う。
現実問題として、関東という畿内と交代で政権を担った地域に、250万石という諸候断トツの領土を持つ徳川は天下人という地位にしか収まり所がないし。
さもなくば、いずれ潰されるだろう。
また秀長は、豊臣陣営で最も徳川の脅威を認識してた人物。
結局の所秀長が秀吉より長生きしたら、家康と雌雄を決する事になるだろうな。
秀長若干有利か?
556無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 19:56:31
>>551
それぞれに面白い仮説だと思いますし仮説なんだから正否判定は出来ませんが、疑問点をあげます。
1)あの大坂―伏見対立の際が家康の首を挙げる絶好期であったとは思う。
榊原来援後は、兵力的な優位性を失ったが(宇喜多、毛利がそれぞれ数千を持ってきたのでそれでもほぼ互角)畿内に最も早く兵力を送れて、退路を絶つ佐和山、水口、郡山など尽く大坂方で、本気で戦う気になれば、少なくとも互いの全力でぶつかるよりは、勝ち目があった。
ただ毛利、宇喜多などが積極的に関与とあるが、あの時期天下最強の徳川相手に一歩も引かないで対峙出来たのは、同格の大老たちが一歩引いて前田を皆が立てて、その元で団結したため。
そのお陰で、利家が指導力を発揮出来た。よって毛利、宇喜多、上杉らが表立って指導力を行使するのには疑問。
それとこれが致命的な問題なんだが、史実ではこの対峙から一年も経たないで、利家が死んでいる。そこから考えると、自他共に健康状態には疑問を持っていただろう。
長期戦は論外、短期戦でも寄せ集めの軍は利家の陣頭指揮を必要とする。それに対し、利家も周囲も自信は持てなかったと思う。
557無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 20:12:19
>>551
次に2)について…
まず大老、奉行連名してのものは、豊家の公文書扱いになるため、当然筆頭大老抜きに発行は出来ないし、筆頭大老を疑わしきを罰するなどと公に許される筈もない。
よって秘密結盟になると思うのだが、後世の我々から見れば明瞭な諸候の色別けも、当時はっきり分かった人間がいるはずがない。
よって作戦立案の最初の一歩である、彼我の戦力分析が出来ないので、明確な作戦自体作れるはずがない。
ただごく短時間であるから見過ごされがちだが、上方で決起してから決戦までの間、ここで上方と会津でもう少し有効な連絡、打ち合わせが出来ていたら、大分違っていたかもしれない。
上方と会津で連帯するという確認と、上方の戦力規模の報告。これだけでは無く、どのように共同戦線を張るかの提案を積極的にするべきだったと思う。
558無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 20:32:05
3)
最上は家康が来ないなら、上杉と単独で戦う気は全くなかった。義康を人質に出してでもと、和解を提案している。
伊達は会津征伐が行われるものと早とちりして、白石城を電撃作戦で奪取したが中止後はむしろ南部領に謀略の手を伸ばし始めている。
つまり両者共に徳川への忠誠心などさらさらなく、自家保全、領土拡張のみが目的。
そういう意味では確かに仰る通り、勝つ見通しと加増約束で転びやすい。
ただ大きな問題がある。
政宗が欲しいのは会津。義光が欲しいのは米沢と庄内の上杉領。
どちらも上杉の土地を欲しがっている。まさか味方である上杉の土地を、戦後あげますとは言えない。
移封には莫大な費用がかかるし、街割り、築城、検地、越後よりの移住など上杉は会津にそれなりに投資しているので、今更会津から越後を中心とした場所に移れとは言いにくい。
普通に考えると、戦後上杉領は越後を加増されるというところだと思う。
559無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 20:45:50
4)
無いとは全く言えない。ただかなり難しいとは思う。
関ヶ原戦役中、大坂に眠る金銀を一切使えなかった事で分かるが、そもそも豊臣政権と、豊臣家とは全く同一視出来る物ではない。(無論豊家の人間が、政権存続の最大の利害関係者ではあるが)
例えばトヨタの奥田会長が、豊田家の財産になんの関係もないようなもの。
関ヶ原とは、徳川vs豊臣ではなく、徳川vs豊臣政権であったという認識が当時の最大公約的な物だったのだろう。
加藤や福島は、政権の現執行部vs筆頭大老である徳川と思っただろうし、三成や秀家は豊臣政権そのものと徳川の対決だと思った。そういう認識はあっても、豊臣家そのものと徳川の対決とは、もしかすると家康すらはっきりと認識はしてなかったのでは?
そう考えると千成瓢箪が関ヶ原に掲げられる光景は、いかにも不自然かもしれない。


とまぁ色々と疑問を呈しましたが、最初書いた通り正否判定は難しいですね。
ただ俺も西軍に勝ち目が全く無かったとは思わないです。大坂の陣よりは少なくとも勝ち目があったと思いますよ。
560519:2005/09/09(金) 20:46:44
>>556
御指摘ごもっとも。御説の通りの仮説ですから。
その上で語っていきますが、せめて対徳川で積極的であった宇喜田勢の来援を待つか、
時の勢い、つまり戦機を優先させ前田・石田らで一気呵成に攻め立てるかの2通りあるかと
思います。
現実の西軍のていたらく振りからこのシナリオはムリめだったとは思いますが、他の3案に
よるよりは最も即効性があり、家康お得意の野戦でも、謀略でも、大軍を手足の如く使う
使う術も要らず、家康の持つ戦略的優位性を活かさせないで勝敗を決する最大のチャンス
であったので、ここで西軍に行動させるには利家に「今が時なり」とでも思って頂くほかは
ないですな。
561519:2005/09/09(金) 20:57:55
>>557
でも徳川に対して結局は五大老筆頭ぬきで家康討伐令は出されたと思ったけど。
う〜ん私の仮説は上杉―石田でさえ具体的な密約らしきものは無かった、という
前提なので、いま少しでも密約が密約としてあれば、という考えで書きました。
ですから557の下のほうは全く賛成です。島津はもうちょっと兵隊連れて来いw、
という程度の意味ですね。
この方策は特に佐竹ですね。佐竹の半端な動きは漠然として上杉との反徳川と
いうのはあっても具体的な方策なかったと思われます。これをせめてなんとかしたい
ですね。それには3)の伊達・最上の抱込みが前提条件かと思います。
562519:2005/09/09(金) 21:07:19
>>558
最上は加増転封です。おっしゃるように転封はコストかかりますが史実でも福島・両加藤・黒田と
みなみな加増転封を受け入れていますので、問題ないかなと判断してます。
ただ旧葦名領は厄介ですね。2)の条件とも関係してきますが上杉への密約条件に
越後加増の上で上野あたりで加増と旧葦名領を相殺というような感じでしょうか。佐竹にも
加増するとなると西軍は徳川との和睦はムリですな。たとえ勝っても西軍には厳しい現実が
迫ってくることは間違いないですね。
563556:2005/09/09(金) 21:16:05
>>560
これに関しては意見の違いの原因は、>>560さんとのごく単純な認識のズレだと思います。
私は利家が「時は今なり!」と叫んだ瞬間にぶっ倒れて白山鳴動、くらいの状態だと思いますし、>>560さんは当時の利家の気迫から、短期間の戦争指導に耐えうると思われているのですね。
>>561に関しては、公文書と言う秘密を守れない形になるにも関わらず、その効力正統性に疑問がある。という事を言いたかったです。
事実関ヶ原の決起の際の文書には、豊臣政権公文書としての価値は少なかったと思われます。ただ家康への弾劾の際に三中老?が出馬したのを見ると、言われる通りやはり正統性は多少なりともあったのかもしれません。
島津は実権を龍伯が握り続けていたらしいですよ?
佐竹に関しては、かなり難しい位置にいますからね。ただ確かにあの組下含めて80万石の実力は、私のような西軍厨には垂涎の存在です。
564519:2005/09/09(金) 21:19:35
>>559
う〜ん、これは貴方の言うとおりですね。簡単そうだったけど意外に
難しいなあ。兜を脱ぎます。
だいたいからして豊家の態度が勝敗を決したようなものですからね。
大阪の陣といい、淀君は癌ですな。

ごもっともな指摘をご丁寧に書いて頂き、感謝致します。
やっぱり他の人とこうした議論するのは有意義でした。誹謗覚悟で書いた
甲斐がありました。ありがとうございました。
565無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 21:27:29
>>564
いえ、私も勉強になりました。ありがとうございます。
歴史には色々な楽しみ方、学び方があって良いと思うので、このように狸をどうやったら退治出来たかを考える機会を与えて貰い感謝します。
566519&560:2005/09/09(金) 21:31:47
>>563
おっしゃる通りです。戦争指導というより奇襲作戦ですから一戦で決すべし、です
ので寿命が短くてもヨシです。
一戦して家康を逃す事があれば、全ての責めを負うことになり関ヶ原を待たずに西軍
首脳部潰滅ですから。一戦に全てを賭すわけです。ある意味これこそ決戦でしょう。

それから公文書の形になれば増田長盛らが通報したでしょうけどね。問題は密某相手に
戦略意図が通じることですので。東軍が出してる密書に至っては五大老の私信ですから
それよりは効力あるんじゃないかな、と。

島津はあんまり詳しくないんですが竜伯と惟新の関係とか伊集院の絡みって
どうなってるんでしょうか。

567無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 21:33:52
>>564
まともなことを書いても、誹謗されることがあるので
誹謗はしょうがない
568519&560:2005/09/09(金) 21:38:33
>>564
いやいや私こそ同志を得たような気持ちです。こんな議論は普段出来ないですし、
楽しいひと時でした。今日は落ちますが、またこのような議論ができればと
思います。それでは御免!
569無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 21:38:34
利家は自分の家が滅んでもいいから家康を倒すという気はなかったと思われる

100%勝てるならやったろうけど、あの時点でギャンブルする気はなかったんじゃないか

息子には天下を狙うなということで、前田と徳川の実力では難しいと考えたんだろ

それから豊臣家が分裂しちゃっているのも厳しいね

三成を殺すとか・・・・
570519&560:2005/09/09(金) 21:41:12
>>568
アンカーミス。
正しくは>>565殿宛てです。
カッコわりいや・・・。


571無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 22:14:41
豊臣家の最大のミスは徳川家に関東に250万石も与えてしまったことだよね。
確かに中央政権からは領国は遠くなって兵は動かしづらくなったけど
動員兵力自体が大きくなってしまったし。
せめて徳川家を中心に朝鮮出兵させて疲弊させておけばよかったのに。
572無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 22:14:51
>>558
>伊達は会津征伐が行われるものと早とちりして

 早とちりも何もない(苦笑)。6月上旬に大坂城西丸で行われた軍議の席で、
 家康自ら諸将に会津征伐を行う旨の申し渡しをしているわけで。
 この席にいた、伊達政宗、南部利直、最上義光らは、その意を受けて、東国
 へ帰国した。 
573無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 22:40:10
>>571
同意、255万石って豊臣直轄領と大差無いんだよな(;´д`)
574無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 22:57:10
>>519さんや、それは過去レス読めば全部書いてあることなんだよ。
運良くまともに相手をしてもらえたようだけど、
一般的に言って、過去レス読まずにループネタを投下するのは失礼なことだ。
つまり、あなたが幾ら丁寧な言葉でレスを書いても、それは慇懃無礼というもの。
とりあえず、今後は気をつけたほうがいい。
575無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 23:12:06
上杉景勝や伊達政宗が西軍として関が原の参戦していれば、どうなったであろうか?
576無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 23:16:18
参戦出来ないからどうにもならない。
577無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 23:17:34
>>573
豊臣直轄領と徳川領を同列に扱うのは誤り。
徳川260万石というのは家臣の知行地すべてひっくるめたものであり、
豊臣でそれに対応するのは、豊臣直轄領以外にも加藤清正や石田三成ら
譜代の家臣らの領土もすべてあわせたものであろう。
豊臣の内紛さえなければ徳川はなお豊臣の力にははるかにおよばなかった。
578無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 23:19:22
マッカーサーだったっけ?
関ケ原の布陣を見て、西軍が勝つと...
もし、西軍が関ケ原で勝っていたら、富士の合戦はあったかもしれんね。、
579無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 23:22:43
メッケルも形無しだなw>>578
580無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 23:27:20
>>577
いや、それもちょっと違わないか?
豊臣政権内では家康は福島や石田と同様に豊臣の家臣の一人に過ぎないでしょう。
その中で最大最強の実力と権威を持っていただけで。
家臣の領土も豊臣の領土というなら、家康の領土も豊臣の領土になってしまう。
問題は家臣の一人に過ぎないのに、主君の直轄領をも凌駕するほどの領土も持っていたこと。
つまり政権内で、あまりにも強大な立場に立っていたということだと思う。
581無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 23:34:01
>>577
封建時代だからね、一度大名という立場にしてしまうと、
家臣とは言っても微妙に立場が違ってきてしまう。
徳川幕府だって政権が確立してしまってからは、
徳川家の直轄領である天領と譜代親藩大名の領土は別物として扱うでしょう。
だから、豊臣家の直轄領と徳川家の領土を比べるというのもまんざら間違ってはいない。

まあ、それ以前に、徳川幕府下で徳川家の天領に匹敵するほどの領土を持った大名、
というものを想像してみれば、細かいことを言わずとも、
それがどれほど強大な存在か想像がつくと思うが。
582無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 23:39:23
江戸幕府の天領:約400万石
豊臣家直轄領:225万石

アヒャヒャヒャヒャヒャ
583無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 23:45:05
>>580

まあ形式的には貴方のおっしゃるとおり、福島も石田も徳川も、豊臣の
家臣として対等な立場ではあったわけだが、
徳川と豊臣と言う色分けでは、実質的には福島も石田も豊臣に属すると
考えて差し支えないんじゃない?
まあ、「家臣」である家康に領土を与えすぎたってのはミスだったかも
しれんが、家康が死ねば徳川領を100万石くらいに圧縮するつもりでは
いたでしょうがな。
584無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 23:47:01
>>582
家康は自分で政権とったときは思い切り多くしたのでしょうね。
己の行いを省みてw

まあ、いずれにしろ、主君の直轄領をも凌ぐ領土を持つ家臣なんてものは、
幾らなんでも強大すぎて政権の不安定化にはつながるわな。
585無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 23:53:55
>>583
後世の私たちはその後の歴史を知っているので、
豊臣家対徳川家という色分けで見てしまうけれども、
当初から、少なくとも関ヶ原の頃から、そう思っていたのは極少数だったと思う。
せいぜい家康本人と三成、西軍中枢ですらどこまでそういう認識をもっていたか?
普通の感覚では豊臣政権内の主導権争い、つまり家臣同士の抗争くらいのもの、
そう考えてみれば、一家臣でありながらあの領土というのは、
あまりにも強大すぎて圧倒的なものでありすぎたと。

まあ、逆に言えば上手いこと政権内部の争い程度に思わせて、
豊臣恩顧も味方につけてしまった家康の策略が優れていたのかもしれないが。
586無名武将@お腹せっぷく:2005/09/10(土) 00:13:32
世界史的に見てここまで見事に対立勢力の
取り込み&潰し合いを演じさせた権力者って誰かいるかねぇ
587無名武将@お腹せっぷく:2005/09/10(土) 00:37:37
世界史的にっていうか、
こういう政権簒奪は一つの体制内で起こるから、
どこか一国の歴史詳しく調べれば結構いると思われる。
中国の漢・魏・晋の政権交代や南朝における王朝交代は、大抵このような手法で行われるし。
フランク王国のメロヴィング朝からカロリング朝への交代や、
ローマ帝国内の王朝交代のいくつか、
エジプトのアイユーブ朝からマムルーク朝への移行も似たような感じで行われている。
他にもインドのゴール朝からデリースルタン朝での多くの政権交代も同じような感じ。
588無名武将@お腹せっぷく:2005/09/10(土) 09:25:19
>>574
519は特に非はない

返答されないことに逆切れしたのであれば、非あり

基本的にはループの繰り返し
589無名武将@お腹せっぷく:2005/09/10(土) 09:33:14
関ヶ原の戦いは、派閥抗争という面がある

家康が三成を切り札として残して置いたのもそれを評価したため

豊臣全軍対徳川であれば史実のように簡単ではないしそもそも戦う気はないのでは
590名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/10(土) 18:37:41
あと関ヶ原一連の戦いを日本という国の漠然とした意識で捉えると、戦国時代という極度の緊張状態から平和へと移行するためのガス抜きという意味が大きかったんだとも思うな。
あるいは納得できる安定状態への、分かりやすい第一歩。
秀吉は確かに天下統一を果たしたけど、晩年まで実子に恵まれないこともあって、武士階級だけでなく、商人などの一般層もその安定が長く続くとは思い難かっただろうし。
日本最強の大名が旗頭になっての長期安定を、日本国が願っていたから結局東軍が勝ったんだろう。
591名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/10(土) 19:00:58
>>588
519がどうというより、荒れたり、>>539みたいなのが湧いたりするからな。
あまりに代わり映えのしないループは望ましくないだろう。
箇条書きじゃ、話題つなげにくいし。
議論したかったら、それ相応の書き方はしなきゃ駄目って事だ。

>>589
豊臣対徳川だと、ただの反逆者になるしな。
三成なんかは、そう考えていたのかもしれないけど、他の連中は派閥抗争だと思ってたんだし。
それが家康のやり口の上手さだよな。

>>590
庶民、世間一般の空気は家康寄りだったのかもなぁ。
少なからず大名達の選択にも影響を及ぼしたのかもしれん。
592名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/10(土) 22:30:53
>>591
たらればになるが秀頼が幼すぎる
関ヶ原の時点で元服あるいは20くらいになっていれば・・・・

まああれだけの幼児であれば天下が乱れるから、それだったら実力者が支配してよ
というのは庶民・商人の本音だろうね
593名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/10(土) 23:41:29
>>591
大名はともかく、どっちかって言うと庶民・僧侶・貴族は反家康的だったみたいだね。
594名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/10(土) 23:47:49
蒲生氏郷が生きていたら、どうだったんだろ…
黒田よりは信用できそうだけど。
595名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 01:27:28
ループとか過去レスみろとかの意見もあるけど、議論尽くされてないと思ったら突っ込んで
カキコしてもええんちゃうかな。2チャンは別に考古学会でも史学部の研究でもないんやし。
そもそもスレ主の意向が「あらゆる角度から検証する」やろう?
それなのに議論が終わった後に、したり顔でスレ違いやら過去レス見ろってのはどうかと思うで。
ホンマに反論するんやったらキチンと理詰めで反論したらな、とは思う。
史実と違う可能性を探ることで、更に歴史を知ることにもなるとは思うんやがな。
箇条書き云々という意見も出てたが、具体的に仮定を詳細に記載する方が余計に
荒れるような気はするけど、どうやろね。
個人的には別に家康が関ヶ原前に「ポックリ逝ったら?」とか言うてるわけちゃうし、
人大杉なスレでもないんやからループっぽくなってもええと思うで。関ヶ原を
検証したいヒトが集まるスレやしな。
ループはアカンちゅうても、みんながみんなずっとこのスレを始終見てるとは限らんし。
そういう検討に興味無い御方は、せめて御静観願いますって事やと思うワ。
596名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 01:33:51
人に読んでもらうつもりで書くなら、
一応、読みやすくなるように努力はしよう。
597名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 01:38:37
>>595
同感

FAQ集をHPにつくるとかね

オレはこのままでいいけど

それより荒らし対策が欲しいけどね
598名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 01:40:38
おう、確かにだいぶ見にくいわな。それは詫びるで。
面倒かけてすまんけど中身も見たってな。
599名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 01:48:34
>>595
肥ゲーとか小説とかのイメージが絶対と思うのが多いのはしかたない。
何故ってここは三戦板…。
600名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 01:51:42
>>596
誰でも書けるそんな御指摘は良いから、関ヶ原の検証に値するテーマ書いてよw
601名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 01:57:07
>>595
それじゃあ言うが、
理詰めでの意見や反論を期待するなら、
最低限自分の意見も書いとくべきで(無論一応は理詰めで)
箇条書きじゃあちょっと話にならないよ。
特にずっと昔に出たものならともかく、最近出たばかりの話題なら、
それを踏まえた上で自身の意見を付け加えるくらいのことはして、
発展的にネタを振らないとちょっと不毛すぎる。
602名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 02:01:06
>>600
ひょっとして相手のレス番間違えてる?
大阪の陣で豊臣が滅んだとき。

広島を改易になったとき。


自分がかつて なにをしたのか理解していたのだろうか?
今だ三成を豊臣家心中の虫だと思っていたのでしょうか??

そこんところが知りたい気もします>正則くんヨ
604名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 08:23:10
>>603
どこの組織でも馬鹿なケンカ屋はいるもの。
時の権力者に利用されてポイ。
605正則:2005/09/11(日) 09:18:56
つか、三成をぶったたいただけだが?

オレの責任を追及するまえに、勝てない戦をして結果的に豊臣の力を失わせた
三成に責任を問え
奴が元凶

小早川、吉川が裏切ったとか泣き言言うな
それも含めて戦なんだよ
606名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 10:21:58
>>605
いかにもバカな喧嘩屋っぽくてGOODw
607名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 12:19:06
西軍が勝っていたら鎖国はありえなかった?
608名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 13:10:53
そんな事分からないよ。
家康ですら鎖国なんてことまで考えていたとは思えないし。
その後の情勢しだい。
609名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 13:18:28
西軍が勝つ=西軍派大名の権力強化となってれば豊臣政権による交易の独占は
なかったんじゃないかなと思う。鎖国は=徳川による交易富の独占だから。

西軍が勝ってたら、政権のあり方も江戸幕府とは違ってただろうな。
強力な政権ではない豊臣支配はどんな日本をもたらしたのか・・・・・
室町のように将軍権力と守護大名による権力闘争が頻発したかも。

日本にとって、パックス=トクガワーナーによる安定で
世界に遅れた部分と、逆に内部で熟成された部分があるわけで
それをどう評価するか、意見は分かれるな。

西軍勝利のあとの日本を想像するのも面白い。
610名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 13:43:47
家康も秀吉が健在のうちは何も出来なかった(しなかった)わけだが、
それだけの存在が消えてしまうと、穴埋め出来る人材が家康しか残っていなかったという皮肉。
結局、秀頼は若くして死んだから、どの程度出来たのかわからないんだけど、
秀吉の持っていたカリスマ、求心力には到底及ばなかったんだろうな。

う〜ん、西軍が勝っても戦乱が続きそうな気がする・・・・・・
611名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 13:59:24
信長が生きていれば織田政権になっているわけで、それなら鎖国は無いね
612名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 14:18:38
信長のやり方だと、本能寺の変が無くても、信長の存命中に天下統一出来たかもあやしい。
後継の信忠以下が、統一日本の施政方針を決定するとしたら、どうなるか分からない。
鎖国の可能性も充分にあったと思う。
そもそも国内の安定を最重要視するとしたら、鎖国は優れた方針である。
幕末国内外の、情報、技術格差は、江戸政権が収集、育成を怠ったから。
鎖国しても、独自の近代化は、(机上の理論かもしれないが)可能である。
613名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 15:04:26
豊臣側が一致団結していれば、いくら家康でも天下は取れなかった?
614名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 16:15:01
西軍勝利と言っても東軍壊滅まで徹底的にやるのか、適当なところで和議とするかで
だいぶ展開違うよね。
徹底したら徳川+七将及び前田(利政の能登一国を除く)や東海道筋の中堅大名の莫大な
所領が没収されるから良いけど、和議だと減封はあってもなぁ。
それから毛利・上杉ってもともと120万石もあるんだし特に上杉は勝利の暁には相当な加増
が予想されるし島津・宇喜田も100万石近くになるんじゃないのかな。
諸侯の合議政治化しそうだね。
615名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 16:59:35
そこで三成がどう動くか、豊臣政権の基盤強化が宿願なわけだから
勝利後も、三成は政治戦闘含めた戦いの連続だったかも、すごくそんな役回りだ。
616名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 17:26:05
小早川秀秋が寝返る前なら、西軍有利の和議もありえたかもしれない
東軍優位に展開していないことに家康も危機感はあったからね
小早川秀秋が寝返る確信が無いから、家康も和議を受け入れたほうが良いと考えたはず
617名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 17:30:07
小早川が寝返る前?伏見城攻めた直後ぐらい?

それ以後は西軍押されっぱなしですが
618名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 17:50:02
>>616
ないない

最悪予備の3万で勝てる
619名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 17:56:39
家康領は、近江10万石?関東240万石?だったような。
関東240万石もあったの?里見、佐竹とか別にいるのにね。
北条の最大石高が180万石だったような。
620名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 18:07:04
関東の240万石は当代記
家康の文書からは219万1686石は確認できる
そのうち、徳川家の蔵入地は120万2763石

ちなみに秀吉の蔵入地は、222万3641石
621名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 20:40:22
9月決戦で、三成反対という争点だけで大勝してしまった

本当は裏に色々あるけどね
622名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 21:56:29
西軍有利で推移して和議で終わったとしたら、家康はとりあえず五大老は免職にはなるのかな?
減封まで持っていけるかな…難しいだろうねぇ。和議にしても一戦して勝利せんと古狸相手に
交渉事で領地はムズイ。家康の蟄居と実際に戦の指揮を執ったであろう忠勝とかが他家預かり
程度かな。七将は減封あるかもね。戦争指導した石田・宇喜田・小西・安国寺とかは
相当な加増もあるだろうね。
上で誰かも書いてるけど、秀秋がこの時点でどっちにいるかってことだけど、西軍有利なら当然
転ばないで西軍になってるだろね。
東海道には宇喜田辺りが尾州・三州・遠州・駿河のうちで100万石程度で関東への押さえに
置くだろうね。相模・小田原は要衝だから徳川の減封なくても、ここは没収されそう。
大谷刑部あたりに20万石ほどで関守としておいとくと西軍としては枕を高く出来るかな、と。
623無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 00:46:08
>>622
小早川秀秋が寝返る前の、西軍有利に推移していた序盤に
和議を成立させればよかったかもね
家康だって、不安に駆られていただろうから和議を受け入れたのではないだろうか?
624無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 00:49:08
西軍有利に推移してた序盤?
序盤すぎやしませんか?
625無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 01:29:51
小早川秀秋は西軍に屈服しているに過ぎなかったわけで、東軍が優勢なら寝返るのは当然
626無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 01:37:31
>>623
そうですな。でも和議まで持ちこむのが大変だよ〜西軍。
>>624
戦場だけが闘いじゃないしね。そう言う意味では序盤過ぎるって指摘はねぇ。
627無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 01:39:13
でわ、序盤とはどの辺りを指してるのだ?>>626
628無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 01:55:16
>>627
?序盤って言い出したの俺じゃないけど…。
家康は太閤薨去からその謀略は始めているから、敢えて序盤はどこって言われりゃ俺として
はその辺。
623が言ってるのは実際に開戦して伏見城攻略とか伊勢辺りの合戦までの事で岐阜失陥以前、
という意味じゃない?
629無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 03:46:45
大谷吉継が石田三成の謀反を未然に防げたら。
630無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 08:33:03
家康は堅実だから、治世そのものは悪くなかったと思うんだが
いかんせん、豊臣潰しのやり口や大名潰しが暗く汚すぎたために
徳川の治世が家康の悪い部分ばかり真似てしまった感がある。

余計な精力がつくと反乱が起きるからって肉(四つ足)食べるの禁じたり
島原の乱からのキリシタン弾圧しかり。そして極めつけが鎖国だね。
閉鎖的な徳川らしい代表的な悪政だな。
631無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 12:24:26
>>623
あの程度の有利さでは、家康もぶとう派も、降伏する気がない

どちらが和議を結ぶにしても、主力決戦を1回はやる必要がある
632無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 13:23:34
>>614
家康は、根回しである程度、西軍内部を骨抜きにしているから
秀忠の本体抜きで温存したまま、豊臣武将同士で戦わせる余裕がある。
格下の三成相手に和議などするわけない。
633無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 13:37:02
家康が負けたとしても、(どの程度負けるかにもよるが)
九州・東北はぐちゃぐちゃ

東海道筋の大名の動向

不確定な事象が多すぎて、それらを詰めないとどうにもならん
634無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 15:24:37
>>630
切支丹弾圧は豊臣政権後期からあったし
家康自身はヤン・ヨーステンやウィリアム=アダムズを重用したり
あの時代の大名の中ではかなり先進的な思想の持ち主だったと思うがね
三成や秀頼、毛利、島津、上杉、前田こいつらが家康以上に
先進的・開放的な国家を作れたとは思えん
635無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 16:53:27
西軍方で、日本全土の規模で国家運営出来そうなのは、三成だけだなぁ。
毛利は保守主義で、しかも当主は顧問に頼りきり。
島津は遠国で自分の領土経営で精一杯(というか、地方の時勢しか見えてなかったぽいしな)
上杉は直江がいるし、カリスマもあったから少なくとも秀吉の現状維持くらいは出来たかも。
前田は、息子どもは割りとボンクラだし。

三成は秀吉の下で全国規模での政治を経験しているし、
優秀なNo.2として、重商主義を推し進められたかも。
ただ、重商主義で行く為には、中央集権でないと上手く行かないだろうから
秀頼の下で三成が豊臣政権の強化を図れたか?というと疑問に感じる。
636無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 17:33:15
西軍が勝った場合、最大勢力の毛利輝元に野心が皆無なのが大きい。
三成と輝元が健在なうちは、それなりに安定した豊臣政権が続くだろう。
二人の死後は権力争いが起こると思うが。
637無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 17:47:23
政権を安定させるためには、整った官僚機構が必要。
つまり君主がボンクラでも名もないみんなでなんとかなるなるシステム。

徳川政権は家康→秀忠の間にこれを整える事に成功したけど、
三成&豊臣家臣’sではちょと無理かな?

秀吉もその辺は理解出来てなかったよね。

信長→信忠政権ならなんとか整えつつはあったみたいだけど…
638無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 18:35:07
>>619
一応太閤検地の数字では関東だけで350万石以上いくから。
639無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 19:44:21
三成が国家運営?
官僚として雑務処理能力は優秀だが、統治するのは訳が違うだろ
640無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 19:56:36
>>639
秀吉が病気でずっと倒れてる間、誰が国家運営してたと思うんだ?
五奉行だろうが。
641無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 20:05:48
>>640
代行運営してたのは家康と利家だが?
三成など奉行はその支持に従ってる

何よりも、秀吉の死を家康に真っ先に伝えたのは三成ですが
642無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 20:08:10
っていうか太閤晩年は奉行達だろ、政府運営。だから三成は石高こそ20万石と中堅大名に過ぎないが
睨も効いたんだろう。徳川幕府だって似たようなモンだろ。老中辺りの賢いヤツが仕切ってたわけで
歴代将軍の親政なんてイレギュラー吉宗以外ナシ。
643無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 20:12:28
≫641
家康はじめ五大老は立法機関だろうが、今の国会同様彼ら自身が考えていたか
どうかは分からんわな。奉行は執行機関だから制度上大老職の下にある可能性
もあるけど、実際は根回しでやってたんじゃないの、今も昔もさw
644無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 20:15:22
政府運営が奉行達?

政策遂行をしたのが奉行、政策立案は関与してないが?
政策に関して、秀吉の意向が如何に無理難題でも準備遂行するのが奉行の役目
それに無理は無理と言って失脚したのが黒田父子

他にも、大名との取次役、直轄地の管理運営なんかが仕事
645無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 20:20:00
家康は利家以降は独裁に近いようだ
あと三成失脚以降

もちろん細かい話は三奉行が詰めるかもしれない

でも方針は事実上家康一人が決める

前田は骨抜きだし、他の大老には暴走を止める力がない
せいぜい上洛にnoという程度
646無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 20:20:46
>>643
根回し上手く出来るなら関ヶ原上手くやってる

大老が秀吉、秀頼の名前で政策を出してた
ただし秀吉死後は大掛かりな政策はもちろんやってない
大きいので秀秋の越前から筑前への再封
後は少々の加増ぐらい

秀吉死んだ後で、政策発する大老(主に家康)と遂行する側の奉行は対立するのは当たり前
結果が浅野長政の失脚、三成の佐和山蟄居
647無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 22:22:40
>>646
はは、違いないや。
もっとも根回しと暗黙了解の世界に突如家康っていう怪物が誕生しちゃったから
名奉行(ちょっと違うかw)も齟齬をきたしたって事かナ。
648無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 23:58:42
結局、5奉行5大老制なんだが、なあなあのシステムだったんじゃないか

例えば、大老と奉行が対立したらとか、意見が割れた場合どうするとか
豊臣の承認は誰が何によって決定するかなんて明記されていないのではないか

で、最終的になし崩し的に家康専制に

まあ現代日本だってなし崩し的に自民党の好きになってるんで
昔を批判できない

てゆうか400年経っても同じ加代orz
649無名武将@お腹せっぷく:2005/09/13(火) 00:01:48
>>648
豊臣の承認は家康によって決定されると決まっていただろう?
650無名武将@お腹せっぷく:2005/09/13(火) 00:05:33
>>649
そうか

そうかもな
651無名武将@お腹せっぷく:2005/09/13(火) 00:13:39
>>648
豊臣政権に中老ってあったよね。家康が勝手に婚儀進めた際の詰問使に
中老の生駒(だっけ?)と西承笑たい(字忘れた)とかが家康のとこに
出向いてコテンパンにされたんじゃなかったっけ?
中老って何だろうね?
652無名武将@お腹せっぷく:2005/09/13(火) 00:18:03
奉行にしても、欠員が出たらどうするのかとか
世襲制なのか、承認不要なのか

一時的に、三奉行になってるし

奉行同士で意見が分かれたらどうするのか

まあ家康も利家が生きてる間は詫びを入れてるみたいだが
利家死亡、三成失脚後はやりたい放題
653無名武将@お腹せっぷく:2005/09/13(火) 01:37:32
>>9
佐渡は上杉領だ
654無名武将@お腹せっぷく:2005/09/13(火) 01:40:53
>>653
誤爆乙
655無名武将@お腹せっぷく:2005/09/13(火) 01:42:45
本多正純が家康の陰謀を知っていたというソースは?
656無名武将@お腹せっぷく:2005/09/13(火) 01:48:28
とんかつ屋で言う台詞は?
657無名武将@お腹せっぷく:2005/09/13(火) 01:54:40
>>656
「みそだれとカラシくれ!」
658無名武将@お腹せっぷく:2005/09/13(火) 02:40:46
結局、島左近は戦死したのか生きていてそのまま落ち延びたかどっちなんだろうね
659無名武将@お腹せっぷく:2005/09/13(火) 12:21:07
死んでたにきまってるだろ
660無名武将@お腹せっぷく:2005/09/13(火) 17:07:18
>>651
大老と奉行の取り次ぎ役みたいな感じって言われてるけど
実際はパシリやね。関ヶ原で島左近に真っ先にやられて全滅
したのが中老の中村隊w 
661無名武将@お腹せっぷく:2005/09/13(火) 17:39:57
>>660
中村父子を馬鹿にするやつは許さない。
662無名武将@お腹せっぷく:2005/09/13(火) 21:19:06
>>661
なんで?お宅ナカムラさんなの?
663無名武将@お腹せっぷく:2005/09/13(火) 21:46:06
徳川の子孫の方が本を書いてるが
前田利家が長生きすれば家康は負けてたらしいね
清正とか正則など七戦士は母と呼ぶ秀吉の妻(おね殿、北の政所)を大切に
してた。
利家が元気で挙兵すれば、秀吉配下の武将も前田にごうりきし天下を取るべしの
考えだったみたい。
反家康の誤算は、会津の蒲生が毒殺されたのが誤算
家康など蒲生だけで勝てるとかなりの自信と、事実牽制になったたみたい
蒲生と豪姫(利家の娘の婿)宇木多家浅野、慶次郎を預かる上杉など
会わせれば家康など簡単に潰せてた
664無名武将@お腹せっぷく:2005/09/13(火) 21:54:35
なんていうほん?
665無名武将@お腹せっぷく:2005/09/13(火) 22:21:01
>>664
徳川400年の内緒話の上巻下巻とでてます
またざが取らなければ俺がとる(天下を)のべた豪胆な蒲生100万石
14歳で織田信長の人質になり初陣も14歳 あまりにも勇猛果敢で信長が惚れ
娘の冬姫と結婚させたほどの武将

40歳で亡くなり、後家になった奥方を執拗に手込めにせんと秀吉が
しつこかったらしい
側室が嫌で奥方は尼の仏門になられた。 秀吉は恨み90万石から30万石に
減らせたみたい
秀吉は誰に対しても奥方、娘を側室にしようと企む最低の男だな
細川ガラシャ(光秀の娘)にも言い寄ってたみたい
秀吉の面白いところは、血筋の良い女にしか興味をもたないところ。
いくら美人でもそれ系の女には手を出さない。
自信の出自がそうさせたのかもだけど、おかげで梅毒にはかからなかった。
当時梅毒の感染経路はなぞだったのですよ。

家康はよくわからんが ソレ系のおんなは万病の元といってやはり手をださなかった
らしい

ごめん スレ違いだ。
667無名武将@お腹せっぷく:2005/09/14(水) 09:42:22
>>665
上下巻?
一冊だけじゃないの?
というか何P確認してみるから
668無名武将@お腹せっぷく:2005/09/14(水) 10:15:34
氏郷は朝鮮をくれるならば、出陣しますよ
みたいなことを言ったらしいからな…。
669無名武将@お腹せっぷく:2005/09/14(水) 11:15:24

武田信玄公のうた
作詞・作曲:増田ジゴロウ 編曲・演奏:インビジブル・ギター男&ベース男

甲州騎馬軍団 Ride on! Ride on! 西へ東へ   Move on! Move on!
そなたの国を 攻撃! 攻撃!    そなたの領土を いただき! いただき!

人は城 人は石垣 人は堀 情は味方 仇は敵なり

かっとべ! 速きこと(風のごとく)  しずかなること(林のごとく)
イケイケ! 攻めること(火のごとく) 動かざること(山のごとし)    ×2

信玄 Let's Go!×8

最強軍団  進撃! 進撃!     魚鱗の陣で 迎撃! 迎撃!
温泉隠して Hide it!Hide it!   ほうとう煮込んで Boil it! Boil it!

人は城 人は石垣 人は堀 情は味方 仇は敵なり

板垣信方 Go!(甘利虎秦 Go!)   武田信繁 Go!(武田信廉 Go!)
飯富兵部 Go!(山県昌景 Go!)   春日弾正 Go!(高坂弾正 Go!)
真田幸隆 Go!(真田昌幸 Go!)   内藤修理 Go!(豊後守 Go!)
鬼美濃 Go!(山本勘助 Go!)    湖衣姫 萌えーっ(武田勝頼 Go!)

穴山信君 Go!(秋山信友 Go!)   真田信綱 Go!(土屋昌次 Go!)
高日斎 Go!(長閑斎 Go!)
上杉謙信 Get out!  今川氏真 Get out!
徳川家康 Get out!  織田信長 Get out!
湖衣姫 萌えーっ

信玄 Let's Go!×8
670無名武将@お腹せっぷく:2005/09/14(水) 11:15:55
誤爆しました、スマン
671無名武将@お腹せっぷく:2005/09/14(水) 11:21:10
もし武田信玄が時空を越えて関ヶ原に参戦してたら東軍西軍どちらについて関ヶ原の行方はどうなったと思いますか?
仮に兵力2万として考えてくださいませ。
672無名武将@お腹せっぷく:2005/09/14(水) 12:20:38
信玄が何を考えるかによるし、どう扱われるかにも

東軍:圧勝

西軍:総大将なら結構戦える
合戦の直前なら調略できない

合戦の前&総大将なら、家康と調略合戦で、結局西軍の勝ちかも
673無名武将@お腹せっぷく:2005/09/14(水) 12:27:33
2万もいるんじゃ、数だけで戦場の行方を決められるよ。
ちゃんと戦えば、だがw
金吾の一万五千が寝返るか寝返らないかで決着がついたんだし。
674無名武将@お腹せっぷく:2005/09/14(水) 12:41:17
つうかどこ領地よ。武田家。
やっぱ甲斐と信濃か?
戦略的に真っ先に引き込み工作せにゃあかん重要ラインやろが。
675無名武将@お腹せっぷく:2005/09/14(水) 13:18:21
信玄が東軍で謙信が西軍だったら、どうなっただろう?
兵力は、どちらも2万ずつで考えてほしい。
676無名武将@お腹せっぷく:2005/09/14(水) 13:32:16
考えろったって・・・

信玄が「おい若造!俺は本陣に山のごとく座ってるから、笹尾山を奪って参れ!さすれば、三方が原への進軍は見合わせてやるぞ。」



って家康にいう。 けんしんも「この戦に義はあるまい!義戦にあらず!三成とやら、余は帰るぞ、なにせ越後が堀とか抜かすガキが蹂躙されとるではないか!まずはそれを奪還し、返す刀で宇都宮に進撃し、息子を救ってまいるわ!」
677無名武将@お腹せっぷく:2005/09/14(水) 13:49:12
信玄が甲斐信濃を領有した状態で西軍につくと仮定する。
家康は上杉討伐が出来ない。
何も起こらない。
関ヶ原の戦いは無かった。
678無名武将@お腹せっぷく:2005/09/14(水) 13:51:32
ブた切りスマソ
9月7日に南宮山に毛利秀元、吉川が布陣
9月14日に元いた人を追い払って小早川が松尾山に布陣 であってる?

あと吉川と秀元ってどっちが偉い
679無名武将@お腹せっぷく:2005/09/14(水) 13:57:42
吉川は阿呆だよな。
真面目に戦ってれば勝ってたし、吉川家も単独で大大名になってたのに。
680無名武将@お腹せっぷく:2005/09/14(水) 14:21:02
>>679
それを言うと東軍厨が待ってましたとばかりに、反論をする。
「いや吉川が寝がえらなくても西軍は勝てない」とか。毎回それの繰り返し。
今回のスレで決着がつくかな?
681無名武将@お腹せっぷく:2005/09/14(水) 14:21:56
織田信長が西軍を率いても、東軍には勝てなかったであろう
682無名武将@お腹せっぷく:2005/09/14(水) 15:37:10
>>677
そすると、豊臣武闘派を引き連れた信玄が西軍と関ヶ原で闘うよ。
683無名武将@お腹せっぷく:2005/09/14(水) 17:00:33
マジレスすると三成の直属軍が二万あれば西軍は勝ってる。
684無名武将@お腹せっぷく:2005/09/14(水) 17:02:18
毛利輝元が3万の兵力で関が原に来ていれば、西軍が勝ってる。
685無名武将@お腹せっぷく:2005/09/14(水) 17:09:01
秀忠が上田城で真田昌幸を相手せず三万の軍勢が美濃に到着してたら
関ケ原での戦いは無かったかも。
686無名武将@お腹せっぷく:2005/09/14(水) 17:13:43
>>683
結果から見れば筑前貰ってれば2万動員出来たし
そうすりゃ諸将に対して睨みも効いたからもらっとけば良かったんだよな。

>>684
来るだけじゃなくて戦ってくれてればなw
687無名武将@お腹せっぷく:2005/09/14(水) 17:15:50
輝元が到着していれば、小早川らの寝返りが無いから
それだけでも意味がある
688無名武将@お腹せっぷく:2005/09/14(水) 17:16:25
アホだったら四方を敵に回して畿内に500万石以上の領土拡張なんて無理
689無名武将@お腹せっぷく:2005/09/14(水) 17:19:52
>>688
ъ( ゚ー^) 誤爆スマソ
690無名武将@お腹せっぷく:2005/09/14(水) 20:30:55
東軍は史実どおり
西軍は有利なタラレバ

そりゃアホでも勝てるw
691無名武将@お腹せっぷく:2005/09/14(水) 22:09:48
>>667
徳川四百年の内緒話と、徳川四百年の内緒話ライバル敵将偏でした。。スマソ
蒲生氏郷の話は(敵将偏の79,80ページです

後、青春文庫の戦国武将あの人の顛末でも色々な武将が書かれてますよ。
蒲生の武将ぶりも書いてありますよ
692ο丁児 ◆71izTCnSlI :2005/09/14(水) 22:16:39
輝元が西軍参加したというのがひとつのキーだね。
形式上、秀頼の命で会津征伐に、大老筆頭の家康が向かったわけであるから、西軍に汲みした輝元の行為は豊臣家に対する反逆ということになる。
大老である輝元の本来とるべき行動は世を転覆せんと画策する謀反人三成を捕縛することである。
それをあろうことか、大坂城を占拠し、実質的に秀頼を人質とするとは、もはや言い逃れできない。


・・・というのが世間の考えと思うのだが。
つまり、ここまで行動してしまっている以上、途中で腰砕けになって家康と和しても、無事で済むとは普通、思わないだろう。
もはや賽は投げられたわけだから、自分の行動を正当化するには西軍に付き、全力で勝つしかないのだ。
上記の論法でいったら、「安堵」などはありえんのだ。
693無名武将@お腹せっぷく:2005/09/14(水) 22:20:52
そう思わせないほど家康には「信頼度」があった>>692

逆に三成には、それだけの三成個人の「信頼度」はなかった
694無名武将@お腹せっぷく:2005/09/14(水) 23:03:32
ところで、明日関ヶ原行く奴いる?
695無名武将@お腹せっぷく:2005/09/14(水) 23:21:45
>>671
ウォーランドに逝け。
696奇矯屋onぷらっと ◆QqQquqqauQ :2005/09/15(木) 00:04:30
メナードですか。
697無名武将@お腹せっぷく:2005/09/15(木) 00:38:52
>>671
仮想戦記で武田信玄が2万の兵を率いて京に上洛しようとしたときにタイムスリップに巻き込まれて
関ヶ原の戦いの直前に軍勢ものとも現れたって仮定したらどう関ヶ原の合戦は動いただろ?
で、西軍に味方しますぞ!ってなったら面白いかも?
698無名武将@お腹せっぷく:2005/09/15(木) 02:54:44
>>693同意


家康は性軍諸国の大名やTERUMOto に性軍に属しても動かなければ悪くしないよとメール送信しまくった時にほとんど皆が従い信じたという事は三成が家康と比べいかに大名の信頼を得てなかったかというのがよくわかる
699無名武将@お腹せっぷく:2005/09/15(木) 03:06:25
>>675
東軍の勝ち
700無名武将@お腹せっぷく:2005/09/15(木) 03:09:17
>>698
まあ輝元も三成を信じたら来たわけだが
701無名武将@お腹せっぷく:2005/09/15(木) 03:16:05
>>697
てか関ヶ原に来てる旧武田家臣の家の者らは「信玄厨が舞い降りたぞ〜!」と喜びむかっていくんじゃない?
んで信玄はしばらく考えてから状況を把握する、そして戦見学にきてた住民に質問

信玄「なに、天下分け目?では甲斐の武田家は西と東どちらだ?」

農民「ぷっ!あんなんとっくの昔に滅んだずら、小山田に真田に穴山に木曽に、みんな武田を裏切っただよ。特に真田は独立して大名になって西についてるヅラ」

信玄「…じゃあ東につくか」

農民「ああ徳川家康さまズラか」

信玄「え?家康?なんであんな弱いやつが東の大将?」

農民「あんたどこの田舎もんズラ!今や徳川は天下第一の大名ずら。武田を滅ぼしたあたりからグングン来てるずら」

信玄「え?家康に武田が…」

農民「んで結局お侍さまはどちらに付くんで?」

信玄「…」
702無名武将@お腹せっぷく:2005/09/15(木) 03:19:49
>>701
信玄厨×
信玄公〇でした
703無名武将@お腹せっぷく:2005/09/15(木) 07:55:36
>>700
ノン。
家康・輝元の何れかが必ず秀頼の傍らにいなければならない。
家康が会津征伐に向かった以上、大坂城に入って秀頼を補佐するのは当然の義務で
このことに関して家康も責めていない。
断罪されたのは、西軍側として輝元の名前をを使って書状・布告等を出してしまった事が西軍荷担ととられたから。

建前としてはね。
704無名武将@お腹せっぷく:2005/09/15(木) 11:01:46
>>701
確実に信玄が生きてたら西軍につくな・・・家康が東軍の大将だし。
家康にしたら((((((;゚Д゚))))))ガクガクブルブルだな・・・戦場に風林火山の旗が翻ったら。
前にボコボコにされてるから、トラウマ状態。
705無名武将@お腹せっぷく:2005/09/15(木) 11:08:47
>>703
つか城に来るだけならそのとおりだが、何で発給したのか?
706無名武将@お腹せっぷく:2005/09/15(木) 11:09:44
>>704
武田を滅ぼしたのは織田だから、東軍につくかも
707無名武将@お腹せっぷく:2005/09/15(木) 11:13:18
郵送で不動産登記が出来るようになりました。
http://www.moj.go.jp/MINJI/MINJI79/minji79.html

登記手続きの詳細はこちらです。
登記インフォメーション
http://info.moj.go.jp/

また、登記簿はインターネットで調べることができるようになりました。
登記情報提供サービス
http://www1.touki.or.jp/

なお、法務局の無料相談窓口では、無料で詳しく教えてもらえます。
708無名武将@お腹せっぷく:2005/09/15(木) 12:16:09
>>706
武田を滅ぼしたのは、織田と徳川の連合であって
織田の単独ではないよ
709無名武将@お腹せっぷく:2005/09/15(木) 15:05:24
>>705
それは本人に聞くしかないかと。

ま、想像だが二股作戦じゃないか?
本気で家康と戦おうとは到底思えないし、
そちらの言うとおり、取り決めの為だけに大坂まで出向いたわけでもない。
とりあえず名前だけ貸して置いて西軍が勝てば良し、
負けて責任追及されたら実際に兵を動かしたわけでも無ければ>>700の言い訳もある、と。
まあそれが通じる狸ではなかった訳で。
710無名武将@お腹せっぷく:2005/09/15(木) 17:21:39
>>708
織田の中には秀吉がいた

徳川は直接滅ぼしたっけ
711無名武将@お腹せっぷく:2005/09/15(木) 17:23:47
>>709
だから三成を信じたという要素もあっただろうということ

勿論大坂城守備という名目もあるが、それだけに終わっていないので
712無名武将@お腹せっぷく:2005/09/16(金) 20:57:42
>>711
恵瓊ならその要素は充分以上にあるだろうが、輝元は微妙。
本当に信じているのなら二股なんてするか?

輝元の事を考えれば、彼は毛利一族の盟主。
どちらかに決定的に与して一族を滅ぼすことは出来ない。
自然、どちらに転んでも申し開きが出来るように行動していたと思う。
しかもどちらにもある程度恩を売りつつな、それが足下を絡めるわけだけど。
713無名武将@お腹せっぷく:2005/09/16(金) 21:05:22
>>712
本当に信じていないから、二股した

しかし全く信じていないなら二股しない

というか西軍にはつかない

輝元の性格を考えるに、両方に恩を売りつつとまでは
考えなかったじゃないか
714無名武将@お腹せっぷく:2005/09/16(金) 21:42:36
>>712
どっちに転んでもって、
毛利が西軍につかなければ、西軍側に転ぶ要素は全くなくなってしまうと思いますが。
お家の存続を図るのが第一なら、そもそも家康側につく、
戦乱の要素事態を潰してしまいますよ。
そうしなかったからには輝元にもそれなりの野心はあり、
あわゆくば自分が家康に取って代わって、という思いもあったのでしょう。
715無名武将@お腹せっぷく:2005/09/16(金) 22:15:54
なんか知らないが、大坂に来たら棚からぼた餅。
と言う感じかな。輝元。
716無名武将@お腹せっぷく:2005/09/16(金) 22:16:27
>>715
追加。
食ってみたら毒入りだった。
717無名武将@お腹せっぷく:2005/09/16(金) 22:37:46
>>716
むしろ、ネズミ団子だな
718無名武将@お腹せっぷく:2005/09/16(金) 23:15:58
もちろん輝元にも野心や打算もあるとは思う。
ただ彼の本心には、本当に豊臣への忠誠、愛情があったんじゃないかな?
秀就を秀頼の遊び相手に差し出した時や、敗北確実な大坂の陣の輝元の動き、ここを読むような人にとっては常識かも知れないが、知らない人は調べた方がいい。
それと二度に渡る領地縮小を乗り切った、手腕、家中統率力など、一大名として見ても、まず優秀と言っても過言ではないと思う。
決して二人の優秀な叔父や、優秀な家臣に担がれているだけの凡夫ではない。
719無名武将@お腹せっぷく:2005/09/16(金) 23:35:55
戦国武将としてはダメだったがな

毛利には特に豊臣に肩入れする義理はなかった
720無名武将@お腹せっぷく:2005/09/16(金) 23:39:51
>敗北確実な大坂の陣の輝元の動き

下手な動きをすれば取り潰されるがどんな動きをしたのか?
721無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 00:00:59
あれだろ?家臣を大阪方の浪人として入れたの。
722無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 00:04:34
ああ、なるほど

しかし、本当に輝元の指示で入り、それがばれたらただではすまなかったはずだが

輝元の指示というよりも、本人の自発的行為だったんじゃないか

輝元が本気で支援するつもりなら、もっと色々できたはず

取り潰されるけど
723無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 00:34:01
いろいろ説ありますが
やっぱり
長曽我部が動けば
買ったはずです
まじで

ノマノマイエー
飲んじゃおよー
724無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 00:48:57
長宗我部は東軍だったわけだが・・・・
725無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 03:41:21
蒲生を殺したのは秀吉ですが・・
726無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 03:42:08
彫塑壁元親が長生きしてたら、どうなったかわわからんけどね
727無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 10:04:57
>>722
あれって後のことは安心しろ、家族の面倒は見てやるからとか言って大坂に送り出しなんだけど、
戦後家康にそのことを責められたら、
家臣が勝手にやったことです、
あんな謀反人はうちの家臣じゃあありません、
当然その家族も罪人です。とか言って追放だか処刑だかしてしまったのではなかったっけ?
728無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 11:05:46
>>726
勘違いしてるな。>>722の言うとおり長曾我部は東軍につきたかった、
が、会津征伐のため東上して畿内にはいった時に折悪しく西軍決起、渋々西軍に。
同様に伏見入城を拒まれた島津とか、やむを得ずってのは少なくない。
そんなんで士気が上がるはずがないよ。
729無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 11:17:24
>>728
西軍の殆ど(毛利含む)が上杉やっつけてやる、と思って上洛したら、
敵は徳川、と言われて面食らったと思うぞ。
当時の大名達からすれば、会津に籠もって大老職を蜂起している上杉は
明らかに反逆に見えただろう。
730無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 11:22:53
>>727
>あんな謀反人はうちの家臣じゃあありません、
>当然その家族も罪人です。とか言って追放だか処刑だかしてしまったのではなかったっけ?

これ知らない、輝元ひでえw 清水を見捨てた話しを思い出した。

>>729
上杉は家康から帰っていいって言われたから国元へ帰っただろ?
上杉叩くつもりで行ったら徳川叩くって話しに焦ったと思うのは同意だがw
731無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 11:54:27
>>729
反逆とは思わなかっただろ

ただ当時の最高権力者が豊臣として征伐するというのでしたがわざるを得なかった

長い物には巻かれる

大谷だって行くつもりだった

もし行かないと自分が征伐されかねない
732無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 12:10:05
おそらく朝鮮征伐でろくに恩賞を貰えなかったから、みんなで上杉を
ぶっ潰して百二十万石山分けで、足しにしようと思ったのだろう。
733無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 12:17:06
適当なところで和睦して、家康の権力強化しようとしたんだろ

その前に獲物をつり出す作戦だったわけだが
734無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 15:15:26
最上攻めの時、景勝に亡き謙信が乗り移りハイパー景勝になったら
735無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 15:20:24
毘沙門天の加護で長谷堂かんらく。退却戦には退くと見せかけお得意の野戦に持っていき最上壊滅
736無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 15:30:06
>>735
ププwwwwww
謙信なんてクソ武者が乗り移ったところでゴッド最上に勝てるわけねえだろ。景勝と変わらないよwwwwwww
737無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 15:33:19
ゴッド最上なんて称号初めて聞いたぜ・・・・・・
まあ発端が、ハイパー景勝だから丁度良いのかw
738無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 15:40:09
ゴッド最上ワロス
739無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 15:49:31
ハイパー景勝は謙信が乗り移ってか
ゴッド最上には…先祖でいいのいるか?
740無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 16:24:34
スーパー毘沙門天
741無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 16:25:07
>>738
最上には八幡太郎が付いている
742無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 18:10:13
ウルトラ慶次出てくる悪寒
743ゆきだるま ◆2eAi0OJQSA :2005/09/17(土) 18:50:54
このスレの本当のスレ主はおいらだよ。
744無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 19:05:33
そもそもなぜ景勝は家康の顔色を無視して上洛を拒んだのですか?
討伐隊が家康を中心に組織されてしまえばいかに百二十万石といえど
対抗できるわけないですよね?

あそこまで追い込まれる前になにか手立てはなかったのでしょうか?
やはり三成となんらかの謀議があったんですかね
745無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 19:15:05
>>744
あったとしか思えないでしょ。西軍が負けたら即活動停止してるしさ。
746無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 19:18:00
慶長6年4月まで戦っていますが何か?>上杉
747無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 19:38:06
>>746
上杉としては家康相手なら充分に戦えると思ったのでは。
戦国時代の感覚で。毛利も独立して、東西の連絡が途絶えると。
家康の勢力なんて、所詮は昔の北條のままだし。
748無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 19:43:07
>>746
それは攻められてるからでしょ?最上領の出兵はすぐに兵をまとめてるっしょ
749無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 19:48:46
>>748
関ヶ原終了したら上杉征伐の続きが来ると考えるのは必定
ならば征伐軍に対向する為に、無駄な損失を減らし、
当初の上杉征伐の時と同じ迎撃作戦に立ち戻るのは当然
750無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 19:53:20
>>749
関ヶ原あったおかげで、上杉討伐に参加予定の兵力は激減したのだし、
戦いはこれからだ、と思うのは普通だな。
751無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 19:53:49
三成と謀議あったなら、反転した東軍追撃の構えぐらいは見せて
関東に家康を釘付けにしようとする罠
752無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 19:54:16
上杉 120万 → 30万
毛利 120万 →取り潰し → 30万
島津 60万 → 60万


西軍について、関が原について、所領アンドされた島津のみが唯一の勝ち組。
753無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 19:57:37
>>750
激減?意味わかんない
会津征伐に直接参加するはずだった東日本の諸将は殆ど東軍として参加
西日本の諸将は後方待機や大坂詰めだったから激減の意味がわからない

相手の兵力が減ったとするなら、尚更勝算上げる為に、撤兵する
戦いがこれからだと思うからこそ、最上領から引いて、対家康に備えたのだが
754無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 21:27:15
上杉征伐には、征伐に行く途中で西軍にされてしまった部隊(大谷等)もいるので
実際はもっと多くなる予定だった
755無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 21:35:32
大谷は自らの意志で

長宗我部とか長束息子とか鍋島か

戦が長引けば後詰めの可能性も

そういえば真田昌幸も征伐に参加している
756無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 23:16:29
俺の長年検討した結果、関が原のA級戦犯は2人

@吉川広家
  毛利軍が出陣しようとしたのを押しとどめて、結局合戦不参加に…
  それだけでなく、街道に陣取って味方の進軍も阻害し、結局西軍の大半を死兵にした。
A小早川隆景
  西軍から東軍に寝返った。

よく、小早川隆景の裏切りが叩かれているが、本当に最悪なのは吉川だと思う。
757無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 23:22:16
>>756
>小早川隆景

笑うなよ!みんな!
頭弱い奴を笑うのはいじめだぉ〜!
758757:2005/09/17(土) 23:22:54
追記:今日漏れも似たようなミスをした所だ。
759無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 23:31:41
いやぁ、その前に「A級戦犯」という言葉の使い方が間違っている。
760無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 00:04:27
いや、A級戦犯の使い方は間違っていないよ。
むしろ東京裁判での使い方のほうが、本来の使い方ではない。
761無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 00:21:52
>>756
@
元々広家は輝元が西軍につくのには反対で三成達よりは武断派七将らと親しい。
元就の遺言に忠実な保守派だが、恵瓊に出し抜かれた。
また他の毛利家老達とも計って、輝元も承知の上の事。

A
東軍から西軍に寝返えりそうになったが、やっぱり東軍に留まった。

本当に最悪なのは質よりも量に走りすぎた西軍首脳の楽観的観測。
762無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 00:22:57
つかホントに長年研究したのか
763無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 00:29:49
すれ違いなので、スルーしてくれてもかまわんです。

>>760
A級・B級・C級戦犯という言葉自体、
第二次大戦末期に敗戦国であるドイツと日本を裁くためにできた言葉なんだから、
東京裁判での使い方が特殊である、という指摘は明らかに誤りだな。
764無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 00:33:52
小早川秀秋の造反と吉川広家の不戦では、どちらの罪が重い?
765まこと:2005/09/18(日) 00:37:53
関が原の時秀頼はなにやってたの?
766黒田官兵衛孝高:2005/09/18(日) 00:41:18
ナンセンス
767まこと:2005/09/18(日) 00:42:08
ナンセンスとはなにごとか
768無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 00:42:49
ナンセンス

三成と秀家の罪のどちらが重いか問うているようなもの
769無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 01:04:25
関が原に腐った林檎・・・吉川広家や小早川秀秋とかばっかりいたのが問題だと思うんだが・・・。
というよりも西軍で明確に調略された連中で大物なのは吉川広家や小早川秀秋と増田位じゃんか。
例えば、小早川の位置に伊達がいたらどうする嬉々として家康本陣に突っ込む正宗が目に浮かぶ。
770無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 01:25:22
ガックリ
771無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 01:40:45
しっかしさっきのフジの番組酷かったな。
司馬遼太郎しか見てないだろって気がする。
772無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 01:56:56
もし宇喜多と小早川の布陣が反対だったら、どうなったと思う?
773無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 02:10:57
フジの番組は度素人が作ったんだろ

合戦シーンはなかなか見応えがあったが
774無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 02:12:25
>>772
盛り上げたいのなら、自分の妄想を色々書き込んだ上で
意見を求めると良い

盛り下げたいのなら、そのままGO!
775無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 02:18:56
>>756
A級戦犯と言うのは戦いを発生させた張本人だろ。
776無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 02:21:10
小早川(15000)と小西(4000)の布陣が反対だったら、西軍が有利だったかもしれないよ
天満山方面が、宇喜多(17000)と小早川で32000もあるからね
777無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 02:26:22
長年研究してきた俺が言うから間違いないが、三成の軍略は天才的。

素人には解らないかも知れないが、両軍の布陣を見るに、明らかに
家康は三成の術中にはまっていたと言える。もし、裏切りがなければ、
家康は逃げ場を失って討ち死ににてただろう。

ただし、毛利御三家が総大将の癖にそろって裏切ったから負けただけ。
もちろん、その後、毛利家は卑怯者の謗りを受けて叩かれまくりながら、
明治維新まで惨めに生きていくしかなかったわけだが。特に吉川は最悪。
長曽香部ら西軍諸将を街道を防ぐことで進撃させなかったことなど最悪。

現在の三成のイメージ:忠臣、義将、戦略家、名宰相
現在の秀秋のイメージ:臆病者、裏切り者、逝ってよし
現在の広家のイメージ:ほとんど無名(江戸時代に毛利本家にゴミ扱い)
778無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 02:27:25
島津「仕方ね―な―野郎共!大阪さ逝くで!」サクッと5000集めて関ヶ原へ
島津「戦いたかねぇけど東軍うざいから蹴散らすか!」サクッと軽く徳川本陣荒らして帰陣
島津「西軍勝ったか?帰るぜ!」
小早川はまだ弁当の蓋を開けたとこだった
779無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 02:36:42
>>777
小早川の裏切りが存在しなければ、そもそもあの布陣はないだろう。
780無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 02:38:22
>>776
小早川が松尾山に入ってしまったから、あのようになったのであって、
入れ替えられるものなら、関ヶ原戦発生の前提すらなくなる。
781無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 03:45:39
徳川は東軍先鋒の豊臣家の子飼いの武将たちを心の底から信頼はしてなかった
それだから先鋒が大垣城の目と鼻の先まで来てるのに江戸から出てくるのに1ヶ月もかかってる
要するに誰が味方か裏切りそうとかギリギリまで見極めてたんだろうな、時間かけて。
逆に西軍は三成が烏合の衆の中で誰が信頼置けるか裏切るかギリギリまでわからなかったから
関ヶ原の戦で小早川隊が戦の勝敗をわかるような重要な位置に着陣させてしまった。
782無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 04:16:42
一番の敗因は
我が主君島津家である天下分目の戦いに
800はないでしょ
8000持ってこい
783無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 06:28:12
>>777
どのあたりが術中にはまっていたのか?

輝元も裏切ったのか?
784無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 08:52:51
>>726
元親は戸次川で信親を戦死させてからは廃人同様だから
長生きしても状況は変わらんだろうね
785無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 08:56:16
>素人には解らないかも知れないが、両軍の布陣を見るに、明らかに
>家康は三成の術中にはまっていたと言える。もし、裏切りがなければ、
>家康は逃げ場を失って討ち死ににてただろう。

大垣城から誘い出されてまんまと野戦に持ち込まれたのは三成だろ?
当然裏切りで西軍切り崩しで南宮山の脅威がないとわかった上での布陣だし。
三成は軍政家としては超一流だけど実戦経験がほとんどないからねえ
786島左近:2005/09/18(日) 09:22:36
西軍実質30000程度では勝ち目は御座らん!
せめて鍋島殿か立花殿が来てたらと想うと市にきれませぬ。
787無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 09:22:46
>>785
その認識は誤りだな。家康は南宮山の脅威がないとは考えていなかったと思う。
吉川広家とは密約を結んでいたとはいえ、西軍派も多くいたわけで、戦況次第
では、どちらに転ぶか解らなかったはずだ。

三成が誘い出されたという人がいるが、明らかに三成は関が原を決戦場と考えていたはず。
理想的な布陣で、家康の心胆を寒からしめただろう。三成を評価できるところは、自分が
実戦経験が乏しいことを理解したうえで、島左近らを起用したことだろう。だから三成は強かった。
788無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 09:23:32
>>784
領国の内政面では結果を出したらしいが

>>785
誘い出されたとは違うと思う
ttp://ww3.tiki.ne.jp/〜yang/c-5.htm
しかも、あのまま大垣に籠城していても東軍に水攻めをくらう可能性があった
789無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 09:54:48
なんか布陣チョチョットいじってこうすりゃ西軍の勝ち!とか言ってる人多いんだね
西軍の布陣が変わってれば東軍も変わってる筈だって思わないのかねぇ
790無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 10:00:04
布陣をいじったら勝ちとは思わない。
毛利御三家の裏切りがなければ、明らかに西軍の勝ち。
それがわからないのか?一度布陣図とか見直してみ。
791無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 10:18:58
裏切りって言うか、最初から東軍派だから。
どうにかして彼らを西軍に引き込まないと、
地形云々以前の問題だよ。
792島左近:2005/09/18(日) 10:32:04
黒田如水が来たらなあ
2万ぐらいで勝てたのに
793無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 10:57:20
島津はお金が無くて兵を出せなかった訳だろ?
だったら軍資金を渡せば良かったじゃないか!織田信雄なんぞに
白金2千枚も渡すより島津に渡せば5千や6千の兵を喜んで送ってくれただろうよ。

そうすりゃ兵が少なかったために軽んじられた島津も重く見られて
気を良くしたじーさんが率先して戦ってたら勝ててたかもしれんのに。
794無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 11:25:54
>>793
国元の義久は反豊臣(三成)、親家康派ですよ?
また直前まで内乱で揉めていたので金があっても送らないだろうし、
下手をすれば加藤・黒田と一戦あるかもわからないからな。
795無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 11:26:41
>>792
東軍につくだろう。

>>793
金の問題ではなくお国の内部事情による。
796無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 11:28:18
>国元の義久は反豊臣(三成)、親家康派ですよ?

そうなのか?家康と島津って繋がり全くないんじゃないの?
797無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 11:29:34
島津は金が無かっただけではないよ。
島津家当主、義久は東軍の勝利を予想していた。
当然義弘は家康を応援に行かせたのに、伏見入城
拒否でぶち切れて勝手に西軍についてしまった。

これには義弘もこまったと思う。上方の決戦場で西軍として
布陣している以上、言い訳できないし。義久はだからこそ、
出陣させなかった。しかし、愚かな義弘支持者が勝手に上洛
して1500程度の兵になってしまった。

義弘はこの愚かな弟の行動には失望したと思う。弟は弟で
西軍についたはいいが、三成とそりが合わずに失敗したと思ったんだろう。
関が原では西軍として主戦場に布陣しながら、不戦という馬鹿みたいな
行動にでて、失笑を買った。誰が偉いって、その後、島津家の
所領安堵させた義久が最も偉大だと思う。
798797:2005/09/18(日) 11:31:34
なんか無茶苦茶の内容になってしまって申し訳ない。

家康と島津の繋がりはある。むしろ島津家は親家康派。
まぁ、伊集院関連の揉め事はあったわけだが。
799無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 11:36:27
具体的にどんな繋がりがあったの?三成は豊富執政官として
九州征伐以後の処理から島津と親交あったのは知ってるけど
徳川と島津?全然無さそうな気がするんだが、無知な俺に教えて。
800無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 11:42:36

801無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 11:46:41
俺も知りたい
802無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 11:51:09
家康に謝罪するときに福島正則に付き添ってもらっているのだから、
家康と島津の接点は無いような気がするぞ。
803無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 11:54:08
関ヶ原前に島津の家に遊びに行ったくらいじゃない?w
804無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 11:56:04
俺が正しいか解らないので、間違ってたら補足してくれ。

島津家では伊集院家が主家を脅かす権力をもっていた。
その為、ついにお互いが衝突し、内乱に発生。
この内乱の際に、「チャンスなので島津家取り潰しましょう」と
行動したのが、石田三成ら五奉行派。伊集院は強く、内乱は
収まらず、島津家は窮地に陥る。

そこで、島津家に助けたのが家康。島津と伊集院の仲裁に
入り、三成派の取り潰し論から島津を守った。これで島津は
親家康になった?伏見に義弘がお礼に行ったとき、「もしも
の時は伏見を頼む」と家康から頼まれた。そこで三成挙兵時
に伏見に行った義弘だったが、鳥居に追い返されて…

であってたっけ?
805無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 12:19:04
庄内の乱でした
806無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 12:43:12
立花ら大津城攻略隊15000が関が原に到着していれば、小早川や吉川が動かずとも西軍の勝ちだったと思う?
807無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 12:55:06
慶長の役の時に島津家だけ加増されたのも
家康が島津に恩賞を与えるように強く主張したという話も聞いた事がある
808無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 12:58:12
>>3
家康がおびき出したんじゃねーの?
西軍は有利な大垣城を捨てたんだから
809無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 13:02:06
家康は島津家と親交を結ぼうといろいろ努力していたフシがあるのだが
島津家に近づこうと努力している家康を島津義久は「キモイ奴」と軽蔑していた
苦労人の家康と歌人で貴族気質の義久とは性格が合わなかったようだ
810無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 13:07:05
しかし庄内の乱の際には相当感謝してたみたいだぞ。
わざわざ義弘がお礼に行った上、玉砕覚悟で伏見城に入ろうとしたくらいだから。
811無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 13:14:05
中公日本の歴史にあったが造反がすべて毛利家から出たってのがちょっとな
そのくせ江戸時代はいつ幕府倒しますかとか問答してたとか情けなす
812無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 15:22:24
>>810
伏見に入城しようとしたのが、本当かどうか分からないけどね。
確かな事は、伏見入城を拒絶された(真偽問わず)という条件を戦後交渉に用いたという事。
それと島津には石田にも恩がある。検地で中間搾取層の権益を奪い、島津の物にしてやった。
あと島津家については、義久の権力が強すぎて、義弘がどう思おうと義久の支持が無くては国元から援軍が来ない。
結局九州南部に60万石近い大領を持つ島津義弘が、西軍の中でさほどの厚遇を受けていないのは、兵力が少ないという理由以外にも、義弘の島津内部での影響力の少なさを当時皆知っていたからではないか?
813無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 15:24:33
>この内乱の際に、「チャンスなので島津家取り潰しましょう」と
>行動したのが、石田三成ら五奉行派。

ソースは?
814無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 15:27:22
しかし毛利の動員兵力の総数すごいな。
本国はほとんど空状態では?
5万以上動員したのでは?合計で
815無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 15:31:31
あとから考えてみれば毛利が一番馬鹿らしい結果になったね。
ほとんど戦死者出てないし、大軍勢出したのにほとんど見せ場なしで結局所領大幅削減だし。
毛利輝元を総大将にして全軍勢を一つにまとめて関ヶ原に来てたら西軍勝ってたと思うよ。
徳川本隊でも4万そこそこしかいないのに(秀忠が4万も無力化してしまったために)
5万以上いたのだがら。
816無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 15:37:49
関が原の戦い時点では、徳川と毛利が二大勢力だったわけか?
817無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 15:54:40
>>815
>毛利輝元を総大将にして全軍勢を一つにまとめて関ヶ原に来てたら西軍勝ってたと思うよ。

そら、そうだろ?
関ヶ原だけ見ても毛利軍は家康の背後に布陣してるんだから
毛利がまともに動けば西軍圧勝したのは当然だろ
818無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 15:56:20
しかし逆に言えば毛利が動かないと踏んだから家康はあんな
死地に布陣したとも言える。
819無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 15:57:16
>>815
敵をして動かせないように手を打つのも戦術
820無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 15:59:06
>>816
日本広域で見れば、
伊達
上杉
徳川
前田
毛利(吉川、小早川)
浮田
島津

3万以上の軍勢を動員できたのはこの辺だろうね
821無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 16:02:49
>>818
死地に布陣した意味はあるのか?
動かないと分かっていたとしても、その布陣に意味があるとは思えないが
もしかしたら毛利は密約を破って家康を攻撃してくるリスクを犯しても
あの死地に布陣する益があったのか?
単に霧で敵の布陣がよくわからなくて、ああいう布陣になっただけだろ?
普通に考えると
822無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 16:07:16
大垣に拠ってた西軍を引っ張り出すのが目的だろ
家康としては急進して京大坂を衝いても良かった訳だし
823無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 16:07:29
戦術では三成の方が家康よりも優れているのがよく分かる布陣だよね
824無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 16:09:33
>>822
ばーか、家康が大坂を衝けるはずないだろ?
秀頼様を攻撃すればさすがに東軍から造反軍続出で
東軍は畿内で空中分解してるだろ
825無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 16:13:23
>>824
家康と豊家は直接は戦ってないだろ
家康と三成の戦いなんだから
佐和山を攻略し京を確保
大坂へ進撃すると見せて豊家と連絡
三成や西軍諸将が空中分解するしかない
826無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 16:14:46
>>825
自分で京大阪を衝くって言ったんじゃないかよw
827無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 16:17:19
>>826
衝く=大坂城を攻めるじゃないだろ
豊家と毛利輝元に抗戦の意思を放棄させるために
進駐するだけでも効果あるだろ
828無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 16:19:05
>>827
本気か?挟み撃ちになるだけだろうがw
いいとこ、佐和山攻めると見せかけるくらいしかできやしないよ。
829無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 16:20:45
もしも家康が京・大坂を衝いていれば
東軍は西軍に包囲され壊滅する惨めな結果に終わっただろう
三成は関ヶ原で迎撃せずに家康の動きを大垣城で見ているだけでよかったのに
三成の自信過剰だったな
830無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 16:21:11
>>828
そこで吉川広家ですよ
831無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 16:29:44
まあ、そうこうしている間に秀忠の徳川主力が西上してくる罠
北陸街道からは前田勢

西軍は四分五裂で退却するしかないだろう
832無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 16:35:36
石田三成には勝機がいくつもあったのに残念だった
家康の勝利が19歳の意志薄弱な若者の手に握られていた辛勝だったという歴史的事実からしても
歴戦の家康に対して三成はよくやったと思う
しかしよく言われているように人心掌握ができていない
石田三成が優秀な官僚だとすると徳川家康はドブ板選挙で人の心を掴む政治家
833無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 16:40:49
三成が優秀というよりも家康が以外と戦下手なんじゃないのか?
834無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 16:47:19
あまり上手くはないよな。戦乱期には領土拡張殆ど出来なかったし
織田が滅ぼした武田領をかっさらった程度じゃねぇ。
他国を実力で切り取った事があまり無い。
835無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 17:03:26
信長死後、武田領をかっさらったのは火事場泥棒程に楽なものではないぞ
つ天正壬午の乱
この戦いって規模の割に知名度低いよな
836無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 17:05:39
家康は、軍事的才能では信長や秀吉だけでなく政宗にも劣るだろ?
837無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 17:10:12
>>813
家久が豊臣直臣としての色合いもあった伊集院家に嫉妬したのが原因。
そもそもン倍の兵力あったのに内乱制圧できなくて、調停受けて
伊集院家に加増がある内乱調停って何よというレベル。

内乱の調停をした家康に感謝するのは当然だけど、上みたいなアホナ内乱があった場合。
豊臣家は島津の御取りつぶしし考えなきゃならんだろう。

そもそも、諸侯の調停って家康の大老としての仕事の一環じゃなかったっけ?

838無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 17:11:23
まぁ、なんというか、打ち上げ花火一発じゃなくて
ヘビ花火1万個のような人間だからな。

じわじわ長い時間を武器にしてたし
839無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 17:47:00
>>834
武田相手にどうやって領土拡張すんのさ。

領土拡張について言えば、三河統一や遠江獲得なんかは、
そんな楽なものではなかったよ。
今川氏真が相手だからそんなことないだろと言われそうだが、
桶狭間直後の今川家はまだまだ駿遠及び東三河を領有する大大名だったし、
それに比べて松平家は岡崎周辺を領有しているにすぎなかった。
840無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 18:05:54
>>839
切り取りに関しては毛利元就の足元にも及ばないよ。
人にはそれぞれ持ち味があり、家康の長所は切り取りの能力ではない。
841無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 18:15:23
>>829
いきなり目の前に西軍本隊が着陣し、しかも当初かなりの健闘をしたから、
小早川は土壇場で東軍につくのを躊躇したが、
大垣の西軍が動かなければ、すんなり東軍と合流してしまう。
この段階で東軍は関ヶ原付近での数的有利を確保できる。
加えて秀忠軍も向かっているし、関ヶ原方面へ進出したことで、前田軍との合流も容易になる。
東軍の機動を放って置いたら、座して死を待つことになるね。

>>834
東三河と遠江はどうやって獲得したのですかね?
842無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 18:17:21
>>840
元就なんて全戦国史通じても屈指の者じゃあないか。
そんなのと比べたらほとんどが大したことなくなってしまう。
843無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 18:25:09
昨日のフジテレビでやっていた日本の歴史って特別番組見た人いる?
全体にバラエティ色の強い番組だけど
関ヶ原だけはCGで作った分かりやすい戦闘シーンとかあって面白かった
大河もCG多用して見ごたえのある戦闘シーンを作って欲しいね
844無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 18:25:30
>>841
完全に同意
845無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 18:26:26
うあ、自演臭いなあw
846無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 18:28:35
どこが?
歴史の話なんだから、結果論だけじゃなくて
仮定の話を色んな角度から語り合っても良いだろう

自説に対する反論がそんなに嫌かね?
847無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 18:30:29
やっぱり自演かよw
848無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 18:31:21
自演自演って必死だなwww
そんなに自演にしたいならIP抜いてくればいいじゃんwww
849無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 18:45:52
せっかくまともな事書いているのに下手な自演するから・・・
バカだな
850無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 18:49:21
はいはいワロスワロス
851無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 18:52:26
>>841とそれ以前のは文体からして違うだろう
852無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 19:24:03
>>843
俺も昨日のCGバリハリの戦場シーンには、ちょっと感激
関ヶ原メインの映画とか、金かけまくってどっか作らないもんかね
853無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 19:45:04
>>849
自演じゃないよ
バカ呼ばわりは>>845に言え
854無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 20:55:04
関白職の約束では西軍につかなかった金吾
どのような条件を出しておけば西軍についただろうね?
855無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 21:00:26
ねね「ひであき、西軍につきなさいね」
856無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 21:00:55
三成隊が持っていた大筒を打ち込むと西軍についたらしい
857無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 21:09:26
三成の大筒を秀秋の中に差し込むと?
858無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 21:14:46
すぐにホモネタにするの止めようぜ!
以前にホモのおっさんに狙われてから、トラウマになった
マジでホモの連中はむかつく!
変質者は氏ねばいいんだ
859無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 21:20:30
>>856
恫喝ってのはある程度根拠がないと効かないのよ、
東軍の場合は戦闘未参加の3万があるから、
やるならやるぞ、という恫喝になる。
仮にそれがはったりであってもそれなりの根拠はあることになる。
ところが、西軍はほぼ全軍が交戦状態で余裕が全くない。
そんな状況で小早川に向かって発砲しても恫喝にはならない、
血迷って攻撃してきただけ、小早川が西軍を攻撃するきっかけにはなっても、
逆にはならない。
860無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 21:27:02
毛利輝元が3万を率いて笹尾山に布陣していれば、まだ恫喝の効果も期待できたであろう
861無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 21:30:51
恫喝っていうかかなり決定的な効果があったと思うが。
まあ、不可能だわな。
862無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 21:48:00
輝元が南宮山にいたら調略対象が輝元になって、裏切り者が輝元
に代わるだけ。
863無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 21:49:54
輝元は裏切らないだろ
人良いから西軍についたのも秀頼が気の毒だからという理由だし
欲とか無さそうだ
こういう人は調略不可能だろ
864無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 21:55:44
秀秋君は金じゃ動かない!
金持ちだから。
名誉も興味ない。
だったら
本陣にくのいちを忍ばせ色仕掛け!
865無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 21:58:05
戦に強い連中ってどこかひねくれたところがあるからなあ
素直過ぎ、人が良すぎるって性格じゃ家康爺さんにいい様にカモられるな
866無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 22:03:14
>>863
本当に、輝元が「人が良いだけの人」だと
思ってるのか…それは君が人がよすぎ…
867無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 22:20:37
そらまあ、家康だって秀吉が死ぬまでは律義者で通ってたわけだからな。
いざというときに輝元がどう豹変するかわからんわな。
868無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 22:48:03
司馬遼太郎って偉大だな。凄い影響力だ。
まああのTV番組は、別に史実がどうとか気にした作りじゃないだろうが
司馬遼太郎の「関が原」を、そのまま史実と鵜呑みにしてる奴の多い事よ。

まあ、それだけ真に迫ったドラマを描けてるからだし、
俺も「関が原」は好きだ。今でも良く読む本に入る。
だが、司馬遼太郎の歴史物は、あくまで史実を基にした「フィクション」である事を認識しよう。
もちろん、綿密な取材、考察を基にしてるが、それは土台で
一部分を誇張してみたり、削除したり、付け足してみたりして
「歴史」を「ドラマ」として面白く成り立たせているんだよ。

歴史小説から興味を持って来るのは良い。
だが、ネット上に色んな資料は転がってるんだから、少しは調べてみよう。
そして何より自分でも考察をしてみる。
きっと、もっと歴史が面白く好きになると思うぞ。

>>863も、ちと考察してみたまえ。
大毛利家を何十年も束ねてきた輝元がただのお人よしで務まると思うか?
安国寺や吉川がいたから務まった?優秀な人材を生かすには、使う側にも雅量が必要なんだよ。
結果としては無能にも見える選択をしてしまったが、そんな単純な理由では普通動けないよ。
869無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 22:54:34
輝元の出陣は、ありえなかったのか?
870無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 00:06:16
有り得たろ
三成も輝元と秀頼に出陣要請している
871無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 00:18:01
>>841
小早川はどうせ東軍なので、くれてやる

そもそも、秀忠と合流するよりは、早く合戦したかった

前田との合流はだいぶあと

その前に立花らが来る

大垣籠城策が以上により西軍有利になるがどうか?
872無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 00:25:47
明確な出陣要請が出た後ですら城から動かなかった(動けなかった?)
輝元が自分が出陣する必要性・重要性を認識してたかは甚だ疑問
873無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 00:28:22
「立花殿、鍋島殿、関ヶ原に到着!!!!
その数、30000人!!!!!」
874無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 00:29:53
輝元は基本的に二股だったんじゃないか

それから大坂の抑えを必要以上に重視したかも知れない

もし東軍が制圧した場合、秀頼の命で西軍は賊軍になって戦う前に崩壊
875無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 00:33:05
本物の西軍は6万になる♪楽勝♪東軍惨敗♪
876無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 00:35:32
>>873
立花も鍋島もそんなに連れてきてないよ
877無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 00:45:10
本領安堵でさっさと退去したところから、輝元はあまりやる気がなかったんじゃない
勝てればOKで、負けてももともとでOKというはずだったが、騙された
878無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 00:56:14
立花と鍋島合わせても1万2千くらいじゃないの?
879無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 00:57:52
つーか立花はともかく鍋島は状況的に勝茂が勝手に西軍に参加しちまっただけで、
直茂としては西軍を助けるつもりなんぞさらさら無かっただろう。
クセモノなだけにもちろん西軍がそのまま勝ったらそれはそれで二股で進めるだろうけども、
元々勝茂だって家康の上杉討伐に向かう途中だった。
大体関ヶ原後にその立花宗茂を間髪いれずに攻めたのは他でもない直茂、
龍造寺の頃から秀吉には恩があるとは言え、そこまで御人好しじゃない。
880無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 01:02:02
輝元が3万を率いて笹尾山に布陣すれば、小早川が寝返る可能性が低いので
かなり西軍が有利になるはず

ちなみに、三成は笹尾山の麓に布陣すればよい
小早川と小西を反対に布陣させれば、さらに有利に戦える
秀元と吉川の布陣も反対にすれば、秀元が動けるので有利になる
881無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 01:04:41
なんで西軍は家康本隊が到着する前の段階で東軍の人数が少ないうちに先制攻撃かけなかったのだろうか?
東軍の先鋒が到着してから家康本隊が到着してくる1ヶ月間がもったいなさすぎだよ。
882無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 01:08:10
>>881
だから寄り合い所帯なんだってば。過去レスくらい嫁よ
883無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 01:26:52
>>882
過去レスが正しいとは限らない。
見る人とレスつける人が違えば話の展開は違ってくるし。
884無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 01:36:01
>>883
過去レスが正しいとは一言も書いてないよ文盲。
過去レスにおいて西軍の行軍がなぜ鈍かったか、なぜ指揮系統がばらばらだったか
検証してるからそれを読んで考えろということ。その上でレスしてくれ
同じことの堂堂巡りはうざいので
885無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 02:16:49
関ヶ原で長期戦は無理か?長期戦ならもう少し策練れたかも
886無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 02:56:39
>>885
よく言われることだが、長引けば長引くほど
寄せ集めの西軍がまとまっていく事は余り考えられない、
毛利といい、島津といい、鍋島といい、いずれにしても徳川方のなんらかの手が伸びてるとしか思えない連中が
はっきりと馬脚を出すだけだろう。
既に三成は五奉行として免職されてて余裕は無いわけで、その状況下であれだけの
軍勢を集められた事の方が凄い・・・がそこまでだろう。
時間が経てばいずれ秀忠の軍も到着する。
887無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 03:12:25
なるほど
惨敗は、まぬがれないのか
ガックリだよ
888無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 04:05:07
なんでガックリするわけ?
889無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 04:08:53
>>880
いや東軍は輝元がいなくて、広家が動かず
小早川が寝返るからこそのあの布陣なんだが
890無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 04:57:19
島津が西軍に付く気がなかった、といっているヤツがいるが、
それなら島津の本国の軍勢が加藤領の芦北を攻撃したことの
辻褄が合わないだろう。
891無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 08:20:32
>>871
小早川と合流した段階で関ヶ原方面の東軍総兵力は10万を超える。
それ以前から関ヶ原に布陣していた大谷隊ら約5千はなすすべもなく粉砕されるだろうし、
松尾山城も押さえ、史実では西軍が占拠した優位な地形も抑えられるから、
関ヶ原は完全に東軍の制圧下にはいる。
そのあと、立花ら1万5千が来ても最早西軍本隊とは合流出来ない。
西軍本隊は約3万の兵で大垣城に孤立、
南宮山の毛利他約2万8千は吉川のせいで当てにならないし、
圧倒的兵力で要衝を押えた東軍に今更攻勢をかけても成功はおぼつかない、
むしろ各個撃破の危険の方が高まる。
かといって手をこまねいていては秀忠軍と前田軍が接近して来て万事休す。

つまり、大垣籠城はまったく愚の骨頂。
892無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 08:36:57
>>891
小早川と合流しても東軍は十万に達しないし、
大谷隊は一万人ほどいるぞ。
893無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 08:53:01
小早川秀秋と立花道雪が入れ替わってたら勝ったな!間違いない!
結論です!
894無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 09:18:36
>>893
雷神を斬り殺したとか言っていた妄想厨の事か?
895無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 09:20:27
まぁ輝元がお人好しってのはどうかな、と。大毛利120万石総帥ってのは楽じゃなかろう。
現代の大企業でも一緒で創からある程度年月が経って従業員が数万人なんて企業では
経営は勿論、コーポレート・ガバナンスだって容易じゃない。『維持』していくこと
が相当のコストと労力が必要なんだ。家康は250万石じゃん、て突込みあるかもしれんけど
家康は、ほぼ創業者と言って良い立場で先代からの老臣とか、ややこしい親類とか
あんまり考慮しなくて良かったって事もあるが、最大の差は「拡大路線の有無」。
知ってのとおり毛利家は天下望まずの方針あるが120万石もありゃあ、それ以上増やす
事は天下取りって周りには見られるわな。拡大方針があれば図体の大小は関係ない
ばかりか120万石はプラスに作用するが、毛利にはそれが無かった。いろんなベクトルが
内向きになっており維持・防衛優先の環境の中で一族・有力な老臣や土豪のごった煮を
采配するってのは、大変なことじゃないのかな。
輝元に輝かしい個性こそ無かったと思われるが、普通に頑張ったと思うよ。
漢の高祖曰く「創業は易く、守成は難し」。輝元にはそういうことではないでしょうか。
896無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 09:28:21
>>895
それは徳川の二代目・秀忠にもそのままあてはまる評価だな
秀忠は決して凡愚ではなかった
897無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 09:30:19
>>892
当日関ヶ原で実際に戦った東軍が約7万5千、
他に南宮山の押えに約1万4千で合計およそ8万9千。
小早川軍1万5千をたすと約10万4千。
大谷隊は小早川に便乗して裏切った連中4千強を合わせれば1万近くになるが、
その情勢でこれを数にあわせるのはいかがなものか。
仮に1万とみてもとてもなすすべがないし、
ちなみにもし史実同様それらも小早川に便乗すれば東軍総計は約10万9千。
いずれにしろ圧倒的な大兵力になってしまい、もはや西軍には手出しが出来ない。
898無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 09:48:56
>>886
島津はもう眼中にない、というか義弘を殺したい

鍋島は危険と見れば調略

長宗我部も同様
899無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 09:54:04
>>891
大谷には連絡して撤収させる

立花らは合流できないとも言えない
少なくとも大谷と合流するしそう簡単には撃破されない

東軍も両方に備えなければならず苦しくなるが

秀忠はそもそも待つ気がなかったのだが?
900無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 09:56:32
>>891
大垣の抑えを置かないのは愚策
包囲殲滅される
901無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 10:04:11
関ヶ原が要地なのは確かだが、そうなるとそこから動けなくなるが

東軍はそれ以上は動かないと言うことか

秀忠と前田だが、待っていればいずれは来る

なのに強攻したのは何故か
902無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 10:06:15
>>897
小早は一万五千もいないし、伊藤の存在を忘れているぞ。
903無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 10:08:39
>>899
待つ気がなくとも、五日ほどで到着する。
上手いこと大谷隊と大津攻撃組みを合流させても最大2万5千、
松尾山、天満山、笹尾山を押えられては最早主力との合流はほぼ不可能、
10万の敵中を突破するか、敵に横腹見せて登山でもしなければ無理。
大垣の3万ほどと東西で挟撃といっても合計して半数程度ではただの兵力の分散。
仮に南宮山の部隊を動かせてもなお数的には不利だし、
しかもその場合は地勢的には圧倒的に不利とされた史実の東軍の配置で戦うことになる。
その情勢で五日以内に東軍を撃破しないと秀忠軍到着。
904無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 10:14:44
>>903
秀忠到着してもいい

もしそれで圧倒的になるのなら、なぜ家康は待たなかったのか

大垣の抑えもないし東軍は関ヶ原から動けなくなるが
905無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 10:15:44
>>901>>904
無論誘き出して一気に決着をつけたほうが家康にとって都合がいいから。
のんびりしていて長期戦にでもなれば、関ヶ原はともかく、
他の地域でどうなるかわからず、家康としてもあまりよろしくない、
しかし、だからといって事態を放置しておけば西軍有利になったとはいえない。
もし、西軍が動かなかったなら、家康も次善の策として、
要地を押えた上での長期戦に持ち込まざるを得ないが、それでも局地的には東軍有利は動かない。
906無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 10:18:33
>>905
局地有利ぐらいしょうがない

関ヶ原は結果的に西軍の死地になったのだから
三成は気づいていなかったが

動いて不利になったのだから、動かない方がいいだろ
907無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 10:26:02
大垣への抑えというが、そもそも最初の前提が、
東軍の関ヶ原への進出を西軍が放置して大垣に篭城していたほうが良いという話だったはず。
その前提で関ヶ原を東軍が押えてしまえば、ここの3万ほども配置することで、
極めて有効な大垣への押さえになり、その上で残りの兵力を機動戦力として使える。
小早川軍が他の説のように8千程度だったとしても、この東軍機動戦力は6万を超える。
これに動かれては西軍の不利は否めない。

要するに関ヶ原を東軍が押えてしまえば、その後守るにしても、攻めるにしても、
東軍は極めて有利になってしまい、西軍としてはそれは何としても阻止しなければならない。
つまり、史実の西軍の動きは極めて合理的なもので、
大垣籠城などは全くの愚作といわざるを得ない。
908無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 10:28:19
>>884
お前がうざい!
過去ログ厨が!
909無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 10:29:18
不利は否めないから、敗北するのか

愚策は嫌だと言って敗北するのは、最大の愚策

籠城こそ史上最良
910無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 10:31:02
>>906
>動いて不利になったのだから、動かない方がいいだろ
短絡的すぎ。
動かないせいでもっと不利になる可能性は考えないの?
もしも、実際の西軍が最悪の手を打ってこれより下はないって状況だったなら、
何でも良いから他の方法を取れば、それよりはましになるだろうと言えるかもしれないが、
実際の西軍は少なくとも前半はかなり健闘していて、
決して最悪の状況ではなかったわけで、もっと悪くなる可能性はいくらでもあったよ。
911無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 10:33:26
>>909
だから、よりいっそう不利になると思われると言っているのだけど。
912無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 10:34:45
>>904
東軍も早く勝敗を決しないと大坂城から秀頼&毛利本隊が関ヶ原まで出てこられるから。
そうなれば豊臣恩顧の武将たちが一斉に寝返られる恐れがあるからだよ。

東軍西軍ともに早く勝敗を決する必要があったからな。
913無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 10:54:47
>>895
「創業は〜」って、唐の太宗じゃなかったっけ?漢の高祖も言っていたのをこちらが
しらないだけかもしれないが。

それと、なんか西軍の立花宗茂の軍が計算にはいっていないような。
914無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 10:57:53
結果的に負けたからといって、それに至る作戦全てが間違っていたわけではない。
関ヶ原の戦いに置いて西軍が有利な地形を占拠したのは、
地形的に見れば西軍必勝といえるほどの状況を作り出し、
事実そのおかげで前半は善戦できたのであり、戦略的に全く正しい行動だった。
それを逆に東軍がそういった有利な地形を取ってしまうのを、
座してみていればよかったなどというのは、全くナンセンスで、
史実に比べても情勢を悪くしてしまうだけだ。
915無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 11:19:19
西軍が移動したのを知った東軍が、急追したのは防備を固められて
からでは不利だからではないか。西軍の動きを知った福島は、追撃を
開始しつつ、家康へ連絡したようだから、西軍の移動に、東軍はかな
り慌てたようだ。
916無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 11:38:29
>>914
東軍が関ヶ原に先に陣を張り大垣から来る西軍を待ち受けるってことですか?
そこで西軍が関ヶ原になかなか来ないで日数が経てば、東軍の補給はどうなるのだろうか?
西軍は東からやってくる補給部隊を襲えば関ヶ原の東軍10万は飢え死にだ
917無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 11:46:46
>>916
佐和山あるいは長躯京大坂まで目指そうという東軍が、
兵糧を置き去りにしていくと?
918無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 11:50:54
>>917
有利な地形を占有→関が原に陣を張る
のと
佐和山を目指す

では矛盾するよね?

有利な地形を占有していても相手が来なければ、佐和山を目指すしかないわけだ
佐和山攻めに移動するのを見極めてから西軍は東軍を追撃してもいいな
919無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 11:58:57
計算すると10万の兵で1日1200俵ほどの兵糧が必要になるようだ
東軍は何日分の兵糧を用意していたのかは知らないが
時間的猶予がそれほどあるとはとても思えないな
大垣城を残して補給路を断たれた状態で京大坂に向かえば全滅の恐れがある
家康はそれほど愚かな将ではないだろう
920無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 12:04:35
>>918
前述の通り、関ヶ原に進出し前日から実質的に東軍として行動していた、
小早川と合流すれば東軍は仮に小早川軍を少なく見積もっても合計9万5千にはなる。
例えばその内3万くらいあるいは南宮山の毛利が動く可能性も考慮して、
4万ほどを松尾山城と関ヶ原に配置すれば、当面の抑えとしては十分。
それでも東軍は5万5千から6万5千の兵を動かせる。
921無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 12:10:03
>>919
京大坂までと言ったのは、そのように喧伝して西軍を誘き出そうと言うのに、
兵糧を置いたままにするはずがないという話。
実際のところ、馬鹿正直に京大坂まで一気にいく必要もない。
関ヶ原という要衝を押えてしまうだけで、東軍はさらに有利になるということ。

さらに言えば、東軍本隊がが関ヶ原方面に動いたと言っても、
赤坂を放棄したわけではなく、なお1万余の軍勢が残っているので、
兵站が直ぐに途切れると言うこともない。
922無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 12:17:02
>>918
それから、当時の状況では誰もはっきりとは分からなかったはずだが、
秀忠軍はこの後五日で到着するので、
のんびり見極めている余裕は西軍にはない。
もちろん東軍とて一方的に余裕があるわけではないが、
いずれにしろ関ヶ原を占拠すればことは有利に動くし、
西軍としてはそれを阻止しなければならない。
923無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 12:35:51
>>916
まるで大垣城で東軍の連絡線を遮断できるかのような言い方だけど、
大垣以東は岐阜城陥落前後の一連の戦闘で既に東軍の手に落ちており、
大垣城だけ突出した形になっている。
大垣城にどれほどの兵糧があったか知らないが、
もし東軍が関ヶ原を押えた場合、兵糧の心配をしなければならないのは、
むしろ西軍のほうだろう。
924無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 13:12:43
東軍が先に関が原に布陣しれいれば、家康が笹尾山に布陣していたということか?
925無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 13:28:20
関ヶ原は狭い盆地に重要な街道が通っているという地形で、
ここを押えれば東西を分断出来ます。
これに比べて大垣城は平野の城で、この城一つで補給路を断つことは出来ません。
それどころか、関ヶ原の戦いの状況では、
大垣の北の曽根城、南の福束城・高須城も既に東軍の手に堕ちているし、
その上、東軍本隊は大垣の北西赤坂・岡山に着陣している。
大垣城で補給路を断つどころか、いつその逆になってもおかしくないという感じです。
926無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 13:46:30
もし小早川と小西の布陣が反対だったら・・・
もし毛利と島津の布陣が反対だったら・・・

どちらも西軍が有利ですね?
927無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 13:51:45
どうやって、反対に布陣するんだよ?
まず、そこから説明してくれ

たられば、しか書かないんじゃわけわからんよ。
架空戦記と同じレベルじゃ意味無いだろ
928無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 13:56:26
>>924
誰がどこに布陣するかはわからないが、
いずれにしろ関ヶ原の有利な地形は東軍が占拠するだろうということ。

もともとの話は、
東軍が西に向かうのを無視して、西軍は大垣城で籠城していればよかったという意見への反論。
もし、東軍の西進を無視してしまえば、佐和山や京大坂はともかく、
関ヶ原が完全に東軍の手に落ちるのは確実で、
それだけでもさらに西軍に不利、東軍に有利になってしまうと。

だから、西軍が実際にとった戦略は全く合理的なもので、
それに比べれば籠城して東軍が移動するのをただ見ているなどと言うのは、
全くナンセンスな愚策といわざるをえない。
929無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 13:57:59
>>927
小早川と小西を反対に布陣されるには
小早川を宇喜多に同行させて、小西には松尾山に布陣してもらう
三成が小早川に直接会って恩賞を約束する
930無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 14:06:19
>>929
あんですね、小早川は合戦前日に、
既に布陣していた西軍を追い払って勝手に布陣したのですが?
いまさらすんなり言うこと聞くはずないでしょう。
つーか、同行するってどこからどこへ?
931無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 14:09:10
IFならせめて史実に近いIFにしろよ・・・。
これじゃただの空想、ガキの妄想
932無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 14:14:51
情勢が長引けは東軍&西軍のどちらに有利かと言えば西軍でしょ?

東軍の半分近くは徳川勢ってことは補強路が一番長いわけだし。
西軍も烏合の衆だけど東軍も半分以上は徳川の兵じゃないし。

西軍必勝の策はやはり大垣城に篭城だよ。
で、佐和山城も引き払ってそこの留守兵3000も関ヶ原に連れて来るべきだったし。
そうすれば三成の直属の兵が1万越すし。

東軍は大垣城を取り囲むか歴史通りに大坂城の方に向かわざるをえなくなる。
そうこうするうちにあちこちに分散してた西軍が次々に集結してきて包囲された状況になるよ。
東軍の援軍は秀忠の4万の兵のみだし。
逆に西軍は毛利の兵は輝元の指揮のもとに全兵機能する可能性が高いし。
九州の圧倒的な西軍優勢の地から多くの援軍が関西めがけてやってくるし。
933無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 14:18:46
あと、東軍に大坂城を攻めさせれば東軍の半分の兵が無力化できるし。
主君を攻めることはできないだろうし。

西軍は東軍に大坂城を攻めさせるべきだったよ。
そうすれば自動的に秀頼や毛利本隊を巻き込んで圧倒的に有利な状況を作ることができたんだから。

東軍が大坂の方に行こうとして慌てて平野戦に持っていこうとしたのが関ヶ原の最大の敗因だと思う。
大坂城の方にも2万以上の兵がいたんだしそうそう簡単に落ちないんだから。
大垣城に篭ってしばらく東軍の動きを最終確認してから動くべきだった。
934無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 14:28:06
>>932
前田の1万5千もいるし、九州の西軍は既にほとんど来ている。
まあ島津が大挙して動けば話は別だがそのような兆候はない、
というか、来るなら挙兵しあとの2ヶ月間にもう来ているはずだ。
大坂の輝元は三成に要請されたのに実際には動かなかったが、
東軍の秀忠は確実に近づいているし、前田軍も9月12日には動き出している。
輝元より早く来る確率はかなり高い。
というか輝元は来ない可能性もあるが、東軍は確実に来る。

それから、兵糧は東軍の場合は清洲に大量の備蓄があるし、
出立前に米二万石金二万両を軍資金として渡されている。
むしろ兵糧等が窮乏していたのは西軍で、
三成は増田長盛にその窮状を訴える書状を書いている。
935無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 14:31:47
>>933
だから、馬鹿正直に一気に大坂まで行く必要ないって。
936無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 14:33:52
>>910
負ける方がいいというのは極論

前半は健闘したのはあるが、それと同様に籠城で健闘した可能性がある
937無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 14:35:20
>>932
つうことは、佐和山を落とされてもいいということなんだな?
西軍の首謀者石田三成の居城が落とされるということは、西軍にとって大打撃になるぞ。
もともと西軍の大名のほとんどはなりゆきで西軍に味方しただけなんだから、
首謀者の城が陥落したとなれば、戦況利あらずと見て次々と東軍に寝返るわな。

あとは家康お得意の調略で輝元を大坂城から退去させる。
毛利の全軍が機能するなんて、ありえない話だ。
そして豊臣家を東軍の側に引き入れれば終戦。
ちなみに豊臣家が味方するのは、勝つほう。形勢の悪い方には間違いなく味方しない。
938無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 14:35:43
>>911
むしろ籠城の方が有利では
939無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 14:37:00
>>936
籠城して有利になる要素が何かあるなら言ってみれば良い。
もちろん、既に否定されたものは除いてね。
940無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 14:37:29
>>912
西軍は決する必要がない

あるのであれば、自分から仕掛けている
941無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 14:37:54
織田信長が西軍を率いたとしても、東軍に勝つことは絶望的だったと思うが・・・
942無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 14:39:27
>>940
だから、何べんも言うように、必要はあった。
放っておけばさらに不利になるばかりなのだから。
943無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 14:39:32
>>921
1万ぐらいの2線級であれば各個撃破されるが?
944無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 14:41:38
>>925
これが本当だとすれば、関ヶ原の西軍は袋ネズミじゃないか

野戦であれば、そんなに兵糧も備蓄できないし
945無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 14:42:37
>>943
関ヶ原と数時間の距離だから孤軍ではない。
946無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 14:43:59
>>944
事実上袋のねずみ一歩手前でした。
947無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 14:45:34
>>934
東軍は関ヶ原に入ることによって孤立してしまうわけだが
948無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 14:47:34
>>939
地形が有利

東軍孤立

各個撃破

援軍到着
949無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 14:48:31
>>947
むしろ北の前田とは合流し易くなるし、
大垣城では東西に遮断することは出来ないので、秀忠軍とも連携できる。
対して関ヶ原を押えられては、東西の連携はきわめて難しい。
950無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 14:49:11
>>942
だから不利にならないと言ってる

それから負けたのがいい策だというのはきょうじんの理論だがわからないのか

史実の策でどうやって勝てるのか?
951無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 14:49:20
>>948
全部東軍が有利になる要素ばかりじゃあないか。
952無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 14:50:17
>>945
数時間あれば一戦闘できる

数時間無視できるなら、西軍だって関ヶ原まで数時間でいけるだろ
953無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 14:52:12
東軍に横腹突かれるか、戦闘直後を攻撃されて終了。
家康が最も望む展開だろう。
954無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 14:52:12
>>949
西軍の増援が来る

各個撃破、孤立化、包囲殲滅のチャンス
955無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 14:53:18
>>951
西軍の要素だが?
956無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 14:55:11
>>954
直ぐに来れるのは大津城攻めの1万5千だが、
それが到着しても東軍が関ヶ原で小早川と合流してしまえば、数的には圧倒的に東軍有利。
その他は頼んだのに動かなかった毛利本隊。
対して東軍は秀忠3万8千と前田1万5千が接近中。
957無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 14:55:41
大垣篭城は取らないものとすれば、大垣城には去就定かならぬ小早川金吾を入れて捨て置き、
親石田派の福原・熊谷・垣見らを本戦に参加させれば、勝敗は別としても、当時から既に
最大の不確定要素であった小早川の最良の用い方といえる。
いずれ大垣は東軍の手中になる上、前線に去就の知れぬ8,000もの大部隊が一翼を担うという
リスクは排除できたように思う。
958無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 15:01:25
>>955
まず大前提が、東軍が西に進むのを西軍が無視したらという仮定の話。
その場合東軍は前日から既に事実上東軍として行動していた小早川と合流することになる。
そうすると、

地形が有利 関ヶ原の有利な地形は東軍が先取。

東軍孤立 援軍が近づいており連携も可能で孤立していない。むしろ大垣の西軍のほうが孤立する。

各個撃破 上記の通り

援軍到着 >>956の通り
959無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 15:02:00
>>956
そういう状態になれば、さすがに毛利輝元と豊臣秀頼が出陣する
秀頼は出馬したがっていたが、淀殿が反対していたので出陣しなかったが
淀殿の反対などそう長続きしない
関ヶ原で短期決着を図らなければ秀頼出馬で一気に西軍の決定的有利に傾く
960無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 15:02:36
>>957
だから、小早川はもう西軍の言うこと聞かないって、
既に無視しまくっているのだから。
961無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 15:03:42
>>959
大坂の陣の話とごっちゃになっているぞ。
962無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 15:04:27
>>957
だが、寝返った金吾が、そのまま大垣城に入ってる必要も無いだろ。
むしろ、前線基地だった大垣城が金吾の寝返りであっさり落ち
おまけに金吾の大軍が東軍に寝返ったと聞こえたら、西軍はかなり動揺するんじゃないか?

三成や大谷がそれを予測していたとしても、一般兵士に与える影響は甚大すぎて収拾つかないと思うが。
963無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 15:06:16
>>959
根拠なし。
964無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 15:06:17
小早川秀秋の裏切りは関ヶ原合戦が始る前からもうすでにバレバレなんだから
いっそのこと松尾山から下りられないように山の周りに高い垣根で囲んでおけば良かったと思う
965無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 15:09:35
>>961
秀頼が幼児でもいいんだよ
要な豊臣の馬印が戦場に出れば
東軍の半数は西軍につくから
966無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 15:09:42
一般兵士の事を忘れちゃいかんよ。
最初から金吾一万なんぼが裏切ります、と全軍に知れ渡って戦えるわけがない。
それに西軍だって増やしたいのは敵じゃなくて味方なんだから、
限り無く黒に近い灰色だとしても、名目上味方である以上、離れないように尽力すべきであって
寝返る前から敵扱いして、寝返りを確定させてもしょうがない
967無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 15:11:21
968無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 15:13:44
>>965
大坂の陣では秀頼が出陣したがったと言う話はあるが、
関ヶ原のときにはそんな話はない。
反対したのも大坂の陣のときは淀だが、
関ヶ原のときは秀頼の側近たち。
関ヶ原の時には秀頼が出陣するような要素は全くなかったってこと。
969無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 15:16:05
>>966
表向きは金吾を敵として扱うのでは無く、太閤様の一門衆として
守備固めという意味で垣根で囲む、そして実質閉じ込めてしまう
970無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 15:41:14
亀レスがちょっと前を通りますよ

>>919
清洲に何万石備蓄されていて、それを清洲城主がどうしたか考えれば
補給路はともかく、物資に欠乏するようなことは当分先だろうよ。
しかも鍋島が東海道の米を買い占めて家康に献上してるしな、困る要素がない。
対して西軍は三成が「もう出るものは何もない」と悲鳴を上げるほど困窮していた。
金銭・物質から考えた時間的余裕なら東軍の方が分があると思うぞ。
971無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 15:52:50
>>970
米持っているかどうかじゃなくて
補給路を問題にしているんだろ?
アホかw
972無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 16:05:52
>>971
だから、補給路も普通にあります、
大垣城は敵中に孤立していただけで補給路を断つことなんて出来ません。
東軍が兵糧不足になる要素は全くない。

西軍の場合は9月12日の段階でかなりやばくなっていたことが、
三成の書状で確認出来るけどね。
973無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 16:15:32
西軍は物資云々より士気的に空中分解するおそれが
あった。安国寺、長束の戦意の低さと増田に対しての不信感が
三成ですら日増しに高まっていたんだから。
長期戦になれば毛利が家康に丸め込まれて結局三成は
戦もできずに降伏させられた可能性大。
伏見を陥落させた勢いで清洲まで進出して
そこで福島達の先鋒軍と一戦すべきだった。
974無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 16:56:55
大阪の陣スレといい、兵糧不足で餓死とかありえないから・・・
975無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 17:02:35
いや諸々の文献に大阪冬の陣で寒いわ食う物ないわでやばかったって書かれてる
976無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 17:10:21
じゃあ聞くが、大名で餓死はともかく、凍死した奴が一人でもいる?
一兵卒だろーと大将だろうと、野陣は何処でも同じなんだぞ?
大名で凍死した奴がいるなら話しは解るが。
977無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 17:15:20
>>960
そう?でも裏切るつもりなら、大垣に捨て置かれた方が
戦場で裏切るよりラクじゃん。
978無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 17:22:51
>>976
何でそこまでの限界状況じゃないと許されないんだ?
寒さがやばくて側の家ぶっ壊して燃やし始めたりした所で家康が焦って淀殿に大音声で攻撃して講和結んだって流れだよ
979無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 17:22:55
小早川秀秋と毛利秀元を反対に布陣させたら・・・

小早川は吉川に邪魔されて動けない、毛利は吉川に邪魔されず動ける
かなり西軍が有利になったかも?
980無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 17:26:16
>>979
>小早川秀秋と毛利秀元を反対に布陣させたら・・・

それ、ありえないから。
毛利秀元と吉川広家はあくまでもワンセット。
981無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 17:28:38
じゃ吉川広家と毛利秀元の配置を逆転したら
毛利秀元は吉川が動かないのに邪魔されずに
家康の後ろを衝ける
982無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 17:28:58
小早川を南宮山に布陣させたら、吉川に邪魔されて動けない
松尾山には、代わりに島津でも布陣させておけばよい

このほうが、まだ西軍に有利だったであろう
983無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 17:30:25
>>982
つうか過去レスくらい読めよ、池沼
松尾山の小早川は勝手に布陣してんだって
アホ!
984無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 17:32:23
>>983
勝手に布陣させないようにするには、どうしたらいいのだ・・・!?
985無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 17:45:57
>>984
三成が自力で2万以上の兵力を持って威嚇するw
986無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 17:48:37
>>985
三成と宇喜多の合計なら2万以上の兵力になりますが、2人の兵力で威嚇してもだめですか?
987無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 17:50:32
小早川を正面に据えて徳川と直接ぶつかる形にすれば良かったんじゃない?
988無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 17:53:18
>>987
小早川と小西を反対に布陣させるのか?
しかし、小早川は勝手に布陣しているし・・・
989無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 18:00:33
>>981
吉川は常に毛利の先陣を務めることになっている。
吉川が毛利本隊の後ろに布陣することはありえない。
990無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 18:02:05
>>987
だから!勝手に布陣したって何度も書いてあるだろ?
降りてこいっつーてもそのままだったんだよ
991無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 18:03:32
>>984
小早川は当初戦いの舞台となる大垣城から離れた松尾山に布陣したことからも
戦闘に巻き込まれたくなったようだ
だから関ヶ原が主戦場になるということを伝えておけばもっと後方でウロウロしていた
可能性が高い
992無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 18:10:35
>>958
地形有利 大垣城を先取

東軍孤立 大垣を無視して前進すればその部隊は孤立する 援軍はまだ来ない

各個撃破 分散して進撃すれば各個撃破される 備えを置かなければ孤立する

援軍到着 大津城他の援軍が到着する 立花の参戦が大きい
993無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 18:13:16
>>972
部隊もなしにどうやって孤立させるのか?

何万で囲むのか?
994無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 18:14:50
>>976
大名と足軽が、住居・食料で全く同等だと思うか?
995無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 18:15:58
>>994
朝鮮さいこ〜
996無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 18:16:46
西軍に勝ち目など無かったのか?
997無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 18:17:17
朝鮮さいこ〜 朝鮮さいこ〜 朝鮮さいこ〜 朝鮮さいこ〜 朝鮮さいこ〜
朝鮮さいこ〜 朝鮮さいこ〜 朝鮮さいこ〜 朝鮮さいこ〜 朝鮮さいこ〜
朝鮮さいこ〜 朝鮮さいこ〜 朝鮮はネ申。 朝鮮さいこ〜 朝鮮さいこ〜
朝鮮さいこ〜 朝鮮さいこ〜 朝鮮さいこ〜 朝鮮さいこ〜 朝鮮さいこ〜
朝鮮さいこ〜 朝鮮さいこ〜 朝鮮さいこ〜 朝鮮さいこ〜 朝鮮さいこ〜
998無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 18:18:20
キムチはうまい。
豚肉を混ぜて豚キムチにしてもうまいべ?
999無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 18:19:04
ない・・・・
1000無名武将@お腹せっぷく:2005/09/19(月) 18:19:13
このスレッドの結論
「やはり李舜臣がナンバー・ワン」
10011001
  立  新   /   ,、r'";;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`';,、    ,r';;r"           _ノ  と   何
  て  し    L_ /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;\ ,';;/             )   申   と
  ね  い   //;;/´         `' 、;;;;;;;;,,l;;'            /ヽ  す  1000
  ば  ス   /.,';/              ヽ;;;;,l;L_      .,,、,--ュ、 ';;;;;;;;;i  か   を
  い  レ   l |;|┌--‐フ  ┌----、、   |;ヾr''‐ヽ,  ,、ィ'r-‐''''''‐ヽ ';;;;;;く  !!    超
  か  ッ   i  |l ~~__´ 、   ``'__''''┘  |;;;;;l rO:、;  ´ ィ○ヽ    'i;;;;;厶,     え
  ん  ド   l _|. <,,O,> 〉   <,,O,,>    |;;;;;| `'''"/   `'''''"´     !;;;;;;;;ヽ   た
  の  を  ._ゝ'|.    /   、       |; ,'  /   、        |;;;;;;;;;;;;;レ、⌒Y⌒ヽ
  う     「 | |    (    )       .ソ l  ,:'   _ ヽ       .|;;;;;;;//-'ノ
        ヽヽ |    _,ニ ニ,,,,,_        ', ゞ,' '"'` '"       i;;;;;i, `' /
⌒レ'⌒ヽ厂 ̄  `| ,、ィ-‐''__'''‐-`,、     '' .', i、-----.、       `''"i`'''l
人_,、ノL_,iノ!  . ',   :i゙''''''''''`l'  ` _人__人ノ_ヽ ヾ゙゙゙゙ニニ'\       ,'  ト、,
      /     ヽ   L__」   「 で 書 Lヽ ヽ〈    i|         Vi゙、
ハ ワ  {.      ヽ.  -、、、、 '  ノ  き き 了. ゙, ,ヽ===-'゙ ,'     ,   // ヽ
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