筒井順慶
戦国末期、大和国の一角において圧倒的な存在感をもって君臨した名将。
「歴史に名を残す」だけならば、他の戦国武将にも可能である。
しかし、日本語の中にしっかりと刻印される者は数少ない。それは選ばれた名将だけにできることである。
幼少で家督を継いだ順慶を支えた家臣たちの忠誠にちなむ「元の木阿弥」。
天下分け目の決戦の際の順慶の慎重な姿勢と時代を見る目の確かさを称えた「洞ヶ峠(を決め込む)」。
日常会話の中でも使える故事成語をなんと二つも残していることで、
順慶の冠絶した名将ぶりが理解できよう。
>>678 こないだやってた戦国自衛隊関ヶ原版がそのまんまだな
小早川秀秋
戦国晩期を飾った豪勇無双の武将
豊臣秀吉の甥として生まれた秀秋は朝鮮出兵において初陣を飾るが、初めてのことで内か
ら滾る武勇を抑えかねた秀秋は戦場において狂戦士と化してしまい、軍民問わずなぎ払っ
たため、後に秀吉から叱責を受けてしまう。
これは、秀秋の暴走のほかにも、当たるを幸い縦横無尽に戦場を駆け抜ける秀秋の武勇に
朝鮮軍が恐れをなしたため加藤清正らが無事救出されたのも事実であるが、戦場における
武人というものを解さない石田三成が清正たちを貶めたのと同じ流れで猛将秀秋も誣告さ
れた、ともいわれる。
また、徳川家康はこの豪将を味方につけようとして、秀吉にとりなして秀秋の領地を安堵
させるが、生粋の武人であり戦場以外のことに頓着しない秀秋はさして恩に着るでもなか
ったという。
秀吉が没し、関ヶ原の役が起きると秀秋は西軍の一翼となって伏見城攻めに参加するが、
伏見城の守将鳥居元忠の死を決した戦いぶりに感じ入った秀秋は全力をもって戦い、歴史
に残る激戦を繰り広げる。この戦いで元忠は玉砕するが、主君に身を捧げた華々しい散り
様は多くの人の目に焼き付けられ、元忠の名は不朽となった。これこそが小早川秀秋が示
した武人としての最高の礼であったという。一方、この戦功を石田三成が評価しなかった
のは、武人とは程遠い石田三成には秀秋がなぜ力戦したのかも理解できなかったためらし
い。
秀秋は元忠の最期を見て思うところがあったのか考えこみ、それを単なる寝返りの兆候と
みた三成から関白職への就任や加増などの話があるが、秀秋自身は三成の言葉はさほど気
にも留めなかったという。
松尾山に一万五千の大兵を率いて陣取った秀秋は戦闘がはじまっても動かず、傍観してい
た。秀秋はこの時、優勢な西軍の尻馬に乗って果たして己が武人といえるか、と自問自答
していたらしい。
この秀秋の問いは、劣勢ながらも旺盛な闘争心をたぎらせた東軍から銃撃があるまで続い
たが、弾丸の起こす風と硝煙の匂いを感じて秀秋は次の言葉とともに決断したと言われる
「この風、この匂い、これこそが戦いよ!!」
かくして秀秋は優勢な敵を相手取ってこそ武人の本懐であるとばかりに、名将大谷吉継の
陣に攻めかかったが、天下の豪将小早川秀秋が東軍に味方をしたと知った西軍は総崩れと
なったという。
その後も石田三成の本拠佐和山城をも陥落させ、たった一人で天下分け目の決戦の行方を
左右したとしてその名を轟かせた秀秋はほどなく病で世を去るが、その時に、あと残され
た戦は豊臣家の滅ぶものだけであり、悲壮感はあっても武人の魂はどこにもない、と嘆い
たとも伝えられる。
世の人は、あと五十年早く生まれていれば戦国の世を所狭しと駆け巡ったであろうにあま
りにも生まれるのが遅すぎた、と豪将小早川秀秋の人生を悼んだという。
織田信広 (?〜1574)
織田信秀の子。信長の兄。通称三郎五郎。大隅守。津田姓を称した。
庶子であったために家督は継げなかったが、その才はかの信長を凌駕した。
それは若くして対今川勢力の最前線・三河安祥城の城代を務めたことからもわかる。
1549年、今川家は軍師・太原雪斎まで投入してようやく安祥城を陥落させた。
信広の傑出した才を知る今川義元は、信広を生け捕りにすることを厳命している。
織田信秀は、一族中で最も有能な信広を助けるために、
松平竹千代――もちろん、のちの征夷大将軍・徳川家康――を今川家に差し出すのである。
信広は、一時弟と対立し、齋藤義龍を引き入れて清洲城攻撃計画を練ったが、実行はしなかった。
名将は名将を知る。信広は、自分にはない信長のカリスマ性を認め、
弟の旗の下こそ織田家が勢力を拡張させるであろうことを見抜いたためである。
以後、信長を陰ながらよく支え、向背常なかった織田一族(連枝衆)をよくとりまとめた。
また、比叡山攻撃や美濃岩村城守備で活躍、
外交面では1573年に弟の名代として足利義昭と和議を結ぶなど、政戦双方で縦横の働きをした。
1574年、信長は、難敵・長島一向一揆の攻略に一族最強の名将・信広を投入。
物量にまさる一向一揆勢は多大な犠牲を払って、この第六天魔王の兄を討ち取ることになるのだが、
そのことは、信広という一人の天才を討ち取るためには、
堅い信仰心で結束した、死を恐れない圧倒的な軍事力が必要だったということを示している。
信長が偉大な兄の死をいかに嘆きいかに怒ったかは、その後の凄惨な長島殲滅戦を見れば明らかである。
水野勝成
家康の従兄弟で数々の武勲を残すが父の部下を斬って出奔する。
その後秀吉に仕え、紀州攻め・四国攻め・戸次川の戦いに参加し武勲を立てるも同僚を殺して出奔し秀吉に指名手配される。
その後浪人になり野武士を相手に大立ち回りをしたり佐々成政の肥後一揆鎮圧において傭兵になり反乱首謀者を斬っている。
さらに黒田、小西、立花、加藤らに仕官し武勲をのこし特に黒田家中においては後藤基次と並び称されたがどれも長続きせず喧嘩や無断出奔してしまう。
その後も浪人として各地を転々としトラブルを起こしまくり仕官したり人を斬るたり(尼僧を含む)、黒田長政の刺客に追われたり盗賊退治をしたりしてすごす。
秀吉の死後、家康の仲介で父と和解し関が原の前哨戦で島津勢を撃退し、大垣城を攻略する。
大阪の役では後藤基次、明石全登を打ち破り指揮官としても優れていることをしめした。
島原の乱には74歳の老齢ながら将軍・家光の要請で参陣している。
その晩年は名君として領地の経営にあたった。
当代随一の歌舞伎者でありその奇抜なファッションセンスで孫と共にその名を残している。
島津歳久
島津四兄弟の三男。
剛勇を誇り、初陣で負傷したと言われているにも関わらず
城攻めで自ら門を破るなどの功績を上げた猛将。
秀吉の九州征伐でも最後まで豊臣勢を梃子摺らせた。
ただ、若干配慮や知恵に欠けるところがあったようで
会議では空気を読まず意見して義久に恥を掻かせたりしていたようだ。
秀吉に反抗しつづけて最終的には討伐を受けるが、
その際もまともに動けない身でありながら追っ手に対し交戦しつづけた。
最後には刀が持てなくなり、追っ手に首を打てと命じるが
追っ手は鬼気迫る歳久の姿に一歩たりとも近づけなかったため
歳久は刀を持たず切腹をする芝居を打ち、首を打たせた。
まさに最後まで武辺者であった。
捻りは??
関興
関羽の息子。
諸葛亮から評価され、若いながらも高い地位に着くなど非凡な人物であった。
だが若くして亡くなってしまったためその活躍が後世に伝えられることはなかった。
もし、少しでも長生きしていたらと思うと残念である。
捻りは?
山中鹿之助
天性のマゾヒスト。
主家や同僚のことなど一切顧みず、いつも自分のことしか考えなかった。
艱難辛苦を得るために三日月に祈って山陰の雄・尼子家を滅亡させた元凶である。
692 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 17:13:32
ルールすら読めない馬鹿は来るな
関興
関羽の息子で、蜀漢随一の妖術使い。
関羽が呉に破れて敗死した後、その仇を討つことを誓い、妖術を学ぶ。
妖術の師は左慈であると言われているが、定かではない。
修行を終えた関興は、呉討伐に出陣した劉備の陣に赴き、先鋒を志願する。
妖術を駆使した彼の勢いは凄まじく、呉の軍勢を次々と蹴散らす。
戦いの最中、父の仇である潘璋を見つけ、これを追撃。
山中で一騎討ちとなるが、その際関興は、何と父、関羽の霊を召喚したのだ。
慌てふためき恐怖する潘璋を、関興は斬り捨て、父の仇を取る事に成功する。
その後、裏切り者の麋芳と傳士仁を、遠隔催眠のような術で狂乱させ、
帷幕の武将を斬らせた上で蜀の陣に呼び寄せ、二人斬って捨てた。
夷陵の戦いでは、敗走する劉備に付き従い、
その妖術を駆使し、劉備を撤退させることに成功する。
第一次北伐では、敵の罠にはまって突出して行方知れずとなった趙雲を
探索の術を用いて見事に探し出し、救出することに成功する。
その後の北伐でも、妖術の腕を存分に発揮し、蜀の勝利にたびたび貢献する。
その妖術は、蜀においては右に出るものは無く、
諸葛亮もその腕には敬意を表し、進んで彼に妖術を学んだ。
その全てを会得することは出来なかったが、五丈原の戦いでの延命の儀式や、
撤退時の木像を用いた策は、関興直伝の妖術の賜物であると言われている。
しかし、その稀代の妖術使いは、20代そこそこで没してしまう。
彼の使う妖術の代償は、彼自身の命だったのだろう。
復讐の為、その後は国家の為、命を削って妖術を使い、勝利に貢献してきた
関興を思い、諸葛亮はただただ、涙するしかなかったと言う。
佐久間信盛(1527〜1581)
織田家譜代の武将。その温和な性格を見込まれ、幼い信長に重臣としてつけられる。
織田家の家督相続においても一貫して信長に味方し、その後筆頭家老として信長の信頼を一身に受ける。
武将としての能力も確かで、殿軍の指揮の巧妙さから、「退き佐久間」の異名を持つ。
だが、信盛の真骨頂は、温和なで平和を愛する性格から来る戦の仕方。
即ち、敵味方の死者を最低限に抑えた戦の収め方にあった。
三方原の合戦では、徳川家康の援軍に赴く。
信盛は、武田軍との戦闘を回避し、無駄な死者を出さぬようと進言するが、
血気に逸る家康は、武田軍の背後を突く暴挙に出る。
戦いは避けられぬと見た信盛は、戦国最強の武田騎馬軍団に対し、退き佐久間の意地を見せ奮戦。
無事に退却出来たものの、平手汎秀を討ち取られてしまう。
以後、無駄な戦いは慎むよう、信盛は自分に言い聞かせた。
姉川の合戦では、敗走する浅井軍を無闇に追撃することなく、兵を収めている。
このことは、諸将と共に信長に叱咤されるが、信盛は信長の前に出、
「我らのような家臣を持って、殿は幸運でござる」
と、あえて信長の逆鱗に触れる言葉を吐き、その怒りを自分一人に向けようとした。
同時に、居並ぶ家臣が何者にも代え難い存在であることを主張しようともした。
一度は怒った信長だが、信盛の心配りにいたく感心し、より一層信頼したと言う。
長篠の合戦では、たとえ平手汎秀を討ち取った武田騎馬軍団であっても、多くの者が死んで行くのは耐え難いと思った。
そこで信盛は、一計を案じる。
自分が計略に引っかかり、武田に寝返るように思わせ、それを反故にする。
そうすれば、計略の失敗した敵の士気は落ち、早々に撤退するであろう、と見たのである。
その思惑通り、武田軍の穴山信君は、早々に戦場を離脱した。
後に、この信盛の知略、そして思いやりを知った信君は感動し、進んで織田、徳川方に下ったのである。
梟雄、松永久秀が謀反した際、説得に当たったのが信盛だ。
久秀は、かねてより交友のあった信盛の、その真摯な言葉に心を動かされつつも、
武士の意地を通して自爆。信盛はその姿を見、戦国の世の無情さを思い涙したと言う。
石山本願寺攻めでは総指揮を取り、5年に渡る戦いの末和睦に持ち込む。
最低限の兵で本願寺を囲み、いたずらに攻撃を仕掛けることなく、相手の士気の喪失を待つ。
敵味方双方に無駄な死者を出さない攻め方は、実に信盛らしいと言える。
だが、この戦略が手緩いと、織田家諸将から批判を浴びる。
この声を信長も無視することが出来ず、幼い頃からの重臣であった信盛を高野山に追放してしまうことになる。
信盛は、それで織田家がまとまるならと、黙って下知に従った。
信長の
「お前のような家臣を持って、不幸だ」
と言う言葉は、
「少しでも言い訳をしてくれれば弁護もしてやれるのに、それすらしないのでは追放するしかないではないか」
と言う、信長の悲痛な叫びの現われである。
その後、息子や郎党と共に高野山へ赴く。
だが信長は、幼い頃から仕えてくれた信盛を放っておけず、間もなく下山を命じる。
捨扶持を与え、のんびり暮らして貰おうと考えたのだ。
命に従い、下山した信盛。しかし、領地に赴く道中で病を得て死亡。享年55歳。
信長にとって信盛は、得難い武将であると同時に、幼い頃より自分を見守ってくれた師であり、父だった。
信盛の死を知った信長の悲しみは、想像に難くない。
信長は、息子の信雄に信盛の子、信栄を召抱えるよう命じた。
表立った供養をすることが出来なかった信長の、信盛に対するせめてもの供養であった。
梟雄、松永久秀が謀反した際、説得に当たったのが信盛だ。
久秀は、かねてより交友のあった信盛の、その真摯な言葉に心を動かされつつも、
武士の意地を通して自爆。信盛はその姿を見、戦国の世の無情さを思い涙したと言う。
石山本願寺攻めでは総指揮を取り、5年に渡る戦いの末和睦に持ち込む。
最低限の兵で本願寺を囲み、いたずらに攻撃を仕掛けることなく、相手の士気の喪失を待つ。
敵味方双方に無駄な死者を出さない攻め方は、実に信盛らしいと言える。
だが、この戦略が手緩いと、織田家諸将から批判を浴びる。
この声を信長も無視することが出来ず、幼い頃からの重臣であった信盛を高野山に追放してしまうことになる。
信盛は、それで織田家がまとまるならと、黙って下知に従った。
信長の
「お前のような家臣を持って、不幸だ」
と言う言葉は、
「少しでも言い訳をしてくれれば弁護もしてやれるのに、それすらしないのでは追放するしかないではないか」
と言う、信長の悲痛な叫びの現われである。
その後、息子や郎党と共に高野山へ赴く。
だが信長は、幼い頃から仕えてくれた信盛を放っておけず、間もなく下山を命じる。
捨扶持を与え、のんびり暮らして貰おうと考えたのだ。
命に従い、下山した信盛。しかし、領地に赴く道中で病を得て死亡。享年55歳。
信長にとって信盛は、得難い武将であると同時に、幼い頃より自分を見守ってくれた師であり、父だった。
信盛の死を知った信長の悲しみは、想像に難くない。
信長は、息子の信雄に信盛の子、信栄を召抱えるよう命じた。
表立った供養をすることが出来なかった信長の、信盛に対するせめてもの供養であった。
いいよー、GJでした
馬超
蜀の武将。
一般的には「ばちょう」と呼ばれるが、正しくは「まちょう」である。
武勇に優れ、筋骨隆々の逞しい肉体の持ち主であった。
今日使われている筋肉質の人間を呼ぶときに「マッチョ」と言う
言葉を使うが、その語源となったのは彼、馬超である。
小早川秀秋
戦国随一の策士家。
関ヶ原の戦いでは西軍側として参戦する。
しかし、大軍で要衝に布陣したかと思うと、その後は戦いの趨勢を見極めるまでは決っして動かなかった。
やがて東軍側が有利とみると、山頂から怒濤のごとく西軍側に攻め込み、東軍の勝利を確実なものとする。
しかし、その後西軍の大将石田光成の亡霊に悩まされ精神を患う。
一説では、秀秋の才能を警戒した家康が毒を盛ったともいわれる。
703 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 08:50:37
前田慶次郎
主君・前田利家を自邸にて饗応した際、水と湯を間違えて利家を水風呂にいれてしまった粗忽者。
そのことを叱責されるや狼狽して利家の愛馬・松風を強奪して逃亡・逐電してしまった。
利家は慶次郎が兄の嫡子ということで退転の罪には問わなかったが、粗忽者の慶次郎にはそういう気遣いが
解らなかった。
逐電後、方々を転々とした慶次は京に落ち着いたが、商人の態度が気に入らないと、些細な過失をとがめて
京都所司代が仲裁に入るような騒ぎや、浪人と決闘騒ぎを起こしたりして、前田家の評判を下げつづけた。
また、利家の名馬として有名だった松風を自分の愛馬であると宣伝したため、利家は馬を盗まれたという武士に
とって恥ずべき不面目を被っている。当の本人は利家に累が及ぶとも思っていなかったのだから呆れるばかりだ。
当時、織田政権下で同輩であった利家を掣肘すべきだと考えていた秀吉は諸大名の並ぶ前で、
前田家の恥ともいえる慶次郎を引見し、彼をさらし者とすることで、前田家中取締不行き届きを暗に批判した。
満座の中で恥を掻かされても反抗することの出来なかった利家は、あらためて秀吉に臣従するほかないことを
悟ったという。しかし義理堅い利家は兄を思いやり、兄の子である慶次郎を誅することはなかった。
残念ながら、その思いが慶次郎に通じることはなく、当の本人は秀吉に引見されたことを大いに誇りとし、
利家の苦衷を察することもなく、「関白殿下より傾奇御免状を頂戴したも同然」と得意満面であったという。
その後、台頭してきた徳川家に臣従する前田家の立場もわきまえず、徳川に反抗する上杉に味方するなど、
慶次郎は利家と前田家に対して、後ろ足で泥をかけるような真似を繰り返したのである。
もともと慶次郎の母親からして、夫が前田家当主を追われる際、利家に対する呪詛を行ったぐらいであるから、
この母にしてこの子あり、というべきか。
708 :
705:2006/04/06(木) 11:10:54
>>707 >だがそれがいい。
しまった、末尾に付けとくべきだったな。そしたらうまくオチたのにorz
浅井久政
北近江の戦国大名。悲運の武将。隠れた名政治家。
父亮政の無謀な下克上と領土拡大路線によって混乱した国内を建て直し、
南近江の名将六角定頼と「近江の清洲同盟」とでも言うべき対等同盟を結び、
浅井氏の対外的地位を磐石のものとした。さらに旧主家の京極氏と隣国美濃の斎藤氏
に婚姻同盟を成立させるなど、非凡な外交手腕を内外に示した。
のちに子の長政が勇のみの凡将であることを見抜き、自作自演の隠居劇を演出し、
長政のカリスマ性をでっち上げることで家督相続を円滑に遂行することに成功。
さらに、定頼の死後、六角氏の当主は凡庸な義賢、義治に交代していたため、
もはや不要な足枷となっていた六角氏との同盟を円滑に解消することに成功した。
無論六角氏との合戦に勝利したのは長政の武勇であるが、その勝利のための条件を
お膳立てしたのは久政であることは言うまでもない。
織田信長の台頭を予見した久政は、長政と信長の妹であるお市との婚姻を成功させた。
ここにも久政の非凡な外交手腕が伺われるが、あくまでも長政を立てるため、体外的には
頑迷な守旧派のイメェジを演出することを忘れないしたたかさもあった。
のちに信長が越前朝倉氏に侵攻した際は、知略に欠けた長政は信長を討とうとするが、
久政は時代の流れを読めない長政をかばって憎まれ役を買って出るとともに、お市を通じて信長を救って
恩を売りつける非凡な計略を採用した。しかし、これは信長に久政の正体(浅井の真の司令塔は久政)に
気づかせてしまう結果となる。久政最大の失策であった。このことは信長が小谷城攻めで長政を後回しにして
まず久政の守る京極丸を攻めたことに現れている。久政という頭脳を失った長政は、信長の血筋の妻と子達を
無条件で逃がすという外交オンチぶりを発揮、そのため長政の自刃後、子は信長に無残に処刑され、浅井氏はあえなく断絶する。
亮政という不良債権と長政というお荷物を抱えていなければ、あるいは天下に一番近い武将は久政であったのではないだろうか。
なお、久政のひ孫が後に徳川幕府三代将軍となった徳川家光である。
あ、そういえば似たような紹介文もうあったかな
久政の四代がかりの天下獲り、見事なり
関索
関羽の息子を名乗る詐欺師。
実際には関羽とは何の関係も無い。
関索と言う名も、恐らく偽名であろう。
戦に出て一儲けしようと思い、彼は南蛮征伐へ向かう諸葛亮の下へ走った。
そこで関羽の息子を名乗り、従軍を願い出たのだ。
最初は戸惑った諸葛亮であったが、この詐欺師の弁舌にあっさりと騙され、一軍を任せてしまう。
魏延などは、「ああ、また何か乗せられてるなぁ…」と心の中で呟いた。
この詐欺師の率いる軍は、関羽の息子に率いられている事、そして何より、
「父、関羽が我らを見守っている!」に始まる詐欺師の鼓舞で、やたら士気が高く強かった。
この軍に助けられ、詐欺師はそれなりの手柄を立て、恩賞を貰う。
が、南蛮征伐の後、彼は歴史から姿を消してしまう。
嘘がバレて逃亡したか、打ち首にされたか、はたまたバレる前に逃亡したのか、真相は不明である。
ちなみにこの詐欺師は、有る事2割、無い事8割の自伝を書いている。
この書物がどう言う訳か後世にまで語り継がれ、色々あった結果、『花関索伝』として残ってしまっている。
小山田 信茂
甲斐の国人で武田の武将、そして石投げの名人である。
自軍に石投げ部隊を編成するくらい、石投げが大好きだった。
この部隊が役に立つと信じて疑わなかったが、
敵味方問わず、他の武将からは半ば呆れられていた。
北条との戦では、北条氏照の部隊に向かって石を投げた。ひたすら投げた。
てっきり矢とか鉄砲とか飛んでくると思っていた氏照は、石しか飛んでこないことに呆れてしまう。
そして、「武田って貧乏だったんだ」等と思い始め、だんだんと可哀想になってきて、とうとう氏照は撤退してしまう。
このことで信茂は「武田随一の憂将」と言われてしまうが、本人は「武田随一の勇将」と勘違いして大喜びした。
三方原の戦いでは石川数正の部隊に石を投げた。これでもかと言うくらい投げた。
相手は馬鹿にされてるんじゃないかと思ってキレる寸前であったが、信茂は大真面目である。
そこに信茂の投げた石が数正の頭に当たり、それでとうとうキレた数正は、信茂に向かって突撃してきた。
敵が近づいてきてもなお、石を投げ続けていたので、結局押されて後退する羽目になる。
上手い事味方が敵軍を追っ払ってくれたので、『敵を誘い出した』と言うことで武将としての面目を保った。
信茂続き
長篠の戦いでも、敵の鉄砲部隊に対してやっぱり投石で挑んだ。
が、石を投げようと敵に近づいたところ、逆に鉛玉を大量にぶつけられて大敗、
信茂の軍は武田軍で最も多くの犠牲者を出したと言われている。
この時投石部隊は壊滅したらしい。
織田、徳川連合軍が武田を攻めると、圧倒的劣勢の武田勝頼を、信茂を居城に匿おうとした。
道中信茂は援軍を連れて来ると、一足先に居城に戻り、約束通り援軍を連れて戻ってきた。
しかし連れてきたのが、何と全滅したはずの投石部隊。
役に立たないくせに、懲りずに投石部隊を編成し、挙句にそれを自分の護衛に付けようとした信茂に勝頼は呆れ返る。
もうこりゃ駄目だなと諦めた勝頼は天目山へ行って自害してしまった。
その後、変わったモノ好きの織田信長は、信茂の石投げの腕に興味を持ち、信茂を呼び出してその腕を拝見しようとした。
当時の天下人からの呼出しなので、信茂も気合を入れて拝謁し、石を投げた。
ところが緊張からか、うっかり手を滑らせて石を信長の頭にぶつけてしまい、怒った信長に斬られてしまった。
石投げに生き、石投げで死んだ人生であった。
ちなみに、狭い世界で一番強い人の事を言う、『お山の大将』と言う言葉は、
投石部隊が滅茶苦茶強いと信じて疑わなかった信茂を指す『小山田の大将』が語源であることは、あまり知られていない。
715 :
705:2006/04/12(水) 15:31:28
やっぱり分身魔石とか、大回転魔石とかエビ投げハイジャンプ投石とか編み出したんだろうか。
池や川に石投げて「何回跳ねた」とかって自慢するタイプだったに違いない
信長に拝謁した後処刑されたって記述は方々にあるな
信長は富士山見に来てるからな
721 :
714:2006/04/13(木) 10:14:06
>>織田、徳川連合軍が武田を攻めると、圧倒的劣勢の武田勝頼を、信茂を居城に匿おうとした
織田、徳川連合軍が武田を攻めると、圧倒的劣勢の武田勝頼を、信茂は居城に匿おうとした
で修正よろしくです
ついでにネタ投下
徳川家康
戦国時代に現れたマッドサイエンティストで、主に改造人間の研究を行っていた。
戦国と言う時代を利用して、多くの人体実験を行った。
徳川軍の兵たちには家康による洗脳が施されており、三河武士の強さ、狂気染みた命知らずの行動は、洗脳の賜物である。
改造人間第一号は、他の誰でもなく家康本人で、男数人がかりで持ち上げることが出来なかった鉄砲を軽々と持ち上げた挙句、射撃までやってのけたと言う。
徳川家臣団は、多くが改造人間で構成されおり、誰もが人間とは思えぬ働きを示した。
恐怖の軍団の中核を為した武将達を、ごく一部ではあるが挙げてみよう。
本多正信は脳改造を施され、優れた頭脳を手に入れるが、精神を支配される前に脱出。
三河の一向一揆に参加して家康の首を狙うが、あえなく敗退。
正信は捕らわれ、完全に洗脳されて、家康の右腕となってしまう。
井伊直正は、家康の傍に仕えていた時期があり、より多くの改造を受け、その結果精神は崩壊し、戦闘マシーンとなってしまった。
戦場では多くの傷を受けつつも怯まず先陣を切り、血塗れとなったその姿、
また、軍律を僅かでも乱した兵を、眉一つ動かさずに斬り捨てる様は、正に赤鬼であったと言う。
服部半蔵は、改造により人間では到底考えられぬ走力や跳躍力を身に付けた。
戦場においては鬼神の如く敵を屠り、常時においては単身で諜報活動にも当たった。
また、伊賀越えの際は、その能力で伊賀の豪族に見せつけ脅迫、家康の警備に当たらせた。
半蔵忍者説はまさに、改造人間服部半蔵の活躍なのである。
722 :
714:2006/04/13(木) 10:14:41
その伊賀越えの後、家康は明智光秀の死体を密かに回収し、改造人間として生き返らせた。
これが、南光坊天海である。
彼の驚異的な寿命は、その肉体改造が影響しているものと思われる。
本多忠勝は家康の最高傑作で、改造を施された彼の肉体には、傷ひとつつかなかった。
しかし、定期的に家康のメンテナンスが必要であったようで、大名となって家康の傍を
離れた数年後、些細な事で身体に傷がつき、これが原因で死亡してしまう。
家康は、敵に対しても改造、洗脳を施し、徳川家を有利に導いた。
武田の臣、穴山信君は秘密裏に家康に捕らえられ、洗脳を施されて開放される。
そして、重要な場面で武田を裏切らさせられるなど、良い様に利用される。
最期は伊賀越えの際、囮として残され、土民に殺される。
関ヶ原の前には、東軍の武将多くに脳改造を施し、良いように利用した。
可児才蔵には肉体改造まで施したらしく、彼は笹を象った兵器で西軍の首級を次々と上げた。
西軍の将にも被害者はおり、半身不随で不治の病を患っていた大谷吉継は、実は家康の失敗作であると言われる。
脳改造された東軍諸将の、その多くは用済みとばかりに後年、改易されるのであった。
大坂落城後、自らの肉体の寿命を感じた家康は、日光東照宮を建立し、内部に御神体を設置。
そして自分の脳を、その御神体に移植したのだ。
日光東照宮は、家康を奉った神社であると同時に、家康そのものなのである。
戦国を支配した狂気の科学者は、今尚東照宮で生き続けているのだ……。
723 :
714:2006/04/13(木) 10:21:42
他にも、息子の信康を失敗作として処分したとか、
そんな家康に恐怖して逃げ出した石川数正とか、
クローンの研究もやってて、影武者とか土井利勝はクローンだったとか
色々入れたかったけど上手くまとまりませんでした
あと武田騎馬軍団に惨敗した理由とか思いつかなかった…
できればマッドサイエンティストの科学者の劉備も見たいな。
田予が改造される前に魏に逃亡したとか。
そういえば本多忠勝が本当にロボットになってるゲームがあったな
つーかこの本多正信の行動って仮面ライダーそのものだな
727 :
705:2006/04/14(金) 14:14:57
>>723 >あと武田騎馬軍団に惨敗した理由とか思いつかなかった…
改造人間は仮面ライダーに敗れるのがお約束だからな。
武田ライダー部隊に負けたに決まってるじゃないか。
信長作成のの制御プログラムエラーで、待機中もアイドリングを
続けていたものだから合戦が始まったとたんにガス欠になったんだよ