1 :
無名武将@お腹せっぷく:
うんうん、良い感じに発展させていきましょう!
>>1 おつ
前スレで皆様が秀逸と思う紹介レスを教えてくださいな。
あと、誰か郭嘉なんか書いてくださったら嬉しいです。
>>4 前スレの
>>1がシンプルで面白かった。
あと雷薄とかもワロタ
前スレ一番のヒットは黄蓋w
孟獲かな。あと董卓の「死してなお人々を照らし続けた」のやつw
凡から名だと47の楊松かな。
名から凡だと975の黄蓋。
どちらでも無いやつだと828の左慈。
一発ネタだと「黄祖パワー」だなw
おれは301の方広寺の鐘だな。
なにげに377の何進もうまいと思う。
【宋謙】
呉の将。孫策・孫権に仕え、武芸に秀でた部将で方天画戟の使い手。
始めは孫策の近衛兵として呉に仕えるが、孫策はまもなく病死し、変わって孫権の身辺警護にあたる。
「曹操には典韋・許チョ、劉備には関羽・張飛がいるように、ワシには太史慈と宋謙がいる」
とまで孫権に言わせる程に信頼されて、宋謙もこの期待に良く応えてきた。
後に太史慈は死し、変わって甘寧が台頭するが、近衛の双璧の一翼は常に宋謙が担ってきた。
彼は武芸のみならず、操兵にも優れていたとされている。
濡須へ楽進軍が攻めて来た時はこれを良く退け、周囲にただの武芸者ではない事も認識させる働きをし、
良くも悪くも強気になった孫権が合肥を攻めて張遼に奇襲をかけられて窮地に陥るが、
身をもって張遼を防ぎ、孫権を安全に避難させる事にも成功している。彼の活躍が無ければ呉は潰えていただろう。
しかしその時の傷と、乱戦の最中に李典の矢を受けた為、後を甘寧に任せてやむなく戦場から離脱する。
時は流れて222年、関羽・張飛の仇討ちと称して劉備が夷陵まで攻め寄せるが、その勢いに恐怖した孫権は
陸遜の下に宋謙を派遣、形勢逆転を狙う。
敵陣を見て「乙を以って労を待つ」作戦を行おうとしていた陸遜に同意し、逸る諸将を理を尽くして説得、
陸遜のような若輩に従わない者も、二代に仕えてきた宋謙の言には逆らおうとはしなかった。
やがて長期戦に疲れた蜀軍を陸遜の火計によって撃破、劉備を白帝城まで追いやった所で帰還した。
陸遜ら次代の英雄を見て安堵した宋謙は、自らの武芸を研鑽する為に引退を決意。
孫権はこれを惜しんだが、宋謙の意志が固い為にやむなく許可する。
これによって宋謙は歴史の表舞台から姿を消すが、宋謙は各地を遍歴しつつ方天画戟法の研鑽に勤め、
弟子を取ってこれを教える。
後に蜀の将となった鄂煥は彼の弟子の一人であり、鄂煥を「呂布の再来」とまでに成長させた立役者である。
嘘書いちゃ駄目だろ
【松永久秀】
出生地不詳。元京の商人とも言われる。戦国期最大の義将として知られる。
衰亡し名ばかりの管領・細川氏の一家老に過ぎない三好家を天下の覇者
たらしめたのはこれひとえに久秀の功績である。
このことは、五畿内・四国を領した三好家が久秀の退去後またたくまに消散
したことからも明らかである。
久秀は当代一級の改革者であり、大和にはびこる仏教勢力を焼き討ち、
天下人失格の暗愚な主家を崩壊させ、権威主義に固執する将軍家を討伐した。
これら抵抗勢力が万民のためにならないことをいち早く見抜いたのが久秀であり
あの信長公も、「人が1つとしてできないことを3つもやった。」と絶賛している。
信長公の叡山焼き討ち、将軍義昭の追放、伊勢長島の虐殺はこれすべて
抵抗勢力に対する久秀の行動を見習ったものである。
久秀は文化人としても著名であり、築城術に優れ本邦初の多層天守閣のある城を
築城したほか、茶道にも造詣が深く「平蜘蛛」「九十九茄子」などの多数の名器を
所有し、文化の保護者としても名高い。
久秀は、浅井長政離反の時には朽木谷の間道を案内し信長を助け、天下の
改革に努めたが、武田壊滅後増長した信長が暴君と化したことから、万民のため
大和信貴山城で挙兵した。
しかし、正義が勝つとは限らないのが世の常である。いつでも滅亡させることが可能
であったにもかかわらず情けをかけ命までとらなかった大和の弱小勢力、
筒井順慶の手の者が手引きをし、久秀は信貴山城と運命をともにする。
「洞ヶ峠」で天下に失態をさらした順慶如きのために久秀ほどの者が討たれるとは
世の中不思議なものである。
久秀の死の直後、大和では久秀を追悼する祭りが各地で開かれ、
故人の人徳をしのんだという。
陳琳
建安七子の一人。後漢随一の名文家・・・・とされてるが実は後漢随一の悪筆家でもあり、
その字のあまりの下手さかげんは曹操の頭痛をすっかり直してしまったといわれる。
郭嘉
曹操の名前だけの参謀。程イクの推挙なので無下にも断れず、つい雇ってしまった。
的確な事は言わず、あいまいな表現で人を煙に巻き、
優秀な人物のそばにいる事で自分も貢献したかのような顔をしていた。
官渡の戦いの際にも勝因は沢山ある、等と言いながら戦略での具体的な事は何一つ言わず、
他の参謀の言うに任せていた。
袁紹の子供達の対処についても、分からないので「ほっとけば?」と言った結果、
勝手に瓦解したのに郭嘉の進言のおかげという事になっている。
烏丸討伐に従うが、策が出せないので仮病を使って途中で離脱。
天下の曹操を誤魔化し続けている事に気を良くして酒を飲みすぎて本当に病気になってしまい、
曹操凱旋前には死んでしまった。
え、久秀は凄いヤツだろ
17 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/04(木) 15:08:04
嘘書いてまで貶めてもなぁ。
嘘をつくなら書き込むな!
事実を述べながらも、捉えようによって色々な面を
見つける面白がるのがこのスレの趣旨だろ?
夏厨どもはひっこんでろ!
まぁ落ち着け
>>16 まあ確かにすごいんだが、いい意味で凄いってことだよ。
どっちの諸葛瑾?
人の方?それともロバの方?
まあ、どっちもどっちかw
どこがウソか指摘してやった方がいいんじゃねえの
許褚
魏の武将。汝南で一族等を率いて砦によった際、賊一万人に襲撃されたが牛の蹄の下に油を塗って牛の足を滑らせ、それを片手で引いて賊を驚かせた、という智謀の持ち主。
その後曹操に仕えるが、曹操が「わが樊カイである」と言ったのは、鴻門の会で項羽に堂々と正論を述べた樊カイに匹敵する弁舌の持ち主と評価したためである。
また、曹仁が曹操の休み中に訪れた際に正論を述べて通さなかった、という逸話は許褚の機転を示したものとして評価が高い。
曹操も許褚の智謀と弁舌を愛し、他の参謀たちを都に留め置く場合でも許褚だけは常に身近に置いておき、許褚もよくその期待に答えた。
また、馬超征伐の際に、許褚の異名「虎痴」が出るが、これは「聖獣たる白虎(=虎)も許褚の前では痴者に等しい」の意であり、許褚の智謀が広く知れ渡っていた証拠である。
敵将たる馬超も、わざわざ曹操に許褚がいるか、と尋ね、また許褚も馬超との一騎打ちの際には、あえて鎧を脱ぎ捨てて馬超の疑心を喚起して隙を作らせるなど、「虎痴」の名に相応しい働きをした。
曹丕、曹叡の時代もその智謀を評価されて、武衛将軍として中央に留め置かれ皇帝の近侍を勤めたが、これは許褚の智謀が戦場で発揮されることがなかったことでもあり、これがために蜀や呉の命脈を永らえた、とも言えるだろう。
25 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/05(金) 00:51:34
>>18 まぁ、アレだ
同じ人物を使って手本を見せてやれば黙るだろうよ
その夏厨とやらも
26 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/05(金) 01:03:10
え?ここってまるでシバリョウの「竜馬がゆ・・・
猛将→智将か。いいね。
>>24 珍しいやり口でいい感じー
>>18 事実でないことでも結果として辻褄があえばいいと思うよ。
漏れは事実に対して捉え方を工夫するところに面白味があると思う
まあ必ずしもそうである必要はないのかも知れないが
>事実でないことでも結果として辻褄があえばいいと思うよ。
これは例えばどうゆうこと?
程c
身長2mを超える腕力だけは人並みはずれた老人。
ある陣内の出来事、兵士達を景気づけようと「がんばってるか〜い?」
と声をかけながら兵士の頭を叩くと勢いの余り兵士の頭ごと吹き飛ばし死なせてしまった。
これでは殺人の罪に問われると思った程cは死なせてしまった兵士の肉片を混ぜ兵糧とし証拠を隠滅した。
官渡の戦いでは程cが陣を攻めるもこの時60歳の老将の為、すぐ休憩してしまい
攻めては休憩、攻めては休憩といったなんともやる気のない戦いをしてしまった
しかし、敵将は何度も攻めてくる恐怖心からストレスが溜まりついに吐血して倒れた。
曹操は「これは十面埋伏の計だな!」と程cにはそんなつもりはなかったが
思い込みの激しい曹操は程cを絶賛した。
>>30 >兵士の頭を叩くと勢いの余り兵士の頭ごと吹き飛ばし死なせてしまった。
こーゆーノリ好きw
前スレで雷薄書いたから言うわけじゃないんだけど、
まあウソ無しが王道だけどネタに走る路線があっても
いいかなとは思う
>ある陣内の出来事、兵士達を景気づけようと「がんばってるか〜い?」
ちょwwwwwwおまwwwwww
袁術
四世三公の名門、袁家の嫡子であり、春秋諸侯である陳国の卿をつとめた家柄でもある。
至誠の人として知られるとともに、帝位が唯一のものではないことを初めて示した稀代の革命家でもある。
はじめ大将軍何進の属官として、十常侍抹殺の際に活躍し、袁家に袁術ありと世に知らしめる。
ついで董卓討伐にあたっては孫堅を従えて参加し、全軍の兵糧を受け持つという、いわば高祖劉邦における蕭何の役割を担う。
しかし、袁術の声望が高まるのを妬んだ庶兄袁紹が関東諸侯に不和の種をまいたため、袁術の兵糧確保に支障が起き、前線の孫堅は撤退をやむなくする。
この件で孫堅は袁術を激しく責め立てるが、袁術は庶兄の陰謀と知りつつも兄を正道に導けなかった、己の責めるのみで、孫堅の非難には一切弁解しなかった。
後に孫堅はこの真相を知り、己の不明を深く恥じるとともに袁術の懐の深さに心服し、己の死に際しては嫡子を預けるほどになる。
袁術は後漢末の動乱期にあって、我利我欲に走る群雄たちに徳とは何かを体現した一方で秦の始皇帝に匹敵する偉業を成し遂げた。
それは「仲」の建国である。「漢」の皇帝がいるにも関わらず袁術が「仲」の皇帝に即位したことで、帝位が血のみあって不徳無能な人物に独占されるものではなく、徳と能を兼ね備えた人物は他の皇帝の存在に関わらず、皇帝と称することができる、としたのである。
これは秦の始皇帝が三皇五帝を凌ぐ者として「皇帝」の言葉を作ったことに対して、袁術が「皇帝」の定義付けを行ったのである。
この袁術の定義付けがあればこそ、後の三国時代のように複数の「皇帝」が並立できるようになったのであり、劉備や孫権は袁術の定義をなぞったにすぎない。
このように袁術は個人としては徳を積み、公人としては偉大な業績を上げるなど、他の群雄から抜きん出た存在であったが、それだけに庶出のためねじけた心根の袁紹から一方的に妬まれ、袁紹の悪友である曹操からは豊かな領地を狙われるなど、多難であった。
ここに至って袁術は兄袁紹を正道に戻すには袁紹の欲を満たし、それによって徳に目を向けさせるしかない、と決断する。
袁紹に皇帝位を譲ることを決めると、己自身のことは一切顧慮せず、自ら袁紹の元へと出向くが、宦官の孫という屈折した感情を持つ曹操が悪友袁紹が正道に戻ることを嫌い、
その曹操の手先となった劉備の手に掛かり、兄を正道に戻せずに先立つことを悔いながら生涯を終える。
なお、死に臨んで、雷薄(前スレ
>>339)が作った蜜水を求めても得られなかったという話は、楚の成王が熊の掌を求めたが与えられなかったという逸話に通じるものがある。
また、死に臨んでも求めるのは蜜水のみという袁術の寡欲さが日常の節制を物語るが、その寡欲さが兄袁紹をはじめとする周囲の嫉視を買ったのであり、
後の世の人はその皮肉さを嘆いたという。
国の名前を変えちゃうのはどうですかね・・・
袁術の国名を成としてるのはどっかのゲームメーカーの設定なだけなんで
実際の国名は諸説云々だが仲が有力
40 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/08(月) 01:47:23
程イク 不覚にもウケタw
いちいち批判する厨は消えて下さい^^
ネタ書けよバーカバーカ^w^w^w^w^w^
だれか袁術を銘水ハンターみたいに書いてくれろ。
究極の銘水・蜜水を求めて皇帝になろうとした男、みたいな。
43 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/08(月) 14:44:44
こっちに移籍
董卓(とう たく)
後漢末期の軍人・政治家。字は仲穎(ちゅうえい)。兄に董擢、弟に董旻をもつ。
隴西郡臨ちょうの出身。献帝を保護し、漢王朝の再興に尽力した。
漢に反乱を起こした人物や北の匈奴討伐などで大いに活躍した。
公正清廉な人物で人望もあり、献帝からも信頼されていた。
そのためか朝廷内では功業の巨大さを恐れた宰相・王允の讒言により、南方の僻地へと左遷される。
その後王允の陰謀により「董卓に南で謀反の疑いがあります」と帝に上奏したため、
都に偽りの手紙で呼び戻され、惨殺されてしまう。
>>43 董卓のよさを説明するなら
どうして清流名士の再登用を挙げない?
45 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/08(月) 15:07:29
王允(おういん)【前編】
後漢末の政治家。字は子師
太原祁出身。元は洛陽で豚肉を売り歩いていたが、時の桓帝が王允の妹を
を皇后に選んだ為、尚令書になる。次の霊帝の時には、大将軍、何進と
共謀し、霊帝の側に仕える邪魔な宦官、張譲ら十常侍を無実の罪で処刑した。
霊帝が崩御すると、幼い献帝を何進、董卓、董承らで即位させ、自らは
宰相まで地位登らせた。その後董卓を献帝が気にいると、またしてもあらぬ罪で
処刑し、その専横ぶりを四海まで轟かせる。
46 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/08(月) 15:10:21
47 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/08(月) 18:10:44
王允(おういん)【後編】
董卓殺害後は何進と対立、刺客をつかい何進をも殺害し軍権を握る。
また洛陽の都の富豪から金品をせしめ、私服を肥やした。
註殺を恐れた董承は病と称して隠居し、その他の重臣達も王允のいいなりなる
195年各地の諸侯による反王允連合が結成され、洛陽で捕縛、3族処刑になる。
享年58歳であった
>>48 というより弓を左右両手に一つずつ構えて馬を走らせながら同じように射ることができたというべきだな。
↑どんな弓か説明汁
>>50 知らんな。記述に沿って書き込んだまでだ。
「双帯両鞬、左右馳射」
文句があるなら編者に言ってくれないか。
関羽(かんう)
三国時代の武将。字は雲長。
司隷・河東郡解良の人。劉備に仕えていた勇将で、
劉備に仕えてに従って各地を転戦した。
反王允連合で武功を立てる活躍を見せたが、翌年の『興平の大乱』で
袁術軍の紀霊に一合のもとに斬り殺された。
>>52 乙〜?
その後の関羽の活躍は亡霊の仕業かw
・董卓は軍閥の長ではない。漢朝の官吏で、武官だった。
・黄巾を甘く見た朝廷の命で小規模な軍で討伐に行かされ、これを討伐しきれず失職し苦労した。
・宦官や外戚勢力による清流派弾圧に連座して免官されるも、結局その能力が求められ復職する。
・涼州で起こった大規模な反乱軍が長安に迫った際、幾度も迎撃に出ている。多くの官軍が敗北する中、董卓だけは任務を遂げ帰還した。
・霊帝崩御後勃発した宦官と外戚の勢力争いに際し、何進、袁紹らから上洛を求められるが、応じなかった。
催促されると、正規軍を皇甫嵩に預け静観。腐敗権力には力を貸さなかった。
・何進が殺害されると、僅か三千の手勢を率い、上洛を敢行。
・袁紹、袁術らの兵に宮殿を焼かれ、郊外に避難し路頭に迷っていた皇族や高官を保護、洛陽入りを強行し、
指揮系統を失い混乱する正規軍をまとめ、賊軍を追い払う。
・霊帝が死に、弁皇子を擁して絶大な権力を握ろうとしていた何大后らの勢力と対決。
協皇子の信頼と、生き残りの清流派、そして 僅かな兵だけを後ろ盾に、濁流派が招きいれた丁原らと戦い続け、遂に勝利。
・何大后の操り人形に過ぎなかった弁皇子を廃し、ついに何大后を打ち破る。
虐げられていた清流派官僚らと共に、世界史に悪名を残す党錮の禁に終止符を打つ。
・革命の余波で、清流派官僚が打った極端な人事や、ずさんな財政政策にとまどいながらも、
宦官勢力の濁流派であった曹操を含む優秀な人材を随所に登用、必死に建て直しを図る。
・党錮の禁で追放されたり処罰された清流派官僚やその子孫を全て復権させるという、ただでさえ苦しい財政を省みない無茶な政策にも耐える。
さらに袁紹、袁術ら地方軍閥を追放してしまった為、都に届かなくなった税の為財政は更に逼迫、苦し紛れに司徒らが切り出した改鋳政策に苦しむ。
・袁紹、袁術らが逆恨みで挙兵、曹操を始めとする官僚の裏切りにも会う。この後綴られる歴史に汚名を着せられる。
・無念の洛陽放棄。略奪をあてに長旅に耐えて来た田舎兵士が洛陽を焼く。宮殿に乱入した者が玉璽を盗む。
・長安に移り、官僚達の不満が暴発。スケープゴートに選ばれたのは辺境出身の彼だった。全ての罪を着せられ、暗殺される。
・すごいデブだった
これは中世以降肥満を蔑むようになった漢民族の創作ではないでしょうか。
彼を最低の悪役として描く為の…正史が書かれた頃の中国では、肥満はむしろ美徳だった(それだけ富貴であるという事の証拠だった)はず。
・軍事力を背景に混乱した洛陽を占拠し、専横を奮った
正史にすら書かれてますが、董卓に後ろ盾となる地盤はありませんでした。
西涼の大軍を持っていたのは董卓ではありません。董卓は西涼の大軍の侵略と戦っていた人です。
・私腹を肥やした
肥やしようがありません。董卓が上洛した洛陽は、何進の暗殺と、それに対する袁紹、袁術の逆襲、宦官の殺戮により、
完全に地方に対する支配力を失ってしまっていました。さらに清流派の復権で人件費がかさんでいます。
・経済政策の失敗
残念ながら董卓はただの将軍です。経済政策には疎かったかもしれません。改鋳などを行ったのは、司徒らだと思います。
・残酷な刑罰や敵対勢力の縁戚の殺害を行った
革命後にはつきものです。やったのは怨念に駆られた清流派官僚だと思います。
また袁紹、袁術らはこの時点の洛陽では罪人です。どんな理由をつけようと、洛陽に侵攻し王宮を焼き、漢臣を殺し略奪を行った事は罪です。
この行為によって漢の威信はますます地に落ちたのです。袁紹、袁術派の人間に刑罰を科した事は、当時の刑法上では当然の事と思います。
これも、やったのが董卓であるという証拠はなく、そして董卓はあとで罪をなすりつけるのには格好の人物でした。
また、董卓はむしろ過去の派閥に囚われない人事登用を行っています。
・陵墓を荒らした
陵墓はとっくに、韓遂ら西涼の反乱軍や、袁紹、袁術に荒らされています。
これは韓遂らの略奪を止められなかった旧漢臣やその後台頭して来る勢力らが罪を董卓に押し付けた物かと思います。
或いは墓荒らしは悪役の行為の常道ですので、後世の創作かもしれません。
・その他悪行
金持ちを殺して財産を奪ったとか、略奪で美女をかきあつめたとか、もうこんな事は誰がやったか解りません。但し、後から見れば、董卓はその辺りの悪事を押し付けておくには格好の人物でした。
>>55 乙カレちゃーん
書いてあることに対する意見をしてしまうと討議スレになりかねんので控えるけど
新らしい手法とはいえやはりもう少しまとめて簡潔にしてしてほしい
あと結局凡将なのか名将なのかイマイチよくわからん^^;
暴君→凡君としたかったのかな・・・
58 :
?T?? :2005/08/09(火) 09:55:13
>>58 悪いが長くないとメジャーな悪役の再評価はできん。
要するに読書力のない奴は
読まなくていいっちゅーことやね!( ^∀^)ゲラゲラゲラゲラ
>>55 とりあえず乙。
初投稿さんかな?
>>1にまとめサイトあるから一度みてくるといいよ
62 :
gi:2005/08/09(火) 11:11:46
車冑(しゃちゅう)
後漢末期の武将。曹操の家臣。
曹操に仕え、車騎将軍に任じられた。曹操軍二十八騎の一人。
勇敢で二十八斤の牙戟を操る猛将として有名で、子供頃に虎と戦って素手で殴り殺した逸話も残っている。
劉備が曹操のもとから離れたとき、その監視役を命じられた。劉備が曹操へ反旗を翻し徐州城
に攻め込んだ時、徐州城門前で奮戦するが、関羽と一騎打ちの最中に後ろから趙雲に槍で貫かれ
てしまう、それでも尚、倒れるこなく獅子奮迅の活躍を見せ、一旦劉備軍を退けさせる。
再び劉備軍がやってくると、車冑は再び門前に立ちはだかり傷つきながらも戦うが、
最後は無数の矢を浴びせられ、門前に立ったまま憤死する。享年35歳であった。
63 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/09(火) 12:24:13
(*´д`*)ゲラゲラ
64 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/09(火) 12:50:07
(*´д`*)ゲラゲラ
創作しすぎ
66 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/09(火) 13:04:56
悪魔に口づけ
椎名京介(インテリ高校生)×鮎原小麦(外見は少女みたいな高校生)
【話のあらすじ】
小麦の自慰
京介、小麦のペニスをしごいてやる
京介、小麦にフェラ
京介と小麦のキス
京介、小麦のペニスをしごいてやる
小麦、京介にフェラ
67 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/09(火) 13:26:32
佐倉広夢きゅん 広夢くん
綿貫琉宇きゅん 琉宇くん
柊真生きゅん
里中翔きゅん 鮎原小麦きゅん
【張郃】
魏の五将軍といわれる一人が飼ってた犬。
元は韓馥に飼われていたが韓馥が滅ぶと袁紹に鞍替えし郭図に世話をされた。
曹操と戦うことになると邪魔になると思った郭図は曹操に飼わせるようにした。
漢中の張魯討伐では先遣隊の中に士気の向上の為と従軍し
街亭の戦いでは脅威の嗅覚で山頂に馬謖が布陣してることを発見し大勝利をもたらした。
更には南安・安定・天水に小便でマーキングをし、悪臭の為蜀軍は撤退し、あっという間に魏の領地となった。
のちに司馬懿が総司令官になると略陽の諸葛亮に対してラッキー犬こと張郃を派遣した。
諸葛亮は「張郃がきた」というだけで撤退した。これを司馬懿は無理に追撃させそのまま張郃は行方不明となった。
これは司馬懿が「張郃は儒学者に可愛がられている。のちに張郃が皇帝に選ばれてしまうかもしれない」と危惧した為である。
69 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/09(火) 13:56:22
立 新 / ,、r'";;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`';,、 ,r';;r" _ノ 荒 何
て し L_ /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;\ ,';;/ ) ら と
ね い //;;/´ `' 、;;;;;;;;,,l;;' /ヽ し こ
ば ス /.,';/ ヽ;;;;,l;L_ .,,、,--ュ、 ';;;;;;;;;i か れ
い レ l |;|┌--‐フ ┌----、、 |;ヾr''‐ヽ, ,、ィ'r-‐''''''‐ヽ ';;;;;;く !! が
か ッ i |l ~~__´ 、 ``'__''''┘ |;;;;;l rO:、; ´ ィ○ヽ 'i;;;;;厶,
ん ド l _|. <,,O,> 〉 <,,O,,> |;;;;;| `'''"/ `'''''"´ !;;;;;;;;ヽ
の を ._ゝ'|. / 、 |; ,' / 、 |;;;;;;;;;;;;;レ、⌒Y⌒ヽ
う 「 | | ( ) .ソ l ,:' _ ヽ .|;;;;;;;//-'ノ
ヽヽ | _,ニ ニ,,,,,_ ', ゞ,' '"'` '" i;;;;;i, `' /
⌒レ'⌒ヽ厂 ̄ `| ,、ィ-‐''__'''‐-`,、 '' .', i、-----.、 `''"i`'''l
人_,、ノL_,iノ! . ', :i゙''''''''''`l' ` _人__人ノ_ヽ ヾ゙゙゙゙ニニ'\ ,' ト、,
/ ヽ L__」 「 で 書 Lヽ ヽ〈 i| Vi゙、
ハ ワ {. ヽ. -、、、、 ' ノ き き 了. ゙, ,ヽ===-'゙ ,' , // ヽ
ハ ハ ヽ. ハ ) ん 込 | ',.' ,  ̄ , ' ノ //三国志・戦国板
ハ ハ > /|ヽヽ、___,,,,、 'く み > ヽ.  ̄´ / ,、 ' /
70 :
金正日 ◆VykG4Xiupo :2005/08/09(火) 14:08:36
田代まさし
ハーバード大学大学院卒でアメリカ航空宇宙局に勤めるも
突然NASAを退職し、遍歴を隠して日本に渡る
一級建築士の免許も保持しており、音楽センスでも他者を圧倒している
今は東京都の某所に身を隠し、麻薬の研究と風呂場の研究に勤しんでいると言う
謎の多いバイリンガル
頼むから荒らしはやめてもらえんかの(´・ω・`)
>>68 乙かれ〜 結構面白かった。
司馬懿がすごく馬鹿になってる件
73 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/09(火) 15:48:12
朱霊(しゅれい)
魏の武将。字は文博。清河の人。曹操軍二十八騎の一人。
はじめ袁紹の家臣であったが、袁紹とそりが合わず出奔、諸国放浪の末、曹操に登用され家臣となった。
曹操は朱霊の非凡な才能を愛し、于禁の元で軍略を学ばせる。
219年蜀軍が襄陽に攻め込んできたため、干禁と共に援軍の将として出陣。蜀軍の猛攻に次第に軍を
維持できなくなり。上官の干禁も捕縛され絶体絶命の危機を36騎を引き連れて敵陣を突破し、
見事脱出に成功した。
曹操が死に、曹丕の時代になると次第に冷遇され。晩年は淋しい余生を送ったとか....
まとめサイト……
笑えると思って期待して行ったらすごく泣けてきた。
75 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/09(火) 16:17:29
リョウカが好きなもんでね……。
>>75 ageないどいてよー(´・ω・`)
なんか自治厨ぽくなってきた漏れがいるw
>>77 笑えるのだと謙信とか華陀あたりが個人的に好きだなぁ。
79 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/09(火) 17:00:21
廖化…
程cwwwwwwwww
黄蓋wwwwwwwww
遅れたけど、
管理人サイト更新乙
まぁ、ageくらいは良いじゃないか
荒らしに反応しちゃいかんよ
管理人さん、まとめサイト更新乙。
まとめサイトの構成ですが、ライトサイドとダークサイド、アナザーサイドに分けてみるのはどうだろう。
ネタ投下キボン
大友義統 (おおとも・よしむね) 1558−1605
大友義鎮(宗麟)の嫡子に生まれる。幼名長寿丸。
将軍足利義昭の諱字を受け義統。後、豊臣秀吉の諱字を受け吉統。洗礼名コンスタンチノ。
信仰厚きキリスト教徒であり、彼の住まう野津においては爆発的に信者が増加したという宗教的徳望の持ち主であった。
また子作りに励んでばかりの実父大友義鎮に対し、お家騒動の元凶になると批判する高いな倫理性も併せ持っていた。
その為か、一万田宗慶ら義統に忠言する家臣は数知れずであったという。戦国時代においては稀にみる人格者だった
と言えるだろう。
戦場においては黒田長政揮下の将として朝鮮に出兵、長駆して鳳山城を占領する勇猛さ、小西行長の救援要請に対し
戦局不利と見て応じなかった的確な判断力を兼ね備えていたが、秀吉には理解されず、この対応を逃亡と非難、義統
は領国を召し上げられ山口の本国寺に幽閉された。家康はこの処罰に対し、石田三成や福原直高らによる「贔屓の
沙汰」と判断、慶長4年赦免される。
その後、関が原の合戦に西軍として参戦するも、敵が黒田如水では相手が悪かった。降伏したのち、配流。赦される
ことなく没する。享年48歳。
元ネタ
http://www.e-obs.com/heo/heodata/n114.htm
【荀攸】
とにかく運のいい男。
董卓に投獄され、そこから出られたところから彼の幸運物語は始まる。
対呂布では郭嘉の寝言を聞いて曹操に水攻めを進言した。
さらに対袁紹では野グソしていた顔良を見つけ関羽に斬らせて
立ちションしてた文醜を後ろから5人で切り刻んだ。
そして徐晃が一人で花火を楽しんでたら食料を積んでた車に飛び火し炎上。
徐晃はこれを逃れる為に荀攸になすりつけたが袁紹の食料庫であったため
曹操は「見事な焼き討ちだ!」と荀攸を絶賛した。
北方征伐でも木の枝が倒れる方向に進んだら敵と遭遇、兵力で圧倒的に勝ってるのであっという間に平定した。
そして勘違いの激しい曹操に「表面は鈍くて臆病そうだが、内には英知と勇気を持っている」と評される。
稀代な不幸人間鍾繇とは親友で「幸運になるための12種の方法」というものを教えた。
しかし我欲の強い鍾繇は本当に幸運になれたためこれを編纂せずに冥土へ持っていった。
【人羅】
「独」の宰相。下級官吏の子として出生。若かりしころは書画を志す
も誰も召抱えてくれなかった。この時に流浪民出身の者から辱めを受
けたらしく後々これを怨むようになる。兵役を逃れるため他国に逃げた
が祖国で戦争が起こると兵役に志願、伝令役を努めた。「独」は栄払魯
の連合軍に敗れ降服した。「那智党」に入ると「民遍」という町で反乱を
起こすが失敗し捕らえられる。獄中では友人に口述筆記をさせ『我闘争
也』が執筆されている。釈放後、文武百官たちに推され宰相となる。党
内外の政敵を謀略を持って一掃し、独裁体制を固める。独公になるが
自らを「覇者」と名乗るようになり下々の者にまで「覇者」と呼ばせた。
「倭」と「伊」と同盟を結ぶ。後顧の憂いを断った独公は東の隣国へ軽騎
兵を一斉に越境させた。新戦術の前に次々と包囲・殲滅され隣国は1ヶ
月もかからずに降服した。さらに西の強国である「払」を攻めるが将軍
たちと戦術を巡って対立する。独公は戦力を二手に分け歩兵を北から
騎兵を南から攻めさせる方法を主張した。騎兵主力は森林地帯を抜け
て渡河に成功した。一ヶ月も経たぬうちに城都まで迫り「払」は降服した。
同時にこの頃から増長気味の行いが目に付くようになり、また軍才も
やや衰え気味になった。東方では強国「魯」に攻め込むも大敗を喫す
る。さらに西方では栄丙の主力部隊が上陸していた。栄丙魯の三方
から攻められると屋敷で愛妾と共に自刃した。水に沈めても半年間生
きていける樽型の船に乗って「倭」に逃げたとも遠い大陸に逃げたとも
説があるが定かではない。
>>85 お疲れさま。
あまりストレートすぎる表現はネタに走る路線でも質が落ちてみえてしまうぞ>野グソ、立ちションとか
漏れも程c書いてるからあまり言えないとこだけど。。
織田有楽斎
俗名は長益。聖将・織田信長の愚弟にして、生涯を通じて放置プレーされた茶坊主武将。
それなりの器量はあったらしいが、人材はきら星のごとき織田家では特に役目はなく、
茶坊主仕事や官官接待をして日々を浪費する。
主君の弟という立場ではあるが、多くの家臣から放置プレーの扱いを受けていた。
本能寺の変の際には、運悪く二条城に取り残される。
この危機に、ヘタレの有楽際は必死に焦っていた。同じく茶坊主でも前田玄井は、
その小利口な知謀と多少は備わった武勇を持って脱出したが、有楽斎にそんなものはない。結局、有楽斎は何の工夫もなくこそこそと逃げ出すことにした。
寄せ手の大将・勇猛の誉れ高い斉藤利三は当然気付いていたが、「有楽斎ならいいや」と
ごく自然に放置プレーをした。
彼にとって大事なのは、茶坊主でなく、信忠を討つことだったからだ。
関ケ原の戦いでは一応参陣するも、やはり放置され、最後尾に布陣させられた。
しかし、運良く棚ぼたで疲弊しきった蒲生郷舎と遭遇、これを討ち取り、
小功を誇ったが、その戦功は特に評価もされず放置された。
また、大阪の陣では、徳川方にセコセコ内通する。
豊臣方でも、有楽斎がスパイ行為していることなど百も承知であったが、
「どうせ有楽斎なら、ろくな情報は集められんし、むしろ誤報を送って敵を攪乱できる」と当然の如く放置プレーである。
一部史料では、家康が彼を茶室に招いて密議を凝らした、というような記述もあるが、
その実態は、家康が本田正信・正純親子らと散々に謀議した後、喉が渇くので
彼にお茶くみをさせていたに過ぎない。有楽斎は、いろいろと情報を漏らすが、
誤報だからなので誰も聞いちゃいなかった。彼の報告は見苦しいほど間違えだらけで、
2chに見られる「痛いニュースの先駆け」と後世評価されることになる。
その後は、お情けで知行をもらい、小大名としてチマチマお茶くみをしつつ、
生き延び、特に誰からも相手をされることなく放置プレーをされていた。
彼の名は、東京や京都に「有楽町」の地名で現代にも伝わっているが、
有楽斎のようなマイナー武将を知るものは少なく、
多くの人からは忘れら、今なお放置プレーされている。
微妙だが有楽町の由来は初めて知った。そうだったのか。
書いてみたいとも思うのだが、被ったりとかしちゃ不味いのかな?
有りだよ
>>91 俺は被らせて笑いを取ったりする自信はないからあえて避けるけどね
とりあえず、
>>1をよく読んでみなさい
王惇
呉の重臣で防衛戦では滅法強く無敗だった。
更に広まる病気を瞬時に抑えるなど神がかり的な動きをしていたので
孫権や呉の人たちからは「王惇先生」と慕われていた。
しかし新型の病気「孫綝」には歯が立たず自分がかかり病死した。
今ではNew ortonことNortonというウィルス対策ソフトになっている。
ここは凡将を愚将のように語るスレでつか?
龐統
襄陽出身。劉備に仕えた文官。
その才能は今一であり、司馬徽にも鳳雛(鳳凰の雛のように成長するには時間がかかる)と言われてしまう。
ほうとうは船酔いの防止に船を鎖でつなぐことが有効であると経験から知っていた。
そのため、曹操と孫権・劉備連合軍が長江で戦った赤壁の戦いにおいて、たまたま曹操が苦しんでいるのを見つけ、見過ごせず献策した。
この後に起こった連合軍の火計がこの鎖のために効果が増し、曹操に仕えようかと思っていた龐統も孫権に仕えるようになる。
しかし、その容姿が気に入られず、結局劉備に仕えることとなった。
県令となった後は飽きっぽい性格のためにどの仕事もあと少しのところで他の仕事に移り、結果として仕事がたまってしまった。
それをサボっているものだと勘違いし張飛が詰問に来たが、龐統はついに仕事を終えようとしていたため、半日で仕事を片付けた。
それを才能があると勘違いされ、龐統は劉備に認められる。
劉備はその後入蜀を目指すが、同族の劉璋を討つことをためらう劉備に対し、龐統は諸葛亮が討つべきだと言っているので便乗して説得する。
蜀に入った当初、歓迎の宴の際についでだから今劉璋を捕らえたらどうだと誰でも考え付く進言をするが、劉備は拒否する。
その後劉備は張魯と対峙するが、龐統はそろそろ劉璋を攻めたらどうだと言ったところたまたま孫権が援軍を求めてきたため、うまく劉璋をごまかすことができた。
このときに一気に行くか一旦退くか敵をだますかという受け売りの策を進言する。
最期は雒城を攻める際、龐統は目立ちたかったために劉備に的盧を借りるが、勘違いした張任によって討たれてしまう。
【張飛】(ちょうひ)
中国後漢末期から三国時代の蜀漢の参謀・軍略家。字は益徳。諡は桓侯。
劉備が旗揚げして以来、武の関羽、智の張飛と呼ばれ共に付き従った。
数々の戦いで知略を持って劉備を補佐した。陳羣から「王佐の才がある」と
評された。194年、劉備が刺史陶謙死後の混乱する徐州を領有しようとした
際には南に袁術、西から呂布が徐州を狙うなか、危険であるとして反対した
が聞き入れられなかった。200年、曹操は張飛を手に入れたいと思い「私に
は年頃の娘(夏候淵の姪)がいるが、どうかあなたにもらえないだろうか」と
言った。張飛はすぐに意図を見破ったが劉備の取り成しで娶ることとなる。
長坂の戦いでは数千の曹操軍に対し、一計を案じ二十騎で殿を務め、後方
に伏兵がいると勘違いをさせた曹操軍を撤退させている。人物鑑定家として
有名な司馬徽が劉備に対して「あなたはすでに玉龍(張飛)を得ているが鳳
雛(諸葛亮)を手に入れれば必ずや天下を治められる」と言った。このころ
から政敵となる諸葛亮は日増しに劉備の寵愛を受けることになる。
ある日、劉備が「私にとって孔明が大切なのは、ちょうど魚にとって水が欠く
ことのできないものであるのと同じだ」と言った。すぐさま張飛が「では、漁師
は誰ですか?」と問うと顔を劉備は顔を赤らめたという。諸葛亮が劉備にホウ
統と言う男を推挙したので県令にしたが酒ばかり飲んで職務を怠けるので、
張飛が詰問すると怠けていることを白状した。張飛が代わりにそれまでたま
っていた仕事を半日で全て片付けるとその場で平伏し、後に一平卒へ落と
された。また、劉備が益州入りするときは、諸葛亮と共に援軍として出発し、
厳顔を生け捕りにした。その功績は大きく巴西太守になった。その後、張コウ
が巴西の住民を漢中へ移住させようとして軍を率いてきたがここに張飛が迎
え撃ち、約一万人の軍を率いて山道の狭い街道を利用して、張コウを迎える
と、張コウはその策略にはまり、前後の軍を救出し合うことができず衰退し、
張飛は張コウの軍を撃退した。この功績で張飛は右将軍・仮節に任命された。
張飛は、曹操軍の程cらに一万の兵に匹敵すると評価された。張飛が劉巴
の元に泊まった際、劉巴は話もしようとしなかった。諸葛亮が劉巴になぜそう
したのかと問うと「たまたま厩に寝ている人へどうして馬が話をできましょうや」
と言ったという。劉備が蜀漢を建国すると、車騎将軍・司隷校尉に栄転した。
関羽が呉に殺された時、弔い合戦の準備をしている劉備に魏を利するだけ
と諌めた。政敵である寵臣諸葛亮の計に嵌り部下の張達・范彊に殺された。
二人は以前、軍規に違反したので厳しく罰したので張飛を怨んでいたのであ
る。諸葛亮は呉にいる兄の諸葛瑾に密書を送り口封じのために二人を殺させ
た。夷陵の戦い(222年)で大敗したとき劉備は「張飛が生きていれば」と嘆い
た。やがて劉備が崩御し蜀に諸葛亮の時代が訪れることになる。
260年、桓侯と諡された。
あれ、もしかして張飛が凡将だといいたいのかなwwwwwwwwww
だったらもう一度正史でも演義でも読み直せwwwwwwwww
于糜
劉ヨウ配下の猛将。袁術・孫策の侵攻を防ぐため、拠点防衛を任された。
正史では、孫策の電撃的侵攻に対し、孫策軍の拠点を攻略する功績をあげている。
演義では孫策と一騎打ちになり三合打ち合った後、孫策お抱えの将となって、
その名を歴史に刻んだ。
【陳羣】
字は長文。当初劉備に仕えたが、劉備が呂布に敗れて所領を失うや野に下り、
献帝を確保した曹操に仕える。
魏時代に軍功はほぼ皆無だったが、同郷のつてで荀ケの娘婿となるなどして
出世し、曹操、曹丕、曹叡の下で重職に就いた。なお、かかる厚遇にも関わらず、
子の陳泰は司馬師や司馬昭の腹心となっている。
陳羣の器量について、「博物記」は、祖父や父よりも劣っていると記している。
実際にも、倣岸で知られる孔融と親交を深めたり、鼻を削いだり足を切ったりする
肉刑の復活を主張したり、名士に有利な人材登用法である九品官人法を主張したり
した。朝議に私事をたびたび持ち込んだために、名軍師郭嘉に批判を受けたことも
あったという。
史実を曲げないとこの程度しか凡将表記はできなかった。陳羣は偉大だ……。
お疲れ様ですGJ
>>103 なお、その最期は孫策にしっかりと抱きしめられて、彼の腕の中で息絶えた。
しかも孫策はフォーーーーーーーーウ!!!!!!と叫んでたそうな。
109 :
103:2005/08/21(日) 21:10:40
>>107 そうか、その手があったかっ。思いつきもしなかった。
全く嘘を書かずにウソをつく、お見事。
もし
>>107さえよければ &
>>103がまとめサイト管理人氏の
眼鏡にかなえば、ぜひ付け加えて欲しい。
……と思ったら、ちゃんと付け加えて更新されていた。
管理人氏、乙 & THXです。
董卓
後漢末に発明された人ほどの大きさもある超巨大蝋燭。もとは西域で発明された。火力と明るさは他の蝋燭に懸絶し、
日持ちも良く、その燃えさかる様は、暴虐無類とまで言われた。一説によれば材料に人の膏を用いているらしい。
後に時の皇帝によって首都、洛陽に持ち込まれたが、あまりの火炎の強さに宮殿に引火し、洛陽は大火災によって
灰燼に帰したため、長安への遷都を余儀なくされた。
しかし、ここでも董卓蝋燭は盛んに燃え上がり、このままではまた火事が起きて10日も生きていられないと
百官はおののき、民衆が心配がったため、朝廷もやむなく呂布と王允などに命じてすべての董卓蝋燭を
回収して、その灯心を切り捨てた。
このことによって漢王朝の威信は失墜し、その命運も尽きることとなったという。
111 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/23(火) 19:02:34
このスレ趣旨かわった?
まぁたまにはいいんじゃまいか
紀霊
後漢末にその名を馳せた忠勇無双の名将。その出自は春秋諸侯の一つ、紀の公族の
末裔とも、また紀は姜族の建てた国のため、紀霊は姜族の出とも。
一軍を任されるほどに優れた武勇・軍略をもって、一代の英傑、袁術(
>>35)に仕える。
一方、身の処し方も封神演義にも登場する清源妙道真君楊ゼンから仙人になれ、
と言われるほど清廉であったが、袁術に仕える以外のいかなる道も考えない紀霊は
楊ゼンの誘いを断って袁術配下の武将の道を歩むこと選ぶ。
紀霊の選択を聞いた楊ゼンは、紀霊が仙人にならぬことを惜しむとともに、すさんだ動乱の
時代に忠と義を体現する紀霊に心を打たれた楊ゼンは愛用の三尖刀を譲り、
以後この三尖刀は紀霊の右手にあってその武勇の証人となる。
紀霊の武勇は劉備の義弟、関羽でさえも引き分けるのがやっと、というほどであり、
飛将呂布ですら紀霊との戦いを避けたという。
その証拠に、袁術と劉備の間で戦いが起こった際に呂布は劉備を救う気がありつつも
紀霊と正面から敵対するのを避けるため、戟に矢が当たったら兵を引いてくれるように、
という和睦を持ちかけたほどであった。
この時、紀霊は和睦を蹴ることもできたが、主君袁術の名に傷がつくのを憂え、
また、呂布の矢が戟に当たらなければ、神が見捨てたことになると考え、呂布が矢を
放つと同時に手にもった三尖刀で足元の石を跳ね飛ばして矢の軌道を変えて戟に
あたるようにしたという、神業を見せる。
このように、花も実もある名将として中原に武名を轟かせた紀霊だが、主君袁術の
革命的行動が故に他の旧態依然とした群雄たちから嫉視を浴びるようになり、
袁術自身、己が身を捨てる覚悟を決めると、その股肱たる紀霊は主君の黄泉への
案内に立たん、と戦場に赴く。
そこで関羽の義弟、張飛に出会った紀霊は、張飛が武勇に優れるがただの猪武者で
あるのを惜しみ、己が首を取って誉れとし武人としての名を高めよ、と張飛に首を授ける。
紀霊の首を取ったことにより、張飛は関羽もしのぐ、兵一万に匹敵する猛将の名声を
確立するとともに、名将紀霊の最期に立会い、真の武人の姿を教えられたことで張飛
自身も一回りも二回りも成長し、以後、ただの大酒飲みの武将から主君を支える勇将
へと変貌を遂げ、長坂坡では曹軍を一騎でおびやかし、益州では厳顔を感服させるなど、
紀霊がよみがえったかのような活躍を見せる。
また、曹操配下の晏明は紀霊にあやかって三尖両刃刀を得物とし、武名を馳せ、
蜀の姜維は、姜族の出の紀霊の最期に感動し、同じ一族として国に殉じる姿を
見習ったとも言われるなど、希代の武将、紀霊は死後もなお武人の師表でありつづけた。
これについて後の人は、紀霊の名前の霊は、謚号で「生前の志が死して後に成し遂げ
られること」の意であり、紀霊の武人として貫いた姿が死してもなお後の武将に
受け継がれることは生まれながらに運命付けられていた、と評したという。
創作はイカンよ。ここは史実から離れず、スレタイ通りにだな、
金銭
字、生没年とも記載が無い。多くの群雄の下を節操なく渡り歩き、その数は
裏切り常習犯の呂布や、放浪続きの劉備でさえ遠く及ばない。
また、エピソードで見る限り、充分な働きをしたとは言えない。たとえば、
袁紹のもとへ移動する袁術に付き従ったものの、袁術はその途中で死亡している。
また、張魯の下にあったときは、曹操軍が襲来したにも関わらず、封印を施した
蔵の中でじっとしていたという。さらに、彼をこよなく愛した曹洪は、そのゆえ
に曹丕に誅殺されそうになってさえいる。
曹洪や七賢の王戎など、多くの人に彼は愛された。その不思議な魅力だけは
評価に値しよう。
え?このスレって、名称を凡将のように説(ry
前スレ方広寺の鐘の劣化板コピーになってしまった。すまぬ。そして
>>113 乙。
116 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/26(金) 10:57:02
李通(りつう)
字は文達、江夏郡平春出身。幼名は万億。長江から汝水の地域で漁師だった。
黄巾賊の首領の一人に追われ、仲間を率いて曹操の元へ行き配下となる。
その後、こまかな功を立てる
官渡の戦いの時、戦況が次第に悪くなるにつれ袁紹の元へ寝返る者が増えていくと
李通の部下たちも袁紹の元へ行こうとゆうが、李通は
「曹操殿の方が怖いから絶対に嫌だ」といい寝返らなかった…
その後も事あるごとにあの人は怖いだの、ここは危険だと臆病っぷりをみせ
後生についた渾名が「臆病将軍万億」という
117 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/26(金) 20:08:27
どのへんが名将なのかと
蔣欽
呉の孫策、孫権に仕えた武将。
演義では、孫策に味方するために一軍を率いて加勢する水賊の頭という派手なデビューを飾る。
しかし、彼の輝きはこのデビューのときが最高にして最後であった。
キャラ的には弟分であった周泰に食われまくりといった感じで、周泰が山賊に襲われた孫権を救い出すなど輝かしい実績を挙げ孫権に重用される一方で
蔣欽は、戦に負けて周ユに斬られかけたり、孫権に「勉強せい」といわれたりさんざんな役回りであった。
ちなみに字は公奕というが、周泰の字幼平に比べると、やっぱりインパクトに欠ける。
さらに「勉強せい」といわれた同僚呂蒙が学問に精をだし「呉下の阿蒙」の名エピソードを残したものの
蔣欽にはそのようなエピソードは残されていない。
思うに「呉下の阿欽」では語呂が悪すぎることが呉書の編者に嫌われたのであろうか。
まさに不遇の人である。
最後は関羽征討戦に参加し、戦功をあげたものの、帰還時に急死する。
しかし、後世、同時期に死んだ呂蒙や曹操の死が関羽の呪いと脚色されたのに比べて、
彼はいつのまにか物語からフェイドアウトするという不遇ぶりである。
元弟分の周泰が夷陵の戦いで派手に活躍したこととは対象的な、まさに地味に生き地味に死んだ一生であった。
同時代の人物はこう語る。
周泰「・・・・だれだったっけ?」
呂蒙「ああ、そういえばいましたね、全然成長しない奴が」
関羽「おのれ!呂蒙め!祟り殺してくれるわ!・・・蔣欽?だれだっけ?」
沙魔可「あんな存在感ない奴に殺されなくてよかった」
つーか語呂悪いのか?
123 :
鍋奉行:2005/08/28(日) 21:28:12
今だ!123ゲットォォォォ!!
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ (´´
∧∧ (´⌒(´
⊂(゚Д゚ )≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡
⊆⊂´ ̄ ⊂ソ (´⌒(´⌒;;
 ̄ ̄ ̄ ズザーーーーーッ
王累(おうるい)
劉璋の臣。劉璋が劉備を蜀に招き入れることを、我が身を城門から逆さに吊るし命を賭けて諌めた。
その姿に胸を打たれた劉璋は王累の諫言を聞き入れようと思い王累を助けるよう命じたが、
劉備を新たな主人にすえようと画策していた法正の手によって綱を切られて落下し死亡した。
王累を失った劉璋の失意は大きく、そのため法正の専横を許しその後蜀を失うこととなったが
王累の忠義は世界中に伝わり、後の世のタロットカード「吊られた男(意味:犠牲、献身)」
として今日もたたえられている。
>>124 俺は結構面白かったよ
呉下の阿欽はちと吹いた
アンカミス乙
俺にはこのくらいが限界だった・・・orz
【豊臣 秀頼(とよとみ ひでより)】:1593〜1615
一代で天下に登りつめた、豊臣秀吉の息子。母は、絶世の美女と名高いお市の長女淀殿。
絶大なカリスマ性と威厳を持ち合わせていたが、皮肉なことにそれが原因で徳川家康に命を狙われる事になる。
事実、関が原の戦いはその絶大なカリスマ性を利用されたものであり、東軍の将は、徳川の息の掛かった者以外
豊臣家の為の戦いだと思っている
また、天下を治めるに値する威厳を20歳で持ち合わせ、会見した家康はあまりの驚きに、関が原の戦い後一大名に
落ちていた豊臣家を滅亡させる事を決意している。
度重なる、そして強くなる一方の徳川家の圧力に、秀頼は一度も屈っさず、業を煮やした家康は鐘銘事件を起こしてまで大阪冬の陣を発生させている。
豊臣方は圧倒的に不利であったが、秀頼の為にと全国から続々と牢人が集まり、それは広大な大阪城から溢れ出すほどであった。
攻撃にビクともしない大阪城に、家康は遂に和議申し入れる。このまま戦い続ければ勝てるという声がある中、秀頼は天下泰平の為と和議を受け入れる。
が、家康はその太平を望む心までを利用し、大阪城の堀を全埋め立て、再び大阪に攻め寄せ大阪夏の陣が勃発する。
流石に風前の灯火と思われたが、尚も秀頼のカリスマは健在であり、大量の牢人が再び秀頼の下に結集し、一時は戦いを有利に進めるほどであった。
しかし、今度は万全に備えを敷いた徳川家に徐々に押され始め、遂に豊臣家は滅亡、秀頼は自害してしまう。
なおこの戦いで、真田幸村の決死の突撃や、千姫が秀頼と共に自害しようとした逸話も、秀頼のカリスマ性を大いに示すものとして知られている。
人々の悲しみは大きく、秀頼生存説が流れ、鹿児島には実際に墓が作られるほどであった。
豊臣家が健在であれば、そのカリスマと威厳で天下を導いたであろう秀頼。
あと十年早ければ、この言葉は伊達正宗よりも、豊臣秀頼の為の言葉と言えるだろう。
秀頼を名将としたんだろうけど、元々秀頼は名将といえないまでもそれに近い武将だとも見れるからなぁ
>また、天下を治めるに値する威厳を20歳で持ち合わせ、会見した家康はあまりの驚きに、関が原の戦い後一大名に
>落ちていた豊臣家を滅亡させる事を決意している。
これなんて、実際にそうだったのかもしれないし・・・
ちょっと微妙
公孫サン
容姿端麗、弁舌巧みで戦術に優れた名将。
幽州では烏丸族がたびたび国境に侵入しては土地を荒らしまわっていたが、
公孫サンは赴任すると即座にこれを討伐し、一躍名声を得る。
烏丸を密かに支援していた劉虞は公孫サンの存在を恐れ、
ついに大軍を率いて漢に反旗を翻した。
公孫サンは劣勢でありながらこれを撃破し、漢の忠臣として大きな功績を残した。
時は乱世、各地の実力者は独自の勢力を築いていた。
公孫サンは漢の復興を目標にその実力を発揮し、華北に覇を唱えた。
その雄志に感動した趙雲は公孫サンの片腕として働き、
後の英雄劉備(前スレ
>>724まとめサイト劉備4)も協力を惜しまなかった。
建安三年、易京に大要塞を築き逆賊袁紹に対抗していた公孫サンだったが、
兵力に勝る袁紹についに追い詰められてしまう。
万事休す。公孫サンはかつて烏丸族を恐れさせ、
最強を誇った白馬義従の先頭に立ち、袁紹の包囲網に突入して戦死した。
それを見た関靖を始め多くの将士は自らの非才を嘆き、後を追って散っていった。
公孫サンの仁徳は四方に轟いていた。
はるばる駆け付けた張燕は救援が間に合わなかったことを生涯悔やみ、
曹操のもとにいて報を受けた劉備は悲憤慷慨し、
旧友公孫サンの意志を継ぎ、必ずや漢を復興してみせると誓ったという。
夏侯淵
字は妙才。曹操の親類ということで重職に就いた。
夏侯淵の乏しい才能を見ぬいていた曹操は彼を行軍に参加させず、
兵糧輸送係として使った。だが夏侯淵はその扱いに納得がいかず
常に不満を漏らしていたとされる。
いつまでも兵糧係にしておけなかった曹操は、夏侯淵を名ばかりの
校尉に任命し、実務は配下にやらせた。
用兵を知らぬ夏侯淵は無理な行軍を繰り返したため、軍中では
「典軍校尉の夏侯淵、三日で五百里、六日で一千里」
と陰口を叩かれた。これを耳にした曹操は夏侯淵が用兵に優れ、
急襲が得意なのだと勘違いした。
曹操に勘違いされた夏侯淵は長安の防衛に就くが、
鍾ヨウがいたために任務を無事に終えることができた。
だが、これにより曹操の思いこみはより助長されることとなった。
曹操は最前線に名将と思っていた夏侯淵を送りこんだ。
こうして漢中へ行くことになった夏侯淵であった。
いままでは配下の活躍で救われたが、今回一緒であったのは
保身しか考えていない張コウ(前スレ
>>989まとめサイト張コウ1)である。
夏侯淵は見事に劉備の策にはまり戦死した。
>>129 ウソはいかん
あと公孫サンってそれなりに戦上手
こらこら、公孫サンて凡将なの?w
漏れ、群雄の中ではかなり好きな人物なんだが(;´Д`)
>>131 劉虞のところかい?じゃあ
「烏丸に対し懐柔策を取って名声を得ていた劉虞は・・」でいいかな?
俺も公孫サン好きだから誉めてみたかったのよ
公孫サンってこんな感じだからな
このスレじゃ扱いにくかろうて
演義・・・善人だけど出ると負け将軍。どこが白馬将軍なんだと小一時間(ry
正史・・・袁術や呂布クラスの悪人だが軍を率いると強いのなんの。負けたのは袁紹が神すぎるから。
135 :
129:2005/09/02(金) 16:12:42
ああ死に様まで正史に書いてあったね。自殺か。
関靖の話しか覚えてなくて勝手につくってしまった。
「袁紹についに追い詰められてしまった。もはや敗北は免れないと
悟った公孫サンは漢とこれからの時代を憂いつつ自決した。
関靖を始め多くの将士は自らの非才を嘆き、
袁紹の包囲網に突入して散っていった。」
何度も申し訳無い。鬱。おまけに正史とあんま変わらん
>>130 嘘はいかんな。
夏侯淵は従兄の夏侯惇よりも各地で転戦の経験が豊富。
また、弓矢の名手で狙った的は的中したといわれる。
正史によると従兄の曹操の挙兵から部隊長として従軍し、
陳留・頴川郡太守を歴任し、袁紹との天下分け目の官渡の合戦では、
監軍校尉として、精鋭の兵の重要な食糧を管理する長官となる。
また、黄巾党の系統で盧江郡の雷緒を討伐し平定し、征西護軍に昇格。
止どめは、曹操の馬超ら涼州軍閥討伐に従軍し、その統率力を買われ
行護軍将軍として、長安を拠点として関中全域の総帥となった。
まず、隴西の平定を基本とし馬超の残党を追い払い、博昌亭侯に封じられる。
次いで曹操の張魯討伐には、張郃らと共に合流し巴西郡を占領した。
その戦功で征西大将軍となり、漢中郡を拠点として、関西全域を統轄。
後は周知の通り。結果的に法正と黄忠の作戦に運悪く敗れただけ。
文が長くなったが、夏侯淵の躍動が正史でもこれだけあるということは、
曹操の絶大な信頼があり、後年に諸葛亮の北伐が成功できなかったのも、
夏侯淵の遺産が大きいと思う。夏侯淵の族子の曹真も司馬懿も夏侯淵の
方針を忠実に守ったからこそ、長安を確保できたと思う。
なによりも、夏侯淵の諡号の愍侯がそれを物語ると思うな。
そういう意味では、夏侯淵は従兄の夏侯惇よりも遙かに名将だといえる。
>>136の訂正。
>張郃らと共に合流し巴西郡を占領した。
張郃らと共に涼州軍を率いて合流し巴郡を占領した。
>>136-137 常駐してくれるのは良いけど、ネタにマジレスするなよw
ネタスレなんだから空気嫁
これはネタにマジレスというやつですか?
ネタスレのネタにマジレスかこわるい…っていうか馬鹿?
つまりこうか?
夏侯淵の場合
演義→凡将、ネタになりやすい
正史→名将、ネタになりにくい
>>136 「名将を名将のように説明するスレ」でも立てろや
夏侯淵は演義じゃ猪武者テイストが三割増だが凡将じゃないだろうな
出典によって評価が違う武将を出すなら
自分が凡将と捉えているのか名将と捉えているのか書けばいいんでない
夏侯淵の評価のことくらいはみんな知ってるよ〜
結論:
理屈よりネタを書いていこうぜ、でいいだろ
↓
>>138-140 嘘まじりと言わずに
>>138 がどっちとも取れるようなネタを書いている以上、
どこが嘘か指摘してくれるのはありがたいと思うが。
書き手が
>>144 みたいにするか、元ネタを貼れば分かりやすいカモ。
>>128 秀頼は、最近出た中ではかなり好きだったんだが。。。
挿話のチョイスや配置に苦闘の跡が見られるし、嘘はないようだし。
147 :
145:2005/09/02(金) 23:46:03
。。。と文字レスだけではなんなので、一つ。
嘘イカンとか、当たり前ダメとか揉めてる(?)んで、誰もが認めるスレ違いを。
三国志番外編(文人→文武両道)
吉川栄治
倭人のため、字は伝わっていない。しかし、あらゆるジャンルにわたっての
業績は偉大の一言に尽きる。
計にあっては、連環の計を成功させただけでなく、計略がなるや即座に実行
犯の貂蝉を自害させており、その手腕は見事と評された。
技にあっては、名剣の誉れ高い「雌雄一対の双剣」を世に送り出している。
武にあっては、魏の五将軍の一人である猛将張コウ(張[合β])を三度まで
も討ち死にさせるなど、比類無き豪腕で知られる。
なお、文にあっては多くの著作をものしたという。
享年70歳。彼の死は民にまで大きな衝撃を与えたと伝えられている。
148 :
147:2005/09/02(金) 23:50:43
>>142にある「名将を名将のように説明するスレ」を新スレとして
立てれば混乱は収まるかもな。
>>149 いらな杉
>>136-137 夏侯淵は名将だよたしかに。曹操に言われたことを守れなかったのがあれだが。
でもな、過去ログぐらい読んでこいよ馬鹿
151 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 02:41:41
北条氏政
北条氏康の嫡男として生を受け、北条家の中で最も関東に広大な版図を築いた男。
彼が活躍した関東は、足利幕府の権威や威光が畿内や甲信越地方のように失われてはおらず、
氏政はそれら足利権威の勢力を次々と屈服させた名将である。
氏康は彼なら北条家を後世まで残せるであろうと考え、早くに家督を譲っている。
また氏政は政治家としても優れていることも広く知られている。
その中で特に秀逸している政策は、国人衆が北条家の規定以上の税を領民から不当に搾取しようとした場合、
直接、北条家にその旨を訴えよというものである。
この政策は当時は画期的であった。この政策により領民に自分達の主は北条家であると認識させ、
国人衆と領民の繋がりを弱めたのである。
この政策がいかに優れていたかは北条家が他家に比べ、内応や反乱がごく僅かという事実が物語っているであろう。
また彼は武勇も優れていた、なんと軍神と名高い上杉謙信を完全に関東から撤退させ、
さらには織田家の名将である、あの滝川一益さえも関東から追い出しているのである。
第一部 「完」
続くのかよ!
氏政は、肥のゲームでは冷遇されてるからな〜
ファンにとっては思い入れもおおきんだろw
154 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 17:33:35
151が書いてるやつは
ほとんど父親である氏康の功績じゃないかな?
155 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 18:16:04
北条氏政が凡将かどうかは、人によって意見が別れるし
凡将と評価できるかは、微妙な人物だよな。
そういった意味では武田勝頼も微妙だな。
肥のゲームでは、戦バカな武将になっているし。
>>151が小田原評定をどう書くか、じっくり待とうw
前にあれを「シビリアンコントロール」と解釈して、
日本の平和ぼけを暗に批判する知性派のネタがあったが、次も楽しみだ
横山光輝
後年手がけた三国志は若年層にも反響を呼び
これが演義だと気づかず三国志を語る者が続出する原因を作った。
社会においては4ヶ月で退社する等、協調性にも乏しいのだろう。
2004年年4月15日 自らの火計にはまり全身火傷の為、この世を去った。
名匠を凡匠のように・・・うわなにをすr(ry
今はまだ不謹慎だが
行く行くはそんな評価も普通にアリかもなー
発想は良いかもしれんが、横山三国志も好きな漏れはちょっと悲しかった(ノД`)
160 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 01:40:43
小渕恵三
「株上がれぇ」で日本人全てを勇気付けた。
>>160 内政はヘタレだったが故小渕首相外交に強かったぜ
>>160 小渕出すならなぜ「平成オジサン」を使わない
163 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 05:11:18
160〜162
お前ら不謹慎が過ぎるぞ。
【周瑜】
後漢末の武将。字は公瑾。
親友である孫策と「断金の交わり」(金●が断たれてしまうような激しい交わり)を結ぶ。
孫策の下で名将ぶりを発揮した。だが、孫策の死が彼の中の何かを壊してしまう。
曹操の南下が始まると、大半の重臣たちが降伏を主張する中、彼は開戦を主張。
「あなた君主だから降伏したら殺されますよ」と孫権を脅迫し、孫権を開戦に踏み切らせる。
開戦が決まると、さっそく黄蓋を鞭打ち。
また、軍使として来ていた諸葛亮に異常な執着を見せる。
何とか自分のものにしようと、兄である諸葛瑾に説得させたりしたが、
それを拒まれると今度は殺してしまおうと画策する。
結局荊州に逃げられると、彼を追うように荊州に進軍。
この頃からよく吐血するようになった。
魏軍と必死に戦い、城を劉備陣営にプレゼント、
死んでもいないのに自分の葬儀をあげたり、
いろいろやったが、結局諸葛亮が劉備の下を離れることはなかった。
「何故、孔明と同じ時代に生まれてしまったのだ!」
かなわぬ願いを叫んで周瑜吐血。そして愛に生きた男、周瑜はその生涯を閉じた。
>>165 つまり
「三戦じゃないから板違い」
ってことじゃないか?
それだと不謹慎って言葉じゃ意味が通じないぞ
総選挙中なんだし・・・ってことなんじゃないか
この名前を見ればわかるだろ
亡くなって間もない故人をネタにするなってことではなかったのか?
20年くらい経ってからなら良いのかもしれないがのう、ハハハ!!
170 :
169:2005/09/10(土) 21:08:25
すまんスレを勘違いしてたよ……なんだよ最後のハハハって……
不謹慎は俺だよ……orz
むむう・・・
亡くなって間もない個人について
生き様を語ったりするのは良識に反するもんなの?
つーか特定政党の元親玉である故人をこの時期にイジるのが良くないの?
174 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 11:37:47
163は俺らとは違ってモラリストなんだろ
モラリストじゃなくても不謹慎だとは思う
お陀仏さんナムナム
改めて2chにはこういう常識の無いヒキどもが多いということがわかった
縁故にある人や友人が、死んだ人がこんな風にネタにされているなんて知ったらどう思うか
だからお前らは社会不適合者なんだよ
先祖がネタにされて苦しんでる人の事は全く考慮しないでよく言うわ
死人をネタにしてる時点でどっちも目糞鼻糞だっつうの
似非モラリストは自分の好きな薄甘い道徳の本でも読んでろ
三国志の人は全員死んでるんですけど
比較的最近死んだか、何百年も数千年も前に死んだかの差だろ。
死んだ奴をネタにするのが不謹慎と言うなら、このスレ全部が不謹慎なわけで。
大体
>>160-162は事実を捻じ曲げて言ってるわけでもなく、また故人を馬鹿にしてるわけでもない。
そんなことにいちいちつかかって来られたら、亡くなった人の思い出話でさえ出来なくなるだろ。
もうちょっと柔らかい頭を持とうな。>163
まあ不謹慎以前にネタとしてつまらんわけだがw
>>183 苦し紛れの末、けっきょく問題のすり替えか・・・
186 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 18:50:36
岡田克也
民主党の党首として小泉自民党に正面突破を挑んだ英雄。
左寄りの議員 VS 右寄りの議員。
ベテラン VS 若手 といった烏合の衆とも言える者どもをまとめあげ、
2005年の衆議院総選挙に臨んだ。
惜敗後の記者会見では脂ぎった顔を全国にさらし、潔く身を退いた。
その一方、亀井氏に「なんでお前が殴るんだ?」と言わせた
武闘派としての一面も併せ持つ。
岡田克也
政治家(1953〜)
民主党の党首として一党独裁体制を固めつつある小泉自民党から日本を救うべく立ち上がった熱血漢
就任当初は「ジャスコのボンボン」と揶揄されていたが最終的には親の七光りよりも強く自身が光り輝く存在へと成長
保守派と改革派からなる自党の運営で悩みながらも類希なるバランス感覚を発揮し民主党を自民党に並ぶ巨大政党へと押し上げた
しかし武運拙く最後は巨大な独裁政党に敗れ去り無念の辞任をし第一線から退く事になった
2005年、彼の党首として最後の衆院選挙時には
「日本にはもう時間が残されていない」「日本を諦めない」「我々がやれば日本は生まれ変わる」
と言った数々の名言で世間を沸かせネットユーザーの間でも「日本を諦めない」が大流行しパロディまで多数生まれる空前絶後の岡田ブームとなる
そのブームを世間にも広めるべくマスメディア等に「もっと民主党の本当の姿を報道して欲しい」との真摯な要請をした
しかし時既に遅く小泉自民党に味方するマスメディアに巧妙な世論操作をされた日本国民は彼の志と政治力を知る事は出来なかった
そして悲劇の政治家、岡田克也は歴史の表舞台から姿を消し日本は巨大政党による独裁体制が強化されたのだった
188 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 19:24:11
189 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 20:06:50
190 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 21:51:15
>>184 おいおい、オレはこのスレ書き込むのこれで最初だぞ
前スレにはけっこう書き込んでいたがなw
岡田克也
政治家(1953〜)
三重県出身の政治家。東大を卒業後、通産官僚・自民党議員を経て、
民主党に身を投じ党の代表となって、2005年の総選挙を戦う。
基本的には、国内よりも海外で評価される政治家で、特に訪中・訪韓した際には、
相手国の首脳を魅了し、次代の日本の指導者となるよう大いに期待されていた。
政治家としての視野も広く、その関心は日本よりもむしろ中韓などアジアに向けられていた。
彼は幾度となく、「私も、『日本海』という表記には、以前から違和感を持っていました」
「君が代は民主的でないので違和感がある。新しい国歌が必要だ」
とった類いの発言をして、国内の批判をもろともせず、
中韓の支持を取り付けるべく日夜腐心した信念の人である。
またイラクへの自衛隊派遣への反対を、
「イラクの人々は逞しいから、泥水でも飲めれば、それで事足りるわけです」
という常人には思いつかない明確な論理で説明し、その必要性を否定している。
まさに自他共に認める理論派である。
子育て支援の財源についても、「財源はどうするかって? そんなことは厚労省の官僚が
考えることでしょう」という、前代未聞の画期的なアイディアを提示し、
周囲を唖然とさせている。
特に選挙期間中には、その鋭い理論は支持者ですら狼狽するほどシャープで、
郵政問題においては、国民の財産状況を良く知る庶民派の彼は、
「地方の人々は、1000万円も貯金できないから、別にいいんですよ」と
預金額の制限の根拠を分かりやすく説明、また「郵便局の労組がバックにいる?
確かにそうですが、それが何か?」とマジメな性格の通り、実態を正直に吐露した。
これらの発言が政敵・小泉に利用されることとなるが、
「民主党の政策は、高学歴や高所得の人々にウケがいい」
「民主党は都市政党ですからね。田舎の人は応援してくれなくて結構」
といった高邁な理念を持つ彼はそんな批判を気にすることはなかった。
彼は世論対策の必要からやむを得ず「保守本流」を自称しているが、
それは全くうわべのことのみで、心の中では平和と革命の理想を忘れず、街頭演説の場では、
「小さな政府というなら、自衛隊はどうなんですか?」
「我々が目指しているのは、大きな政府ではなく『第三の政府』です」と
平和と革命への確固とした志を大衆に示している。
中国・韓国・一部マスコミを魅了してやまなかった彼の政治思想は、多くの日本人には
幸か不幸か理解されず、選挙では大敗し、その後は政治的影響力を失った。
その失脚を多くの中国人・朝鮮人・在日半島人などは惜しんで止まなかったという。
しつこいけど岡田ネタ投下m(_ _)m
もう食傷気味だろうだけど、書いちゃったから…
195 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/13(火) 02:27:44
>>194 岡田は今が一番旬だからね。
今ならまだ大丈夫でしょう。
あと1ヶ月もすれば、そんな奴もいたなぁ
って言われるからいいんじゃない。
本命は菅
あんだけ矢面に立つことを避け続けて知名度と人気を保った政治家はいない
「未納三兄弟」で自爆したけどな
岡田って党首になる前と比べてものすごい
顔つき、目つきがきつくなったと思う
今後一気にフヌケる可能性もアリだがw
200 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/13(火) 13:06:29
>>198 憔悴しきってたよね。
亀井や綿貫みたいに見苦しい言い訳を
語る気力すらなかったと思われ。
たかだか1ヶ月の選挙戦で情けない。
やっぱ党首やるには10年早かったんだな。
あの辺の様なふてぶてしさがなく真面目なんだろう
実直さは嫌いじゃないがな
実直か?
正直さはかけらもないと思うが
まあそれだけ自分に対して揺るぎない自信があったんだろうね
積み重ねた自信が一気に瓦解したらどんな気分だろうか
ああジャスコ・・・
空気読めていなさすぎだよ
今回の選挙は解散した時点でどう転んでも自民が勝つのは見えていたんだから強引に郵政反対しなければよかったのにな
票田失うからそれも出来ないんだろうけど少なくとも2年は177議席保てたのにアホだ
郵政民営化で公務員しかなれないのを普通の人もなれるようにするって
そんなにやりたい人いるんかね・・・?
>>205 郵政民営化は国の公務員リストラ政策だ
ちゃんと解説してるサイト探せば一杯あるから少し勉強してきな
日本の金融資産をアメリカへ譲渡する政策の間違いだろw
まあリストラにもなるだろうがw
全然違う
日本の金融資産をアメリカに買わせるって枯渇してるような物を誰もほしがらない
郵便貯金は特殊法人等の資金源として使われた為詳細は不明だけど残高言われてる程ないんだよ
ちゃんと調べてからしたり顔しようぜ
どうでもいいがいい加減スレ違い気づこうよw
国会議員のインフレで国の金が給料に回されてまた借金なんてことになってないよね・・・
このスレの住民の知的レベルの高さは分かった!
でも、ネタを投下したい人が困ってるかもしれないので、
政治論議はここらで打ち切ろうぜ。
といいつつ、最後の長い岡田ネタを投下したのは俺なんだが…
212 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/13(火) 23:02:09
186〜211まで全て岡田絡み。
すげえ人気者だな。
>>211 2ちゃんでこんなこと書くのもなんだが、
2ちゃんに毒されてる奴って案外多いんだな
ID非表示だから人数は見かけほどじゃないだろうが
>204 >206 >208の解説厨が出て来て一気にクドくなった
もうやめれ、いいな
で、ここは何のスレでしたっけ?
現役の政治家出すとうるさいのが来るってのは分かったっつか懲りた
218 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/14(水) 12:49:11
186です。反省してます。
凡将を名将のように説明するスレ 2
凡将を名将のように説明するスレ 2
凡将を名将のように説明するスレ 2
凡将を名将のように説明するスレ 2
凡将を名将のように説明するスレ 2
凡将を名将のように説明するスレ 2
凡将を名将のように説明するスレ 2
凡将を名将のように説明するスレ 2
凡将を名将のように説明するスレ 2
【周瑜伝】
赤壁の戦いの前、周瑜は魏国百万の大軍をどう迎え討つか、諸葛亮と翌日話し合う約束をしていた。
しかし翌日になって周瑜のもとに現れたのは諸葛亮ではなく、「全漢大たわけ者選手権」で
「天下無双」の称号に輝いた張飛であった。
(長年「天下無双」の称号は呂布が得ていたが、この頃すでに曹操に斬られてこの世の人ではなかった)
「孔明はなぜ来ないのか?」
周瑜が尋ねると、張飛は諸葛亮にこの書状を渡して来いと命じられただけであるという。
約束を反故にされ多少の憤りを覚えながらも、周瑜は書状を開くとそこには諸葛亮からの
挑発的な文章が記されていた。
「哀れなるかな美周朗。百万の大軍を退ける策なぞ、私と話し合うまでもなく
わが国では大たわけで名高い張飛でも察しておるわ」
周瑜は自尊心をいたく傷つけられて頭に血が上り、自分の口元からツーと血がしたたり落ちるのがわかった。
いや、これは孔明のはったりである。わが身よ冷静になれと周瑜は口元の血をたもとでぬぐった。
「のう張飛殿・・・」
「ああン?」
知性のかけらも感じられない表情と声で、鼻糞を食いながら張飛が返事をする。
この男に戦略のなんたるかがわかってたまるか・・・!と、周瑜は顔を真っ赤にして全身から
湯気を出しながら張飛に問うた。
「赤壁での戦い、貴殿はどのようにすれば目障りな曹操百万の大軍を退けられると思うか」
この時、張飛は何も考えていなかったが、彼の生涯で<目障りなもの>に対する考え方は決まっていた。
「知れた事よ!目障りなものには火をつけてやらア!」
張飛の返答を聞いた周瑜は( ゚∀゚)・∴. ゲボッと血を吐いて地面に顔面から倒れた。
「わしが考えに考えて出した火計の策・・・このような大たわけ者でも軽々と答える・・・。
天よ!なぜ孔明の他に張飛まで生まれさせて、わしを弄ぶのか・・・!」
【劉禅】
蜀にその人ありと呼ばれた名君。平和を愛し民を思う人徳の君主。
専制君主の時代でありながら、家臣達の協議によって政治を行う議会政治を
導入。自らは政治に携わらず、黄皓と共に古来から伝わる酒池肉林といった
伝統的文化、蜀独自の文化の発展に尽くす。
しかし彼の生まれに、まだ時代は追付いていなかった。彼の思慮深い政治に
付いていけない愚かなる家臣達が離反。国政が大きく乱れようとする。
ここで、名君との誉れ高い劉禅は黄皓と共に大改革を執行。
やむおえず、改革に逆らう家臣達を処分。時には妻と共謀し、妻を殴らせる
ように悪態を尽かせ斬首に追い込む。
劉禅は大改革だけに留まらず、悪政に苦しむ魏の民を救うために立ち上がる。
諸葛亮を唯一破った名将姜維を魏討伐に向かわせ、こき使・・・手足のように使いこなす。
軍資金、兵糧、兵士、全てにおいてギリギリの状態でありながらも名君劉禅は
その状況に不安にさせないためにも、あくまで国政に参加をしていないように振舞う。
その後、運悪く魏の侵攻を受け、蜀は窮地に立たされる。
そこで劉禅は自ら魏に降伏をし、民の安泰を望んだ。
後に名将毛沢東に「人民は劉禅のようにあるべきだ」と、暗愚・・・民は賢くあるべきだ、
と賞賛されたと言う。
後に彼の墓は、その後利益に授かろうと墓石を破壊し、その破片を持ち帰る者が
後をたたなかった。
そのために彼のお墓は今でも作られる事はない。
このスレの趣旨って嘘は書かないで本当の事を穿った視点で逆の解釈するスレじゃないの?
なんか嘘ばっかり
黄祖パワーや黄蓋のマゾ話が史実だとでもいいたげですね
>>222 だよね。ウソをいれちゃうと一気につまらなく見える
いや、俺
>>222だけど
>>224とは別人
単純に「全漢大たわけ者選手権」とか張飛と周瑜なんて組み合わせを作ったりしてる
>>220や
毛沢東の「劉禅のようになってはいけない」ってのを「のようにあるべきだ」と言い換えた
>>221のように
歴史を曲げて書くのが引っ掛かりになる
抽象的な例えになるが円柱を見て柱と言われてる所で円だと言うのはいいのだが
三角錐だとか全然違う事を言われても嘘だなって思ってしまうって事
三国志や戦国時代の人物ではないけど岡田克也に関して書かれたものは
三作とも嘘はないが解釈がちょっと違う方向に行っていて面白かった
スレ違いじゃなければだけどね
>>227 そういうレスをつけるから余計に自演臭くみえるんだぞw
>>225〜227 マジウザイ。殺伐になるから来んなよ
231 :
221:2005/09/14(水) 22:59:00
変な展開になってるな。盛り上げたかっただけなんだがなぁ
>劉禅のようになってはいけない」ってのを
>「のようにあるべきだ」と言い換えた
漏れはそう読んだけども。違ってたのかな?愚民のが扱いやすいって。
民は賢くなってはいけないって。
後にそのままの考えで文革の大破壊に繋がったと読んだけども。
意図的に変えたわけじゃないよ。
変な挑発となじりあいはやめようよ。
何が言いたいの
どうしてこうも屁理屈厨が増えたのか…
何でもかんでも厨よばわりするようなのがのさばったからさ
CHUCHU!!
屁理屈厨ウザいから消えろよ・・・
まとめサイトも前スレも見てない超新参と見た
管理人乙m(_ _)m
徐晃
魏の武将。戦う前から逃げる算段をするなどで知られる臆病な人物であった。元は楊奉
に使えていたが、曹操が力をつけてくると命惜しさに満寵の誘いに乗り、曹操に下って楊
奉を見捨てた。
さらに関羽攻めでは、追い詰められた関羽に対し、同郷の縁があるにも関わらず情け容赦
なく切りかかる不義理さを発揮した。
その後の蜀との戦いでは、配下武将の王平が適切な献策をしたにも関わらず、これを
あっさりと却下した上、敗北すると王平に責任を押し付けるなどの無責任さを見せつけた。
これは郭図が張合βを讒言したのよりも、徐晃が上司である分だけ性質が悪いといえる。
また、徐晃の得物として大斧が有名であるが、これは元は徐晃の出自から農民が使う斧
ぐらいしか持っていなかったためと思われるが、その後も斧を使いつづけたのは諸侯の証
である斧鉞になぞらえていたと思われ、徐晃の分不相応な野望がうかがえる。
このような卑小で身の程しらずな人物であったため民衆の人気もなかったようで、演義で
は裏切り者の孟達の手に掛かるという悲惨な最期を遂げている。
曹操も徐晃のことを周亜夫に例えているが、これは徐晃が終わりを全うしないことを感じて
言った言葉と思われる。
>>239 GJ!
皮肉のスパイスが効いてて久しぶりの良作w
>>239 乙ですた。立て直しのためにガンガッていきましょう!
【竹中半兵衛】
なよなよした風体から、主君である斉藤竜興からいじめを受ける。
竜興の側近たちに小便をかけられても、何も言い返せないような立場であった。
しかし彼はこれをずっと根に持っていたようであり、その後
彼に従ってくれる数少ない仲間とともに稲葉山城を不意打ちで乗っ取った。
「婦人のごとし」と比喩されるように、彼の粘着的でヒステリックな性格がうかがえる。
だが城を乗っ取ったはいいものの、この先どうすればいいか困ったのだろう。
彼は即座に城から逃げ出し、近江の伊吹山へ引きこもってしまう。
彼は自分の行動を「主君を諫言する意味で乗っ取ったんだ」と言い訳したが、
結局その行動は主家である斉藤家の家名を貶めただけであった。
ちなみにこの時、彼は「城を明け渡せば美濃半国を差し上げる」という
信長の申し出を断り、千載一遇のチャンスを逃している。
信長の性格が信用できなかったのか、あるいは単に決断力がなかったのか。
いずれにしろ彼の小心さがうかがえるエピソードである。
その後は猿のような風体であった木下藤吉郎に親近感を得たのか、彼の部下として仕えた。
その後、中国攻めの最中に病気となり、戦線を離脱したが、
病気が不治のものと知るや一転「戦場で死ぬ」と言い張り戦線復帰。
望みどおり陣中に没し、そのワガママ人生に幕を閉じた。
おつ。
黒田家とのからみとか息子とのエピソードもほしかったかな
【夏侯恩】
夏侯惇の弟。武勇に優れた武将で、ニ振りの名剣「青ス」「倚天」の内、
「青ス」を授けられる程、曹操に愛されていた。
長坂橋の戦では劉備の将趙雲を打ちのめしたが、仁者でも知られる夏侯恩は、
幼主阿斗を探し出すまでは命を預けてほしい、という趙雲の命乞いを聞き入れ
黙って去ろうとしたところ趙雲に背後からだまし討ちにあい、あっけない最後を遂げた。
しかし夏侯恩の魂は青スの剣に宿り、哀れな幼子阿斗を救うために
趙雲に超人的な武勇を与えたのだった。
その後阿斗(後の劉禅)は命を救ってくれた夏侯恩に死ぬまで敬意を払い
常に青スの剣を帯び、皇帝に即位すると周囲の反対を押しきって
敵方の夏侯氏の血を引く女を皇后にすえたのだった。
簡雍
劉備の使者で大いに活躍したが、麋竺・孫乾とは全く違う方法で活躍した人物である。
劉備が益州に入ったとき、益州牧劉璋は簡雍に一目惚れした。のち劉備が劉璋と仲違いして成都城を包囲すると、
簡雍は使者として劉璋に会い降伏を勧めながら己の妙技を披露した、
簡雍の妙技を一通り堪能した劉璋は承諾して簡雍と同じ輿に乗って開城した。簡雍は昭徳将軍に任命された。
簡雍はそういうやり方で使者として活躍しているため非常に疲れやすく、
劉備がいる席でも、足を投げ出して脇息にもたれかかり酷使している身体を休めていた。
また諸葛亮らに対しては、長椅子に寝ころびながら話をして彼らを座らせようともしなかった。
日々、身体を酷使している彼には他人を気遣う余裕など無かったのである。
禁酒令が出された時、劉備に醸造道具を隠し持っていた者を弁護したときに姦淫を例えにあげたのも
彼がその筋のプロフェッショナルであることの現れであろう。
お、ひさびさに新作きたなw
おつ
面白い切り口だなw
ともあれ乙。
郝萌
呂布軍で妹にしたい男武将1位に選ばれた勇将。
ちょww
許儀
魏の武将。高名な許チョ(>000、まとめサイト許チョ)の子。父譲りの智謀をもって魏に仕える。
もっぱらその智謀から魏の中央に留め置かれていたが、蜀侵攻作戦において、鍾会の軍に属
した。これは許儀が鐘会の分に外れた野望を言葉の端々から感じており、鐘会の野望が成る
にせよ成らぬにせよ魏を弱めることになると看破したので、非常の手段をもって鐘会を除くしか
ないと考えたためである。
そこで取った方法が蜀侵攻時に必須となる桟道を渡る際の事故に見せかけた暗殺である。許
儀は桟道整備を請け負って、鐘会が通った時に床板が抜けるよう細工するが、野心家にもか
かわらず細かいことを気にする鐘会が中央にいる許儀が出向いてきたことを疑ったため露見
してしまい、狙いを果たせずに終わり鐘会の手に掛かってしまった。
周囲が許儀の命乞いをしたにも関わらず鐘会がすぐに許儀を切ってしまったのは、許儀に自
分の野望を見抜かれたためと、その内容を許儀の口から公にされることを恐れたためである。
なおこの後、鐘会がトウ艾を謀殺して自立しようとしたが失敗したが、これは司馬氏の威権を
増す結果となり、魏の社稷を一層危うくしただけであった。このことから、許儀の予測が正し
かったことがうかがえる。
許儀=司馬昭レベルになる
253 :
251:2005/09/26(月) 22:21:10
レス番書き直すの忘れたorz
>高名な許チョ(>24、まとめサイト許チョ)の子。
が正しいです(´・ω・`)
陳武
呉の猛将。
孫権が自らの陰部に「陳武」と書いて
陰部の勇猛さを示した話はあまりにも知られていない。
劉備
姓は劉、名は備、字は玄徳。元はしがないムシロ売りであったが、次第に自分にも流れている王族の血を意識しだし、漢室復興を志すようになる。
しかし、彼は只の調子乗りであった。
漢室復興を目指すなら、劉璋など他にも沢山いる同族の手助けなんかをしていればよかったのに、入蜀なんかしちゃってさ…。世間に自分の名を売ってチヤホヤされたかっただけちゃうんかと…。
「臥龍か鳳趨どちらか手に入れれば天下は取れる」と言われていたのに、その両方を手に入れても天下を取れなかった。バカすぎ…。
続く
>>255 また、徐庶に「的廬はやばいでぇ〜。死んでまうでぇ〜。早く人に譲った方がええんとちゃう?」と忠告されたにもかかわらず、「他人が不幸になって自分が幸福になることはできない」と調子乗って見栄をはったあげく、ホウ統を死なせてしまう。。・゚・(ノД`)・゚・。
夷陵での戦においては、馬良が「この布陣はやばいんとちゃう?孔明に聞いてみようよ」と諫めたが「いっつもいっつもあいつに頼るのも俺がアホみたいやん。まかしときぃ」と言ってきかなかった。結果は読者のご存じの通りである。調子乗るから…。
「身の程を知れ」というお話でした。
?
つまんねーな
三国異聞
陳寿の三国志には劉備について耳が大きく手が膝まで垂れたという描写がある。また人相は鼻の大きい劉邦を思わせるものがあったという。
このことから類推するに、劉備はネアンデルタール人の末裔であろうと思われる。
その劉備が漢室の末であると自称するのだから、漢王朝はネアンデルタール人による征服王朝だったと
推察されよう。前漢の初代皇帝劉邦も鼻が長く盛り上がった異相だったというが、これもネアンデルタール人の特徴の
一つである。
他地域では絶滅していたネアンデルタール人であるが、神秘の中国大陸では征服王朝を築くほどの勢力があったと
思われる。
三国志には異相のものが多く現れるが、このことはネアンデルタール人以外にも絶滅したとされる人類が当時の中国大陸には
多く残っていたことを表しており、孫権の碧眼紫髯はおそらくジャワ原人であろうし、甚だしきにいたっては、
司馬懿のように首が180度まわるものや董卓のように死に際してヘソから火を噴くものという正体不明の亜人類もいたようである。
これらのことを考え合わせるに、三国志とは一面では旧人類たちの生存を掛けた覇権争いであり、
漢王朝の滅亡によってネアンデルタール人は遂にその命脈を絶ち、呉の滅亡によってジャワ原人も歴史から消えることとなった。
これらを描いた三国志とは人類種族の最終戦争を物語るものであったといえよう。
このことにインスパイアされたのがトールキンの「指輪物語」であったことは知る人ぞ知る秘中の秘である。
違うのかw
>>259 っていうことは、その最終戦争に勝ったのは「正体不明の亜人類」なのかw
丁原
その武勇は凄まじく、呂布に兄と慕われた。
しかし、一人の女のために街を出ると決めた呂布に対し戦いを挑んだ。
その戦闘は呂布の圧勝であり、丁原は絶命した。
その後の呂布に触れると、呂布は様々な強敵と戦い
最終的に本物の兄、後漢末覇者董卓をも倒したのだ。
伊籍
蜀の使者として呉を訪れた際、孫権に「無道の君主に使えるのも大変だろう」と皮肉をいわれ逆上し
暴力団と結託して孫家の名を脅し取ろうとした。
しかし、あえなく警察に捕まってしまうが孫権は伊籍の行動に関心した。
伊籍の子孫は日本にいるらしいが、現在服役中である。
【曹豹】
徐州の太守陶謙に忠義を尽くした悲運の名将。
陶謙が曹操の父曹嵩を殺害し、それに憤激した曹操は大軍を率いて徐州へと攻め込む。
慌てふためく陶謙。降伏をも考える彼に進言したのは誰であろう曹豹その人であった。
「手をこまねき、死を待つは武人の所業にあらず。
それがし、殿のお力となりて彼の軍を打ち破ってみせまする。」
徐州で曹軍と互角に渡り合える武将は彼しかいなかった。徐州の命運は曹豹の手に委ねられる。
徐州のため陶謙のため、評定ではあのような言を吐いたものの、曹豹は悩んでいた。
敵は大軍、こちらは無勢。まともにやって勝つ算段はない。
そこで彼は天文を読んだ。強風が吹くことを見越し、その日に決戦を挑んだのである。
そして読み通り強風が吹いた。強風に翻弄された曹軍は大軍の利を生かすことができず、
無勢の徐州軍は夏侯惇率いる曹軍と見事引き分けることとなったのである。
その後、徐州にすべり込んだ劉備に陶謙は徐州を譲ってしまう。
病気を患い、半死半生の陶謙にもはや判断能力はなく、そこに劉備はつけ込んだ。
その勇名を聞いていた劉備は曹豹を傘下に加えるが、
亡き陶謙の子息の気持ちを思うと、曹豹の胸は痛んだ。
そんな中、劉備が袁術を討ちに出兵する。残されたのは張飛と曹豹。
乱暴者で知られる張飛は、自ら配下に禁酒を命じるも、
その後コロッと気が変わり、自らその禁を犯してしまう。
曹豹は諫言した。しかし張飛はそれに逆ギレ。
部下に曹豹を押さえ付けさせ、身動きできない彼を、その剛力で延々と打ち付けた。
もはやこれまで。やはり荒くれ者の劉備一派に徐州は任せられぬ。
曹豹、決断の刻。彼が白羽の矢を立てたのは呂布であった。
【曹豹】(2)
曹豹の武勇に尊敬の念を抱いていた呂布は、彼の娘を妻に娶っていた。
すなわち、呂布は曹豹の義父であったのだ。
この策は的中する。呼び込んだ呂布の活躍により、張飛は命からがら敗走する。
しかし呂布はしょせん猪武者であり、詰めが甘かった。敗走する張飛を追撃しなかったのである。
曹豹は考えた。劉備率いる戦力は無下にできず、張飛がこの出来事を知らせれば厄介なことになりかねない。
即座に判断をした曹豹は、わずかな手勢を率いて張飛を追撃した。
そして曹豹は張飛を捉えた。焦る張飛は曹豹に突進をしてくる。
打ち付けの刑を与えた曹豹の体はもはやボロボロ、曹豹を討てばその手勢も戦意を失うと考えたのだ。
しかし、張飛のそんな考えは裏切られる。その満身創痍の体で、曹豹は数合に渡り張飛と互角の打ち合いをしたのだ。
これには剛勇を誇る張飛も驚いた。曹豹、その勇名に偽りなし。張飛は一計を案じた。
「ここでは周囲の兵を巻き添えにしてしまう。離れた場所で勝負だ。」
「うむ、受けて立つ。」
馬首をひるがえし、走り出す曹豹。その背後目掛け、ことあろうか張飛は槍を投げつけた。
信義を重んじるがゆえ、それが曹豹の命取りとなった。
その後、徐州の領土は劉備でも呂布でもなく、曹操のものとなる。
もしも曹豹が健在であれば、これほど簡単に徐州は曹操のものにはならなかったであろう。
269 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/03(月) 18:43:52
意味なくage
>>267 >すなわち、呂布は曹豹の義父であったのだ。
これは違うような気がw
【加藤清正】
秀吉の小姓から出世し肥前1国を領する大大名になった。
しかし実は意気地のない目立ちたがり屋の成り上がり者にすぎない。
威勢がよかったことが秀吉の性格、急速な領土拡張に合致しただけの
話である。
朝鮮役ではオランカイまで単独行を行い武名を高めたが、補給を無視
した突出は全戦線に悪影響を与えた。秀吉が清正から毎週送られてくる
虎の肝にうんざりしていたのは有名な話だが、世間には虎狩りの英雄
として伝わっている。
秀吉が逝去するや、天下のことなど考えず好んで石田襲撃という乱を
起こすが、一人でできないので仲間を多数誘っての愚行である。
家康公に叱責されるやたちまちおとなしくなったところをみるとたいした
覚悟はなかったらしい。
関ヶ原の大乱では領国にこもり、主不在の小西家の宇土城をのんびり
囲んで日和見をし、肥前一国を得る。
京での秀頼と家康の会見では、立場上上京せざるを得なくなり、暗殺
をおそれ秀頼の側を離れず、そでを引かれるのを無視し強引に秀頼公
の横に座ったという。
武名を高めることには熱心であったが、息子の教育には関心がなかった
ようで、加藤家はわずか2代で改易となった。
肥前→肥後ですた 失敗
漢室復興いいな できたらいいな
あんな理想 こんな野望 いっぱいあるけど
みんなみんなみんな かなえてくれる
ふしぎな計略で かなえてくれる
「船団 火計に 嵌めたいな」
「は〜い 東南の風〜」
アンアンアン とっても大好き 諸葛亮
天下取りいいな できたらいいな
あんな国 こんな勢力 いっぱいあるけど
みんなみんなみんな 倒してくれる
ふしぎな戦略で 倒してくれる
「曹操と互角に 戦りたいな」
「は〜い 天下三分の計」
アンアンアン とっても大好き 諸葛亮
274 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/08(土) 19:24:21
武田信玄
自分の父親を追放
自分よりずっと弱い信濃の弱小勢力ばかり攻めて勢力を拡大
しかも志賀城に3000の首を並べて城にいた女を遊女子供を奴隷など極悪非道なことをした
自分よりずっと弱い村上に2回も大敗し長尾には兵力でずっと上回っていたにもかかわらず
引き分け
そして自分勝手に今川と同盟を切り反対した息子を殺した
そして多数の徳川兵を殺したが自分勝手に死亡
まじめにかけ
不覚にもワロタ
【池田勝正】
摂津池田家の総領。筑後守。
三好家に属し、各地を転戦するとともに政権で重きをなした。
三好長慶の死後、分裂する家臣団のなかにあって、いち早く三好家に属することを表明、忠義をもって政権を支えた。
そして、反旗を翻した松永久秀ら旧三好家臣の実力者と壮絶な抗争を繰り広げ、三好三人衆とともにそれを撃退させた。
また、摂津に侵攻した織田信長に対しても、主だった国人・豪族が戦わずして軍門に降る中、三好家への忠義を重んじて抗戦。
一歩も引かぬ決意を示し、攻め手に損害を与える。
まさに勝正は斜陽の三好家を支えた名将であると同時に、畿内において信長に対抗しうる勢力を持った実力者であった。
それは、敗北後、信長は頑強に抵抗した勝正を一切に咎めず、所領を安堵した上、加増したことや、
三好家なき後、伊丹親興、和田惟政と共に「摂津三守護」に選ばれたことを見ても明らかである。
その後、信長配下として山名攻め、浦上攻め、朝倉攻めにも従軍。秀吉や光秀ら織田股肱の臣のなかにあって活躍した。
また、利休七哲に名高い荒木村重や、猛将中川清秀らも、勝正の家臣である。
阿会喃(あかいなん)(1)
南蛮第三洞主。持ち前の智謀で諸葛亮と渡り合った。
南蛮戦の前から、阿会喃は蜀の情勢を見、迫り来る危機を予測していた。
蜀は、国是の北伐のために多額の戦費が必要である。しかし、未だ一枚岩で
ない国内からは調達できまい。とすれば、手近な国外である南蛮は、戦費調達
のための支配地として侵略されるに違いない…。
諸葛亮の意図を読みきった阿会喃は密かに軍備を整え、南蛮王・孟獲と共に
蜀軍の機先を制し、多くの手勢を率いて立ちあがることに成功した。
必勝を期して第一洞主・金環三結、第二洞主・董荼那と共に大軍を率いて蜀軍
と対峙するも、金環三結は敗死し、董荼那は囚われ、阿会喃軍は苦境に陥った。
この時、阿会喃は疑念を覚えた。
いずれも大軍が壊滅するほどの戦だったのに、金環三結は討ち死に、董荼那は
無傷で捕虜となった。しかも董荼那は、間道からの奇襲によって軍を混乱させら
れているが、自分達のほうがよく知る間道からの奇襲で混乱させられるはずがな
い。しかも捕虜は蜀軍に厚遇されていると聞く。さては董荼那…。
董荼那の叛意をいち早く見ぬいた阿会喃は、乾坤一擲の計に出る。全く同じ
方法で負け、全く同じように捕らわれるのである。蜀軍が裏切者の董荼那を
釈放し埋服の毒とするならば阿会喃も同様に釈放せざるを得まい。南蛮将の処
刑は諸葛亮の公言する方針に反する以上、処刑もできまい。
この常識では考えられない策により、阿会喃は無傷で釈放された。あとは
董荼那の裏切りを証明し、処刑すればよい。阿会喃は密かに董荼那を監視
した。
阿会喃(あかいなん)(2)
試練はすぐ訪れた。蜀軍が襲来し、董荼那が拠点防衛の任を買って出たのであ
る。監視のため後詰めを引きうけたものの、阿会喃は苦慮した。
董荼那は軍勢を引きつれて寝返りの機会を伺っている。仮に自分が軍を率いて
蜀軍と交戦しても、蜀軍と董荼那とに挟撃され、いたずらに兵を失うだけだろう。
それは南蛮抗戦軍にとってあまりに大きな損失になる。どうにか損失なき撤兵を、
願わくば董荼那の排除を…。
阿会喃は徹底的に董荼那を牽制した。もし寝返らば、蜀軍と合流する前に殲滅
してやる。阿会喃の無言の威嚇により、董荼那は寝返りを諦めた。そのかわり、
「恥知らず」と罵られたことを口実にして早々に兵を引き、拠点を蜀軍に明渡し
てしまった。
むろん、董荼那の撤兵は計算に入っていた。愚にもつかない理由での敵前逃亡
は孟獲の逆鱗に触れた。董荼那は処罰され、軍の指揮から外されたのである。
軍を連れて寝返る計画をふいにされた董荼那は、今度は総大将孟獲を狙うよう
になる。阿会喃はその動向を掴んだとき、董荼那の排除を確信した。
孟獲を捕らえて蜀軍に引き渡せば、董荼那の裏切りは明らかだ。南蛮支配に
不可欠なカリスマ・孟獲と、兵もなく埋服も露見した董荼那。今の状況では、
諸葛亮は孟獲を殺すことはできず、董荼那を見捨てるに違いない。それを見ぬ
けぬとは、董荼那も愚かな奴よ…。
阿会喃(あかいなん)(3)
案の定、董荼那が捕らえて差出した孟獲を、諸葛亮は釈放せざるを得なかった。
しかし、諸葛亮は一枚上手だった。董荼那を見捨てるのは致し方ないが、目障り
な智将・阿会喃も道連れにしようと企んだのである。孟獲は、阿会喃への疑念を
吹き込まれた上で釈放された。
孟獲から本陣に呼び出され、阿会喃は諸葛亮の策に敗れたことを知った。死期
を悟った阿会喃は、南蛮の未来を憂いつつ孟獲の陣に赴き、従容として死につい
た。演義も、董荼那の裏切りは明記しているのに、阿会喃の裏切りについては
全く記載していない。
彼の死後ほどなく、南蛮は蜀の軍門に下った。それからわずか二年。多額の
戦費を調達した諸葛亮は、延々と続く北伐を始めるのであった。
長文スマソ。ちなみに演義準拠の元ネタは下。ある意味上より悲劇の将だと思う。
【阿会喃】
南蛮第三洞主。金環三結、董荼那と共に大軍を率いて出陣。間道からの奇襲
→混乱したところを正面攻撃→逃亡するところを捕縛されたが、なぜか董荼那
と全く同じパターンの負け方だった。
諸葛亮に解放されると、沙口を任されたが、馬岱の「恩知らず」との罵声に
友軍・董荼那は赤面して勝手に兵を引く。
撤退により処罰された董荼那は孟獲を捕らえて蜀軍に送る。しかし諸葛亮は
孟獲を解放したため、孟獲は偽計により董荼那を呼び出し処刑した。その際、
裏切りに加担しなかった阿会喃もなぜか処刑され、死体は谷に捨てられた。
281 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 01:36:20
いくら褒めたたえても「南蛮屈指の」レベルに留まってしまうところが
南蛮武将の扱いやすいところだよな〜
呂布
夢遊病。
部下に棒罰をし、椅子に座り寝ていたところ一人SMをしだした。
そんな呂布に嫌気が差した侯成らに曹操に差し出された。
高順も夢遊病だったという。
冷苞
劉璋配下。張任と共に先代・劉焉の時代から仕える宿将。
劉璋軍中の名将・高沛と楊懐を宴席で騙まし討ちし、
蜀の地を奪わんとする野心を露にした劉備を、張任と共に迎え撃つ。
知略に長け、功を焦る魏延に捕らえられた際にも、
機転を利かせて劉備を欺き、自陣に帰還した。
また、帰還した際「番兵を斬って逃げてきたのよ」と見栄を張るなど、
彼のプライドの高さが表れた、微笑ましい逸話がある。
冷苞は、地の利と自らの才略を存分に活かし、
突出してきた魏延・黄忠軍を盆地に誘い込み、水計で倒そうとした。
しかし、劉璋に無礼を働き奴僕にされたことを恨んだ彭義により、黄忠らにそれが発覚。
進退窮まった冷苞は蜀の地のため、果敢に黄忠・魏延に挑んだが、力及ばず戦死した。
冷苞は三国志8では武力100まで成長したりするw
乙!
>>285 智勇兼備の名将じゃんw
冷苞「番 兵 を 斬 っ て 逃 げ て き た の よ(キラーン)」
【禰衡】(176〜200)
字は正平。儒者にして鼓の名手。孔融に器量を激賞された。楊修、孔融など
当代一流の人物を高く評価するという見識だけでなく、曹操の本陣に入り込み、
並み居る猛将たちを軒並み斬りまくった上、無傷で生還するという勇猛さでも
知られる。
江夏の雄、黄祖にもその才能を愛されたが、祠の神の怒りに触れて夭折した。
>>287 >【禰衡】(176〜200)
なんだ、意外と若いのね。23,4で死んじゃったのか。
趙雲
体格は大きかった人。
余り人から好かれるタイプではないので大軍を率いる事は無かった。
HG孔明からもっとも信頼されていたという。
織田有楽斎
俗名・長益。幼名・源五。聖将・織田信長の賢弟、織田家連枝衆筆頭。
剛勇沈着にして、知略縦横の戦国期に冠絶する名将。
有楽斎は茶人として名高く、また大大名・織田家の連枝衆(一門衆)として、
数々の典例などで兄を支えて重要な役割を果たしていた。
しかし、天正十年に悲劇が起こる。そう、本能寺の変である。
この明智光秀の謀反により、織田家は当主・信長と世継ぎの信忠を失ってしまう。
だが、有楽斎は生き残った。彼は二条城に立てこもっていたが、危機を察すると、
なんと裏門から、武具を捨てて女房衆に混じって逃げるという、
前代未聞の画期的な脱出方法で死地を抜け出したのである。
さすがは改革者・信長の弟で、その発想と勇気は群を抜いていた。
かほどの脱出法は日本史上例のないことであり、有楽斎の器量を現代にも伝えている。
この事は評判となり、京では「織田の源五は人ではないぞよ」と、
有楽斎の常人離れした武略を讃える小唄が出来たほどなのである。
有楽斎は豊臣政権にあっても、縦横無尽の活躍を見せる。
秀吉は緩やかなものながらも、キリシタン禁止令を出した。
その際、自信過剰の蒲生氏郷や、小利口者の小西行長は、棄教に今ひとつ歯切れが悪かったが、
有楽斎は一も二もなく承諾し、さらには一足飛びに仏門に入るという離れ業をやってのける。
まさに君子豹変であり、剛胆な秀吉もこれには驚き、有楽斎を称揚した。
有楽斎が先頭に立って棄教したことで、日本から
ヨーロッパの植民地政策の先兵であるキリスト教を排除することが出来たのである。
彼の英断は後の沢野忠庵らにも大きな影響を与えた。
さらには、近代の日本が邪宗門から一線を引くことが出来たのも有楽斎のおかげであろう。
有楽斎の活躍は家康の時代になっても続く。
関ヶ原の合戦では、少数の部隊でありながらも、無人の野を行くが如く戦場を駆けめぐり、
戸田重政および蒲生郷舎という二名の勇将の首級を挙げる大戦果を誇った。
この点、戦闘終了後に後塵を拝していた有楽斎が手柄を求めて、
落ち武者狩りまがいの行為をしていた所、運良く満身創痍で疲労困憊であった両名に遭遇し、
それを討ち取ったに過ぎないという説もあるが、運も実力のうちである。
さらに大阪の陣では、家康の意を受けて、大阪城に奥深く潜入する。
彼は、そこで淀君・秀頼の側に侍って、大阪方の機密を余すこと無くと江戸方に伝達していた。
一見するととんでもない背信であるが、これほどの行為を恥じることなく出来るという点、
まさに有楽斎は全身肝っ玉である。
大野治長や後藤又兵衛ら小賢しい連中は有楽斎の内通を疑っていたというが、
有楽斎はそのような猜疑の視線を
持ち前の胆力が生み出す飄々とした風体でヒラリと交わし続けていた。
戦国末期を代表する二つの大戦の影には有楽斎あり、なのである。
以上のように、信長・秀吉・家康の三英傑と共に時代を駆け抜けた有楽斎は戦国期を代表する名士である。
彼の名は「有楽町」という名で、現代にも京都や東京に残っている。
日本の風土では、地名から人名(苗字・通称)というパターンは多いが、
人名から地名というパターンは極めて少なく、有楽斎の偉大さを余すことなく伝えているといえよう。
有楽斎が戦国期に残した功績と同様、日本の中心地にも彼の名が、
その足跡となって人知れず残っているのである。
いいよー、グッジョブでした
【下間頼廉】
本願寺の坊官。刑部卿法印。佞臣と評される。
本山坊官の主席たる立場を利用し、少進仲考ら和平派を押さえ、法橋頼竜ら武闘派と 結託の上、石山戦争を引き起こし、多くの門徒を死に追いやった。
また、加賀方面の代官、七里頼周が下級武士出身であることを蔑み、法主顕如に讒言し 失脚させ、代わりに自らの息のかかった法眼頼純を代官に添えるなど、独善的な政略を展開。本願寺内部において、坊官同士の亀裂を深めた。
石山戦争では雑賀党を動員し、屈強に抵抗。頼廉の手勢に組み込まれた雑賀衆に多くの 死傷者を出す。
戦争終結後は和平派に寝返り、主戦派の頼竜、教如を離反させる原因をつくり、これが 石山本願寺を東西に分裂させた起因であると見る歴史家も少なくない。
頼廉自身は、その後秀吉に接近、本願寺町奉行の地位につき、90歳まで生きたと言われる。
294 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/28(金) 02:53:19
・・・いやなやつだなあ頼廉
295 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/28(金) 04:06:43
頼廉って、ホントはいいヤツだったんだよね?
見方による
韓玄
後の五虎大将軍である黄忠の元主君。
一説によれば黄忠に弓を教えたのは彼であるとも言われている。
荊州を劉備から守るために、自らも武装し戦うが
目先の欲に踊らされた魏延によって斬られる。
これは余談だが、魏延が裏切りの士として知られるのは孔明死後の反乱よりも
韓玄を裏切ったことが大きいのであるとも言われている。
韓玄死後、長沙の民による反発を防ぐという名目で
孔明が彼を「民衆を苛める暴君」と罵ったと言うが
実のところ、韓玄は漢王朝に忠誠を誓う名君であり、良政を敷いて民にも慕われていた。
それゆえに彼の死を民衆は嘆き、韓玄の墓を長沙に作り、彼の名を後世に伝えようとした。
その証拠に、彼の墓には「漢忠臣韓玄之墓」と刻まれ、千年以上が過ぎた今も長沙の都にポツンと佇んでいる。
ほんとうに韓玄の墓が長沙にあった。
【劉弁(少帝)】
後漢の第13代皇帝。大変慎み深い人柄で、霊帝の死後は弟の劉協(献帝)に
位を譲るつもりだったが、外戚である何進によって強制的に皇位を継がされる。
そして何進は憂いの種である劉協を排除しようとするが、
劉弁はこれを許さず、董太后が暗殺されるに留まった。
しかし何進にこのまま朝廷を私物化されることを憂い、十常侍と謀って何進を討ち、
袁紹らを朝廷に招きいれて、朝廷を牛耳っていた十常侍を滅殺することに成功した。
そして西涼より董卓を密かに招き入れ、その強力な軍事力のもとに漢王朝を復活させることにした。
長年朝廷にとっての癌であった外戚と十常侍を排除することに成功した劉弁は
己の役目が終わったことを悟ると、董卓の制止を振り切り自分より有能な劉協に位を譲り
弘農王となって隠居した。
しかし漢王朝を私物化せんと諸侯が大規模な叛乱を起こし、
劉弁は叛乱を止められなかった己の不徳を恥じ、
また諸侯に擁立されて利用されることを恐れ自害した。
300 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/01(火) 19:13:03
300が凡将のような名将!
301 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/02(水) 00:06:13
?
司馬懿伝(付、司馬師伝)
魏の忠臣。彼の父・司馬防は人傑・曹操の名声を世に知らしめ
、宦官らの専横を許す漢王朝を是正する一端を担った、人物眼
のある人物である。司馬懿自身も知略に富、その能力は曹操に
高く評価され、幾度も己の下につくよう言われる。しかし、謙
虚な彼はその申し出を幾度も断るが、その申し出をついに受け
る。司馬懿の活躍は樊城の関羽に浮き足立った幕僚を諌め、呉
を利用し挟撃により彼を討ち取ったところに見える。曹操の息
子・曹丕と姓を超えた兄弟のような仲睦まじさは、後世にも強
く語り継がれ、曹操は死に臨んで、時期皇帝たる曹丕を彼に託
すなど、その信頼は筆舌に尽くしがたい。曹丕を次いだ曹叡も
彼を重用し、反乱した公孫淵の鎮圧にも行う。
しかし、曹叡を次いだ曹芳の代にあって、彼は曹爽による弾圧
に会う。曹爽はその地位を利用し日々横暴を尽くし、蜀にも手
を焼き徒に魏を疲弊させていた。曹操を一途に思う司馬懿は曹
芳が許せず、クーデターを決行、見事に成功し曹爽一味を打破
する。しかし寛容な彼は曹爽を罷免しただけで許す。恩知らず
の曹爽はまた謀反を企てるがこれも鎮圧する。しかし、曹芳自
身が救い様のない暗君であった。それでも曹操そして曹丕を思
う司馬懿は、彼を支え続け、その生涯を終えた。
司馬懿を次いだ司馬師は、魏よりもむしろ天下の民を第一に
思う人物であった。曹爽は色情に溺れ政を蔑ろにし、臣下も忠
節を尽くさず横暴を繰り返す。国を憂えた司馬師は曹爽を廃し
た。しかし、腐敗しきった魏の再起は不可能であり、後に司馬
炎が晋を建国し、やっと中国大陸に平安が訪れるのである
hosyu
誰か三法師(織田秀信)君で頼むわm(_ _)m
過疎
元々名将だ、とか、そんなケチしか付けられないんじゃやる気もなくなる罠
昔の職人はどこへ行ったのか?
この流れに嫌気がさしてます
310 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/11(金) 01:50:44
311 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/11(金) 02:10:18
でもこのスレ今の三戦には数少ない名スレだよね
312 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/11(金) 02:11:17
まとめサイト見てると普通に爆笑するし
【今川氏真】(いまがわ・うじざね)
「東海一の弓取り」今川義元と「甲斐の虎」武田信虎の娘との間に産まれた良血児。
現代にも1000首を超える歌が遺るなど、和歌や蹴鞠の達人として知られるが、
一方で「剣聖」塚原卜伝から新当流を学ぶなど、武道にも優れた。
義元の生前は、義元の後継争いや駿河統一戦などで、数々の武功を残す。
桶狭間で義元が討たれ家督を継ぐと、感情で追悼戦などに走ることなく、
楽市楽座などを全国でもいち早く取り入れ、国力の回復に努めた。
その後、武田信玄が盟約に反し駿河を狙うと、素早く駿相越の連携を強め、対抗した。
画期的な「塩止め」は余りに有名だが、越後の同調が得られず効果は希薄だった。
しかし越後の協力があれば、武田を滅ぼすのは今川だった可能性もある後世に残る良策。
無駄な戦をせず、巧みな外交手腕を発揮し国力を蓄えるという賢策を採った氏真だが、
徐々に真意が読めず、ただ父の敵も討てぬ臆病者と誹り、離反する者が相次いだ。
結局、能力ではなく、見通しが甘く臆病な国人の割を食う形で、氏真は今川館を失う。
脱出時には、女子供ら非戦闘員を優先して自ら警護し、数々の宝物は打ち捨てた。
この宝物を信玄は奪うよう指示したとの話を考えると、その清俗は比較にならない。
その後、掛川城に入った氏真は、その武才を駆使し、家康を撃退するなどしている。
さらに数年後、徳川家と数ヶ月に及ぶ防御戦の後、民を思い和睦に応じた。
自ら刀を交えた家康は、氏真、ひいては今川家の血を高く評価したと思われ、
今川家は滅ぶことなく徳川幕府に使え、高家として明治維新まで存続した。
「今川」は杉並区の今川町、愛知県西尾市の今川町など、現在にも名を残し親しまれる。
最後に父の敵、信長の前で蹴鞠を披露し嘲笑されたとの話が有名であるが、
隙を見て首をあげるため、信長に接近するための策だったと見る向きもある。
機を得たにも関わらず、再び世を乱し民を苦しめてはならぬと堪えた氏真の人柄が忍ばれる。
久々の乙
馴れ合いのなにが悪いと言うのか
馴れ合う事によって排他性が生まれる事も理解できないアホめ
織田秀信
安土桃山時代から江戸期かけてその徳を称えられた君子。織田信長の長子、信忠の嫡男として生を受けた秀信は
幼少期より人を引きつけて止まない魅力と特に溢れていたという。信長が秀信の幼名を「三法師」と名付けたのは、
秀信が三界の法師たりうる徳を生まれながらに備えている聖君子と認めたためである。
秀信が2才の頃に起きた本能寺の変を生き延びられたのは、彼を法師と慕う前田玄以が信長や信忠を差し置いてまでも
秀信を救い出した事による。
当主を失って狼狽する織田家家臣団であったが、生き延びていた秀信により再び結束し、彼を推戴した羽柴秀吉は
秀信の威光により天下人への道を歩むこととなった。これはまったく秀信の徳の高さが導いたものである。
天下はまさしく三法師の秀信によって治まったとも言えよう。
しかし、秀信には天下への野心はなく、秀吉没後に起きた争乱に際しては、岐阜城に立て籠もって局外中立の姿勢をみせたのち、
その徳にふさわしい真言宗の聖地として名高い高野山へと移り住んだ。
だが、高野山入山後、5年にして秀信はこの世を去った。享年25才。神に愛される者ほど早逝するの例え通りの生涯であった。
モツ!
ツマンネ
んなもんじゃね?全盛期と比べるな
ケチを付ける池沼馬鹿は来んな!!!!!
完成度は気にしなくても良いから書いてくれよ
>>318 批評、批判も度が過ぎると荒れる元、難しいところだ
>>324 何でもかんでも許容して一切ケチ付けちゃダメってのも
寛容さを欠く窮屈な決めごとと思う
臨機応変に当たればそれでいいのでは
328 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/17(木) 01:18:56
上杉謙信
越後の龍と呼ばれた、学習能力が欠如した男。
最初の関東出兵は10万もの大軍で攻め込んだのに小田原城に篭る北条家に勝てずに、のこのこ撤退する。
関東の豪族たちも、いい加減に出兵→撤退の繰り返しで学んだために
謙信の味方をしなくなっていったが、それでも当の本人は全く学習せずに何の工夫も無く関東出兵を繰り返した。
北条家にとっては「また小田原城に篭っていれば勝手に帰るだろう」「またかよ」という
毎年恒例の行事のようになっていったことは容易に考えられる。
結局16回も似たようないたちごっこを繰り返し続けたのは、彼の学習能力が無かったためであろう。
武田家の北信濃の領土を奪うために出兵するが迎撃に来た敵を攻めきれず撤退。
5回繰り返すが全く領土が手に入らずに成果無し。
無駄なことにかけては天才的である。
越後の龍とは、ハ虫類と並みの頭脳だった彼への蔑称であったことは間違いない。
信玄厨乙!
330 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/22(火) 21:34:39
ツマンネ
えらい遅い煽りだな
332 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 18:55:49
そんだけ住人が消えたってことだ
戻ってこいよー
333 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 19:39:53
333
明智光秀
築城、軍法に拠る統率、鉄砲隊の組織等、近代戦術に優れた手腕を持ち、
織田政権下に於いて、多岐に渡る方面で活躍。短期間に脅威の出世を果たした。
最後は政権を奪おうとして失敗したものの、織田政権(信長+嫡子)を討つという目的に絞れば
なかなか得難い機会を掴んでいた、とも言われる。
内政に高い評価があり、多くの職を歴任。信長配下として、
トップクラスのスピードで、城持ち大名となった後も善政を敷き、
現代でもその統治下では、彼を感謝し祭られ敬う伝統を持つ地方が有る。
また優れた教養を持ち、当代最高の教養人と言われた細川幽斎を始め、上流階級の人物と交友関係を多く持つ。
文官としての功績が目立つが、戦働きに於いても30数度の戦に勝利していている歴戦のつわもの。
335 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 20:01:43
【松平広忠】
徳川家康の父。1526年、三河岡崎城主・松平清康の長男として誕生。
1535年守山崩れにより父・清康を失うと10歳で松平家の家督を継ぐが、家を守る力がないために、今川家の庇護を受ける。
早熟で幼い頃から女好きであったとされれ、風呂場で背中を流しにきた家臣の娘の背中を、逆に流した経験もある。
広忠をヘタレと見るや、清康時代に味方だった武将や、松平同族の武将は離反し、織田方についてしまう。
小豆坂の戦いで織田信秀に大敗し、優秀な家臣を失い、正室・於大との政略結婚により手を結んでいた水野家まで織田方につき、於大とは離縁する事に。
これにより女に飢えた広忠は、風呂場で 背中を流しにきた、家臣・岩松八弥の婚約者であったお春を、離縁した於大と錯覚しレイプしてしまう。
その後はお春と湯船に桜を浮かべた桜風呂に入ったりしたエピソードも残されている。
そんな広忠に嫌気が差した岩松八弥によって刺殺される。
26年の女好きの生涯に幕を閉じたのであった。
336 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 20:11:55
【松平元信】
幼名竹千代。松平広忠と於大の間に長男として生まれる。
6歳で今川家の人質として送り込まれる。父と同様に女好きであったとされる。
恋慕していた亀姫を呼び出してレイプまがいに犯し、それに嫉妬した瀬名姫とも性交する。まだ8歳であったにも関わらず、一晩で二人の女と関係をもった強者である。
その後今川義元の口添えにより瀬名姫と結婚し名を元康と改める。
光秀は微妙だなー。
広忠の場合は凡将を名将のように説明するよりも
凡将を凡将のように説明する感じになってる。
しかも山岡『家康』をそのまま丸写しした感じにも見える。
338 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 20:26:34
つーか
光秀は元々大抵の本で悲劇の名将みたいに書かれてるしな〜…
最後はアレとは言え、凡将という人の方が少ない気がするので
それを普通に書かれても、スレの趣旨に噛み合わないと思うのだが
340 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 20:35:44
【
>>337】
戦後の昭和が生んだ歴史好きの男。
本名・年齢・出身地不明。
幼い頃より真面目一辺倒で同郷の友人達からはいじめられた。中高と成績は良く、運動もそこそこにできた。創価大学卒。
ネタをマジにとらえる不器用さと、空気の読めなさをもつ。
341 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 20:40:00
342 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 21:25:47
>>341 ここは 凡将を名将のように説明するスレ
細川忠興 1563〜1645
名門細川家に生を受ける。父に細川藤孝を持ち幼少期から英才教育を受けていた。
明智光秀の娘(玉子)を娶ると幼少時の詰め込み教育の反動か間違った愛の形を示してしまう。
妻を愛するがゆえに人を斬ることをも辞さないという暴れっぷりであった。
豊臣秀吉没後は家名存続のため、豊臣家を早くに見限り、後に肥後国を賜る。
しかし、その印象は薄く。加藤清正においしいところ持っていかれている。
>>343の人に続いて、忠興二発目
細川忠興 1563〜1645
名門細川家に生を受ける。父に細川藤孝を持ち幼少期から英才教育を受けていた。
武将としての才覚のみならず、有職故実にも通じていた父とは違い、
僅かばかりの教養と合戦での武勇だけが取り柄の武将でった。
越中守の位階を得ていため、彼が工夫を凝らした褌は「越中フンドシ」と呼ばれ
現在まで恥をさらし続けている。
先週放送(11月16日)の「トリビアの泉」で、高級デパートでは越中ふんどしが
「クラシックパンツ」の名称で売られていることが全国的に流布されてしまう。
その結果、ますます細川家の恥さらしとしての地位を確立している愚将である。
346 :
343:2005/11/23(水) 22:07:28
つれましたー^^
やったーーーー☆
348 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 22:16:21
>>345 いや、スレの内容の趣向が変化したと思われ。
夏頃とは感じがずい分ちがうしな。
だからこのスレからはなれた住人もいるときくしな。
自由にかきゃーいいんだわ あれこれルール決めると揉めるだけ
嘘はいかんとか言うが 凡将を名将に ってことは創作なんだよ 言い換えれば嘘
歴史の流れを変えたりしなければ問題ない 自由にかこーぜ
351 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 22:52:57
言い訳がましく見苦しいなwww
ま、馬鹿は来んなってとこだな
352 :
344:2005/11/23(水) 23:08:28
凡作つーか、むしろ愚作ってことは自分でも承知だ
レベルも大事だが、グデグデにならないように積極的にネタを投下してゆきたいところだな
いいわけみぐるしいよ。ぉまぇあほかと☆
…
>>1のやる事 大体同じ
糞スレ キモスレ 気にしない
とりあえず 立ててみる ただのヲナニー
>>1に まともなレスこない
>>1は まともなレスしない
>>1を まともに見もしない
>>1から始まる 糞スレ
>>1から始める 糞スレ
ほう、口だけ出してネタは出さないのですか なるほど☆
とりあえず君の作品が見たいので教えてください☆
やーだよ☆
ってか粘着キモい消えてーー☆
357 :無名武将@お腹せっぷく :2005/11/23(水) 23:15:59
やーだよ☆
ってか粘着キモい消えてーー☆
と、ゆとり教育の被害者がおっしゃってます ネカマはアニメみて ぬいて ねれ
きみ、ぉもしろい。アニヲタしね。ぬいてろ どーてーやろー☆
つーか文句あんなら自分で書いてみろよ!クソが!!
俺は面白かったと思うな。そう怒るなよ
>>360 ばーか そんなにくやしかったらさぃしょからかくなょー^^
文章も書けない阿呆はスルーしろ
赤丸チェック食らいそうな酷い作文でオナニーするスレはここですか?
細川たん名門だよ越中守だよ得ていためハァハァ
少し前までは文句や難癖じゃなくて指摘だったんだよな
ここの住民は辛口だが それがまたよかったんだ 今の状況はただ難癖付けてるだけ
だから自由に書くことができないし 書かずにケチつけるボケもいるし
そら人も減るわな
367 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/24(木) 00:09:28
むむう・・・
こりゃもうダメかもしれんね
【馬謖】
字は幼常。「白眉」馬良の弟で、兄に勝るとも劣らない智謀の士。
劉備らが荊州に居る際に伊籍がこの兄弟を紹介するが、馬良より先に馬謖の名を上げている事から
その時点で兄の実力を超えていたと考えられる。(兄には白眉名声が付与されている為)
この俊才に目をつけた孔明は常に傍に置き、将来の劉備軍を担う将軍としての教育を施す。
彼が活躍しはじめるのは劉備の死後の南蛮夷討伐からで、諸葛亮の参謀として従軍。
南蛮を力で制圧しようとする諸葛亮に対し、懐柔策を用いるよう進言したり、
孟優の偽装投降を見破るなど、政治的戦略や策謀に優れていた。
南蛮懐柔の後、諸葛亮は北伐の計画を考えていたが、前線にいる驃騎大将軍・司馬懿は目の上の瘤であった。
馬謖は司馬懿を前線から除く為に魏の中心部に対して流言を仕掛け、これに成功する。
この間に蜀軍は軍備を固め、着々と力を付けてゆく。
馬謖の活躍が無ければ、諸葛亮と言えども北伐を実行するまでに更に時間がかかったであろう。
そしてこの北伐で、諸葛亮はいよいよ馬謖を大将として軍を率いさせる。
副将として魏から逃走してきた王平を付けて街亭へ進ませ、指揮は一切を任せるといった信頼振りである。
現場に到着した馬謖は山に陣取る事に決定。王平が諫めるが、馬謖には思惑があった。
水を確保できない山に陣取れば囲まれるであろう事は承知していた。
山を囲むという事は敵の兵力が拡散する事であり、その背後を王平に襲わせた上で
山を下る勢いを得て襲えば、いかに張儁乂ほどの武将が相手でも一気に倒せると計算していたのだ。
司馬懿ですら、街亭の山に布陣した馬謖の能力を疑ったほどである。
そして馬謖の予想通り、魏軍は水を絶つため山を囲み兵力は分散したのだが、王平は来なかった。
王平は張儁乂を恐れる余り、撹乱作戦を実行出来なかったのである。
結果は大敗。馬謖は敗戦の責任を取って死罪となる。
この処罰を蒋エンが止めようとしたが、これを期に部下に勝手な行動をさせないように、
また、結果を出せば許されるという気風のある蜀軍を引き締める為にも、諸葛亮はあえて刑を執行した。
その効果は、諸葛亮が死ぬまで魏延が逆らえなかった事からも察する事が出来る。
享年39歳。将来を嘱望されていただけに、この死は早すぎるといえる。
この時処罰されていなければ、諸葛亮の後継者は姜維ではなく、馬謖となっていただろう。
伊達成実。
伊達政宗の従兄弟。伊達家を代表する猛将にして、
成実記、政宗記という著書も残し、奥州制覇を目指す政宗に外交調略を
指図していた程の、知性の持ち主でもある。
人取橋の戦いでは、大軍を相手に総崩れとなりかけた伊達軍を立て直し突撃、
敵を押し返す事に成功。稀代の統率力と勇気を伺わせる。
その後も、摺上原の戦いで活躍を示し、政宗が城を空けている間の城代も勤める。
朝鮮出兵後、充分な報酬を得られなかった事や
序列の不満から、伊達家を辞する。
怒った政宗は屋代景頼に命じ、成実の家族を殺した。
出奔後は、徳川家に誘致されるも政宗の横槍により妨害される。
更に上杉家にも勧誘され、その示した俸禄は、
なんと五万石という破格の待遇であったが、それを断った。
矢張り伊達家への拘りがあったのであろう。関ヶ原の戦で功を立て、再び伊達家に帰参する。
帰参後、政宗は景頼に責任を押し付け、追放したが、
成実は彼に同情し、一族の面倒をみる。これこそ彼の懐の深さであろう。
彼の家系は亘理伊達家となり、明治時代まで続く。
372 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/24(木) 01:45:11
む・・・
373 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/24(木) 16:02:16
「織田信長」一
破滅的な性格で、「うつけ」と評される。
その行動は精神の安定を欠いており、
自殺志願者であった。
父の位牌に抹香を投げつけて神仏の力で自殺を図ったこともあった。
結果的に生き残った信長は死に場所を求めるようになる。
小早川秀秋
木下秀吉(後に羽柴、豊臣)の正室おね(北政所、高台院)の兄・杉原家定(後に木下)の五男に生まれる。
幼少の頃から器量としての器はずば抜けており
時の太閤殿下豊臣秀吉の目に止まり彼の後継者として養子に迎えられ羽柴秀俊、秀詮と名乗る。
が後に秀吉の側室である茶々(後の淀君)との間に実子がもうけられたため疎まれ小早川隆景の養子となり秀秋と改名した。
2年後、隆景の隠居に伴い家督を相続、筑前国・肥前国のうち30万7000石を領有し、わずか13歳にして名島城主となる。
この出来事からも秀秋の優秀さと誠実性の良さは見て取れることがわかる。
この間に秀秋は幼少から呼ばれていた中納言とあわせて金吾中納言と称されるようになった。
良き当主として治世を行っていたが秀吉の第二次朝鮮出兵の際に総大将としてかり出される
彼の天才的な戦略の精錬さ、知力、そして大将としての器はこの時発揮された
初陣であるのにも関わらず自ら槍を取り敵将を生け捕りにするなどという勇猛さを見せている。
しかし彼の強大すぎるカリスマ性、武運の高さを恐れ秀吉によりあらぬ疑いをかけられ筑後の領土を召し上げられてしまう、
この時、石田三成が影で動いたと噂されこの名将自信も少なからず何かを思ったことで
その思いがこの名将の人生を一変させてしまうことになる。
<続く?>
<続き>
小早川秀秋(後編)
悲観にくれていた秀秋であったが秀吉の死、そして豊臣5大老筆頭 徳川家康の計らいにより領地没収の憂き目に会わずにすんだ。
この出来事により義を重んじる秀秋は徳川家康に深く感謝したと伝えられる。
この頃石田三成は挙兵を宣言、徳川家康との衝突は避けられない事態となった。
その時分たまたま大坂にいた為に秀秋は西軍に属している
この過去類を見ない日本全国勇猛の武将たちが集う最大の戦い のちの「関ヶ原の戦い」は始まった。
この戦いの当初、宇喜多秀家・大谷吉継の奮戦や戦略の有利さにより西軍が圧倒的に有利と見られていた
しかし東軍の総大将でもあった徳川家康の恩義を忘れることができなかった義の名将秀秋はそれを良しとせず
あえて不利な東軍へと反旗をひるがえす。
結論からいうと彼の戦略面での見事さ、勇猛さ、彼の参戦での士気の高まりにより東軍が一気に形勢逆転となり
東軍が圧勝してしまう。
戦後 彼の義の厚さに感動した徳川家康は備前と美作に計55万石の大領を与え、大国の城主となる。
岡山城主となる彼はその抜群の治世力を生かし「二十日堀」と後にいわれる外堀を掘るなどその手腕は見事といわざるを得ない。
しかし義に厚いこの名将は理由はどうであれ裏切ったという事実にはかわらず
その良心痛みに堪えられず自ら命を絶ったといわれている。
それは関ヶ原の戦いのわずか2年のことであった。
(終わり)
しまった・・・まとめサイトみたら
小早川秀秋あったorz
377 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/25(金) 00:16:36
1武将1つだけってそりゃ寂しすぎるだろw
許攸
曹操の覇権を決定付けた智謀の士、悲劇の人
曹操の幼馴染みであったが初めは袁紹を主と仰いだ
献帝擁立や曹操の兵糧切れを見抜いた進軍等を進言するも袁紹は彼の策を受け容れられなかった
そしてその後、妻子が逮捕されたと聞くや許攸は袁紹に見切りを付け武曲を引き連れ曹操軍に降伏した
この時、曹操は彼の降伏を裸足のままで迎える程喜んだと言われている
そして許攸は即座に曹操へ袁紹を打ち破る秘策を授けた
この策で袁紹軍は崩壊し曹操が冀州を手に入れられたのは許攸の功績によるところが大きかった
官渡大戦後、許攸は幼馴染みの曹操を小字で呼ぶほど親しくしていたが
曹操は許攸の功績があまりに大きかったのを嫌い些細な理由で殺してしまった
たまーに隠れた名将を紹介するスレ
になってる奴がいるよな。
381 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/25(金) 14:15:54
>379
まんまやんけ
382 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/25(金) 14:34:53
「織田信長」二
信長はその後も死を試みた。
桶狭間では自殺まがいの奇襲をした。
比叡山では神仏の怒りを買う焼き討ちをした。
長篠では騎馬で突破された場合全軍壊滅する陣を敷いた。
それでも死ねない信長は林や佐久間といった武将を追放したり
秀吉を禿げ鼠と呼んだり、光秀を罵倒したりして気持ちを落ち着けた。
>>380 そんなスレがあったら
毛利勝永を紹介してるよ・・・
流石にあの幸村並の奮闘してて無名ってのはかわいそうすぎるw
名将なのに名が隠れてるなら凡将同然かもな
色んな燃料や冷や水が投下されてるが
ネタ自体はみんな読んでるから職人は淡々と作業を続けておくれ
>>381 まんまじゃない
自分のネタを解説するのはお寒いが勘違いされたままだと面白くないので解説する
>曹操の覇権を決定付けた智謀の士、悲劇の人
悲劇の人じゃなくて自業自得の人
>献帝擁立や曹操の兵糧切れを見抜いた進軍等を進言するも袁紹は彼の策を受け容れられなかった
兵糧切れは見抜いたんじゃなくてたまたま曹操の使者を捕捉したからわかった
>そしてその後、妻子が逮捕されたと聞くや許攸は袁紹に見切りを付け武曲を引き連れ曹操軍に降伏した
妻子が逮捕される理由は親族が罪を犯したためで許攸は「違法行為を犯したにも関わらずそれが許されないから」曹操に降伏した
>この時、曹操は彼の降伏を裸足のままで迎える程喜んだと言われている
喜んだのは許攸の才能ではなくて情報であって人物を称えるエピソードではない
>この策で袁紹軍は崩壊し曹操が冀州を手に入れられたのは許攸の功績によるところが大きかった
ここは策じゃなくて情報
結局、許攸自身ではなくて持っている情報が喜ばれただけ
>官渡大戦後、許攸は幼馴染みの曹操を小字で呼ぶほど親しくしていたが
>曹操は許攸の功績があまりに大きかったのを嫌い些細な理由で殺してしまった
昔馴染みだった事と官渡の功績だけで曹操に嫌味を言ったりでかい顔してたから些細な事で殺された訳でこれは曲解
俺の方針として極力嘘は書かないようにしつつも事実とは逆の方向に書こうとしているんだが
結局、大きな嘘を書かなければ読み取れないって事かね
>>387 曲解ではなく、好意的解釈のレベルだから「ネタになってない」と、そういうことだな。
>>388 自分の意思で事実を解釈する事を曲解って言うんだぞ
好意的だろう悪意の解釈だろうと曲解は曲解
>>389 じゃあ、単純に「面白くない」って事で。
正直、厳しすぎ
結論:
ネタも論評もご自由に
>>387 言い訳がましくて見苦しいね。正直サムイ
面白くないって言われるのはいいんだが
「そのまんま」とか「隠れた名将を紹介」とか言われるのがむかつく
そりゃおめーの知識がないだけじゃねーのかと
397 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 14:28:36
>>396 剥げ同
面白くない→ 負けてたまるかって気になる 次作もっとがんばろう
まんまじゃん→ はい? こちとら時間かけて書いとんじゃい!
このスレも終わりだな
>397
自演乙
ちげーっての
まんまだとか書く暇あったらお題くらい出してみりゃいいんだよ
家康を凡将に、とかな
ちなみに俺は戦国武将は知らん
自演乙。自分の無能さを棚に上げて言い訳とはキモイな
【馬謖】
字は幼常。「白眉」馬良の弟だが、兄に似ず、口先だけの男。
相手の機先を制して物事を語って「頭良いね」と言われるのが大好きだった。
劉備が荊州に居る際に、伊籍の紹介で馬良と共に劉備に仕える事になるが、
幾多の修羅場を潜って来た劉備はこの時既に馬謖の人物を見抜いており、重く用いようとはしなかった。
これは遺言での言葉でも明らかであるし、なによりも馬良を荊州の関羽の元に付けながら、
馬謖は諸葛亮に付け、大きな仕事をさせなかった事でも明らかである。
その為か、彼が再び歴史に名を上げるのは劉備の死後、南蛮征伐からである。
常に諸葛亮の傍にいた為、その頃には諸葛亮の考えが手に取るように分かるようになっていた。
南蛮戦での方針の「心を攻めるが上策」にしても、諸葛亮が喜びそうな事を言ったまでであるし、
孟獲の弟・孟優の偽装投降にしても、わざわざ諸葛亮が意見を求めてきたら怪しんでそう答えた、
ただそれだけでの発言であった。
もし、諸葛亮ほどの、いや、兄程度の知能があったなら、司馬懿の官職を剥ぐ事も出来たかもしれないし、
孟達の寝返りの際、司馬懿に殺されると言った諸葛亮の言葉もすぐ理解できたではずである。
しかし、諸葛亮の期待は薄れることなく、遂に街亭での戦いで馬謖を大将に起用する。
この頃の馬謖は、もう諸葛亮のご機嫌取りだけに終始していた。
実戦熟れしている副将の王平に山に陣取るなと言われ、その理由も説明されたにも拘らず、
独力で勝利して諸葛亮に誉めて貰いたかった為に全て無視して山に陣取る。
そして魏軍に山を囲まれ水を絶たれ、兵士がどれだけ弱ってるかもサッパリ分からず、
続々と自軍兵士が投降した後にようやく囲みを突破するといった有様。
この敗北を発端に王平・高翔・魏延も勢いに押されて破れ、魏軍に諸葛亮いる陽平関の本陣まで押されるが、
諸葛亮の空城の計でどうにか退却した。
大敗の原因は全て馬謖にあった。馬謖は責任を取らされて死罪となる。
軍法会議の最中、「尭が、殺した鯀の子を用いた様に、私の子を用いて頂けたら幸いです」等と
こんな時でも博学っぽい所を見せて諸葛亮のご機嫌を取る事を忘れなかった。
これに対し諸葛亮は「あれこれ言わなくても分かっている」と突き放して刑を執行する。
諸葛亮が泣いたのは、このような小人を見抜けなかった己を恥じての事だったという。
馬謖最大の功績は、この罰を受ける事で蜀軍の軍紀を引き締める事に貢献し、
魏延に対して、諸葛亮が死ぬまで逆らう事が出来ないくらいの脅しをかけられた事であろう。
そして、もし、馬謖が運良く死罪にならなかったら、
宦官・黄皓の名が歴史に残る事など無かったであろう。
「あれこれ言わなくても分かっている」がうまい
>>402 >面白くないっていわれるのはいいんだが
とかって、己に器量がある様に見せかけようとしてるのがセコイよな。
実際言われたら、文句ばっかり、とか
まともが批判が出来ないくせにとかってキレるくせによ。
まんまというのがとさかに来たなら素直にそれだけを怒ればいいのに。
407 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/27(日) 09:31:59
>>396 屁理屈厨ウザイ。来んなよおめーはよ。ママのおっぱいしゃぶってろ!
>>403 メル欄見てなかった。ごめん。馬謖の人、面白かった。
従来のイメージと表裏比較しやすくて分かりやすい。
おちつけヲタども。ヲタ同士仲良くしろや
そこで照れてないでお前もこっちに来いよ
不毛なスレにROM専の漏れが来ましたよ。ではさようなら
おまえは二度と来るな
【ファビョヲタ】
住所・氏名・年齢不詳。日々スレッドを監視する。
一と書いて十と理解させようとするも、衆愚には一としか理解されず。
十が理解されない事に腹を立て、スレッドごと衆愚を亡き者にしようと目論む。
アク禁の常連でもある。
こわいわあ〜
【説明長文ヲタ】
住所・氏名・年齢不詳。
「凡将を名将のように説明するスレ」に書き込む事に生きがいを見出す。
学問系とは志向の違いから肌が合わず、趣味系に流れ着く。
その書き込みは出版物からの引用が多い。が、否定されると罵詈雑言を書き散らす。
ファビョヲタの変化形。
>>407などが好例。
本人は面白いと思ってニヤニヤ書いているんだろーなw
416 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2005/11/27(日) 14:54:18
本人は面白いと思ってニヤニヤ書いているんだろーなw
朝からご苦労
ちょっと遅くなったけど
まとめサイト管理人殿、更新乙。
【卞喜】
升州の人で流星槌の使い手。元は黄巾党で活躍していたが、後に曹操に仕える。
黄巾の乱の戦場で生き残っただけでも大した物であるが、人材登用に厳しい曹操に命じられて
沂水関を任せられるという事跡から見ても、相当の豪傑だったと考えられる。
いざ戦ともなれば関は重要な要衝となるのに、そこに一人で任せられるという程の信頼を得ていた。
関羽が劉備の元へ帰る際にこれを引き止めるが、関羽の武名は既に伝説にもなりかねない程であり、
直接戦って勝てる見込みが薄いと考えた卞喜は策によって捕らえる事を考える。
こういった状況判断の的確さも、彼の強さの一因であっただろう。
また、作戦実行の場に静かな寺を選び、相手の緊張感をほぐして油断させるといった手配りなど、
心理戦にも長けている証拠であり、曹操が卞喜を用いた理由もはなはだ納得のいくものである。
しかしここで誤算が生じる。寺の主である普浄和尚が熱烈な関羽贔屓だった事である。
この普浄が関羽に策略を明かすまで、関羽はこの事に気づいていなかった。
もし普浄が策略を明かさなければ、この策は成功していたであろうが、
策を逆手に取って突然現れた関羽に一騎打ちに持ち込まれて討たれてしまうという結果になった。
歴史上、彼の活躍はここで終わってしまうが、何故か1800年後の倭国では
彼の名を呼んでは頬を綻ばせる人が多数いた。
いかに卞喜と言えども、この理由は分からないであろう。
張遼
魏の武将。後漢末の動乱期であっても珍しい、四つの陣営に属した武将で、
道義心のない無定見な人物である。
初め、丁原に見出されて従事として仕えるが、丁原が殺されると臆面もなく
仇の董卓に仕える。さらに董卓が王允によって呂布の手に掛かると、
再び仇である呂布に主君を変える。その呂布の元で曹操と戦うが、
呂布が敗れると投降して三度仇を主君とあおぐ。
このような裏切りが許されたのは、董卓や呂布は元々道義心がなく、
曹操は袁紹という大敵を抱えているという事情があったためであり、
相手の足元を見る張遼の行いに心ある人はみな眉をひそめた。
特に関羽は戦場や捕虜引見の場で、また曹操に降る際には自分の行いをもって、
人間として義の大切さを訴えて、張遼に過去を悔悟するよう促したが、
道義心の無さでは董卓や呂布を凌ぐ張遼は何ら反省することはなかった。
主君たる曹操も、成り行きで張遼を配下にしたものの、その忠誠は全く信じて
いなかった。これは、張遼に袁尚・袁譚を追わせた時は腹心の参謀郭嘉をつけて監督させ、
合肥を守らせた際は曹操旗揚げ以来の古参である楽進・李典の二将を副将に
配して監視させたことからも明らかである。
このような曹操の厳しい監視もあり、得意の寝返りも影を潜めるが、魏の中央では
張遼に対する警戒を決して解かず、張遼が病気になると劉曄と典医を派遣して
仮病でないことを確認させたほどである。
また張遼の道義心のなさは敵国たる呉でも有名で、聞き分けのない子供に対し
「そんなにわがままを言うと道義心がなくなって張遼みたくなるぞ」という意味で
「遼来来」と言っておとなしくさせた、という逸話が残っている。
チョウリョウワロタ
【劉備】
字を玄徳。サッカーボーイの血が流れているという。
〜片山まさゆき「SWEET三国史」〜より
>>419 最後のとこワロタけど実際本人にとっちゃ悲しい現実だよなぁ〜
424 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/30(水) 19:27:17
>>419,420
ひさびさの良作乙
しばらくあれてたから書く気なかったけど
俺もなんか書くようにするよ
>>420 事実と逆のこと書かれてもな、やれやれまた沸いてきたかこういうヤシ
チラシの裏にでも書いてろ
426 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/30(水) 19:33:14
427 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/30(水) 19:45:23
>>425 お前みたいな馬鹿が来るから荒れるんだよ。来んなや
文句言うからには、さぞ面白い書き込みできるんだろうな。荒らす前に書いてみろや!
>>427 事実と違うことを書き散らされてもなぁ。
事実に基づきつつ面白く書くってルールじゃないのか?
頭大丈夫?字読める?
>>428 「凡将を名将のように説明するスレ」。字は読めるよ。
そもそも張遼なんて凡将でも何でもないしな。
スレルール
・事実に基づき
・解釈の相違を駆使して
・世間一般で凡将と思われている人間を名将の様に説明する
あるいは
・世間一般で名将と思われている人間を凡将の様に説明する
#########################################
凡将→名将
名将としての側面もあったのではないかという既成概念を打ち破る楽しみを味わえる
名将→凡将
名称と呼ばれた人物の悪い点を認識しつつやっぱり名将だよなと確認する楽しみを(ry
必ずしも罵倒したり不当に蔑むことがスレの本意ではない。
#########################################
国家安康
方広寺の鐘に刻まれていた文言。
特に深い意味はない。
433
織田有楽斎 織田信長十一番目の弟
茶人として著名な他、機を見るに敏であり、その先見性は三国志の知将、郭嘉にも匹敵する。
その才は本能寺の変で発揮された。織田信長・信忠が相次ぎ戦士する中、狂騒の京からいち早く離脱に成功する。このこと、機を見るに敏、と言わずしてなんであろうか
反撃を狙うも畿内の戦力は寡少であり、光秀に当るのは難しかった。有楽斎は反撃を見送り、世の謗りを受けるが兵法の常道に則った正しい判断である。
この期の後継者争いも有楽斎は最も有利な立場に居乍ら見送る。その無欲な清廉さは骨肉の争いを広げた武将達と対比するとより際立つ。
大阪冬の陣では総大将となり奮戦。将としての器を示した。戦後は戦をいとい、文化に生きる。彼の名は今も地名として残っている、有楽町がそれである。
【雷銅】
呉懿の推挙により、はじめは劉璋に仕え、後に劉備に仕えた。
推挙された当時は平和だった益州だからこそ、将軍になれたとしか言い様がない。
劉備の蜀侵攻の際には、劉備軍を食い止める為にフ水に陣を敷くが、
夜襲をかけられてアッサリと敗れる。
一度成都へ戻るが、ラク城で守る張任の援軍として派遣される。
張任のおかげで、劉備軍の疲労が溜まり弱ってきていた為、張任は雷銅に出陣を依頼。
しかし、用兵のなんたるかを知らない雷同は一瞬にして劉備軍に囲まれ、
多くの兵を失った為戦局は一転、再び劉備軍に敗れる。
この敗戦で張任は劉備に降る事を良しとせず、潔く斬られるが、
雷銅は生かして貰う為に劉備に降る。
劉備に仕えてからは張飛と共に漢中の守りにつく。
巴西に於ける魏軍との戦いでは張飛の一人舞台であり、
雷銅はといえば、出陣すればするほど無駄に兵を損なうばかりであった。
張飛の活躍で張[合β]の軍三万を壊滅状態にまで追い込むが、
無勢になった張[合β]は形勢逆転を狙って伏兵を用意、
勝ち戦のつもりでその中に突撃していった雷銅はアッサリ討ち取られてしまう。
呉懿は何故このような人物を推挙したのか。
事跡から推察するに、己の評価を高める為に無能な人物を推挙したとしか考えられない。
劉璋は、自分の兄嫁の兄である呉懿の推挙を無下に断る事が出来なかったのであろう。
>>434 きっと
>>379なんだよ。
あまりにも自分に対する反応と違いすぎるから文句言ってるんだろ。
いや
>>434と俺は別人
他人の作品がどう受けようと俺は文句言わないよ
場末のような2chで名誉もなんもないかも知れないが
それでも俺の名誉のために抗弁はするぞ
てめぇの名誉ってやつを汚水で洗ってるんだから世話ないね
アンカーミスってたわ
>>434じゃなくて
>>425だな
>>1も読んでない奴とは一緒にされたかないんでやめてくれ
>>420に関しては最後の段落以外上手く曲解してるし最後の段落にしても上手くまとめている
それで
>>425のような感想が出るわけもない
のわりにまとめサイトの真田幸村は凄いこと書かれてるなぁ
始皇帝・1
長い中国史で初めて皇帝を称した人物として有名。焚書坑儒や法治主義の厳しい徹底などの圧政を敷いたと
誹られることが多いが、あとに述べるようにそれらは全て儒者の創作である。
当時の中国は長い封建主義によって有象無象の貴族がそれぞれの既得権・課税権を主張し、民草は複雑かつ不分明な
権利関係にがんじがらめにされていた上、国境事に異なる法体系、貨幣体系や言語体系を強いられていたため
自由な交易を行うことも阻害され、複雑に重なり合う貴族の領地下ごとに税を取られるなど、無用の出費を強いられていたのである。
始皇帝は統一国家建設の際、これらの貴族を一掃し、全国統一の法、貨幣体系、言語体系を示すことによって
民衆の権利と義務を明確にした。
これは大いに喜ばれたが、割を食ったのが貴族たちである。没落した彼らは自らの既得権益の正当さを主張するため、
貴族社会を是とする儒者を使って、貴族社会の復活を訴えようとした。独善的な妄言を述べ立てる彼らを許しておいては、
統一の成果が失われる。始皇帝はやむなく彼らを捕縛し、牢に閉じこめ、その書は壁の中に塗り込めてこれを封じることとした。
事実、後年になって壁に塗り込められた竹簡が多く発見されており、儒教も滅びることなく現在まで続いている。
これは焚書坑儒が嘘であったことの証である。
始皇帝・2
また、各地方の王や貴族達は愛人を多く囲っており、これも没落の途をたどることになりかけたが、もともと
貴族達の愛玩用として育てられた彼女たちは他に生計のすべを持たず、むしろ哀れな被害者であることから、
彼女たちの収容施設を首都に建設し、これらの生活の面倒を見ることにした。これが阿房宮である。
さらに、匈奴などの異民族の侵略によって土地を失った民達の救恤施策として、陵墓の造営を行わせたが、
後に発見されたその規模の巨大さは、始皇帝の民草への愛情の深さを伺わせるものである。
始皇帝は跡継ぎに恵まれず、秦は滅びることになるが、跡を継いだ漢はその統治体制をほぼそのままの形で
継承している。このことからも、始皇帝の様々な施策は民衆の支持を受けていたことがわかる。
ただし漢は項羽打倒のために没落貴族の力を多く用いたために、あわせて儒者をも用いることになった。
貴族社会を理想とする儒者達は本来ならば漢の体制をも批判したかったところであるが、用いられている関係もあり、
その憤懣を全て始皇帝の所行へと向けざるを得ず、ために、様々な悪評が捏造され、中国史において
始皇帝は長らく悪人の極みとされてきたのであった。
>当時の中国は長い封建主義によって
当時、封建制度はあったけど封建主義なんてものはないぞ
>自由な交易を行うことも阻害され
そうでもない
手形が必要で完全に自由ってわけでもないが今だってそりゃ一緒だからな
>始皇帝は統一国家建設の際、これらの貴族を一掃し、全国統一の法、貨幣体系、言語体系を示すことによって
貴族は残ってるし統一したのは言語じゃなくて文字ね
言葉は今でも方言が残ってるのを見れば統一してないのはわかるっしょ
>貴族社会を是とする儒者を使って〜
中国の貴族社会は六朝時代からな
ついでに言うと儒者でも秦に仕えた者は少なくない
焚書坑儒ってのも儒者の中でも秦に否定的な者を弾圧しただけではないか?ってな説がある
>>444 おまえはこのスレからとっとと去ね。それかコテハンを名乗って、お手本をバンバン投稿してみろ。
>>442-443 乙、と言いたいところだが・・・
>ルール:凡将を名将のように紹介するスレ。その逆もあり。三国志、戦国どっちもあり。人物重複おk
って
>>1に書いてあるだろ
始皇帝はスレ違い。人によっては板違いってツッコミもいれるぞ
次は三国武将か戦国武将で頼むわ
まさか春秋「戦国」だなんて言い訳はしないよな?な?
過去に趙高の投稿例もあるぞ。
三国志を深く味わうためには、春秋戦国を知っておいて損はない。
色んなネタも転がってるし、いいんじゃないか?最近停滞気味だし。
というわけで、孫子とか韓非子とか、宋の襄公とか、項羽、劉邦なども歪曲キボン。
その人物ラインナップはちょっとな
孫子、韓非子は事跡が少な過ぎる
宋の襄公なんかは本当にどっちでも評価できちゃうからどう書いても名君、凡君と突っ込みが入りそうでやり難い事この上ない
劉邦も実像を史記から読み取ると世間一般のイメージに較べて戦争上手だったりしてネタにし難い
板違いだし自治厨の介入も怖いから避けたい所だ
>>444 はバカ大の史学科か、「歴史小説」を少しばかり読んで「歴史に詳しい」とか
思ってる勘違いさんだろうな
>>449 たとえば、劉邦をして、
項羽から常に逃げ回り、正々堂々と闘うことなく、陰険な策を弄したあげくに
和平を反古にして後ろから項羽をだまし討ちにし、王朝を打ち立てた卑劣漢。
そのあげくに功臣を軒並み粛正した。これ以降、策を弄するのは正当なことだという価値観が中国に根付き、
戦場の華たる武将の立場は不当に貶められることとなった。
みたいなことは書けそうじゃん。
孫子にしても
お遊びで始めた女官を使った戦ごっこなのに、命令違反をとがめて殺してしまうなど、常軌を逸するふるまいが見られた。
って感じで。なんか堅苦しく考えすぎなんじゃない?
まとめ:
つまらん論評よりもネタを書け
策を弄するのがデフォルトになったのは戦国時代
武の地位が文より低くなるのは周代
だから
>>451みたいなのは書けないと思ったんだよね
孫子に関しては確かにその通りだな
しかもその後呉王に「王は兵法の真似はは好きでも兵法は好きじゃないね」って痛烈な嫌味言ってるもんね
伍子ショと絡めて書いても面白そうだな
天才425大先生の書いた崇高な作品を読んでみたいな〜〜。
つーか、発表する勇気なんざないだろうな。酷評されるのは分かりきってるからな
>>454 先生!是非小生めに歴史的大作を見せてくだされ!
オマエに筆力がないのはわかりきってるから誰も期待してないしな
もういいじゃん
適当に切り上げて新しい作品に期待しましょう
【王朗】
群雄割拠時には会稽郡の太守をしていた極道。
呉郡に勢力を有していた厳白虎とは義兄弟の間柄であり、孫策が侵攻してきた際には
義によって厳白虎に組するがあえなく破れ、流れ流れて曹操組に加入する。
銅雀台落成の折には組長・曹操を称える詩を奉り、大いに気に入られたという。
曹操から曹丕の代になると、華子魚らと共に献帝の宮廷に押し入って禅譲を迫った。
しぶる献帝を恐喝し、華子魚に目で合図して玉座から引きずり下ろさせたり、
献帝の代わりに譲位希望の文をでっち上げ、それを献帝に無理に承諾させる等、
まさにヤクザな仕事っぷりである。
蜀の北伐の際には、夏侯楙が進撃をしようとした事に反対するが一蹴される。
修羅場を潜った事の無い青二才に軽くあしらわれた事に怒りを感じるも、
序列を重んじる王朗は、相手が若輩でもそれ以上は反対意見を述べなかった。
結果は夏侯楙の惨敗。次の大将として曹真を推薦する。
長い宮廷暮らしだった為に突然若い頃の血が騒いだのか、王朗は曹真の参謀として従軍を申し出る。
蜀軍と対陣した王朗は昔ながら仁義をきる。日本でいうなら「おひかえなすって」という、アレである。
だが余りにも久しぶりすぎて張り切りすぎたのか、76歳という老齢の為か、
突然胸がつまりそのまま死んでしまう。
劉備らと共に過ごした為に極道のしきたりを知っていた諸葛亮は、
この長寿の極道に敬意を表するとして、対陣中にも関わらず、
王朗の葬儀が終わるまでは攻めかからなかったという。
異色作乙!
確かにやってる事はヤクザ屋その物だな…
劉備なんかが毛嫌いしそうなタイプのヤクザだな
張達
天下に名高い剛の者、張飛をも一刀のもとに切り伏せた大豪傑。もとは張飛の部下であるが、張飛の度重なる
隊内暴力(パワーハラスメント)に怒り、夜間、一騎打ちにてこれを打ち倒した。
しかし、張飛如きを討ったからといって自慢にはならんと、その功を誇ることはなく、このような将軍を飼っている
蜀に嫌気がさして仲間の范彊とともに出奔した。夜間に一騎打ちが行われたこと、一瞬で勝負が付いたこともあっために
目撃者は少なく、張飛の死は暗殺とされた。
後に激怒した劉備が呉の差し金であると呉に侵攻の気配を見せた際、劉備をなだめるために
両人の首が送られたといわれているが、張飛をも倒す大豪傑がそう易々と討たれるはずもないから
これは替え玉であろう。その後の両名の行方は杳として知れず、倭に渡って大蛇を倒したという伝説もあるとか。
うまい!大傑作!!
463 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/02(金) 22:06:38
ヽ、.三 ミニ、_ ___ _,. ‐'´//-─=====-、ヾ /ヽ
,.‐'´ `''‐- 、._ヽ /.i ∠,. -─;==:- 、ゝ‐;----// ヾ.、
[ |、! /' ̄r'bゝ}二. {`´ '´__ (_Y_),. |.r-'‐┬‐l l⌒ | }
゙l |`} ..:ヽ--゙‐´リ ̄ヽd、 ''''  ̄ ̄ |l !ニ! !⌒ //
. i.! l .::::: ソ;;:.. ヽ、._ _,ノ' ゞ)ノ./
` ー==--‐'´(__,. ..、  ̄ ̄ ̄ i/‐'/
i .:::ト、  ̄ ´ l、_/::|
! |: |
ヽ ー‐==:ニニニ⊃ !:: ト、
ヽ 、__,,.. /:;;: .!; \
ヽ ::::::::::: /:::;;:: / l
・・・俺たちは蜀の隠蔽工作に1800年も騙されていたのかもしれない!!
張達スマソ
465 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/02(金) 23:23:46
そうか、やまたのお(r
466 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/02(金) 23:36:01
まとめスレのその他の「金銭」をみて吹いたwwwww
467
島津義久
九州・薩摩の大名。島津貴久の嫡男として生まれる。
それぞれ統率、知力、武勇に優れる弟を持ちながら自らは特に秀でた才は持っておらず、
愚兄賢弟の見本、次男義弘が当主ならば良かった、などと家中に陰口を叩かれていた。
合戦にも殆んど出陣せず、上座で踏ん反り返ってるだけだったが
3人の弟がそれを補佐する形で何とか大きな騒動も無くやってきた。
決断力の無さは有名であり、豊臣軍の侵攻時にも三男歳久が相手の出方を待ってから対処すべきだと
主張したにも関わらず無謀にも開戦、四男家久の奮戦で初戦こそ勝利するものの
義久の頭で敵の圧倒的な物量まで計算できるはずも無くその後は連戦連敗を重ねる。
そこでようやく無理だと気付いたのか頭を丸めて降伏と言う武士の誇りも無いような行動に出る。
この時、三弟歳久の嫡男である島津忠隣が壮絶な討死を遂げ、これが後の歳久との確執の原因となったほか
四弟家久が羽柴兄弟と懇意にしている事を妬み、あらぬ疑いをかけて詰問状を送ったりした。
この直後家久が謎の死を遂げており、病死とも羽柴秀長による毒殺とも言われているが
真相は弟が自らを出し抜く事を妬んだ義久による毒殺であろう。
その後、三弟歳久が一揆煽動の疑惑を掛けられた際も疑惑の内に躊躇無く討ち果たしている事、
表面上のみ次弟義弘に家督を譲りながら実権を握り義弘の誇りを辱めた事から
やはり優秀な弟達に負い目を持っていたのだと思われる。
また、無能さと冷酷な気性を併せ持った義久の血が後に伝わる事を恐れた
義理の息子である島津忠恒は愛妻である義久の娘・亀寿姫を泣く泣く自らと引き離したという逸話が残っている。
>>469乙
俺は戦国武将はよく知らんのだけど、
小人の手本みたいな感じになってるね
【夏侯覇】
字は仲権。夏侯淵の長子。親の七光りで司馬懿に推薦されて魏に仕官する。
その当時、魏の皇帝・曹叡は「胡に逃げて戻ってこない夏侯楙と比べてどうだ?」と心配されるほど、
夏侯一族の息子達は能力が劣っていた。
初仕事は蜀の北伐からの防戦で、弟らと共に出陣。
司馬懿から諸葛亮の将星が落ちたと言われたので、蜀陣の斥候を勤め、
陣払いされていたのを司馬懿に報告し、共に追撃に加わる。
追跡中に諸葛亮の木像を見た司馬懿は計略を警戒して軍を引き上げようとするが、
夏侯覇は司馬懿の馬の轡を掴んでまで突撃しようとするなど、
父譲りの猪武者ぶりを披露してしまう。
後に司馬懿がクーデターを起こして曹爽を殺害した際、
曹一族の親類である夏侯一族も処刑されるという噂が流れるやいなや、
弟達を見捨てて一人蜀に走るなどという薄情な一面もあった。
蜀では姜維を上手く言い包めて姜維の部将となるが、実際に姜維が欲したのは、
夏侯覇の持っている魏の情報である。作戦を立てる際、常に夏侯覇がいたのはその為である。
しかしその情報にも抜けが多く、蜀軍はその度に数々の好機を逃す事になる。
その最たるものでは、自分で「注意しろ」と言っていたケ艾の顔を知らなかった事であろう。
せっかく魏軍に勝ったと言うのに、雑兵に紛れて逃げるケ艾を見逃してしまったのである。
この好機を逃した後に夏侯覇はケ艾に破れ、司馬防の率いる軍に射殺されてしまったのである。
む・・・
473 :
115:2005/12/05(月) 00:53:02
>>466 それなら、前スレ
>>301 氏の書いた、↓を強くオススメ。
///////////////////////////////////////////////////
【方広寺梵鐘】
1614年京都生まれ。生みの父は芥田五郎右衛門充商。
秀吉没後、家康の専横に悩まされる豊臣家にあって、
豊臣方の平和への期待を一身に集めた悲運の名将。
芥田氏は播磨・芥田城主をつとめ、当代一流の棟梁としてその力量が天下に轟いていた。
すぐれた素質に加え、天下の名匠・三条釜座の名越弥右衛門尉三昌によって
徹底的に鋳込まれた彼は、まさに生まれながらの名将の器をもっていたといえよう。
容易に打ち破ることの出来ない頑強と、一見武骨な表情、堂々たる体躯を持ちながら、
一方で打てば響くような聡明さや、公家たちも聞きほれたという柔らかな声を持ち、
口さがない京雀たちの評判が高かった。そのことは、
彼の素晴らしさが多くの書物にも記され、姿が絵に描かれていることでわかる。
まさに豊臣の天下を守護する重鎮であった。
しかし「国家安泰・君臣豊楽」という、天下泰平を願った彼の言葉に
腹黒い徳川家康に難癖をつけ、結局天下の命運を望まぬまま変えてしまった。
彼は、豊臣家の滅亡をただじっと見つめるよりほかなかった。
大阪の陣後も生き長らえた彼は、静かに豊臣家の人々の菩提を弔ったという。
梵鐘を名将のように説(ry
///////////////////////////////////////////////////
探してみたがまとめサイトになぜか載っていなかったので仕方なく無断コピペ。
自分の「金銭」は↑を心の師匠として書いてみた(が、敵わなかった)。
あと、sage進行で頼んます。
士仁
劉備配下の将軍として、蜀の重要拠点、荊州の公安城を守備していた。諸葛亮の示した「呉と和し、魏に対すべし」という
蜀の基本戦略をもっともなことだと考えていただけに、関羽の呉軽視を苦々しく思っていた。
関羽が魏に対し戦端を開いた時、私情はさておき、呉に備えつつも補給任務を全うしたが、関羽自らが
呉への備えとして士仁らの兵力を割かなかったにもかかわらず、「麋芳共々、手勢を差し向けて援助しないとは何事か。
彼奴らのようなハラワタの腐ったような奴は処刑してくれる」と口汚く罵ったのを聞き、士仁はあまりな関羽の言動に
深く憤った。
その折りも折り、ひそかに荊州深く侵入していた呂蒙勢が士仁に対して、虞翻を使者として情宜を尽くして降伏を勧告してきた。
士仁は劉備へ尽くすべき忠と己を軽んずる関羽への怒りの板挟みとなったが、士は己を知るもののために死す、の言葉通り、
呉へ降る決断をした。果たせなかった忠義を思いつつの涙ながらの決断であった。
後世、三国志演義が蜀中心の視点で描かれた際、士仁は善玉とされた関羽を裏切った卑劣漢として描かれることになったが、
関羽の傲慢さが士仁の離反を招いたのであり、離反して当然の立場にもかかわらず、涙ながらに降伏をした士仁こそ、
その名にふさわしい士であり、仁者であったといえよう。
>>475 GJ!この人も演義の影響でほとんど捏造されてるからなぁ。気の毒な人だよ。
477 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/05(月) 21:34:20
478 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/07(水) 02:14:20
>>475 素晴らしい解説!
まさに演義の被害者だよね
479 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/07(水) 22:08:21
すーばらしーよねー
>>450が痛すぎる
小説や講談で得た知識を史実と勘違いして語ってるタイプだ
>>481 演義厨のことかーーーーーwww
それとも夢想厨かーーーーーーーーーーーーーwwwうぇ
もちつこう
>>480 まぁ、演義基準で書いてるからね。
演義では長子。正史では次子で、長子は夏侯衡(演義未登場)。
夏侯衡は曹操の姪を娶った為に恩寵厚く、
夏侯淵が死亡すると後を継ぎ、後に安寧亭侯に封ぜられる。
と、この辺りまでは知ってるよ。
ただ、字だけじゃ次子かどうか、俺には分からん。
長男は字の一文字目が伯または孟な事が多い
次男は仲 〃
三男は叔 〃
四男は季 〃
末っ子は幼 〃
って事だけ覚えとくと結構人物が長子なのか次子なのかがわかる
>>485 即レス説明乙
ただ、我々のレスは空気が違いすぎる
この辺で止めとこう
以後、何事も無かったかのように投稿ヨロ
>>485 叔は三男以降が複数人いる場合は全員を指す。
季は「すえ」を意味する様に、本来は幼ではなく季が末子を意味してる。
はいはい、歴史に詳しい人は解説も良いけどネタ書いてね(はぁと
490 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/08(木) 12:49:17
「や…やめてください…」
「へへへ……ラップはもうビリビリだぜ、あとはフタだけだ」
「いやぁ! だめ、フタを開けないで…!」
「ひゃっはあ! なんて嫌らしいノンフライ面だ!」
「おいおい、スープの素が2袋もあるぜぇ、こいつ誘ってんじゃねえのか?」
「そ、そんなんじゃありません…!」
「『食べる直前に入れてください』だぁ? 待ちきれねえ、今すぐ入れてやるぜ!」
「や、やめてー! ま、まだお湯も沸ききってないのに…!」
「うはぁ、すっげえ、冷えてる油とかやくでグチャグチャだぜ…たまんねえ!」
「そーれ、お次はお湯だ! 中にたっぷり入れてやる!」
「あああ! ぬ、ぬるい…! ……て、れてえ!」
「聞こえねえなあ、はっきりいえよオラッ!」
「せ、線まで! きちんと線まで入れてくださいぃいぃ!!」
「残念だったなあ、俺は1センチ残す派なんだよぉ! ははは!」
そんなカンジの武将ネタもきぼん
ほしゅ〜
493 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/17(土) 22:32:42
ほぼ2週間新作出ず
ああ、もうそんなに経つかぁ
じゃあ、中国の方でリクエストでもあれば
じゃあ、張魯で。
提案
語ると騙るでスレ分けするか(マジかネタかということね)、
凡将ageと名将sageでスレ分けしたほうが良くない?
語ると騙るは境界が曖昧なものもあるだろうから
個人的には凡将age〜の分け方の方がいいかと思うが・・・。
このままだと荒れる一方になるんじゃないかと危惧する。
>>497 これだけ、過疎してるのに分割は自殺行為
このままで
それに、空気読めてないorルール分かってないレスする奴が出てくるのは
スレ分割したって変わらないしね
仮に分けるとしたら、戦国と三国でってくらいじゃね?
はあ・・・
スレの最初の方で評判だったんで、まとめサイトで黄蓋を見たけどハゲワラ。
これ書いた人、神ですか?
神は消えてしまったよ
503 :
俺だ:2005/12/19(月) 14:30:38
>>501 恐悦至極
>>502 最近だと、始皇帝、張達と士仁を書いた。織田秀信は良い出来じゃなかったな。
自分のでは三国異聞が一番好きだ。
スレ2で一番のヒットは于糜だと思う。
ではしばらくROMに戻る。
504 :
俺だ:2005/12/19(月) 14:32:44
舌足らずだったが、于糜は俺の作じゃない。
>>103氏にあらためてGJ!といっておこう。
>>503 張達と士仁は同じ人の作かなぁって思ってたよ。
(てきとうに下から読んでたんでその時は始皇帝は読んでなかったが)
黄蓋を書いた人だったんね。いけるよ。
506 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/19(月) 17:09:53
張達は良かったなあ
もう正直文句多すぎて嫌になったんじゃない
書いたものに責任くらい持てよ
批判如きでへこむなら最初から書くな
こんな質の悪い粘着がいるんじゃへこむのも無理ないなw
>>508のどこが粘着質なんだ?
ただの単発批判レスじゃん
ファビョってる厨房がいるな
まぁ一言いわせてくださいw
>批判如きでへこむなら最初から書くな
だから今誰も書いてないんじゃないかい?w
郭循
姜維が涼州・西平郡を攻撃した折に捕らえられ、蜀へ連行される。
男狂いの性が激しく、蜀でも目をつけた男を片っ端から襲っては恍惚に浸り、
その数は四桁に及んだ。
郭循の閨房術に身も心も虜となった男どもはからっきし政務に身がはいらず、
そのため蜀の国力は著しく衰えたといわれる。
皇帝・劉禅へ面謁する折などは、そのふくよかな肢体に舌なめずりを隠し切れず、
本能的に詰め寄ろうとする郭循の悩ましげな視線に、背筋を凍らせた劉禅の近侍
たちは押しとどめるのに必死であったと伝えられる。
時の執政者である費イとは特にねんごろな間柄であったが、ささいな情事のもつれ
から費イに捨てられ、それを怨んだ挙句に宴席で刺殺したが、処刑された。
郭循の死によって精気を失った男や発狂した男は数知れず、蜀の国内では
「男は泣いて女は笑う。嘘だというなら竿を御覧」という謡言が流行ったという。
凄いスレをみた
張飛
ジャイアン
【張魯】
五斗米道の三代目教主。極めて狭量で、野心家であったと言われる。
当時の一斗は一食の分量であったと言う事から、現代なら一合に相当するだろう。
五斗米道とは病気を治す謝礼として五斗の米を布施する事から付けられた名前である。
長男であった為に家をついで教主となるが、楊松(前スレ
>>47)をはじめとする優秀な部下や、
武闘派の弟・張衛に常に抑えられ、そのはけ口として初代教主の編み出したこのシステムを悪用し、
お布施と称して民衆から米を略奪し、教義と称して暴行を加える等の無道を繰り返す。
馬超が曹操に敗れて落ち延びてくると、家臣達に対抗する為に温かく迎え入れる。
だが馬超には脅されて、ホウ徳の看病を押し付けられ、挙句には娘まで奪われそうになってしまうが、
これは楊柏のおかげで回避される。
ならば、と、馬超を劉璋戦へ行かせるが、兵と共に劉備側に逃げられる等、全てが裏目に出る。
遂には曹操の圧力に負けて逃げ出してしまうが、家臣らに捕まえられて降伏する。
楊松ら優秀すぎた家臣は曹操に殺されるが、張魯は無能で臆病であったうえ、
教主という立場であった為に、信徒による反乱を恐れた曹操にそのまま生かされ、
張魯自身が妙な気を起こしても行動できないように実権の無い名誉職に就かされた。
このスレは天命を迎えつつある
粘着を飛ばして読むと実は面白いスレになる
519 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/11(水) 01:34:44
不定期age
ネタ切れですね
やる気があってもセンスに文句付ける奴がいるからな
楽しくなけりゃ誰も書きたくならない罠
実際につまらない書き込みもあるがな。
つまらないと思ってもさ、、書いた奴が二度と来たくなくなるような
指摘の仕方はやめてやってくれよ
それは分かるが言い訳厨はマジカンベン。来ないほうがいい。
ちょうこう【長江】
生没年、字ともに不詳。よく龍に例えられ、「中華の二龍」のうちの一方
として知名度は高い(なお、「臥龍」は諸葛亮を指す)。
彼は呉下で物流、情報通信、対魏防衛を担い、呉の存続を支えたと評価
されている。しかし、いずれの実績も、周瑜、呂蒙、陸遜らの名将が死力を
尽くした結果であり、彼自身の功績ではない。三国志中彼の最大の見せ場の
はずの赤壁戦でさえ、彼は策の立案や強襲に加わらず、専ら魏の兵卒を
殺したに過ぎない。また、晋の大軍が呉に侵攻した際も、彼は抵抗の気配
すら見せていない。
見た目の美しさには定評があるものの気性は激しやすく、雨が続いたという
理由だけで領民の畑を荒らしたり、命や財産を奪ったりしたこともある。
のみならず、史書からみる限り、彼は蜀陣営、魏陣営のいずれにも通じて
いたようである。
もっとも、これらの事情を孫権は全て知っていたふしがある。彼を責める
のではなく利用して、国を全うした孫権の度量の深さを評価するべきで
あろうか。
そう、今度こそ
>>1 の指定どおり、名勝を凡将のように説(ry
邪道でごめんよ。自分は正統派の解釈系は書けないので自重していたけど、
誰もネタを投下しないので、新年初ネタの栄誉イタダキです。
梵鐘といい、名勝といい、
妙にクオリティが高い気が・・・気が・・・乙
名スレに戻ってきましたね
楽進
魏の武将。曹操挙兵時から付き従った人物だが、人と比べて目立つのはその武将とは思え
ないほどの小柄な体格だけであったという。
曹操に仕えた当初は吏僚として使えるが、これは能力を見込まれたのではなく、やはり小
柄な曹操が自分よりもさらに小さい楽進を身近に置けば、自分の体格が目立たなくなるだ
ろう、と考えたためとされる。しかし、あまりに楽進が小柄であるため人の注意を体格に
向けさせてしまうことなり、結果として悪目立ちすることに曹操が気付いたため、曹操は
大柄な人間を代役にするとともに、楽進を最前線へ送り出して体格コンプレックスを意識
したこと自体を封印しようとした思われる。
最前線に送り込まれた楽進は特に優れた能力もないので、普通の体格であれば早晩戦死す
るところであったが、小柄すぎるため馬の影などに隠れてしまい生き延びたらしい。
特に敵将などと行き会った際も、人並みかそれ以上の体格の敵将が楽進を討ち取ろうとし
ても遠近感が狂ってしまい楽進を討ち取れなかったらしく、これを利用して本来文官の郭
図を討ち取ったりしている。
こんな理由で常に最前線にいて、また死ぬこともなく過ごした楽進だが、敵の攻撃があた
りにくい、という以外に取り立てた能力もないため、名の知れた武将を討つこともなかっ
たようで、張遼、李典とともに合肥に駐屯した際も、楽進は特に優れた才幹があったわけ
でもないため、ただ張遼と李典の意見を聞いていただけであったと伝えられる。
このような人生を送った楽進だが、最後には海賊あがりの呉の名将、甘寧によって射抜か
れたのを最後に姿を消す。甘寧は海賊家業の頃、役人から逃げ回るために小さな人影でも
見つけたらすばやく反応するという生活が長かったため、楽進の小柄な体格にも惑わされ
なかったらしい。
なお余談だが、テーブルトークRPGのD&Dで人間の半分の体格しかないハーフリングが大柄
なモンスターの攻撃を受けにくいという設定は、楽進がモデルであることはあまり知られ
ていない。
孟獲
諸葛亮率いる蜀軍と戦うたびに負け、捕獲されていたが、諸葛亮はどうしても彼を殺すことが出来なかった。
最終的に孟獲は軍事的優勢にあった蜀と和平を結ぶまでにいたり、自らの領土を保全することに成功した。
その諸葛亮が北伐戦に置いて補給難から敗退を繰り返していることを考えると、ここで思い起こされるのは
楚漢戦争である。項羽もまた劉邦を何度も殺し損ない、補給を軽視したお陰でついに敗北してしまった。
諸葛亮の虎口から何度も脱し、最終的に勝利を得た孟獲の事跡は、漢の高祖劉邦に比肩しうるものであろう。
史書には残されてはいないが、孟獲が7度生還して和平を結べたのは、彼の部下に名も無き張良や陳平、
樊カイらに相当する臣下がいたお陰かも知れない。
彼ら南方の民は中華思想による蔑視から不当に蛮族扱いされてはいるが、公平な視点から見れば、
その知略や政治力は中華の英雄・諸葛亮を撃退するほど優れていたのである。
面白いと言っておけば荒れずに済むな。
まぁネタは基本的には歓迎と言うことで
郭循ネタ書いたのに……
重複OKだ
どんどん投下してくれ〜
いや、もうあげてるんだけどスルーはちょっと寂しかったかな……って。ゴメン
そうか・・・まぁ、そういうなって
俺なんか自分で挙げたお題を自分で書いてスルーされてるんだからさ・・・
愚痴は荒れるからヤメレ
柴田勝豊
柴田勝家の甥で養子になった武将。叔父の勝家は瓶割り柴田の名で知られる猛将だが、
勝豊は知勇兼備の名将であった。
織田家の重臣中の重臣、柴田家の家督を継ぐ身であったことからもその将来に期待され
ていたことが分かる。勝家は人間的な好みでは勝家自身と同じ武勇自慢のもう一人の甥、
佐久間盛政をかわいがっていたが、勝豊を養子にしたのは、勝家個人の好みを圧するほ
どに勝豊の才幹が優れていたためである。
勝豊の業績として知られるものに丸岡城の築城があるが、これは現在に至るまで残って
おり、現存天守閣の中で最古の遺構となっている。
また、勝豊の才能を示すことに、清洲会議後に長浜城を与えられたことが挙げられる。
長浜城は勝家の潜在的な敵、羽柴秀吉の元の本拠であり、かつ、対羽柴の最前線である。
しかも冬になると越前は雪に閉ざされるので、長浜城は秀吉の勢力圏内に孤立するという
問題もある。この要衝に勝豊が配置されたのは、戦いだけでなく外交調略にも直面する難
題をこなせるのが柴田家中に勝豊以外にいなかったからに他ならない。
このように勝家と秀吉は対決姿勢を強めていたが、その前面にたった勝豊は叔父とは違う
考えを持っていた。勝家は織田家の名門であるが守旧の弊があり、秀吉は新進の意気は
あっても重みがなく、いずれか一方が勝っても結局は信長の偉業を損なうことになるので、
両者は争うべきでないということであった。
しかし、武勇を誇る勝家は視野狭窄に陥り聞く耳を持たなかったため、勝豊は秀吉方に身
を投じて両者に対しての盾となって二人の対決を阻む、という敢行に出た。
これは義父への孝よりも亡き主君への義を取った行為であり、異数の天才織田信長の偉
業の価値を知るもう一人の天才勝豊だからこそ出来たことであった。
だが、信長が本能寺で非命に斃れたように、勝豊は病魔に蝕まれ信長の偉業が損なわ
れることを案じながら他界する。勝豊死後に賎ヶ岳の合戦が起きたのは、両者を阻む盾が
なくなったからであるが、その勝者秀吉も成り上がり者ゆえに次代へつなぐ重みを持てず、
家康に取って代わられた。
慧眼の勝豊にあと少しの余命があれば、とは誰もが抱く歴史のIFである。
勝豊スゲー(゚∀゚)
541 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/30(月) 00:02:24
織田信長(1534〜1582)
戦国時代の暴君。多くの民衆を虐殺し「仏敵」「第六天魔王」と恐れられた。権力を得るにつれ増長し朝廷をないがしろにする行動が目立ちはじめたためこれ
を憂えた家臣により暗殺された。なお、信長の死に対して当時の人々がどのように受け取ったかを以下に記す。
民衆 :信長を討った明智光秀を「明智様」と敬い、江戸時代も密かに信仰。
仏教関係者 :仏罰が下ったと噂。
公家 :連日、宴を催す。
朝廷 :明智光秀を征夷大将軍に任命(山崎の合戦後、直ちに取り消す)。
室町幕府の残党 :山崎の合戦では明智方として従軍し、奮戦。
羽柴秀吉 :山崎の合戦後、届けられた光秀の首を前に「主君も主君らしからぬ人物」と信長を批判し光秀に同情を示した。また、秀吉は信長のことを
「虎狼のような人物」とも評している。
安土城留守部隊 :信長死すの情報が伝わるや蜘蛛の子を散らすように退散。明智軍の安土城占領を易々と許す。
在京の織田軍 :信長・信忠と共に戦ったのは少数。大半は逃走。信長実弟の長益(有楽斎)までもが敵前逃亡している。
徳川家康 :伊賀越えの後、織田家との同盟を破棄。織田領の信濃・甲斐に侵攻し簒奪。なお、後の徳川幕府は忠義を推奨する立場から光秀を謀反人と
として蔑視した。しかし、家康自身は光秀の重臣斉藤利光の娘福(春日局)を三代将軍家光の乳母に選んでいる。このことからも家康は光
秀に対してそれ程悪感情を抱いていなかったと思われる。
北条氏政 :本能寺の変後、織田家との同盟を破棄。滝川一益軍を攻撃し壊滅させる。
安藤守就 :信長の言いがかりで追放され浪々の身となっていたが、本能寺の変に応じ挙兵。稲葉一鉄に討たれる。
近江国人衆 :少なからぬ国人が明智方についている。明智滅亡により、明智方の国人は悲惨な末路を辿る。
その他織田家の武将:本能寺の変後、無為に時を過ごし秀吉の天下盗りを許す。
>>539 >両者に対しての盾となって
寝返っておいて中立勢力気取りかよっ。面白い!
>>541 嘘ナシ路線の新機軸乙。ノブナガに有利?な事情
(征夷大将軍取消しとか、安藤とか)はあえて残したのかな。
自分は「安藤守就、誰?」レベルなので有難いが。
>「安藤守就、誰?」
政治 68
統率 65
知謀 72
くらいの人
>>543 ちと高すぎない?
美濃三人衆の人ですぜ
スレ違いだ。失せろ
>>536 俺もスルーされた。
でもスルーってことはこのスレの昨今の雰囲気的に言えば
不可が無かったってことがほぼ確実なわけでw俺はそれで納得したよ。
特に褒めるべき点が無いのだとしても、少なくとも文句を付けられない
レベルには達しているんだとプラスに解釈。並で充分さ。
まとめサイトにも載ってるしそれでエエジャナイカと。
つうかこんな流れの中、きっちり更新を続けてるまとめサイトの管理人はすげぇ
まぁ、過疎ってきたし、マジメ系だからこんなもんじゃね
549 :
542:2006/02/01(水) 20:56:54
>>543 &
>>543 >政治 68 (中略)くらいの人
>美濃三人衆の人
イメージつかめました&ぐぐりました。サンクス。
>>545 スマソ。でも、能力値でのレベル把握はコーエーゲー経験者には便利なのよ。
スレと離れてきたのでこのへんで失礼。
550 :
542:2006/02/01(水) 22:15:09
さてさて、新作に期待
安藤守就
美濃三人衆の一人。世に迎合せず道を貫いた至純の武将。元は斎藤家に仕えたが、主君義
竜が死去し、跡継ぎの義興があまりに暗愚なのを見て美濃の人々の将来を憂え、甥の竹中
重治(半兵衛)を使って稲葉山城を乗っ取らせ義興を諌める。これは半兵衛の智謀を示す
と思われがちだが、実際は老練な守就が義興の油断を戒めるために若年の半兵衛に実際の
乗っ取りをやらせたものである。
その後も義興の愚かな振る舞いが収まらないため、己の保身を考えて暗愚な主君を仰ぐよ
りたとえ自身は裏切りの謗りを受けても優れた頭脳を持つ主君を担いだ方が民のためにな
ると判断して稲葉一鉄、氏家卜全を語らって尾張の信長に身を投じる。美濃の聖将守就が
信長を担いだ、と知れると美濃は織田になびき、信長が本拠地とするほどに美濃支配は順
調に進んだ。
信長を担いだあとも各地を転戦するが、この間に甥の竹中半兵衛を織田家の出世頭、羽柴
秀吉に仕えさせる。これは秀吉の才能を見抜いた守就が、優れた人物が上に立つほうが国
のためになると考えて、秀吉の出世を早めるために半兵衛に補佐させたのである。
このように民のため国のためを考えた武将だったが、優れすぎた人物が目障りになった信
長によって武田内通の罪を負わされ領地も地位も奪われてしまう。この時守就は抵抗する
こともできたが、民に難儀を掛けないようにおとなしく身を引く。一つには美濃には旧知
の稲葉一鉄がいるため、彼が美濃の人を守るだろう、と考えたためでもあった。
しかし、本能寺の変によって信長が横死したことで悲劇が訪れる。といっても守就自身は
行動を起こすつもりはなく、周囲の人を守るために一鉄に保護を頼もうとしたのだが、守
就の名望に恐れをなした一鉄は守就の民を思う心を理解せず、疑心暗鬼に駆られて守就を
攻撃してその手に掛けてしまう。
安藤守就の民を思い国を思ったが故の最期に涙した武将は数知れないという。
なお、コーエーゲーの(隠し)パラメータでは以下のとおり
野望0
義理100
>>552 話題に出てきたのをタイムリーに
このレベルで書けるってのもすごいやね。
魯粛(172-217)
字は子敬。呉の将であるが、正史と演義とで評価が180度異なる。
正史では、撃剣と騎射を習っていたにも関わらず、周瑜が数百人を
引き連れ軍糧をせびるや、唯々諾々と米を蔵ごと与えてしまっている。
また、孫権に対して「帝王を称して天下を攻略せよ」と逆賊としか
思えない進言を行い、即座に「漢を補佐するべきだ」と孫権に
たしなめられている。
主君孫権に対する非礼はこれに留まらない。赤壁戦の際に「私は
降伏しても出世できるがあなたは無理だ」と述べている。赤壁戦勝利の
後も、諸将を総動員して魯粛を出迎えた孫権に対し、「そんな程度では
とても足りない」とまで言い捨て、孫権は笑うしかなかったようである。
さらに、大切な同盟相手との外交会談(単刀会)でも、相手の関羽に
怒声を浴びせており、暴言、放言の類は枚挙にいとまがない。
556 :
555:2006/02/06(月) 00:19:33
一方、演義ではこのようなそぶりは微塵も窺えない。愚鈍を装って
矢面に立つのを必死に避けつつ、巧妙に事を運んでいる。単刀会では、
戦争を招きかねない関羽暗殺計画を失敗させる一方で、本国の方針に
従わない関羽を挑発し、外交官拉致という外交交渉にあるまじき失態を
演じさせる離れ業をしてのけた。
また、演義では人間離れした能力を持つ諸葛亮でさえ、魯粛は
徹底的に利用している。赤壁戦の折には主戦論を実現しつつ自分への
反感を抑えるため、諸葛亮に説得役を押し付けている。さらに、
諸葛亮が妖術「言葉殺人」を使うことを誰よりも早く見抜き、諸葛亮を
利用して、方針の異なる危険なライバル周瑜を殺害し、後釜に納まって
いる。
注目すべきは、これらが魯粛の差し金と気付くものが一人もいない
点である。周瑜に至っては、後任に魯粛を推薦すらしている。
享年46歳。「お人よし魯粛」の擬態が通じなかったのは、ただ一人、
北斗の神だけであった。
GJ!凄く陰険な奴にしか見えんw
しかし、こういう正史と演義の両方から出す書き方も面白いなぁ
李カクと郭をキボン
馮習 字を休元 南郡の人
赤壁の戦いの後、南郡を併呑した劉備軍に追従。
この時馮習は有名では無かったが、劉備が才有りと見抜いて、魏延・黄忠らと共に入蜀軍に抜擢。
その信頼に応え方々で活躍し、中領軍を拝命。
諸軍の統括任務を与えられ、後の漢中攻略戦においては未だ不安定な蜀本拠の軍営を見事に纏めた。
荊州の関羽軍殲滅の報が届いたとき、呉軍の露骨な裏切り行為に激怒。自ら報復戦の先鋒を願い出た。
馮習によって堅く纏められた蜀漢の軍勢は巫を守備していた李異・劉阿の軍を粉砕。シ帰からは別働隊として夷陵城へ進撃。
城から出撃した孫呉屈指の俊英・孫桓の軍をも敗退させ、夷陵城を包囲した。
包囲の際、一向に激しく攻め立てようとしない馮習を同僚の張南が諌めたが、
「北には魏が居るのだ。無駄に兵を死なす訳には行かない」と言い、強攻の愚を犯さなかった。
しかし、劉備軍本隊は陸遜の夜襲によって脆くも崩れ、大潰走の憂き目に合う。
馮習は本隊の敗走をみとめるや、直ちに城の包囲を辞め、劉備を猛追する呉軍に立ちはだかった。
兵士を叱咤激励し奮戦。一時は周泰、韓当ら名だたる勇将の軍を押し留めたものの、再度出撃した孫桓に挟撃されたのを皮切りに崩れ始める。
全滅は免れないと判断した馮習は劉備の名に泥を付ける事を避ける為、「此度の敗戦の責は自分に有り」との旨を呉範に言伝を頼み、
自らは荒れ狂う炎の中、潘璋の軍に突撃。張南と共に壮絶な最期を遂げる。
この時の様子を見ていた陸遜は「彼の器は亡き大都督にも匹敵するだろう」と語り、その為か呉側の記録では「大督」と記録されている。
言伝により史書には「敵を軽んじた」と書かれるが、彼の忠義は蜀でも認められ、成都武候祠にて侍る武将の一人となっている。
で?
まぁ、ネタ投下はしたんだから乙
ちゃんと評価してやれよ。
>>563 詳しい椰子が一生懸命書いたことは伝わるが、
横光&吉川&肥ゲー程度の知識しかない俺にはネタとマジの区分が分からん
>>564 ならとりあえず褒めろ。そうすれば場が丸く収まる
>>564 >横光&吉川&肥ゲー程度の知識
これなら、多い方じゃないかや?
馮習を知らなかった……。ググったが「大督」がオチなのかどうかすら見分けがつかなかった。
(自分の知識は
>>564 よりさらに少なく、吉川&KOEI(≠光栄)程度。)
書き方から見て、分かっていればそれなりに楽しめそうなだけに無念。
許攸のときは分かってニヤニヤできたんだがなぁ。郭循も知らなかった。
ところで、職人さんたちに質問。書くときの情報はどこで調べてるの?
演義簡訳・演義全文・正史全文はネット上にあるけれど、正史訳文が見当たらなくて。
……まさか脳内にインプット済み?
李カク(イ寉)
字は稚然。北地郡の人。
漢室の改革者・董卓の部下として立身した。
董卓配下としては、反董卓連合に対する使者として遣わされ、
荊州方面から攻めてきた名将・朱儁を撃破するなどの功績をあげる。
演義では呂布ありきで董卓軍が成り立っているような描写であるが、
史実の呂布の立場は董卓勢力内ではさほど重要ではなく、
李カクこそが董卓の右腕と呼ぶに相応しい人物であった。
董卓と篤い信頼関係を築いていた李カクだったが、
192年、董卓が王允・呂布らに暗殺される。
李カクは董卓の死に怒り狂い、長安襲撃を決断。
郭、張済、樊稠、賈ク(言羽)ら董卓軍残党もこれに従った。
一方、長安の王允は徐栄・胡軫を派遣して迎撃に当たらせたが、
李カクは迎撃軍を撃破し、徐栄は戦死。胡軫は李カクに降伏した。
李カクは長安を8日で陥落させ、城内に雪崩れ込む。
後に中原を騒がせる猛将・呂布も、市街戦で李カクに打ち破られた。
李カクは王允を捕らえると、八つ裂きにし、
遺体を市街に晒され辱められた旧主・董卓の葬儀を執り行った。
また、同僚の李儒が弘農王・劉弁を殺害したことを罪に問われた時、
李カクは劉協に直訴して、李儒を助ける。
このように、李カクは主君や同僚を大切にする人物であったため、
残党軍の諸将も、李カクを新たな首領として認めたのである。
李カクが長安を支配した後、
西涼からは馬騰・韓遂・羌族の連合軍が、益州からは劉焉軍が攻め上ってきた。
李カクは見事な采配で賊軍を撃退したが、敵将韓遂を逃がした樊稠を翌年処断する。
李カクは王允、樊稠の他にも、自らの暗殺を謀ろうとした宋果も処断しており、
このあたりに彼の「裏切り」を徹底的に嫌う、義士としての性格が窺える。
しかし、樊稠を処断したことで幼馴染の同僚・郭と争うこととなってしまう。
これに対し、張済は二人を和解させ、劉協を洛陽へ帰還させようとした。
李カクはこれに同意したが、郭は途上で劉協を長安に連れ戻そうとする。
だが、董承らに抵抗されたため、郭は軍を棄てて李カクのもとへ走った。
李カクは郭・張済と共に官軍を攻め、弘農において官軍をほぼ壊滅させる。
劉協を守る兵はごく僅かとなり、李カクらに捕らえられるのも時間の問題だったが、
劉協を護衛していた楊奉が、李カクに和睦を申し入れてきた。
楊奉はかつて李カクの配下であり、李カクの暗殺を企てた者であったが、
李カクは和睦を結び、追撃を中止した。
李カクが、自らを裏切った者を許したのはこれが最初で最後である。
楊奉は後に5年以上も劉協を守り、漢室の敵・曹操に対抗し続けた忠義の士である。
李カクは、楊奉を裏切り者ではなく、理想を違える義士として見なしていたのだろう。
(楊奉については
ttp://meisyoude.gozaru.jp/sangoku01.html#youhou01)
198年。
既に郭は配下の裏切りで、張済は流れ矢に当たり、それぞれ落命していた。
楊奉もまた、中原の争いに翻弄され、劉備により殺害されてしまう。
現世に未練が無くなった李カクは官軍により討伐され、董卓の元へ赴く。
軍を率いては負け無しだった、稀代の名将の最期であった。
しかし、
197年には張繍・賈クが。
219年には鍾ヨウ(夕+缶系)の弟子・魏諷と張繍の子・張泉が。
264年には鍾ヨウの子・鍾会が。
李カク配下であった者達や、その関係者の多くが曹操および魏に背いた。
李カクがそうであったように、
彼らもまた旧主の仇を報じようとしたのかは、定かではない。
しまった…直リンしちまった…
馮習と一緒に呉軍に突撃して逝ってくるorz
>>568-569 李カクGJ!
本文の方も良いけど、最後の「李カクの系譜」みたいなのが
良い締めになってるね。
このスレって知将を武力馬鹿に書いたりするのってあり?
>>573 「捏造」じゃなければね。
史実から如何に無理のない説に持っていくかって世界だから。
567でつ。
>>568 リカク乙。書こうと思った際に調べた(オチが浮かばず断念)ので、今度はよく分かる。
>現世に未練
なるほど、戦に負けたのでなく「討たせた」ってか。平家物語みたいだ。
>>570 おお、三国志小事典だけでなく馮習解説も。多謝多謝。
お礼になるかどうかは不明だけど、演義情報はこちらに依存。(簡約、全文ともアリ)
ttp://rtk.web.infoseek.co.jp/ >>573 武官文官変換にも色々なタイプがあるので、これまでの作品が参考になるかも。
解釈モノであれば本スレの
>>24 、事実列挙モノであればまとめサイト上杉謙信(3)
が秀逸だと思う。印象に残ったのをぱっとあげただけなので、他にあればぜひ追加を。
>>567 おまえさんみたいに厳密なこと言ってたらきりがないです
まずは書きなされ
577 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/19(日) 11:19:44
揚げ
于禁
魏の武将。「麦畑に馬を乗り入れたら死罪」としたこともある曹操に仕えたとは思えない
ほどのいい加減で小心人物。
元は鮑信に仕えたが、鮑信が戦死するとさっさと曹操に乗り換えたのも鮑信の仇を討とう
などと考えない節操のなさ故である。。
張シュウ攻めから撤退する際には青州兵といさかいを起こした兵の言い分だけを聞いて青
州兵を討伐した上曹操に申し開きもしないという無軌道な行動を取っている。この時は張
シュウに敗退するなど、曹操が苦境にあったため、適当な理由により不問にされた。
また、昌キの反乱の際には、昌キが旧友の于禁を頼って降伏してきたのだが、于禁は即座
に処断した。これは軍法を遵守したのではなく、ただ昌キの旧友ということで自身が疑わ
れるのではないかと怯えたためである。もちろん旧友を助けるために一縷の望みに賭けよ
うなどの配慮は毛頭なかったことはいうまでもない。
さらに関羽討伐戦では七軍もの大軍を率いるが、あっさりと敗れると曹操に仕えた時と同
じように節操の無さを発揮して関羽に降る。このことを聞いた曹操が「于禁は長年仕えた
人物なのに…」と嘆いたのは、于禁が仕官した時のことを忘れたとしかいいようがない。
その後呉に送られ、魏に戻されるまで生きていたのは命惜しさゆえの行動である。
曹丕は于禁の内実が乏しいことを分かっていたが、他の家臣の手前上于禁を許す必要があ
ったので、荀林父・孟明視の例を引いて于禁を慰めた。しかし、これは荀林父は孫の荀堰
が主君を殺したという家系であり、孟明視は許された後も失敗した人物であり、曹丕が于
禁を彼らになぞらえたのは、于禁が今後も失敗すると思っているという意思を示したもの
である。
于禁は曹丕の言葉を碌に聞いていなかったのでその意図が分からなかったが、曹操の陵に
自分が降伏している姿を描かれてようやく曹丕の意を理解し、いつ誅殺されるかという恐
怖から病になって、誅殺されるより速く病死した。
魏書十七巻
陳寿が著した三国志の列伝の一つ。張遼(
>>420)、楽進(
>>529)、于禁(
>>578)、
張合β(前スレ
>>989、まとめサイト張合β(1))、徐晃(
>>239)の五人が合伝されている。
この五人はいずれも地位はあっても勇なく義なく功なく、とても後世の師表たる人物では
なかったが、あえて陳寿が列伝して残したのは、後世の人の上に立つ人にたいして「使っ
てはいけない武将」を見抜くために例を残したかったからだといわれている。
これは一面の真実であるが裏には「このような愚劣な武将に高い地位を与えるという誤っ
た人材登用をした魏はそもそも徳が薄く、晋に禅譲するのは当然」という晋の簒奪を正当
化する意図があったという解釈もある。
このように当時から五人の愚将は知られており、五人のことをさして「魏の誤将」と呼ん
だという。
誤将ワロスw
>>578 >>579 乙。青州兵と曹丕の使い方、五(誤)将軍へのつなげ方がうまい。
&祝、五将軍コンプリート。
それにしても、キャッシュでなくリロードして良かった……。
あやうく于禁(正史凡将演義名将)を投稿してしまうところだった。
心底びっくり。
582 :
578:2006/02/19(日) 20:03:01
dクス
そして>581殿、于禁が五将軍の中で一番いじりにくかったので、
ぜひ正史凡将演義名将の于禁を投稿してくだされ〜
>>582 厚かましくもお言葉に甘えました。平にご容赦を。
于禁
字は文則。魏の五将軍であるが、やはり正史と演義とで評価が大きく異なる。
正史でも、魏の五将軍であり関羽に降伏した後に生還するという点は変わらない。
しかし、兵士や民衆からの人気がなかっただけでなく、曹操が以前下した
軍令を口実にして、投降してきた旧友を処刑しており、人柄が知れよう。
わずか二年の捕虜暮らしを終えて帰還した際は、痩せさらばえて鬚も髪も
真っ白になっており、ストレス耐性についても疑問符がつく。
584 :
583:2006/02/19(日) 21:36:25
一方演義では、飛将呂布に立ちはだかり、錦馬超と一騎打ちをし、魏水軍の
大都督に就任するなどの実績があり、軍事面での才能は多岐にわたる。
計略にも長けており、諸葛亮が夏侯惇に仕掛けた計を見破るなどしている。
主君に対する忠誠心も折り紙付きで、君命とあらば劉j一行を女子も含めて
ことごとく討ち、汚名も恐れずに後顧の憂いを絶っている。
人物評の達人、禰衡からは建築分野に推薦されており、この点の才能も窺えよう。
汚名を厭わず魏へ的確に貢献するという人となりの真骨頂は対関羽戦である。
功にはやって棺を担ぐなどのスタンドプレーに走る降将ホウ徳に対しては
上官として強権を発動し、暴走を防いでいる。
また、窮地に陥っても、ほどなく救出されることを見透かして降伏を選んだ
だけでなく、小人のふりを関羽に見せつけ、自身の処刑を防ぐと同時に関羽を
慢心させてもいる。降伏の次の回で早くも救出されて魏に帰還していることを
考えれば、投降時に死に急いだホウ徳に比べて、慧眼ぶりは際立っている。
しかし、曹操の後を継いだ曹丕は深謀遠慮を理解する能力がなかった。曹丕の
無能さ、酷薄さに衝撃を受け病に倒れた于禁は、一切弁明をせず、悪役のままの
死を選んだ。愚直な忠義のほうが暗君を支えるにはふさわしいと判断した上で、
自身を貶めホウ徳を美化する最期の奉公であったことは、言うまでもない。
>>576 遅くなりましたが宿題でつ。くだくだと文字レスが続いて申し訳ない。
各エピソードは、以下にまとまってます。
ttp://kumamoto.cool.ne.jp/setuyou/gosyougun/katari/ukin1.html ttp://mujin.parfait.ne.jp/mujins/sanguo/wei17.html#U-Kin
585 :
578:2006/02/20(月) 01:55:17
>>583 >>584 演義の于禁スゲー
それなら五将も納得。
文字レススマソ、以降名無しに戻りまつ
魏将が続いたのでここらで李典ネタが見たい
李典は元々名将だから難しいんじゃない?
関羽
字は雲長。魏の将。
官渡においては顔良・文醜を斬り、
赤壁から敗走する曹操の命を救うなどの活躍を見せる。
張遼・徐晃ら魏将たちとの友誼は有名であるが、
蜀や呉の人物に対しては傲慢に振舞った。
また、蜀に対しては宿将の麋芳を寝返らせ、
荊州を失陥させるなどの多大な影響を与える。
関羽は呉との戦に破れて処断されるが、
その首は曹操の元に届けられた。
曹操はその死をひどく悼んだという。
こーゆーのはダメかな…。
>こーゆーのはダメかな…。
ここまでまとめサイトに載っちまうんだろーか
>>588 中途半端で凡将でも名将でもなくなってるじゃん。
スレの趣旨と完全にあわない
591 :
588:2006/02/20(月) 22:50:49
猛将→智将 みたいに
蜀将→魏将 としてみたんだが……
このスレのキモは
一般認識されている武将の像を全く別視点から書いて像を作るトコにある……と思うが
蜀将→魏将は関羽だけに許容しやすいが
遠慮があるせいかちょっと物足りない希ガス
文武変換がアリなら、帰属変換もバリエーションだと思う。
この道も開拓しがいがあると思うよ。
。。。と
>>588のおかげでまとめサイト劉備(5)をようやく
理解できた自分がエラそーに言ってみる。
テクニシャン、
>>588GJ!
てか、全く嘘ナシだと大変だったでしょ。
596 :
588:2006/02/21(火) 00:33:11
皆ありが惇
>>594 っていうかこれが限界だった……orz
やはりメジャーな人物は情報量多くて難しい。
冷苞や李カクはその点楽だった。
……と、
>>595のおかげで、
劉備と姜維がもう帰属変換されてたことに
気づいた自分がエラソーに言ってみる。
びみょー
平知盛 1152〜1185
平清盛の四男にして平安末期における最大の野心家である
子供の頃から、宮廷一の権勢家でもある父・清盛におもねること甚だしく、それ故か僅か8歳にして従五位下に任官をされる
さらに知盛は兄弟の序列を越えて清盛の寵愛を得ようとするが、長兄にあたり、清盛の信頼が厚い重盛がそれを阻んでいた
この出来の良い兄を何とか越え、蹴落とそうと画策してる内に、天が味方したか重盛は病死する
しかし、後継者に指名されたのは次兄の暗愚と名高い宗盛であった
これは知盛が和歌などの宮廷人としての素養に優れなかった為と言われているが、重盛失脚を画策する知盛は修学に勤勉ではなかったのではあるまいか?
兎に角、平家の後継者に選ばれないのであれば自分が平家内に於いて第一の権勢を握り裏から操るべしとの結論に知盛は至る
凡庸な兄・宗盛は源仲綱を侮辱し、その父である頼政と以仁王を結託させ後に言われる「以仁王の乱」を起こすが
凡庸ながらも善人と呼ばれていた宗盛がこのような愚挙に出たのは、何かと自分を圧迫する知盛に対抗しようと自己の権威を見せつけようとしたのではないか?と言われている
しかし、この乱の討伐を清盛から任命されたのは知盛であった。知盛は天凜の才を持って宇治川でこれを破る
また美濃黒俣に於いて挙兵した源行家の反乱も鎮圧。東国追討も命じられるが、源氏に余力を残すことで自分の価値を高めるという高度な判断を知盛はくだし
病気を偽り都に帰還する。ともすれば、この一連の乱は全て知盛の掌で踊らされたものとも言え、かつ同時代の人間はそれに全く気づかなかったのだから大した権謀家と言えよう
1181年、清盛が死去すると、平家一門の棟梁は宗盛が継いだ。しかし真の平家の棟梁は知盛であることは衆目が認めるものであった
これに対し、重盛の嫡子であり、その秀麗を謳われた維盛を宗盛(ひいては知盛)の代わりに平家の棟梁に添えようという動きを知盛は察知
先んじて、昨年挙兵した源義仲討伐に維盛を向かわせる。誰もが平家の勝利を確信し、特に維盛の取り巻きは棟梁奪回の為に功績を挙げるよい機会と猛っていたが
唯一、知盛だけは義仲の非凡なる軍才、地形、軍の強弱を見抜き、義仲が勝つと見た上で維盛を向かわせたのである
知盛のもくろみ通り、維盛は惨敗。平家内に於いて「やはり知盛でなくては」との声を高めることに成功
その声望をもって知盛は京都を放棄、西国に一旦落ちるという策を押し通させる
これは平家の窮地を一層演出し、それを自らの手によって救うことで、戦後平家の棟梁の座を奪う事まで考えた遠大な策謀であった
1183年、知盛の策謀に利用されてるとは思いもしない源義仲は京制圧の勢いをかって平家追討を行う
後年、水島の戦いと呼ばれるようになったこの戦いは、平家必勝の戦いであったが、それを予期確信してたのはこの画を描いた知盛だけであった
しかし、ここにきて知盛の悪辣に天も愛想を尽かしたか、知盛の予想外の出来事が起こる
後の世に名高い源義経の登場である
敗戦した義仲を平家に先んじて討伐した義経は、義仲に代わり一ノ谷に陣する平家の前に立ちはだかる
義経の逆落としによって平家軍は瓦解、混乱を極める軍中において知盛は初めて、世に自分の思い通りにならぬ事があることを知る
が、すぐに平静を取り戻した知盛は軍においては弟の重衡を、個人の敗走においては息子の知章を捨て駒にすることで難を逃れる
長門国に入った知盛は九州の源範頼を威圧、東征を画策してた所に屋島の敗報が届く
知盛が数々の人材を踏み台にしてきた平家にはもはや俊英が居なかったのだ
しかし己一人が平家の智嚢として疑わない知盛は、その自信に違わず壇ノ浦において完璧な陣を敷く
さらに天子のいる船を偽装し囮にし、天子自身は劣悪な凡百の船に載せるという非道の策を展開する
だが、やはり天は彼に味方せず、潮の流れが源氏に有利に動いた上、義経による漕ぎ手を射るという己以上の下劣な策を見るにつけ、敗北を悟る
知盛が鎧を二枚重ねにしてた事から、最後の最後まで生にしがみつきながら、水死という自害によって自分の矜持を保った知盛の美学が窺われる
「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」と言い残した知盛であったが、それを聞いた義経は、その真の意味を理解することは出来なかった
知盛は自らを義経に討たせることにより、彼に格段の武功を立たせ、源頼朝を中心とした鎌倉政権から危険視させたのである
存命中には適わなかった義経と頼朝の離間策であったが、死に際において確信した。今はただ死のう。だが我を殺した義経よ、そなたも非業の死を遂げるであろう
この後、義経は頼朝によって鎌倉政権から追討を受ける
鎌倉政権の混乱を見計らったかのように反乱を起こしたのは知盛の息子の平知忠であった
もう黄蓋を超える大作はないかもね
>>598 ごめん、三国志があまりわからないから日本ネタは歓迎なのだが、
その人物はよくわからん・・・
えと、文章的には好きだ!
>>602 義経英雄伝修羅をやることをオススメする
ここにネタ書くのと同じでさ、知らない人物なんかは俺、
自分で調べて楽しんでるけど
駒井昌直 ?〜1595
武田信玄・勝頼・更には天下人の徳川家康に仕えて活躍した知勇兼備の名将であり、
決して表舞台に出る事の無い異色の名軍師でもある。
武田騎馬軍団全盛期に侍大将となり今川攻めの際に攻め取った駿河と相模の要所で
ある深沢城の城主に任命された。
すでに三国同盟は崩壊し、旧今川領の奪還を名目に駿河に侵攻しようとする北条氏康の
軍勢を抑えるための重要拠点を任されたことが昌直の武勇、更には信玄の信頼度の程が伺よう。
また、この時期から彼の表に出ない「縁の下の力持ち」的な名軍師としての智謀が冴え渡ることとなる。
1570年、北条氏康・氏政親子は大軍を動員し昌直が守る深沢城に侵攻した。
その軍勢なんと3万8千!!名将氏康の昌直に対する警戒・評価が読み取れる。
これに対し昌直は強行に抵抗する事無く撤退する。
恐らく抵抗すれば後の真田昌幸のようにその智謀で北条勢を撃退・天下に名を知らしめたであろうが
彼はそのような局地的勝利よりも大局を選んだ。
その大局とは「上洛」である。
信玄最大の宿敵である上杉謙信との死闘の隙を突いて上洛し強大な勢力になっていく覇王織田信長。
その信長に対処したくとも相越同盟の為に進軍もままならない主君信玄に天下人への道を作る為には
北条との甲相再同盟が一番と昌直は思っていた。当時氏康は病床であり相越同盟を結んではいたが頼りに
ならない上杉に対し不信感が高まっていたのを見逃さなかった昌直は自分が戦う事での両国の関係悪化を
避けることが肝要と考えた。
おそらく、駿東郡の交通の要所でも有る深沢城には北条一族の勇将が城主になるはずである。
そこで主君信玄の出兵を仰ぐ事で氏康の意識も高まり両国が交渉の席に着くのでは、と思案しての撤退だったのだ。
昌直の知略を読み取った信玄は深沢城に侵攻、城を守る北条髄一の猛将北条綱成に対し有名な「深沢矢文」によって
甲相同盟を締結・待望の上洛へと進んでいくのである。
この策を記した史書は無いが昌直が再び深沢城主に戻った事からも信玄が昌直の策を用いた事が伺える。
1582年、主君武田家が長篠の戦を契機に衰退していく中も城を死守していた昌直ですが、
信長・家康の甲斐侵攻によって家康が深沢城に侵攻してきた時にはすぐに撤退しています。
このときにも昌直の恐るべき大局を見る智謀が発揮されました。
昌直は深沢城を自焼して撤退していますが、これは自軍を安全に逃がす事・敵に城郭を使用
できなくさせる事だけでなく主君勝頼に対応の時間を与え尚且つ家康に恩を売る為と考えての
行動でした。
所詮駿河までしか領国としてもらえないであろう家康の侵攻を遅らせる事で三河軍の人的・物的
消耗を抑えれば、最悪当家滅亡になったとしても三方ヶ原の戦いで武田軍団に対し畏敬の念を
もっていた家康なら信長から助けてくれるのでは?と先を読みきっての深慮遠謀でした。
昌直の知略を感じ取った家康はあえて追撃をせず甲斐国侵入後も無駄に戦いをしませんでした。
信長の武田家臣団壊滅の命を守らず武田遺臣団を招き入れたのは有名な話ですが、この時の武田
遺臣団をまとめていたのが駒井昌直です。
彼は恩を忘れなかった家康に報いるように戦国最強軍団といわれた武田遺臣団を家康に招き入れ
させたのです。
この後、家康は天下人へと突き進んでいくことになるのです。
最後は家康配下の榊原康政隊の一部将として他界しますが、時代の表舞台に立つことの無かった
異色の軍師らしい最後でした。
武から文へだね。乙。
侍大将を軍師にか。
>607
おっと
志村、敬体、敬体!
槍 (??〜現在)
その生まれは古く、正確な年を数えることができないほどの老将。
非常に背丈が高く、戦闘では突きさして攻撃することを得意とする。
今までに討ち取った将の数が数え切れないというほどの豪傑であり、
数世紀前までは稀代の猛将と呼ぶにふさわしい働きをしている。
その健闘ぶりは凄まじく、一戦にて数万の兵を他界させるという
人間離れした能力を日常茶飯事のように発揮しているほどである。
「猛将」の域を超えている点を評価され、「武器」と言われている。
だが、毎回のように多数の将の首を持ち帰る故に、軍功を
記録することが面倒になり、しだいに槍の功を記録しないようになった。
その為、正史等の書物には槍の様々な功績はおろか「槍」という将の
存在すら記されておらず、現在では槍の存在を知っている者は皆無となった。
人をむやみやたらに殺傷したことで人々の反感をかってしまったために
記録されなかった、とも考えられる。
現在では戦闘の主流が銃や爆弾などに代わっている為、
どこかの山村に隠れ住んでいると思われる。
なお、横光三国志では趙雲と槍とのタッグで戦闘をする時はほとんどの
場合、趙雲が槍の体を持ち上げ頭上でクルクルと回転させて
槍の目を回し、槍の力が半分ほどしか出ない様に調整している。
>>605-607 乙。日本史詳しくないから評価できない・・・あとで調べてみるわ
>>609 異作GJ!w 物 → 者かな?ww
横光三国志、いつか買おうと思っていながら未だに買ってない・・・
>>609 乙
作者の説明に従えば「武器」→「猛将」でいいんじゃないw
あ、何か違うなスマソ
曹性(生没年不詳)
呂布の部将、カクボウの謀反の際その片腕を切り落とし名将夏侯惇の片目を射る等功多い豪の者
主君呂布の死を境に流浪の旅に出る
曹操に「徐州を手に入れたことより曹性を手に入れられなかった悲しみの方が大きい」と言わしめた
後談ではあるが三国時代に魏を飢饉が襲った際曹性の子を名乗る男が現れ
人の肉をこねて腸詰にし燻製にした食べ物を民に分け与え飢饉を逃れたとされ
「曹性ほどの児はやはり優秀で血は連なる」という意味から
その食べ物は「曹性児(ソーセージ」と呼ばれるようになったとされる
ん、たまにはシンプルなのも・・・
病(??〜現在)
どんな名将でもかならず暗殺する驚異の技法の持ち主。
また無数の手法をもつ為対処法は未だ明らかにされていない。
まちがえたスマソ
>605じゃなくて>615
司馬徽
諸葛亮やホウ統など、荊州の才人達によって史上初の人工無能システム。自分と対話しているような操作感覚から、
「水鏡先生」と名付けられる。
西暦200年代という古代に制作されたためか、その性能は低く、答えに窮すると「お前のいうこともよしよし」と答える
のみだった。
物珍しさから荊州で人気を博し、滞在していた劉備もこれを楽しんだが、陰で諸葛亮やホウ統が操作しており、
「臥龍・鳳雛の諸葛亮とホウ統を雇え」と言わせて、自分たちの仕官に利用した。
曹操が荊州を占領した折、これを楽しもうとしたが、操作する者がおらず、まもなく壊れてしまったという。
いいよ〜GJでした
621 :
619:2006/03/06(月) 15:11:33
ああ、文章間違えた。
司馬徽
諸葛亮やホウ統など、荊州の才人達によって構築された史上初の人工無能システム。
自分と対話しているような操作感覚から、「水鏡先生」と名付けられる。
西暦200年代という古代に制作されたためか、その性能は低く、答えに窮すると「お前のいうこともよしよし」と答える
のみだった。
物珍しさから荊州で人気を博し、滞在していた劉備もこれを楽しんだが、陰で諸葛亮やホウ統が操作しており、
「臥龍・鳳雛の諸葛亮とホウ統を雇え」と言わせて、自分たちの仕官に利用した。
曹操が荊州を占領した折、これを楽しもうとしたが、操作する者がおらず、まもなく壊れてしまったという。
当時の人間にはこれが人工無能であることがわからず、人物と誤解されて史書に記録された。
氏家卜全(?〜1571)
名は友国、直元というが一般的には出家後に名乗った卜全が有名。美濃三人衆の1人で知勇兼ね備えた名将。
初めは土岐頼重に仕えていたが先見の明のある卜全は早くから土岐頼重の家臣である斉藤道三の非凡さを見抜き
道三に仕えるようになる。道三の死後も義龍、龍興に仕える。
義龍の死後、好機と見た信長が美濃の稲葉山城へ攻めてくるが卜全は幾度となく信長の大軍を撃退し
寄せ手を多いに悩ませる。しかし同時に卜全は主君龍興が色欲に溺れ、政務を省みない様を嘆き
美濃の民の為ならばと同じ美濃三人衆の1人である安藤守就(
>>552)の呼び掛けに応じて
信長に帰順する。丁度その頃信長もこの名将をいかにして自軍に取り込むか画策していた所だったので
大いに彼を歓迎した。信長にしてみればそれまで自分にとって最も手強かった武将が味方になったのだから
これ以上心強い事は無かったであろう。
(続き)
その後、卜全は北畠氏の大河内城攻め等を始め、各地で戦功を挙げ信長の期待に応えるが
その中でも最も活躍したのは姉川の合戦の時である。
この戦では織田・徳川連合軍は最初、浅井・朝倉軍に押されており信長軍は13段あった陣の内
11段目まで突き崩され正に絶体絶命であった。しかし味方が混乱する中、卜全は冷静に戦況を見極め
浅井の軍勢が伸び切っている事に気付き稲葉一鉄、安藤守就らと共に浅井勢の側面を突いた。
これにより浅井軍は大混乱に陥り形勢は一気に逆転、信長の勝利に終わった。
そう、この戦いで織田軍が浅井軍に勝利することが出来たのは
信長の采配によるものでも、徳川軍の奮闘によるものでもなく、
ましてや仙石秀久が山崎新平を討ち取ったことによるものでもない。
氏家卜全の冷静な状況判断力と美濃三人衆の結束力がこの逆転勝利を呼び込んだのである。
だがこの男は実に惜しい所でその命を散らしてしまう。長島の一向一揆の討伐の際、彼は柴田勝家と共に参陣する。
しかし死兵と化した一揆軍の反撃があまりにも激しかったため、さすがの織田軍も敗北し撤退する事となる。
特に柴田勝家は自身が負傷する程の劣勢に立たされていたが卜全が捨て身で彼の救出に向かったため勝家は命拾いした。
そして、卜全はその場で殿を引き受けた。
神出鬼没の一揆軍を相手によく戦ったが多勢に無勢、一揆勢の集中砲火を浴び彼の家臣共々壮絶な討死を遂げる。
卜全は勝家をはじめとする味方の武将達を救うために自らの命を投げ出したのである。
彼は仲間を想う気持ちの強い熱き漢でもあったのだ。
後に美濃三人衆の残りの2人である稲葉一鉄と安藤守就が本能寺の変の際に対峙し
守就が一鉄に討たれているが、もし卜全が生きていれば決してこのような悲劇は起こらなかったであろう。
希代の名将であった氏家卜全は今尚多くの人々に敬愛されており
その人気ぶりたるや彼の名前にあやかった氏家ト全(うじいえとぜん)なる漫画家がいるほどである。
ごめんなさい。本当は最後の1行が書きたかっただけなんです・・・。
>>625 自分でフォローいれてるのはワロタ
それにしても、最近は長々と書きすぎて要点を纏めれない感じの作が多くない?
傑作の黄蓋とかそこまで上手く書けとは思わないけど、構成とか考えた方が冗長に
ならなくていいと思うお
それが難しいんだよな。特に凡→名の場合だと。
張達なんかは上手くて読ませる。
でも長くてもあれくらいがせいぜいじゃないかな。
織田信長
大の相撲マニア。配下の前田利家や明智光秀や、小姓達と夜な夜な寝所で相撲を取っていたほどの相撲狂い。
父親の葬式中も相撲のことを考えていて、焼香の際、土俵入りと勘違いして、塩のつもりで灰を撒いてしまった。
三間の槍ももともとは巨漢の力士のサイズに合わせたのものだったが、意外と戦に役に立ってしまった。
京、安土に入ってからはたびたび相撲大会を催し、行司のスタイルを決めたのも彼だが、考案中の姿を
見られるとさすがに体裁が悪いので、「敦盛」を舞っていることにした。
配下や妻に四股名を付けるのが好きだったが、そのセンスが最悪で、「ハゲ鼠」とか「金柑」、「なべ」などと名付けるので
当人に嫌がられることが多かった。しかも自分の四股名は「第六天魔王」だったのだから、そのセンスの悪さが
偲ばれよう。
とくに金柑と名付けられた明智光秀はこれを深く恨み、「本能寺の変」の遠因ともなった。
一説には焼け落ちる本能寺の奥で敦盛を舞ったと言われるが、これも実は行司に扮して軍配を振り、
「金柑の勝ち〜」と光秀を讃えていたものらしい。最期まで筋金入りの相撲マニアであった。
>>625 >ましてや仙石秀久が山崎新平を討ち取ったことによるものでもない。
>その人気ぶりたるや彼の名前にあやかった氏家ト全(うじいえとぜん)なる漫画家がいるほどである。
ここツボだったw
>>629 斬新な視点ナイスw炎の中で軍配を振ってた行司信長カコイイ。
623には失礼かも知れないが、短くしてみた。
氏家卜全(?〜1571)
知勇兼備の名将。土岐頼重に仕えていたが、同僚の斉藤道三の非凡さを見抜き、これに仕えた。
道三没後、大軍で攻め寄せる織田信長を卜全は幾度となく撃退した
その後、卜全は主君龍興が色欲に溺れ、政務を省みない様を嘆き同僚の安藤守就(
>>552)の呼び掛けに応じて
信長に帰順する。信長は音に聞こえた名将の帰順を大いに歓迎した。
期待に違わず卜全は各地で戦功を挙げ、信長の知遇に応えるが、その白眉は姉川の合戦である。
浅井・朝倉勢に13段の構えを11段まで突破された絶体絶命の信長軍にあって、卜全は冷静に戦局を見極め
手勢を率い、織田勢に深く入りすぎて伸びきった浅井勢の側面を突いた。これにより形勢は一気に逆転し、信長の勝利に終わった。
信長が天下布武を着実なものにすることが出来たのは、まさにこの一戦における卜全の働きによるものであった。
後に卜全は長島一向一揆で落命するが、その姿は心打つものであった。
愚かにも突撃することしか知らない猪武者の柴田勝家が一揆勢に包囲され、窮地に陥ったのを救援せんとして、
卜全は捨て身で一揆勢に突貫した。その阿修羅の如き戦い振りに、さしもの一揆勢も近寄ることが出来ず、
ほとんど勝家の身代わりとして、彼と彼の軍勢を救った後に力尽き、斃れたのであった。
彼は仲間を想う気持ちの強い熱き漢でもあったのだ。
希代の名将であった氏家卜全は今尚多くの人々に敬愛されており
その人気ぶりたるや彼の名前にあやかった氏家ト全(うじいえとぜん)なる漫画家がいるほどである。
632 :
625:2006/03/07(火) 16:48:04
黄祖の簡潔さに勝るネタなし。
きっとダジャレがすぐに思いつく人なんだろな。
>>629 光秀ファンの俺だが、これは悪くないと思うyo
話の流れを切る様だが一般的に名将か凡将かで評価が分かれる武将は難しいよな。
このスレで武田勝頼や石田三成が敬遠されてるのはそのためか・・・。
どちらにしろ「まんまじゃねーか」って言われるからな。
名将版・凡将版で両方書いてしまう手もある
むしろネタキャラ化
って、これが一番難しいんだよなぁ
後藤又兵衛をツンデレ化しようと思ったが、上手くいかなかった
ツンデレなんてキモオタしか言わなさそうな単語だな…
自分の巣へ帰ろうよ
心の狭い君こそ施設に帰りなよ。先生探してるよ?
>>635 例えば石田三成は一般には「豊臣家を守る為に立ちあがった武将」とされてるけど
「将来磐石な政権を築くであろう家康に天下を取らせるためにあえて挙兵した武将」
としてみたら上手くいくんじゃない?俺は文才無いから書けんが。
おおっと知らぬ間に人が戻ってきてるじゃん
人の多さとネタの多さは比例してもらいたいものだな
そして良いネタの数も
厨まで増えるのは困るがな。良識ある人間が増える事を願う
その点今のところは大丈夫
>>637 最近それ増えたな
臆病な防衛策ではあるが正直無難
武田勝頼
諏訪四郎。甲斐の大名にして、戦国の世に怨念を振り撒いた謀将。
祖父頼重は義弟の信玄の謀略によって家を滅ぼされ、自身も自殺を強要された上、頼重の
娘、信玄には姪にあたる諏訪御寮人は信玄の側室にされた。そこで生まれたのが勝頼であ
り、生まれからして怨みの色が付きまとっていた人物である。
長じて武田氏の当主となるが、信玄に対して激しい憎悪を抱く勝頼は武田の血を根絶やし
にすべくありとあらゆる謀略を糸をめぐらせていく。その一つが長篠の合戦であり、勝頼
が織田・徳川連合軍に対して無謀な突撃を命じたのは、憎むべき信玄の共犯である馬場や
山県を見殺しにするためであった。
このとき高坂昌信は対上杉への抑えとして見逃されたが、信玄の寵臣であった昌信を絶望
の淵に叩き込もうとしたためで、実際昌信は勝頼の真意を悟って、そのあまりの怨念の深
さに恐怖にとらわれたが、誰にも伝えることもできず、わずかに甲陽軍鑑で勝頼の非を鳴
らしただけで程なく一人寂しく病死した。
さらに悪魔的な頭脳を持つ勝頼は、謙信が死去し、本願寺が降伏するなどのタイミングを
とらえて織田の侵攻を誘発させた。これは他に大敵がいなくなった状態で武田氏が滅べば、
外憂のなくなった織田氏が必ず内部崩壊するであろう、と読みきったためであり、勝頼の
怨念は武田氏に留まらず武田に関したもの全てに祟っていく。
織田の侵攻に際しても穴山信君が裏切るように仕向けて武田の名を汚させたうえ、弟仁科
盛信を玉砕させるなど、徹底して武田の血を貶めていった。また、この時命を拾った信君
が、本能寺の変の巻き添えで落命したのは、織田氏崩壊を想定した勝頼の手から逃れられ
なかったと言ってよい。
また、織田氏のほかにも、甲相同盟の相手の北条氏は滅亡し、信玄の好敵手上杉氏は本領
の越後を失い、武田の後に甲斐を治めた徳川氏は武田の名を継いだ五男が早世するなど、
武田に関わったものに次々と不幸が訪れたのは死してなお勝頼の怨念が猛威を振るったた
めといわれる。
勝頼がこれほどの怨霊となったのは、実は勝頼は天孫によって追われ諏訪に封じられた大
国主の化身であり、天孫の子孫である天皇家から分かれた源氏や平氏に対して祟ったため、
とも言われる。
勝頼こえぇぇぇwwwwwwww
平将門とか菅原道真以上の祟りっぷりだな。
くわばらくわばら
>>647 かなりの名作。だが天目山での木曾の裏切りと大敗についても触れて欲しかった。
それと景勝との外交や死に様も脚色して描いて欲しかった。
武田の血を根絶やしにすべく勝頼は、いずれ滅ぶと見た上杉氏に妹を嫁がせた。
だが上杉氏は、軍神、上杉謙信の加護の下、その難を逃れた。
しかし後年、会津移封に伴う神社仏閣の移設により、謙信の加護が
薄れてしまい、勝頼の怨念に付け入る隙を与えてしまった。
その結果上杉氏は、120万石から30万石に減封されてしまうことになる。
勝手に書いてみた
でも
>>647には遠く及ばないなぁ
もっと上手く書けるようになりたい
俺は面白いと思った。ちょっと脚色してもいいかな?
その結果上杉氏は勝頼の怨念によって滅亡寸前に追い込まれるが
勝頼の怨念が届ききれない家臣である直江兼続からの領土の提供により滅亡を逃れる。
しかし後年、直江兼続は甲府に近い江戸において謎の病に倒れる。
なんだか勝頼が悪魔みたいになってるな
>勝頼の怨念が届ききれない家臣である直江兼続からの領土の提供により滅亡を逃れる。
ちょっと弱い
>>651 怨霊V.S.軍神という発想にしろ、文の読みやすさにしろ、十二分に上手
少なくとも
>>647に劣ることはないと思うが
むろん、多くの後進を生み出したのは、
>>647がスバラシイからではあるケド
655 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/17(金) 11:48:19
>>647 武田義信の死(クーデター)も勝頼サイドの仕掛けと付け加えて見れば面白い。
650-655までの意見を取り入れて再度647氏に書いてもらえたら嬉しい限りだ
657 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/17(金) 15:16:28
諸葛亮孔明
稀代の悪臣であり独裁者だったこの諸葛亮孔明は、帝位につこうとするも時間が足りずに死亡した。
あまりにも不気味な考えをもっていたこの男は皇帝になりたい一心で劉備に仕官する。
劉備は周囲の反対をよそにこの者を配下にしたときから何かに執り付かれたように皇帝を狙いだした。
劉備はそれまで、自分が皇帝になりたいとは思ってはおらずただの群雄の一人であった。
劉備は天下三分の計という当時学者の間で流行っていた策を、孔明に授けられ、野心を抱く。
だがこの野心はこの時点では甚だおかしいという他ありえない。新野という都市一個しか持ってないただの爺が
どうやって劉表を倒し、劉ショウをだまして、領土を手に入れるのだろうか?不可能という他無い。
しかし何故か曹操が襲来してきて、劉表が倒れてしまう。これには諸葛孔明の陰謀が深く張り巡らされていたとしか考えられない。
ここで、劉備は何故かお世話になった、劉表の長男を連れ出し、自分の陣営に引き込んでしまう。
劉備は曹操の襲来で手痛い攻撃を受けるもののなんとか逃げ出し、江夏に着いた。
孔明がここで、孫権への援軍要請の使者に行くこととなるが、孫権にとって、ここで戦って勝つ可能性は低い。
勝ったとしても、この後、孔明の策では劉備が荊州を持っていくことになるのだから、どう考えても孫権は戦が終わった後、
魚の利を取られたと気付いて、劉備たちに不信感を抱くであろう。孔明はここでどう説得したところで
孔明の言葉にだまされたことになる。
魯粛は、ここで孫権を説得したそうだが、孔明とつるんでいたか孔明のパシリだった可能性が高いと考える。
ちなみにこの魯粛は劉備に荊州をこの後、貸すことになる男だ。
孔明とその部下魯粛の説得により、孫権とその部下周喩はだまされて戦場に赴くこととなる。
赤壁で孫権の部下、周喩の軍はものの見事に曹操の大軍を撃破するが、
劉備たちは背信行為つまり両軍が睨み合っている間に、荊州の土地を占領してしまう。
それだけには飽きたらず江陵を始めとした、荊州をよこせと劉備が言い出した。
周喩はそれを阻止すべく天下二分計を実行に移そうとしたが、なんと魯粛に殺されてしまったと考えるべきであろう。急死したからだ。
孫権は荊州を貸すことになる。
658 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/17(金) 15:43:46
孫権は劉備いやそれを背後で操る諸葛亮孔明に荊州を貸した。天下三分の計第一歩の始まりである。
劉備は荊州を領有することに成功した。いや借りたのであるが。
劉備はその後、曹操が赤壁の傷が癒えていないうちに劉ショウの領土を攻め取ってしまった。
孫権、劉ショウともに孔明にだまされてしまったのであろう。
孫権は劉備のことを、「ペテン師」と罵ったと伝えられる。
孔明にとっては「天下三分の計」にとって必要な行為だったから劉ショウを攻撃させたのだ。
劉ショウ、孫権にとっての災難は「天下三分の計」の劉備の征服欲いや、孔明のせいだとしか考えられない。
この後、劉備が曹操と戦いを挑み、勝利。漢中を手に入れた。
劉備の勢力がでかくなるにつれ、喜んでいったが不安にも思った。
何故なら優秀な部下を得て、自分の発言権がなくなっていくことを恐れたからだ。
孔明はこの状況をなんとかするべく、策謀をめぐらしたがいい策は無かった。
とんでもない不運が襲い掛かる。なんと魯粛が死んでしまう。
間違いなく、この男は優秀な配下であったが孫権に疑われて死んでしまったというべきであろう。
そして孫権は、関羽を追い立てて、殺してしまったのだ。だが孔明はこの事態をなんとか乗り切るべく
劉封を殺してた。この時点でなんと「自分のいうことを聞かない可能性があるため」である。
一般には孔明の独裁が始まるのは「劉備が死んだ後」であるが、この時点からこれは一般にも見える孔明の独裁思考であろう。
そして、馬超が反乱を起こしそうだとか、どんどん要人が疑われていく。
そしてどんどん要人が死んでいったがこれは孔明が自分の発言力強化のために暗殺したと見るべきだ。
馬超の知り合いが「孔明は危ない」と言ってもそれを殺してしまった。
劉備は孫権と戦いを行うが
どう考えても孫権には劉備は勝てるわけも無い。兵力からいって違うのだが、反対しなかった。
なぜかそれは劉備が惨敗した後、劉備を殺し、国を手に入れるためだからだ。
劉備に皇帝になる即位を勧めたのは孔明とされるが、それは「劉備に皇帝を名乗らせることにより自分が皇帝になった後の弾除け」を
させる目的があったと考えられる。
659 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/17(金) 18:32:57
う〜ん、そのままを書いているだけでひねりが足らないな。
もうちょっと別の角度で書いたり、孔明のダーク面の演出をしないとかな。
660 :
647:2006/03/18(土) 03:12:15
>>648-655 拙作に過大な評価と新しい解釈をいただけたことに感謝。
>>656 無粋と知りつつもさらなる拙文を書き連ねてみた。
長文スマソ、お気に召さなかったらスルーしていただきたく。
武田勝頼
諏訪四郎。甲斐の大名にして、戦国の世に怨念を振り撒いた謀将。
祖父頼重は義弟の信玄の謀略によって家を滅ぼされ、自身も自殺を強要された上、頼重の
娘、信玄には姪にあたる諏訪御料人は信玄の側室にされた。そこで生まれたのが勝頼であ
り、生まれからして怨みの色が付きまとっていた人物である。
生い立ちからして信玄に対して激しい憎悪を抱く勝頼は武田の血を根絶やしにすべくあり
とあらゆる謀略の糸をめぐらせていく。その端緒が将来を嘱望された信玄の長男義信の死
と武田の血を引く今川氏真の没落である。今川家の扱いで信玄と義信が対立した際、勝頼
は武田家の結束や長期的な名声を考えれば義信の言葉に理があることや、自分が義信を支
援すれば生母が寵愛されていたことなどから信玄も我を曲げるであることを知りながら自
発的に無関心を装った。このため信玄と義信や彼に賛同した老臣たちとを仲裁できる者が
不在となり、義信と飯富虎昌の自害へとつながったのだが、その結果を予見していた勝頼
は笑いをもらすことすらなかったらしい。
義信の死により後継者となった勝頼はただ一人上洛戦の失敗を知りつつ、憎悪に目を晦ま
せることなく冷静に信玄が病を悪化させていくのを静観していた。この上洛戦で朝倉義景
が兵を引いたことで信長包囲網が破れて信玄は失望するが、この義景の逡巡の影にも勝頼
の暗躍があったのではないか、とも考えられる。すなわち、信玄が病にあることを義景に
知らせて義景を退却させて信玄の構想を打ち破ることと、織田に余裕を与えることで信玄
と同盟を結んだ浅井、朝倉などの諸勢力を織田の手によって滅ぼさせるという一石二鳥の
策謀である。
この上洛戦の最中で信玄が野望に身を焦がせながら無念の死を遂げることになるが、勝頼
は信玄の最期を暗い愉悦で見守った。その時の憎悪の念は病み衰えた信玄にすら感じ取れ
るほどの激しさであり、信玄は勝頼の瞳にあるモノを見たために「明日は瀬田に旗を立て
よ」と遺言したのである。この遺言は単に上洛せよ、などの意味ではなく、武田家は京の
都に入って王城鎮護の寺社仏閣の庇護を受けよ、との意であったが、信玄が怯えた勝頼の
瞳に潜むモノの知らない部下たちには意味が届かなかった。また、3年は喪を隠せ、とい
う遺言も死の淵に信玄がもはや勝頼を廃嫡することもできないのでせめて勝頼が当主にな
る時期を遅らせようとしたためだったが、これも無駄に終わり信玄は勝頼の作った憂悶の
沼に囚われ、絶望の中で死んでいく。
こうして信玄に病死でありながら非業の最期を遂げさせた勝頼は遺言を無視して武田家の
当主となるが、武田家そのものに向けられた憎悪は様々な形で武田家の毒となっていく。
その一つとしては信玄でさえも落とせなかった高天神城を攻略したことである。勝頼は義
信自害の際から武田家が駿河に進出することは武田の衰亡につながることを理解していた
が、あえて類稀なる智謀を使って高天神城を攻略することで己の武名を高めて老臣たちの
口を封じてしまう。しかも勝頼自身、将来にわたって保持することはできないことも見越
しており、いずれ徳川が奪還の兵を挙げた際に高天神城を見捨てることで武田家の結束を
崩壊させていった。
勝頼の毒がもっとも発揮されたのは長篠の合戦であり、勝頼が織田・徳川連合軍に対して
無謀な突撃を命じたのは、憎むべき信玄の共犯である馬場や山県を見殺しにするためであ
った。実際、馬場や山県らは織田の鉄砲隊の的になるという屈辱的な死を遂げた上、その
死すらも武田家の武名を貶めるために使われてしまう。このとき高坂昌信は対上杉への抑
えとして見逃されたが、これは信玄の寵臣であった昌信を絶望の淵に叩き込もうとしたた
めでもあり、実際昌信は勝頼の真意を悟って、そのあまりの怨念の深さに恐怖にとらわれ
たが、誰にも伝えることもできず、わずかに甲陽軍鑑で勝頼の非を鳴らしただけで程なく
一人寂しく病死した。
勝頼は謙信の死に際しても闇の智謀を発揮して武田家を窮地に追い込む策謀をめぐらせて
おり、当初は元々の同盟相手の北条氏と足並みをそろえて上杉景虎を支援したにも関わら
ず後に景勝を支援することで北条氏との仲を険悪なものにさせるとともに、上杉家中の混
乱を長引かせて上杉家の力を削いで頼りないものにさせることで、武田家を外部から支え
る同盟相手の力を弱めることに成し遂げた。
このように武田家の内も外も弱体化させた勝頼は、本願寺が降伏してもはや武田家を救う
力がなくなった時をとらえて織田の侵攻を誘発させた。この織田の侵攻に際しても穴山信
君や木曽義昌が裏切るように仕向けて武田の名を汚させ、弟仁科盛信を無意味に玉砕させ、
また親族衆の小山田信茂が国人領主としての立場から裏切るであろうことを見切った上で
小山田信茂のもとに身を寄せることで、嫡男信勝も含めて武田の血が裏切りによって絶た
れるという哀れな最後を遂げさせるなど、徹底して武田の血を貶めた上で甲斐武田家を滅
ぼした。
しかも勝頼の怨念は武田氏に留まらず武田に関したもの全てに祟っていく。武田家を最後
に裏切る役回りになった小山田信茂が織田信長に処刑されたのはその始まりであり、そも
そも本能寺が降伏した時点で武田家を滅亡させたも、織田家の力を利用して武田家に縁の
あるものを衰退させたが、他に大敵がいなくなった状態で武田氏が滅べば外憂のなくなっ
た織田氏が必ず内部崩壊するであろう、と読みきったためである。武田家滅亡の際に命を
拾った信君が、本能寺の変の巻き添えで落命したのも、織田氏崩壊を想定した勝頼の手か
ら逃れられなかったためと言ってよい。
また、織田氏のほかにも、木曽氏は義昌の子の義利が改易されて家名を失い(1600年)、同
盟相手だった北条氏は滅亡し(1590年)、同じく同盟を結んだ上杉氏は本領の越後も会津の
大封も失った上に景勝の妻は信玄の血は残すことができず(1603年死去)、武田の後に甲斐
を治めた徳川氏は武田の名を継いだ五男が早世し(1603年発病)、赤備えを引き継いだ重臣
井伊直政が戦病死する(1602年)など、武田に関わったものに次々と不幸が訪れたのは死し
てなお勝頼の怨念が猛威を振るったためといわれる。なお、勝頼の怨念にあたって上杉の
家が保てたのは、謙信が長く信玄の野望をくじいていたことが勝頼の意向にあっていたた
め怨みが比較的軽かったのと、謙信が厚く信仰した毘沙門天の加護により勝頼の怨念が弱
められたためと考えられる。
勝頼がこれほどの怨霊となったのは、実は勝頼は天孫によって追われ諏訪に封じられた大
国主の化身であり、天孫の子孫である天皇家から分かれた源氏や平氏に対して祟ったため
という考えもある。また、この勝頼の怨霊が静められたのは家康が江戸に幕府を開いてか
らであるが、これはどこの馬の骨ともしれない家康が源氏を名乗ることで源氏の名を貶め
た上、関東に政権を置くことで天皇家を軽視する姿勢を見せて勝頼の霊を慰めるとともに、
祟り神でもある平将門の庇護を得るようにつとめたためといわれる。
山県昌景
源四郎、三郎兵衛尉。甲斐武田家の飯富氏に生を受け、兄と主君の若君を屠った謀将。
猛将の名は晩期のもので、専ら「飯富」と言えば「甲山の猛虎」兄の虎昌を指した。
昌景はその後陣を配していたに過ぎず、影に隠れた形の昌景が兄を疎ましく思うまで時間はかからなかった。
そんな折、彼に謀略を持ちかけた者がいた。諏訪四郎勝頼である。勝頼にも昌景と同様、疎ましく思う兄の存在があった。
手を結んだ二人がまず狙うは勝頼の兄、義信だった。川中島合戦に際し、昌景は本陣の指揮を担ったことを利用、
「本陣の堅守こそ肝要」との建前で、各隊に上杉勢の攻撃を受けた義信隊への援軍に動くことを許さず、見殺しを図った。
この時は謀略を見抜いた武田信繁が犠牲となり失敗したが、晴信は信繁討死の因を作った義信に怒り、後への布石となる。
次に昌景と勝頼が打った手が、駿河今川攻めである。義信にとって仲睦まじい妻の実家であり、反意は明らかだった。
しかし、「天下取りへ海は必定」との名目の下、昌景は元小姓の立場も利用し晴信の意見を傾倒、
勝頼による諏訪大祝への働きかけも重なり、晴信は南侵策を固め、親子の対立を決定的な物にした。
後は昌景らの計略通りに運ぶ。義信は博役を務めた側近、虎昌に造反の意を伝達。
無骨な兄が、その信頼を裏切ることは考えられず、無謀であろうと道を共にすることは明白だった。
さらに昌景は義信の耳に入るよう、先代信虎追放の策の詳細を流す念の入れようで、義信はまんまとその策を採った。
決起前の虎昌から、後を託す旨の文を送られた昌景は、その流れを利用、先駆けて反乱を抑え、まず兄を切腹に追い込んだ。
そして、虎昌の「我一人の責」との言葉を尻目に、家中に連座による責任追及の空気を漂わせ、義信をも切腹させる。
ここに昌景は武田最強部隊、飯富の「赤備え」を、勝頼は跡目の地位を手中にした。
勝頼を利用し思い通り事を運び、赤備えを率い謳歌を極めた昌景だったが、最後の最後で暗転した。長篠合戦である。
勝頼が命じた織田・徳川軍に対する無謀な突撃の理由を各将が図りかねる中、昌景だけは察していた。
過去の謀略を知る自分を葬らんがため……。しかし事を露見させることも出来ず、昌景は潔く死す覚悟を固め、戦に赴く。
周囲で次々と将兵が倒れる中、昌景も両手に鉄砲傷を負い、軍配を取り落としてしまった。
将の証を取り上げることもできぬ昌景に向け、馬を寄せる武者があった。昌景はその衣から勝頼の側近、百足衆と察した。
百足衆は昌景に軍配を振り続けるよう下知を伝えると、地に落ちた軍配を取り上げ、両手の動かない昌景の口元へと運んだ。
そのとき昌景は見た。その百足衆の密かなる冷笑を……衣の中の甲冑に記された諏訪の紋を。その瞬間、昌景は全てを察する。
勝頼の目的は跡目を継ぐことでも、自らを葬ふることでもなく、武田家そのものを根絶やしにすることであった事実を。
昌景は死す前にこの謀略を誰ぞに伝えんと、最後の声をあげようとした。
しかし、口にくわえさせられた軍配は強く括りつけられており、それは叶わなかった。長篠の戦場に声にならない雄叫びが響く――
次の瞬間、彼の胸板を一発の銃弾が打ち抜いた。享年46であった。
>>664 信玄の孫が大久保長安事件に連座して伊豆大島?に島流しにあったことも書いとくとなおよし
668 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/18(土) 07:26:51
孔明は、劉備を毒殺した時に劉備に後を託されたが、それは劉備の策謀で
「李厳」と一緒に頼み込むことにより孔明の力を抑える目的
だったと考えられるが、孔明は劉備から後を託されたと独裁を始めるのはやはり孔明は劉備を出汁としか思っていなかった証拠であろう。
劉備が負けたくらいで死ぬのだろうか?いや死ぬわけが無い。劉備は打たれ強く生涯負けを何度も経験してきた男だったからだ。
どう考えても「負けたという理由で」体調に異変をきたして死ぬのはおかしすぎる。
ある男の影がちらつく。そう孔明である。毒を混ぜ続けたのだろう。
孔明に殺される間際に孔明の謀略に気が付いて劉備は「孔明、お主は息子が足らないなら乗っ取っても良いよ」と遺言を残した。
孔明のプロバガンダにより、劉備と孔明の信頼を伝える話、美談と伝えられているがそれは後世に伝わった誤解である。
劉備の孔明への精一杯皮肉であった。死ぬ間際になるまで劉備は孔明に使われていたのである。
劉備は、孔明のせいで裏切り者の汚名を残してしまった、代わりに皇帝となることは出来たが。
満を辞して宰相となった孔明は独裁体制を施行していく。
これは劉備にとっては望ましくない状況だった。
だが孔明としては劉備など、自分が皇帝になるための道具にしか過ぎなかったので、どうでも良かった。劉備の気持ちなど。
宰相となった孔明は、孫権への外交を行う。同盟を結ぶためであるが
孫権としてはどう考えても、益州を取ってしまっても良い。
国はぼろぼろで、兵もいない。
だが孔明が相手だと孫権は分が悪かったのである。あの魯粛の件もある
ある男は孔明に洗脳されて蜀漢の話しかしなくなった。孔明の策謀。洗脳されたのである。
孫権への脅しだったと見るべきだろう。
なにをしてくるかわからな不気味な男だ。劉備だってやられたではないか。
孫権は怖くて同盟を結ぶほか無かった。
諸葛亮の兄貴であった諸葛謹も疑われかけたが、大丈夫だったのだろう。いや兄を確保しておく人質だったのかもしれない。
ちなみに諸葛謹は軍事を任せてもらうことはほとんどなかった。諸葛亮のせいである。
669 :
:2006/03/18(土) 09:41:14
俺は凡将を名将のように書くほうが好きだけどなあ。
名将は色々変えることは出来るけど、凡将は腕の見せ所次第だからな。
>>669 功績ではなく、寧ろ失敗として記録に残るものだしね>凡将
気分は弁護士というところかな?
この怨霊勝頼見てると、
まとめページの三方原の戦いで勝頼が信玄落としたのって、
絶対わざとだって思えてくる
勝頼と昌景の書いたのって同じ人と?
664読んでかなり笑ったwwww本当の悪霊みたいだwwwww
GJ!
675 :
647:2006/03/19(日) 20:30:36
思いっきり間違えてるし…orz
>>663の「そもそも本能寺が〜」は「そもそも本願寺が〜」が正しいです。
そして、新たな教示と評価をいただき、ありがとうございます。あと、山県昌景は別な方
ですよ〜。信玄の孫はこんな感じかな、と。
家康により鎮められた勝頼だが、大久保長安が勝頼の兄の子を保護したことが勝頼の怨霊
を呼び覚ましてしまったという。すなわち、大久保長安の死は勝頼の祟りであり、大久保
家が改易されたのと、勝頼の兄の子が連座して流刑になったのは、家康が勝頼の怨霊を慰
めて鎮めるための処置であったといわれている。
では、文字レスばかりでもなんなので、凡将を名将にする凡作を出して名無しに戻ります。
金森長近
土岐氏の出で、信長、秀吉、家康の三人の天下人に仕えた人物で、戦乱の世の未来を見通
す先読みの力を持った名将。
類い稀な能力を持つ長近はその力をあからさまにするのを避けるが、信長に才覚を見込ま
れて赤母衣衆、次いで柴田勝家の寄騎となる。長近は主将の勝家を立てて自身は表に出な
いよう振る舞うが、優れた戦略眼で武に傾きがちな勝家を内から支えた。
一方で、前田利家や佐々成政など他の寄騎が勝家より若く単なる高級将校として付けられ
たのに対し、長近は勝家と同年輩であり宿老ながら一度は背いた勝家を監視するための目
付として付けられたのである。長近が勝家に付けられた後に松永久秀や荒木村重の謀反、
勝家と同じ重臣の林秀貞や佐久間信盛父子の追放などがあるが、勝家が不穏な動きをしな
かったのは長近の目が光っていたためと言われる。
長近は武将としての進退も見事で、賎ヶ岳での敗戦後、目付の立場でもあったにも関わら
ず勝家を見捨てず、勝家の最期を見届けた上で悠然と勝家のために出家してから秀吉の下
に出頭したが、これは敗将勝家に礼を尽くしたと同時に秀吉陣営が名将長近の扱いに苦慮
しているのを見抜いて出家することで秀吉たちに赦免する口実を与えるためのものであっ
たらしい。
秀吉も敵対したとはいえ、この慧眼の名将を厚く頼りにしたようで、日本の屋根である飛
騨を与えたのは天下に長近の目を光らせるためであるといわれる。秀吉は長近の適切な助
言のもとに天下統一を進めたようであるが、ここでも長近は裏方に撤していたので助言の
詳細は明らかではない。
また、秀吉没後家康に助力したのは、秀吉なき豊臣家に天下を治める力はなくこのままで
は再び戦乱の世に逆戻りすると見抜いたためで、秀吉との友誼を思いつつ、またすでに
75歳という高齢でありながら、天下万民のために戦国を終わらせることを決意して、先読
みの力で家康のために助言して天下人たらしめたという。
戦国を見つめ続けた名将金森長近は、家康が江戸に幕府を開き、さらに秀忠が二代将軍に
なるのを見届けると、己の役割も終わったといい静かに85年の生涯を終えた。
乙
そういえば長近が主役のトンでも系戦国小説あったな
678 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/20(月) 12:38:40
小早川秀秋.1581〜1602
寧々の兄の子で太閤・秀吉の甥。朝鮮出兵では加藤清正を救う為、先陣に立ち突撃をし、見事包囲を破った。
しかし、これは「大将にあるまじき行為・軽率だ。」と諫言されてしまい、領地を召されてしまう。
が、徳川家康の取り成しで没収を免れる。
秀吉の死後、関ケ原では、家康への「恩」と西軍の「義」に揺れ、動けなかった。
恩と義を重んじる青年武将故の苦悩であったのだ。
しかし秀秋は日本の未来と太平の世を築けるのは徳川家康のみだと思い裏切りを決断。
見事東軍は勝利し、乱世は終わる。
日本の為に裏切り者の汚名を自ら受けてたった秀秋。しかし無念にも翌年、死去するのであった。
筒井順慶
戦国末期、大和国の一角において圧倒的な存在感をもって君臨した名将。
「歴史に名を残す」だけならば、他の戦国武将にも可能である。
しかし、日本語の中にしっかりと刻印される者は数少ない。それは選ばれた名将だけにできることである。
幼少で家督を継いだ順慶を支えた家臣たちの忠誠にちなむ「元の木阿弥」。
天下分け目の決戦の際の順慶の慎重な姿勢と時代を見る目の確かさを称えた「洞ヶ峠(を決め込む)」。
日常会話の中でも使える故事成語をなんと二つも残していることで、
順慶の冠絶した名将ぶりが理解できよう。
>>678 こないだやってた戦国自衛隊関ヶ原版がそのまんまだな
小早川秀秋
戦国晩期を飾った豪勇無双の武将
豊臣秀吉の甥として生まれた秀秋は朝鮮出兵において初陣を飾るが、初めてのことで内か
ら滾る武勇を抑えかねた秀秋は戦場において狂戦士と化してしまい、軍民問わずなぎ払っ
たため、後に秀吉から叱責を受けてしまう。
これは、秀秋の暴走のほかにも、当たるを幸い縦横無尽に戦場を駆け抜ける秀秋の武勇に
朝鮮軍が恐れをなしたため加藤清正らが無事救出されたのも事実であるが、戦場における
武人というものを解さない石田三成が清正たちを貶めたのと同じ流れで猛将秀秋も誣告さ
れた、ともいわれる。
また、徳川家康はこの豪将を味方につけようとして、秀吉にとりなして秀秋の領地を安堵
させるが、生粋の武人であり戦場以外のことに頓着しない秀秋はさして恩に着るでもなか
ったという。
秀吉が没し、関ヶ原の役が起きると秀秋は西軍の一翼となって伏見城攻めに参加するが、
伏見城の守将鳥居元忠の死を決した戦いぶりに感じ入った秀秋は全力をもって戦い、歴史
に残る激戦を繰り広げる。この戦いで元忠は玉砕するが、主君に身を捧げた華々しい散り
様は多くの人の目に焼き付けられ、元忠の名は不朽となった。これこそが小早川秀秋が示
した武人としての最高の礼であったという。一方、この戦功を石田三成が評価しなかった
のは、武人とは程遠い石田三成には秀秋がなぜ力戦したのかも理解できなかったためらし
い。
秀秋は元忠の最期を見て思うところがあったのか考えこみ、それを単なる寝返りの兆候と
みた三成から関白職への就任や加増などの話があるが、秀秋自身は三成の言葉はさほど気
にも留めなかったという。
松尾山に一万五千の大兵を率いて陣取った秀秋は戦闘がはじまっても動かず、傍観してい
た。秀秋はこの時、優勢な西軍の尻馬に乗って果たして己が武人といえるか、と自問自答
していたらしい。
この秀秋の問いは、劣勢ながらも旺盛な闘争心をたぎらせた東軍から銃撃があるまで続い
たが、弾丸の起こす風と硝煙の匂いを感じて秀秋は次の言葉とともに決断したと言われる
「この風、この匂い、これこそが戦いよ!!」
かくして秀秋は優勢な敵を相手取ってこそ武人の本懐であるとばかりに、名将大谷吉継の
陣に攻めかかったが、天下の豪将小早川秀秋が東軍に味方をしたと知った西軍は総崩れと
なったという。
その後も石田三成の本拠佐和山城をも陥落させ、たった一人で天下分け目の決戦の行方を
左右したとしてその名を轟かせた秀秋はほどなく病で世を去るが、その時に、あと残され
た戦は豊臣家の滅ぶものだけであり、悲壮感はあっても武人の魂はどこにもない、と嘆い
たとも伝えられる。
世の人は、あと五十年早く生まれていれば戦国の世を所狭しと駆け巡ったであろうにあま
りにも生まれるのが遅すぎた、と豪将小早川秀秋の人生を悼んだという。
織田信広 (?〜1574)
織田信秀の子。信長の兄。通称三郎五郎。大隅守。津田姓を称した。
庶子であったために家督は継げなかったが、その才はかの信長を凌駕した。
それは若くして対今川勢力の最前線・三河安祥城の城代を務めたことからもわかる。
1549年、今川家は軍師・太原雪斎まで投入してようやく安祥城を陥落させた。
信広の傑出した才を知る今川義元は、信広を生け捕りにすることを厳命している。
織田信秀は、一族中で最も有能な信広を助けるために、
松平竹千代――もちろん、のちの征夷大将軍・徳川家康――を今川家に差し出すのである。
信広は、一時弟と対立し、齋藤義龍を引き入れて清洲城攻撃計画を練ったが、実行はしなかった。
名将は名将を知る。信広は、自分にはない信長のカリスマ性を認め、
弟の旗の下こそ織田家が勢力を拡張させるであろうことを見抜いたためである。
以後、信長を陰ながらよく支え、向背常なかった織田一族(連枝衆)をよくとりまとめた。
また、比叡山攻撃や美濃岩村城守備で活躍、
外交面では1573年に弟の名代として足利義昭と和議を結ぶなど、政戦双方で縦横の働きをした。
1574年、信長は、難敵・長島一向一揆の攻略に一族最強の名将・信広を投入。
物量にまさる一向一揆勢は多大な犠牲を払って、この第六天魔王の兄を討ち取ることになるのだが、
そのことは、信広という一人の天才を討ち取るためには、
堅い信仰心で結束した、死を恐れない圧倒的な軍事力が必要だったということを示している。
信長が偉大な兄の死をいかに嘆きいかに怒ったかは、その後の凄惨な長島殲滅戦を見れば明らかである。
水野勝成
家康の従兄弟で数々の武勲を残すが父の部下を斬って出奔する。
その後秀吉に仕え、紀州攻め・四国攻め・戸次川の戦いに参加し武勲を立てるも同僚を殺して出奔し秀吉に指名手配される。
その後浪人になり野武士を相手に大立ち回りをしたり佐々成政の肥後一揆鎮圧において傭兵になり反乱首謀者を斬っている。
さらに黒田、小西、立花、加藤らに仕官し武勲をのこし特に黒田家中においては後藤基次と並び称されたがどれも長続きせず喧嘩や無断出奔してしまう。
その後も浪人として各地を転々としトラブルを起こしまくり仕官したり人を斬るたり(尼僧を含む)、黒田長政の刺客に追われたり盗賊退治をしたりしてすごす。
秀吉の死後、家康の仲介で父と和解し関が原の前哨戦で島津勢を撃退し、大垣城を攻略する。
大阪の役では後藤基次、明石全登を打ち破り指揮官としても優れていることをしめした。
島原の乱には74歳の老齢ながら将軍・家光の要請で参陣している。
その晩年は名君として領地の経営にあたった。
当代随一の歌舞伎者でありその奇抜なファッションセンスで孫と共にその名を残している。
島津歳久
島津四兄弟の三男。
剛勇を誇り、初陣で負傷したと言われているにも関わらず
城攻めで自ら門を破るなどの功績を上げた猛将。
秀吉の九州征伐でも最後まで豊臣勢を梃子摺らせた。
ただ、若干配慮や知恵に欠けるところがあったようで
会議では空気を読まず意見して義久に恥を掻かせたりしていたようだ。
秀吉に反抗しつづけて最終的には討伐を受けるが、
その際もまともに動けない身でありながら追っ手に対し交戦しつづけた。
最後には刀が持てなくなり、追っ手に首を打てと命じるが
追っ手は鬼気迫る歳久の姿に一歩たりとも近づけなかったため
歳久は刀を持たず切腹をする芝居を打ち、首を打たせた。
まさに最後まで武辺者であった。
捻りは??
関興
関羽の息子。
諸葛亮から評価され、若いながらも高い地位に着くなど非凡な人物であった。
だが若くして亡くなってしまったためその活躍が後世に伝えられることはなかった。
もし、少しでも長生きしていたらと思うと残念である。
捻りは?
山中鹿之助
天性のマゾヒスト。
主家や同僚のことなど一切顧みず、いつも自分のことしか考えなかった。
艱難辛苦を得るために三日月に祈って山陰の雄・尼子家を滅亡させた元凶である。
692 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 17:13:32
ルールすら読めない馬鹿は来るな
関興
関羽の息子で、蜀漢随一の妖術使い。
関羽が呉に破れて敗死した後、その仇を討つことを誓い、妖術を学ぶ。
妖術の師は左慈であると言われているが、定かではない。
修行を終えた関興は、呉討伐に出陣した劉備の陣に赴き、先鋒を志願する。
妖術を駆使した彼の勢いは凄まじく、呉の軍勢を次々と蹴散らす。
戦いの最中、父の仇である潘璋を見つけ、これを追撃。
山中で一騎討ちとなるが、その際関興は、何と父、関羽の霊を召喚したのだ。
慌てふためき恐怖する潘璋を、関興は斬り捨て、父の仇を取る事に成功する。
その後、裏切り者の麋芳と傳士仁を、遠隔催眠のような術で狂乱させ、
帷幕の武将を斬らせた上で蜀の陣に呼び寄せ、二人斬って捨てた。
夷陵の戦いでは、敗走する劉備に付き従い、
その妖術を駆使し、劉備を撤退させることに成功する。
第一次北伐では、敵の罠にはまって突出して行方知れずとなった趙雲を
探索の術を用いて見事に探し出し、救出することに成功する。
その後の北伐でも、妖術の腕を存分に発揮し、蜀の勝利にたびたび貢献する。
その妖術は、蜀においては右に出るものは無く、
諸葛亮もその腕には敬意を表し、進んで彼に妖術を学んだ。
その全てを会得することは出来なかったが、五丈原の戦いでの延命の儀式や、
撤退時の木像を用いた策は、関興直伝の妖術の賜物であると言われている。
しかし、その稀代の妖術使いは、20代そこそこで没してしまう。
彼の使う妖術の代償は、彼自身の命だったのだろう。
復讐の為、その後は国家の為、命を削って妖術を使い、勝利に貢献してきた
関興を思い、諸葛亮はただただ、涙するしかなかったと言う。
佐久間信盛(1527〜1581)
織田家譜代の武将。その温和な性格を見込まれ、幼い信長に重臣としてつけられる。
織田家の家督相続においても一貫して信長に味方し、その後筆頭家老として信長の信頼を一身に受ける。
武将としての能力も確かで、殿軍の指揮の巧妙さから、「退き佐久間」の異名を持つ。
だが、信盛の真骨頂は、温和なで平和を愛する性格から来る戦の仕方。
即ち、敵味方の死者を最低限に抑えた戦の収め方にあった。
三方原の合戦では、徳川家康の援軍に赴く。
信盛は、武田軍との戦闘を回避し、無駄な死者を出さぬようと進言するが、
血気に逸る家康は、武田軍の背後を突く暴挙に出る。
戦いは避けられぬと見た信盛は、戦国最強の武田騎馬軍団に対し、退き佐久間の意地を見せ奮戦。
無事に退却出来たものの、平手汎秀を討ち取られてしまう。
以後、無駄な戦いは慎むよう、信盛は自分に言い聞かせた。
姉川の合戦では、敗走する浅井軍を無闇に追撃することなく、兵を収めている。
このことは、諸将と共に信長に叱咤されるが、信盛は信長の前に出、
「我らのような家臣を持って、殿は幸運でござる」
と、あえて信長の逆鱗に触れる言葉を吐き、その怒りを自分一人に向けようとした。
同時に、居並ぶ家臣が何者にも代え難い存在であることを主張しようともした。
一度は怒った信長だが、信盛の心配りにいたく感心し、より一層信頼したと言う。
長篠の合戦では、たとえ平手汎秀を討ち取った武田騎馬軍団であっても、多くの者が死んで行くのは耐え難いと思った。
そこで信盛は、一計を案じる。
自分が計略に引っかかり、武田に寝返るように思わせ、それを反故にする。
そうすれば、計略の失敗した敵の士気は落ち、早々に撤退するであろう、と見たのである。
その思惑通り、武田軍の穴山信君は、早々に戦場を離脱した。
後に、この信盛の知略、そして思いやりを知った信君は感動し、進んで織田、徳川方に下ったのである。
梟雄、松永久秀が謀反した際、説得に当たったのが信盛だ。
久秀は、かねてより交友のあった信盛の、その真摯な言葉に心を動かされつつも、
武士の意地を通して自爆。信盛はその姿を見、戦国の世の無情さを思い涙したと言う。
石山本願寺攻めでは総指揮を取り、5年に渡る戦いの末和睦に持ち込む。
最低限の兵で本願寺を囲み、いたずらに攻撃を仕掛けることなく、相手の士気の喪失を待つ。
敵味方双方に無駄な死者を出さない攻め方は、実に信盛らしいと言える。
だが、この戦略が手緩いと、織田家諸将から批判を浴びる。
この声を信長も無視することが出来ず、幼い頃からの重臣であった信盛を高野山に追放してしまうことになる。
信盛は、それで織田家がまとまるならと、黙って下知に従った。
信長の
「お前のような家臣を持って、不幸だ」
と言う言葉は、
「少しでも言い訳をしてくれれば弁護もしてやれるのに、それすらしないのでは追放するしかないではないか」
と言う、信長の悲痛な叫びの現われである。
その後、息子や郎党と共に高野山へ赴く。
だが信長は、幼い頃から仕えてくれた信盛を放っておけず、間もなく下山を命じる。
捨扶持を与え、のんびり暮らして貰おうと考えたのだ。
命に従い、下山した信盛。しかし、領地に赴く道中で病を得て死亡。享年55歳。
信長にとって信盛は、得難い武将であると同時に、幼い頃より自分を見守ってくれた師であり、父だった。
信盛の死を知った信長の悲しみは、想像に難くない。
信長は、息子の信雄に信盛の子、信栄を召抱えるよう命じた。
表立った供養をすることが出来なかった信長の、信盛に対するせめてもの供養であった。
梟雄、松永久秀が謀反した際、説得に当たったのが信盛だ。
久秀は、かねてより交友のあった信盛の、その真摯な言葉に心を動かされつつも、
武士の意地を通して自爆。信盛はその姿を見、戦国の世の無情さを思い涙したと言う。
石山本願寺攻めでは総指揮を取り、5年に渡る戦いの末和睦に持ち込む。
最低限の兵で本願寺を囲み、いたずらに攻撃を仕掛けることなく、相手の士気の喪失を待つ。
敵味方双方に無駄な死者を出さない攻め方は、実に信盛らしいと言える。
だが、この戦略が手緩いと、織田家諸将から批判を浴びる。
この声を信長も無視することが出来ず、幼い頃からの重臣であった信盛を高野山に追放してしまうことになる。
信盛は、それで織田家がまとまるならと、黙って下知に従った。
信長の
「お前のような家臣を持って、不幸だ」
と言う言葉は、
「少しでも言い訳をしてくれれば弁護もしてやれるのに、それすらしないのでは追放するしかないではないか」
と言う、信長の悲痛な叫びの現われである。
その後、息子や郎党と共に高野山へ赴く。
だが信長は、幼い頃から仕えてくれた信盛を放っておけず、間もなく下山を命じる。
捨扶持を与え、のんびり暮らして貰おうと考えたのだ。
命に従い、下山した信盛。しかし、領地に赴く道中で病を得て死亡。享年55歳。
信長にとって信盛は、得難い武将であると同時に、幼い頃より自分を見守ってくれた師であり、父だった。
信盛の死を知った信長の悲しみは、想像に難くない。
信長は、息子の信雄に信盛の子、信栄を召抱えるよう命じた。
表立った供養をすることが出来なかった信長の、信盛に対するせめてもの供養であった。
いいよー、GJでした
馬超
蜀の武将。
一般的には「ばちょう」と呼ばれるが、正しくは「まちょう」である。
武勇に優れ、筋骨隆々の逞しい肉体の持ち主であった。
今日使われている筋肉質の人間を呼ぶときに「マッチョ」と言う
言葉を使うが、その語源となったのは彼、馬超である。
小早川秀秋
戦国随一の策士家。
関ヶ原の戦いでは西軍側として参戦する。
しかし、大軍で要衝に布陣したかと思うと、その後は戦いの趨勢を見極めるまでは決っして動かなかった。
やがて東軍側が有利とみると、山頂から怒濤のごとく西軍側に攻め込み、東軍の勝利を確実なものとする。
しかし、その後西軍の大将石田光成の亡霊に悩まされ精神を患う。
一説では、秀秋の才能を警戒した家康が毒を盛ったともいわれる。
703 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 08:50:37
前田慶次郎
主君・前田利家を自邸にて饗応した際、水と湯を間違えて利家を水風呂にいれてしまった粗忽者。
そのことを叱責されるや狼狽して利家の愛馬・松風を強奪して逃亡・逐電してしまった。
利家は慶次郎が兄の嫡子ということで退転の罪には問わなかったが、粗忽者の慶次郎にはそういう気遣いが
解らなかった。
逐電後、方々を転々とした慶次は京に落ち着いたが、商人の態度が気に入らないと、些細な過失をとがめて
京都所司代が仲裁に入るような騒ぎや、浪人と決闘騒ぎを起こしたりして、前田家の評判を下げつづけた。
また、利家の名馬として有名だった松風を自分の愛馬であると宣伝したため、利家は馬を盗まれたという武士に
とって恥ずべき不面目を被っている。当の本人は利家に累が及ぶとも思っていなかったのだから呆れるばかりだ。
当時、織田政権下で同輩であった利家を掣肘すべきだと考えていた秀吉は諸大名の並ぶ前で、
前田家の恥ともいえる慶次郎を引見し、彼をさらし者とすることで、前田家中取締不行き届きを暗に批判した。
満座の中で恥を掻かされても反抗することの出来なかった利家は、あらためて秀吉に臣従するほかないことを
悟ったという。しかし義理堅い利家は兄を思いやり、兄の子である慶次郎を誅することはなかった。
残念ながら、その思いが慶次郎に通じることはなく、当の本人は秀吉に引見されたことを大いに誇りとし、
利家の苦衷を察することもなく、「関白殿下より傾奇御免状を頂戴したも同然」と得意満面であったという。
その後、台頭してきた徳川家に臣従する前田家の立場もわきまえず、徳川に反抗する上杉に味方するなど、
慶次郎は利家と前田家に対して、後ろ足で泥をかけるような真似を繰り返したのである。
もともと慶次郎の母親からして、夫が前田家当主を追われる際、利家に対する呪詛を行ったぐらいであるから、
この母にしてこの子あり、というべきか。
708 :
705:2006/04/06(木) 11:10:54
>>707 >だがそれがいい。
しまった、末尾に付けとくべきだったな。そしたらうまくオチたのにorz
浅井久政
北近江の戦国大名。悲運の武将。隠れた名政治家。
父亮政の無謀な下克上と領土拡大路線によって混乱した国内を建て直し、
南近江の名将六角定頼と「近江の清洲同盟」とでも言うべき対等同盟を結び、
浅井氏の対外的地位を磐石のものとした。さらに旧主家の京極氏と隣国美濃の斎藤氏
に婚姻同盟を成立させるなど、非凡な外交手腕を内外に示した。
のちに子の長政が勇のみの凡将であることを見抜き、自作自演の隠居劇を演出し、
長政のカリスマ性をでっち上げることで家督相続を円滑に遂行することに成功。
さらに、定頼の死後、六角氏の当主は凡庸な義賢、義治に交代していたため、
もはや不要な足枷となっていた六角氏との同盟を円滑に解消することに成功した。
無論六角氏との合戦に勝利したのは長政の武勇であるが、その勝利のための条件を
お膳立てしたのは久政であることは言うまでもない。
織田信長の台頭を予見した久政は、長政と信長の妹であるお市との婚姻を成功させた。
ここにも久政の非凡な外交手腕が伺われるが、あくまでも長政を立てるため、体外的には
頑迷な守旧派のイメェジを演出することを忘れないしたたかさもあった。
のちに信長が越前朝倉氏に侵攻した際は、知略に欠けた長政は信長を討とうとするが、
久政は時代の流れを読めない長政をかばって憎まれ役を買って出るとともに、お市を通じて信長を救って
恩を売りつける非凡な計略を採用した。しかし、これは信長に久政の正体(浅井の真の司令塔は久政)に
気づかせてしまう結果となる。久政最大の失策であった。このことは信長が小谷城攻めで長政を後回しにして
まず久政の守る京極丸を攻めたことに現れている。久政という頭脳を失った長政は、信長の血筋の妻と子達を
無条件で逃がすという外交オンチぶりを発揮、そのため長政の自刃後、子は信長に無残に処刑され、浅井氏はあえなく断絶する。
亮政という不良債権と長政というお荷物を抱えていなければ、あるいは天下に一番近い武将は久政であったのではないだろうか。
なお、久政のひ孫が後に徳川幕府三代将軍となった徳川家光である。
あ、そういえば似たような紹介文もうあったかな
久政の四代がかりの天下獲り、見事なり
関索
関羽の息子を名乗る詐欺師。
実際には関羽とは何の関係も無い。
関索と言う名も、恐らく偽名であろう。
戦に出て一儲けしようと思い、彼は南蛮征伐へ向かう諸葛亮の下へ走った。
そこで関羽の息子を名乗り、従軍を願い出たのだ。
最初は戸惑った諸葛亮であったが、この詐欺師の弁舌にあっさりと騙され、一軍を任せてしまう。
魏延などは、「ああ、また何か乗せられてるなぁ…」と心の中で呟いた。
この詐欺師の率いる軍は、関羽の息子に率いられている事、そして何より、
「父、関羽が我らを見守っている!」に始まる詐欺師の鼓舞で、やたら士気が高く強かった。
この軍に助けられ、詐欺師はそれなりの手柄を立て、恩賞を貰う。
が、南蛮征伐の後、彼は歴史から姿を消してしまう。
嘘がバレて逃亡したか、打ち首にされたか、はたまたバレる前に逃亡したのか、真相は不明である。
ちなみにこの詐欺師は、有る事2割、無い事8割の自伝を書いている。
この書物がどう言う訳か後世にまで語り継がれ、色々あった結果、『花関索伝』として残ってしまっている。
小山田 信茂
甲斐の国人で武田の武将、そして石投げの名人である。
自軍に石投げ部隊を編成するくらい、石投げが大好きだった。
この部隊が役に立つと信じて疑わなかったが、
敵味方問わず、他の武将からは半ば呆れられていた。
北条との戦では、北条氏照の部隊に向かって石を投げた。ひたすら投げた。
てっきり矢とか鉄砲とか飛んでくると思っていた氏照は、石しか飛んでこないことに呆れてしまう。
そして、「武田って貧乏だったんだ」等と思い始め、だんだんと可哀想になってきて、とうとう氏照は撤退してしまう。
このことで信茂は「武田随一の憂将」と言われてしまうが、本人は「武田随一の勇将」と勘違いして大喜びした。
三方原の戦いでは石川数正の部隊に石を投げた。これでもかと言うくらい投げた。
相手は馬鹿にされてるんじゃないかと思ってキレる寸前であったが、信茂は大真面目である。
そこに信茂の投げた石が数正の頭に当たり、それでとうとうキレた数正は、信茂に向かって突撃してきた。
敵が近づいてきてもなお、石を投げ続けていたので、結局押されて後退する羽目になる。
上手い事味方が敵軍を追っ払ってくれたので、『敵を誘い出した』と言うことで武将としての面目を保った。
信茂続き
長篠の戦いでも、敵の鉄砲部隊に対してやっぱり投石で挑んだ。
が、石を投げようと敵に近づいたところ、逆に鉛玉を大量にぶつけられて大敗、
信茂の軍は武田軍で最も多くの犠牲者を出したと言われている。
この時投石部隊は壊滅したらしい。
織田、徳川連合軍が武田を攻めると、圧倒的劣勢の武田勝頼を、信茂を居城に匿おうとした。
道中信茂は援軍を連れて来ると、一足先に居城に戻り、約束通り援軍を連れて戻ってきた。
しかし連れてきたのが、何と全滅したはずの投石部隊。
役に立たないくせに、懲りずに投石部隊を編成し、挙句にそれを自分の護衛に付けようとした信茂に勝頼は呆れ返る。
もうこりゃ駄目だなと諦めた勝頼は天目山へ行って自害してしまった。
その後、変わったモノ好きの織田信長は、信茂の石投げの腕に興味を持ち、信茂を呼び出してその腕を拝見しようとした。
当時の天下人からの呼出しなので、信茂も気合を入れて拝謁し、石を投げた。
ところが緊張からか、うっかり手を滑らせて石を信長の頭にぶつけてしまい、怒った信長に斬られてしまった。
石投げに生き、石投げで死んだ人生であった。
ちなみに、狭い世界で一番強い人の事を言う、『お山の大将』と言う言葉は、
投石部隊が滅茶苦茶強いと信じて疑わなかった信茂を指す『小山田の大将』が語源であることは、あまり知られていない。
715 :
705:2006/04/12(水) 15:31:28
やっぱり分身魔石とか、大回転魔石とかエビ投げハイジャンプ投石とか編み出したんだろうか。
池や川に石投げて「何回跳ねた」とかって自慢するタイプだったに違いない
信長に拝謁した後処刑されたって記述は方々にあるな
信長は富士山見に来てるからな
721 :
714:2006/04/13(木) 10:14:06
>>織田、徳川連合軍が武田を攻めると、圧倒的劣勢の武田勝頼を、信茂を居城に匿おうとした
織田、徳川連合軍が武田を攻めると、圧倒的劣勢の武田勝頼を、信茂は居城に匿おうとした
で修正よろしくです
ついでにネタ投下
徳川家康
戦国時代に現れたマッドサイエンティストで、主に改造人間の研究を行っていた。
戦国と言う時代を利用して、多くの人体実験を行った。
徳川軍の兵たちには家康による洗脳が施されており、三河武士の強さ、狂気染みた命知らずの行動は、洗脳の賜物である。
改造人間第一号は、他の誰でもなく家康本人で、男数人がかりで持ち上げることが出来なかった鉄砲を軽々と持ち上げた挙句、射撃までやってのけたと言う。
徳川家臣団は、多くが改造人間で構成されおり、誰もが人間とは思えぬ働きを示した。
恐怖の軍団の中核を為した武将達を、ごく一部ではあるが挙げてみよう。
本多正信は脳改造を施され、優れた頭脳を手に入れるが、精神を支配される前に脱出。
三河の一向一揆に参加して家康の首を狙うが、あえなく敗退。
正信は捕らわれ、完全に洗脳されて、家康の右腕となってしまう。
井伊直正は、家康の傍に仕えていた時期があり、より多くの改造を受け、その結果精神は崩壊し、戦闘マシーンとなってしまった。
戦場では多くの傷を受けつつも怯まず先陣を切り、血塗れとなったその姿、
また、軍律を僅かでも乱した兵を、眉一つ動かさずに斬り捨てる様は、正に赤鬼であったと言う。
服部半蔵は、改造により人間では到底考えられぬ走力や跳躍力を身に付けた。
戦場においては鬼神の如く敵を屠り、常時においては単身で諜報活動にも当たった。
また、伊賀越えの際は、その能力で伊賀の豪族に見せつけ脅迫、家康の警備に当たらせた。
半蔵忍者説はまさに、改造人間服部半蔵の活躍なのである。
722 :
714:2006/04/13(木) 10:14:41
その伊賀越えの後、家康は明智光秀の死体を密かに回収し、改造人間として生き返らせた。
これが、南光坊天海である。
彼の驚異的な寿命は、その肉体改造が影響しているものと思われる。
本多忠勝は家康の最高傑作で、改造を施された彼の肉体には、傷ひとつつかなかった。
しかし、定期的に家康のメンテナンスが必要であったようで、大名となって家康の傍を
離れた数年後、些細な事で身体に傷がつき、これが原因で死亡してしまう。
家康は、敵に対しても改造、洗脳を施し、徳川家を有利に導いた。
武田の臣、穴山信君は秘密裏に家康に捕らえられ、洗脳を施されて開放される。
そして、重要な場面で武田を裏切らさせられるなど、良い様に利用される。
最期は伊賀越えの際、囮として残され、土民に殺される。
関ヶ原の前には、東軍の武将多くに脳改造を施し、良いように利用した。
可児才蔵には肉体改造まで施したらしく、彼は笹を象った兵器で西軍の首級を次々と上げた。
西軍の将にも被害者はおり、半身不随で不治の病を患っていた大谷吉継は、実は家康の失敗作であると言われる。
脳改造された東軍諸将の、その多くは用済みとばかりに後年、改易されるのであった。
大坂落城後、自らの肉体の寿命を感じた家康は、日光東照宮を建立し、内部に御神体を設置。
そして自分の脳を、その御神体に移植したのだ。
日光東照宮は、家康を奉った神社であると同時に、家康そのものなのである。
戦国を支配した狂気の科学者は、今尚東照宮で生き続けているのだ……。
723 :
714:2006/04/13(木) 10:21:42
他にも、息子の信康を失敗作として処分したとか、
そんな家康に恐怖して逃げ出した石川数正とか、
クローンの研究もやってて、影武者とか土井利勝はクローンだったとか
色々入れたかったけど上手くまとまりませんでした
あと武田騎馬軍団に惨敗した理由とか思いつかなかった…
できればマッドサイエンティストの科学者の劉備も見たいな。
田予が改造される前に魏に逃亡したとか。
そういえば本多忠勝が本当にロボットになってるゲームがあったな
つーかこの本多正信の行動って仮面ライダーそのものだな
727 :
705:2006/04/14(金) 14:14:57
>>723 >あと武田騎馬軍団に惨敗した理由とか思いつかなかった…
改造人間は仮面ライダーに敗れるのがお約束だからな。
武田ライダー部隊に負けたに決まってるじゃないか。
信長作成のの制御プログラムエラーで、待機中もアイドリングを
続けていたものだから合戦が始まったとたんにガス欠になったんだよ