1 :
無名武将@お腹せっぷく:
大内、尼子の超巨大勢力を撃破。
大友なんて雑魚扱い。
天下取る気あれば簡単にとれたのにな。
2げっとしたやつはウンコ太郎と呼ばれる運命
3 :
貧血:2005/07/24(日) 23:08:24
どんな釣られ方がお好みなんでしょ?
5 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/24(日) 23:09:03
また毛利厨か
7 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/24(日) 23:10:24
三本の矢の話をしようか
9 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/24(日) 23:16:16
石高も最強。
武将も名将ぞろい。
まおけに石見銀山持ってるんだぜ。
一時は中国地方のほとんどを支配下においてるんだから凄い。
10 :
貧血:2005/07/24(日) 23:16:56
三本のあなるばいぶ飲み込むオナゴは怖かったです((o;TωT)o
12 :
貧血:2005/07/24(日) 23:21:03
>>11 詳しくは知らないけど江戸時代の創作らしい。。
あやふやな知識でスマソ
大友に駆逐されただろう
>>13 ええ?
尼子と戦ってる最中にちょっと遊んであげただけですよ。
豊臣政権下で8ヶ国の領主と言われながら
120万石しか無いとはこれいかに。
>>15そんなもんじゃない?
周防長門で30、石見10万石、安芸20万石、備中半国と備後で30万石。
出雲とほうき半国で25万石。
17 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/25(月) 12:54:29
>>9 そんなに強かったのに天下を奪れなかったのか。
毛利家はよっぽどの馬鹿揃いだったんだな。
18 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/25(月) 12:56:20
>>1 こんな良スレは心から応援できますね。がんばって良くして行って下さい。
戦国basaraに出てたっけ?
五大老の名前を見てニヤニヤしてます。
21 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/25(月) 13:57:26
島津が最強
>> いやいや、毛利家は人材不足に泣いていますよ。
少なくとも安芸の国人領主が、
短期間で中国地方統一するのに必要な人材はいなかったでしょう。
毛利隆元が毛利元就から家督を譲るといわれた時に、
人材不足なのに譲られても困ると書状に書いていますし。
23 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/27(水) 03:30:35
元就は死ぬとき子孫にも天下を望むなといい残してしんでる
中国で十分満足してたんだろう
>>9 武将は名将揃いって
どんなのがいたかわかんないよ
25 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/27(水) 09:03:08
毛利輝元は相当厳しくしつけられたたため、
萎縮して消極的になったのかな。
26 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/27(水) 09:12:26
27 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/27(水) 09:14:49
>>17は核心ついてるだろ?それだけ凄いのに天下取れないんだもんな、余程馬鹿しか集まらなかったんだろ
28 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/27(水) 09:26:45
天下獲らないんじゃなくて、獲れなかっただけじゃん
毛利なんてそんなもんよ
毛利家って鉄砲あんの?
毛利家って騎馬あんの?
元就もわかってたんだろな、ウチじゃヘタレ中国地方しか取れないってな。
大友との戦いで気づいたんだろうな^∀^
毛利家はともかく毛利元就はガチ
隆景があと10年長生きしてれば、家康もそうそう豊臣に手出しはできなかっただろう。
あと元春の方が長生きしてたら、天下取りを目指したかも知れん。
まぁ余程の事が無ければ、父の遺言に背くことは無いだろうが。
信長の野望だとこの二人が強力すぎるため、他が割を食ってしまっている印象だな。
人材はソコソコはいただろう。
しかし、天下を望むという事は本当に大変な事。
>>26 ただの金山といっしょにしてもな、石見銀山は当時世界最大の産出量を誇った銀山ですぜ。
近々、世界遺産に申請するらしい。
鉱山もそうだが海運の要衝を握っていたのも大きい
でも隆元が死ぬとあっさり財政不況しちゃうんだよな
39 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/20(土) 01:32:21
やまおかさんをよみはじめますた。
やっぱり隆元は影の実力者だったのか?
早く死んじゃったからわからんよなー。
元就曰く、計算、勘定(行政も?)に秀でていたらしい
天下を取るには宗教の縛りが強いんじゃないの?
意味不明
モレは毛利にとって天下取への一番のチャンスは元就が死んだときだと思う。
その時九州から撤兵しているが、その時点で戦略を東に向けていればと・・・
もともと毛利は地政学的に有利な点が多い。
一、北、西、南と海に囲まれていて攻められにくい。
一、大内、尼子と倒し、残る強敵大友は九州で手一杯。
一、瀬戸内の制海権を握っていて京への距離が実際よりも近い。
その他にも
一、下っ端国人からの成り上がりで、伝統、しがらみが少ない。
一、家中の大物、吉川、小早川が叔父さんで仲良し。
後を継いですぐって訳には行かないだろうけど、両川に支えられながら
信長討伐令って言う大義名分をもって東上すれば道中の大名も味方になり
3万の大軍で入京。武田の始動もちょっとだけ早まり織田は美濃まで撤退。
長門、周防、石見、安芸、備後、出雲、隠岐、伯耆、因幡、美作、備中
和泉、河内、山城14国を支配する毛利 (*゚д゚*)モエー
元就が余計な遺言残さなければ・・・と妄想するモレでした
家に伝統しがらみがなくても
部下にはあるもんだ
46 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 00:35:24
最大のチャンスは明らかに関ヶ原だろ。
毛利一族が真面目に戦っていれば勝ってただろ。
そうすれば大老の筆頭だ。
確かに関が原は大チャンスだったのにね。
秀頼に毛利家から嫁を迎える、ぐらいの条件を出せば
本気で戦ったかもね
48 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 01:56:06
関ヶ原で勝ったとして三成とかどうすんのよ?
49 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 02:03:17
石田幕府成立
一足飛びには出来んよ>石田幕府
51 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 03:14:57
>>46 だな。筆頭というか実質上の為政者だよな。
52 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 05:06:28
秀頼はどうすんの?
毒殺
豊臣の殿様はそのままにして、鎌倉幕府における北条氏のような立場になればいい。
うまく立ち回れば、豊臣の殿様=関白、毛利の殿様=将軍、とすることもできたろう。
だがやはり元就が他の大名に先んじて領土を広げたアドバンテージを
生かすには、信長包囲網の時に上洛して欲しい。
うまく織田の領土をいただくことが出来ればもう最強。四国→九州と
各戸撃破しつつ足元が固まった時点で将軍はどっかにやって
天皇の首のすげ替えも可能。毛利にあらずんば人にあらず(;゚∀゚)=3
>毛利にあらずんば人にあらず(;゚∀゚)=3
上杉家でいきなり威張りだす安田&北条w
57 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 10:19:42
豊臣秀頼を暗殺しておいて小早川秀秋を関白につけたら?
2年くらいして体制整ったら秀秋にも発狂でもさせて死んでいただいて。
>>57 秀秋を西軍に引き込む条件に「秀頼成人まで関白につける」というのがあったな
ただ、秀秋が小早川に入嗣してからは小早川は毛利の影響を離れて独自に動いてるから
親毛利大名というより親豊臣だな。
59 :
42:2005/09/01(木) 12:54:41
広島は現代でも安芸門徒が強い。政教分離をある程度できないと天下は無理では?
信長と戦う気があまりなかったのに、本願寺を助けにいかざるをえなかったのも安芸門徒のせいだし。
60 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 16:27:56
9月19日より時代劇チャンネルにて毛利元就放送開始。
中村橋之助の演技に激しく期待
>>59 話がテレコになってるぞ。
安芸門徒が多くなったのは戦国期なんだが、浄土宗徒の力を戦略的に利用するために領内の各宗派の寺を強制的に改宗させ拒否した場合は廃寺、それを行ったわけなんだけど。
>政教分離をある程度できないと天下は無理では?
当時は政教分離なんて関係ないよ。
家康なんかは天下取りが見えた時点でお膝元の関東に勢力を持ちつつあった東本願寺とよしみを結んでるしな。
むしろ信徒を多く抱える浄土宗徒を抱きこむことの方が肝要。
>秀秋が小早川に入嗣してからは小早川は毛利の影響を離れて独自に動いてるから親毛利大名というより親豊臣だな。
そりゃないだろ。親豊臣は隆景の時からそうだしな、それが毛利のためと。
秀秋の正室は輝元の娘で、隆景死んで2年で二十歳にも満たない秀秋が隆景時代からの小早川の重臣の首を挿げ替えるなんて無理だし、
事実関ヶ原では秀秋の命に従わず独自の行動を取る家臣が出たせいで3分の1に満たない東軍の軍勢に苦戦してるしな。
そのうえ、小早川断絶後は毛利系の小早川家臣や旧小早川(三原系)臣は吉川や毛利に戻って召抱えられてるしな。
縁が切れて、毛利の影響下を外れてれば、減封で財政難に苦しむ毛利が召抱えることはないしな。
俺もそう思うしな
65 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 20:27:23
元就ってなんで野心がなかったの?
>>65 吉川や小早川に自分の子供を送り込んで乗っ取ったり、主家である大内や尼子に
下克上しているあたり元就自身は野心ありまくりだろう。
嫡男が死んでる→18歳の孫が継ぐ→戦する→吉川、小早川が主導する→家中分裂
ってのを恐れたのかもしれない。
67 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 00:38:25
結論として、毛利じゃ天下を取るのは無理ということだね。
元就が生きてるときの状況では天下を望むどころじゃないだろ。
>>67 そんな事は決して無い。織田だって豊臣だって徳川だって実際に天下取って無ければ
絶対無理って言われるような小物だった。
結論としては、あの時代多くの大名に天下を取る可能性があった。
取れなかったのは、運と野心が足りなかったためである。
>>68 大変なのはみんな同じ、望めば夢は叶う(*^ー゚)ノ
>>69 そうは言うが元就が死ぬ数年前から毛利は結構厄介な状況になってるぞ。
九州では大友と敵対
周防においては大内輝弘が大内残党率いて蜂起、山口を奪い。
出雲ホウキなどでは、山中などの尼子再興軍が一時は月山冨田城を囲むほどの勢い。
また美作も高田城が包囲される。
山陽だと備前の浦上宇喜多が毛利と敵対し、備中の毛利領を攻撃し、備後でもそれに
呼応するものが出てくる始末。
また四国の阿波三好も浦上に協力して備前へ進出。
更に村上武吉が大友に寝返るという状況。
それに対し元就は九州を放棄して大友と講和、領内の一揆反乱を鎮圧、義昭信長に要請して
浦上宇喜多や三好を背後から牽制させようとする。(このときの信長は応えられる状況にない)
そして尼子再興軍をなんとか出雲から追い出す。
ここで元就はタイムオーバー
浦上宇喜多を降服させ尼子軍を駆逐して備前因幡まで制圧するのは輝元。
まあこのあと三村浦上の離反でまた大変になるんだが。
元就がしんで、つぎはNEW元就が大名になったら・・・
天下取りウハー
>>70 だから
>>44にも書いた様にチャンスは元就が死んだ後。
信長が畿内に乗り込んで徹底的に嫌われたところで
正義のヒーロー毛利登場(゚д゚)ウマー
ガンガレば夢は叶うって(*^ー゚)ノ
>>70 でも、それは天下取りを目指さなかった場合のシナリオだからな。
九州で大友とやりあった時点で天下への野心がないのはあきらかだよ。
あそこまで北部九州に固執すること自体、元就が天下人ではなく瀬戸内の権益
と北部九州(博多)占拠による貿易の独占、その経済力と軍事力を背景に中央政権に対し
独立を確保し影響力を与えられる存在、室町における大内氏のような存在を目指したのはあきらか。
この目論みは、豊家政権下で隆景が見事に成し遂げたわけだが。
天下取りを目指してれば大友とはやり合わなかったと思うぞ。
とはいうものの本人も思ってただろうが、元就には天下を取るだけの時間が無いのは確か、もし天下を取ってもそれを安定させるだけの時間的余裕がない。
>>70 大友と講和したか?
まあどっちにせよ大友は筑前豊前、取り戻した後、毛利の侵入で中止していた肥前攻めを
行い大失敗。動けないだろうが。
>>73 元々宗家の所領が少ない上隆元が死んで財政がピンチだったという話しもあるが、経済力
が無いまま、東に進んでも途中で失速するんじゃないか?
天下取りを目指すなら、なおさら十分な基盤を必要とするはず。
>>72 元就が死ぬのが1571年。そして三村を滅ぼし浦上を追放し一連の騒動に決着がつくのが
1575年9月。
長篠が終わってる時期なんだが。
75 :
72:2005/09/02(金) 02:22:48
>>74 信長も付近に六角だの浅井だの一向宗だの抱えながら京都⇔岐阜を
行ったり来たりしてたんだから、なんとかなるんじゃない?
ちょっと遠いけど海路も有ることだし。
>>74 財政ピンチの最大の要因が大友に対しての軍事行動(それに伴う大友の調略による離反や大内系の一揆等)が要因だからな。
少なくとも、行く手を阻む中小の国人勢力を駆逐しながらの京までの行程と、同等に近い勢力を持つ大友との争いを考えると東上の方が可能性はあるわな。
事実、信長との抗争時には行く手を阻む中小の国人勢力を調略駆逐して一挙に畿内まで迫ってる、宇喜多の裏切りで畿内進出は頓挫したが。
ただ上洛果たしてもそこからのビジョンがない。朝廷や幕府など旧権力大好きの毛利が、信長のごとく足利家を担いで覇を唱えるにしても元就に時間が無い。
結局、元就は結構長生きしたが、当時を考えると60超えれば本人はいつ死んでもおかしくないと考えてても不思議じゃないしな。
>>76 東に進んでも不安要素を内部に抱えたままならないずれ三好なり織田なりと戦うときがきたら
一揆なり離反なりが出るだろけど、当面は東に進んだほうが勢力を広げられそうだろうな。
ただ三村の離反理由考えると、宇喜多か三村は倒す必要がある。
まあ史実だと大友と消耗戦になったと知っているから言える事だけど。
でも信長との抗争時の織田と比較しての毛利の軍事活動の鈍さ少なさを考えると財政ピンチ
は慢性的な問題じゃないか?
>>75 いくらなんでも状況が違いすぎるだろw
まあ反毛利勢力を無視して畿内まで行ける行けないでいったら行けるだろうけど、
有効性は低いだろうな。謙信が上洛して三好を倒せるかというレベルだろ。
>>77 東上時は、7万超える大軍動かしてるから財政うんぬんというより、宇喜多寝返り以降はやる気の無さが大きい。
宇喜多離反以降は、隆景&恵けいが常に織田との和平交渉に動いているから、片方で服属申し出ながら、もう一方で大軍動かして反抗するってわけにも行かないからな。
とは言うものの軍事的に大きな敗北をしたわけじゃないから家中では強硬派が和平に反対してるから大きな譲歩もできずに、ジリ貧。
毛利としては、出城が次々落とされる間に時間を稼いで少しでもよい条件を引き出せれば、もしくは状況の悪化により家中の強硬派の勢力が弱まるのを待ってる状況。
>>78 信長が一気に畿内にに勢力を広げられたのも、やはり将軍の威光あってこそ。
義昭を裏切って信長の正当性が揺らいでる時、将軍の意向を受けた毛利が
大軍を伴って上洛すれば本願寺はもとより畿内旧勢力が一気に挙兵すると思う。
そうなれば本能寺の秀吉のように、反信長の総大将として信長後も実権を握ることが出来る。
81 :
80:2005/09/02(金) 09:17:12
さらに信長の持っていた堺、京の商業権益もいただき
>>74が言うような財政問題も解決(゚д゚)ウマー
>>80 領国を空にしてまで上洛するかよ、
十分な兵を残していったら上洛しても役立たずだし、畿内占領しても、そんな飛び地
すぐ失うだろ。それこそ大内の二の舞
>>79 7万は信頼性ないだろ。それに宇喜多離反前も動きはニブイ。
上月城落としただけジャン
毛利の軍事活動の鈍さ少なさは財政だけでなく、統治体制軍制などの問題でもあるんじゃないか。
根本は宗家の所領があまりに少ないというのが原因だろうけど。
博多が取れていればあっさり解決したかもしれないけどな。史実じゃ元就は大友と争っているが
東に進むより大友と争うほうが毛利のためと思ったんだから、勝算はあっただろうけど
>>82 >7万は信頼性ないだろ。
そうか?それ以前に、だいたい毛利単体で3万〜5万は動かしてるからな。これに宇喜多の1万5千に降った国人、河野系の水軍加えたら行かなくも無いと思うけどな。
まあ、3道合わせてだから7万勢ぞろいでの行軍はしてないけど。
>>84 それは信長上洛の兵6万とかや伊勢攻めの兵10万とか
義元の4万5千とかを認めるのと一緒だぞ
あと備前一国程度の宇喜多が1万5千なわけない
>>82 毛利の兵は2〜3万でもいい、畿内西側は反信長勢力の宝庫なんだから、
とりあえず信長=悪と言う図式が大事(献帝を傀儡にした董卓見たいな感じ)
京都を取っちゃえば従わない国人を飲み込みつつ、最後は美濃、尾張へGO!
とにかく急がないと浅井、朝倉、松永が死んじゃう。
>>86 2〜3万で備中から畿内までの連絡線を守れるか?無謀すぎないか
>>85 この時期の宇喜多は備前一国も無いって。
>>86>>87 浦上宇喜多が降服したあと、三村が離反しないで即大軍を動員して
讃岐淡路を封じ込めて播磨へ攻めこんで播磨制圧、
これを一年以内に行えば可能性は十分ある。
>畿内西側は反信長勢力の宝庫
そうとは言えない
>>88 宇喜多は備前のすべてを支配していたわけでないが、備中や美作の一部も持っていた
>讃岐淡路を封じ込めて播磨へ攻めこんで播磨制圧、
美作や因幡の制圧は後回しということか?
毛利はどうあがいても地方大名以上になりあがるの無理だったよ。
【元就】5万で上洛できっかよ【輝元】
っぽくなってきたな。どんどんやってくれ。
毛利の体制が豪族連合の域を出てないから、長期間の大規模な遠征は無理だったのでは?
織田や豊臣のような、近代化された支配体制に移行したのは、検地で第一歩→関ヶ原での領地縮小を経てから。
まあそれ言ったら武田も上杉も島津もそうだが。かろうじて北条が多少大名への権力集中に少し成功していただけ。
なんでも無理無理、信長だから出来た、とか言う人って
信長がいなかったらどうなってたと思ってんだろ?
出来なかっただろう。って思ってる。
>>95 いずれ誰かがやってると思ってる。
検地や支社の統制、有力国人衆の掌握・大名への権力集中はどこもやろうとしている。
98 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/06(火) 14:05:05
英・仏・西辺りはもうやってるしね。
99 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 01:36:23
>>97 織田以外では北条家なんかは割と進んでいたらしいね。
信長のような兵農分離まではいかないけど、
ある程度、国人衆と領民の繋がりを弱めることにも成功している。
もし秀吉が没するのを待っていれば、結構いいとこまでいけたかもしれないし。
つか、毛利って兵農分離って関係無いよな、人口の割に石高少ないしw
もともと瀬戸内は農民より漁民や海運流通関係商工業で食ってる地域だし。
尼子攻めでは兵農分離されてない軍隊としては異例の、万超える兵を2年近く展開させてるし。
とはいうもののそれだけの兵を長期間養うためには石見の銀山なきゃ無理だったらしいけど。
いくら難攻不落の月山富田城といえど無駄遣いし過ぎジャマイカ?
周防・長門で35万、安芸40万
少ないか?
検地でもしたのか…?
藩の石高って米だけではないのかもな。
加賀100万石も慶長史料だと、越中・加賀・能登を合計しても80数万石
だが、関が原前後の史料だと加賀藩は約120万石に達してるし。
>だが、関が原前後の史料だと加賀藩は約120万石に達してるし。
史料に約120万石とあるの?
107 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 22:32:33
>>104 隠し田とか見つけて、石高に載せたんじゃないか。
もしくは、関ヶ原の合戦後に加増されたとか。
>>107 加増されたようだが、どこをどう加増するのかってのが問題。
加賀藩ってのは、基本的に加賀・能登・越中から成るわけだろ?
で、慶長史料では加賀・能登・越中の総石高でも80数万石なわけだ。
残り40万石近くはどこから沸いてきたのか。と。
毛利元就って、信長の野望じゃ、武力とか政治力、教養とかの全数値のトータルが最高なんでしょ。
最強武将だったんじゃないの。
だから毛利ヲタはゲーム厨とか言われるんですよ
112 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 06:51:08
隠し田の取り締まりや、新田開発だけじゃ40万石には届かないですから、
水田以外の畑も石高に数えたと考えるのが自然じゃないでしょうか。
東北地方の話ですが、津軽藩5万石・南部藩10万石は人口に比べて少なすぎます。、
それは麦・稗・粟といった商品価値のない穀物は石高にカウントしなかったためといわれてます。
おそらく加賀藩には米以外の商品価値のある作物があり、それを石高にカウントしたのではないでしょうか。
時代は古すぎるが、租庸調の調(特産物)も石高に加えた感じか。
>>112 >水田以外の畑も石高に数えたと考えるのが自然じゃないでしょうか。
おいおい、取り合えず太閤検地について調べてみな
115 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 16:19:32
116 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 17:31:51
>>112 南部家は領土が増えてるわけではないのに、
幕末には20万石に加増されてますよね。
これは少なく申告していたことが、幕府にばれたためですか?
違う
江戸末期に蝦夷に度々ロシア船が現われた為に
松前、津軽、南部から北方警備を出すことになった
その見返りとしての家格向上
といっても、家格が上がれば出費が増えるから、南部藩としては全然美味しくない罠
>>115 >>112と話が繋がってないぞ。
そもそも安芸は毛利領では無くなってるんだから無関係だしな。
安芸の毛利領の石高が太閤検地時から倍増した理由にはならん。
太閤検地での毛利領は大大名では唯一秀吉から輝元自身で検地することが許されてるから自己申告。
石高で合戦や造営の分担比率とか決められるから正直に申告してたかどうか微妙。
関ヶ原後は徳川によって検地され、各大名に恩賞として与えられたから多少実数値に近いかもな。
>>109 >周防長門だけで50万石以上ある。
それは違う。そもそも毛利の分家は後にできたわけだから全部足すのはおかしな話。
関ヶ原後に決定した毛利領から分かれた、つまり分家は369千に含まれてるってわけ。吉川は微妙だが。
119 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/10(土) 07:09:18
>>118 ではどこから40万石沸いてきたのでしょう?
120 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/10(土) 08:03:07
>>118 は
>>115を良く読んだほうがよい。
安芸なんて書いてない。毛利藩と書いてあるし
慶長検地の結果、毛利藩の実石高は539,286石となり、
表高29万石に比較して24万石の増加と、ほぼ倍増となりました。
幕府に対しては、369,411石と上申し、これが公称石高とされました。
表高と上申高いと実高は違うってことだ。
脱税みたいなもんだ
毛利関係の史料で、吉田物語の他に6500円以内で何かいいのある?
>>119 意味がわからんが?
太閤検地で既に40万弱(38マン位か?)じゃなかったけ?
>>124 太閤検地じゃ、慶長史料のより少ないだろう
29万石以下
>>125 調べてみた。漏れの記憶違いだったな。広島(安芸備後)と勘違い。
山口(長門周防)で30万石だな。
>>126 サイトとかない?
太閤検地の石高表みたいな
えんえんと意味の無い詰まらん話が続いてるな
厨房がひとりいるな。
俺の上。
石高は重要だろw
>>127 ほらよ。毛利の勢力下となったことがある地域だけ。
筑前は短期間だけなので除外。端数は切り捨て
美作 18.6
備前 22.4
備中 17.7
備後 18.6
安芸 19.4
因幡 8.9
伯耆 11.0
出雲 18.7
石見 11.2
周防 16.8
長門 13.1
伊予 36.6
豊前 14.0
>>127 ほらよ。毛利の勢力下となったことがある地域だけ。
筑前は短期間だけなので除外。端数は切り捨て
美作 18.6
備前 22.4
備中 17.7
備後 18.6
安芸 19.4
因幡 8.9
伯耆 11.0
出雲 18.7
石見 11.2
周防 16.8
長門 13.1
伊予 36.6
豊前 14.0
と思ったけど隆景が筑前と筑後2郡だっけな。つことで
筑前 33.8
筑後 26.6
thx
広良です
当主が、三代続けて若死にしたとです…
広良です…
広良です
当主の後釜に、尼子が干渉してくるとです…
広良です…広良です…広良です…
宍戸隆家ってどうよ?
138 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/15(木) 13:45:22
清水宗治最高!!!
お前らの好きな毛利の武将は誰よ?
139 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/15(木) 14:42:14
小三太!
…ん、何か問題でも?
えけーとか言う輩は斬首
141 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/15(木) 20:21:43
143 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/15(木) 21:38:56
大河ドラマみて渡辺通が好きになりました
ところでさ、
関ヶ原の輝元の大阪入城後に元就の霊が降りてきて
ハイパー輝元になったら毛利は天下とれたと思う?
ハイパー化しても無理。
>>144 ハイパー輝元が何時間保持できるかによるw
ハイパー化した元就が情勢判断して家康に加担、毛利全軍東軍化。
>>147 その後、お得意の謀略で徳川家の内部分裂を誘い込む
のじゃな?
見事じゃ!
150 :
毛利元就:2005/09/16(金) 08:41:04
わしに混乱をしかけようとは100年早い。
本当の混乱とはこうするのじゃ。
ハイパー輝元vs徳川家康の老獪な武将同士の
知謀を尽くした果てしなき戦い。
徳川を分裂させるか?毛利をねじ伏せるか?
隆景が乗り移ったハイパー秀秋もよろしく
ハイパー化した隆景が情勢判断して家康に加担、小早川軍東軍化。
真打として元春が乗り移ったハイパー広家に期待
で、隆元が乗り移ったハイパー秀元がサポートに回るわけか
【ハイパー輝元】
本名は毛利輝元。あの大江広元の子孫である。父・隆元の急死により
家督を継ぐ。戦国最強の謀略家であり祖父である毛利元就や「鬼吉川」
と言われた叔父の元春や隆景らの補佐をうけ領土を広げる。本能寺の
変を知らず、羽柴秀吉と和睦してしまい絶好のチャンスを失う。国人領
主毛利家の遺伝ゆえか、争いを好まず、ひたすら強者への臣従を続
ける。やがて五大老の一員となる。秀吉死後、石田三成らに擁立されて
総大将として挙兵し大坂城へ入城する。ついつい、うたた寝していると霊
体となった元就が現れ「こりゃ、しっかりせんかい!わしのかわいい孫・
輝元よ。徳川と石田の対立している今こそ絶好の機会。またもや逃すつ
もりか!情けなや。仕方ない、今度ばかりはわしが助けてやろう」と輝
元に憑依。
続き頼んだよ。
そんなことしなくても
経久が75歳で死んでれば、元就が余裕で天下統一。
本家と毛利両川が東軍いったら
西軍総崩れになりかねんわけだが。
158 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 01:37:49
>>157 そもそも関が原の戦い自体が無くなってしまうような気がする
159 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 02:06:39
いや、混乱に乗じて北九州取れるから
ハイパー輝元は西軍勝たせるだろ
毛利って元々一豪族で尼子や大内に従属しながら勢力を拡大していったんだろ?
元就って次男だったはず?
尼子経久は最強だ
おまいらはなんで、秀秋がハイパー化した隆景になると言わないんだー
血が繋がってないからか?
>>161 隆景が秀秋のこと、かわいい我が子と思ってるのか?
秀秋がカッコよく描かれてる創作や小説ってある?
165 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/20(火) 15:40:45
ああ、隆元さえ早死にしなければ・・・
鮎に当たるってマヌケすぎ。
いやいや、ストレスだろう。兄弟が有名になるのに、「どうせ俺なんてさ・・・」
ってなかんじで鬱丸出しだったんじゃないのか?
隆元は実力は十分あったのにねぇ。
寧ろ温厚で誠実と言われる隆元は強烈過ぎる親父と弟に
常に胃薬常備の状態だったんだろうwww
169 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/05(水) 18:08:32
弟二人が構ってくれないという愚痴を書いた手紙も残ってるが、
ストレスに弱そうな感じだな
毛利家は代々短命が多いね
毛利豊元・32
毛利弘元・40
毛利興元・24
毛利幸松丸・7
毛利隆元・40
椙杜元秋・33
172 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/05(水) 19:41:19
たかもとって何気に40までいきてたのか
人間50年の時代だしそんなもんじゃねえか
毛利は優秀な大名だが、優秀な大名というだけなら何人もいる。
天下を取るということは単純な(信長の野望であらわされるような単純な)項目ごとの能力より、
@0から1を作り出すような、ブレイクスルーすら起こすような奇才
A二国しか取ってない状況で天下布武を掲げるような、強烈な天下への意志
Bその意思から生まれるそのための戦略
などが必要。特に元就には、Aがなかった。ゆえにBも生まれない(天下取りの戦略としては)。
まあAの点では信長が異常なんだが。しかしどの国でも、乱世を抑えたり、領土を広げたような奴は、
何かがとてつもなく異常なものだが。
>>173 1,って具体的に何よ?
2、尾張・美濃の2カ国で軽く100万石超えるんだけど。
>>174 >2、尾張・美濃の2カ国で軽く100万石超えるんだけど。
これは後のデータ。戦時中のデータではない。辻褄合わせや、天下人の生まれなんだから他と差がついたりと、
色々入るのでそのまま信じるほうがどうかしてるだろ。
>1,って具体的に何よ?
宗教イメージの変革、ローコスト兵士、孫子などの書物を参考にしない戦術、
全滅戦への持込・引っ張り、恩賞価値の大幅変化
とか
ってか天下って何w
177 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/06(木) 12:38:20
元就は天下とるなといlてるぐらいだからな
178 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/06(木) 13:09:52
だいたい、スタート地点に↓くらい差があるわな
信長 天下w
元就 天下w
史料によっちゃ周防長門だけでも50万超えるんじゃがな。
安芸石見あわせれば余裕で100万オーバー
史料によってはこれまた、周防長門で30万程度
安芸石見あわせても85万程度
181 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/06(木) 14:29:31
元就がもう少し遅く現れたら天下を統一していたと言うが、
元就がもう少し遅く現れたら毛利家が存在しなかったと思う。
182 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/06(木) 16:36:14
元就は天下を取れる資質(本人の能力)はあると思うけど、
中国地方自体が当時の政治・経済の中心地だった
京都から少し遠いからな。
183 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/06(木) 16:43:23
元就が中国地方を統一できたのは、尼子と大内が大勢力を気づいていて
オセロゲームが出来たからって所もあると思う。
小領主が乱立していたもんだから、京都付近は巨大勢力になるまでに
時間がかかり過ぎた。
元就の教えを忠実に守り、両川が毛利のために色々と犠牲になったからこそ
お家取り潰しを免れ、長州藩として存続したんだから結果としては正しかったと思う。
周防や長門取った時には50も半ば過ぎてるからね
尼子滅ぼした時には60超えてる、つうか70近い?
ここから天下狙うには歳を取りすぎだ。
187 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/07(金) 00:09:07
>>184 博多・山口も大分栄えていたけど、
やっぱり京都と比較したら、経済の中心とはいえないだろう。
188 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/07(金) 03:19:17
>>185 その割には四国に進出したり
足利義昭を匿ったりと、色々やってましたが。
189 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/07(金) 03:26:42
三本の矢の話は有名だけど単純だよね。この話聞かされたとき、当たり前だよと思って
たのかな〜。
190 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/07(金) 03:53:59
当たり前の事が中々出来ないのよ。
元就も信長も以下略。
元就は優秀だけど、天下とは縁がないな。
もっと京に近ければ、というが、そういう問題でもない気がする。
要するに、本気で天下を欲するか否か
192 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/07(金) 10:54:14
国人領主の同盟の盟主のような緩い結び付きの延長だから天下はムリッポ
もう少し京に近ければ、というが、近かったら機内の争乱に巻き込まれるだけだろ
194 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/07(金) 11:16:24
戦国時代でssクラスの大名である事だけはたしかだけどね。
SSクラスって言い方がKOEI厨くさいです
天下を取るって、ホント単なる能力だけじゃないんだよな。それは日本だけじゃなく、世界のどこの国でもそう。
戦乱が起き、それをを鎮めた人間も、国の代表として海外へ遠征し成功した人間も。
能力よりなにより、どこかが猛烈に人と違うんだよな。
どんな国にも優秀な人間はいるものだけど、天下人というのはほんとそれだけじゃないんだよな。
あるいは、もっともノーマルな人間が天下を取るという話もある。ノーマルな人間そのものが、戦乱の時代では少ないからね。
ノーマルな人間か、あるいは突き抜けたいかれ具合の人間か。天下を取るのは必ずどちらか。
中途半端な人間には取れない。
不細工な奥さんもらって、側室を一人も取らなかった元春は男です。
もしかしたら現代の基準では美人で、元春も現代人と同じような感性をもってたのかも知れませんが。
信長だって、単純に領土拡張の先に京都という政権の中心があっただけで、他と変わらないよ
尾張とったら美濃、美濃とったら近江、近江とったら京都……当たり前のことでしょう?
型にはまらない英雄、信長という像に憧れるのはわかるが、実際は大虐殺もしてなけりゃ、ただの子煩悩だったりする人間ですよ
それって信長にも言えることだよね>コロンブスの卵
まさか、楽市楽座や兵農分離政策や城下町制度が信長の発案だなんていわないよね?ね?
>>198 もしその調子でみんないけるんなら、みんながみんな天下人になってるっつーの
>>200 コロンブスの卵の話ってのは、
「んなもん俺だってタマゴわって良いなら、卵なんて立てられたよ」
って言う文句に、「しかしお前はやらなかったろ」って返すことだ。
「んなもん毛利だってその気さえありゃ天下取れたよ」
っていうのは、
「んなもん俺だってタマゴわって良いなら、卵なんて立てられたよ」
って言うのと同じ。そりゃ可能性だけ取り出せば、出来るかのように思える。
しかし誰もしなかった。信長はした。そういうこと
だから、信長は地理条件が恵まれてたって言ってるのに話通じて無い?
領土拡張が目的の時代で、当然拡張するなら隣国から
そうやって広げていった結果、尾張っていう場所がスタートだった信長は京都を取れたの
京都を取れたから天下wを意識できたの。そういうこと
>>200 楽市楽座や兵農分離政策や城下町制度が誰の発案か、というより、
拡大中の勢力の信長が併用したというのが大きい。まあそれは独自性というよりは性格と、
政治力を現すことの意味のほうが大きいかな。
信長がやったことで、確かに革新性のあることは多いよ。
土地より茶器へと、褒美としての価値を変遷させたことは大きいし、
全滅戦や致命的なダメージや滅亡の少なかった戦国において、そういう戦に持ち込んだのもすごいことだしな。
でもそれ以上に、やはり天下への意思だろ。
たまたま近くを攻めていったらたまたま最大勢力になった、ではないだろ、信長の場合。美濃を取った時点ではっきりと、天下への意思を表している。
大名としての安泰を求めていたんなら、そもそも色んなところを敵に回し、馬鹿みたいに拡大する必要もないし、本願寺とも適当に仲良くやってれば良い。
戦国時代、どんな小国でもそれほど滅びなかったのは、互いに互いの利をある程度理解し、ある程度でやめていたから。
相手が全滅するまでやる国など少なかったし、相手の戦力と自分の戦力を見せ、はいさっさと終了。全滅戦など馬鹿のやることと考えられていた。
しかし信長は違った。どこまでも拡大しようとした。そして局地的に負けることをいとわなかった。
どれだけ小さく負けても、それは負けではなかった。軍として致命傷を追うことこそ負けであると考え、
とにかく相手を、致命傷を負うような、大きな戦の舞台に引きずり出すことを何度も狙った。
これらにははっきりとした戦略が見て取れる。天下への戦略がね。
>>203 地理的条件で言うなら、他にも京都に近い大名はたくさんいたし、
よく言う武田にしろ、外交努力をよほどがんばれば義昭をかついで京にいけない事もなかった。
それと領土拡張は誰もが考えていたわけではないよ。
もちろんでかい方が良いが、それよりは生き残る事のほうが大事。
203はちょっと知っただけで戦国を知ったつもりになってるかわいそうな人
ま、最初は誰もが通る道だから落ち込むな
207 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/07(金) 19:52:45
天下って概念の変遷が気になるよな。
大内よしおきなんかは、当時の意識としての「天下」は取っていたと思うし。
京都に近すぎると、旧勢力が強すぎて政権が安定しないんだよ
畿内は決して裕福とはいえないし
信長が“たまたま”とは言ってない
信長はその時その時明確なプランを持って、行動を起こしていた
まず尾張、尾張をとったら美濃、美濃をとったら、京都、と地に足が着いたプランを立てていって行き着いたのが天下wなのよ
信長の優れていたのは
>>204のいってるように既存のものを優れているものを積極的に取り込む能力である
領土拡張策は交通に不備が無い土地が自国だからだともいえる。攻めることが守ること
信長を神にしたい気持ちはわかるけどね。アレも人間だよ
あと信長の天下wって日本全土じゃないけど、天下wっていうのかなw
210 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/07(金) 19:58:52
元就と信長の立場が逆なら、毛利信長はさっさと殺され。
織田元就は本州平定してもまだ「毛利家に天下はいらない」とか言いそう。
>>209 日本最大勢力となった時点で、戦国は終息に向かうしかない。
その意味で十分天下だ。
>>210 織田元就は義元に討ち取られるか、大して拡大しない。
毛利信長は、天下を取っていたか全滅していたかどちらかだろう。
>>208 京都に行き着く前から天下布武掲げてたんだか
というか、地がどうだとかって最高に不毛な議論
そういう地に生まれたからそういう風に育ったのであって、
違う地に生まれたら違う性格になってたろうし
>>208 で、何で204であげられてるような、革新的なことには触れないの?
十分革新的な事やってるぞ信長。
一つ知ったら(たとえば信長が楽市楽座を発案したんじゃないとか)、
まるでそれまでのイメージがすべて違っていたかのように言うのは、少し知った奴や、
先走り学者のよくやることだな。
地で何もかも決まるんなら
みんなチンギスハンになれるもんなあ
217 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/07(金) 20:49:25
楽市楽座的政策は古くからあったと思うよ。
そもそも日本の当時の政策なんて中国の真似が多かっただろうから。
ただその政策を取り入れるか取り入れないかが重要なんじゃね?
数多の政策の中から最適を選ぶ力。
それから、元就は西の桶狭間といわれるような戦いを初陣でやってるよ。
だから勝つための戦略が物凄く限定されてる場合は、信長も元就も同じ事やった可能性が大。
よって多分織田元就は、結果として織田信長と同じ戦略を取っていたと思うよ。
織田元就は天下取りより生き残りにがんばるだろ
多くを敵に回さんうちに、武田ぐらいのとこでまとまるだけじゃないかな
219 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/07(金) 20:56:32
そもそも織田元就は朝廷を絶対に裏切らない気がする。
>>219 裏切る裏切らない以前に、そこまで近づかないんじゃないか?
革新的といえば、信長がちらりと選挙制度やろうかな、
なんて口走った事があるって話があるな。どこまで本気かはともかく
元就と信長ねえ・・うーん・・
この二人、そもそもそれほど接触ないんだよな。水軍ぐらいなもんで。
そういや鉄甲船は、元就が金持っててもやるとはあまり思えんな
>>217 同意、218を含めて信長厨はイタイな‥
元就を基準にすると信長は格下。
元就>>信長信玄家康≧以下省略 このくらい差がある
224 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/08(土) 02:59:54
信長は運に助けられた場面も結構多いし、
周りにそれ程、大きな勢力がはじめはいなかったからな。
しいて言えば今川義元だけど、
あれは殆んど奇跡的な勝利だからな。
>>
楽市楽座的政策は古くからあったと思うよ。
そもそも日本の当時の政策なんて中国の真似が多かっただろうから。
ソースは?
脳内ソース推測断定厨ウザスギ
226 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/08(土) 10:11:27
国境で税を取らずに商業を発展さるという発想の政策は漢の前からありました。
227 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/08(土) 14:33:02
織田元就 だったら信長よりセコイから 桶狭間の奇襲なんてもんじゃない
元就は中国統一するまでに敵の寝込みを襲撃したり、対立する大名を戦の場以外で暗殺したりしてる
今川義元も暗殺するんじゃないの?
斎藤道三毒殺・忍びを使って信玄暗殺とかしそう
228 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/08(土) 14:36:40
元就が中国平定するまでには、正正堂堂とした戦で敵に勝った数より、暗殺や註殺の数が多かったのは確か。
んなわけない
230 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/08(土) 15:06:53
>>
国境で税を取らずに商業を発展さるという発想の政策は漢の前からありました
ワロスw
231 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/08(土) 16:06:05
楽市楽座の起源は古代中国なスレッドですかね?
233 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/08(土) 19:11:49
なんでいきなりクソスレ化してるんだよ・・・
石高の話まではまともだったじゃないか
234 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/08(土) 21:33:44
>>233 織田厨が出現すると、どんな良スレでも
必ずクソスレになってしまいます。
235 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/09(日) 11:54:32
織田厨武田厨と言えばそれで理屈も道理も通るし楽だよな?w
低脳丸出しw
そもそもジエンって自分ではバレテナイト思ってるところが痛すぎるw
↑と、被害妄想の計に自分で掛かっております
ヒント:IP
IP晒しageって犯罪?
223みたいなのがいる限りは、程度の低いスレになるのは仕方ないだろ
加速してるから何事かと思いきや何この流れ
ここも信長厨に荒らされたか…
242 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/11(火) 14:29:49
今度は串使ってるw
ワロス
242w
織田厨だの毛利厨だの言ってるうちは同レベルだろ。
すぐ過剰な対抗意識出したりする奴が駄目なんだよ。
最初信長の話が出た時分は、例として出されただけで穏やかだったのに、
「元就が信長に劣るわけない!元就なら天下なんて楽勝だ!」みたいな事言い出したからもう手がつけられん。
ま、このスレタイだとそういうのが集まっても仕方ないか
同意は同意なんだが
正直、元就は一頭群を抜くと思う
246 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/11(火) 19:45:56
>>245 禿同。
戦国時代で元就ほどの成り上がり者は
そうはいないからな。
247 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/11(火) 19:54:28
毛利は人材不足だ
ノブナガ並に人材が居たら大阪より西は毛利の物だ
最強の水軍も居ますし
またIfの話する
249 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/12(水) 00:51:24
IFでなくとも信長は運に助けられた事が多々あるが
元就は自身の智謀で切り開いてたからな
しかも元就が当主になった時の勢力は一国人にすぎなかったわけだし
東西には大内、尼子と大勢力がいる中での功績というのも元就を輝かせるな
>>250 元就も十分運によるところがあるぞ
厳島の奇襲が成功したのは半分以上が運だろ
逆に二大勢力下の間だからこそというのもあったと思う。
後半はあっという間に二つとも平らげたという感じ。
ヘタに小勢力同士がひしめき合ったらこんなに大きくは
ならなかった感じもする。
>>251 厳島のどこらへんが運だよ?
>>252 その小勢力の集まりの安芸は巧みな外交術でまとめあげましたが。
やっぱりそうきたか。書き込んでて多分、そうくるだろうなと
予想はしてたけど。
あえて小勢力と書いたのは国人衆よりも大きくて大内・尼子よりも
小さい勢力と言う意味合いであえて「小勢力」と書いたんだがなぁ。
「大勢力」と書くと「大内・尼子がいますが何か?」と言われそう
だしw
そもそも運なんてあいまいな言葉を使うのが間違い。
>>254 龍興程度の暗君相手でも、美濃平定はそこそこ時間が掛かったのに
畿内の小勢力連中はあっという間に飲み込まれたよね。
どーでもいい屁理屈をこねすぎw
人より優れているとか、いないとか
あんたはいったいなんなんだあ
259 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/12(水) 23:30:30
口をはさんで失礼。
運が良かったと言うより運を自ら切り開いたと言う方があってませんかね。
771 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん :2005/10/04(火) 22:10:24 ID:xpenWNdu
自分は在曰(帰化申請中です…)ですが、
みなさんの言うホロン部(笑)というようなものの活動は確かにあります。
その中で教官から渡されるものに色んなネットでの工作活動の
マニュアルがあるのですが、少しだけ御紹介すると
分断演習というマニュアルには日本人同士の様々な対立を煽るというもので
2chの一部における織田ファンと武田ファンの露骨な対立関係も
我々が色々と装った成果ですし、
三国志演義ファンや正史三国志ファンの
対立も我々が煽ってます。マニュアルには
「一つのIDでどちらかのファンを装い片方を徹底的に叩き
国籍や祖国に関する指摘・煽りは徹底無視」と言うような感じで
なるべくばれないようこのマニュアルに従い努力しております
>>254 後釣り宣言のようだなw
>小勢力同士がひしめき合ったらこんなに大きくは
そんな都合の良い小勢力がひしめき合う地域なんてあるのか?
ひしめき合うってぐらいだから一桁程度じゃないんだろうしな。
普通なら国人クラスと思うんじゃね?
勢力を伸ばした奴に「あいつは幸運だから伸ばせた」なんて言ってたら、世界の英雄だってみんな運だっての
運って言葉使う奴は「俺思考停止してます」って宣言と同じ
たぶん現実も「運」とかで逃げてるんだろうなw
アイツに彼女ができたのは「運」がよかったからだ。
アイツが○○高校・○○大受かったのは「運」がよかったからだ。
仕舞にはアイツが幸せなのは、「運」がよかったからだ。
便利な言葉だw
265 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/13(木) 19:13:28
運も確かに必要だけど、その運をつかむ為の準備が人間には重要なんだよね。
266 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/13(木) 19:15:14
一日中引きこもって、インターネットできる環境にいる家庭に生まれたお前らは
「運」がよかったなwwww
↓稀代の英雄、隆景について語ってくれ。
268 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/13(木) 21:38:01
小早川正平
小早川興景
270 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/13(木) 23:49:34
隆景も元春もめちゃくちゃ短命ってわけじゃないが早く死んだよな。
>>270 人生50年の時代に50台半ばや60過ぎまで生きていて早く死んだもないと思うが
それでなくともこの時代の毛利家は短命の人が多いのに
おまえら、時代劇チャンネルでやってる毛利元就みてる?
昨日なんていらねーエピソードでさっぱり話が進まなかった。
OP前の解説の部分しか話進んでねーw
273 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 17:38:08
資料が少ないのこの人?
手紙が多い
275 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 09:13:36
元就ってなんで北九州から撤退したの?
276 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 10:19:45
結論から言うと田舎武将の戦は運どうこうの話ができるほど調査されてない。
桶狭間にしろ長篠にしろあくまで国を揺るがすほどの権力を持ち
現代でも全国的に知名度の高い「織田信長」の戦だから様々の調査検証が行われている。
だって注目度があって金になりやすいから。
良い例は「徳川家康」で売名して金になってる真田人気w
毛利元就の戦なんて調査して金になる?
>>276 それもあるかもしれないが、単純に田舎になるほど資料やら話やらが少なかったり信憑性が薄かったりったりするから、
調査するほうも困るんだよ。島津最強説をまともに信じる奴なんてあんまりいないだろ。
田舎だからこそ勝手に「最強」を名乗れるって部分もある
>>275 尼子の残党がしつこかったり三村と宇喜田が仲悪かったりで山陽山陰どっちも
安定しないから九州どころじゃなかった
>>276 >毛利元就の戦なんて調査して金になる?
まあその辺の地方大名よりはなるんじゃない。
西の桶狭間たる厳島は西国の情勢を一変させた戦だしな。
少なくとも学術的には調査する価値はあるし、されてるよ。
ただ、金目当てだと胡散臭い調査結果や本が多いよ。誇張した方が売れるからな。
西の桶狭間といえば元就の初陣の有田合戦のことじゃないか
毛利家は島津、北条なんかと並んでかなり研究が進んでると
聞いたことあるけどなあ‥
276が阿呆なだけや
最終的に天下取った奴が最強でいいじゃん。
要するに大衆が最強
厳島は三大奇襲の一つだな
桶狭間と厳島とあと河越だっけ
285 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 16:23:09
286 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 16:55:54
尼子滅ぼしてからなんで侵攻が遅いんだろうか。
あれだけの石高あれば少なくても播磨辺りまで進出できたのではなかろうか
287 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 17:07:41
>>286 織田や北条と違って毛利家は
家臣団の掌握・編成が大きく遅れていたからな。
国人や土豪の連合体っていう、中世的な大名から抜け出せなかったからだろ。
>>286 小三太が死んじゃったからに決まってんだろ
>>286 毛利宗家の領地ってあまり大きくないんだよね。
その上、やりくり上手で財政を支えていた隆元が死んで財政不況
九州での大友の伸長や領内での尼子・大内の残党の蠢動や配下豪族の反目だので
なかなか戦争どころじゃない
290 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/16(日) 22:23:05
>>289 俺、某大学の講師やってるけど、
少し前に学生の書いたレポートで面白いものがあったよ。
タイトルが「EUの停滞と戦国大名」で、
EUを戦国時代の毛利家や南部家(国人や土豪の連合体)に、
アメリカを織田家に、日本を徳川家に例えていた。
中身は現在のEUの停滞の状況は
尼子家を滅ぼした時の毛利の状況に似ているって書いていたな。
毛利宗家が抜きん出た存在になれなくて、停滞していた隙に
織田家のような強固な組織に、あっさりと抜かれてしまったと。
突っ込み所は満載だったけど、なかなか刺激的なレポートだったよ。
確かに毛利家は家臣団に頭が上がらないイメージがある。
元就は誰だったかに、(伝聞の類かも知れない)家臣は水で主家は船とか
いわれとか。
志道広良かな
293 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 02:17:34
古参の井上家の当主も謀殺したくらいだもんな。
294 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 02:34:24
>>290 アメリカが織田家、日本が徳川家、EUが毛利家
ここまではいいとして中国はどの大名家になってんの?
始皇帝の末裔のチョソ壁じゃね?w
過去の栄光にすがりつく足利将軍家
北条とみた。
298 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 18:23:32
韓国が豊臣だな
勢力orイメージor性質で書くとこんな感じかな。
アメリカ→織田家
ロシア→上杉家
中国→武田家
北朝鮮→若狭武田家
韓国→二本松家
ウクライナ→長野家
フランス→宇喜田
メキシコ→長宗我部
カナダ→北条家
バチカン→本願寺(別にバチカンが狂信的だというわけではない)
日本→徳川家
EU→毛利家
モンゴル→島津
3oo
中国は武田だよ。
徳川に侵略を繰り返し織田と敵対するが、そのうち滅びる。
>>中国は武田だよ。
なんかその言い方だと、一見299を否定してるように読めるのだが、
内容は思いっきり肯定なんだな
303 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/17(月) 21:58:15
フランスがなんで宇喜田だよと思ったが、なるほどEU(毛利)に含まれてるわけねw
同じく毛利に含まれてる河野は、さしずめ海洋国家のスペインポルトガルオランダ辺りか
305 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/18(火) 07:26:46
>>299 なんか今の世界情勢って結構
日本の戦国時代と似通っているんだな。
中国が武田家ということは、
台湾や東トルキスタンは、
木曾義昌と穴山梅雪ってところか。
韓国は浅井だと思う。
で北朝鮮が朝倉。
イラクは本願寺。
北朝鮮が朝倉ってこたないだろ
軍事力も生産力も。ある新興国家だから歴史もないし、公家気分でもない
中国を朝倉としたら韓国・北朝鮮が浅井・六角になろうか
ドイツとイギリスがないとしっくりこないな
じゃあドイツ=吉川にイギリス=小早川で
311 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 15:35:29
この話実に面白くないんだがな。
あっそ
同意
314 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 21:00:09
299まではそれなりに面白かったが、
それ以降は非常にツマラン。
315 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 21:14:58
316 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 21:27:45
>>1 お前が出したお題の答えは出ちまったぞ。
そろそろ次のお題を投下してくれやす。
317 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/21(金) 13:05:53
毛利家のN02って誰よ?
>>317 息子とかを除けば志道広良じゃないでしょうか?軍師と言うよりは家宰の印象が強いですが。
まあ、元就は信長以上にワンマンのイメージが強いので、決めにくいだすな。
ワンマンというより圧倒的過ぎて付いていけないって感じだな
志道亡き後は福原貞俊だろう
325 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/22(土) 19:17:49
あんまりぱっとしないなw
それにしてもなんでこんな厨房ホイホイみたいなスレタイにしたんだろう・・・
天下を望むなとじいちゃんに念を押されたのに
調子に乗った輝元ちゃん
>>327 輝元ってすごく頼りなくて、行く末がかなり心配な人物だったんだろ?
小早川隆景は両川の一として、輝元を立派に養育するために
家臣のいないところでは折檻すら辞さなかったって話だ。
親父や兄貴から預かった、いまだおぼつかない主君を必死に育てる隆景。立派だ・・・。
関ヶ原では両川のもう一方、吉川が東軍に通じていたから取り潰されずに済んだ。
輝元は家康になだめすかされて大坂退去。何をやってんだって感じ。
元就もうかばれなかったろうな。
>>328 関が原の後大阪城に徳川の旗掲げて家康を丁重に出迎え、
「盟約どおり大阪城は落としておきましたぞ」と皆に吹いて
家康を持ち上げとけばうまくきり抜けられたのにね。
その辺り戦国慣れしてないからあまり機転がきかなかったね。
吉川が居ない方が毛利には良かったろ。本気で西軍として戦えば勝てる可能性高い
吉川なんて、関ヶ原後、毛利本家からずっと恨まれてたじゃん
332 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/27(木) 10:29:47
>>329 それ上手いけど、毛利家はあのサイズだから幕末まで残ったんだと思うぞ。
あれよりでかけりゃ潰されてた。
333 :
剛 ◆jusiMCXac. :2005/10/27(木) 10:44:42
温厚な輝元ちゃん。
戦国時代を生き抜くには虫を殺すように人を殺せなきゃ生き残れない時代だったのだから仕方ないわ。
輝元は優しかったのよ。
信長なんて殺しまくってたんだから人間失格よ。
秀元って義宣とか政宗と一緒に将軍と茶をしたとかあるけど
やっぱり権力強かったのかな
>>334 秀就(輝元の実子)が生まれるまでは毛利家の嫡子扱いだろ。
家督を継ぐ予定だったけど、輝元に実子ができて相続を固辞した。
本家を中心に両川や他の兄弟たちが協力し合う毛利家ならではの、嫡流を大切にした例。
>>335 逆だよ、兄弟仲は悪かった。だから三本の矢のエピソードなんて創作話も含めて
作られたんだ。
>>336 逆だよ。ほんとに悪かったら三矢訓の創作話なんてできるわきゃねーだろ。
当初は良くなかったというか普通の間柄。つーか、当時家督を争う兄弟の兄弟仲が良いなんてのは希有だしな。
隆元と2人の弟は年も離れてるうえ、人質生活が長かったから接する機会もほとんどなく兄弟という感覚が薄いだけで、
特段、悪かったというわけではない。
>>336,338
秀吉への対応では強硬派の元春と迎合派の隆景の間で対立があったって話だ。
だけどどちらも最終的には毛利本家の為に力を尽くしてる。
隆景が小早川秀秋を本家に代わって引き取った話なんかその最たる例だ。
仲はあまり良くなかったかもしれない。けれど根っこの部分で協力し合ってたのは事実じゃないかね。
米30キロは何リットルかどなたか分かりますか?
341 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/09(水) 09:05:08
age
30ℓ
343 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/18(金) 23:52:01
元就AAキボンヌ
,:'^' 、
/;;;;;;;;;;\
フ;;;;;;;;;ヽ~
. ,∠;;;;;;;、、--`=ー;
j;;;;;;;;;;;;;;、'、'、ニ-、┘
. / i;;;;l
/,,,,,,, ___ ノ;;;'
. ゙, __ __ lr='ヽ
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. ;, / 、 ,,,,,;;;-,<
;;.,,;`;;;;;;;,,,,;;;;;;;;;;;; .l l゙i、
、、、r;;;,,,二,,,,,;;;;;;;;;;;;' /// `jー--
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.|;;;;;;;;、-‐'''''"´ ヽ::::::::ll::',
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i|,ィ=zzュ、 -ゞ┴.'" .l;ll ' r.l |
.,rヘ -'┴'".| リ ,: ノ/
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. ヾ;'゙、 .::| _,,, 、 iリlレ′
ヾ、 `'' ` __ /i〉l
`゙、 ,ィヽ_ `'-.、;,,,`ヽ、ノ川リ
i、ノ,r'゙''"´ ̄.. ヾ、ソ从リ
|Viハ. 'マソ ノソりlハ
| 'マリヽ, 'iヘ,__、rソ川リノ || ヽ
/ヽ ヾi从`f川ハ从ソiル' || ヽ
/ ヽヾ!从川从ル''" .||
ヾリ》〉ソ'′
. Vリ/
俺んち、毛利の支族
墓も大江朝臣になってるぜー
盆がヤバイ、マジヤバイ
墓が全部で50近くあって、管理やってるのウチだけ
1日じゃまわれない、しかも1ヶ所にまとまってない
すんでるとこから北へ東へ行かなきゃならん
349 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/19(土) 01:41:53
毛利家がさ、厳島後にひたすら東進してたら織田家とどっちが先に
上洛するかな?
東進してる最中に
西側から大友か大内
北から尼子が来てアボン
351 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/19(土) 02:02:10
だから九州には介入せずひたすら東進なんだよ。
東進してると必然的に尼子は潰すだろが。
尼子って斉藤よりかなり巨大だったんじゃね。
それでも5年の貯金はある。
353 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/19(土) 02:16:02
なんだ5年の貯金って。
厳島の戦い 1555年
桶狭間の戦い 1560年
355 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/19(土) 02:28:18
尼子と斉藤を単純に比べれば尼子の方がだいぶ地盤が強力かもしれない。
でもな、問題は戦う相手との勢力比だよ。
斉藤と織田は互角程度の規模。 尼子と毛利は二倍くらいの差が
あるんじゃないか? 晴久が死の直前に石見東部で攻勢に出たのを
最後に後は月山城陥落まで防戦一方じゃなかったっけ?
月山富田城攻略が1566年
稲葉山城攻略が1567年
この時点で時間的には毛利が若干リード
国力を比較すれば、石見を手に入れた毛利の圧勝
しかし、京までの距離を見たら織田有利
問題はこっからだね
ごめん。356だけど、
全然、東に行かず、歴史の通りに行ってた。
>>356 勢力地域下に内包していた問題がまず違い過ぎる
国力があっても、それを一方向に動員出来なければ意味がない
いくら大きなエンジンを積んでいても、それを車輪に伝える効率が悪ければ前に進めない
つーか354、355とも、大内潰す時間を入れてないし‥
>>355 ねーよバカ
てか349が言ってるのは
厳島の戦いが終わった直後から東進だから
信長が駿河遠江に行かなかったように
大内領は後回しにするって事でしょ?
それで尼子つぶすのは無理でしょ。
356が挙げた時点から考えるなら
まだ、可能性が高い。
>358
具体的に毛利に当てはめるとどういう事?
毛利がサルに徹底的に抵抗してれば日本の歴史は、全く違った物になってただろうな。
その後天下を秀吉がとったのはおそらくゆるぎないがな
363 :
349:2005/11/21(月) 11:55:00
ごめん言葉足らずだったかな。
厳島後の東進ってのは中国の旧大内領併呑した後の東進ってことだ。
でもさ、厳島後っていったらなんとなく毛利巨大化後ってニュアンスしない?
しないぞ。旧大内領併呑もそれなりの大事だし
それに周りが弱小ばかりの織田と違って尼子放置は不可能だべ。
365 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/21(月) 14:36:32
今日はTVで、隆元死亡だな!
秘伝の丸薬で回復!
>>361 それが出来ない状況だったから、しなかったわけでが・・・・
でもなんで毛利は銀山とか馬関のある山口に封印されたんだろ
封じるならもっと適当なとこがある気も駿河
369 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/21(月) 18:11:46
銀山は石見だろ
>>363 織田家と比べると、
桶狭間後今川の領土に目もくれず上洛に向かった信長と、
大内の旧領を完全に制覇した元就という対比も出来るので、
>>360のように考えるのはむしろ当然。
でもまあ、どちらの場合でも尼子を無視するのは不可能だけどね。
毛利は二大大名に挟まれてる分上洛に関しては信長より不利
しかし、その分この二大名を倒した後の国力は結構なものだった
信長と対立した時点では、毛利の方が有利
戦上手だったなら上洛しなくても信長に勝てたんじゃない?
ウワーン!上川暗殺されちゃったよー・・・。
二大大名ってもなあ・・
信長だって、今川武田とか自分より大きな勢力が回りにいたわけだし
毛利って1566年から何やってたんだ?
尼子攻略にてこずってた?
その間、信長は紆余曲折あったが
当時最強と呼ばれた武田を滅ぼしている
毛利!!何やってたんだ!?
>>369 実は山口にも銀山はあったようですよ
郷土研究家がTVで銀山跡を紹介してた
376 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/21(月) 23:46:05
何をやってたんだって言われても・・・元就の遺言どおり領土の保全のために
周囲の外敵を少しずつ潰してたんだろ。
信長みたいに拡大のための拡大じゃなく保全のために戦って結果的にゆっくりと
拡大してただけって感じなんじゃないか?
全く違う方針の両家だが、もし毛利が織田みたいな拡大政策をとってたら
どっちが勝ったか、あるいは先に上洛したかってことだろ。
>>376 それはつまり、内を固めなければ外に出て行けない状況だった、ということでは?
もし元就のこの判断がなく拡大路線をとっていたらむしり天下だとか上洛だとかの
前に崩壊していたのでは?
家を確実に残すってんなら、もう十分な大きさだったでしょ、毛利は。
実際残ったしな。
つまり戦国にありながら、勝負をやめてる。
九州に手を出してる間に鹿ちゃんがちょっかい出してきて
さらに宇喜多や三村や山名といった有象無象と戯れてました
九州に手を出したのがなぁ
やっぱ博多が欲しかったんだろうか
幕末で勝ったのは島津と毛利。
最後に勝ったといえば勝った。
>>373 武田とは接して無いだろw
接したときには信長の方が上だし。
今川との国力差も倍程度でそれほどないしな。
>>382 尾張の一部を取られてから、差はかなりでかいよ
384 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/22(火) 01:07:21
戦国の時代で中途半端に大きくなったからと言って守りに入るのは
けっこう危ないよな。 小勢力なら勝ち組の傘下に入ればいいけど
地方の覇者くらいだといずれ統一を目指す巨大勢力に潰しにかかられる。
本能寺みたいなハプニングが無ければ毛利はまず滅亡してたろうし。
小さいと見逃してもらえる部分ってのは確かにあるな・・
>>384 そうでもないだろう
上杉・伊達・徳川・毛利・島津は無事だったし
387 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/22(火) 01:51:06
>>386 そいつら全部本能寺のおかげだろ。 徳川は従属状態だし。
秀吉は連合政権的で信長の目指した天下統一時の織田家よりは遙かに
脆弱なはずだから参考にはならん。 「一応、統一状態」みたいな感じだし。
>>379-380 最初の九州への出兵は北九州沿岸を押さえることで、本州の旧大内領への大友の介入を阻止するのと
瀬戸内水軍を日本海側へ廻し、対尼子戦に投入するのが目的
見事成功し、月山冨田城への海上封鎖・兵糧の輸送も可能になり長期的な包囲が可能になったのですよ
二度目は博多目的でしょうが
>>387 つーか、信長存命中から毛利との和睦交渉は行われてるけどな。
減封は受け入れるものの宗治の首を渋って結果的には本能寺までもつれてるけど。
島津オタとしては毛利に徹底的に粘って欲しかった。
391 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/22(火) 10:56:53
>>389 じゃあ信長は毛利家は残してやるつもりだったの?
光秀の第二陣と自らの第三陣の出撃で毛利を完全に潰す段取りじゃなかったの?
和睦しようとしてたから、滅ぼす気がないというわけじゃないでしょ
将来的に滅ぼす為の布石
あの和睦交渉が、信長の意思の下に行われたものか、秀吉の独断専行だったかで変わるな。
秀吉には宇喜多での前例がある。
和睦を信長が承知していたというのなら、おそらくあの大動員は対毛利ではなく、毛利を
降したあとそのまま九州・四国に攻め込むための軍勢でしょう。そのときは毛利が戦法を
任じられる。信長は本能寺の前に大友と結んだり博多商人との会見など、明らかに「毛利の
向こう」を認識している。
大友と結んでねーし
あれを「結んだ」というなら島津とも結んだとなるな
和睦というが、一時的な停戦みたいなのは、秀吉単独でいくつか例あるのだが
三木城でも鳥取城でも
395 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/22(火) 11:31:44
宇喜多を従属させたのは緊急時の例外的措置でしょ。
ろくな戦力も無く播磨で悪戦苦闘してる秀吉が誰の支援も無く
宇喜多・毛利連合軍に勝てるわけが無いし。
俺にはむしろ中国攻め初期の信長と秀吉の考えが分からん。
丹波はまだ波多野がいて播磨の東部は別所がいる状態で
秀吉は自分から死地に飛び込むようなもんなんじゃないか。
毛利・宇喜多が本気で攻めて来たら瞬殺されるだろ。
丹波の波多野は光秀の調略で織田に協力、別所も秀吉によって協力。
だから播磨に侵攻出来たわけで。
それも荒木村重の謀反からの連鎖で、秀吉は窮地に陥り、せっかく海上封鎖までして押し込めた石山本願寺と
毛利との兵站が繋がる危険性が大きくなり、信長は窮地に追いやられました。
だからこそ荒木の謀反に対して、織田は迅速かつ徹底した制圧をおこないますた。
397 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/22(火) 12:07:28
じゃあ宇喜多も織田の大軍が増援に来たら用済みで潰されるというのか?
398 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/22(火) 12:24:24
>>397 取り潰されそうになるが、秀吉がとりなして
秀吉の家臣ぐらいに落ち着くんじゃないの?
信長は信忠以外2カ国も持たせてないから
宇喜多も一カ国だけ安堵して秀吉の与力と
するんじゃない?
400 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/22(火) 14:21:14
400元就get
秀吉は2か国じゃないか?
>>369 一応銀山あるよ
そりゃ日本最大の銀山と比べちゃあれだけど
高嶺城跡から歩いて一時間もしないとこに跡がある
一時は4000人の鉱夫がいて毛利家の収入の30%を支えてた
どうせなら東北にでも毛利封じとけば幕府にとってはよかったような
んまあいろいろあって今の2chと俺たちがいるんだな
江戸から離れてればそれでいいやという考えで毛利領地で一番遠い山口に。
とかあったが本当かいな。
>>393 あの和睦交渉は間違いなく秀吉のもの
信長が秀吉のもとまで着いて実際に高松城を見てどうなるかは解らなかった
しかし、一気に毛利を落とした秀吉の功績を考えれば
いくら信長でも秀吉を立てたでしょ
あの軍勢は毛利領を占領する為のものでしょ
和睦後織田の軍勢を毛利領に常駐させる為のもの
準備ができてた四国はともかく
あの時点で九州まで畳み掛けるのは無理
毛利領だけで広大すぎるんだから
秀吉側に有利な和睦だしね。
歴史は本能寺みたいなことになったけど、順当にいけば光秀が軍勢をつれてやってくるわけだから、
・・ま、色々手はあるか。
講和が秀吉の独断ってのはないんジャマイカ?
秀吉が信長に援軍求めるのは腑に落ちない。
信長が援軍を求めてほいほい応じる性格ではないし、下手をすれば不興を買うことにもなる。
毛利本隊が出張ってきたため兵力で劣るとはいえ、連戦連勝状態の秀吉が一戦もせずそう簡単に援軍を要請するとも思えない。
万一、総大将が光秀に交代ともなればそれまでの手柄を一気に持っていかれる可能性もあるわけだし、
事実光秀はそう考えていただろう(自分が秀吉の下に置かれるとは思ってなかった)。
毛利方も信長が動くことを察知して、講和を急いでいることから考えると、援軍は講和を渋る毛利への圧力に過ぎないのではないか?
そもそも当時の情勢を考えると東国の方が厳しいから毛利領に常駐なんて無理だし。
秀吉の援軍要請に対して信長の動きが鈍いのも気にかかるしな。
ただ単に兵を動かす素振りを見せ、尖兵として光秀を送りこんだんなら合点がいく?
>>406 なるほど、それで秀吉の家来扱いされて、
切れた光秀の本能寺か。
そんで、秀吉ウマーって感じか。
毛利との単独講和なんて一武将が勝手にやっていいことじゃないわな、
もしそんなことすれば確実に信長に殺させる。
常識的に考えれば少なくとも信長の内諾を得ていたと見るのが普通でしょう。
>>406 他はともかく、東国についてはたいしたことはないよ武田が滅んで。
なにしろ明確に敵対している勢力は上杉だけで、他は関東も東北も
みんな織田に臣従とは言わないが友好関係を取り結んでいる。
410 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/24(木) 00:36:37
光秀は中国戦線参加にあたって役割ってのはすでに判明してるの?
秀吉に次ぐ中国戦線全軍の副総司令なのかそれとも秀長に代わって
山陰担当になる予定だったのかどっちだ?
出雲・石見を貰う予定だったと言う話を考えるとやはり中国戦線軍は
山陽・山陰の二手に分かれて、光秀は秀吉と同格の山陰担当の
中国方面軍司令になると考えた方がいいのかな?
出雲・石見を貰う予定だったと
これってソースなに?
よくみるけど
412 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/24(木) 01:05:21
ソースと言われても・・・みんな一度は聞いたことがある話でしょ?歴史の本
とかで。って感じかな。 信憑性がどれほどか知らんけど。
信憑性はかなりアテにならないな>出雲・石見
もう一つの可能性として、明智は信長直轄つまり羽柴より上の立場になったかも。
>>411 ソースは探せば解るんじゃないか?>出雲・石見を貰う予定
信長暗殺の一因として畿内を召し上げられて未だ毛利領の出雲石見を与えるってのが気にくわなかったって説唱えてる香具師もいるみたいだから。
>>409 >他は関東も東北も みんな織田に臣従とは言わないが友好関係を取り結んでいる。
なわきゃーないw
だったら滝川は何をしていたんだ?と
やる気のない毛利と比べりゃ相対的に東国の方が厳しいという
>>406の意見の方が正しいと思うが
明智軍記とか?>石見出雲切り取り次第
だったら信憑性は甲陽軍艦以下だと
>>415 北条は甲斐侵攻の不手際で信長に目を付けられたが、それで敵対するでなく弁明中。
つまり北条には敵対の意志なし。
他に佐竹、伊達、芦名、最上は信長に使者を送って誼を結ぶ。
対毛利でドンパチ中の羽柴と違って、滝川には当面の敵対者はいない。あえて言え
ば北の上杉くらいだが。
あえて言わなくても越後へ侵攻してたじゃんけ
419 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/24(木) 11:59:08
つまり光秀に出雲・石見っていう話があまり当てにならないということは
丹波・坂本の召し上げという話も実はかなりいい加減なものなんじゃないか?
だって中国増援に行く予定だった(本能寺を攻めた)軍勢は召し上げ予定の
明智領の兵士だろ。 新たな戦線投入の直前に明智内部でそんなにゴタゴタ
してたら戦どころじゃないだろ。
丹後、近江を召しあげられ出雲、石見を与えられるという話は明智軍記。
国替えは疑問視されています。
>>415 少なくとも北条と敵対してはいなかった。
別に北条と敵対していなくとも新しい領土のなのでやることは幾らでもある。
北条と交戦状態になったのは、信長死亡後。
422 :
勇魚 ◆Cl39TXJnDE :2005/11/29(火) 23:51:36
水攻め完成以前に囲みを破って入城する援軍が無かったのは、戦意の薄さと取ればいいんだろうか。
堤が完成したのが5月19日
援軍が到着したのが5月21日
上月城の攻防と比べて到着が遅すぎるような。元就存命なら別の展開があったかな?
遅いっていっても水攻めされてなけりゃ十分間に合ってる
元春が鳥取城救援に行くのも遅すぎ。
鳥取城って毛利家はどれぐらいでおとしたの?
山名なら、元春が行ったらあっさり降伏しました
>>425 先発隊が羽衣石の南条に足止めされてたっぽ
だって当主が追い出されちゃったんだもん>鳥取城
つか降伏っつーより毛利勢を迎え入れたって感じだね
___
/∵ ∵ \
/∴ ヽ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
, |∴ / \ |、 /
|`──-( / )-( \)l | < おっちゃんやで〜
| [ , っ l | \
`-, 'ヽ、_ソ }' \____________
ノ ヽ、 `' ノ、
/ ゝ ── ' ヽ
/ ,ィ -っ、 ヽ
| / 、__ う 人 ・ ,.y i
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431 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/03(土) 16:17:12
隆元って弟たちに毒殺されたんだろ
そりゃ隆元も元春も隆景みんな仲悪いだろうけど毒殺するのか?
元春と隆景って秀吉の侵略にたいしてなんで対抗しなかったの?
してるだろ。
>>433 吉川元春の橋津川の背水の陣を知らんのか?
吉川軍のあまりの士気の激高ぶりに秀吉の大軍が恐れをなして戦わず引いた戦です。
京都ではこのことで秀吉がヘタレと随分からかわれたらしい。
秀吉が元春嫌いなのもこれが原因かも。
元春が大の秀吉嫌いで、死ぬまで一度も顔を見せなかったというのは知っていたが
秀吉もそうだったとは初耳だ。隆景の苦労がうかがい知れる。
>>437 できれば出典を挙げてもらえるかな。
それだけだと秀吉の墨俣一夜城と同じ程度のよくできた法螺話にしか聞こえないので。
吉川元春の「春」って誰からもらった偏諱なの?
尼子晴久?
ごめん間違った。晴違いだ・・・orz
元就の何代か前に毛利元春って優秀なのがいたろ
>>441 偏諱ってのは貰ったら名前の上につけるもんだ
例 義隆→隆元
445 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/09(金) 01:05:36
>>444 なるほど!勉強になりやした。
じゃやっぱり先祖の名前を頂いたということですね。
なるほど
447 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/09(金) 01:43:25
吉川晃司
>>440 ソースになっていない上、まったく信憑性の無い記述ですね。
なんですか羽柴軍が六万の大軍だとか。
唯一明かされている資料が陰徳太平記ってそれを信用しろと…。
この手の輩を相手にするとこうなるから放置したのに…。
450 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/09(金) 22:10:20
吉川広家=なべおさみ
451 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/09(金) 23:52:12
age
452 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/09(金) 23:53:08
毛利名人
陣跡が残ってるし信長公記にも記載があるから対陣があったのは事実。
ただし、背水の陣をしいたかどうかはわからないし、兵数も大げさ。
>>440 のエピソードって、兵数が 秀吉>元春 だから成立する話で、なおかつ元春はすごい
(秀吉なさけない)となるのだがその兵数が自体が不明ではどうにもならない。
兵数を無視して事象だけを追えば、「元春は羽衣石城の救援にやってきたが、秀吉に阻まれて
結局救うことが出来ず退却しました」となる。厳しくいえば、羽衣石城に近づくことも出来な
かったとみなせる。
ちなみに現在秀吉の中国方面軍は信長生前の最大時でだいたい三万くらいだろうと言われている。
他にも戦線があること、主力は羽衣石城の包囲を行っていたことを考えればこの時元春と対峙した
秀吉の率いた兵が一万に届くことはなかっただろう。
羽衣石は秀吉側だボケ
457 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/13(火) 23:02:15
もし厳島以前に元就が死んでたら
中国地方の情勢はどうなってたのかな?
やっぱり陶が勢力を順調に伸ばしていったのか?
それとも両川と隆元が頑張って、結局は毛利の天下になるのか。
458 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/13(火) 23:04:01
( ゚д゚) キーコキコ
〜 (_ ゚T゚
゚ ゚̄
>>457 たぶんその場合は毛利は陶氏傘下のままで、
晴賢は北九州あたりで戦死、ていうオチになるな
460 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/14(水) 20:16:15
そうなると、信長が死なない可能性も出てくるな。
つーか「たられば」は言い出したらキリがなくなる。
>>459 隆元は反陶派の急先鋒(元就も半ば引きずられた感あり)だからぶつかると思う
462 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/14(水) 21:11:09
そんなことより尼子について語ろう。
経久は戦国大名の走りだそうだ。
陶VS尼子
464 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/14(水) 21:24:27
465 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/20(火) 19:30:58
関ヶ原の戦犯は屁たれ毛利の関係者ばかり
小早川秀秋
吉川広家
毛利輝元
毛利秀元
こいつらマジ糞
こいつらのうち一人でも本気で戦っていれば西軍の勝利だった
>>465 両川は戦犯と言うよりMVPじゃないか。
関ヶ原の責任を取らされ120万石から30万石にされた毛利
その後、お家建て直しのため農民からがっぽり年貢を取り立てたため一揆を起こされた毛利
そして260年もの間徳川への恨みを一時も忘れることもなく、幕府をボコボコにした毛利
日本の大都市首都東京(徳川)>>>>>>>>>>ど田舎山口(へたれ毛利)
東京はその毛利のサムライに占領された江戸が生まれ変わった姿なわけだがw
>>465 一応西軍の総大将なのに、蟄居させられた三成如きに指図
されりゃ動く気も失せるというモンです
幕末になっても毛利はへたれ全開で平民に主役を奪われて大将は謹慎させられてたらしいじゃねーか
関ヶ原から幕末まで毛利の大将はへたれ揃いだなw
473 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/24(土) 18:15:40
だが、それがいい
474 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/24(土) 18:30:15
もっとも
475 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/24(土) 19:03:29
元就がなまじ頑張り過ぎるから周りがえらい迷惑。尼子を撃退した大内傘下の武将でいいじゃん。
476 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/24(土) 19:07:20
江戸幕府の間で有名な名君て出てる?
そうとうお前ら毛利好きなんだな
クリスマスにまでレスするんて
>>465 秀元は外してやれ。
>>476 ぜんぜん知られていないが江戸開幕以降の輝元は治政に熱心だった。
当時の大名がみんなそうだといえばそうなんだが。
>>476 人材登用にかけては天才的な毛利敬親がいるじゃないか。
どうでもいいことだと思うが、信長は毛利を存続させる考えは持ってなかったと思う。
大友家が島津家との高城・耳川の戦いで敗れた後、さりげなく信長に泣きついていた。
んで、信長は島津と大友の和睦案を1580年以降(つまり石山合戦終了後直後)に提案し、島津義久に
認めさせている。んで、そのときの信長の案は
豊後などの現大友領は織田家が接収して大友には新たに周防・長門の二各国を与える、とのこと。
これで島津方は信長との直接対決を避けようとして和睦にのった、という。
空手形とはいえ、明智光秀に対する領土の移転問題などをみると、毛利を完全に滅ぼす気があったとみえる。
つまり、if話の「毛利が織田家に降伏したら・・・」の話はありえんわけだ。
・・・話の空気を読まずに申し訳ない。
>>480 転封ってのがあるからな。
そもそも信長は封地を固定する(土着有力者と支配者が緊密になる)ことを嫌ってるふしがある。
配下からすれば加増は喜ばしいことだが先祖伝来の土地を奪われたり、
せっかく苦労を重ねて治めた領地を召上げられることは加増と言えども耐えられんわな。
482 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/28(水) 13:36:07
その話題に関連することでお聞きしたいのだが、家康の三河から関東への転封は
結果としては家康の天下取りに有利に導く要因となったのだろうか?
それともやはり苦しい状況を耐えて、虎視眈々とその時を待っていたというのが実情に近いのかな?
3段目にきまっとるがーな盆地
そうせい侯
485 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/04(水) 13:45:39
武田信玄や上杉謙信と違い、全く基盤の無い状態から出発し、最終的に武田や上杉
より広大な領土を築いた元就の実績はもっと評価されるべきだと思う。
486 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/04(水) 13:56:05
まわりがざこすぎたんだろ?おれならおなじきかんできゅうしゅうもせいあつよ。
>>485 世間では十分に評価されとる。知名度が低いだけだ。
ゲーム内での評価なら知らん。
そろそろ、わたしにもしあわせ、ください・・・
地味キャラだもの
>>488 いつものように愚痴の手紙でも出しとけ。
>>486 むしろ元就が凄過ぎて周りが雑魚に見えてしまうんじゃないか。
関ヶ原のときに秀元の元には毛利勝永がいた
秀元の軍が本気で戦えば徳川もあぼーんだったはず
惜しいな〜
>>492 それが出来ないと踏んだから家康も決戦に臨んだんだろ
関ヶ原の時は広家が「いとこ(輝元)は天下を取る器じゃないし、
毛利政権になったらまた戦の世の中になる」ってことで戦わなかった という言葉が
どっかの本に書いてありましたが
495 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 02:31:07
今新書で売ってる「名君暴君大逆転の戦国史」という本の毛利の部分は酷かった・・・
そもそも史実ではない「三本の矢」を持ち出して、輝元・広家・秀秋の3人は
主への裏切りで永久に歴史に汚名を残す恥さらしとなり、元就の教えは意味が無かったで締め。
まぁこの作者は江戸時代を暗黒時代と言ってるし、他の箇所でも家康が嫌いなのは分かるけど、
ちょっと偏りすぎかな。
>>495 奇説・珍説でないと今日日売れない
鈴木某氏のとか
ありきたり、一般な説は出尽くした所ですからね。
次はやるのはif物かな、毛利が天下とるifもの戦国史
>>500 koeiは三矢の誓い・孔明伝・英傑伝・曹操伝とこの手のSLGに力を
入れている時期がありましたね。
最近は見なくなりましたが、あまり売れなかったのでしょうかね。
502 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 15:04:27
三国志で例えると尼子経久が孫堅で毛利元就が孫策で大内氏が袁術と言う
感じか
いやいや三国志で例えると蜀が毛利魏が大内呉が尼子でしょう
ただ三国志と異なるのは蜀の毛利が勝利してしまうところでしょうか
木崎原の戦い ○義弘軍200 対 ●伊東軍3000
島津のお家芸、釣り野伏で見事勝利。 この戦いでミリタリーバランスが島津に傾く。
耳川の戦い ○島津軍20000 対 ●大友軍45000
九州の覇者を賭けた戦い。最初は大友が押しまくるが、義弘の冷静沈着な側面攻撃と家久の同時攻撃で勝敗が決定。
こんな大規模な野戦をガチでやって大友軍の死者2万人、武将多数戦死という一方的な大勝利を収めている。
稀な大勝利、武田信玄 対 上杉謙信の川中島合戦と比べるとその大勝利ぶりが際立っている。
以後、大友は衰退。
沖田畷の戦い ○家久・有馬連合軍5000 対 ●龍造寺軍60000
龍造寺はこの戦いで隆信、四天王を失い島津の傘下に入る。
戸次川でも長宗我部信親・十河存保を討ち取るが、指揮官を討ち取るというのは野戦では珍しく、それを何度もやり遂げている島津家久は戦国一の戦上手といえよう。
戸次川の戦い ○家久軍10000 対 ●豊臣四国連合軍
寄せ集めにすぎない連合軍は歴戦の勇将・家久の敵ではなかった。
この戦いで長宗我部信親・十河存保戦死。 長宗我部元親、ショックで廃人になる。
泗川の戦い ○義弘軍7000 対 ●明・朝鮮軍200000
慶長の役の末期に秀吉が死んだので、 朝鮮にいる将たちに帰国命令が下りる。 それを知った明軍・朝鮮軍は20万の軍勢を日本軍の中央を守る義弘の泗川に向ける。
義弘は、泗川にいくつかあった支城を破棄、泗川に新たに築いた城に立て籠もる。
ここで敵を引きつけるだけ引きつけてから鉄砲の一斉射撃ののち突撃し散々に打ち破った。
明軍の死者は8万。
露梁津の海戦 ○義弘軍 対 ●朝鮮水軍
この時も義弘は水軍を率いて活躍。
順天の小西行長を救出し、さらに全軍の殿を務め、朝鮮の名将・李舜臣と交戦し見事討ち取る。日本軍退却成功。
もし義弘が朝鮮出兵に参加してなかったら日本軍は朝鮮で全滅してた。
秀吉は大名の領地加増を禁止してたが 島津だけはあまりの戦功の大きさに加増された。
関ヶ原退却戦 ○義弘軍300 対 ●東軍80000
福島隊を突破、追撃してきた井伊直正と松平忠吉に重傷を負わせる。 この傷が元で2人は数年後死亡。
大阪城に残された妻を取り戻し、薩摩へ無事帰還。家康は島津を恐れ、関が原後も減封する事が出来なかった。
島津信者光臨
こうして見ると島津最強だな
>>504はあちこちにこれを貼り付けてる基地外です。
アンチ島津な
>>504が島津がバカにされるのを狙ってるのが目的です。
歴史ゲーム板の方も荒らしてるどうしょうもないバカなんで
相手にしないように。
>>507 じゃあ否定してみろや
できねーんだろwカス
そんなに強かったら、秀吉に降伏しなけりゃいいのに
>>508 まずは挙げた張本人が典拠史料名明示して証明しないとな。
仮説に反論するなんて馬鹿げてる。
俺、島津ファンだがさすがに
明軍20万だとか龍造寺6万もいたなんて思わないな。
>>504 島津を陥れて楽しい?
明軍20万は不思議ではない
輝元が主役の「傾国の烙印」という小説、レビューでは結構好評だな
このスレで読んだ人いる?
島津って凄いのな。
鹿児島人という情報しか知らんかったが。
518 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 01:05:04
有田中井手の戦い ○毛利軍1千5百 対 ●武田軍7千
元就の初陣。 当時の毛利家の領土は3000貫といわれ、15000石〜25000石ぐらいといわれているほど少ないものだった。
初陣、そして圧倒的劣勢にもかかわらず圧倒的な戦力差を華麗な戦術ではねのけ、総大将武田元繁を討ち取り軍団を総崩れにさせる。
元就の天才ぶりはこの時から発揮されていた。
後世西国の桶狭間と呼ばれる。(状況を考えれば桶狭間以上の大勝利)
佐東銀山城死守戦 ○毛利尼子連合軍 対 ●大内軍
有田中井出の戦いで敗れた武田氏が尼子の力を借りようとし、友田興藤は武田氏の援助を受けて、桜尾城を奪った。
一方の大内義興は自ら出陣し桜尾城を包囲した。そして息子の大内義隆と副将・陶興房に銀山城を攻撃させた。
元就はまだ尼子方の武将だったので、銀山城を死守するようにと尼子経久に言われていた。
劣勢に陥った尼子武将。
見かねた元就は軍義で夜襲を提案、意表をつかれた大内軍は大混乱に陥り城の包囲を解かざるをえなかった。
吉田郡山城の戦い ○毛利軍3千 対 ●尼子軍3万
圧倒的な数の軍勢を率いる尼子軍を巧みな篭城戦でこれを撃退する。
その後尼子は衰退する。
折敷畑の戦い ○毛利軍3千 対 ●陶軍7千
山に布陣した倍以上の敵軍を下から攻撃し、大将宮川長房を戦死させ完勝を収める。
地理的にそして兵数的にも不利な状況ながら、総大将を討ち取るという完勝っぷりは元就、そして息子達の戦上手ぶりが垣間見れる。
宮尾城攻防戦 ○毛利軍5百 対 ●陶軍1万6千
圧倒的な敵の大軍の大攻勢に耐え抜き、厳島合戦への足掛かりを作る。
厳島の戦い ○毛利軍5千 対 ●陶軍2万5千
自身の頭脳を駆使して厳島へ上陸した陶軍を壊滅させ、西国無双と呼ばれた陶晴賢を自刃へ追い込む。
運だけの桶狭間とは違い、自身の頭脳を駆使した完璧な戦だった。
この戦だけでも元就の凄さが分かると思う。 この合戦後、元就は戦国随一の勢力になる。
↑
反論できなくて涙目ですよ
521 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 02:29:19
毛利元就が総大将の戦なら、勝率はどのくらいなの?
520 名前: 無名武将@お腹せっぷく [sage] 投稿日: 2006/01/24(火) 01:34:49
↑
反論できなくて涙目ですよ
↑
反論できなくて涙目ですよ
525 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/29(日) 01:49:30
勇戦・多々良浜の戦い
1569年、立花城を陥落させて意気上がる毛利軍は4万の兵で多々良川を渡河して対岸の大友軍3万5千の陣地に対して攻撃を開始した。
毛利軍は多々良川を渡河して大友軍陣地に波状攻撃を仕掛けた。瞬く間に戦線は拡大していったが、兵力で勝る毛利軍が優勢だった。
このとき、道雪は毛利軍・小早川隆景隊左翼備えの兵力の幅の無さを見て取り、鉄砲隊800をもって一斉射撃をして前線に穴を作った。
その穴に立花隊5千を突っ込ませて毛利軍陣地を突破すると、さらに背面展開を始めて毛利軍の長蛇の陣を包囲攻撃して後方に後退させた。
さしもの毛利軍も後方の簡略陣地では勢いに乗る大友軍の総攻撃を支えきれずに撤退していき、立花城は戦後に大友軍に明け渡された。
この一戦以降、道雪は九州から中国地方にまでその武名を轟かせた。
526 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/29(日) 01:50:30
毛利は大友に負けた
大友は島津に負けた
つまり島津義弘>>>毛利元就が成立する
毛利は大友に負けた
大友は島津に負けた
島津は立花に負けた
つまり立花宗茂>>>島津義弘>>>毛利元就が成立する
毛利は大友に負けたというがそもそも立花城は毛利に奪われたのを奪い返しただけだけどなw
大友は毛利本領(中国)に進出することすらできてないし。
>>525 立花城明け渡しはその戦とは関係ないわけだが
大友にビビって九州から撤退した毛利(笑)
まあ宗麟の戦略勝ちではあるな
元就が尼子に仏心を起こさなきゃ、もっと違った展開になったんだろうけど
)ノ
∧_∧
( ´・ω・`) ∧_∧
/ \ (´Д` ) 死ねよカス
.__| | .| |_ / ヽ
||\  ̄ ̄ ̄ ̄ / .| | |
||\..∧_∧ (⌒\|__./ ./
||. ( ) ~\_____ノ| ∧_∧
/ ヽキモイな \| ( ´_ゝ`) 誰か警察呼べよ
| ヽ \/ ヽ.
| |ヽ、二⌒) / .| | |
.| ヽ \∧_∧ (⌒\|__./ /
533 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 17:29:27
北条征伐 ○上杉軍 8万人 対 ●北条軍 9万
関東管領として、北条を征伐した戦。
関東豪族のほとんどが上杉謙信の側についた。
北条軍は撃破されまくり小田原城に追い詰められる。
北条軍は小田原城落城寸前まで追いやられるものの信玄が助けに入ったため助かる。
関東管領としてはじめての戦であった。
川中島の戦い ○上杉軍1万3千 対 ●武田軍2万
歴戦の武田軍も毘沙門天の化身上杉謙信には勝てるわけがなかった
啄木鳥戦法も軍事の天才謙信には見破られ、武田軍は山本晴幸や弟ら重臣を失う。
車がかりの陣で武田軍は追い詰められ、死者四千六百三十人、負傷者七千五百人を出す大被害を追った。
謙信は単騎特攻して信玄と一騎打ちするなど大活躍を見せた。
唐沢山城救援戦 ○上杉軍13 対 ●北条軍3万
上杉側の関東の豪族、佐野昌綱を救援するため、北条の大軍の中を数騎で特攻。
謙信の威勢に恐れをなした北条軍は怯えて近づく事が出来なかった。
手取川の戦い ○上杉軍2万 対 ●織田軍4万8千
最大勢力の織田も軍神上杉謙信の前では赤子同然だった。
能登畠山を軽々と滅ぼし、謙信に怯え逃げる織田軍を追撃。
織田軍は二千人近くの死傷者を出して、大敗する。
信長自身、近習ら数十騎とともに命からがら美濃へ逃げ帰ったという。
もし謙信が寿命で死んでいなかったら信長は滅んでいただろう。
こりゃまた壮大な釣り糸ですなぁ
これは信玄厨の陰謀だ。謙信を陥れようとしてるんだよ!
>北条の大軍の中を数騎で特攻。
それなんて漫画??
まあ実際にやったら確実に死ぬわな
538 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/01(水) 16:45:48
>謙信が寿命で死んでいなかったら信長は滅んでいただろう
イキスギ
>>533のコピペ流行ってるの?いくつかの他のスレでも見かけたんだが
村上武吉
口羽通良
今週の『日本の合戦』が厳島だったな
特に内容はないけど
おお、今週か
一応立ち読みしとこう
読んできた
アレで500円以上もするのか・・・
545 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 00:26:45
>>525 1569年5月1日立花城総攻撃で大友軍と交戦撃破する。
5月3日立花城陥落のおり籠城兵全員を助命してあげた。
後に、10月15日、毛利軍主力が立花城を撤退したのは、
10月11日大内輝弘が大友義鎮の後援を得て秋穂に上陸した為。
この年も、毛利軍の強敵は尼子軍であり、大友の弱兵雑魚では相手不足。
九州ホラ吹き物語りは、恩を仇で返す面白いストーリーですね。
大友晴英
>>545 立花城からの撤退で追撃を受けて逃げ出したことが抜けてますね
撤退中に追撃受けたら逃げるのは当たり前じゃないのか
ついでに言えば撤退で毛利軍が大打撃を受けた様子は無い
逆に、金ヶ崎退陣のような、殿軍が奮戦したような様子もない。
大打撃を受けた様子も奮戦した様子もないってことは、
あまり本格的な追撃戦はなかったということになると思うが。
毛利側の資料には道雪が殿の吉川軍を見て追撃をやめさせたという話があるが、多分作り話だろうな。
大友側には追撃して戦果を上げたような話があったような気もするが、
これも殿の吉川軍が帰陣して、混乱もなくすぐに出陣してるので、うそ臭い。
九州に残ってる毛利側勢力が攻撃されただけで、毛利本軍はすんなり撤退したんじゃないか。
まあどの道、毛利の「戦争の敗北」には違いないが。
戦場でどれほど活躍しようと、毛利が北九州から全て撤退して長年の成果が
無に帰したのだから。
まあ毛利に限らず武田や上杉や島津にもあるが、戦闘の勝利をことさらに飾り
立てて戦役の失敗には触れないというのは改めた方がいいかと。
>>552 全く同意。
しかし元就の見切りは早かったですね。
元春は当初撤退に反対したとか。
隆景も反対してたような
555 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 02:33:33
>>552 大内輝広の秋穂上陸を無視して転進したら負け?
尼子との戦闘も無視ですか。
地勢も考慮せず判断されるのは如何なものかと思いますよ。
立花城の守備兵2百に攻撃する大友勢は2万。兵数は正確な数字では
ないかも解りませんが、主力が転進した後の人海戦術でしょう。
それ以前も毛利主力が尼子勢と対峙した隙をぬって大友勢は北九州の各城を
奪いに来る。毛利勢が兵力を投入出来る時は奪回する繰り返しでした。
毛利勢は四国でも、長宗我部が伊予に侵攻した時、河野氏を救援したことも
あり、四国、九州と海を越えての各地地元豪族の救援は、背後の尼子を
警戒しながら、兵力を動員するので楽ではないでしょう。
これが戦役の失敗ですか。
元就が大友軍を撤退させたと見せておびき寄せようとしたのでは?
で、道雪はそれに感づいた。
想像ですが…
557 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 08:49:00
>>553 その見切りの早さが元就の良い所じゃないか。
どっかの大名みたく勝っても負けても自軍に何千もの死傷者出すようじゃ終わってる。
>>555 ええ、戦役の失敗、すなわち敗北です。
あなたが言っているのはすべて戦術面のことでしかりません。
戦場でどれほど勝利を重ねようと、「大内輝広の秋穂上陸」一点で毛利軍は撤退を
余儀なくされ、結果九州の領土は全て失いました。
もともと毛利の九州出兵は旧大内領とりわけ博多領有を目的に行われた行動。
それまで長い期間の成果を全て失ったのだから、これは戦役の失敗です。
戦場の勝利なんて関係ありません。戦争の勝利とは戦争目的の達成なのですから。
戦場で勝つのは、あくまで戦争目的の達成のための手段でしかありませんよ?
いまさらこんな初歩的なことを説明しなければわかりませんかね。
一つ例を挙げると元亀元年の織田の越前遠征。この戦役は戦術面に限れば織田家
は負けていない。全て勝利と言える。しかし戦争目的を達せなかったので、この
戦役は失敗と評価されます。
>>555 どう考えても失敗です
本当にありがとうございました
>>560 すごいな。
わかりやすいし、まったくそのとおりだと思う。
戦略目的がはたせなかったんだから毛利の勝ちとは言えないよな。
毛利厨は毛利の勝ちだって言うけど
毛利は対大友で何か得るものがあったのか?
さすがの毛利厨も、ぐうの音もでないかw
変なの来ちゃったな・・
>>560 撤退しなかった場合、尼子、大友、大内残党を相手にガチャガチャやるハメになる
その場合対尼子に重大な影響が及ぶし
下手な逃げを打てば史実と比べて大きな損害を受けたのは確実。
なんというか、戦力を保持することは極めて大事で
機を見て反攻する機会を探る方法もあるし、壊乱状態で遁走した金ヶ崎とは全く異なる。
>>564 金ヶ崎で織田も戦力を保持したぞ。それによって姉川など戦った。金ヶ崎で
戦力が壊滅していたら織田も終わっているよ。
お前は
>>560で言われていることを全く理解していない。
そして毛利を持ち上げるために他を貶そうとする。最低の反応ですな。
毛利が戦力を確保したのは同意。そのための撤退の判断を批難もしていない。
それでも、あの九州戦役は毛利の敗北となる。理由は、戦争目的である旧大内
領の領有に失敗したから。
一人も殺さなくても目的を達成できれば勝利。何人殺しても達成できなければ
敗北。
いい加減基礎中の基礎だが、戦争の勝利と戦闘の勝利を区別しろ。
そして一勢力の指導者には、戦争の勝利が求められる。戦闘の勝利なんて究極、
部下任せでいいんだ。
ヨーロッパで例を出せば、戦闘で勝ちまくったハンニバルやピュロスかね。
(ここでハンニバルは〜とかピュロスは〜とか言って見当違いに貶そうとするなよ?)
将棋で相手の歩など駒をいくらとっても
その隙に王をとられちゃ意味が無いようなものだ
いいえ違います。
>>560=565 です。
まあ信じるかどうかはそちらの自由ですがね。
そうやって自分が反論できない意見に自作自演のレッテルをを貼って貶めようと
してもそちらの自説の正しさが証明されるわけではないので。
>そうやって自分が反論できない意見に自作自演のレッテルをを貼って貶めようと
>してもそちらの自説の正しさが証明されるわけではないので。
脳内設定乙
570 :
562:2006/02/06(月) 22:33:00
別に自演だの脳内設定だの言わなくても
一部の人間以外はどちらが正しいかなんてすぐ分かることだと思うぞ
なんでそこまで毛利の敗北を認めたがらないのかね
俺は毛利ファンだが、九州の関してはどう考えても
大友の戦略勝ちだと思ってるよ
573 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 23:48:58
>>560565 あなは、事物を単純化し、最初に撤退は敗北、目的の達成が勝利と
前提条件を付けておられる。結論は旧大内領の領有に失敗したからと
童子の如き物言いですが、旧大内領といわれても、周防の大内氏と
安芸の毛利氏は九州までの距離間、地理的条件は無視される。
「初歩的なこと」「基礎中の基礎」とやら空虚な言を弄し虚勢を張っても
意味がありませんよ。
ハンニバルは、ヨーロッパ人ですか?地中海世界を歴史的にヨ−ロッパの
中に組み入れるかどうかも議論の分かれるものですが、北アフリカも
ヨーロッパに組み入れるのは近代西洋が植民地としたことと関係から
ですか。それは、あなたの言うように「領有に成功したから」ですか?
>>573 そうですよ。距離の問題?そんなもん古今東西の全ての遠征にはつきもの。
距離があったから勝てなかったんだ、なんてのは敗者の言い訳。いや、そんな
子供じみた言葉は言い訳にもならない。
名将は、その距離を克服すべく努力を重ねた結果勝利をもぎ取る。本拠地が
どうこう言うのであれば、岐阜を本拠とした織田は?京・大坂の豊臣は?江戸
が本拠だった徳川は大坂の役で戦争目的を達成しましたねえ。
己の無知に基づいて空虚な言を弄し虚勢を張っても意味がありませんよ。
それからハンニバルについては、ヨーロッパではなくて地中海世界と直して
おきましょうか。もっとも、彼が本拠地としたのはヨーロッパのイベリアで、
北アフリカのカルタゴ本国はほとんど関わらなかったのだが。
571 名前: 無名武将@お腹せっぷく [sage] 投稿日: 2006/02/06(月) 22:37:51
別に自演だの脳内設定だの言わなくても
一部の人間以外はどちらが正しいかなんてすぐ分かることだと思うぞ
そもそも
>>525が最近よくみかける
どっかの道雪マンセーサイトの
捏造をコピペするからだろう。
多々良浜の戦いは数ヶ月膠着状態だったんだし、
勝利ってなんですか?ってなもんでしょ。
毛利が九州で戦略的撤退はしたのは確かだけど、
敗北か?とは思うが。
大友系の豪族の結構な数の豪族を元就が調略しての
出兵だし、毛利本隊にたいしてダメージは無いから。
まあ、言葉の違いが大きいんで無い?
「敗北」とか「戦略的撤退」とか同じこと指してても。
それに、なんかこの板で「敗北」っていうと
ガチの戦で打ち破られて逃げ帰ったみたいなイメージで
捉える厨がおおいでそ。
だからして
>>574が色々ただしたくなるのは
よく分かります。
577 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 03:21:22
毛利最強だし
田舎大名の島津にでもつられてな
はいはい島津島津
どう言い繕うと毛利が九州から叩き出された事実は変わらない
580 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 23:23:01
>>574 また結論を単純化されますが、古今東西の全ての戦闘も、その地理風土
条件を無視すれば一元的歴史観になります。
地理風土的条件で言えば、越後の上杉が雪の積もる冬季となる前、
関東から撤退したのは、関東で敗北したとなるのでしょうか?
時代と勢力を考慮せず、織田、豊臣、徳川と比較する自体、あなたは
幼稚園児程度の知能しかないのでしょう。
更に毛利の場合、四国遠征で伊予から急遽九州遠征に赴き、その間
瀬戸内水軍の能島村上氏が裏切り大友氏側につき、北は尼子の反乱、
東の備後神辺でも反乱と四面楚歌の状態でした。
ハンニバルが遠征した地カルタゴ・ノヴァはイベリア半島ですが、
カルタゴ本国とほとんど関わらなかったという意味は?
ヨーロッパのイベリアとするのは、現在のスペインが印欧語族に属する
からですか?
>関東から撤退したのは、関東で敗北したとなるのでしょうか?
なる
582 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 23:32:50
ここでの論点は目的を果たせなかった上での
他の理由で戦略的撤退に追い込まれた場合が敗北となるかどうかに対して言ってるんだろうけど
戦場では負けなかったけど、撤退に追い込まれた。
のならば、「引き分けか失敗が」しっくりくるな。
例えば毛利軍が九州に上陸しても
兵糧が無くて撤退に追い込まれた場合とかは戦役は失敗だとしても大友に敗北したじゃないわけで
敗北とはならないわけだろう?多分。
四方を敵に囲まれたり配下や同盟者が離反するのを言い訳にするのは阿呆だな。
そんなもん外交戦略や内政や人心収攬が破綻失敗してるってことでそれ自体
恥ずべきことだっての
それを理由に撤退したって自慢げに主張するなんて恥の上乗りの二乗
585 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 23:46:47
大友に敗北したんじゃないだろう。それは。
例えば、極端な話、
「将軍が領内に来てるから撤退して会いに行く」とかいう個人的な考えで撤退しても大友に敗北したことになるの?
ならないでしょう。
大内輝弘の反乱なんかは大友の策動だろ
それで撤退してるんだから大友に敗北してるだろ
大内は完全に大友の策
尼子も大友の支援を受けている
どう考えても負けじゃねえか
589 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 00:00:29
戦闘で勝てないから、結局は策を弄するしかできなかった雑魚の大友
作り話で誤魔化します。
590 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 00:04:47
大友は毛利に滅ぼされかけたからね。
毛利に殺されかけたらなきついて、島津に殺されかけたら織田に言う。
自分では何もできないかす。
>>589 戦闘で勝って目的を達成するよりも、戦わず外交策略で目的を達成する方が
上等です。
>>558 そのつもりで見切りに言及しました。
異を唱えた現地指揮官の判断も興味深いです。
>>572 全く同意。
594 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 04:57:32
>>591 正論
戦略的敗退であって戦術うんぬん以前の完全な負けだもんな
多正面をやらざるを得なかった時点で負け
けど大友>毛利も成立しない
姉川だけなら浅井>織田だけど、だからといって浅井>織田って主張したら恥かく様なもの
不等号が成立するのは直接滅ぼしたor降服させた時だけ
最強は秀吉と徳川家だけ
上杉の戦歴
・信玄に大勝しながらも北信濃を取られるという前代未聞の神業
・10万の兵でも小田原城を落とせずw憂さ晴らしに強姦略奪三昧
・佐野昌綱の城を10度攻めたが、一度たりとも落とせず
・結局北条に関東のほとんどを奪われる
・神保、椎名ら越中の雑魚豪族に苦戦
・渡河退却中の織田を汚く追撃し、戦果を捏造
・御館の乱で衰退自滅、領地の多くを失う
・家臣に反乱起こされまくり
・最上に庄内取られる
・伊達と最上にすら勝てず(後世で寡兵で勝ったと捏造)
・関ケ原の戦いを引き起こし、おまけに負け組へ
・幕末、薩摩の芋っぽに虐殺される
毛利の戦歴
・大友に大勝しながらも九州を取られるという前代未聞の神業
・結果、大友が旧大内領の九州支配を確立。(毛利の戦略負けにも関わらず勝ったと捏造)
・織田がくる前の姫路城に5千で攻め寄せるもわずか5百の黒田に撃退される
・6万の兵でも秀吉に勝てずw
・備中高松城に吉川、小早川率いる主力が後詰めに駆けつけるも傍観。清水宗治見殺し
・本能寺で追撃せず天下取れるチャンスをみすみす逃す
・関ケ原の戦いを引き起こし、おまけに負け組へ
・家臣の対立を招き、関が原で不戦。徳川との密約もまんまとはめられ領地大削減
・幕末、会津に虐殺される
597 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 18:13:18
元就って明治41年に贈正一位されてるのな
田舎大名でしかなかったはずなのになぜ?
明治は長州の天下だからかな。
徳川を天皇の名でもって攻めて、結局は自分達で権力握って藩閥だもんな。
秀吉も天皇の名で九州征伐したんじゃなかったっけ。
601 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 22:28:23
>>583 同盟者が離反する事が、内政と人心収攬が破綻失敗となるのですか。
安芸国の風土条件・社会構成を無視した意見です。毛利氏も傘連判状に
あるよう、一揆契約した国人衆の一員という形態を採っており、
上下関係が薄かった。それら国人衆の要求や、更に下部の要求もある
でしょう。毛利が織田と対立することとなったのも、領民が勝手に
石山合戦の応援に行く。それぞれが勝手に動く行動を止められません。
毛利氏は、為政者としてよくまとめたと思いますよ。大友氏は、最終的に
薩摩に自国を蹂躙され、肥後へ売り飛ばされる住民も多く、領民を守る
ことが出来なかった事は為政者といて敗北であり失格でしょう。関東も
上杉氏に蹂躙され、領民は越後へ拉致され奴隷となった事も同様敗北です。
戦勝獲得とは、外交・戦略に限定されるものではありません。
これで大友に九州から追い出された言い訳になるとでも思ってるとしたらどうかしてるな
組織編制が欠陥だらけで支配力が弱くて戦国大名としては出来損ないだったってだけ
そういえば毛利には今川みたいな分国法みたいなのなかったよな
>>601 毛利って組織はこんなにダメだったんだ、って力説して貶めているだけになっているのだが。
豪族連合体制からの脱皮が出来なかったということ
毛利両川体制ってのも毛利宗家そのものの支配力を弱めてるし
尼子や大内の残党が残党がたびたび大規模な反乱起こせるってのは尼子・大内に比べると
統治・内政にも問題ありか
急成長した毛利と尼子、大内を一緒にしない方が良い
それと大内の残党が起こした大規模な反乱って輝弘の乱だけだろ
輝弘が大友に匿われてたのはかなり前からだから、これは毛利の内政とは関係ない
尼子は・・・富田城攻略後の元就の処断が甘かったせいだな
鹿介を殺しておけばよかったんだが
607 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 00:35:40
>>604 貶めておりませんよ。かって後藤陽一広大名誉教授が「信長、秀吉が
強固な封建制をつくったから、三百年も続いて近代化が遅れることに
なってしまった。毛利氏のように旧豪族の家臣らの主体性を尊重した
緩やかな方法を取った大名が天下を統一していれば、日本の近代化は
もっと早くできていただろう」と言われたが、日本の中でも封建制の強い
風土が多く近代化が早く出来るのは難しいと思います。甲斐武田氏の分国法
では、子供の配分条項まであるそうですが。隣同士の領主が労働力である
子供の奪い合いとなるので、勿論その子の親の意思は無視されます。
現代の犬をどちらが引き取るかに似ておると思えます。
日本の社会構成は縦社会が多く安芸のような横型社会組織が全国に多い
訳でもありません。東国大名のように被官・奉公人が他者に召抱えられた
場合は死罪という厳しい法では無く、出来るだけそのような事はしない
ようにという毛利の分国法は温情を含んでおるように思います。領民は
為政者の物や道具ではない。組織が強圧的で独裁者を生んだと誇り、
領民を為政者の物と考える人達は、北朝鮮で暮らし為政者を個人崇拝、
マンセーすれば良い訳です。
なんか必死な上杉厨や伊達厨や大友厨や島津厨が荒らしてるなw
ゴミ大名、上杉の輝かしい戦歴
・信玄に大勝しながらも北信濃を取られるという前代未聞の神業
・10万の兵でも小田原城を落とせずw憂さ晴らしに強姦略奪三昧
・佐野昌綱の城を10度攻めたが、一度たりとも落とせず
・結局北条に関東のほとんどを奪われる
・神保、椎名ら越中の雑魚豪族に苦戦
・渡河退却中の織田を汚く追撃し、戦果を捏造
・御館の乱で衰退自滅、領地の多くを失う
・家臣に反乱起こされまくり
・最上に庄内取られる
・伊達と最上にすら勝てず(後世で寡兵で勝ったと捏造)
・関ケ原の戦いを引き起こし、おまけに負け組へ
・幕末、薩摩の芋っぽに虐殺される
>>607 その教授はアホだな。
現在では江戸封建時代によって日本という国家が形成され、明治の統一国家として
の基礎になった。江戸時代の蓄積によって日本は短期間に近代化を成し遂げた、と
いうのが主流なんだが。
それから、豪族主体の緩やかな政体というのはそのまま室町幕府です。しかし室町
は戦乱の時代でした。当然ですね、上から押えられる力がなければどいつもこいつ
も自分の欲望で好き勝手するだけなのだから。
611 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 01:00:12
>>606 ですから、富田城攻略後の処断が甘く、殺せば良いと言うものでは
ありません。功利主義的解釈をしてはならんと思います。
向かってくる相手であれば兎も角、降伏した者に温情を持つのは、
当たり前のことです。
「つはもの(兵)の道降人をなだむるは古今の例なり」
「窮鳥懐に入れば、猟師もこれを殺さず」
立花城を攻略した時も、籠城した大友の将兵を豊後に護送し、大友側も
毛利の士道に感謝しております。中国地方人は、「中国者の律儀」に
恥じぬ行為をしたのです。
612 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 01:15:27
>>610 日本が短期間で近代化したのは、結果論でしょう。
日本の地域の社会構成と室町政権を同一化するのも可笑しい。
上から押さえる力とは、自由国家でなく専制国家を要求する概念ですね。
自分の欲望で好き勝手する民衆が嫌いなら統制国家へ移住すれば
良い訳です。
613 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 01:22:06
やはりアムリッツァ星域の会戦がその後の命運を分けたと思う
毛利のような豪族の〜と言っているけど、結局毛利はその支配体制の問題によって
天下を獲れなかったのだろうに。
近代化云々というが、中世ではそんなもんは役に立たない体制だったということ。
中世の支配方法で北朝鮮をマンセーしろだの何百年後の近代化が遅れただの、それ
こそ無茶苦茶なおかしい話。
616 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 03:16:17
論点のすり替えってやつですね
617 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 08:48:00
戦国時代の九州は世界最大の激戦区
毛利の支配体制に難癖つけてる奴とその多数分身が約1名いるようだが
勉強してから出直して来なさいw
ゴミ大名、上杉の輝かしい戦歴
・信玄に大勝しながらも北信濃を取られるという前代未聞の神業
・10万の兵でも小田原城を落とせずw憂さ晴らしに強姦略奪三昧
・佐野昌綱の城を10度攻めたが、一度たりとも落とせず
・結局北条に関東のほとんどを奪われる
・神保、椎名ら越中の雑魚豪族に苦戦
・渡河退却中の織田を汚く追撃し、戦果を捏造
・御館の乱で衰退自滅、48にもなるのに跡取りを指名せず、領地の多くを失う
・家臣に反乱起こされまくり
・便所で糞尿にまみれながら昇天
・最上に庄内取られる
・伊達と最上にすら勝てず(後世で寡兵で勝ったと捏造)
・関ケ原の戦いを引き起こし、おまけに負け組へ
・幕末、薩摩の芋っぽに虐殺される
荒しの予感
急成長する勢力に追いつかない組織の仕組みや人材
旧時代的な豪族連合から脱却できない支配力の弱さとそれからくる
配下豪族同士の軋轢
隆元が早死にしたのはこんなんでストレス溜まって胃が弱ってたからじゃねえか?
財政面も隆元死後急速に悪化したってんならかなりギリギリだったんだろうしねえ。
やっぱ博多の失陥は痛いよな
>>612 もともと平等も近代的意味の自由もない時代の話で、
統制国家だの自由がないだの近代以降の話とごっちゃにしているのが、
あまりにも理不尽すぎ。
624 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 02:23:51
>>615623 中世の社会は封建制であったと共産主義的発展段階で歴史を捉えようと
される訳ですか。時代的変化で区分する視点だけで解釈するのは如何な
ものか。地域風土による区分も重要でしょう。中世日本の社会が一元的
発展段階説で解釈出来るのですか?その日本の中世社会構成定義を
伺いたい。理不尽であれば。
>580は訂正。上杉勢の関東遠征は秋冬季節遠征であり、関東で越冬し
(食糧は現地調達で掠奪、徴発し、越後に拉致する農民奴隷労働力人員を
確保)春季(早くは正月期)に撤退したとも考えられる。
>>624 では、毛利が支配した安芸および中国地方だけは、日本のほかの地方と異なって
中世封建制ではなかったとまずあなたが証明してください。
それがなされない限り、あなたの主張は空論にもならない妄想です。
>>622 >旧時代的な豪族連合から脱却できない支配力の弱さとそれからくる配下豪族同士の軋轢
仕置きの権限を持っているのに支配力が弱いとは意味がわからないな
それと家中軍隊も持っているが。
>財政面も隆元死後急速に悪化したってんならかなりギリギリだったんだろうしねえ。
ソースはあるのか?
>やっぱ博多の失陥は痛いよな
石見銀山>>>>>>>>>博多
627 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 14:11:09
ソース求めてる奴が、ソースなしの反論テラオカシス
財政面も隆元死後急速に悪化した、と事実のように断定しているくせして
ソース求められると >ソース求めてる奴が、ソースなしの反論テラオカシス
とはテラオカシスw
糸冬 了
630 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 20:23:52
>>626 石見銀山の銀をさばく為に商業都市博多が必要だったんじゃないか?
戦争ってのはそれでなくても金食い虫なんだから収入源はいくらあっても困ることはない
というか絶対必要
陶が厳島に誘き出されたのだってあそこが瀬戸内の要衝の港だったからだろ。
博多失った後は明やその他の対外交易は下関で引き継いだの?
632 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 23:33:15
633 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 23:50:48
>>625 中世封建制の定義とは如何なるものですか?
マルクス共産主義の概念を前提条件にして、唯物論で答えろと言われる
のですか?マルクス・ボーイは証明という言葉が好きですね。
マルクス史観で語れなければ、妄想ですか。封建制について、
http://www.toride.com/~sansui/materials/489-1.html に、上横手雅敬氏が書いておられますが、封建制の概念自体曖昧で
しょう。ちなみに上横手氏の主従制論にも日本の地域性を考慮する
必要があると思います。
世界的に視野を広げて、ヨーロッパの封建制とされる制度、西アジアの
イクター制と呼ばれる軍事土地制度を共通性を持った制度と考えるか、
地域的差異を考えるか、わたしは、風土的条件から差異を重視します。
日本国内でも、大雑把に分ければ、東国は、郎従・下人の隷属度が強く、
村の代表者決定を世襲とし、農民は隷属小作の縦社会と、西国の合議が
尊重され、安芸国人の一揆契約も含まれます。そして村落の代表者を
選挙で決め、農民は契約小作横社会との違いがあります。東西中間地帯の
織田、豊臣政権によって、京町衆、堺の交易市民社会や瀬戸内の交易
海賊的海洋文化の自由・開放社会も内陸文化の街道を重視した専制社会に
統制されたとも言えると思えます。内陸的発想は、朝鮮出兵の軍事行動にも
現れ、穀物を船で輸送する半島で、制海権の制覇こそ戦闘勝利の手段で
あるのに、陸路による制覇にこだわり、日本軍将兵を苦戦せしめた秀吉の
拙劣さは、内陸的発想の愚劣さにあると思われる。
どう言おうと、毛利が負けて九州の領土を失ったのは変らないのだけどねえ
635 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 01:14:29
制海権をとらなかった×
とれなかった〇
何か話が脱線してるな。他所でやってくれ
戦略目標を達成できなかったのを敗北と呼ぶかそうでなかったとか
そんなんで言い合ってて楽しいの?
日中戦争で日本は中国を領土に出来なかっただけでなく
完全に撤退したんだんだがあれでも日本の勝ちといえるか?
それと同じだぞ毛利と大友は。
アメリカと開戦する前に国力の3割を使い切ってた日本。
織田と戦う前に無駄な戦いをした毛利。
似てると思わないか?
まだ続ける気か
640 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 15:59:56
まず敗北の定義から決めたら?
>>640 逆に聞きたい。
何であれで毛利の勝ちになるの?
642 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 16:15:26
何に対しての逆なのかが解らない上に
毛利の勝ちと言った事もない以上、回答のしようがない
>>641 上杉が関東を略奪して大友が島津にコテンパンにやられたからだっけ
あと大友の策動や支援で尼子や大内が蜂起したり村上水軍が大友に寝返ったりして
安芸が緩やかな豪族連合だったから毛利の勝ちだっけ?
酷い自演を見た
>>638 博多があるの経済的価値は大きいし勝ってれば国力も大いに増強できたかもしれないけどね
ただ尼子の残党や宇喜多や三村などの領内に不安分子いっぱい抱えてる状況じゃ
維持できるかどうか
>>640 敗北の定義より、トリップ付ける所から始めようや
言葉遊びが目的なら、別に構わんがな
649 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 23:35:23
>>648 通りすがりに鳥求めてどおすんだ?
>>637にレスしただけだぞ
ログ漁る気になれんから三行で説明plz
人取橋の戦い ○伊達軍8千 対 ●佐竹・蘆名・畠山連合軍3万
反伊達の連合軍は数に任せて攻め込んだ。政宗はこの報に接し、最上に対する押さえに2千、大崎に対する押さえに3千人を配し、総勢8千人を率いて布陣した。
政宗、成実らの奮闘によって連合軍は本陣を抜く事が出来ず、伊達軍は圧倒的劣勢の中から持ちこたえた。
この戦いは政宗生涯の戦いのうちでも激闘をもって聞こえ、彼の武名が高まり、伊達氏の運命を大きく開いた戦いであった。
窪田の戦い ○伊達軍6百 対 ●佐竹・蘆名連合軍4千
佐竹義重と蘆名義広に加え、これに白河氏や二階堂氏が加わり、4千人が安積郡に侵入した。
政宗は大崎や最上などへの備えのため、六百人の軍勢であたらなければならない劣勢であった。
政宗は伊達領最南端の郡山城と窪田砦で連合軍の侵入を阻止しようとし、両軍が激突、連合軍が2百人程度の犠牲が出たのに対し、伊達軍は6十人程度だった。
伊達軍は劣勢の中持ちこたえ、40日間の持久戦のすえ和議が成立した。
摺上原の戦い ○伊達軍2万3千 対 ●蘆名軍1万6千
緒戦は蘆名勢優位のうちに進んだが、伊達成実の側面攻撃によって形勢は逆転。
伊達軍の厚い壁を破る事が出来ず、蘆名軍は敗走。蘆名軍は死者2千という大被害を出し、蘆名義弘は佐竹家へ逃亡。
南奥羽の雄蘆名家は滅亡する
童生淵の戦い ○伊達軍 対 相馬軍
相馬勢は当主義胤の弟隆胤を始め多くの家臣が討ち死にするという大敗を喫した。
その後、この戦いは豊臣秀吉の総撫事令により戦いは止まることとなった。
なお、以後戊辰戦争まで駒ヶ峯が伊達氏と相馬氏の藩境となり、駒ヶ嶺以北の現在福島県新地町は伊達領となり、この戦いの影響が大きかったことが分かる。
白石城の戦い ○伊達軍 対 ●上杉軍
伊達軍は首級7百を上げ、わずか1日で白石城を落とした。
長谷堂城の戦い ○伊達最上連合軍 対 ●上杉軍
伊達と最上の巧みな連帯により、直江兼継は城を落とせずに撤退する。
西軍についた上杉は大幅に減封され、伊達と最上は大幅に加増された。家の命運を分けた戦であった。
大坂夏の陣 ○伊達軍 対 ●豊臣軍
騎馬鉄砲隊によって後藤又兵衛と薄田兼相は戦死。政宗はやはり生まれてくるのが遅かったのだろう。
>>651 >伊達と最上は大幅に加増された。
伊達は和賀の蜂起に加担したのがバレちゃって
10万石程度で終わらなかったか?
653 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/14(火) 02:19:26
傾国の烙印という本を読んだ人はいますか?
655 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/14(火) 11:11:43
>>62 刈田郡の2万石加増。なお100万石の反古分は、宇和島10万石とし
て政治的手打ちとして、秀宗に与えられたという。
656 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/14(火) 11:12:32
>>62→ >>652に訂正
657 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/14(火) 14:19:20
文庫本が出たら傾国の烙印を買うよ
いつになるのだろうか
658 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/14(火) 14:23:08
毛利元就や吉川元春は戦で負けたことが無いんでしょ。
こんな天才が他にいるか?
もったいつけてる理由がわからん・・・
毛利元就が一頭群を抜く英雄なのは周知の事実だろうに
>>657 文庫本になるのか?
売れないとならないんじゃね?
毛利輝元卿伝を買うのがいいんでないの。
古本で1万2千円で買った。
毛利輝元でこれ以上の本はないと思う。
毛利は広島と山口でどっちが人気なんだろ
山口かなあ?
広島ではサンフレッチェ〜大河でようやく人気って気がする。
もっとも、浅野の人気はまるでないし、福島に至っては、福島町には屠場があった(昔は川向こうだった)。関係ないかもしれんが。
俺、広島市民ね。
山口の人の意見も見たい。
山口では毛利より幕末の人物の方が人気があります
政治家とか
大河の毛利元就面白かったなぁ
もっと元就の権謀術数をクローズアップしてほしかったなぁ・・・
ボヤキなんかに注目せずにさ
最近の大河の中ではまだクローズアップされてる方だよ
『我が毛利家は天下を目指してはならぬ。ただ御家の繁栄と存続のみに全力を尽くせ』
いい言葉だな
現代にも通用するぞ。
ここの人間はあんまり深く考えてないだろうが。
裸の王様降臨
>>665 子は父を超えられませぬ!(泣)
子は父を超えられませぬ!(泣)
大河面白かったよね
最近島津厨が煩いが毛利に比べたら笑うしかないよな・・・・
673 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/03/05(日) 12:52:18
輝元時代の話で悪いが・・・
1572年足利の仲介で、宇喜多と和睦したのは結局失敗だったと思うのは
俺だけか?・・
小早川が東上作戦にて攻め上ろうにも、どうも邪魔だ。後々裏切るし・・・
滅ぼして完全に毛利領にしたほうが良かったと思うのだが。
輝元らは備前侵攻を考えていた。とどこかのスレでみたが足利の仲介というだけで
和睦したのか?それともほかに理由があったのか?・・・どう思う?
俺も三村を完全に取り込んで宇喜多を滅ぼした方が良かったと思うが
あまりその辺詳しくないから、詳しい人解説キボン
宇喜田直家は名将だからなんともいえない気がする
大友も後方でいまだ健在だし
小早川隆景って大事な所でミスを犯してるんだよなぁ
九州で大友との多々良浜の総力戦で、それまで毛利軍が押していたにもかかわらず
自らの陣形ミスから毛利軍敗退を招いている。尼子反乱で結局は撤退したとは思うが・・・
それと、1579年〜81年の間で行われた備前侵攻での備前八浜合戦、備前辛川合戦
失敗。とくに備前八浜合戦で隆景と毛利元清らは敵大将を討ち取っているにもかかわらず
詰めが甘く備前侵攻失敗に終わっている。美作で宇喜多方の城を次々に落とし美作制圧まで
あと一歩だった吉川元春からしてみれば、このボケ〜てな感じだったろうな・・・
吉川元春ってこうみると、大きな失敗ってないんだよな。さすがだなぁ。
これから但馬侵攻だ、って時に南条の裏切りに合い断念したが。
但馬侵攻が行われていたらもっとおもしろかったのに・・・残念だ。
677 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/17(金) 19:14:26
白馬青牛こないかな?
678 :
白馬青牛:2006/03/18(土) 00:01:02
>>676 多々良浜の戦い云々は、大友側の解釈じゃろう。信用出来んよ。
>>677 以前にも来とるよ。>633では名乗っとらんが、書いたんはわしじゃし。
確認用カキコ。
>>678 では、多々良浜における毛利側の言い分、主張、解釈は?
681 :
白馬青牛:2006/03/18(土) 01:39:12
>>680 多々良浜の合戦自体、大規模な戦闘があったかどうか疑わしい。
結局、立花城は毛利側の手に入った訳じゃし。毛利側の資料を細かく
調べて無いが、多々良浜の戦いについて書かれた資料はお眼にかかっと
らん。「多々良浜」という言葉自体、大友側の一方的な主張じゃろう。
>676の陣形のミスと言うのは、大友側から見て、毛利側はどの様な
陣形であったんか、それに対する大友側の陣形についても述べてないが、
毛利側が敗退したんなら、なんで立花城が攻略されたんか?
矛盾しとろうに。虚言癖のある九州人の誇張した意見であろう。
立花城を毛利が取り返したのは多々良浜より前だ
まあ立花城はそのまま毛利が抑えてるんで
戦があったとしてもせいぜい引き分けとかじゃネーの
684 :
白馬青牛:2006/03/18(土) 21:41:00
>>683 大内輝弘の蜂起で、九州から撤退する毛利軍に大勝利とは笑わす。
立花文書あたりの引用であろう。大友は毛利とまっとうに戦うと負け、
退却すると大勝利と言う、九州人らしい虚言物語は面白い。
685 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/18(土) 22:38:36
敵が逃げたんだから勝利だろ
まあね
でも追撃したから勝った訳じゃない
宗麟の策略で勝ったんだよ
687 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/18(土) 22:52:57
というわけで、大友の戦略勝ちということで
豊前は思いっきり毛利押さえてるけど…
企救郡と小倉城は高橋鑑種、京都郡は杉重良、他の周防灘沿岸や
門司城は毛利の直接支配
馬関海峡確保して瀬戸内・日本海航路確保の目的達成してるけど
博多が欲しかったんじゃないの?
って何か話題がループしてるな
博多というか、当初から秋月や高橋、宗像、筑紫、原田の筑前国衆による
大友からの独立戦争だから
毛利が博多を望んでたら、永禄四年の時点で筑前まで攻めてるでしょ
毛利はあくまで東の尼子なんかの中国地方制圧だから
山口と深川があれば、博多はあったほうがいい程度だっしょ
何をいっているんだ?大内を滅ぼして以来、毛利は基本的に大内領の支配を狙い続けてきた。
それは九州領も同様。当時の毛利は明らかに西を向いていた。
そも、山口があれば博多は無くてもいいなんてよく言えたもんだ。負けてから実は本気では
なかったなんて言い訳としても下の下。
693 :
白馬青牛:2006/03/19(日) 23:20:53
>>692 毛利軍の何処が負けとるんか。撤退すれば勝利と言う大友九州勢は、
九州的虚言癖があるせいか虚勢を張るのう。
毛利は、四国、九州の地元勢の救援を求める要請に答え出兵したまでの事。
大内氏の領土を狙い続けてきたとか野心でしか、考えられんとはのう。
毛利は西を向いていたという根拠があれば、脳内妄想の前提条件で
勝手に決め付けず、具体的に書け。
山口は内陸じゃないか
栄えてたのはたしかだが博多と一緒にするな
九州に向いてないよ
大内滅亡した後、引治三年に門司攻めたのもあくまで対尼子に
瀬戸内の村上水軍を廻す為であって、事実、永禄二年に門司占領後、
尼子攻めに転進してるから
大内滅亡後、大友からの独立を図ってた筑前の豪族が本格的に反抗し始めたのが、
永禄四年の秋月種実や豊前の加来氏の蜂起で、大友はそれを鎮圧し、
さらに門司奪還しに田原親賢が攻撃したが児玉就方・乃美宗勝に惨敗、
しかし大友は臼杵鑑速・戸次道雪を投入し門司への再攻撃を行なったが、
毛利も小早川隆景を派遣し、大友勢を撃退
この結果、大友は筑前・豊前での影響力が激減したんだが、
それでも毛利は北九州に侵攻せずに尼子戦に従事してる
まぁ尼子晴久の死去の影響もあったけど、筑前博多を押さえるより、
長年の敵である尼子との戦いを重要視してたんだよ
大友は永禄四年の敗戦による影響力の低下によって、肥前や築後など
北九州以外でも反大友の蜂起が起きて、それの鎮圧に追われ、
門司奪還を再開出来たのは永禄六年の初頭から
しかし周辺豪族の非協力や他の地域での謀反によって失敗し、
前年から送られてた足利義輝からの和睦命令を受け入れ、
永禄七年に毛利と和睦し、門司を含む豊前の周防灘沿岸を蜂起してる
この間、毛利側から筑前への侵攻どころか、豊前に軍勢を送り込んでさえいない
なのに、博多、筑前などの大内旧領を狙っていたというのは、
何の根拠もない言い掛かりだよ
永禄九年以降の筑前での争乱は、書いたよえに筑前国衆の独立戦争
事実、毛利が筑前国衆の要請で介入始めたのは、永禄十二年の三月からで、
永禄九年十一月に尼子が降服してから一年も要請あったのに介入していないから
それと多々良浜合戦は、あったとすれば、どう見ても大友の負け
証拠に五月十八日に立花山城包囲した吉川・小早川勢に対して、
閏五月三日に立花山城が開城してるから
大友の言うように合戦があり勝利したなら、後詰に来た戸次道雪・臼杵鑑速・吉弘鑑理が
立花山城を解放するか入城して、毛利側は引くはずでは?
しかし実際は、大友勢は立花山城諦め、宝満山城の救援に引いてる
あ、それと山口と深川あっても、到底、博多には及ばない
山口は文化都市であって、交易都市ではないから
でも毛利は博多を重要視していなかったんで
大友系のサイトみたら1569年9月の海戦で市川経好が討ち死にしたとか
大内輝弘が高嶺城を奪回したとか書いてあるんだが・・・
これはネタか?
>>696 最後の一部が何故か根拠なしw
雰囲気で根拠のない事を同列に差し込んできてる辺りが・・・
>>697 大内輝弘が山口に入ったのは事実だが、高嶺城は落城していない
また輝弘は十月十二日に周防多々良浜に上陸したが、海戦した事実はない
勘違いはしてないだろうが、周防多々良浜と筑前立花山城近辺の多々良浜とは違う
>>698 毛利が筑前に永禄十二年まで介入しなかったのは説明済み
それでも毛利が筑前博多を重要視し、筑豊、九州における
大内旧領を狙っていたというなら説明してくれ
説明すらなく思い込みだけで語られてもね…
>>698は是非根拠をもって
「毛利が博多を重要視していた」のを証明してね
弘治三年の門司侵攻から永禄十二年まで、門司以外に、
毛利は筑豊に一切手を出してないのを否定してるんだから
>>699 さも永禄十二年まで介入しなかった事がその後介入しないって理由になるのか?
まず、狙っていないというのの根拠として成り立っていないだけの話だろ
別に毛利が博多狙ってたか狙ってないかを力説したいんじゃなくて
君の主張の根拠が間違ってるってだけw
自分の話にツッコミが入るとすぐ、反対意見だと思ってしまうのは良くないな
は?狙ってない根拠になってるが?
対尼子を最優先していた、筑豊に出兵していない、
永禄十二年以降は永禄九年から続く筑前国衆の対大友戦への介入
最初に説明したが…
まぁ有りもしない海戦で立花山城攻めに参加していた吉川経安が死んだとか
ネット知識君は煽りしかできないもんね
狙ってると証明できなきゃ狙ってないんだけどな
697はただの大友サイトへの皮肉だろ
煽り一辺倒の彼は知らないから気付かなかったようだけど
>>688と
>>690は永禄十二年の話だから
これは大友の今後や立花宗茂が何故独立出来たかや、
耳川合戦にも繋がるんだけどね
ま、どーでもいいか
>>703-705 あ〜あ、いってる傍から
<ネット知識君は煽りしかできないもんね
<煽り一辺倒の彼は
煽りってw
偏った知識で言ってても意味ないし
暴言吐いたところで何の証明にも根拠にもならないので頑張ってくれ
>>695 撤退と転進
どちらも支える能力がないからそうせざるおえないだけの話
別に毛利が負けとか言ってるわけじゃない
「それでも毛利は北九州に侵攻せずに尼子戦に従事してる
まぁ尼子晴久の死去の影響もあったけど、筑前博多を押さえるより、
長年の敵である尼子との戦いを重要視してたんだよ」
足元疎かにして、遠交近攻策にはめられただけでしょ
ただ単に進出の足がかかりを取っていたが、尼子で余力がない内に
支えきれない状況になったから、撤退したっていうだけだろ
重要視していなかったって、それじゃあ毛利は博多の利益さえ計れない○○って事になって
毛利を辱めてるだけだよ
>>707 九州方面では、結果として大友に軍配が上がったけどな
尼子がいるからって、大友の方に他に敵対勢力がいなかったわけでもないのだから
足場を失った言い訳にはならないから
709 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/20(月) 03:25:48
痴漢をしてないって証明出来ないのは、お前が痴漢をしたからだ!
ってくらい暴論だな
お互いに主張の根拠を提出しあって吟味するのが建設的だと思うが
>>707 >どちらも支える能力がないからそうせざるおえないだけの話
?対尼子に集中する為、門司に見られるように
豊前沿岸を確保して、瀬戸内と日本海を繋げて、対尼子に
水軍を投入し、山陰沿岸を押さえるのが目的
中国に目を向けてた毛利が筑前まで侵攻して二正面作戦しなかったと事実述べてるんだが
どちらに比重を置いていたかだよ
だから対尼子を重要視してたと書いてるんだが?
こんなの永禄二年に門司城落とした後に、筑豊の豪族が大友に反旗翻したのに、
全く介入しなかった事実でわかるんだが
〜だけでしょ、〜だけだろ、と何ら根拠もない思い込みで語られてもね
そう思うなら、毛利がどう動いたかで論証してくれないとな
つか永禄十二年には尼子いませんよ?
いつの話したいのか、はっきりしてくれないかな?
>>707-708は弘治三年から行なわれた門司攻略を筑豊侵攻、
博多押さえる為の足掛かりと言うなら、それを証明してくれ
こっちは毛利は永禄二年に門司攻略した後、対尼子に瀬戸内水軍を投入し、
永禄十二年まで筑豊侵攻しなかった事実から、毛利は博多を重要視していなかったと主張してるから
ちなみに尼子は永禄九年に降服、永禄八年には月山富田城に封じ込めてるから
それと永禄二年に門司攻略して以来、毛利は門司奪回しに
攻めて来た大友勢の迎撃以外、北九州に軍勢送ってない
永禄十二年に筑前国衆の要請で出陣するまではね
永禄九年に尼子降服してるし、それまで撤退もしてない、門司を落とされてもたい
なのに
>>707-708 >単に進出の足がかかりを取っていたが、尼子で余力がない内に
>支えきれない状況になったから、撤退したっていうだけだろ
>足場を失った言い訳にはならないから
と言うからには、永禄四年以後に門司失った、撤退したのを証明出来てるはずだよな
こっちは永禄十二年以降は
>>688 それまでは
>>695で説明してるから
>それじゃあ毛利は博多の利益さえ計れない○○って事になって
>毛利を辱めてるだけだよ
これはある意味正しい
毛利は対尼子を重視し(本拠が吉田郡山にある以上しょうがないが)
中国地方に固執した為、博多の重要性を軽視してた
というか大内の経済基盤を大友ほど理解していなかったと言うべきか
大友は博多の重要性を理解してたからこそ、毛利の門司攻略に対して危機感を抱き、
だからこそ数度に渡り奪回を試み、失敗すると将軍の和議仲介を利用し、
毛利の豊前沿岸の支配容認と引き替えに筑前への介入を阻止して、
和議が成立している間に(失敗したが)筑前の支配権強化に着手し、
それによって筑前国衆の反発を招いて、結果、毛利の介入に繋がると
>>713 交易路としては厳島の方が繁栄してる
都市の繁栄は博多かもしれんが、銀山収入には到底及ばないし
職人も‥どうなんだろ?よく知らないけど
>>714 >交易路としては厳島の方が繁栄してる
…初耳だ
それから、銀をさばく交易ルートとして博多を必要とした。当時の博多は
大陸や東南アジアとも繋がる東アジア交易の拠点のひとつだからね。
博多も重視していた⇒戦略的敗北
博多は重視していなかった⇒戦略的未熟
どちらにしても毛利にとって、良い材料ではないね
>>714-715 厳島は瀬戸内、西海航路の中継点で確かに重要拠点ではあるが、
内海航路と外海航路の集約地点であり、対アジア交易の発信拠点である
博多には日明貿易で得られる糸綿・水銀・鋼鉄・磁器・古文銭・薬材等々あり、
交易拠点としての重要性は厳島とは比べ物にならない
なぜ大内の経済基盤を理解していなかったのかと言うと、
大内は石見大森銀山と博多、周防・長門・豊前・筑前を掌握する事によって
対外交易に不可欠な銀を使い、内外交易の航路を一手に握り莫大な利益を得ていたのを、
毛利は大森銀山と馬関海峡、内海交易航路と銀によるものとし、
肝心な、銀を物に替える博多と言う貿易拠点を他の場所で補えると考えてたんだよ
>>716 >博多は重視していなかった⇒戦略的未熟
毛利と大友の置かれた状況と行動から、何が戦略的未熟か説明してくれないか?
大内滅亡の引治元年から元就が没する元亀二年まででね
単に博多を軽視していたとかいう理由じゃないよね?
>>718 尼子に掛かりきりになるしかなかったという事になるだけで
結局、そういう部分でも戦略的に未熟ってだけの話になる
>>719 >尼子に掛かりきりになるしかなかったという事になるだけで
>結局、そういう部分でも戦略的に未熟ってだけの話になる
尼子に掛かり切りになるのが、どうして戦略的未熟になるんだ?
急成長した毛利が、尼子と大友相手の二正面作戦の愚を犯すのが
戦略的に正しいと?
だから周辺情勢などから成熟した戦略と言うのを説明してくれないか?
>>720 効果的な尼子対策を打てずに、策動されてるって時点で
世間的に言われてる謀略という点でも疑問符が付く
>>720 簡単にいうとそういう状況を作ってしまったのが、まずマイナス
結果として九州の足場を失い、尚且つ回復出来ていない
九州から撤退ないし転進せざるおえない状況にしてしまった事も未熟な点の一つ
逆に失地を回復していたのなら、毛利のやり方が正しかったとなるわけだけどさ
>>721 >効果的な尼子対策を打てずに、策動されてるって時点で
>世間的に言われてる謀略という点でも疑問符が付く
尼子対策したからこそ、門司攻略して、海路を使い出雲攻め出来て、
永禄九年に尼子を降服させてるんだけど
当時の尼子の勢力圏の推移とか周辺情勢から説明出来なくて、
単に毛利批判したいだけにしか見えないね
そうでないなら具体的に説明してくれないかね?
>>722 >簡単にいうとそういう状況を作ってしまったのが、まずマイナス
だから、どういう状況?時系列順に解説して
>結果として九州の足場を失い、尚且つ回復出来ていない
>九州から撤退ないし転進せざるおえない状況にしてしまった事も未熟な点の一つ
失った九州の足場とは? 毛利が九州への侵攻を狙ってた根拠は?
昨日も聞いたな、返答なかったが
>>724 >毛利が九州への侵攻を狙ってた根拠は?
多々良浜他、長年の毛利家による北九州での軍事活動はなによ?門司戦争は?
まさか、一連の軍事行動は大友からの独立を狙う北九州の諸豪族の支援だけ
が理由で毛利の利益は考えていなかった、なんて妄言を言うつもりか?
もしそれが本当だとしたら、元就は人間として善人であり戦国大名としては
失格、三流、クズになってしまうぞ。
>失った九州の足場とは?
門司からなにから、毛利が北九州に得た領土および大友から離反した親毛利
勢力が全て大友支配下になった。
>>723 全然関係ない
尼子に手間取ってて九州支えきれませんっていうのは言い訳にならないよ
毛利最強を掲げるスレにおいては尚更ね
効果的な尼子対策が打てなかったからこそ、永禄九年まで尼子を降伏させられず
その間に九州一帯から追い出されてしまったと・・・・
何の言い訳がここにあるわけ?
何らかの謀略なり和睦なり使って反転して尼子を攻める為の工作が出来てないわけ
残念ながら毛利の力及ばず、時間稼ぎも出来ずに九州方面は劣勢に回った
それはそれで事実
尼子攻略はそれは評価の出来る事だけど、失地の回復も出来ないで終わってるし
>>725 >多々良浜他、長年の毛利家による北九州での軍事活動はなによ?門司戦争は?
門司戦争は対尼子と説明しましたが?
永禄二年に門司攻略し、仁保隆慰を城代に送り込んだ後、
毛利は永禄十二年まで九州へ侵攻していません
大友が門司奪回に動いた永禄四年の門司合戦も、迎撃する為の
後詰送って勝利後、引いてますが?
永禄六年にも失敗して、将軍の調停で和睦して、豊前沿岸を放棄したのは大友だが
>まさか、一連の軍事行動は大友からの独立を狙う北九州の諸豪族の支援だけ
>が理由で毛利の利益は考えていなかった、なんて妄言を言うつもりか?
は?筑前国衆支援の出兵は永禄十二年だが?
門司合戦とは関係ないが?
多々良浜合戦と門司合戦を同列に扱うなんて…、だから時系列順に状況を解説しろと…
>門司からなにから、毛利が北九州に得た領土および
>大友から離反した親毛利 勢力が全て大友支配下になった。
>>688参照、永禄十二年以降、豊前は毛利が支配してるが?
どこが大友支配下なんだ?
博多方面等の交易ルートは、喉から手が出るほど欲しいのは戦国なら誰でも考える事
必要としていないなんて、食わぬ侍の爪楊枝理論は成り立たない
だからこそ、大友方も攻勢に出て毛利方を駆逐したわけだし
ここで大友程、その重要性を理解できていなかった可能性もあるけど
それはそれで、財政的な情報収拾能力と先見性に欠陥点もあった事を裏付けてしまうし
結局、毛利にとってマイナスの面はあっても、これによってプラス評価は
致命的な被害を被らないように出来たという「事後処理」的な対応の良さ
つまり、その都度、その都度の直接相対した相手には強いが
広範的な戦略という観点での力量には、少し疑問符がつく
(もちろん、良くないと言ってるわけじゃなくね)
>>727 説明しましたが?って自己完結した内容で、説明になってないんだよw
まず
<毛利は永禄十二年まで九州へ侵攻していません
侵攻できない状況ですから
してませんじゃなくて、出来ませんを勘違いしてるでしょ?
出来たけど、敢えてしてないっていう根拠を出さないと説明になってないのは、お分かり?
<後詰送って勝利後、引いてますが?
これも同様。この時は大友もまだ余力のある状態
余勢をかって反抗できないある程度の楔を打ち込むのが常道では?
ただ、それが出来なかっただけの事
ちなみに永禄六年は、和睦を上手く利用して尼子氏を叩いてるんだよね
大友が尼子を利用した形でもあるけど(この時点で戦術的には門司では大友方が不利だったし)
その後も豊前の杉、長野、城井、筑前の麻生、高橋、秋月、筑紫、原田、宗像らの国人に対して
積極的な工作をしてますよ
そして、これからという時に高橋、秋月裏切られ、尼子に策動され、大内に侵攻され
九州の足場を広げるどころでなくなった
そして、工作を受けていた他の国人も支援を受けられずに大友方に侵食されていった・・・ただ、それだけの事
>>726 >尼子に手間取ってて九州支えきれませんっていうのは言い訳にならないよ
手間取ってて?大内滅亡後の尼子と毛利の勢力圏述べて
ゲームと勘違いしてないか?
>効果的な尼子対策が打てなかったからこそ、永禄九年まで尼子を降伏させられず
引治二年から永禄九年までの尼子領と毛利領の推移と、それまでの周辺情勢を述べて
>その間に九州一帯から追い出されてしまったと・・・・
>何の言い訳がここにあるわけ?
永禄二年から永禄十二年までは毛利からは出兵なし、
門司含む豊前沿岸は永禄十二年以降も毛利領、
何か言い訳ある?
>何か和睦なり使って反転して尼子を攻める為の工作が出来てないわけ
再三門司奪還を試みて失敗し、将軍の和睦調停受け入れて、豊前沿岸を放棄したのは大友だが?
>残念ながら毛利の力及ばず、時間稼ぎも出来ずに九州方面は劣勢に回った
だから何度も言うが、毛利が九州狙ってた根拠は?
具体的に毛利の取った行動から説明してくれないかな?
時系列順にね
君の主張には何にも根拠ないから
>>732 ゲームと勘違いしてるのはそちらさん
あれだけ九州の足場を確保して、工作してしておいて
重要視してない、欲しくないってどこまで毛利さん強がりすぎ
<永禄二年から永禄十二年までは毛利からは出兵なし、
<門司含む豊前沿岸は永禄十二年以降も毛利領、
<何か言い訳ある?
ありまくりでしょ
ゲームじゃないんだから、出兵だけがその指標だとでも?
残念ながら、毛利さんのやり口は、尖兵となる国人なりを取り込んでから出兵ですよ
(これが高橋、秋月の工作失敗で瓦解)
その時期、幕府から和睦の斡旋を受けて和議を成立させてるわけ
この和睦の斡旋を利用して、元就は、尼子に攻勢をしかけてる
まず
>>730 >出来ませんを勘違いしてるでしょ?
>出来たけど、敢えてしてないっていう根拠を出さないと説明になってないのは、お分かり?
そうだよ、二正面は無理だから
“する気がないからしなかった”んだよ
君の言う九州狙ってた足掛かりとか根拠を出さないと説明になってないのは、お分かり?
>この時は大友もまだ余力のある状態
>余勢をかって反抗できないある程度の楔を打ち込むのが常道では?
>ただ、それが出来なかっただけの事
攻めてきた大友勢を撃退しました、軍事目的は達成しました
これ以上の戦線拡大をする気ないので撃退後、引きました
大内滅亡後、対尼子を重視している証拠だね
九州へ進出する気なし
1561(永禄4)年に、大友と毛利が門司城争奪戦開始
1562(永禄5)年には、石見の国衆を取り込み尼子支配地域に侵攻
この時期、大友と尼子の両面作戦
1563(永禄6)年に毛利は、将軍義輝による和睦交渉を利用。大友方とは和睦を進める一方
「講和の不成立は義久(永禄三年、父晴久の急死で尼子氏を相続)の責任で、われわれの緩怠によるものではない」
と一方的に尼子との和睦を破棄し侵攻
1564(永禄7)年に和議が成立。毛利は対尼子へ
1566(永禄9)年に、尼子義久を叩き終えた後、今度は反大友工作として
豊前、筑前の国人を取り込もうとする←対尼子でやった医師身の国衆取り込みと戦略は同じ
この後、毛利方は有利に取り込み工作を行うも
>>733で述べたように後に高橋、秋月への工作失敗で瓦解
ここにおいて毛利の戦略的優位性が崩れ始める
尼子に策動され、大内に侵攻され、九州どころではなくなり撤退
これにより支援を失った国人は大友方に侵食されていくのであった
>>729 状況説明にはなってるが?そっちはそれすら無し
>>731 >ちなみに永禄六年は、和睦を上手く利用して尼子氏を叩いてるんだよね
>大友が尼子を利用した形でもあるけど(この時点で戦術的には門司では大友方が不利だったし)
永禄五年から将軍から尼子と大友との和睦斡旋があったんだよ
毛利は大友とは和睦受け入れ、尼子とは無視してるんだよ
大友は当初受け入れなかったが、門司奪還が難しいと判断したから、拘っていた門司を放棄して
豊前沿岸を毛利に明け渡し和睦したのが、永禄六年
これは九州に目を向けてなく、あくまで対尼子だった根拠ですけどね
その後も積極的な工作とは?それ以前には大友の旧大内領への介入防ぐ為、
筑豊衆に工作行っていたが、それ以後は筑豊衆からの支援要請であって、それを毛利は無視してるんだが
これからも何も、無視してる間に秋月や高橋が大友に反旗翻して独立戦争してるだけで
裏切られた意味がわからん、毛利に従った訳でも無し
>>734 <そうだよ、二正面は無理だから
<“する気がないからしなかった”んだよ
一行目と二行目で既に矛盾してるよw
二面は無理だから、しなかった・・・”する気があった”ら出来たわけ?
この時点で説明になってないのは貴方ですよ
文章を少しは省みてね
<攻めてきた大友勢を撃退しました、軍事目的は達成しました
<これ以上の戦線拡大をする気ないので撃退後、引きました
<大内滅亡後、対尼子を重視している証拠だね
<九州へ進出する気なし
これ以上戦線を拡大しても、それを持続出来ないだろ
地理的にも水軍の輸送力で深く侵入したら賄いきれない可能性も高く
(門司では、水軍や輸送力を存分が活きている)
だから、これ以上は無理、本国の尼子も大友と気脈を通じて危ないのだから
この部分は無理だったから出来なかった、ただそれだけの事
>>736 だからゲームじゃないんだから
限られた国力で、どうするかってなるだろうが
九州も欲しいけど、尼子を放っておいたら危ないっていうね
どちらも欲しいが、毛利の力ではそれが出来ないから、和睦を利用してるんでしょうが
双方に和睦の話があって、尼子に関しては一方的に切っている
その間、大友方への和睦工作は時間をかけておこない、時間稼ぎをしている
尼子義久を叩いた後は、尼子氏に仕掛けたような対大友工作を行っている
戦国大名として、国人の取り込みは基本中の基本で、本気の戦略ですよ?
>>728は話にならんけど、一言言うなら
>財政的な情報収拾能力と先見性に欠陥点もあった事を裏付けてしまうし
大内滅亡後、大友と尼子が旧大内領狙うのは当然であり、今まで敵であった尼子差し置いて、
九州、博多を狙うなんてのは愚の骨頂
最終的には中国地方をほぼ制圧したのを、「先見性に欠陥点もあった事を裏付けてしまう」なら
九州に進出すれば、確実にそれ以上の結果を得たと立証出来なければならない
また尼子との両面作戦を当時の毛利が遂行可能であったのを証明できなければならないんだよ
お分かり?
それをマイナス面だ、広範囲的な戦略観点、力量に疑問符がつくとか
完全なゲーム感覚でしかないわけだが
ちなみにその後
>>733や
>>735でも述べた通り
毛利が仕掛けた工作は失敗、逆に大友方の仕掛けた工作にハマり九州どころでは完全になくなってしまったわけ
>>239 <九州に進出すれば、確実にそれ以上の結果を得たと立証出来なければならない
そんな証明はする必要はないよ
完全に筋違いをしてるね
九州方面での工作は失敗したからといって
中国方面での工作は成功したといっているわけではない
どちらも成功させていれば、毛利の評価は揺るがないし
より大きな経済圏を獲得出来ていたという話
何、九州に進出すれば、それ以上の結果って?w
失敗は失敗として認めなければいけない
功績は功績として認めてるんだから
中国方面での工作が成功⇒中国方面での工作が失敗した
>>735 1561(永禄4)年に、大友と毛利が門司城争奪戦開始
↑
はい間違い、永禄二年に門司城は毛利に落とされてます
>>727に書いてますね、これは大友の門司奪還戦
1562(永禄5)年には、石見の国衆を取り込み尼子支配地域に侵攻
この時期、大友と尼子の両面作戦
はい間違い、門司攻略後に瀬戸内から水軍衆を日本海に廻せるようになり、石見や出雲侵攻が可能になった
この当時、筑豊衆に大友への謀反の工作活動は、あくまで背面の安全確保ですね
1563(永禄6)年に毛利は、将軍義輝による和睦交渉を利用。大友方とは和睦を進める一方
「講和の不成立は義久(永禄三年、父晴久の急死で尼子氏を相続)の責任で、われわれの緩怠によるものではない」
と一方的に尼子との和睦を破棄し侵攻
永禄五年から出てたのは説明済み、ちなみに尼子とは和睦しておりません
大友は門司含む豊前沿岸を毛利が有するのを認めて和睦
1566(永禄9)年に、尼子義久を叩き終えた後、今度は反大友工作として
豊前、筑前の国人を取り込もうとする←対尼子でやった医師身の国衆取り込みと戦略は同じ
取り込もうとしてませんね、秋月らによる独立戦争で、この年、秋月に攻めた大友勢が大敗し、
秋月から毛利へ出兵要請あるものの、毛利は放置
>ここにおいて毛利の戦略的優位性が崩れ始める
>尼子に策動され、大内に侵攻され、九州どころではなくなり撤退
>これにより支援を失った国人は大友方に侵食されていくのであった
尼子策動、大内の周防上陸は事実だが、いつでしょう?
>>739 <それをマイナス面だ、広範囲的な戦略観点、力量に疑問符がつくとか
<完全なゲーム感覚でしかないわけだが
筋違いをしておいて、これだから
ただ単にゲーム感覚だって言いたいだけでしかないよ
反論として、それは貴方の方だとは言っても
こちらからは敢えてそういう事を言わないようにしてるんだから
議論の為の議論をするような発言は慎んでくれ
優位な状態を戦術面で作っておいて、大友の戦略によって、九州方面の足場を失っているというのは事実
これは、工作の失敗によることも大きいし
対尼子、対大内に対して先の行動が不十分だった事を示しているだけ
>>742 <はい間違い、永禄二年に門司城は毛利に落とされてます
はい、勘違いしてるね
別に毛利に落とされたか落とされてないかの話の引き合いには出してないのでw
そこで大友方と毛利方の争いがあったという時系列を勘違いしないでね
<はい間違い、門司攻略後に瀬戸内から水軍衆を日本海に廻せるようになり、
はい、勘違いw
対尼子義久との争いとして和睦交渉までの流れとして出した時系列なので勘違いしないでねw
<永禄五年から出てたのは説明済み、ちなみに尼子とは和睦しておりません
はい、勘違いw
和睦交渉の話があり、大友とは交渉するも、尼子とか破談にしているという時系列なので
、和睦が成立したという事を言ってませんけど?勘違いしないでね
<尼子策動、大内の周防上陸は事実だが、いつでしょう?
何の工作も前置きもなく、そういったことが起こるとでも?w
>>737 >一行目と二行目で既に矛盾してるよw
>二面は無理だから、しなかった・・・”する気があった”ら出来たわけ?
無理だからする気がなかったで、何ら問題ないが?
九州侵攻なんて出来なる情勢でもない、逆に尼子・大友に挟み撃ちにあう
だから筑豊衆を煽動させ、大友の周防長門への介入を防ぎ、対尼子に集中
最初から言ってるとおり、九州に侵攻していない、する気もない、だから九州への足掛かりなんて、
そっちが勝手に思い込んでるだけ、お分かり?
>これ以上戦線を拡大しても、それを持続出来ないだろ
>地理的にも水軍の輸送力で深く侵入したら賄いきれない可能性も高く
>(門司では、水軍や輸送力を存分が活きている)
>だから、これ以上は無理、本国の尼子も大友と気脈を通じて危ないのだから
尼子と大友が通じてた根拠は?
戦線拡大しても持続出来ないのは承知してるから、する気がなかった
出来たかどうかではなく、毛利がする気なかった
無理だから出来なかったんんではなく、出来たかどうかはわからない
ただ後世から客観的に見ればかなり厳しい、そして毛利は当初から“する気がなかった”
話の筋道とは関係ない事に引っかかって、
しかも、言ってもいない事を間違いだ〜って指摘しても意味なし
そういう勘違いで反論されても困るんですけど?
>>745 <無理だからする気がなかったで、何ら問題ないが?
だから、出来なかったんだろ?w
あれだけ工作して、戦術面で優位性を保とうとしといて、失敗したんでしょうが。
する気がないというのは、出来たけどする気がないっていうので意味が通るんだよ
無理だけど、する気がないっていうより、そうしたいけど、無理だからやれないって事
する気がないのと、出来ないから無理っていうのとでは全然内容が違う
そういうのは単なる強がりでしかないよ
ちょいと日本語さえおかしくなってるよ
>>738 だからゲームじゃないんだよ?限られた国力で、毛利は新興勢力
>九州も欲しいけど、尼子を放っておいたら危ないっていうね
>どちらも欲しいが、毛利の力ではそれが出来ないから、和睦を利用してるんでしょうが
九州欲してないのは、義輝からの和睦要請で証明済み
和睦利用も何も、永禄二年で門司攻略後はさっさと撤退、これは九州への足掛かりでも何でもなく、
対尼子に水軍廻す為には、馬関海峡の安全が絶対条件だから
>その間、大友方への和睦工作は時間をかけておこない、時間稼ぎをしている
?毛利は永禄五年の時点で和睦受け入れてますが?
門司奪還したくてゴネてたのは大友ですよ?
和睦成立後は筑豊への工作はしていません
永禄九年に尼子降伏後に、秋月らが支援要請してきただけですがね?
それも毛利は蹴ってるけど
何でも間でも取り込みと勘違いしないように
<九州に侵攻していない、する気もない、だから九州への足掛かりなんて
しかも、これって
結局、それを維持出来なかったんだから言い訳にすらならないぞ
九州の足場を揺るがされて、したくても出来ない状況に追いやられてるわけ
そう、「したくても出来ない」
毛利自身ではないのだから、したいかする気がなかったかをこちらは論じていないw
したくても出来ない状況に陥ってしまったというのを言ってるわけ
>>748 <九州欲してないのは、義輝からの和睦要請で証明済み
全然証明になってないでしょ
尼子に陸伝いに攻められるような事になった方が危ないから
優先順位をつけただけで、「欲してない」って結論が出てくるのは明らかにおかしい
だから、対尼子氏に手一杯で九州方面には力を注げなかったんでしょうが。
<和睦成立後は筑豊への工作はしていません
筑紫、宗像、原田氏が蜂起してますよ
工作してないって根拠は?
>>740 >毛利が仕掛けた工作は失敗、逆に大友方の仕掛けた工作にハマり九州どころでは完全になくなってしまったわけ
毛利の工作が成功したからこそ、永禄二年に簡単に門司を攻略でき、大友の門司侵攻は永禄十二年まで
永禄四年に一回と五年に二回のたったの三度
その間、毛利は尼子を滅ぼし、因幡や伯耆、美作まで進出してますが
当初から九州には目を向けてませんね、あくまで対尼子の為の大友対策でした
>九州方面での工作は失敗したからといって
失敗してませんよ、対大内、対尼子の間、大友は毛利領へ全く介入できずに
筑豊衆との確執を繰り返してます
何か勘違いしてないかね?
両面作戦は出来ないから、九州への侵攻などする気がなかった
でも放置しとけば対尼子の後背を大友が突く可能性がある
だから筑豊衆を煽動させ、後方を憂いを無くし、対尼子戦に専念出来たと
<門司奪還したくてゴネてたのは大友ですよ?
これの根拠は?
永禄六年に成立して、宗麟の娘と元就の子の婚儀が決まったりなどしてるのは1564(永禄7)年
>>751 <毛利の工作が成功したからこそ、永禄二年に簡単に門司を攻略でき、大友の門司侵攻は永禄十二年まで
なんで、永禄十二年までって限定してるわけ?
しかも、その工作で成功させたはずの事柄が覆ってるわけw
<当初から九州には目を向けてませんね、あくまで対尼子の為の大友対策でした
これも勝手な推論
対大友の為の、尼子攻略とでも取れる
尼子をどうにかしなければ、大友を滅ぼすという事も不可能だったんだから
だから、出来た事と出来ない事の区別ぐらいつけてね
<失敗してませんよ、対大内、対尼子の間、大友は毛利領へ全く介入できずに
<筑豊衆との確執を繰り返してます
失敗してますよw
その領域は最終的には、大友方に帰属してるし
元就が亡くなったからという言い訳は通じませんよ
その前の段階で、大内やら尼子やらの動きを許して撤退してるんだから
>>743-744 >優位な状態を戦術面で作っておいて、大友の戦略によって、九州方面の足場を失っているというのは事実
>これは、工作の失敗によることも大きいし
>対尼子、対大内に対して先の行動が不十分だった事を示しているだけ
九州侵攻への行動を少しも見せておりません
門司などの豊前沿岸以外には、永禄十二年まで全く手を出しておりません
対尼子戦の最中の大友の介入を防ぐ為、筑豊衆を煽動したのを勝手に九州侵攻への足場にしないで下さい
それは毛利によって、毛利が侵攻してくると踏んで、大友への反旗を翻した筑豊衆と同じですよ
利用されただけ
>そこで大友方と毛利方の争いがあったという時系列を勘違いしないでね
争いあったなら、永禄二年の門司攻略はなかったと?へぇ
引治ニ年以降の大友は何してたのかな?旧大内領の接収を目的としながら動けなかったのは何故かな?
>対尼子義久との争いとして和睦交渉までの流れとして出した時系列なので勘違いしないでねw
和睦交渉なら永禄五年に将軍に対しても、毛利が大友との和睦を承諾したのに大友が拒否したのは書かないの?
>和睦交渉の話があり、大友とは交渉するも、尼子とか破談にしているという時系列なので
>、和睦が成立したという事を言ってませんけど?勘違いしないでね
和睦交渉は永禄五年からですが何か?
>何の工作も前置きもなく、そういったことが起こるとでも?w
どんな工作と前置きを、いつからしたのでしょう?
>>755 <対尼子戦の最中の大友の介入を防ぐ為、筑豊衆を煽動したのを勝手に九州侵攻への足場にしないで下さい
おいおい
勝手に、九州の足場を九州侵攻への足場に変換しないでくれよw
上でも述べたように、する気があったかなかったで主張していない
する気があろうが、なかろうが、出来ない状態に追い込まれたっていう話
<争いあったなら、永禄二年の門司攻略はなかったと?
また、勘違いw
なんで、争いがあったら、門司攻略がないと言ってる事になるのか
まず、その人の発言勝手にしかも誤った形で代弁する癖をなんとかしてくれ
<和睦交渉なら永禄五年に将軍に対しても、毛利が大友との和睦を承諾したのに大友が拒否したのは書かないの?
こちらが主張する事とは無関係だし
(で、ちなみにそのソースは?)
<和睦交渉は永禄五年からですが何か?
また、関係ないw
永禄五年からあっても、成立の確定までの時系列では、現状でも政略的な部分は進行している
和睦中なら、何もしてないとでも?w
<どんな工作と前置きを、いつからしたのでしょう?
そちらが、結果から言っているように
事実として高橋、秋月、原田、筑紫、宗像、麻生氏は、毛利の撤退後
降伏してるわけ
後ろ盾がないのにいきなり起こるとでも?
見当違いのツッコミしないでねw
>>746-747 >だから、出来なかったんだろ?w
>あれだけ工作して、戦術面で優位性を保とうとしといて、失敗したんでしょうが。
だから両面作戦なんて出来る力なかったから、筑豊衆へのは煽動と言ってますが?
九州侵攻目的で工作してたなら、尼子が月山富田城に籠もった永禄八年からでも行ってる
永禄九年の秋月からの要請にも、何らかの派遣はする、でも一切してません
大内滅亡当初は出来なかった、永禄八年以降は出来たが、支援する為に出兵したのは永禄十二年です
>する気がないというのは、出来たけどする気がないっていうので意味が通るんだよ
>出来たけどする気がないっていうので意味が通るんだよ
>無理だけど、する気がないっていうより、そうしたいけど、無理だからやれないって事
それは君の勝手な解釈、自分の力を省みて、無理すれば可能性有るかもという判断をする前に
最初っからやる気がないわけね
出来ないから諦めたと、出来ないのを知ってるからやる気がないのとでは全然違うよ
諦めた、無理と判断したなら、一度は実行してるから
>>759 何度も述べているように
毛利がする気があろうがなかろうが、出来ない状態に追い込まれた
それなのに、する気がないからじゃ言い訳にもならないって話
<永禄九年の秋月からの要請にも、何らかの派遣はする、でも一切してません
しません。じゃなく、出来なかった
またすぐ、毛利に対してそうやって強がった発言するんだから、もうw
<それは君の勝手な解釈、自分の力を省みて、無理すれば可能性有るかもという判断をする前に
<最初っからやる気がないわけね
それは君の勝手な解釈。
工作もしておいて、やる気がないとか言い訳はいいから
<出来ないから諦めたと、出来ないのを知ってるからやる気がないのとでは全然違うよ
それを初めからやる気がないとは言いませんw
強がりをいう前に日本語を勉強しましょう。
三戦板でまさか国語を教えるとは・・・
あきら・める【×諦める】
もう希望や見込みがないと思ってやめる。断念する。
全く同じ意味ですけど・・・・
出来ないのを知ってるから、やめる・やる気がないの事を「あきらめる」と日本語では言います^^
>>749-750 >それを維持出来なかったんだから言い訳にすらならないぞ
永禄十二年以降も門司及び、豊前沿岸は毛利ですが?
>九州の足場を揺るがされて、したくても出来ない状況に追いやられてるわけ
別に当初から進出する気がないのは証明されてます
君がそう思い込んでるだけ
>毛利自身ではないのだから、したいかする気がなかったかをこちらは論じていないw
>したくても出来ない状況に陥ってしまったというのを言ってるわけ
当初は出来ない状況、だから当初から九州に侵攻する気がない、
なのに君が九州への足掛かりと勝手に思い込んで、筑前国衆と大友との争いを
足掛かりを失ったとしてるだけ
>全然証明になってないでしょ
>尼子に陸伝いに攻められるような事になった方が危ないから
>優先順位をつけただけで、「欲してない」って結論が出てくるのは明らかにおかしい
何度も言いますが、対尼子を重要視していたと当初から書いてますが
優先順位つけて尼子を最優先にし、それを邪魔されないよう筑豊衆への煽動を行った
結果、筑豊衆は煽動に乗って大友と争い、大友は毛利の対尼子戦へ全く介入出来なかった
九州に手をつける余力もないし、する気もない、だから力を注ぐ必要もない
対尼子戦に必要な門司だけは確保するだけ
何の矛盾もないよ
>筑紫、宗像、原田氏が蜂起してますよ、工作してないって根拠は?
?蜂起したら全て毛利の工作ですか?
永禄六年以降に工作してないのが根拠です、存在しないのが根拠
これを毛利の工作というなら、そちらが根拠挙げるべきでしょう
ないものはないのだから
<別に当初から進出する気がないのは証明されてます
説明はしても、証明はしてないw
君がそう思い込んでるだけ
<なのに君が九州への足掛かりと勝手に思い込んで
足がかりの意味分かってる?単なる足場って意味だぞ?w
単に九州方面での足場を失い、例えしたくても出来ない状況に追い込まれたといっている
また、日本語の問題かよw
<結果、筑豊衆は煽動に乗って大友と争い、大友は毛利の対尼子戦へ全く介入出来なかった
<九州に手をつける余力もないし、する気もない、だから力を注ぐ必要もない
主張として矛盾ありまくりw
介入出来なかったという上文と、する気もないとの関連性は?
する気もないという事だけに関しても説明の理由に全くなってませんけどw
<蜂起したら全て毛利の工作ですか?
<永禄六年以降に工作してないのが根拠です、存在しないのが根拠
工作していないという根拠を聞いているのに、工作してないのが根拠ですって
日本語不自由しすぎ。
聞いてる事が根拠ってw
毛利以外に当時の時点で大きな勢力を持っていた大友相手に蜂起する理由は?
整合性をかく言い訳をしないでくれ
初めからする気がなかったかあったのかどうかは心情をさししめす確証的ソースが双方にない
そして、する気があったかどうかをこちらは主とした問題としていない
ただ
九州方面には、もし、したくても出来ない状況が続いて、結局、出来ない状況のまま生涯を元就は終えた
っていう事柄だけをこちらは主張しているんだけど?
>>756 >九州の足場を九州侵攻への足場に変換しないでくれよw
あしば 3 【足場】
(1)高い所で作業をするために、丸太・鋼管などで組み立てた仮設構造物。
「―を組む」
(2)足を踏みつける場所。また、足もとの具合。足掛かり。
「雨上がりで―が悪い」
(3)物事をしようとする時のよりどころ。土台。
「―を固める」
(4)交通の便。
「―が良い」
では九州の足場とは何ですか?
>する気があろうが、なかろうが、出来ない状態に追い込まれたっていう話
追い込まれるも何も、当初から九州へ侵攻する力もする気もないのに
何で出来ない状態に追い込まれたと?
>>757 >なんで、争いがあったら、門司攻略がないと言ってる事になるのか
↓
>そこで大友方と毛利方の争いがあったという時系列を勘違いしないでね
何で永禄二年の毛利の門司攻略を無視して、永禄四年の合戦だけ書くの?
>こちらが主張する事とは無関係だし
全然関係あるが?毛利は九州方面に目が向いていない証拠であり、大友が門司奪還にゴネてた証明にもなる
>永禄五年からあっても、成立の確定までの時系列では、現状でも政略的な部分は進行している
>和睦中なら、何もしてないとでも?w
↓
>和睦交渉の話があり、大友とは交渉するも、尼子とか破談にしているという時系列なので
和睦交渉の話があったのが永禄五年で、交渉はそこから開始してるんだよ
永禄四年に大友が門司で大敗した後、本格的な門司奪還を行えなかったのは和睦交渉中だったから
お分かり?
>事実として高橋、秋月、原田、筑紫、宗像、麻生氏は、毛利の撤退後
>降伏してるわけ
>後ろ盾がないのにいきなり起こるとでも?
もう一度言います“どんな工作”を“いつからした”のでしょうか?
君は、これを毛利の九州侵攻による工作と明言しています、
ただ単に永禄九年から始まった筑前衆の降伏が、永禄十二年に支援の為に侵攻した毛利の工作に寄るものと
判断するからには、それを証明すればいいだけです
四年近く放置してて、それが毛利の九州侵攻の為とは言い掛かりですよ
大友から独立する目的で四年近く争って、毛利が介入してきて、
支援してくれると思った毛利があっさり引いたから降伏
そう取れますが?それを判断する為の、工作内容と工作時期ですよ
見当違いな答え方しないでねw
>>760 何度も述べているように
毛利は九州進出できる力も情勢でもなかった、大内滅亡当初から対尼子へ戦線を張っていた
門司攻略はその一環
>しません。じゃなく、出来なかった
永禄九年には尼子降服で、九州への進出は可能でしたが?
>工作もしておいて、やる気がないとか言い訳はいいから
ですから筑豊衆への工作が「毛利が九州へ進出する目的」だったのを証明してくれと何度も(ry
>強がりをいう前に日本語を勉強しましょう。
>三戦板でまさか国語を教えるとは・・・
>あきら・める【×諦める】
>もう希望や見込みがないと思ってやめる。断念する。
>全く同じ意味ですけど・・・・
あきら・める 4 【▼諦める】
(動マ下一)[文]マ下二 あきら・む
望んでいたことの実現が不可能であることを認めて、望みを捨てる。断念する。思い切る。
「登頂を―・める」
↑毛利が九州進出を望んでいたのを証明してくださいね
>>761 >出来ないのを知ってるから、やめる・やる気がないの事を「あきらめる」と日本語では言います^^
九州進出を望んでないから、諦めるとは言いませんね
日本語を教えてあげました^^
>>766 <では九州の足場とは何ですか?
それが分からないようでは、話にならない
九州に毛利の勢力はあったんでしょ?w
<追い込まれるも何も、当初から九州へ侵攻する力もする気もないのに
<何で出来ない状態に追い込まれたと?
する気がなくてもあっても、出来ない状態になったのを追い込まれるというんですよ
毛利の勢力としては、揺らぎ続け、次第に大友に九州されちゃったんだから
<何で永禄二年の毛利の門司攻略を無視して、永禄四年の合戦だけ書くの?
>>757でもそうだけど、こちらの主張する主筋とは
邪魔になる事でも、確証になる事でもなんでもない事柄だから
変な部分に拘るけど、それによって君は何を主張したかったわけ?
<全然関係あるが?毛利は九州方面に目が向いていない証拠であり、大友が門司奪還にゴネてた証明にもなる
ないよw
お互いの主張が折り合いが当初から付く交渉の方が少ないし
和睦で九州の足場を保ちたいのは毛利方なのだから、目に向いてない証拠には全くなってない
むしろ、逆
<和睦交渉の話があったのが永禄五年で、交渉はそこから開始してるんだよ
それこそ、大友の時間が削られたってだけの話で
逆にその時間が毛利に利してるだけだけど?
>>767 <もう一度言います“どんな工作”を“いつからした”のでしょうか?
もう一度言います。では、誰がこのような蜂起を促したんですか?
だから、整合性を欠く様な子供じみた
いつ何時何分地球が何回まわった頃と同じ次元の話を持ち出されても困るんですけど
証拠がなければ全く類推できないっていうのは、貴方が整合性や当時の情勢を理解していないという証明をしただけ
<四年近く放置してて、それが毛利の九州侵攻の為とは言い掛かりですよ
放置しといてって・・・だから、豊前・筑前の国人を動かしてるでしょ
実際におこったことと、貴方の発言は矛盾しすぎ
<大友から独立する目的で四年近く争って、毛利が介入してきて、
<支援してくれると思った毛利があっさり引いたから降伏
<そう取れますが?それを判断する為の、工作内容と工作時期ですよ
これこそ、整合性からかけ離れた判断だけど?
自らの死活問題にも関わらず、見切り発車で大きな勢力である大友に蜂起って
どれだけ猪武者なわけ?
後ろ盾がなければ、踏み切れるような事柄ではない
行動してるのは人間なんだからさ・・・・
あなたは、何も支援してくれる確証がなく、単独・小勢では勝ち目のない相手に反旗を翻せますか?
少しは整合性という観点を身につけてね
論点を整理するとその一つとして
●豊前・筑前の蜂起に毛利が工作をしているか、放置しているか
A.大友から独立する目的で四年近く争って、毛利が介入してきて、
支援してくれると思った毛利があっさり引いたから降伏
対
B.毛利の後ろ盾もあり大きな勢力を持っていた大友相手に蜂起したが
対尼子、対大内で九州方面の支援は敵わなくなり降伏
矛盾点
A.何も支援してくれる確証がなく、単独・小勢では勝ち目のない相手に反旗を翻すかどうか
B.の矛盾点があればどうぞ
>>763 >説明はしても、証明はしてないw
そっくり返しますよw
>足がかりの意味分かってる?単なる足場って意味だぞ?w
>単に九州方面での足場を失い、例えしたくても出来ない状況に追い込まれたといっている
>>766で「足場」の言葉を知りましょう、足掛かりとは↓で説明
あしがかり 3 【足掛(か)り】
(1)高い所へ登るときに、足を掛けるところ。足場。
(2)物事をする時の手掛かりとなるもの。糸口。
「解決の―を得る」
毛利が九州方面で何をしようとしていたというんですか?
何の為の足掛かり、足場なんですか?
>主張として矛盾ありまくりw
結果、筑豊衆は煽動に乗って大友と争い、大友は毛利の対尼子戦へ全く介入出来なかった
(毛利は)九州に手をつける余力もないし、する気もない、だから力を注ぐ必要もない
主語が抜けてましたね
>工作していないという根拠を聞いているのに、工作してないのが根拠ですって
違います、工作したという事実がないのが根拠です
存在しないのを証明せよと言われたから、存在しないのが証拠になるんですよ?
君は工作したというのだから、工作した証拠を挙げれば済むのです
>>773 <そっくり返しますよw
つ
>>765 別に返されても、元々それを主筋に主張してるわけじゃないしw
<毛利が九州方面で何をしようとしていたというんですか?
<何の為の足掛かり、足場なんですか?
偉いね〜。辞書で調べたんだ?w
『(1)高い所へ登るときに、足を掛けるところ。足場。 』
何の為のって?
九州に毛利の勢力はあったんでしょ?
毛利には、九州における足場がなかったの?w
九州侵攻のとか勝手つけだしてるけどw
勘違いも甚だしいね
日本語を勉強しても、肝心の内容が伴ってないのね
>>764-765 >毛利以外に当時の時点で大きな勢力を持っていた大友相手に蜂起する理由は?
説明できますよ、大内健在中の筑豊は大友との二重支配だったんですよ
しかし大内滅亡後に大友の支配体制が強まり、それに反発していた
その時に毛利の門司攻略により、危機感抱いた大友が支配権強化の為に筑前国衆に対して
過剰なまでの干渉を行い、毛利はそれに乗じて反大友煽動
筑豊衆は毛利をあてにして反大友の反旗を翻してたが、大友と毛利和睦し
多くの筑豊衆が大友に組み込まれたが、永禄九年に尼子滅亡により
毛利が九州に侵攻すると期待し、支援要請して筑前衆が一斉蜂起
当初は秋月が大友勢撃破するなど良かったが、ジリ貧になってきた
そして永禄十二年にようやく毛利が介入したって話
>九州方面には、もし、したくても出来ない状況が続いて、結局、出来ない状況のまま生涯を元就は終えた
永禄九年以降は出来たではありませんか、実際、永禄十二年には行ってますが?
大内滅亡当初は出来る力も、出来るような状況でもなかった、だからやる気もなかった
門司攻略は対尼子戦のため、九州への足掛かりでも足場でもない
永禄八年以降は可能だったが行わなかった、する気がなかったから
以前、東へ向いており、備前や美作での活動多し
永禄十二年に筑豊国衆支援の為、筑前に侵攻、大内輝弘・尼子勝久蜂起で撤収
そして結果は
>>688
<結果、筑豊衆は煽動に乗って大友と争い、大友は毛利の対尼子戦へ全く介入出来なかった
<(毛利は)九州に手をつける余力もないし、する気もない、だから力を注ぐ必要もない
<主語が抜けてましたね
主語の問題じゃないw
余力もないから、出来ない
注ぐ必要もないなんて言葉は結果を見ればただの言い訳にしかなってない
出来ないから諦めた
ただ、それだけの事
>>760、
>>761でも言ったように、日本語を理解しようやw
<違います、工作したという事実がないのが根拠です
違くありませんw
状況的に、蜂起の理由を説明していなければ、根拠になりませんよ
動機付けのない行為や、目的のない行為をするような事があるとでも?
<存在しないのを証明せよと言われたから、存在しないのが証拠になるんですよ?
だから、工作があった証拠として、実際に蜂起が起こっていたことを挙げているでしょ
工作した根拠を挙げてますw
そして整合性を指摘している
>>775 毛利が工作してない説明に全くなってませんw
出来ますよっていっといて、内容はないでしょ
<筑豊衆は毛利をあてにして反大友の反旗を翻してたが、大友と毛利和睦し
<多くの筑豊衆が大友に組み込まれたが、永禄九年に尼子滅亡により
ただ単に、毛利ならきっと・・・というような事で死活問題ともいえる行動を起こすというのは非常に整合性に欠けている
「あてにして」って、話もなく勝手に、豊前・筑前の国人がそれを頼るのは非現実的過ぎ
<永禄九年以降は出来たではありませんか、実際、永禄十二年には行ってますが?
<大内滅亡当初は出来る力も、出来るような状況でもなかった、だからやる気もなかった
はい、また上文と下文で矛盾してますw
「当初は出来る力も」って、それこそ見越しが甘過ぎ、毛利方に寄り過ぎな悪意さえ感じられる恣意的判断
大友方は大友方で動いているわけで
勝手に、出来る力とかいっても、状況的には出来てないんだよ
やる気もなかったではなく、諦めたw
<出来ないから諦めたと、出来ないのを知ってるからやる気がないのとでは全然違うよ
が違くなくて、同じだったんだからw
>>775の脳内は凄過ぎ
毛利の後ろ盾の確証もなく、
大友に反旗を翻したら、たぶん毛利は支援してくれるっしょ、反乱しちゃえ〜ってどれだけ能天気で短絡的な人間だよw
自分の命が掛かってるのに、向こうからの良い話もなく、一方的に毛利に頼って行動って
誰がそんな事するんだよ?
それとも朱子学的(笑)に、俺は大内の家臣だから玉砕してもいいから戦うぞと?
(まあ、毛利が撤退したら、大友に降伏してるからありえないけど)
実際にその時代に居たのは人間です
人間としてのどういう行動を取るかくらいの整合性は保って発言して下さいな
もちろん、その時代考証の合った形の整合性だけどね
>>769 >九州に毛利の勢力はあったんでしょ?w
門司、及び豊前沿岸は毛利領ですが?
永禄二年に攻略しました、目的は対尼子と書きました、それが何か?
>毛利の勢力としては、揺らぎ続け、次第に大友に九州されちゃったんだから
筑豊の国衆は毛利の勢力ではありませんよ?大友の勢力圏内ですよ?
>変な部分に拘るけど、それによって君は何を主張したかったわけ?
上記参照、逆にその偏った年表によって君は何を主張したかったわけ?
>和睦で九州の足場を保ちたいのは毛利方なのだから、目に向いてない証拠には全くなってない
九州での足場の意味教えてください
「足場」とは「(3)物事をしようとする時のよりどころ。土台。」とありますよ
九州で毛利は何をしようとしていたのですか?証明してくださいよ
>目に向いてない証拠
目を向いてないのは状況変化しても、永禄十二年まで九州に全く出兵しなかった
将軍義輝からの大友との和睦要請を真っ先に受け入れた
目を向けてる状況証拠すらありません
>大友の時間が削られたってだけの話で
?時間が削られた?和睦受け入れずにずるずる門司を攻撃していたのは大友ですよ?
それと、4年間放置されといて、蜂起したら毛利が支援してくれるっていう考えになるかどうかも
普通に考えたら分かるよね?
>>780 <永禄二年に攻略しました、目的は対尼子と書きました、それが何か?
そこが毛利の九州の足場でしょうがw
はぁ〜、また日本語の話かよ
「九州への足場」と「九州の足場」じゃ全然意味違う事わかる?
九州への足場なら、九州方面進出のだろうが
九州の足場は、九州の毛利勢力って意味合いでしかないんだよ
再三再四言ってるでしょう?
九州に侵攻する気だったか、そうでなかったかを問題にしてるわけじゃないとw
勘違いも甚だしい
九州への九州へのって、こちらが言ってるのは「九州の」だから
まず、そこの勘違いを謝罪してくれ
<筑豊の国衆は毛利の勢力ではありませんよ?大友の勢力圏内ですよ?
筑豊なんてどこでいいました?
豊前・筑前は出したけど?
おまえ、本当、いい加減にしろよw
<上記参照、逆にその偏った年表によって君は何を主張したかったわけ?
こちらの主張は述べている
貴方がそれを読まずに、暴走して、毛利の九州侵入をする気だったか、そうでないかに拘ってるだけw
<九州での足場の意味教えてください
それが分かってないなら、話にならない
そして、結局、それを分かってなかったのね
九州への九州へのってw
>>770-772 >もう一度言います。では、誰がこのような蜂起を促したんですか?
自分は永禄六年以降、毛利は工作していないと書きました、理由は以前からの大友との確執でしょう
存在しないものは、存在しないとしか言えません
君は毛利が行ったと主張してるのです、ですから毛利が行ったという工作の証拠と時期を聞いてるのです
君には立証責任あるのですよ?「工作はあった」としているのですから
>豊前・筑前の国人を動かしてるでしょ
毛利が動かしという証拠を出してくださいね、「筑豊の国衆が蜂起した」という事実しか有りませんよ?
>自らの死活問題にも関わらず、見切り発車で大きな勢力である大友に蜂起ってどれだけ猪武者なわけ?
実際に、筑豊だけに限らず肥前でも見切り発車かは兎も角、大友への蜂起起きてますが?
君が勝手に毛利が後ろ盾になってると思い込んでるように、筑豊衆の中には、
毛利が後ろ盾になってくれると思い込んでる輩もいるでしょう
しかし、それと毛利が後ろ盾になってるのとでは違いますね、
永禄六年以降は煽動工作していないのですから、筑豊衆が支援を願ってはきてましたがね
>A.何も支援してくれる確証がなく、単独・小勢では勝ち目のない相手に反旗を翻すかどうか
単独でも小勢でもありませんね、秋月や高橋など石高で言えば10万石クラスの国人ですよ?
それらが一斉蜂起したのですが
>B.の矛盾点があればどうぞ
大内輝弘と尼子勝久の鎮圧にどれくらいかかりましたか?
その後、即九州に再侵攻しましたか?
<目を向いてないのは状況変化しても、永禄十二年まで九州に全く出兵しなかった
<将軍義輝からの大友との和睦要請を真っ先に受け入れた
<目を向けてる状況証拠すらありません
出兵できる状況ではなかったので、まず、出兵しなかった事は理由になりませんw
衆軍の和睦要請を受け入れておきながらも、蜂起を促してます
目を向けている状況証拠ばかりしかありません
<和睦受け入れずにずるずる門司を攻撃していたのは大友ですよ?
和睦の条件が折り合わないから攻撃したんでしょ
ずるずる攻撃ってw
その後、輿入れ等での時系列とかも無視?
>>783 <理由は以前からの大友との確執でしょう
その理由は、整合性が取れてませんよ?
整合性が取れていない以上、それを補間する為の、物的証拠をお願いしますねw
毛利の支援が確約できず、一方的に毛利を頼る行動をするのかどうかという質問には全く触れずですか?w
<君には立証責任あるのですよ?「工作はあった」としているのですから
だから、事実として、蜂起の存在を証拠としてますよ
<毛利が動かしという証拠を出してくださいね、「筑豊の国衆が蜂起した」という事実しか有りませんよ?
少しは頭を使って下さい
何度、整合性の欠けた発言をするなといったらわかるわけ?
「事実しか」って、毛利の後ろ盾がなければ、そういった事が出来る条件にないというのを忘れてるのね
行為は基本的に、理由と目的に整合性が取れて行われるものですよ
ロボットじゃないんだからw
<実際に、筑豊だけに限らず肥前でも見切り発車かは兎も角、大友への蜂起起きてますが?
見切り発車出きるかどうかを聞いてるんですよw
それを「兎も角」って、説明責任果たしてないのは貴方の方じゃないですかw
<君が勝手に毛利が後ろ盾になってると思い込んでるように、筑豊衆の中には、
<毛利が後ろ盾になってくれると思い込んでる輩もいるでしょう
また勘違いしてるね
俺でも、毛利の後ろ盾という確証がなければ動きませんw
ないという整合性の取れない事柄を思い込んでるのは、貴方だけ
思い込んでいるというより、整合性がなければ妄想に過ぎないんですよ
<永禄六年以降は煽動工作していないのですから
また、根拠や整合性の説明もなく、そういう事を挿入しないようにねw
>>776-770 >あきら・める 4 【▼諦める】
>(動マ下一)[文]マ下二 あきら・む
>望んでいたことの実現が不可能であることを認めて、望みを捨てる。断念する。思い切る。「登頂を―・める」
毛利が望んでいたと証明出来なければ、諦めたとは使いません
九州侵攻を望んでもいない、実現不可能なのは知っていた、だからやる気がない、日本語を覚えましょう
結果を見ればとは、君が勝手に毛利は九州を望んでたと思い込んでるから
>状況的に、蜂起の理由を説明していなければ、根拠になりませんよ
いいえ、史学の基本ですよ、蜂起の理由は様々ある
しかし、これを「毛利の工作」とするなら、その文献なり挙げれば、「毛利の工作」とはなりません
悪しからず
>実際に蜂起が起こっていたことを挙げているでしょ
蜂起した≠毛利の工作です、大友はその他の地域、肥後や肥前でも国人蜂起起きてますが?
彼らは何故蜂起したのですか?全て毛利ですか?永禄十二年以降も周辺各地で国人蜂起起きてますよ?
君が根拠なく毛利と結び付けてるだけ
>「あてにして」って、話もなく勝手に、豊前・筑前の国人がそれを頼るのは非現実的過ぎ
非現実的といわれてもね、実際、何の工作もしていないのだから
永禄六年以降での工作事実はありません、存在しないのが根拠です
工作したとするなら、その証拠を出してください、存在証明は史学の基本ですよ?
<>B.の矛盾点があればどうぞ
<大内輝弘と尼子勝久の鎮圧にどれくらいかかりましたか?
<その後、即九州に再侵攻しましたか?
それは、九州に仮に侵攻したくても、出来ないという状況であったという事でしかありませんよw
「再侵攻しましたか?」って出来る状況じゃないだろうが
おまえは物事の分別も順列もつけられないのかよw
「大内輝弘と尼子勝久の鎮圧にどれくらいかかりましたか」ってまたこの話とは関係ない事柄を持ち込むのかよ
本当いい加減にしろよw
上の再侵攻しましたか?のもろな理由だろw
大内と尼子に手一杯になって、再侵攻できる状況じゃありませんでしたっていうさ
自分で自分の発言を否定する論拠を平気に次の行に挿入ってオツム大丈夫?
>>787 <毛利が望んでいたと証明出来なければ、諦めたとは使いません
毛利が領土的野心を少しも持っていなかったんだ?
どんな聖人君主だよw
辞書を一杯調べて「望んでいたこと」っていうのを探したんだろうけど
初めから無理だと諦める事も、普通に諦めると言います
↑ほら、このように初めから無理だと諦めるというように使われますからw
<いいえ、史学の基本ですよ、蜂起の理由は様々ある
だから、その色々を説明すればいいんでしょ
貴方が言っていた説明とやらは、その色々にはなってませんw
<大友はその他の地域、肥後や肥前でも国人蜂起起きてますが?
その他にも起きてるから違うと?w
貴方は自分でいいましたよね?毛利をあてにしていて、外れたとw
少なくとも豊前・筑前では毛利を当てにしてた事は貴方自身も認めている事なのですから
場合の違う事をさも同列に引き合いにだしてこないでねw
そのくらいの分別つかないんだ?
<非現実的といわれてもね、実際、何の工作もしていないのだから
言われてもね・・・って非現実的である事は否定しないんだ?
じゃあ、非現実的な論理は考証として不適当だねw
<工作したとするなら、その証拠を出してください、存在証明は史学の基本ですよ?
だから、蜂起が起きて、毛利方をあてにしたのが証拠w
それに、
仮に貴方のいう毛利の工作がなかったというのであればそれで毛利の無策を現すだけw
九州方面に関しては、毛利は無策でしかなかったという失策を問われるだけだが?
だから、九州の事柄についてはどちらの場合も毛利のマイナス要因でしかないんだよw
九州を望む望まないに関わらず、九州方面に関しては、無策
それだけが事実w
<存在証明は史学の基本ですよ?
ちなみにこのように知ったかぶりしてるけど
こういった史学の資料は、あったとしても捏造されたものも多数ある為
整合性がとれなければ、一次資料として採用されませんよw
だって、人間の頭は飾りじゃないんですもの
それが妥当かどうか考証しないなんてありえないw
史実の基本まで教えないといけないとは・・・・・
資料があり、尚且つ、それに整合性が伴うものであれば一番だけど(時事立脚の性の検証)
あったのかなかったのか資料のない事柄であれば、整合性が優先される(論理整合性の検証)
もちろん、それが正しいかどうかではなく妥当性によって判断され
それが歴史として広められる
(整合性のみの場合であれば、それは即ち異論も多分に含んでいる)
資料もなく、整合性もないものは小説のストーリーでしかない
まあ、貴方の場合は、工作がないとしているのだから、ないという資料の提出は悪魔の証明でしかないので
言わないけれど、その為に再三に渡って整合性を問うているわけ
>>779、
>>781 >大友に反旗を翻したら、たぶん毛利は支援してくれるっしょ、反乱しちゃえ〜ってどれだけ能天気で短絡的な人間だよw
>自分の命が掛かってるのに、向こうからの良い話もなく、一方的に毛利に頼って行動って
>誰がそんな事するんだよ?
勝ち目も確証もなく、後ろ盾が不確定な国人蜂起なぞ、戦国史にはいくらでも例ありますが?
大内健在時にも、間接的支配で独自性保たれてた筑豊衆の力を削いで
大友の支配権強化していたのは知っていますか?
実際にその時代に居たのはその時代の人間です、君の価値観や観点から語らないように
毛利が後ろ盾して工作したとするなら、その根拠の提示がなければ、そうはならないのは当たり前です
>九州への足場なら、九州方面進出のだろうが九州の足場は、九州の毛利勢力って意味合いでしかないんだよ
>>731 「九州の足場を広げるどころでなくなった」
>>733 「あれだけ九州の足場を確保して、工作してしておいて、重要視してない、欲しくないってどこまで毛利さん強がりすぎ」
>>738 「九州も欲しいけど、尼子を放っておいたら危ないっていうね」
>>743 「大友の戦略によって、九州方面の足場を失っているというのは事実」
>>749 「九州の足場を揺るがされて、したくても出来ない状況に追いやられてるわけ」
あしば 3 【足場】
(3)物事をしようとする時のよりどころ。土台。「―を固める」
「九州の足場」→九州で物事をしようとする拠所、土台
君の今までのレスからは、九州の足場を「九州の毛利勢力」とするのは、日本語的に不可能です
筑豊衆が毛利の勢力というなら、永禄六年以降に高橋家の問題に大友が取り仕切るのは何故ですか?
大友の支配下にあるから、大友主導で行われたのではないのですか?
>>778 >勝手に、出来る力とかいっても、状況的には出来てないんだよ
出来る力も、出来る状況でもなかったと書いてますが?
>やる気もなかったではなく、諦めたw
諦めたなら、望んでいたのを立証してください、諦めたの意味書いてますからw
>>782 >筑豊なんてどこでいいました?豊前・筑前は出したけど?
ですから筑豊ですよ、日本語もですが地理も厳しそうですねw
>毛利の九州侵入をする気だったか、そうでないかに拘ってるだけw
君の今までの主張は、諦めたと毛利が九州侵攻の望みを持っていたとしてますけどね
毛利には全くその気がないんですけどね
>>784 永禄八年以降は出兵できる状況だったのは説明済み
>衆軍の和睦要請を受け入れておきながらも、蜂起を促してます
物証お願いできますか?こちらはないと主張してるのに、そちらは物証もなしに工作したとしてますから
>ずるずる攻撃ってw その後、輿入れ等での時系列とかも無視?
永禄五年の話ですよ?輿入れ等での時系列もわかりませんか?
>>794 <勝ち目も確証もなく、後ろ盾が不確定な国人蜂起なぞ、戦国史にはいくらでも例ありますが?
毛利が支援できなくなって降伏してます
条件を見誤らないでね
<実際にその時代に居たのはその時代の人間です、君の価値観や観点から語らないように
<毛利が後ろ盾して工作したとするなら、その根拠の提示がなければ、そうはならないのは当たり前です
それこそ貴方に言える事ですよ
整合性は史学の基本ですからw
<君の今までのレスからは、九州の足場を「九州の毛利勢力」とするのは、日本語的に不可能です
ず〜〜〜〜っと言われてきた事の焼き直しですよ
「九州への」と言い出したのは貴方ですw
それに対して、する気があったかなかったかは問題としているわけではないと何度も勘違いを正すように言ってますw
主張として一貫して、毛利が九州に侵入する気だったかどうかを主題にしてないと主張していますw
いや、それはしんじないっていっても、それは貴方が勘違いを指摘されてるにもかかわらず
今まで引っ張ってるだけの話
>>795 <諦めたなら、望んでいたのを立証してください、諦めたの意味書いてますからw
間違った日本語は書いてるけど
ちゃんとした意味で書いてないよ
仮に望んでいなかったとしたら、それはそれで博多等の利益を推し量れなかったのは
経済力を考える上で、情報収集能力ち先見性に欠陥点があったことを裏付ける(
>>728参照w)
だから、言っているようにどちらにしても毛利にはマイナス点しかない
堂々巡りの言い訳は見苦しいよ
<筑豊衆が毛利の勢力というなら、永禄六年以降に高橋家の問題に大友が取り仕切るのは何故ですか?
「いうなら」って言ってませんw
毛利が工作していた事と毛利の勢力であった事はまた段階が違うでしょ
おまえは、指摘されても言葉の勘違いを引きずってんじゃね〜よw
お前は都合の悪い事はすぐ忘れるのな?w
大きな勘違いをしているようだけど
こちらの主張は、毛利が九州に侵入する気だろうがなかろうが出来る状態ではなかったという事
そして、
博多も重視していたのなら⇒戦略的敗北
博多は重視していなかったのなら⇒戦略的未熟といったわけ
そこで貴方の言い草は、毛利はする気がなかった、する気がなかったw
する気がなかったっていう根拠は?と聞くと
根拠としてはお粗末というより、関係ない事柄ばかりw
あくまで、優先度において尼子や大内が高かったという事だけで、
狙っていなかったかどうかという観点では全く関係ない話しかしてないから
それは違うと言っただけw
>>785-786 >整合性が取れていない以上、それを補間する為の、物的証拠をお願いしますねw
>毛利の支援が確約できず、一方的に毛利を頼る行動をするのかどうかという質問には全く触れずですか?w
ttp://www.e-obs.com/heo/heodata/n439.htm 高橋鑑種
(永禄)12年正月、鑑種は肥後の 吉弘左衛門大夫 らを仲介にして 毛利 元就(もとなり) と意を通じ
>だから、事実として、蜂起の存在を証拠としてますよ
蜂起は肥前・肥後・筑後でもありましたが、それは全て毛利ですか?
秋月など、大友の確執調べたらわかるもんでしょうに
>毛利の後ろ盾がなければ、そういった事が出来る条件にないというのを忘れてるのね
それは君がそう思い込んでるだけ、根拠一切なし、国衆が蜂起しただけで毛利によるものと断定出来ません
>見切り発車出きるかどうかを聞いてるんですよw
見切り発車出来るどうかは当事者以外わからない、君の観念で見切り発車しないと決め付けてるだけ
だから永禄六年以降に毛利が工作していた物証をだしてくれと書いてるんですが
>俺でも、毛利の後ろ盾という確証がなければ動きませんw
君はそう、でも全員君ではないし、「後ろ盾の確証」の基準も人それぞれ
なにより、後ろ盾していたという証拠がなければ、話になりませんが
>また、根拠や整合性の説明もなく、そういう事を挿入しないようにねw
根拠は煽動工作の物証が存在しないから、君の妄想による整合性は根拠になりませんよ
<物証お願いできますか?こちらはないと主張してるのに、そちらは物証もなしに工作したとしてますから
いきなり「こちらはないと主張しているに」ってw
だから、ないとしてる主張の根拠を聞いたでしょう?
そしてのその説明に整合性が全くとれていなかったんでしょうが
工作に関して整合性が取れていない部分がありますか?
<永禄八年以降は出兵できる状況だったのは説明済み
だから、その説明に筋道がめちゃくちゃで
根拠ならないって話をしたでしょうがw
説明済みとかいっても、その説明が駄目だとつっこんだのに・・・そういう初歩的な勘違いはやめれ
>>800 恣意的なソース提出ご苦労さんw
http://homepage2.nifty.com/kitaqare/hist123.htm 「元就と意を通じ」って意味がわからないんだw
一方的であれば、通じるにはならないでんすよ?
<蜂起は肥前・肥後・筑後でもありましたが、それは全て毛利ですか
おまえは言われたレス全てすぐ忘れるのなw
豊前、筑前毛利が支援できなくなって降伏してますよ
場合わけできないなら、歴史を語るなよ
<それは君がそう思い込んでるだけ、根拠一切なし、国衆が蜂起しただけで毛利によるものと断定出来ません
それは貴方の思い込みw
整合性とともに貴方自身が出したソースで「元就と意を通じた」わけですから〜残念
<君の観念で見切り発車しないと決め付けてるだけ
あなたは、すると決め付けてるでしょうがw
<君はそう、でも全員君ではないし、「後ろ盾の確証」の基準も人それぞれ
<なにより、後ろ盾していたという証拠がなければ、話になりませんが
後ろ盾をしていないという確証的な証拠はあるんですか?w
ない上では、整合性を優先するのは当然の事
人それぞれって考証する気あるの?w
<根拠は煽動工作の物証が存在しないから、君の妄想による整合性は根拠になりませんよ
こういう歴史考証から外れた稚拙な発言はやめときなw
整合性がとれないというのであれば、それを指摘すればイイだけの事
妄想によるという妄想はやめなさいな
>>788-789 >それは、九州に仮に侵攻したくても、出来ないという状況であったという事でしかありませんよw
どういう状況ですか?出来ない状況というのを詳しく
>大内と尼子に手一杯になって、再侵攻できる状況じゃありませんでしたっていうさ
いいえ、輝弘はその年の内に、勝久は翌年早々には討っていますが
>自分で自分の発言を否定する論拠を平気に次の行に挿入ってオツム大丈夫?
否定していませんよ、再侵攻出来るのにしなかった証明ですから
>毛利が領土的野心を少しも持っていなかったんだ?
えぇ、九州には持っていませんでした、対尼子、中国地方を最重要視していましたから
それは毛利の侵攻方向でも明らかですよ
>ほら、このように初めから無理だと諦めるというように使われますからw
ドコの辞書ですか?
ttp://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E8%BE%9E%E5%85%B8&lr= 国語辞典はいっぱいありますよ?どれ?
>だから、その色々を説明すればいいんでしょ
ですから様々ありますと書いてますが、秋月ならば大友との確執を、高橋ならば一萬田家の扱い等々、様々あります
大友と筑豊の国衆の確執は色々あり、どれかと断定出来るものでもありません
しかし君は、「毛利の後ろ盾による工作」と何ら物証もなく決め付けてますがw
>その他にも起きてるから違うと?w
>貴方は自分でいいましたよね?毛利をあてにしていて、外れたとw
当てにしたかもしれないとは書きましたが何か?
国衆が勝手にあてにするかもしれない、しかし、それが毛利が後ろ盾の工作をした根拠にはならないよ
君みたいに確証もなく勝手な思い込みで物事を決め付ける輩も現にいるわけだしw
早くて追いつかんな
高橋鑑種の文書は毛利文書に残ってますよ、立派な物証です
目を通したければ、大日本古文書の毛利家文書でどうぞ
>後ろ盾をしていないという確証的な証拠はあるんですか?w
物証の存在がありません、高橋鑑種の要請の書状も十分に傍証になります
工作した物証が存在しない以上、工作したとはいえません
工作したとするなら、永禄六年以降に工作行った物証挙げてください
対尼子が一段落した永禄八年以降は状況的に可能でした
可能でないなら、どう不可能であったか説明お願いします
周辺地域で大きな敵はもういませんけどね
毛利が引く前から降服したのもいれば、撤退後も戦ってた筑豊の国衆いますね
毛利の支援得られないから降服したというなら、4年近くも支援得られないのに降服しなかった理由は?
>>804で紹介されたのは、何一つ
毛利がどのように誰を通じて工作したのか、具体的に書かれてるのは一切ありません
何を根拠にたのか全く書かれておりません
自分が
ttp://www.e-obs.com/heo/heodata/n439.htmを紹介したのは 支援要請した年月、仲介者の名前が挙がっており具体性があり、史料も見つけられやすいから
・永禄六年以降に毛利が筑豊国衆に煽動を工作した物証(文書など)
>博多も重視していたのなら⇒戦略的敗北
>博多は重視していなかったのなら⇒戦略的未熟といったわけ
博多を重視せずに大友に介入の機会を与えず、中国の対尼子に集中し、
大友と比較にならないぐらい勢力拡大し、勢力を築きました
戦略的には大成功でしたね、重視して下手に手を出せば中国地方での膨張も期待できなかったでしょうw
どこぞの凡愚は理解できないようですがw
>>806 一つだけ言わせてもらえれば、工作についての史料・傍証は挙げられている。
この時点で「工作なかった」派が自説を証明するためには、挙げられた史料を
根拠をもって否定しなければならない。
それがなされない限り、「なかった」派が何を言っても議論の勝利にはならない。
大友義鎮の最大版図
北九州六ヶ国 約二百万強km2
毛利元就の最大版図
中国地方一帯 約三百万弱km2
<大友と比較にならないぐらい
<大友と比較にならないぐらい
<大友と比較にならないぐらい
その後の大友の没落具合は半端じゃないけど戦略性というより当主がイカれて内部崩壊
石高で比べると差はもっと縮まると思うよ。
>>809 >工作についての史料・傍証は挙げられている。
永禄六年以降、工作を行なったとする物証は挙げられていませんが?
挙げられているならレス番と史料名をどうぞ
傍証とは?毛利の支援をあてにした毛利の工作による蜂起といいながら、
何一つ工作を示す物証なし
永禄九年十一月に高橋鑑種が蜂起、永禄十年九月に秋月種実、
それにともない筑紫・原田・宗像が蜂起、そして永禄十一年四月には
立花鑑載が蜂起、肥前では龍造寺が蜂起と高橋鑑種の蜂起から
大友領で蜂起が起きている
これを何一つ物証もなく「毛利の工作により、後ろ盾をあてにした」蜂起とし、
あれだけ支援が得られず独力で抵抗していたのを、「支援をなくして降服した」と
矛盾している
最初に蜂起した高橋鑑種は永禄十年七月に岩屋城落とされ孤立、
九月に秋月種実が戸次・臼杵・吉弘の大友勢を撃破し、
それに乗じて永禄十一年四月に立花山城の立花鑑載が蜂起、
しかし七月に大友勢が立花山城攻略、大友は永禄十二年正月に宗麟が筑後に自ら出陣し、
筑前の情勢は段々悪化、そんな中の永禄十二年五月に毛利が筑前に出兵
これが当時の状況、毛利の工作なら、状況がいい時期に支援として出兵する
状況悪化して出兵するのは矛盾しまくり
>そんな中の永禄十二年五月に毛利が筑前に出兵
その前の永禄11年4月に毛利は清水月清(8000)を先遣隊として派遣しているのは無視か。
ついでに言えば永禄11年9月にはすでに長野弘勝らを攻略しているが?
大友に落とされた立花城を毛利4万が包囲したのは12年4月ですよ?
ちなみに11年初頭には村上の件で恩義のある、四国の河野の援軍要請にこたえているので
全力出兵している余裕はない。それでも何とか清水を派遣してはいるがな。
>対尼子が一段落した永禄八年以降は状況的に可能でした
そうか?
弱っているとはいえ尼子はそんな油断して良い相手じゃない。
ついでに元就も一時発病してるしな。
さらに戦後処理も大変で、元就が吉田郡山に帰ったのは永禄10年。
備前方面では三村家親が宇喜多に殺され、元親も弔い合戦に敗れて不穏な状態。
あまり良い状態とは言えんよ。
>>大内と尼子に手一杯になって、再侵攻できる状況じゃありませんでしたっていうさ
>いいえ、輝弘はその年の内に、勝久は翌年早々には討っていますが
輝弘は確かに1569年に片付いたが勝久が翌年早々とは勝久も舐められたもんだね。
勝久は1571年まで粘ってますよ。ついでにその間に元就も死んでいるね。
さらに尼子と一緒に嫌がらせしてた宇喜多は1572年まで。
で、同年に鹿介が山名と一緒になって因幡で活動再開、
織田の動向も無視できなくなって九州どころじゃない。
>>815 >その前の永禄11年4月に毛利は清水月清(8000)を
>先遣隊として派遣しているのは無視か。
これの出典元述べてもらえますか?
清水月清なる人物を毛利側の史料では実在が確認されてませんよ
というか、児玉や福原、宍戸の重臣差し置いて八千も率いたのに、
それ以外の詳細が不明なんですけど
今山合戦で討ち取られた大友八郎みたいなもんですな
>ついでに言えば永禄11年9月にはすでに長野弘勝らを攻略しているが?
これは大友が毛利方だった長野祐盛を攻め追いやって豊前沿岸を攻め奪った報復ですが
事実、参加した佐波隆秀などの石見衆は十一月に引いてますよ
>大友が落とされた立花城を毛利4万が包囲したのは12年4月ですよ?
吉川・小早川が立花山城を包囲したのは五月十八日です
これは五月十八日付元春の書状で確認出来ます
ついでに、吉川・小早川で四万も動員出来ません
吉川は正確にはわかりかねますが、小早川は八千ですよ
吉川・小早川勢が豊前に入ったのは三月、四月に元就・輝元が吉田郡山を出発、
五月十八日に立花山城包囲、閏五月三日に立花山城開城、六月二十三日に尼子勝久が
出雲上陸、十月十二日に大内輝弘が周防上陸、十月十五日に毛利撤退開始
こういう流れ
五月十八日というとちょっと前に話題になってた
多々良浜合戦があったといわれてる日じゃなかったか?
>>817 自分が出典述べてないのに、相手には求めるって
流石毛利厨w
清水宗知なら少なくとも中島大炊助が書いた
備中一乱記だか備中兵乱記だかにその名は出ているそうな
信憑性は知らない
検索かけただけだからな
あと毛利は耳川の合戦以降、高橋氏に通報して寝返った杉重良を撃ったり
田原親貫に呼応して小早川水軍が出張ったりして細かいちょっかい出し続けてる
>五月十八日に立花山城包囲
多々良浜が18日というのは本やネットでよく見かけるが、これは初耳だな
出典教えてくれ
毛利厨の言い分
石見の時は、工作しましたけど
筑豊の時は、工作してません
工作してないって根拠はそういう書状がないからです
おいおい、現代の企業戦争じゃないんだから、例え残ってなくても工作した可能性は状況証拠として十分条件なわけだが
ここで、毛利は九州には進出する気がなかったという『新説(小説)』を流布する為の釣堀です
>>821 五月二十日日付毛利輝元宛吉川元春書状、立花山城包囲を書いてる
これは多々良浜合戦がなかったとされる根拠のひとつで、合戦があった事すら書かれてない
九州治乱記などの軍記物の影響
>>820 備中一乱記は軍記物で毛利の史料ではないよ
内容よく読まれたほうがいい、口訳されたのが出版されてるから
備中の清水氏が厳島合戦に毛利として参加したやら、かなり無理してる内容多いから
登場人物の実在はともかくとして、書かれてる事柄はかなりの検証が必要かと
石見の時は工作しました、物証も残ってます
筑豊へは、永禄六年以降、工作した形跡見られません
高橋鑑種が毛利に支援要請したのが永禄十二年正月となってる事から、十分証拠足りえる
でも物証もなく、思い込みによる煽りしかできない春厨には、脳内による俺的整合性で状況証拠とか言い出すわけだが
脳内理論
・筑前衆が蜂起した→毛利が後ろ盾だからに違いない
・毛利が永禄十二年に攻めてきた→筑前衆の後ろ盾になってたからに違いない
・筑前衆が降服した→毛利という後ろ盾がなくなったからに違いない
肥前では龍造寺が反大友の蜂起してるが、これは毛利が後ろ盾してんのかね?工作でもしてんのかね?
毛利の後ろ盾を得ていた、毛利の工作によるものとするなら、永禄九年に蜂起した高橋鑑種が
毛利に支援要請したのが何故永禄十二年なのかね?何故、直接要請せずに、仲介者までいるの?
永禄五年までの毛利の九州への工作活動は書状でも残ってる、なのに永禄六年以降は一切なくなってるの?
毛利に近く、支援や工作受けていたと考えられるなら一番可能性があった秋月種実は、
永禄十一年に大友に降服してるのに、どうしてそれまで毛利は支援も何もしなかったの?
麻生文書や秋月家記など史料豊富にあるのに、毛利の工作を伝えるのが軍記なのは何故?
おかしいねぇ
海邊の戦い〜門司城合戦〜香春岳合戦〜秋月合戦〜立花山合戦〜多伏口合戦〜多々良合戦の流れで
逐一毛利は九州にちょっかいだしてますよ
小倉善行寺文書、萩藩閥閲録、佐田文書・飯田文書、宇佐到津文書
西郷文書、内藤文書、毛利藩古文書にも
毛利氏の九州に対しての介入の証拠が残ってます
豊前や豊後の長野氏の歴史一つとっても、毛利がかなりの介入を行ってますよ
歴史的事実と証拠
それに加えて、整合性のある状況証拠で完璧に毛利の野心は証明されてますので
毛利厨がいくら喚いた所で
>>804のようになるだけw
<筑豊へは、永禄六年以降、工作した形跡見られません
<高橋鑑種が毛利に支援要請したのが永禄十二年正月となってる事から、十分証拠足りえる
すぐバレる嘘をつかないようにしてくれ
毛利には領土的野心があった時期もなくて
「元々」九州には興味なかったって言ってる歴史学研究家がどれだけいるやら
毛利について研究してる人達でも九州方面での工作は否定するどころか肯定してるんだが
匿名のここ以外で否定してる人いるの?
828 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 21:50:34
>>825 >小倉善行寺文書、萩藩閥閲録、佐田文書・飯田文書、宇佐到津文書 西郷文書、
>内藤文書、毛利藩古文書にも毛利氏の九州に対しての介入の証拠が残ってます
史料名並べ立ててるが、永禄六年以降に筑豊で工作活動した史料あるんだね
それは毛利側の史料だから、どの史料にいつ誰から誰に送られたか書いてよ
内容は調べられるから
>豊前や豊後の長野氏の歴史一つとっても、毛利がかなりの介入を行ってますよ
当たり前でしょ?長野氏は毛利側だったんだから
門司攻略以降は毛利側てして活動してるが?
豊前沿岸は毛利と主張してるし、永禄八年から長野祐盛は大友から攻められてる
長野が降服して豊前沿岸が脅かされたから、永禄十一年に佐波隆秀らの
石見衆が派遣されて、大友に寝返った長野討伐としてるだろうに
あげとこ
大友氏は大内時代から九州内における本州勢力の駆逐を標榜
豊後守護であるから当然
毛利は九州から追い出された・・・・それだけの事だね
>>828 これだけの資料で明示されてて調べなくちゃ分からないって時点で、全く無知だったってだけだね
毛利側の資料だからっていうか毛利側の資料でさえ載っている事柄な事を
そういう言い換えするのには意味がない
<門司攻略以降は
<門司攻略以降は
少なくともそれまで介入していた事はまず確定ね
そして、毛利側毛利側とゲームのように喚いてるけど
勢力の緩衝地帯は交渉次第でどちら側にもついてます
ずっと毛利側だったっていう証拠を提示してね
長野氏にも傍流は沢山ありますのでw
鹿之助やら宇喜多やらに翻弄されて領内ががたついて九州どころじゃなくなりました
832 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 22:45:54
>>830 調べなくちゃわかんでしょ、史料名並べ立てるだけなんだからw
内容は調べられるから、
「どの史料に、いつ誰から誰へ、何について書状なり送られたてか、書かれてるのか」
はっきり書いてね
つか小倉善行寺文書と自分で書いてるのに、長野氏の傍流とか内容知らないとしか思えないが
小倉善行寺文書は小三岳派の長野祐盛でしょ?
毛利の門司攻略は弘治三年から、落としたのは永禄二年、仁保隆慰を城代にして撤収
それ以降は大友による門司奪還、それにより長野祐盛から人質とるなどして、
豊前で優位に立とうとするも、永禄四年の門司攻防に失敗により長野氏などが
毛利側へ、
しかし永禄六年に和睦成立して長野祐盛など長野氏は毛利に従う形で決着
書いた通りだけど?
毛利が対大内・対尼子に専念する為、永禄六年までは筑豊衆を煽動していたの説明した
永禄六年に大友と和睦成立して以降には、そういった工作していないのは、
物証の存在がない事から明確と説明
それに対して
>>825で史料名出したのだから、
どの史料に、年月日・宛名・差出人を書いて、何について書いてあるのか、
説明するのが常識だが?
832の続き
史料確認はこちらでするからさ
萩藩閥閲録は何巻かも書いてくれると助かる
834 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 23:06:39
反大友の中心勢力だった宗像氏貞でさえ、毛利氏とも陶に援軍送って直接敵対してる
その後に毛利との結び付きを強め(元就に九州での功労を讃えられて太刀や馬を送られたりもしてる)
しかし、毛利撤退後はした後は大友方と接近し
それだけでなく耳川の戦いで大敗した後秋月、筑紫、原田、麻生が離反する中でも、大友方。
その後の大友方との天正九〜十年の戦も氏貞の意思に反して家臣の遺恨によるもの
緩衝地帯でそれまで○○方というのが如何に意味のない事柄か分かる
筑紫惟門、筑紫広門
父子に渡って、大友方についたり反旗を翻したりしている
反旗を翻すタイミングは、毛利と耳川の敗戦の二つが重要
龍造寺と毛利が結んでいた点から、どちらも大小の差はあれ、ここれでも毛利に関係している
毛利の影響力がなくなった後は最終的には大友方について、対島津路線を鮮明化
他の筑前の諸氏も同様の動きをしているものが多く
この地域での大友方から離反が起こる場合、毛利が重要な役割を果たしている
>>834、
>>836 で、それを示す史料名を
>>825で挙げたんでしょ?
なぜ具体的に聞いたら、聞きもしない思い込みを語りだすのかな?
まさかとは思うがテキトーに史料名挙げただけの捏造君だったら嫌だな
838 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 23:29:19
日本語が不自由なやつが一人いるな
839 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 23:34:22
どうでもいいが宗像氏貞の子孫は広島で太鼓と能の道場開いている。
俺の先生だ。
そして俺は九州の伊唐島家の子孫だ
なんか感じるところがある
つーか唐島姓の人いねぇか?
原田隆種、種門・繁種・信種父子のように厳島頃から既に毛利に味方し
最初から対大友路線が鮮明と言われている諸氏ももちろん居る
(隆種は後に降伏⇒耳川後、再度離反し立花軍と交戦)
ただ、この対大友路線は龍造寺氏との結び付きの為であって
それまでは道雪軍を打ち破っているにも関わらず
龍造寺氏が島津に打ち破られてからは、島津氏に接近している
>>837 歴史的資料
>>835と、
同時に毛利・大友の緩衝地帯での「それまでは○○方」という言い分が通らないという根拠を
>>834、
>>836、
>>839で示しただけ
聞きもしないって君の思い込み理論を否定する為の状況証拠も提示した事にも気づかないとは大した文盲具合だな
で、君は資料を挙げているのかな?
843 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 23:44:19
ま、普通に毛利は大内氏の支配基盤取り込もうとしてたわけだしな
九州も含めてね
>>837 自意識過剰過ぎ
おまえだけが相手にされてるわけでもないし
誰か1人だけがここを見て、書き込んでるわけでもなし
毛利が九州最初から狙ってませんって言ってる奴は、毛利厨の中でさえ極々一部だがwwwww
845 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 23:54:39
>>841 長野氏のサイトは見たし、知ってるが、長野氏関連の事象には史料解説ある
で、それが?
毛利が永禄六年以降に工作してたとする史料ないが?
つか長野氏以外は?
そんなのを歴史資料とし、状況証拠の説明とはね
相変わらず勘違い全開だな
今までも言われている通り、毛利が大内氏の基盤を取り込む、または手に入れようとしていたのは
誰もが認める事実でしかないんだよ
そして情報もある程度出された
いくら吠えても、元々説明責任があるのは、その為の工作が全くないと主張している君
君が述べてる事は、異説中の異説でしかない
説明責任を果たして、世の中に示していれば、毛利氏を考察した歴史書籍に関してもそうだし、
ネットだけでも
>>804のような結果にならない
現実を受け止めてから反論してくれ
847 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 00:03:14
毛利厨のなかでも、再右翼を晒しage
小倉善行寺文書、萩藩閥閲録、佐田文書・飯田文書、
宇佐到津文書 西郷文書、内藤文書、毛利藩古文書
これは長野氏サイトにあった史料名を羅列しただけかね?
どの史料に、何について書いてあるのか、年月日・宛名・差出人を書いて
説明してね、史料内容の確認はこちらでするからさ
萩藩閥閲録は何巻かも書いてくれると助かる
九州での工作が窺がえる記述あるとして挙げてるのだから
>>848 まともな脳みそをしている人なら、ページ内検索かけただけでそのサイトだけでもヒットします
貴方が、他の人間も言っているようにトンデモ論を展開しているにも関わらず
そんな厚顔無恥な証拠要求をするのではれば
こちらも貴方のいう、九州を望む事がなかったという元就の心情を現した証拠を挙げて下さいね
あなたも誤った解釈での状況証拠しかあげてませんよ?
どちらかを優先したから、優先されなかった方がいらないっていうのは根拠にならないので
話しが常にずれてる印象を受ける
一度要点を整理したら
851 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 00:22:13
>毛利が大内氏の基盤を取り込む、または手に入れようとしていたのは
>誰もが認める事実でしかないんだよ
>そして情報もある程度出された
史料名を羅列しただけ
>いくら吠えても、元々説明責任があるのは、その為の工作が
>全くないと主張している君
おいおいおい、筑豊衆の蜂起は毛利の工作によるものとしてるのはそっち
こちらは、永禄六年以降は工作した物証がないと説明
この場合、工作があったとする側が物証挙げて論拠とするのが当たり前
単に史料名挙げてだけでは証明にはならないんだよ
事象の存在の有無を問う場合、存在するとした側が、その立証をする責任あるんだよ
>>851 <事象の存在の有無を問う場合、存在するとした側が、その立証をする責任あるんだよ
おいおい、全くないと言い出したのはおまえだろ
疑うべくもない事実に対して、状況証拠を頼りに異説を唱えただろうが
で、結局毛利は大内氏の基盤を欲していなかったわけ?
整合性のつかない貴方の状況証拠に対して、整合性のつく状況証拠で応えた
だから、状況証拠を言い出した時のようにする気のないという心情を表す文章なりを出せば済む事
そういうのをちゃんと論述してるサイトだけでもいいからさ
855 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 00:35:15
この毛利厨が言いたいのは、他の毛利考察してるサイトなり書籍なりを書いてる人は
毛利に関して間違った認識をしている
毛利元就の意図を理解しているのは俺しかいない!・・・・・となのかなw
856 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 00:36:40
>>852 >おいおい、全くないと言い出したのはおまえだろ
そうだが?
永禄六年以降に毛利が筑豊衆に工作した物証がないとね
工作してたとするそっちは事実だ整合性だと、物証を挙げもしないが
>疑うべくもない事実に対して、状況証拠を頼りに異説を唱えただろうが
疑うべくもない事実なのに、物証が全くないのは?
状況証拠で異論って?
まず自分の思い込みが不変不動の事実とするのは止めたら?
島津厨の俺からも一言言わせてくれ
毛利か島津かでいったら、支配域も石高も最盛期は島津です
>>856 早く、元就の心情を表す証拠をお願いします
あるんでしょ?君だけが勝手に考える状況証拠じゃなくてさ
君と同じ論理のサイトなりでもいいから、毛利が九州に野心もっていなくて、その為の何も介入はしてないってさ
859 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 00:43:44
<まず自分の思い込みが不変不動の事実とするのは止めたら?
<まず自分の思い込みが不変不動の事実とするのは止めたら?
<まず自分の思い込みが不変不動の事実とするのは止めたら?
<まず自分の思い込みが不変不動の事実とするのは止めたら?
<まず自分の思い込みが不変不動の事実とするのは止めたら?
腹が痛いw
自分の事言ってどうする?
おいおい、騙されるなよ
ここで九州には興味なかったんだと言ってるのは毛利厨を装う大友厨
バカげた事を言って、反毛利を呼び起こそうとしてるだけ
巧妙な荒らしが潜伏している模様なので皆さん気をつけてください
863 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 00:59:44
『戦国大名論集』14
これは毛利関連の論文集だから
その中で、引治三年から永禄四年までの九州への活動は、
大友の大内遺領問題と尼子との戦いへの介入阻止の意図で行なわれてると解説あるよ
当時の毛利の勢力で尼子と大友の両者相手にするのは自殺行為、
大友とは極力事を構えず、だからといって大友が筑豊支配を安定させれば、
後背を脅かされると考えての行為とね
まぁ煽る春厨には毛利が何が何でも九州狙ってたと言うんだろうが
864 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 01:01:56
|:::!::::::|
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|::l::::::|´:/,.-‐<::\
,. ―┴゙ーく:/ / } .:.:ヽ
{`ー---―::'}:く. l ..::.::l
/`二¨二 ̄´ヽ::ヽ. | ..::.::|
/ 二ニ二 ヽ. } :::}. l ..::.::|
l__ _ _ _ ,.へ;リ | ..::.::|
低い次元での争いは止め給えよ {テテ! fテテ、_ ,.-、ヽ.___ |..:::.:::|
毛利も大友も 厂:r| -、 ̄´ノ ! :}:::::入ゝ--"
わしとは比べるべくもない____{:::/ 'ー‐'ヽ ::::: 丿//::::::! _____ _
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>>863 引治三年から永禄四年までの
引治三年から永禄四年までの
引治三年から永禄四年までの・・・・
釣り師にしても面白い過ぎる
永禄12年まで
永禄六年以降での工作事実はありません
永禄六年以降での工作事実はありません
永禄六年以降での工作事実はありません・・・といっておいてwwwww
スゲエエエエェェェェ
プロのネタ師の域だよ
あんたある意味GJ!
これが狙いだったのかな
毛利厨を装う大友厨であった事がばればれ
大友厨って汚い真似するのな
小倉善行寺文書、萩藩閥閲録、佐田文書・飯田文書、
宇佐到津文書 西郷文書、内藤文書、毛利藩古文書
どの史料に、何について書いてあるのか、年月日・宛名・差出人を書いて
説明してね、史料内容の確認はこちらでするからさ
萩藩閥閲録は何巻かも書いてくれると助かる
毛利が永禄六年以降に、九州狙ってて工作したと窺がえる記述の箇所をね
毛利厨を装う大友厨の次は家康厨の占領作戦?(汗
870 :
↑:2006/03/23(木) 01:10:51
過去の人w
自分は何も証明できませんでしたね
この流れで関わった人は毛利厨を装う大友厨に釣られた事には変わりない件について
>>869 家康厨なんていません
家康が他に追随を許さない権力、所領、石高を手に入れたのは「事実」ですから
>>873 ただの真性ってだけでは?ここまで労力払う奴が釣り師だとしたら
・……かなりのGJだけどね
876 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 01:18:29
>>865 は?最初から一貫した主張だが?
大内義隆自害後、対大内・対尼子との争いに大友が介入してくるのを
阻止する目的で筑豊衆を煽動する工作をしていた
大友と和睦した永禄六年以降には筑豊へ工作してたとする物証なし
何の矛盾もない
しかし、そっちは当初から毛利が九州狙ってた、狙ってたが失敗したなどと、
何ら根拠なく整合性とか事実と主張
どっちが釣りだ
こういう時だけレスが盛り上がる
こ れ が 三 戦 版 ク オ リ テ ィ ! !
何の矛盾もない
↑
どうやらこれが釣り師の口癖のようだな
以降、気をつけれ
>>869 全国の四分の一を独占した大名って他にいる?
その上、要衝全て抑えてさ
>>876 引っ張りすぎ
そろそろその釣りも続かないだろ?
まだ毛利の寿命があと10年延びてればって話の方が面白みがある
>>879 スレ違い
釣り師のどさくさに紛れて潜入したつもりですか?www
最強を論じるのであれば、他の大勢力との比較しなかったら意味ないだろ
上の方では勢力がどうのこうのと誇ってる奴もいるし
永禄六年以降に毛利による工作してたとする物証ないのに、
永禄九年の高橋鑑種の蜂起、永禄十年の秋月種実、麻生、宗像、筑紫、
原田の蜂起、永禄十一年の立花鑑種の蜂起を、毛利の工作による、
毛利を後ろ盾とした蜂起とする物証挙げてね
引治三年から永禄四年までの
引治三年から永禄四年までの
引治三年から永禄四年までのwwwwwww
>>884 釣りだって判明したんだから次はスルー覚えなよ
荒らしに反応するのも荒らし
ま、荒らしに来ただけなら分かるが
>>883 涙目?
自分は証拠を挙げられず・・・・・涙目の主張ワロス
>>884 何がおかしいのかな?
史料名挙げただけで具体的な内容説明も出来ない煽り一辺倒の捏造君
どの史料に、何について書いてあるのか、年月日・宛名・差出人を書いて
説明してね、史料内容の確認はこちらでするから、
と、聞いてるのに、それには一切答えず煽り逃げ
春厨はこれだから…春休みだなぁ
∩___∩ ∩___∩
♪ | ノ ⌒ ⌒ヽハッ __ _,, -ー ,, ハッ / ⌒ ⌒ 丶|♪釣り師ってバレちゃったねww
/ (●) (●) ハッ (/ "つ`..,: ハッ (●) (●) 丶 今、どんな気持ち?
| ( _●_) ミ :/ :::::i:. ミ (_●_ ) | ねぇ、どんな気持ち?
___ 彡 |∪| ミ :i ─::!,, ミ、 |∪| 、彡____
ヽ___ ヽノ、`\ ヽ.....::::::::: ::::ij(_::● / ヽノ ___/
/ /ヽ < r " .r ミノ~. 〉 /\ 丶
/ /  ̄ :|::|
>>876 ::::| :::i ゚。  ̄♪ \ 丶
/ / ♪ :|::| ::::| :::|: \ 丶
(_ ⌒丶... :` | ::::| :::|_: /⌒_)
| /ヽ }. :.,' ::( :::} } ヘ /
し )). ::i `.-‐" J´((
ソ トントン ソ トントン
>>887 ハゲワロス
自分は何も証拠出せてないのに皆を笑い死にさせようとしてるのか
身を削ってのネタ振り・・・・・・もうはや芸人だな
正確には引治四年じゃないな、引治三年からか
筑豊への煽動工作始めたのは
しかし返答に窮するとこれだもんなぁ
釣り師は華麗スルーせよ
>>880 10年ってウィキ辺りにも書いてありそうな事だけど
10年延びても、元就に天下は無理じゃないか?
あのまま毛利が肥大化しても織田とぶつかって終了
毛利って巨大勢力&拡大路線だったら本能寺も起こり難い状況になってただろうし
四国勢との同盟も拡大路線のままだと危ういし
>>891 本能寺はまた違った対立側面で起こってるから、この機に乗じてという可能性の方が高いだろ
毛利は織田のように朝廷や幕府を蔑ろしたりしてないし
つ〜か、本能寺は82年だから毛利が長生きしてもあんまり関係ないんじゃね?w
ただ単に妄言を皆からスルーされ始めただけな人哀れス
<例:
>>863,
>>868,
>>876,
>>883,
>>887,
>>890 誰かがいってたけど、強がりだね
自分の思い込みが不変不動の事実とするのは止めたらと言ってあげたい
>>891 織田と毛利が接する時期の予測は?
どのくらいの時期に接すると思うわけ?
なんか支那人や朝鮮人と会話してるみたいだ
南京大虐殺で三十万は殺した、従軍慰安婦は軍部主導でやっていた!!!
なかった、いないというなら証明汁!!!
ってな感じ…
まず行なわれたのを証明してくれよと
ま、スレを潰してもログあるし、捏造して史料名まで挙げたの晒すけどね
>>892 武田危機は脱した後から、長篠の戦くらいまでには接してると思う
そこで織田勢相手にしてもそこまで引けを取るとは思えない
九州方面には、兵をあまり割かなくもいいし。
ただ、あのまま東進し続けたかがね
少なくとも戦では、対大友有利だったし
それまで通り龍造寺と結んでか、島津と結んでかで九州分け合ってた可能性もあるね
そもそも、尼子やらで懲りて内部統制に力いれるんじゃ・・・・
元就自身も高齢だって自覚する年齢だろ
10年延びてたら・・・って本人は知らないんだから
898 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 02:06:26
煽られたら相手を春厨ってレッテル貼りして自尊心を保とうとする人って結構みかけるよね
>>896 早過ぎ
波多野辺りが早い段階で織田勢と対立関係にあったとは言え
明智光秀の丹波攻略も天正3年に長篠と同年に始まってる
三村氏や浦上氏もいるし
あまり歴史的には変わらないだろうよ
>>898 無視が一番
整合性が取れないから否定されている南京大虐殺とか
関係ない事まで持ち出してきちゃうくらい涙目なんだから許してあげようよ
>>896 西に進んだら進んだで協力関係だった島津、龍造寺と接して
織田と接した時には両面作戦しなくちゃいけなくなるから
不利じゃないかな
そうだね、捏造バレちゃったから、釣りだなんだとして無視して逃げるしかないもんなw
ログあるし、捏造やバカレスはコピペして晒すけどな
ま、辞書も読めないぐらい日本語も不自由だし、
根拠もないから脳内で整合性とするしかないもんな
>>899 元就健在なら状況も変わってきただろ
宇喜多の離反の可能性が同程度だったとでも?
>>902 毛利は九州に侵入する気が最初からなかったというdデル笑い話なら沢山読みましたよ
晒してやる!!と負け犬の遠吠え乙〜
あんたの役目はもう終わったんだよwww
>>900 スマソ
余りに自分を見れない発言に思わずレスしちゃったよ
>>903 ちょwwwおまwwww
何年元就の寿命を延ばす気だよ?
結局、秀吉の侵攻軍見て歴史通りの展開が関の山
引治二年四月に肥後南関城で蜂起した小原鑑元は
後ろ盾があって蜂起したんだねw
加来紀伊守や佐伯惟教も誰か後ろ盾にしたんだな
じゃないと整合性とれないwwwwww
宇喜多の離反の可能性を言い出したら
上の方でも出てた本能寺の可能性も同じようなものでしょ
本能寺の方が、対抗勢力の少なくなった状態で光秀に余力が出来たからでしょ
毛利襲来なんてしたらそれどころの騒ぎじゃない
>>905 秀吉の中国進出は天正7年頃でしょ
それまでに元就が健在だった場合どれだけ勢力範囲を広げていたか考証は出来てるわけ?
>>903 その前に、通常の戦術として内応工作とか毛利側が
讃岐、淡路、摂津、和泉、河内、山城、丹波、大和辺りに進めて行くんじゃないか?
その地域は纏まりきってないから、毛利にとっては思う壺
i60-35-213-93.s02.a028.ap.plala.or.jpは何役やってんの?
逆に考えれば
今まで纏まっていなかったものを纏まって完全に毛利側にするのは難しいよ
織田側も手をこまねいて見ているわけないし
結局、その地域も宇喜多と同じく、織田方の尖兵になってくだけ
912 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 02:44:29
毛利厨晒し上げ
915 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 02:49:48
伊達政宗→戦国最速急成長を遂げるも10年も経たずに戦国時代が終わりを告げる
あと10年早く生まれれば天下人になり得た不運の男
稀有の知識人でもある
武田信玄、上杉謙信、北条氏康→何十年戦っても決着つかず。他に食われるのは必至の雑魚3大名
毛利元就→山陰山陽は支配したものの、九州、四国、畿内での戦いは上手くいかなかった
所詮山間部の小豪族を潰していただけであった
島津義弘→猿山のボス
標準語すら話せない体力だけが取り柄の山猿を率いて戦ったが
所詮人間の知能には勝てず
917 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 02:54:54
1000でスレ潰してもコピペして晒すからw
存在しないのが無かったとしる証明に対して
あったとする物証が一切ないのに、「整合性とれない」で状況証拠だとw
存在しないのが根拠足りうるのを存在しないのを証明しろだとか哀れすぎ
煽ってもコピペして晒すからなw
さ、続けてくれ
918 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 02:54:59
>>916 堀江を連想させようとする悪意が感じられる>政宗の項
>>911 纏まってないっていうのは語弊ありだな
浦上、畠山、筒井、赤松・・とそれなりに
毛利厨:島津、上杉、伊達厨を演じる腹黒
注:某スレのコピペ
921 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 03:02:09
海邊の戦い〜門司城合戦〜香春岳合戦〜秋月合戦〜立花山合戦〜多伏口合戦〜多々良合戦の流れで
逐一毛利は九州にちょっかいだしてますよ
小倉善行寺文書、萩藩閥閲録、佐田文書・飯田文書、宇佐到津文書 西郷文書、
内藤文書、毛利藩古文書にも 毛利氏の九州に対しての介入の証拠が残ってます
↑
永禄六年以降の工作を窺がえる記述は?と聞いた後から
答えも出来ずにこれwwww
晒しがいあるな
922 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 03:05:07
火病っちゃったよおい(;゚Д゚)
新説で通説を否定する方に証拠責任がある←分からなかったらお母さんにでも聞いてみなさい
なかった説は何処に行けば拝めるのか
u r l か 著 書 名
をご提示願えぬか?
923 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 03:19:34
>>922 通説でも何でもない、俗説
つか通説なら裏付ける史料名挙げて見ろ
こっちは『戦国大名論集』14と挙げてる
論文集だから内容全て書き足すのは不可能
永禄六年以降に毛利による工作を窺がえる物証がないのも言及されてる
そっちが毛利が最初から九州狙ってた、永禄六年以降にも工作してた、
永禄九年の高橋鑑種の蜂起以降の筑豊での蜂起を、毛利によるとするなら
物証挙げてくれと最初から聞いてる
>>825で史料名挙げたから、内容確認する為、年月日・宛名・差出人と
どの事柄に対するものか聞いてるのだが?
詳細まで答えろとは言ってない
<こっちは『戦国大名論集』14と挙げてる
↓
引治三年から永禄四年まで
<永禄十二年まで介入しなかった
925 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 03:31:44
それと状況証拠、状況証拠だと喚くが
永禄九年の高橋鑑種の蜂起以降の筑豊での蜂起を、永禄十二年に筑豊へ侵攻した
毛利の事前工作と何の物証もなしに事実としてるだけ
引治三年から永禄四年までは、毛利の工作が裏付けられる書状が残ってる
しかし永禄六年以降のは見当たらない、現存していない
わかる?
>>924 は?また捏造か?
926 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 03:35:44
>>924 どのレスにそう書いたか挙げてくれないか?
妙な歪曲されてるから
毛利元就 天下統一の先駆者
戦国合戦事典
家紋散策
毛利十一代史 10冊揃
戦国大名毛利氏の研究
龍造寺氏の戦国大名化と大友氏肥前支配の消長
中国地域と対外関係
九州の古戦場を歩く
小早川隆景のすべて
元就と毛利両川
戦国中国の覇者
毛利元就のすべて
元就と山口
日本の古戦場
戦国の城<中>(西国編)
戦国人名辞典
毛利元就・・・・
大友、毛利の相互介入を記している研究本、考察本は枚挙に暇がない
毛利戦記―大内、尼子を屠った元就の権謀、大友宗麟のすべて、大友宗麟・・・・と
九州戦線を取り上げていないもの以外は毛利、大友どちら側の視点であっても相互の介入を記しているものばかり
929 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 03:51:13
>>927 あのさ、何度も書いてるが史料名ね
二次資料聞いてないから
百歩譲って、それには毛利が工作してたと裏付ける史料載ってるのかね?
>>928 じゃあさ、具体例出すよ
今まで今山合戦は龍造寺が勝って大友が大敗し、肥前から大友の影響力が
駆逐されたとなってるだろ?
大抵の本でもそう書かれてるが、学会では随分前から違う見解になってんだよ
その詳しい話はスレ違いだから詳細にはしないが、
だから史料名による裏付けを聞いてるんだよ
戦国大名論集でさえ
毛利が九州に最初から進出する気がなかったという論述はない件について・・・
>>930 一次資料はもちろん、二次資料でさえなく
学会での見解も龍造寺と違って毛利は変わってないという事実があるだけだけど?
933 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 15:42:05
おいおい、嘘つくなよ
「引治・永禄年代における毛利氏と…」っていう森本繁氏の論文あるだろ
自ら挙げた史料に対して具体的に問えば答えず、
自ら挙げた二次資料に史料名あるのか問えば、これまた答えず、
ただただ事実だと言うだけ
いい加減にしてくれないか?
>学会での見解も龍造寺と違って
>毛利は変わってないという事実があるだけ
龍造寺の件は何で確認したのか?毛利も同様
龍造寺の今山合戦確認したのなら、決め手になった史料名答えてみてくれ
>>933訂正、論文の表題が違うかもしれんので、明日確認して
概要をスレに挙げるわ
>>931曰く、無いそうだからな
>>935 お願いします
もちろん学会でそれが主流的になっており
これ以上に反証はないという証拠と共に
対談「水軍と情報」
実証歴史作家 森本 繁
愛媛県総合教育センター所員 山内 譲
司会 東京大学社会情報研究所教授 増田 祐司
ttp://www.kure-u.ac.jp/shakaijouhou/outside/sympo/sympo97.htm 能島村上氏は二度にわたって毛利氏を裏切るが、
そこには能島村上氏の重臣島吉利を通じての豊後大友氏による巧みな情報操作がみられる。
豊後の大友義鎮は、『毛利氏が永禄9年(1566)に尼子氏を討滅したあと、豊前・筑後征服を企てた』ので、
これに対抗するため出雲の尼子氏残党や備前の浦上氏、阿波の三好氏などに働きかけて
毛利包囲陣を画策したのである。義鎮は同様の働きかけを能島村上氏にも行使し、
そのため能島村上氏は二度にわたって毛利氏に敵対したのであった。
能島の村上武吉は、大友氏のしかけた情報戦略に踊らされたのである。
ttp://masanari.gozaru.jp/retsuden.html 秋月種実(あきづき たねざね)
秋月文種の嫡男。幼少時、大友勢の攻撃により父・文種以下を亡くし、毛利元就を頼って山口に逃走する。その後、『毛利家の支援を得て』、筑前の所領を回復。
『以後、毛利・大友・島津の間を行き来』する。もっとも、彼自身は反大友家で、大友家にはやむを得ず降伏していたようだ。
豊臣秀吉の九州侵攻の時には、筑前・筑後・豊前に合わせて三十六万石もの所領を持ち、島津家と共に必死で戦うが、衆寡敵せず家宝である「楢柴肩衝」を献上し、降伏。後に日向高鍋三万石に移された。
筑紫惟門(ちくし これかど)
元々は少弐家臣であったが、大内家の筑前侵攻により、大内家に臣従した。厳島合戦後、『毛利元就の九州進出に対し、秋月文種と呼応』し、挙兵するも、失敗に終わり、嫡子広門らと共に山口へ逃走する。後、『毛利家の支援』の元、元の所領に帰り咲く
参考資料につきましては以下のとおり。
・「毛利元就のすべて」(河合正治氏編・新人物往来社)
・「小早川隆景のすべて」(河合正治氏編・新人物往来社)
・「大内義隆のすべて」(米原正義氏編・新人物往来社)
・「安芸 毛利一族」(河合正治氏著・新人物往来社)
・「戦国最強の軍団・毛利水軍」(『森本繁』氏著・新人物往来社)
・「戦国人名辞典(コンパクト版)」(新人物往来社)
・「村上水軍のすべて」(『森本繁』氏著・新人物往来社)
・「豊前宇都宮興亡史」(小川武志氏著・海鳥社)
・「新釈備前軍記」(柴田一氏編著・山陽新聞社)
・「毛利氏の研究」(藤木久志氏編著・吉川弘文館)
・「九州戦国合戦記」(吉永正春氏著・海鳥社)
・「毛利元就卿伝」(マツノ書店)
・「萩藩閥閲録」(山口県文書館)
・「瀬戸内の海賊〜村上武吉の戦い〜」(山内譲氏著・講談社)
・「長門地頭秘史」(大島敦子氏・伊藤太文氏共著・叢文社)
毛利元就(もうり もとなり) 1497〜1571
弘元の二男で幼名松寿丸。政治・戦術・謀略・外交のいずれにも長じた安芸吉田郡山城主。
弘治元年の厳島合戦では村上水軍の力を借りて陶晴賢の大軍を奇襲で破る。
大内・尼子両大大名の間に板挟みとなって進退に苦慮するが、
寡兵ながらも卓越した謀略を駆使して次第に勢力を拡げ、ついに両家を倒した。
『一時九州にも進出』して豊後の大友義鎮と戦うが、元亀二年六月、郡山城で没した。
ttp://www.m-network.com/sengoku/index.html 当サイトについての項目においての
出来る限り複数の資料において私自身が確認した上という文章
及び参考文書の項を参照のこと。
きりがないのでこのくらいにしときますが
論文、史書、書籍と様々な資料を見た上で、そう判断してるようですね
>>936 >もちろん学会でそれが主流的になっており
学会の主流ってどんな説?
大友、竜造寺の知識は、大友記や肥陽軍記の軍記物しかないから
裏付けや解説は無くて構わないので知りたい。
>>941 <学会では随分前から違う見解になってんだよ
そういう話を持ち込んだ人に聞いてみた方がいいんじゃない?
943 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 19:26:16
>>937 >『毛利氏が永禄9年(1566)に尼子氏を討滅したあと、豊前・筑後征服を企てた』
全く問題ないのでは?
氏は少なくとも尼子討滅以前には、筑豊征服を企てていないと言う従来通りの主張
尼子討滅後、永禄十二年に筑豊に出兵したのは事実なのだから
>>938 秋月種実が筑前に復帰したのは永禄二年で、それが?
>>939-940 そちらの主張、当初から九州狙ってたという見解を肯定するものでも、
毛利が永禄六年以降に、筑豊へ工作行なったとする物証でも、
永禄九年の高橋鑑種の蜂起以降の、筑豊衆の蜂起が毛利を
後ろ盾としたものとする根拠にもなってませんが?
<博多というか、当初から秋月や高橋、宗像、筑紫、原田の筑前国衆による
<大友からの独立戦争だから
<毛利が博多を望んでたら、永禄四年の時点で筑前まで攻めてるでしょ
<毛利はあくまで東の尼子なんかの中国地方制圧だから
<最初から言ってるとおり、九州に侵攻していない、する気もない、だから九州への足掛かりなんて、
<そっちが勝手に思い込んでるだけ、お分かり?
<九州進出を望んでないから、諦めるとは言いませんね
へ〜、今まで少しも望んでないのに急に欲しくなっちゃったわけ?
ただ単に望んでいたけど、無理な状況だったから出来なかったけどというだけだけど?
問題あるのは、森本氏の主張じゃなくて、貴方の主張だけだよ
勝手に森本氏の代弁者のように言ってるけど
945 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 19:44:13
>小倉善行寺文書、萩藩閥閲録、佐田文書・飯田文書、
>宇佐到津文書 西郷文書、 内藤文書、毛利藩古文書
>毛利元就 天下統一の先駆者、戦国合戦事典、家紋散策、毛利十一代史 10冊揃、
>戦国大名毛利氏の研究、龍造寺氏の戦国大名化と大友氏肥前支配の消長、
>中国地域と対外関係、九州の古戦場を歩く、小早川隆景のすべて、元就と毛利両川、
>戦国中国の覇者、毛利元就のすべて、元就と山口、日本の古戦場、
>戦国の城<中>(西国編)、戦国人名辞典、毛利元就
挙げてくれた史料や本についての質問や、
>>934に答えないのは何故かね?
自ら確認して挙げたなら、答えられるはずだが?
>>936 >>930参照、今山合戦についての見解の話はした
毛利についての学会の主流が何かはしていない
したのは
>>932、だからこちらは聞いたが、返答なしで逃げ回ってる
もはや意地の張り合いの不毛な水掛け論だな
>>944 >へ〜、今まで少しも望んでないのに急に欲しくなっちゃったわけ?
>ただ単に望んでいたけど、無理な状況だったから出来なかったけどというだけだけど?
だから望んでたとするなら物証出せと
毛利の勢力と周辺情勢から尼子に集中し、大友対策として永禄四年までは、筑豊衆に煽動工作行なった
和睦成立後は工作行なった形跡なし、永禄九年の高橋鑑種の蜂起以降の、
連続した筑豊衆の蜂起は反大友によるもので、仮に筑豊衆が毛利を後ろ盾にしようとしてたとしても、
毛利が後ろ盾になって工作したとする物証はない
永禄十二年の毛利の九州侵攻が筑豊衆を支援名目で行なったのを、
筑豊征服が目的なのは否定しない
しかし、それは尼子が片付き、周辺情勢が一段落した後で、筑豊情勢の混乱に乗じたもので、
全て毛利主導で行なわれたものではない
だから当初から、毛利は対外貿易都市としての博多を軽視、大友ほど理解していなかったと書いてるが
>>947 貴方の大好きな森本氏もいってますよ
対談「水軍と情報」
実証歴史作家 森本 繁
愛媛県総合教育センター所員 山内 譲
司会 東京大学社会情報研究所教授 増田 祐司
ttp://www.kure-u.ac.jp/shakaijouhou/outside/sympo/sympo97.htm 能島村上氏は二度にわたって毛利氏を裏切るが、
そこには能島村上氏の重臣島吉利を通じての豊後大友氏による巧みな情報操作がみられる。
豊後の大友義鎮は、『毛利氏が永禄9年(1566)に尼子氏を討滅したあと、豊 前 ・ 筑 後 征 服 を 企 て た 』ので、
これに対抗するため出雲の尼子氏残党や備前の浦上氏、阿波の三好氏などに働きかけて
毛利包囲陣を画策したのである。義鎮は同様の働きかけを能島村上氏にも行使し、
そのため能島村上氏は二度にわたって毛利氏に敵対したのであった。
能島の村上武吉は、大友氏のしかけた情報戦略に踊らされたのである。
ttp://masanari.gozaru.jp/retsuden.html 秋月種実(あきづき たねざね)
秋月文種の嫡男。幼少時、大友勢の攻撃により父・文種以下を亡くし、毛利元就を頼って山口に逃走する。その後、
『 毛 利 家 の 支 援 を 得 て 』、筑前の所領を回復。
『以後、毛利・大友・島津の間を行き来』する。もっとも、彼自身は反大友家で、大友家にはやむを得ず降伏していたようだ。
豊臣秀吉の九州侵攻の時には、筑前・筑後・豊前に合わせて三十六万石もの所領を持ち、島津家と共に必死で戦うが、衆寡敵せず家宝である「楢柴肩衝」を献上し、降伏。後に日向高鍋三万石に移された。
筑紫惟門(ちくし これかど)
元々は少弐家臣であったが、大内家の筑前侵攻により、大内家に臣従した。厳島合戦後、
『 毛 利 元 就 の 九 州 進 出 に対し、秋月文種と呼応』し、挙兵するも、失敗に終わり、嫡子広門らと共に山口へ逃走する。後、『毛利家の支援』の元、元の所領に帰り咲く
参考資料につきましては以下のとおり。
・「毛利元就のすべて」(河合正治氏編・新人物往来社)
・「小早川隆景のすべて」(河合正治氏編・新人物往来社)
・「大内義隆のすべて」(米原正義氏編・新人物往来社)
・「安芸 毛利一族」(河合正治氏著・新人物往来社)
・「戦国最強の軍団・毛利水軍」(『森本繁』氏著・新人物往来社)
・「戦国人名辞典(コンパクト版)」(新人物往来社)
・「村上水軍のすべて」(『森本繁』氏著・新人物往来社)
・「豊前宇都宮興亡史」(小川武志氏著・海鳥社)
・「新釈備前軍記」(柴田一氏編著・山陽新聞社)
・「毛利氏の研究」(藤木久志氏編著・吉川弘文館)
・「九州戦国合戦記」(吉永正春氏著・海鳥社)
・「毛利元就卿伝」(マツノ書店)
・「萩藩閥閲録」(山口県文書館)
・「瀬戸内の海賊〜村上武吉の戦い〜」(山内譲氏著・講談社)
・「長門地頭秘史」(大島敦子氏・伊藤太文氏共著・叢文社)
毛利元就(もうり もとなり) 1497〜1571
弘元の二男で幼名松寿丸。政治・戦術・謀略・外交のいずれにも長じた安芸吉田郡山城主。
弘治元年の厳島合戦では村上水軍の力を借りて陶晴賢の大軍を奇襲で破る。
大内・尼子両大大名の間に板挟みとなって進退に苦慮するが、
寡兵ながらも卓越した謀略を駆使して次第に勢力を拡げ、ついに両家を倒した。
『 一 時 九 州 に も 進 出 』して豊後の大友義鎮と戦うが、元亀二年六月、郡山城で没した。
ttp://www.m-network.com/sengoku/index.html 当サイトについての項目においての
出来る限り複数の資料において私自身が確認した上という文章
及び参考文書の項を参照のこと。
望んでないのに進出や征服って表現がされてるとしたら問題だね
大至急、今、毛利が九州進出や征服といった表現をしている人達に抗議してくれ
多過ぎて・・・というか大多数過ぎて中々大変だろうと思うけど
952 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 08:03:16
>>951 お互いに相手に自分の望むレスを欲し合う無駄な議論なんかやめてさ、工作があった説は捏造だって言い切ったんだから
>筑前国衆による大友からの独立戦争
の物証を出して工作あった派を黙らせればよくね?
>>627のような結論となる
<石見銀山>>>>>>>>>博多
だから、毛利は九州には最初から眼中にないんだっていうのと同じ
毛利が順列をつけていたソースじゃなくて、望んでいなかったという能動的なソースを出さないと
通説を出されて論破終了って流れになってしまうと思うよ
永祿11年4月に立花鑑載が毛利元就と謀って背いたのは、有名じゃないかな
956 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 14:58:02
お互いに相手に自分の望むレスを欲し合う無駄な議論なんかやめてさ、
工作があった説は捏造だって言い切ったんだから
>筑前国衆による大友からの独立戦争
の物証を出して工作あった派を黙らせればよくね?
工作した物証はない=工作していない
そもそも工作したと証明されてない
悪魔の証明しろと電波飛ばしてる
工作したと一切の物証による証明がなされてない
それなのに、それが事実という前提にしてる事がおかしいとしない頭を疑う
通説だと言うなら、論説を裏付ける根拠出せと
根拠もなく流布されてれば俗説
自ら挙げた史料や二次資料に対して、内容に関する問いをすれば答えず、
学会だと言いだしたので、何で確認したのか問えば、これまた答えず、
ただただ事実だ有名だと、自らには根拠がないのを誤魔化してるだけ
>>筑前国衆による大友からの独立戦争
>の物証を出して工作あった派を黙らせればよくね?
筑前国衆への毛利からの工作の物証を出して工作なかった派を黙らせればよくね?
960 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 18:00:49
>>956 ・工作はあったのか?
→なかった
・じゃあ何故蜂起したんだ?
→わからない
なら不在証明で不可能だが、
・工作はあったのか?
→なかった
・じゃあ何故蜂起したんだ?
→大友からの独立戦争
だから存在証明ですから可能です。
・悪魔はいるのか?
→いない。いるならつれてきてみろ。で止めておけばいいのに、
・悪魔はいるのか?
→いない。悪魔の正体は実は〇〇なんだよ。とかいうから供に証明の義務が生じる
どうせ水掛け論にしかならないんだから、自分で自説の物証を挙げて相手を黙らせたほうがハードル低いじゃん
工作の証拠は存在しないんなら=不在証明になるんだから、君が大友からの独立戦争の存在証明をしてあげたら?
961 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 18:04:09
追記
要するに傍から見てると目糞鼻糞なんだよ
962 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 18:30:58
筑豊衆の蜂起の理由は多々ある、高橋種実には宗麟た一萬田家の問題、
大友と秋月の歴史的な確執等々、多々あると書いて、その理由の一つとして、
大友による筑豊支配権に対しての蜂起、大友からの独立戦争とは書いた
高橋鑑種の永禄十二年の毛利への支援要請も、それまで毛利をあてにしてない根拠足りえるし、
秋月はこれ以後も反大友として反抗続けている
でも
963 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 18:41:19
>>962は送信ミス
>>960-961 筑豊衆の蜂起の理由は多々ある、高橋種実には宗麟た一萬田家の問題、
大友と秋月の歴史的な確執等々、多々あると書いて、その理由の一つとして、
大友による筑豊支配権に対しての蜂起、大友からの独立戦争とは書いた
高橋鑑種の永禄十二年の毛利への支援要請も、それまで毛利をあてにしてない根拠足りえるし、
秋月はこれ以後も反大友として反抗続けている
で根拠もなく、書いてあるとして挙げた史料に対して、内容問えば答えられないという、
春厨に有りがちな根拠捏造までしてる輩は、
・毛利は当初から九州狙ってた(望んでいた)
・毛利は九州進出の為、工作をしていた
・筑豊衆が蜂起したのは毛利が後ろ盾だから
としてるのだが?
同類扱いして共倒れ狙いか?
964 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 21:27:53
多分、狙っていたの捉え方の違いだと思う
海を国境にして不可侵同盟を組んでない以上は潜在的には狙ってたって言っても誤りではない
毛利からすれば水軍運用の為の拠点だけど、大友にとっては九州侵攻のきょうほとう足りえる訳だし
<の人は拠点からの可能性を議題にしていて、君は結果を議題にしている。視点が違うから不毛にレスを消費している
状況クリア後にちょっかい出してる以上は大局的にみれば狙ってた訳だし
局地的にみれば足元を固める方が重要だから、そんな余裕がなかった為狙えないとも言えるし
途中から揚げ足鳥合戦→論点拡大→ぐだぐだになってもうだめぽ(←今ここ)
ん?共倒れ???
開始点が既に歪んでるじゃん。主題を「狙ってたのか?」なんてどうとでも取れる議題で議論なんか開始しちゃった<と君が悪い
こうして毛利スレとしてはめずらしく2スレ目に行きそうな予感
>>898でも言われた通り、言い訳がましい人が粘ってるからな
ネバーギブアップで頑張れ毛利スレ
967 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 23:03:15
>>964 橋頭堡(きょうとうほ)な、まず日本語覚えろ
ついでに、海を国境にして不可侵同盟を組んでないとか意味わからんがな
大友と大内の関係等少しは調べろ
拠点からの可能性を議題も意味不明
・当初から九州狙ってた
↓
・毛利が工作していたから狙っていた根拠を毛利の工作としている以上、それを証明しなきゃならん訳だ
で、永禄六年以降に工作していたとする物証がないとの反論に対して、
永禄九年以降の筑豊衆の蜂起と永禄十二年の毛利の筑豊侵攻を繋げ、
毛利が後ろ盾になってるから蜂起したと主張してるから、
それならば、尚更毛利が工作していた、後ろ盾となっていたとする物証が必要なんだよ
可能性の話なら様々言えるが、毛利の工作の存在を前提条件にしている以上は、
その証明は必須なんだよ
実証からの検証を知れ
両者とも不正解
くだらない言葉遊びだなw
「九州『を』狙っていた」と「九州『も』狙っていた」、「九州『は』狙ってなかった」
比重が違うだけで『も』が正解でFA
>>1000まで雑談↓
ちょっとまて。
離反の工作もなにも、毛利は実際に九州に兵を出して大友の領地を奪っている。
年月の間に何度か和約は結ばれたが、そのつど破って再出兵してきているのは
毛利。
諸豪族の離反が毛利の扇動工作の結果が、あるいは関係なかったかは別にして、
毛利は大友が諸豪族の反乱によって揺れている時期を見計らって侵攻している。
これで毛利は九州に領土を拡げる気がなかったってのは無理があり過ぎないか?
それと何度も出ているが、大内が栄えたのは博多と海外貿易を握っていたから。
大内を打倒してその領土を吸収した毛利が、繁栄の源泉となった博多に興味を
示さなかった、狙わなかったというのでは元就の戦略眼に大きな疑問が生じるぞ。
>年月の間に何度か和約は結ばれたが、そのつど破って再出兵してきているのは毛利。
何度か結んだ和約と、毛利がそのつど破って再出兵したというのを詳しく
>毛利は大友が諸豪族の反乱によって揺れている時期を見計らって侵攻している。
>これで毛利は九州に領土を拡げる気がなかったってのは無理があり過ぎないか?
だから永禄十二年の毛利の筑豊侵攻が領土拡大というのは否定してないでしょ?
>大内が栄えたのは博多と海外貿易を握っていたから。
銀と日本海・瀬戸内航路、それと対外交易の拠点である博多ね
>大内を打倒してその領土を吸収した毛利が、繁栄の源泉となった博多に
>興味を 示さなかった、狙わなかったというのでは元就の戦略眼に
>大きな疑問が生じるぞ。
実際、興味示していなかった訳だから
博多を押さえずとも他で代行可能と捉えており、経済感覚に疑問符がつくのはしょうがない
が、戦略眼に疑問とは言わないんだよ
戦略的には大友と全面的に事を構えずに尼子に対処し、あれだけ急激な勢力拡大してるのだから
972 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/25(土) 00:41:13
史料捏造してた春厨は煽りに必死だな
晒し上げとくか
973 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/25(土) 00:52:47
974 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/25(土) 01:14:26
逆に大友が大内遺領、周防長門を狙ってた、狙ってたけど諦めたと言わないのか?
975 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/25(土) 01:18:44
言ってどうすんの?
一週間も乙かれお前ら
>>971 信秀が津島を、信長が上洛時に大津や堺を押えたのは経済観であって戦略眼ではないと?
謙信が直江津を押えたのは、信玄が川中島に固執したり駿河を狙ったのは?
博多を狙わなかった結果毛利の財政に問題が生じたというのなら、それは元就の国家
戦略に問題があったということ。
978 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/25(土) 02:54:46
それで博多を狙わなかった結果毛利の財政に問題が生じたの?
979 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/25(土) 10:31:26
地味な四男について教えてください
980 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/25(土) 13:41:56
佐野家に養子に出される
穂井田元清か
地味だけど隆景から信頼はされてたみたいよ
隆元死後、財政支出が大幅に増えた
隆元がなんとかやり繰りしてたが、その死後誰も代役が務まらなかった
博多があればかなり違っただろう
大友から博多を奪う力も知恵も無かった
財政支出がどう増えたんだよw
やっぱ根拠も何もない妄想好きの春厨だったな
大内遺領の北九州を狙うのは毛利として自然だが
博多はあればいい程度だろ、問は村上系海賊衆の権益だし
座から巻き上げるくらいしかない為、経済的に大した収入にはならん。
職人は三備や山口でも確保可能だろうし、無理に固執する理由はなかったと思うね
あればいい程度?
wwww
毛利家家訓
欲しがりません勝つまでは!
>>986 大内の遺領は欲しいに決まってる、ただ博多には固執してないだろうってこと
>>988 それだと、当時の状況で博多を欲しがらない元就は馬鹿か?となるの。
博多を占領したてしても維持が難しいわ、大友とも争わなきゃならんわ、
極常識的な選択だよな
そんなん厳島だって石見銀山だって大差ない
大友にびくついた毛利が馬鹿からヘタレになるだけだ
博多を過重視するのは無知な現代人というわけだ
ホントにいかにアンチが狂ってるかわかるな