1 :
無名武将@お腹せっぷく:
演義曹真を自分の境遇と当てはめて同情しますた。
魏の重鎮でありながら天才2人に挟まれ全く太刀打ちできずに馬鹿にされ死んでいく曹真。
しかも優しい性格で気が弱い。それが災いとなった乱世の象徴。
悔しくて正史を調べると一転して超名将の活躍ぶり。
今日の腐女子は趙雲が曹真という男に敗れたなど信じないでしょう。
曹洪に太ってることを馬鹿にされてるあたりも曹真クオリティー。
そんな曹真、それに関わる人物や事象についてのスレです。
3 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/29(水) 00:42:41
息子の曹爽が馬鹿
5 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/29(水) 01:01:44
司馬懿より曹真の方が好き
6 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/29(水) 01:02:51
こういう良スレっぽいのほど三戦板では人気のないスレとなる件
7 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/29(水) 01:11:16
∧_∧
(´・ω・`) <曹真ガンガレ
/J つ
し―-J
8 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/29(水) 01:12:30
総大将が似合う人.
自民党の安部幹事長代理を賢くした感じ.
9 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/29(水) 01:18:11
曹操とは血繋がってないんだよな?
それでも側近くにいて育ったせいか、才能受け継いでると思う
11 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/29(水) 01:27:06
曹丕が曹真や曹休を重要したのも血縁関係が遠かったからだよな。
曹真は忠実だったが、まさか息子の曹爽が魏を潰す要因になるとは思ってもいなかっただろう。
いつものことだがただの引き立て役ポジションの横山曹真(´・ω・)カワイソス
曹丕と一緒においていた位だから、相当曹操は目をかけていたんだろうね。
何晏の事は曹丕は毛嫌いしていたようだけど、曹真と曹休は信頼してるし。
やっぱり性格の差か?
それにしても何故に曹真は地味なんだ?
14 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/29(水) 02:33:18
演義神の孔明とそれのライバルに相応しい
晋の土台を気付いた仲達という二人の天才を強調するために、
曹真という『凡人』が選ばれた。
言うなれば孔明仲達には凡人がいくら頑張ろうと敵わない、
それを表したかった羅漢中が曹真を犠牲にしたからだろうな。
15 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/29(水) 03:40:47
曹真良スレあげ
戦国で言う丹羽長秀みたいな存在か
曹洪にデブって言われたのこいつだっけ?
曹洪は本当に面白いエピソード多いw
19 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/29(水) 11:05:11
デブで温厚な性格なため上司や部下から好かれたらしい。
>>1の言うとおり演義では気の弱さや人間らしさから
天才に良いように遇われたという可哀相な扱い。
それでも仲達を推薦して軍の指揮にあてたりとかした人間の鏡。
20 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/29(水) 12:56:55
良スレにはコテが書き込めないという真実
邪魔はしないが普通に書き込む事もある( ^∀^)ゲラゲラ
曹真は名将だし好きなんだが曹爽がなあ・・・
曹爽にもいいところってある?
23 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/29(水) 16:36:44
最初は聡明と有名だったんじゃなかった?
wikipediaより
曹爽(昭伯)
東宮にいた時代(皇太子)から明帝(曹叡)の寵愛厚く、明帝が即位すると、
散騎常持になり、やがて武衛将軍になるなど、とりわけ厚遇されていた。
明帝が病床に伏す(239年)と曹爽に大将軍の位を与え、司馬懿と共に幼帝の補佐をする事になった。
明帝が崩じて、斉王芳(曹芳)が、即位すると侍中の位を与えられ、
剣をつかえ、靴を履いたまま上殿し、小走りに走らずともよく、
皇帝に目通りする際は実名を呼ばれなくても良いと言う特権を与えられた。
最初は司馬懿に対して父親の様に接していたが、何晏らの取り巻きの提言で、
権力を独占しようと画策し、司馬懿を太傅にし、
事実上の名誉職に追いやることで彼の権力を押さえ込もうとした。
しかしながら曹爽の取り巻きは名声はあるものの、実績が無く正始五年(244年)
蜀征伐を試みるが補給がうまくいかず無惨に失敗している。
また何晏達が、政治を壟断したため魏の政治は乱れる事になった。
司馬懿は、この状況を憂慮し、病気と称して引きこもってしまう。
魏は文帝(曹丕)以来、近親者を政治・軍事両面から遠ざける政策をとっていた。
曹冏はこれを憂慮し、一族を登用して藩塀(国家を守る壁)としての役目を果たさせるべきと意見した。
しかし、曹爽はこの意見を採用することはできなかった。
248年、曹爽の取り巻きの一人である李勝が荊州に赴任するに当たり、
司馬懿を見舞ったときに司馬懿は重病で有るように見せかけ彼らを欺いた。
249年1月、天子のお供をして、曹爽・曹羲兄弟が出かけたのを見計らい、
司馬懿は兵馬を指揮して、武器庫を占拠し、クーデターを起こす。
側近の桓範は司馬懿との決戦を主張したが、曹爽は降伏。曹爽兄弟は罷免された。
その後、3月に曹爽と何晏らが、謀反を企てている疑いで投獄され、
三族皆殺しの刑に処せられた。曹爽が素直に降伏した経緯を見るに、
冤罪の可能性が濃厚である(謀反の計画があれば、発覚を恐れて簡単には降伏できない)。
これ以降司馬懿の一族が事実上魏を支配する事になった。
決してアホではないけど、周りの意見に流されやすくて大局を見る目に欠ける。
所詮老練な司馬懿に勝てるわけなかった……って感じ
曹爽は司馬懿、司馬兄弟の魏簒奪を正当化するキーマンになっているので
あまり描写それ自体を鵜呑みにできない。
28 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/29(水) 21:56:19
そう言われればそれを見逃していた・・・。
仮にも曹叡にあとを任せられるくらいだからな。
かなりの無能だったというわけでもあるまい。
29 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/29(水) 23:01:51
☆無題☆あるところにとてつもなくHが好きな中学生がいました。
その人は学校一の人気者でした。ある日、その人はある女性に告白されました。その男はOKの返事をしました。
その日の帰り、男は保健室に女性を呼び出し、ベットへ押し倒し思いっきりセックス&Hをしました。
女性は恐くなり逃げ出しました。
が、家に帰り部屋に行くとあの男が居ました。「おいで、おいで」っと言いながら不気味な笑みを浮かべていました。女性は逃げようとしましたが、腕をつかまれもうどうすることもできませんでした。
その後女性は人が変わり、H好きになりましたとさ。
このレスを見た人は幸福の人です。
3日以内に好きな人から告白されます。そして初Hを交わすでしょう。(キス程度
でもまず、このレスを5回以上違う場所に同じ題名、同じ内容で書き入れましょう。名前は変えましょう
30 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/29(水) 23:09:25
曹爽については、詔を無理に書かせた上で曹宇から大将軍チェンジしたという怪しい経緯があるな。
その後、三国志や晋書を信じるなら司馬懿よりも政権の中心にいたように思われる。
無理矢理書かせたのは孫資達だしなぁ・・・。
遺言変更前にも曹爽は事後を託されるメンバーに入ってたんだし
そこに関しては司馬懿の方がよっぽど怪しいと思うな。
曹爽が咬んでたかもしれん可能性は否定できないが。
32 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/30(木) 18:30:58
最初のメンバーの末席からトップに踊り出たという意味では、曹爽が一番得をしているよね。
曹爽が劉放、孫資と組んで政権奪取ってのが無難な線だろうな
しかし
>>1はイタイ子だな
自分の無能を周りが凄いんだ、僕は普通なんだってか
曹真と曹休は、多分蒲生氏郷レヴェル。
…とレスしてみる。
曹爽は別に無能じゃない
呉質は酷いよな。
曹真の身体的特徴をあてこすって馬鹿にして、
止めに入った同じ四友のシュシャクをどなりつけて。
39 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/06(水) 19:14:18
やっぱり良スレは伸びないなw
>>38 そのエピソードで俺は呉質が嫌いになった。
>>38 そのエピソードで俺は司馬懿と陳羣が好きになった。
>>38 別段、呉質を弁護するわけではないが、若い頃はそこまで
嫌な奴ではなかったのかも。
曹丕は心のこもったお手紙出してるし、中央に戻れないで居る呉質を
気にかけてはいる文脈だし。
最後まで故郷では認められていないから、圭角のある人間ではあったろうけど、
環境でひんまがった人間なのかもしれない。
なんか文章変。
43 :
38:2005/07/07(木) 00:05:23
>>42 そのあたりは分かってるよ。
俺は別に嫌ってないし、才能があることも分かっている。
曹真に同情してのレスだから自然と言葉が悪くなったかな。
曹真は「名ばかりでパッとしない将軍」のイメージがあるんだが、そんな漏れに良かったら彼の魅力を教えてくれぃ
>>44 『三国志』によると、曹真は曹操と親族で同世代に当たる曹邵の子として生まれた(注釈をつけた裴松之は曹操の家臣・秦伯南の
子というという説があることを紹介しつつ、否定している)。曹邵は190年の曹操の挙兵の際にこれに応じて兵を集めようとしたが、
このために州郡の官吏に殺されてしまった。曹操は曹真が幼くして父を失ったことをあわれみ、自ら引き取って他の子と同じように
養い、(おそらく同年代であった)曹丕と起居をともにした。若年期には猟ばかりしていて、あるとき虎に追われてしまった。しかし曹
真は馬上から後ろ向きに矢を放ち、虎を倒した。曹操はその勇敢さをほめ、自らの親衛部隊「虎豹騎」の隊長とした(この以前も曹
純・曹休など曹操の一族がこの隊長を務めていた)。
正史における目だった軍歴は、偏将軍時代の219年に漢中一帯に攻め込んだ劉備軍を迎撃するために下弁に出陣したところから
始まる。翌年、曹丕が魏帝国を興して即位すると、鎮西将軍(高位の将軍職)となり、雍州・涼州の軍事の長官となった。222年に
は都・洛陽に戻って上軍大将軍となり、大きな軍権を握った。226年の曹丕の死の際には、陳羣・司馬懿とともに、後を継ぐ一子曹
叡を助けるようゆだねらている。曹叡が即位すると、大将軍となり、邵陵侯に封じられた(裴松之は注で、父の名が入った封地は
おかしので誤りではと指摘する。その後、何度も諸葛亮ら蜀軍が攻め寄せるが、そのつど撃退に成功した。その功績により大司馬
となり、帯剣しての昇殿と、宮殿内で早足で歩かなくてもよいこと(当時は宮殿内では臣下はかがんで早足で歩かなければならな
かった)を認められた。同時に多くの封地を賜ったが、曹真は若いころともに曹操に仕えていた宗室の曹遵や同郷の朱讃が早くに
亡くなってしまったことを哀れみ、その子らに封地を分け与えるなど、自らの幼いころの苦労と重ね合わせたように情で報いて
いる。また、恩賞が足りない者がいれば、自らの財産を与えるなどしたと言われている。このため、曹真は将兵から人望が厚く、その
率いる軍の団結力も強固なものであったという。
>>44 お前のイメージする曹真は丸っきり演義の曹真だな。
正史の概略は上の通り。
47 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/07(木) 20:37:48
シミュの能力考察スレでも統率90越えを望まれるだけあるな
シミュの能力ならば
統率:93
武力:84
知力:89
政治:71
魅力:92
といったところか。
仲達は正当防衛だよ
強くなりすた・功績あげすぎた家臣は
自分が君主になるか・粛清されるかの二択を迫られる
>>49 引退する
というのもあるぞ。
遠くは張良、近くは程cにその例が見られる
>>50 引退してもいままでの武名が乱を招く場合もある
例 西郷さん
>>51 まぁね。
そういえば、功績が大きくなりすぎて憂き目を見た人物は
荀ケ、ケ艾、諸葛恪…と枚挙にいとまがないが、
蜀の諸葛亮はどうして安泰なまま戦場で病死できたんだろう。
53 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/08(金) 17:32:10
曹真の他にも
曹仁
于禁
ケ艾
チョウコウ
賈逵
臧覇
これらの人物はより評価されるべきだ
54 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/08(金) 17:34:12
55 :
相国兼録尚書事兼親漢王兼符璽郎 蕎序 ◆sVGToaHkBs :2005/07/08(金) 17:37:57
>>52 劉禅が政治能力・意欲共にない上、諸葛亮が黄皓を劉禅に寄せ付けなかったためであろう。
>蜀の諸葛亮はどうして安泰なまま戦場で病死できたんだろう。
何かがおかしい。
>>52 上に皇帝しかいない最高権力者だし、手出しできなかったんじゃないかな。
ただ、孔明は漢中の丞相府にずっといて、戦場へ自ら赴き、あまり成都にいなかった感じでもあるが。
>>58 確かに魏公就任を反対したことが直接の原因だが、
それで曹操が荀ケを追い詰めるのは、よくもわるくも荀ケの存在が大きくなりすぎてたからだな。
家柄で曹操を遥かに凌いでいるし、尚書令という高官に就いている。
曹操も無視することができないほどの勢力を築き上げることも不可能ではないから……
結局の所、荀ケの真意はどうだったんだろうな。
曹操は完璧荀ケを疑ってるけど、荀ケは乗っ取る気はそもそもあったんだろうか?
歴史書に詳細が残ってるけど、本人達が書いた物ではないし、本心が載ってる訳でもない。
>>60 荀ケが乗っ取ろうとするわけはないって。荀ケの真意としては、
「自分は漢の臣で、漢の丞相たる曹操様の補佐をして漢王朝を中興するんだ!」
って感じだったと思う。
だから漢の衰退を招く曹操の魏公就任は
荀ケの理想とはかけ離れたものだから反対したと。
62 :
60:2005/07/09(土) 00:52:39
>>61 やっぱそうだよな。
そう思いつつも、本人達に聞いた訳では無いので何故か最近考え込んでしまったんだ。
他の人の意見聞いて、ちょっとすっきりした。ありがとう。
あとスレ違いな事聞いてスマンかった。
ところで曹真に話題を戻すが、もし病死していなかったら
恐らくは曹芳の後見を司馬懿と二人で頼まれていただろ?
そうしたら歴史はどうなっていたかな。魏は史実ほど短い期間で滅亡せずに済んだかな。
司馬懿のクーデターは、曹爽一派の執拗な探りに身の危険を感じたからこそ勃発したもので、
曹真ならば側近の意見に流されたり、司馬懿を政敵と認識することはなかっただろうから、
(個人としての感情はともかく)お互いの器を認め合っていた以上は司馬懿も決起しなかっただろう。
司馬懿が決起しなければ、司馬懿による曹一族の権力削減も行われなかったわけで、
司馬一族による権力の独占もならなかっただろうから魏も長命を保てたはずだよなぁ…
64 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/09(土) 06:32:51
晋は魏の政治を受け継いだ形になっている
どちらの国家が存続しても、その後の歴史を大きく揺るがすような違いはないと思われている
この時代に超越した人物は曹操のみ
ナポレオン・ボナパルト、孫武、アレキサンダー大王、フリードリヒ、チンギスハーン、ハンニバル・・
彼らのような英雄は曹操をおいて他にはいない
>ナポレオン・ボナパルト、孫武、アレキサンダー大王、フリードリヒ、チンギスハーン、
ハンニバル・・
彼らは新しい時代を創造したがソウソウはできなかった。
いやしなかった。無茶しないで人生を楽しむことを選んだ。
むしろ諸葛亮の方が創造したかった節がある。だけどちょっと無茶だった。
でも彼はファンタジスタだから、「何か素晴らしい事をしようとしてたのでは?」
という幻想を抱かせる。だから後世にも魅了された人間がいるし尊敬されているんだ。
66 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/09(土) 07:17:39
新しい価値観を生み出した人物は新しい時代を切り開いた人物に匹敵する
新しい価値観は人の生きるモチベーションとなりうるものを増やし、人の生きる自信の選択肢を増やす
そんなポジディブな人間なんて少数wwww
しかも古代中国だぞ?
飢えた人は隣と子供交換して食人。富める人は珍味で赤子を食人。
みんな古い価値観にしがみついて、つけなくなって疑心暗鬼の世界。
ソウソウは道標を作っただけあとは次世代に任せた。
でもそれは民度の低い当時ではあまりにも無責任。
人々は絶大な権力の元に守られたかったんだよ。
>>65 何を言っている?新しい時代を切り開いたの曹操だぞ。
諸葛亮は、曹操の政策そのほかを受け継いだだけだ。もっとも、三国時代の
政治も軍事もみんな曹操の影響からなんだが。
69 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/09(土) 18:15:11
それはいくら何でも極論すぎだよ
確かに新しい価値観を生み出した偉大な人物だけど
所詮中華を統一出来なかった国の祖と
チンギスハンみたいに巨大帝国の元をつくった男を並べるのは笑止な訳だが
曹操の凄さはその多面性であって、偉大なという形容詞は少し違うな
>>70 チンギスは軍事面は否定しようのないが、それ以外面ではとても評価できた
もんじゃあないぞ。
曹操は多面性があるというよりむしろ万能だな。
魏が中華統一までいかなかったのは晋に禅譲したからで、
どうしてそんなことになったかといえば曹丕以降の過剰なまでに
身内を遠ざける魏の風習ゆえだから、曹操の能力が低かったわけではない。
また、晋は魏のシステムをほぼそのまま受け継いでいたから、
国が変わったものの、中味は魏のままといっていいかもしれない。
しかし軍事面だけで充分評価できる
朱元璋は粛正と文字の獄を行ったが、だからといって彼を評価しないのか?
曹操はなんか器用貧乏が大きくなった感じ
>>73 ものはいいようだな。
器用貧乏と万能はかなり意味が違う。
>>72 違うよ。魏と晋じゃかなり違う
晋はかなりヌルイ。法制度も人材も
皇族に対して魏は極端に厳しい、晋は極端にゆるい
皇族だけじゃない
士大夫もヘタレてるし、皇族には野心ギラギラの寒門がついてて
そりゃ滅びるわって感じ
曹操も赤壁で負けちゃったからなぁ……
曹彬や百眼みたいにはいかなかったか
それ考えると魏の法制度がどれだけ偉大だったか分かるな。
晋は無理に改良しようとするからゆるくなった。
あの陳羣が精魂込めて起草した法案を超える法案など、
そう簡単には作れないだろう。
>>78 あれは戦略的な敗北だから、個人の能力で左右されるものじゃないって。
敗戦の例に持ち出すには少々大きすぎる戦だ。
いや、戦略的な敗北だからこそ曹操の能力が問われるんだろ?
実質君主な訳だし
趙匡胤やフビライみたく部下に任せて自分は皇帝になってたらどうだったんだろ?
曹操が自分の代で皇帝にならなかったのは状況的なもんもあるんだろうけど
多分に詩人的な性格がストップをかけたのかもしれないな
そこが曹操の短所にもなる(徐州しかり、後継者問題しかり
82 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/09(土) 21:36:56
曹操の話よりも
劉繇
程c
司馬懿
ケ艾
郭嘉
賈詡
の話しよーぜー
ここ曹真スレ……
84 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/09(土) 22:14:00
85 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/09(土) 23:48:31
86 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/10(日) 20:49:06
いやいやそれよりも
許褚
費禕
周瑜
龐統
の話のほうしよーぜ!
87 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/10(日) 20:50:07
>>83>>86 おまいら難しい字たくさん変換できていいな
て 言 わ れ た か っ た だ け だ ろ ?
そうしんぱいするな
90 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/11(月) 19:33:34
許褚って漢字変換したのは、2ちゃんではおまいが最初だ
>>86
漏れは正史の曹真なんかより横光版曹真のほうが100倍好きだ。
それなりに風格もあるし、人間らしいし、人の良いオサーンの魅力があふれてる。
2chだと関平とか馬岱なんかが一部の人間に支持されとるよーだが、
曹真のほうがずっと萌える。
>>92 横光のやつは俺も好き。
ヘボキャラだけど司馬懿と賭けの話してるときの表情とか
見てて微笑ましい。
そういう点では曹真は報われてるかもしれんね。
正史では名将、演義でも嫌われてはいない。
曹真は地味だけど、評価もされてはいるかな?
このスレ>1みたく好きな人は好きだしね。
気になるのは曹休。曹丕の遺命を受けたのは曹真・曹休・司馬懿・陳羣
の四人なのに、晋書だと曹真・司馬懿・陳羣になってるんだよね。
どこで曹休抜けちゃったの?
スレタイ曹真だけど、曹休もあり?
>>94 曹休の出世街道はすごいよな。
将才としてはやっぱり一流とはいえないのかもしれないが、
早世したのは惜しまれる。
魏の一族で大権を握った曹休が生きていれば、
司馬一族も専横を振るえなかったかもしれない。
96 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/12(火) 21:45:57
曹仁は張遼よりも強かった
>>95 東の曹休、西の曹真と言った所か。夏侯尚も時期的に同じか?
曹休は賈キに対する態度が良くなかったかな。
それ以外の能力に関しては上々だと思う。
曹一族は優秀だな
それに比べて、劉一族は・・・・
劉一族は活躍の場が無かったからな。
曹一族は武においては戦場で鍛えられ、
文においては厳しく指導されるからな。
11歳で宛城に従軍した曹丕とかいい例。
死んじゃった義兄とは違って自分で馬を駆って脱出してるし、
曹操もそういう息子を自分の後継ぎに期待してたんだと思うな。
それにつけても夏侯楙よ……
曹・夏侯一族一のアホでFAだな
>>103 うむ。戦場での失態に終わらず、
日常では清河公主が妻にも関わらず妾を寵愛するという大胆不敵な真似をし、不和に。
弟たちに罪をでっち上げられ、清河公主に上奏される。
逮捕された夏侯楙を、明帝は内心殺してしまいたかったが段黙の口添えで助かった。
……惇兄、息子の教育ぐらいちゃんとしてやれ
曹芳の後見に当初の予定通り燕王宇が大将軍としてなっていたらその後どう変わっていただろうか
なんかあまり野心とかなさそうだなこの人
ただのお飾りで終わりか
>劉一族
曹真も曹一族として考えるなら、劉封なんかはどうだろう。
あの人を見る目に優れた劉備に惚れこまれて養子になって軍権も与えられているし、
最期は孔明に警戒されて処刑されている。
君主としての能力は分からないけど、将才はけっこうあったのかもね。
>>106 というより、単に君主の養子で実子の長男よりも年上だから警戒されたのかも。
劉封の意見はどうであれ「劉封様こそ真の後継ぎだ!」って言い出すやつが出るからな。
どう考えても劉封>>>>>>>>>>>>>>劉禅で、
これは後々跡目争いになるぞ、、、と孔明も早くから
危ぶんでたんじゃないかね。
>>107の言うとおりだと思うけど、そもそも劉封は荊州の豪族出身でしょ?
諸葛亮こそ荊州閥のトップだっただろうに、それでも扱いにくいと思われたのは、
本人自身もかなり気が強かったのかもね。正史にもそういう記述があるし。
演義だと忠孝を知る悲運の武将って感じで、横光版でも悪くは書かれてないけど、
実像は単純な猛将タイプだったりして。
劉封が処刑されたのは、関羽が呉軍に斬られてから
かなり時間が経ってから
諸葛亮は玄徳死後に後継者争いが起きないようにするために劉封を処刑した
若かりし頃の劉備の安易な行動が一人の人間の生命を奪った
劉封は処刑を正当化するために、演義の中では忠義にも薄いし、特別優秀な将として描かれていない
実際には、この処刑は劉備や孔明の薄情で安易な考えが起こしたこと
>110 :無名武将@お腹せっぷく :2005/07/14(木) 01:49:58
>劉封が処刑されたのは、関羽が呉軍に斬られてからかなり時間が経ってから
↑はい、そのとおりですね。で…
>諸葛亮は玄徳死後に後継者争いが起きないようにするために劉封を処刑した
↑え!? 話題変わってるっ! はじめの2行は何のフリだったの?
>劉封は処刑を正当化するために、演義の中では忠義にも薄いし、特別優秀な将として描かれていない
↑いや、処刑された後に実は…っていうオチがあったと思うけど。
>実際には、この処刑は劉備や孔明の薄情で安易な考えが起こしたこと
↑「実際には」ってどの文章を受けてるの? 上の文から繋がってないよ。
君が劉備や孔明を好きじゃないんだろうという事は伝わるし、
精一杯書いてくれてるのも微笑ましいけど、自分の書いた文章は読み直そうな。
上手に書けてなかったら、書き込みをあきらめるのも勇気だぞ。
養子ひとりの存在が危険視されるっていうのも凄いな。
曹操なんか(実子の)男の子25人産ませてるのに
表ざたになった後継者争いは起こってない。
長男か三男かで側近の血は流れたけど、国は転覆してないよな。
要は劉封が後継者だと困る人が彼を陥れたわけだな。
すなわち諸葛亮ではないか?
まあ血が繋がってない養子が後継に立てるわけがないからな。
そうなれば問題が起こって殺される可能性はかなりあったわけで…
上庸のような要地ではないもっと僻地への異動を願い出るか、
隠遁していれば災いは避けられたと思われる。
劉封の話題はスレ違いかな。
曹操は正妻は長年連れ添った卞夫人って決めて変えたりしなかった上に、
その正妻が賢夫人でしっかりまとめてたからなー。
孫権もたくさん奥さんと子供いるけど、
寵愛の対象をころころ変えたりしたお陰であんなことになってしまった。
劉備はどうなんだ? 劉備の場合奥さん置いてけぼりにしすぎでよくわからん。
劉封は誰が母親代わりになってたんだろ。
>>116 劉封は母親代わりも後ろ盾もいなかった気がする
>>116 劉備も奥さん妾10人位いた様な記憶ある。の割には子供少ないよな。
まあ置いてけぼりにしたらか余計に数が少ないのかもしれない。
孫夫人もだけど、多分政略結婚で貰った嫁がほとんどで余り愛着が無かったのかも?
曹操なんかは本人が好きで娶ってるって感じだが。
それにしたって曹操はいくらなんでも子供作りすぎだろ・・・。
>>118 あれだけ遠征続きでいつ孕ませてたんだと思う。
男子だけで三十人近くってことは、記録に残らない女子も入れれば
五十人は優に越えてるよな。
>>118 劉備が自分の祖先だとかいってる劉勝のこと調べてみ。
曹操が子供作りすぎとはとてもいえなくなるぞ。
>>118 確か長坂で娘二人を捕らえられたとあるな。曹仁伝内の曹純の箇所で
見たような気がした。徐州時代にも呂布に捕えられたりしてたな。
過労死か?
>>119 曹操は遠征だけじゃなく、本人が政治から芸術からなんでもやってるのに
本当よく孕ませる時間あるよなw
余り寝ない人だったんだろうか?偏頭痛の持ち主だったみたいだし。
実子じゃないのが混じってるって可能性は?
>>123 当時、男の子を産んだ女性の名前は歴史に残るからな。
残ってる以上、「こいつは養子だったんじゃないか?」って思う余地はない。
怪しいやつは曹叡の子の曹芳みたいに変に書かれるはずだからすぐわかる。
曹芳は養子だよ。但し親は不明。曹彰の系という説もあるけど。
曹丕の実子とされながらも、常に疑問符が付きまとってるのが曹叡。
>>125 曹叡は袁煕の息子でないことは証明されてるんじゃなかったっけ?
時間的に不可能だとか何とかで。
でもこういった不可解な問題の原因になったという点で、
曹家に対する復讐を果たしたのは袁譚でも袁尚でもなく袁煕であったのは面白い。
曹叡の優秀さを考えると曹家の血入ってそうだけどな。
でも母ちゃんも小さい時から神童って言われてたんだっけ。うーん
曹操の養子いるじゃん。何晏てやつがさ
>>128 可晏は連れ子。仮子ってやつ。姓は変わらない。
養子は曹真。
>>129 曹叡にとったら義理の叔父さんか。しかも無敗の名将。
そりゃ信頼するよね。
131 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/17(日) 12:16:45
死んじゃった義理のおじさん思い出してきた…
いい人だったなぁ
曹真は諡号貰ってたっけ。
あんまり詳しくない。
曹真の諡は元侯。魏書・曹真伝にある。
>>133 さすが曹真。
美諡・平諡・悪諡に分類される中の美諡だよ。
1.もと。2.はじめ。3.一。第一。4.かしら。5.おさ。6.君。7.おおきい。
8.よい。9.正嫡。ただしい。10.うつくしい。11.上。12.天。13.気。天地の大徳。14.民。
といった意味があるらしい。
曹休の壮侯も美諡?
うん。
@さかん。 (ア)元気がよい。
(イ)強い。勇ましい。
(ウ)りっぱで大きい。
Aわかもの。30歳。
また、30歳前後の男。
曹休の簡潔なプロフィール;
生没年は?〜228年。字は文烈。祖父は曹操の養祖父の曹騰の甥で呉郡太守兼尚書令の曹鼎らしい。
…となると、曹仁・曹純兄弟と曹洪の血族で、曹鼎は曹洪の叔父に当たるため、曹休とは近縁関係。
つまり曹操の族子で、190年に曹操が挙兵した時、たまたま父が亡くなり未亡人の母を連れて、
駆け付けて謁見し、族父の曹操から「この子冠者はわが家の千里の駒なり」と曹休少年は讃められた。
その後は曹真と共に曹丕と寝食を一緒にして、仲良く成人したらしい。
「千里の駒」っていう誉め方はよく耳にするな。
漢を再興した劉淵が劉曜をそう評価して養子にしたこともあるし。
139 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/19(火) 08:11:51
「愛」が悪諡に含まれててびっくりした。
昔は貪欲で物惜しみをするっていう意味だったそうな。
考えてみれば当然だけど漢字の意味って随分ころころ変わっているんだねぇ。
今は中国でも「好きです」って言うときに「我愛称」っていうぐらいだし
日本で使われてる意味と同じなんだろうけど。
仏教では愛というのは妄執の一つとされるしな。
仏教ではと言うより、もともと仏教用語で性欲とか偏執的な執着心のことだからな。
明治期にLOVEに相当する日本語が無かったんで、愛って語を持ってきただけで。
ということは愛の前立ては当時としてはかなりのドキュソだったのか?
スレ違いスマソ
>>142 直江のやつ?
あれは戒めみたいなものかと思ってるんだが、実際どうだろうね。
例えば古代中国では名前にわざと悪い意味の漢字をつけて災いを避ける風習があったし、
(文醜とか霍去病とか)
それと似たようなところがあるんだろうか。
144 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/20(水) 02:11:30
霍去病は
病を去る だから悪い意味とは言えないのではないか?
細かいことだが
>>142 愛染明王の愛って説もあるから一概にDQNともいえんが。
DQNではないと思うが変わり者ではあるかな。
146 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/20(水) 03:06:53
こんな良スレがあるとは思わなかった。
ある意味今の三戦らしくないスレだ。
147 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/20(水) 07:16:33
曹泰カワイソス(´・ω・)
148 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/20(水) 07:28:02
>>147 曹泰って曹仁の息子だろ。
曹仁・曹洪・曹真・曹休の子供の中で一番知られていないのは曹震だな
曹洪の子供です。
荀イクの親戚か息子かと結婚した曹洪の娘は?
美人で有名だったとかいう
>>150 荀粲と結婚した人でしょ?
早死にして、その1年後に荀粲も亡くなった。
>>152 荀粲は女は顔が第一って言い張ってたけど、妻が死ぬとしょんぼり。
知人が女は顔だと言い張ってたのだから、別の美人を探せ。みたいな事を言ったら、
「確かに絶世の美女ではないけど、私にとっては美人だったのです。」といって
後を追うように死んでしまった。
多分本当に惚れてたんだろうね。このエピソードは好き。
ついで。サンの字義はたしか輝く。美男美女のカップルだったのかもしれない。
>>151 「父は荀攸に及ばない」とか暴言も吐いてるけど
妻の死のエピソードは感動できるよな。
葬列に参加したのは十人ぐらいだったけど著名な人物ばかりだった。
>>153 彼の政治的野心は不明だが荀粲生きてたらほんの少し情勢変わってたかもね。
荀粲は玄談家、夏侯玄の近い人物のようだし。
荀・荀勗の牽制くらいは果たせたかも知れない。でなければ李豊に加担まではいかなくても
なにかしらの助力とか。陳泰と協力程度とか。
妄想でした。
荀といえば、あの人は司馬氏に協力したことで評価を落としているけど
私としては彼の考えも理解してはいるんだな。
父親と曹操の政治的確執を息子がどう思っていたのか考えるとさ。
そりゃ国家を大事にしなきゃいけないのは分かるけど、
荀ケが推挙した司馬懿の息子に荀ケの息子が荷担するというのも面白いと思った。
>>156 あの時点では司馬氏に付く方が賢明な判断だよな。
荀の行動を大勢への迎合と非難するのなら、
曹氏の禅譲に協力した陳羣は何故お咎め無しなのかと。
まあ、司馬氏の場合には「帝の殺害」という決定的な
チョンボをやらかしてしまったから後世の非難も大きかったんだろうね。
あとは片や魏臣としての筋を通した陳泰、
片や司馬氏に付いた荀という逸話が残ってしまったために
必要以上に評価が下がってしまったのもあるんだろうな。
>>156 >荀ケが推挙した司馬懿の息子に荀ケの息子が荷担するというのも面白いと思った。
ちょっと前に能力値スレでも話題が出たけど、魏の文治方面を支えた
清流派名士達は、そのほとんどが荀ケの推挙を受けて出仕した人々だった。
しかし、荀ケに推薦されたにもかかわらずただ一人仕官を拒んだ司馬懿が
結局は魏を滅ぼす原因となったのは面白い。
荀ケは漢朝と運命を共にし、その子の荀は魏朝を滅ぼした司馬氏に荷担した。
陳羣は魏朝において栄達し、その子の陳泰は司馬氏を拒んで曹氏に殉じた。
そして曹氏の下に付くことを渋っていた司馬懿の子孫が魏から天下を奪った。
因果は巡るというか・・・
>>157 曹髦の殺害のせいで曹より司馬の方がよりダーティなイメージがあるよな。
陳羣は何気に肉刑の復活を画策したりエグいところが多いが
郭嘉の不品行を諌めてるから清廉なイメージがある。
彼が叩かれないで司馬昭が叩かれた理由はそれかも。
>>158 そこまで気付かなかった。
ちょっと見直してみると歴史は皮肉だな。
ところで司馬懿は「この100年の間、荀令君に及ぶ者はいない」と荀ケを評価してるよな。
妄想だけど荀はこのことで司馬家に好感を持ったのかもしれない。
おっと、正しくは
「この百数十年間、荀令君に及ぶ賢才はいない」だな。
数十年も間違えてんじゃねえよ私・・・
>>159 司馬懿は荀の事を「荀令君の息子だけのことはある」とも評している。
曹操との意見の食い違いが原因で晩年は不遇であった父親と、
その息子としての自分を高く評価してくれた司馬懿に好意的であっても
不思議は無いと思われ。
>肉刑の復活
これは単に刑罰上の問題ではなく、魏国内の政争に利用されたのでは
(今で言う郵○民営化みたいなもんだなw)という説を見たことがある。
確か鍾ヨウや陳羣が推進派・王朗と誰かが反対派みたいな・・・
>>161 そして結果的に晋の司空を拝命して家の隆盛を保ったから、
忠の面では陳泰と比べると劣る部分はあるのは否めないけど
孝の面では正しい選択をしたといえるな。
>肉刑
なるほど。そういう意味合いもあったのか。
163 :
84:2005/07/29(金) 23:13:40
肉刑自体は古来からあって、漢代に廃止されてる。
肉刑の代用に鞭打ち刑が現れたが、
結局、鞭打ちでは死者が出てしまい、結果的には死刑と同じなので死刑より軽い肉刑を
ってのが後漢の崔寔の建議(だったと思うがうろ覚え)
後漢末になると、おなじみの人口激減問題もあり、死刑数を減らして、少しでも人口を増やたい
という思惑もあったようだ。
後は
>>161の通り。
陳羣の父の陳紀も肉刑賛成論者。三国志には列伝無いけど、仲長統も賛成論者。
曹操も賛成派。孔融は反対派。
仲長統も荀ケに推挙された一人だから、主に頴川閥(陳寔門下?)は肉刑論者が多いようだ。
肉刑論は魏になっても持ち上がってるけど、決着は付かなかったんだっけ?
>>163 曹操の時代に鍾繇が意見を述べたら他の論者(不詳)の反対にあって沙汰やみ。
曹丕の時代に「鍾繇が肉刑を復活したがってるけど、よく議論してくれ」
みたいな事を詔で出したけど結果が出る前に戦が重なって沙汰やみ。
明帝の時代に鍾繇が上奏したけど王朗の反駁に参加者が賛成。
結局、「呉・蜀が平定されてないから。」と言う理由で沙汰やみ。
曹丕の曹叡への遺命、曹真・曹休・司馬懿・陳羣のはずなのに、
晋書だと曹真・司馬懿・陳羣の三人になっちゃってる。なんで?
曹休はどこで落っこちてしまったの?
>>165 晋書の司馬懿に関する記述(宣帝紀)はあてにならんぞ。捏造が多々見られる。
子丹がじだんだ
どっかのサイトで、曹真は大月氏を叩いて朝貢させたって聞いた。
そこによると、司馬懿は朝鮮落としたくらいしか、ほとんど軍歴・軍功ないらしいけど・・・
それが事実なら、曹真と司馬懿は少なくとも軍事に関してはライバルどころじゃないんじゃないでしょうか?
司馬懿はたくさん軍功あるじゃん
170 :
無名武将@お腹せっぷく:
age