一応総合考察アリってことにしとくのがいいかも。
>>930 同じ後期スレだが考察の盛り上がり方が羨ましいと思った。
では、無双の話も考察の話もし易い雰囲気の維持という事で、スレタイの無双は継続か?
>>928 呉関係も、話を振ってくれれば、できるだけ参加しようとは思うんだけどね。
>>932 悩むところだな…無双のスレタイ見て敬遠する住人がいないかという危惧が残る
かといっていきなり変えても
>>924の言ってるように不都合がある
どうしたものかな
>>928 西陵の戦い(と晋の征呉戦)に関していえば、無双ではなくて三國志の方になるけど、
最近になって登場する将官を根こそぎ洗い出して検証するついでに能力値も設ける
事をやったりした。
もうあの時代になると、呉にまともな司令官なんて皆無に近いのが実によくわかる。
特に279〜280年の戦役なんか絶望的。
陸抗がいなければ滅亡が早まったか歩闡の叛乱で領土が半減したのはやっぱり
疑いないんだけど、呉の体制にも問題あったりといろいろみえてきて面白い。
>西陵の戦い(と晋の征呉戦)に関していえば、無双ではなくて三國志の方になるけど、
>最近になって登場する将官を根こそぎ洗い出して検証するついでに能力値も設ける
>事をやったりした。
こういう事も今後このスレで進めていきたいな。
西陵の話題なら上にログ残ってるし。
呉も蜀も、同時に複数の戦略正面に向かって作戦を為すという事が無ければ、
優秀な司令官は一人でも、取り敢えずは大丈夫だな。
問題は、司令官の作戦を十分に理解できる部下指揮官がいるか、という事だろう。
時には司令官の誤判断を跳ね除け、自身の判断で最良の行動を選択できるような。
>>936 末期の呉は特にそれを顕著に認識させてくれる。
歩闡の叛乱では陸抗という首脳部の存在で辛うじて切り抜けられたが、
他の将官の中には優れた戦略眼と洞察力を以って作戦を立てられる人物も、
柔軟な用兵を駆使した戦術レベルの戦闘を展開できる人物も殆どいない。
279年に開始された晋の征呉戦では、丹楊太守・沈瑩が指摘している様に将官の
質が陸抗の時代よりも更に低下し、最も不幸な事に呉(というよりも孫皓)の方針に
よるせいか長江のラインを統轄して組織的な運用を行える総司令官がいない。
前者は本営を基点として綿密に点と線が機能していたのに対し、後者は点在する
点が個別に抵抗していたに過ぎない。
もちろん物量の差もモノをいってはいるけど、投降した将官が多くてあまりにも
あっけない。
やっぱり陸抗はこういう未来を予想していたのかな。
と、訂正。
※無双は演義を基準に作成しております。
はいらないかもしれんね。ここでは正史・演義色々な無双の案が投下されてるし。
入れとくんにしても
※従来の三国無双は演義基準ですが、ここで行われてる後期無双案は正史・演義・両方を混ぜるなど様々な案が投下されています。
みたいな説明だと、始めて来た人がわかりやすいかも。
【】【】には何を?
【盛者】【必衰】
はずっと続けたい…。
きぼんぬ!
>>939 そういう注は却ってややこしい気がする。
>様々な案が投下されています
ということは、要するに何でもアリってことだし、
それなら別に書いておかなくても不自由はないんじゃない?
きぼんぬ!きぼんぬ!
>>937 晋の征呉戦争における呉側の問題点は、受動的に戦いすぎていると言う事だと個人的には思う。
王濬を主攻とした、6軍団による大規模な外線作戦を晋軍は展開し、その戦力は20余万。
これだけの戦力差では、要衝を抑えて撤退を待つような戦略では勝利は不可能だろう。
呉軍がやるべきだった事は、有力な一部に西陵や楽郷などで敵に対する遅滞行動をさせつつ、
主たる機動戦力を以って敵軍を各個に撃破する内戦作戦を展開すべきであった。
その際に第一の目標とすべきは、最も牽制・抑留し難い敵主力である。
しかしながら、敵の侵攻が非常に大規模だった事や、呉側の機動戦力が不足していた事を考えると、
それでも勝利は不可能に近いだろう。
呉は晋軍の大侵攻を予期した人物がいるのに、その対応を怠った。
これは蜀にも通じる事だが、軍隊が、国家が一つの組織として纏まっていない事は非常に悲しい。
こういった状態では容易に分断され、各個撃破されてしまう。
>>942 盛者必衰に近い言葉と言うと、栄枯盛衰や生々流転などがあるな。
>>944 最近調子に乗りすぎなんじゃないか?立てるやつが決めればいいじゃない
なんかウザいんですけど
荒れ始めると困るのでよそでやってくれ
>呉は晋軍の大侵攻を予期した人物がいるのに、その対応を怠った。
このあたり中央の腐敗を顕示しているな
末期呉では忌み名を避けて改名というのが流行っていたんだが
滅亡する国家はやたら形式主義にこだわり始めるという中国の国家の御多分に漏れない例だ
テンプレは
>>938の、無双は演義基準、という一文を除いたものとし、
スレタイの【】内はスレ立てする人物の裁量に任せる。
以上の内容で、
>>960が立てるという事で宜しいか?
年表を正史版にして、間違ってる部分を修正したものを以下に
238年 襄平の戦い 魏軍対燕軍
244年 興勢の役 魏軍対蜀軍
248年 羌族の乱 魏軍対羌軍
249年 洛陽城の乱 司馬懿軍対曹爽軍
249年 麹山の戦い 魏軍対蜀軍
250年 南郡侵攻戦 魏軍対呉軍
251年 王淩の乱 魏軍対王淩軍
司馬懿死亡
252年 東興の戦い 魏軍対呉軍
253年 合肥新城の戦い 魏軍対呉軍
253年 襄武包囲戦 魏軍対蜀軍
曹芳廃される
255年 毌丘倹の乱 魏軍対毌丘倹軍
255年 狄道城包囲戦 魏軍対蜀軍
256年 祁山の戦い 魏軍対蜀軍
257年 諸葛誕の乱 魏軍対連合軍
257年 沈嶺攻防戦 魏軍対蜀軍
258年 孫綝誅殺戦 孫休軍対孫綝軍
260年 高貴郷公の変 曹髦軍対司馬昭軍
曹髦殺害される
262年 洮陽(侯和)の戦い 魏軍対蜀軍
263年 漢中の戦い(傅僉が死に姜維が降伏するまで) 魏軍対蜀軍
263年 成都攻略戦(ケ艾が別行動で蜀を攻略するまで) 魏軍対蜀軍
蜀滅亡
264年 二士の乱 司馬昭軍対鐘会軍対ケ艾軍
272年 西陵の戦い 呉軍対晋軍
280年 呉平定戦 呉軍対晋軍
三国平定
お疲れさまです。
>>952 間違いじゃなくて、
>>480は純粋な演義準拠の無双風だと思うが・・・
このスレっていつから演義禁止の風が流れ始めたの?
>>954 自分は演義は禁止という考えで年表を修正したわけではない。
演義の年表だけよりも史実の年表もあった方が良いと思っただけだから。
それと、間違いと言ったのは、司馬懿のクーデターや東興の戦いの時期がずれてる事。
それとも、演義では
>>480の年号であってて、自分が間違えたのか?
>>955 別に嫌いなわけじゃないんだが隠れ麋竺オタはたまに突っ走りすぎてる感がある。
物事をはっきり決めよう、決めようと急いで強引になってたりもする。
後期無双の内容を削って次スレを立てようとしたり、放っておくと危なっかしくてたまらん。
実際、部下部隊指揮官が戦術・戦略的判断力を有しているか否かは、切実な問題である。
ナポレオン戦争で言えば、イエナ会戦におけるベルナドット、バウツェンの戦闘におけるネー、
ドレスデン会戦において追撃を担当した各軍団長、ワーテルローにおけるグルーシーなどは、
ナポレオンの作戦に対する理解が不十分であった為、勝利の拡大に貢献できなかったり、敗北の要因となったりした。
司令官は戦場の全てを把握しているわけではなく、作戦計画も戦争の摩擦によって種々の乱れが生じる。
だから部下指揮官は、直面する事態に応じ、作戦計画が狂わぬよう行動を選択しなければならない。
蜀の廖化などは、部下部隊の直接指揮に長け、実直に命令を遂行したが、
こういった点では不明があったと言えよう。
晋の征呉戦争における各指揮官も、この判断力に欠けていた為、明確な司令官の不在とあいまって、
適切な行動が採れず各個撃破されてしまった。
優れた司令官と、その作戦をしっかり理解できる部下指揮官の二つが揃ってこそ、戦争を乗り切ることが出来る。
スレの流れが遅くなったので960でなくても間に合いそうだから、【】の中を議論できる余裕があると思う。
何か良い言葉は無いかな?
>>958 【中権】【後勁】、【一将】【万骨】、【屍山】【血河】。
とりあえず思いついたものを三つほど。
【最も暗き時は】【最も暁に近き時なり】
は長すぎるか。
>>960 似たようなニュアンスで【黄昏】【黎明】とか。
三国の終焉、そして新時代の幕開けという意味で。
>>961 良いと思う。
古い時代の終わりと新しい時代の始まりを表すというのも、このスレに似つかわしい。
950を越えたスレはどうも落ち着かない。そろそろスレ立て挑戦してみても良いかな?
少し関係ない話だが、姜維の北伐に関する今までの議論・考察のまとめとして、
247年から続く姜維戦いの歴史を、草稿の段階ではあるがまとめてみた。
なるべく簡素に、且つ北伐がよく分かるようにまとめてみたつもりだが、
3600字以上になってしまった上、それほど分かりやすくも無い。
文章書きはなかなか難しい。
機会があったら、新たな姜維スレかこのスレの次スレに投下しようと思う。
>>963 姜維スレでは次スレは蜀将討議スレッド13だったはず
できれば蜀スレに投下していただけないだろうか?
>>964 いや、あのスレは変な姜維アンチが涌いたりするから、このスレでいいと思う。
>>963 あまりに突飛な自論が目に付くような内容で無い限り、ここの投下でかまわんと思う。
ただしけっこう長そうなんで推敲してね。
>>964 分量が多いから、できれば姜維単独スレが望ましいと思ってるんだよね。
蜀将スレで姜維の北伐を延々解説するのも少し気がひける。
記述4割、推測・妄想6割といった内容だし。
>>965 そうではなく、ここは無双を含むスレじゃないのか?
蜀考察スレは本スレが望ましいと思う
>>966 では単独スレでいきますか
>>965 そこまで突飛かどうかは判断つかないが、自論満載なのは間違いないからなあ。
本当に話題が無い時に、って事にするよ。
そろそろ残り30レスを切りそうだし、
>>961のでスレ立て挑戦してみるよ。
>>966 できれば姜維単独スレへの投下をお願いしたい。
正直な話、姜維ファンの視点からの論考を延々と投下されるのは
魏オタの自分にとっては苦痛だ。
「三国志後期の主役は姜維」という見方を比較的中立なこのスレにまで
持ち込んで欲しくない。
多分無理とは思っていたが、スレ立ては失敗した。誰か別の人頼む
>>969 了解。いつか姜維スレが立った時、そこに投下する事にするよ。
>>970 こちらの我儘な言い分を聞き入れてくれてありがとう。
スレの流れを見ていると姜維ファンの方が多そうだから
反発されるかと覚悟してたんだけどね。
代わりにスレ立て挑戦してくるよ。
972 :
971:2006/01/28(土) 00:23:48
>>971 いや、寧ろ我儘はこっちの方だからね。それぐらいは当然だと思う。
俺は姜維オタだから、ネタ投下となると姜維のものになりがちだけど、
本来このスレは姜維の話で埋まるべきスレではないから。
ちとずれてるので見にくいかもしれないが、各地での武力衝突
やはり雍州方面が多いね。揚州・荊州は戦役としてはダブってたりするし
・雍州方面 ・荊州方面 ・揚州方面
240年 250年 241年
雍州威力偵察 南郡侵攻 芍陂の戦い
244年 252年 252年
興勢の役 東興の役 東興の役
247年−257,262年 268年 253年
姜維の出兵(大小併せ10回) 呉の侵攻(施績、丁奉他) 合肥新城包囲戦
263年 272年 255年
蜀攻略 西陵戦役 毋丘倹の乱
27X年 孫峻の出兵
計13回 陳尚、潘景の侵攻 257年
西陵の戦闘(対張政) 諸葛誕の乱
279年 268年
呉平定 呉の侵攻
279年
計7回 呉平定
計8回
次スレも立ち、このスレも1000に近付いたところだが、少し話題を。
今回は少し趣向を変えて、毌丘倹の乱について
毌丘倹は寿春で反乱を起こすと、北西、項の地まで進出しそこを固めた。
これに対し魏軍は、各地の軍勢を求心的に機動させ、戦略的包囲の態勢をしこうとした。
本来ならば毌丘倹はここで、敵の包囲環が圧縮され、完全な包囲態勢が敷かれる前に、
内線作戦によって包囲部隊の各個撃破を試みるべきであった。
恐らく、これが姜維であればそうしただろう。
だが毌丘倹のやった事はただ項を固めるのみで、行おうとした事と言えば、
南頓の物資を奪おうとした事くらいしかなかった。
その間に包囲環はどんどん圧縮され、結局、大した抵抗も見せる事が出来ないまま敗北する事となった。
毌丘倹は愚将でも無ければ凡将でもない。
それなのにこの体たらくは何故か?と考えたが、何の事は無い。
原因は、王基の言葉に集約される。
項に達した時点で、毌丘倹は淮南の民心はおろか、麾下の将兵の統率すらおぼつかなかった。
つまるところ、反乱のタイミングが早すぎただけ。もっと部下の心を掌握してから起こすべきであった。
976 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/29(日) 12:12:18
毋丘倹・諸葛誕・呉・蜀・燕・羌・・・。
晋と敵対する側が全部バラバラな行動をとってるんだよね。
そして、各個撃破されてる。
せめて、毋丘倹・諸葛誕・呉がしっかり連携していれば
あるいは・・・・・。
国家間の連携というのは、あまり上手くいかないものだからね。
諸葛誕の場合は焦りすぎた感がある。
兵力の増強や城の建築を要求したりと、少々露骨過ぎた。
反乱直後に呉や蜀も行動を起こしたが、呉は行動が緩慢、
蜀は比較的迅速であったが、ケ艾の働きで封じ込まれてしまった。
この時の諸葛誕も、前回の毋丘倹同様、戦いの主導権を握ろうとはしなかった。
文欽らが到着した当初、魏側は前衛の王基がようやく包囲を開始したところであったのに、
文欽らはこれを攻撃しようとせず、諸葛誕も撃って出ようとしなかった。
結局大軍の集結をさせてしまい、堅固な包囲をしかれてしまったのは残念だ。
毋丘倹の場合、文欽の手紙にあるように郭淮が何らかの行動を起こせていたら面白かったかもしれない。
諸葛誕は毋丘倹からの誘いも断ってるし、単にビビって反乱しただけなのかな?
反乱の事だけでは、毋丘倹の能力がいまいち計り難いので、
高句驪遠征についてちょっと考えてみたが、やっぱり分からないね。
彼は鴨緑江のほとりで位宮を打ち破ると、そのまま鴨緑江を遡るようにして追撃。
丸都山麓にある高句驪の都を陥れたが、位宮が逃げ、(恐らく)冬となり、
これ以上の作戦継続に利益が無いと判断して軍を引き揚げ帰還。作戦を翌年に持ち越した。
翌年、位宮が沃沮にいるという情報を掴むと、高句驪を越え更に東に兵を進め、
沃沮の邑落を落とす一方位宮を探し、これを発見すると王頎に部隊を預けてこれを追わせ、自身は沃沮攻略を続行した。
こんな感じか。人並み以上である事は分かるが、はっきり断じる事が出来るほどの記述じゃないな。
毋丘倹ファンが彼をどう評価しているのか気になるところだ。
この高句驪遠征、両軍の面子は少ないものの、ステージ案はなんとか作れそうだな。
やっぱり過疎ってしまうな、このスレはorz
何か盛り上がる話題は無いのだろうか?