1 :
無名武将@お腹せっぷく:
なぜ上手く流れに乗れなかったのかくぁwsrftgyふじこl
2 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/16(土) 19:08:07
2げと
3 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/16(土) 19:13:50
ごめんなさい
4 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/18(月) 00:40:30
あげてくれよう
5 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/18(月) 01:17:15
5班
6 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/18(月) 10:45:37
マジレスすると家康に見捨てられ遠州・高天神城を勝頼に明け渡し、
そのまま武田の武将となった男。当時24.5歳。
その際家康から派遣された目付の大河内政局を投獄した。
後に家康が高天神城を奪還すると彼は北条氏政を頼ったが、
家康に執拗に引き渡しを迫られ、彼は氏政に処刑されその首級を
家康に送った。投獄された政局の消息は不明。
7 :
織田信忠:2005/04/19(火) 23:18:31
わしがageようぞ!
8 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/20(水) 21:45:59
よし上げてくれようず
9 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/23(土) 21:14:00
>6
小田原開城後に引き渡されたんでしょ?
>>9 え…そんな後なの?
てっきり、武田氏滅亡直後かと思たけど。
長忠の庶流にあたるのが源信斎。
とりあえず津本陽の小説を元にすると、
家康と源信斎はともに奥山休賀斎の弟子にあたるが、
長忠の背信に家康が激怒していたため、
源信斎は日本国内にいられなくなったそうな。
長忠をクグったら、
天正18年(1590年)夏7月に元・高天神城の城主小笠原長忠が、
執拗の鬼と化した家康によって氏政に殺された。(正確には切腹)
…と『浜松御在城記』にあった。年齢は40前後かな。
大河内政局も念のためにクグってみた。
天正9年(1581年)春3月に高天神城の奪還に成功した家康が、
武田軍の捕虜となり開放された家臣の大河内政局と9年ぶりに
対面した。武田にも頑健に屈服しなかった頑固武士の政局は、
既に両足は腐敗し歩行困難な状態らしく、後に尾張・津島の温泉で療養し、
晩年には剃髪して皆空入道と称したらしい。以降は不詳…。
上記を見ると山岡荘八の小説とは随分違うなと感じたな。
山岡小説では家康と対面後に息を引き取った書き方してるからな。
14 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/23(土) 23:31:01
大河内は救出後、3日で死亡みたいな記述見たけどな。
山岡小説通り源三郎政局=華陽院の甥というふうな記述とか載ってた。
15 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/23(土) 23:33:40
山岡小説「利に聡く、義に浅い」
武田との正面衝突避けて見殺しにしてて
そりゃないんでない?みたいな。
>>14 華陽院って家康の母方の祖母だっけ?それなら家康の従兄に当たるね。
>>15 山岡小説は吉川小説と同じく美化してるところもあるから…。
他には新田次郎の『武田勝頼』では家康に見捨てられ勝頼に降伏。
また家康のウィークポイントを握ってるとも記されたな。
あともう一人もいたが名は忘れた。確か牛??匂之助とかだったけど。
訂正:
>華陽院って家康の母方の祖母だっけ?それなら家康の従兄に当たるね。
↓ オジ
華陽院って家康の母方の祖母だっけ?それなら家康の従父に当たるね。
…の間違い。すまん!
18 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/24(日) 11:20:47
思い出した。匂坂牛之助だった。
彼については『諸家系図簒』に詳しく記されている。
他には高天神城史の学者である藤田清五郎氏の
『高天神城の跡を訪ねて』によると
「匂坂牛之助が家康に極刑され晒しものにされたのは、
青田山烽火の合図が擬装に終焉された密事を知り暴露されるのを
畏れたために口封じされたらしい」…と。
また学者の高柳光寿氏の『長篠之戦』の「勝頼高天神城を奪す」では、
「牛之助は家康の将来に禍を為す男である。そのために処分したらしい」
…とある。
最後に既出の新田次郎の『武田勝頼』では小笠原長忠は
>>10の通りに、
勝頼自決後に北条氏政の下に亡命したが、執拗の鬼となった家康が、
氏政に引き渡しか、極刑を要求した。天正十年春4月に長忠は、氏政に
鎌倉のある寺の広場で斬られた、その首級を家康に渡したらしい。
19 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/24(日) 13:26:01
姉川にもちゃんと参戦したのになぁ
あのデブうざいね
20 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/24(日) 13:41:26
googleで調べたら頼山陽の日本外史ってのだと、開城後に首を撥ねられたってなってるね
生没年不明だから本当のことは分からないんだろうね
>>20 それは遠州・高天神城の開城後の出来事のこと?
勝頼がそんなことしたかなあ〜??
江戸時代の学者だと
徳川に阿ってるんじゃないかと
23 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/24(日) 16:53:18
>>20 日本外史は軍記物なども参考にしているから歴史的事実の正確度がやや落ちる。
むしろ、親友でもあった大塩平八郎や幕末の勤皇派志士の思想・行動に影響を与えたという点での価値が大きい。
24 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/24(日) 17:09:42
姉川七本槍(渡辺金太夫照・林平六・吉原又兵衛・伊達与兵衛定鎮
中山是非之助・伏木久内・門奈左近右衛門)は高天神衆。
武田家家臣の横田甚五郎が高天神城の城主だったね。
彼は、信州・砥石城戦略の総大将の横田備中守の系統かな?
余談を重ねると横田備中守は攻城の途中で戦死した。
甲斐の横田氏をクグったらこんなのが表示された。
横田甚五郎(1555−1635年):
遠江高天神城の城将の一人。
落城の際脱出して甲斐・甲府に戻る。
横田高松 (?−1550年) :
官職は備中守。
武田24将の一人。
近江源氏の佐々木一門らしい。武田信虎・信玄に仕える。
天文19年の信州・砥石城の戦攻での『砥石崩れ』で戦死した。
横田康景(1525−1575年):
通称・十郎兵衛。武田30騎の侍大将格。、
原美濃守虎胤の庶長子だが、横田備中守高松の婿養子になった。
天正5年の三河・長篠の合戦で戦死を遂げた。
立ち上がれ小笠原この世のために
横田甚五郎って意外と長生きだな。
>>28 家康に仕えて、九千石の旗本まで出世してるよ。
甚五郎尹松の子孫は、旗本最高禄の名家として存続した。
横田甚五郎のことを調べてみた。そうしたらこんな記述が表示された。
1581年春3月22日の未明に、若い侍大将格の徒党が逃れようとしていた。
武田方の武将の横田甚五郎尹松らだった。家康はこれを追わせず黙認した。
家康は横田甚五郎が開城を主張していたことを知っており、
この戦の様子を勝頼に知らせる役割を果たすことを期待していた。
横田甚五郎は高天神城から北上し、甲州の古府中に戻って、高天神上攻防の顛末を
勝頼に報告した。勝頼は涙を流しながら横田甚五郎ら11名に恩賞を授けたという。
翌23日の首実検で城将の岡部丹波守真幸の首級に家康は合掌したらしい。
岡部丹波守真幸は家康が今川の家臣であった時期の戦友だったという。
今川義元の戦死後、岡部真幸は武田方に、家康は織田方に従いていた。
…とある。甚五郎の名が『尹松』とあるのを見ると横田備中守の外孫の可能性があるかも…。
33 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/24(日) 22:36:47
岡部真幸=岡部元信?
34 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/24(日) 22:43:26
真幸=元信=元綱=長教=与行です。
35 :
33:2005/04/24(日) 22:45:14
>>32 では、
横田備中守高松=十郎兵衛康景―甚五郎尹松
ということで…。
横田備中守は六角氏か京極氏の遠縁らしいけど、娘が結構いたようで、
原美濃守虎胤の庶長子の十郎兵衛を婿養子にしてその間に生まれたのが、
甚五郎尹松でいいのかな…?
http://www.zephyr.dti.ne.jp/~bushi/siseki/takatenjin.htm 天正2年6月武田勝頼来政包囲、28日激戦酣となった。城主小笠原長忠遂に
叶わず武田方に降り城兵東西に離散退去したが軍監大河内源三郎政局独り
留まり勝頼の命に服さず勝頼怒って政局を幽閉した。武田方城番横田尹松政局の
義に感じ密かに厚く持て成した。
天正9年3月徳川家康城奪還23日入城し、城南検視の際牢内の政局を救出した。
足掛8ヶ年、節を全うしたが歩行困難であった。家康過分の恩賞を与え労を
ねぎらい津島の温泉にて療養せしめた。政局無為にして在牢是武士道の
穢れと思い剃髪して皆空と称した。後年家康に召されて長久手に戦い討死した。
(看板資料より)
これが事実なら凄い奴だぜ大河内源政局。
播磨屋さん参照の系図
小笠原貞朝┬長高─春茂┬氏興┬長忠(高天神城主)
│ │ └長治(源信斎。真新陰流興す)
│ ├綱氏
│ ├清広─義時(紀伊徳川家家臣)
│ └義頼─義信(紀伊徳川家家臣)
│
└長棟─長時─貞慶─秀政┬忠脩
└忠政(豊前小倉藩主)
>>37 もし、それが事実なら政局も凄いけど、
横田甚五郎にこの行為が後に家康に優遇されたのも、
わかる気がする。高天神城脱出で見逃したのも納得できる。
…ところで大河内氏は後裔がいるの?源三郎政局の子孫が…。