1 :
無名武将@お腹せっぷく:
議論しまくろうぜ
>>1 致命的なミスを最後にしただけ
よって戦下手とはいえない
終了
陸ソンが相手じゃ仕方ない。
少なくとも馬謖よりゃあ、よっぽど戦の経験を積んでいる
戦場でも常に鎧をまとい、自ら剣を取って
兵を率い戦っていた
まあ戦術を練るのが上手な武将が相手だと
負けてしまうわけだが、仕方が無い
やくざの親分だから、喧嘩自体は強いと見た。
並以上だと思うし、関羽・張飛がいたとはいえ突撃馬鹿の二人を良く御していた。
入蜀前後は百戦錬磨。
その劉備に勝った陸遜が凄いのであって、戦下手ではなし。
夏侯惇には勝ったが曹仁には負けた。これいかに
やつは詐欺師としては超一流なのは確かだ
曹仁は城内は水浸し、城は半壊した状態で関羽の部隊を防ぎ援軍が来るまで耐え抜いた名将
曹仁が居なければ荊州は魏の支配下じゃなかったってほどの男に負けたからと言って劉備の評価が下がるわけではない
>>6 >入蜀前後は百戦錬磨。
それは法正のお陰もあるんじゃないだろうか。
戦下手と言うほどでもないと思うが、そんなに戦上手でもなかっただろうな。
かなりの経験を積んでいたことは確かだが、経験のわりには……
陸遜伝の記述などを読むかぎり、夷陵の戦いは一進一退のいい勝負だし、陸遜がいなければ呉軍は劉備の策に引っ掛かっていてもおかしくなかった。
この戦いの経過だけ見ても、別に劉備は戦が下手なようには見えない。
11 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 18:52:00
ジーコよりは上
12 :
10:2005/03/30(水) 18:54:40
さらに、蜀軍4万対呉軍5万だったにもかかわらず、押し気味に戦いを進めていたことも忘れてはならない。
13 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 18:59:35
士気が高いんだから当たり前だろ
守備側のほうが士気が高いのはおいといて
呉軍の士気も高かったんだがな。
最後のポカ以外、敗戦の見極めは1番優れてたんだろうな。
戦略において
曹操>劉備
っていうのは正しい?
戦略はそう
戦術は場合による
戦略っつうか一個人の技能としては
生き残り術、のしあがり術、処世術と
曹操のほうが圧倒的に優れている
劉備は要領が悪すぎ
劉備の武器は意志と仁徳
ただ運が悪かったら、どっかで戦死して
曹操に敗れた諸侯程度と同じ扱いだったかもしれない
ストラテジー≠タクティクス
まあ、曹操・陸遜は別格だからな。
なぜそんな陸遜の評価高いの?
そう言い切れるかなぁ?
朝廷に祖父のコネがあって、最初からそれなりの力を有していた曹操と、
何もないに等しい状態たからスタートした劉備。
立場が逆なら結果もほぼ逆になってたような気がする。
荀イクあたりも劉備になら曹操同様に仕えていただろう。
いや、曹操は確かになかなかのやり手だと思うよ
荀ケは漢室の忠臣とはいえ
劉備には仕えないかも…と思ってみる
曹操がゼロの状態からだったらどうなってただろうか
劉備のように強くないから一般人のままで終わっていたかも。
頭いいし、最低でも役人ぐらいにはなれたかも
平民の曹操・・・想像出来ないなあ・・・
案外何も出来ずに病気で早死にしてるかもな。
反対に貴族の劉備は、うまく世渡りして一生遊んで暮らしそう。
逆だったら両方ともその辺で死んでそうだ。
劉備は人を引き付ける力があるから、最低でもそれなりには名を上げると思う。
能力そのままで平民と仮定した場合の曹操はもの凄く優秀な魏延みたいな奴に風流が追加された感じになると思う。
劉備は満たされた状態だと何も出来ない気がするなあ。
ハングリー精神が無いと、恵まれた状態に甘んじる気がする。
盧植塾時代の放蕩野郎が続くかと。
劉禅だな。
>>30 チビだから龐統みたいに容姿で冷遇されて放浪する可能性も
34 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184/04/02(土) 00:29:56
劉備が曹操に勝った漢中の戦いをどう思う?
劉備が下手だったのは、戦の始め方と
戦の終わり方でしょ。
兵の展開、将の配置うんぬんの話は、水掛論で終始するだけ。
劉備好きは得手というし、劉備嫌いは不得手という。
「劉備は本当に戦下手か?」≒「あなたは劉備が好きですか?」
劉備が貴族だった場合、関羽と張飛には出会えんのでは?
てか漢中戦はほぼ法正の策のおかげじゃん。策の通りに戦えばそりゃ勝てるんじゃない?策が良ければ
38 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184/04/02(土) 11:22:01
劉備は戦は下手ではあるが……
床じょうず
はい、つまらん
40 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184/04/02(土) 11:29:31
>>37 実際兵を統率するのは劉備
策がすべてなら指揮官なんていらない
>>40 漢中戦の劉備は兵を統率するというよりも将を統率する感じでは。
韓信のことばだな
あれって史記にも出てたことばだよね?
策が良ければ勝てるわけではないよ。
劉備という総司令官がいて、法正という参謀がいて、黄忠や張飛といった前線指揮官がいて、それで勝てたのが漢中戦。
誰でも同じなんてことはない。
実際、曹操本隊との戦いは劉備自らが指揮を取っている。
下手じゃないだろ。でFA。
劉備は数百人規模の戦なら夏侯淵より強かったような
>>46 ありえない。色んな勢力から客将として前線を任されていることからも、
部隊長としてある程度有能だったのは確かだろうが、名将レベルではない。
47の言う名将レベルってのは誰が満たしてるのかね?
カコウエンってそんなに名将か?
叩き上げで鍛えられただけって気もするが・・・
淵が名将じゃないとすると魏の名将なんてほとんどいないぜ
51 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/03(日) 15:50:10
じゃ淵を破った劉備は名将っつうことになるなぁ
52 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/03(日) 15:50:54
まあ淵が得意なのは奇襲とかそっち系だから・・・というフォローも
>>44 曹操本隊との戦といっても、
戦わずに要害に立て篭もって攻撃を仕掛けなかっただけだし、
そんなに評価できるもんでもないと思うが。
55 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/03(日) 16:13:27
でも曹操の兵はだいぶ死者がでたみたいだから反撃するけど自分からは撃って出ようとしなかったってことじゃないかな
淵討ち取ったのは機動急襲をメインにしてた淵に拠点防御させた曹操の明らかなミスだろ
>>56 別に誰のミスでもないよ。
強いていえば法正が凄かった。それだけ。
>>54 討って出るよりそっちの方が良いと判断したからだろ
現に曹操軍の被害は大きいし、一年も経たずに撤退したじゃないか
味方の被害を抑えて収めた勝利を評価できなかったら、
いったいどんな勝利が評価できるんだ?
>>58 防衛側は攻撃側よりも楽であり、蜀という要害に篭るならなおさら。
それに曹操軍の被害は日に日に大きくなった、と言っても
将官クラスが戦死した訳でもないし、そんなに大したもんでもないだろう。
劉備が素晴らしい手腕を発揮した戦いか?といえばそうでもないと思うが。
素晴らしい手腕を発揮した戦いだと思うよ
と言うのも漢中攻防戦ってやたら長いでしょ
攻める側の曹操もそうだけど守備側もよく離反者を出さないで頑張れたよね
リュウビじゃなくて、法正が凄いとかってさ、
それはある程度曹操にも言えることだろ。
>>60 別にそんなに長くはないと思うよ。
劉備が出陣して陽平関に駐屯したのが218年春で、
曹操が長安に着いたのが同年の9月、
劉備が陽平関から出陣して夏候淵と戦ったのが219年春、
曹操が陽平に出陣したのが同年の3月で、引き上げたのが5月。
実際には一年ちょっと、曹操と劉備が対陣したのは2ヶ月位しかない。
63 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/03(日) 23:15:59
劉備と曹操が漢中で戦ったとき曹操の軍って数十万だっけ?
64 :
62:黄天当立184年,2005/04/03(日) 23:16:58
>劉備が出陣して陽平関に駐屯したのが218年春
→劉備が出陣して陽平関に駐屯したのが218年
に訂正。
呉蘭・雷同が敗れたのが一月だから、たぶん同じ月だとは思うが、
詳しくは分らないので…。
劉備はある程度戦上手だとは思うけど、淵や曹仁、陸遜などの名将レベルではないと思う。
配下の提案をよく用いたりしたし。その辺は名将と言うよりも名君に近いような・・・。
まぁ夷陵では全然だったけど
夷陵では陸遜がいなきゃ劉備が勝ってたろうけどな
少なくとも荊州のほとんどは蜀の傘下に入ってた
さすがに呉の本拠地まで攻め入るのは不可能だろうけどな
>>59 だから戦は勝てば良いワケだろ
この戦いを以って劉備が曹操より上だとか、んな阿呆なことを言うつもりはない
戦略的目標を達成させた総司令官なのに、(しかも実際に兵を指揮して)
何で評価が出来ないのか
劉備が名将だとは言わんが、孫子では、「真の名将に目立った功績はない」とかって言ってる
>>58は「敵軍を撃破したor計略を用いた」とか、そういう目立つ事績ばかりを評価してないか?
68 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/04(月) 04:02:03
劉備って荊州に入ってから長坂と夷陵以外負け無しなんだね
>>66 そんなことないだろ。陸遜ほどの大勝は望めなかっただろうが、朱然でも勝てた。
当時の呉は呂蒙を失ったとはいえ最盛期に近く、名将を欠いた蜀に勝てる相手じゃなかった。
劉備が火計に遭う直前におとり作戦思いついていた
それを実行していたらもしかするともしかするかもしれない
劉備たん「私のジョショが曹操に奪われた!」
>>69 朱然も陸遜の打って出ない姿勢に不満募らせてなかったっけ?
あれは韓当辺りだったか・・・
でも500里の防御無視の長陣を布いたぐらいだからな・・・
曹ヒ程度に馬鹿にされていたし。
防御無視ってよりは劉備は決戦場所はもう少し先だと考えて移動中だったんだろ
韓当は、夷陵に参加した面子の中では珍しく不満を言わなかった一人(のはず)
が、朱然でも蜀に勝てたというのは言い過ぎ
確かに彼には決断力も実行力もある
しかし朱然は家柄のことで周泰を馬鹿にした経歴がある
そもそも器量の点で陸遜には及ばない
そんな彼が、鼻息の荒い徐盛や潘璋を統御しきれるかというのは甚だ疑問
陸遜伝を読むかぎり、
陸遜がいなければ、呉軍は劉備のおとりの策に引っ掛かって大敗していたと思われ。
76 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/04(月) 13:15:40
夷陵で勝利しても、荊州取り返すってやっぱ無謀じゃね?
>>74 完全に反対するわけではないが、朱然は呂蒙の遺言で後任とされた人物。
諸将を統御するという意味では当時は陸遜よりふさわしい人材だったはず。
まあ何が言いたいかというと、ガチでぶつかっても大敗はしなかっただろうってこと。
陸遜の戦術は特別だから、これをもって劉備を戦下手とする曹丕の発言はおかしい。
逆に言えば呉の諸将が普通に戦っても普通の戦いになったんじゃないかと思う。
多分劉備は以前の通り呉と荊州を分け合う程度で妥協したと思う
それ以上に欲張っても蜀の国力考えると統治が厳しいし
ただ劉備が勝っちゃうと今度南蛮反逆がないから蜀の国力は史実よりまだまだ余裕があるんだろうな
その状況で諸葛亮プランニングの北伐があったら面白い
陸遜の火計は本当に歴史を変えた分岐点だな
>>77 曹丕が劉備の事を戦下手と評した理由は陣営の築き方だから、
陸遜の戦術云々ではないよ、劉備が敗れる前の話だし。
劉備が700里にわたり、高原・湿地・険阻な地を包み込んで陣営を築いたからだよ。
>>77 それに陸遜の戦術がそれ程特別かな?
防御を固めて勢いをそぎ、遠征軍の疲れを誘い、
陣営を伸びきった所を叩くというのは孫子にも載ってるし、
結構オーソドックな戦術だと思うが。
夷陵の劉備軍ってこれと言った軍師を連れてなかったよね?
馬良はどちらかというと政治官ってイメージが強いんだけど・・・劉備の布陣に
対して諫言の一つもしてないし。
諸葛亮の「法正がいたら・・・」ってのも少し納得がいく。
夷陵にこれといった〜ってのは
従軍した連中が軒並み討ち死にしてるから、ってのもあるんでないの
>>79-80 矛盾してるぞ。
>防御を固めて勢いをそぎ、遠征軍の疲れを誘い、陣営を伸びきった所を叩く
というのが陸遜の戦術で、その徹底した持久策ゆえに劉備は
>700里にわたり、高原・湿地・険阻な地を包み込んで陣営を築いた
という状況に陥らざるを得なかった。
自分でも陸遜の戦術云々だと言っているじゃないか。
で、孫子を例に挙げるなら劉備は必ずしも間違ってない。
「凡そ客たるの道、深く入れば則ち専らにして主人克たず。」とある。
呉将たちも、深く侵入された上に要害を押さえられていては勝ち目はないと言っている。
蚊帳の外で偉ぶっている曹丕はともかく、当事者たちからすれば劉備の戦術こそ正道。
実際、陸遜の豪語するところとは裏腹に最初の攻撃では得るものがなかった。
>>83 陸遜の戦術に嵌ったのはそうだな、矛盾してた。
ただ長い陣営に陥らざるを得なかったというのはどうかな、
無理があれば退けばいいし、防衛を固められても必ずしも長い陣営が必要ではない。
これは劉備のミスだろう。
孫子を挙げたのは陸遜の戦術はそれ程特別ではないというただの例、
ハッキリ言って孫子の「凡そ客たるの道、深く入れば則ち専らにして主人克たず。」
はあてにならん、あまりに無理がある話であり、
こんなのが出来たのはよっぽどの天才のみで、大抵は離散する。
それでもまあ夷陵は江陵の手前で、長い陣営を築いて固めてるので
重地・死地とは言い難い。
黄権の意見聞いてりゃあんな負け方しなかったろうに
>>84 >無理があれば退けばいい
これについては出兵の動機からいってあり得ないし、
>必ずしも長い陣営が必要ではない
これもおそらく兵站確保のために不可欠だったと思われる。
まあミスといえばミスなんだが、戦略上のミスじゃなかろうか。
夷陵の戦いを劉備の評価サンプルにするのはどうなんだろうか
ある意味曹操を徐州大虐殺をもって評価するみたいなもんだろ?
何戦もしてきてるわけだから、その中から劉備のスタイルを探って、長所短所を
見極めて評価するべきだと思うんだがね
特殊性の濃い勝利、敗北から本質が見えてくるとは思えない
でも戦略ミスとして見た場合はいつもどおりの劉備タンだな。
陶謙の後釜に座っちゃったときしかり。
益州攻略で次善の策を採ってしまったときしかり。
ノリで決めて後で悔やむ。
89 :
名無し募集中。。。:黄天当立184年,2005/04/04(月) 19:56:16
結構生き方はアバンギャルドなんだけど、作戦は次善策が好きだよね劉備って
失敗すると食い扶持なくすような仕事ばかりやってきた貧乏時代の影響かなぁ
90 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/04(月) 20:17:39
逃げる時は即座に決めるんだけどね
逃げるタイミングの取り方や決断の早さだけは曹操に勝ってると思う
でも撤退戦がうまいわけじゃないんだよな。
とにかく側近と自分だけ生き残る。
そういや徐栄に負けたときの曹操もそんな感じだな。
なぜか死なない曹一門。
>>92 たしかに曹操は死地を幾度と切り抜けてる。
氏族の私兵で構成されている場合、族人にとってみれば敗戦による当主の
戦死はそのまま族の衰微や凋落、悪ければ滅亡にも繋がるから、嫌でも
当主を死なせない意識はあるんじゃないかと。
仮に練度がさほど高くないとしても、結束力は単なる徴募兵や正規兵よりも
高いんだろう。
ん?
曹操は別に曹氏の当主じゃないぞ
董卓戦の曹操の兵って、どちらかというと金でかき集めた傭兵集団であって
氏族が養っている私兵でもなかったような。
96 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/05(火) 00:23:52
このとき劉備も曹操といっしょに参戦したんだっけ
97 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/05(火) 00:27:07
曹操やその武将、陸遜みたいな稀代の名将が相手だからな。
相手が悪かっただけ。なかなかのやり手だったと思うよ。さっきタイムテレビで見てきた。
あいつぁやるよ。
一応英雄記に記述がある
というか劉備とかあたりはこの板じゃ不評かと思ったら案外いい評だしてる人もいるんだな。
意外。
正史読めば劉備の凄さがわかる
分からない奴はもうちょっと読もう
102 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 12:36:51
ただの変節漢にしか見えない人は理解力足りないな。
むしろ、変節としか思えないことを何度もやっているのに地位や勢力を維持し続けることの凄さについて考えるべきだよ
103 :
どらえもん:2005/04/05(火) 12:59:11
ふふふ…僕行ってきたよ。三国時代へ。劉備君にも会ったよ。翻訳こんにゃくぅ〜!そうそう、耳が大きかったよ。すんごぉ〜く。通り抜けフープゥ〜!あと戦はそんなに上手くなかったよ。ただいい点と言えば部下の案をよく聞く事がなぁ。ビッグライトォ〜!
>>100 きっちり分析すれば相応の評価になるだろ。
本当にしょーもない人間だったら、
あそこまで行ってないしな。
個人的に三国志の人物の中でも一番理解しづらい人間だ。
106 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 15:06:53
このスレの影響で曹操スレ立てようとしたら立たなかった。
お前等のリアルな曹操ってどんなの?
曹操の再評価を行うというわけではなく、リアルな曹操像を完成させるためのスレです。
俺はなんか頭が良くて偉くなったスネオって印象なんですけどどうでしょう?
正史読んだら頭のイイチビで、演義読んだら悪者。
蒼天読めば神様で、横光読めば野心に満ちた小心者の曹操。
いろいろなものを参考に、リアル曹操像を導き出しましょう。
ついでにココでやって
107 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 15:09:42
あ、ごめんやっぱいいわ
>>105 俺が一番理解しづらいのは孫権。あと陸遜。
俺が一番理解しづらいのは数学。あと英語。
私が理解できないのは無双を嫌う人達。
陸遜がおじさんとか趙雲がドカベンとかどうでもいい。
どうせ嘘だろうし。
>>111 貴公は、人間は歳をとらないとお思いか?
113 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 17:14:58
無双の人達はファンタジーと呼ばれるものをするんだよな
114 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 17:46:42
わが無双厨の計にここまで簡単にかかるとは
無双釣りが流行するのも仕方ない事のようだな
115 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 18:23:30
陸遜はあの時点で本当にオッサン。
無双の武将辞典にのってる陸遜の生まれた年からもわかる。
けど趙雲がドカベンは横光だけだよ。
まあ、何がいいたいかって言うとどうせつるならもっと
上手な事例で釣れってことだよ。
116 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 18:49:43
陸遜って頭良すぎでもないし、政治手腕が凄かったわけでもなしに、中の上みたいなクラスだったんじゃないの?暇な椰子いたら陸遜の祖先調べてみ、めちゃくちゃすげーから!まあ、リア厨や知ったかなら調べれないだろうけど
陸遜の祖先は光武帝なんか話にならない程凄いよ、孫家の人間がえた・非人に見えるよw
117 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 18:56:16
ヒクソンだっけ?
118 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 18:59:33
一人だけで伝が立ってるくらいだから、やはり特別に凄かったと思うよ。
戦乱の時期に都督や丞相歴任した人間が凄くないわけないだろ
バータレめ
120 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 19:01:51
陸孫の家柄が三国志に出てくる人物の中で一番なのはわかるけど、このスレがネタスレならスルーしてくれ
陸遜は経歴がな
122 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 19:15:10
たいした家じゃないだろ
123 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 19:20:58
陸遜は、三国志で曹操に次ぐ名将だよ
でも曹操は三国志で一番じゃないから陸遜の順位は大分下だよ
125 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 19:28:59
126 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 19:28:58
マジでリア厨(特にソースキボンとか言いだし、自分で調べない厨)しかいないのか?このスレは…なんか調べる椰子がいないんで調べてみたらホントに凄かった((((;゚д゚)))アワワワワ
陸遜の家柄を深く調べていくと、かの伝説の三皇五帝の一人「舜」でした…凄すぎるって_| ̄|○
陸氏は元々の名は田氏で、斉の宣王の子「田通」が平原郡原般県の陸郷に封じられ陸姓を名乗ったんだってさ…陸遜って舜の正統な血筋引いてる子孫だったんだ_| ̄|○
劉備って何だったんだろw
127 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 19:29:34
斉の田通が陸姓を名乗ったのが祖とか
128 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 19:33:00
袁紹の死後、劉備が河北を制圧していたら・・・
劉備は、史実以上の大勢力を築いたであろうか?
129 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 19:33:07
>>126 いや、別に陸遜の血筋とかどうでも良いから
バータレ
劉姓の先祖は堯だ
別に陸遜の先祖だけが偉いわけじゃない
ソースは新唐書の宰相世系表
132 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 19:43:19
んな遠い祖先なんてどうでもいい、当時の感覚でもな
マジに舜の子孫とか言ってたら当時でもデムパ扱いだぞ
あくまでハクを付けるための家系図でしかない
現代人がマジで驚くなよ
133 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 19:49:18
>>129は調べようともしなかったくれくれ厨か?w
134 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 19:50:44
>>128 無理。だいたいどうやって制圧するんだ?
もししても曹操に滅ぼされる
劉禅なんてあの劉備の息子だぜ!!
136 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 19:56:07
劉備がいなければ、呉は曹操に滅ぼされていたと思う?
滅ぼされないで臣従してたと思うよ
んで頃合見計らって反乱
139 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 20:08:25
あの時点では呉は皇帝じゃないから、どちらの下にもつくことができる。
もちろん、強大かつ異質な勢力を築いてたから、いつかは反抗しただろうね。
>>136 劉備がいない+周瑜が死亡=荊州制圧状態のまま膠着
→呂蒙の完成を待って蜀併呑、曹操の死を待ってガチンコ勝負
劉備がいない+周瑜生存=天下二分計炸裂
→曹操とガチンコ勝負、負ければ滅亡
141 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 21:48:33
マジガチ
劉備がいなければ何の問題も無く魏が荊州を併合して、益州も降伏するだろうから
呉だけが抵抗するとは思えない
>>142 曹操が先に益州に侵攻するってこと?
そうなれば呉は抵抗できないだろうけど、やっぱり荊州→揚州と進むだろ。
劉備がいようがいまいが赤壁は起こったし、劉備抜きでも勝ったと思うぞ。
144 :
名無し募集中。。。:2005/04/05(火) 22:38:32
侵攻も何も益州は曹操に降伏寸前だっただろうが
>>144 いつの話してんだよ。意味わかんねーよ。
146 :
名無し募集中。。。:2005/04/05(火) 23:03:40
荊州が何の滞りも無く降伏した時点で蜀侵攻とか夢のまた夢だろ
147 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 23:12:38
そんなの三国志の能力見ればわかるだろ
148 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 23:19:23
>>143 正直、自分は演義の内容しか知らないから
所詮……なんたら思われるだろうけど言わせてもらいます。
赤壁の戦いは劉備と孫権の同盟あって起きたものと思います。
たしかに水軍の差、風、火計策を用いれば呉は勝てたでしょう。
だけども、実際は呉の重臣殆どは降伏を孫権に進め、
戦う論は武官や魯粛ぐらいのもの。
そこで(劉備との同盟によって)諸葛亮が現れ、
周瑜に戦う事を進めそれに周がのったのが決定打となり赤壁が起きたと思います。
よって、劉備がいなければ呉は戦う、滅亡どころか降伏していると思われます。
たとえ戦っていても演義を見ているかぎり11月(何月かは
忘れましたが、推定)のその時期に東南の風を吹くことを呉の将らは
知らなかったため、開戦の時期も見極められなかったのではと思います。
自分の智識は殆ど演義の為、皆さんから見れば「なんだこれは」
という意見に見えましょうが、一応書き込んでおきます。
150 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 23:34:10
演義なら諸葛いなけりゃだめだな
ただ正史ではわからん。諸葛が説得したとも周瑜が説得したともあるからな
諸葛亮が説得したってのはウソでしょ
いくら本文の記述とはいえ信憑性低すぎ
信憑性低くもないだろ
諸葛亮は反主流とは言え荊州名士の一派の頭だぞ
荊州名士の手が借りられるとわかれば孫呉もやる気出るだろ
そういう話じゃなくて、事態の推移にそぐわない。
周瑜伝の裴松之注も暗に諸葛亮伝を批判してるような・・・
周瑜伝も信憑性低い気がするが
魯粛の件が抜けてるわけだし
おそらく陳寿が韋昭の呉書をそのまま董襲したために裴松之がツッコんだような欠点
(周瑜伝では周瑜が説得したといい、魯粛伝では魯粛が諸葛亮を連れてきて説得したといい、
諸葛亮伝では諸葛亮が説得したという)
が生じたのではないかと
っていうか劉備がいなかったら荊州勢の劉j派はもとより劉g派も降らざるをえないから
孫権も降伏するしかないような気が
>>155 呉書丸写しってのは周瑜伝には当てはまらんだろ
ありゃ滕胤伝とか何姫伝あたりの話じゃないか?
それに周瑜伝では「言及していない」だけで、これは陳寿の基本的なスタイルだ
同じような記述のされ方は他の伝にも山ほど見える
現に魯粛伝のエピソードを周瑜伝の途中に挟むだけで呉側の経緯はほぼ整合性が取れるぞ
これに対して諸葛亮伝の言いくるめっぷりはまず眉唾もんと捉えたほうが無難だろう
張昭を含めた群臣がこぞって降服論を唱えてるのによそもんがあんな口きけるもんじゃない
魯粛ですらこっそり引見しなけりゃならなかったのだから
でも、
>劉g派も降らざるをえないから孫権も降伏するしかない
ってのは賛成
そもそも劉備追撃の延長上でなければいきなり揚州に攻め込んだりしないだろうし
>>156 無難?そうか?普通にありえる話だと思うけど
春秋戦国の論客なら当たり前のレベルの話じゃね?
>>156 思いっきりよそのサイトの受け売りなんだが、呉書丸写しについては
ttp://f27.aaa.livedoor.jp/~sonpoko/rosyuku12.html 「配下の列伝に到ると、韋昭の編纂した「呉書」をそのまま、
書き写したのではないか?と思われる部分があるのである。」
「魯粛伝・甘寧伝・呂蒙・陸遜伝などに孫権を指して、
【到尊】【国家】という言葉が出てくる。これは皇帝を意味しており、
つまり韋昭の「呉書」がそのまま掲載されている可能性が高いという事である。
となると、陳寿の本文とは言え、そのような「到尊」「国家」などという言葉が
出てくる部分では、呉の立場に立った記述がされている可能性があるのである。」
という論がある
周瑜伝もこれに当てはまるんじゃないかな、と思ったので
あと蜀側の記録と呉側の記録という違いもあるんじゃない?
蜀側としてはその時期呉がどう出るかわからない。
呉側も仮にその時点で方針が決まっていたとしても外に向けて喧伝していたわけじゃない。
そこへ劉備の使者として諸葛亮が来て同盟を締結。
こういう風に理解すれば特に矛盾が生じるとは思えないけど?
>>156 孔明はその状況をひっくり返すために呉に赴いてるれっきとした使者なんだから魯粛の場合と
同列に語る方がどうかしてるよ
たった一人の舌先三寸で国家の存亡を左右する決定を下すわけもない
伝にはその伝の人の功績のように書かれてるが複数の人間が勧めたからこそ孫権も
心を動かされたんだろ
まぁ、孔明も呉に行って説得したって言うのは事実だとは思うけどな。
そりゃ孔明一人じゃ無理だろうけど。
>>159 矛盾生じすぎ。
魯粛では説得力に欠けたので周瑜を呼ばねばならなかった。
ということは魯粛が連れてきた孔明に説得できるはずもない。
当時の劉備陣営は孫権の参戦がなければ間違いなく滅亡する状況にあった。
最初から対等の同盟ではないし、だからこそ後に荊州貸与のようなイチャモンをつけられた。
そういう情勢を鑑みれば諸葛亮伝の流れは絶対にあり得んと断言してもいい。
正史の劉備と呂布ってすごく似てるし、実際の戦闘も上手なほうだと思う。
>>163 魯粛、孫権に徹底抗戦を説く。
孫権、魯粛の案を受け入れ魯粛を劉備の元に派遣。
しかし、降伏派も多数おり孫権の思惑はともかく呉としての方針は必ずしも決まりきってはいなかった。
諸葛亮、孫権と会見。孫権、諸葛亮の人物を認め、劉備軍ともに戦うに足ると判断。
周瑜も帰還し抗戦を唱える。
孫権、ゴーサインを出す。呉としての方針の決定。
周瑜、程普らを派遣し劉備とともに曹操の侵攻を防ぐ。
こういう流れであればどの伝にも特に矛盾するとは思わない。
>>165 流れとしてはそうだろうが
孔明の人物を認めたってよりも魯粛の持ち帰った情報が大きいんじゃないかな
荊州が降伏したって聞いた時呉の人間は丸々全部荊州が降伏したと思ったんだろ
それが弔問に行った魯粛が反対派の人間も連れてきてそれが少なくないとわかったからだったらイケるぜと開戦したんじゃないか?
>>163 何でその程度の論拠で断言できるのかわからん
170 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/07(木) 20:16:45
頑張れ劉備
「劉備が対戦したのは曹操や陸遜など当時の一流どころだからしかたない」
という弁護論はよく聞きますが、言い換えると「一流には勝てない」ってことか?
曹操はたしかに当代一流という人物だが生涯不敗なんてわけはなく負け戦もそれなり
にある。それでも彼は中原でしのぎを削って大勢力を築いた。
劉備が中原にいられなくなったのは、土地にたいして勢力を扶植できなかったから。
かれの場合は、戦下手というよりは政治下手というべきかも。
>>168 曹操が荊州を落とした時に劉備に従った民衆が数千人いただろ
割合考えればかなりの人数じゃないか?
劉備と秀吉って似てるよな。農民から成り上がったとか息子がダメダメだったとか。
秀吉は帝の遠い親戚じゃないけど。
劉備は農民じゃないぞ?
>>171 中原から外れた後だが、
博望で夏侯惇・于禁を撃破。
赤壁の一連の戦いで周瑜らとともに曹操を撃破。
武陵、長沙、桂陽、零陵の4郡を平定。
益州を陥とす。
漢中に侵攻し夏侯淵・張コウを撃破。
曹操の侵攻を防ぎ漢中を守る。
と、劉備自ら軍を率いてこれだけの戦果を上げてる。
また中原で覇を争っていた時は戦場の駆け引き以外の要素で敗れてる例が多い。
だから「一流には勝てなかった」と簡単に評してしまうのはちょっと違うんじゃないかな?
孫権としては開戦しか自身の将来の展望が開けないのは判ってたでしょうね。
だから、魯粛を荊州に派遣した際、魯粛の方から孫権個人の意向として同盟を打診させてる。
自分達が可愛い、呉の豪族連中を開戦って方向にするには、開戦した場合(当然勝利が前提となる)の利益を明確にしなきゃならない。
それが劉備との同盟なんでしょうね。
劉備が荊州から逃亡した際、10万余りの民衆が従ってた、ってのが大きいでしょう。
勝利の後、荊州を獲得したい呉は劉備の荊州における影響力を利用したいでしょうから。
当面の利益としても、実際に戦闘に動員できるかどうかはともかく、夏口で関羽・劉奇と合流した段階での兵力は2,3万。
周瑜が要請した5万人を用意出来ないくらい人的資源の少ない呉にとっては、大きいでしょうね、劉備の兵力は。
それと、名文論的な部分ですが、漢・丞相の新征に反抗するにあたり、逆賊の汚名は被りたくない、と言うのもあるでしょう。
討虜将軍・会稽太守に過ぎない孫権が曹操に名義上対抗するには、董承らと共に曹操を誅せんとし、漢室と同姓で左将軍・宜城亭侯の肩書きを持つ劉備の存在があるのでは。
>>176 やっぱ、政治ヘタか。
正確には、そういった面をフォローする幕僚団すなわち士大夫の支持ということに
なるんだろうが。
荊州に行くまでの劉備自体は土地との結びつきが薄いから士大夫層の
支持はなかなか得られないんだろうな。ほとんどがその土地にいる間のみの
支持ばかりだし。
そう考えると麋竺はかなりの変わり者なんだな。
麋竺と言うか麋氏は利殖をする一族だったせいかどうもあまり良く思われてなかったんじゃないかと
んで徐州にいられなくなって劉備についてきたんじゃない?
金もうけの何が悪いんだろな?
まったく通念ってやつは...
麋竺とかほとんど土地もなくて勝ち目もないような人間に、
何でアレほど人間がついてきたか、これが劉備の一番すごいところだな。
中国風の人徳とかどういうことなんだろうな?
麋竺、簡雍は分かるけど
孫乾が何者なのか分からない
184 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/08(金) 12:35:59
>>182 劉備は少なくても軍事面では相当期待されていたと思うぞ
彼の経歴を見れば
確かに劉備に賭けるってのは大博打だけど、そんな有り得ない選択肢とも思わないな
185 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/08(金) 12:39:52
劉備は赤壁以前に寡兵にも関わらず偽退却と伏兵で夏侯惇を撃破してるよね
186 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/08(金) 12:51:14
曹操とスタートラインを比べてみれば、徐州あたりの劉備がいかに凄い出世をしているかわかるのでは?
ほぼ軍事面での功績だけであれだけ出世してるんだよ
逃げ足やゴマスリが上手いってだけの問題じゃない
187 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/08(金) 12:57:16
>>183 仕官経緯を見ると、陳羣同様孔融の推挙だろう。
演義と違って陶謙に仕えていた訳じゃないから、陳羣と違ってダメな主君を見捨てられずについていったっぽい。
徐州に来るまでは、スタートラインをみればそこそこ良いが、
凄い出世と言うほどのものではないと思う。
公孫サンの下では平原(県)の相程度だし、
徐州を任されたのはほんとに謎、有り得ない位の出世。
体を売ったんだ!!
190 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/08(金) 13:58:59
ホモかよ
凄い出世ってのはそんなのが絡んでるもんだ
実績が無い場合は特にね
まあ正史じゃ陶謙も悪人だからな
ワル同士通じ合うとこが合ったんだよ とか無茶苦茶な事を言ってみる
>>189 ベルセルクのグリフィスを思い出した
体を武器にしてたのは何も女だけじゃないんだよな、昔の奴らは
同性愛がステータスだった怖ろしい時代だからな
中国然り、日本然り、ヨーロッパ然り
床上手って話もなんか出てた気がする
女は捨ててほっといて、カンウ死んで切れたりとか
いや、まぁ時代性考えればしょうがないんかもしれんけど
女の代えはいても家臣の代えはいないからな。
と言うとフェミの方から色々言われそうだがなー。
196 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/08(金) 16:56:51
劉備、関羽、張飛、簡雍、孫乾、麋竺...
このメンツで放浪してた頃は、一番大変だったかもしれんが、一番気楽な時期だっかもな
でも麋芳、劉琰は関羽・張飛と折り合い悪そう
198 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/08(金) 17:23:58
なんか水戸肛門みたい。
黄門は宦官の職位
最近の肥三国志での麋芳の扱いが気に入らない
201 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/08(金) 18:13:03
キモイ流れだな
劉備の諸国(放浪?)漫遊記
ビフォー
劉備は女はとっかえひっかえしてるけど
男に対してはそうでも無いからねぇ
206 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/09(土) 14:44:24
そう考えると最後までついてきた甘夫人はえらいな
とっかえひっかえって言うか、妻子は衣服の如しっていう言葉があるからな。
その言葉通りにとっかえひっかえするのは中々できんことだが。
丁夫人迎えに行ったエピソードとか見ると曹操のが愛情深そうではある。
劉備は肉親に執着しないのが凄いと言うのは誰かが言ってたな。
そういや劉備陣営の奴等は故郷とかにも執着しないな
故郷に執着するような奴ははなっから劉備についていこうとしないしな
そういう奴らが劉備陣営に加わりだした頃から、ガタがき始めた気がする...
結局アウトロー集団でしかないわけだな、劉備陣営は
それを良しとしていた頃が絶頂期だったんだろう
我が家の母が「頂点が凡人になったり二世以降がいない時点で、
蜀って国は滅ぶ事を定められてたのだろうね」と言ったのが
忘れられない
乱世は不思議だ
>>212 > 「頂点が凡人になったり二世以降がいない時点で、
前半はわからんでもないが後半は意味不明。
そりゃあ2世の代までしか蜀は続かなかったからな
いやその前に、
三国志の話題を出せる母親が凄い。
>>212 もしかしてお茶をプレゼントしたら池に投げ捨てられたことがないか?
二世以降…ってのは、家族を置いてきてる奴が多いから、
その辺の人材が他国に流れてしまうって事じゃないか?
218 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/10(日) 20:09:59
最近、戦のことはぜんぜんはなしてないね
>216
お茶をプレゼントした事さえないニートかもしれんぞ
220 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/10(日) 21:40:07
劉備が呉に攻める時にも、なーんも考えないで逝っちゃったこと等を思うと、余裕で下手を通り越して、ただのおバカさんじゃん。
孔明に頼りきりってのを如実に感じた。
てことでヘタ。
色々考えた結果蜀に荊州は必要だから行ったんだろ
ちゃんと考えろ
演義でも荊州なしに蜀の統一はありえないから
別に何も考えてないわけじゃない
何も考えてなかったら復讐も考えないだろ!
224 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/11(月) 00:59:09
>>223 ただの言葉尻の揚げ足取りはうz
>>221 だね
魏との争いにおいて、弱小勢力だった蜀の優位いつの勝ち筋が、
「歩調をあわせた」多方面軍事作戦であった以上、
ましてや蜀の存在意義が反曹であった以上、
蜀は荊州を決して失ってはならなかったということ。
このことは、のちの蜀の北伐が呉と歩調をあわせることを前提としていながら、
結局二つの頭ではうまくいきのあった作戦展開ができずに失敗したことからも明らか。
蜀の当初の構想では、荊州と漢中からの同時攻撃であったのに。
だから、劉備の荊州攻め自体は、戦略としては、あながち的外れではない。
同じ二方面作戦でも、両方面を自分で計画できるのと、片方を気心の知れない他人に任せるのとでは、ぜんぜん効果が違う。
孔明が強く反対しなかったのも、演義ではともかく史実的には、単に義兄弟の情誼の問題だけではなかったのだろうね。
だから劉備の対呉軍事行動は、
一、他人である呉との二方面作戦と言うことで妥協できなかったか。
一、妥協できずにどうしても荊州が必要ならばそうとして、どうしてもその時期の軍事行動でなければいけなかったか。
という点で検証されるべき。
(もちろん戦術面での失敗はまた別として)
225 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/11(月) 01:11:12
>224
そうか、そうやって書いてもらうと納得。
戦術戦略がうまく応用できない点で戦上手ってどうなの?って思ったの。
ありがd!
>>181 亀だが当時の通念は通念で仕方ないんでないかな
日本だって半世紀前まで神の国だったんだぜ?
あの当時に「天皇万歳といって死ぬなんて馬鹿げてる」なんて
絶対に言えない状況だったんだし。
今から数百年後の奴等が20〜21世紀の俺らの価値観を見て
「金儲けの何が悪いんだろうなとか抜かしてる奴等がいたなんて信じられないな
これだから資本主義は・・・」とか抜かしてるかもしれん。
現在の価値観で過去の価値観を否定するのは簡単だけれど
それはそれで仕方なかった事だという事も覚えておかないと。
むしろ時代を先取りした価値観を持ってる奴等が凄すぎるだけ。
227 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/11(月) 04:03:25
関羽が殺されてから2年間準備したんだから、何も考えなかったわけではない。
呉征討に賛成する者も大勢いたはず。(その多くが従軍して死んだから、記録に
残らないだろうが)
その時期については、もっと兵力が充実してからでも良かったかもしれないが、
劉備は自分の余命を不安に思っていたはず。(自分と同世代の曹操も死んだし)
自分が動けるうちにやらなかったら、後に残る頼りない息子と、心許ない武官、
その時点では戦闘能力未知数の諸葛亮では絶対荊州奪還は無理だと考えたんだろう。
>>226 言えたよ?
何言ってるの?
お前も通念の虜になってるよ
>>228 あーそうだな、スマン。
>>227 寿命ということでは劉備は自分が生きてる間に
どの程度のことを視野に入れてたんだろうな。
荊州奪還まではしておこうと考えたのか
それともその先の中原までの道程を
何としても全部仕上げてしまおうと考えてたのか。
自分の寿命と比較した場合、目標が先にあればあるほど
強硬策に出ざるを得ない状態だったのかもしれん。
まあでも劉備の死は明らかに夷陵での敗戦でガックリしたからだよな
本人はもう少し長生きする気だったんじゃない?
敗戦のショックが心身を弱らせたのは確かだろうけど
じゃあ夷陵で勝ってたら本当に死ななかったかなんてわからんからそれはなんとも
夷稜で大勝しても
あのタイミングで劉備が死んだら
その戦果を維持するのはかなり困難かもな
夷陵で勝っちゃうと今度呉が滅亡の危機だから
そうすると夷陵直後に南下するだろう魏と呉の切り取りあいになってそのままなし崩し的に魏との正面衝突だよな
234 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/11(月) 11:30:54
>>233 荊州を失う=呉の滅亡の危機。とは即断できない。
呉が荊州を領有したメリットが、今ひとつはっきりした形では見えてこないんだよね。
まず国防面。
史実での呉の滅亡は、西方の蜀・荊州方面からの攻撃によるところが大きい。
荊州を失ったとしても、魏の南下だけなら食い止められた可能性もある。
魏との戦争が最優先条項である蜀の戦略としては呉を殲滅する理由はない、
というかむしろ魏に対するおとりとして存続させておくべきだから、
そりゃ荊州に他人(劉備軍)が居座るより呉が自分で押さえたほうが安全だが、
ただちに呉が滅亡の危機に瀕するわけではないんじゃないかと。
また、孫権時代の呉は魏に対して積極的な軍事行動をとらない戦略を採っていたので、
この点からも、呉にとって荊州の軍事的必要性には疑問もある。
経済面だが、中原からの亡命人士によって飛躍的に経済開発がすすみ、
後の千年以上に及ぶ江南の経済発展の礎が築かれたのがこの時期。
この点でも荊州があれば有利には違いないが、
荊州がない=経済的に立ち行かない、と言うわけでもないだろう。
呉の、と言うか孫権の戦略は、異民族の山越対策や江南の開発など、内政を優先しており、
軍事的には、合肥方面に多少ちょっかいは出したものの、ほぼ専守防衛であったから、
短期的には荊州が必要とは言えなかった。
もちろん、内政が落ち着いてから魏と戦う腹積もりであったなら、先に荊州を押さえておくのはありなわけで、
関羽を殺して荊州をとったことが、呉の間違いというわけでもない。
呉の戦略の是非は、山越の存在や、土着豪族と亡命人士との軋轢も考慮すると、それはそれで妥当なものだと思う。
いや夷陵直後に魏は南下してきてたじゃないか
だからこそ陸遜は引き返して蜀にトドメを刺せなかったわけだし
荊州は陥落していて揚州のみしかない呉を魏蜀で袋叩きにするとは思わないか?
ましてや関羽の仇討ちって名目もあるし可能なら徹底的に行くでしょ
236 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/11(月) 12:53:30
荊州が他人の手にあるのは、呉としては玄関あけっぱなしにしてるようなもんだ
長江にたくさん船を浮かべて攻めてくる
江陵あたりを抑えてあれば、魏側からも蜀側からも、船団が一気に川下りしてくるのを防げる。
例え同盟関係の相手でも、一気に攻め寄せてこられるのは防ぐ必要がある
それに本来は蜀も領有して長江は全て抑えるつもりだったしね
237 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/11(月) 13:16:22
>>235 蜀の呉攻めに実益はないでしょ。
蜀の国力的に、呉を支配しきれるはずはないし、
そうなると、下手すりゃ魏の総取り。そして、蜀は単独で魏と戦うことになる。
・・・とはいえ、正しい戦略を採るとは限らないわけで、
もし夷陵で劉備が破れないまま、さらに呉に進軍するようなら、確かに戦下手といわれても仕方ない。
そして、呉としては劉備の思惑なんざ知ったこっちゃないし、
劉備が夷陵で負けなかったとして、そのアとどうしたかはわからない。
だから、呉は荊州を抑えて当然だね。
>>236 うん、実際、のちに名将陸抗は荊州の要だったわけだし。
ただ、夷陵で柳眉を破った後の、呉の対外戦略を見ているとそれほど積極的でもない。
荊州から魏にも蜀にも攻め込んでいないし、北伐も建業あたりの安全保障のためと見える。
孫策と孫権の違いを感じる。
>234
荊州は呉の生命線ですよ。
群雄割拠の状況ならともかく、三国鼎立状況で、長江下流域を地盤とする政権が自国中枢に接する中流域を奪われたら、それこそ存亡に危機でしょう。
南北朝時代を通しても南朝にとって荊州は「藩屏」とされて自国の国防の要衝とされている。
蜀漢は魏と結べないのも確かだが、自国の安全保障を他国に委ねると言う選択はありえない。
しかも、蜀漢の場合、あらゆる点で力量不足であって、一時的に荊州を押さえたとしても、魏の侵攻を防げるかどうかは怪しいもんだ。
魏が蜀漢が保持する荊州を攻めた場合、呉が援助すれば守れる、と言う反論もあろうけど、そんなハメになるくらいなら初めから自国で押さえていた方が当然効率が良い。
呉が消極的だったのは、荊州を得て基本的な国境線が確定したから。
もし、蜀漢や魏が荊州を一時的にでも保持するようなら、積極的に荊州攻略に出るはず。
呉が消極的だったってどこをどう読めばそういう結論になるんだろうか……?
呉が大規模な魏侵攻に出るといつも背後から山越に邪魔されてたわけで
荊州得たからとかでなく山越に邪魔されて中央に迎えなかったってのが正解だろう
241 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/13(水) 12:38:47
ほしゅ
まあ、陸遜が率いて戦ってなお劉備に負けるようなら
呉は当面は蜀に頭下げて、魏に脅されたからやったんで犯人は引き渡すし
荊州の領土は勿論蜀のものだ、漢(蜀)朝の臣下として一緒に魏を攻めよう
っていうことを持ち出して事を収めたんじゃないかな?
上手く策が嵌ったお陰で大勝したが、掛け違えていたら泥沼だったり
逆に劉備が勝っていたりした公算だってあったろう。
なんというか……どこからつっこめばいいんでしょうね
>>243 あの陣容から劉備が勝ったらという想定である以上
呉にはイリョウの戦力と同等以上の予備兵力があったんでなければ再び戦って勝つのは至難だろう
なら、呉側が蜀の怒りを納めてその場を取り繕う最善の手を打つのは自然だろ?
張飛殺しの犯人引渡しなんて対して痛くもないし、関羽を討ったことなら呂蒙が死んでるし
魏に臣下の礼を取った経緯を考えれば、建て前上蜀に臣下の礼をとっても可笑しくない。
荊州に対する領土欲を放棄するつもりがなくても、過去の経緯的には蜀側でよしといいつつ
劉備の死後再び領地を狙わないという通りでもない。
呉が頭を下げた上で一緒に魏を攻めようといえば、大義名分からも戦略見地からも蜀は同意するだろう
勝ち負けの部分について以外に妥当性がないと思わんが
勝ち負けにしても、陸遜の無名からの侮りが劉備にあったなら、呉側でも不満がでていたろうし、
策が破綻する可能性が0という可能性はない。
孫策の娘まで貰った男が国内で無名な訳ないだろうが
しかも陸氏の総領だぞ
考廉にも茂才にもなっていなかった男を国外の者は知るわけないだろうし
見事に孫権の采配に劉備は粉砕されてるな
無名じゃないが、他の奴らはブーたれまくってたな
ブーたれた理由は年齢と実績の問題じゃない?
婚姻関係や一族の名声で有名だが、能力を示して高名を得たわけではない(この時
はまだ)のだから。
山越退治に功があった
ぐらいっしょ
直前まで陸績がいたから陸氏筆頭でもないしな
訂正
陸氏筆頭になってから日が浅いし周囲から認められてなかったんだろうな
252 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/16(土) 14:01:30
ほしゅ
>>248 そんなの陸遜に限らず呉の将なら誰でも経験してる訳だが
劉備が人の女房を美味しそうに喰べていたのは確かだよな。
曹操も多分喰ったことあるんだろうな。
孫権なんか喰うために部下殺していたのかもしれんな。
孔明の南蛮征伐は南方人を味見するためかもしれん。
256 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/17(日) 14:15:57
じゃーん、じゃーん
劉備の前半生を見てみると、負けている印象が強いけど、
よく見てみると、負けた相手って、曹操が多いんだよな。
曹操以外の袁術とかには勝ってるし、あながち戦下手というわけではなさそうだな。
ただ、曹操と違って、大軍を率いての戦いが得意だったわけではなさそうだけど
曹操も大軍率いると結構負けるぞ
戦術家としては似たもの同士だったりな<両雄
それよりも、既存の社会崩壊が進む中で
大軍統率の方法論が衰えたとか
そんな制約もあるかも
袁術に勝った事あったっけ?
ただ袁術もかなり弱いからなぁ…。
261 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/17(日) 17:23:29
真に統率の取れた大軍ってもの自体がなくなったんだよ
だから烏合の衆になりやすい
>>260 劉備、淮陵あたりで袁術ともみ合い中に呂布が裏切り下ヒを陥とす。
劉備軍撤退&崩壊。
劉備、なんとか兵卒を集め広陵にて袁術と戦うが敗北。
この戦い以外は呂布の仲裁があったり、袁術が病死してたりといった感じだから袁術に勝ったことがあるとは言えんな。
戦術家としての劉備は一見定石を打つように見えて時々チクリと刺す罠を使うんだよな
それに対して曹操は虚虚実実で実態をつかませない
基本は定石だから大軍の統御に向いてる劉備と外連味溢れ少数精鋭じゃないと持ち味が出ない曹操
この対比だと思う
序盤に少数精鋭で勝ちまくった曹操に後半やっと兵力を蓄えた劉備が漢中で勝利
2人の間の決着が一応着く、だと燃える
>>263 定石を抑えてこそ、それを外す事が出来る。
大軍の統御に向いていない人間が、孫子の注釈なんて出来るわけ無いだろう。
でも曹操大軍率いると(赤壁、漢中が特に)あんまいいところなかったよ
>>264 そんな事言ったら古今の軍事学者の大半が司令官経験者でもないのはどう説明するんだ
漢中は劉備が要害に立て篭もって、劉備側からは一切戦おうとしなかったからで、
曹操の用兵がいいところないと言うほどでは無いと思うけど。
大軍でも中原制覇した頃の鬼謀奇策っぷりだったら
劉備がその要害から出て来ざるを得ないように攻め立てたと思うんだけどな
>268
漢中攻防の時は鬼謀奇策も使えない状況だと思うが。
相手は要害をガッチリ固めてれば良いけど、自軍は補給が厳しい状況じゃぁさ。
>>262 英雄記にゃ勝ったり負けたりとある
まぁこいつを鵜呑みにや出来んが一進一退だったってことだろ
それに袁術の目的は制圧、劉備の目的は防衛
呂布のせいで一旦は敗走したものの、結局袁術は得るものが無かったわけだし、
あの戦いで劉備の評価を落とすことは無いんじゃね?
>>270 別に劉備の評価を落としてるわけじゃないんだが……
ただ対袁術戦において勝ったと言えるような実績は、場面場面は別として、無いのは事実。
といっても勘違いしないで欲しいのだが、袁術に負けてばかりで劉備は袁術以下と主張してるわけじゃない。
あの頃の劉備はそもそも徐州の兵あんまり率いられてなかったんじゃないか?
なんか、大軍であればそれだけで有利・勝って当然、だから勝てない曹操を
低評価なんて結論に至ってるような人がいる。
例えば漢中戦での劉備は、兵員と物資の不足を迫られて、成都からの増強を
図って戦線を維持し戦局を有利に運んでいる。
ただしこれは前線と策源地とを結ぶ兵站線が比較的短いために果たせた事も
有利に作用してる。
翻って曹操が漢中戦で劉備に対してなすところなく撤退に至った原因には、
険阻な地理的条件が大軍であるために余計に不利に作用した事と、兵站の
問題、更に長躯して国都を長く空けてしまう事など、当時の情勢を読み込んで
いかずに安易に結論を出してもしょうがない。
仮に一万人の兵士が一日に消費する食糧だけでも計算してみればいい。
途方もない量になる。
しかもこれに輸送の人員や家畜へ賄われる分量を加えればどうなるか。
対呉戦でも曹操は幾度か大軍を率いて侵攻してるけど、これには長江に阻ま
れた事や気候・風土の問題が多分に影響してるのは否めない事実。
後世、宋や元の時代に至るまでそれは普遍ともいっていい問題。
どうも物事の一面ばかり見てる人がいない?
別に曹操の能力が低いと言ってるわけじゃない
ただ大軍を率いるのは苦手だったんじゃなかろうかと言ってるだけ
曹操の軍事的な特徴として機動力を活用する部分が大軍を引率している時は生かされていない
敵の攻撃されたら困る場所を攻撃する事によって敵を誘い出し自分達に有利な場所で迎え撃つパターンが大軍の時だと出来てない
大軍を運営するのに手一杯でやりたい事が出来ていないと思うんだよね
精妙な戦術が出来る曹操だからこそかえってそれが仇になっていると思うのよ
275 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/18(月) 12:34:43
荊州から赤壁にかけての曹操は戦略的なミスを繰り返しとるな
騎兵を大動員しながら劉備を取り逃がし
呉の動向を見誤り
彼我の戦力を見誤り
呉攻めを強行して返り討ちにあう
騎兵の強行軍で劉備の逃亡を追撃したまでは良かったんだけどなぁ
民衆を煙幕代わりにしたんだよ。劉備は。
呉攻めを強行って、どこにそんな記述あるん?
呉のほうがわざわざ荊州にまで出張ってるやん。
煙幕代わりに使うような人間に、何であれだけの人間がついて行ったのか?
279 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/18(月) 16:24:11
>>277 民衆を煙幕がわり、もそんな記述は無いとは思うが
降伏勧告して長江を下っているのだから呉を攻める気だったんだろ
そして諌めた奴もいたようだから強行だろ
客観的に見ても、明らかに主力が疲弊した状態で進軍してるし
はっきり書いていなくても、充分強行だと言えるだろ
劉備討伐のためだけなわけないだろ・・・
それならもっとアホだよ、ある意味。
曹操の考えは分からないが少なくとも正史では長江を下ったのは劉備征討の為で合ってるでしょ。
夏口を落とした後に呉を攻めるか中原に戻るかの選択肢があったんだろう。漢中を落とした後のように。
降伏勧告も江表伝の信憑性にかけるものだし、大軍を率いる=呉と戦争というわけではないんだから。
曹操の誤算は孫権が荊州まで出てきた事だろうね。
>>278 ついていったと言うよりつれてったんじゃね?
284 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/18(月) 19:03:17
曹操は本当に戦上手か?
にスレタイ変更しる
大軍の指揮が上手かった三国時代の人物は司馬懿かな?
曹真なんかも上手そうにみえるが・・・
大軍指揮の経験者というだけでかなり絞り込まれそう。
大軍って、どれくらいの数字からなのかな。
万単位である事は間違いないんじゃない?
少なくとも1万未満では大軍とは言えない気がする
曹操は大軍の指揮を不得手とした、という時の大軍はだいたい4〜5万人以上くらいか
1万と4,5万、また10万を越える数字じゃぁ、一概に大軍と一括りするのは難しいと思うけど。
曹操が苦手とした軍の規模は289の通りで良いかと
4-5万以上になると曹操のいいところが出ない
そのハンデ付きで漢中で劉備が防衛に成功した、と
292 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/18(月) 20:31:10
曹操と劉備が逆の立場だったら、お互いにもっと長所が引き立っていたかな?
官渡の曹操って4,5万じゃないのか
官渡の曹操は補給大変といっても本拠地で、相手は遠征して補給がもっと大変という状況で
漢中の劉備に近い利点があるじゃん。兵力差が凄いけど。
295 :
294:2005/04/18(月) 20:42:17
まあ、官渡の曹操の勝利の方が、漢中の劉備の勝利より困難な印象あるけど。
>>293 魏書だと1万。
これは幾らなんでも少なすぎるが4,5万は微妙なところだと思う。
曹操が大軍の指揮が苦手というよりも
大軍を出すべきでないのに大軍出してるから悪いんじゃないだろうか
別に関中の馬超達相手には勝ってるんだしさぁ
1万対10万以上。
あくまでも、後の10万以上の方を正しいとすれば、半分はいなくちゃ対峙できないんじゃない?
2万以下だったら、包囲されそうだ。土山、坑道とかいうからには相当な兵力差あったのは
間違いないだろうけど。裴松之のほぼ受け売りですが。
曹操の場合、大軍云々よりも地形によるところが大きいんじゃ?
中原の地形での戦いをもっぱら得意としていたんで、それ以外のところへ行くと
うまくいかなかったのでは。中原といってもいろんな地形あるんだろうが。
>>296 ハイ松之に太祖は連戦連勝、負けたこともちょっとだしそんなに少ない筈あるかボケ!
って突っ込み入れられてたな
官渡の兵力について色々書いてあって面白い
tp://www23.tok2.com/home/rainy/zuiso-sangokushi-kanto-heiryoku.htm
夷陵の劉備
漢中の曹操
この2つの戦争の結果が二人の器量を表していると思う。
即効見切りをつけて軍を引いた曹操
一方で打開策も見つからないまま居座り続け、大打撃を被った劉備
>>297 大軍を出すべきでないのに大軍出してるから悪い
同意
あの時期の蜀や呉にいくら大軍注ぎ込んでも勝てないでしょ。
ただ負けたというのは間違い。
いけるかどうか試したんでしょ。
ダメっぽいから素直に軍を引いた。
あの頃の魏に、もう無理して戦争する理由はないんだし。
赤壁の曹操は、夷陵の劉備に準ずる敗北じゃないか?
本当のところ赤壁良く分からないけど、江陵一年攻めっぱなしにさせておくってのは
相当被害食ったんだろうと思う。
さすがにそれは無かろう
疫病と長江で進退ままならず、士気の低い荊州軍でさらにどうしようもなかったとはいえ
曹操自身の本体はそこまでの大打撃は受けてないのでは
後々の合肥、漢中とある程度同じ次元での敗北なんじゃないか
赤壁で重要なのはむしろその後荊州を確保しきれなかったことで
大量の将校を失った夷陵の敗北と同列には語れないと思う
その後の蜀の人材難を見てもね
>>302 夷陵の劉備は陸義の火計で盛大に焼き尽くされるまで呉相手に終始優勢で軍を進めていた
あそこは奇策で劉備を打ち破った陸義の手柄であって劉備の失敗ではない
打開策が見つからないままでなく遅まきながら次の一手を打とうとした時に敗北したと言うことも忘れない方がいい
そういえば、兵のレベルはともかくとして、将のレベルでの損失っていうと
夷陵と赤壁は違うか。どっちかというと官渡に夷陵が近い感じがする。
土地の利もあるんだろうけど、よく孔明は蜀を保ったもんだ。
官渡とも違うと思う
袁紹は顔良、文醜は討ち取られたものの袁紹の勢力は揺るぎもしなかったと思う
その後の河北平定まで結構年数食うし
>>308 確かに夷陵はかなりひどい結果だけど、官渡だって淳于瓊に沮授といった具合に
相当なものじゃない?その後、優勢な立場は回復できなかったし。
優勢に軍を進め、奇策で大敗を喫し、多数の将を失った劉備と袁紹。
二人の明暗を分けたのは、幕僚への信頼と後継者問題処理と蜀の地の険阻さ故か。
荊州のこと、すっかり忘れながら
>>309書いてしまった・・・orz
蜀には諸葛亮って素晴らしい丞相がいたからな
あれが諸葛亮じゃなかったら多分蜀「漢」の維持は不可能だったと思う
袁紹の場合は奇策に敗れたってより裏切りの奇襲が致命的だったな
兵糧焼き尽くしは奇策でもなんでもない気がする
奇策というのは曖昧っちゃあ曖昧だな。なんか荀ケが今こそ奇策をもって決着をつけるべき
とか言ってたのが頭に残ってたせいか、官渡は奇策で勝ったんだという印象持ってた。
>>307 官渡と赤壁って有力な将失ったっけ?
赤壁は驚くほど損失少ないんじゃなかったか?
夷陵では馬良が死んでるな。あと南蛮っぽい名前の奴が死んだよな
ジャマイカンだっけか
武陵蛮の武将だな
官渡の将官の被害は
>>308>>309に
赤壁は将官の損失は皆無
夷陵では死者も去る事ながら大勢の投降者が出まくった
沙摩柯だよ沙摩柯
突然出てきて速攻死んでしまった沙摩柯……
官渡の将の損失は、讒言による二次的なものも大きいよね。田豊とか、張コウとか。
張コウは言う事聞いてもらえないから官渡で袁紹が敗北してから曹操に即刻投降したんじゃ?
でも、よく考えると、劉備って、夷陵でも戦死してないな・・・。
人生の中で数多くの敗北をきっしながら、劉備はいつも生き残っている。
これが戦が上手いことにつながるかどうか、わからないが、逃げることに関してはかなり上手かったな。
それ言ったら曹操だって、徐栄に負けたときなど惨敗も多いが、全て生き延びているぞ。
>>318 どんな死地でも逃げ延びられる程の戦略眼、戦術眼を持ちつつも
その才能が人生の大半でただ逃げ延びる事にしか使われなかった劉備
それと人生の全般においてその才能を常に発揮して我が道を進んだ曹操
この2人の対比はやっぱり燃える
>>317 淳于瓊救援でなく本陣攻撃を進言した郭図が、逆の進言をしていた張コウを敗戦後に讒言し
張コウ投降。
曹操死にかけ
・徐栄に負けるが曹洪の馬に乗ってなんとか逃走
・呂布に追いかけられるが典韋のお陰で逃走
・濮城で火に巻かれるが火傷を負いながらなんとか脱出
・宛城で奇襲に遇い、典韋と曹昂と曹安民の犠牲を出しながら逃走
・赤壁で負けて逃走
・潼関で馬超にヌッ殺されかけるが何とか逃走
・漢中で負けるが必死に逃走
こんな感じか?
死にかけすぎ
>>322 追加で
・兵を募集してところ、夜中に集めた兵が反逆。
逆に、漢中死にかけは演義でしょう。
前歯折れないのか!
326 :
324:2005/04/19(火) 00:30:16
日本語がおかしいな。追加で書いたのは曹操が夏侯惇と一緒に揚州に募兵しに行った時の
反乱について、『魏書』で、曹操自身の帳が焼かれて、曹操が剣で数十人切り殺したっていう
話のことっす。
反董卓連合の時に敗れてから再決起しようとした時の話だな
これで失敗して完全に連合内では忘れ去られた存在になった
曹操苦労してるんだな
>>328 忘れられたっつーか、袁紹にアゴでこき使われる立場になったんだよな。
青州兵手に入れるまでは。
曹操?いたの?って扱いだろ
332 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/19(火) 08:25:14
曹操はそんな状態なのに青州黄巾はよく従ったものだ
実態は曹操が青州黄巾に降伏したんじゃなかろうか
333 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/19(火) 08:26:31
曹操はそんな状態なのに青州黄巾はよく従ったものだ
実態は曹操が青州黄巾に降伏したんじゃなかろうか
エン州東群の太守に袁紹に推薦されてなった直後に青州黄巾が襲撃して来たんだったかな
この時の曹操は一応群太守だったし袁紹からも兵を借りられる状態だった
ってかこの時期の曹操は袁紹の部下Aになってるから当然なんだがな
だから曹操としては袁紹の息のかかってない子飼いが欲しかったろうし
青州黄巾は自分達の教えを尊重してくれる統治者が欲しかっただろうし降伏ってよりは利害の一致なんじゃないかと
>>334 青州黄巾が襲撃してエン州牧が戦死してからは、その後釜に推されて州牧に就任してる。
だからその時点では、袁紹とは無関係に州の軍勢を動かせる立場にあった。
だけど、袁紹の援助を受けてた時代に、黒山賊や南匈奴を打ち破ってるので、
このときの活躍があるから州牧に推戴されたし、青州黄巾も従ったんじゃないのかな?宗教観の一致もあるけど。
青州黄巾って曹操が死んだら勝手に帰っちゃったんだよな
おもしろいな
私兵に近い位置だったのかもね。
338 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/19(火) 23:08:05
袁紹は官渡の戦いで、曹操は赤壁の戦いで、劉備は夷陵の戦いで
それぞれ大敗北を喫しているけど、孫権は
このような大敗北を喫したことが無いね?
強いていえば合肥の合戦で張遼にあと一息で追い詰められたことかな。
運良く九死の一生を得た。
>>338 孫権が率いて大勝利もないんじゃないか?
袁紹は公孫瓚の難攻不落城落としてるし
曹操は官渡で奇跡の大逆転
劉備は漢中で曹操撃退
呉は大戦のたびに戦わずして撤退してるからアラが目立たないだけだー。
それより劉備の話はもう終わったんだね?
終わってない
劉備の対比としての曹操の話をしているので曹操の話が終わればまた劉備の話
をしたい
終わったというか
劉備は境遇が時期によってあまりに違いすぎて、共通の戦術ってのが浮かんでこないんだよ
漢中の時期と徐州の時期なんて相手だけじゃなくて自分の軍ですら状況が違いすぎる
負けて軍を失っているから戦下手かといえば、借り受けた軍で自分より戦力が上な相手にぶつかって
それでも最悪な結果だけは回避できてるとも考えられるわけだし、一方的に見るのが極めて難しい
関羽・張飛という野戦のエキスパートを自ら前線で駆使した時代と、諸葛亮加入によって大局的戦略を立て
綿密な後方支援計画を設定した時代とでは比べようがないしね
戦下手とも戦上手とも断言できない、どちらの要素もある
ただ、乱世で一代であそこまで大きくなった男だから並ではないだろうけどね
>>342 議論されてるテーマの変遷。
>>257から、劉備は戦下手ではないが、曹操と違って大軍率いての戦いは下手?
→
>>285から、大軍指揮がうまかった人って誰?大軍の規模って?
→
>>303から、官渡、赤壁、夷陵の三大敗戦比較。
→
>>318から、劉備、曹操、孫権の死にかけ比較
まだ、劉備の話の中にいるかも?
劉備は旗揚げした最初から関張という化け物がついてて運が良いよね。
べつに化け物でもなんでもないと思うが?
348 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/20(水) 12:35:28
化け物は劉備だろ
よく負けたり逃げたりしてるのに勢力は次第に拡大しているんだぞ
劉備は虚名とは言えど転戦して名を挙げているからな
現場指揮官としては素晴らしい2人だけど自律して動く将としては微妙
夷陵の戦いは劉備の戦績の中で珍しく関張がいない戦いだったんだな
司令官としての劉備は桃園の誓いの如く2人がいなくなった時点で死んでいたのだった
なんてね
劉備は力同士のガチンコしか勝てないイメージがある。敵に軍師みたいのがいると負ける。もちろん政治的にも。だから水鏡先生が軍師の必要性をといたんだとしたら、戦上手ではないよね。
何言ってんだ?
劉備に必要だったのは長期的戦略だっつうの
戦闘だけなら劉備は当時有数の将帥
>>351 張飛は益州攻略戦をみると、後半生に関して言えば、なかなかの将軍になってたように思う。
それに比べて、関羽は・・。一般兵卒からはかなり慕われてたようだけど、
荊州防衛戦でのやり方を見る限り、評価できないなぁ。
益州攻略時の張飛は確かにヤバイくらい強いな
357 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/20(水) 15:49:54
そう?劉備ってそんな強い?
強かったら天下とってるだろWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
359 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/20(水) 16:08:07
>358は言いすぎだがある意味正しい。劉備が戦上手ならあんな遠回りしてないだろ。呂布に城乗っ取られたり
361 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/20(水) 16:23:36
↑は>354?
363 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/20(水) 17:36:19
>362
戦略眼がない=戦下手でしょ?劉備が武将とか兵士ならわかるけど、司令官としているわけだし。戦うにしたって、後のこと考えないでやる司令官いないでしょ。
対曹操に関しての袁紹や劉表への進言を見るに戦略眼は十分にあると思うよ。
呂布に下ヒを取られた件に関してはあれは止むを得ないだろ。
ただ最初の段階で呂布を保護した件については結果から逆算すれば微妙かもしれん。
いや、俺の言う戦略眼は政治的な意味での。
>>359でいう城乗っ取られにしても戦下手だから起きた事というよりは
常に先手を打って状況的に優位性を保てるだけの政治的戦略眼が劉備になかったと言いたいわけ。
>>354の指摘に近い意見として。
いわゆる戦場での指揮官としての才は劉備はある程度の才を感じさせるものがあるよ。
過去ログで指摘されてる通りに。
ここで議論している「戦下手か、戦上手か」ってのは戦略的設定が為された以後の
戦術的な指揮についてのことではないのか?
それ以前の軍事としての戦略性についてまで議論した場合、その時点で劉備の置かれた
状況を考慮する必要性があり、そうした場合、政治的な部分まで遡って検討する羽目になってしまう。
そこまで風呂敷を広げちゃうと、結局劉備の君主としての資質まで議論しだす事と一緒で
単なる劉備スレになっちまうよ。
勝敗を決定する上では、戦術で優ることよりも戦略で優ることによって決まることが多いかな?
けれども、劉備の戦いを、戦略で負けたのか、戦術で負けたのか区別するのも難しそうだ。
漢中については、劉備は戦略での優勢を大きな要因として勝ち、
夷陵の戦いでは戦術での失敗を大きな要因として劉備は負けたってことでいいのかな?
>>365 政治的な戦略眼に乏しいというより戦略を具現化する技術が不得手とオレは見るがなあ。
状況が状況なので不得手とは言い過ぎかもしれんが曹操・袁紹以下とは少なくとも言えると思う。
368 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/20(水) 20:37:19
戦争なんかヨーイドンで始まるわけじゃないんだし、状況がどうこう、はゆってもしかたないんじゃ?その状況下でうまくやっていける奴が強いってこと。孫策は同じような状況からのしあがってるし。
↑同意
孫策はスゲェ。
>>368 孫策には親父の名声がありその家臣もいて袁術から兵も借りられた。その上周喩という親友までいた。
劉備に比べれば無茶恵まれたスタートだな
そういや親父も凄いな。境遇も劉備と比較して良いとはいえないし。
寿命の長短もその人物の器のうちと考えると孫策が天下取れるとは思えん
374 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/20(水) 22:05:13
カジノで、チップ5枚を1000枚にした奴と100枚を5000枚にした奴と、どっちがすごいのか?
ってとこじゃね?
375 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/20(水) 22:05:51
>371
劉備は自称漢の血を引いていると言い、関羽、張飛という弟がおり、民からもしたわれていた。孫策とそんなに差はない。
つーか劉備が戦下手かっていうテーマじゃないのか?
曹操や孫策のような連中と比べられてるって事は少なくとも下手ではないだろう。
>>375 劉備なら貧民にチップ分け与えてしまうので論外。ちょっと演義かぶれすぎ?w
378 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/20(水) 22:12:41
>376
いや、他の武将ならともかくとして劉備が曹操や孫策と比べられるから戦上手ってわけじゃないでしょ。劉備比べるなら曹操、孫策といった勢力のトップにいる者としての強さでしょ?
孫策と比較すれば、劉備は徐州の牧を得た時がそれなりにチャンスだった。
楊奉や蔡陽、劉岱・王忠ごときでは劉備の相手にもならぬ!
イマイチ凄みが伝わってこないね...
劉備の場合、指揮官が参謀を兼ねられる程度の部隊指揮官としては有能だけど、それ以上だと有能とは言えないのではないかな。
ホウ統とか法正とか優秀な幕僚がついていれば、その建策の善し悪しの判断が出きる総司令官としての賢明さはかなりあると思う。
ただ、法正らが考案する戦略のようなモノを考える才能には限界がある、みたいな感じ。
382 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/20(水) 22:27:16
つうか劉備って法正とか鳳雛とかの献策をまんま採用してるよな。軍師次第で強くも弱くもなるってのはあたりまえのことだが、劉備は曹操達よりも軍師への依存度が高い気がする
それだけ龐統・法正の献策が的確だったってのもあるだろうが
でも夷陵では黄権の策を退けてますな
384 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/20(水) 22:33:21
>383
夷陵の時は、大規模戦役だったのに、劉備が総司令官兼参謀長みたいになっちゃったんじゃないかな。
黄権は優秀な幕僚ではあるけど、法正らの位置ではないからねぇ。
385 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/20(水) 22:43:28
>384
でも、演義の劉備のイメージだと立場がどうでも良いと思ったら採用でしょ。そういう所が劉備の強さじゃないの?夷稜の戦いは軍師無しでの劉備の力を計るモデルケースにはなるかね。既出だけどさ。
>>379 陳羣に徐州領有の愚を説かれながら容れず、結局は失ってますね。
要するに劉備は、そのつど目の前の状況に対応することまでが限界で
長期的・戦略的な方策を立てられない人物。
そこを補完する幕僚の補佐をえられれば後半生のように成功もおさめるけど、
基本的にはひとりではにっちもさっちもいかない人物の様に思えます。
輔弼・帷幄に良臣・謀臣を得ると爆発的に躍進する典型的な例です。
387 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/20(水) 22:48:03
>385
演義の話ならちょっと噛み合わないな。
388 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/20(水) 22:52:13
いや、人望が劉備の武器だってなってるから、曲解してた。
辛抱強いと言ってもらいたい
劉備は機に臨み変に応じる事は得意だがそこまでって感じだな
機を操る人材が側にいると水魚の交わりとなるわけだ
前半生で劉備が世話になった群雄って、かなりいるな。一時期は袁紹、曹操の傘下になってるし・・・。
その都度、居候させてもらえるということは、劉備一党は傭兵団としてはそこそこの評価を受けていたのか?
393 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/21(木) 00:00:59
一応劉を名乗ってるし関羽、張飛がいたから使えると思ったんじゃない?
そこそこどころかかなりの評価だろう
劉備が曹操の配下になった時、曹操はもうこれ以上ない待遇をしたとあるし
周囲がやり過ぎ!って言ってもうっさいわと言わんばかりに劉備を厚遇して何時も側に置いたらしい
程イクは関張は万夫不当と評価しているし曹操は劉備を自分並の英雄と賞賛している
結論は定説通り。
劉備に無くて曹操・孫氏にあったのは政略家・戦略家・参謀。
それらを得て以降の劉備は、曹操・孫氏に劣らない飛躍を遂げている。
396 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/21(木) 01:11:13
>>395 ってことは
仮に優秀な参謀などがいた場合
徐州あたりで勢力はるわけか?
そうなると曹操、袁紹、孫策、袁術あたりと早い時期に衝突していたと思うが…
そうなるとかなりきつい気が
すまん。sage忘れた
>>396 逆に、曹操や袁紹が劉備のやうに参謀なしの立場なら、同じように苦労していただろう。
プラスして、曹操・袁紹には中央に人脈やコネがあったことも見逃せない。
個人的能力なら劉備は曹操以上ではないだろうか。
徐州は多くの豪族がたくさんいて、そいつらが私兵をたくさんもってるから劉備はもちろん陶謙でさ大軍は動かせなかったらしい
劉備は徐州を統治しようとした
つまり、豪族たちに対して懐柔策をとった
そうして豪族たちから兵を借りた
呂布は逆に支配しようとした
だから、豪族たちを集めて首を斬った
そうして豪族たちの私兵を奪い取った
って話を読んだことがある
こんな借り物の私兵からできた軍を統率するのはかなり困難だとおもうが
もし仮に曹操が劉備と同じ立場だったら
当時は風貌もかなり評価されるらしいから
曹操が頭角を表すのはかなり大変だと思うが
袁紹は論外だろ
袁紹が劉備と同じ立場だったら
普通の人生を過ごしている気がする
袁紹は名門の名だけで成り上がったってイメージが高い
曹操は自身が優れた戦略眼をもっているのでなんとかなるだろう。つうかどちらにせよ、曹操は文官や参謀を好んで集める、劉備には武人が集まるだろうから変わらない。このときの劉備には文官を集める意識が弱い
山賊やっちゃったから信を置かれなかったと聞いたんだが。
諸侯を転々としたのも信頼できる人物ではないからだろ。
>>398 ということは董卓や孫堅あたりも個人的能力なら曹操以上?
>>401 劉備が文官あつめる意識がうすいっていつの話?
徐州統治前後から
文官あつめようとしていたと思うが
>>404 お前一人が思っても仕方無いだろう。
憶測にしても裏付けを出せ。
>>403 どちらも志し半ばで倒れている。
よって曹操や劉備には及ばないだろう。
>400
風貌が重要なのは一般人だけでは?その言い方だと関羽、張飛>劉備になるんじゃない?曹操には風貌ではわからないオーラがあったといってみる。
>>403 董卓は初期はかなりすごい人物だった
都に登って権力を掌握してからおかしくなった
それでも、洛陽から長安へ遷都とかはすごいと評価できる気がする
孫堅もまたしかり
曹操と同等じゃない?
でも孫堅の軍師って聞いたことない気がする
だれか知ってる?
>404
意識あったかもしれんが、実際目立った文官登用してないでしょ?だったら意識が弱いといえるんじゃない?
>>410 名のある軍師がいなくて身分もそれほどでもない二人を劉備と比べてるのでは?
>410
そういえばいないなぁ。諫言してたのが孫静とかだしね。じゃ孫堅が戦略練ってたのか?朱治なんかはなんでもこなしそうだが。
孫子の子孫ですから。
政略家や戦略家ってのはいわゆる名士とかだから、ある程度の家柄や勢力のもとにしか集まらない。
劉備にその意識があっても、思うようには行かないだろう。
諸葛亮を得たのも、諸葛亮の地位や野心がうまい具合に合致した奇跡とも言える。
曹操の出発点が恵まれていたとしているが本当にそうか?
そりゃあ、劉備と比べれば恵まれていたことはたしかだが、董卓討伐軍の時点で
考えると、家名といい個人の名声といい功績(軍事面ではあまりない)といい
己の直轄の軍事力をもっていなかったことといい(この時点では孫堅の方がマシ)、
はっきりいって群雄のなかでは最弱といっていい。
そこからのし上がって一大勢力を築き上げたその手腕は運とか先祖の財産とかで
軽視できるものではないだろう。
孫乾、麋竺とかって徐州のあたりでしょ?
まぁ微妙な文官?
ある程度の家柄→劉備は一応漢の一族ってことになってて、結構有名なんでしょ?今までのレスからすると。
同じ劉なら
劉虞、もしくは劉表の方に行くと思われ
劉虞は初期に滅ぶけど…
しかも劉なら腐るほどいたらしいし
>>418 末裔を自称してももしかしたらと思わせるくらい子沢山だったからなぁ>中山靖王
>417
どちらかというと内政政治家タイプだよね、彼らは。外交官兼務の。対外情勢の対処まではまかせきれない
まあ、俺でもそうするんだから戦略家なら劉表んとこいくよな。納得。
>>416 もちろん軽視はしていない。
しかし、祖父や父のコネがあり、若い頃から中央で名を上げる機会があった曹操は、
劉備よりはるかに恵まれたスタートであったことは間違いないだろう。
>>416 生まれた時点で曹操と孫堅には大きな差があるから董卓討伐時点で比べても意味は無いだろう。
もちろん曹操の能力は認めているけどね。
逆に劉備が曹操の立場だったとしても大した事は出来無いだろうと思う。
>>416 でも曹家ってたしか名門だろ?前漢の曹参?の子孫だったと思う
しかも曹操のじいさん、宦官でかなり権力あったじゃないの?
父親も金でとはいえ、かなり高い位置に成ったこともあったし
父親の実家?の夏侯家も名門だし
そこそこの名声とかはあったと思うが
でも>368でゆったけど、曹操や孫堅とスタート時点での差の話しても仕方ないよ。徐州時代に文官がきにくかったかもしれないけど、曲論いえばトップの劉備に戦略を見る目があればよかったんだし。このスレは劉備に力があったのか語るスレだし。
>>425 宦官は権力あっても憎まれてし蔑まれてたから、名声とかは微妙かも。
だからこそ袁紹は宦官の虐殺を行なったわけで。
生まれた環境の利点をフルに利用してなかったらただの馬鹿だからな。
曹操の場合は、董卓討伐軍の時までに結構高い名声、評判を築いていたのが凄い。
>>426 孫堅と劉備ならどっちもどっちじゃないか?
両方とも役人の子だが劉備は劉姓で盧植の弟子、父親が早世したのは不遇だが…
>>426 劉備は、戦略、戦術ではそこまで光ってるような人物には見えないな。
劉備の凄いところは、各々の地での政治情勢を読むところにあったと思う。
あと、陳登のところかどっかに書いてあった、寝台を巡る劉表の前での逸話からすると
文人の間でも、それなりの名声を持っていたように見える。あと、人物評なんかも得意そうだ。
431 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/21(木) 02:25:57
>429
俺も下手したら孫堅のほうがスタートは厳しいかと。昔からすごかった話はあるが、恵まれてはないよね。
劉備の人物評? 曹豹・・・
>430
劉備のすごい所は、ある意味評価が分かれすぎるところとか。今いろんな文献がある中ですらこんなに話盛り上がるんだから、当時の人からするとほんと底がみえなかったんだろうな。
盧植のもとで学んでたのだから、それなりの教養、コネクションは持ってたんだろうな。
一方で、関羽、張飛といった豪傑と固く結ばれているというのが奥深いところ。
孫堅と劉備なら間違いなく孫堅の方が有利なスタートだった
劉備には一族はついてきていない
一族を上げてバックアップしてくれる孫堅とそうでない劉備
仮に劉備がそれなりの有力氏族の出身だとしても親族が一人も周囲にいないってことは
その援護を受けられていない
劉備は侠の仲間以外にはいなかった
孫堅は意外と袁術配下の将として活躍してる面が大きいと思う
(独立志向の感はあったものの)
劉備も公孫瓚配下の将として活躍してる、と見せかけて
内実はあくまで客将ですよもっと条件のいいトコがあったらそっち行きますよ、的な感じがすr
なんとなくその辺の立ち回りに鋭敏さを覚える
>>435 だから同じようなはぐれ者だったり
名士じゃない人も扱いにくい人材も
厚遇してたんだろうな。
孫堅は金に恵まれた面があるんだよね
海賊討伐を生業にしていたらしいし、そこから孫堅自体海賊ではと見る人もいる
曹操も祖父、父のおかげで金に不自由したことはない
劉備が圧倒的に出遅れた面はここだと思うんだよね
傭兵団を維持するためには、目先の収入ばかり考えた生き方をせざるを得ないから
5年後のことを考えてるようなやつってのは厚遇できないと思うんだよね
何というか、衣食足りて礼節を知るっていうんだろうか
日々を一生懸命に生きてるからこそ大局を見失ってしまう、そんな青年期だったんじゃないかな
そういう姿勢だったからこそ一見ならず者みたいな豪傑もついてきたんだろうけ
劉備は横の関係を大切にしてたからな。
義兄弟とか養子とかでどんどんコネ作って。
パトロン探しとかもしなきゃだし、
世渡り上手じゃなきゃとてもじゃないけど無理。
>>435 一族の支援を受けられずに、本来血縁的には無関係な侠のバックアップがあるという点に
劉備のよくもわるくも問題があったと思う。
>>434 魯植に弟子入りはしたがロクに授業にも出ずに遊び歩いていたのは正史に明記されている。
そして劉備の前半生をみると、魯植の弟子であったことで援助をうけたり味方してくれた
者が公孫瓚以外にいないというのがコネクションの程度を示している。(魯植だって、劉備
の存在をまったく無視しているしね)
黄巾の乱で魯植に重んじられたとか董卓の乱で公孫瓚の軍に参加して活躍したってのは演義のフィクション。
劉備は黄巾の乱の討伐には参加してないしな。
188年ぐらいの幽州の張純討伐が初陣じゃなかったっけか。
つーか公孫さんも反董卓連合に参加してないし。
最初の頃の劉備は賊に負けて公孫さんとこに逃げ込んだり、
正直全然冴えない。
靈帝末,黄巾起,州郡各舉義兵,先主率其屬從校尉鄒靖討黄巾賊有功,除安喜尉
>438
孫堅は海賊退治を…って何が悪いの?孫堅が自分の力で金つくってたんだから金に恵まれてるって表現はおかしいんじゃない?
孫堅は17歳以前に県吏になってるから、そこそこの家だったんだろう、
ただしは昇進は叩き上げだけど。
劉備も父や祖父は州郡に仕えた役人だったし、
遊学して、魯植の弟子になってるくらいだし、
叔父は劉備の学費を提供出来るくらい裕福だったんだから、
劉備の家もやはりそこそこの家だったんだろう。
>>441 注釈では黄巾の乱討伐に参加して、その功績で安喜の尉に
なった事が書かれてるよ(張純討伐も注釈だし)
公孫サンも反董卓連合に参加してないかは微妙、
当時董卓を攻めてた袁術の下に自分の弟を派遣してるし、
完全に参加して無いとは言えないと思う。
正史における反董卓連合軍ってのは、各地の地方官がめいめい勝手に挙兵したという感じで、
演義のように十何人の諸侯が軍勢を率いて一箇所に集結して結成したわけじゃあない。
446 :
名無し募集中。。。:2005/04/21(木) 23:16:50
>446
自力で海賊退治して金かせぐのが、恵まれてるってゆうのはおかしいでしょって。自力でかせぐのは悪いの?ってこと。それこそ孫堅に実力があり、劉備にそれがない証拠だと思う。
てか>438ツッコミどころ満載だな。五年後を考えることができる=今何をすべきか考えることができるわけだから、弱小のときこそ必要なわけだがね。
活動拠点や家庭環境によっても生き方は左右される、そこから戦略・戦術だって
おのずと変わってくるって話でしょ
孫堅の活動範囲には海賊がいて、それを討伐することで金も名声も手に入れられるって
チャンスがあった、それをサポートする一族もいた、現実に金に恵まれてるからこそ洛陽に
はせ参じて成果を上げるだけの軍を持てたわけだよ
これって恵まれてるでしょ?自分で金作るのは当たり前でそれが悪いわけないだろ
450 :
444:2005/04/22(金) 00:07:40
スマン、大きなを勘違いしてた、黄巾討伐も張純討伐もしっかし正史本文に書かれた。
劉備も金に特に困った様子は無いね、若い頃は叔父が出してくれてたみたいだし、
仲間を集める際は商人の張世平と蘇双が出資してくれてるし。
劉備に足りないのは長期的な視野というか粘り強さというか、
すぐに官職を棄てて何処かに行ってしまう所と思う、
まあ県の尉や、丞という下からの出発なんてやってられなかったのかもしれんが。
ただ特に勝ってる訳でもないのに、あちこち行ってるうちに出世してるのは凄い。
>>448 お前にも満載だ
目先の生活に追われることが、将来の大望を考えることとどうイコールになるんだよ
452 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/22(金) 00:18:40
>451
将来の大望の絵を描ける人材からすれば、目先の生活をどうかするなんでどうってことないじゃん。諸葛亮や司馬懿が、生活するにはどうしたらいいのかわからないわけないだろ。
>449
まあ、海賊を討伐できる孫堅からすれば恵まれた状況だけどさ。状況を利用するのはあたりまえって自分もゆってるじゃん。劉備には何もなかったってゆうの?何もできなかったんじゃないの?
劉備の活動範囲は黄巾の激戦区だった
もちろん黄巾と戦ってたんだよね?
ワラタ
どっちの方が恵まれたスタートかなんてことはあんま意味のない議論だと思うんだけど
459 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/22(金) 15:20:01
うん すごく
スタート時の有利不利は確実に存在する訳で、横一列で出世競争してる訳じゃないから
意味がない議論ではないと思う。
元手100円を100万にしたのと、元手10万円を1000万にした場合
どちらがより優れているか、それを判断するときに最終結果のみだけ横一列で語るのはどうかと。
要は「利殖率で判断すべきなんじゃないか?」そういう事を言ってるんでしょ。
ただ此処で言われてるほど劉備だけがやたらと不利なスタートだったとは思わないけど
有利でなかったのは確か。
でも孫堅の扱いは難しいとこかもしれん。
>>460 俺には
『大豆を豆腐にした人と、牛乳をチーズにした人のどっちが偉い?』
みたいに、比較しにくいことだと思うが。
最初から有利な立場にいるだけで有利とは限らないけどね。袁紹なんかは恵まれたスタートだったけど周りにライバルがたくさんいていつ下手したら曹操どころかコウソンサンに負けてたかもしんないし。
劉備と孫堅で一番違うところは地盤作りをしていたかどうかじゃないかな
孫堅自身が海賊かどうかはわからないが、ともかく海賊退治を通じて作り上げた組織を残して黄巾討伐にでた。だから死んでも、残った配下が息子の孫策をもり立てたわけだろ
劉備は負けたら、ただの流浪部隊長になっちまった
>>463 仰ぐべき子供がいたかどうかが一番大きいんじゃないか?
あと孫策の勢力作りに関しては、核としては孫堅時代からの古株もいただろうが、孫策自身で作り上げた部分の方が大きいんじゃないか?
築いた地盤をほっぽり出して逃げてるんじゃ?
見張りに出たまま全勢力を置き去りに逃亡できるあたりが
並みの外道とは一線を画す劉備の凄まじさ。
陳登とのコンビが見たかった。
孫堅は旗揚げ当初からの宿将だが、孫策にはいろんな人材が集まってるしな。二張が孫策のとこにきたあたり、孫策も人望すごかったんかね。
周ユのお陰
↑だろうな。
劉備ってなんか、執着のしどころが普通の人間と違ってるよな。
中国じゃ何考えてるのかわからん人間が好まれるとは聞いたことあるが・・・
父譲りの戦上手で若くて性格は明朗闊達
人気が出ないほうが不思議>孫策
劉備の子供の頃の、将来は天子の車に乗るんだ、というエピソードを見ると、
劉備は小さい頃からかなり権力志向が強い人間だった事が伺える、
しかしその一方で、遊学したものの勉強せずに遊び歩き、
黄巾の乱が起きた25歳の時まで役人にもならず(仲間を集めてぶらぶらしてたみたい)
官位に就いてもすぐにそれらを棄てて何処かに行く事から、
志は高いが、下積みというのが苦手(嫌い)という人間だったんじゃないだろうか。
孫堅は17歳以前に県吏として、曹操も20歳になると役職について下積みを積んでる。
ただどちらも黄巾の乱の際には既に30歳前後になってるので、
地味ながら年齢というハンデもあったと思われる。
>>471 >下積みというのが苦手(嫌い)という人間だったんじゃないだろうか
これ同意
実戦経験は豊富だが兵法知らず。
類まれな戦略眼を持つも、実務能力がからきし…。
だから多くの機会を得るも、生かすことが出来ない。
孔明はまさに正反対の人物だね。
実直で努力家、さまざまな知識を身に着けた孔明は、劉備に徹底的に欠けていた要素を補ってくれるものであったと。
劉備がその才能を生かすには、彼の弱点を補ってくれる人物が不可欠だったんだろうね。
曹操が曹植を連れて狩に行き、「わしがお前の今の歳と同じだった時、頓丘の県令として
名声を上げるために必死に努力した。今、その時の働き振りを振返ってみても一片たりとも
悔いはない。お前も励めよ。」と言ったエピソードは多分に自慢もあるだろうけど、
名声への意識の高さというものは、若い頃の曹操と劉備の間で違うものがあるかもね。
質が違うのかな。劉備にとっての名声は侠の間でのものにのみ関心があったとか。
あえて役職を捨てた、という可能性もあるぞ
幽州の外れの田舎役人じゃ栄達は望めないと思った、みたいな
しかし公孫瓚の下ではけっこうトントン拍子で平原国の相まで出世してるんだよな、劉備
>>474 劉備がトントン拍子で出世したのは、戦場がそこらに用意されてる時代がやって来たからか。
それまでの遊んでいたと評される侠との付き合いが役立つ時代の到来ゆえであって、
治世の能臣には劉備はなれないような。それでも、平原の相の後に、陶謙からの招きが
来たりするあたり、単に武名のみでなく、名士層での人脈でもなかなかのものを持ってたのかも。
曹操は破天荒っぽいけど本質は真面目な努力家だからなあ。。
曹操は破天荒っぽいけど、本質は自分の墓碑銘に漢征西将軍と刻まれることだけ
考えてた夢想家だからなあ。。
漢征西将軍として名前を後世に残したかった男と、天子になりたかった男の違いか。
周りから見ればただの馬鹿だが、劉備は劉邦に憧れて、若い頃侠と遊んでたってことも考えられそう。
本当のところ、性に合う、合わないの問題だったんだろうけどさ
先主伝の最初の書き出しあたりの部分は陳寿が高祖に擬して記述したにすぎないのではないか
>>471 それって劉備が後に皇帝になちゃったから何か意味のあるエピソードのように見えるが
今の餓鬼が将来サッカー選手やパイロットとかになりたいとかいう子供の夢と同レベルの
話じゃないか?
普通は口に出さない
不敬罪に問われるからな
劉備、狙ってやったのかどうか知らんが、
袁譚を茂才に推挙していたのは正解だったな
あれで袁紹とのコネができたんだし
ん?でも推薦してたのっていつなんだ?
ひょっとして平原の相だったときか?
あのときはまだ一応公孫瓚の部下だったワケだろ?
敵対関係じゃねーか
部下って言うか、客将みたいなもんじゃないのか?
>>471 そんなエピソードあるんだ。
高祖と正反対だな。
彼の発言は寧ろ項羽に近い。
485 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/25(月) 07:49:10
>>482 予州刺史になってからのことだろ
予州には袁氏の本貫、汝南がある
まあそんなちゃらんぽらんな劉備が俺は何となく好きだ。
でも劉備は多分乱世でなかったら単なる不良道楽息子だな。
>>460の言うように小さい所から元手を作るのと
それなりにあったものを大きくするのとでは必要とされる能力も違うし
どっちが立派というほどのものでも無いと思うんだがどうだろ。
でも劉備が戦下手か否かはくらべないとわからないんだが。
実際のところ比べようがない。
兵力や状況が違うし。
別に比べなくたっていいだろうに
このスレの存在意義が無くなる
比較でしか考察できないのか?
実際に劉備が何をやったのか見て決めりゃええやん
生まれを問題にするんだったら、曹操、孫権などと比較するのではなく
劉邦、朱元璋などと比較して、劉備が戦下手かどうか比較した方が良い。
劉邦自身は戦あんまり上手くないわけではない
大勢で寡兵に負けない程度には戦ができる
朱元璋ははっきり言って有能さならば長い中国史の中でも有数の皇帝
劉備は三国時代ならばトップクラス
時代も環境も全く違う3人を並べて比較しても何の結論も出ない