今宵はここまでにいたしとうございまする
信州大学教授笹本正治センセの新しい本が出たよ。
『戦国大名と信濃の合戦』一草舎出版
信長が苦しいときに同盟なげうっておいて、苦境を脱して余裕が出てから同盟結びましょうって
そりゃあ無理だろう。
結局勝頼は馬鹿ってことか
武田は織田ではなく徳川に騙されて討たれたんだよとばぁちゃん(山梨出身)は言い張る。
なんでもばぁちゃんの家ではそう言い伝えられてるそうだ。
だからその時の終わり方にかなり不満なご様子だ
実際どうだったのかね?
何をどう騙されて討たれたんだよ
まずはそこからだ
まあ、動機もなくはない。
例えば家康が高天神を落す前に武田が織田と同盟を組んだとすると、徳川は三河・遠江
の領土の大半を奪われた状態で確定されてしまう。
家康にとっては、武田が信長と和睦するなんて到底認められないだろうな。可能な限り
邪魔をするだろうし、両者が敵対を続けるように策動もするだろう。
どっかの城が攻められる〜とか嘘言って、織田から援軍を呼んで三方が原で戦わせて織田と武田を断行状態にしたこと?
信長の同盟申し入れ、「軍鑑」にあったよ。天正5年11月。
てことは、北陸で上杉にボコられた時期で、なるほど。
で、勝頼が断った理由なんだが、謙信と裏約束でもあったのかな?
しかし謙信は死んでしまった
ことごとく裏目にでる馬鹿勝頼
782 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/14(木) 22:07:59
信長公記には勝頼馬鹿と書いてないの?一級資料なんでしょ?
なんの史料だったか忘れたのだが、『勝頼の首級の前で信長は「類稀な武将だったが、
運がなかった」と言った』という記述があったと思ったが、信長公記ではなかったと
思う。
784 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/14(木) 22:27:32
一級資料の定義って何だっけ
同時代著作だっけ
786 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/14(木) 22:31:32
一次史料の事ではないか?信長公記は違うけど。
>>780 むしろ他に裏付けが無い場合、甲陽軍鑑がネタ元の場合は
ちょっと保留だな。
788 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/14(木) 22:33:58
>>782 「ああ、哀れなる勝頼哉」という記述はあるよ。
789 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/14(木) 22:51:21
「闇ヨリ闇道ニ迷ヒ、苦ヨリ苦ニ沈ム。噫(ああ)哀れなる
勝頼哉」ぐらいで、『信長公記』じゃ、特に勝頼評はないみたい。
一級史料とは
>>785の言うとおり
一次史料とは、著者・作者の思想・概念・主張等がなく、客観的な事実のみを
書いた史料
信長公記は厳密に言えば、一級史料で一次史料とは言い難い
ま、だからどうなのって程度で、ここではどう使おうが
相手に伝われば良いと思われ
>>790 いや、
一次史料って当時の書状や日記等当事者自身が書いた史料のことじゃあないかい?
人間が書く以上思想・主張等がない客観的事実のみ書くなんてことはありえないよ。
>>790 違うだろ?
一時史料というのは日記や手紙、あるいは勅令や任命書、安堵状や判決文、証文などの正式な
公文書などの当事者によるもの。当然、その時代や命令者なりの思想概念主張はある。
>>791 それは一級史料かと
例えば、公家等の日記はあった事柄のみを書いてるでしょ?
書状等は本人の感情・思想等があるから、それはそれでOK
小瀬甫庵の例を出すのは気が引けるが、太閤記の史料価値が低いのは
秀吉の行った行動等を、儒学思想で断罪したりしてる
そういう注釈等があるようなのとの区別と考えてください
あ、当事者が書いたのは、一級史料でもあり一次資料でもある訳で
当事者以外が書いた場合の
分け方と考えてください
>>793 その基準でいくと、例えば史記もそうだが中国の正史なんかは儒教思想で断罪しているぞ。
あれは全部史料価値が低いのか?
小林よしのりからになるが
「歴史学の基本は「史料批判」歴史資料の信憑性を検証することにある。
事件発生当時、発生場所で当事者が作成したもの、これを「一次史料」という。
事件から時間が経過した後に、当時者が作成した回想などが、「第二次史料」
そして「第一次史料」「第二次史料」を基に作成したものが、「第三次史料」
史料価値があるのは、ここまで。
作者、作成年代、作成場所が判明しないものは「第四次史料」
何のために作られたのかわからないものを「第五次史料」といわれ、史料価値は、
ゼロと見なされる。」
だってさ。
信長公記は一応二次史料、史記などの正史や小瀬甫庵の信長記は三次史料になるのかね。
そして、おなじ三次史料の史記と信長記でも、長年の史料批判の結果、信憑性の高い低い
が判定される。信長記が低く見られるのは何次史料かの違いだけではない。
そもそも甫庵の『信長記』は史料として書いたもんか・・・・?
ほとんど小説に近い。
【社会】止めようと立ちはだかった男性、轢き殺される→車上荒らし、無期懲役確定
★ひき逃げ殺人で無期懲役確定へ 最高裁、被告の上告棄却
・兵庫県姫路市で01年、大阪府柏原市の会社員が車にひかれて死亡した
事件で、最高裁第二小法廷(福田博裁判長)は、強盗殺人罪に問われた
無職武田晴信被告(33)の上告を棄却する決定をした。一、二審判決の
無期懲役が確定する。決定は11日付。
一、二審判決によると、武田被告は01年12月14日午前2時40分ごろ、
姫路市のレストラン駐車場で、駐車していた車から雑誌などが入った
かばんを盗み、自分の車で逃げようとした。これを見つけた会社員の
男性(当時26)が武田被告の車の前に立ちはだかったが、武田被告は
そのまま車を走らせ、男性を引きずって殺害した。
会社員の両親は事件後、会社員が結婚資金のためにためた200万円を
懸賞金にして情報を求める活動をした。
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1113389537/
>>793 言い方間違ってるよ。
その時代の当事者が残した実際の記録・書簡・日記・命令書等々が一次資料。
それらを第三者が編集・編纂・加工して作成したのが二次史料、
以下他者の手が加わるごとに三次四次と下がっていく。
一級云々という言い方はその史料の価値や重要度の問題。
当事者の記録である一次史料一般的に史料的価値も高いので、
その多くが一級という言い方も出来る。
しかし、例えば非常に筆者の思想が入ってしまっている日記とか、
自分に都合のよい情報のみを告げようとした書状等、
場合によっては必ずしも真実が書かれていないため価値が下がるものもある。
逆に二次三次といえども客観的で良質な編纂がされていれば、
高い史料的価値を持つ場合もある。
ここらへんの判断は、
他の史料とのすり合わせや遺跡等の考古学的な証拠との突合せによって評価されるのが普通。
>>799 こんな名前つけられちゃたまったもんじゃないわな
信長が勝頼の首を足蹴にして
罵ったって言う記述はなんだっけ?
俺にはわからんが、上洛は漢のロマン。
Q:「甲陽軍鑑」は後世に書かれたもので、当時の一次史料としては信憑性を欠くのではないか?
A:「甲陽軍鑑」は武田家家臣・高坂信昌(春日源助)らが綴った手記を江戸時代の軍学者・小幡景憲がまとめたものだという解釈が一般的です。
しかし、最近の国語学の研究では信玄、勝頼に関する記述に室町時代の文体の名残が見られ、ほぼ同時代(戦国末期)に書かれたものであることが判っています。
ただし、書き始められたのが長篠の敗戦直後からと推定されていますので、多分に高坂の思いこみや推測が入っていたり、
現存する古文書と照らし合わせると時系列がおかしい部分もあります。
一次史料(同時代)・二次史料(のちの編纂)という客観的に評価される原史料
はともかく、一級史料・二級史料という評価は、歴史家や研究者が勝手に下した
もの! A氏にとって一級とされても、B氏には二級となるわけだ。
>多分に高坂の思いこみや推測が入っていたり、
小幡景憲の間違いじゃねーの?春日虎綱が高坂姓を名乗ったのかさえ微妙なのに
高野山の過去帳ぐらいしか高坂という名前の記録ないじゃん
808 :
776:2005/04/15(金) 12:14:24
ばあちゃんの話でお騒がせした、776です
改めて聞いてみたらこんな感じだった
「どうしても武田の名や血が欲しかった徳川は織田と仲良くしながらも
武田とも仲良くしようとしていた。
織田と武田が仲直りしかけた時に徳川は織田を騙して織田を怒らせた
そしてそれをいいことに木曽や小山田を裏切らせた。」
あと、穴山は悪くない、穴山は仇を取るために徳川に下っただけだと
ただ、なにぶん80過ぎの婆様の話だから…
今週末、ばあちゃんの実家にも詳細を聞いてくる
809 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/15(金) 13:31:20
810 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/15(金) 14:08:51
>>808 おまいのばあちゃん、面白いな。
貴重な歴史証言として本を書いてもらいたい(w
811 :
776:2005/04/15(金) 14:50:08
>>809 今は兼業農家だけど元々は武家、春日家に仕えていたとのこと
>>810 ばあちゃんちに伝わるただの言い伝えだから
貴重証言なんていう高レベルの話ではないよ
春日側でそういう話が伝わっているのか興味深いな
>>811 :776
世紀の大発見じゃないか! 話を録音するの、忘れるなよ。
>穴山は悪くない、穴山は仇を取るために徳川に下っただけだと
結構早い段階で寝返ってたような気がするんだが・・・
811氏は穴山家ゆかりの家系だったりしてw
そういえば姫スレでも書かれているのだが家康は天正8年に武田側から
側室を迎えているんだよ。通称お竹の方、別名お松の方で振姫の母
これは家康側からの要望で、引き換え条件は不明
本当は松姫が欲しかったが、織田との切り札になりかねない
彼女を渡すわけもなく別人を松姫と称して送り込んだとのこと
家康が武田と仲良くしようとしてたというのはこれから理解できないかなと
あと、織田と武田が仲直りしかけていた時を勝長の返還と考えれば
勝長の口から信長にそれが漏れることを恐れて何か画策した可能性もある
織田と武田が結んだら徳川はこれ以上勢力広げらんないしね
>>815 なるほどな、おもしろい!
穴山はそれを信長にちくって所領安堵+褒美ってことか
ついでに家康を処分する理由もできたと…
>>815 その姫スレは覚えてるけど、お竹がお松の身代わりとは
カキコしてなかったような記憶があるけどな。
松平民部を産んだ法光院はお松という、
家康が松姫に執着してたって本当なのかもね・・・じゃなかったか?
振姫の母、良雲院お竹の方の別名がお松というのは初耳。
相変わらず、どこでも松姫は人気者・・・か。
松姫は人気者と言う表現は適切ではないんじゃないかな
なして勝頼は武田の関係者を家康に差し出したのだろうか?
勝頼同意か、家臣の暴走か気になる
>>820 その前に家康が天正八年頃に松姫を要求したという事について
何かの文書や記録、研究者の発表があるのか聞きたい。