3 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/24(木) 21:49:21
イケメンの信玄様が2 げっとぉー
4 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/24(木) 21:52:01
そろそろ上洛したいぜよ。
大名毎の石高目安表はいらね
信玄はデブでハゲ
各国の石高及び動員兵力(石高は太閤検地のもの)
ちなみに、万石あたり250人は比較的低い動員率、
無理すればもっと動員できるだろうがそういう兵力は基本的な守りに残すと解釈。
関東
上野:49万6千石/12400
甲信・中部
甲斐:22万8千石/5700
信濃:40万8千石/10200
飛騨:3万8千石/950
美濃:54万石/13500
近江:77万5千石/19375
東海
駿河:15万石/3750
遠江:25万5千石/6375
三河:29万石/7275
尾張:57万2千石/14300
伊勢:56万7千石/14175
志摩:1万8千石/450
北陸
越後:39万1千石/9775
越中:38万3千石/9500
越前:49万9千石/12500(慶長検地では68万石)
若狭:8万5千石/2125
>>5 あの目安表
武田の信濃支配率100%とかトンデモ過ぎて
話にならんしな。歴史群像レベル
なんか続きがないのでいきます
畿内
山城:22万5千石/5625
大和:44万9千石/11225
摂津:35万6千石/8900
河内:24万2千石/6050
和泉:14万1千石/3550
伊賀:10万石/2500
四国
讃岐:12万6千石/3150
阿波:18万4千石/4570
淡路:6万2千石/1550
10 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/24(木) 23:33:35
1572年(元亀三年)十月三日(信玄、古府中を出立)の各勢力の状況
●武田
・甲斐…100%(5700)
・信濃…100%(10200)
・上野…36〜43%(4450〜5375)
*倉賀野、松井田、箕輪など領地は広げているが、ほとんど北西山間部なのがネック。
面積で言えば4割だが、石高では三分の一程度とする意見あり(上野の平野部は南東)。
14郡中武田は吾妻郡 碓氷郡 甘楽郡 群馬郡の半分 故に石高的に3分の一 の説。
利根川以西を領土とすると、これに録野、片岡、多胡郡が加わる。(約四割)
・駿河…100%(3750)
・飛騨…10%(95)
*72年7〜8月に飛騨諏訪城を落としている。これ以前の直接の軍事行動はなし。
もともと飛騨の豪族は越中の対一向一揆で上杉と仲がいい。諏訪城主江間氏も逃亡
して上杉氏を頼る。
・越中…?
*68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っているが、71年には謙信に落とされている。謙信は73年
には加賀まで攻め寄せているから、その頃までに越中の武田勢はなくなっていたとみるべきか?
・遠江…7.8%(500)
*遠征前に陥したのは71年に国境の榛原郡小山城(この時高天神や掛川も攻めるが落せず)と犬居郡のわずか(天野氏は未攻略)。
武田が本格的に東に出てくるのは、氏康が死んで同盟復活する71年後半(正式な復活は71年12月)。
遠征後は20%ほどに増大。
・三河…12%(850)
*71年、足助・野田城を落とし、設楽・額田・設楽・八名郡を支配。ただし全て山地なのがネック。
・美濃…5〜10%(675〜1350)
*秋山信友が岩村城を落すのが72年11月。 それ以前に落していた恵那郡の小城を、どの程度に見積もるか?
18(22?)郡中これだけでは5%もないとする意見もあり。
総計26220〜27820
後北条と同盟。義昭や顕如ら畿内の反織田勢力と連絡を取り合う。背後に上杉と上野方面を巡って火種。
ただし、もともと高税率のうえ、69年以降は戦もそれまでの二倍以上となり、さらにこの作戦にあたっては
さらなる臨時税から借入まで。領国の疲弊はすでに始まっていたと思われる。継戦能力にも疑問。
11 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/24(木) 23:34:17
●織田
・尾張…100%(14300)
・美濃…90%(12150)
*美濃 21(18郡?)郡中武田は恵那郡岩村周辺のみ 郡上郡遠藤氏は武田織田を秤にかけて日和見。
・志摩…100%(450)
*ただし、戦力としては水軍衆がほとんどと思われる。
・近江…70%(13563)
*浅井・六角は追い詰め中。他には甲賀郡の土豪と野洲郡のいつ蜂起するか判らない一揆衆。
・伊勢70%(9923)
*桑名・三重郡の一揆衆。配下からも寝返られ、本城も明け渡され乗っ取り進行中の北畠氏を除く。
・三河…10%(728)
*水野氏など、桶狭間以前から織田についていた豪族。
総計51114
この他、畿内各地に協力勢力と敵対勢力あり。義昭とは抜き差しなら無いところまで。堺などの都市も抑える。
若狭の豪族たち(逸見・粟屋・内藤)、大和の筒井他、摂津河内和泉の細川畠山池田荒木和田など、淡路の安宅
などが味方勢力として存在。
12 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/24(木) 23:35:43
●徳川
・三河…78%(5675)
・遠江…92.2%(5875)
*両国とも、武田にどの程度侵略されているか。また調略如何によっては動員はさらに下がるかも。
総計11550
三方ヶ原の戦力を考えれば妥当か。ただし武田軍撤退後、特に遠江では支配率は グンと下がっているだろう。上杉と同盟。
13 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/24(木) 23:36:54
その他の勢力 東国
●長尾上杉
・越後…100%(9775)
・上野…?
・越中…?
*72〜73年の軍事行動で、加賀まで攻め寄せ顕如から信玄へ救援要請が出るほど。
・飛騨…?
*江間氏、三木氏などは以前から上杉と親交関係あり。人質を出したとも。
総計9975+?
・遠征能力○
遠征能力は高いが、北陸へ出陣中。仮に北信・上野に出陣するとしてもメリットは薄い? ただし史実
ではこれ以前も以後も関東への出兵を繰り返している。武田・北条・加賀を敵に回して織田・徳川と同盟。
関東の諸将(佐竹ら)とは疎遠になった。
●後北条
・遠征能力○
武田・上杉と並ぶ大国だが、武田とは同盟中。今回の武田西上でも援軍(二千~三千?)も出している。
数年前まで戦っていたとはいえ、手切れをしてまで武田を攻める事は無いだろう。北関東には他に敵
もいる。
14 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/24(木) 23:38:45
その他の勢力 畿内
●朝倉
・越前…100%(12500)
*寺社領は議論中。慶長検地から、+18万石くらい?
・若狭…?
*守護武田氏は抑えているが意味なし。有力国人である逸見氏・粟屋氏などはこぞって織田について抗争中。
朝倉軍の一部は粟屋氏の居城を攻撃していた模様。(武藤氏が反織田に回ったが、この時期の動向は不明)
総計12500+?
・遠征能力○
遠征は10000程度は可能か? 現在、越前にフラフラ様子み。70年の講和以降、浅井への援軍以外に
出兵なし。経済疲弊。一部軍役拒否の状態。若狭の支配圏は低下中、むしろ抑えるための兵力派遣
が必要。
●浅井
・近江…9.5〜13%(1850〜2550)
*伊香郡、高島郡の半分、浅井郡の小谷、山本山城しか残っていない。高島郡はもう少し高いとみる説あり。
総計1850〜2550
・遠征能力△(朝倉が来れば助力可)
単独での侵攻は辛い。木下隊に苦戦。小谷城の眼前に虎御前山砦を築かれて押し込められる。
●六角
・近江…?
*愛智郡鯰江城で逼塞状態。甲賀の土豪がどれほと力になるか?
●松永・筒井(反松永)
・大和(11225、ただし双方合わせて)
*寺社勢力は心情的にも筒井派。土豪も多くが筒井につく。
・遠征能力×(両派とも)
大和で両派が泥沼の抗争中。お互い支援を求めて織田や三好と手を組むことに。
元亀三年の時点では織田の支援を受けた筒井側に有利。松永は押されっぱなし。
15 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/24(木) 23:39:27
●長島一向宗+国人
計20000?
遠征しないが尾張は目と鼻の先。ただし動きは鈍い。守備力は高い。
●石山本願寺+雑賀衆?
計23000?
遠征準備は謎だが、近江まで歩いて1日。 ただし動きは鈍い。守備力は鬼。本願寺自身は織田と直接
軍事衝突は行っていない(するのは後年)。信長との外交ルートあり。
※もともと本願寺と一揆は別ものであり、絶対的な命令権があるわけではない。各地の一揆はそれぞれ
の権益を守るために支配者に抵抗した。また、兵力には老幼婦女が多数含まれていると考えられる。
●北畠
・伊勢…30%(4253)
*大湊など、伊勢湾の海上交易に大きな影響力をもつ。かつては南伊勢五郡を有したが、織田へ離脱
するものが出る。
計?
・遠征能力×
織田による内部からの乗っ取り進行中。そのため勢力としては身動きとれない。隠居させられた北畠
具教は面従腹背。武田と接触をとっているが(根拠は不明)、実質どれほど動かせるかは不明(後年、
具教が討たれたときに北畠残党が挙兵するが、一族などの一部に留まる)。
ほとんど織田の一部とみなしてもいいとする意見あり(ただし、信雄が正式に跡目を継いで北畠軍が
織田の一環として行動するのは74年以降)。
●伊賀
六角に協力したり北畠についたり。基本的には中立。
16 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/24(木) 23:40:02
その他の勢力 三好
三好一族の主だった頭(各国の支配率は不明、動員数は100%の場合)
畿内
・本家:三好義継 三人衆との関係から信長に従っていたが、義昭と共に敵対する
・三人衆:三好長逸、三好政康、石成友通 これも一枚岩ではない。義継や久秀と
抗争の為に行動をともにしていただけ。特に石成は一人信長についた時期もある。
・三好笑岩 基本的に、四国三好家にちかい。信長以前は本家と戦い続ける。
・三好政勝 管領細川家の家臣。長慶を親の仇と長年争い続ける。
・摂津(8900)
・河内(6050)
・和泉(3550)
*ただし、この全てを三好一族が抑えていたわけではなく、細川、畠山、池田、和田、荒木、伊丹、
その他在地勢力が根を張り、反三好から織田につくものも多数いた。
総計18500-敵対勢力
・遠征能力×
反織田という形で立場は同じになったが、指揮が統一されたわけでもなく分裂状態のまま。
統一行動は難しいか。
17 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/24(木) 23:40:49
四国
・阿波三好家:三好長治-篠原長房 基本的に、主筋になる細川家と争ったり講和したり。 畿内には
あまり関わらず。播磨方面で抗争があった模様?
・讃岐十河家:十河在保 阿波三好家と行動を共にす。
・淡路安宅家:安宅信康 四国三好家についていたが、1572年には信長につく。
・阿波(4570)
・讃岐(3150)
・淡路(1550)
*安宅信康が織田についてしまったので、これは三好には加えられない。
総計9270-安宅氏の勢力
・遠征能力×
お互いに争ったり結んだり。このころには篠原長房との確執が表面化しだす。73年4〜5月に長房が
討たれた後は抑えられていた豪族たちが反旗を翻すことになる。
四国の三好家関連は、後にほとんど信長に属することになる
おまけ
●足利将軍家
・山城…?
*北山城の国人が義昭に呼応し、明智の配下から離脱者が出たとの記録あり。また細川藤孝や石成友通
などの勢力もあり。細川・明智は織田勢力とみなしてもいい。
総計不明
・遠征能力×(史実でも城に篭った)
18 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/24(木) 23:42:10
■この情勢をもとにした推測。
織田は
近江に浅井・朝倉への抑えとして木下、磯野で合計七千ほど、
江南の抑えと京へのにらみに八千ほど、
北伊勢への抑えと尾張の守備に五千ほど、
美濃では岩村への抑えに三千ほど抑えに置くとすれば、
(基本的な任務は守備、現状維持)
計算上は2万8千ほどを対武田に向けられるのでは?
武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、
北条の援軍が二千〜三千で、
合計ニ万〜二万五千ほど?
19 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/24(木) 23:43:12
■三方ヶ原の戦い後の情勢。
1572年
十二月 二十二日 三方ヶ原の戦い
1573年
一月 三日 武田軍野田城を囲む
北山城や摂津河内の国衆から義昭に付く者が続出する。信長は村井、島田、朝山日乗を講和の使者に出すが義昭は一蹴。
近江志賀郡の石山、今堅田に兵を入れる。
二月 十五日 武田軍野田城を落とす。
二十四日 柴田、丹羽、明智、蜂屋の軍が近江を攻撃。石山、今堅田も数日で開城。
三月 二十五日 信長、岐阜を出陣。
二十九日 細川藤孝、荒木村重が逢坂に信長を出迎えて忠誠を誓う。
四月 三日〜四日 上京焼き討ち。二条御所を包囲。
七日 調停の仲介により信長と義昭との和睦なる。
八日 信長、京より岐阜へたつ。
十二日 武田信玄死去
柴田、佐久間らは六角氏が立て篭もっていた近江愛知郡の鯰江城を攻略。さらに百済寺も焼き討ち。
七月 足利義昭京より逃れる。
八月 朝倉・浅井両家滅亡。
前スレも結論もできるだけ容れて修正してみました。
最期には、上杉の兵力もだしてみようという意見あり。
あと話題としては、73年3月時点での吉田城と武田軍のどうこうについてと、
それにともなって勝頼の権力基盤について。
真偽のほどはまだ確かではないみたいだけど(吉田城攻囲)
とりあえず信玄延命のifでも野田城陥落以後は吉田城攻略が
次の目標である可能性が一番高そうなのかな
尾張
天保郡別
愛知郡 :8.98万石
春日井郡:13.17万石
丹羽郡 :6.96万石
葉栗郡 :7.39万石
中島郡 :8.22万石
海東郡 :8.88万石
海西郡 :2.88万石
知多郡 :7.11万石
総計 :63.59万石
戦国推定
愛知郡 :8.1万石
春日井郡:11.9万石
丹羽郡 :6.3万石
葉栗郡 :6.7万石
中島郡 :7.4万石
海東郡 :8.0万石
海西郡 :2.6万石
知多郡 :6.4万石
総計 :57.2万石
甘楽 6.7万石 5.2万石
禄野 3.1万石 2.4万石
多古 1.3万石 1.0万石
片岡 0.4万石 0.3万石
碓氷 4.1万石 3.2万石
吾妻 2.6万石 2.0万石
利根 3.1万石 2.4万石
勢多 7.7万石 6.0万石
群馬 12.1万石 9.3万石
那波 2.6万石 2.0万石
佐位 2.1万石 1.6万石
山田 3.7万石 2.8万石
新田 6.7万石 5.2万石
邑楽 8.1万石 6.3万石端数
計 64.3万石 計49.6万石 0.77
遠江
引佐 7.7万石 4.3万石
浜名 0.12万石 0.07万石
敷智 5.0万石 2.8万石
?? 0.25万石 0.14万石
長上 3.1万石 1.7万石
豊田 6.4万石 3.6万石
磐田 0.14万石 0.08万石
周智 2.7万石 1.5万石
山名 4.0万石 2.3万石
佐野 2.9万石 1.6万石
城東 6.9万石 3.9万石
榛原 6.0万石 3.4万石
計 45.21万石 25.5万石 0.564
三河
屋美 6.7万石 3.6万石
八名 8.7万石 4.6万石
設楽 3.0万石 1.6万石
宝飯 6.7万石 3.6万石
播豆 7.0万石 3.7万石
碧海 9.7万石 5.1万石
賀茂 6.7万石 3.6万石
額田 6.2万石 3.3万石
計 54.7万石 29万石 0.53
近江
坂田 9.2万石 8.4万石
浅井 7.7万石 7.0万石
伊香 3.6万石 3.3万石
高島 7.4万石 6.7万石
滋賀 4.6万石 4.2万石
栗田 6.8万石 6.2万石
野州 6.7万石 6.1万石
甲賀 7.8万石 7.1万石
蒲生 14万石 12.7万石
神崎 4.8万石 4.4万石
愛知 6.4万石 5.8万石
犬神 6.1万石 5.6万石
計 85.1万石 77.5万石 0.91
伊勢
度会 5.5万石 4.3万石
多気 4.8万石 3.7万石
飯野 2.7万石 2.1万石
飯高 6.1万石 4.8万石
一志 10.9万石 8.5万石
安濃 6.2万石 4.8万石
庵芸 4.8万石 3.7万石
河曲 3.4万石 2.7万石
鈴鹿 6.7万石 5.2万石
三重 6.7万石 5.2万石
朝明 3.3万石 2.6万石
員弁 5.0万石 3.9万石
桑名 6.6万石 5.1万石
計 72.7万石 56.7万石 0.78
上野
吾妻郡:2.0万
碓氷郡:3.2万
甘楽郡:5.2万
群馬郡:7.4万(80%)厩橋城以外 利根川以西と考えて
計17.8万石 36%
兵力4450
上野の利根川以西すべてを武田領と考えた場合
吾妻郡:2.0万
碓氷郡:3.2万
甘楽郡:5.2万
群馬郡:7.4万(80%)厩橋城以外 利根川以西と考えて
禄野郡:2.4万
多古郡:1.0万
片岡郡:0.3万
計21.5万石 43%
兵力5375
浅井
伊香郡、高島郡の半分、浅井郡の小谷、山本山城
伊香郡:3.3万
高島郡:3.4万(6.7万の半分)
浅井郡:3.5万(一応半分で算出)
計10.2万石 13%
よって、兵力は2550。
伊香郡:3.3万
高島郡:3.4万(6.7万の半分)
浅井郡:0.7万(10%案)
計7.4万石 9.5%
兵力は1850
がでたが高島郡は織田が73年に攻めた城、浅井滅亡後服属した国人などから
前スレ27?で高島郡:4.5万(離反者を除く)
が有力視されている
遠江
遠征前
周智郡:0.8万(1.5万の半分)犬居の天野氏のみ 天方等はこの時点では未攻略
榛原郡:1.2万(三分の一) 駿河国境沿いの一部のみ 71年に駿河国境沿いにある小山城を落としたこと
計2万石 7.8%で
兵力は500
遠征後
周智郡:1.5万
榛原郡:1.2万(三分の一)駿河国境沿いの一部
豊田郡:1.2万(三分の一) 天竜川沿いの諸城を落としたことから
磐田郡:0.08万石
引佐郡:1.1万(四分の一) 山県が伊平小屋を落としたこと 三方ヶ原後その辺に布陣していることから
佐野郡:0 佐野郡は掛川城周辺だから
計約5.1万石 20%
兵力は1275
三河
遠征前
賀茂郡:1.2万(三分の一)足助城周辺から美濃国境設楽郡側を領有と考えて
額田郡:0万 額田郡は岡崎周辺だから
設楽郡:1.3万(80%)信濃国境から長篠周辺までと考えて
八名郡:0.9万(20%)長篠以北と考えて約20% 八名郡の中心は下流域だから
計3.4万石 12%
兵力は850
遠征後
賀茂郡:1.2万(三分の一)足助城周辺から美濃国境設楽郡側を領有と考えて
額田郡:0万 額田郡は岡崎周辺だから
設楽郡:1.6万(100%)
八名郡:1.5万(30%)野田以北と考えて約30% 八名郡の中心は下流域だから
計4.3万石 15%
兵力1075
若狭でとりあえずわかることは
逸見や粟屋は信長上洛時より信長派
70年越前撤退後、明智光秀と丹羽長秀を若狭に遣わし、武藤上野守友益から人質をとる
17か条異見で義昭は粟屋の訴えを聞かないと批判されてる
朝倉滅亡時、織田勢に味方して粟屋越中の城に対して築かれた十ヶ所の付城に朝倉兵がいたことから
最低でも朝倉の動員を妨げること勢力であることは確実
越前一向一揆勃発のさいは若狭衆は秀吉等と敦賀を固めている
とりあえず確実そうなことだけ
朝倉から内応者
前波吉継・富田長繁・戸田与次郎・毛屋猪介。代表的なだけでもざっとこれだけ
武田の財政状態
「依急借ニ後納之定」(元亀三年十月に甲州四郡惣代百姓宛に出された高坂弾正・土屋直広・穴山梅雪連名の書状)によると
御用金九万両及び御用米十五万六千俵を『恩借』したい、とある
つまり臨時徴税ですらなく、借用じゃないかこれは?
かなり莫大な金穀をこんな手でも集めているのは台所が苦しかったか、それとも長期戦を予想していたかどちらかだろう
73年謙信の動向
ちと上杉関係の史料手元にあるのでみてたんだが
謙信の動向がかなり影響してるのではないだろうか
信玄遠征のときは謙信は越中に出陣しており
1573年の正月も越中ですごし春日山帰陣は1573年の4月21日となってる
勝頼の東美濃侵攻や高天神城攻めとなる1574年は
謙信は正月26日に陣触、2月5日に上野沼田に着陣してる
この関東出兵は主に北条相手で5月に帰国してる
7月上旬には上野に北条が出陣という情報を受け先遣隊を派遣
8月始めに自身も向かってる
由良氏領内や武蔵への出兵で閏11月19日に厩橋に帰陣、越後帰国は24日
12月24日には父為景の33回忌が行われている
で問題の長篠の戦いのあった天正3年(1575)
2月16日に越後諸侍の軍役張を作成しており
また4月24日には多聞天に北条殲滅を願う願文がのこっている
天正3年における長篠の戦いまでに謙信の出陣の形跡はみられない
8月の越中への出陣まで謙信が出陣した様子はない
つまり勝頼の長篠攻め当時謙信は春日山におり
勝頼もかなりの兵力を対上杉に割かなければならなかったのでは?
上杉、織田、徳川は共闘関係にあり
1574年の謙信の関東出陣にも呼応する形で徳川が駿河に攻め込んでいるし
(織田はこのとき出陣せず釈明している)
おそらく武田側にはこの長篠攻めに関しても上杉が出兵する危機感はあったかと・・・
信長公記の松永拝謁の誤りの根拠
11月19日 松永久秀(「松城」)、大和国片岡の近辺へ出撃し放火す。〔『多聞院日記』二〕
11月20日 松永久秀、大和国片岡の近辺を放火す。〔『多聞院日記』二〕
11月22日 松永軍、大和国多聞山城より出撃し今市を放火す。筒井順慶軍(「筒井衆」)が撃退したが、少々の損害を受けた。
〔『多聞院日記』二〕
12月27日 多聞院英俊、松永久通(「金吾」)へ歳末礼のため大和国多聞山城へ登城し贈物を進上。〔『多聞院日記』二〕
12月29日 多聞院英俊、松永久通(「金吾」)より「三昧田」の件で通達が来たので大和国多聞山城へ登城。夕刻に談義があった。
〔『多聞院日記』二〕
506ではないけど上記はすべて元亀3年(1572)のこと、信長公記を信じるなら「さる年の冬」(1572)に多聞山城を明渡したとあるが
多聞院日記ではそのような記述はなく、むしろ松永が在城しているとの記述があり明らかに記述矛盾がある。
73年2月以降の信長の行動
2月24日 織田信長、京都紫野大徳寺へ「青陽慶事」とし銀子10両を受けたことを謝し
近日の上洛予定を通知。〔「大徳寺文書」三〕
なんてのもある・・・
実際に動いたのは3月25日だが・・・
2月23日の細川藤孝宛の書状でも信玄の野田表撤収について触れているから
その時点で上洛は考えていたものと思われ
3月
25日 上洛のために岐阜出陣(信長公記)
29日 逢坂で細川・荒木の出迎えをうける(信長公記) 京、信長の上洛により騒擾 信長、知恩院に布陣(兼見卿日記)
このあとは一々挙げないが、4月11日に岐阜に帰還するまで京とその周辺で活動していたことは
主に兼見卿日記などで確認できる(その他発給文書などでも)。
一方、信玄の死がいまでは通説は4月12日。
上杉に対しては3月19日に条目を送っている
近江や義昭の情報及び武田の撤退
信濃侵攻を織田・徳川・上杉で行うことなどの確認
織田信長書状「謙信公御書集」巻12
信長から謙信に宛てた3月19日の書状ね
1、信玄此中ハ三州(三河)奥郡信州堺に候間、去十二日引散之由候、
士卒共ニモ一円隠密候而、物粉に退候旨候、諸勢ハ十六日に退散之由、
堺目方々より告来候、猶慥之儀追而可申事、
28スレの概要
序盤姉川の合戦
250ぐらいまで武田の税 財政状態疲弊度
500前後信長公記の誤り
水野信元の謀反の事が2回
松永拝謁の記述
573ぐらいから武田の本拠地移動についてと兵農分離の虚構
627ぐらいから織田上杉の機動性 冬場の戦争
>>642>>643上杉武田の戦争例
680ぐらいから織田家の軍団長について
700ぐらいから徳川がどれだけ粘れるか
800前後勝頼を陣代当時の軍制度
900前後勝頼を陣代当時の軍制度
乙
しかしテンプレ長くなり過ぎだな、
誰かまとめサイト造ろうという猛者はいないものか・・・。
いくつかはまとめられると思うけど。松永とか朝倉や若狭のことなんかは
●武田
・甲斐…227,600石
・信濃…490,000石
・西上野…190,000石前後 *上野468,000石
*面積で言えば5割前後、石高では4割程度、14郡中、吾妻郡、碓氷郡、甘楽郡、群馬郡
・駿河…150,000石
・飛騨西部を除く…60,000石前後 *飛騨75,000石
*72年7〜8月に飛騨諏訪城を落としている。以前にも山県ちゃんが制圧
もともと飛騨の豪族は上杉、武田派で抗争。江馬氏も健在、三木も武田に降っている
・越中…48,200石前後 *越中482,000石
*68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っている。
71年には謙信に落とされているが、翌年の富山城占拠を指揮。陣参
・遠江…遠江150,000石
*ほぼ制圧
・三河…63,000〜94,500石 *315,000石
*71年、足助・野田城を落とし、設楽・額田・八名郡を支配。
・美濃…54,000石前後 *540,000石
*土岐、可児郡の端を掠め、秋山信友が遠山氏を降すのが72年11月。
計32700
織田
・尾張…100%(14300)
・美濃…80%(11000)
・志摩…100%(450)
・近江…60〜65%(12000)
伊香郡と高島郡、浅井郡しかのこっていない浅井。
鯰江で逼塞中の六角。志賀、野洲郡で、すぐに鎮圧されるけどいつ反乱起すか判らない一揆衆。
・伊勢70%(10000)
桑名・三重郡の一揆衆、北畠を除いて。弟死亡
三河…0%(0)
水野氏などは長らく徳川に派遣中、見方ヶ原後に処分
総計49000
●徳川
・三河…70〜85%(5000〜6200)
・遠江…60〜75%(3750〜4800)
*両国とも、武田に侵略されまくり。領地は戦前のもの
計約10000
浅井
伊香郡:3.3万
高島郡:4.5万(離反者を除く)
浅井郡:3.7万(虎御前山の位置からして、こんなものか)
11.5万石 2825、思ったより少ないか
朝倉
越前68万石 17000
長島一向宗、土豪 20000
石山 23000
>>36 野田城落ちたのが17日で、3月7日の細川宛書状に
野田城普請していると報告しているから、17日野田撤収は読み間違いじゃないか?
>>46 そう・・・って単なる揚げ足取りか・・・スマン
野田城陥落時で遠征期間は4ヶ月と12日、
健在であった場合の信玄やそれに対応する信長はどう動くのかな?
健在でも普通に撤退する。
736 :無名武将@お腹せっぷく :2005/03/22(火) 00:49:34
朝倉義景宛の書状に5月にお互い陣をはることと、さらに朝倉撤退後の書状で
その非難とともに事前に申し合わせたこと(5月陣張)の実行を求めてる。
これは信玄の遠征継続の意思を明確に表しているものだよ。
737 :無名武将@お腹せっぷく :2005/03/22(火) 00:52:57
もう一つ、遠藤氏宛にも明春の岐阜攻略予定とある。
51 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 20:36:28
あるいは在番という形である程度の兵力を占領地に留め、完全な領国化を目指すか
どちらにしろ、家康軍を後方に置いた状態で尾張へ全軍進軍は無いだろうな
寡兵でも占領地奪還を兼ねて補給線を狙われたらたまらんだろうし
52 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 21:59:43
てことは、
尾張へ侵攻するとすれば、2万くらい?(w
織田・徳川・上杉vs武田・朝倉・浅井・三好・一向宗・足利
>>50 一旦帰国して5月に再出陣するつもりかもしれないじゃないか
このスレもう語る事ないね、、、
出尽くしてるから。
>>54 これまでも、1、2回帰国してたと思ったが違ったっけ?
58 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 04:21:34
>>52 徳川は、全力で追撃するなら1万くらい動員できる。
織田は、まあたぶん、3万くらいで迎撃できる。
武田は、三河尾張国境あたりで挟まれて全滅あぼん。
全力八千あえなく壊滅
無茶な三万四方破綻
侵攻路は美濃ですからw
半年遠征して3月に撤退したあと、5月には美濃か。
武田領国、大丈夫か?この場合は北条の援軍も帰国するだろうし。
それと、>50 の後で「反乱や出陣を促すための方便」という意見も出ていたな。
君が余計な心配しなくても、領国経営はなんら問題ありません
あしからず
62 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 08:40:33
>>60 経営は大丈夫だろう。
ただ勝頼の代は、さらに疲弊すんだろうけど。
疲弊して滅んだではなく、圧倒的国力の差で
滅んだというべきじゃないのかな。
>>60 撤退しないからw
3月に撤退してまた5月にという非効率なことをするわけない
>>63 裏切り・離散の多さから考えると疲弊だろう
もし130万石分に相応しい実力が保持されていたのなら、あそこまで悲惨な結末は無かったと思う
織田家に勝る悲惨はないけどなw
>>69 12月に撤退して3月に出陣。
越前は雪におおわれるから、一概に非効率とはいえん
朝倉の末路は武田のそれと似ているな
>>65 130万石の実力があったって、
倍以上の実力がある織田と正面きって戦えばああなってもおかしくないだろう。
国力差があるからこそ、それを埋めようと無理をした結果
疲弊が進み領国経営が著しく悪化し、裏切りと離反が起こり滅亡を早めた
74 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 14:54:36
健康状態が良いなら、織田と敵対しないで
北条をヌっ殺したほうが良いと言ってみるw
76 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 15:38:01
>>75 ,j;;;;;j,. ---一、 ` ―--‐、_ l;;;;;;
{;;;;;;ゝ T辷iフ i f'辷jァ !i;;;;; 頑張れば上洛できる。
ヾ;;;ハ ノ .::!lリ;;r゙
`Z;i 〈.,_..,. ノ;;;;;;;;> そんなふうに考えていた時期が
,;ぇハ、 、_,.ー-、_',. ,f゙: Y;;f. 俺にもありました
~''戈ヽ `二´ r'´:::. `!
1573 10 ○遠江
1574 1 ○美濃 5−7 ○遠江
1575 4−5 ●三河 長篠・設楽が原の戦い 8 ▲諏訪原城落城
11 ▲美濃岩村城落城 12 ▲二股城落城
1576 2 ?遠江 芝原 4 信玄葬儀 6 要害城改修
1577 7−11 △遠江
1578 3−9 ▲遠江 10−11 ○遠江
1579 3 ○越後 御館の乱 江尻城の改修 4−5 ○遠江
7 ○上野 9 △駿河 11 ▲遠江 持船城落城 ○伊豆
1580 3 ○伊豆 4 石山本願時降伏 6 ○上野 沼田城
8 ○駿河・伊豆 11 家康・高天神城包囲
1581 1 新府城普請 10 ○伊豆戸倉場内通 3 ▲高天神城落城
11 信長と和睦交渉決裂 12 信長、武田侵攻を準備 新府城移転
1582 1 木曾義昌謀反 2−3 武田滅亡
疲弊というか一気に滅亡した感じだが、強いて言えば1580−81の高天神城を救援
しなかったのが疲弊してのかなと思わせる。○●は攻めたもの△▲は攻められたもの
たとえ上洛して織田を滅ぼしたとしても
武田は天下を取れないんだろうな
79 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 17:18:06
>>78 スレたい嫁!天下なんてどうでもいい。
二万五千で上洛出来るか、どうかが問題だ!
>>77 疲弊もあるけど北条まで敵にまわした時点で運命決まってた感じする
信玄の駿河侵攻でもそうだが・・・北条が結構鍵
高天神城に関してもかなり徳川と北条の連携に苦しめらた結果だし
81 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 18:07:06
1575年の長篠の時、上杉謙信の動向が影響してるっていう話が↑であったけど、
信玄の遺言で1573年以後は上杉とは不戦同盟してたんじゃなかったっけ?
たしか、上杉謙信が西進しはじめた1577年、織田は武田に和睦もちかけてるよね。
すでに弱体化はじめてたとはいえ、武田と上杉同時に相手にするのはつらいということで。
謙信死後のゴタゴタ時には、同盟者として勝頼が春日山まで調停に出向いてるし。
>>64 それじゃ71年や74年の武田の遠征は何だったのかと問い詰めたい
>>81 天正三年の長篠の合戦の勝利後まで対武田として
織田・徳川・上杉は共闘関係にあり
それを証明する書状なども残っている(長篠の前年には謙信が上野に出陣するので
徳川織田にも武田に攻め込むよう要請し徳川は駿河に攻め込んでいる)
上杉が織田と疎遠になってくるのは
天正三年六月十三日の織田信長から謙信への書状
長篠での圧倒的勝利と挟撃の好機であることが述べられている
だがこれ以降信長と謙信の間での書状の交換は全くない
七月二十日の信長から上杉家臣山浦国清宛の書状でも
今こそ信濃攻略の好機なのに捨て置くのは口惜しいと述べている
謙信と信長の間が疎遠になったのは武田の敗北により勢力バランスが崩れたこと
朝倉を滅ぼした後、織田が加賀まで攻め入る勢いを示し
謙信の北陸経略への障害となってきたことなどがあげられると思われる
この時期形式的には同盟関係ではあるがすでに内実的には織田と上杉の関係は
崩壊してたと思われる
そして翌年に上杉は足利義昭の斡旋を受け北条・武田との和睦
そして織田との完全な断交という立場になる
85 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 19:25:37
説明、ありがとうございます。
くわしいようなので、甘えて質問させていただきたいのですが、
1577年、織田から武田へ和睦の提案があったようですが、
なぜ勝頼は拒否したのですか?
同盟の条件が折り合わなかったのでしょうか?
くわしい同盟条件などご存知なら、お教えいただきたいです。
>>82 71年や74年に遠征なんてあったけ?
それに信玄が健在であった場合だろ?
それなら撤退する理由はないとおもうけど
>>85 信長にとって不利な情勢だったから
武田以外に上杉毛利本願寺と敵対してる 反信長にとっては最後のチャンス
>>86 あっただろ
71年72年74年75年と徳川領に侵攻してる
>>88 それと72〜73年の遠征は戦の質そのものが違うだろ
>>86 お前は信玄最後の遠征以外徳川に遠征していないとでも思っているのか
信玄最後の遠征は義昭の御内書があり、本願寺や朝倉と連絡を取り合って行われているもの
>>50にもあるように単なる徳川領への遠征だけでなく織田も視野に入れたものと
考えるのが普通だとおもうけど。
1571年3月に信玄は高天神城を攻撃するも攻略できず退陣
同年4月に三河足助城を攻撃・これは攻略
さらに同月末に吉田城を攻撃し、二連木で徳川軍に勝利(ただし本多忠勝らの活躍で追撃は拒止される)
72年前半は上野方面で上杉謙信としばしば対陣
10月に最後の遠征のため遠江へ進攻
ざっとこんなものか>対徳川遠征
遅れたか
71年2月〜3月 駿河から遠江侵攻小山城攻略 高天神掛川などを攻撃後犬居城に入り信濃へ
71年3月〜5月 信濃から三河へ足助城を落とし吉田二連木攻撃して信濃へ 山家三方衆が寝返る
72年10月〜73年4月 省略
74年1月〜4月 信濃から美濃へ明智城攻略後三河へ 足助城攻略 豊川一帯を攻撃して信濃へ
74年5月〜6月 駿河から遠江へ 高天神攻略
74年8月〜10月 駿河から遠江へ 徳川と小競り合い後三河を経由して信濃へ徳川領を縦断する
75年4月〜5月 長篠
>>93 織田も当然視野にいれてるだろうけど、それは何に対するレス
まさかそれが
>>89の説明なわけはないだろうし
>>96 89の説明だよ、つまり主敵は織田であって徳川ではないということ。
98 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 20:30:38
ここまで読んだ
>>97 それが武田が一時的にでも撤退しないという理由?訳わからん
これは信玄がこの最後の遠征で織田と決着つけるつもりでいたのか?
というところで考え方が違ってくるのではないか?
そもそもこの点で意見分かれちゃってるしなw
なんか話が噛み合ってないな
撤退すると言ってる人達は財政や兵の疲労士気を問題にしてるのに対しピントのずれた反論してる人がいるみたいだ
101 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 20:40:29
>>100 武田が徳川無視気味なのが我慢できない徳川ヲタがいるみたいです。
だいたい始めから一時撤退するつもりなら、
なんで長篠城で1ヶ月も病気の回復を待つ必要があるんだ?
>>102 でも遠征継続するつもりなら
>>50によると5月にお互い陣をってことだけどお、その時点で既に半年過ぎているのに
そこから更に戦いつづけるつもりなの?
川中島では200日対陣したことがあるし無理すれば可能じゃないの
2回目か3回目の川中島で半年があったな、それが武田の最長記録だな
106 :
105:2005/03/26(土) 20:54:31
かぶったか
川中島は防衛扱いなんじゃないのか?
遠征と同じに考えるのはどうかと思うが・・・
108 :
105:2005/03/26(土) 20:58:09
でも
>>94>>95を参考にするなら一度帰る方が自然かな
川中島のときは空手形の乱発や兵の統率が取れなくなったりと大変だったみたいだし
>>102 重病のせいで撤退したくてもできなかったから滞在した可能性もあるぞ
>>109 さすがにそれはない。
1ヶ月以上の長期にわたり動けないほどの重病だったらもっと前に撤退してる。
でも長篠で療養後何したかっていうと撤退
一部兵力を置いて領国化に着手という動きもとても鈍い
逆算するとどうしても撤退の確率が
は?
113 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 21:33:52
天気が悪くなったから引いたんじゃない?
台風とか
どうせ
>>36のように信長にはスルーされてるんだから…
>>111 療養してたけど容態はよくならなかった、事実撤退中に信濃駒場で死去してる
のでこの時点での撤退は仕方のないものかと。
>一部兵力を置いて領国化に着手という動きもとても鈍い
当主が死んだのに兵を動かすのは無理だよ。
病身の信玄が出張らなきゃならない時点で軍隊としては問題だろ
健康不安抱えた主将じゃ何が起こるかわからん
容態が回復するのを待ってたけど、むしろ悪化してきたので
やむなく撤退したんじゃないの。
敵地の真っ只中で総大将に死なれるとさすがに大変だろうし。
>>116 当時の情勢が厳しかったんだったんだから戦略もきわどいものにならざるを得まい。
外交と信玄の個人的才覚と、いろいろ工夫して一時的に優勢を作り出しただけであって、
この機を逃したら、と考えれば無理を押すのもやむを得ない。
兵站線が比較的短かった川中島で200日程度でしょ?
それまでの遠征→退陣期間からみると、これ以上の長期戦に耐えられたとは思えないな
思えなくていい
信玄が兵糧切れで撤退して謙信においしいところを持ってかれたなどという史実は無いぞ。
兵糧切れまで粘るわけねーじゃん
まともな理性があれば帰路の分残した時点で退くでしょ
そういや戦国時代の合戦で、篭城以外に兵糧切れって話は聞かないね。
やはり現地調達である程度はどうにかなったのだろうか?
糒とか、持ち運びしやすい兵糧食が普及したお陰かな?
略奪もけっこうやってただろうけどね。刈田みたいに作戦として敵地の収穫を奪う手もやられたし
ていうか、切れる前に気づくだろ
囲まれていないなら撤退すればいい
「兵糧切れ」って、別に飢えて人が倒れだすとか言う意味じゃないだろ。
帳簿の類が残ってるわけじゃないだろうから実際の物資の量はわからないとしても、
他方面に敵が現れたり敵に増援が現れたりといった要素が無いのに兵を退くなら
それは兵糧が乏しくなってきたって事じゃないのか。
川中島なんて、第四回(通説)以外はみんなにらみ合って後両者撤退だからな。
>>126 それは膠着して滞陣する意義が無くなったからだよ
日本の戦国期に兵糧不足で撤退した例は全ど無いから。
かといって現地調達だけでなんとかなるものじゃないけどな
130 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/27(日) 09:58:57
膠着状態が打ち破れないと判断したのなら、兵糧を無駄に消費する前に撤退する方が
賢いわな。
兵糧不足に陥る前にさっさと兵を返す、と。
>>126 >>131 兵糧もそうだけど、生産性、人口が少ない国だと
自国の生産性が落ちるのを嫌がるのもあるでしょうね。
田植えしねえと駄目だしw 割が合わないから撤退なんでしょうね
そうそう割が合わないから撤退、何もせんでも物資は消耗するからな
自国の生産性が落ちたりはしないがw
>>132 生産性は、知らんが人口は影響あんだろうね。
二十万の人口で一万の兵を出すのと
五十万の人口で三万の兵を出すのでは、後者の方が余裕あるもんな。
税を免除したり、長期戦だと農地も荒れやすいのも事実だし
20:1と50:3で後者の方が余裕?
>>135 134じゃないが、二十万の人口で一万の兵を出すのと
五十万の人口で三万の兵を出すのは同じくらいかと。
ただ、20万:1万、50万:3万じゃ後者の方に余裕あるとも思えん。
1%ほど後者のほうが余裕w
134はどんな意図でこんな例えを?
まあ、人口が多ければそれだけ余剰人員も増えるが
134は勝頼並に無能ってことで。
ところで、武田が領国でそんなに重税を課して民衆があえいでいたのだとしたら、
なんで甲斐や信濃で一揆が起らなかったんだ?一向一揆に限らず、厳しければ蜂起
するもんじゃないの。
398 :無名武将@お腹せっぷく :2005/03/24(木) 06:45:20
>>397 あー、違いますよ、それ。
一向一揆の連中は江戸時代のような「重税に喘いで悲壮感漂う貧民」などではありません。
支配力のない領主相手に、
「お前、ぴょんぴょん跳ねてみろよ。」と集団で取り囲むような存在です。
これに対する警察行動が、長尾氏・朝倉氏の一揆「征伐」なんです。
399 :無名武将@お腹せっぷく :2005/03/24(木) 14:16:30
>>398 そうね。
一向一揆というのは、江戸期の農民一揆とはやや性質が異なっている点は注意しておかない
といけない。
一揆と聞くと、常に「権力との抗争」のような先入観を持つ人が多いけど、一向一揆の場合には
彼ら自身が支配者の性質を帯びていたからね。
400 :無名武将@お腹せっぷく :2005/03/24(木) 14:20:11
一応、制度上は守護というものが存在してけれども、支配権を行使できたかと言えば、限りなく
「NO」に近い。
むしろ「お互いに共存共栄、仲良くしましょうや」という恫喝紛いの空気の中で、利害の不一致が
起これば容赦なく武装蜂起していたわけで。
信玄以降の支配体制がしっかりしていたから、だろうな。甲斐で一揆が起きなかったのは。
機動戦士ガンダムSEED DESTINY
うろ覚えだけど、武田は税は重いけど隠田に対しては実際はさほど厳しい取立てを
しなかったらしい。(もちろん禁止はしてたが)
その逆が北条で税は比較的軽いけど隠田は徹底的に禁止して厳しい取立てを
してたとの事。
どちらが領民にとって歓迎だったかは判らんが、土地支配としては北条氏のほうが
強く進んでいたと言えるだろうな。
それと、隠田に対して厳しく取り立てしていないというのも、裏読みすれば隠田から
取り立てできるほど支配力が強くなかったとも言えるわけだし。
>>143 武田の場合、現代風に言えば税率は高いが脱税は野放しだったってことにならないか?
これだと、土豪が受け入れるのは武田システムだな。富める者ほど裏資産を築きやすい
ということになるから。
平野(盆地)がまばらで存在する武田領と平野部の広がる北条の違いかもしれんね
確かに関東平野で隠田ってのはそれ自体難しそうな気はするわな。
まあ、領地が平野ばかりって訳でもないのだろうが。
北条の本拠というべき伊豆、相模は山だらけですよ。
それと、武蔵に関しては南部、つまり今の東京周辺は湿地帯で農業的にみればロク
なもんじゃなかったとか(商業的に言えば、関東の内陸水系と東京湾から東国海上
交易路を繋げる重要地だそうだが)。
土地開発としては北部、今の埼玉県の方が進んでいたそうです。
税を重くしすぎれば反乱・離散されるし、そもそも規定量取れるかどうかわからない
比較的低い税率にし、しかしそれらをきっちり取り立てるとしたほうが安定した財政になるかもね
税金をきっちり取れるかどうかはその政権の強さを示しているからな。
すると、
>>140 の疑問に対する答えとしては、
「一揆で覆す必要がないくらいに土豪たちにとっては都合のいい政権だった」
ってことですか。
…逆の意味で、「安定した政権」と言っていいものやら。
いくらなんでも飛躍しすぎ
>>148 伊豆はともかく、相模は山間部と平野部がはっきりわかれてるから隠田に厳しくしやすい
武田は甲斐にしろ信濃にしろ盆地以外に山間部が多いから隠田もしやすかったんだろうと
思うよ。
まあ、支配の方法の違いでしょ。
その支配方法を比べると、北条氏の方が優れていると思うがね。
というか、脱税の黙認を支配方法の違いなんてそれこそ法や統治を無視した
暴論かと。
>>153 それは現代的価値観ってものよ。それも理念上のね。
現代ですら黙認されている違法行為なんて結構あるぞ、
入国管理法とか道路交通法とか。
厳しく法を作ってゆるく取り締まるってのは統治方法としては結構便利なのよ。
刑法上の法習慣と税制システムを一緒にされてもな。
ジャネット八田
157 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 08:44:44
くだらねーーー!
>>155 刑法上の話なんてしてないが?
広義の刑法とかいいだすなら、税法上の罰則規定もそうだし。
まあ、それ以前に戦国時代と現代を一緒にされてもな。
って話だがね。
大河ドラマとか見てていつも思うんだけど、
主力を美濃に集めて突破すれば、信長本拠地の岐阜を直撃できて
大打撃を与えられるのじゃないかと。
そういう案はなかったのかな
>>159 勝てれば、ね
でも敵本拠地で動員力・国力で上回る織田主力軍を撃破するとなると、分の悪い賭けになるな
徳川も当然、美濃に転進した隙を狙うだろうし
でも敵本拠地で動員力・国力で上回る織田主力軍を撃破するとなると
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
1対1ではないからコノ話は成立しないな。
動員力・国力は、反織田が親織田を大きく上回っとる
またループさせるのか?
正直もう飽きた。
まぁ…織田が畿内で苦戦していた時なら美濃直撃にしろ徳川屈服にしろ目があったかもしれんね
それに信玄の西進戦って上洛戦の前半戦でしょ
まず徳川を屈服させないことには安心して進撃できんだろうし
まず浅井、朝倉、長島、石山、将軍他を屈服させないことには安心して迎撃できんだろうし
ようは程度の問題だろ、その点は織田の方が敵が多いので不利。
>>163 だな。過去スレ読んでないのか意図的にやってるのか…
だな。過去スレへリンク貼ってないのにな…
テンプレぐらい読んでからレスしろと言いたいが
ループが無いとこのスレはほとんど進まないからなー
スレぐらい読んでからレスしろと言いたい
どこをどう見ても、テンプレには最近の話題しか載せてないなー
つかなんで今回は過去スレを前スレしかテンプレに入れなかったんだ…?
生暖かく見守って行こう。
ループも結構、多分誰も支援しないから。
完全に終わってる話だからね。
「武田信玄はなぜ美濃から上洛しなかったのか」スレ
でもすでに結論出た形になったのに
それをまたループさせてる奴がいる
ひょっとしてここでもループさせてるのも同一人物?
実際信玄が選んだのは徳川領からの侵攻であり
美濃方面は陽動なのでは?
そしてその理由なども過去スレですでに散々既出なはずなんだがなぁ
なんか、必死に過去スレですでに散々既出なはずなんだがなぁ
という虚構を作りたい人物がいるみたいだなw
ここの過去スレ読めないし、
武田スレが多いのはわかってたから「上洛」で検索してきたんんだが。
すべてのスレを読まずに書き込んだのはスマナカッタ
だれか過去スレ発掘してくれないかな…
無料プラウザがあればみれたんだっけか?
三河、東美濃、信濃をつなぐ足助をおさえてるし東海道からの転進は可能だけどね。
>>170 いつも通りじゃないかリンク貼られてるのが一つ前だけというのは
もうこのスレ 語る事無いなぁ
いつも同じ奴が張り付いてるようだからな
代表的な信玄の肖像画(デブハゲ)
は畠山氏だってわめくあのアホもまだいんのかな
美濃へは攻めないよ
騎馬軍団の長所を殺す戦場をわざわざ信玄が選択するわけない
織田の鉄砲隊は逆に自然の馬防柵に護られて三段撃ちかませるから必勝だろうけど
騎馬軍団と来たか・・・・。
>>180 はあ、武田の騎馬軍団は山野でもその機動性をいかんなく発揮する。
信長みたいなチンカス野郎は包囲殲滅されて糞尿たらして逃げ帰るのがおち。
とりあえず
「武田信玄はなぜ美濃から攻めなかったのか」スレがあるのでそっちの話題では?
つ
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1104756319/ 一度結論は出たのにいまはまたループしなんかよくわかんなくなってるけど
↓その一部より
724 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2005/03/26(土) 23:13:36
713-717
をみると美濃で武田勢大暴れジャン!
岩村城奪取に成功した武田信玄は、天正元年一月九日、五万の大軍を東美濃恵那地方へ進発させた。
しかし信長も早速二万余の軍勢を引きつれ東濃に急行し、
ここに武田信玄と織田信長とが最初にして最後の合戦となった。
信長は鶴ヶ城に本陣を置き、池田信輝・森長可・川尻鎮吉などの猛将を先鋒とし、
信玄は岩村城を本陣として宿将馬場信房・秋山信友らを先鋒として激突した。
↑
これホント? 合戦の名前は?
武田信玄はなぜ美濃から攻めなかったのか?
それは大嫌いな息子の言うなりになりたくなかったから
むしろブチ殺すイイチャンスだとおもってわざと反対したんだよ
家中の影響度は自分の方が強いし
武田家ってこの先生きのこれるんですか?
187 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 23:41:17
>代表的な信玄の肖像画(デブハゲ)
>は畠山氏
これってガセなの?
>>162 要するに反織田勢力と敵対している者もいるので、
信長だけでその全てに対応する必要はない。
よって、結局動員兵力では織田が武田を上回る公算が高い。ということ。
詳しくはテンプレ参照。
>>185 正直、難しいな。
仮に信玄が元亀の時点で織田と戦う選択をしなかったとしても、拡大を続ける信長
とはどこかで利害がぶつかることになる。つまり、遅かれ早かれ戦端は開かれるもの
と考えられる。それを避けるには武田が大幅に譲歩しなければならなくなる。はたして
それができたかどうか。
結局のところ、信長が天下布武を目指す限り、滅ぼされるまで戦うか服従して生き延びる
かの選択をしなければならない、それがどちらも嫌なら信長を倒さなければならない。
信玄がどこまで認識していたかは不明だが、武田にとっては予防戦争の意味もあった。
ただ、長篠以降の負けが見えた後になっても毛利のように領土割譲で生き延びること
よりも滅亡を選んだのは不思議でもあるが。
包囲網とはいえ信玄の思いのままに動いてくれるとはかぎらないしね
実際足並みそろってるとは言い難いし
それらを足し算で算出して有利と考えるのはちと短絡的
思いのままに動かせて主力と考えれるのはあくまで二万五千
有利な情勢は一時的につくれてるだけだろうし
信玄死亡後、包囲網が各個撃破されてくのをみても
それほど頼りになるものとも思えない
いかにして織田の兵力を分散するかが主目的
だから美濃方面から進み包囲網参加国と強引に合流はかるのではなく
江北方面、畿内方面、伊勢方面、東美濃方面などと織田の兵力を分散させ
徳川領からすすんでるのだろう
そして美濃から進んでいくという博打的な作戦より
そのほうが信玄らしいと思いますが・・・
信玄にとっての命題が上洛とかではなくあくまで領土拡大にあったのなら、美濃
に攻め込まなかったのはある意味当然。美濃は信長の本拠地であり、そこが侵略
されれば信長は(普通に考えれば)畿内の戦線を縮小させてでも兵力を美濃に戻して
武田と戦う道を選ぶだろう(土地に固執する武士の性質を思えば当然)。
主力決戦なんて完勝でもしない限り損害のわりにあわないのは川中島で実感している。
それなら、織田軍を各地に分散させたうえで、自軍も織田にとっての周辺である徳川
を攻撃するなら邪魔も入らないと踏んだ。
同盟国とはいえ他国に援軍でいくのと、本国の防衛戦ではそりゃなにもかもが違って
くるだろう。
しかし武田は東美濃に攻め込んでるぞ。
信長は美濃に多少の軍は集めたようだが、様子を伺うのみで、
「土地に固執」してむやみと攻めかかるようなことはしてないぞ。
顕如と信玄は手紙で織田を東西から挟撃することや
長島一向衆の蜂起などやりとりしてたし
朝倉も約束どおり3月に再出兵してるからな
信玄が死ななければ信長もかなりピンチだったよな
朝倉の再出兵?してたっけ?
>>187 そういう説をとなえてる奴がいるだけで
確証は無いに等しい
厨房の時
信長は運だけで天下とったってわめく同級生が居たよ
>>187 畠山氏なのは確実なんだけど、畠山家の誰なんだろう?ってところで
行き詰まってるんじゃなかったっけ?
>>183 ホントな訳無いだろ、武田派の人間から見ても痛いよ
>>198 どこのトンデモで確実になったんですか?w
ループより、肖像画の話の方がおもしろい。
似たような話で、坂本竜馬の写真も違うとかあったね、あれも畠山氏の誰かだ!
だったような。
はいはい
>>194>>197 朝倉始末記によると3月にも出兵している。
このときは湖西の守りが堅かったのと小谷城の普請で
さほど目立った動きはしてないが武田の動き次第(IF説になるが)ではどうなったか…
ちなみに退陣は5月だそうだ。
一般に言われてる信玄肖像画が畠山氏だと言われる主な理由は3つ
・武田の四割菱ではなく足利系列の二引両が書かれてる
・入道して信玄となってるのに髷がある
・能登出身の画家長谷川等伯作なのだが、等伯と名を替える前の信春とある
名を替えたのは1572年以後なので、それ以前と考えられ、彼がその時期に甲斐に
行った形跡が見られない、そして武田信玄との接点が全くない
というか、これ20年ぐらい前から言われてて、とっくに常識だと思ってた
3月11日に出陣してる記録あるね
2月26日にも、小勢を西近江に送ってる?イマイチ自信ない
源頼朝や足利尊氏の肖像画も別人だってのが確定してるんだっけ?
207 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 19:38:58
とか、関係のない話題するよりは、
テンプレの、武田の信濃支配率が100パーセントになってることの是非について話合てみないかい?
藤原隆信作の源頼朝は足利直義で、
尊氏の騎馬武者像は、高師直か高師詮と言われてるね
藤原隆信作の平重盛が(国宝なんだがw)足利尊氏で、藤原光能が足利義詮
209 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 19:42:44
>>199 イタイのはあんただろ。
今時、こんな事も知らないなんてさ。
武田信玄の肖像で本物なのは
弟の信廉の書いた弱々しい人物が本物。
210 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 19:47:59 ID:
>>207 68年に本庄を内応したとき奥信濃を攻撃して飯山城を落としてるので
ほぼ100%で間違いないと思われます。
>>209 その信廉の書いた武田信玄肖像って
禿げ頭なのは変わらないけど痩せて狡猾そうな感じで
親父の信虎の肖像に少し似てるんだよね。
しかも肉親である弟の描いた肖像なんだし、
こっちの方が遥かに信用性は高いよね。
しかし、この信玄の有名な肖像が
別人という説(もはや説というレベルでもないが)は
山梨県の人や信玄ファンに猛反発を受けてる。
その理由というのが「我々にとっての信玄公は
このお姿以外に考えられないんだ」というもので、
もはや理屈でもなんでもないんだな。
214 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 20:10:52 ID:
>>212 ついでに言うと勝頼もなんかそんな感じだね。
細面で気品があり繊細な感じ。
武田氏ってのは武家というイメージがあるけど、実際は地方貴族のような側面もあるからな。
つつじヶ崎館もあちこちに築山泉水とか京都を模した風流な設備があったりするし。
だから 武田厨は嫌われる
>>210 そのサイトは前もお前が晒してただろ
いい加減成長しろよ馬鹿が
>214
と言うか、名門は名門なんで、母系に公家の血が多いのもあるんじゃない?
まるで、競走馬みたいだが。
武田厨は馬鹿
>細面で気品があり繊細な感じ。
こんなのは
>>214の個人的感想
つか、何が地方貴族だ
>>217 俺はこのサイトを初めて晒したのだが。
前にも俺と同じ事をした奴がいたのかな?
この肖像画野郎はいつも個人的主観でしか語れない哀れな奴なんだだよ
でも肖像画が信玄じゃないのは確定してることだが
武田が地方貴族なんてのは武田厨認定されるような発言だがな
肖像画の話も実はループなんだよな
225 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 20:27:07
>>220 地方貴族という例えはおかしいかもしれないけど、
地方の名門武家なんてそんなもんなだよ。風雅とか教養を好み格調高い感じ。
もしかしてあんたは地方の名門武家が教養とは程遠いとか粗野とか豪快とかそんなイメージを抱いているのかな?
武田とか島津とか伊達とか貴族っぽい感じが強い。
例えば島津家の者が出陣する時、お歯黒を欠かさなかった逸話もある。
島津家久なんて京都に和歌を習いに行ってるしさ。
勿論、武田家の風雅や教養への傾斜や京都への憧れもかなり強いんだよね。
上杉氏側の史料からは飯山城落城は確認できんぞ?
俺が見落としてるだけ?
信玄は築山泉水のほとりで和歌を読み能や蹴鞠を楽しみ、
漢詩や文学や禅などの教養にもハマってたしね。
戦国で風雅とか教養と言うと、どうしても今川義元や大内義隆みたいな軟弱なイメージがあるけど、
それは実は武田や島津や伊達など地方の名門武家全てに共通してるんだよ。
228 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 20:34:15
>>225 >風雅とか教養を好み格調高い感じ。
そんなの地方の名門に限った話じゃないが?
教養や風雅を好んだのは、地方有力者はどこでもやったっての
格調高いとか貴族っぽいってのはチミの個人的主観
下賎な出の秀吉ですら最後はそうだったし。
230 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 20:42:06
大内義隆みたいに風雅に傾倒して破滅してしまう武将と
ちゃんと両立できる武将の差だね。
231 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 20:51:58
信玄が上洛したいという理由は実は天下取りとかではなく、
風雅の都、京都に立って風雅や教養を満喫したかったという説がある。
信玄も京都に二度上洛して遊び回ったり寺社や公家や将軍家を訪問してまわった謙信と動機は変わらないのかも。
上杉謙信の上洛は内外的に必要だったからだろうに・・・
関東管領職の容認と関東出兵の許可、越後統治の正当性確保等々
遊んだ訳ではないぞー
233 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 21:04:02
謙信公生涯唯一の女性への恋があったらしい
飯山城が落ちてるかについて
上杉輝虎書状 永禄11年8月10日から
国境の飯山城から正午頃届いた報告では武田軍が信濃長沼に出陣
この備えとして現地の宝蔵院をはじめ宇佐美・平子・須田などの諸氏を
おいていた関山にあらたに一族の上杉十郎や弥彦の黒滝衆を派遣してる
さらに一週間後の
上杉輝虎書状 永禄11年8月18日 直江景綱・柿崎景家宛てでは
竹俣・山岸・下田衆も投入
飯山には在城衆に加え岩井信能・安田惣八朗
新発田・五十公野・吉江忠景を投入している
上杉輝虎書状 永禄11年8月22日 三潴左近大夫・鮎川盛長宛て
では信州口よりの武田の撤退
および山浦・北条・新発田忠敦・色部勝長の本庄攻め派遣
落ちてないのでは?落ちてる史料はあるのでしょうか?
>>233 付き合いです、接待です、仕事の内であります
>>236 そう?
随分、寺社への参拝もしてるが。
238 :
235:2005/03/29(火) 23:11:18
ふむ・・・史料だけではわかりにくかったか
武田信玄が飯山城攻略をはじめるのが永禄11年の7月10日
しかしなかなか落ちず関山街道からの攻略も図る
それに対する謙信の備えが前述されてる通り
飯山城には在城衆のほかに新発田・五十公野・吉江などと
信濃出身である岩井信能・安田惣八朗
信濃からの侵攻ルートである関山には上杉十郎景信を中心に
山本寺・竹俣・山岸・下田衆を配置
さらに越中・信濃両面からの侵攻が予想される称知城・不動山城には
謙信の旗本を配置
春日山には山吉・河田さらに栃尾衆といういわば大防衛態勢でのぞんでる
前述の史料で特に明記しなかったが史料に時刻まで記されてて
かなり緊迫してたのは事実だが・・・武田は突破は無理と判断し
撤退してると思うのだが
それ以後どんどん部隊を信濃方面から本庄領に送り謙信も向かってるし
間違いあるのならどなたか訂正よろ
そういや上杉家の兵力算出の提案も出ていたな。
しかし上杉家の場合、例えば揚北衆の扱いや、上野の豪族など臣従しているのか
どうか不分明な連中が結構いるのが難点。
ついでに、自分自身が上杉家については不勉強。だれか詳しい人、飯山城の件も
含めて青写真でも出してくれないかな?
上杉家の場合天正3年の軍役張が現存してるのですが
あくまで越後の家臣たち
かなりの領地をもってると思われる本庄繁長が抜けてたり
越中在番の河田長親や厩橋城将の北条高広も抜けてる
河田長親は子飼の武将なので動員数に含めれるだろうが
本庄繁長などは独立した在地領主と見た方がいいかも
謀反起こした後も特に家臣化はしていない
かなり後に豊臣秀吉から直接改易処分されてることからも(大名扱い?)
そう判断していいかと思います
同じく北条高広も在地領主化が進んでる
よって上杉の上野領は沼田のみと考えたほうがいいのかも
沼田は関東経略の最後の拠り所と謙信自身言ってたはず
越中についてはもちっと調べてみますわ・・・
>>239 武田の兵力に飛騨や(越中)が入ってるから揚北衆や上野の豪族も当然入れなきゃ不公平だろ
武田の飛騨や越中に関しては畿内の親織田勢力同様、親武田勢力として上杉も半独立している領主は親上杉勢力と
すればいいと思う。
>>240 『上杉家家中名字尽』だとそこに挙げてる連中は皆載ってたと思うが
>>244 重臣・譜代・国衆すべて含んでの81名ですね
でもただ氏名連記してるだけだし・・・・
それを言ったら、例えば武田の穴山や小山田はどーなる
本庄も北条も謙信の軍役に従って領地安堵も受けているのだから上杉家の兵力と
数えていいと思うが。
例えばかなり古いけど第三回の川中島の戦いにおよび謙信から色部宛に参陣要請がきてる
これにあたって三度も要請きてる・・・つまりそれまで応じてない^^;
本庄もそのとき同様に応じず結局本庄・色部が相談し出陣してるが
のちに色部は家臣化していくんだけど
特に本庄繁長の場合、上杉家家中名字尽にも名前なかったんじゃなかったかなぁ
秀吉に改易されてるのもそうだけど
独自に最上領侵攻とか後にやってることからも
家臣になるのは改易後に上杉家に召抱えられてからだと思うが・・・
同盟国とか従属とかそんな感じかと
ま、軍役には応じるんだろうから一緒か
越後における上杉(長尾)家って、信秀時代の織田と同じで諸豪族の取りまとめ役
くらいしかないからな。
250 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 01:01:48
結局肖像画については信玄じゃなくて畠山氏ってのが定説なのね
ふむ、ならば本庄・北条・色部あたりは+αと扱ってはどうか、
気になる人がいるならαの目安も出せばいい。
でもめんどくさいな。
色部は家臣として含んでいいと思う
軍役帳にも名前あるし
なによりかなり積極的に支配下に入っていってる(特に色部勝長から)
問題は本庄・・・軍役帳はもちろんやっぱ『上杉家家中名字尽』にも名前ない
あるのは別の本庄(本庄清七郎)
しかも本庄繁長は自身の家臣に独自に何度か新規の所領給付やってる
史料が数点残ってる・・・独立した在地領主と考えれるのでは
ただ何分α出すのも難しいかも
越中も結構難しいですね・・・どの時期で数字出すのか・・・
信玄遠征中は謙信が越中に専念してるのですが
富山城を除いた神通川以東全域ぐらいと考えるのかな
>>252 >色部は家臣として含んでいいと思う
>軍役帳にも名前あるし、なによりかなり積極的に支配下に入っていってる
この考えだと、支配地以外に居る飛騨の地侍も結構武田家臣になるけどな‥
軍役帳に名前あるし、積極的に支配下に入ってるから。
254 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 18:33:13
敵を見つけるためのレーダーがない。
敵に弾が当たらない。
敵が横・後・上・下に移動すると見失い、いつの間にか殺されている。
理不尽な殺され方をするゲームはクソゲーという考え方が定着している。
キーボード+マウスの操作に慣れない。
ゲームパッドやジョイスティックでないと操作したくない。
PCのFPSはハード的に高いスペックを要求するので、グラフィックボードがしょぼいメーカー製PCでは最新のFPSがまともに動かない。
3D酔いする。(変な操作をするのが原因)
システム的な初心者対策があまりない。(日本人がヌルゲーに染まりすぎなのかも)
はっきり言って、日本人の多くが嫌がる条件が揃いすぎ。操作に慣れるまでが難しくても海外で人気があるのは何故だろう。海外の開発者も、日本で売れないのは何故だろうと思っているのだろうか。
これはすごい誤爆ですね。
三戦板にFPSやってるヤツいるんだなぁ。
親近感。
話しかえるけど
姉小路なんかは信長が京にいるとき上洛したりして独自の外交を行っているから独立の大名扱いということでいいの?
戦国大名の定義自体がそもそもあいまいなんだよね
所領の宛行をおこなうことで、守護大名の時代よりも密接に被官と
主従関係を結んだりして領国を一元化して支配していた者なんだろうけど
学者の間でもどれほどの勢力から戦国大名と考えるのかはっきりしてない
一国以上からと考える人もいれば
国人クラスの小領主から考える人もいるんだよね
って・・・スレ違いだなsage
浅井や波多野、別所も一国を支配してはいなけど戦国大名扱いされているしねえ。
>>253 越後本国で家臣として軍役課せられてるのとはちょっと違うのでは?
色部含まないと同様に揚北衆で軍役帳に載ってる
中条、黒川、水原、竹俣、新発田、五十公野、加地、下条、なども
別扱いしなきゃならなくなってしまう・・・
越後国内は本庄以外が上杉で本庄が親上杉勢力ってところではないだろうか
ってあまりこだわるほどのことでもないのかねぇ
越後国内は上杉一本でいいと思う。統制力の強弱はどの大名にもついてまわる問題
でもあることだし。
問題は越中と上野。
越中の上杉の勢力に関して元亀年間からみていくと
元亀元年(1570)八月 謙信から越中在国の山浦国清へ
越中の過半は制していること、飛騨の三木氏を新庄に移し替地や
軍役の設定すること、越中東部の出張、
さらに能登・加賀の国法調査や不都合あれば新法を立てるつもりだとか
上洛を前提とする越前の情勢把握や、佐渡の仕置きなどと言った未来の課題にまで触れている
元亀二年三月には神保長職の要請をうけ越中に出陣
神通川以西の掃討戦をはじめるが小矢部川増水により断念
この年の暮れ越相同盟が崩壊し再び関東・越中のニ方面作戦となってしまう
元亀三年の五月に椎名氏らの反上杉が攻勢をかけ
特に火宮城に籠る親上杉の神保覚広が謙信に救援要請
この背景が加賀の一向一揆と飛騨口の船倉に籠る井上氏の北進
これに対する上杉の最前線は新庄の鯵坂直実、魚津の河田長親が
助勢として富山南方に布陣して船倉を遮断
魚津の天神山には直江景綱が入り春日山との連絡及び松倉の椎名を
背後から牽制するが謙信が出陣してないこともありかなり苦戦
神保も一向側と講和し開城してしまう
その後8月に謙信が越中出陣をきめ9月18日には飛騨の江間氏の援軍もえて
富山城を攻撃、さらに安養寺に攻め入り、神通川を越え婦中滝山城を落とす
元亀四年(1573)1月に椎名康胤が和睦を求め、また富山城の一揆衆も富山を開城するが
謙信が帰国しようとするや再び富山に篭城したため、謙信は再び越中へ
加賀まで遠征するのは8月でそれまでに越中は西部も治安上心配はなくなってる
信濃の上杉は?飯山城は落ちてないということなのか
武田の信濃100%修正?
たしかに、上杉にとって飯山は春日山防衛の最終ラインだから、この地は経済よりも
国防面で絶対に譲れないライン。川中島を諦めた謙信も、ここが危なくなれば援軍は
ためらい無く出すだろうし、もし万が一失うことになれば他の戦線を措いてもこちら
を優先するだろう。
武田側の有効な反論がなければ、修正でいいと思います。
ただ、それがどの程度の領域で、パーセンテージでどれほどなのかは判らん。
飯山は4万石前後だから
単純計算で10%くらいか
まあ、岩村周辺だけで美濃の10%とするなら、
飯山周辺で信濃の10%でもいいような気もするが、
実際の割合はもっと少ないだろうなあ。
>>265 何度も言われてるが岩村周辺では10%もないだろ、未だにテンプレには残ってるけど
岩村は美濃18(21)郡中恵那郡の一部、この時点で単純計算すれば約5%。実際には明智城苗木城等を
はじめとする恵那郡の18城はまだ織田の物なのだから5%も恐らく無いだろう、東美濃の内応の約束した
連中を考慮すればまた別だが、実際に内応するかどうかは別だし、史実では内応することは結局なかった
だから確定できそうな数値としては5%以下が妥当。
何度も言われてるが岩村周辺だけじゃあないだろう
飯山城以北とすると1%前後、それを遥かに上回る
太閤検地には載っていない支配下寺社領があるから信濃は120%程度が妥当。
>>267 >何度も言われてるが岩村周辺だけじゃあないだろう
確かに岩村周辺だけじゃないと何度も主張したがそのたびに否定されていたと思うが…
岩村周辺だけじゃないというならそうでないまともなソースを提示するべき
飯山以北とするなら水内郡の10%〜20%ぐらいじゃないか?飯山周辺とまで考えても25%ぐらいだと思う
信濃10郡を皆同じ石高とするなら上杉の信濃の支配率は1%〜2.5%ぐらいだと思う
海津城が武田の最前線なら上杉10%でもいいだろうけど
>>267 武田側が内応に応じてるといっても実際には寝返ってないのだから
それらを含むのはちょっとねぇ・・・
よくて東美濃の内応の可能性がある勢力は中立として別扱いするぐらいでは?
武田の勢力に組み込むのは勝手すぎる
というか飯山城って1パーセント前後なのか・・・
271 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 14:08:46
>>270 岩村だって美濃の中では1%ぐらいだと思うが
水内郡の飯山城周辺25%は一応山間部を除いた平野部の面積を見た目で言ってみた
水内郡は善光寺付近から飯山あたりまでの方が平野が広がってるものだから、水内郡でもそんな
割合だと思う
ちなみに高井郡や安曇郡は上杉は一切支配して無いと仮定してだから
>>271 水内郡を一律支配してるなら4万石10%ぐらいになると思う
豊臣か徳川時代の大名から数値を持ってきたんだろうけど
>>272 飯山城から北は街道になってるけど
平野そのものは少ないからどうだろ、最前線の城だから周辺は支配してないだろうし。
>>270 誰一人内応云々言って無いと思うが、幻覚でも見たの?
>>274 内応とかを考慮しないと武田が東美濃で支配した地域は岩村のみ、美濃全体の中では1%ぐらいなるからだろ
2月26日 浅井長政、某へ足利義昭の屋敷落成、足利義昭御内書が武田信玄に下されたこと、東美濃へ武田信玄が出撃し
加治田城・つぼ城を攻略したこと、朝倉義景も間もなく出陣する旨を通知。〔「小島明氏氏所蔵文書」‐1〕
>>274 書いた俺自身も25%はどうだろと思うが、第一面積ではそれぐらいかもしれないが善光寺付近のほうが
はるかに重要だろうし
まあ周辺という曖昧な言葉を使ってるから人によって違うのは当たり前だし
飯山城から北なら10〜20%ぐらいだと思うが
>>275 岩村のみというか岩村までじゃないか?
あと中津川沿いの東岸一帯と三河沿いの可児、土岐の切れ端
10%いくかどうかは微妙だが5%はいくだろ。
ちなみに水内郡は現在の皆が持ってるいるであろう中学高校の地図帳で言うなら
飯山以北の長野県全てに東端は飯山から南の中野〜須坂〜岩穂〜川中島
南端は川中島〜小川、西端は小川から高妻山ぐらいと考えて
飯山以北を10〜20%と言ってみた
少し広くしすぎたかな
>>281 ごめん最初にレスしたとき水内郡のと書いていたがそれ以降の
>>277>>280では抜けていた
誤解させるような書き方で正直済まなかった
当然水内郡の10%〜20%
>>279 可児郡は三河と接してないし明智城も落ちてないのに土岐郡の一部を支配できるというのもおかしな話だと思うが
>>279 苗木城も落ちてないから、岩村から上矢作〜伊那のラインしか確立してなかったんじゃないの
やはり昼間に張り付いてるようなクズどもの意見はたかが知れてるな
上野の上杉について考えてみますか・・・
上杉にとっては沼田が拠点で在番衆が置かれている
厩橋の北条も上杉方、館林の足利長尾も上杉方?
桐生氏は佐野寄りだが1573年に桐生城を由良に落とされてる(翌年の関東出陣で上杉が攻略)
金山の由良氏が後北条方
勢多郡の阿久沢氏も永禄12年に後北条方になってる(これも1574に上杉が攻略)
これらから1572年ごろの勢力図を考えると
利根 2.4万石 沼田領であるため上杉所属
勢多 6.0万石 おそらく上杉・後北条の抗争の中心。ここの解釈が難点か
群馬 9.3万石 前述の武田分を除いた上杉領厩橋として20パーセントの1.9万か?
那波 2.0万石 後北条方
佐位 1.6万石 後北条方
山田 2.8万石 桐生氏の扱いによるが後北条方と考えたほうがよいか
新田 5.2万石 由良領。後北条方
邑楽 6.3万石端数 館林城ということで上杉方か?
ごめんあまり詳しくないのでちと詳しい人訂正よろしく
自分で訂正・・・館林もすでに後北条方だね・・・長尾顕長って由良からの養子だし
1574年の関東出陣で放火や攻略やってるしOTL
上野上杉は
利根 2.4万石
群馬 1.9万石(武田領以外厩橋分)かな・・・
勢多(6万石)があとどれくらいになるのか微妙
天正二年(1574)に赤堀・善・山上・女淵・深沢などの
勢多郡内の由良氏方諸城を攻撃してる
それを考えると元亀三年ごろどれほどを上杉領と見積もるか・・・
10万石に満たないのだろうか?
謙信の恐ろしいところは、兵力は少数でも戦場ではなんとかしてしまうのでは
と思わせる強さ。そこが信玄とは違うところか。
謙信もほぼ毎回大兵力を動員してると思うんだが
いつもながらアンチ信玄の思いつき発言は酷いな
関東経略がすでに頓挫しかかってる状況での上野の判断だから
しょうがないってのもある・・・それに遠征しても1万前後の軍であること
が多いこと考えるとこれぐらいなのかも
上杉の場合それぞれ分国となる国に拠点を一つ置き
在番衆として旗本あるいは有力家臣を何人か在城させて
その外の本来いる領主はそのまま所領を安堵してる
在番衆が置かれてる例として上野(沼田)越中(魚津)
下野(佐野)、北信濃(飯山)など
この1572年頃で判断となると佐野城はすでに放棄し在番も置かれていない
上野も西半分は武田、味方であった東半分の領主たちも後北条方となってしまってる
沼田(以北?)及び厩橋周辺ぐらいと考えてよいのではないか?
1574年の関東出陣でも上野の諸城攻略から始めてるし
あとは越中・・・神通川以東のうちのさらに松倉城(椎名)富山城(一向一揆)を除外した分
が上杉の勢力なのかな?
んなもんじゃね?
上杉は適当でいいよあまり関係無いし。
●長尾上杉
・越後…100%(9775)
・上野…10%(1240) 沼田・厩橋近辺と考えるとこれぐらいか?
・越中…20〜25%(1900〜2375) 神通川以東(新川郡)松倉・富山は1573年正月まで攻撃中
神通川を越えて攻撃もしているがこれくらいか
・飛騨…三木氏や江間氏とは友好的。1572年の富山攻めでは江間氏が援軍派遣してる
越後・越中・上野総計12915〜13390
・・・こんなところでしょうか・・・ちと自信なし
この当時の上杉って、例えば越中戦線に上野の豪族を従軍させるほど支配力があったんですか?
おそらく防衛するだけでいっぱいいっぱい・・上野はね
元亀三年の越中攻めのときも関東が気になり謙信自身が
かなり遅れて出陣してる
7月下旬には後北条が上野に押し寄せたと報をうけ
養子顕景を派遣、栗林政頼に地下人まで召し連れて上田衆は沼田に移り
厩橋を援護するように命じてる(7月23日上杉謙信書状栗林政頼宛)
8月6日に謙信が越中に出陣し9月10日に後北条撤退の報をうけ
上田衆を至急越中に呼び寄せてる・・・このときも地下鑓をつれ
さらに行軍の仕方まで指示し大軍と思わせるようにしてる
結構涙ぐましい
>>295 支配力に関係無く、そんなことしたら、上野の上杉領が愉快なことになると思うが
上杉って結構悲惨だったんだね、駿河取った後は越後攻めたほうが良いんじゃないの武田は
徳川の方が大分弱いのにか?
まずありえないだろ。
甲相同盟復活の段階なら、国力的には徳川と変わらんぐらい、各国人衆の力が強い分徳川より楽な相手のはず。
対徳川と違い上野で北条の援軍を利用できるし、越中では一向宗の力を借りれる
となると謙信が余程化け物だったのか…
>>12 徳川総計11550
>>294 上杉総計12915〜13390(本庄含む)
単純に国力で比較するなら、それほど差が無いみたいだ
武田・北条・一向宗を敵にまわし
徐々に勢力弱まってはいるものの
それでも関東と北陸とニ方面で行動しちゃってますからね・・・
普通じゃないのは確か
303 :
無名武将@お腹せっぷく:黄帝生年紀年4716/04/01(金) 13:07:58
>294
おつかれ様です。
妥当な数字ではないでしょうか。
しかし、改めて考えると、謙信の動員力は武田・北条よりかなり少ないですね。
防衛の場合、、戦場である国の味方在地勢力がプラスされますが、
実際、機動部隊として積極的に動かせるのは、越後兵だけだと思ってよいくらいでしょうね。
なるほど。上洛時、武田が対上杉のために配置した兵数は
相手が謙信でないなら、充分な数なんですね。、
このとき北条は
伊豆…100%(1725)
相模…100%(4850)
武蔵…100%(16675)
下総…60%(5895)
上総…50%(4750)
上野…23%%(2900)
下野…%()
常陸…%()
総計36795
ぐらいか?かなり適当に支配率を決めたが
これまた上杉を大きく上回るな
こう考えると何で上杉を倒せなかったんだってことになるな
ただ、北条の場合は上杉以外にも敵をもっている。
それこそ下野、常陸、上総、下総方面へ。
冬になれば引上げざるをえない謙信と違って負けたら滅亡するが故に頑強に
抵抗する在地の敵対勢力の方がよほど手ごわいだろう。
マキャベリも統一された政体よりも群雄が割拠している方が平定が難しい、
みたいなことを言っているしな。
戦略の劣勢を戦術で五分に持ち込む謙信と越後兵は何食ってるんだ…
>>307 平定が難しいのと勝利を得難いのは又別だけどな
>>305-306 新潟までは流石に遠いから、それに謙信強ぇぇから割に合わないし。
上杉の機動軍として動かせる兵力は一万と少し、くらいでいいのかな。
>>308 むしろ食い扶持を稼ぐために血眼になっていると見た!
食い扶持稼ぎのための出兵(そして略奪)は越後についてはよく言われるけど、
他の土地ではどうだったのよ?
小学生しかいないのかここは?
>>312 信玄も似たような事やってたから
志賀城の件なんかは有名
信長も同じどこも同じ
しかし、そういった略奪から身を守るために、当時の町や村は判銭という安全保障費
を出しているのだが。
信濃や関東ではそういう習慣がなかったとか?それとも、出しても守られなかった
(上からの統制がとれていなかった)とか?
上杉は、人さらいもやってるぞ。
関東から連れて来られて百姓になった人の子孫を知ってる。
それから、南蛮人に売ったりもした。
それまた上杉だけの話でもない
というかスレ違い
織田軍の兵力についてなんだが、天正元年七月の槙島城攻撃について、信長公記では
その兵数を七万とし、その従軍者の名前が載せられているのだが、うちわけを見ると
細川、荒木、それに両属だった明智をのぞくと全て尾張・美濃・近江の武将たちのみ。
参加していないのはおそらく伊勢におかれたであろう滝川くらいで、他は秀吉も含めて
ほとんどの織田配下武将が加わっている。
つまり、多少の変動はあるだろうが、尾張美濃近江の三国で七万ちかい軍勢を動員
したことにならないかこれは?
( ´∀`)(´∀` )ヒソヒソ
思ったより少ないのかもな
この時期で40000前後か‥
>>320 信長公記は一級史料だが兵数は当てにならんぞ
ただ近江の守りとしておかれた、羽柴佐久間柴田も参加していることから浅井朝倉や近江の敵対勢力はこの時期
ほとんど無視できるぐらいのもの若しくは他戦線に兵を回すことが可能な程度の脅威ということが分かる。
伊勢衆は動かせなかったのか動員する必要が無かったのかは分からないが
近場だからじゃないの。
距離の違いを考えれば朝倉が出陣するらしい動きを察知してからでも十分間に合うと。
もちろん多少のリスクは覚悟の上で、さらに朝倉の動きはそんなに機敏ではないという
読みもあったと思う。
伊勢から槙島は近いようで結構遠い。
>>323 朝倉は脅威どころか、
返す刀で同じ年の内に滅ぼされてしまっているし。
力はかなり弱くなっていたのだろうね。
三好や松永などの敵対勢力も義昭挙兵には呼応していない。
反信長包囲網なんてものが幻であることがよくわかる。
327 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184,2005/04/02(土) 14:46:15
age
朝倉の脅威は、70〜71年ピークで
信玄上洛?の頃には、もう駄目だろw
弱ってても、徳川よりは大分強いけどな。
朝倉は滅亡前の後詰でも1万5千〜2万の兵をだしてるしな。
331 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/02(土) 19:16:16
寝返りボロボロ・戦意低しでも数は数だからな
織田軍が追撃戦を行なう際も、信長本人以外の武将はことごとく朝倉が何もせず撤収するなんて信じてなかったぐらいだ
331みたいなリア厨しかいないのかここはw
>>320 亀レスっぽいが信長公記に七万なんて記述されてたっけ?
俺が見落としてるのか?
信長記と間違えたとかw
>>332 ところが、信長公記にはそのようなことが書いてあるのだよ。
この時代の兵数の記録って何を根拠にした数字なんだろ、実際に数えてるわけは無いだろうから、軍勢を見渡して
大体これぐらいの人数カナとか人の噂を記述したりしてるのかな
信長公記は一級資料 間違ってるわけがない
>>339 信長公記にそんなことは書いてない よって間違い
とりあえず見落としあるかもと思って
信長公記の六巻の「公方様御溝へ取巻きの上にて御和談の事」から
「真木嶋にて御降参 公方様御牢人の事」を読み返したが・・・
やっぱ七万なんて数字ないんですが・・・
あ、それと「真木嶋にて御降参 公方様御牢人の事」で義昭を秀吉が河内若江城まで
護送したってのは嘘ですから
義昭は自力で(と言っても、途中で落ち武者狩りにあって悲惨だったようだが)若江まで逃亡してます
信長公記に七万て書いてあるよ〜とか法螺吹いてるのは
多分、2月に近日上洛予定君だなw
とりあえず
「信長公記は一級資料 間違ってるわけがない 」
↑
などと発言する奴に限って読んでないってことで・・・
読んでる奴なら一級史料と認めつつも
そこまで絶対視はしないと思う
一級史料(だから)間違っているわけがない・・・という思い込みが、頭の悪さを示している
>>326 すでに信長とは敵対関係なんだから呼応も何もないんじゃないの。
強いて言えば対峙し続けることが戦力・戦況に応じた「呼応」だろ。
______
/_ |
/. \ ̄ ̄ ̄ ̄|
/ / ― ― |
| / - - |
||| (6 > |
| | | ┏━┓| / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| | | | ┃─┃| < 正直、スマンカッタ
|| | | | \ ┃ ┃/ \________
| || | |  ̄  ̄|
340=343?
横からで悪いが多分お前ら素で勘違いしてると思うぞ、
前スレも見てた俺には分かるが
>>339は
>>338を馬鹿にしてるだけだろ
確か前スレで松永拝謁と水野謀反の記述が違っているといった発言対し1行レスで
『信長公記は一級資料 間違ってるわけがない 』
と電波なやつがいた、そいつと338が同一人物じゃないかと
487 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/03/18 19:40:33
信長公記に誤りがあるわけがない 一級資料だぞ 糞が
↑
こいつのことか!
>>352 その内容知ってると340は確かに何言ってるんだ?誰にレス返してるんだといった印象受けるな
>>346 ?2月に上洛の根拠は大徳寺文書だろ?
なんで信長公記のこと話してる今出てくるんだ?
…まぁ多分煽りだろうが
そうでもないぞ
799 :無名武将@お腹せっぷく :2005/03/31(木) 13:09:03
2月24日 柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆、近江国勢田を渡海して足利義昭与党の籠もる近江国石山城へ攻撃を開始する。
〔『信長公記』巻六〕
2月24日 織田信長(「弾正忠信長」)、京都紫野大徳寺へ「青陽慶事」とし銀子10両を受けたことを謝し、近日の上洛予定を通知。
〔「大徳寺文書」三〕
ttp://www.cyoueirou.com/_house/nenpyo/syokuho/syokuho7.htm 803 :無名武将@お腹せっぷく :2005/03/31(木) 14:00:18
はいはい、別人という扱いにすればイイのですね
しかし‥大徳寺文書の内容が違うと言っているのに、意味不明すぎw
ソースは、大徳寺文書の巻一
書状の出だしは「春陽慶事」書状の日付は2月24日、ただし年は記述無し(天正2年〜4年の間)
他スレからの引用だがどうも大徳寺文書を記述してるサイトに間違いがあるらしい。
>>356 話が繋がらないことには変わりないじゃん
今の話題は「信長公記に兵数が明記されてたか」でしょ?
書いてあるかないのかは信長公記読めばすむことだろ
幸いネット上に原文も公開されてるし、わざわざ話題にすることか?
>幸いネット上に原文も公開されてるし
!!!!!!!
原文公開されてるの?読み下し文や現代訳ではなくて?
信玄かわいいよ信玄
361 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/03(日) 22:43:18
儀元気高いよ、儀元
>>357-359 武田厨の俺が言うのもなんだが
信長公記には、槙島城攻撃の兵数なんて書いてないぞ
つーか、たかが義昭相手に七万も動員するワケないだろボケ。
ところで、兼見卿日記をみると七月の十四日に滝川は柴田・木下・丹羽・松井と連れ立って
吉田兼見を訪問し〜とある。また十五日にも兼見が妙覚寺を訪問して滝川・松井と会った
事が記されている。
槙嶋城攻撃には参加しなかっただけで、この時の上洛に滝川も参加していたようですね。
本当に主だった武将全員参加させてますな。
ちなみに七月十三日付けの信長から毛利への書状で
「信玄は病死し朝倉はたいしたことはなく三好その他は取るに足らず。義昭が天下を放棄
してしまったので信長が上洛して諸事を取り仕切っている」
と告げている。
364 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/05(火) 00:35:56
ていうか、天下統一年譜を見たまんま、知ったかして書くヤツってのは
ネタ元に申し訳ないと思ってんだろうか?
よく知らんが信長公記にないのならなんか別の史料に書いてあるんだろ。
確かに七万というのは良く見る数字だ。
367 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 20:12:12
別の資料とは?よく見る数字?
よく知らん割に、根拠ないことを肯定するとは・・・
信玄厨なんてみんなそんなもんだ
↑読解能力がないかわいそうな人。
信玄厨だったらその時期の信長に七万も動員できるとは思えない、
とか言うんでないの。
>>369 額面どおりにしか受け取れない典型的な信玄厨w
つーか信玄厨の話はどーでもいーから。
信玄の話をしろよと。
信玄に進言
信玄に上洛は無理というのが結論
近江の織田領多すぎ
江北、甲賀と蒲生、野洲、栗太の一部を除けば
半分程度というのが妥当。
信玄はタイミングが悪かった
上洛開始のタイミングも死ぬタイミングも
>>371 そんなむきになるなんてよほどくやしかったんだなw
信玄かわいいよ信玄
トv'Z -‐z__ノ!_
. ,.'ニ.V _,-─ ,==、、く`
,. /ァ'┴' ゞ !,.-`ニヽ、トl、:. ,
rュ. .:{_ '' ヾ 、_カ-‐'¨ ̄フヽ`'|::: ,.、
、 ,ェr<`iァ'^´ 〃 lヽ ミ ∧!::: .´
ゞ'-''ス. ゛=、、、、 " _/ノf:::: ~ ・・・・・・・・
r_;. ::Y ''/_, ゝァナ=ニ、 メノ::: ` ;.
_ ::\,!ィ'TV =ー-、_メ:::: r、
゙ ::,ィl l. レト,ミ _/L `ヽ::: ._´
;. :ゞLレ':: \ `ー’,ィァト.:: ,.
~ ,. ,:ュ. `ヽニj/l |/::
_ .. ,、 :l !レ'::: ,. "
//'l l i / /\ `ー、、`ー-〃ー,-ノノ!、、、_ `ヽ、 _`''
;',il | l l,;i l / ヽ、、.__`''''//''-<ユ!ニ=iーt,,、、-、 ヽ、-
i l l , ',i ,ィ==、、 、、_ノ//i._,)o、'''ナ' ̄i. l ,,-、i Tヽ、ヽ
! l ! i ;;l/' ! _,,、ゝヽi ヾー' " ゝ!;;)。i!,ノっ l l/ ' i 、`ー=
i ll ヽ l l、、>''"i~)ヾ` `oー=",""" l/ )' /、\ー ヤムチャぁーーー!!!!
ヽ、! `i lヽ''ゝ、ヾ;;。il, ,. ノr,vぅノ、ヽ、ヽ-
ヽ l iヽ;'iヽO゚=''" ヽ , ァー、 ゝノi1 l!ヽヽ〉,l
i l l i'l K、""" 、''"/ ヽ、 ,/'l.! l l ll ヽ l li
i l、 ! `il、r;:、 ヽ! ! // ヽli'/! l l
l;' ヽi il ヽ、〉、、 \ ノ/ / /,l リ
/ \ ヽ / /`ハー-==,/ヽ/ ,/l' / ,l
定期的に荒れるなw
信玄厨が必死なんだよ
まあ、いま現在必死なのは槙島城攻撃に7万人動員のソースを出せなかった奴だろうがな。
ちょっと調べてみたりググったりしてみたが、たしかにこの槙嶋城攻撃の織田軍を
七万としている記述がほとんどだったが、ソースはなかった。
こうなると出所が知りたくなるな。
武田信玄
諏訪を奪ったはいいが諏訪が安定する前上伊那の高遠や藤沢と敵対してる中、佐久に手を出したり
上伊那の諸勢力を屈服させた帰りに、まだ佐久を平定しきってないのに何故か小笠原領に侵攻して小笠原家と敵対したり
林城攻略によって一気に小笠原家を崩壊させたが兵を返すことなくそのまま軍を進めて戸石城を攻撃して戸石崩れ
義元死後駿河に侵攻してついでに徳川領にも手を出して徳川とも敵対
なんかいつも欲をかいて失敗してる感じだ
7分勝ちは虚構だな
必死に話題を変えたい奴がいるな
>>384 それに対し信長は元亀ぐらいだな、その手の失策をやらかしたのは
>>386 というか7万なんてどうでもいいよ、どうせ信憑性無いんだし
信長は上洛後があっちこっちに敵を作ってるな、朝倉本願寺と敵対する前に、南近江と伊勢を安定させるべきだった
んだろうな
朝倉と本願寺との敵対が余計だな、まだ三好だって残ってるのに
第214回
武田家滅亡の謎
〜戦国最強軍団はなぜ滅びたのか〜
平成17年4月13日(水)21:15〜21:58 総合
>>390 またまた生暖かい目で見守るような内容なんだろうな
>>384 佐久はもともと攻略中、しかも上野の上杉と手を結んだりでしょっちゅう反旗を翻すし
林城攻略はほとんど戦らしい戦をせずに攻略したし、村上は高科と抗争中で本隊がいなかったしな。
徳川は今川を滅ぼした時点で潜在敵だし、いうほど下手な外交ではないな。
>>393 史実だけど結果論と武田に厳しい味方でもある
まあ好意的にみてもうまい外交とは言えないだろうが
味方でどうするorz
見方だ
しかし信玄って政略的には割と大胆だな、戦術的には常に相手の兵力を上回るような戦いをするのに
戦術で勝っても戦略で負けてれば意味が無い、本末転倒なのではないかい
>>395 細部で意図的に?違う部分もあるけどね。
>>394 小笠原領侵攻の件は?一つ二つならまだしも何度もあるようでは外交は下手と考えたほうがいいのでは
残りの3件に対する説明も何かひいきし過ぎな感じがするし
>>400 致命的になったのは信玄の寿命も関係してるわけだし結果論かと。
まあ、武田を擁護すると北条は謙信の関東管領就任時の遠征で武田に危機を救われてるし、
その後も上野などで共同で陣立てもしてる。
その北条が駿河以外の四方に敵対勢力に囲まれる危険をおかしてまで落ち目の今川につき
なおかつ宿敵である上杉と同盟を結ぶことを予期しろと言うのは、
信長に光秀の謀反を予期しろということくらい難しい話だろう。
>>401 小笠原とはもっと以前に敵対してる。
あたかも他方面に敵がいるのに、わざわざ小笠原と敵対したみたいなことを
>>384では
書いてるけど、それは明らかな間違い。
>>403 >小笠原とはもっと以前に敵対してる。
>あたかも他方面に敵がいるのに、わざわざ小笠原と敵対したみたいなことを
>>384では
>書いてるけど、それは明らかな間違い。
それも極端な意見だと思うが…
敵対はしていたが全面戦争という状況ではなかったはず
あえて侵攻する必要も無かったし、この時の攻撃で得たものも多分無かったはず
小笠原と全面的に敵対したのであれば先に小笠原を相手にすればいいのに、その後佐久に侵攻して上杉を駆逐したが
今度は小県で村上と敵対して上田原の敗戦、小笠原が諏訪の一部を奪い村上も佐久へ侵攻といった流れに
先に小笠原をやっとけば2正面作戦ということにもならなかったのに
>>384 に付けたしで
小笠原と敵対後佐久小県に侵攻して村上と敵対
>>404 小笠原とは全面戦争状態だよ。
信虎を追放した年には諏訪頼重と共同で甲斐に侵入してるし、その後も多々合戦してる。
>>この時の攻撃で得たものも多分無かったはず
このときは竜が崎城や福与城を落としてる。
>>406 >このときは竜が崎城や福与城を落としてる。
ちょっとまてそれも小笠原とするべきなのか?
>>405 村上が佐久にちょっかいを出してたこともあるのだろうが
確かに上田原は失策だな。
>>407 小笠原長時は竜が崎城へ後詰に来てたし福与城の藤沢は小笠原の縁戚だけど
>>407 微妙だな、長棟時代ならともかくこの時は別勢力と考えたほうが無難
>>406 >このときは竜が崎城や福与城を落としてる
そもそもそれが384のいう上伊那勢力じゃないか?
>>408 藤沢頼親は長時の義理の弟だったかな?
信虎追放後、佐久は上杉や村上の影響下にあったが、武田の佐久侵攻時の両家の動きからあくまで影響力がある程度
上杉とは2回目か3回目の佐久侵攻で戦ったが村上とはまだ戦ってはいない、武田から手を出さなきゃ村上と完全に敵
対することも無い、村上と敵対する前に小笠原を倒しておけば、戦力を集中させることができ上田原の敗戦も無かったのはず。
>>410 >>384は前述の通り必ずしも史実に書いてないから、差異はあるかも。
>>藤沢頼親は長時の義理の弟だったかな?
その通りですね。
>>412 というか、それぞれの件について1行しか説明が無いから分かりにくい上、半分煽り目的みたいな印象受けるし
まあスレの活性化には役立ったが。
>>ALL(といっても2〜3人?)
武田の前半は史実が良く分からんから差異が出てるのでは?
>>413 >武田の前半は史実が良く分からんから差異が出てるのでは?
確かにそれはあるな、まあそれでも信虎時代に比べればましなのだろうが
>>409 最初に高遠藤沢が武田と敵対したときは小笠原は動いてないからまあ別勢力でいいと思う
ただ上のほうの越後上杉の動員であった本庄みたいな感じだろうが
>>411 村上とも敵対はしてたよ。小笠原ほどではないけど
>>406 >信虎を追放した年には諏訪頼重と共同で甲斐に侵入してるし、その後も多々合戦してる。
これって軍艦だけじゃなかったっけ?
>>417 内心はともかく武田の佐久侵攻の段階では敵対してはいないはず
>>418 確か一次史料や状況からありえないという話だったな
>>404 上伊那だけで満足しとけば良かったのにということだね
>>409 長棟の時代は築摩郡に安曇郡伊那郡を支配してたからなー
ところが長棟が死んで後を継いだのが傲岸不遜の長時、結果離反しまくり
>>384 戸石崩れの後、築摩郡の支配が中途半端だったため小笠原長時が勢力を盛り返す結果となったな
諏訪頼満といい小笠原長棟といい良いタイミングで死んでくれたな、頼満が死んだのは信虎時代の話だけど
こいつら生きていたら信濃侵攻は更に困難だったろうな
死んだ言うなら長野業政や義元氏康も
なんだ信玄も信長に劣らず運良いじゃんか
毛利は経久が死んで陶が謀反起こして宇喜多能家が死んで(ry
伊達政宗は芦名が(ry
長野には十分邪魔されたから運がいいとまでは言えないな。
もっとも、信玄とぶつかる前に死んでたらほとんど誰も知らない武将になってただろうが。
歴史に名を残さず消えていったが実は生きてたら凄かった武将、
というものがいたかもしれない、と考えると、後世に残された情報だけで
運の良し悪しを量ろうというのは結局のところナンセンスと言わざるを得ない。
>>429 激しく同意だ
織田が運だけで勝ったとか言ってる香具師に言ってやりたいものだ
織田厨乙
信長はどう見たって戦国一運がいいだろ
432 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/07(木) 12:50:01
運に見合う対応をしてきたんだろ!
信繁が生きていれば・・
実力は当然あるが、運が凄まじくいいのも事実!
信長の弟死にすぎ(どうでもいい)
戦国大名で名前知れてる奴、多かれ少なかれ、皆、運が良い。
その運を生かしきる、才能の差が信長と信玄の結果の差に繋がる。
信長の兄弟って討ち死にが多いけど、それだけ天下布武に一族も協力したってことか。
まあ信長も信玄も運を活かすだけの実力があったということだろ
運の話だったら
徳川家康がブッチギリの最強だな
当然『運だけで天下人』なんてアホな話にはならんけど
信長、秀吉、家康は、皆、運もいいが
それ以上に、活かすだけの能力があった
信玄も頼満死後の諏訪、河越で上杉が破れた後佐久、長棟が死んで弱体した小笠原一族
長野業政が死んで西上野、義元が戦死して弱体した今川、氏康が死んだ北条と同盟と、
一応運を活かしてるはずだが
それなりの勢力を築き上げた人物はどいつも運が強いよ
>>441 それは運がいいと言わんだろ‥
義龍、長慶みたいに早く夭折したわけじゃないし
龍興、義継ほど無能でも、六角や畿内の連中ほどザコじゃない罠。
>ザコじゃ
でなく、ザコでもね
>>443 頼満死亡はいい加減寿命だろうな60歳ぐらいだし、
ただ死亡後孫が継がなければならなくなり諏訪家が分裂したのは運が良かったか。
長棟も50歳で死亡だから十分長生きだ、ただ小笠原家を継いだのが無能の長時だったのは運がいいな
長野業政も死亡時は70ぐらいだし、氏康も55〜56ぐらいだ
ちなみに長慶は42歳で死亡
けど義継は無能か?六角や畿内の連中を雑魚というなら、長野や諏訪小笠原のほうがよほど雑魚だろ
>>445 単純に比較するなら信濃小豪族のほうが雑魚、対戦時の戦力比で比較するならどうだろう?
信長にとっての最大の幸運は桶狭間と義龍の早世だろうな
これに匹敵する信玄に味方した幸運ってなんだろ?
>>445 六角や畿内の連中の方が雑魚かと
一戦も交えず篭城もせず逃亡するような輩は、雑魚以外の何者でもないだろう。
>>449 それだけ信長のほうが戦上手なんだろうな
>>447 そりゃあ氏康が死んだことだろう。享年56。早死にとは言えないが若い頃から
病気の記録もロクにないことを思えばもう何年か長生きしてもおかしくもない。
信玄にとっては、氏康は実にいい時期に死んでくれた。氏康が死んでいなければ、
最期の遠征も出来なかった。
>>452 平均寿命が50といわれる時代で氏康の死が最大の幸運か・・・
>>453 おれもそう思う、それに上杉と北条とでは利害は対立してるから同盟はどちらにしろ
長続きしないだろうし
ただそれ言うなら信玄の死も謙信の死も幸運でなくなるだろうけどね
近代以前における平均寿命の低さは乳幼児死亡率の高さからであって、それを除けば
かなり高くなるという話を聞いた事がある。
456 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/07(木) 17:52:53
信玄の運のよさは、謙信が隣にいた運の悪さでプラマイゼロだな。
信玄の死後、数年間で、出羽の一部から上野、越後、信濃の一部、越中、加賀、能登までに及ぶ
大領土を築いている。
もし、お互いに邪魔しあわない関係であったなら、と思うと、信長もゾッとするだろう。
>>456 だったら協定を結べばいいだけのことだろ、それを実現する構想や政治力が無いから信玄は外交下手だと
>>457 そこでなぜ美濃から攻めなかったスレに続くのか?
>>456 信長の運の良さも周りが大勢力なことでプラマイゼロだな
運がどうこうなんてどっちもどっちなんだからやめようぜ。
>>463 それじゃ話を元に戻して…
何の話してったっけ?
たしか信玄の信濃侵攻における対応(外交その他)だったかな?
>>465 史実がよくわからんからなんとも言えないなぁ
信玄の話をしていて不利になると、「でも信長のほうがもっと…」と言い出すんだよな。
本国の豊かさ、周辺大名、情勢など信玄と信長の個人の才覚と関係ない比較をすれば
信長は信玄よりは恵まれてたと思うよ。
>>467 さっそく468がでたな
ひょっとして469と俺は468に釣られた?
\
>>469 釣られたクマー
\ 助けてクマー
\∩_∩
>>470今助けるクマー
(;(エ); )∩_∩
⊂. ⊂ |(・(エ)・; )
⊂_⊂/⊂⊂___つ
>>465 自分より弱い相手に苦戦して時間かけすぎ、2正面作戦多すぎとかいう話だったな
>>469 少なくとも国の豊かさならそうなるだろう。
石高では甲斐と信濃合わせても尾張一国と大して変わらないのだから。
>>473 問題は周辺大名と情勢だな、武田と違っていつ滅んでもおかしくない
武田は今川とは同盟だし北条は関東に敵が多くて信虎の時代のように甲斐への攻撃は無理
信玄が当主について小笠原村上諏訪が連合で甲斐に攻めたとあるが、それは信濃侵攻を正当化するための
創作だし、佐久は小領主ばかりで隣国へ攻めこむような勢力は無いし、諏訪はこの時期高遠や下諏訪の諸勢
力と争っていてそれどころじゃないし。
>>472 晴信が信虎追放してから村上を追い落とすまで約12年だから初期の国力で考えれば
時間をかけすぎという事はないな。
むしろ時間をかけてしまったのは謙信との争いだな。
>>468 しかしスタート時点の国力でいえば、信長<信玄 ではある。
うつけ行動のおかげで作らなくていい敵を多く作ったからな信長は。
甲斐は信玄の代で石高を2倍以上増やしたと聞いたことがあるが真偽はどうなんだろ?
信長は家督を継いでから約12年で尾張をほぼ統一
20万石から55万石ほど(数値はかなり適当)
信玄は12年で村上を追い出す謙信が手を出してこないと仮定して旧村上領を武田の物とするなら
22万石から下伊那木曽を除く信濃全土36万石で約58万石
そこまでのペースは似たようなものだな、状況は織田のほうが遥かに厳しかったが
>>476 そうでもないのだよ。
尾張は豊かな国で、半国でも甲斐一国より石高が高い。
>>474 桶狭間の一撃が物凄く大きかったね。
まあ、それ自体を「運」と見るものもいるだろうが、
そうとまでは言えないと思う。もっとも義元を討ち取れたのはさすがに運かな?
とも思うが。
>>479 桶狭間の影響はでかいが、家督を継いだ状況から桶狭間の状況まで持ちこめたのが凄い
尾張は豊かではあるが家督を継いだ時点では半分もいってないだろ
>>477 >甲斐は信玄の代で石高を2倍以上増やしたと聞いたことがあるが真偽はどうなんだろ?
それはあると思う、でないと信虎時代に諏訪に苦戦したこととか、信玄が高遠や藤沢に苦戦したのがおかしくなると思う
いくらなんでも武田弱すぎるから。
>>480 まあ自分と同レベルの清州織田家に勝って自分よりも優勢な弟に勝って自分と似たような勢力の岩倉織田家に
勝ったからな、しかも今川と後には斎藤とも戦いながら
>>481 高遠や藤沢と戦ったときは甲斐+諏訪+佐久の一部で太閤検地から考えると26万石を上回るのに対し
高遠藤沢は両者合わせても伊那の半分2〜3万石程度苦戦するような相手ではないな
小笠原の支援があったとはいえ、この時期の小笠原は仁科などを足しても(木曽を除く)安曇郡と築摩郡程度
信濃10郡で1郡4万石と単純計算しても6万石程度
どっちにしても苦戦するような相手ではないはず
以前放送してたNHKの番組では信玄は石高を3倍近く増やしたそうな
>>484 甲斐の石高を?
だとすると信虎が諏訪に勝てなかったのも別におかしな話ではないかな
でも考えてみればどの国も石高は上がってるんだろうなこの時代。
>>485 「そのとき歴史が〜」で信玄の国内政策を主眼に放送してた回で
そのときに確か言ってた気がする。
>>486 NHKじゃなー、はっきりいって信用できないな、一体何を根拠に3倍などと言ったんだろ。
そんな史料があるんだったらとっくに他の学者が発表してるはずだし。
>>483 村上だけは別格だな
高梨含む村上だと約20万石で、甲斐諏訪上伊那佐久の計30数万石の武田に何とか対抗できる国力だからな
信玄って実は戦下手なんじゃないか?
真骨頂は調略の方にあるっぽい
太閤検地に対して2〜3倍になったというのなら、信虎時代の甲斐は
7万3千石〜11万石くらい?
信玄は信玄堤に代表されるように、戦国大名にしては開墾を奨励するという稀な存在ですよ
今川焼きと義元って関係あんの?
>>490 三増峠や三方ヶ原を見るに、野戦指揮は一級品だと思うぞ。
>>496 どっちも戦場では相手の倍以上の兵力差だったけどな
無理して劣勢な兵力で戦ってもいいことないし。
優勢な兵力を確保した上で、そこで上手に勝つことの方がよっぽど重要。
信長だって劣勢な兵力で何とかしようとしたのは桶狭間くらいだし。
稲生合戦や天王寺合戦もありますよ。
信長の信玄も、相手の兵力を上回るよう務めていたってことでしょう。
違いは信玄は上回っていないときは極力戦いを避けて状況の変化を狙ったが、
信長は積極的に打って出たということかな。
>>496 そのくらいの年になってやっとまともになったんだろう
若い頃は誰がなんと言おうと戦下手だと思われる
>>501 信長と違って相手に手錬が多かったから、そう見てしまう人間もいるってだけでしょ。
↓以下信長の相手は初め格上ばっかじゃんというレスが入り無限ループ
この道はいつか来た道
>>502 何で相手に手錬が多いと言いきれるのか謎だな
まあ信玄は戦場につくまでが優れていて、実際の戦場での指揮能力は普通程度だったんじゃない
戦績から考えて
>戦績から考えて
詳しく
信玄の相手で強敵といいきれるのは謙信だけじゃないの?
氏康とかは同盟者だし
まあ晩年は氏康も自分の勝手で敵にまわしてたけどw
信長の相手なら強敵は義元か
義元にしても謙信とは比較にならんしな‥
村上、長野に比べれば義興、六角は雑魚すぎるし
信長はつくづく運がいい。
>>507 まあ謙信が本当に強かったかは分からないけどな(多分強かっただろうけど)
客観的に評価できる石高の数値から考えるなら上杉は武田より弱いはずだけど
>客観的に評価できる石高の数値から考えるなら義元は信長より弱いはずだけど
>>510 え?
でも桶狭間時の織田今川、石高から考えるなら絶対的な差があったとは思えないが
>>508 >村上、長野に比べれば義興、六角は雑魚すぎるし
どう考えても逆だろ、なんで比較に義興なのかは分からないけど
>>512 確かに。
今川北条武田を合わせて義興と互角ぐらいかw
多分龍興だろ、みんな分かってるだろうけど
>>513 どっち?三好?大内?
まあどっちにしても最強クラスの大名だが
龍興の間違いだろ
まあ、いまは揚げ足取りくらいしかできる事が無くなってるから仕方ないなw
>>516 でも龍おきにしても長野や村上と比較するなら龍おきのほうが手強い相手じゃないか?
いい加減508みたいな煽りはスルーしようよ
それより戦績の話しまだ〜
519 :
518:2005/04/08(金) 13:29:25
27スレより自分で拾ってきた
198 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/03/02 20:56:15
145 :無名武将@お腹せっぷく :05/02/27 22:02:54
信長は勝率で言ったらメチャメチャ高いはずだぞ?
手持ちの新人物往来社の本によれば、113勝28敗14分で勝率八割だ。
ちなみに戦力比のはっきりした38戦の内、
戦力比で勝ってる戦23戦→14勝5敗4分
戦力比で劣ってる戦15戦→8勝6敗1分
で、戦力比だけで勝ってきたわけでもない。
156 :無名武将@お腹せっぷく :05/03/02 20:41:05
>>150 そうか?むしろ信長の強みは28敗のほうにあると思った。
信玄と比較してみるとわかる。
彼の生涯戦績 72戦中49勝3敗20分
負け戦は圧倒的に少ないが、負けるときは上田原や砥石など、どうしようもない
くらいに大負け。それまでの戦略を練り直したりなど、後退してやり直しがみられるが、
信長は負け戦に大敗惨敗というものがない。
もう一つは引き分けの率。信玄の場合は4分の1で戦果なしなのに対して、信長は軍を
動かしたら必ず何らかの結果を出している。これくらい苛烈に戦わなければ、短期間で
大膨張は不可能だろう。
六角は観音寺騒動で弱体化してたし、龍興は暗君だしな。
伊勢の北畠も考えると序盤はさておき勢力伸張の下地は用意されてたわけだ。
521 :
518:2005/04/08(金) 13:36:22
上杉謙信 生涯70戦43勝2敗25引き分け
負けは対北条氏康の生野山の戦い
対原胤貞の臼井城の戦いらしいが
>>520 同じようなことが武田にもあてはまるんだが
観音寺騒動は実際の出来事として確定だが
龍興は暗君というのは事実なのだろうか?
同じことが長時にも言えるが
上田原や砥石はまだ晴信であった若かりし頃だから、出家して信玄となってからは負け戦なし!?
とすると残りの1敗はなんだろ?
うそかまことか諫言のため竹中に手勢で稲葉山城を占拠される話もあるくらいだから
お世辞にも良い君主であったとは言えんな。
526 :
518:2005/04/08(金) 13:48:57
>>524 過去スレによると村上相手の小岩岳城だそうだ
527 :
518:2005/04/08(金) 13:58:33
>>524 また過去スレによると
武田は信玄が率いた戦だけカウントして信長のほうは織田家全体の話で公平でない
あと武田は負けに近い引き分けも多い引き分けで終わるような無駄な出兵も多い
織田は負け戦はあっても武田のような壊滅的な負けというのは無いとのこと
なんの判断基準で壊滅的な負けと判断してるの?
弟が討死しても織田厨が認めなければ、ただの負け戦となります
530 :
518:2005/04/08(金) 14:19:43
>>528 わかんね
ただ上田原ほどの負け戦は織田にはないとのことだ
後退してやり直しという戦略転換は金ヶ崎や野田福島であったが軍団は無事
>>529 >主要武将がまとめて討ち死にするようなケース川中島や上田原がなかったのも幸いしたかな>信長
という意見に対し、伊勢長島ぐらいというレスがついた
金ヶ崎を戦略転換とか言っても説得力無い罠w
川中島と上田原を同列に並べてるのもなんだかな‥
それに長島での負けっぷり死にっぷりは、上田原に勝るとも劣らんだろ
532 :
518:2005/04/08(金) 15:40:48
>>531 無論実際には過去スレではいろいろと語られてるし詳しく(?)言及もされてる
川中島上田原を同列に並べたのは自分、過去スレでは別々に話されてる、単に俺が短くまとめるため一緒にしただけ
気になるなら過去スレ読んでみれば
>>531 長島の負けってそんな酷いか?上田原に比べればどうでもいいようなものだと思うが
腹減って死にそうな農民相手に惨敗・・・酷いな
>>534 読んだ上でどうでもいようなものだと判断したのだが
上田原の敗戦は信濃を失いかねないほどの危機になったのに対し
長島での負けっぷりは凄いが織田の各戦線に与えた影響なんてどうでもいいレベルだと
話がずれているのでは
信濃を失いかねないほどの危機?
村上勢の一方的圧勝ならその通りだろうけど‥
上田原は信玄最大の負け戦で板垣や甘利ら重臣を失ってるけど
村上も相応の損害と屋代や西条らの将を失ってるし信濃を失うほどではないな。
信濃を失う可能性があったのは上田原の敗戦後の塩尻峠の戦いだと思うがこれは勝ってるし。
>>539 塩尻峠の戦いの原因が上田原の敗戦だからあってんじゃね
あの敗戦が無ければ武田に野戦を挑めるだけの兵力を小笠原が集められるとは思えないし
信玄厨は小中学生が多いっぽいな
>>540 塩尻峠の戦いの起因にはなったろうけど上田原敗戦の時点では
信濃を失うとまではいかないよ。
上田原敗戦の結果、武田の軍事行動の停滞、小笠原の蜂起、武田領の諏訪における反武田勢力の蜂起
といった事態になり、村上は小県どころか佐久にまで攻め寄せ小笠原は上諏訪まで攻め寄せている
一応信濃の危機にはなっていると思うが
よく読めば誰も信濃を失うとは言ってないぞ、失いかねないと言ってるのであって
だね
>>539 >>542 上田原で信濃を失いかねない、軍事的政治的打撃を受けたが、それを塩尻峠で取り戻しただけの話だろ
何言ってんだ?
>>544 塩尻で負けてれば本当に信濃を失ったかもしれないな
>>537 上田原に匹敵するのは長島じゃなくて、1570年の、野田福島&滋賀の陣じゃないか
一時は畿内をほぼ制したのにこれの結果離反が相次いで近江以西を一時的に失ったみたいになるし
>>548 72年の畿内への攻勢でいくらか回復するけどね
>>548 蟹江城の陥落や道三救援の失敗も尾張を失いかねない危機だったな
よくよく考えれば尾張統一までは常に滅亡と隣り合わせだったか…
そして桶狭間から上洛までは戦線を一つに絞っていたが、それ以後は全周囲が敵。
まあこれは「全国の大名はオレに従わないヤツは敵」なんて宣言して実行している
からだが。
554 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/08(金) 23:01:36
天下布武が大儀名分になるんじゃないんですかプ
そう 信者がバカなだけ
>>546 相手も痛手を負っているから
信濃を失いかねない、軍事的政治的打撃を受けたとは言えない
実際塩尻峠で勝ってるしね。敵が信濃以外にも存在してるなら別だが
>>557 いや実際 佐久と諏訪しかも上諏訪を攻撃されてるし
まあ上田原の敗戦後は反武田勢力が決起し、一部内応するものもでたのだから、武田が負ける可能性もあると
当時の人々は考えたのだろうな
下諏訪失っても動けなかったんだから、それなりに危なかったんじゃないのか
>>557 少しおちついたら、あくまで失いかねないなんだから、誰も失うとは言ってない、失う可能性が出てきたという程度の話でしょ。
それにもともと武田は村上や小笠原よりかなり国力は上なんだから、失わない可能性のほうが遥かに高いんだろうし。
>>561 そりゃそうだ、村上小笠原ついでに高梨合わせても多分武田の方が上だろう
>>561 少しおちついたら?単に否定しただけだよ?
それと、村上は結構な勢力だよ、武田の方が上だがほぼ同等。
>>562 それどころかそれに木曽や下伊那の小笠原加えても当時の武田の方が上だろうな
>>563 信玄が甲斐の石高3倍にしてなければそれは無い
>>564 テンプレの太閤検地を基準にするならそうかもしれないが、信濃はもっと石高が高い可能性もあるから
そうなるとそれは間違いになると思う。
太閤検地では信濃は寺社領が入ってないのでなかった?
>>559 だろうね、佐久にまで攻めこまれて、伊那では藤沢が離反、諏訪では諏訪西方衆が離反といった状況ではね
568 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/09(土) 00:10:20
>>566 うんそう、だから太閤検地なら564でいいけど、寺社領も動員に応じるとして信濃を評価するなら564は間違い
562は微妙
検地で寺社領含まないのかい?
検地して寺社領や家臣の知行を再配分してるはずなんだけど
>>568 563や557とは別人と信じたい
信濃の郡別石高が無いから何とも言えないが、村上領は諏訪と並んで信濃で裕福なところだろう
>>571 別人と信じたいってw
寺社領を否定したがるのは織田厨の方だと思うが?
まあ単純に太閤検地の結果から信濃10郡を一律に1郡4万石と仮定するなら
村上 埴科郡 更級郡 水内郡 小県郡 16万石
高梨 高井郡 4万石
小笠原&(仁科) 築摩郡 安曇郡(木曽のぞく) 6万石
計26万石
武田 甲斐22万石 諏訪郡 佐久郡 伊那郡(上伊那のみ)10万石
計32万石
基本はと言ったところか
>>572 織田厨と言ってるから武田側の人間と思ったんじゃないの?
>>572 だとしたら565は含まないんじゃないか
576 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/09(土) 00:27:09
>>576 本でも村上勢7000、武田勢8000、とかよく見かけるから
今回はいいんでないの。
>>577 石高から考えるなら小笠原の押さえ北条への警戒兵力を除いた武田の遠征軍としては妥当な数値だし
村上も防衛戦ということを考えれば納得いく兵数になるな
太閤検地が寺社領除いたとするなら、畿内には膨大な公界や寺社領存在するんですけど
でも基本的に寺社領も検地してますよ
太閤検地は国によって違うよ、土佐なんか明らかに低すぎるし。
どっちにしろ秀吉でさえ検地できないよう勢力が地方大名の動員に応じるとも思えないから(例外はあるだろうけど)除外していいだろ
それに全国にあるんだし
毛利領や土佐、越前は怪しいと思うが
>>580 土佐は低いというのは、長宗我部の蔵入地9万石となってるのを土佐一国と勘違いしてるのでは?
>>583 どういうこと?
太閤検地では9万8千石?じゃないの?
畿内、尾張や豊臣後期の検地では寺社領も検地してるけど
初期の頃や僻地は寺社領含まない国もあるでしょ。
>>581 全国津々浦々直轄地ってわけじゃないから、話が違う罠。
>>585 太閤検地では土佐は24万石(詳細な数字は忘れますた)
これは長宗我部地検帳で明確にされてます
9万8千石というのは、長宗我部氏の直接支配する(他は家臣やら一条家・その家臣の所領)蔵入地の数字です
>>587 できればこのスレに関係する国の石高が知りたいな、おおよその数値でいいから
サイトとか教えてもらえれば自分で調べるけど
590 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/09(土) 01:22:42
このスレの石高も知りたいな
石高のサイトは残念ながら知りませんですよ
おおよその数値で良いのなら、今日中にでも史料ひっぺがして見つけて書いときます
それで勘弁してくださいませ
とりあえず見つけた。
全ての国がのってるわけではないが件の国はのってた。
越中、信濃、越前(一度目)は寺社領入ってないね。
あまり土佐というのもスレ違いだろうけど
>>599では土佐ないね。
>>587が言ってるのは太閤検地じゃなくてもっと後代の検地だろう。
太閤検地では故意に数値が抑えられていたという話だから。
>>601 >太閤検地では土佐は24万石
と書いてあるが・・・
だから、なにかの間違いだと思う。
605 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/10(日) 03:06:07
age
R.バルボン
>>604 太閤検地と寛永検地で大きく変わっている国はどうみればいいのかね。
詳しく測り直した。その間に開発された。
まあ国それぞれで違うんだろうが。
しかし実高とも大幅に差がある国もあるな。これは江戸期の実高でいいんだよな?
しん
>>608 江戸の末期、詳細な時期は忘れたが、だったな。
このスレで郡別石高の指標にされている時の石高が、そのスレでの実高。
しかし、江戸時代は各地でかなり開発されているからな。
太閤検地と寛永検地で大幅に動かなかったところはそれでほぼ信用して良いと思う。
10万以上の差がある場合は特殊なんだろう、越前みたいに。
ごめん、うそ。
元禄・天保だってさ。
どこが江戸末期だと小一時間問いつめて下さいorz
天保は末期でもいいんんじゃないか?
後期のほうが正しいだろうけど
>>606 直リンするなよ
今度からテンプレにリンク加えるか?
3〜4スレに一度ぐらいそのページの場所聞かれるだろ
石高のほか、信長公記や国立公文書館や武田全戦績なども。
>>610 畿内や旧織田領に変化が少ないのは、厳格な検地を行ってるってことか
増分の大きい国を見ると(越前、越中、信濃、紀伊、播磨、因幡、土佐)
寺社の多い地域が多いね。
太閤検地は蔵入地に関しては特に厳格だったらしいね。
寺社は日本中どこにでもあるし、それらの地域が格別多いようには思えないけど。
寺社が特に多いのは畿内だと思うが…
特に大和
江戸時代越中は前田領だけど、前田家にとっては旧佐々領であったため特に厳しかった、逆に能登は前田家にとって
この3国では最初に領地にしたため甘かったとか。
また常陸も江戸時代家格を維持するためや江戸滞在費を維持するため過剰に取りたてていたとか
>>618 税に関してはかなりすごかったらしいね水戸藩は。
スレ違いだが、そうやって搾り取った収入の三分の一を「大日本史」編纂事業につぎ込んだ
というからかなりとんでもねー藩だよな。
蔵入地って要するに分散配置された豊臣家の領地だろ?
そりゃしっかり検地されててあたりまえだと思う。
蔵入地とは大名が直轄統治する土地では?豊臣家限定という訳でもない
江戸幕府で言えば天領みたいな存在
平成幕府
でも
>>615で言っている「蔵入地」は豊臣家の蔵入地のことなんじゃないか?
信濃にそんなに蔵入地があったか?
信濃に豊臣家の蔵入地はなかったと思ったが…
615が614を受けてのものとは思わなかった。
つかせのりこ
629 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/12(火) 02:24:45
age
630 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/12(火) 12:43:13
信玄は、坊主になったのに妻帯税を取る罰当たりな人物です。
坊主を虐殺しまくった信長は犬畜生にも劣る存在です。
殺されて当然の坊主どもだろ
俗人が坊主を殺すのは悪で、坊主が俗人を殺すのはよしというのかね
流れをぶった切るぜぇぇぇ
現在高1の彼女がいるんだけど
元彼氏二人とセックルしてたんだとさ
俺23歳童貞・・・
ちょい死にたくなりながらインドへ移動中
ジパングまで透明な壁とかなければいっちゃおうかな
今夜の「その時〜」勝頼知将説だな。
とんでも系かそれともしっかりとした勝頼の軌跡を追った上での
ことかどちらにしろ楽しみだ。
NHKage
637 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/13(水) 21:33:42
あがってねー
639 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/13(水) 21:37:32
勝頼すきになりそう(w
時折講談が入ることもあれば、一次史料がでてきたりするな
氏政
だからそれは逆恨みだ
違うよ
「その時」は一次史料を微妙に付け加えながら、講談話を真実っぽく描く番組ですよ
そのあたりを踏まえて楽しみましょう
高天神の降伏を認めるなと家康にいったって書状は一次史料?
しらべればいいだろ
>>643 新資料じゃないの?
聞いたこと無いぞ今日まで
書状は基本的に一次史料、問題はその書状が偽書かどうか
気になるのだったら、織田信長文書の研究の上下巻でも読め
まあ長篠は三国志の夷陵の戦の敗戦に匹敵するようなもんだろ、勝頼もそこからよく立て直したよ
結局は滅んだにせよ
勝頼は名将だったな
3年は国力の充実に専念して云々・・とか言い遺したけど
攻めて来る敵をどうしろと?
敵を作っといて死んだ信玄が悪いんじゃないか
信玄や謙信は死ぬタイミングが悪すぎたと言うことだな。
和議すればいいじゃないの。勝頼じゃ絶対無理だけどw
>>650 それをいうなら信長もほめられた死に方じゃないけどなw
>>650 武田家にとってはタイミング悪すぎたな。
織田とは戦争開始とほぼ同時に死亡迷惑な生き様だ
655 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/13(水) 22:17:17
鉄砲に突っ込んだ事実は震源の寿命とは関係ない話であって
その時
いきなり陣代が来たときはどうしようかと思ったが、なかなか面白かったや
>>641 北条ってもともと武田と縁切るつもりだったんじゃないか
北条自身は景虎を助けようなんて気はほとんど無かったみたいだし
>>658 そりゃ御館の乱の時の北条の行動から考えれば、助ける気なんてまるでないみたいだな
一応半年ぐらいしてから形だけ出兵しているが義理で兵を出したみたいなもんだろ、さすがみ弟を
見殺しにすると言うのは外聞が悪いから
氏政は勝頼に援軍を求めるだけ求めて自分は関東方面へ出陣したアフォ
661 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/13(水) 22:34:02
そんな長々と書かなくてもいいよ
氏政はアフォ
さぁ〜コイ 北条厨
案外氏政は景虎に恨まれているとでも思っていたんじゃない、上杉との同盟が破棄された後は
見捨てたみたいな形になっていたんだし、こんなのが当主になってしかも関東管領だったら、
北条領に攻めこんでくるとでも思ったんじゃないの
え、いいの?
よぉ〜し、北条厨吶喊しちゃうぞ〜。
とはいえ景虎を見捨てる気は無かったとは思うが、
優先順位は低そうなのは否定しない。
>>658 武田と敵対することで織田と縁を結ぼうとしたのでは?この時期になると地方の大名も次々と織田と誼を
通じている、武田が景虎と敵対したから武田と縁を切るいい口実になったと考えたのではないかと。
まあそれなら武田が景虎支援しようがいずれ何らかの口実で持って武田と敵対するだろうけど。
665 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/13(水) 22:39:30
北条夫人が織田兵に捕縛されなかったのがせめてもの救いか
武田が景勝との和睦で上野の上杉領を譲られたことに腹を立てとか
>>664 それだと秀吉に降ろうとしなかった北条がなぜ織田とは手を結ぼうとするのかが疑問になるが・・・。
>>663 まあ、死んだら死んだでいいやぐらいの気持ちだったんだろう、前後の動きから見ると
だいたい氏政が景虎助けたところで、本当にメリットがあるか分からない品
一族でも敵対するこの時代、景虎の勝利に終わっても、北条の味方になるとは限らない
かえって上杉北条の争いがひどくなるだけだったりして
>>667 信長と秀吉が同じ訳ではないし、関東のほうでも信長と秀吉の時代とでは異なるからなんとも言えない
とおもう
>>669 この時期の北条は
相模伊豆武蔵 上野一部 下総一部 上総一部
秀吉時代
相模伊豆武蔵 上野ほぼすべて 下総ほぼすべて 上総安房里見従属
下野一部 常陸一部
で徳川と婚姻 ついでに伊達と同盟
秀吉は徳川に苦戦し徳川の本領安堵
671 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/13(水) 22:55:38
裏で今川氏真が暗躍していたから武田家は崩壊した。
>>666 それだと結局武田滅亡後は上野は織田領になったから、全くの無駄骨だったな
>>672 まあ長篠以後の武田を追い詰めたのは北条と徳川で織田は最後のとどめぐらいにしか動いていない
徳川は駿河を貰えたが北条は何も得るものは無かったな
674 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/13(水) 23:02:50
氏真嫁といい勝頼嫁といい北条家の娘達は人間ができているな
675 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/13(水) 23:04:33
信長が同盟を申し出たって嘘くさいな
高天神も落としてない時期に家康が駿河に攻め込むかね?
676 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/13(水) 23:06:53
>>673 氏政って目先の利益に飛びつく馬鹿みたいだな
北条征伐の時も、沼田の一小城に執着して秀吉と戦争になるし
その上戦争になったら小田原城で延々と評定、
関東の小豪族連中にも苦戦してるようだし、とことん無能だな
677 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/13(水) 23:07:51
2万5千で上洛できっかよw
679 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/13(水) 23:08:47
駿河が攻められたから越後から引き返したって本当なの?
>>676 「利益」を慶次と一瞬誤解したじゃないかヽ(`Д´)ノ
そんな俺はノブヤボ厨・・・orz
681 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/13(水) 23:10:18
北条夫人って天目山のとき今の大学一年生の年なんだよな
>>680 氏政が目先の慶次に飛びつく… ウホ?
ある意味戦国時代らしいな
上洛は可能。
>>681 信勝とさほど年齢に差が無かった
そして二人は仲が良かったらしい
686 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/13(水) 23:14:42
>>685 勝頼・・・嫁と息子が浮気しているとは・・・どこまでも悲惨な男だな・・
↑脳内変換絶好調のようで
>>679 まあ万単位の兵を率いて3〜4ヶ月も越後にいたんだから、攻められてもおかしくないし
攻められなくても結構長期間遠征してるからいい加減引き上げるだろ
ちなみにその間北条は越後に対して一切行動を起こしてない
>>686 この話が出ると毎回そんな感じのレスがつくなw
これが北条厨?
勝頼は馬鹿
これも北条厨
勝頼が出陣している間、信勝と北条の方は・・・
北条の方は勝頼に嫁ぐ前に織田家に嫁がせようとしたら「私は勝頼様じゃないと
嫌です!」と言って侍女を連れて小田原城を一時脱走したらしい
ソース?
新田の小説
北条はいまいち魅力に欠けるな
新府を脱出する晩はセク−スしたのだろうか
じゃないと木曾が裏切ってから死ぬまで2ヶ月以上してないことになるよ
新田次郎の小説では織田家の誰に嫁ぐ予定だったのでせうかね?
>>697 人間は死期が近づくほど、種の保全をしたがる為、性欲は高まりますので
確実にヤってるでしょう
まあ勝頼の能力に関しては再考の余地があるけど、氏政はな〜
北条厨としては荒らすしかないと言うのも分かるよ
荒らして欲しいとは思わないし、氏政が無能でないと言うなら勝頼を貶めるのではなく
氏政が有能だといえそうなエピソードでもあげて欲しいと思う。
小姓って掘られてたの?
実際どこまでヤラれちゃってたわけ?
>>699 なんて史料?
>>702 落ち着け荒れたというほど荒れてないし、どんな香具師が荒らしているのかも分からん
勝頼に嫁げば天目山で自害
信孝に嫁げば長浜で磔
信雄に嫁げば長生きできるが、旦那は馬鹿
つらい選択だなw
>>702 「小田原評定」という言葉を作る原因を作った偉大な人物だぞ
マジレスすんなら、
武田や上杉の侵略に何回か耐え忍んでたろ
つーか、勝頼も氏政も親父が偉大すぎた
俺らは比較が大好きな人種だからこればっかりは仕方ないな
>>700 北条の姫と結婚すると言うなら、北畠と神戸はどうなるの?養子条件にそれぞれの姫と結婚があったと思うが
709 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/13(水) 23:33:49
逆に、信玄が家康並に長生きしていた場合には、武田家は滅んだか否か、考えてみよう。
>>702 味噌汁をこぼさないように慎重にご飯にかけて食べた。
これは信玄の六分勝ちを見習ったものであるし万事細心の注意を払う人柄のエピソードだ
勝頼の側室に遠州の小笠原一族の美女がいて、そいつを始めは
疱瘡でブサイクな穴山が狙っていたが、イケメンの勝頼に取られたため
後の謀叛の一因になったらしい
ソースはもちろん次郎君の小説
神戸に関しては、四国征伐の際に、信孝が三好康長へ養子というのがあるの
結婚問題関係ないんじゃねーの?
ていうか、新田次郎の小説だと書いてあるから真じtうわ、やめrなn
勝頼馬鹿
馬鹿勝頼
>>707 上杉の侵略は親父の代で上野まで戦線を伸ばしちゃって昔の勢い無いし、武田との戦いでも上野を失ってるし
家が滅ぶときに妻も一緒に殺されちゃうものなの?
正室・側室はそのまま織田兵に保護されたんじゃないの?
結論としては勝頼は馬鹿ってことだな
>>710 現代人としてなら友人にしたくなるようなエピソードだね
おやじが30年掛けて築きあげたものを
10年(実質7年)で食い潰した息子を
世間はなぜ「そんなにバカじゃないよ」なんて
言いたがるのだろう
>>720 ま、実際は器量が足りないと親父に叱られたんだけどな。
今いる人って勿論、受信料払わないで「その時歴史〜〜」を見た人たちばかりだよね?
724 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/13(水) 23:40:40
結局勝頼は馬鹿ってことか
確かに上原城・高遠城・深志城の落ち方を見てると、諏訪・高遠・小笠原との戦は
何だったのかと思いたくもなるな
726 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/13(水) 23:41:20
>>723 そんなくだらんテレビ見るのはおまえのような馬鹿だけだ
727 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/13(水) 23:42:00
勝頼はバカ
武田の最盛期は勝頼時代だからなー
でも最盛期(最大石高時代)は75年?それとも80年?
>>721 勝頼の実績を再考察しての評価だろ。
相手も信長だし、そのあたりも評価に反映してんだろ
信玄や信長って在陣中はオナニーしてたの?
北条夫人は木曾が裏切ったとき「武田は滅びるのだろうか」と心配になったらしい
夫婦2人だけ馬で逃げればよかったのに
信長の同盟の誘いは本当なの?
個人的希望だが信勝と別々に逃げて欲しかった。
>>735 不明
ただ同盟しても長曾かべみたいになった可能性が大きいと思う
個人的希望だが信勝と北条夫人2人で逃げて欲しかった
741 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/13(水) 23:51:14
勝頼vs氏政
馬鹿決戦か
>>739 武田は領土がでかいからなー
婚姻とかで積極的に織田と結びつかない限り難しいだろ
>>741 安心しろ少なくともお前よりは二人とも優秀だw
同盟しても、そのうち信雄に信濃を与えるとか言い出しそう
同盟の条件として松姫と信忠の即時婚姻、信勝と信長息女の縁組くらい
やればどうだろ。
武田家当主は信勝。15歳になっていた
てか、信勝って半分織田の血が流れてるんじゃないの?
数えで16才になってなかった?
信長養女の遠山氏が母だな
>>747 雪姫だっけ?あれは遠山からの養女だろ
で遠山の妻が織田の一族だったかな?
信勝かわいそうに・・武田が落ち目だから嫁の話がなかったんだろうな・・
下女に手つけてたりして
そりゃ毎日…
長宗我部は織田と同盟してないよ
天下人だった信長様に、三好康長の息子(じゃないかも知れん、詳細不明)を攻めていいでしょうか?
ってお伺いして許可貰って攻め込んだら、お前攻めすぎ、立場弁えろヴォケって言われ
攻められようとしただけ
正室・側室も一緒になって山中を彷徨していたなんて他に例がないよな
>>756 今川滅亡のときは奥さん歩いてなかった?
駿府から掛川まで女が歩いたのか・・
こだまでも20分くらいかかるのに
輿を持ち上げる男まで逃げ出したので、勝頼の正室は馬に乗ったらしい
太ももが見えたのかな
そなたを国境まで送り届けたかった
輿に乗っても逃げませぬ
今日の「そのとき」に中井貴一が出ていたな
勝頼と北条夫人の間の赤ん坊が田野近くの民家に匿われていたが
一年後に病死した
>>758 うむ。北条氏康が武田の敵に回ったのは
娘が裸足で逃げるような事態になったためであるとも
言われているな。
>>762 出る度に「それは信玄だろ!」ってつっこんだ
正直、中井信玄は最初?だったが、
肺病みだから本当はあんなもんだったみたいね
だとすると甲府駅前のあの恰幅のいいおっさん誰よ
当時の事なんかはっきりわからんのに
よく言うな766はw
>>766 一般的な信玄のイメージであり肖像画を元にしてるが、
その肖像画は畠山氏の(義総かも?)誰かを描いた絵だった。
でも山梨県民は納得しません。
769 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/14(木) 16:48:23
番組の締め方がまるで家康を善人に仕立て上げるような終わり方だったのが気に入らなかった
落ち武者狩りから逃れて春日山城で再会した武田信清と菊姫姉弟で終わらせればめでたしめでたしだったんだがなぁ
さすが司会進行役が松平だけのことはある
気のせい。
中井貴一の頼朝は年取りすぎに見える。
今宵はここまでにいたしとうございまする
信州大学教授笹本正治センセの新しい本が出たよ。
『戦国大名と信濃の合戦』一草舎出版
信長が苦しいときに同盟なげうっておいて、苦境を脱して余裕が出てから同盟結びましょうって
そりゃあ無理だろう。
結局勝頼は馬鹿ってことか
武田は織田ではなく徳川に騙されて討たれたんだよとばぁちゃん(山梨出身)は言い張る。
なんでもばぁちゃんの家ではそう言い伝えられてるそうだ。
だからその時の終わり方にかなり不満なご様子だ
実際どうだったのかね?
何をどう騙されて討たれたんだよ
まずはそこからだ
まあ、動機もなくはない。
例えば家康が高天神を落す前に武田が織田と同盟を組んだとすると、徳川は三河・遠江
の領土の大半を奪われた状態で確定されてしまう。
家康にとっては、武田が信長と和睦するなんて到底認められないだろうな。可能な限り
邪魔をするだろうし、両者が敵対を続けるように策動もするだろう。
どっかの城が攻められる〜とか嘘言って、織田から援軍を呼んで三方が原で戦わせて織田と武田を断行状態にしたこと?
信長の同盟申し入れ、「軍鑑」にあったよ。天正5年11月。
てことは、北陸で上杉にボコられた時期で、なるほど。
で、勝頼が断った理由なんだが、謙信と裏約束でもあったのかな?
しかし謙信は死んでしまった
ことごとく裏目にでる馬鹿勝頼
782 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/14(木) 22:07:59
信長公記には勝頼馬鹿と書いてないの?一級資料なんでしょ?
なんの史料だったか忘れたのだが、『勝頼の首級の前で信長は「類稀な武将だったが、
運がなかった」と言った』という記述があったと思ったが、信長公記ではなかったと
思う。
784 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/14(木) 22:27:32
一級資料の定義って何だっけ
同時代著作だっけ
786 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/14(木) 22:31:32
一次史料の事ではないか?信長公記は違うけど。
>>780 むしろ他に裏付けが無い場合、甲陽軍鑑がネタ元の場合は
ちょっと保留だな。
788 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/14(木) 22:33:58
>>782 「ああ、哀れなる勝頼哉」という記述はあるよ。
789 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/14(木) 22:51:21
「闇ヨリ闇道ニ迷ヒ、苦ヨリ苦ニ沈ム。噫(ああ)哀れなる
勝頼哉」ぐらいで、『信長公記』じゃ、特に勝頼評はないみたい。
一級史料とは
>>785の言うとおり
一次史料とは、著者・作者の思想・概念・主張等がなく、客観的な事実のみを
書いた史料
信長公記は厳密に言えば、一級史料で一次史料とは言い難い
ま、だからどうなのって程度で、ここではどう使おうが
相手に伝われば良いと思われ
>>790 いや、
一次史料って当時の書状や日記等当事者自身が書いた史料のことじゃあないかい?
人間が書く以上思想・主張等がない客観的事実のみ書くなんてことはありえないよ。
>>790 違うだろ?
一時史料というのは日記や手紙、あるいは勅令や任命書、安堵状や判決文、証文などの正式な
公文書などの当事者によるもの。当然、その時代や命令者なりの思想概念主張はある。
>>791 それは一級史料かと
例えば、公家等の日記はあった事柄のみを書いてるでしょ?
書状等は本人の感情・思想等があるから、それはそれでOK
小瀬甫庵の例を出すのは気が引けるが、太閤記の史料価値が低いのは
秀吉の行った行動等を、儒学思想で断罪したりしてる
そういう注釈等があるようなのとの区別と考えてください
あ、当事者が書いたのは、一級史料でもあり一次資料でもある訳で
当事者以外が書いた場合の
分け方と考えてください
>>793 その基準でいくと、例えば史記もそうだが中国の正史なんかは儒教思想で断罪しているぞ。
あれは全部史料価値が低いのか?
小林よしのりからになるが
「歴史学の基本は「史料批判」歴史資料の信憑性を検証することにある。
事件発生当時、発生場所で当事者が作成したもの、これを「一次史料」という。
事件から時間が経過した後に、当時者が作成した回想などが、「第二次史料」
そして「第一次史料」「第二次史料」を基に作成したものが、「第三次史料」
史料価値があるのは、ここまで。
作者、作成年代、作成場所が判明しないものは「第四次史料」
何のために作られたのかわからないものを「第五次史料」といわれ、史料価値は、
ゼロと見なされる。」
だってさ。
信長公記は一応二次史料、史記などの正史や小瀬甫庵の信長記は三次史料になるのかね。
そして、おなじ三次史料の史記と信長記でも、長年の史料批判の結果、信憑性の高い低い
が判定される。信長記が低く見られるのは何次史料かの違いだけではない。
そもそも甫庵の『信長記』は史料として書いたもんか・・・・?
ほとんど小説に近い。
【社会】止めようと立ちはだかった男性、轢き殺される→車上荒らし、無期懲役確定
★ひき逃げ殺人で無期懲役確定へ 最高裁、被告の上告棄却
・兵庫県姫路市で01年、大阪府柏原市の会社員が車にひかれて死亡した
事件で、最高裁第二小法廷(福田博裁判長)は、強盗殺人罪に問われた
無職武田晴信被告(33)の上告を棄却する決定をした。一、二審判決の
無期懲役が確定する。決定は11日付。
一、二審判決によると、武田被告は01年12月14日午前2時40分ごろ、
姫路市のレストラン駐車場で、駐車していた車から雑誌などが入った
かばんを盗み、自分の車で逃げようとした。これを見つけた会社員の
男性(当時26)が武田被告の車の前に立ちはだかったが、武田被告は
そのまま車を走らせ、男性を引きずって殺害した。
会社員の両親は事件後、会社員が結婚資金のためにためた200万円を
懸賞金にして情報を求める活動をした。
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1113389537/
>>793 言い方間違ってるよ。
その時代の当事者が残した実際の記録・書簡・日記・命令書等々が一次資料。
それらを第三者が編集・編纂・加工して作成したのが二次史料、
以下他者の手が加わるごとに三次四次と下がっていく。
一級云々という言い方はその史料の価値や重要度の問題。
当事者の記録である一次史料一般的に史料的価値も高いので、
その多くが一級という言い方も出来る。
しかし、例えば非常に筆者の思想が入ってしまっている日記とか、
自分に都合のよい情報のみを告げようとした書状等、
場合によっては必ずしも真実が書かれていないため価値が下がるものもある。
逆に二次三次といえども客観的で良質な編纂がされていれば、
高い史料的価値を持つ場合もある。
ここらへんの判断は、
他の史料とのすり合わせや遺跡等の考古学的な証拠との突合せによって評価されるのが普通。
>>799 こんな名前つけられちゃたまったもんじゃないわな
信長が勝頼の首を足蹴にして
罵ったって言う記述はなんだっけ?
俺にはわからんが、上洛は漢のロマン。
Q:「甲陽軍鑑」は後世に書かれたもので、当時の一次史料としては信憑性を欠くのではないか?
A:「甲陽軍鑑」は武田家家臣・高坂信昌(春日源助)らが綴った手記を江戸時代の軍学者・小幡景憲がまとめたものだという解釈が一般的です。
しかし、最近の国語学の研究では信玄、勝頼に関する記述に室町時代の文体の名残が見られ、ほぼ同時代(戦国末期)に書かれたものであることが判っています。
ただし、書き始められたのが長篠の敗戦直後からと推定されていますので、多分に高坂の思いこみや推測が入っていたり、
現存する古文書と照らし合わせると時系列がおかしい部分もあります。
一次史料(同時代)・二次史料(のちの編纂)という客観的に評価される原史料
はともかく、一級史料・二級史料という評価は、歴史家や研究者が勝手に下した
もの! A氏にとって一級とされても、B氏には二級となるわけだ。
>多分に高坂の思いこみや推測が入っていたり、
小幡景憲の間違いじゃねーの?春日虎綱が高坂姓を名乗ったのかさえ微妙なのに
高野山の過去帳ぐらいしか高坂という名前の記録ないじゃん
808 :
776:2005/04/15(金) 12:14:24
ばあちゃんの話でお騒がせした、776です
改めて聞いてみたらこんな感じだった
「どうしても武田の名や血が欲しかった徳川は織田と仲良くしながらも
武田とも仲良くしようとしていた。
織田と武田が仲直りしかけた時に徳川は織田を騙して織田を怒らせた
そしてそれをいいことに木曽や小山田を裏切らせた。」
あと、穴山は悪くない、穴山は仇を取るために徳川に下っただけだと
ただ、なにぶん80過ぎの婆様の話だから…
今週末、ばあちゃんの実家にも詳細を聞いてくる
809 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/15(金) 13:31:20
810 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/15(金) 14:08:51
>>808 おまいのばあちゃん、面白いな。
貴重な歴史証言として本を書いてもらいたい(w
811 :
776:2005/04/15(金) 14:50:08
>>809 今は兼業農家だけど元々は武家、春日家に仕えていたとのこと
>>810 ばあちゃんちに伝わるただの言い伝えだから
貴重証言なんていう高レベルの話ではないよ
春日側でそういう話が伝わっているのか興味深いな
>>811 :776
世紀の大発見じゃないか! 話を録音するの、忘れるなよ。
>穴山は悪くない、穴山は仇を取るために徳川に下っただけだと
結構早い段階で寝返ってたような気がするんだが・・・
811氏は穴山家ゆかりの家系だったりしてw
そういえば姫スレでも書かれているのだが家康は天正8年に武田側から
側室を迎えているんだよ。通称お竹の方、別名お松の方で振姫の母
これは家康側からの要望で、引き換え条件は不明
本当は松姫が欲しかったが、織田との切り札になりかねない
彼女を渡すわけもなく別人を松姫と称して送り込んだとのこと
家康が武田と仲良くしようとしてたというのはこれから理解できないかなと
あと、織田と武田が仲直りしかけていた時を勝長の返還と考えれば
勝長の口から信長にそれが漏れることを恐れて何か画策した可能性もある
織田と武田が結んだら徳川はこれ以上勢力広げらんないしね
>>815 なるほどな、おもしろい!
穴山はそれを信長にちくって所領安堵+褒美ってことか
ついでに家康を処分する理由もできたと…
>>815 その姫スレは覚えてるけど、お竹がお松の身代わりとは
カキコしてなかったような記憶があるけどな。
松平民部を産んだ法光院はお松という、
家康が松姫に執着してたって本当なのかもね・・・じゃなかったか?
振姫の母、良雲院お竹の方の別名がお松というのは初耳。
相変わらず、どこでも松姫は人気者・・・か。
松姫は人気者と言う表現は適切ではないんじゃないかな
なして勝頼は武田の関係者を家康に差し出したのだろうか?
勝頼同意か、家臣の暴走か気になる
>>820 その前に家康が天正八年頃に松姫を要求したという事について
何かの文書や記録、研究者の発表があるのか聞きたい。