1 :
◆plzvjBAXYs :
2 :
◆D/qzmqjjrk :05/03/10 10:39:59
新スレが盛り上がるように。。。
おっと「sage」進行
4 :
三戦帝 ◆Cy/9gwA.RE :05/03/10 10:41:55
ご苦労であった。
5 :
可児@交州文学従事 ◆aSDVKRrj9Y :05/03/10 10:46:46
これからも宜しくおねがいもうしあげます。
ではまた自邸で謹慎してます・・・
6 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 10:56:43
7 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 12:33:00
8 :
可児 ◆sT6JFpH5qk :05/03/10 12:47:59
官位よこせや無能共!WWWWWWWWWWWWWWWうはWWWWWWWWW
私めは正式に可児から官位を剥奪すべきだと考えます。
見れば、あちこちのスレで荒らし・煽り行為を行っている様子。
このまま彼の奸賊を放置しておけば、
スレの名は傷つき、朝廷の権威も地に落ちましょう。
愚者を戒め今後の規律を維持する意味でも、
謹慎などという生易しい措置で済ませるべきではありません。
可児の官職を奪い、永久追放とするのが妥当ではありますまいか?
申し訳ありませんが議論は本スレ(No2)でお願いします まだ1000いってませんので。。。
>>9 ご意見感謝します。これからも是非とも官位スレにお越しください。
12 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 17:08:59
まだこんなキモいなりきりやってんのか
13 :
可児 ◆s.pPOrsmfA :05/03/10 17:45:00
>>12 だまれ厨房!死ねや!
おい!
>>12に暴言吐いてやったから官位よこせや!
>13
つ【うんこマン】
15 :
日の出国より:05/03/10 18:57:12
あえてage
可児はさ、日本史でも追放されたんだからここで追放されないのはおかしい。
丞相さんには厳しい対応を期待するよ
>>15 No.2で丞相が彼の処遇を決定しました。
17 :
可児 ◆Hruc14B/G2 :05/03/10 21:56:55
>>16 俺はどうなるんだよ!あ?聞こえねーのかクソ!
>>1 お疲れ様です。テンプレ投下します。
三戦ネタに関する事を書き込むスレです。
面白いネタ振りをするか、他人の振ったネタを元に充実した議論を展開した者には、
内容に応じて官位を授けます。内容が特に充実していて、
官位を一段階進めるだけでは足りないと思われる場合は、
同等の官位を加官するか、あるいは爵位を授けます。
現スレの今上皇帝は◆D/qzmqjjrk陛下ですが、前スレ
>>627並びに
>>633の勅令により、
許柔@丞相・録尚書事・都督中外諸軍事 ◆XAqbn/bVNMが人事責任者となっております。
□トリップ付きコテハン使用義務
任官希望者、並びに官位所有者は必ずトリップ付きコテハンを使用してください。
同一人物であるかどうか特定できなければ、人事考査や偽者出現の際にスレが混乱します。
ただし、三戦板ローカルルールにより、後漢末期・三国時代・西晋初期・
戦国時代・江戸時代初期に登場する人物の名前は、使用禁止といたします。
□開府権
丞相(司徒)・御史大夫(司空)・太尉(大司馬)・大将軍・開府を許された者は、
幕府を開いて、他の官位に就いている者を招聘することが出来ます。
軍師・長史・司馬は太守と同等、従事中郎・参軍・主簿は県令と同等です。
また、無官の者を掾に任命できます。
□賊(荒らし)、不法行為に対する対処
荒らしは相手にしないこと。相手にしたら、スレが荒れます。
また、官位所有者のトリップで暴言・挑発行為を行った場合は、たとえ他スレで行ったことでも、
免官(官位のみ剥奪し、位階の保持は許す。再仕官の際は前の官と同等、あるいは一〜二段階低い官で復帰可能)、
位階剥奪(官位と位階を剥奪。再び仕官の際はもう一度一からやり直し)、
禁錮(再仕官禁止)、宮刑(宦官としてのみ任官を認める)等の刑に処します。
□官位序列
上公(太傅、太保、太師)に匹敵する者、あるいは録尚書事を帯びる三公・大将軍
↓
三公(丞相or司徒・御史大夫or司空・大司馬or太尉)、大将軍に匹敵する者、
あるいは録尚書事・平尚書事を帯びる者
↓
尚書令・特進・上将(驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍)・
四鎮四征大将軍に匹敵する者
↓
尚書僕射・四鎮四征将軍・諸大将軍・司隷校尉に匹敵する者
↓
九卿・尚書・州牧・四方(左右前後)将軍・高位の雑号将軍に匹敵する者
↓
御史中丞・州刺史・中位の雑号将軍に匹敵する者
↓
郡太守・低位の雑号将軍・中郎将に匹敵する者
↓
県令・郡都尉・九卿の丞・九卿配下の令・校尉・都尉に匹敵する者
↓
県長・郡丞・三公の府の掾・郎中・州の別駕・治中・別部司馬に匹敵する者
↓
県丞・県尉・郡の功曹・主簿・軍の司馬に匹敵する者
↓
州・郡の属官・司馬・守県令・守県長・守県尉・守県丞に匹敵する者
その他、功労によって節鉞・爵位(王・国公・県侯・郷侯・亭侯・関内侯)等を授けます。
官職の兼任は可能です。また、侍中や散騎常侍等の侍従官、
特進等の名誉称号を加官として加えることが有ります。
行○○と言う形で、本官より高い位階の官を臨時に代行していただくこともございます。
>>9 >>15 前スレ
>>967にて処分を決定いたしました。
文学従事の官は最下級の位階でございますので、
位階剥奪・降等はいたしませんでした。
また、一度目の免職でございますので、
禁錮、宮刑を加えることはいたしませんでした。
再仕官の後、再び同じような事件があれば、
今度は重い処分が下されるでしょう。
21 :
可児 ◆VkjrnMZynA :05/03/10 22:27:28
ネタ
俺は劉將の末裔
官位よこせ
23 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 22:56:40
24 :
佐竹右亮重隆 ◆dmEtYvIl.. :05/03/10 23:00:18
日本史板から参りました。
佐竹右亮重隆と申します。
将軍におめどうり、お許しくださいますよう。
コテハン馴れ合いスレの予感
>>24 はじめまして。
陛下は、只今外出中のようにあらせられるご様子。
しばし、私めがおもてなしいたしましょう。
27 :
佐竹右亮重隆 ◆dmEtYvIl.. :05/03/10 23:34:58
>>26 お初にお目にかかります。
今日は、我が主から将軍様へご伝言を持ってまいりました。
聞いていただけますでしょうか?
28 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 23:36:55
てす
30 :
佐竹右亮重隆 ◆dmEtYvIl.. :05/03/10 23:40:36
31 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 23:41:32
>>30 博陸に報告してやるよ
そもそも花押(トリップが本物と違う)
退屈な自演ですね。
33 :
佐竹右亮重隆 ◆dmEtYvIl.. :05/03/10 23:47:33
報告されるなら報告なされい。
34 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 23:48:04
>>27 日本史板官位スレを拝見したところ、貴殿は前左近衛少将殿とは別の方のようですね。
他人の名前ではなく、御自身のお名前と官途をお名乗りなさいますよう、お願い申し上げます。
这度数、本早晨廷臣自报姓名不到达辈贵重的早晨假国书交想听。
我们非常想那个遗憾。
因而,决定贵重的早晨的对待。
訳
この度、本朝の廷臣を名乗る不届きな輩が貴朝に偽の国書を渡そうとしたと聞きました。
我々はそのことを大変遺憾なことと考えます。
よって、貴朝の定めに従って対処してください。
38 :
永井尚志 ◆dmEtYvIl.. :05/03/11 00:10:57
>>35 分かり申した。
それでは永井尚志として申し上げる。
我が主は「三戦板おまいらに官位を与えるスレ」を自ら統治されることをお望みである。
この際我らの傘下に下られよ。
期限は今から一時間後までに日本史板までに返答されよ。
断り、返答なしの場合宣戦布告とみなす。
では失礼いたした。
永井尚志は本朝では朝敵となっております。
>>37 了解いたしました。偽の使者より受け取った書状は、無視いたします。
41 :
将軍補佐永井尚志 ◆dmEtYvIl.. :05/03/11 00:24:14
ほう、では宣戦布告とみなします。
後々後悔なさらぬよう。
三戦官位スレの皆様
住人としての個人的な意見ですが、
永井なんて我々のスレにはいないし、将軍補佐に任じられてなどいません。
嘘偽りの逆賊です。
あと、うちの本物の佐竹とは関係ないです。
気にしないようにね。
華麗にスルー汁
あぼーん
あぼーん
あぼーん
46 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 01:02:27
いたた・・・
あぼーん
48 :
行商人:05/03/11 01:09:35
今ひとつセンスに欠けるな。
もっと変化をつけた方が良い。
49 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 01:15:15
本間賢輔よ、
本業がいくら荒らしとは言え、おまえ、いくらなんでもやりすぎだ。
50 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 01:15:34
wを連発するのはアフォだと習いました。
vipperを除いて。
華麗なるスルー
53 :
可児 ◆MVBsjZkgCg :05/03/11 08:02:20
いい加減官位よこせ!
54 :
征夷大将軍永井尚志 ◆Hnj5LxD7GA :05/03/11 08:12:39
昨日はいろいろとご迷惑おかけいたした。
しかしこれも戦国の世であればこそ。
さて、もう知っておられる方もいるようだが、
日本史板で我が新しいスレが誕生いたした。
三戦板官位スレとは兄弟のようなもの、これからも宜しく頼みます。
さて、可児殿。
良ければ我がスレにて仕官いたさぬか?
我がスレは来るものを拒むつもりは到底ないゆえ、そなたの力も存分に振るっていただける事であろう。
もしその気があるのならいつでも待っているゆえ気軽に来られよ。
では三戦官位スレの皆様、また会う日を楽しみにしておりますぞ。
日本史で発令された関白宣です。
永井は荒らしなのでよろしく。
関白宣
朝敵永井が立ち上げたスレに本朝の廷臣が仕える事は禁止いたす。
また、朝敵の言はいかなることでも朝敵の発言故、スルーされたし。
本朝から正式な使者を永井に送る予定は永久に無い。
57 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 08:38:26
58 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 08:45:37
おまいら新しく出来た日本史官位スレは今なら誰でも官位貰えるぞ!
>>58 どっちの官位スレの官位もいらないわ。
わざわざ他板にまで行って官位貰うのって痛くない?
60 :
可児 ◆aSDVKRrj9Y :05/03/11 11:34:19
やはり剥奪でしたか・・・。覚悟はしてましたが・・・
すいませんでした。
真田スレではスレタイに沿って話してたのですが、書いてる途中に憤りを感じてしまい、あのような暴言を吐いてしまいました。
その憤りとは、
三戦板の中でも、戦国の英雄、真田氏のスレは本来、もっと沢山あっても良いはずです。
なのに無双だの、劉敏だの、ラモスだの糞スレばかりが乱立しており、目もあてられない現状。
そんな中、唯一の真田スレを覗いたところ、
『なんたる過疎ぶり、なんたる煽りぶり!ああ!唯一の真田スレも糞スレ化しておる!』
と絶望しました。
しかしこのままこの堕ちた真田スレを見捨てるわけにはいかないので、
スレ住人の士気を鼓舞しようという意味であのような暴言になってしまったわけです。
いわば『諫止』したつもりでした。しかし真田スレの住人は私の真意がわからず、言葉どおりに受け取ってしまい、このような悲惨な結果を招いてしまったわけです。
とにかく、私は山村に隱世して、しばらく晴耕雨読の生活に入ります。
ありがとうございました。
しかしこの朝廷が危機に瀕した時はいつでも槍をもって駈け付けます。私の朝廷の繁栄を願う気持ちはかわりません。ではまた。
>>60 官位剥奪なので出仕停止では有りません。再びネタ投下を続けて貰えば
新たに官職を与える事も有り得ます。
暫くは落ち着いて頂いて何時か良ネタ投下で復帰される事を望みます。
63 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 14:04:47
>>60 嘘つけ!煽ってただけだろが!死ねや!
お前なんか二度と官位スレに来るな!
64 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 14:17:14
>>62 おまいが思ってるより、可児は最低な荒らしだよ
ラモススレを乗っ取ったとか言い出したし、ラモススレは可児スレみたいなもんだしな
>60
つ[サヨナラ男]
一つ言っておくと、
可児 ◆aSDVKRrj9Y と私は別人ですよ。
67 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 19:08:00
>>66 へ〜そうなんだ?wおまいら仲良く共演してたよなwほぼ同じ時間にw
いい加減自作自演やめたらどうだい?w
69 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 23:23:52
>>68 私のスレ?スレの私物かは違反だぞ!?板違いどころじゃないぞ!
官位スレも腐ったな…こんな荒らしを抱え込むとは
>>69 可児はもう官位スレの人間ではありません。責任を押し付けるような事は
控えてもらいたいです。
もう、可児の件はウンザリです。
今でも様々なスレにて荒らし・煽りを続けているようですし、
「謹慎」という中途半端な措置ではなく、
「追放」にして終着させてはいかがでしょうか?
72 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/12 00:38:56
あげ
>>71 彼は官位剥奪の処分になりました。既に彼は官位スレの者ではありません。
なので我々は彼の行動の責任を負えません。
趙休サマ早速のご返事ありがとうございます。
元から責める気はございませんが、昨今気になっておりましたので。
とりあえず4月になればこの兆候は落ち着くと思いますので、
暫くは様子見させていただきます。
75 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/12 08:33:59
これで三戦官位スレも粘着荒らしが消えて良かったのぉ〜
NO2が1000行ったので ここが正式に本スレになりましたよ
77 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/12 10:08:36
可児が来ないことを祈る
官位を希望するものは
>>18-19 の丞相のテンプレ確認のうえネタ投下するべし
>>77 このスレに限らずあらゆるスレで誰でも拒みませんよ。
閉鎖的な使用法をなさりたいのでしたら、それを許された板でやるべきです。
81 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/12 10:15:20
83 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/12 11:48:29
可児乙!
86 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/12 13:33:37
同じ時間に書き込んでるし…ウケるw
本日のお題ですよ。
荊州牧劉表には有名なところで劉g、劉jの二子がいますよね。
後妻蔡氏は自分の産んだ劉jに劉表の跡を継がせたかったわけですが、劉表の真意はどちらにあったのでしょうか。
又、結果的に劉jが継ぎ曹操に降伏するわけですが、なんであっさり降っちゃうんでしょうね。
88 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/12 20:08:29
>>87 >後妻蔡氏は自分の産んだ劉jに劉表の跡を継がせたかったわけですが、劉表の真意はどちらにあったのでしょうか。
魏書劉表伝には、「劉表と妻は少子jを愛し、後継にしようと欲した」と記述されていますね。
後漢書では、「劉表はjを愛した」「jは蔡氏の姪を娶ったので、蔡氏はjを愛し、gを憎んだ」との記述の後、
蔡氏一族がjを後継にしようと運動している様子が描かれています。
劉表は蔡氏出身の妻を愛し、その弟の蔡瑁と外甥張允を信任していたので、
恐れたgは江夏太守となって、逃れています。
劉表の寵愛がjにあったこと、そして重臣蔡氏がそのバックに付いており、
一族ぐるみでjを後継にしようと運動していたらしいこと、
劉表がgに対してフォローしようとする動きを一切見せていなかったこと、
jが去就を劉表の臣下ではなく、客将劉備の配下諸葛亮に相談していること、
蒯越を始めとする劉表政権の首脳の中に、jが継ぐのに反対したらしき人物が存在せず、
jが曹氏に降ると、それに従って曹氏に仕えていることから、
劉表並びにその重臣団の意思は、jを後継に立てようと考えていたと思われます。
>>87 >又、結果的に劉jが継ぎ曹操に降伏するわけですが、なんであっさり降っちゃうんでしょうね。
官渡戦役時に、劉表政権の重臣の多くが、天子を擁する曹操に付くことを勧めた事から見られるように、
劉表政権の重臣の中には、漢朝の権威を重んじる考えの人物が多かったと思われます。
そもそも、劉表政権は、戦乱で乱れている荊州に安定を取り戻すために、
劉表と荊州の有力豪族が手を組んで成立したものでした。
有力豪族たちは、荊州の治政を安定させるために劉表を支持したのであって、
天下に覇を唱えたり、自立して国を作るために支持したわけではありませんでした。
荊州の重臣には、州を安定させるための計や、
次代の覇者を見極めて、州を保全するための計を考えた人物は多数いますが、
荊州を基礎にして天下を伺おうと言う計を立てた人物はほとんどいません。
劉表自身は黄祖の軍を揚州に侵入させたり、混乱している交州へ介入したり、
益州の反乱に援軍を出したり、官渡で旗幟を鮮明にせずに自立を保とうとしたりと、
乱世の雄としての野心があったようですが、
そのような考えを持った人物は、劉表政権首脳部では劉表だけだったのでしょう。
jは父の考えを受け継いだのか、後を継ぐと「荊州で自立したい」と重臣たちに述べますが、
重臣たちは皆、曹操への降伏を進言して、降伏が決定しました。
重臣たちの意思が、もともと荊州の政治の安定と、
次代の覇者に支持を与えることによって、州を保全する方向に向いており、
覇を唱えるとか、自立して王業を成すという考えがさらさら無かったので、
自立志向の劉表が死んだ後に、あっさり曹操に降ったのでしょう。
91 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/12 20:56:42
可児が来なくて良いスレになったな〜
93 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/12 22:22:15
ただ荊州と言う地の利を生かせなかったのが彼の失敗だし猜疑心も強く
流浪の傭兵部隊の劉備に新野を与えつつも彼らの力を有効活用ができていない。
(唯一、中原の戦を戦いぬけている。恐らく劉表陣営で戦を知っている武将は黄祖ぐらいだと思われる)
>>90の言うように劉表は荊州と言うの殻に篭っていたのは確かな事だと思う。
長文は嫌いなので読み飛ばすよ。いいわね。
>>86 同じ時間に書き込んでいると同じ人なワケ?
>>88 そうなのね。
>>91 そうかもしれないわね。
>>92 呼んでないわよ。
>>93 どこがどう自演なのかしら。
闇雲に撃っても当たらないわよ。
>>94 実際のところ、「地の利を生かして天下に号令」と言う事を望んでいない家臣団を率いて、
天下を望むのは、妄想以外の何ものでも無いように思います。
これで天下に野心を抱いて積極的な行動を起こしたら、愚劣としか言いようが有りません。
むしろ、荊州の安定に心を砕き、周辺諸州に間接的な介入を行って、
影響力を広げて行くと言う劉表の戦略は、家臣団の意向を踏まえつつ、
荊州の自立を望むなら、最善の戦略であったと思います。
劉表は自陣営の状況を良く把握し、無理に天下に野心を持とうとせず、
自立を保って、国境の保全に努力し、領内に善政を敷きました。
自らの限界を知り、その範囲で最善を尽くすのは、賢者の行動です。
野心に駆られて、国を乱した数多の群雄より、劉表の方がずっと賢明な人物であるように思います。
まあ、天下への野心も持たなかったから荊州以外から流入して来た人材が
陣営に参加しなかったのだがな。
積極的に攻めにでなかったのも家来が地元豪族だからだもんな。自身の土地が
保たれればいい訳だし。
>>94 劉備を引き取ったのも、婁圭や張繍を引き入れた時と同じように、
荊州北境を守らせるためでしょう。
国境の守りとしてならば、劉備は劉表存命中は、
曹操軍の侵入を防いでいるので、十分に有効活用できたと思います。
あと、劉表陣営は結構戦争やっています。
対孫氏戦を除くと、一番大きな戦争は南荊州の大勢力張羨との戦争でしょう。
198年から、数年間にわたって激戦を展開しています。
官渡戦役の最中も、張羨との戦争は続いていたようです。
これでは、曹操と袁紹の決戦に付け込んで、漁夫の利を得ようが有りません。
張羨が病死すると、子の懌が後を継ぎましたが、劉表の攻撃に屈して、張氏の領土は併合されました。
魏書劉表伝は、張氏併呑の後に「領土は数千里、兵力は十余万」となったと記しています。
つまり、張羨の勢力を併呑して、ようやく兵十万を抱える大国になったと言うことです。
張羨の勢力がいかに大きかったか、その張羨相手の戦争がいかに激しかったか、
劉表はもともと大勢力ではなく、張羨の勢力を併合してようやく荊州は安定し、
張羨の領土と兵力を手に入れたのがきっかけで、劉表が大勢力となったことなどが容易に想像できます。
史書には記録が有りませんが、対張羨戦争に従軍した武将は、
苛烈な戦を知っていると言って良いように思います。
あと、長沙の守将劉磐はしばしば予章に侵入しています。
劉表は交州の動乱に付け込んで、頼恭と呉巨を送り込み、蒼梧郡を手に入れています。
この時期の交州は、士氏の支配地域を除くと小軍閥が乱立していたので、
この方面で戦った将軍も、実戦を経験しているでしょう。
魏書を見ると、曹操と劉表はずっと戦争状態にあり、しばしば国境で交戦していたようなので、
文聘やその他の荊州北境に配置された将も、豊富な実戦経験を持っていたと思われます。
取り合えずこれ以上の反駁は俺には無理だから話を変えるぞ。
交州の動乱は何時ごろ起こったんだっけ?劉備が魯粛との会話で呉巨を頼ると
言ってたような。少なくとも劉備と呉巨は面識があったと思うが。
それと丞相殿、真に無理難題ですが私を中軍大将軍・仮節に転任させてもらえませぬか?
近頃流行ってる鼻に害を及ぼす症状に悩まされて健康を害しております。
是非ともお考え頂きたい限りで御座います。
>>100 交州の動乱は、日南太守や九真太守が愚行を働いて郡から追放されたり、殺害されたりした後に、
交州刺史朱符が悪政を敷いて殺害されたのが原因で発生しました。
朱符の死は、董卓の乱で士壱が帰郷した後のようです。
おそらくは建安初年頃と思われます。
鎮軍大将軍のままで、持節の資格を仮節に落とすというのではいけませぬでしょうか?
中軍大将軍は、曹真が就任し、都督中外諸軍事を帯びた由緒のある職。
完全に武官の職でありますので、
しばし文臣が就任して朝政に参加した由緒のある鎮軍大将軍の方が、
貴殿には相応しく思います。
文臣でありながら、鎮軍将軍の号を帯びて朝政に参加したる者として、
鎮軍大将軍には陳羣・司馬攸・胡奮(本来は軍人だが、鎮軍大将軍就任時は尚書左僕射)、
鎮軍将軍には許靖・陳祗がおります。
貴殿には、帝都と朝廷の鎮護を託すという意味で、鎮軍大将軍の地位をお任せいたしました。
御一考いただければ、幸いです。
承知しました。最近はかなり症状が酷くて悩まされているので。
>>102 私が病に臥せった折には、お世話になりました。
一日も早い平癒を祈っております。
今はゆっくり療養なさいませ。
丞相さま 鎮軍大将軍さま つたない話題振りにお付合い頂きありがとうございます。
名無しさん ネタでなくとも話題や疑問出していただければ官位もらえるかも。
参加熱烈歓迎。。
みなさんお疲れさまです。ネタ投下です
既にご存じかもしれませんが
ある男が死体を供養しました。その死体はなんと楊貴妃で夜その霊がお礼に訪ねてきて男は一晩おいしい思いをしました。
それを聞いた別の男が首のない死体を供養したところ、なんとそれは張飛だったのです!その男はお尻を借りて一晩楽しんだそうです…
張飛は民衆からの人気者で他にも多くの逸話があるらしく、昔の子供たちは張飛の話を聞いて育ったそうです。
>>105 逸話としては笑えるけど子供の教育に影響が・・・
民間伝承の事柄を集めた三国志平話では張飛は物凄い事になってるけどね。
なんでも劉備を侮辱した太守を一族郎党を含め皆殺しにしたり
鞭で殴り殺した督郵の遺体をバラバラにしてるし・・・
>>105 有名な笑い話ですな。
実際は夜中に張飛が尋ねてきて、「拙者の尻を礼に貸したい」と言ったので、
男が仰天したところで終わっているように聞いておりますが。
実際の張飛は士大夫には謙り、身分の低い人間を粗末に扱うという、
典型的な嫌な男なんですが、どういうわけか後世の民衆には人気があるようですね。
中国の民衆向けのお話では、「親分には忠実な無分別な暴れ者」は人気があるので、
嗜虐性の片鱗が史書から垣間見える張飛が、
三国志関連のお話で、そう言う役割を振られたんでしょうか。
個人的には、講談から飛び出してきたとしか思えないようなエピソード満載の典韋の方が、
民衆向けのお話の主人公に相応しいように思うんですが、
勝ち組なので張飛に人気をさらわれたんでしょうね。
>>106 水滸伝の李逵のような役割を振られたんでしょうね。
お話の中で残虐行為をすればするほど、民衆がその傍若無人さに喝采を叫ぶような。
>>106の続きです
長坂の戦いでは張飛が二十騎を率いて長坂橋に陣取ったところに曹操の三十万の軍勢が押し寄せて来た。
曹操が「おぬし、どうして逃げないのか」と問うと、張飛は笑って「わしは軍勢など眼中にない。曹操だけみておるのだ」と言った。
曹操軍がドッとどよめくと、張飛は叫んだ。「わしは燕人張翼徳である。わしと命がけの勝負をする者はおらんのか」。
耳をつんざく雷鳴のようなその叫び声で、橋が真っ二つに断ち切れ、曹操軍はダダッと三十里も後退した。
凄いと言うかもはや人間の領域を超えている!!
今宵は静かだの 丞相はおらぬか
>>109 どの漫画や小説でも長坂橋の張飛は凄まじく描かれてますよね。
それだけすごかったのでしょうか。
あと長坂と言えば趙雲の単騎駆けですが、やはり張飛の迫力にかすみますね。
>>111 凄いのもあるけど民衆受けする人柄だったのは確かだな。
だが演義では張飛の馬鹿力ぶりがある程度抑えられて関羽の義とか
趙雲らの一騎当千の活躍が描かれているな。
丞相殿 使者受け入れはOKでしょうから 準備されては如何でしょうか
将軍ご就任か ふむー 好機は好機やな
115 :
可児:05/03/15 19:37:27
官位よこせよ
116 :
呂布:05/03/15 19:54:29
だっまっれっ
日本史官位スレでは新たな征夷大将軍が任命されるようですね。
向こうでは大将軍ではないと開府はできないようですな。
我々も使節を送る必要があるかな
皇帝の即位ならともかく、対等の国の大将軍や宰相の開府に対し、
いちいち祝賀の使を送るわけにもいきますまい。
以前より議論になっている使節の事については、
通常の修好使節を派遣すればよろしいでしょう。
>>113 日本史板官位スレ、並びに関連掲示板を拝見いたしましたが、
そのような記事を見つけることは出来ませんでした。
恐れながら、記事の場所を私めにお教えいただけませぬでしょうか?
>>109 長阪の殿は正史にも記載されている事実ですぞ。
橋を落としたとは言え、二十騎で敵の大軍を怒鳴りつけ、
追撃を断念させたのは、まさに天下に面目をほどこす大功でございますな。
演義や平話は、多少の創作を交えて、話を少しだけ飾っているだけに過ぎませぬ。
>>111 史実です。蜀書張飛伝に記載があります。
簡潔を好み、大げさな話を好まぬ陳寿ですら、史書に記録したほどの偉功です。
趙雲の長阪単騎駆けは後世の創作です。
趙雲伝本文には、劉備が長阪で捨てた妻子を、
趙雲が保護して守り抜いたことのみ記されています。
>>119 俺が凄いと言ってるのは叫び声で橋が真っ二つに断ち切った事よ。
>>120 なに、中国の民衆は大げさな話を好むもの。
それぐらいの過剰演出を入れなければ、読者聴衆は喜びますまい。
叫び声で橋が落ちたぐらいで驚いていては、
水滸伝だの、その他の向こうの演義ものは読めませぬよ。
ひどい場合になると、民衆向けのお話が、
お話を信じ込んだ史官によって、史書に「史実」として挿入されることもある始末です。
明史に登場する李巌と言う明末の動乱の重要人物や、
動乱の方向を動かしたとされる滎陽大会などは、
現在は民衆向けのお話から出てきた嘘であることが証明されております。
白髪三千丈の国でござりますれば、
小説・講談は皆、聴衆がたまげるような大げさな話に書かないと、
誰にも相手にされぬのですよ。
122 :
可児:05/03/15 23:54:09
官位よこせよ
123 :
可児:05/03/16 00:24:12
早くよこせや!
>>118 多分、御所院庁 224のことじゃないかな。公式かどうかはなんとも言えないけれども。
126 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 10:30:43
127 :
局長永井尚志 ◆Hnj5LxD7GA :05/03/16 14:18:19
>>127 我が三戦官位スレは「一つの日本史官位スレ」と友好関係にあります。
貴方のスレは僭称と我々は認識している。
わざわざ反応しなくていいが・・・
>>127 貴国は日本史板官位スレより、朝敵認定を受けているとのこと。
なれば、日本史板官位スレと友好を結ぶ方針である我が国としては、
貴国と結ぶ意思はありませぬ。
我が国に修好をお求めになるのであれば、
まずは日本史板官位スレとの外交関係を修復してからに
していただけませぬでしょうか?
敵対関係にある二国と同時に結ぶと、我が国は二股膏薬の謗りを受け、
面目を失ってしまいます。それゆえ、こちらの立場も理解いただきたく思います。
130 :
可児:05/03/16 20:21:45
官位よこさないと荒らすぞ!
最近なんか寂しいな・・・誰かネタ投下きぼん
これより、日本史板への使節派遣に付いて話し合いたいと思います。
正使は私自ら担当し、副使は折衝将軍を持節・行散騎常侍として充てたく思います。
他に随行を希望される方がおられましたら、申し出てください。
破才@鎮軍大将軍参軍 ◆PxPDOojA/w殿
貴殿をネタ振りの功により昇進させたく思いますが、
どの官に充てようか、迷っているところです。
泰山太守として、山東の抑えを担っていただくか、
鎮軍大将軍軍師として、引き続き鎮軍大将軍の輔佐にあたっていただくか、
どちらを御希望でしょうか?
お知らせいただけると幸いに思います。
>>丞相殿
使節派遣には賛成であります。後は折衝将軍の参内するのを待つだけかと。
我が参軍の件は丞相に一任します。
呼ばれて 飛び出て ジャジャジャジャンー
丞相様遅くなりました。この時間はいらっしゃらないかな。副使は喜んでやります。ご指示あれば。
>>135 此度の副使任命おめでとう御座います。
廷臣の参内時間の違いで全員が揃う事も少なくなりましたが・・・
取り合えず日本史官位スレの出方を見ましょう。
関白殿のテンプレ案に本朝のこと触れてあるゆえ な 確認 忘れそ
ちょっとおかしいの 確認せよ
10. 三戦朝と友好関係を樹立し、日本史・三戦に立つ他の官位スレは承認なくば
両朝では正式ではないものとする。
↑
これでしょ
皇甫嵩のことをちょと調べてみましたが、連戦連勝の名将なのですね。
常に董卓よりも上位にあった彼が董卓が政権を握った時に対立しなかったのは、何故でしょう。
又董卓に捕らえられて許されて後、董卓の下位で仕事をこなしていったのは何故なのでしょう。
彼ほどの実力者なら、対抗することも可能だったのでは、と思うのですが。
彼が袁紹らと同様に洛陽を脱出したら確実に反董卓連合の盟主になっただろうし
その後の混沌とした世の中も無かったかもしれん。
だが彼が董卓に呼び出された時に長史の梁衍が諫めたが聞き入れず
そのまま董卓の元へ向った。この彼の真面目な行動は乱世の群雄として生き延びるには
不向きである。
確か皇甫嵩の一族には有名な度遼将軍皇甫規が居ます。
>>141 >常に董卓よりも上位にあった彼が董卓が政権を握った時に対立しなかったのは、何故でしょう。
天下に野心が無かったから、そして一朝臣に徹しようとして、自立する意思を持たなかったからだと思われます。
>又董卓に捕らえられて許されて後、董卓の下位で仕事をこなしていったのは何故なのでしょう。
彼は宦官が朝廷を支配している時代に、宦官の傀儡になっている政府のために、
各地の反乱を討ち平らげた男です。
おそらく、彼は誰が朝廷の支配者であろうと、
朝廷の臣として勤務する事に徹しようと考えるプロ精神の持ち主だったのでしょう。
>>142 >彼が袁紹らと同様に洛陽を脱出したら確実に反董卓連合の盟主になっただろうし
>その後の混沌とした世の中も無かったかもしれん。
梁衍の発言によると、当時の皇甫嵩は、董卓より西にいたようです。
仮に山東諸侯と結んだらおそらく盟主になったでしょうが、
その後の諸侯の自己中心的な動きを掣肘することは、
情深くて慎みがあり、とても真面目であったと言われる皇甫嵩の性格では、難しかったと思います?
野心家の諸侯を押さえ付けて乱世の雄になるには、
薄情で慎みが無くて貪欲で、とても不真面目でなければ向いてません。
何も出来ないうちに連合軍は四散し、自らの軍勢も飢えると言った展開になるんじゃないでしょうか?
仮に同盟に参加だけしたとしても、皇甫嵩の軍は董卓より西にいるので、
董卓軍の大軍に飲み込まれるのではないかとも思います。
>この彼の真面目な行動は乱世の群雄として生き延びるには不向きである。
乱世の群雄として生きる気が無かった人に、そういう評価を下すのは、少々酷なように思います。
丞相殿がちゃっかり日本史官位スレに出没している!
一国の丞相が、他国で布衣をまとって遊ぶ。
これもまた楽しいではありませんか。
>>146 頑張ってくださいな・・・私も実は・・・・・
朱嵩@◆k88syk7fg2殿
折衝将軍の官位はそのままで、臨時に持節・行散騎常侍を加え、
遣日使節団副使を命じます。
>>148 丞相ですね?取り合えず私は此処の留守居役を買って出ます。
遅くなり、申し訳ありません。
私は大守の方をやらせて頂きたく存じます。
破才◆PxPDOojA/w殿
ネタ振りの功により、 官を泰山太守に進めます。
泰山は天下の名山にして、山東の要衝なれば、
貴殿の威名をもって鎮めていただきたく思います。
泰山大守の任、謹んでお受けいたします。
破才殿昇任おめでとうございます。今後も頑張って下さいね。
丞相様、鎮軍大将軍様、皇甫嵩の件ありがとうございました。
姦雄にあらざれば乱世に生きられずと言うことですか。漢朝のためには彼にいま少し欲があれば…
おっと使節船に乗り遅れた、急がねば。鎮軍大将軍様、破才殿行って来ますね。
更なる友好を願っておるぞ
156 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/18 19:58:37
友好もなにも史板住人がここに書き込んでるだけだろ
お前ら氏ねば?
>>157 最近唱えられるようになった劉備呉将説ですね?
この説を採用すると、赤壁以後の呉と劉備の微妙な関係が、
一見すっきりしてきたように見えます。
しかし、この説には致命的な一つの誤りがあります。
劉備が周瑜に代わって、孫氏のために益州攻略の司令官となったとすると、
なぜ孫権は龐統以外の人物を劉備に付けず、
劉備の手兵(劉備旧部下+劉備派荊州人士)のみに任せたのでしょうか?
外様の有力者にその手兵だけで、広大な土地を攻略させたら、
速攻で自立することなど、火を見るより明らかです。
仮に劉備が孫権の命で益州に遠征したとしたら、孫権はとんだ愚か者です。
また、益州攻略ほどの大作戦ともなれば、作戦に失敗するわけには行かないし、
自立されると困るので、普通は有力な将軍を付けて軍を強化してやり、監視役も兼ねさせるでしょう。
(曹操が劉備に袁術討伐を命じた時は、有力な将軍二人を付けています)
しかし、益州に入った劉備の下に孫権は監視役を付けず、援軍を派遣していません。
おそらく蜀攻略は劉備の独断で起こされた、劉備のための戦役だったのでは無いかと思います。
劉備と孫権の関係は、劉表と張繍、劉表と劉備の関係のような、
「土地を貸してやるから、うちの国のために戦え」と言う半従属の同盟関係だったと考えるのが、
自然であるように思います。
劉備は孫権の持つ荊州の土地を、孫権は劉備の手勢と、劉備を支持する荊州人士の兵力を欲し、
利害が一致して同盟成立したのではないでしょうか。
三国時代で遠征軍が現地で独立してしまった例と言えば、
孫策の江東征服戦役でしょう。
袁術配下の折衝校尉孫策は、行殄寇将軍の資格を帯びて、
江東攻略軍司令官である督軍中郎将呉景と、
その副将である丹揚都尉孫賁の援軍として、江東に派遣されます。
呉景も孫賁も孫堅の配下として立身した人物ですが、
当時は袁術配下の有力な将軍として、江東攻略を委ねられていました。
本来ならば、既に現地で軍を指揮しており、
折衝校尉よりも重い督軍中郎将の官を持つ呉景の方が、
孫策より高い指揮権を有しているはずでしたが、
孫策は行殄寇将軍として、中郎将よりも格の高い将軍職を代行しているので、
袁術軍の江東攻略軍の指揮権は、呉景から援軍の指揮官孫策に移ります。
それでも孫策の手兵は少なかったらしく、全軍五、六千人中の千人程度だったようです。
(歴陽に至ると兵五、六千になったと言うのは、おそらく歴陽に駐屯していた呉景・孫賁の袁術軍と合わせた数でしょう)
つまり、孫策は袁術軍の遠征軍司令官として、袁術の有力な将軍と協力して、江東を攻略したのです。
劉繇を破った後、孫策は呉景と孫賁(とおそらくはその配下の兵)を袁術の下に帰し、
自分の手兵だけで呉郡・会稽郡への侵攻を開始します。
袁術が孫策の腹心周瑜の叔父である(孫策に近い)丹陽太守周尚を解任し、
代わりに従弟袁胤を送り込んで、孫策の勢力伸張を牽制しようとすると、
袁胤を武力で追放して、袁術領との境界線に軍を配置して、
袁術軍の旧孫堅人脈に連なる将軍らに誘いをかけ、切り崩しにかかります。
他の有力な将軍の影響力排除→手兵のみで広大な土地を攻略→主君が送り込んできた監視役を追放と、
遠征軍が自立して行く模範例が見て取れます。
160 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/19 13:04:29
楽しそうなチンカス固定達を見るのも悪くないな
>>158 劉表と劉備との関係には「兵と土地の貸し借り」があったけど
孫権と劉備には「兵と土地の貸し借り」は無いな。
この関係を見ると劉備は劉表の客将ではあったが孫権の客将ではない。
ちなみに孫呉が劉備に土地を貸したのは周瑜の死後、魯粛が江陵を貸した時のみ。
日本史朝廷より使者受入れて構わぬ
>>157 諸葛亮を迎える以前の劉備の行動はビジョンがなく一貫性が
無いのは理解できるが特に諸葛亮の死に関しての解釈が理解できない。
(理解と言うか唖然としてしまう。)
あげ
丞相の姿を見てないな。ネタでも探してくるか
166 :
使者:2005/03/22(火) 05:58:30
ネタ投下(質問)です。
袁紹の死後、長男の袁譚と三男の袁尚が家督争いをしたのはみなさんご存じの通りですが、この時なぜ次男の袁熙は自分も名乗りでなかったのですか?
やはり支持する参謀がいなかったからですか?
あとこの三兄弟(+参謀達)がもし結束していたら官渡での敗北以後も曹操より兵力が多かった袁家が勝利するということもありえなくはないですかね?
>>167 袁譚が跡を継いだとして話しますが、要は参謀達を上手く使いこなす事が
出来るか否かの問題になってくるな。(田豊ら名だたる参謀は官渡前後に消えるが)
曹操も後に汝南の劉備を荊州に追いやる事も出来たし孫権も北には兵を送り込む
事が出来なかったのである意味で後顧の憂いを断っている。
ただ曹操が官渡で勝利しているので袁譚は曹操を迎え撃つ形となるだろうな。
第一、曹操の事だろうから兄弟に離間の計を仕掛ける可能性もある。
結局は袁譚らがジリ貧になっていきそうな予感。
>>167 >袁紹の死後、長男の袁譚と三男の袁尚が家督争いをしたのはみなさんご存じの通りですが、
>この時なぜ次男の袁熙は自分も名乗りでなかったのですか?
名乗り出ておりません。
袁紹死後は袁尚を全面的に支持していたようです
袁譚を支持せず、袁尚を支持した理由は良く分かりません。
>やはり支持する参謀がいなかったからですか?
そうだと思います。おそらく、彼を支持する勢力が袁紹軍首脳部に存在しなかったからでしょう。
審配は冀州別駕で袁紹の幕府を統括する役目を与えられ、ギョウの留守司令官も兼任。
逢紀は護軍。郭図は監軍。辛評の役職は不明ですが、
いずれもただの参謀と言うわけではなく、大きな軍権を持った実力者でした。
また、おそらくはそれぞれの派閥を有していたと考えられます。
審配は冀州名士の派閥、逢紀は洛陽時代以前から袁紹に従っていた名士の派閥、
郭図と辛評は潁川名士の派閥の有力者であったと思われます。
名士(重臣)の派閥を背景とする軍の実力者の支持を得られなかったのが、
袁熙が後継者候補になれなかった理由でしょう。
>>167 >あとこの三兄弟(+参謀達)がもし結束していたら官渡での敗北以後も
>曹操より兵力が多かった袁家が勝利するということもありえなくはないですかね?
十分に有り得る話だったと思います。
官渡戦役で多くの兵と人材を失ったとは言え袁氏の帷幄には、
曹氏の冀州掌握後に、曹氏政権で活躍した優れた人材が大勢存在していましたし、
袁氏の善政で養われた河北四州の大兵力に加え、
北方異民族との関係も良好だったので、そちらからの援軍も期待できました。
曹操が官渡戦役に一気に冀州へ雪崩れ込めなかったこと。
曹操が結束した袁譚・袁尚の軍と対戦しても決定的勝利を得られず、
帰還して内紛が起きるのを待ってから、北伐軍を起こしたこと。
それでも分裂した袁氏を平定するのに七年も掛かっていること。
袁尚が郭援と高幹を河東に侵攻させた時、次々と県や豪族が呼応したこと。
これらの事実を考えると、袁氏は分裂してなお強大な勢力だったと思われます。
袁氏兄弟と首脳陣が完全に一致団結して再び官渡戦役規模の軍を起こせば、
四方に敵を抱え、荒れ果てて賊の跋扈する中原の統治に苦しんでいた曹操が敗れる可能性は、
相当高かったのでは無いでしょうか。
>>168 袁譚は勇敢ではありましたが、青州統治で統治能力の無さを露呈しており、
袁氏分裂後の行動も、幕僚の言いなりでした。
「恵み深い」と史書には記されていますが、
袁譚の行動を見ると、行動に一貫性無く、人の言いなりになることが多かったので、
婦人の仁に過ぎない程度のものであったように思われます。
明らかに袁譚は君主としての器量を欠いていました。
幕僚を使いこなすどころか、幕僚に使われる君主です。
袁譚が後を継げば、いずれ袁譚を操ろうとする人々の暗闘が起き、
袁氏勢力は結束を失って自壊したでしょう。
>>168 袁尚は袁譚と比べると、まだ君主たる器量を持っていたように思われます。
擁立者の審配や逢紀らの言いなりになっていた様子もなく、
彼らを一人の幕僚として活用し、幕僚が随行していない時も、独自の判断で行動できています。
「袁尚を権力の座から引き摺り下ろすこと」だけをひたすら考えていた視野の狭い袁譚陣営に対し、
袁尚陣営は郭援を河東に攻め入らせるなど、対曹氏軍事行動を起こしており、
袁譚を慰撫して仲直りを促す手紙を審配に書かせるなど、内紛にはあまり積極的ではなかったようです。
冀州・幽州失陥後は烏丸に亡命し、最後は遼東に亡命までして、戦い続けようとしています。
抗戦意欲の強さは、勝利者には不可欠です。
袁尚の粘り強さは、乱世の雄たるにふさわしいものがあります。
袁尚が決定的な敗北を喫した後に雪崩を打って曹氏に流れた人々は、
強い者に従う日和見的な人々であり、袁氏が一致団結して強盛を誇っていれば、
従い続けたであろうと思われます。
袁熙・高幹が彼に付いたのも、袁譚との人物の差では無いでしょうか。
乱世の雄たる覇気を有し、内紛を好まず、幕僚を活用すると言う発想のあった袁尚が、
一致団結した袁氏の盟主となっていれば、曹操とも良い勝負が出来たのではないかと思われます。
官渡で失った兵力が回復するまでは攻勢に出られないでしょうが、
兵力が回復すれば、攻勢に打って出ることも可能だったでしょう。
内紛の真っ最中ですら、郭援に大軍を与えて河東を攻撃させていますから。
河北の賊がほぼ袁紹によって平定され、あるいは官位を与えられて大人しくしていたのに対し、
曹操は無数の小賊に苦しんでいたので、中には泰山の郭祖らのように、
袁氏の将として活動していた者も存在していました。
後顧の憂いが無いと言う点では、袁氏の方が勝っていたように思われます。
袁氏に内紛が起きないという仮定ならば、ジリ貧に陥るのは曹操だったでしょう。
>>172 袁尚が袁紹の跡を継ぐに相応しい器量でも長男が跡を継ぐのが
常道だもんな。袁譚が青州に大人しく引っ込んでいる訳も無いだろうな。
ただ袁譚と袁尚では袁尚の方が優位だったな。
強行とは言え袁尚が跡継ぎになったからかな?
跡継ぎ争いと言う決定的な失敗で袁紹の河北統治も無に喫してしまったな。
ただ河東に進出した切り札的存在の郭援を馬超らを以って倒した曹操は見事だな。
劉表と劉備・孫乾が袁兄弟の争いを嘆いてたような記載が正史に有ったような・・・
ジリ貧になるのが曹操だったら曹操の方から何か仕掛けてくるかもな。
朝廷を握ってるからそれを上手く利用するかも・・・
日本史官位スレへの使節団長のお勤めご苦労様です。
何か収穫はありましたか?
>>168 しかし一応結束していることを前提としています。
曹操が離間の計を仕掛けてきたとしても有能な臣が集まっている袁家に通用するでしょうか?
まあ、彼らが結束するということ自体が無理な話ですが、私はこの場合かなり袁家に有利だと思います。
官渡での敗北により、袁紹のように油断することもないでしょう。
>>169 三男袁尚は容姿に優れていた為、袁紹に一番可愛がられたようです。
>>173 >袁尚が袁紹の跡を継ぐに相応しい器量でも長男が跡を継ぐのが常道だもんな。
勢力の盟主なら、必ずしも長男を立てるのが筋とは限りませんよ?
器量が無い人間を立てると、後が危ういので、
三国時代以外の群雄は、結構次男以下の息子や、
兄弟・甥・養子を跡継ぎに立ててたりしてます。
五胡十六国の時代では、
前燕の慕容カイは、三男の慕容晃を、
前秦の苻洪は、三男の苻健を。
五代十国の時代では、
後周の郭威は、養子の柴栄を、
呉越の銭鏐は、五男の銭元カンを、
それぞれ後継者として、成功しています。
「長男を立てるのが筋」なのは、平和な時代の君主か、
あるいは君主に仕える側の豪族・名門の当主だけです。
>袁譚が青州に大人しく引っ込んでいる訳も無いだろうな。
袁譚と言うより、郭図・辛評が大人しくしていなかったような気がします。
袁譚は戦場では勇敢ですが、平時は人の言葉に左右されやすいので、
郭図・辛評が何もしないで、袁尚に「青州を頼みます」と言われたら、
おとなしく青州に引っ込んでたと思われます。
>>173 >ただ河東に進出した切り札的存在の郭援を馬超らを以って倒した曹操は見事だな。
あの時は、曹操は河東方面に手が回らなかったらしく、
鐘ヨウが軍事・外交最高責任者として対応し、独自の判断で馬騰と組んでいます。
張既・杜畿・賈逵らの優秀な人材がこの方面に配置されていたのも幸いでした。
郭援打倒は、曹操がうまくやったと言うより、
鐘ヨウら司隷・関中方面に配置された人材の功によるところが大きいと思われます。
関中方面の責任者が鐘ヨウほどの器量を持っていなければ、
確実に曹氏は河東に留まらず、司隷全域を失っていたと思われます。
>ジリ貧になるのが曹操だったら曹操の方から何か仕掛けてくるかもな。
>朝廷を握ってるからそれを上手く利用するかも・・・
曹操が朝廷を握っているにも関わらず、郭援が河東に侵攻すると、豪族達は一斉に呼応しました。
曹操領内にも、袁氏から官位を貰って、袁氏の将としてゲリラ戦を展開している豪族・山賊が少なからず存在しました。
袁紹亡き後ですら、どういうわけか袁氏の威信は、朝廷を握る曹氏を凌いでいたようです。
袁氏相手ならば、朝廷はあまりあてにならないような気がします。
>日本史官位スレへの使節団長のお勤めご苦労様です。
>何か収穫はありましたか?
日本史官位スレにて、のんびり日本史ネタにレスを付けております。
異国で遊ぶのも、また楽しいものですな。
向こうのスレ運営なども、何かと勉強になります。
確かに取り巻きが居なかったら何も出来ないのが現状だよな。例え自身が優秀でも。
ある意味で三国時代以降、世継ぎとかが長男とは限らなくなってきたのかな?
丞相の博学ぶりには感心しますなぁ〜
>>175 可愛がられるのと、
それをきっかけに派閥が形成されて、後継者候補になるかどうかは、また別の話です。
後ろ盾になる派閥か、君主の「○○に後を継がせる」と言う正式な決定が無い限り、
後継者候補に浮上するのは困難でしょう。
>>178 春秋戦国の世でも、いくらでも例があるのですが、
例が多すぎていちいちあげるのが面倒なので、無視しました。
漢楚争覇の時代は、戦い自体が短かった上に、
「子が(群雄の)後を継いだ」と記されても、その子が長子なのかそれ以外なのか、
記述が無かったので、例の出しようがありませんでした。
新末の動乱は、結構長く続いたので、子が後を継ぐ例がいくつか見られますが、
その子が長子なのか、それ以外の子なのか不明なので、
やはり例に出しようがありませんでした。
ただ、漢楚や新末の時代の勢力で、後継者争いが起きた例はあまり無く、
すんなり権力委譲が行われていたようです。
むしろ、乱世なのに長子相続の原則を、盟主の後継問題にまで持ち込もうとした、
漢末や三国の時代が異常であるように思われます。
ご無沙汰です 袁氏で盛り上がってますね
それにしても丞相殿の博学+迫力恐れ入ります
ちょっと疑問に思ったんですが、劉焉についてですが、黄巾の乱の時劉焉は幽州にいたんでしょうか。
霊帝時代に監軍使者・益州牧・陽城侯となって益州に入ってますよね。
どっちがホントなんですかね。
181 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/24(木) 16:56:03
182 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/24(木) 17:46:45
いきなりレベルが落ちたな。
晒しage
>>180 お久しぶりです。
>ちょっと疑問に思ったんですが、劉焉についてですが、黄巾の乱の時劉焉は幽州にいたんでしょうか。
劉焉の歴任した官職は、洛陽の令、冀州刺史、南陽太守、宗正、太常。
一度も幽州に赴任した事はありません。
黄巾の乱の時の動向も史書には記されていないので、
おそらく洛陽にいて宗正か太常を務めていたと思われます。
黄巾の乱が発生した時の南陽太守はチョ貢、
チョ貢が戦死すると秦頡に代わっていますので、
劉焉は黄巾の乱の時は、南陽太守ではありません。
なお、黄巾の乱の時の幽州刺史は、郭勳という人物です。
>霊帝時代に監軍使者・益州牧・陽城侯となって益州に入ってますよね。
>どっちがホントなんですかね。
こっちが事実です。ただし、188年のことなので、黄巾の乱の四年後となります。
朱嵩◆k88syk7fg2殿。
貴殿の持節・行散騎常侍を解きます。
副使の役目、御苦労様でした。
ネタ振りならびに、日本史官位スレ外交の功により、
官を奮威将軍に進めます。
将軍号通り、今後ともいっそうネタ振りに励まれますよう。
185 :
許柔@丞相・録尚書事・都督中外諸軍事 ◆XAqbn/bVNM :2005/03/24(木) 18:57:15
劉秀 ◆sWYqdBuxYQ殿。
ネタ振りの功により、貴殿を大司馬府に招聘いたします。
貴殿の官は大司馬従事中郎となります。
従事中郎は謀議に与る官なれば、
今後一層良きネタ振りに励まれますよう、お願い申し上げます。
186 :
許柔@丞相・録尚書事・都督中外諸軍事 ◆XAqbn/bVNM :2005/03/24(木) 19:10:50
趙休◆mu1AAnbyqY殿。
議論の功により、貴殿の官爵を進めたく思いますが、
郷侯への昇進の上、食邑加封、
鎮軍大将軍の官をそのままで、領尚書令を加えるか、
持節・衛将軍に官を進めるか、
迷っております。
希望があったら、申し付けくださいませ。
私が勝手ながら思うに驍騎将軍・給事中・仮節を願います。
驍騎将軍は丞相府に所属し帝を補佐し、給事中は顧問となり応対を司る
職務であります。
衛将軍や尚書令は私には荷が重過ぎるので是非ともお考え頂く。
>>187 驍騎将軍は、御史中丞・刺史に該当する職となり、二段格落ちとなりますが…。
貴殿には、いずれ三公か大将軍をお願いしようと思っておりますので、
丞相府の属官とするわけには、まいりませぬ。
衛将軍や尚書令を荷が思いと感じられるのでございましたら、
せめて現職に留まっていただけませぬでしょうか。
あと、信賞必罰の原則がござりますれば、貴殿を昇進させないわけには参りません。
侍中を加官するか、爵位を郷侯に進めるか、
いずれかをお選びいただけませぬか?
侍中は天子の下問に答え、落ち度を正す職なれば、
貴殿にはふさわしかろうと思います。
>>188 ではお言葉に甘えて侍中職を加官する事を望みます。
侍中・鎮軍大将軍・仮節・清苑亭侯で宜しくお願いします。
只今無事帰国致しました。日本史朝廷はレベルが高かったですよ。
破才殿ご活躍のようですね。 新人さん登場希望。。。 私みたいにネタ振りでも官位もらえますから。
丞相さまお疲れさまでした。奮威将軍頑張ります。
丞相 奮威将軍大儀であった
丞相よ 劉明を通じて便りした 日本史朝の廷臣の件 よろしく頼むぞ
192 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 13:33:26
あげ
ageたらダメでしょ!めっ!!
>>191 姓名の件に関しては、既に取り計らいました。
官位に関しては、入朝の後に定めたく思います。
おそらくは、丞相掾か大司馬掾より始めていただく事になろうかと思います。
丞相 大儀であった 待ち遠しいの
三戦朝の皇帝陛下並びに皆様 日本史板より参りました武田と申します。私丞相様に名前を頂いたのですが、わけあって今は携帯からしかアクセス出来ないので頂いた名前を見ることができません。
誠に申し上げにくいのですが姓のほうをもう一度頂けたらと存じます。よろしくお願いします。
また明日にでも改めて参ります 今日本史板官位スレの御所でこのことに関する評定が行われておりますので結果が出ましたらすぐにでも
>>196 貴殿に贈る名前はケ純に決定いたしました。
仔細は院庁評定の間の間にて記しております。
ただし、漢名の使用は、貴朝の朝議が決してからといたします。
また、正使・副使として来る場合は、漢名の使用は認めませぬ。
遣三戦留学生として入朝した場合のみ、
漢名使用と正式な任官を認めます。
>>丞相殿
恐らくケ純の「ケ」の字が携帯からだと見えないのだと思う。
取り合えず書いておくと「とうじゅん」です。
使節団の方々には前スレの贈官法に則り官位を授与するべきで?
>>199 先方がお受けするかどうか分かりかねますので、問い合わせておきました。
お受けいただける場合は、前スレの贈官法に則り、名誉職を贈ります。
留学生としてお越しになる方には、正規のルートで仕官していただきます。
本朝の姓名の法は、和名には対応しておりませぬので、
その場合はお好きな漢名を名乗っていただきます。
ただし、後漢末期・三国時代・西晋初期の人物の名前は、使用を禁じます。
また、留学生の方に限り、御希望あらば漢名の贈与を朝廷より行います。
向こうでは事務レベルでの折衝を提案しているようで・・・
こっちの事務レベルは誰だ?
>>201 大臣クラスが出てくるなら、私が。
大納言・中納言・参議・卿クラスが出てくるなら、鎮軍大将軍殿が。
それ以下の五位以上の官人が出てくるなら、奮威将軍殿が。
それぞれ適任かと思われます。
拙いネタ振り(!?)に係わらず大司馬従事中郎に任じていただきありがとうございます。
もう少し勉強して励みます。
>>203 期待してますよ。今後もスレに貢献して下さい
205 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/27(日) 02:16:19
あげあげ〜
私にも官位をくだされぇぇ
207 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/27(日) 08:21:56
あげあげ〜
208 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/27(日) 08:46:42
209 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/27(日) 09:57:07
あげあげ〜
210 :
朱嵩@奮威将軍 ◆k88syk7fg2 :2005/03/27(日) 16:21:13
>>206 司馬懿殿、申し訳ありませんが、ただし、後漢末期・三国時代・西晋初期の人物の名前は、使用を禁止になっています。
名前を少々変えて頂いて、三国志ネタか疑問などを出して頂ければ、官位もらえます。
212 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 00:55:24
糞スレage
関羽の子供たちについてですが、演義は別にして、関平、関興は史書に記載があるようですね。
只、共に活躍した記載はなく、関平が養子だったとの記載もありませんね。
又、演義には登場する関索は正史には登場しませんね。
只、水滸伝の楊雄が「病関索」とあだ名されていたり、雲南・貴州一帯には関索にちなむ地名が残っていたりします。
>>213 関興は関羽の跡を継ぎ侍中・中監軍まで昇ったが若死してる。
関平は荊州の関羽の元におり臨沮で親子共々捕まり殺されている。
問題の関索は明の時代に刊行された「花関索伝」の主人公です。
詳しい詳細は不明だが民間に根強い三国志伝承の一つだと思われる。
毎回のネタ出しご苦労様です。
>>214 関興は諸葛亮に才能を評価され、
二十歳で侍中・中監軍と言う官位に就任しています。
侍中と言う官位は、侍従官の中では最も格式が高く、
諸葛亮が北伐に際して、郭攸之・費禕・(後に董允も就任)を任命して、
皇帝の輔弼の任を託しています。
中監軍は高位の将軍に匹敵する軍事の要職で、
後に前将軍胡済・揚武将軍ケ芝・征西将軍姜維が兼任しています。
二十歳で文武の重臣になった関興は、
才能と毛並みの良さを兼ね備えていた政界のプリンスだったのでしょう。
その出世の速さは、格式は高いが、さほど責任の重くない地位で、
官界デビューした諸葛瞻を凌いでいます。
生きていれば、どこまで累進し、どこまで活躍したのか、
記録が少ないのが残念な人物です。
子の関統は公主を娶り、虎賁中郎将となっていますが、
死んだ後に遺児がいなかったことから、おそらく若死にしたと思われます。
関羽の一族は、張飛の一族と同じように、貴族として扱われたのでしょう。
関平は、殺されたという記録があるだけで、良く分かりません。
関興の兄だったのか、弟だったのかすらも不明です。
殺された時には立派な成人として壮烈な最後を遂げたのか、
それともまだ戦場に出る年齢ではなく、少年だったのに悲惨な死を遂げたのか。
それすらも、史書は黙して語りません。
216 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 22:48:33
質問です。
中国とその周辺は烏丸や羌、南蛮、鮮卑などたくさんの民族が住んでいましたが、この時代各地の勢力は異民族に対し、どういう政策を採っていたのでしょうか?
sage忘れすいません、破才@泰山大守#破才です。
官職無しの韓臣が仕官に参りました
>>216 いちようには申し上げられません。
各勢力ごとに、各民族内部の各勢力と個別に友好を結んだり、
武力弾圧したりしています。
また、担当者によっても、対処は異なります。
恩恵を与え、時には威厳を示して服従させた者もいれば、
厳しく取り締まって、恐れられた者もいます。
あるいは、敵対政策をとり、盛んに戦闘を仕掛けて勢力を弱めようとした者もいます。
後漢末から三国時代までの異民族政策について詳しく答えようとするならば、
新たにスレッドが必要となるでしょう。
それぐらい、各勢力の各担当者ごとの、異民族政策は多種多様です。
>>218 議論への参加、あるいはネタ振りをお願いいたします。
確かに呉は山越攻めを何回もしたり北伐の際には魏が羌と結託したりと、相手の規模や自軍の軍事力にもよりますよね。
あ、あとショクの滅亡後は南蛮(益州南部)はどうなったんですかね?
>>220 歴史ではその地域は南中と呼ばれます。
蜀が滅亡すると、南中を統治していた蜀の安南将軍霍弋は、
引き続き魏の南中都督護軍(晋の時代になってからは南中監軍)に任命され、南中統治を委ねられました。
霍弋の南中統治は上手く行っていたようで、反乱が起きるどころか、
軍を動かして交州に攻め込み、三郡を占領しています。
どうもありがとうございます。
丞相の博学ぶりは素晴らしいですね。
223 :
日本史官位スレより:2005/03/29(火) 00:50:48
藤原政頼殿を使者として、武田高信殿を留学生として貴朝に派遣されることが決定致しました。
宜しくお願いします。。
>>223 了解いたしました。事務レベルでの遣使と聞き及んでおりますれば、
本朝よりもしかるべき者を選任し、案内役とする所存にございます。
朱嵩◆k88syk7fg2殿。
貴殿に臨時に持節・領散騎常侍を加え、
日本史官位スレ使者の案内役をお願いします。
貴殿の官位は、持節・奮威将軍・領散騎常侍となります。
向こうでも歓迎ムードですな。今度こそ成功し友好への第一歩として貰いたいね。
227 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 01:35:46
>>224 何を案内するの?スレ見ればいいだけじゃない?
>>227 そうおっしゃいますな。
日本史よりの使者は賓客にござりますれば、
相応の者を接待に当たらせねば、非礼にあたりましょう。
三戦朝の皇帝陛下並びにお列々の皆様 日本史板より参りました武田と申します。丞相様につけて頂いた名はトウジュンですのでそうお呼びください。まだまだ若輩者ではございますが何とぞよろしくご指導のほどをお願いいたします。
230 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 07:31:51
お前ら三戦板に喧嘩うってんの?
231 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 08:39:27
可児
232 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 09:38:41
>>228 日本史板の官位スレにここのスレ貼っといたよ!
ケ純殿ようこそ。お久しぶりです。貴殿の案内役を仰せつかりましたので、よろしくお願い致します。
今回は留学生ということですので、三国志のネタか話題、疑問等出して頂ければと思います。
登β純殿ようこそ。どうぞよろしくお願いします。
ではネタをひとつ 大したネタでなくて恐縮ですが…
曹操にはたくさんの子供がおりましたが、なかでも夭逝した曹冲は聡明で知られた少年でした。
ある時、南の国から象がやって来た時のこと、そのあまりの大きさに皆驚き、重さを量ってみようということになりました。しかし秤や天秤では諮ることは出来ず、皆で思案していると、曹冲が
「それは簡単だ。まず船を用意し、象を乗せる。当然船は沈みこむ。そこで外壁の水面の高さのところに線をひいておく。後は象を降ろして、先ほどの線まで沈みこむように石を載せてその各個の重さを量って足せばよい。」
といいました。わずか10やそこそこの少年がこんなことをいったため皆驚いたそうです。
>>235 ケ純殿 早速のネタ出しありがとうございます。
曹冲ですか。神童と呼ばれて曹操に溺愛されたが若くして亡くなった方ですよね。
彼が生きていれば… 兄弟の争いが激しくなりそう。
この度、日の本の国より使者としてまいりし、藤原政頼にございます。
何分、急な決定ゆえ、出立が遅れたことまことに申し訳ありませぬ。
さて、現在は日の本でも交流の流れが主流になりつつあり、今後ともよい関係を継続できることを願っております。
今後、何かしらのお願い等々があれば何なりとお申し付けください。
日本史朝 正使様 ご到着〜
藤原様、ようこそご来朝くださいました。日本史スレでお世話になりました、朱嵩でございます。お懐かしゅうございます。
今回あなたさまのご案内役を仰せつかっております。ささっーこちらで 迎賓館でお休み下さい。
珍しくもございませんが、点心とお茶でもお召し上がり下さい。
丞相様もやがてこちらに参ると存じます。
これはご丁寧に。早速、いただきまする。
陛下のお言葉をお伝え申す。
此度の藤原殿の来朝 ケ純の留学 朕はうれしく思う
両国の友好と 両朝の更なる発展 を希望する
陛下はゆるりとされよと申されておりました。
藤原様、ゆっくりされて下さい。又、三国ネタなどありましたら。。
三国志には精通しているわけではなく、、、
(・∀・)!
我が国の戦乱の時代の話でもいたしましょうか。
>藤原政頼殿
首を長くしてお待ち申し上げておりました。
ごゆるりとなさいますよう。
>我が国の戦乱の時代の話でもいたしましょうか。
どうぞ。外交特権と言うことで。
ケ純 ◆BZiSH5Yf.E 殿
日本史板官位スレよりの正式な留学生と言うことで、
貴殿に丞相府の官位を授けます。
貴殿の官は丞相掾となります。
書き直します。
ケ純 ◆BZiSH5Yf.E 殿
日本史板官位スレよりの正式な留学生と言うことで、
貴殿に丞相府の官位を授けます。
貴殿の官は丞相掾となります。
日・三両朝協調の架け橋として、しっかりとお努めくださいませ。
>>235 ネタ投下ご苦労さまです。
曹操は曹冲の死後、他の子供たちに「曹冲の死は私にとっては不幸だが、おまえ達にとっては幸運だ。」と言うほどだそうで。
確かに彼が生きていたら、曹丕より良い統治を行なったかも知れませんね。
>>246 憶測で物事を語るべきでは無いぞ、太守殿。
そもそも若死して大器を成せなかった者を評価するのは無理な話なのだが。
それでは曹丕の治世に大きな過失があったな物言いですよ。
>>246 曹丕・曹植の加えて曹冲が後継者争いに参戦し、
さらに陰惨な暗闘が繰り広げられ、さらに多くの人材が失われるかもしれませんよ?
あと、曹丕は人事を個人的好悪で行う面と、
軍事的才能に欠ける面がありましたが、統治能力は曹操以上と言っても過言では有りません。
曹丕の治世になってから、官制は整備され、地方反乱は激減しています。
陳寿は「度量の広さ、公平さ、道徳心を備えることが出来たら、古代の名君にも匹敵しただろう」
と評しています。
曹冲に才知と優しさがあったのは確かですが、
曹丕以上の統治が出来たかどうかは分かりません。
君主は、性格が悪い方が成功できる場合が多いからです。
そもそも曹操が曹冲を溺愛したとしても彼を後継者にするかどうか。
曹丕を始め成人している子供も多いし兄弟争いが発生する可能性を冒してまでも
彼を後継者にするかどうか・・・
賈詡が曹操に「袁紹と劉表の事を云々・・・」と諫めた事があったな。
>>247 憶測で語ってはいけないのですか?
議論の醍醐味の一つだと私は思うのですが…
>>250 どうやって若死した曹冲と曹丕を比べるんだ?
それは議論とは言わない。
私が言いたいのは若くして死んで物事に対する器量が未知数の者に対して
他者と比べたり評価するのは如何な物か?と言いたいだけです。
仮定、想像して論じることは議論とは言えませんか?
未知数なものだからこそ論ずる価値があるんじゃないですか?
分かり切っていることを議論しても面白くないですし。
才能が有ってもその実力を発揮できずに亡くなった方を評価するのは無理だと思うが。
そもそも
>>246で「確かに」を用いたのはなぜですか?そこを説明してくれれば
此度は喜んで引き下がろう。
>>249 曹操ならば、有り得るかと。
彼は合理主義者では無く、ロマンチストでございますので。
>>250 憶測で語るのは悪いことではございませんが、
曹冲の場合は、いささか材料が少なすぎますな。
孫登・孫亮の場合と違って、誰と親しく交わっていた者かも分からず、
ある程度責任ある地位で試された経験もございませんので、
曹冲の夭折によって失われた可能性を、
想像するのは難しいでしょうな。
>>253 それは登β純殿のネタに対し、幼少のころから聡明だった曹冲ならばもしかしたら曹丕よりいい統治をしたかもしれないということです。使い方が間違っていたら謝ります。
人の挙げ足とる前に、貴方も憶測で物を言うのはよくないと言いつつ、
>>249で憶測してますよね?矛盾してませんか?
>>254 ロマンチスト・・・ですか。
そう言えば曹操は劉表の子供たちを犬や豚と言ったそうで。
「子供にするなら孫仲謀がいい」の言葉の後に続いた言葉らしい。
>>253 実力を発揮できなかったと言っていますが、人々が考えなかった方法で驚かせた時点で実力を発揮しているのでは?
>>255 下手な罵り合いになると場が乱れるのでここら辺で終了という事で・・・
>>256 出典は呉歴でございますな。
当時の曹操は、後継者を丕と植のどちらにするか悩んでいた時期。
そう考えると、いろいろと深読みが出来ますな。
「自分に孫仲謀のような子がいたら、後継者選びに悩まずに済むのに」と、孫権の器量を羨むようにもとれますし、
「自分の子は劉景升の子のような者ばかりで、誰を後継者にすれば良いか分からない。困ったものだ」
と言うボヤキともとれます。
>>丞相様
丞相祿、ありがたくお受けいたします。
曹冲は慈愛の心も持ちあわせていたと伝えられています。歴史にifは禁物といいますがやはりif話は楽しいですよね。
>>257 「貴人の才子」としての実力は、存分に発揮しておりましょう。
人柄も折り紙付きで、その才能と人柄は、
自らの才知を誇ること甚だしかった曹丕にすら、
「冲が生きていたら、自分は後を継げなかっただろう」と嘆息させるほどのものでした。
しかし、それは貴人の才子としての実力であり、
天下を治めえたかどうかは分かりません。
才知に富み、人柄も良かった孫亮、孫休が、
権臣の専横を許してしまい、その治世が精彩を欠いたことを思うと、
冲は天下を治めるには優しすぎて、
海千山千の一族・重臣を抑えきれなかったかもしれません。
いいですよ。
スレ汚しすいませんね。
申し訳ありません、私が 「彼が生きていれば… 兄弟の争いが激しくなりそう」
なんて余計なことを書くから、波風の原因を作ってしまい…お二方にお詫び申し上げます。
藤原様、丞相様のお許しもありましたので、貴国のお話でも致しましょうか。
それとも本朝の運営についてでも何かありましたら。
某は今回の旅を母国に報告しなければならぬので、色々ききたいことが。
まず、このスレの政治体制についてお伺いしとうござりまする。
丞相が我が国で言う内覧いや関白のようなものでしょうか?
また、前漢では諸侯という位置に丞相、将軍、御使大夫の三役がありますが、宰相の位置にも丞相が入っているのは何故にございましょう?
>前漢では諸侯という位置に丞相、将軍、御使大夫の三役がありますが、
もしや諸侯の意味を御理解でない?
>宰相の位置にも丞相が入っているのは何故にございましょう?
こちらは完全に意味不明。
いんや。ある程度は理解しております。
三戦朝にくるまで本を読みました。
その本にそのようなことが書いてあって(゚Д゚)ハァ?と思ったので聞いてみたまで。
丞相は行政を司る者でつね。
>>267 まぁ理解されてるならいいけど、丞相、将軍、御史大夫は諸侯とはいわないので。
>>265 このスレの体制を簡単に説明すると人臣の最高位は丞相です。
丞相の補佐役みたいな存在が御史大夫です。(本当は官吏の監視も含まれる)
以前、丞相が不在の際に私が御史大夫を代行して丞相に変わって臨時のトップになった事もあります。
また丞相は大司馬を領しているので軍事の大権も丞相が握っています。
おそらく丞相が領大司馬である限り大将軍を設置する事は無いと思います。
ここでの大司馬は後漢で言う太尉に当るので太尉は不設置です。
また尚書台が行政担当を取り仕切るが誰も居ないのでこれも丞相が録尚書事として
職務に当っている。
我が国とは大分違いますね。
我が国は朝廷を基軸にはしてありますが軍事に関しては征夷大将軍がしきり、朝廷は元老といった感じです。
以前はほぼすべてのことに関白が関わっていましたが、最近は合議と言う形が徹底しております。
人数が少ないので絶対的な権力者が一人いれば今の所は問題は無いのです。
なるほど。
リーダーとして優れている人がいれば組織はうまくいきますからなぁ。
日本史の場合、合議の弊害として物事の決定に時間がかかります。
おかげで三戦朝に来るまでに時間が大分かかってしまいました。
>>272 先の一件で両者に隔たりが出来てしまったと思いましたが
なんとか成功して喜ばしい限りです。
前回は・・・三戦側の責任者って俺だったんだよな・・・orz
私見でございますのでスルーしてくださって構いません。
日本史板官位スレも住人が多いとは言えませんがやはり三戦朝よりも多いです。それはやはりsage進行の影響ではと俺は思います。確かにage進行だと荒らしが蔓延りやすいという弊害はございますが…
sage進行でいくと人目につきにくいので単純に人が来づらいと思うわけです。試験的にage進行やってみてはいかがでしょう?
>>276 俺は常に名無しでROMってる者だけど、やめたほうがいいな。
コテの馴れ合いだと叩かれ、荒れ易いのは自明の理。
まさかコテを装った荒らしじゃあるまい?
もしも住人を増やすならっていう条件限定の話ですから 荒れることには荒れますがきっと興味を持つ人も多いはず 両刃の剣ですが
名無しさん、ケ純殿意見ともにもっともですね。
個人的にはケ純殿の意見採り入れても…とも思いますが、丞相様、鎮軍大将軍様のご意見伺わないと。
>>登β純殿
ひとまず、今は春ゆえageるのは危険かと…。
確かにageるのも一理あるかもしれないが今現在は控えた方が
いいのかもしれない。
取り合えず日本史・三戦の友好樹立後はネタ出しや議論によってスレを
活性化する必要がある。両者がお互いのスレを行き来できる状態までに
したいです。
282 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 16:24:52
ageないほうがいいと思うよ。
仕官希望者は朕に言いつけよ
284 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 16:32:30
285 :
劉邦@漢帝國皇帝 ◆63uDeqn5n2 :2005/03/30(水) 16:36:53
そんな細かい
286 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 16:39:45
大韓帝国皇帝とでも名乗っとけ
春だねぇ…。
288 :
大清属国高麗王 ◆4USGhE6V6s :2005/03/30(水) 16:51:54
倭賊を征伐するぞよ
春かぁ〜。仕方ないかなぁ。
あと数日したら静かになるんだし。。
291 :
登β純 ◆BZiSH5Yf.E :2005/03/30(水) 17:07:44
季節のことを考えてなかったですね ああ…逝ってきます
しまった 俺まで…
293 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 17:13:40
キモイ
みなさん、お久しぶりです。官位を剥奪されて以来、郷里に戻り、静かに暮らしております。
決して楊儀のように自裁することなく、司馬懿さながらの胸中で憂国の日々を過ごしております。
ところでトリップが不届き者にバレてしまいましたので上記のトリップに変更しました。
今後、かつての「可児 ◆aSDVKRrj9Y」を名乗り、不届き者がこのスレに何食わぬ顔で登場する恐れがあるので
ご注意ください。
わたしも再度、官途につけるよう精進したいと思いますので宜しくお願いいたします。
295 :
大清属国高麗王 ◆4USGhE6V6s :2005/03/30(水) 17:19:30
高麗王ごときが九錫授けられるとでも思ってんのか
んな権限ねー、分を弁えろ
華麗にスルーですよ。
298 :
大清属国高麗王 ◆4USGhE6V6s :2005/03/30(水) 17:22:22
え?官位を授けてくれるのは丞相様なのでは?
300 :
大清属国高麗王 ◆4USGhE6V6s :2005/03/30(水) 17:24:55
>>299 荒らしに反応するのは荒らしと同様に思われますよ
李瞬臣と同じ地位か・・・
下っ端だな
303 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 17:25:56
304 :
ぷらっと ◆NrzNAFPLAQ :2005/03/30(水) 17:29:01
さすがぷらっと親分、尚書令の官位を剥奪されると荒らしに転ずるとは。
見習わないとな。
ハーイ話題ですよ。藤原様もケ純殿も参加お願します。
演義では善人のイメージが強い陶謙、劉備に徐州を譲った方ですね。
でも正史では曹操の父曹嵩を殺害したり、張昭を牢獄に入れたり、略奪を働いたり、かなりダーティ。
真実の陶謙はどんな人物なんでしょうか。
趙休様すいません。
このスレの状況がわかってなかったもので・・・
なにかやっかいなことになっているようですね。
落ち着くまで郷里に戻ってます。
307 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 17:37:46
正史で知る以外にどーやって知れって言うんだよ
何が真実の陶謙だよ、ヴァカか
>>305 陶謙は剛直で節義のある人物でもあり徐州では人材確保に専念している面も
あります。
逆に陶謙は道義に叛き、個人的感情に任せて行動をしてしまう一面もあるとか。
後漢書の朱儁伝には彼が中牟に駐屯した際、徐州刺史の陶謙が三千余の兵と
物資を補給してやり朱儁を奉戴して彼を車騎将軍とした。らしいのですが
詳細が分かる方は是非ともご教授下さい。
309 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 17:43:01
あれだ。
張昭の手紙と正史の中間。
そんなことも分からないの?
ここのチンカス固定って。
ななしがコテを叩くとはね。
要するにまともに議論できないから、めんどくさいから、もしくはネチネチとしているから、この三つに岐れるわけね。
おっと、スルーと。
311 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 17:53:33
名無しだとコテ叩いてはダメだという
コテにどれだけの違いがあるのか?
選民意識でもあるんかいな?
官位貰ったコテハンではダンマリ、官位がない他板のコテハンで煽り。
コテハンも使いようだな(プゲラ
誰も叩いてはいけないとはいってないが?
三つのパターンなんだろうなとは言ったが?
314 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 18:00:37
必死だなw
315 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 18:01:26
可児
事実を衝かれたので放置も出来ずに弁明です
日本史板住民が煽っている件について
確かに名無しがコテハンを叩いちゃダメとかいうのはないですけど我々コテハンをつけているものからするとやはり名も名乗らぬのに卑怯なり!って思っちゃうんです。藤原様ももちついて。
陶謙ですか… 善人っていうイメージがありますね 実際はどうなんだろ?
藤原様申し訳ありません。私はあえて悪いところを列挙しました。その書き方がまずかったですね。
>政頼タソ
スルー
>>265 鎮軍大将軍殿の説明に付け加えますと、
前漢前期から中期は、丞相・御史大夫・太尉の三つの官職が、宰相職でした。
軍事担当の太尉のみ非常置です。前漢中期より、太尉に変わって大司馬が設置されるようになりました。
この三つの職を総称して、三公と申します。
前漢末期に、丞相は大司徒に、御史大夫は大司空に、それぞれ改称されました。
後漢が建国されると、大司徒、大司空、大司馬が三公とされましたが、
後に大司徒は司徒に、大司空は司空に、大司馬は太尉に、それぞれ改称されます。
三公制を採用する国は、
丞相・御史大夫・太尉あるいは大司馬、大司徒・大司空・大司馬、
司徒・司空・太尉の三つのうちのいずれかを採用することとなります。
魏では太尉と大司馬が併設されることもございました。
なお、大将軍は列将軍の最上席であり、三公制と別系統の職でございますので、
三公が揃っていても別に任命される可能性がございます。
>>265 諸侯とは爵位を有する者の事を指します。
基本的には皇族しか認められぬ王位も加えて、諸侯王と称する事もございますな。
本朝における爵位は、王(皇族のみ)・県侯・郷侯・亭侯・関内侯となっております。
>>274 age進行にすると、住人が増えますが、便乗して賊も多く発生いたしますな。
sage進行にすると、穏やかでございますが、住人も増えませぬ。
加減の難しいところでございますが、
ネタがある時はage進行、無い時はsage進行が適切かと思います。
あと、貴殿は丞相掾でございますので、名乗る際は官位も名前欄に入れてください。
324 :
登β純 ◆BZiSH5Yf.E :2005/03/30(水) 19:08:04
sage
【布告】
劉邦@漢国皇帝 ◆63uDeqn5n2は皇帝を僭称する逆賊です。
僭称者より受けた官位は無効です。
大清属国高麗王 ◆4USGhE6V6sは王位を僭称する賊です。
我が国の藩国とは認めません。この者の任命した官位は無効です。
しまった まただ…
丞相様 実ははずかしながら読み方がわかりません お教えいただけるとありがたいです
>>304 ぷらっと殿は自ら尚書令の職を退かれました。
過去の功労により特進を加えられ、三公に次ぐ礼遇を受けております。
官位剥奪などと言う流言蜚語を飛ばすのは止めてください。
>>305 史書とその注だけに限定いたしますと、
陶謙を称揚している資料は、呉側で作成された資料。
欠点をあげつらっている資料は、魏晋で作成された資料が中心でございます。
魏としては、徐州大虐殺を正当化するために陶謙を悪人に仕立て上げたいでしょうし、
呉としては、徐州大虐殺を殊更に言い立てるために陶謙を称揚し、
「立派な人物である陶謙が治める州を、悪人曹操が怒りに任せて攻めた」としたいところでしょう。
彼のイメージは、後世の人々の都合で、色々と操作されている面が大きいと思います。
ただ一つ言えることは、劉備に州を譲ったのは、
善行と言うよりは、責任を押し付けるに等しい行為だと思われます。
当時の徐州は曹操の侵略で荒廃し、しかも南西の大勢力袁術に狙われています。
州を譲られても、利益より苦労のほうがはるかに大きな状態です。
>>307 正史の中にも、矛盾した記述が多数ござりますれば、
矛盾した二つの記述のうち、
どちらが真実に近いか考察してみるのも一興かと思います。
>>308 >後漢書の朱儁伝には彼が中牟に駐屯した際、徐州刺史の陶謙が三千余の兵と
>物資を補給してやり朱儁を奉戴して彼を車騎将軍とした。らしいのですが
>詳細が分かる方は是非ともご教授下さい。
董卓が長安に遷都すると、朱儁は洛陽の守将となりましたが、
反董卓連合と手を結ぼうとし、途中で董卓に攻められることを恐れて、荊州に逃亡しました。
その後、董卓は楊懿を河南尹に任命し、洛陽を守らせましたが、
荊州から戻ってきた朱儁に撃破されました。
朱儁は河南を手中に収めましたが、河南は荒廃しており、
物資に乏しかったので、中牟に駐屯し、
各地の州刺史や郡太守に書状を送って、董卓討伐に立ち上がるよう要請します。
これに陶謙が応じ、三千の兵と物資を送って、朱儁を行車騎将軍に祭り上げましたが、
董卓が送ってきた討伐軍数万に敗北しました。
朱儁は自分の軍では対抗できないと判断し、
再び軍を動かして戦おうとはとはしませんでした。
董卓殺害後、李カク・郭らが政権を握って混乱を引き起こすと、
陶謙は徐州や周辺諸州の郡太守・国相と共謀して、
軍を擁して中牟に留まっていた朱儁を盟主として、
反李カク・郭同盟を結成しようと試みましたが、
朱儁に断られて失敗に終わっています。
326
陶謙が朱儁を車騎将軍に推した時、皇甫嵩は既に亡くなってるんですね。
朱儁が周忠に代って太尉・録尚書事となったのは赴任先での任命なんですかね?
しかも日食が原因で罷免されて行驃騎将軍になってるし。
全くどのようなネタかつかめない某…。
>>326 読み方って何?丞相掾の事か?携帯からだと見れないのか・・・
もう二人共日本史板に帰してあげれば?
>>318 陶謙は皇甫嵩に従って羌を撃破し、司空張温の要請で韓遂討伐に従軍。
徐州で黄巾が蜂起すると、徐州刺史に任じられて、黄巾を平定しました。
当時の朝廷からは軍事能力に優れた人物とみなされていたようです。
彼の治世下で徐州は繁栄し、流民が多く流れ込んできたので、
統治能力もそれなりに優れていたようです。
人事面では麋竺・陳登・王朗・趙cら有為の人材を登用する一方で、
小人とされる曹宏や、漢末屈指の大悪党笮融を重用しました。
また、任用に応じない人材を弾圧するなど、
良い意味でも悪い意味でも人材を愛したようです。
謀を好んだ人物でもあったようで、
闕宣と手を結んで略奪を行い、頃合を見て殺害してその軍を奪ったり、
徐州だけでなく、予州やエン州の一部の太守・国相らと共謀して、
朱儁を盟主に立てて、反長安政権連合を結成しようと目論み、
それが失敗すると、長安に貢物を贈って徐州牧・安東将軍の官位を受け、侯に封じられるなど、
権謀術数を用いた行動が目立ちます。
なお、曹操に徐州を攻められたのは、
先に陶謙が曹操領の泰山や任城に攻め入ったからです。
陶謙は勢力拡大に熱心で、予州の一部を手中に収めていました。
反長安連合結成を画策した際には、青州の北海相孔融、予州の沛国相袁忠・汝南太守徐キュウ、
エン州の太山太守応劭など他州の太守・国相と手を組み、
曹操に攻められると公孫讃配下の青州刺史田楷の援軍仰ぐなど、
外交にも熱心であったようです。
>>333 >朱儁が周忠に代って太尉・録尚書事となったのは赴任先での任命なんですかね?
朱儁は長安政権から入朝するように勅命を受け、軍中の反対を押し切って長安入りしています。
彼はそのまま長安の朝廷に留まり、太僕となりました。
太尉・録尚書事に任じられたのも、長安滞在時のことです。
>>326 「じょうしょうえん」と呼んでください。
丞相府の事務官です。
>>339も私です。たびたび名前を書き忘れてしまい、申し訳ありません。
陶謙と袁術の関係はどのようなものだ?
私見ですが陶謙が青州刺史田楷に救援を依頼する→公孫瓚と仲が悪い訳では無い
→公孫瓚と袁術は同盟関係→袁術と陶謙は仲間になるのだが・・・
>>341 当初は友好関係だったものの、途中で決裂したと考えるのが正しいのではないでしょうか。
陶謙が曹操に攻められた時、
袁紹と死闘を繰り広げている最中で、台所事情が苦しい公孫讃は援軍を出しているのに、
余裕があったはずの袁術は、援軍を出していません。
この時期に、既に袁術と陶謙の間は、冷えていたと思われます。
予州は、袁術が孫堅・孫賁を予州刺史、孫香を汝南太守、舒仲応を沛国相、
袁嗣を陳国相に任命するなど、袁術の勢力圏でした。
しかし、陶謙は田楷軍から引き抜いた劉備を予州刺史に任命しています。
これは、予州を勢力圏とし、おそらく刺史も置いているであろう袁術に対する、
明白な敵対行為でしょう。
ありがとうございます。
俺考えたんですが両スレの友好の証にそれぞれのスレのテンプレにリンクを張り合うというのはいかがでしょう?
>>343 その為にも両スレの住人が往来できるような体制を段階的に進めて行きたい。
今後、両スレの首脳会談でも開催していきたいですね。(私的発言です)
>>343 現時点では事務レベルの交流でございますので、
無査証渡航(相互リンク)について話し合う段階ではありません。
双方の帝、あるいは宰相同士の会談で、
相互協力条約が締結された後になるかと思います。
346 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 22:51:52
がんばれ!応援してるよ!
応援age
そうですか いつかは御所に大使館みたいな形で一室できたらとも思ってみたり… その日が来るようにもっと努力いたします。
いい加減にしろやヴォケ、また戦争したいのか貴様らは
>>277で苦言を呈した者だけどさ、ケ純@丞相掾 ◆BZiSH5Yf.Eは、
レスがいちいち軽率すぎ。
結局、少なからず荒れた発端を生んだのもそうだし、コテを名乗り
たいんなら己の言動には細心の注意をはらえよといいたくなる。
これまで名無しでROMに専念してた身としては腹に据えかねるところも
あるんだよ。
>>349 強き意志をお持ちのようですので、三国志論議に参加なさっては如何ですか。
出来ましたらお名前を名乗られて…
当スレではネタ出しのみならず、疑問の投げかけや話題創出でも官位もらえるシステムです。
351 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 10:58:08
定期age
丞相の働き 見事である
何れかたちで報いる
どうも友好のための留学生ということで気負いすぎてるみたいです。すこし自重します。
疑問なんですけど何故袁術は回りから反発されるのをわかってて皇帝を自称したんですか? 正史にはこんな記述はなかった気もしますが…
>>353 今は陶謙の話題では?つーかそのくらい自分で調べなよ
もっと本読めば解るからさ
>>353 ケ純殿疑問投げかけお疲れ様です。
袁術は自らを陳の宣公時代の大夫 轅濤塗の後裔、すなわち帝舜の血脈と称ましたね。
だから帝位にも登れるよって。それに従兄(兄とも)袁紹は傍流で、自分が正統だとも。
何故即位したかは、その前の状況によるところが大きいと思います。
袁紹が劉虞を帝位につけようと画策したこと、曹操に敗戦したこと、孫策、呂布の離反。
そうは書いてはありませんが、状況打開の切り札としての即位では。。
>>354 自分で調べろって… それを言っちゃったら議論なんて成立しないでしょうに…
>>353 安直な考え方かもしれませんが、この時代、欲深い人間なら誰しも帝位に就いてみたかったと思いませんか?玉璽もある訳ですし。
もちろん政治的な理由もあったでしょうが、袁術のような人だからこそ周囲の反対を押し切ってでも帝位に就いたんだと思います。
結局それが原因で破滅した訳ですが…
>>353 名門って言う名を信じすぎた所が致命的なミスだな。袁紹の方は専ら河北統治で
群雄最強と言ってもおかしくない程の軍事力を誇っていた。
袁術が拠っていた南陽や淮南も決して広大な土地では無いが統治しだいでは
相当の力を持てるはず。
一種の妄想に駆られて臣下の諫めや状況判断が鈍ったのでは無いだろうか。
>>349 荒らしているわけでは無く、知りたいことが多いだけでしょう。
お気になさいますな。
>>353 中国史全般に見られる傾向として、
戦乱の世には、皇帝・王を自称する者が多数出現いたします。
気の早い者になると、一州を支配した程度で帝を自称したり、
一郡を支配した程度で王を自称したりする者もおりますな。
この点、後漢末の群雄は将軍や州牧を称する者がほとんど。
異例なまでに慎ましいと言って良いぐらいです。
袁術は野心多き御仁なれば、
帝を称するも乱世の雄の常と思っていたのでしょう。
ただ、あの慎ましい時代だから目立ったに過ぎませぬ。
泰山太守殿の御意見が一番近いように思われます。
>>358 名門と申しましても、袁氏に比肩する後漢の名門弘農楊氏は、
戦乱の世になると、権威を失った朝廷で、名誉職でしかない三公の位を保つのみでした。
他にも、三公を立て続けに出した名門、
後漢建国以来、代々高官を輩出してきた貴族などは多数おりましたが、
その中で大勢力となったのは、汝南袁氏の袁紹・袁術のみ。
彼らが大勢力となったのは家門の力より、当人の資質に拠るところが大きいと思われます。
二人とも親分肌で野望が強く、頭も切れ、乱世向きの人物でした。
家門の力を利用した面はありますが、
それでも彼ら個人はその力を利用して乱世に羽ばたくだけの器量と名望がありました。
決して単なる御曹司ではありません。
自らの力量によって自立した優れた人物です。
袁術は袁氏の名ではなく、自らの力量におごったように思われます。
なるほど 光栄の三国志ぐらいしかやらないから袁術なんて完全に雑魚だと思ってました。やはり彼もまたひとかどの人物だったのですね。
361 :
無名武将@お腹せっぷく:黄帝生年紀年4716/04/01(金) 02:49:42
>>360 おぃおぃ。頼むからもうちょい勉強してから来いよ。
おまえらレベル低すぎ。
日本史板のレベルってこの程度と思って構わないのか?
>>362 私や貴殿とて、最初から知識があったわけではございますまい。
ゲームや子供向けの簡略版三国志、漫画などから出発して、
いろいろと学んで、今日の自分があるのです。
今日の初心者は昨日の我らなれば、
学ぼうとする者に対して、門戸を開くのは当然のことにございましょう。
知識の少ない事を嘲るのは、いかがなものかと思われます。
>>362 まあ三国ネタは日本史板住民にとって余り触れる機会もないみたいだし、仕方なくね?
君みたいなのが日本史板で日本史ネタで議論したら全く逆なことになると思われ。
365 :
太公望呂尚:黄帝生年紀年4716/04/01(金) 04:08:06
>>363 362の御仁の書き込みをみるにその文の内容たるや
とてもとても人を非難する事のできるとは到底思えませぬ
恐らくは巷を騒がせている厨房と呼ばれる輩かと
この御仁のオツムの中身と言えば、かの曹子建どのの
七歩詩ほどの詩も諳んじる事はできますまいて
こういう輩はそのままやり過ごすのが上策かと
貴殿ほどの御仁が気にする事もありますまい
しかしながら、これ以上私事の愚痴を申しましても
埒が明きませぬゆえこの辺りにて...では
366 :
無名武将@お腹せっぷく:黄帝生年紀年4716/04/01(金) 05:45:16
プッ 理解力ゼロの春厨〜♪
368 :
無名武将@お腹せっぷく:黄帝生年紀年4716/04/01(金) 10:07:35
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http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1110985913/
母国でpart11が立ちましたが、朝敵の画策により荒れております。
渡航の際は気をつけてください。
370 :
無名武将@お腹せっぷく:黄帝生年紀年4716/04/01(金) 11:44:33
>>369 朝敵って・・・。
俺には貴方たちが仕掛けたように見えましたが
>>370 多分、それは間違いだと思います。
vipに誘導スレを立てたりしたのも朝敵永井ですから。
はっきり言ってすごい迷惑しているみたいです。
372 :
無名武将@お腹せっぷく:黄帝生年紀年4716/04/01(金) 11:54:37
>>371 それにやりかえしたんでしょ?
結局永井と変わらないじゃないですか
やり返したとは?
374 :
無名武将@お腹せっぷく:黄帝生年紀年4716/04/01(金) 12:00:15
そのようですね。
ただ、本家には何ら関係ないみたい。
すでに荒らしはスルーされてるし。。
376 :
無名武将@お腹せっぷく:黄帝生年紀年4716/04/01(金) 12:08:36
本家には関係ないってw
明らかに本家の誰かが挑発に乗ったとしか思えませんが?
もうこの際永井と和解したらどうですか?
そのうちこっちまで被害が及びそうなんですが
本家のコテが煽ったわけではないと信じたい。
皆さん良いこと仰いますね。
何回も繰り返して申し訳ありませんが、当スレではネタ出しのみならず、
疑問の投げかけや話題創出でも官位もらえるシステムですので、仕官なさってくださいませ。
>>379 朱嵩殿は特命宣伝部長ですな。ネタ出しがスレの活性化に繋がるのだが
自身がネタ出しをしてないもんで・・・
取り合えず情報を・・・
今回は「ちょうきゅう」にちなんで三人の張休を採り上げます。
・張休 字は叔嗣
呉の輔呉将軍張昭の末子。若い頃に太子孫登の僚友に選ばれた。
孫登に「漢書」を講じたのも彼である。孫登が亡くなると揚武将軍になるも
魯王孫覇一派の讒言で交州に移住させられ、更に中書令孫弘の讒言によって
自殺を命ぜられた。
・張休
魏の廬江太守。255年、カン丘倹・文欽らと司馬師に反抗して兵を
起こしたが鎮圧された。
・張休
漢嘉の人で蜀の将軍。馬謖と共に街亭で張郃と戦って敗れ、軍令違反で
処刑された。
勉強不足は今ひしひしと感じております。もっと精進します。
ところで母国に敵の大軍が押し寄せたようで 心配なので一時帰国してもよろしいですか?
>>381 日本史の官位スレも大変そうですな。若干落ち着いたようですが
心配なら帰郷しても構わないと思いますよ。
取り合えず自己判断で
スレ活性化の為の情報です。
五行思想
五行思想は天地万物は全て木火土金水の五つの基本要素から構成されている
と言う古代中国人の世界観である。
方向で言うと東は木、南は金、北は水、中央は土になり
色であれば青は木、赤は火、黒は水、黄色は土になる。
また相生説では木から火が、火から土が、土から金が、金から水が、水から木
が生まれ循環すると言う。
これらの説は王朝交替の原理にも利用される事となる。
ちなみに
漢は火徳、魏は土徳、晋は金徳、東晋も金徳、宋は水徳、斉は木徳、梁は火徳、陳は土徳である。
北朝の北魏も水徳でこれは晋の金徳の後を継ぐ形になっている。
>>380 揚武将軍張休の死の原因を作った中書令孫弘は、
他にもゲスな動きをいろいろしていますね。
諸葛恪に殺されたのも、因果応報と言えるでしょう。
こんな人物に後事を託した孫権は、どうかしてます。
蜀の将軍張休は、なぜ処刑されたのでしょう?
この時代、よほどの暴君の下で無ければ、
敗戦した将軍は左遷か免職で済まされるものなのですが。
まして、主将の軍令違反に連座して処刑するとは、厳酷に過ぎます。
張休も積極的に、軍令違反に加担したんでしょうか?
>>384 馬謖の独断だったら部下として諫めるべきだし
馬謖の行動に賛同したら丞相の命令違反にもなる。
張休は馬謖直属の部下だったのか、王平みたいに任務の為に
彼の部下になったのか、よく分からない。
まさか見せしめで処刑なんて事はないだろう。
故国も落ち着いたようですのでまた戻って参りました。勝手な行動をお許しください。
ささやかなネタですが
中国の宦官の技術は当時圧倒的に優れていました。エジプトなどでは手術後の死亡率が60%にも達していたのにも対して、中国では10年に数人というレベルでした。
また中国では切り取った息子は保管しておいて昇進の機会ごとに上司に見せなくてはなりませんでした。そのため宦官同士で息子の貸し合いなどもあったと言われています。
>>386 どんな意味で切り取った「息子」を見せたんだ?
立派なオトコだった事を証明する為かなw
丞相掾殿の今後の活躍に期待してますよ。
>>386 去勢の際に、去勢職人のところにモノを忘れて行ってしまい、
気付いてから返還を求めたら、職人に大金をふっかけられたり、
捨ててしまって昇進の際に頭を抱えたりするうっかり者が、
後を絶たなかったそうです。
微笑ましい話ですね。
>>387 単なる慣習です。
宦官の世界は上下関係が体育会系とヤクザを合わせたよりも厳しく、
わけの分からない掟が無数にあるのです。
去勢って言っても当時は麻酔なんか無いんだし恐ろしいもんだな。
俺だったら悶絶死と言うよりショック死だな。
宦官は完全去勢(陰茎・精巣・陰嚢を切除)なんだよな。
逆に精巣のみを切除する場合は何でそんな事するんだ?
性欲を奪ったら・・・
はじめまして張角です。
>>389 恐らく仕事に集中させるためでしょう。
性欲は沸かなくなるかは自分でもわかりません。
>>390 始めまして趙休です。
仕事中に性欲が沸いてくるなんて・・・まぁ、そんな時もあるのだろう。
それも毎日の如くあったのだろう。
>>389 これは中国ではありませんがペルシャの宦官は不完全去勢もよく行われました。玉を取られた男性はイキにくいうえに種がないのでハーレムの女性たちに引っ張りだこだったとか。
なにせハーレムには何千人も美女がいてるわけだからスルタンも渋々許可していたみたいです。中国の後宮も案外似たようなものだったのかもしれませんね。
393 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/03(日) 00:33:54
後宮の女性に手を出させないようにするために去勢したのではないの?
>>394 その通りです。しかしスルタン一人でハーレムの女性全てを満足させることはやはり無理だったのでしょうね。だから宦官たちが相手をすることを黙認していたようです。でないとハーレムがレズの巣になってたそうですから。
>>386 しかし宦官は性欲を除くことで出世欲や金銭欲が強くなり王朝腐敗の原因を度々作っていますよね。
>>389 相当痛いでしょうな。私だったらそこまでして仕えたくはありませんね。
396 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/03(日) 04:43:10
>>395 外戚の専横を打破したい皇帝が解決策を相談する相手を探す為に周りを見渡したら
雑用役の宦官ぐらいしか居ない訳ですよ。
さて情報を・・・(くれぐれも情報ですので宜しく)
今回は献帝の長安脱出から洛陽到着までの権力者の移り変わり(なんの脈絡も無いが・・・)
取り合えず董卓死後は車騎将軍の李カク・右将軍の郭・後将軍の樊稠
に加えて弘農の鎮東将軍の張済の四人が朝廷を牛耳った。
結局、李カクが樊稠を殺したのを期に李カク・郭が対立、長安が血の海となったが
張済が仲裁に入ったのを期として献帝の長安脱出が始まった。
張済の裏切りや白波賊の介入など乱れたが安邑県に辿り着く。
ここで河内太守の張楊が奉迎。董承が衛将軍、韓暹が征東将軍、李楽が征西将軍
王邑(河東太守)が鎮北将軍、楊奉が安東将軍、張楊(河内太守)が安国将軍となり
政権を握った。この内部でも対立が生じ洛陽に到達した時点で張楊が大司馬、
韓暹が大将軍、楊奉が車騎将軍となり衛将軍董承と共に政権を握る事になった。
乱文長文スマソ
次回は董承や曹操などを採り上げる予定(次回もあるの!?)
>>400 皇帝陛下のおかれましては感謝の念が溢れんばかりです。
丞相が参内したら具体的に何を設置するか話し合いましょう。
>>401 宮廷立ち上げ論議の間をつくったので 丞相 鎮軍大将軍 で話合うように
>>399 後将軍楊定・寧輯将軍段猥は?
二人とも、天子東帰に深く関与した人物ですが。
>>400 宮殿を造営いただき、感激しております。
今後ともいっそう朝廷の発展に努力したく思います。
>>403 董承が楊奉・楊定と共に張済の元に居た段猥を讒言したらしい。
目的は旧董卓配下の武将を追い出す為のようだ。(具体的には私もよく分からないです)
だがこれによって李カク・郭・張済が結束した。(要は張済は裏切った)
恐れた楊定は荊州に出奔。董承らは李カクに敗北するものの白波賊が加わり
何とか逃げ切れた。
宮殿の落成まことにおめでとうございます。完成すればどれほど壮麗なものになるのか…楽しみでございます。
>>405 貴殿は丞相掾ですので丞相府や新設する西園へのご参加願います。
>>390 張角◆jPRFytI4Ac殿。
テンプレにより、後漢末・三国時代・西晋初期・に登場する人物の名前は、
使用禁止といたします。
名前を変更の上で、議論への参加・ネタ振りをしていただけるならば、
貴殿の任官を取り計らうつもりです。
408 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 20:39:47
プゲラ
では前回(
>>399,
>>404)の続きです。
董承を軽く紹介
董承は董太后の甥で献帝の外戚である。
董卓が政権を握ると董卓寄りの立場になり董卓が死ぬとちゃっかり廷臣寄りの
立場をとった。上手い立ち回りと言えよう。
献帝が長安を脱出した直後は郭・張済を以って李カクを追い出す事に成功。
だが郭は弘農行幸に反対し政権離脱し再び李カクと手を結ぶ。
張済も献帝一行を裏切り董承を攻撃するがここで楊奉が依頼した白波賊が参入する。
この事により旧董卓配下の武将は消え去り、彼等は悲惨な死を向える。
一方、献帝一行も洛陽遷都を巡って廷臣と白波が対立。廷臣らが張楊を取り込む形で白波に対抗。
白波賊の胡才・李楽が河東に残留する形で洛陽に入る事が出来た。
ここでもお互い牽制し張楊が河内郡野王県、楊奉が河南梁県に駐屯し
董承・韓暹が内政に参与する事になる。
ここに至って曹操が洛陽に参入する事になる。
董承の内政とはどんなものだったのでしょうか
超核殿始めまして。朱嵩といいます。
建安元年(196年)7月の献帝の洛陽帰還のとき、
張楊は大司馬、楊奉は車騎将軍、韓暹は大将軍・領司隷校尉となっているが、
すぐに(何月かは記述なし)董承は密書を曹操に送り、曹操を迎えて自身は衛将軍に昇進。
9月には曹操許都に遷都。
内政を行う時間は無かったのでは。。
>>410 洛陽まで至る間は朝廷の実体はほとんど無いと思っていいでしょう。
何しろ賊の力まで頼ったのですから。
それに加え食糧不足で尚書レベルの官僚まで薪や食糧の調達に出かけたそうです。
>>413 史書に名が残っている朱嵩と言う人物は、東晋の散騎侍郎一人のみです。
よって、テンプレには反しません。
>朱嵩という人物は確かいたぞ。朱儁の孫か曾孫だと思った。
ソースを教えてください。
後漢書朱儁伝に記されている朱儁の子孫は、
息子の予章太守朱皓のみです。
丞相様ありがとうございます。
その方は建武元年(317年)7月に亡くなられていますよね。
>>410 端的に言うと、何もしておりません。
董承と言う人物は、天子東帰の折に何度も内輪もめを起こし、
朝廷を危うい目にあわせた責任者の一人です。
陰謀や兵を用いて権力を弄ぶ輩に過ぎません。
さて前回(
>>409)の続きです。
曹操・・・
彼はその頃、豫州制圧に乗り出していた。196年には袁術が任命した陳国相の
袁嗣を降す。当時の許県一帯は汝南・潁川の黄巾賊が跋扈していたが、これを降す。
さて曹操が朝廷を呼び込もうとしたのは明白だが先に動いた者が居た。
車騎将軍の楊奉である。彼は献帝の長安脱出の功臣でありながら白波出身なので
洛陽政権でも孤立する。同じ白波出身の韓暹を抱き込むが有能でもないので不安は拭い切れない。
ここで董昭が出でくる。彼は以前から曹操に便宜を計っていた。
彼は曹操の手紙をでっち上げ提携を進める。楊奉はとても喜び彼を鎮東将軍に任命。
一方、洛陽でも董承と韓暹が対立。董承が抱き込んでいた張楊を捨てて曹操を
呼び寄せる。ここでは鍾繇らが仲介を務めたと思われる。
洛陽に上った曹操は楊奉・韓暹の罪(白波賊の所業の事?)を弾劾する。
韓暹は楊奉の元に出奔。結局彼らも悲惨な死を迎える。
ここにおいて曹操は司隷校尉・録尚書事を兼ねて曹操が朝廷を握る事になる。
破才◆PxPDOojA/w殿
議論の功により、威虜将軍の号を加えます。
貴殿の新しい官は、泰山太守・威虜将軍となります。
将軍の任にふさわしい、果敢なネタ振り、議論参加を期待しております。
丞相の期待に応えられるよう精進したいと思います。
超核殿 お初にお目にかかります。登β純と申します。日本史板からこの国の制度・歴史を学びに参りました留学生です。よろしくお願いしますね。
ケ純◆BZiSH5Yf.E殿
果敢なネタ振り、並びに議論の功により、
尚書郎に官を進めます。
尚書は我が国の内政の中枢なれば、
よき勉強になるかと思います。
よろしくお励みなさいませ。
ありがとうございます。更に精進いたします。
趙休@◆mu1AAnbyqY殿
ネタ振り、議論の功により、
安陽郷侯に爵位を進め、七百戸を加増いたします。
貴殿の新しい官爵は侍中・仮節・鎮軍大将軍・安陽郷侯(食邑千二百戸)となります。
今後もお互いの三国志知識の向上の為にも情報等を不定期ながらも
提供して行きたいと思います。
朱嵩◆k88syk7fg2殿
議論、外交の功により、
幽州刺史を加えます。
貴殿の新しい官位は奮威将軍・幽州刺史となります。
幽州の守りと、対日外交の窓口をお願いいたします。
皆様よろしくお願いします。
早速質問ですが鍾繇は何故仲介に入ったのでしょうか
>>427 内輪もめを繰り返す楊奉・韓暹・董承ら諸将に愛想を尽かして、
曹操に朝廷の保護を頼もうと考えたのではないでしょうか。
そうだったのですか。
ありがとうございます。
>>426 謹んでお受けいたします。両朝の友好のため頑張ります。
>>427 超核殿 これからも気軽に疑問出して下さい。
はじめまして
羅蒙っていーます
ワシゃ南蛮の王になりたいんやけど大丈夫?
ネタは今度持ってくるけんね
>>431 王になるのは難しいですな。
いっぱいネタを出して益州刺史を目指すか、スレ盛り上げ等に功績が
あれば爵位も貰えますよ。その際に南中の土地に封ぜられる事も出来ない訳では無いですよ。
さて前回は献帝の長安脱出を取り上げましたが今回は袁術を取り上げようと思います。
袁術は挙兵当初は南陽に拠った。孫堅を手を結び彼を豫州刺史に任命する一方
荊州の劉表を討たせたがあっけなく戦死。荊州南部を抑えた劉表におされ気味だった。
そんな彼の元に来たのが金尚。長安から派遣された兗州刺史である。
兗州は当然の如く曹操が居る。金尚は任地に赴けず袁術を頼った。
袁術は本拠の南陽を捨て北上した。金尚を担いで袁紹派を分断しに動いたのだ。
袁術自身は陳留郡封丘県を進み配下の劉詳を平丘県の匡亭に駐屯させた。
だが曹操の用兵は巧みで劉詳を討ち援軍に来た袁術を撃破。
勢いに乗って封丘を包囲し、袁術は襄邑に撤退。だがここでも袁術は水攻めに遭い
揚州まで逃げる。揚州は彼が任命した刺史である陳瑀が居る。だが陳瑀は袁術を拒む。
彼には独立心があったのだろうか。取り合えず袁術は体勢を立て直しこれを追い出し
ようやく寿春に腰を据えた。長安の政権も袁術に期待し左将軍を授けた。
以上が南陽から寿春への袁術の流れである。乱文長文スマソ
超核 ◆hGupG52bhQ殿
東莱郡の五官掾に任命します。
貴殿の官位は五官掾となります。
より一層のネタ振り、議論参加を期待しております。
あげ
あげんなボケ!賊が侵入してしまうだろーが!
ちっとは考えれ!カス!
438 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/10(日) 19:46:10
age
なんか最近スレが寂しいので私が持ってる本の紹介します。
・知れば知るほどシリーズの三国志(実業之日本社出版、市川宏監修)
初めて買った三国志の解説書です。読んでて分かったのだがこの本は演義を解説してる本でした。
演義を読んだ後にこれを読めばより理解出来るでしょう。
・図解雑学三国志(ナツメ社、渡邉義浩著)
まさに図解で説明しています。これは正史を元に解説している本です。
蜀漢贔屓の理由とかも書いてあります。
・面白いほどよくわかるシリーズ三国志(日本文芸社、阿部幸夫監修、神保龍太著)
この本も読み応えのある本です。読み過ぎて本がボロボロになってしまいましたw
取り合えず三冊ぐらい紹介しました。(紹介になってないかも・・・)
鎮軍大将軍殿、お疲れさまです。わたしなぞ全く持ってないんで、もっと勉強しなくては…
ヘタレな疑問で申し訳ないんですが…
張飛が時々「燕人張飛だ!」と名乗ることがありますけどあれは春秋戦国時代の楽毅の燕のことなんですか?
またそうだとしたら漢になっておよそ400年もたってるのに未だにそういう「国」意識っていうのを当時の人達はもっていたんですか?
魏、呉、晋は春秋、戦国の国名ですし、
晋書 高祖宣帝懿紀にも
「荊楚の人々は軽はずみで、とかく動揺しがちで落ち着きのないものです」とあり
旧国号はこの時代通用していたと思います。
正史で旧国名の記述気づいたものありましたら…
>>441 燕人は大げさな気がするな。確かに彼の出身地のタク郡は燕に属するのだが
彼だけが燕人だけじゃないからな。
>>443 こんな時に三国志正史を持ってないと痛いですよ・・・orz
>>441 >張飛が時々「燕人張飛だ!」と名乗ることがありますけどあれは春秋戦国時代の楽毅の燕のことなんですか?
そうです。
>またそうだとしたら漢になっておよそ400年もたってるのに未だにそういう「国」意識っていうのを当時の人達はもっていたんですか?
前漢の中期頃までは、確実にあったと思われます。
史記貨殖列伝は、春秋戦国時代の国を単位に、地方の特色を描写しています。
しかし、時間がたつにつれて、国意識は薄まったらしく、
新末の群雄達は、旧春秋戦国の国々では無く、
漢の定めた郡県や、山河等の地形単位で勢力を形成しています。
後漢ともなると、完全に漢の郡県を単位に地方意識が生じていたようです。
>>443 後漢の郡国の中では、いくつか旧国名を受け継いでいるものがあります。
幽州の代、冀州の魏・趙・中山、青州の斉、
予州の陳・魯、揚州の呉、益州の巴・蜀などがあげられます。
447 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/11(月) 21:05:01
ここは素晴らしい良スレですね。
僕にも官位クダサイ。
どうしたらもらえますか?
>>447 >>18より抜粋。
面白いネタ振りをするか、他人の振ったネタを元に充実した議論を展開した者には、
内容に応じて官位を授けます。
449 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/11(月) 21:31:43
じゃあ、意外と知られていないネタを一つ。
張角は病気で死んだ。
450 :
行商人:2005/04/11(月) 22:04:05
あ
>>449 このスレではおまえみたいな奴を『賊』という。
452 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/12(火) 06:31:14
奴隷でいい
453 :
東王公 ◆dNTCzk/Ufs :2005/04/12(火) 14:58:32
ほっほっほっ。
どれ、登β純よ、この年寄りが教えて進ぜようかの。
旧国名はのう、周朝諸侯の封国をそのまま用いておるのじゃ。
それ故、国王に封ぜられるとじゃ、旧国名を用いておるのじゃ。その方が、分かりやすいというのもあってのう。
ほれ、日の本でも未だに美濃じゃの、播州じゃのと言っておろう?それと似たようなものじゃよ。
そう言えば、常山の趙子龍というのもおったのう。常山は国名じゃが、趙は確か、趙国の王族の姓であったはずじゃかのう…。
さてさて、長生きすると物忘れが激しいわい。ほっほっほっ。
454 :
只今徴兵中:2005/04/12(火) 16:04:41
>>441 今でも中国では「晋」「燕」ナンバーの車とか走っている。
春秋戦国時代の旧国名はいまだに根付いているものだよ。
>>455 それは初めて聞きました。
中国ですか・・・今行ったら危険だよな。特に重慶なんかは。
>>439 僕は馬鹿かもしれないです。
知れば知るほどの三国志を先に買って読んでしまったんです。
他の横山さんとか読まずに
>>457 大丈夫。俺も横山・吉川三国志は読んでないから(汗
>>459 陳舜臣さんの「曹操」や「諸葛孔明」は面白い。
一番最初に読んだ小説は北方三国志ですがこれもお勧めですね。
北方三国志は計12巻ですから計画的に買わないと大変な目に遭いますよw
461 :
455:2005/04/12(火) 22:17:14
まずは横山三国志を漫画喫茶で。
文庫版30巻、単行本60巻を買い揃えるのはきつい。
序盤を乗り切れば面白くてしょうがなくなる、延長料金みこして
余分にお金持っていこう。
>>456 今すぐは確かに危なっかしいね。
重慶は三国時代の地名だと「巴蜀」の「巴」。
横山三国志は入門みたいなものだからな。
代わりと言っては変だが井波律子訳の三国志演義を読んでますよ。
amazonで曹操を買おうか北方三国志を買おうか迷っているのです。
どちらがいいでしょうか?
>>463 史実に興味があるというのなら、北方三国志はお薦めできないし、ほとんど
役にたたない。
それに
>>439の方も挙げられているが、ナツメ社の『図解雑学・三国志』は
入門としてはかなりお薦め。
これは社会背景や政治・経済・制度・思想などにも解説が及んでおり、
当時の背景や概念を踏まえるには役にたつと思う。
私の推薦書は、講談社学術文庫の『秦漢帝国』と『魏晋南北朝』と、
石井仁著作の『曹操』。
ただ、これらは上記の様な本を読むなどして後でもいいと思う。
466 :
東王公 ◆dNTCzk/Ufs :2005/04/13(水) 12:32:12
ほっほっほっ。年寄りがまた邪魔するぞい。
刺史となっておる方もおるようじゃの。しかし、本来は、刺史は太守よりも低い官位
だったのを存じとるかの?
元々、刺史は漢の武帝が太守の監察官として州ごとに置いたのじゃが、600石とまあ、
低い俸給だたのじゃ。監査される側の太守は2,000石じゃというのにのう。
後に、明帝の世になって、牧と改称されてての、やっと2,000石の官位となったのじ
ゃよ。
その後も、刺史となったり、牧となったりとまあ、改称されまくったのじゃが、霊帝
の世になって、州牧となったのじゃよ。州牧は州の軍権も有しておるしの。
ただ、軍権のない州の長官は刺史と呼ばれとるがの。まあ、群雄は大体が州牧を経験
しとるわい。
さてさて、おしゃべりが過ぎたかの。そろそろお暇するぞい。ほっほっほっ…。
467 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/13(水) 12:34:24
初めて刺史から牧に改称・増秩したのは成帝の時ね
468 :
東王公 ◆dNTCzk/Ufs :2005/04/13(水) 12:50:52
>>467 おや、そうじゃったかの。年寄りじゃから、物忘れが激しいわい。
間違いを正してもらって、すまんのう…。
漢代では名称が刺史と牧の間で変更し合ってたようだな。
という事は初期の刺史は州の監察官で後に行政権を持ち
後漢末に軍事権を持った牧になった。でいいのかな?
トリップってどうやってつけんの?
わたくしにも官位をくだされ、丞相殿。
実は、今とっておきのネタがあるのです。
今すぐにでも書き込みたい所ですが、あいにくと、お時間がありません。
明日の今頃にでも来ますので、その時に‥‥。
472 :
東王公 ◆dNTCzk/Ufs :2005/04/14(木) 15:51:00
趙休さんや、その通りじゃよ。
元々が監察官じゃからの。設置当初は、州に定まった政庁すら持っておらなんだのじゃ。
後に、政庁を持つようになってじゃ、行政官としての勤めも果たすようになったわけじゃよ。
しかし、武帝劉徹もいろいろやったのう。
大司農や執金吾も劉徹の代に改称されたものじゃしの。
おっと、話題が違ってきたかの。そろそろ、お暇するぞい。虎の尾を生やした婆さんが来るのでな。ほっほっほっ。
>>473 少しでもお役に立てれば嬉しいです。
まだ解説本や小説を持っているのでその紹介も近日中に。
・・・そう言えば袁術に関する情報が途中だったような・・・
475 :
455:2005/04/14(木) 23:43:09
質問です。このスレの丞相って誰ですか?
>>475に貼ってあるスレに早速訪問、誤爆してくる可愛い可児坊乙
官位くれ〜。
>>476 丞相は許柔殿です。彼が官位の任免権を掌握してます。
官位が欲しければネタ出しや話題投下を行なって貰いその後の発言数も含めた上で
任官を行います。
なんで陳宮は呂布に仕えたんですか?
なんで東郡にいったのかもわからん。
張角って太平要術を習得できたのに
国家試験では、なんで秀才どまりなんですか。
張飛の得物は点鋼矛って名じゃないのか?
晒しあげ
素朴な疑問ですが、何ゆえあなたは 可児坊と名乗っておられるのですか?
>>486 まともに相手にする必要はないと思われ
荒らしとかわらん
489 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/16(土) 16:24:49
名無しをけなす基地外固定皿仕上げ
もう忘れてるかもしれませんが・・・袁術の動向についてNO.2です。
さて、前回は袁術が南陽から出撃し見事に曹操に打ち破られ寿春まで逃げ込んだ事を
取り上げました。今回は袁術の盛り返しから江東平定に至るまでです。
袁術は曹操と呂布が兗州で争っている(要は誰も袁術に見向きしなかった時期)間に
勢力を盛り返しにかかっていた。袁紹派の丹陽・九江太守を追い出し廬江も制圧する。
これ等の攻撃の先陣となったのが孫策である。
ここで劉繇の登場である。彼は長安政権から任命された揚州刺史で曲阿に
移り反袁術を掲げる(長安政権は袁術を左将軍に任命しているので劉繇の行動は
彼独自の動きか?)。195年、遂に孫策の小覇王伝説の始まりである。
折衝校尉となり劉繇を予章に追いやり会稽の王朗まで駆逐する。(孫策に関する説明では
無いので詳細は省略)
ちょっとバテました。今日中に皇帝僭称の事まで取り上げたいです。
常日頃から「目上の人を敬え」を信条としておきながら、あろうことか名無しを
けなしてしまうという愚行を犯すとは自分でも情けなく思っております。
反省しておりますので、どうかお許しくださいませ。
493 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/17(日) 00:05:58
常日頃から「目上の人を敬え」を信条としておきながら、あろうことか「名無しを」
けなしてしまうという愚行を犯すとは自分でも情けなく思っております。
反省しておりますので、どうかお許しくださいませ。
まだ名無しを下に見ている風にもとれるよね。
所詮、荒らしだからw
コテハンが偉いと思っている時点で負け犬。
/\___/ヽ
/'''''' '''''':::::::\
. |(●), 、(●)、.:| +
| ,,ノ(、_, )ヽ、,,,, .::| …で、あるか
. | `-=ニ=- ' .:::::::| +
\ `ニニ´ .:::::/ +
,,.....イ.ヽヽ、ニ__ ーーノ゙-、.
: | '; \_____ ノ.| ヽ i
| \/゙(__)\,| i |
> ヽ. ハ | ||
498 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/17(日) 16:48:32
もう反日本史板デモを行うしかないな
>>491で今日中にと書いたものの見事に忘れてしまいました。
今回は皇帝僭称からです。
「代漢者当塗高也」・・・漢に代わる者は当塗高なり
袁術の字は公路であり術も路も道の意味で塗も道なので当塗高は自分の事だ
と言う意味である。197年の正月に袁術は帝位に就き「仲」と言う王朝を建てる。
皇帝袁術は呂布と結ぼうとしたが陳桂の献策で呂布は曹操と手を結ぶ。
曹操は呂布に徐州牧・平東将軍、陳登を広陵太守、孫策を明漢将軍・会稽太守・烏程侯
陳瑀を安東将軍・呉郡太守に任じて反袁術の形をとった。
(この際、呉景を揚武将軍として孫策勢力の内部分裂を図っている)
次回は未定です。(暇が出来次第また提供したいです)
最近スレが寂しいですな・・・
500get!
可児@元文学従事◆R.hU2KhlIcのトリップが割れてしまいましたので上記になります。今後も皆さんのアイドルとして三戦板に貢献したいと思います。o(^-^)oヨシ、ガンバルゾ!
せっくす
官位は欲しいが・・・ネタがねーよ〜。
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>>504 会話に参加して貰えれば見込みもありますよ・・・って他の任官者が来ないから
会話も成り立たないのだが。遂に常駐の廷臣が自分だけになってしまいました・・・orz
阿児@元文学従事 ◆sIE1iUZVwE というお方は他のスレで
よく貶められてるが、なぜなの?
508 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/19(火) 23:13:31
荒らしだからだろw
509 :
東王公 ◆dNTCzk/Ufs :2005/04/20(水) 09:33:58
おや、趙休さんや、寂しそうじゃのう。
どうじゃ、この年寄りと話さんか?無理にとは言わんがのう。
趙休さんからネタを出して下さらぬかの?
すみません、みんな!またまたトリップが変わります!
阿児@元文学従事 ◆sIE1iUZVwEと名乗ってましたが、
『「阿児」はやはり「可児」とは意味が違うな』と達観しまして上記になりました!
これからの私のご活躍をご期待ください!!
(一^)ニヤリ
>>509 おぉ!頼もしいですな。
「蒼天は已に死す。黄天まさに立つべし。・・・・」
は太平道挙兵の有名なスローガンですが
当時の漢王朝は火徳であって水徳ではないようだ。
「蒼天」とは「天」そのものを表す際に用いたようですね。
ちょっと不確かですがネタになりましたかな?
512 :
東王公 ◆dNTCzk/Ufs :2005/04/20(水) 20:39:41
ほっほぉ。趙休さんや、なかなかに難しいネタを出されたのぅ。善哉、善哉。
これを説明しようとすれば、まずは五行説から入らねばならぬのう。
「五行は相生し、相克す。」とあるが、相生とは、木火土金水の順に五行は生じることじゃな。相克とは、木金火水土の順に克つということは、御存知じゃろう。
ただのう、これもどうやら張角は独自の五行説を持っておったようでなぁ、南華老仙に聞かぬとわからんわい。
それにじゃ、秦朝は水徳じゃ。漢朝は火徳じゃ。間違いは無いが、間の木徳の王朝が無いのう。はてさて、項羽の楚は木徳じゃったかのう…。
513 :
東王公 ◆dNTCzk/Ufs :2005/04/20(水) 20:51:52
それにじゃ、こういう考え方もあるぞい。
蒼天は文字通りに天を表しての、ここから類推していくのじゃよ。
天の下にあるのは、悠久なる中華の大地じゃし、その中華の大地を治めるべく天命を受けたのは天子じゃ。
この時代の天子は、劉氏の漢じゃ。となれば、あとはわかろうのう。
つまり、蒼天已死を類推どおりに当てはめていけば、劉氏の天子としての使命は終わったということになるのじゃよ。趙休さんや、これでよいかのう。
お、童子やどうしたのじゃ。なになに、そうかそうか、そろそろ戻ろうかのう。また、こんな年寄りでよければお相手するぞい、では、邪魔したのう。
で、童子や誰からの手紙じゃ?なになに太上ろ……。
515 :
東王公 ◆dNTCzk/Ufs :2005/04/20(水) 21:11:56
《置き手紙》
「趙休さんや、これはわしからの宿題じゃ。
三公とは、云わば最高位の政治家のことじゃ。まあ、名称は時代時代によって変
わってきたがの。
でじゃ、太尉が確か最高軍事官の筈じゃったが、実際は、大将軍以下の将軍の方
が軍権が強かったのもまた事実じゃ。
何ゆえか、考えてみる気はあるかのう?
東王公」
う〜ん・・・難しいですな。
三公は軍権を持ってはいけないようですな。
太尉が設置されたのは後漢ならば軍事顧問とか・・・
そう言えば太尉は朝議に参加しなくていいらしいですね。
あぁ・・・ダメポ
>>515 太尉は基本的には名誉職で、軍の発動権限は有してない。
将軍殊に斧鉞や節を持たなければ軍権は掌握できないんだから。
戻ってまいりました。長い間朝廷を留守にして、申し訳ありませぬ。
>>491 劉繇は、徐州から逃亡してきた旧陶謙配下の笮融・薛礼を、
将軍として受け入れています。
また、陶謙の治中から、会稽太守に転じた王朗や、
別駕から広陵太守に転じた趙cは、若い頃の同僚でした。
丹陽失陥後、劉繇は会稽にいる王朗を頼ろうと考えていたぐらいです。
劉繇は陶謙配下の徐州名士に連なる人脈の人間だったと思われます。
一方、前に書いたとおり、袁術と陶謙は関係が冷え込んでいました。
曹操の徐州侵攻時に袁術が援軍を送らなかったり、
陶謙が、袁術の勢力圏内である予州の刺史に劉備を任命したり、
呂範を袁術のスパイと疑って逮捕して拷問を加えたりしています。
長安政権に任命された刺史であり、袁術配下の呉景に出迎えられた劉繇が、
敵対を選んだのは、劉繇が陶謙人脈に連なる人物であり、
その配下に親陶謙反袁術の名士を多く抱えていたからではないでしょうか。
>>499 この対袁術人事で不可解なのは、陳瑀の扱いですね。
袁術に追放され、大した実力を持っているようにも思われないのに、
安東将軍と言う高位を得ています。
前任の安東将軍は徐州牧陶謙です。
太尉陳球の子であり、徐州の大豪族である下邳陳氏の嫡流であるので、
一族の勢力を評価されたのでしょうか。
それとも、漢朝の議郎、袁術配下の揚州刺史と、
高い地位を歴任した実績が買われたのでしょうか。
しかも、朱治が任じられているはずの呉郡太守に就任していますね。
孫策に正式な官位を与えて、江東での勢力を公認する姿勢を見せておきながら、
その支配圏内にわざわざ孫策が配置したのと、別の人物を太守に任じています。
敵対行為と懐柔行為を同時にやっているかのようです。
>東王公 ◆dNTCzk/Ufs殿
仕官を希望なさるのであれば、
孝廉・茂才に推挙する用意がございます。
>>515 太尉は軍事の最高官ではありますが、
独立した指揮権は有することは少なく、
軍部のトップに与えられる名誉職に留まっていたようです。
前漢の太尉周勃は、呂禄から北軍の指揮権を剥奪するのに、
策略を用いなければなりませんでした。
周勃の子周亜夫は太尉に任命されて、
反乱を起こした七王国討伐の総司令官となりましたが、
この時の周亜夫は、北軍の司令官である中尉を兼ね、
独立した軍勢を指揮しています。
太尉の地位だけでは、軍を動かすことが出来なかったようです。
田蚡は完全な政治家です。
前漢の太尉で、太尉の地位のみで軍を指揮したのは、盧綰ぐらいのものです。
ただ、彼は劉邦の寵臣と言う性格が強かったので、太尉の職権と言うよりは、
劉邦の個人的な信任によって軍を指揮していたように思われます。
>>516 前漢草創期の将軍は、しばしば丞相・御史大夫の資格で、
しばしば出征することがありました。
草創期以降にも、韓安国・商丘成・田広明が御史大夫の地位で匈奴を討伐しています。
後漢の三公が軍事権を帯びることはほとんどありませんでしたが、
それでも後漢草創期の三公や、末期の司空張温は三公の地位で出征しています。
523 :
東王公 ◆dNTCzk/Ufs :2005/04/21(木) 06:07:23
許柔さんや、わしは官位など要らんぞ。
既に、大道に遊ぶことが久しくてのう、今更、宮仕えはできぬわい。
まあ、たまに紅塵の巷に来ては、皆さん方と話をするのが、この年寄りの楽しみじゃよ。
官位よりかは、一杯の茶をもらえる方が、嬉しいわい。ほっほっほっ…。
ください
525 :
東王公 ◆dNTCzk/Ufs :2005/04/21(木) 10:46:41
はて、許柔さんや、中尉は後に執金吾と改称された筈じゃがのぅ。
となると、中尉の職務は宮中警護の任になるはずじゃ。北軍の将は、北軍上将だった
と思うのじゃが、わしの思い違いかのう。
あと、周亜夫は呉楚七国の乱の時には、車騎将軍も兼ねておったと覚えておるが、車
騎将軍の軍権は小さくなかったと思うのじゃが、どうじゃったかのう。
お久しぶりでございます。
久々に議論をと思いましたがハイレベルですね。メモメモ
おぉ!ケ純殿、お久しぶりですな。
今後は貴殿らがスレの中堅を担う訳なので頑張ってくださいな。
529 :
東王公 ◆dNTCzk/Ufs :2005/04/21(木) 21:45:14
ほっほっほっ。また、年寄りがじゃまするぞい。
趙休さんや、今夜は何か楽しそうなネタはあるのかのう。
お、そうじゃそうじゃ、お茶すまなんだのう。これは、礼じゃよ。わしは、飲まんからの。この酒を趙休さんの手土産に持ってきたんじゃ。
飲んでも悪酔いせぬ、酒じゃ。何せ、豹の尾を持った婆さんから貰った桃を漬け込んでおるからのぅ。
まあ、これを飲みながら、この年寄りと話さんかの?
ネタですか・・・むむむ。
何がむ(ry
それはさて置き、三国の武将達は結構学問に励んでいたようですね。
呂蒙のように一念発起して勉学に励んだ者もいる。
ちなみに呂蒙が読んだ書物は「孫子」や「六韜」などの兵書や
「春秋左氏伝」「国語」「史記」「漢書」などの歴史書である。
関羽や李典なども「春秋左氏伝」の愛読者である。文字が書けない王平でも
「史記」や「漢書」を人に読ませて学んでいたと言う。
531 :
東王公 ◆dNTCzk/Ufs :2005/04/21(木) 22:41:16
趙休さんや、猪武者の将軍では、勝てるものも勝てんぞ。
このころの将軍は、兵家だけではなく、史書特に、戦がらみの所は学んでおったようじゃの。
ただのう、兵書をそのまま真似ただけでは、意味がないのじゃ。兵書の真似をしただ
けの曹仁は、徐庶にいいように弄ばれたじゃろ。
ほれ、荘周も言ったじゃろ。「知を得て、知を捨てよ」とな。要は、どれだけ自分の
ものにしたかが肝要なのじゃよ。
古今の名将とは、生きた知恵を持った将軍と言えるのではないかのう。
俺も東王公のおっしゃる通りかと思います。
例えばカルタゴの名将ハンニバルはアレキサンダー大王から学んだ騎兵による包囲攻撃を完成させて当時無敵を誇ったローマ軍に完勝してますからね。
真似だけじゃなく新しい何かを産み出せるものこそ名将とよばれるのでしょうね。
533 :
455:2005/04/22(金) 00:41:26
そういえば、ナポレオンも孫子を愛読していたとか聞いた事があるような。
>>525 >となると、中尉の職務は宮中警護の任になるはずじゃ。北軍の将は、北軍上将だった
>と思うのじゃが、わしの思い違いかのう。
北軍は宮中警護の軍です。指揮権も、通常は中尉が握っています。
ただ、もともと中尉の職は、秦末から漢初にかけての時代には、
指揮官に与えられる官職で、それが体制が固まるにつれ、
宮中警護の軍の司令官になったようです。
それでも、周舎、周亜父、 王温舒・程不識のように、
匈奴や反乱軍討伐に出征することもありましたが。
前漢で中尉(執金吾)以外の職で、
特命を受けて北軍を指揮したのは、
上将軍呂産と衛将軍宋昌の二名のみですね。
>>525 >あと、周亜夫は呉楚七国の乱の時には、車騎将軍も兼ねておったと覚えておるが、車
>騎将軍の軍権は小さくなかったと思うのじゃが、どうじゃったかのう。
前漢の列将軍は、武帝期までは政情が不安定な時の重石役、
あるいは征伐を行う時の指揮官として、
臨時に任命されることが多く、常設の職ではなかったようです。
有名人で臨時に車騎将軍に任命された人物としては、
灌嬰・衛青・程不識がいます
周亜夫の車騎将軍任官もまた、
文帝死後の政情を安定させるための一時的な措置であったように思われます。
呉楚七国の乱の時は「亜夫以中尉為太尉,東撃呉楚」と記述されており、
車騎将軍は既に解かれ、中尉に戻っていたようです。
最近顔だせなくてすいません。東王公殿はじめまして、よろしくお願いします。
それにしても皆さんハイレベルな話題ですね。私程度ではついていけません…
537 :
東王公 ◆dNTCzk/Ufs :2005/04/22(金) 12:29:22
ほっほっほっ。破才さんや、よろしくのう。わしは大道に遊ぶ年寄りじゃ。礼儀など
無用じゃよ。
さてと、難しい話題が続いたからの。ちと、簡単な話題でも振ろうかの。
正規の官職としての中郎将は五官・左・右・南・北・虎賁・羽林の7つしか無いのじゃ。
その中でも、南・北の中郎将は黄巾の乱の時に新設されたものじゃよ。それまでは、5つ
ということじゃな。
五官中郎将は、50歳以上の郎官の長じゃから、中郎将の筆頭と言ってもよかろうの。
曹丕が五官中郎将になった時は副丞相と言う新設ポストも設けたから
属官が付けたそうですね。
司馬懿ら四友が太子中庶子になったのもこの時期ですな。
まあ司馬懿はこの後も軍司馬を歴任して曹丕が魏王・丞相になった際には
丞相長史になってます。
539 :
東王公 ◆dNTCzk/Ufs :2005/04/22(金) 21:20:12
ほっほっほっ。曹丕の場合は、五官中郎将=副丞相でよいはずじゃ。
五官中郎将自体は、二千石の官職じゃし、光禄勲配下という面も否定できぬしの。
曹丕の例は、特殊じゃと思うのじゃが、違うかの?
五官・左・右・南・北・虎賁・羽林の各中郎将は中央軍配下と言う訳ですな。
と言う事はその他の中郎将は(例、折衝中郎将など)雑号中郎将みたいな感じになるのですかな?
雑中郎将と言うんじゃがの。
雑中郎将と言うのは、便利なものでな。下位の列将軍でもじゃ、中郎将よりかは格上
じゃからの。配下の将に授けたんじゃ。
ほれ、諸葛亮も軍師中郎将じゃったろ?劉備が左将軍にしか過ぎんかったからのぅ。
中郎将しか授けれんかったんじゃよ。
>>523 未だ天下は定まらず、朝廷には公卿無く、
地方には牧守無く、軍には将軍無き有様にございます。
貴殿の隠逸の志を尊重したくは思いますが、
朝廷は貴殿の見識を欲しております。
野に遺賢なからしむが私の役目なれば、
今一度仕官についてお考えいただけませぬでしょうか。
安車蒲輪にて貴殿を迎え、
諌議大夫・太中大夫・中散大夫・議郎といった、
常務の無い顧問の官を用意する所存です。
>>537 些事ではございますが、董卓は東中郎将に就任しておりますな。
>>540 後漢の場合は、光禄勲に所属しないただの中郎将も多くおります。
しばし、皇帝の命を受け、征伐の任にあたっております。
中郎将の職権は非常に重く、前漢の雑号将軍に匹敵します。
中には来歙のように、将軍の上位にあって、
諸軍を指揮した者さえおりました。
後漢は中期以降、滅多に度遼将軍以外の雑号将軍を置かず、
中郎将を征伐の任にあてることが多くありましたので、
無号の中郎将は極めて重い職務でした。
雑号中郎将が増え、中郎将の職権が軽くなるのは、
後漢末の戦乱の世になってからのこと。
朝廷の置いた正式の官職では無く、
群雄が中郎将を任命するようになってからですな。
>>541 雑中郎将が増えたのは、
後漢の群雄がいたずらに中郎将や将軍を任命したからですな。
後漢本来の制度ではございませぬ。
戦乱の世が続くと、軍職が乱発されるもの。
左将軍や州牧が中郎将を任命するなど、
けしからぬことですな。
ふうむ…。
許柔さんや、この年寄り程度の知識がそんなに役にたつものかのう。
まあ、許柔さんにそこまで腰を低くされて頼まれては、否とは言えまいて。
「礼を尽くされて応えずは、これ非礼」とも言えるかもしれぬの。
まあ、諫議大夫か太中大夫、光禄大夫なら、受けようかの。
ただ、わしは大道に遊ぶことが、幾星霜にも及んでおる。いつ、官職を捨てるかわか
らぬぞ。大道を棄てる訳にもいくまいにのう。
まあ、善哉、善哉。ほっほっほっ…。
世界史板などに出向いて在野の賢人を探すのもよろしいかもしれません。
546 :
家事 ◆sT6JFpH5qk :2005/04/23(土) 20:22:09
家事にございますwwwwwwwwwwwwwwwwwww
袁術シリーズの更新です。一週間ぶりです。
反袁術包囲網成る!
袁術は状況打開の為に張勲を主将とする軍を徐州に派遣するも敗北する。
このままではジリ貧・・・そこで陳国と連絡を取る。
陳国・・・黄巾の侵入を許さなかった数少ない郡国の一つ。
その地の王は劉寵。弩の名手であり数千の強弩を保有していた。
黄巾を防ぎきった為、各地から難民が押し寄せて来たと言う。
反董卓連合が挙兵した際には国相の駱俊の補佐を受け「輔漢大将軍」と称する。
漢室を思う劉寵が反逆袁術に協力するはずもない。
しかし袁術は迂闊に手を出せなかった。陳国の軍備は相当だったのである。
袁術は兵を使わずに陳を抑えた。暗殺である。
凄いぞ劉寵!そう言えば彼に曹操の懐柔の手は伸びていなかったのかな?
続き
袁術軍北上の報を聞いた曹操は自ら出陣する。
(ここ一番に戦には必ず自身で赴くのが曹操らしさと言うべきか)
慌てたのは袁術。橋蕤・李豊・梁綱・楽就に任せて淮南に逃げる。
(本来の袁術北上の目的は陳国とその周辺の征圧か?それにしても袁術は臨機応変な
用兵が出来ない)
勿論、総大将の居ない戦ほど士気の上がらない戦は無い。
四将軍は討たれ袁術軍は事実上の壊滅。覇権争いからも脱落する。
進退窮まり袁紹の元に向おうとするも曹操から派遣された劉備・朱霊が立ちはだかり
199年4月に憤死する。
袁術シリーズ完結です。長文駄文スマソ
東王公 ◆dNTCzk/Ufs殿
ネタ振り、議論の功により、貴殿を辟召いたします。
諌議大夫をお願いします。
顧問として、陛下を輔弼くださいませ。
>>548 >反董卓連合挙兵時の陳国。
反董島連合挙兵の時の陳国の相は、許瑒ですな。
予州刺史孔伷と結託していたそうです。
劉寵が連合に参加したのも、
おそらくは孔伷・許瑒の動きに連動したものでしょう。
董卓は配下の胡軫を陳国太守に任命しておりますので、
おそらく劉寵が挙兵した際に、陳王の位を剥奪して陳国を廃して郡と成し、
合わせて許瑒を解任したのでしょう。
結局、胡軫の遠征軍は孫堅に敗れ、陳においては劉寵・許瑒の実効支配が続き、
劉寵は陳王を称し続けたわけですが。
>曹操との関係
劉寵・駱俊が殺害される前に、曹操は東方の群雄に官位をバラまき、
袁術包囲網を結成していますが、劉寵は参加していなかったと思われます。
劉寵が曹操と結んでいたら、袁術が兵糧提供を求めようとは考えないでしょうから。
>>549 袁術の用兵は、それほど捨てたものでも無いと思いますよ。
南陽を失い、曹操に大敗し、滅亡の危機にあったにも関わらず、
敗残兵を率いて、反旗を翻した揚州刺史陳瑀、
袁紹の任命した九江太守周昴を次々と駆逐して、
淮南を手中に収めています。
この作戦を指揮したのが袁術だとしたら、大した用兵手腕です。
もしかしたら、別の将軍が指揮したのかもしれませんが。
(淮南を袁術が手に入れてから、張勲・橋蕤が大将に任じられています。
この二人が淮南平定を指揮し、その功績によって大将となった可能性も考えられます)
554 :
許柔@丞相・録尚書事・都督中外諸軍事 ◆XAqbn/bVNM :2005/04/25(月) 04:57:11
二人と東王公殿に唯 感謝やな
556 :
東王公@諫議大夫 ◆dNTCzk/Ufs :2005/04/25(月) 12:38:46
諫議大夫として招かれたわい。まあ、善哉、善哉。
口煩い年寄りじゃが、暫く、腰を落ち着かせていただこうかの。
じゃが、いつ官職を捨てて、大道に帰るかわからんぞ。大道に遊ぶ者の悪い癖じゃて。
ほっほっほっ…。
さて、少しネタを出そうかの。
四征や四鎮も本来は、雑号将軍じゃ。正規の将軍は、大・驃騎・車騎・衛・前・後・左・
右・牙門・偏の将軍ぐらいのものじゃよ。
ましてや、大将軍は、よほどの事が起こらぬ限り置かれることは無いものじゃった。
実際、平時に将軍など、有っても無くても構わぬものかもしれぬがの。「兵は天下の大事。
軽んずべからず。」正に、箴言じゃ。
さて、官位を貰いにきたぞ
>>556 今後も宜しくです。
>正規の将軍は、大・驃騎・車騎・衛・前・後・左・
>右・牙門・偏の将軍ぐらいのものじゃよ。
我ら官位スレも最低限これらの将軍職を埋めたいですね。
疑問書き込んでも官位もらえるつーコトらしいので
官位と疑問解消をあわせて一つ。
三国志の時代(180年ごろ〜280年ごろ)の海南島はどんな勢力が支配してたんでしょうか?
知ってる方宜しくおねがいします
>>559 趙休と申します。宜しく。
いきなり難しい質問をどうも。残念ながら自分は分かりません(泣
現在の台湾は夷州と呼ばれ、孫権が将を派遣したという記録が残っていますが。
海南島ですか・・・交州所属になると思うのですが、交州自体の人口も
少なかったから海南島もあまり多くの人数は居ないと推測出来ますが。
発言数や出仕数も考慮したうえで任官させて頂きます。
>>560 趙休殿、御対応どうもです。
私が知っている範囲では秦時代に象郡に配属、前漢で儋耳、珠崖に分割された後に合併して朱廬県に
その後は六朝時代らしく三国志の時代はまったくわかりません。
広州の人口は『後漢書』郡国志によると111万ほど。
広州内の各郡では南海及び蒼梧が10万以上50万以下、合浦が1万以上10万以下。鬱林と交趾は不明です。
>>556 後漢時代は、雑号将軍ながら、
度遼将軍のみは、ほぼ常設の役職でしたね。
後漢の政治が弛み始めてから、
大将軍がほぼ常設状態になったのは、皮肉な話です。
本来、常設の高位の将軍は左右前後の四方将軍ぐらいのものなのですが。
>>559 前漢の時代に珠崖・儋耳の二郡が設置されましたが、後に放棄されました。
呉は海南島を平定し、再び珠崖郡を置いています。
>>562 許柔殿、返信どうもです。
呉が平定するまでは部族で分割統治でもおこなってたんでしょうか・・・
>>562 姜族の叛乱が頻発した後漢でいえば、護羌校尉や征西将軍も常設に近い
感じがします。
それに後漢に限った事ではないと思うのですが、驃騎将軍と較べると車騎
将軍がやたらと多い様にも感じますね。
565 :
東王公@諫議大夫 ◆dNTCzk/Ufs :2005/04/25(月) 23:57:36
流石は許柔さんじゃ。よくご存知じゃの。
光禄勲配下の五官・東・西・南・北・虎賁・羽林の各中郎将が、天子の親衛隊とする
ならばの、前後左右の将軍は、近衛兵の指揮官というものじゃった。
天子五軍と申しての、前後左右の将軍指揮の兵に、丞相軍を足すのじゃ。
しかしじゃ、実際に、五軍総てを出陣した令はそうなかったと思うんじゃがの。
>>562 記録が無いので何とも言いがたいのですが、
反乱が多かったそうなので、
原住部族の力が強かったのでしょう。
>>564 護羌校尉は、もともと常設の官職ですね。
黄巾の乱以前に征西将軍に就任した人物は、
行征西将軍事を含めても六名しかいません。
対羌戦の指揮官は中郎将が多いですね。
前漢後漢を通じて、車騎将軍が驃騎将軍より格段に多いのは御指摘の通りです。
理由は良く分かりません。
皆様お久しぶりです。超核です。
久しぶりに来るとネタがないものですね。
>>565 後漢において、前後左右の将軍は、
将軍と言うよりは大臣としての性格が強く、征伐の任に就くことは少なかったようです。
実際に征伐に赴くのは中郎将、それに次ぐのが四方将軍以外の将軍でした。
前後左右の軍が総動員されたことは、ほとんど無いように思います。
国家を挙げて大軍を催す際には、大将軍・驃騎将軍・車騎将軍などが指揮を執り、
将軍や中郎将などを副とすることが多かったようです。
おそらくは将軍や中郎将の手兵に、光禄勲や衛尉の兵、
屯騎・越騎・歩兵・長水・射声の五校尉の兵などを加え、
さらに州郡から募兵して、軍を編成したものと思われます。
ご無沙汰しました。
東王公殿も含めて、盛り上がってて良い雰囲気ですね。
私もネタ振りしよかなっと。
超核殿、難しく考えないでいきませう。
トリップ変更しました。
質問です。
当時の世界は西にローマがありますが、三国との交流はどうだったのでしょうか?
571 :
東王公@諫議大夫 ◆dNTCzk/Ufs :2005/04/26(火) 12:04:10
ほっほっほっ…。許柔さんでも分からぬことがあるとはの。
車騎将軍は、本来は天子直属の戦車隊の指揮官じゃ。驃騎将軍は、騎兵隊の指揮官じゃよ。
じゃがの、一天万乗の君と申すようにじゃ、戦車隊の指揮官である、車騎将軍の方が
人気があったのではなかろうかの。
実際にじゃ、平地ではの、騎兵よりもじゃ、戦車の方が強かったという例も有るのじゃよ。
なんか、どいつも高官の奴らは宦官に思える書き込みが多いな
573 :
東王公@諫議大夫 ◆dNTCzk/Ufs :2005/04/26(火) 12:53:43
ほっほっほっ…。
朱嵩さんに、超核さんや、よろしくのう。
わしは、本来は大道に遊ぶ年寄りじゃ。礼儀など無用にお願いしたいのう。
おお、そうじゃった。許柔さんや、済まんがの、杖をお許し願えるよう、上奏して
下さらんかの?わしも、もう年じゃて、足腰が辛くてのう。
>>570 後漢末期の166年に大秦国の安敦の使者が洛陽を訪れていますね。
魏ではわかりませんが、直接交渉はなくてもクシャーナ朝を通じての交流はあったのでは。
宮廷内に懐雄園を造営したよ
過去ログを見て意見等がありましたら懐雄園にご参加下さい。
さて質問させていただきましたゆえ官位を頂きたい。
勾汪伯 ◆DVtpsXO9bo殿。
武威郡の郡司馬をお願いします。
貴殿の官位は武威郡司馬となります。
>>580 今後の頑張り次第では昇進の見込みもあるので期待してますよ。
日本は遣隋使、遣唐使などで中国の文化、制度を摂取しまくったが
なぜ宦官制はとりいれなかったんですか?
しゃ!!官位!!!
>>574 そうですね。その前に班超が西域都護になり甘英を大秦国(ローマ)に派遣しています(到達できませんでしたが)
記述は確認しておりませんが関係はあったと思います。
>>582 後宮(大奥)の規模も中国と違うし女官が運営するに十分であり宦官と言う存在は
必要が無い訳です。
>>570 三国とも正式な国交は無かったようですが、
魏略にローマと思われる国の記述がありますので、
魏と国交のあったクシャン朝や、西域からの旅人を通じて、
西方の情報が入ってくることはあったかもしれません。
>>582 日本の事は、日本史板にてお伺いしてはいかがでしょうか?
単純に悪い制度は使わないとかいう理由じゃないの?
>>586 じゃあ、科挙は?国籍、貧富、身分などに関係なくうけられるというのは
優秀な人物の登用が比較的たやすく出来る、きわめて合理的な制度だが?
なぜ、日本は取り入れない?
>>587 平安のあの時代に日本の地方にどれだけ官になれるような人間がいたんだ?
少なくとも文字がかけて文字が読める人間
>>588 しかし、この制度を取り入れることで、家柄で高官になれたボンクラを
ふるいにかける事も出来る。
逆に、家柄の良くない貴族からの人材発掘が容易。
貧乏貴族はいくらいるかなぁ?
なるほど
三国ともに正式には交流してないけど情報ぐらいはあったんですね。
勉強になります。
>>589 貧乏貴族でも試験制度があるから登れたはずだ。
国家試験で階級を上げて階級にあった仕事に就けたから。
ただ貧乏貴族や一般民衆と上位貴族の違いは父親の位に応じて元服のときの位が換わる程度。
試験のスタートラインが変わる程度だったはず。
むしろ貴族じゃなくても制度があったから登れたと思った。
>>591 あ、そうなのか。俺はてっきり科挙を導入して良い人材が流入する事によって
貴族政治が崩壊してしまうのを恐れたんかと思った。
さて、官位くださいませ。
私も可児殿に負けず立身を目指して一つ。
孫堅はオウ星が長沙で反乱を起こしたときこれを討伐して烏程侯に封ぜられてますが、父の死後に孫策がその爵位を次ぐ事は出来なかったのでしょうか?
四代和帝時代にトウ氏を追放した宦官鄭衆はこの功で侯に封ぜられ養子に爵位を継がせることを認められています。
宦官ではない場合は一代のみなのでしょうか?
594 :
東王公@諫議大夫 ◆dNTCzk/Ufs :2005/04/27(水) 21:00:31
勾汪伯さんや、宦官あるか否かは、襲爵には関係無いはずじゃ。
襲爵を認めるか否かは、朝廷にあるからの。
それに、孫策から、襲爵を辞退したのかもしれぬしの。
はてさて、正史はどうじゃったかのう…。
>>593 魏書でこうなってるみたいです。孫策は烏程侯の爵位を嗣ぐべきであったが、弟孫匡に譲り与えたと。
>>593 本来は孫堅の死後、爵位は孫策に譲られるはずだが孫策は辞退して
弟の孫匡に譲っています。
ちなみに孫匡は孝廉と茂才に推挙されるも官に就かぬうちに亡くなってます。
また、彼の妻は曹操の縁者です。
>>594 東王公殿返信どうもです。
朝廷が爵位の継承を決めていたんですが、私は普通に爵位を与えられれば子々孫々に受け継げれるものと
>>595-596 朱嵩殿、趙休殿返信どうもです。
手元の資料だけじゃなくもっと広範囲に調べるべきでしたね。
お手数かけました。
孫匡て爵位を持っていたのですね・・・
あまりよく三国志も三国志演義も知らないので名前くらいしか知らなかったので驚きました。
599 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/27(水) 22:25:10
官位は相続しない
爵位は長子相続
これが大原則
あの時代はどちらの原則も怪しくなっていたようだが、それでもリュウキやエンタンは父の爵位を弟から渡されていたはず
これは長子相続だからこそ
実質的な支配権は継承できなくても、爵位は相続するから
>>599 袁尚が大将軍・冀州牧になった時も朝廷からの正式な官位じゃないね。
なにせ朝廷は曹操が握ってるのだから。冀州牧も建安9年の時点で曹操が領している。
>>598 書店で見てみますね。
私は図説や三国演技などしか読んだことがないです
このスレに初めて足を踏み入れる魏興と申しまする。何卒仕官をお許し下さいますようお願い申し上げます。
さて、
曹操は本場中国では悪役というイメージが定着しておりますが、
拙者は無知なる故、民衆の蜀贔屓と徐州大虐殺以外にそのイメージを決定づけた要因を思いつきませぬ。
誰か他の要因を教えて下さる方は居りませぬか。
>>602 趙休です。宜しく。
三国志演義では悪役っぷりを発揮している曹操だが元々は英雄視されていた。
ところがこの英雄論が覆ったのは南宋時代。宋は華北を奪われ華南への移動を
余儀なくされた。当時出現した朱子学によると劉備こそが漢の正式な後継者で
曹操は献帝から帝位を奪った簒奪者と言う事になるらしい。
三国志演義もこの影響を受けている。そもそも華北を奪ったのは異民族。
それらを憎き魏であるとすれば自分達は南に逃げた蜀に喩え、曹操を悪役視した。
>>602 中国の大衆に広く読まれてる演義が劉備やらを持ち上げるため
曹操を極悪人にしたのが頭に刷り込まれてるからでは?
>>602 武威郡司馬を務めている勾汪伯です。
以後お見知りおきを。
曹操の悪役イメージは中国大衆文化である講談とその流れを持つ三国演技の影響が大きいと思います。
灯台に語られるようになった三国時代の群雄話の講談は宋代に都市の庶民文化が発達とともに大人気の出し物になりました。
庶民大衆の弱者に対する同情と強者に対する反発を利用して講談の語り部達は劉備をさらに善良に曹操をさらに極悪に描きました。
そして宋代の三国時代の群雄講談をまとめて作られたのは三国演技(三国志演義)です
そしてこの本もやっぱり劉備を善人に曹操を悪役に描いているところがあって、それが大衆の歴史的イメージに埋め込まれていったようです
>>602 なるほど、朱子学の影響というわけですか。
羅貫中が生きた時代の候補とされる元末期の歴史には、演義の設定と類似する点が多々あるという話を聞いたことがある故、
その時代の何かが影響したのだと思っておりました。
御返答有難く存じます。
関係ある時代だけでなく、中国史全体を見据えないと三国志を語るのは難しいものですな。
いや〜、中国人って今も昔もかわらんな〜。
良くも悪くも単純というか・・・。
しょうがないって所もあるが・・。
書いている間にまた書き込みがあったようで。
>>604-605 いや、三国志演義がなぜ曹操を悪役に仕立て上げたのかという話題だったのですが・・・
質問が少々わかりにくかったかもしれませぬ。
レスアンカーを間違えました。
>>602ではなく
>>603です
善玉劉備が漢室復興を唱える→漢室を崩壊させたのは誰だ?→魏だ(悪玉曹操)
と言う事になる。どうでもいい呉は(呉ファンの人はスミマセン)
道化師みたいな感じで周瑜や魯粛などは見事に踊らされている存在である。
周輸の天下二分の計ってなんですか?
演義ではどうしても呉の存在が軽んじられる
世間の呉ファンのほとんどが無双厨だという罠
徐州大虐殺はいくら敵討ちといっても少々やりすぎましたね
孔明とその家族が逃げたのもたしかその時でしたっけ?
>>610 天下三分の計を劉備無しで行った場合だったかと
>>610 孫静の孫瑜と共に益州に上り攻略した後、馬超らと同盟を結び
周瑜は荊州、孫権が揚州、孫瑜が益州、馬超が涼州からそれぞれ同時に侵攻すれば
曹操を打ち倒す事が出来るってな訳よ。
>>611 無双は詳しく知らないがおそらく肥の謀略だと思われ
親の敵討ちで攻めたが基盤の兗州豪族の信頼を失ったのが
失敗ですな。
>>606 私もよく分からないのであれなんですが、三国志を捉えるだけならば正史や当時かかれた書物だけで十分かと。
演義に関しては講談本を元にして書かれた歴史小説なのであの物語から三国志の時代を捉えるのは難しいと思います。
勿論これは歴史においてなので歴史も物語もの場合は関係ないことです。
>>608 それは単純に言ってしまえば『どうやったら人によく受けるか?』という商業的な要素もあるかと思います。
大きな影響は朱子学の精神と民衆の感情的なものだと思います。
ただ、演義であのように書かれたのは演義が講談本を元にしている事につながり、講談本は語り部達が民衆の反響にあわせて作りましたから根本には民衆の同情と反発が大きかったと思います。
学問に精通しているわけじゃないので本や人からの受け売りで申し訳御座いません。
614 :
455:2005/04/28(木) 01:37:21
>>613 今にも残る、講釈師の用いる台本は、一部欠落していることが多いんです。
それは、ここ一番のキメのポイントで講釈師のアドリブを入れるためです。
これによって、時代や地域などによって、または一人一人の講釈師の
講談の腕前によって、いろんな場面がちょっとずつ変化するわけです。
ここに勧善懲悪の物語の構造が盛り込まれると、劉備=善、曹操=悪の
図式が時代が下るにつれエスカレートしていきます。
615 :
455:2005/04/28(木) 01:41:21
>>548 どうでもいいんですが、袁術はえんすいと読む、とか。
わたくしの愚問に答えていただき、ありがとうございます。
しかし、もったいなかったですな〜。呉は。
もし、孫堅が荊州を奪っていたら、そこを根拠地に長安を攻撃し献帝を荊州に
奉じて、孫氏の天下に出来たかもしれないのに。
>>611 たしか、孔明は徐州の陽都県出身でして徐州大虐殺の際、叔父の諸葛玄が
劉表と旧知の間柄ということで、荊州につれられていったのです。
>>612 一度留守にしたエン州を呂布に強奪されましたしね。
私憤で兵を動かしてはいけないということですか。
しかしこういった窮地に陥ることで曹操の才能が発揮され、その才能を成長させていったんだな、と私は思います。
>>602 魏興殿 朱嵩といいます。以後よろしくお願い致します。
早速の大活躍、ありがとうございます。
>>614 455殿 朱嵩といいます。以後よろしくお願い致します。
是非とも姓名を名乗ってください。ついでにトリップも。
619 :
東王公@諫議大夫 ◆dNTCzk/Ufs :2005/04/28(木) 11:42:35
魏興さんや、よろしくのう。本来は大道に遊ぶ年寄りじゃて、礼儀は無用じゃよ。
さて、正史の三国志は、魏を正統としておるが、その根拠はじゃ、漢より形式だけとはいえ、
禅譲を受けておるからじゃ。
じゃが、資治通鑑ではじゃ、蜀漢を正統としておるのじゃよ。というのもじゃ、魏は漢より
帝位を簒奪したとしての、漢の帝位を継いだのはじゃ、劉姓でもある、蜀漢であるとしたの
じゃよ。
ただ、気をつけねばならぬのはじゃ、資治通鑑は宋代に書かれたものじゃ。かなり、散史や
偽史の影響も受けておるやもしれぬのじゃ。一概には言えぬ点もあろうて。
人が増えて盛り上がってきましたね。
皆さんよろしくお願いします
曹操といえば類希なる詩才も忘れるわけにはいきません。
李白や杜甫がいなかったらなぁ…
>>621 確かに曹操は詩才をも兼ね備えていますね。
しかし李白や杜甫と比肩するなら曹植でしょう。彼らが世に出る前までは「詩聖」とされて敬られていましたからね。
曹植が居なかったら李白・杜甫は歴史上に登場しなかったとも言われるね。
鍾繇は書家としても有名らしいですね。知人の情報によると高校書道の教科書に
彼の文章が載ってるそうで。
曹植といえば、インドの声明(仏教の儀式)音楽仙梵を聞き、梵唄を創作したことでも有名みたいですね。
一説によれば東阿王であったころ、魚山という丘の上で、天上から響く音楽を聴き、
その節に模して讃歌を作成したのが、中国声明の始めであるそうですね。
この梵唄は日本にも伝わり、今日各宗派に受け継がれているみたいですね。
訂正 声明(仏教の儀式音楽)
どっかの辞書では曹植は陳思王に封ぜられたとあったな。
三国志マニアから言わせて見れば「そうじゃなくて云々・・・それに『思』ってのは云々・・・」
と長々しい説明を付けてしまいそうです(笑
627 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/28(木) 17:51:56
月英と大喬と孫尚香の下痢を飲みたい私にも官位をお与えください
628 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/28(木) 17:56:38
爵位ごっことかガキ臭いことしか出来ない哀れな無双厨共、さっさと氏ねよ^^
私にも官位を〜〜
>>629 丞相が来るまでお待ち下さい。
それと可児坊と言う名を改めて頂きたい。
可児と言う名は官位スレの禁忌みたいなもんなので・・・
改名の件、ご協力お願いします。
631 :
下痢飲み百姓:2005/04/28(木) 20:06:06
わしにはくれんのか
632 :
VIP:2005/04/28(木) 20:15:37
とかやってみる
名を改めました。
>>633 ご苦労様です。丞相が参内するまでお待ち下さい。
今の内にネタを出して初任官を高くするのも一計ですよ。
それと、官位は官位スレのみで使用して下さい。
前の可児殿の一件で随分と揉めたので・・・
申し訳ありませぬ。本日は病篤く政務が執れませぬ。
人事の事は、明日行ないます。
>>634 わかりました。肝に銘じます。
>>635 くれぐれも、御身体を大切に。
後漢王朝の衰退の原因として、宦官の介入による度重なる政治抗争が考えられますが、
なぜに、宦官が表舞台にでれたのか疑問です。元々、後宮の管理が仕事の下級役人で
とても政務に口出しできるような立場でなさそうですが・・・。
>>636 皇帝としては外戚に権力を握られたままでは納得がいかない。
いざ、外戚打倒を図ったとしても身の回りの人材は外戚の息がかかった者のみ。
そこで雑用として働いている宦官に目をつけた訳。
宦官は皇帝の身の回りに仕える訳だから教養は有る。決して馬鹿ではない。
宦官は後宮の管理もするが皇帝の身の回りの世話もする訳ですよ。
638 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/29(金) 15:27:41
639 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/29(金) 15:28:49
カジ?
釣りか?
641 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/29(金) 15:32:06
かにかに
642 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/29(金) 15:33:14
643 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/29(金) 15:34:04
644 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/29(金) 15:34:55
>>637 その宦官が外戚にとってかわってしまうとは・・・
哀れなことよのう・・
646 :
比延坊 ◆ZnBI2EKkq. :2005/04/29(金) 17:58:57
おまんこ女学院
やっぱり可児じゃん
ちがいます!!無実ですよ!!
なんで、トリップが同一なんだ。おかしい‥‥
650 :
比延坊 ◆ZnBI2EKkq. :2005/04/29(金) 18:12:45
本当に許してください!
なんでもゆうこと聞きます!
助けて〜
こんな同時刻に狙ったように2人は存在するんですね
すごいすごい
>>650 自分で行なった事は自分でケジメをつけて下さい。
653 :
比延坊 ◆ZnBI2EKkq. :2005/04/29(金) 18:18:29
>>651 はあ?いみがわからないんのですがWWWWWWWWWWWWWWWwWwW
>>652 つい出来心で・・・
許してくださいよぉぉぉ
どうしたどうした難問に頭悩ませてんのかよてめえらーーーー!!!
悩んでる暇があるなら外でスポーツでもして汗を流せば解決だぜーーー!
それが出来ないならIPを曝せば疑いは晴れるぜーーーー!!
アタタタッタタタタタターーーー!!!アッファーー!!
IPいいな
俺が本物だぞ。トリップもかえたからな!!
657 :
比延坊 ◆13rGV2awTU :2005/04/29(金) 18:41:21
>>656 ホアチョーー!!
本物なら前のトリップを曝しやがれーーー!
アタタタッタタタタタターーーー!!!アッファーー!!
659 :
比延坊 ◆9k6eFTVtLI :2005/04/29(金) 18:42:57
前のトリップ:#a
ほらよ
660 :
比延坊 ◆TAeQUpEvuk :2005/04/29(金) 18:43:39
語りウザスwwwwwwwwww
比延坊#a
こんな感じ
662 :
比延坊 ◆m1xAmUSJxw :2005/04/29(金) 18:44:48
自演乙♪(*^ ・^)ノ⌒☆
663 :
比延坊 ◆fB/Hjo1GfM :2005/04/29(金) 18:45:26
あちゃー
664 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/29(金) 18:46:00
荒らすなよ比延坊一族は消えろよ
てすtだぜーーーーーーーー!
違ってたらただじゃおかねえぞてめえらーー!
これは可児坊の自業自得だな!!!!!!!!!
アタタタッタタタタタターーーー!!!アッファーー!!
もう可児の雰囲気がした時点で追い出せないと・・・
668 :
可児 ◆TSaTsYd1WQ :2005/04/29(金) 18:49:38
可児=比延坊死ね
670 :
可児 ◆YtJsigLgwU :2005/04/29(金) 19:02:59
お前ら全員死ね
キモいキモいキモいお前ら全員死ね
キモいキモいキモいお前ら全員死ね
キモいキモいキモいお前ら全員死ね
キモいキモいキモいお前ら全員死ね
キモいキモいキモい
少しでも可児と関わりのある人間を入れてしまったのが、
今回の荒れの原因だと思われます。
今後は、一度でも可児を名乗ったり口の端に上らせた人間は、
出入り金枝にするくらいの断固たる処置が必要と考えます。
× 出入り金枝
○ 出入り禁止
名をかえた。
賛成です
例え名前出してなくても書き込みに特徴あるので
わかりやすいですし。
675 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/29(金) 19:10:50
676 :
可児 ◆wrBmQBQMr6 :2005/04/29(金) 19:14:23
比延坊は俺じゃないよwwwwwwwwww
677 :
比延坊 ◆KFfv/O1KkY :2005/04/29(金) 19:20:11
可児ありがとーwwwwwwwwww
物凄い荒れようだな・・・取り合えず落ち着け。
無知ながらも、これまで必死に頑張ってきたのにこの仕打ちはひどいですよ。
なにとぞ、慈悲の手をーー。
680 :
可児 ◆9wtgiCjUe2 :2005/04/29(金) 19:26:20
>>679 仕打ちは何もしてませんよ。「自分でケジメをつけるように。」と促しただけです。
682 :
比延坊 ◆HV48Hu6tds :2005/04/29(金) 19:28:02
>>681 うざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざい
ってかみんな相手にすんなよ
684 :
可児 ◆vI.Fo9.6s6 :2005/04/29(金) 19:33:15
>>681 たしかに、私は可児坊と名乗っていた時期もありましたが、それは若気の至りというものです。
今では、反省しております。ケジメのつもりで名も改めました。どうか、お許しくださいませー。
686 :
新の比延坊 ◆sA94IqEheo :2005/04/29(金) 19:39:23
687 :
可児 ◆bOxUgVlxcc :2005/04/29(金) 19:41:56
688 :
可児坊 ◆0J9RzLshQw :2005/04/29(金) 19:44:58
うんうん
官位もってるからってうざいよね
俺にもくれってんだVIPにもう一回頼むか?
689 :
新可児 ◆pbkGrs2ryY :2005/04/29(金) 19:47:49
このスレの住人も名無し潜伏とか複数コテで自演してるのに僕だけ責めてもねwwwwwwwwww
趙休@◆mu1AAnbyqY殿
官を衛将軍に進め、司隷校尉を領することとし、持節の資格を加えます。
代わりに侍中の官を解きます。
新しい官爵は、持節・衛将軍・領司隷校尉・安陽郷侯となります。
衛将軍は三公に比すべき将軍職。
御史大夫・大将軍・驃騎将軍、車騎将軍が空席なれば、
貴殿は事実上の副丞相です。
いずれは「事実上」が取れ、
丞相、御史大夫、大司馬、大将軍のいずれかに至る日も参りましょう。
朝廷は貴殿に期待しております。
より一層奮励なさいませ。
>>688 つ[大逆将軍]
さて、宦官派が清流派(官僚派)を弾圧した例として「党錮の禁」というものがあるわけだが。
166、168年の2回、宦官派が行った。
儒学者、官僚などを終身禁錮、もしくは殺害
主な犠牲者:陳蕃、李贋
(広辞苑調べ)
この党錮の禁は後に解除されましたが、宦官が朝廷を牛耳っていた1つの証拠になるわけですな
宦官は大奥の雑務をしていたということで、太后からの支持も得ていたようです。
そのほかに蔡邕なども宦官に失脚させられ、放逐させられたらしいです
693 :
東王公@諫議大夫 ◆dNTCzk/Ufs :2005/04/29(金) 23:24:55
趙休さんや、持節都督衛将軍になられたのじゃな。大慶哉、大慶哉。
衛将軍も万石の官じゃ。よくよく、励まれるのか宜しかろうの。
真に、善哉、善哉。ほっほっほっ…。
>>693 東王公殿も諫議大夫としての活躍を期待しておりますぞ。
二度にわたる弾圧により、清流派の人士は野に下り立身出世を捨て名声を得る道を選んだ。
これが、いわゆる「名士」である。
しかしながら、この名士のなかにも「権道派」といわれる宦官や外戚でない有力者
と結びつく者もいた。
郭嘉、諸葛亮、張昭などがそれにあたる。
母国と同じ悲劇は繰り返さないでほしい…
>趙休殿
昇進おめでとうございます。益々のご活躍をお祈りしております。
>>695 何をしているんだ?
俺達は仲間じゃないか。
698 :
可児 ◆KAMIsCZBtU :2005/04/30(土) 06:48:57
破才◆PxPDOojA/w殿
官を揚武将軍に進め、監青徐諸軍事の資格を加えます。
新しい官爵は、揚武将軍・監青徐諸軍事となります。
今は東方に都督はおりませんので、貴殿が国家の東方の総司令官です。
功績を重ねれば、より高い将軍号を獲得し、
正規の都督に進み、節を帯びて諸軍に号令することとなりましょう。
貴殿の武勇と威厳に期待しております。
455殿……名乗られて参加されては。
参加者増えることは良いことじゃ
>>701 おお、陛下!今日もよい天気でございますね。
これからもさらなる発展を願います。
暑うなってきたが 励めよん
705 :
455:2005/04/30(土) 13:46:56
>>621-622 中国文学史上、曹操親子の名前ははずせない地位にあります。李白や杜甫など
唐代に活躍した詩人の作り上げた唐詩、この原型をたどれば魏晋にたどり着きます。
その中心が三曹七子です。
曹操・曹丕・曹植 孔融・陳琳・王粲・徐幹・阮ウ・応トウ・劉
彼らの事跡については、「三曹七子」で検索すればすぐに見つかります。
>>623 鍾繇の字が、現代の楷書の大本になります。つまり、日本でも中国でも、
普通に書かれている文字、ここにこうして書き込まれている文字も彼の功績の
上に成り立っているものです。
他にも、華侘など、この時代には政治や戦争以外にも事跡によって名前を残す人物は多いですね。
ちなみに、今では「侘」という字を辞書で引くと、「華侘の名前専用」という意味あいでしか用いられません。
(元来は、背負うという意味のあった文字です)
>>636 宦官は皇帝にしか出入りできない後宮に出入りすることができたので、やりようによっては
皇帝の意思の操作までできたわけです。そのへんは劉禅と黄皓の関係をみると判りやすい
かもしれません。
>>700 今はご辞退させていただく所存。まことに申し訳ない。
706 :
455:2005/04/30(土) 14:18:09
ログ読み返して。
>>104 妃と飛、中国語での読みが全く一緒のためにできる駄じゃれのようなものです。
>>109 三国志平話にあるエピソードですが、羅貫中は大げさすぎるエピソードは拾いません
でした。ゆえに、この場面は演義にはありません。
長坂の張飛の活躍は、実際にも凄かったのでしょうが、それに更にどんどんと
張飛の「凄さ」が付加・上乗せされたのでしょうね。
>>121 白髪三千丈
これは音韻の都合もあって、ここに入れることのできる漢数字が「三」「千」しかあてはまらなかった
ために出来た詩歌です。
いや、もしかしたら、万でも億でも入れたかったのかもしれませんが。
>>706 >白髪三千丈
赤兎馬は一日で千里を思い出した。
どうでもいい話だけど本当に1日で1000里(420km)は走れるものでしょうか?
>>707 魏興殿
後漢尺で一里は約414メートル、魏尺で約434メートルみたいですね。
時速40キロ×10時間 余程タフさがないと無理ですね。
現代の競走馬で時速60キロぐらいですか。
破才殿揚武将軍・監青徐諸軍事ご就任おめでとうございます。
魏興殿も任官まもなくですね。
勾汪伯もご昇進されそうですし。皆で盛り上げていきましょう。
惜しいのは455殿ですね……
赤兎がどのぐらいで走れたのかが疑問
時速50キロなら8時間程度?
そうしたら休憩が16時間
行けそうな気もするけど・・・
>>710 赤兎が物凄いのは演義の創作だっけ?
まあ兎に角、赤兎は凄い名馬らしいが、おそらく西域の馬じゃないか。
騎馬でも軽騎と重騎では随分と違うよ。特に鉄騎と言われる騎馬隊は
馬自体も武装してるから相当な重さだろう。
お、馬の話題ですか。汗血馬(大宛馬)は読んで字のごとく血の様な汗を流すと言いますがどんなものだったんですかね?本当に汗が赤かったのでしょうか?
この時代の名馬と呼ばれる種類の馬は現代にもいるんですかね?
汗血馬の赤い汗は寄生虫説があるらしいです。
ちなみに大宛はフェルガナと読むらしいです
馬といえばアラブ種は大型で戦闘向けであったそうですが、汗血馬もアラブ種だったんでしょうかね?
朱嵩 ◆k88syk7fg2殿
将軍号を平北将軍に進め、仮節・都督河北諸軍事の資格を加えます。
幽州刺史は解きます。
新しい官爵は、仮節・平北将軍・都督河北諸軍事となります。
いずれは四方や四鎮四征をお願いすることになるでしょう。
よろしくお願いします。
魏興 ◆gRK4xan14w殿
貴殿を孝廉に推挙し、羽林郎といたします。
貴殿の新しい官職は羽林郎となります。
精力的な活動御苦労様です。
三公九卿や大将軍・列将軍になる日を夢見て、
精進なさいませ。
ははっ
羽林郎の大役、謹んでお受け致します。
魏興さんや、よかったのう。
正に、孝廉に相応しい官職じゃ。帝の警護に励んでくだされよ。
そしてじゃ、この年寄りをとっとと超えてしまうことじゃて。お前さんなら、できる
はずじゃ。ほっほっほっ…。
719 :
455:2005/05/01(日) 01:35:49
馬はおそらく、今あるアラブ種の大型の馬ではなく、もっとこう、ちっこい馬だったと
言われてますね。ポニー程度と思ってもいいくらいです。
日本にも道産子と呼ばれる小型の足の太い北海道原産の馬がいますが、だいたい
ああいったイメージでいいんじゃないでしょうか。
この道産子、短距離の瞬発力主体の走り方は苦手、むしろ長距離や重い荷物を
背負ったり引っ張ったりが得意といわれています。
また、そのような小さな馬ですから、曲がるときに足が届いてしまうことこが往々にして
ありがちです。ので、鐙は三国志の時代にはさほど必要としません。これが、
この当時「鐙はまだ開発されていなかった」の根拠ともなるようです。
かといって。現代の馬のような大きな見た目にも美しい馬に乗っている絵でこそ
かっこいいと思いますし、なんでもかんでも当時のままに忠実に、というのが
すべて正しいとも思えませんね(笑)
720 :
455:2005/05/01(日) 01:39:08
>>709 かといって、全くこのスレに興味がないわけでもありません。
今はまだお力になれません。
>>720 貴殿のような賢人が官位を未だ持っていないのは、残念なことです。
正式な官位をお受けになり、朝廷のために力添えしていただけないでしょうか?
孝廉・茂才への推挙の上、県令かそれに比すべき中央の官職を用意して、
お待ちしております。
帝の警護・・・ということはもしも帝に万一の事があったら(((( ゚Д゚)))ガクガクブルブル
重大な任務だ……
>>719 汗血馬は当時の中国の馬とは違う品種なのでは?
小型で足が太い当時の馬の中に大型の馬がいたらそれだけで名馬になる罠
455殿はまさに在野の臥せる龍ですな
いやはや世の中には権力に無欲な人もいるものです
中国の騎兵っていうのは馬に乗ったまま戦ったんですか?我が国の騎兵はあんまり乗ったまま戦うっていうのはなかったみたいですが
>>455 ナポレオーネ・ボナパルテのアルプス越えはロバで行われてますが、絵画では白馬に…。
>>723 異民族(匈奴・鮮卑)なんかは専ら騎兵による戦闘だと思ってみる。
第一項 日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる
戦争と武力による威嚇、または武力の行使は、国際紛争を解決する手段として
は永久にこれを放棄する。
第二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交
戦権はこれを認めない。
憲法九条ですかな。
今回の憲法改正は九条の改正にある。らしいですね。
雑談スマソ
第二項が問題だとおもわれ
その文面だと防衛戦争も認められてないから。
雑談スマソ
729 :
455:2005/05/02(月) 02:21:19
では、馬の話に無理やりもどしてみます。
前漢の西域攻略の目的は交易の実権を掌握することですが、その交易品の中には
馬が含まれていました。馬超のいた西涼や姜維の出身地天水などはその経略・交易の
拠点として漢代に栄えた都市です。
そして、西域から流入した汗血馬が従来の中国にあった馬よりも大きくて珍重されたので
>>722羽林郎殿の通り別格扱いされたのでしょう。
また。
紀元前、春秋戦国時代は戦車を用いていました。馬車みたいな感じのものを想像してください。
この時代は、国の大きさを「千乗」とか「百乗」とか表現していました。戦車がどれくらい用意できるか
=国力です。「千乗」で戦車1000台の国力を誇る、という意味です。で、この戦車も三国志では
ほとんど見かけません。つまり、漢帝国の統治の長い400年間の間に、馬の扱いと軍の組織の
仕方が変化しています。
730 :
455:2005/05/02(月) 02:33:01
ちなみに、西安から天水までは道程およそ300キロ。そこからさらに西涼(今の蘭州)まで
およそ350キロ。あわせておよそ750キロ。(今の鉄道の道程です)
東京から岡山か広島くらいまで行けるんでしょうか、この距離。
これだけの距離でしかも道は今ほどよくない、食品の保存は今ほど出来ない、となれば
馬を運ぶだけでもたいへんなことです。
董卓も馬超も大変だったと思います。
731 :
455:2005/05/02(月) 02:35:24
なんと計算が間違っている!見上げたバカをやらかしました。
蘭州〜〜天水〜〜西安
350 300 合計650キロ
>>732 朱嵩殿、貴殿は平北将軍・都督河北諸軍事でしょ。
官位が以前のままですぞ。
「戦車」と言えば顔良が白馬を攻めた時は戦車に乗っていたような・・・
当時の戦車は二輪車だったのかな?
関羽が一気に顔良の所まで突撃出来たのは後方から突っ込んだからかな?
勾汪伯 ◆DVtpsXO9bo殿
貴殿の官を督軍校尉に進めます。
新しい官位は督軍校尉となります。
督軍とは、諸軍を監督するということです。
位階は低いですが、重要な職務です。
よろしくお願いいたします。
>>732 >1,000キロの道のりを7日で越えたという記録があり
夏侯淵の2倍速いw
>>733 >>729殿の言うとおりヒッタイト人とかの乗っていた奴がイメージとしては近いんじゃない?
でも三国時代にはほとんど廃れていたかも。
おらーー===−−−!!! 俺様参上!!!!!
見知っとけやぁぁぁ!!!!!!
魏興@羽林郎のように頭の悪い人間にまで官位を与えるから国が廃れる
>>733 これは失礼しました。名乗りはこうです。
>>737 すぐ上に可児の書き込みがあるから説得力がないです
前漢時代の主な武器は弩や鉄製の矛、戟、剣であり、戦車などはほとんど廃れていたようです。
三国時代になると戦車は姿を消し、軍の戦力は歩兵、騎兵、弩兵、水軍に区分できます。
軍団構成は国によって違いますが、恐らく中原では戦力の半分近くが騎兵と弩兵だったのではないでしょうか。
また、この時代には武器も剣から刀へ移行していったようです。
>>739 いやいや、指揮官レベルでは戦車は使ってたのかなと思ってな。
奇襲にしても一気に本陣まで到達出来たのかな?
白馬へは上陸→包囲の順に移行する訳だが白馬城の劉延は城前で応戦したのかな。
>>739に間違いがありましたのでここに訂正を致します。
前漢時代の→後漢時代の
>顔良が戦車
そういう記述はありましたっけ?
吉川英治には無かったような気がいたしますが・・・
>>741 横山三国志(漫画ですが…)や陳舜臣の諸葛孔明にも関羽が戦車に乗った顔良を〜という記述がありました。
戦力というよりは指揮車って感じだったのかな。
>>734 丞相様。粉骨の精神でその任当たらせて頂きます。
三国志の頃では
戦車の末期の時期ですね。
騎馬や歩兵中心になっており、武器も剣より刀に。
剣→刀の流れは新のころより陰りだし後漢期で徐々に廃れていきました。
刀は前漢期より徐々に拡大していき三国時代では主流に。
GW最終日なのでネタでも出そうかな。
歩兵校尉のように校尉と言うの字の「尉」は指揮官を示す。
ちなみに「校」は軍隊の編成単位である。
漢の武帝が長安の防衛軍を拡大して八校
(中塁・屯騎・歩兵・越騎・長水・胡騎・射声・虎賁)
を設置したのに始まる。後漢では虎賁・中塁・胡騎を除き五校尉となった。
人員は七百人から千二百人程度。
また校尉は辺境の少数民族の地域にも派遣される長官の呼称となった。
衛将軍殿ネタ関連です。
後漢書 何進伝より、中平五年(188年)霊帝が置いた西園の八校尉。
小黄門 蹇碩 上軍校尉
虎賁中郎将 袁紹 中軍校尉
屯騎都尉 鮑鴻 下軍校尉
議郎 曹操 典軍校尉
趙融 助軍校尉
淳于瓊 佐軍校尉
他に左右の校尉あり
>>745 左右の校尉を含めて補足しておきます。
今までの正規軍は主に光禄勲・衛尉・執金吾・五営校尉である。
外征の際は、地方軍や傭兵も含めた混成部隊となる為、軍団の質が落ちるが
西園八校尉は常備軍として設置されたようだ。
財政は少府所属の中蔵府が担当していたようだ。だが経済力が乏しくなった
後漢末では常設軍の費用を賄えない出来ない部分もあった為、
売官で儲けた資金を回していたらしい。
上軍校尉・・・小黄門の蹇碩 何進に殺される。
中軍校尉・・・虎賁中郎将の袁紹 宦官排除の際、司隷校尉に昇進
下軍校尉・・・屯騎校尉の鮑鴻 右扶風に在任時、涼州反乱軍を撃退する。
典軍校尉・・・議郎の曹操 董卓から驍騎将軍(校尉?)に任命される。
助軍左校尉・・・議郎の趙融 後に光禄大夫となる。
助軍右校尉・・・議郎の馮芳
左校尉・・・諫議大夫の夏牟
右校尉・・・諫議大夫の淳于瓊 官渡で討死
>>744 中央の校尉は今で言うと、近衛大隊長と言ったところですね。
辺境の校尉は連隊長から旅団長と言ったところでしょうか。
>>746 後漢では度遼将軍、匈奴中郎将、護烏桓校尉、護羌校尉、黎陽営の軍も常備軍ですね。
西園八校尉は厳密に言うと、無上将軍たる皇帝の配下の部隊です。
下軍校尉鮑鴻は後に獄死しています。理由は不明です。
無上将軍と言う称号は27年の張豊、144年の徐鳳の反乱の際に用いられた
将軍号らしいですね。
749 :
趙休@衛将軍・領司隷校尉 ◆mu1AAnbyqY :2005/05/08(日) 11:08:04
ちょっとした豆知識
尚書・・・尚と言う字は「つかさどる」と言う意味があり、尚書は
「書をつかさどる」と言う意味になる。後漢から権力が尚書に集中し始めた。
魏では尚書令一人、尚書僕射二人(おそらく左右に分割)、尚書は五人
(吏部・左民・客曹・五兵・度支)である。吏部以外は単に尚書と呼んだ。
吏部・左民・客曹・五兵・度支の各々の職務は把握出来ませんでした。
それと随分と地下進行だったので浮上させておきます。
750 :
東王公 ◆dNTCzk/Ufs :2005/05/08(日) 19:52:07
ほっほっほっ…。
趙休さんや、尚書の語の由来はもう一つあるのじゃ。
四書五経の内に、書経というものがあるのじゃが、その書経の正式な名は、尚書と
言うのじゃよ。
故にじゃ、尚書を官名としたという説もあるのじゃよ。
751 :
趙休@衛将軍・領司隷校尉 ◆mu1AAnbyqY :2005/05/08(日) 22:14:55
>>750 おそらく東王公殿が指摘しているのが正しいのでしょう。
「尚書」の読み方は多分、
>>749でいいと思う。
吏部…1官吏の賞罰を担当、隋唐時代に設けられた。
2律令八省の一。国家の儀礼、役人の勤務評定などをつかさどった。
らしいです(広辞苑調べ)
後漢時代の尚書については載ってませんね…
753 :
趙休 ◆mu1AAnbyqY :2005/05/10(火) 20:37:15
尚書を調べてみました。
《古くは「じょうじょ」とも》
1 弁官の唐名。
2 中国の官名。秦(しん)代に設置され、初めは天子の文書の授受をつかさどる小官だったが、
しだいに地位が上がり、唐代〜明代には六部の長官となった。
754 :
455:2005/05/12(木) 00:40:38
尚の字には、
@つかさどる
>>749 @あがめる、たかめる
@好む
@久しい
などの用い方があります。一般的に尚といえば「主管する」という意味で、
そういう仕事をする人を指していたようです。この他に、皇帝の身の周りの世話をする
「尚食」「尚衣」「尚浴」などがあったようです。
辞書には、
【尚書郎】官名、東漢以降、官に就いてすぐならば郎中、満一年で尚書郎と称した。
とあります。(この辞書には尚書の項目がありません)
>>754 私の資料だと初任者を尚書郎、満一年で郎中、満三年で侍郎。とあります。
ちなみに尚書僕射は金銭穀物の受納、官吏の任免を掌握する役職らしいですね。
それと九卿の筆頭は太常だと聞いた事があるのですがどうなんですかね?
756 :
東王公@諫議大夫 ◆dNTCzk/Ufs :2005/05/13(金) 12:40:34
ほっほっほっ…。
趙休さんや、太常卿の職務は、社稷の祭祀と太学博士の選考が主な職務じゃ。
夏殷の頃より、社稷の祭祀は重要な天子の務めじゃったからの。太常卿が、九卿の筆頭と
いうことになっておるのじゃろう。
757 :
蕎序:2005/05/13(金) 15:59:07
ナポレオン・ボナパルトのアルプス越えってルイーズのナポレオンを大きく見せようとする
戦略だったのでは・・・
758 :
蕎序:2005/05/13(金) 18:02:11
表面上だけじゃないの?たいじょうけいが九卿の筆頭だというのは・・・
759 :
蕎序:2005/05/13(金) 19:36:27
帝にあざなす国賊、可児の乱を鎮圧いたしました。そのとき壊された先帝の
帝廟もわたしが修繕しておきました。なにとぞこの従順なる臣に官位をお授けください。
>>759 どうも、趙休です。
任官の件ですが丞相殿が任免の一切を取り扱っております。
丞相がお越しになるまで暫くお待ち下さい。
それと、もっとネタ出しして初任官を上げるのも一計ですよ。
>蕎序殿
世界史板の古代中国史系スレにて、
いい加減な事を書き散らし、スレを荒らしているところ、
何度も拝見いたしました。
特に三国志正史スレと、
項羽と劉邦スレでのデタラメは目に余ります。
「蕎序」の名を名乗り続ける限り、
貴殿の任官は認めません。
>>759 ・改名し行動を改める(
>>761参照)
・メール欄に「sage」と入れる
・名前欄にトリップ(簡易パスワード)をつける(名前の後に#と好きな文字列。例:張質#work24h)
・スレに書き込む時はちゃんと資料を見てから書き込む
少なくともこれをしないと任官は難しいと思います。
可児の乱鎮圧と帝廟修繕をしたというのなら証拠を提示しないと無意味です。
最悪の場合は詐称扱いになりますぞ。
763 :
蕎序 ◆Zxp/Yv8XAA :2005/05/14(土) 00:19:45
これはこれは功臣たち、誠に申し訳ありませんでした。
でもわたしは一介の百姓の出自なので他の名前があり
ません。なにとぞ改名の儀をお願いしたき所存でありまする。
764 :
蕎序 ◆Zxp/Yv8XAA :2005/05/14(土) 01:11:04
相次ぐ演義の崇拝と韓王信がずっと宰相のままだと思っていたことを
お許しください。
765 :
455:2005/05/14(土) 01:38:32
>>755 おや、それならば私が訳し間違えているのかもしれません。
さて、久しぶりにネタ出ししたいと思います。あまりいいネタではないですが…
今日は「字」についてなんですが、曹操は字が「孟徳」ですが、自分の子供達と曹仁、曹洪、曹真などは皆字に「子」の文字を使っています。
曹一族で代々使われているものなのでしょうか?だとしたら曹操だけなぜ「孟徳」なんでしょうか?
>>767 孟は長男につけるようです(正妻の長男は伯)。孟徳は荀子の勧学篇にある徳操より名づけたようです。
一方字を兄弟で揃えるやり方もあるようで、揃える場合に代表的なものが子です。
曹操の字は自分でつけたとの説もあるようです。
更に補足あればお願いします。
ちなみに曹嵩の字は巨高、宦官曹騰は季興、曹騰の父曹節は元偉です。
季は四男あるいは末子を表していますね。
(長男は伯、妾の子の長男は孟、次男は仲、三男は叔、四男あるいはは末子は季)
曹操の子供達で字に「子」が付いているのは卞夫人の子供だけだったかな?
一族の字は同じ世代で揃える場合もあるそうだ。とすると曹操は曹仁・曹洪よりも
一世代はないしも若干の時代のずれがあったのかも。
自分の妄想を言うと曹嵩・曹操親子のみが夏侯・曹氏の出では無い(曹真は別問題)から字も違う。
曹操は自分の子供に「子」を付ける事で曹氏の一員に加える事にして・・・
場違いな妄想スマソ
近頃、「三国志全人名辞典」(特間書店出版3400円+税)となる書物を
入手しました。
ネタはいっぱいあるのだが一つ目
晋に仕えて驃騎将軍となった紀瞻と言う人物がいる。字は思遠。
ふと、思い出して調べると瞻・思遠の付く人物がいました。
諸葛瞻。字は思遠。蜀の行都護衛将軍である。
珍しい事もあるもんですね。
772 :
韓皓:2005/05/14(土) 18:31:11
八門禁鎖の陣、八卦の陣などの強みや弱みはどの点だったと思いますか?
>>772 弱点ですか・・・
八卦の陣の別称が八門禁鎖の陣ですね。
休・生・傷・杜・景・死・驚・開の八門からなる陣であるために、
その名があります。生・景・開門は吉なれど、傷・休・驚門は痛手を負い、
杜・死門は滅亡すると言われています。(某サイトからコピペ)
あまり攻撃的要素が含まれる陣形ではありませんね。むしろ防御的な布陣でしょう。
774 :
韓皓:2005/05/14(土) 18:43:40
まあ諸葛亮が五丈原で攻勢にでなかったというか、でれなかった一因ですね。
要地を取っている同士、さきに攻勢に出たほうが負けですからね。
それに魏は大軍だし・・・。
>>774 それとは別の話であろう。多彩な陣形を組む事によって臨機応変な
戦術・戦闘が出来るであろうし。
それとトリップを付けて下さい。
この時代では分かりませんが、戦国時代の「車掛かりの陣」というのはほとんど意味がない、というか不可能なものだったようです。
戦国時代より兵数が多い三国時代に八門禁鎖の様な複雑な陣形がとれ、うまく機能できたのでしょうか?
私的には有能な将軍が軍師いたとしても少し難しいと思います。
>>776 当時の戦法の詳細は不明だが広大な平地を移動するには騎馬は有利だな。
やっぱり妄想だが八門禁鎖の陣は比較的少数の兵力の方が力を発揮出来ると
思うのだが。
779 :
韓皓 ◆BUYFHeHhVU :2005/05/14(土) 22:14:55
謎の人物、デイコウについてどう思いました?詳しく
>>779 禰衡は荀氏や陳氏とは交わらず孔融・楊修と交流し彼らの才能だけは認めた
異端児みたいな存在だと思いますが。
あなた自身のお考えはどうですか?
侍御史になりました魏興です。
手元の資料によりますと、
当時の一般的な陣形としては、弩兵が前にいて、矛を持った部隊がそれを護衛、
歩兵がその後ろに控え、騎馬隊は側面に控えて機動隊として活躍していたようです。
(これは平坦な地形で、双方の兵力差がほとんど無い時の布陣であり、状況によって他の陣形も使い分けていたようです。)
782 :
韓皓 ◆BUYFHeHhVU :2005/05/14(土) 22:57:02
孔融・楊修っていうとこがミソなんだと思います。荀氏も陳氏も名声に執着
しているところがありましたので、鼻から断交を決め込んでいたんだと思い
ます。それに比べ楊修や孔融は名声にこだわる事よりも、曹植と交わるなど、
才能を愛し、どこか現実逃避観がある貴族的な人生に憧れた異端児だと思います。
783 :
455:2005/05/15(日) 02:51:03
>>768 字といみ名は関連づけられることがおおいですね。
徳操⇒曹「操」+孟「徳」
>>771 周「瑜」公「瑾」
諸葛「瑾」子「瑜」
の関係もあります。「瑾瑜」で「美しい宝石」という単語があります。
>>769 その法則から、
「馬氏の五常、白眉よし」から
○5人兄弟 ○みんな字に常の字を使用
馬良の「季常」⇒「季」は四人目
馬謖の「幼常」⇒「幼」は五人目
上の3人については全く判らない、ということまでが判るんです。
>>770 ただ、「子」は字に用いるにはかなりありがちですので、当時の流行などもあったでしょうし。
そこまで堅苦しく難しい線引きもなかったのでは?とも思います。
784 :
455:2005/05/15(日) 03:11:39
ただ、私はあまり字で呼ぶのは好きではありません。
「実名を声に出すと穢れる」という信仰めいたもののもと、
兄弟の順番を示したり名前を同じような意味の文字に置き換えて呼ぶ
という手段のためのものであるという面と、「面識のある人物を呼び合い」、
「名を呼ぶのは親か上司のみ」であるのですから、我々構成の人間がなれなれしく
呼ぶべきではないとも感じます。また、不完全で、字を陳寿が記述しなかった人は
じゃあなんて呼ぶべきか?という点が解決しないからです。
785 :
455:2005/05/15(日) 03:31:26
>>782 孔融は孔子の直系20代目の子孫、曹植は時の人曹操の御曹司。
権力のるつぼの中にある才能に惹かれた、と考えれば禰衡が魅力的に
見えてきます。
786 :
韓皓 ◆BUYFHeHhVU :2005/05/15(日) 03:55:09
>>783 夏侯惇の子供達の字はやっぱり「子」が付きますね。
ちなみに夏侯淵の子供達の字には「権」が付いてますね。
>>784 小説類で「曹操孟徳」とか「孫権仲某」と表記されている場合があるが
あれは正しい表現ではないのかな?分かり易くする為かな。
788 :
455:2005/05/15(日) 13:57:56
>>787 あざなについての条件としましては、
1、士大夫階級以上の出身者がつける
2、元服の際につける
3、自分でつけたり、名家の出身ならば一族の長老がつけたりする
1、については、典イにはなかったり、甘寧があやしげだったりします。
また、劉備や許チョのように、農民と見せかけてきちんとした字を持っている
のは、元来そんなに卑しい身分の者ではない、という面がうかがえます。
2、曹操などごくごく僅かですが、幼名が伝わっている場合があります。
成人の折に字に切り替えます。
3、夏侯淵の子供や馬氏の五常、司馬八達など、統一された文字を使用しているのは
一族の長老にもらっている(次男以降は必然的に決められている)のでしょう。
789 :
455:2005/05/15(日) 14:17:22
連投させていただきますね。
とくに日本の出版物では「姓+名+字」の記述はありがちです。正しいかどうか、で言えば
あまり正しくはありません。これはマンガ「蒼天航路」でも「劉備玄徳」が連載の時間が
経つにつれて「劉 玄徳」に変化しています。意識的に直していこうとしていますよね。
ただし、
正史の三国志にも「徐庶元直」という記述がありますし、これが絶対にいけないというわけでもありません。
また、日本語の音声としては漢字4文字の音声が語呂がよいのでこう表記しているのでは?
と思ってます。
>>788 「荀氏八龍」もかなり有名ですね。
荀ケも曹操も何顒から認められていて特に荀ケは「王佐の才」と言われたそうですね。
庶民出身で活躍した人物と言えば泰山の諸侯なんかも含まれますね。
791 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/15(日) 21:35:13
泰山諸将は庶民どころか奴隷・賎民出身かもね
養子に行った先で字が変わる事があるそうですね。
>>792 諸葛瑾の次子、諸葛喬(仲慎)が諸葛亮の養子になった際に字を伯松に
変えているのが有名ですな。
>>793 それは諸葛瑾の次男から諸葛亮の長男になるからですな。
朱嵩殿が仰られたように長男には「伯」の文字が使われ、次男には「仲」の文字が使われてますね。
孫策伯苻、孫権仲謀がいい例です。
しかしこの諸葛喬という人物なかなか優れた知略の持ち主だったそうですね。早死にしたのが惜しいです。
魏興 ◆gRK4xan14w殿
貴殿の官位を侍御史に進めます。
新しい官職は侍御史となります。
御史は百官を監察し、違背があれば弾劾する職務です。
朝廷の風紀を引き締めるべく、精勤なさいませ。
>>791 泰山諸将の筆頭である臧覇の父臧戒は、県の掾を務めていました。
臧戒が郡太守の不法な振る舞いに反対して逮捕されると、
臧覇は食客数十人を連れて、父を救出しています。
父が県の役人であったこと、食客数十人を養っていたことを考えると、
少なくとも臧覇の家は豪族であったと思われます。
797 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/15(日) 23:53:47
泰山諸将の素敵な本名は、とても教養ある家の出には思えねえ
>>797 呉敦の別名「黯奴」、尹礼の別名「盧児」、孫観の別名「嬰子」などは、
泰山で割拠していた時に名乗った渡世名でしょう。
黒山の頭目の中には、
郭大賢・青牛角・張白騎・左髭丈八・李大目など、
どう見ても本名とは思えない名前の人々がいます。
彼らもまた、蜂起した時に渡世名を勝手に名乗ったのでしょう。
漢末から三国時代にかけての賊徒の指導者の中には、
平民だけでなく、豪族、下級官吏、兵士など、
雑多な階層の人間がいました。
泰山諸将の出自は、臧覇以外は不明ですが、
一概に教養の無い家の出身と考えることもできないでしょう。
799 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/16(月) 00:36:36
わざわざんな酷い源氏名つけることもあるまいに
意味、「ドレイ」とか「赤ん坊」だよ?
まして山賊だとしても大将なんだし
幼名や昔からの呼び名じゃまいか
いかにも士大夫らしい名前があとづけやろ
>>799 彼らが庶民出身だとしても、そんな名前は付けないと思うが。
801 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/16(月) 00:43:06
奴隷とかなんだろ
奴隷だからろくな名前付けてくれる人もいない、と
それが列侯とかなるんだからアメリカンドリーム
勅命をお伝えします
丞相・録尚書事・都督中外諸軍事 許柔
利城侯のまま旧領を含め五千戸に加増する
朕惟うにスレ今日の興隆は 群臣皆の尽力による
然れども 群臣を正しき道に導きしは 偏に爾の力による
その忠功は 相国を以って報いるも 軽しと惟うに 爾 薦めを辞すること 幾度にも及ぶ
朕 茲に爾の封邑を加増し その誠忠に報いんと欲す
辞去するを 許さず
陛下は更なるご活躍を希望され 次回は万戸候だよ と仰られていました
803 :
東王公@諫議大夫 ◆dNTCzk/Ufs :2005/05/16(月) 17:43:57
許柔さんや、年寄りが言うのも何じゃが、今度の加増を辞するのは、不礼を通り越し
て、不忠と言うものじゃぞ。
ここは、快くお受けなされ。ほっほっほっ…。
いまさらながら禰衡たちの軽い経歴を
禰衡・・・字は正平。平原郡般県の人である。鼓の名手で弁舌に優れていた。
孔融に認められるも曹操の怒りを買い、劉表の元へ。そこでも劉表を批判した為に
黄祖の元に送られた。さらにここでも黄祖を侮辱した為に殺された。享年25。
孔融・・・字は文挙。禰衡とは20歳も離れている。建安七子の一人。
北海国相となり儒学の復活を図ったが、現実と合わず脱出。曹操に仕えるも
過激な発言の為に曹操に殺された。
楊脩・・・字は徳祖。禰衡より2歳年下。才能を発揮するものの
曹植擁立を画策したり袁術の甥である事が要因となり曹操に殺された。
>>802 臣には丞相の位さえも身に余るところ、
格別の恩寵をいただき、恐縮であります。
辞去を許さずとの命なれば、謹んでお受けいたします。
万戸侯の位は、四海が平和になり、
鼓腹撃壌の世がやって来てから、賜りたく存じます。
>>804 禰衡って奇人ですよね
曹操の臣への評価
弔問の使者には荀或、荀攸は墓守り、程cは門番、郭嘉は文章の読役、張遼は太鼓敲き、
許チョは家畜小屋の番人、楽進は詔を読むのがお似合い、飛脚の李典、刀鍛冶の呂虔、
満寵には酒粕でも喰わせておけば、于禁は左官屋、徐晃は肉屋、五体満足将軍の夏侯惇、
要銭太守の曹仁、他はクズ
黄祖に殺される原因となる言葉
「貴方は神社に奉った神様と言ったところだね、お供ばかり取って何のご利益もないからね」
黄祖が取るものは、お供じゃなくて お供え ですよね。
>>806 わざわざご苦労様です。
これらの事を言ったのに対し言論弾圧をしていない点で曹操の権威も
絶対的ではないように思えますね。
曹宙ってどんな人だったの?
>>809 >曹宙ってどんな人だったの?
どういう人物かは把握出来ませんでした。よろしければ出典を教えて下さい。
曹宇のことじゃないかなあ。
入力時に消し間違えた?良く見る例
生姜+維新
で不要な文字を消して姜維を出そうとして
生姜維
812 :
東王公@諫議大夫 ◆dNTCzk/Ufs :2005/05/18(水) 07:53:31
曹沖かもしれぬのぅ…。
曹+宇宙ってことなんですかね?
私も曹宙という人物は存じません。
ひさびさに出仕いたします。つつがなきや云々。皆様方お変わりなく
これは懐かしや
丞相か衛将軍 旧友がこられておるぞ お相手してね
816 :
東王公@諫議大夫 ◆dNTCzk/Ufs :2005/05/18(水) 17:07:43
源亮さんや、よろしくのぅ。
儂は、本来は大道に遊ぶ年寄りじゃ。礼などは、無用に願いたいものじゃ。
さてと、曹家は、曹参を祖とする家じゃ。まあ、曹操は夏侯嬰の夏侯家の血が濃いがの。
しかしじゃ、曹参にしろ、夏侯嬰にしろ、高祖の忠臣中の忠臣と言っても、過言じゃ
あるまいて。
結局は、漢朝は、曹家に形の上では禅譲じゃが、実際は纂奪されてしもうた。
地下の曹参や夏侯嬰は、どのように思ったかのぅ…。
817 :
ギギギ砲元帥:2005/05/18(水) 17:35:56
うおおおおおおおおおお
818 :
趙休:2005/05/18(水) 18:05:03
どーも、源亮殿。官位スレも新体制になりようやく安定してきました。
819 :
伊藤:2005/05/18(水) 19:17:00
ヒロブミでござる。
官位をくだされ。
曹宇・・・字は彭祖、母は環夫人。燕王。若い頃に明帝と共に起居したので
寵愛される。後事を託されるも固辞した。
子供の常道郷公曹奐は魏のラストエンペラーである元帝。
>>814 源亮殿もネタ出しや議論に参加してくれれば官位も元のままですよ。
しかも昇進も出来るかも。
曹宇
字は彭祖。211年、都郷侯に取り立てられ、222年には下丕β王となる。
その後の225年、燕王に取り立てられる。
元から明帝(曹丕)と仲が良く、信頼関係にあった。明帝が危篤になった際、曹宇を大将軍に任命しようとしたが、彼は固辞してやまなかった。
彼の子曹奐は後に魏の皇帝となる。
曹沖 (196〜208)
字は倉舒、曹操の子。年少ながら聡明で、大人にも負けない知恵を持っていた。
孫権から都に象が贈られてきた時、象の重さを測る方法を思いつき曹操を喜ばせた。
その他にも、失敗から罪を犯してしまった役人を、刑を軽くするように取りはかり、彼らの命を救ってやったという。
それを曹操が気に入り、一時は嫡子にしようとさえ思ったが、建安十三年病没。
病気になった際、曹操は自ら祈祷をして回復を願ったという。
うは
趙休殿と被った
これは恐れ多い
>>822 遠慮しなくていいですよ。どしどし情報提供して下さい。
中堅幹部の活躍に期待!
824 :
東王公@諫議大夫 ◆dNTCzk/Ufs :2005/05/18(水) 22:15:46
魏興さんや、次はこの年寄りを越える官爵じゃよ。
時期が来たらじゃ、許柔さんや趙休さんが推してくださるじゃろう。
まずは、侍御史に励むことじゃて。ほっほっほっ…。
>>824 諫議大夫殿にも頑張ってもらいますぞ。太中大夫ぐらいかな。
>>816 どのような王朝も、いずれは滅びるものだ。だから漢が滅ぶのも仕方ないだろう。
とにかく、(袁術などの非道な輩ではなく)高祖様の臣である自分の家系が漢の後を継ぐことが出来て嬉しい。
という考えかたもありますな。
>>819 まずは手柄を立てねば官位を貰うことは難しいでしょう。
ここは焦らず雑談に加わっていればそのうち貰えると思います。
>>824 いえいえ、大した功績もない私などより、東王公殿のほうがよっぽど偉大ですよ。
貴方を越える官位など、とても受け取れませぬ
827 :
伊藤:2005/05/18(水) 23:39:53
>>827 まず官位スレに参加する際はトリップを付けて下さい。
名前も漢風に改める事もお勧めします。
ネタ出しや議論に積極的に参加して頂ければ任官の詮議を行います。
>>814 源亮殿、初めまして朱嵩と言います。以後よろしくお願い致します。
気が向かれたら又参加してください。衛将軍殿もとりなして下さるようですし。
830 :
455:2005/05/19(木) 23:24:21
ふとした思いつき。
孫堅は赤い頭巾を被り、それが為に命を拾うこともあり、また命を落すことにもなりました。
光栄のゲームで孫家=赤はここからきているのかな?と思っています。
光栄のゲームで孫家=赤ですか、なるほど面白い。
ところで王朝の色に関してですが、漢は木=蒼(青)と火=朱(赤)の両方の説があるみたいですが、
呉は魏と同じく土=黄が象徴する色みたいですね。
ちなみに 蒼天すでに死す、黄天まさに立つべしでは、
陰陽五行説と矛盾する(火は土を生む)ようで、張角は独特の原理を用いたのではとも言われますね。
漢が火だから魏、呉の土が成り立つわけですが、どうなんでしょう。
>>831 あれ、漢は前漢と後漢で色が違うのではなかったのですか?
私の記憶が間違ってなければ前漢が青で後漢が赤だったような。
>>832 破才殿お疲れ様です。
私の調べたところでは、一説ではないようで。
どなたか教えてください。
赤眉の乱ってのは火徳の漢王朝を再興しようとした動きだと思うが。
蒼天すでに死し・・・の文の意味だが確か自分が以前に説明を書いたと思う。
蒼天と言うのは天そのもの示す時に使う場合もあるらしい。
おそらく漢朝は一度は滅んだものの再び蘇った事から「天そのもの」のような
存在にまでなっていたのではないかと。
835 :
455:2005/05/21(土) 12:13:21
五行説っていろいろで、この話題少々ややこしいんですよ。
んで、説に則っていけば、私の知っている限りでは、
蒼天=青空の意味合いくらいでしかない、とのことです。
ただ、土徳=黄色が次の王朝であることを表明するためなのか、
魏では年号に「黄初」、呉では「黄龍」と用いていますが、
漢の正統を唱える蜀では「黄」を年号には用いていません。
またゲームの話に戻りますが、関羽の衣装は常時緑です。
これはなぜか判りません。中国に行った時は大概大きな書店に
いき絵本のコーナーで三国志演義の絵本を見るのですが、
必ずと言っていいほど緑の服です。
http://www.3kingdoms.net/portraits.htm これまでの光栄の顔グラはこちら
>>835 何で緑なんでしょうね?
「緑」という色に秘められた意味があるのでしょうな。
そろそろ455氏には名乗って欲しいなぁ〜
何か宮殿に 劉明の手紙来てるみたいだよ 確認してね
838 :
455:2005/05/22(日) 01:10:08
>>836 もしかしたら、逆もあるかもしれませんね。
というのも、光栄のゲームが中国に持ち込まれ、その影響で
関羽=緑の服ってなっているのかも。
確率が0じゃないってだけですけど。
関羽は「赤顔赤心」とも評されます。赤ら顔に赤心(忠義心)を持ち、
馬は赤兎馬。ここいらへんにももしかしたらヒントはあるのかもしれません。
名前の件;今はまだ、としかお答えできません。いずれお力になることが
出来る日も来ます。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
846 :
韓皓 ◆BUYFHeHhVU :2005/05/25(水) 00:43:01
久しぶりです。私は中国の史跡で、周倉の隣に並んでた関羽は全身赤色の服装をしていました。
これは羅貫中が演義で赤へ、意図的に改竄したのではないと思います。
しかし私も雛エンの陰陽五行説の五行説に由来するのでは?と言う考えです。
やはり張角の黄巾は漢に敵対す、曹操は漢に従順するので青、劉備は漢を再興す、
孫権も呉蜀同盟で一応漢に従うというそれぞれの姿勢から三国は土で統一され
(孫家は、違う可能性大)張角も五行説に照らし合わせて適当な色を掲げたのだと思われます。
これはあくまでも一つの考え方です。
あぼーん
あぼーん
お久し振りです。
忙しくて顔出せませんでした。
851 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/25(水) 22:18:07
祝・落城
;:;: ;:;:;;;) (,.,.::; ;:;;
(,, ;:.. (.:; ,;:,.,)
;;: ;;:;:) / =======从= \ ,,;:;)
(,, 从 ̄/ ̄// ̄从 ̄// ̄//_ //^\ゝ ;:;:
::;;从 从  ̄// ̄// ̄// ̄//_从/==\ゝ ...,)
/ ̄// ̄// ̄// ̄//从//_. /// ‖ \ゝ
A ノ ̄ノノ ̄// ̄// ̄// A_ノ//======== \ゝ .A
.ヒ==,@==@,==@==@,==@== ノ人ノ从 ‖ ン
(,, ,,..:;;: ,)  ̄‖~  ̄~ ̄~  ̄~ ̄~ ̄ ‖| ̄ ̄ .‖ ̄从 ‖
;;:: " ,, ‖==从==============.‖|=====‖==== ‖
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从.. // ̄// ̄// ̄/从 // ̄// ̄// ̄// ̄// ̄/// ̄// ̄// ̄//人\\
/ ̄// ̄// ̄// ̄// ̄// 从 // ̄// ̄// ̄// ̄///从// ̄//从//人\_\
/ ̄,,/, ̄从 ̄// ̄// ̄/// ̄// ̄// ̄从 ̄// ̄/// ̄// ̄// ̄//人_\\_
/ ̄//从// ̄// ̄// ̄//从 /// ̄// ̄// ̄/// ̄// ̄// ̄//A人人_ \\
@,==@,==@,==@,==@从从,==@,==@,==@,==@,==@,==@,==@,==@,==@,==@ノ人_@_@、_
荒らしが来る時間って大体毎日今ぐらいだよな
853 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/25(水) 22:22:35
藁協士ね
855 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/25(水) 22:48:00
306 名前:無名武将@お腹せっぷく :2005/05/25(水) 22:46:38
>>305全部精神秒のせいなんだよw
わかってるよ。もうわかってる
曹宙って確か自称だったような。
うる覚えですが陳瞬臣氏の小説に曹操の従兄弟?か誰かの紅朱?とやらが出
てきまして、その結婚相手が宋氏。
宋氏が何かで失脚し粛清かを喰らったときに匈奴へ落ち延びた紅朱とその結
婚相手の息子が宋宙?でその人物は宋姓ではなく曹姓を名乗ってたような・・・
858 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/25(水) 22:53:51
859 :
公孫讃:2005/05/25(水) 22:54:21
公孫讃が率いた、白馬部隊って数十騎なんですか?
それとも数千騎なんですか?
どっちかわからないって読んだことある気がするんですが?
860 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/25(水) 22:55:26
862 :
公孫讃:2005/05/25(水) 22:57:13
宋氏というのは宋姓の誰かと言う意味で名前が『氏』ではないです。
864 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/25(水) 23:00:20
865 :
公孫讃:2005/05/25(水) 23:01:49
>>892 きになったことあったんだからいいんじゃん。
>>857 私もそれでやっと思い出せましたよ。
異民族の手に預けられた人物でしたね。
>>859 官職スレの公孫殿ですか。どうも。数十騎の方は遼東属国長史の頃に
鮮卑族数百騎を相手にした時の兵数ですね。
トリップを宜しく。このスレは後漢・三国・西晋の関連する人物を名乗るのは
禁止になってます。その件は協議します。
867 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/25(水) 23:05:15
868 :
865:2005/05/25(水) 23:08:27
>>867 わるかった。もう来ないよ。
>>866 ご教示ありがとうございます。お騒がせしてすみませんでした。
869 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/25(水) 23:19:22
_,l :.. ::.::::. :::::::::.. ::.. :::::爿 = =
弋li ::ト〃1::::..:::::::::ト、:::::::.:::::::i ニ= 蕎 そ -=
|i :::|__ l::ト:::::::|i:l_,.ゝ:::::::::::l ニ= 協 れ =ニ
jl .::::l __`i} V::j斗ぅテiトi::::::| _ =- な. で -=
、、 l | /, , ll ::::Tてテ| |/ ヾ'シl ト:l} | ヽ ニ .ら. も ニ
.ヽ ´´, |l ::::ム `=' .ノ ヽヽ } ´r : ヽ`
.ヽ し き 蕎 ニ |l :::::`ヽ、 -‐ ノ| |.|:::::| | | ´/小ヽ`
= て っ 協 =ニ |ト ::::/:::::丶、.__,. ィ :| |.|:::::| | /
ニ く. と な -= Nlw::::: ヽ、._、 _,ノ/.:::::| | /|
= れ.何 ら -= ヽl ヽ、:::::::::\、__/::漢:::.:| |' :|
ニ る と =ニ | |:::::::::::::::::::::::::::::::::::.王.::::Y′ト、
/, : か ヽ、 | |::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::| '゙, .\
870 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/26(木) 00:22:08
871 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/26(木) 01:17:16
>>869 きもっ!
コテハンの、しかも何故か美化してるし…うわ……
こういうAA作ってる奴とか明らかに犯罪予備軍だよなwww
キモい妄想は一生自分の脳内ですましてほしいな
外にさらけ出すなよw鳥肌が立つ
872 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/26(木) 01:18:43
873 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/26(木) 01:19:23
いちいちコピペはって争わそうとしてるお前は可児坊よりキモイww。
874 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/26(木) 01:20:00
>>869 この糞コテは男だろ?
なにこのAA、妄想しすぎwwwキモwwwww
875 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/26(木) 01:26:56
876 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/26(木) 01:32:34
>>872 キモオタは糞コテの姿でも妄想してろよwww
実際お前と変わらんキモデブオタだってのに寒いコピペで意味もなく脳内補完してるお前かなりキモいよwwwwww
頼むから家から出るなwww
877 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/26(木) 01:39:37
わざと祭みたいにしようと人集めるために寒いaaとスレ貼る
>>869のキモさに感動しますた
うはwwwwwなんか騒いでると思ったらwwwwwww
>>869テラキモスwwwwwwww
>>857 勾汪伯殿、お久しぶりです。疑問に答えていただいてありがとうございます。
陳舜臣氏ですか、昔中国の歴史を完読したな〜
ちょっと話題の転換。
劉備入蜀後の劉璋父子
劉璋……劉備により荊州南郡公安に移される。孫権の荊州攻略後呉に仕え益州牧。程なく没した。
劉循……劉璋の長男。劉備に仕えた?
劉闡……劉循の弟。父とともに孫権に降る。父の没後も孫権に仕え、益州刺史や御史中丞を歴任。
補足あればお願いします。
>>880 劉循は奉車中郎将になっています。彼の妻は龐羲の娘です。
龐羲自身は劉備の(左将軍)司馬になってます。
882 :
455:2005/05/26(木) 22:44:03
>>845 魏興殿
日本語版では蜀は白で魏が黒だったような気がします。演義の善悪の配置の影響かと思っています。
>>846 洛陽の関林でしょうか。関帝廟ではどこでも大概そうなんですが、
左:関平 中央:関羽 右:周倉
という配置です。この構図、以外に古く、日本では聖徳太子の像もそのように描かれています。
これは、仏教と共に中国の肖像画の技術・手法が流入してきた時のもので、モデルとなっているものが
曹丕の肖像画です。
肖像画ではこの左右の人物が小さく描かれ、中央の人物をより大きく見せるような構図となっています。
また、この左右が対になっていることが多いです。この場合、関平=白、周倉=黒です。
>>881 衛将軍殿、劉循の件は確信が持てなかったので…・ありがとうございます。
何故父子で別れたのでしょうかね?
884 :
韓皓 ◆BUYFHeHhVU :2005/05/27(金) 18:29:00
劉エンは確か、演義では幽州牧だったような・・。
やはり劉備の益州簒奪と言う非行が肯定されるのを避けたのでしょうか?
885 :
韓皓 ◆BUYFHeHhVU :2005/05/27(金) 18:32:50
>>846は、関帝廟を元にして三国志演義の人気があるので、
日本人観光客の為に作ったものだと思われます。
886 :
朱嵩@仮節・平北将軍・都督河北諸軍事 ◆k88syk7fg2 :2005/05/27(金) 18:53:48
韓皓さん参加ありがとうございます。
でも出来ればsageでお願いできませんか。
と言う私がageっちゃった。すみません。
888 :
崋无 ◆Zkbq51PB.2 :2005/05/27(金) 19:28:17
>>888 崋无殿ようこそ。面白そうですね。新手のネタ振りですね。
官位の件は、丞相殿が取り仕切るおりますが、現在不在ですので、
衛将軍殿と相談してみます。少し時間をください。
890 :
公孫翼:2005/05/27(金) 22:53:53
劉皇帝、趙休殿、朱嵩殿
ようやく、スレを立てられました。
本日はお世話になりました方々にご報告にまいりました。
これからもよろしくお願いします。
三戦板に復帰しましたので挨拶させていただきます。
まだまだ混乱した状況ですが徐々に落ち着いてくると思います。
また、名前を変えると思います。その時にあらためてご挨拶さしていただきます。
これからも宜しくお願いします。
>>883 益州の元の主である劉璋父子が益州に留まっているようでは何かと都合が
悪かったのでは。公安と言えば劉備が荊南獲得へ動き出した一歩目の都市。
三国志の中でも兄弟が別勢力に仕える事はよくありますね。
>>890-891 遂に三戦復帰ですね。頑張って下さい。
>>886 わかりました。
そもそも、前漢の、劉氏で王候を押さえて盟主と言う存在ではなく、
本当の意味での天下統一と言う思想は後漢の光武帝に受け継がれ、
それが成功したのでしょうか皆さんの意見を聞きたい。
>>891 霊帝殿
>>890 公孫翼殿 わざわざありがとうございます。
三戦板復帰おめでとうございます。我々もご協力させて頂きます。
東王公殿、破才殿、魏興殿、勾汪伯殿
宮廷内の吏部にて、韓皓殿、崋无殿儀に関してのご意見を募っています。
お手すきの時、お越し下さい。
朱嵩さま
御挨拶ありがとうございます。
ところで、禁裏を覗かせていただきました。
既に貴スレに御迷惑がかかっているようで心苦しく思います。
当スレの皆さまも同じだと思いますが
個人的には貴スレに御迷惑をかけたくございませんので
当面は交流を停止した方がよろしいかと思います
897 :
跛莎逶@農夫 ◆g3.BBGrWqg :2005/05/28(土) 17:19:24
>>888>>897 情報提供感謝します。
出来ればネタ出しや話題提供などで官位スレにご参加願います。
崋无殿
跛莎逶@農夫殿 お土産ありがとうございます。
衛将軍殿の仰る通り、何かネタ出し、ネタ振り等をお願いします。
それと申し訳ありませんが、sage進行でお願いします。
>>896 毛遠新殿、お運びありがとうございます。
この件は失礼にならないように、待避場所で返事させていただきます。
ついでに900
>>897はこのスレとは関係ない代物のようですが…
903 :
許柔@丞相・録尚書事・都督中外諸軍事 ◆XAqbn/bVNM :2005/05/28(土) 22:28:26
904 :
劉恵 ◆8Ygzcf.oSc :2005/05/29(日) 15:05:42
906 :
劉恵 ◆8Ygzcf.oSc :2005/05/29(日) 15:30:12
907 :
姜戒 ◆S/4nr/Fzy6 :2005/05/29(日) 16:54:09
私も性器、もってきますた
あのさ、ここは三国志の資料を集めるスレじゃないんだよ。
よっぽどいいサイトでない限り宣伝をするな。
>>908は宮刑ってことでFA?
910 :
鰓戀 ◆sM2Akus1VA :2005/05/30(月) 07:20:28
911 :
可児玉 ◆XS20C1s2lY :2005/05/30(月) 12:50:46
912 :
可児太 ◆ADcW3mOePU :2005/05/30(月) 12:53:53
913 :
魔可児 ◆X2qvp.wIXQ :2005/05/30(月) 12:56:39
\∧_ヘ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
,,、,、,,, / \〇ノゝ∩ < 1000取り合戦いくぞゴルァ!! ,,、,、,,,
/三√ ゚Д゚) / \____________ ,,、,、,,,
/三/| ゚U゚|\ ,,、,、,,, ,,、,、,,,
,,、,、,,, U (:::::::::::) ,,、,、,,, \ ぶーぶーぶー /
//三/|三|\ タリー
∪ ∪ (\_/)タリー タリー まだ早えよ〜
( ´Д) タリー タリー
/ つ (\_/) (\_/)ノ⌒ヽ、
(_(__つ⊂(´Д`⊂⌒`つ(´Д` )
劉表の荊州統治の始まり
初平元年(190年)荊州刺史に任じられた劉表は、単騎で宜城に乗り込んだ。
この当時の荊州は自拠する宗賊や郡太守・県長などが独立していて、安定とは縁遠い土地柄だった。
当時の州の役所のあった新野ではなく、劉表は宜城に乗り込んだのは……
そこに萠越、萠良兄弟、蔡瑁がいたからである。単騎乗り込むことで、彼らの度肝を抜き
彼らの建策を入れ、襄陽を拠点とし荊州統治をスタートさせる。
そしてまず行なったのが、荊州をバラバラに治めていた五十五人の有力者を呼び寄せ、その場で殺害し、
彼らの軍勢の中から優秀なものを登用し、一瞬の内に荊州全土を掌握したことであった。
以来死去するまで16年、荊州は他に比べるものがないぐらい、平和で安定した土地となったのです。
後世の評価は総じて低い劉表ですが、掌握の大胆な手法といい、その後の経営といい只の暗君ではありません。
916 :
可児丸@江戸城 ◆t7NSoSYlis :2005/05/30(月) 18:22:37
官位くれなきゃ荒らすよ?今の警察官クラスでいいからよこせよ
918 :
可児丸@江戸城 ◆t7NSoSYlis :2005/05/31(火) 01:27:12
もう待てませんよ(平和)
>>917 どうなんでしょうね。
江南は春秋戦国時代からある程度発達していたと思うんだけど。
920 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/31(火) 11:45:34
早くして下さいよ(平和)
921 :
可児丸@江戸城 ◆t7NSoSYlis :2005/05/31(火) 11:46:29
可児スレにしてもいいんですか?(平和)
許柔 趙休 朱嵩 東王公 破才 魏興 勾汪伯 455殿
宮廷内に新体制討議の場を作ったので 今後について自由に議論願います
>>919 後漢末の荊州の人口約630万人でで二番目(一番益州約720万人 全土で約5300万人)
前漢末の段階でも、荊州は約360万人がいますから(全土で約5900万人)
そこそこ発展はしていたでしょうね。
只今帰国致しました
でも 宮廷で父帝からの命が出ているようですので 再び旅に出ます
西域から 大秦国あたりを目指してみようかと 思ってます
皆様それでは
925 :
可児丸@江戸城 ◆t7NSoSYlis :2005/05/31(火) 18:05:10
可児印【ヰ】
926 :
可児丸@江戸城 ◆t7NSoSYlis :2005/05/31(火) 18:18:21
/\___/ヽ
/ ::::::::\
| ,,--- ---、.:|
| 、_(o)_, _(o)_,:|
| :< .:|
\ /([三])ヽ:/
/`ー-----―´\
うわぁぁぁあぁああぁ
劉表は「江夏の八俊」の一人に数えられる人物です。身長は八尺余と言うから
当時としては大きめです。
>>915 その事が記載されているのは司馬彪が書いた「戦略」言う書物ですね。
>>924 日本史官位スレへのご留学お疲れ様です。
>>927 衛将軍殿 ありがとう
何か責任重大みたいですけど(笑) 頑張って下さい
929 :
可児丸@江戸城 ◆t7NSoSYlis :2005/05/31(火) 19:00:44
ヰ
930 :
姜斎 ◆TcCutL/5sw :2005/05/31(火) 19:17:22
ネタ
赤壁の戦いという名前は、戦があったとされる場所の近くの岩に周兪が赤壁と書いたことから、赤壁の戦いという名がついた。
何か頂けないでしょうか?
>>930 ネタ出しありがとう御座います。
赤壁と言えば宋代の詩人蘇軾が「赤壁の賦」を詠んでますね。
彼が詠んだ場所は実は実際の戦闘が行なわれた赤壁ではなく、今では彼が
詩を詠んだ黄州の赤壁は「文赤壁」と呼ばれ実際に戦闘が行なわれた
蒲圻赤壁は「武赤壁」と区別されているそうです。
>>930 姜斎さんこんにちは、ネタ振りありがとうございます。
ただ、sage進行でお願いしますね。
勅をお伝えする
韓皓 ◆BUYFHeHhVU殿
荊州武猛従事となす
破才 ◆PxPDOojA/w殿
青州刺史を加える
朱嵩 ◆k88syk7fg2殿
官を進め 尚書僕射に任ずる
各人励まれよ
許柔 趙休 朱嵩 東王公 破才 魏興 勾汪伯 455殿
引き続き新体制討議の場で 意見を募っておるので 参加願う
>>937 架け橋より転載です
名前: 毛遠新 ◆3wT0Mm.S7. 投稿日: 2005/06/02(木) 16:31:34
朱嵩殿のネタに対して一言。
中国は大変な数の煙草の銘柄があり、そのパッケージをコレクションする人が
かなりいるようです。日本での切手のコレクションと同じ感じだそうです。
このことを教えてくれた中国の友人は桂花という煙草を吸っていました。
フフホト産の煙草です。(交流中止中なのでこちらにしました。)
>>930 煙草から戻って本題
戦で燃え上がる曹操軍の大船団の炎で岸壁が真っ赤に染まったから赤壁、
武赤壁に書かれた、有名な赤壁の文字は周瑜の筆跡だとの説があるようです。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
何だこの小物荒らしどもは。
気になる「三国志平話」の結末
三国志平話が出版されたのは元の末期頃である。
平話と演義は大きく異なる点がある。
漢王朝建国の功臣である、韓信・彭越・英布。三人とも劉邦に粛清されている
三人だが彼らがそれぞれ曹操・劉備・孫権に転生し高祖劉邦は献帝に転生して
罪の償いをすると言うエピソードから始まる。
仏教的な輪廻転生・因果応報の反映であるが演義は儒教的正統思想
に基づくのでこれ等の話は採用されていない。
その二
結末も大きく異なる。
演義では怒涛の勢いで魏晋禅譲〜呉滅亡までが描かれ「滅びの美学」が終焉を迎える。
だが「平話」の終焉はこのようになる。
蜀が滅びた際に逃走した漢帝の外孫、劉淵が漢王となり晋を滅ぼして
漢を復活させる。
劉淵とは308年に漢の光文帝と称した人物である。彼が漢を自称したのは
匈奴に漢の公主が結婚していた事にある。すなわち劉淵は異民族系の漢族である。
よって劉備・劉禅とは関係はない。一種のこじつけのようなものである。
あぼーん
あぼーん
やはり三国志改変小説は蜀が勝つように話を作り替えてしまうと面白くなくなりますね。
「蜀が負ける」からこそ三国志が生きてくるわけです。
ある意味2次大戦モノに似てる?
判官びいき感覚じゃないのかなあ。
判官贔屓的な要素を含む民間伝承が、北宋の頃には講談という形で発展していますものね。
講談で盛り上がって、平話、演義へとつながったのでしょうね。
957 :
455:2005/06/04(土) 11:50:25
>>950 張飛の出自が肉屋さんというのもその転生の話に由来がありますね。
>>951 三国志という物語のメインテーマは実は「無常観」です。つまり、いかに劉備が徳を示してみても
どれだけ関羽が義を貫いてもどんなに諸葛亮が知恵を絞ってみても、あるいはどんなに姜維が
あがいてみせても、最後には全て無に帰す、んです。
というわけで、
>>954の通り、物語が「生きる」んでしょうね。
>>955-956 講談というスタイルが逆に判官贔屓を促進させていったのかもしれません。
>>957 >張飛の出自が肉屋さんというのもその転生の話に由来がありますね。
知りませんでした。できれば詳細を
959 :
455:2005/06/06(月) 01:04:34
>>958 張飛が転生した、とは書いていませんが、三国志演義の文章に特徴があります。
劉備・関羽は科白部分が文語であるのに対し、張飛は口語で喋っています。これは
史記の鴻門の会の劉邦・張良=文語、樊カイ=口語という位置付けに共通します。
そしてこの樊カイ、屠殺業でした。
ここから、張飛という人物には「樊カイ」を追随する役割を担っているわけです。
>>959 ありがとう御座います。
演義の作者も手が込んでますね。武将(魏・呉)の死亡時期を利用して
見事に戦死に作り変えている場合もあるし。
ただ地理関係があやふやですが・・・
許柔…
ここを見たら宮廷内の議論に意見下さい
>>962 屠殺業といえば、どうしても何進を思い出してしまいます。
何進は袁紹らを部下に持っていたわけですが、その政治力はどの程度だったのでしょう?
妹が皇后なのでそうとう政治的影響力を持っていたのではないでしょうか?
>>963 お久しぶりです。
皇后の肉親が大将軍に就任し政治を牛耳るのは外戚の典型的な例ですね。
弟の何苗も車騎将軍に任命されています。
西園八校尉のトップである蹇碩は司隷校尉以下、大将軍何進の統率権があったそうです。
補足、『老子道徳論』を著したり、『論語集解』の主編集である、学者何晏は何進の孫。
父?? 母が曹操の夫人となり、宮中で育った。
最後は曹爽とともに、司馬懿に誅殺される。
何進本人は屠殺業あがりなのでしょうが、孫は優秀だったのですね。
>>965 文帝の時は冷遇されて明帝の時にやっと官に就いたようですね。でも実権はない。
老荘思想に耽っている人物だったそうで。
そう言えば諸葛誕も老荘思想だったような・・・
「大司女」みたいな官職無いですか?
>>967 聞いた事ない官職だったので調べましたが確認できませんでした。
魏はその狗を得たり の諸葛誕ですか。
>>966 演義では諸葛亮らの従兄弟になっていますが、一族なだけみたいですね。
狗 ではなく優秀な方ですが、不遇と活躍を行ったり来りですよね。
征東大将軍にまでなりながら、司馬昭に反乱を起こし斬られましたね。
ところで、先祖諸葛豊は法家、諸葛亮らを保護した諸葛玄は儒者ですよね。
諸葛誕…老荘はちょっと調べつきませんでした。
970 :
455:2005/06/11(土) 10:37:35
劉備の字の「玄徳」は老子51章に出てくる「最高の徳」を示す文言です。
劉備自身、一応は学問を身に付けています。ここから、ある程度の学問を
身に付けている人ならば老荘は誰しも通っているのではないかな、と
思います。ので、法家や儒者のようにその人となりをくくるようなものでは
なく、もっとこう、一般的に普及しているんじゃないかなあ。また、儒者だから
とか法家とかで括りきれないんじゃないかなあ。李斯と韓非からして儒者の弟子だし。
現代日本人がクリスマスから1週間のちに寺社仏閣で手を合わせるかのうよう、
というと判りやすいかな。
演義は巷で広がった三国志の講談話(むしろ講談の台本)を集めて一つの物語にした物です。
その為客である人々の受けの良い形に語り手たちはあの手この手で話を加えています。(例えば10万の矢を集める話や苦肉の計の話など)
特に民衆心理として強いものを嫌い弱いものに同情するという流れがありそれが講談にも影響しています。
また成立した時代の宋代は都市の市民の力と文化が高まっており大衆文化が生まれていたと思いました。
うる覚えなので間違ってたらスマソです。
>>970 昔の学問は老子、荘子などを暗記するのがメインでしたからね。
恐らく学問を志した人なら多少なりとも影響を受けてしまうことはあるのではないだろうか。
>>971うむ、つまり蜀を贔屓しすぎてしまうという問題が出てしまうわけですな。
特に曹操や周瑜が可哀相過ぎる
>>970 「玄徳」にはそんな意味があったんですね。
とすると曹操の字「孟徳」にも何か特別な意味が?
974 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/12(日) 22:17:20
孟に意味はないよ、いやあるけど
孟は主に庶流の長子に用いられる字。
>>975 補足、字について 当スレ
>>767 よりしばらく、字論議をしておりますので、ご参照ください。
宮廷 新体制討議の場に 趙休より新人事の成案が出ている
許柔 破才 東王公 勾汪伯 魏興の各氏
自身の人事案について 希望を
又 他の案に関して意見あれば…
なかなか埋まらないな!
ここは埋まらなくてもいい
むむむ・・・
981 :
劉秀:2005/06/13(月) 13:30:45
久しぶりです。
宮廷でオレの名前あるの見て登場しました。
でも、トリップ忘れちゃったな。
おまけに、劉秀は光武帝の名前だし、劉じゃ皇族みたいだしな。
改名&トリップ変更します。
劉秀から竇秀に改名し、参加するね。
今後はこのトリップでいきます!
仕方ないなクイズで勝負じゃ
劉秀コテが最初に仕えた、帝は誰じゃ?
昭烈帝陛下です。
うむー 正解じゃ
竇秀が本物
>>983 は偽者じゃ!
お待ち下さい
そんなの先に答えただけじゃないですか!
昭烈帝陛下の事を忘れるわけがないですよ。
自分が本物だと言う事を何とか証明しないと・・・
じゃ昭烈帝って誰のこと?
申し訳ありませんが質問の意味がわかりません