後の街亭での失敗もないだろうし、成功すれば面白い。
2 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 19:31:15
スマン誤爆
3 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 19:31:51
成功すれば、ってのが既に仮定だしなー
4 :
氷連中尉:05/03/07 19:41:12
う〜ん・・・・・。
成功する確率低いし・・・・・。
まあ街亭で敗退しなければ、長安にたどりつけたと思いますが。
失敗したら泣いて魏延を斬る
6 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 20:02:38
別に泣かねえだろうよ
魏延・孔明スレでやれよって言うか散々やってるだろ
***終了***
魏延のバック責めを孔明がオーケーしていたら
9 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 20:12:13
長安を獲れたとしても漢中から遠すぎて維持できないと思う。
涼州や長安一帯の徴税機構がまともに機能するようになるまで何年かかかるだろうから。
10 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 20:35:05
>>9 正論だが馬超や姜維など西域出身者を重要ポストに迎えた蜀の狙いは
はじめから西域にある。漢中からじゃなく西涼より維持する発案はとっくに
立っているはず。
また街亭に行けばよかったんだよ
12 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 03:08:35
失敗してた可能性が高いかもしれんが成功していたら面白そうだ。
馬超だって長安まで来てるし、
>>9の言う通りもちろん維持するつもりで北伐してるわけだから
その辺は心配無いんではないかい?
13 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 04:17:48
馬超がいるから長安を奪えば10万は集まります。
間違いなく西州・擁州は手に入りました。
おまいらの会話は三国志の質を落とすなぁ。
上庸の孟達を、もっと早く取り込んでいれば補給面は問題ないって
昔読んだ本に書いてあったよ。
16 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/09 09:16:11
長安を落としていたら
そして、何年か維持できたら涼州とかは取る事ができたよね?
維持もなにも、長安落とせば自動的に涼州は手に入る
18 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 03:16:51
19 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 03:17:54
孟達って名将?
20 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 03:23:04
名将に成り損ねた男
つーか馬超は死んでるじゃん。
でも、馬超が存命中だったとしたら、かなり美味しい賭けな気がするな
なんてったって、一度長安落してる(であろう)だけに、
あの辺一帯への威圧と影響力は相当なもんだろ。
地理にも詳しいだろうし、周辺の羌&テイへのコネクションもある。
なんて、妄想もいいとこなんだけどな…。
でもちょっとは夢みたくはなるよな、長安急襲作戦。
22 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 03:28:52
つまり魏延じゃなくて馬超がその作戦を持ち出したら採用されたかもしれないってことか?
とにかく馬超は北伐にいたらさぞ力強かったろうに。
23 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 12:53:37
>>22 それを見越した重用だろうしな
肝心なところで重臣は死ぬのが蜀漢のデフォだからな
馬超のように国まで失う。
長安攻めは失敗した方がはるかに被害が少ない
25 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 13:57:22
それ以前に長坂橋で、劉備が劉禅を投げ捨てたりしなかったら
北伐以前に蜀が統一していた。
劉禅は大天才だったのに、あの時投げられて頭を打ったから
アホになった。
26 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 14:47:05
バ○ボン?
28 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 16:10:28
孔明が長生きしてれば済んだ話
孔明が長生きしてた所で祁山に出かけて司馬懿に撃退されるのがオチだろ
30 :
ララバイ田中:05/03/10 16:28:17
歴史に「もしも」は無いと学校で習わなかったのか?
それに、その「もしも」があったとしたらこの世界は別物になっちまう
わけで、お前らがパソコンの前でタイピングしてる「今」は無くなる。
絶えられないだろ!? だから!!!!「もしも論」は辞めようぜ!
魏延の蝶餡責めを孔明がオーケーしていたら、孔明はきっと魏延に心底惚れていただろう。
でも孔明ちゃんは木牛責め命だったから。
32 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 17:05:05
コウメイにWindowsの入ったパソコンあげてたら
長生きしたかもな
33 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 17:37:30
孔明は人材の使い方が不味い。
北伐時、魏延なんぞに頼らなくても、
木鹿王を生かせておき、虎や猿を使えばラクに長安を落とせた。
いや2chで不平不満を述べて士気を低めている奴らを全員打首
司馬懿を打ち破る策をググる
38 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 20:41:24
てか魏延て蜀ではどのくらいの能力の武将なの?
39 :
ララバイ田中:05/03/11 20:51:47
やっぱり厨ばっかりだな
41 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 21:23:46
ララバイ田中
でも馬超が落としたときはそもそも長安周辺は豪族の割拠する地域で
曹操の支配下には無かったよね。
長安陥落しても逆に馬超撃破で自分の支配下に入れちゃったくらいだし、
奇襲で一時占拠しても余裕で奪還されるでしょ。
>>42 194年に李カクが討伐されて以来、長安は曹操の管轄下だよ
司隷校尉の鍾ヨウもバッチリ赴任してる。
馬氏は一応曹操寄りだから槐里あたりに駐屯。
で、そっから西が軍閥が割拠してる地域と考えるのが無難だと思われる。
なかなか賢い人しか参加できないスレだな。
高レベル議論スレ
45 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 13:49:13
>>33 孔明は実戦に関してはあまり得意ではなかったらしい
ただその時代では珍しい科学についての知識が豊富で
風向き、天候等をある程度予測できる人物だったらしい
46 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 13:51:30
二十歳すぎまでひきこもってたんだから当然だよなぁ。
まぁ晩年までには実践的な軍略を神レベルまでマスターしただろうと勝手に思っているが。
孔明は現代のNEETの味方
武将としては
司馬懿>諸葛亮だと思うけど
諸葛亮は内務向きでしょ
49 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 21:22:01
丞相だからな
50 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 21:38:15
もし
蜀に諸葛亮 魏に司馬懿
ではなく
蜀に司馬懿 魏に諸葛亮
だったら
51 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 22:28:15
>50
魏は諸葛亮くらいの人材は多いから、あんま変わらず。
蜀は劉備が死んだあと、司馬家に簒奪されてたかもな。
その後の歴史は各自で妄想してください。
それでも結果は同じじゃないの?
漏れにも三顧の礼をしてくれる君主様こないかな
学校の先生が三回訪問してそうだなw
56 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/21(月) 16:44:03
勘違いしてはいけない。北伐はあくまで積極的防衛。長安を獲るなんて
あり得ない。魏延はそこんところがわかってないから、孔明から疎まれたってわけ。
57 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/21(月) 17:17:27
>>56 そういう説もあるね。
でもそれが正解かどうかは不明。
>>56 一回目はガチ
そうじゃなきゃ孔明は呉に向いていた魏の目を蜀にも向けてしまった間抜けになっちゃう
北伐しないんじゃ蜀漢を名乗る資格を問われちゃうからな、だから攻めたいところなんだが
長安取れても維持するだけの力がないから深入りしたくなかったんじゃないだろうか
60 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 01:39:49
なるほどね。孔明も色々考えてるのが分るな。
最初もガチだが最後もガチだろう
死ぬまでがんばったから
諸葛亮はもともと、天下三分の計のときに
ケイとエキの二方から攻めれば都は落とせると言ってるので
関羽が曹仁を攻めたとき、呉が攻めてこなかったなら
そのままいけたかもしれんのだなあ
ケイシュウを取られ、エキシュウの国力だけで魏を倒せると
本気で思ってたかどうかは疑問だな
諸葛亮が、仮に五丈原で死ななくても
魏を落とせないままだらだら時が流れて
蜀はやられたのではないだろうか
あるいは諸葛亮が存命なら、蜀の政治の腐敗を招くこともなく
国力を一定に保って、トウガイが攻めてきても耐え切って
どうにかなっただろうか
結局大軍が攻めてきたら、蜀は押し潰されると思うんだが
トウガイが回り道して成都を落とした場合、諸葛亮はどう動いただろうか
>62
その頃、存命でも80越してるから。
時間に追われるのが主題ともいえるゲームですぜ
こうやって諸葛亮が成都をガードしていればトウガイといえども落せなかっただろう。
○○
○ ○ ワー
○ ● ○ ワー
○ ○
○○
66 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/27(日) 13:45:00
ワロシw
67 :
ヾ(o・ω・o)ノ" ◆q5Vs46kmcM :2005/03/27(日) 15:52:43
魏延の長安攻めの欠点を改めて挙げてみよう
・曹真の三方面作戦からも分かる交通面での不安定さ。
・想定に反して夏侯楙が逃げ出さなかった場合のケース(工作員ぐらいは入れていたと思うけど)
・仮に奪取が成功した場合、諸葛亮本隊が関中軍を迅速に撃滅し、早急に補給線を確保する必要があること。
こんなところかね。
まあ実際これを考えてみると、二重の陽動作戦という周到な仕込みをしている
諸葛亮の第一次北伐作戦計画の方が格段に優れてるし、
あれは、悪くても涼州までは確保できる(はずだった)案。
涼州確保時の西域貿易や精兵確保の利益の大きさは
五胡十六国時代の涼州での各国割拠や北周王朝の事を考えればよく分かるし、
そうなったらより面白くはなってたと思うな。
あと、これは個人的な強引な論だが、第二次の陳倉の戦いはある意味この魏延案の
折衷案的シミュレートと見る事もできなくもない。
30年後ではあるけど、蜀滅亡時には魏は関中諸軍だけで10万を
送り込んだよね。
蜀が本格的に関中に迫ればその10万に加えて守備隊まで加わるわけで・・・
69 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/27(日) 20:20:59
つまりは諸葛亮のとった判断は正しかったのか?
結局馬謖がしくじったせいで、実際上の成果を見ることができなかったから、何とも言えないのよね
第一次北伐が全部順調だったら、諸葛亮の将帥としての評価は今よりもっともっと上だったろうね
ラッブガ〜ン!!
正直馬謖のおかげで深入りせず傷が浅くて済んだ可能性は無いでしょうか?
街亭以外にも涼州に通じる道はあったし、趙雲はいずれ曹真の軍勢に敗れて
いたし、曹叡の親政軍は長安へ接近中。
これを押さえつつ涼州確保は至難では無いでしょうか?
へたに涼州に深入りすれば退路を絶たれる恐れも十分あったし、曹真・曹叡
の軍勢に孔明の本隊で対処し得たとは到底・・・
>>73 どんな大軍も数の優勢を生かせるような展開が出来なければ全く意味がないと思うけど。
例えば街亭の場合、当時のその近辺は大森林地帯となっていて、
大軍の展開が全く不可能な地形だったらしいけど、
張郃が交通路に選んだ街亭方面でさえそうなんだから、
他の交通路が平坦であったとは考えにくい。
恐らく、馬謖が街亭で張郃軍を食い止めていれば、
涼州の制圧は時間の問題だったと思う。
関中から隴西へ向かう進軍路は、張郃のとった街亭を通り略陽を経て上ケイの北に出る道と、
渭水に沿って西進し、臨渭を経て上ケイの東に出る道の2本だと思う。
諸葛亮の事だから、渭水沿いの道には何らかの対処をしていたんじゃないか?
じゃなきゃ、張郃もわざわざ行程の長い街亭経由の道を選択はしないだろう。
>>74>>75 渭水の道の方はちょうど趙雲が曹真を足止めしてる辺りじゃなかったっけか。
司馬懿も第四次北伐の時に街亭の道を通ってるし、他の交通路はあったとしても
まともに通れる状況じゃなかったとかそういう事情があったのかもね。
77 :
諸葛☆孔明:2005/03/27(日) 23:58:42
こんにちわ、はじめまして!
2チャンネルにくるのは今日が初めてです。
よろしくお願いします!
魏延は戦いのことしか考えていないので、この作戦はだめだと思います。
仮にオーケーしても司馬イや曹ヒに負けたと思います。
単純に考えて、趙雲にはもっと兵をつけとけば良かったな
トウ芝も副将についてんだし、兵数さえしっかりしてれば、
曹真に勝てずとも、陣を抜かれはしなかったと思う
諸葛亮伝を見る限りでは、兵の錬度は高かったようだし
>>78 俺の中では趙雲の敗退は恐らく街亭での失敗後に撤退命令が出たとか
そういう可能性もあると思うんだがどうだろう。
まあ趙雲の方はあくまで陽動だからね、出来るだけ兵を減らしてこそ意味がある。
それに一応趙雲の方は大敗には至ず、曹真の軍を引き付けたんだから、
中々いい仕事したと思う。
多分、曹真も諸葛亮が祁山に進出した段階で、趙雲軍が囮部隊とは気づいただろうけど、地形が険阻、万が一破れれば長安に比較的近い(趙雲が勝ってもそれ以上進出するかは不明としても)と言う点から本格的な攻勢に移らなかったんだろう。
ついでに言うと、曹真率いる長安駐留軍に大規模な攻勢をする兵站能力があったか疑問。
街亭で諸葛亮の本体が敗北したことを受け、(当然)囮部隊も撤退する事を見越して本格攻勢&追撃に出た、って流れでしょう。攻勢&追撃と言っても、上記の兵站能力から、戦果拡大程度だろうけど。
距離的に、隴西方面の戦況が届くのは趙雲、曹真ともに同時くらいかな、と思うけど、街亭後の混乱は蜀漢側の方が大きいから、曹真の方が状況把握が早かった可能性が高いかもしれない。
趙雲は、今まで対峙していた曹真が攻勢に移った事で、本体の敗北を悟り、無理をせず撤退、って感じかな。
趙雲の降格って結構軽いと思う
鎮東(西南北)と鎮軍って結構職位に差が無いって聞いたんだけど
あの年は呉が大勝してただけに街亭さえうまくいってればどう転ぶか分からなかったかもしれないね
魏にしても呉蜀双方を相手にするのは厳しかっただろう
仮に涼州方面とれてたとして、
そっから長安方面への進出って難しく無いか?
長安までは距離もあるし、長安の防備を固められたら、そこで手詰まりだべ。
>84
隴西を確保出来れば、イ水・黄河上流域を押さえる形になる。地形的にも隴西方面の方が、当然関中盆地より高地であるから、軍事的にも有利。
しかも、隴西に駐屯する蜀漢軍は隴西を確保する事で兵站面での問題が漢中方面からの軍事行動より格段に少なくなる。
つまり、隴西方面から関中盆地に圧力を加えられるわけだ。
魏が、そういった圧力を排除するには、隴西方面へ軍事行動を起こすしかないが、長安を策源地とする限り、隴西侵攻には兵站問題が付きまとう。
蜀漢側には兵站問題は少なく、地形的に有利とすれば、防衛は難しくない。
だからと言って、
>>84氏のように防御を固めると言っても、蜀漢の圧力・影響力から関中盆地周辺の異民族やの動きが活発化すれば、関中盆地の在地豪族連中の安定が脅かされる事になる。
在地豪族連中の不安が高まれば、魏の統治が揺らぐ事になる。
蜀漢が隴西を押さえれば、関中は動揺し、動揺が長引けば蜀漢が長安を確保する可能性も高まると言うこと。
曹操も、漢中から撤退する際、関中地方への足がかりにされないように、武都の住民を関中に移住させてるしね。
隴西を確保した時点で魏の警戒は強まり
長安の防備は固められるわけで余計に長安攻略は遠のく
>86
防御を固める、ってのはどんな防御かね?
それ以前に隴西を押さえてもそれは役人を派遣して間接支配するのが
魏から蜀に交代するだけの事と思いますが。
それで徴税したり軍を編成出来るはずもなく、蜀から遠く隴西に占領軍
を派遣しては漢中が危うい。
それに魏が本気になれば直接隴西に向かわずとも漢中に大軍を派遣して
押し込めば迂回して隴西に向かうことも連絡を遮断する事も自由自在。
244年、263年いずれも魏は10万を越える大軍で侵攻し蜀は国境で迎撃
する事など不可能だった。
>>88 魏も兵站問題について全く解決策は持ってないから
>それに魏が本気になれば直接隴西に向かわずとも漢中に大軍を派遣して
>押し込めば迂回して隴西に向かうことも連絡を遮断する事も自由自在。
なんてそれこそ不可能だと思うけど。
>>88 >それで徴税したり軍を編成出来るはずもなく、
蜀の南中政策をもう一度勉強しなおしてこい
>88
関中から漢中を秦嶺を越えて攻め込む難しさを理解していないと思うけど。
263年の時は262年頃に蜀漢側が秦嶺付近の防御体制を大幅に変更(と言うか撤退)しているし、244年の例を取れば、10万単位の大軍ですら、
3万足らずの漢中駐屯軍に秦嶺付近で足止めくらってる。
それ以前に曹操が漢中の再奪取を目指した時も陽平を保持していながら、撤退に追い込まれてる。
大軍で侵攻する事すら難しいのに、押し込んだり迂回なんてとても出来ない。第一、補給が続かない。
蜀漢が隴西方面を確保出来れば、隴西、関中周辺の異民族との連携も期待できる。
実際、諸葛亮が祁山に進出した231年の戦役では上手く連携できなかったが、隴西が確保出来てれば、随分違った状況だったろう。
徴税云々まで行かずも、策源地として利用できるし、漢中が策源地であるよりは、ずっと兵站問題は少ないはず。
また、隴西を確保した後の隴西防衛は地形的に蜀漢が有利で、蜀漢側は全軍を隴西に貼り付けて置かなくても済むと思う。
戦争ってのは、大兵力を集めれば済むってもんじゃないんですよ。
まあ良くも悪くも諸葛亮らしい作戦ではあるな
隴西を先にとるというのは
だが蜀がそれに準備期間を費やすというのは同時には魏にもその準備期間を与えることになる
国力で上回る魏に準備期間を与えての正面決戦は蜀に不利といえるだろう
>92
正面決戦とかの問題では無いでしょう。
蜀漢は隴西方面を永続的に確保する事で、大規模な軍事行動に出なくても、涼州確保の可能性も高くなり、関中方面の(魏に対する)不安定要素を増す事が出きる。
つまり、それなりの期間を費やす事で、魏にとっては1州(涼州)の喪失+関中地方の不安定化が増すと言う事になる。
国力に差があっても第一義的な負担を受けるのは当該地の関中方面であるし、それを緩和させようとして遠方の諸地域から兵力の動員や兵站を負担させようとすれば、魏全体の社会問題に拡大してしまうし。
それが嫌なら、隴西に侵攻するしか無い。
涼州、関中の状況を考えると、それなりの大規模派兵となるが、兵站の問題がある。
兵站問題をクリア出来る程度の派兵であれば蜀漢に各個撃破される可能性が高い。
こういった二律背反的な状況に追い込む事が諸葛亮の目的でしょう。
ジレンマに陥って、早急な全面解決を求め、兵站問題を無視して大規模に派兵すれば、それこそ関中を失うような敗戦に結び着く可能性が出てくる訳だから。
94 :
93:2005/03/28(月) 23:51:20
続き。
魏と蜀漢の国力の差はかなり大きいが、当面設定した作戦地域においては戦略的に有利な位置(地形のみでなく)を占めよう、と言う構想ではないか、と。
実際に、第一次北伐の時は、単純な物差しでしかないけど、兵力的には五分か、蜀漢側が若干有利。
というか、隴西奪取っていう戦略は、策源地として以上に、
経済的に凄いメリットがあると思うんだけどどうだろう。
当時、蜀では貨幣鋳造に力を入れていたそうだけど、
その蜀銭が魏や呉の領土のあちこちで発掘されるらしい。
そのことや、蜀では当時絹織物などの交易向けの産業が盛んだったことを考えても、
当時の蜀漢は交易をかなり積極的に行っていたと考えてもいい。
そこから考えると、蜀が西域に通じる交易路を抑えるという事自体、
蜀の国力に大きな影響を与えると思うのだけどどうか。
96 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 01:43:41
なるほどね。
蜀が西を抑えることで一気に逆転勝利を収めちゃう可能性があるわけか。
諸葛亮のプランは規模がデカいな
自演スレ
経済力で魏を上回れば後漢末の混乱で貧困に喘いでいた各地の豪族を金で寝返らせる事も可能だったかも
涼州って、絹織物での交易や、異民族との協調路線の可能性など、
蜀にとってはメリットが見える土地だけど。
魏にとって、損失がそこまで痛い地域だとは思えないけどなぁ。
中央集権制の王朝という形態をとってる限り、
羌やテイとの衝突は背中合わせだし、懐柔策に苦心する必要もある。
後漢期には、たびたび放棄の提案がなされる程、土地も豊かとは言えない地域だし、
漢族の人口も少ない。
関中地方の不安定化や圧力ってメリットってのも、随分漠然としてないか?
関中の有力な豪族は211年の段階で一掃されてるし、その時の敗残兵や流民なんかも
すでに取り込まれているので、独自の力を持つ在地豪族連中ってのが、
魏の統治を揺るがす程存在してるとは思えないよ。
涼州方面を押さえるってのが、有力な手段である事には違い無いと思うけど、
メリットが誇張され過ぎてるぽ
魏の内部崩壊に重点をおいて、利を説いてるように読めるけど
内部問題だったら、蜀の方が大きいわけで、
そこを無視して、魏の関中統治の破綻のみを期待するってのは
少し無理があるんじゃなかろうか。
>>101 涼州方面を押さえるのは、政治的よりも軍事的に意味があると思う。
少なくとも挟撃されないメリットは大きいと思う。
いきなり長安攻めは点でしか無いが、涼州方面を押さえれば面で対抗できる。
それに涼州は反曹操がいまだくすぶる都市、戦力の底上げも期待できる。
>103
いや、それはわかってるって、蜀的にはそれなりにメリットが大きい。
でも、涼州とられてグラつくほど、魏の関中支配は緩く無いんじゃないかって事。
蜀のメリットと魏のデメリットの数値が=じゃないって事だな
単に領土的な問題に留まらず、蜀に侵攻されて、魏が領土を喪失したという事が、
対外・国内に対してかなり影響を及ぼすんではないだろうか。
軍事的な面でも馬超が長安を落した時の事を考えれば、
長安に対してかなりの圧迫になるのは間違い無い。
涼州・漢中方面からの侵攻と、それに合わせて孟達が裏切ればかなり危ういし、
それに乗じて蜀に寝返る連中も増えるかもね。
>>100 というか、経済力の増強はそのまま軍事面の増強にも繋がるからね。
そもそも諸葛亮の政策は量より質政策で武器防具開発に超力入れてる。
作部の作った刀斧数百枚を百余日も使わせてみて、
その性能を入念にチェックしたって話もあるぐらい気を使ってる。
経済力が増強されれば、それらの面も増強されるのは明らかだし、
さらに、その経済力で異民族傭兵を雇うなどの手段もある。
これによって綜合的な軍事力も増強されることになる。
もちろん、涼州をとるのは地政学的には軍事的なメリットも大きいし、
>>106氏の言うような魏の一州の領土の喪失という問題、
そして、それによって出兵を誘い、自らの有利な状況に追い込むという
>>93氏の言うようなメリットもある。やはり涼州とってたら面白いと思うな。
>>106 対外・国内に対しての影響を考えるなら、
それこそ長安落すぐらいの事しないと、良い方向での効果は得られないんじゃないか?
馬超にしても、長安を落したからこそ、曹操自ら遠征する事態になったわけだし。
あと、馬超が長安を落とせたのは、
馬氏そのものは槐里を中心に勢力をひろげていた上で
槐里から金城付近までの隴上の有力者を煽動出来たからこそじゃないかな。
涼州方面からの遠征ではなく、自分の本拠地に涼州の軍閥を集結させたって所が
ポイントだと思うよ。
(このへん、鍾ヨウ伝とかの記述が綺麗さっぱり消えてるから、具体的には不明だけど)
涼州制覇による魏と蜀の変化、おそらくすべて孔明の頭の中では計算されてたんだろな…。
>>109 異民族対策とかウキウキしながら考えてたりな。
とらぬタヌキの皮算用か。
可哀想になるな。
>108
長安を落として、維持出来る能力が蜀漢にあったかどうかでしょう。
隴西・涼州方面と違って、蜀漢側は点の支配であって、兵站問題が付きまとう。
魏側は本領に近いから、大軍を動員しても兵站問題は少ない。点を確保しただけの蜀漢軍を追い返すくらいの期間は持つんじゃないかな。
蜀漢も長安周辺に主力を駐屯させるだろうけど、魏も大軍を動員できるとすると、遮蔽物の少ない平野部での正面対決になる。
こういう展開だと、蜀漢が著しく不利だと思う。
ちょい質問なんだけど、
隴西・涼州方面を支配するにあたり、兵站問題は無いの?
支配後に自給出来るか否かだったら、
隴西方面も長安方面も大差無い気がするんだけど。
>113
隴西・涼州方面と言う一地方を完全に確保出来れば、長安と言う都市を押さえているだけとは相当差があるかと。
長安と言う狭い地域に大軍を集中して、給養するのは、かなり困難なこと。
確保途上から完全に自領とするまでは、ある程度隴西方面の物資をあてに出きるにしろ、漢中方面からの補給も当然必要になる。
漢中から長安方面への秦嶺を越す兵站線に比べれば、遥かに容易な兵站ルートになるだろうね。
隴西方面をとりあえずでも、ある程度確保出来れば、天水郡治のキ県辺りを策源地に出きるから、その後の軍事行動にも余裕が出きる。
諸葛亮が当初、隴西方面に進出したのも、兵站ルートの関係が大きいだろうから。
点の支配と言うけど、
長安の駐屯軍を撤退に追いやれば、三輔を支配下におけるわけで、
兵站はまかなえるんじゃないかと。
(長安の貯えは焼かれる可能性もあるし、アテにするのは危険だから、
最初だけ別働隊による兵站の運搬が必要になるだろうけど)
それに、涼州を確保しても、長安が揺らぐとは思えないけど
長安を落とせば、涼州方面を恭順させるのは比較的容易で、
(後の北伐を見れば、容易どころか自動的に呼応しそう)
点から面への展望が見込めると思うよ。
曹丕の死、呉の進行、孟達の反乱 、曹休の大敗と
226年から相次いで魏に混乱がおこってる時期に、長安を急襲するってのは
それなりに魅力のあるプランだと思う
孔明「だ、だまらっしゃいっ!」
>115
長安の駐屯軍を撤退に追い込んでも、三輔をある程度支配する前に、魏の反撃があるんじゃないかな?
魏の反抗に対抗するには(あるいは警戒し)、蜀漢もかなりの兵力を張り付ける必要があるだろうから、兵站の問題は解決しない。
隴西・涼州については
>>85 >>93 辺りを考慮してください。
長安と言う点を一時的に奪取された場合、魏・本国の対応次第では、再び魏・本国との連絡線も回復するでしょうから、容易に恭順はしないでしょう。
隴西地方をある程度蜀漢が抑えた場合、魏・本国への連絡線回復には相当時間がかかると予想されるので、涼州の動揺は大きいでしょう。
本国との連絡線の確保が容易であれば、涼州・隴西地方の魏の地方官等も軍事行動を起こす可能性も高まるが、難しければ、全く動かないか、恭順するしか選択肢はありません。
ぐずぐずしてれば、在地有力者が地方官の首を狙うでしょうから。
ついでに言うと、曹休の大敗は街亭後であって、魏延のプランのずっと前です。街亭で大勝したので、曹休も安易に策にかかった、って点もあるでしょうし。
むちゃくちゃな論理だな
>118
どの辺りが?ご教示下さい。
>曹休の大敗は街亭後であって、魏延のプランのずっと前
魏延のプラン提示ってそんな後だったっけ?
>120
魏延のプランは、ですね。失礼しました。
>>85や
>>93の言う程、関中への影響力は見込めないし、
隴西方面への遠征のための兵站が社会問題に発展するってのはオーバー過ぎ。
隴西、涼州から長安方面への進出のための長期戦略をたてるのは難しいっしょ。
>>91で、漢中の防衛は、地の利があるから安心と言ってるけど、
244年の曹爽の10万を撤退させた事蹟については、
3万の漢中駐屯軍が、229年に修築された漢城・楽城に拠った上で、
費韋が率いる本隊の援軍待ちの構図だったって点が大きい。
隴西統治と漢中防衛のために、主力を分散した状態で、
同じレベルの対応をとれるかというと、難しいだろう。
魏の対蜀漢戦略としては、遠征して来た所を叩くってのが基本だけど、
涼州が確保されたとあれば、魏は遠征してでも討伐にかかるだろうから、
漢中は遠征が難しい土地とはいえ、
長期戦で臨むにあたっての、不安要素は大きいよ。
なんつーか、涼州攻めの長期プランにしろ、長安攻めの短期プランにしろ
後の展望については、影が付きまとう気がしてならないんだが‥
>>122 漢中に関しては地の利である程度安心な部分はあると思う
その他は同意
街亭で負けなかったとしても曹叡の大軍がきたらそこまでじゃないのか?
>>122 俺はその魏が遠征して討伐にかかるって部分こそ諸葛亮の狙いだと思うのだけどなあ。
>>74にも書いた通り、どんな大軍が来ようと、それを維持する為の兵站面、
そして、展開できるだけの地形がなければ充分に活用することはできない。
涼州方面や漢中方面へ魏が討伐に来たとしても、それは蜀漢にとって有利な
フィールドで戦う事になるため、戦力を削れる公算もより大きい。
むしろ、問題は統治面だね。南中のようにうまくいくかどうか。
>>126 涼州で防衛する分には蜀の兵站面はあまり問題ないよ。
漢中→長安ルートに較べて高原だけど地形は比較的平坦で、
補給線は繋がりやすく負担は大分少ない。
>122
244年の戦役は、漢・楽二城に拠ったのではなく、山岳地帯の興勢で食い止めた点が大きいと思うけど。漢・楽二城に拠ろう、と言う意見は、王平に却下されたんじゃないかな?
社会問題化は確かにオーバだと思うけど、長引けば、大なり小なり起りうる問題。
それに漢中より関中に地勢的な繋がりの強い隴西の失陥は関中への影響は大きいよ。
第一次北伐で、諸葛亮が隴西に進出し三郡が叛しただけで「関中は震動した」って正史にもあるし、明帝自身が長安まで出張らなきゃならなかったんだから。
影響が見込めない、と断言するのはどうかと。
それと、魏が漢中に攻め込む不安をおっしゃっているけど、関中から漢中へ侵攻する際の横腹である隴西を押さえられている状況で、兵站に不安を抱えて軍事行動を起こせるのか?
と言う問題もある。しかも、元々攻め込み辛い場所へ。その上、この状況下では蜀漢側に主導権がある訳だし。
漢中ー涼州の蜀の補給ルートと
長安ー涼州の魏の補給ルートは
魏の方が格段に楽だよ
>129
隴西を確保すれば、天水郡辺りを策源地に出きるので、兵站の問題は少なくなる。
単純に距離の問題一つとってもね。
長安から涼州は、途中に策源地となり得る場所が無いため、かなり長い兵站ルートとなるため、大軍を派遣するのは難しい。
兵站面をクリア出来る程度の派兵では蜀漢軍に各個撃破される可能性が高い。
131 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 22:43:29
良スレ。
読むの楽しいぞ!
孔明厨暴走スレなんだがね
>132
孔明厨と言うか、普通の軍事常識からの意見だと思うけど。
>>129 いや、前にその辺の地形関係の話はしたと思うんだけど、
街亭方面は
>>74に書いたように大軍の展開が不可能な大森林地帯で、
明らかに総兵力で劣る蜀、そして防衛側有利の地形。
また、大軍の輜重を用意する分にも不便な地形。
イ水方面から上ケイに出る場合も同様。
険しい山道を通らねばならず、とても大軍派遣には向かない。
そして、蜀の主要な補給ルートとなるであろう祁山→天水方面の道は
高原ではあるけれど、平坦でそれほど補給には困らない道。
明らかに兵站の面で言えば蜀有利だと思うけど。
蜀が魏に勝つのが常識か・・
街亭守る→孔明隴西へ→曹叡到着→曹真が趙雲を撃破→孔明VS曹真
こんな感じになるのかな?
曹叡到着後の動きがよく分からない。
>135
第一次北伐(隴西方面指向)に関しては「当該作戦地域において、敵との戦力差を均衡、あるいは優勢に持ち込む」と言う点で優れている、と言ってるだけ。
蜀漢が隴西方面を確保した場合、有利な位置を占める、って言ってるだけで、漠然とした勝敗と言う事を題材にしてるわけでないよ。
釣られない方が賢明かな。
漢中から祁山天水に出るまでどれだけ道が険しいと思ってんのかね
子午ほどでないとしても桟道や険阻な山道であるのには変わりない
長安から祁山天水はある程度楽
>136
街亭で蜀漢が勝利した後の展開は予想しづらいが・・・。
少なくとも、蜀漢本隊が隴西にいる段階で、曹真が趙雲と本格的な交戦状態になるとは思えない。
趙雲の敗北は、街亭での結果の部分が大きい感じだから。
魏は街亭で敗れると、手詰まりの感がある。とりあえずは、蜀漢の侵攻がこれ以上広がらないようにするしか無いかも。
蜀漢側も隴西が確保出来れば、それを完全なものにするため、それ以上の動きは起こさないだろうし。
明帝も、蜀漢ばかりかまってられないだろう。
街亭で蜀漢が勝てば、呉も積極的になる可能性がある。
>>138 うーん、俺の手元にある「三国志軍事ガイド」によれば、
>諸葛亮が侵攻のルートとして選んだこの道は、故道よりもさらに西側を通ており、
>陽平関を出て西に向かい、下弁を通り、洛谷付近より北に折れ、
>建威、祁山、木門を経由して天水に到達する道でした。
>この道は秦嶺を越える道よりも険しくない道でした。
>祁山から木門に至る地域は高原でしたが平坦な地形で(後略
とあるのだけど、これが間違っているということ?
長安から天水方面に出るとなると故道を通るルートのことだよね?
まあ蜀から長安方面に出るルートの中では楽なほうだけど、
決して楽な道とは思えないのだが。
魏のどこが手詰まりなんだかw
>138
漢中から祁山・隴西方面への道が険しいのは同意だが、隴西が確保されれば、その問題もある程度軽減される、って事ですよ。
第一次北伐は準備も周到だったようで、街亭で敗れるまでの数ヶ月間、兵站問題は起きていないし。
長安方面から隴西へは、隴西を魏が確保していれば一息できるだろうけど、隴西に対する軍事行動では、距離と地形で厳しいものになる。
特に大軍ではね。
>141
何度も書いてるけどねぇ・・。
魏が隴西の再奪取を図れば、大軍が必要となるが、それには兵站問題が付きまとう。
蜀漢側は隴西を確保しているので、防衛側の利益を享受出来る。実際、隴西の入り口になる街亭付近は地形が険阻な場所。これは
>>74氏がおっしゃる通り。
ここで無理して軍事行動を起こせば失敗する可能性が高い、って当然魏側も判断するだろう、と。
軍事行動を起こさなければ、涼州は危機に瀕し、蜀漢の隴西統治の時間を与える事になる。
軍事行動を起こせば、失敗の可能性が高く、失敗のツケは関中全土の失陥に繋がる可能性も無くは無い。
どっちむ難しい、と言うのは手詰まりでは?
よろしければ、何か意見を聞かせてくださいw
>>143 前提からしておかしいよ
兵站問題が付きまとうのは魏よりも蜀側
そして張コウの2万を防げなかった街亭が曹叡の大軍を防げるわけもない
145 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 23:21:56
孔明が奇跡的な大勝利を十連続で起こせば勝てる。
そんな感じ
隴西というかあの地方は確かに魏に対して反抗的な地域だが、だからといって
蜀が変わりに支配すれば従順になるという根拠はなに?
147 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 23:26:52
万が一負けた時orてこずった時の責任逃れがまんどくせい、だから本気で攻めない。
本気を出せば国力差を考えたら二十倍近い兵を出せるほうが勝つだろうよ
>>144 ハゲド
魏の大軍の遠征に兵站問題が付きまとうって連発してるけど、
それを踏まえた上での数10万単位の規模の遠征なら、十分出来る範疇。
日本史における桶狭間と同じで、成功すれば天才、失敗すればたわけと言われる
ような作戦だと思う。
桶狭間なんて、普通に考えれば出撃するような状況じゃあないぜ(だからといって
篭城が正しかったとも言えないが)。
>>148 数十万単位の遠征ってのがどれだけ大変か(ry
出来る範疇というからには根拠があるんだろうけど是非聞かせてほしい。
>144
蜀漢側に兵站問題が付きまとうのは、当然認めるし、元々認めてる。
ただ「隴西を確保出来れば」って前提をつけて話をしている訳だ。
で、張コウ軍5万だけども、この張コウ軍は荊州方面で呉と対峙してたのを引き抜いて派遣してる。
曹叡や曹真軍以外に派遣出来る野戦軍がいなかったのかも知れない。兵力=軍では無い訳だから。
と言うか、曹叡の手元に野戦軍があれば、張コウを派遣しないで援軍を送っているような気がするが。
それと、
>>74が書いてくれてるけど、街亭に張コウ軍の規模以上の軍を派遣するのは、私見では難しいかと。
大軍になればなるほど兵站問題は大きくなるから。
街亭の敗北に関しては馬ショクの指揮拙劣って部分が大きいと思う。蜀漢の作戦構想がまずかった、と言うよりね。
まぁ、街亭で勝利したとしても、史実での馬ショクのような事態が起きたて、結局は失敗したかもしれない。
ただこれは不確定要素が大きくてなんとも言えないけど。
>>150 まるでその大変さが身にしみているかのようなw
何か高度な話題で盛り上がってるところ悪いんだが
街亭、箕谷、列柳城の位置関係がよく分からない
曹真や郭淮も街亭を抜かなければ隴西へは行けなかったの?
>>152 さっきから拝聴してもらってるが、とりあえずお前は煽ってるだけだなw
>146
元々、隴西は異民族の居住も多く、有利な方につく傾向がある。しかも、魏には度々叛乱を起こしてるし、231年の戦役では蜀漢側についてる。
周辺異民族の影響が近い地域の豪族連中が安全を確保するには異民族が付いた側に寄るしかない。
蜀漢が有利な位置を占めてるうちは、隴西を確保出来るんじゃないかな。
当然、蜀漢の優位が揺らげば、統治も緩むことになるけどね。
>>146 反中央集権制の意識は根強いだろうから、
魏に反発するための協調はしてくれるとは思うけど、
イコール遠征軍の策源地として、長期的な支配が出来るかというと難しいと思う。
>>150 隴西を攻めるにあたって、[眉β]、陳倉、冀、と、
そこそこの規模の中継都市があるわけで、
そこに拠りながらの遠征が、そこまで困難な物とは思えない。
少なくとも漢中-隴西よりははるかに楽かと。
>153
関中盆地を、やや横長の楕円形と考えると、漢中はその外側・南南西の小さな丸い地域。
街亭は楕円形の西隅、箕谷は楕円の中心から小さな○の中心を結んだ線上の楕円と○の境界、列柳城は街亭の少し南、って感じかな。
長安は楕円の中心より、やや東寄り。
分かり辛くて申し訳無いです。
曹真と言うか、長安方面から隴西へ向かうには街亭とその南にあるもう一本の街道を通るか、北に大きく迂回するか、かな。
郭准については当事、隴西に居たのだけど、戦備が整ってなくて、上ケイで篭城中でした。
街亭での勝利を聞いて、列柳城の攻撃に向かってますが、大きな兵力では無かったようです。
補給と兵力で下回る蜀軍に長期的視野での攻勢はあり得ない。
>>156 その辺の中継都市に関しては理解してるけど、その中継都市の先に険しい山道が続いて
なかったっけか?それと、冀に関していえば、俺の中では既に蜀の勢力範囲となった状態、
という前提で話してたし、故道を通らないで直接いける道ってあったっけ?
まあいずれにせよ、故道ルートだと大軍の展開には向いてないから、
蜀はそういうところに陣地を築いてくるであろうことは予想できる。
よって大軍を生かすのは難しいというのが俺の見方。
漢中→隴西に関しては
>>140。
>156
すんなり当地できるかは難しいかもしれませんが、協調してくれるだけでも十分でしょう。
また、ピ県や陳倉は中継地点となり得ますが、ピは長安に近い点で、長安と変わらないかもしれません。
また、陳倉は蜀漢が隴西を確保したとすると、蜀漢の版図に近く、安定した策源地となれるか微妙です。交通の要衝ではありますが。
キ県に関しては、隴西を蜀漢が押さえるとするなら、キ県も蜀漢に押さえられているち考え、省きました。
隴西に派兵は出きるでしょうが、隴西を押さえた蜀漢軍を駆逐できる程の規模の大軍を派遣出来るかは難しい、と言う事です。
漢中から天水キ山に出るには子午などに比べれば楽だが険阻な山道を通らねばならない
山道であるにはかわりがなく桟道も通らねばならない
そしてその山道が続く距離がとても長く補給が魏より楽とはとてもいえない
長安からは補給地点が多く険阻な地点もあるが漢中ー天水キ山ルートほどでもなくしかも一部
守りやすさに関してはある程度守り易い地形ではあるが極めて守りやすいわけでもない
それは街亭が証明してしまっている
>163
漢中〜隴西の兵站ルートも険しい、ってのは認めてますよ。
ただ、隴西を確保出来れば、その兵站問題も、軽減される、と言ってるのです。
そして、魏側の兵站問題は解決されない、って事です。
また、地形ですが、指揮に蹉跌があれば、どんな防備に適した地形でも敗戦は有りえるわけで、馬ショクが敗れた=そんなに守りやすい場所ではない、って事ではないでしょう。
165 :
163:2005/03/30(水) 00:15:32
長安ーロウ西
平坦な道ー平坦な道ー補給地点ー山道ー高原ー補給地点ー山道ー高原ー山道ー高原・・・・
>>164 まあそれはあるかも
自給自足がうまくいけば
自給自足がうまくいったとして魏の補給ラインにやっと追いつく感じと思う
>>162 「魏側の遠征待ち戦略」のための長期駐屯の策源地ってのは
協調どころか支配関係に近いわけで、いくらなんでも反発は出てくるよ。
羌族やテイ族が、反中央的な動きをとるのは、
魏を敵視してるわけで無く、漢民族による搾取に反発するものなんだから、
蜀漢が支配を敷こうとしたら、今度は蜀漢が反発を受けるだろうさ
でも芋かなんか育たなかったみたいだしなあ・・・
>>167 すぐ引き合いに出すのは何だけど、
トウ艾みたいな農業のプロフェッショナルに軍を任せたり出来ない所が
蜀漢の弱味だよなぁ。
うーん涼州を落としたときの価値は若干過大評価が多いとは思います。
もし西域の異民族が本腰入れて関中を伺えばそれは長安どころか魏の
危急存亡の事態でしょう、ただそれは蜀の勝利とは言い難い。
もし蜀が自前の軍を展開するとなると負担は避けられないと思います。
また隴西はまともな防御拠点が無く魏軍の迎撃困難なことは後の魏延の
長距離侵攻時に確認されその後の作戦方針の見直しの一因となったはず
です。
本当にまともな防御拠点無かったのか
ソースは?
>166
そこら辺は統治の仕様かと思う。
隴西が蜀漢の版図に入ったとしても魏は未だ強大に健在なわけで、蜀漢も無茶な統治は出来ないし、異民族側も当面は叛し続けた魏とすぐには結べないだろうし。
蜀漢側とすれば、隴西の確保で、漢中からの兵站を一息つければ、ある程度長期的な展望が見込めるわけだから。
隴西の統治に気を使う事実は変わりませんが、確保した地域の安定と言う事業の方が諸葛亮の得意分野であったのもまた事実でしょう。
>170
230年頃の魏延の侵攻ルートは隴西と言っても関中盆地側でなく、ほとんど西境という部分であって、辺境と言って差し支え無い場所では?
街亭付近を隴西の東側と思えば、230年頃の魏延のルートは反対側の西側。
で、異民族の中国本土への侵入ですが、後の五胡の際は、中央政府がほとんど機能していない状況で、関中自体の統治能力が緩みきっていた、と言う部分も大きいでしょう。
負担に関して言えば、蜀漢軍に参加させるとか、補給を全面的に請け負わせる等の軍役を課せば魏の時より負担増で反発も大きいでしょうが、自前での補給の補填程度の負担と、魏に反抗する姿勢だけ取る程度であれば、当面はおとなしくしてくれるのでは?
涼州の価値としては、魏にとって自領の危機を放置しておけない、と言う点が大きいでしょう。
涼州が蜀漢の脅威に晒されている、あるいは蜀漢に奪取されたのに、それをほって置いたら、同様に脅威に晒されてい動揺している関中地域の動揺も増大するでしょうから。
隴西を蜀漢が確保した段階で、魏側は隴西・涼州方面を放棄するか、軍事行動を起こして(攻め込んで)救うか、の二者を選ぶしか選択肢はありません。
軍事行動を起こす場合、建前上は自領であるのに、遠征を強制させられる、と言う負担を押し付ける事になり、相対的に蜀漢に+となる訳です。
ようするに、孔明の命令と王平の忠告を無視した馬謖しね
いや、死んだが
そもそも大軍の動員って年規模で準備がいるから長安落とされてすぐに大軍で反撃なんぞできないでしょ
>>146 土地のカリスマ馬超の遺産がモノを言うように思う。
魏よりも蜀に慣れ親しんでくれる可能性は高い。
それに魏は征服者として高圧的に支配するが
蜀は対等な同盟者のようなフリをして下手に出て協力を仰ぐと思うから
居心地は蜀の方が良いだろうかと思う。
>>176 >それに魏は征服者として高圧的に支配するが
そうでも無い。
もちろん、基本的な部分での異民族蔑視は根強いし、
労働力として、強制移民を強いてた時期もあるだろうけど、
邪馬台国との関係性のように、印綬を与えて自治権を認める方向での対策もしていたよ。
馬超にしても、本人が生きていて立ち回る事が出来るならともかく
死後に影響力を見込めるかは難しい所じゃないかな。
「攻勢に出るための煽動」は出来ても、長期の協力や統治は無理ぽ。
まして、魏の遠征待ちの間の兵站負担なんて、もっての他じゃないか?
>>173 >遠征を強制させられる、と言う負担を押し付ける事になり、
>相対的に蜀漢に+となる訳です。
長期の時間を与えて準備した状態での、
魏の遠征(漢中方面、隴西方面共)を防げるという確証はどこにあるの?
大軍の効果的な用兵が出来ない地域とは言うけど、
漢中と冀の双方に兵を割いて対応しなくてはならない蜀漢側も
相当苦しいんじゃないかい?
馬超な、あいつが動くたびに羌族・氐族が反乱起こすから魏もうっとおしかったろうな
>>178 確証はないよ
もっとも有利な状況を整えたとしても
で、
何を否定したいの?
北伐自体?
魏に対抗すること?
>>180 涼州さえ取れば、魏が窮するであろうという論
いくらなんでもオーバーだっつの
涼州を取って初めて魏に蜀は立ち向かえると思う
魏を倒す最低条件として涼州確保って話しなんじゃないの?
いつから魏が窮するって話になったんだ?
>>176 や、馬超の遺産に活路を求めるのは酷な話でないかい?
馬超本人が生きているならともかく、単なる血縁関係というだけで、
バタイを媒介として同様の効果が得られるとは全く思えない。
恐らく、南中の時のように現地の有力名士の積極的な登用という方向での
懐柔を進めていくとは思うけど、鍵となるのはバタイとかよりも、
生姜繊維(自宅でないのですまん)とかその辺だと思う。
だが実際、姜維では思ったほど効果が上がってなかったような...」
>>178 確証はないと思う。ただ、北伐が国是となっている蜀が採り得る戦略の中で、
相対的に蜀漢有利となる戦略であるって話。
ただ、実際防ぐにせよ、そこまで特別無理がある話とは思わないけどね。
統治面さえうまくいけば。漢中方面から攻める場合、
曹真や爽やかソウソウの前例などを見てもわかるように、
防衛戦力を低めに見積もれる地域。
その分隴西方面を増強するだろうけど、こちらももう既に出ているように、
大軍の派遣、展開に向いている地域ではない。
まあ実際問題防げる防げないは水掛け論になるからこれ以上言わないけど、
この状況にもっていけば、蜀としてはしめたものだと思う。個人的にはね。
>>184 そうかねえ。後の北伐の際にもそのネットワークを彼なりに利用して、
現地の異民族をよく煽動していたと思ったけど。
思ったほどの効果が上がってないというのはどの辺が根拠かお聞きしたい。
>>186 184じゃないけど、
姜維一個人に独自のネットワークがあるとは思えないなぁ…
北伐中、羌族に離反されてなかったっけ?
あと、羌族相手に強制移民(略奪)とかもしちゃったよね。
国策として頑張って煽動してるだけで、
姜維個人としては、羌族は敵って認識しか無いんじゃないか?
父親も羌の叛乱で殺されてるし。
つか涼州って守りやすくないよ・・・
涼州とった場合、対魏の最前線は冀って事でいいのかな?
涼州は魏からは遠い本土だし一回切り取られたら放置しそうな気がする
つかそんなことよりとりあえずサッカー応援準備しろよ
バイトだから応援できねぇ...
>189
涼州を押さえる前提が隴西なので、史実通り隴西東部の街亭付近が蜀・魏の最前線になるかと。
>190
涼州が遠いから、って理由で放置しちゃうと、他の蜀漢や呉の脅威を受けている国境地帯の魏への信頼度が大幅に低下するから、なんらかの軍事行動は起こすと思う。
蜀漢側としては放置してくれるのが一番有りがたいかもしれんが。
194 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 18:55:08
キョウ族はどうなるんだい?
>>187 羌族の離反ってのはビン山の羌族の部の叛乱のことを言っているのかな?
正直、ビン山郡の部が何度か叛旗を翻した事や、
羌族の叛乱で父が死んでいることだけを理由に
羌族全体を姜維との対立関係に持ってきて、ネットワークはないとする論法は
少々乱暴すぎるように思えるのだが。
羌族も一枚岩だったわけではなく、各部ごとに独立した勢力として存在しているし、
魏寄りのもいれば蜀寄りのもいる。
姜維が北伐の際に羌族を誘ってこちらに協力させようとしたのも、
やはり、いくつかの部にネットワークがあってこその考えだと思う。
ちょっと、羌族を一枚岩の存在と考えすぎのように思うな。
>>195 いや、羌族が多数の部族にわかれてるのは知ってるよ。
ただ、姜維個人がネットワークを持っていたかって点に疑問を感じる。
手段の一つとして、羌族を懐柔or煽動させる政策はとっていただろうけど、
魏将として暮らしていた姜維そのものに、
異民族との独自コネクションがあったとは考えられないだろうって事。
父の死云々は蛇足だったな、スマン。
この地域は後漢の頃から反乱が頻発し中央を悩ませた地。
蜀が涼州を抑えれば、魏に変わって蜀が漢民族を代表して相対する勢力となる。
なんだって蜀になれば異民族が従順になるんだ?
むしろ、蜀は「漢」を名乗っているのだから、異民族からすれば長年の敵と同じ
存在ということにならないかね。
>197
西方異民族が多かれ少なかれ中央に反発し続けるのは事実です。
しかし、蜀漢が隴西以西を押さえたとしても、魏と言う主敵がいる以上、異民族に対しても穏健な対応にならざるを得ない。
その対応が異民族の支持を得続けられれば、当面は異民族の叛乱の心配は無いはず。
そして、異民族もそれをある程度予想するでしょう。
その時、反対に蜀漢が苛斂誅求を行えば異民族は離反し、隴西統治(確保)は頓挫します。
異民族も、とにかく反漢民族、ってだけじゃないでしょうし、「漢」と言う「名」だけに反応するほど、異民族も単純じゃないでしょう。
>>196 当時は隴西、武都、陰平辺りの地域は、多くの異民族が流れ込んで漢民族との雑居が
進んでたから、地元で名声が高かった姜維なら何かしらコネクションはあってもおかしくないと思うけど。
例えば、南中で言えば、孟氏、爨氏などのように、漢民族にも異民族にも一目置かれている
ような名士であった可能性は決して低くはないと思う。
南中の時の諸葛亮の統治政策は、そういった孟氏爨氏などの有力豪族を積極的に登用する
ことによって同地の懐柔を図るというやり方だったし、
統治の際に姜維らが鍵となる可能性は低くはないと思うな。
少なくとも馬岱よりは鍵になると思う。
>>197 羌族は漢嫌悪の意識も、中央嫌悪の意識も強いけど、
好戦的な異民族とは違う、守りの文化と回避の歴史が特徴的な民族だから
矢鱈と蜂起する事は無いかもね。
ただ、上の方でも言われてたけど
魏の遠征待ちのための長期駐屯の策源地に出来るってのは、
希望的観測が過ぎる気がする。
何万ぐらいの兵の、何ヶ月分の兵站かわからないから、
はっきりと断言は出来ないけど…
>>199 姜維の名声ってどんなに高いもんなのか?
俺の認識浅いだけだったら申し訳無いが、父親の功績で召し出された後は
順当に魏の役人として出世してった記録しか見受けられないぞ。
まして、土地と密着した豪族なわけでも無いわけで、
孟氏のような名士であった可能性なんて、ほぼゼロだろ。
>>201 姜維伝の裴松之注の『傅子』は見たかい?
これによると、普段から姜維は食客を養っていたというような記述があるが、
こんな風に日頃から有事に備えて食客を養うなんて、
地元にそれなり以上の資本を持っている豪族でないとできない話。
これだけでも、姜維がそれなり以上の資本と名声がある豪族であることは分かる。
まあ孟氏爨氏は分かりやすい例として挙げただけだけど、
前述で挙げた羌族との積極的連携を作戦の軸に組み込むことなどから類推できる
コネクションの可能性、そしてこのような話からすると、
それなりの影響力は持っていると考えてしかるべきだと思うよ。
異民族中心の話になってしまったけど、
蜀漢が駐屯する(しようとする)地域は「周辺」に異民族が多い地域(混住もあるだろうけど)であって、異民族の領域では無いと言う視点を外すと混乱するかも。
策源地を異民族の領域に設定しようとすれば、異民族社会への影響も大きく、長期駐留なんぞしようものなら、即叛乱に繋がるかもしれない。
でも、隴西諸郡のキ県等ならば、混住も多いにせよ、元来、中華王朝の影響が大きい地域なので、策源地化も可能ではないかな?
魏のヨウ州(隴西)の拠点でもあったし。
また、何度も書くけど、蜀漢本国からの補給も当然続ける訳で、隴西のみで策源地の負担を負わせるわけではない。
統一王朝や魏のように、異民族の領域まで自国の統制下に置こうとすれば、異民族は反発するだろ。
しかし、魏が主敵である蜀漢は、そこまでの能力は無いし、味方にするのが先決であって、異民族の反発を食らうような方向には向かわない(向かえない)でしょう。
>>198>>199 ちょっと待ってくれ。言ってることはもっともだとは思うが、それを裏返せば
魏はこの方面に対してロクに情勢も見ずに苛政を行っているのか?
「蜀にとっては〜」というがそれは魏にとっても同じ。だからこそ、実際に今
そこを支配している魏は力を示しつつ土地豪族をひきつけるような政索を行い、
土地に人間を取り立てたりするもんだと思うが、そちらの言いでは魏はそういった
配慮はしていないように受け取れるのだが。
まあ結局のところ隴西における遠征で長期化するとより苦しいのは蜀ってことだな
策源地としては不安定、補給ラインも困難、兵力差は増すばかり・・
長期化する以前に街亭などの前線がもたないし
>>204 ちょっと待ってくれ。俺は一言も「蜀になったら統治面安定で万々歳」なんて言ってないぞ。
むしろ、統治面が課題って言ってるじゃないか。
まあその辺は一応南中政策では、ソウ族などの叛乱はあったものの、
大局的に見れば全体的にうまく治めた諸葛亮先生の政策手腕に期待というところか。
戦時中の蜀漢の予想される対応から推測しただけです。
魏が苛政を行っていたとは書いてません。当然、在地豪族に対する、おっしゃるような政策を執っていたと思います。
208 :
207:2005/03/31(木) 00:07:27
>205
>>隴西における遠征、と言う部分だけど、隴西を確保するのに長期化するか、確保した後での長期化では随分状況はかわるから、
「長期化」「遠征」と言う単語で一くくりするのは軽率かと。
>>202 学問を学べた環境と、食客を養うって記述から、
それなりに豊かな環境があった事は伺えるが、
父親だって郡の功曹でしかないんだから、
「それなり以上の資本と名声がある豪族である」とまで考えるのは不自然じゃないか?
まして、その記述をもって
「地域の異民族とのコネクション有り」とするのは飛躍し過ぎだろ。
羌族との積極的連携は質量で劣る蜀漢ならば、
基本として考えなければならない作戦だし、
姜維が異民族に影響力を持つ存在だと類推するには根拠薄弱だ。
北伐時に実際に羌族を煽動した、姜維の外交手腕は認める事は出来るが、
姜維そのものに元からコネがあるなんてのは、荒唐無稽な発想だよ
>>210 あくまでコネクションについては可能性の話だけど、そんなに荒唐無稽な話かなあ。
むしろ、何のパイプもなしに羌族誘致に自信を持って涼州を攻略地として定める方が
よっぽど荒唐無稽な話だと思うけどね。
それに父親は郡の功曹の時点で死亡しているけど、正確な死亡時期は分からないし、
姜維本人に関していえば、さっきは敢えて言わなかったけど、
あの若さで州の従事クラスまで取り立てられている。地方レベルでいえば明らかにエリートコース。
これだけ条件が揃っていても、当該地域に関して姜維に大した影響力がないという方が
難しいんでないか?異民族とのコネクション自体はあくまで断言でなく可能性だけど、
姜維自体は地域の統治にそれなり以上の影響力を持つ名士である可能性は高いと思う。
>210
郡の功曹ってのは「郡の右職」と言われてて、郡内の有力家系出身者が就く職務だったようだ。
>>212 おお、功曹については知らなかった。勉強になります。
>>212 それはソースはどこだろう?
役人がつく家系としての知的階級以上のものは
やはり推測するのは無理があると思うけど。
>羌族との積極的連携を作戦の軸に組み込むことなどから類推できる
>コネクションの可能性
作戦の軸にってあたりもそうだけど蜀側のあらゆるモノを
高く見積もりすぎてるんだよなあ。
そこにやっぱ無理があるよ。
>>214 三年ぐらい前に何かの本で読んだとしか覚えてないが、
その本では州の従事はその地域でも有力な名士の就く官と書いてあったと思う。
高く見積もりすぎているというけど、姜維に関しては根拠は説明した通りで、
ただそれに関して漠然と「高く見積もりすぎている」と言われても困る。
一応、根拠はこっちは示してるんだから、反論するならそちらもそれなりの根拠を示してもらわないと。
>>211 ようするに、「元天水郡の軍事参画者」なりの影響力って事か。
その程度ならあるだろうな。
あーあー…
>>215 あのさ、根拠を示したとか言ってるけど
根拠と推論が直結して無いだろ。
魏の役人としての出世をもって、異民族への影響力有りとするなら、
そこそこの家柄で出世した人間なら、なんぼだって誇張出来るだろ。
妄想と推論を履き違えてる妄想みたいな語りに、どう反論しろっていうんだよ…
>>216 ああ、すまん、単純にレス番を読み間違えた。
ついでに、ろくに中を真面目に読んでなかった「九品官人法の研究」に面白いものがあったんで引用。
>当時の郡の構成は長官・副官たる太守・丞が中央から任命されてくるが、
>その属僚たる五官掾、功曹史、諸曹史、主簿などは、
>太守がその郡の住人の中から招聘して任命する。
>これらの属僚を掾史、或いは参佐という。郡太守は単身赴任するので、
>その郡の統治上、掾史を選ぶ時に、その人物もさることながら、
>いざというときの頼みになるように、強力な豪族の子弟を選抜する。
>宋書巻九十四恩倖伝序に、漢代のことを述べ、
>「郡県の掾史はみな豪家より出づ」
>と言っているのは正しい。そして原来は土豪的な、即ち単に実力があったというだけの
>土着的な豪族は、世襲的に郡の掾史(右職)に任用されるようになると、
>次第に学問に従事し、智識階級となって中央官僚の予備軍を形成するようになった。
まああれですね、買った本はちゃんと読めってことですね_| ̄|○
>>219 あくまで可能性を言っている。それに異民族に限定せず当該地域の統治に関する影響力の話。
姜維がそんなもん持ってるような奴じゃなくて単なるぺーぺーですよっていうなら、
それなりの根拠を示して欲しいって話。
蜀書の人物伝でも、結構名士が従事になったりしてるしな
郡の右職である事が、影響力の有る程の豪族であるという根拠なら
五官掾や督郵や主簿や主記室だってそうだ。
言い方は悪いけど、その程度の人間が
個人で戦を煽動出来る程の土地への影響力やコネクション持ってたら、
魏は異民族対策に苦心する事も無いだろうね。
>>221 単なるペーペーなんて誰も言って無いじゃんか。
普通に考えて「元.天水郡の軍事参画者」なりの影響力はあるよ。
ツッコミ入れられてるのはこれ↓
>当時は隴西、武都、陰平辺りの地域は、多くの異民族が流れ込んで漢民族との雑居が
>進んでたから、地元で名声が高かった姜維なら何かしらコネクションはあってもおかしくないと思うけど。
>例えば、南中で言えば、孟氏、爨氏などのように、漢民族にも異民族にも一目置かれている
>ような名士であった可能性は決して低くはないと思う。
>>223 なんか極端な言い分になってる気がするけど。
そもそも俺が言ってるのは、姜維が地元でそれなりに有力な豪族であるということと、
異民族関係でそれなりのパイプは持っているという可能性があるという話。
それ以上のこともそれ以下のことも言ってない。
さっきの統治の件も前に孔明スレで話した時もそうだけど、
何故か言ってない事を言ってるようにとられがちだけど、書き方が悪いのかなあ。
>>224 ん、これは孟氏爨氏ほどではないってことを言いたいの?
この二人はあくまで分かりやすい例としてあげただけだって
>>201でも言ってるけど。
まあ俺としてはその書き込みに関しては
>>225の主張を
そのまま書いただけのつもりだったんだけど。
>>225 間違い無く書き方悪いよ…。
なんか話しているうちに少しづつ前提がズレてるぽ。
>>227 俺としては最初からずらしてるつもりはないんだけどなあ。
大げさな書き方をするのがまずいのかしらん。
以前孔明スレで話してたときも、諸葛亮は司馬懿から仕掛けられた野戦では
一度も敗北を喫していない、がいつの間にか孔明は司馬懿との局地戦では必ず勝っている、
に摩り替えられてたし。
推論に推論を重ねて、可能性を語ってったらキリ無いだろ。
姜維には無限の可能性があるって事でFAにでもしとくか?
まあそもそも最初に言いたかったのは涼州統治に関して蜀漢勢力で影響力があるのは
馬岱よりは姜維だろうって話でそっから凄いずれてってんだよね。
まあいいや、もう疲れたから寝る。
推論に推論を重ねて、可能性を語るなら、
馬岱こそ、個人のコネクションを持ってる可能性も考えられるけどな。
馬超や韓遂ばりの、圧倒的な支持には程遠いだろうけど、
羌やテイの元での潜伏期間もあるし、馬超の親族っても踏まえれば、
漢陽や武都方面への異民族に対して、なにがしかのコネはあっても不思議じゃない。
推論と推論を戦わせても、考え方の違いでしか無いから、キリ無いけどね。
233 :
212:2005/03/31(木) 06:55:04
>214
ソースは渡邉義浩氏著「諸葛孔明 その虚像と実像」P196。
郡の功曹従事は、後漢では「郡の右職」と称された要職で、郡の代表的な豪族が多く任命される官職でした・・。
姜維の場合、天水郡内でそれなりの豪族家系だったんでしょうね。
「魏略」では、姜維の出身地である、天水郡治・キ県が降伏する際、その使者の役目を姜維に押し付けた、ってある。
魏略が正しければ、キ県を代表出来る出自だったとも読める。
天水郡内の有力家系で、天水等の隴西諸郡の事情に非常に明るい、と言う事で隴西出兵に重点を置いたんでしょうね。
隴西は異民族の混住も多く、異民族領域にも接してるから、異民族の事情にもそれなりの知識があったかと。
ただ、それが(異民族への)姜維の個人的コネクションといえるかは微妙だと思います。
234 :
212:2005/03/31(木) 07:04:03
>214
>>天水郡内の有力家系で、天水等の隴西諸郡の事情に非常に明るい、と言う事で隴西出兵に重点を置いたんでしょうね
この部分、後の姜維の出兵は、を最初に加えて下さい。
235 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 08:37:27
どのみち、国を治める劉禅がいる限り蜀は何をやってもだめだったと思う。
劉禅は下に丸投げできるからしっかりしたの 例えば諸葛亮とかが下につけばダメってことはない
>>236 劉備は、必ず自分が中心になって攻め込むからな。
彼に必要なのは、法正みたいな謀略を相談できる右腕であって諸葛亮の様な司令官タイプではないから。
当時、亮に軍事に置ける実績が無かったから妄想とは分かっているが、関羽ではなく亮に荊州を任せていたならとか思ったりする。
姜維も、楊阜や姜敍の親戚筋だって可能性は考えられるけど、
仮にそうだとしても、
異民族への影響力が有るって考えるのは無理有るんじゃないか?
233氏の言う通り
>異民族の事情にもそれなりの知識があった
とかそんな所だろうな
諸葛亮の北伐は
アメリカ(魏)の支配するイラク(隴西)に
ビンラディン(馬超)を得て、その影響力を存分に活かした
イラン(蜀)が攻め込む感じか?
別にアメリカ(魏)が圧政などをしているわけでは無いが
イラク国民(隴西部族)はイラン(蜀)の影響下に入る方を選ぶと思う。
次はイスラエル(長安)を得てアラブ(長安以西)を統一するんだ。
あまり真面目に考えると矛盾が出るけど。
北伐スレ統一しろよ
つーか、このスレは
長安急襲作戦について、検証するスレじゃないのか?
まあ街亭での失敗については
スレ開始当初から触れられてたし
孔明は、魏延の長安攻めを了承せず
それよりも、孟達を寝返らせえるのが良いと思ったわけだが
司馬懿のほうが一枚上手だったし
孟達がせめて孔明くらい頭良かったら…
長安急襲案については前提として、これだけ問題がある。
・敵に察知されずに長安にたどり着けるのか?
・たどり着けたとして、敵が逃走しなかったら、どうするのか?
・敵が逃走したとしても、軍事物資を確保出来るのか(逃走の際、燃やすなど処分してしまう可能性もある)。
・長安で物資を確保出来なかった場合、兵站を確保出来るのか?
>>244 じゃあそれらを解決する方法を検証するスレってことで。
>244
検証と言っても、ほとんどクリア出来ない問題だよ。
・敵に察知されないか? →敵国との国境は平時でも当然哨戒活動はしているから、察知されて当たり前。
・敵が逃走しなかったら、どうするか?→撤退するしか無いでしょう。と言うか、被害を最小限に抑えて撤退できたら大したもの。
・軍事物資を確保出来るか? →撤退する敵軍の状況にもよるだろうけど、不確定なものをあてにして戦略練るのは危険かと。
・兵站の確保 →出来ません。
>>246 検証できないと思うならこのスレにいること自体がスレ違いかと。
そもそも孔明がOKしていたらという設定だからな。
・敵が逃走しなかったら、どうするか?
→撤退するしか無いでしょう。と言うか、被害を最小限に抑えて撤退できたら大したもの。
これで一応クリアじゃないか?
往復分の兵站を用意する必要が出てくるけど。
相手は追撃してまで掃討する事に、メリットは少ないわけで、
いざとなれば撤退可能って考えられる。
奇襲に失敗した場合、斜谷経由で長安を目指してる孔明の本隊は当然撤退だろ。
成功率の低い奇襲の成否如何で遠征自体が頓挫してしまうってのは、戦略としては疑問符がつくな。
まあ諸葛亮が魏延の案を採用するということは、魏延が撤退しても一つの陽動として利用する戦略も練るだろうね。
当然涼州へも同時進行で、街亭だかどっかを涼州方面のの前線とすると思うんだが、趙雲と魏延の2つの陽動があれば
魏の軍のさらなる分散に成功し街亭をとりあえず守ることには成功しそう。
>248
撤退成功でクリアじゃ、なんのための作戦?って事にならんかな。
開戦初頭に失敗したんじゃ、その後は警戒も強くなるだろうし、その後の展望も開けない。
実際、第一次北伐で失敗した後、陳倉の防衛は強化されてるし。
>>250 そうなると、長安を奇襲する魏延隊の他に、長安を押さえる為の部隊、
隴西方面に展開する部隊と、少ない兵力をかなり分散させなきゃならない。
魏延を陽動として使うなら、奇襲は失敗するものとして最初から陽動として扱わなきゃならないんじゃない?
>>252 まあ結果論だが隴西方面の諸葛亮の軍から魏延の長安方面軍を編成すればいい。
その後の涼州制圧の流れからしてそれほどの兵力は必要ないんじゃないかな。
成功すれば長安制圧、失敗すれば陽動と臨機応変の選択肢を残すべきでしょ。
>>253 隴西に展開した本隊から長安に向かうとなると、漢中から長安まで、
胡道経由でも550km近く、関山道なら700km近い距離になるよ。
隴西から進発する部隊が、魏の援軍の到着前に長安に到達できるか疑問だな。
結局、史実の第一次北伐と同じ作戦か。
>>254 長安狙うって選択肢が増えるのと街亭の陽動が増えるって点でだいぶ違うと思うけどね。
>>255 魏延の軍は長安侵攻を少し遅らせて隴西方面と時間を調節できるかも知れない。
>>256 それは既に魏延の案とは別物だろ
長安を制圧できても維持できずに終了
>>257 いやいやあくまで諸葛亮が司令官で魏延の案を受け入れたとすればこういう形に持ってくだろうという予想だよ。
>253
魏延軍を増強した場合、魏延軍にも本格的に兵站を確保しなきゃならなくなる。
しかも、一番道が険しい子牛谷ルートじゃ、兵站の維持は難しいんじゃないかな。
史実通り戦闘員5千じゃ、長安を落とすのは難しい。戦闘員5千の場合でも輜重は長安を確保するまでの当面の規模な訳で長安が落ちなければ飢える訳だ。
>>256 上ケイから渭水に沿って真っ直ぐ向かっても長安まで300km。
先に隴西に侵攻した事によって魏の援軍到着も早まるだろうし、奇襲をどれだけ遅らせても無理じゃない?
魏延の長安急襲をOKしてたら、街亭より早く北伐が失敗することになる、でOK?
>>259 長安を落とせるかどうかは難しいところ。可能とも言い切れないが不可能とも言い切れない。
なので陽動と制圧の2つの可能性を残せばよく、それに添って戦略を立てればいいってこと。
兵站は往復分だけ持って行けばいい。制圧しても兵站がなければ陽動のみに徹して戻ればいい。
>>260 街亭に馬謖が陣を築く頃と同時期に長安に到達する計画なら無理じゃないと思うよ。
しかしここまでくると水掛け論になっちゃうよなぁ...
結局長安を維持できるか維持できないかってのはわからんし
個人的な意見としては無理だったと思うし、
それによって無駄に資材や兵数を浪費してしまう
>262
兵站を往復分だけ、って・・・・。
兵力が多くなれば、輜重兵も多くなり、その輜重を養う為、兵站の負担も増す。
そんな容易に持って行ければ、史実の諸葛亮も兵站で苦労せんよ。
そこが矛盾するんだよ。
陽動に徹しようが、しまいが、人間が居れば食料は同様に必要なわけで、陽動に徹してても兵站の負担が減じるわけではないよ。
運搬距離の短縮で軽減される、って部分はあるだろうけど、制圧まで目指す兵力規模では、その軽減分は相殺されちゃう程度のもんだろう。
>>262 史実の第一次北伐自体、孟達の反乱から曹叡の長安到達まで2ヶ月強。
諸葛亮の出兵から考えたら1ヵ月半って所だろう。
馬謖が街亭に陣を構えたのが開戦から1ヶ月と考えれば、
魏延の長安攻撃開始から隴西の軍が長安に到達するまでを半月でこなさなきゃならなくなる。
奇襲の成否の確認に要する時間も考慮しなきゃならんし、やっぱり無理だと思うがな。
>262
前提をどう捉えてるか判らんが・・・。
長安を制圧出来る根拠が、奇襲すれば敵は逃げる、ってんじゃ無理だと思うよ。
逃げる前提は、魏の指揮官が夏侯モって事だろうけど、史実じゃ趙雲が出張った段階で、曹真が指揮執ってるからね。
魏延が情報を得た段階では夏侯モが指揮官だったんだろうけど、諸葛亮が漢中に進駐した段階で、魏の中枢も警戒感を示してるから、そのすぐ後くらいには曹真に指揮官がかわってたんじゃないかな。
>>264 制圧分までは持って行かないんだって。往復分プラス多少の余剰のみ。
制圧したとしても長安に兵站なければ陽動しながら退却。
>>265 時間的な経過はそれで断定出来るもんではなく不確定な要素だから
無理なら魏軍を引きつけつつ撤退という判断をすればよい。
>>266 いや長安制圧を絶対条件にしない作戦なら可能でしょ。
そもそも長安制圧が絶対可能ということは言ってないよ。
それじゃ完全に魏延の案じゃねーな
>>269 司令官はあくまで諸葛亮だからね。魏延案を諸葛亮なりに有効に取り入れるとなるとこうなりそうって予想。
>267
兵站ってさ、ずっと保存して持ってられるモンじゃ無い訳ですよ。
食料とかが中心だから。なので、後ろから補給が続かなければ、底をついちゃう訳ですよ。
往復分なんて持って行かない訳。
で、策源地から補給線を通って補給し続けるって事。
その補給ってのは輜重兵が行うので、前線の兵力が大きければ当然補給要求もおおきくなる。
要求量が多くなれば、人一人が運べる量は限界があるから、輜重兵の数も増える。
輜重兵も人間だから、食料が居る・・・。
そんな簡単に往復分+余剰なんて計画出来ない訳です。
>269
兵站も含めて作戦計画が慎重かつ綿密な諸葛亮が、そんな杜撰な作戦を計画するとは、とても思えないが。
>>267 史実での魏の対応の速度を考えれば、一度隴西に展開してからじゃ長安に軍勢を派遣するのは不可能だろう。
史実より遅れる可能性もあるからどうのってんなら特に言う事も無いが。
あと、魏延がさっさと撤退してしまうなら陽動にはなりえないと思うよ。
隴西に諸葛亮の大軍が展開してるのに、逃げていく魏延を追撃するとも思えない。
陽動するつもりなら、子午道の出口辺りに一定期間留まっている必要があると思うが。
>>271 往復分ぐらいは持ってけるでしょ。それが魏延の五千という数字の根拠だと思う。
それが魏延の奇襲のスピードに支障を出すなら
片道分だけ持って行き、別の補給のみの部隊を魏延について派遣すればいいだけ。
>>272 ?
魏延の案じゃない=諸葛亮の案だとでも?
>>272 まあ慎重すぎるのが問題と思われる諸葛亮が魏延の案を採用したらってのがこのスレの趣旨だからね。
それ言ったら話が成り立たない。
>>250 まあその案と魏延の本気で長安攻略というのは
また違った作戦になるだろうな
それは諸葛亮案と魏延案の合体作戦で
基本的な指針は諸葛亮の作戦に準じていると思う
魏延の陽動次第で曹叡の本軍を子午に誘い込めたら
蜀にとって随分美味しい展開になりそうな気もしないでもない
>274
「往復」あるいは「片道」の日数が確実で無い以上、補給は続けなきゃならん訳よ。
足らなくなったら補給する、ってんじゃ距離や時間から間に合わないでしょ。
しかも、長安を奇襲する機会が訪れたら実行する程の兵力でしょ?かなりの量になる。
補給のみの部隊ったって、補給線があって、そのライン上で補給に従事する人間が漢中と前線を往復してる状態な訳です。
あなたの考えてる補給の概念とは全然違う訳ですよ。
多分、ガソリンや弾薬等戦闘で消費しなけりゃ基本的には、すり減らない物資と誤解してるんじゃないかな。(そりゃ、弾薬とかでの限度はあるだろうけど)
ゲームだと30日分の兵糧とか持って行く設定で、兵糧も腐らないけど、実戦では30日とか限られないし、ほっておけば使い物にならないのです。
>>278 補給専門の別部隊で補えばいいでしょ。制圧する兵站の確保でなく、往復程度であれば
子午でもそれは可能。距離は短いし子午はほぼ一本道なので魏延を破らなければ補給は遮断できないしね。
>277
魏の基本方針は守勢。
険阻に拠って撤退を待ち、状況が許せば撤退に乗じて追撃する。
魏延がどう動こうが、子午谷には誘いこめないかと。
隴西が奪われてたら、より長安方面は守勢だろうね。
>>278 そりゃやり方次第だよ
魏延の撤退に乗じて追撃って充分あり得るんじゃないのかな
>279
補給専門部隊=輜重兵な訳だけど。で輜重兵の仕事内容は
>>補給線があって、そのライン上で補給に従事する人間が漢中と前線を往復
な訳です。
その上、輜重兵も給養しなきゃならない。
子谷ルートはもっとも東拠りなだけで、策源地の漢中からの距離は斜谷・其谷とそう変わらない上、一番峻険。
通常ルートの斜・其谷ルートが使用不能な時に使われてた道だよ。
で、自分が言いたいのは補給路の遮断とかでなく、補給の継続自体が難しいって事。
継続出来なければ作戦行動続けられないと言う事。
思うんだけど結局諸葛亮って不確定要素を取り払った安全策だけで物事を計画しすぎてるように思う。
国力に劣る蜀が魏に勝つためには不確定要素と臨機応変さにも頼らなければ無理で
その辺の認識が甘いかと。甘くないんだけどももともと魏に打ち勝つことなんて考えてなかった
とするなら納得なんだが。
>>279 漢中から長安までの距離は、斜谷だろうが駱谷だろうが子午だろうが殆ど変わらず約300kmだよ。
それぞれの谷の出口までの距離なら、一番東にある子午が一番長い。桟道部分も多いしね。
>>282 もっとも険阻なルートだが最も短い事も確か。無理のある補給ルートではあるけれども
制圧するまでの兵站の確保ではないわけで不可能ではないし実際孔明も後の北伐で
陳倉までの往復プラス多少の包囲期間の補給ルートは確保できていたよ。ルート的にはこちらも厳しい。
なので包囲は中途半端に終わったがある程度は確保できていた。
>>284 いや子午は桟道部分はそんなに多くない
基本的に山道
だからきついんだがある程度なら補給が不可能と言うほどでもない
>>285 子午の長さは他とそれほど変わらないよ
いきなり陳倉ってのもなかなかいい手ではあるな
すくなくともガイテーよりは
>>288 いや最初の北伐の段階ではあまり守りも堅くなかったかなと
ただの思いつきだけどね
>>289 落としてからの先の展望に希望が全く見えないんだが。
陳倉落としてからどーすんの?
>>290 陳倉落としたら隴西の前線として街亭よりは守り易いんじゃないだろうか?韓信も長安攻めの拠点にしたことだし。
>>292 いや、蜀の領土状態で陳倉だけとって守勢にしようって陸地から離れた孤島を防御拠点に
するようなもんでしょ。どの辺が守りやすいのかさっぱりわからん。
>>293 それはそうなんだがじゃあ諸葛亮はなぜに陳倉を攻めたんだ?
>>294 単純に攻勢の際の橋頭堡にする為でしょ。
第二次北伐が陳倉だけとってはいおしまいなわけないでしょ。
なら警戒される前の段階で陳倉攻めれば良かったじゃん
というのは結果論ではある
>>296 そゆこと。何の根拠があって街亭よりよっぽどマシと言い切れる自信があるのか不思議すぎる。
>>297 言い切ってはいないよ
思いつきって前提を入れてる
287 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:黄帝生年紀年4716/04/01(金) 00:43:50
いきなり陳倉ってのもなかなかいい手ではあるな
すくなくともガイテーよりは
↑
言い切ってるじゃん。少なくともって。
何か悪意があって諸葛亮の策を貶してるようにしか見えない。
>>299 >>288 いや最初の北伐の段階ではあまり守りも堅くなかったかなと
ただの思いつきだけどね←【ここ重要】
まあ二言目だったのは誤解を招いたかな
悪意はないんだが防御拠点としての街亭は微妙に思う
そのへんはどうかね?
>>300 どうかね?といわれてもどの辺が少なくとも陳倉よりマシと言うほど微妙なのか
論じてくれないとどうにも意見しようがない。
>>300 いや防御拠点としての有用性について
論じてくれないかなと思ったんだが
303 :
302:黄帝生年紀年4716/04/01(金) 01:27:29
>>302 んじゃよっぽどマシといった陳倉と比較してみようか。陳倉の場合
魏:一大拠点の長安がすぐそこ+平地で補給線楽々+得意の騎兵も有用に使える地帯
蜀:補給的に決して楽とは言えない+大軍を生かせる地形で総兵力に劣る蜀には明らかに不利
街亭の場合
魏:街亭の道は険阻かつ大軍の交通に向いていない狭隘な道で補給線を繋ぐのは決して楽ではない
+大軍派遣に向いていない+大軍の展開に向いていない。
蜀:大軍が生かせる地形でなく、総兵力の差を多少は埋め合わせできる+このような険阻な地形は
突破が強要される攻勢側より防勢側が有利
に俺には見えるけど。これに対し、どの辺が陳倉の方がよくて街亭は微妙だと思ったのかお聞きしたい。
>>304 なるほど
街亭は険阻という論によって成り立ってると思う
しかし実際のところ 街亭は丘陵地帯であり南山はどちらかというと丘
砦があったということだが馬謖の行動を見るとそれほどの堅牢さが
あったとは考えにくい
一番の問題は守備の準備に時間がかかりそうなところ
砦はどれほどのものか推測できないが堅牢だったとする根拠がないように思える
陳倉は諸葛亮が落とせなかったように守りに徹すれば堅牢であり手に入れさえすれば
拠点としてすぐに機能しそうだが街亭はそうはいかなかったのではないかと考えているんだが
>>305 その陳倉が拠点としてすぐ機能しそうで街亭はダメってのがわからん。
第一、第二次北伐までの陳倉なんてろくに修築されてなかったから
急いで修築したってのが実情でしょ。
あとはさっき言ったように補給線の問題、大軍展開の問題、騎兵の問題。
これらを総合して陳倉の方が勝っているとする論を聞きたいんだな、俺としては。
>>306 補給に関してはもちろん街亭の方が上回ると思うんだが
陳倉は修復が加えられつつあった段階としても実際に
魏が維持してたであろうと推測できる
つまり防御の準備には街亭ほど時間はかからないと思う
騎兵は籠城に対してはあまり意味を成さないだろうし
街亭の場合魏が維持してた形跡が見られないし城と言うより
砦という言葉が使われているので規模が小さいと推測できる
それに大軍の展開は丘陵地帯である街亭も十分可能
防御拠点としての堅牢さが陳倉の方が上回り補給においては街亭
の方が上回るが総合的に見て陳倉の方がマシだったんではと思う
やはり街亭は破られ陳倉は守りきられたという事が大きな根拠となると思う
>>307 うーん、あまりに無理やりすぎないか?街亭は破られ陳倉は守られたからって。
第一、第二次北伐の際の陳倉は諸葛亮が動く前から入念に工事を行い、
難攻不落のものへ仕立て上げた砦。
街亭の場合はそもそも馬謖の命令違反と史書に記されるほどの拙劣な指揮が原因じゃん。
街亭が防御拠点に向いていないという論拠としては全く成り立っていない。
当時の陳倉が堅牢だという論拠にもね。
あと、街亭は
>>74にも既に書いてあるけど、
道もろくにない大軍の交通すら難しい大森林地帯だったんだってさ。
交通すら難しい場所で展開なんてもってのほか。
あと、仮に陳倉が堅牢だとしても兵糧攻めにされたらどうすんのかしら。
蜀側はそもそも兵站線の維持自体が困難なんだから、
一度包囲してしまえばそれを維持するのは比較的容易い。
援軍に対しては騎兵を用いる事は可能だし、
遠路はるばるやってきた軍を相手にするという有利な情勢でもある。
もうなんつーか陳倉≧街亭どころか明らかに蜀の防御拠点としての当時の陳倉が
勝っているとする部分が一つもないように見える。
もう俺は寝るけど、俺が陳倉を擁護する立場になっても陳倉が勝っているっていうのはムズカシイねこりゃ。
>>307 まあ俺もただの思いつきなわけで陳倉が明らかに上回ってるというほど
自信満々な論ではないw
ただし街亭ってのは森であり丘であるが大軍が展開できない地形って事はない
ここは結構勘違いされてるが周りに比べればマシって程度で
そもそも街亭の敗北を全て馬謖の指揮にあるとすることの方が短絡的に
過ぎるように思う
それと陳倉の拠点としての効力を疑ってしまうと
後の諸葛亮の陳倉攻略の戦略自体疑うことになるような
>310
陳倉の場合、散関と陳倉の間がもの凄く険阻だったらしく、諸葛亮の軍も先鋒軍に道を伐り開らかせて進軍した、とある。
それで進軍に手間取ってる間に、陳倉の防備が整ってしまった。それ以前に曹真が防備を強化もしているし。
陳倉を落とせても、その後の補給の継続は難しいような・・・・。
魏・中央からの援軍も2週間程度で到着するようだし。
陳倉の場合、第一次北伐と同年に行われいる。
石亭で魏が大敗し、関中の防備が薄いから侵攻したって感じで、あまり準備をしているようには感じられない。
街亭の場合、森であり丘であっても、大軍が展開できない地形でない、ってのはどう言う根拠で言ってるんだろ?
大軍を派遣したとしても、兵站面では魏の方が、単純に距離だけでも不利になる。
蜀漢が街亭を前線にする場合、隴西を押さえている事が前提になり、当面の兵站問題は魏より有利。
蜀漢側から仕掛けるとかで無く対峙状態なら、大軍であればあるほど魏側は撤退、って方向に向かわざる得ない。
街亭で蜀漢が破れたのは、馬謖が水の手を捨てて、あっさり敗れる原因をつくった事でしょ。
>>311 森や丘でもある程度の規模の軍は展開できる
険阻な山岳のような天然の守りは期待できない
街亭の土地事情はそういう所だよ
まして砦ってのも使われてなかった感じだし準備がなってない
そりゃ平地の野営よりはマシだがマシって程度かと
>>311 それと陳倉攻めが準備不足で奪った後の兵站問題を無視してるんなら
諸葛亮は随分お粗末といえるんじゃないか?
俺はさすがにそこまでお粗末とは思えないんだが
>312
大軍が展開出来るかどうかは水掛論になりそうだから、置いといて・・。
仮に大軍が展開できたとしても、魏軍は兵站を長安から維持することになり、大軍になればなるほど負担が増す。
実際、第三次北伐(祁山の役)では魏側も補給がかなり不安だった。
蜀漢側は隴西の完全確保まで隴西に魏軍の侵入を許さない、ってのが基本になるから街亭では蜀漢側が防衛に回ることになる。
兵站問題は隴西三郡は確保している訳だから、天水郡治を当面の策源地とすれば魏よりは負担は少ない。
街亭では蜀漢側もそれなりの兵力を派遣しているから、城塞に拠って防備を固めれば防ぐのは難しくないだろう。
準備云々も遭遇戦でなく、蜀漢主導の戦役だから蜀漢側が戦場設定をした訳で、街亭に軍を派遣する段階である程度の準備はしてただろう。
>313
陳倉に関してはお粗末だと思うよ。
江東方面で動きがあったにしても、準備万端で行った第一次北伐が失敗した後すぐの出兵じゃぁ、ちゃんとした準備も出来たかどうか・・・。
魏側も侵攻された直後で警戒もしてただろう(実際、陳倉の防衛を強化してるし)。
周到に準備を重ねて、作戦がそれなりに進捗していた第一次北伐が失敗したんで、焦ってたんじゃないかな。
特に五丈原の役なんて、ほとんど勝算ないような・・・・。
街亭の兵站面が魏より有利って考えは全く頂けないと思うよ。隴西は策源地としてまだ機能していないし後に機能するとも思えない。
まず農耕地帯が極端に少ないから策源地に適してすらいないし。街亭の補給は結局は漢中からの補給ルートにより、補給で不利なのは魏でなく蜀。
>315
第一次北伐の時は準備が周到だった模様で、街亭まで兵站問題は起っていない。
街亭で防げれば隴西を完全に確保出来たと思うが。
で、策源地化だが、漢中からの補給も併せれば、可能ではないかな?
魏における隴西の策源地は天水郡治の上ケイだったようなので、全く機能しないとは思えない。
ただ、繰り返すが、隴西地方だけで隴西方面の蜀漢軍を長期に渡って養えるとは思っていない。
漢中から隴西の兵站路を確立する事で、隴西の策源地が機能すると思う。
街亭で魏の第一撃を防げれば、隴西を掌握する時間的余裕が生まれるだろう。
魏も第一撃が失敗に終わったあとも大軍を派遣し続けるのは厳しいから。
つまり、隴西を掌握する事が出きるかどうか、って事だね。
>>316 上ケイはまともな農耕地として整備されたのは233年以降だから当時の策源地としての期待は難しいよ。
なので漢中からの補給に頼らざるを得ず、魏と比べて蜀の方が補給で不利なのは動かしようもない。
北伐全般に言えるのは補給に苦しむ蜀に対しまともに戦わないで持久戦に持ち込む魏という構図であって、
これをくつがえす論そのものに無理があるよ。
>>314 街亭では馬謖が張コウに囲まれ 列柳城では高翔がたぶん郭淮に囲まれ
しかも両方打ち破られたという状況で
魏の軍が大きく展開できないとするのはどうかと
現実に大きく展開してるし
兵站面でも隴西の策源地としての裏付けががほとんどない中で
兵站は蜀が有利とするのに非常に無理があるように思う
兵站においても魏>蜀だろ
>317
233年以前も、魏の策源地だったようだよ。
233年以降と言うのは河北の壮年農夫5千人を上ケイに移住させた事かな?屯田させたんだよね、確か。
隴西諸県の中であえて上ケイを選らんでいるのも、魏側の策源地的な存在だったからじゃないかな?
ヨウ州刺史だった郭准も上ケイにしばしば駐屯しているし。
史実の北伐では第一次北伐で、隴西に安定した根拠地を確保する直前くらいまで行ったけど、その他の北伐では確保出来てない。
漢中から隴西方面へ安全な策源地を遷す事が出来れば、(当然、漢中からの補給も続けるが)補給の困難さはある程度緩和されただろう。
隴西を掌握すれば、多くは無いかもしれないけど隴西諸郡の物資も集積できるのだし。
負担の緩和の多少、隴西諸郡の物資の量的なものについては個々の主観になってしまうから、納得してもらえないと思うけど。
>318
街亭では、馬ショクの指揮の蹉跌が大きいでしょう。
郭准の場合、隴西三郡が魏に叛乱した時に上ケイに逃げ込み、立て篭もっていましたが、街亭の勝報を聞き、戦果拡大のため出撃したようです。
この時の蜀漢軍は、街亭での敗北により、大混乱を起こしていました。
あれほどの大敗になるとは思ってなかったんでしょうね。
国力の絶対的な差があるから、全体的に兵站面で魏>>>蜀漢なのは確かでしょう。
しかし、隴西と言う魏の中央から遠い場所で軍事行動を起こす事で、作戦戦域において兵站面で一時的にでも優位に立つか、差を詰める事出来れば、戦いやすくなるわけです。
策源地の根拠としては
>>319に書きました。
理解してもらうのが中々難しいとは思うのですが。
>>319 その前に運河の建設による感慨事業があるけどね。これによりまともに耕作地として機能するようになった。
これが提案されたのがあくまで233年であってすぐに策源地として機能するわけでもない。
そしてまともに機能してればこのような提案はされていないわけだから、233年以前に上ケイが策源地として
適当だったとは言えない。
三輔の生産高は隴西を大きく上回っているので隴西の半分程度を抑えたところで、魏の補給に追いつくとは思えないよ。
なおかつ策源地化することでの反発の強い地域ですんなり策源地化出来るとも思えないし。
魏になんとか対抗できる程度の兵站の確保は可能って表現なら納得できるんだけどね。
それでも持久戦になれば負けるのは蜀だけど。
>314
書き忘れ。
大軍を展開する事と、勝てるか、と言う事は別な訳です。
展開できても、攻勢に適した展開が出きるか、と言う事です。
また、大軍を派遣することと、派遣し続ける事は、別です。
街亭に派遣された魏軍は5万。蜀漢軍は不明ですが、馬ショク伝には「大軍」とあり、魏軍ほどで無いにしろ数万規模だったのでは無いでしょうか?
峻険とは言わないまでも山岳地で戦う場合、守備側が有利なのは常識的な事でしょう。
そして、2万ないし3万の兵力が守備に徹していたら、守りきることも可能だったのではないでしょうか?
魏軍を打ち破る必要は無い、と諸葛亮は当事の段階では判断していたのでしょう。
しかし、馬ショクは指示に背いた。これは防御から攻勢に変更したのではないか、と推測します。
馬ショクが短期決戦に切り替えたとしたら、水路を捨てたのも理解出来ますし、山に昇ったのも同様ですから。
ただ諸葛亮の指示通り戦っても負けたかもしれません。張コウは名将ですから。
負けを事前に想像するには難しい状況だったのではないでしょうか。
>>320 つまり街亭と列柳城を同時に囲めるだけの軍の展開を
現実に魏はしてたってわけで
>>322 兵站において魏>蜀ということなので
軍を派兵しつづけられるのはむしろ魏なんだから
囲んで持久戦でも蜀に不利
現実に打ち破られた点を見ると攻勢に適した展開も出来ていたと
みるべきでしょ
>321
農耕に適してないから策源地に出来ない、と言うのはどうでしょうか?
例えば、漢中も農地面積は少ないですし。
策源地が農耕地であれば、より良いでしょうが、その他の条件も必要な訳です。
前にも書きましたが、魏のヨウ州刺史・郭准がしばしば駐留しているのは、策源地そのものと言えませんか?
そして、諸葛亮の攻勢が、隴西に指向されて来た事から、233年に策源地である上ケイの強化に乗り出した、とも言えるでしょう。
三輔の生産力が隴西を大きく上回っているのは確かでしょうね。
でも、その生産力を生かすのには兵站の確立が必要な訳です。
もし、生産力をそのまま生かす事が出来たら、隴西に侵攻する蜀漢に対して生産量に見合った大軍を派遣したでしょう。
二度に渡る、隴西方面での魏・蜀漢の対戦で、魏と蜀漢の兵力規模はほぼ同等か、蜀漢の方が若干上くらいです。
つまり、魏も隴西に派遣出来る兵力には限界があったと言う事でしょう。
人口規模において1/5くらいの蜀漢からすれば、作戦地域において五分か若干の優位に持ち込んだ、と言うのは戦略的には成功ではないでしょうか。
そりゃ守備側が有利って程度のアドバンテージぐらいは
街亭にもあったと思うよ
でも守りきれる安心感のある地形ではないということ
諸葛亮から見てここがベストってのはあったかもしれない
でも隴西の前線として他にまともな防衛拠点がなく
やむなく街亭を選んだということでしょ
>323
街亭の魏軍は中央からの援軍であり、上ケイの魏軍は現地の駐屯軍です。
同じ場所から進軍して来て、展開していった訳ではありません。
>324
生産力等の全体的な差は魏>>>蜀でしょうね。
しかし、蜀漢軍は自身の国力から動員出来る兵力は少ないし、隴西に駐留出来る兵力も兵站に見合った規模になる訳です。
それでも、数万の規模でしょう。
魏は確かに、その国力から大軍を編成できるでしょう。しかし、隴西に遠征し続ける事は防御に徹する蜀漢軍より遥かに負担は大きい訳です。
国力と兵站を単純に同一視するのはどうかと思いますが。
また、現実に敗れたにしても、馬ショクの指揮能力の問題が大きいのは正史にも記載されていますから、原因はその点でしょう。
現実に勝ったから、展開出来る場所だ、と言うのも暴論に近いかと。
>>325 漢中盆地の中ははとても肥沃なんですが・・
それと隴西には大きな兵力が駐屯していません。郭准などを長安からの補給と併せて養う程度でしょう。
そして隴西に233年にある程度の兵力が屯することと農夫が屯すること、運河による感慨事業が同時に行われたことは、
それだけの駐屯兵を養える地盤がなかったことを指すのです。
つまり第一次北伐の段階で上ケイはまともな策源地には成り得なかったと言うことを指します。
北伐時、蜀漢の兵力規模が同程度というのは非常に疑問ですがこれは兵站戦になれば
蜀は不利なので撤退せざるを得ないという魏の基本方針によるものです。
つまり兵站において魏が蜀を上回っていたと証明してしまうのです。
>>327 地形としては少なくとも展開包囲の可能な地形だったということですな
加えて兵站においても長安ー街亭>漢中ー街亭なわけで
隴西は策源地として疑問
蜀が長期戦に不利なのは明白だな
長期戦になると蜀が不利って5回の北伐の経過を見れば明らかでしょ
>328
漢中の場合、曹操が住民を移住させたでしょ。
農耕地はあったかもしれんが、耕す人がおらんのじゃ・・・・。
前にも書いたけど、農耕地=策源地じゃ無いのだから。また兵力規模が小さいから策源地じゃない、と言うのもどうかと。
ただ、その能力規模にあった兵力の駐留なら、漢中からの補給も含め策源地になったのかな、と。
北伐時の兵力は、街亭後に諸葛亮が「祁山・其谷に居たときは、敵より多くの兵力だったのに・・」と語ってるし、231年の祁山の役では司馬懿が「自軍を分割したら、蜀漢軍に対抗出来ない」と言ってる。
五丈原の役以外は魏軍より蜀漢軍の方が多かったかは微妙だけど、ほぼ同規模だったのでは?
魏としては、じっくり構えると言うのが基本なのは確かでしょうね。
でも、これは蜀漢側が根拠地を得る以前に対応できた場合で、第一時北伐で隴西三郡が蜀漢側についた時は張コウを即座に派遣していますし、張コウ側が攻勢ですよね。
これは、隴西方面を掌握されると、魏の基本方針が揺らぐ、と言う事の証明ではないでしょうか。
基本方針を守ってれば状況如何に関わらず蜀漢が撤退するとしたら、隴西三郡が落ちても攻勢には出ないでしょう。
>329
出来たんでしょうね。馬ショクが山に登った結果。普通に防御に徹していれば、攻勢しやすい展開は出来なかったのではないか、と言う事ですよ。
隴西が策源地として疑問なのは何故か、と言う事も書いて下さいね。
>>331 それはつまり張コウの派遣により街亭は落とせるだろうという魏というか張コウの判断によるものだと思います。
持久戦に持ち込まなくても落とせる範囲内だという判断だとおもうよ。
ほぼすべての北伐で魏は援軍を派遣しているので張コウを派遣したことを持って兵站において蜀が有利というのは無理矢理だよ。
自領を奪われることを防ごうとするのは当然でその行為が蜀の兵站の優勢にってのは・・
やはり隴西を得たところで兵站においても魏が有利というのはかわらないと思います。
上ケイは耕作地として整備される前で蜀の隴西支配も危ういので。
むしろ中央からの援軍があれほど迅速にかつ大規模に派遣できる時点で
魏の圧倒的優位さが分ると思うのですが。
武都・陰平も取っても、羌族の協力を取り付けても鮮卑が動いても大勢
には何ら影響が無かったし。
隴西が魏から蜀の間接統治下に入ったとしてもたいして影響があるかな?
>>332 そりゃロウ西得てじっくり魏が行ったような
感慨事業みたいなことをやれば
多少は蜀も補給を確保できるんだろうがそれでやっとこさ
三ポを擁する魏に対抗できるって程度でね
それでもロウ西<三ポなので蜀<魏ってことだよ
それ以前に街亭なんかの前線がもたないでしょ
囲めて展開できてしまう補給で魏が勝る・・
魏延様がたくさんいますな
むう・・・蜀に勝てる道は無いのか・・・
こんなにハイレベルな議論になってくると、もうついてけねぇや
>333
>>それはつまり張コウの派遣により街亭は落とせるだろうという魏というか張コウの判断によるものだと思います。
持久戦に持ち込まなくても落とせる範囲内だという判断だとおもうよ。
街亭を落とせば蜀漢軍が撤退する、と言う見込みが当時どの程度出来たのでしょうか?
魏としては街亭を落とすと言うよりも、魏軍を隴西に進めさせる事が重要でしょう。
天水・南安・安定の三郡が寝返り、涼州との境界に位置する隴西郡のみが孤立していた状況です。
その隴西郡も、魏の隴西太守の言葉を借りれば、一ヶ月程度で陥落が必死だったわけです。
街亭辺りでの対峙と言う状況に陥れば、隴西郡も蜀漢の手に入り、涼州も危機に陥る。
これを回避するには有力な魏軍を隴西に入れ、隴西を救援するしか無いわけです。
持久戦に持ち込まなくても勝てるからで無く、隴西に進出する為に攻勢に出たと言う方が自然でしょう。
兵站において蜀漢が単純に優位とは書いた事はないですよ。
当面の作戦地域で、一時的にとは書きましたが。遠征の負担については大軍を動員するかぎり、魏の方が負担が大きいとも書きましたが、負担の大小=兵站の優劣と言う意味では無いです。
兵站問題は、事の大小に係わらず蜀漢側に付きまといます。である以上、敵軍にも負担がかかる場所で作戦行動を起こす必要があるのではないでしょうか。
で、その場所が隴西だったのじゃないか、と。
340 :
339:黄天当立184年,2005/04/03(日) 23:28:46
続き。
>>自領を奪われることを防ごうとするのは当然でその行為が蜀の兵站の優勢にってのは・・
武都・陰平の時は、とりあえず救援に向かいましたが、辺境と言うことかあっさり撤退して、その後も奪還を目指してません。
つまり、隴西>武都・陰平な訳ですよ。同じ自領でも隴西は取られっぱなしじゃ困る地方と言う事です。
それな何故か?って事になりますが、蜀漢側が根拠地とし周辺に影響力を強める可能性があるからでしょう。
隴西に限らず、獲得したばかりの地域を根拠地にする場合には多かれ少なかれ不安はあると思います。
根拠地化を上手く進める事が出来れば、蜀漢側が優位に作戦を進められるでしょうし、もたつけば蜀漢が隴西方面を掌握出来ても、魏にあっさり奪還されるでしょう。
こればっかりは、判りません。
ただ、どう上手く進めて行っても魏が優位であるとは思いますが。一時的な逆転は逆転現象はあるでしょうが(三郡が寝返った直後の様な)。
>334
中央からの援軍とは張コウ軍の事だと思いますが、良いのかな?
5万と言う規模の軍を派遣できる能力は大したものだと思います。
ただ、228年春頃は魏も動員体制が出来てなかったのでしょうね。
呉と対峙中の軍を派遣している訳ですから。
異民族の協力も隴西地方の統治を行う状況になって生きてくるのでは無いでしょうか。
蜀漢が隴西地方を確保し、魏がその奪還に向かった場合、その後方を異民族に脅かさせる事も可能になります。
隴西を確保出来た場合、そういった面での影響も出てくると思います。後、涼州方面への影響は
>>333の中段あたりに書きました。
武都・陰平はその後、魏も放置してますから辺境だったんでしょうね。
>335
対抗出来る様になれば十分では?全体の国力として魏>>>蜀なのだから。
街亭に関しては、何度も書いてるけど、馬ショクの指揮蹉跌でしょう。
指揮のミスで包囲する余地を与えてしまうのと、防備に適しているかは全く別ですから。
>>339 から
>>342 いままでの主張と
かなり前提が変わってるような気がするけど
長期戦でも魏の優位が変わらない事がわかってれば
それでいいよ
>343
別に変わってないですよ。
隴西方面を確保した段階での隴西地方の軍事行動では一時的ながら蜀漢の方が優位な状況をつくり出せるのではないか?と言う事です。
当面蜀漢が作戦を指向した地域では蜀漢が優位にたてる期間もある、と。そのあとにその状況を維持できるかは蜀漢や魏の動き方次第でしょう。
その後は蜀漢が早急に隴西の掌握&涼州方面の確保を達成し、関中方面への影響力を強められるか、魏の隴西方面侵攻の為の兵站の確立が出きるかになるでしょう。
ただ、その後の状況と言うのも、全体の国力的に魏>>>蜀漢なので、魏の方が容易だとは思いますが。
話をスレの主題に戻し関連着ければ、いきなり関中盆地へ侵攻するより隴西方面へ指向する方が、蜀漢側には展望が開きやすいのでは?と言う事です。
関中盆地での作戦行動では、兵站の差がモロに影響しますからね。漢中〜イ南<<<長安・三輔〜イ南でしょうから。
>>344 魏と蜀との全体としての国力差による
補給の魏の優位性もそうなんだが
街亭近辺での局地的な攻防における補給でも明白に蜀<魏
であってそれは蜀が万が一隴西を得ても変わらないでしょと
生産力で見て隴西<三ポなんだから
蜀にとって多少は良くなるって程度で
魏とある程度長期戦に備えられるようになっても
持久戦に持ち込まれたら撤退するのは蜀ってことに
一時的に優位というのがサッパリ意味がわからないのだが
ずっと魏が優位でしょ
隴西得れば多少その差が縮まるって程度で
>345
第一次北伐で蜀漢軍が祁山に進出した際、隴西方面は、ほとんど軍事的に空白地帯でした。
で、隴西方面の三郡が寝返った。(寝返り工作があったのかもしれない)
曹真率いる関中駐屯軍陽動に乗り、趙雲に張り付いていて動けない(長距離の遠征能力が無かったのかもしれない。曹真が動ければ張コウの派遣は無いか、曹真の方が先でしょう。)
隴西三郡が落ち、曹真が趙雲とにらみ合いと言う状況で、関中は「震動」したと正史にもある。
関中の人心が相当動揺したんだろう。わざわざ曹叡が長安まで出張ってるくらいだ。
荊州で対峙中の張コウをわざわざ派遣したのは、この段階では動員体制が整っていなかったのと、兵站の準備が不十分だったのでしょう。派遣出来る範囲で派遣した、と。
街亭で勝ったから良いものの、隴西方面の動揺は関中の比で無く、張コウ軍が食い止められてたら、隴西方面は蜀漢のものとなり、涼州も危機的状況に陥る。
国力に圧倒的な差があっても、それを生かす体制が整っていなければ、その優位さを発揮する事が出来ないと言うことです。
第一次北伐に関しては魏の方にも隙があり、初動が蜀漢と比べてかなり遅れてる。
魏がその国力を生かせる体制になるまでは上記の様な状況であり、蜀漢の方が主導権を握り、隴西方面において一時的に優位と言えるのではないですか?
蜀が第一次で隴西を握ることに成功したとしても、所詮三ポの方が生産力は上なのだから
魏が体制を立て直せば結局国力の差で蜀は撤退するしかない。
と、いいたいのではないですかね。
簡単な話、「一時優位」になったとしても、まだ魏>蜀の状況は変わらないのだから。
>347
隴西を確保し、その結果、涼州まで蜀漢が掌握した場合、あるいは危機に瀕した場合、魏は早急に軍事行動を起こす必要を生じる。
隴西三郡が落ちただけで関中は「震動」したくらいだから、隴西以西が落ちると、関中の動揺は大いに増す。
その時までに体制を整えられるかどうか。
史実の街亭で魏を防げた場合、隴西以西が蜀漢の手に落ちる公算が大きい訳です。
で、蜀漢は漢中からの補給+隴西以西の軍資の供給を得れる。
戦略的には攻勢側でありながら、防御の利も得る事が出きる。
魏が再侵攻を図る間に隴西に根拠地をつくり、軍事物資の集結地(軍事用語では兵站主地)化出来れば当面の補給は持つ。
231年の祁山の役では最終的に兵站問題から撤退していますが、問題があったにもかかわらず半年近く出征していますからね。
その祁山の役の頃には戦時体制を確立したであろう魏も蜀漢と同程度しか派兵出来ないでいる。
つまり三ポの生産力が戦域に直結していない。
圧倒的な差を戦域に反映させない、これは戦略的に見れば蜀漢の成功と言えます。
全体の国力の差は圧倒的でも、戦域においては優位な状況を作る事もできる、と。
それが一時的なもので終わるか、継続・拡大できるかは、その後の状況如何であって何とも言えない訳です。
ものすごく単純化すると国力の差が圧倒的だから、全て失敗に終わるだろうと言う根拠では、劉備も漢中を奪取できない事になる訳です。
益州(巴の半分程度は保持できてませんし、荊州からの援助も望めません)<<<<魏ですからね。
>>342 そんな馬謖を抜擢した孔明のミス
>>343 議論が噛み合ってないようだが
短期的には
主導権を握ってる蜀側と迅速に大兵力を動員した魏で五分五分
中期的には
入念に準備を重ねてた蜀とそれの無い魏で蜀有利
長期的には
国力、補給路、根拠地等々で魏有利
これでいいかな
短期的・・・の転換点が街亭
蜀はここで魏を食い止めれば一時的に有利にたてると考えていた
そこで何かしかけるつもりだったんじゃないか?
例えば、関中に蓄えてあった食糧弾薬を食いつぶして
その頃合を見計らって魏延様が長安を強襲するとかw
結局、議論をすり替えてるだけなんだよな・・
補給がどれだけ続くかを論じてるのに魏の防御側としての
準備の話になってるし
どちらにせよ、長期戦で魏>蜀ってことだよ
>349
人事のミスだよね。
仮に街亭を別の人物の起用で成功したとしても、どっかで馬ショクを起用して大失敗するだろうな、とは思います。
短期的と中期的は入れ替えた方が良いかと。
で、入れ替えた、短期・中期の状況が魏側に優位な状況であれば、史実通りな結果に終わる、と。
逆に蜀漢側が優位な状況に持ち込めれば長期的な部分でも展望が開ける可能性が出てくるのではないでしょうか。
水路を断ってるくらいだから街亭は大軍を展開できたんじゃないの?
>>349 >>349 中期的にはすでに魏が有利でしょ
初期 蜀が有利
中期 魏がやや有利
長期 魏が有利
すり替えてませんよ。
よく読んで見てください。
補給が続くかどうかは、占領地域を根拠地化するか否かで状況は随分変わってくるのだから。
あなたは「国力が魏>>>蜀だから、何しても無理」って言う意見ですよね。
軍事行動においては状況如何によって展開が大きく変わってきます。
その辺りを無視して国力一辺倒と言うのは短絡的かと思います。
例えば
>>348で書きましたが、漢中戦役も国力だけ見れば魏>>>蜀な訳です。
それでも、蜀が漢中を奪取・維持し、魏は陽平保持していながら漢中を放棄せざる得なかったのはどうしてでしょうか。
結局、蜀漢が滅亡したのだから、漢中を蜀漢が保持したとしても長期戦では魏>蜀と言うのでは議論になりませんがね。
>352
馬ショクが水路を捨て山に登ったから、魏軍に展開する余地が生まれたと言う事でしょう。
どんな険阻な場所でも合理的な布陣を敷かなければ、敗北する訳です。
>あなたは「国力が魏>>>蜀だから、何しても無理」って言う意見ですよね。
こんなこと言ってる人いないんだが・・
ここでもすり替えが行われてるわけで
ところで、たしか上の方にもあったと思うのだが。
蜀が涼州をとったら、どうして涼州の連中は魏には逆らったけど蜀には従順になって
物資の援助その他で協力すると言えるんだ?
前にも話出てたが隴西をとられた時の魏の動揺を
高く見積もりすぎてるんだよね
生産力において隴西<三ポなのだから涼州をめぐる長期戦では
蜀が隴西を得ても魏が有利
いずれは撤退しなければならないのは蜀
つまり街亭を仮に守り通したとして更に仮に隴西を得たとしても
状況を打開しないと兵站に無理が生じ撤退しなければならないのは蜀なんだよ
攻勢に出る必要性に迫られるのはやはり蜀側であってこれも変わらない
だから蜀としてはなんらかの奇策にでなければ勝ち目がないということになる
それと街亭に関しても高ショウや馬謖が展開され囲まれた状況があり
地形的にも険阻とは言えない点を無視して馬謖の指揮だけが
問題というのも無理あるしな
>356
言ってるのと同じでしょ。国力で魏>蜀なんだから一時的優位だろうが、長期戦だろうが魏>蜀って。
これは国力一辺倒って事でしょ。
すり替えと言えば、隴西の策源地化(根拠地化)だけど、農耕地じゃなくともなれると反論した途端、国力にすりかえたのは、あなたですよ。
で、蜀漢が一時的に優位になる事もある、に対して長期戦になれば意味が無い、と反論にならない反論を書いてる。
>357
西方の異民族は反中央の歴史があります。反抗し続けた中華帝国の後継王朝は実質、魏であり、隴西方面も後漢に継続して統治してました。
そういった経緯から、異民族は魏に反抗的であり、蜀漢とは敵対関係にありませんでした。
そんな状況で、蜀漢が隴西に進出したので、街亭の役直前には蜀漢が優位だったため、異民族も蜀漢側につく可能性がかなり高かったのです。
それは誰が言ったかわからんが
農耕地じゃなくともある程度の物資はまかなえるが
それでも魏の補給が優位なのは変わらんよ
まあ罵り合いをしてもしかたがないので
当初の議論に一つの結論を出すと
補給に関して長期戦では隴西を得たところで魏>蜀
本来の国力比ならば魏から隴西を切り取ることさえ不可能なのに
戦略でそれを可能にしてる諸葛亮はやっぱり偉才だな
その偉才を見るともしかしたらと思えてしまうのは仕方ない
>358
低く見積もる根拠は?皇帝自身が出張るってのは、よっぽどの事でしょう。
正史の注「魏略」にも朝野をあげて恐れおののき、隴西、祁山ではとりわけ甚だしかった、と。
「魏略」は魏が統一していれば正史になった可能性もある書物だから、蜀や呉の記述は怪しいが、魏の事情に関しては信頼が置ける。
しかも、自国が狼狽したなんて不名誉な記述だからね。
三ポの生産力が高くても、隴西までは遠い訳です。
しかも、前にも書きましたが、後の231年の祁山の役でも魏軍の兵站問題も蜀漢同様でした。
そこに蜀漢の根拠地として隴西地方加われば当面の優位は蜀漢側と言う事になるでしょう。
その場合、隴西郡&涼州救援の軍事行動を早急に行う必要があるのは魏軍と言う事になります。
高翔は囲まれてませんよ。街亭の敗戦で動揺していた所を隴西方面に篭ってた郭准に敗れたのです。
なんども書きますが、守備側が余地を与えてしまえば、展開出きる可能性はどういった戦場でもありえるのです。
しかも、街亭の場合、森林や山があり交通に不便との記録もある以上、攻撃側が勝ったから、対した地形では無い、と断じるのはいかがなものでしょうか。
農業生産力が劣る隴西を蜀軍の策源地にするには、漢中からの補給が必要になる。
(この地が魏にあって郭ワイなどが駐屯していた時は、三ポからの補給で賄っていた)
つまり、戦略的軍事的には重要な土地だが、農業的経済的価値は低いということだ。
蜀が隴西を獲っても、補給の困難は変わらない。むしろ、漢中からということになって
さらに負担が増すだけのような。
>>361 蜀が魏を追い払って支配者になれば、異民族は今度は蜀を中華の代表者とみなして敵対
するだけだと思うが。そうなればそもそも策源地化することも、補給その他の物資を調達
することも困難になるだろう。
>362
いや、魏は長安から隴西方面への兵站が確立したと思われる231年頃ですら補給問題は起きているのですよ。
で、蜀漢が隴西方面を確保すると涼州も危うい。
で、涼州を救援するにはある程度大規模な攻勢をかけなきゃならないが、それには兵站問題が付きまとう。
蜀漢は隴西を得ても補給に問題無しとは言えませんが、涼州を救援したい魏としては、蜀漢の補給が尽きるのを待つわけにも行かないので、長期戦って言う選択が出来ないわけです。
魏の隴西侵攻→蜀漢が防ぐ→魏軍撤退・体制立て直し→その間に蜀漢側も体制建て直し、と。
魏は自領救援でありながら、隴西を失う事で遠征の負担を負う訳です。
守備側より遠征側の方の負担の方が色々な意味遥かに大きい訳で、何度か失敗が続けば、隴西以西放棄と言う選択を選ぶ可能性も出てくるわけです。
そうなった場合、固定状況となり、長期戦とは言えないわけです。
隴西が物資供給の点での策源地に出来ないのだとしたら、蜀軍はどうやって涼州を
支配するの?軍を進めるのなら遠征だよね。その物資は漢中からですか?
魏が隴西・涼州を取り戻すのは遠征といいつつ、蜀が同じ地を支配しようとするのは
遠征ではないとする根拠はなんですか?
>365
隴西を根拠地化し、ある程度の時間があれば、漢中から隴西に軍事物資を集積出来る事をお忘れなく。
漢中からの兵站も隴西を確保出来れば、連絡線も複数確保出来るわけで、容易になる訳です。
その上、微小であっても隴西の物資も得る事ができる訳です。
魏を隴西方面から追い払っても、蜀漢は地方政権でしかありません。
中原国家は魏のわけです。反中央と言う意味での敵は以前からの経緯もあり魏と言う事になります。
しかも、隴西三郡を確保した段階で異民族は蜀側に付く情勢でした。隴西を確保した途端、蜀になぜ叛するのか、理由が見つかりません。
異民族が蜀漢に叛するとしたら、蜀漢が魏の動向に左右されない程度の勢力となり、西方異民族の本格的統治に乗り出す時でしょう。
それまでは蜀漢側としても無茶な要求は出来ないでしょうし。
>>364 祁山の役で退却したのは蜀だよ
補給は先に蜀が滞った
そして魏は蜀が補給に窮することを予測してた戦略を立てていたのは
北伐全体の流れで明らかでしょ
そして隴西は辺境であり漢の時代には涼州の不要論が
出るような土地であって
魏の動揺というのが早急に援軍を派兵しなければならないという
以上のモノはない
街亭に関してはもう見てこいとしか言えんな
現在の街亭はある程度切り開かれているが
周りには30分もあれば上れるような小さな山がポコポコあるだけで
街道に比べれば往来が不便という程度だよ
加えて打ち破られてる事実がある
馬謖の指揮だけと断言するのがどうかということだよ
馬謖の指揮もあるだろうが地形的に険阻でないのは一つの理由といえる
というか、第一次北伐の蜀軍の兵数がどの程度かはわからないが、演義にように
何十万なんて数ではないのは確か。だったら、その中から二万(だっけ?)を馬謖
に与えて派遣した段階で、街亭は少数の兵力で抑えられる土地ではないと諸葛亮が
認識していたということではないかな。
ロウ西に漢中の軍事物資を集積するってのも相当無理があるな
あんな細い道での補給で蜀軍の維持だけでも困難なのに
そんな余裕があるはずもない
無理あり過ぎ
>367
涼州の場合、隴西を確保出来れば、大規模な軍事行動は必要ないかと。
魏・本国からの連絡を絶てば立ち枯れ状態に持ち込めるでしょう。
隴西ほ根拠地化できなければ、史実通り撤退するしか無いでしょうね。
隴西を根拠地化出来れば、隴西地方は蜀漢の版図になります。
順番を考えてください。
蜀漢が隴西を掌握する→涼州の危機→魏軍は自領防衛(奪還)の為遠征です。
蜀漢は隴西を掌握(根拠地化)していれば、隴西地方の防衛であって、遠征では無くなると言う理屈です。
隴西〜街亭と長安〜隴西ではどちらが負担が大きいでしょうか?
そして、魏軍が速戦を求めざる得ない場合、長期戦とはならない訳です。
魏が速戦に失敗を続けた場合、隴西以西の放棄の可能性もあり、そうなると魏・蜀の国境・情勢の固定化が生じます。
そうなれば長期戦ではなく、ある程度の平時が出現するのではないか?と。
ただ、これは蜀漢側が魏の攻勢を凌げた場合であって、失敗する可能性は否定しません。
>>368 魏の異民族統治をバカにしていないかそれは。
曹操、夏侯淵による遠征以来、この土地で大軍勢が駐屯しておらずそれでも反乱が
たいして起きていない事実を思えば、魏の施政はそれなりによろしきを得ていたと
考えても差し支えはないだろう。
魏だから中央政府だから反乱を起す、というのが観念的にすぎる。彼らが反乱を起す
第一は生活の問題であって、現代のような民族意識によるものはまだまだ薄い。
>>372 隴西を根拠地化しても、軍を支える物資は結局現地では賄えず漢中からに頼る事になる。
その時点で遠征ですよ。
>>372 隴西は生産力がまるで低いので
隴西〜街亭には成り得ないんだって
蜀の補給ラインは隴西を得たところでほとんどが漢中〜街亭だよ
>373
しかし、現実には異民族は蜀漢側に傾く情勢でしたし、231年の戦役では鮮卑族のカ比能が、はっきりと蜀漢側についてます。
つまり、統治が上手く行っても、戦況如何ではすぐに魏から離れる存在であると言う事でしょう。
また、反中央、と言う部分は観念的過ぎるかもしれませんが、事実の一面でもあります。
>374,375
漢中から隴西に策源地としての重心を移せればどうでしょうか。
そうなれば、当面は蜀漢側の方も兵站面での問題は少なくなります。
隴西の生産力が三ポに比べて低いのは事実でしょうが、魏も三ポの生産力を兵站に活かしきれないのですから。
>369
祁山の役の際は蜀漢側になんら根拠地が無かった事を忘れないで下さい。
その状況下で魏軍も兵站問題が起きている訳です。第一次北伐とは状況が違う訳です。
また、魏の北伐に対する全体の基本方針は守勢でしょうが、ではなぜ街亭の時には攻勢だったのか?
これは
>>339に書きました。隴西を掌握されると困ると言う事情があればの事でしょう。
蜀漢を放置して置けばいずれは撤退すると言うのであれば、街亭に軍を派遣し攻撃する必要も無い訳ですし、
隴西以西が生産力等の点から、確保する必要が無いと言う事であれば、武都・陰平のように放棄してしまえばよい訳です。
北伐に対する基本方針はそれとしても、状況がそれをゆるさなければ、状況次第では基本方針を堅持出来ない場合もありうるのです。
231年の祁山の役などで自領内に蜀漢が根拠地を得ていなければ自領防衛の為に軍を派遣し、蜀漢の影響力が強まらないように、基本方針で立ち向かうと言う事でしょうけど。
書き込みの一部分を取り出すのではなく、全体を読んでください。
街亭の地形については現地で見た事は無いのでなんとも言えませんが、馬ショクの指揮の拙さが大きかったのも事実ですよね。
>370
第一次北伐の蜀漢の兵力は不明ですが、おそらく6万〜7万程でしょう。
で、馬ショク伝等から、推測すると蜀漢が街亭に派遣した規模はおそらく3万前後。
蜀漢にとっては主力になりうる規模ですよね。
街亭が前線であり、魏の来攻が予想される以上、地形はどうあれそれなりの規模の軍を派遣するのは当然ではないでしょうか。
地形が険阻だからと言う理由で状況如何に係わらず、少数の兵力の派遣に留めると言うのは真っ当な軍事常識があれば有り得ないでしょう。
>371
補給線が脆弱であるのは事実ですが、街亭で魏軍を防ぐ事で時間を確保し、その間に集結地(策源地)化を図ると言う点も考慮してください。
遠征軍が根拠地を得る事ができず、運動を続ける状況では根拠地は作れませんが、一地方を確保出来れば安全な場所に根拠地をつくることも可能かと。
>>376>>377 一度認めた前提をくつがえして推論を立てぐちゃぐちゃになってるな
そして違う前提の上で論議を展開しても意味はない
整理すると論点は
1生産力で隴西が三ポに大幅に劣り仮に蜀が隴西を得たとしても補給はほとんど
漢中に頼らねばならず蜀の補給ラインは漢中ー街亭になる
結局のところ万が一隴西を得ても補給において魏>蜀であり
補給に苦しむ蜀は撤退前に動かねばならず長期化したら待ちのアドバンテージは得られない
2仮にに蜀が隴西を得たとしても策源地化する反発を抑えて維持し続けられるのかという点
3その前にたいして堅牢でもない地形の街亭を魏軍に対して維持し続けられるという根拠
大きく分けて以上の三点になるだろう
まず大前提である1の隴西の策源地としての価値が大きく隴西<三ポであり
蜀の補給ラインはほとんど漢中ー街亭にしかならないという点
これをくつがえさないとそれに基づく推論は成り立たないと思われる
「隴西では軍を支えるだけの生産力はない」といっているのに、なんで
「拠点を漢中から移せばオーケー」となるんだ?
生産力の絶対数を言っているのに、なんで拠点の問題になるのよ。
もし漢中からの補給を少なくして隴西からの生産だけで軍を養おうとしても、隴西の
生産力自体の問題で不可能だと言っているのが理解できないのか?
誰か、頭の悪い俺にも理解できるように易しく流れを解説してくれ
諸葛亮の戦略
・隴西から涼州を抑えてゆくゆくは関中、中原を魏から切り取る
ここで反論
街亭の敗戦がなく隴西を抑えたとしても涼州の残りの分や関中の物量の方が多くて蜀ダメなんじゃない?
ここで
でもいける!派と無理無理無理無理カタツムリ派にわかれている
もし間違ってたらツッコミよろしく
隴西の異民族を味方に引き入れて水増しをして長安を叩くのと
蜀単独で長安を叩き、その後洛陽と隴西からの挟撃にあって守りきるの
どちらが可能性が高いかという話だと思うけど
>>382 隴西方面から関中に向かおうとすると補給線が
漢中ー隴西ー街亭等の前線となり補給線が異様に伸びきってしまう
長期の軍の維持は無理ってことに
要は、諸葛亮の戦略でも魏延の戦略でもダメなもんはダメだったってことか
トリビアの種に応募して検証してもらえ
第一次で街亭の敗戦がなければそのまま涼州切り取りにかけられたと思うけどね
涼州取れれば今度は関中が見えるし魏蜀の国力差がかなり縮まって本当の意味での三つ巴になったら面白かったな
>>386 スレの流れ読み直せ
万が一涼州切り取っても補給は結局、漢中ー隴西ー街亭等の前線
になり補給線が異様に伸びきってしまう
長期の軍の維持は無理ってことに
>379
蜀漢が隴西を掌握し、前線が街亭とか前方になれば、隴西地方は安定するから、隴西地方で交戦中の状態より、はるかに安全かつ大量に輸送が出きる。
なぜかって言うと交戦期間中の軍は最低限必要な物資しか集積出来ないし、その軍に迅速に補給する為、輸送する物資も最低限の補填程度と言う事になる。
隴西が交戦状態から安定化すれば根拠地を得る事になり、漢中に集積している軍事物資を隴西に移す事も可能だろう。それ+隴西以西の物資。
漢中は策源地と言う役割から益州全体からの物資輸送の中継地点(当然、ある程度の集積はするだろうが)と言う役割にかわり、隴西が策源地になるんじゃないかと。
>>388 5万以上の遠征軍を細く険阻な補給線で養い続けるのが大変なのに
+余剰物資の集積など出来るわけもない
そもそも、涼州を奪えば国力はぐっと縮まるって、どういう根拠があるの?
それから、涼州や隴西の安定って出来るのかね。これらの地はたしかに反中央の機運の
強い地域ではあるが、魏が長年問題なく統治してきた実績があり、どれほどかは不明
だが親魏の勢力だってある(なければ強大な軍の駐屯なくして平穏な統治なんて出来ない)。
>>390 大意は同意だけど
隴西に魏の強大な軍は駐屯してはいないよ
三ポなどで駐屯する軍の牽制下
三ポの補給を頼りに隴西に小規模の軍が駐屯し
約15年の年月をかけてこの体制を築いたのだろう
涼州内部で争いが起こってグダグダになりそうな悪寒
隴西取れば後背が安全になる事がポイントで必ずしも戦線を延ばして守る必要はあるの?
異民族と交渉がスムーズに出来て、彼等の援軍を頼めるだろうが、その軍事物資を蜀が負担して
隴西まで運ぶ必要は無いだろ?
逆に魏が隴西に遠征しようものならその虚をついて長安を取れるわけで
その事から魏は隴西を見ているだけしかない状態になると思うが?
>>393 蜀が隴西を獲れば、蜀にはこの地を守る必要がある。そもそも自分で「後背が安全になる」
と書いているのに、隴西を守らずに失えば後背が危険になるということじゃないのか?
異民族の援軍に対して、蜀が兵站を受け持つ理由は必ずしも無いが、隴西に進出した蜀軍の
兵站は、蜀(漢中)が受け持たなければならない。
漢中に頼らないというのなら、ただでさえ生産力の低い隴西でどうやって蜀軍を支える物資
を得るつもりだ?略奪すれば一発で離反されるぞ。
>>393 が主張するように、隴西を獲ってから涼州を獲るということは、蜀軍は占領した
隴西を魏軍から守りつつ涼州に手を出すということになるが、そんな戦力を二分できる
ほど蜀軍は優勢だったのか?
「可能」派の言を見ていると、
蜀軍が漢中から隴西・涼州へ遠征することは可能だが、魏軍は三ポから隴西へ攻撃を
かけることも難しい。
となりますな。
漢中というのは確かに堅固な山に囲まれていて守るのは易しい。
でも堅固な山に囲まれているのは漢中からの遠征も逆に非常に難しくしてるんだよね。
特に長期の遠征は不可能に近い。
だからなんで涼州を軍事制圧を基本に考えるの?
隴西を取れば嫌がらせされずに異民族や反曹の人たちと交渉をもてるんですよ?
もっといえば、孫権達が劉備に蜀を取らせたような政策を蜀も出来るという事です。
その為に馬超の遺産(人脈)があるんだから。
それに長安も守りやすく攻めがたい地形であると思うのですが
>>398 少なくとも長安と漢中の立地の違いぐらいは見た方がいい・・
隴西に5万以上の軍が移動するだけでそれは軍事制圧であろうとなかろうと漢中がその5万以上の兵を
細く険しい補給線でまかなう必要があるんだよ。その維持が長期戦を不可能にするということです。
>>399 隴西と長安への重要度を考えれば無理をして遠征をするとは思えない。
隴西を奪われた時点で魏が大規模遠征を行う可能性は低い。
隴西に軍を派遣してテロ対策をするよりは隴西を手放して長安を守る方を取るだろう
次ぎに隴西に魏が進軍するとすれば漢中に手痛い打撃を与えなければ
難しいだろうと思うが?
つまり隴西を手に入れれば、その場にある補給可能な小規模の軍事力を駐屯させておけば十分と考える。
隴西は涼州と外交する為の土地で軍を動かす為の場所ではないと考えるが
>>400 蜀が隴西をとれば、どうあれ魏は軍を繰り出してくるだろう。
そうなると、蜀軍は漢中からさらに距離が離れた地で補給を受けながら対峙することに
なる。距離の問題がどれほど兵站に負担を与えるか説明するまでもないだろう。
そして続けていれば、結局蜀は漢中からの補給がダメになって撤退するしかなくなる。
史実でも、漢中から秦嶺山脈を越えてすぐのところに駐屯した蜀軍への補給すら難儀して
いたことを思い出そう。
ところで、蜀軍は涼州に軍を派遣しなくても外交だけでこちらにつく、という根拠を聞きたい。
それは言い換えれば、魏の涼州での施策がよほどに酷くなければありえないからだ。
どこかにそんな記述がありましたか?
馬超以来の遺産で寝返るのなら、何故第一次北伐で涼州豪族たちは寝返らなかったのか(それ
以後も魏の大軍が涼州に駐屯していたわけでもないのに)、の説明もよろしく。
>>400 むむう・・・
>>401 >>400さんの意見ある意味納得できまいか?確かに魏軍は必ず派兵はするだろう。そして撃破できそうなら撃破し
無理そうなら対陣して蜀の補給が尽きるのを待つと思います。あと小規模な軍では魏軍対して対陣すら無理。
しかし涼州を外交の場といいきるのは結構斬新かも。策源地化したら異民族の反発は免れないが策源地化せず、
同盟関係を結ぶのを重視したら?
そこでちょっと思いつきました。
403 :
402:2005/04/07(木) 17:49:16
隴西に先に進出する場合、隴西に到着したら策源地化しないで異民族の独立を認めてやる。
どうせたいした策源地にもならないので異民族との関係を重視する。で涼州は異民族に渡す確約をする。
そのかわり三ポと長安は蜀が頂くという約束。そしてその後の魏との戦いは共同戦線はりましょう同盟。
補給は漢中からのみとし、短期で勝負をつける作戦。
また仮定になるが街亭は守りきったとして(可能性は低いと思うが)その間に異民族の軍が集結するのを待つ。
涼州軍閥が馬超のときにかなり征討されているので馬超の時ほど集まらないと思うが半分ぐらい集まったらしめたもの。
異民族軍はほとんどが遊牧民の集まりであるから物資など長期分は集まらないでしょう。蜀も彼等の分の兵站などとても確保できない。
ここで一気に蜀・涼州連合軍が一気に長安に襲いかかり激戦の末長安を奪い取るというシナリオ。
かくして長安三ポは蜀の手に落ち涼州は異民族が独立を勝ち得て幸せに暮らしましたとさ。
異民族エンディング・・
>>402-403 その、「軍事力ではなく外交術策で異民族を服属させる」という統治方式を、魏は
曹操生前の頃から続けているのですが。
おとなしくしていれば尊重するよ、という魏と
戦争に加わってさらに場合によっては物資の供給もしてくれれば尊重するよ、という蜀
どちらを選びますかね?
反曹と馬超のカリスマは無視ですか?
>>405 では史実において、反曹と馬超のカリスマによって反乱が起きた例を挙げてください。
407 :
402:2005/04/07(木) 19:24:16
>>404 まあ確かに無理はありますね。例え涼州与える約束でも彼等にはその場の生活が第一。
羌族は特にもともと平和を愛する民族だから進んで戦乱に身を委ねるような参加のしかたはしないかも。
その場の流れでこっちついたりあっちついたりの態度だろうなあ。
>>405 曹魏が関西へ侵攻してくる事へ対する防衛のためなら、反曹にもなるだろうけどなぁ…
馬超だって涼州でのカリスマなんてのは結果論で、
政治的根回しや、地道な信頼関係の積み重ねがあったからこそ煽動出来たんだろう。
あと、涼州与える約束ってのは、蜀内部でモメそうだな。
漢の領土を放棄して、異民族に与えるなんて、
当時の感覚で考えるとありえないんじゃないか?
409 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/08(金) 09:25:16
「九州は中国にあげちゃいます」みたいなもんなのかな
>>401 隴西を取ればそのまま魏が軍を繰り出すかどうかは微妙だと思う。
漢中に蜀軍が戻った場合、長安を空けて軍勢を出すのは危険、
戻らない場合でも、諸葛亮もずっと隴西に居座り続ける事は無いだろう、
隴西を取れば隴西から西は孤立するし(あんまり価値も無いし)
放って置いても落ちる可能性が高いので、制圧にはさして時間がかからないだろう。
どちらにせよ隴西が落ちればそう遠くないうちに、諸葛亮は長安へ侵攻して来るだろうから、
それの結果如何だと思う。
>>410 隴西をとられた魏が放置する理由は?
さらに後半、蜀軍が漢中に戻ったのなら隴西は手薄状態。秦嶺山脈の向こうに引っ込んだ
蜀軍をアテにして隴西の連中は魏軍に抵抗を続けるといいたいのですか?
自分の言っていることが支離滅裂になっているって気づかないか?
>>411 別に魏が放置するとは言ってないけど?
隴西だけならともかく、それに加え漢陽・安定も蜀の手中に落ちてるから、
君が言うほど手薄にはならんし、魏が大軍を繰り出せば当然蜀も動くので、
長安への警戒も考えればそう易々と魏も軍を動かせなくなるだろう。
で、蜀が漢中に戻らない場合(むしろこっちの可能性が高い)
隴西を落せば諸葛亮本隊が漢陽方面に戻ってくるので(漢中に戻る場合でも帰ってくるが)
魏も兵力の集中を図るだろうし、張コウ等をそのまま派遣しっぱなしにするのは考えにくい、
当然諸葛亮本隊が来れば隴西どころの話じゃないので、
結局諸葛亮本隊と、魏の戦いの結果次第になるだろう。
追記
それと漢中に帰っても、どうせ一年位(以内)で諸葛亮は再侵攻するだろうから、
(あんまり長い間空けると結局涼州を失うだろうし)
結局諸葛亮本隊と、魏の曹真辺りのとの戦い如何になると思う。
何度も出ている「隴西では蜀軍を支えるのは無理」という意見をちゃんと根拠をもって
反論否定もせずにスルーして自説をただ繰り返すのはやめてもらえないかね。
君の説は、この点を否定しない限り画餅にすぎない。
>>412 それって蜀軍はどこで魏軍を防ぐ作戦なの?
俺はこの議論には参加してないし、参考になるかもわからんが、
姜維は補給の大部分を羌族の援助に頼った状態で、隴西に一年駐屯していたな。
まぁ、無理がたたって段谷で大敗してしまったが。
>>414 隴西のみではな、漢陽+安定+キ山を押さえた事による補給の負担軽減。
それに羌族等の異民族からの協力を取り付ければなお良い(郭淮がやってる)
これらを考えれば直に枯渇する事は無い、
つーかそんな簡単に枯渇するんなら諸葛亮も涼州をとろうなんて考えんだろう。
馬謖が敗れなければ街亭を拠点にして進軍するつもりだったんだから、
食糧もしばらく余裕があると思われるし。
>>415 漢陽で防ぐ事になると思う。
このifは、街亭は馬謖が下手打たなきゃ張コウの大軍を防げる要地である、
という前提があってこそだから、魏の侵攻を防ぐのも街亭みたいな要害頼み。
まず言えるのは街亭は要害ではないということ
単なる丘であり、現地近辺の地形を実際にを見ればわかるよ
それと枯渇しないだろう理由が諸葛亮が判断したんだから
間違いないってのは単に諸葛亮は何でも出来るから枯渇するわけない
といってるに過ぎないぞw
しかしまあある程度はもちろん維持できるだろう
しかし持久戦になると土地の生産力が三ポ>涼州と大きく差があり
先に撤退しなければならないのは蜀ということでそこが蜀が長期戦に出れない
理由として問題なのだが
前にも出ていたと思うが、隴西<三ポ で、どうして魏より蜀のほうが有利だと考えられるんだ?
それから漢陽+安定+キ山を抑えたところで、漢中からの補給という点ではまったく変わりが無い
のだが。むしろ防衛地域の増大で負担が増えたような。
>>418 張コウ伝にもあるように、馬謖が敗れたのは山の下の砦に篭らず
南山の上の陣取ったからで、ちゃんと篭ればそれなりに要害ではあると思うけど。
1800年くらい前と今では様相も大分違うだろうし。
まあどっちにせよ、馬謖が守れる程度の場所でないとif自体お話のならないからな。
補給についても蜀が有利とは言ってない。
あくまで、直に食糧が枯渇して撤退する事は無いだろう、という程度。
だからどちらにせよ、そう遠くないうちに諸葛亮は長安を目指して進軍するだろうから、
結局その結果如何だとしか言ってない。
諸葛亮の判断については諸葛亮の軍の食糧問題だし、
枯渇するとわかって進む程の馬鹿とも思えない、諸葛亮の判断を信用する他無いだろう。
別にこうすれば〜を倒せるとか、そういう判断の類でないんだし、
そこまで疑う必要は無いじゃないかな。
>>419 よく読もう、俺は蜀の補給が魏より有利など一言も言ってない。
>418
街亭に実際に行ったの?ツアーとかで行けるのかな。
>>420 補給に関して蜀は不利だがすぐに撤退というほどでもないというのなら
俺は納得だな
街亭に関しては地形的な問題と馬謖の指揮の問題が両方あると思う
砦は堅牢だったとは書いてないし、使われていた形跡がないので
かなりぼろくなっていたとも考えられるし
堅牢な砦だった根拠がないよ
馬謖が山に登った理由が砦に何らかの問題があったというふうにもとれるしね
史実の北伐みたいに、ある程度の規模の軍同士が対峙し続ける様な状況だと蜀漢は(極めて)不利なんだろうね。
街亭で防ぐことに成功した場合、張コウ軍も急行軍して来た部隊だから兵站が続かないだろう。
当事、魏の方も準備不足みたいだから。
と、すると張コウ軍も根拠地・長安まで戻る事になる。
魏の再侵攻までに、蜀漢側が一息入れられるかどうかじゃないかな。
>>422 いきましたw漢中もいったし桟道も歩いたし
ちなみに街亭跡は切り開かれて裸の丘みたいになっている
でも周りは丘が広がって森とも林とも丘とも言えるような感じ
上海にいくとツアーはいっぱいあるよ
日本の旅行会社だとどうなんだろう・・・
>418
要害で無い=常に守備側に不利って訳じゃなかろうに。
>>426 もちろん守備側のアドバンテージは得られると思うよ
ただし馬謖じゃなかったら守りきれると言える地形とも
言えないんじゃないかということ
俺は出かけてしまうがまた話がごっちゃに
なってきているように思うので整理して欲しいんだが
蜀が魏軍を防ぐ前線が漢陽だったり街亭だったりどっちなんだろう?
馬謖が街亭を守りきる間に諸葛亮本軍は西を平定しその後漢陽に陣し
場合によっては補給の負担を軽減し漢中まで下がり
涼州は馬謖その他の軍だけで守りきるという作戦かな?
その場合漢中まで下がれば確かにかなりの負担の軽減になるだろうが
(単純に考えて負担は半分かも)馬謖がおもいっきり不安だぞ・・
漢陽に引っ込むだけなら全体としての漢中ー関山道の厳しい補給ライン
の負担は軽減されないので意味ないと思うし
それと張コウがもし街亭で防がれたとしても長安まで退くのは考えにくいぞ
最悪三ポ内の西の拠点である陳倉あたりまで下がればよく
陳倉から街亭までの距離を考えると準備不足とはいえ
補給が切れるとも思えないので街亭で対陣って可能性の方が高い気がする
最初は準備不足によりきついだろうが諸葛亮軍が西を平定する時間は
魏に準備を整わせる時間でもあるので魏の補給の優位性は高くなってしまう
でもどちらにせよもし街亭を守れたら一息つく時間があるのは確かだろうね
だがそれは長安の曹叡の軍が準備を整える時間でもあったり・・
そして時間をかければかけるほど、国力の差が明らかになっていく。
そもそも当時の蜀軍は魏軍と対峙する本体と涼州を抑える別働軍に分けられるほど
規模が大きいのか?
…こう訊ねると、涼州は外交で抑えるんだ、とか言い出すんだよな。否定にたいして
反論もせずに。
せめて蜀から魏に行く道が、桟道じゃなくて
ふつうの道だったらなあ…
これ自体が大きなハンデだ
スレタイに沿った話だと、魏延の長安攻めは成功しないと思う
敵の備えが間に合ってなければ、長安を乗っ取れるだろうが
敵が備えを間に合っていれば、一万の軍勢は撃破されるのがオチでは
ろうせいうんぬんに関しては難しい話だが
蜀にとって不利な要素が多すぎるのは確かだ
ああ、やっぱり桟道が…
桟道のまずい点は道が細いのとあまり重さをかけるとぶっ壊れるのと牛が食う草がほとんどないことって
聞いたことある。牛が蜀にはかなり少ないのもあって諸葛亮は木牛を作って解決しようとしたみたいだね。
司馬イが陣を見て天下の奇才と評したのはこういう補給道具が色々あったからじゃないかな。
そんなの俺でも思いついてたと思うが。
でもお前はその時代にいなかった
理にかなった行動というものは
あとから観ると至極当然のことだったりする。
「何でこんなこと思いつかないんだ?」
それが常識の壁。
転んだブスの卵というやつだ。
435 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/10(日) 14:53:20
おお!こんなスレがあったとは・・・。
スレタイの質問だと漏れも長安攻めは失敗に終わると思う。
全部見てないが多分出ているだろう。
長安攻略に時間をかけていたら魏兵によって魏延が孤立させられるだろうと思われ。
ゲームの三国志では、桟道とか兵糧輸送とかで困る事もないし
戦力に大きな差があったとしても
プレイヤーという神の見えざる手でいくらでも逆転できるから
漢王朝復興は容易である
だが果たせるかな、史実においてはどう転んでも勝ち目はない…
だいたいゲームだと、民衆の目とか気にしなくていいから
劉備だって積極的に領土拡張しちゃうし
関羽が呉にとっつかまることもないしなあ
あまつさえ新野にいたころ、劉表を襲撃して荊州を自分のモノに…
何言ってんだ?
>428,429
涼州平定については議論に加わってないから、なんとも言えないが・・・。
事実の街亭当事の張コウ軍は、防がれたら長安まで退くのではないのかな。
陳倉は確かに、関中盆地西部の出入り口に位置するから、準備が整えば拠点足りえるだろうけど、あの段階ではどうだろ。
陳倉が強化・整備されたのは街亭後に曹真が指示してからだし。
結局は、隴西を掌握出来た場合、蜀漢軍6,7万を養えるかどうかでしょうね。漢中からの補給も含め。
養えるようで、かつ魏軍の侵攻を何度か防げ得る様なら、魏も隴西以西放棄って言う選択に出るかもしれない。
養えなければ隴西を確保出来たとしても、ジリ貧になるだけで撤退でしょう。
養えても魏軍の隴西侵攻を防げなければ在地豪族連中の信望を繋ぎ得ないだろうから、結局統治は不安定になり、撤退に追い込まれるのかな。
どっちみち厳しい条件だけど、いきなり長安方面に侵攻するよか展望はあったのだろうね。
>>438 陳倉は異民族や涼州軍閥の侵攻を後漢期に防いだ拠点だし
街亭後はより強化されたというのが正しいかと
実際に曹真が動き張コウが動き曹叡が動きという状況の中
最も前線に近いといえる陳倉になにも物資の準備がなされなかったというのも考えにくい
多分張コウはそのまま対陣したと思うが(補給が比較的容易なので)
一旦陳倉に戻った可能性もあると思う
でも長安までもどるのはかなり考えにくいと思う
まあ補給が続かないので涼州での長期戦の展望はほぼないだろうね
>>425 中国だろ?
中国人だろ?
「テキトーな場所案内して、金だけふんだくればいいや、
どうせ日本人だし(w」
って、違うところ案内されたんじゃない?
いくら海外だったとはいえ、同年代の邪馬台国の
場所だって、定かではないのに、
なんでアンタの見たところが「街亭跡」と言えるんだ?
まして、平和ボケの日本で生まれ育って、指揮官としてはもちろん、
一兵卒としても一度の実戦経験もないアンタの眼が見てきたことが、
どうして「正解」だと言えるんだ?
コーエー三国志では君主ですか?
皇帝ですか?名将ですか?
おめでて〜ナ
当時の司令官が「要害」と判断したなら、それでいいじゃん?
諸葛亮の判断は常に正しいんです。
>>440 同意。
敵司令官としてその資質を誉めている事よりも
正史を読んだオラが意見が正しいといわれると萎える
根拠を聞くとさらに萎える
諸葛亮の判断はなんでも正しいの方が萎える。
>>440 禿同。
中国人がニポン人にきちんと案内するとは思えない。
それに、やつらは瀬戸内海を「川」と思うくらいただっ広い国に住んでる。
日本人が見て「広い谷間」と思っても、奴らは「狭い=要害」と
思ったりしてるのかも。
桶狭間の例が前に上がってたけど、10倍以上の国民の国。
単純に10倍の兵士がいたとして、10倍の広さの戦場が、
「要害」になり得るんジャネ?
つまり425は馬謖という事でFA?
448 :
訂正:2005/04/11(月) 20:54:45
一応漢陽郡に属しているな。上ケイとか涼州の数少ない耕作地のある郡だね。
こんな山々を越えて行く諸葛の気がしれん
当時の街亭の地形が大森林地帯の要害って話は、
史念海っていう歴史地理学者が書いた「歴史時期黄河中游的森林」が元ネタ。
まあこの中国の歴史地理学者の論文が正しいか、
>>425がツアーで街亭を見てきた見聞のどっちが正しいかって話だね。
>>451 その史念海って人は、街亭が昔は今と違って大森林地帯だったといってるのかな?よければ原文を
出来れば確認できるサイトでもあれば示して欲しい。
>>448の地図を見る限り、直に長安方面への道の方が遥かに険しそうだね。
そりゃそうだろう。漢中からロウ西より長安の方が道としては険しい。
誰もその逆を言っている人はいないよ。
ただし漢中からロウ西は距離がとても長いけどね。
>454
>>448の地図だと、漢中から、長安も隴西方面(エリアは広いが)も、距離はそんなに変わらんような気がするけど。
漢中-ロウ西 道は険しいが直接長安付近に出る道よりは険しくはない。ただし距離が長い。
漢中-長安付近 道は漢中-ロウ西よりも険しい、しかし距離は漢中-ロウ西よりも短い。
>456
>>448の地図も見てみ。
それに他の三国志関係の地図でも大体同じくらいだよ。
そんなに距離変わらんよ。隴西郡とかなら距離は若干ありそうだけど。
祁山・天水郡付近なら長安と同じか、若干近いかもしれんな。
俺はむじん氏のサイトを参考にカシミール使って測ってるけど、それによると、
漢中−隴西(上ケイ):約320km(関山道)
漢中−長安:約290km(駱谷)
だね。
>>457 長安と直接漢中を結ぶとそうかもしれない。俺の地図だと漢中-長安近辺はほぼまっすぐ伸びているのに対して
漢中-祁山は南西に大きく弧を描いている。地図によって違うなら断言は出来ないかもね。
>458,459
290kmと320なら、ほぼ同距離と考えて良いかな。
道の険しさを考えると隴西方面の方が近いかもしれないね。少なくとも隴西の方が「とても長い」とは言えないね。
漢中から隴西・長安はほぼ等距離(直線距離)で隴西−長安は長い、二等辺三角形みたいな感じかな。
まあ道は点と点を結ぶ直線ではないし関山道が弧を描くなり迂回した感じのルートであれば、やはり距離的には
漢中-ロウ西の方がだいぶ長いんじゃないかな。それとその
>>448の地図を見ると漢中盆地は長安方面に伸びているので
途中まではそれほど道は険しくなく途中から厳しい感じになるんだろうね。
目的地まで直線距離で行軍できるのなら古今東西の軍隊には苦労はないわな。
世界史でみると、ローマからドイツまでそう距離はないね。アルプス縦断して
シュバルツバルトもつっきっていけば。
>461
一見した距離では長安方面の方が短く感じるだろうけど、
>>458さんの駱谷、関山でほぼ同距離ってのは道の険しさを考慮すると時間的には隴西方面の方が短いかと。
464 :
458:2005/04/12(火) 21:07:35
>>461 自分は直線距離で出したわけじゃないよ。
分かるようにそれぞれ駱谷道、関山道と書いたんだが。
直線なら普通の地図に定規あてるだけで分かるから、カシミールなんか使う必要ないし。
>>463 関山道が特に迂回していて距離的には長いと思われる点と
>>448の地図をみると漢中盆地が長安方面に伸びている
点を考慮していないような。
時間は関山道がだいぶかかるだろうが補給は関山道の方が少し楽という感じと思う。
466 :
458:2005/04/12(火) 21:12:53
ちなみに直線だと、長安までが約220km、上ケイまでが約210km
>>466 直線はほぼ意味がないということでしょう。
>465
>448氏が距離出してるでしょ。駱谷経由290km、関山道320km。これは直線距離じゃぁない。
つまり、関山道は迂回があっても30km程の差と言う事。これは1日程度の差だな。
そこに、道の険しさの差が+されれば、時間的にも隴西方面の方が近いと言う事。
長安方面は昇るのも降るのも急峻。
隴西方面は比較的に緩やかに昇り、到着地点自体の標高も高い事から降りも緩やか。
>>468 いや直線距離からの高低差を考慮はしてても迂回分は考慮してないんじゃないかと思うけど。
ちなみにこちらの地図で関山道の迂回分の距離を測ると道の長さで1,5倍ぐらいの差があるよ。
470 :
458:2005/04/12(火) 21:42:09
>>469 1.5倍?信じられないな。
具体的に何km程度なんだ?
>469
俺の手元の地図では漢中から武興経由で西漢水沿いを通って、建威・祁山と抜ける関山道ルートと、駱谷ルートでは駱谷ルートをほぼ直線としても1.5倍にはならないな。
多分、あなたの見てる地図は大まかなルート図なんじゃないかな?
関山道は西回りに大きく弧を書くように記載されてて、駱谷道はほぼ直線みたいな。
>>471 そんなにおおまかな図ではない。1.5倍はアバウトだけど。
ちなみに龍遊三国という歴史地図本だよ。中国の本。
わかりやすくいえばこういう事。やや大袈裟だけど。
キ山 長安
1 /
1 /
1ーーーーー漢中ー/
その本がどんな本かは判らないけど、1.5倍は無いよ。
詳細な距離は無理にしても、俺の本でも漢中〜祁山が280kmくらい。天水郡(上ケイ)までだと330kmくらかな。
駱谷道でも300Km弱で、漢中−長安を直線で結んでも230km前後。
魏延の子午谷道でも300km弱だね。
漢中−長安の直線距離と道なりの漢中〜隴西(上ケイ)くらいだと1.5倍くらいになるかもしれんけど。
関山道はソを経由して下弁に向かって西北西にのび真ん中らへんで北にのびる道だから
距離で見ると迂回度合いが大きく漢中から北に抜けるルートの中では一番長いよ。
直線距離で見ると感じられないかも知れないけどね。
>>473 ちなみになんの本?
>474
一番長いのは同意だけどね。
ソ県から下弁に向かうと言うより、武興から西漢水沿いを通る、って感じだと思うけど。
ただ、西漢水沿いルートは北伐ルートであって、関山道とは違う可能性もあるけど。
>>473で書いた距離は直線距離ではないよ。正確では無いかもしれんけど、ほぼルートなりに距離を出してみた。
関山道(と思われる)は迂回もあっての距離。それで漢中〜祁山が280km前後。多くみても300kmくらい。
駱谷道の方は、直線で230km前後。若干の迂回を加味すると300km弱。280〜290kmってところかな。
関山道の方が長いにしても1.5倍とかではないね。
俺の本は地図の本ではないよ。ただ、北伐の地図とルートが載ってて距離も書いてある。
それと、
>>458氏が利用したサイトの地図。
>>475 まあ距離がいちばん長いというのが共通してればそれでいいのだが、まず一つナンセンスなのは
道なりの距離を何キロメートルと正確には出せないということ。地図上で見てまっすぐな道でも
実際の道は戻ったりすらしている。精々出せるのは直線距離に高さを加味した数値ぐらい。
道の長さの比ぐらいは出せるかもだが。
北伐の地図とルートと距離が書いてあるとは凄い本だな。なんという本?
試しに、漢中−祁山の直線距離を測ったら、240km前後で、長安までの距離とほぼ同じ。
迂回部分を加味しようが、しまいが距離の差は、そんなに変わらない。
結局、駱谷・子午谷道の方が短いってのは、当然だけど長安までの距離が近いと言う部分とごっちゃになってるのかな。
確かに漢中から祁山方面に出て、そこから長安方面に向かうのじゃ長い訳だけど。
>>477 いやそんなことはないよ。道を通るのだから道なりの距離を見ないと。山を飛び越えるんじゃないんだから。
直線距離はほぼ意味がない。
漢中から山を越えて北に出る道の中で大きく迂回している関山道が道なりの距離では一番長いのは当然の話。
単に直線距離を測ってたいして変わらないとかいわれても困る。
>>477 直線距離で測ってそんなには変わらない
とはどういう論理だよw
傍から見てて退屈なんでそれぞれの仮定からどう最適な戦略が変化するのかでも論じてクレイは大型コンピュータ
それより北伐のルートと距離が
明記されてる本というのが非常に気になるな
>476
まぁそうなんだけど、一般的言うと、駱谷道の方が道が険しい訳だから、折り返し的な部分も当然多くなって、概ねの距離に対する加味する部分の割合は大きくなるよ。
そうすると、少々関山道の方が距離があっても、駱谷道との差は無くなるって事もありえる(と言うかそう)。
本は「諸葛孔明」って本。昭和59年の本だから結構古いな。
北伐の地図は一般的な三国志本とそんなに変わらないと思うけど。
距離は地図に載ってたので、厳密に正確とは思わないね。
>>482 関山道の迂回具合は少々ではないけどね。でも他の道に比べれば楽。それでも厳しい。
だから補給に関しては関山道の方が楽なんじゃないかな。しかし所用時間となると
関山道は一番時間がかかると思われる。(というかそう)
蜀が涼州において長期戦で魏と戦うことの無理さは
ほぼ結論が出てるんだよな
>478
いや、
>>475と一緒に読んでもらいたい。
関山道が迂回を加味して一番長いにしても、概ね300km程度。
駱谷道の方も概ね、300km程度。
若干の差はあるにせよ、ほとんど差は無いと言うこと。
直線距離もほとんど差は無い。
で、山道の険しさを考慮すると、その差は相殺されるか関山道の方が近いって感じじゃないかね。
漢中から祁山付近への距離と、漢中から長安方面への距離は。
>483
迂回してるにしても、距離的にはそんなに差は無いのだけど。
で、山道の険しさは駱谷道>関山道な訳で。
>>485 何キロで表現するのは道なりの距離を地図で測ることの抵抗があるので無人のサイトの地図と
こちらの地図を照らし合わせて比率で見るとソを通る迂回分でやはり長くなって
1.4対1の長さになるが。
>>486 迂回しても直線距離と差がないって理解不能
迂回分は結構あるよ。
距離 関山道>その他の道
険しさ 関山道<その他の道
というところかと。しかも迂回分は結構あるよ。
しかも
>>448の地図を見ると漢中盆地が長安の方までかなり続いている。途中までは長安方面の道は
関山道とたいして変わらないんじゃないかな。
直線距離がだいたい同じくらいなのに
>関山道が迂回を加味して一番長いにしても、概ね300km程度。
>駱谷道の方も概ね、300km程度。
迂回分を全く計算してないではないかW
そのサイトの地図は俺も見てるけど、ソを通っても、そこから真っ直ぐ西に行き、北に向けて直角に曲がり、下弁を真南から通過するくらいでないと1.4倍とかにはならんと思うけど。
そりゃいくらなんでも大回り過ぎでは・・・・。
>491
どちらも直線距離が230km〜240km程度。
で、どちらも迂回を加味すると300km程度。
計算してあるけど。
若干、駱谷の方が短いにせよ、ほぼ同じって事だけど。
理解出来ない?
494 :
458:2005/04/12(火) 23:48:04
自分はむじん氏の所を参考に、カシミールをダウンロードして三国志地図を作成して、
カシミールのソフトウェア上で測ってた。
等高線も表示させて、関山道の大まかなルートに沿いつつ、
行軍に無理の無い地形を選んで漢中から上ケイまでを測った。
その結果が320km程度だったってわけ。
1.4倍でも420km程度ある計算になるが、どうやってもそんなには伸びないと思うよ。
420kmって言ったら、直線距離で涼州に入る距離だし。
俺もむじんさんで今測ったが1.4倍はさすがになかったな
しかし迂回を加味すると15:18になるな
いや読み直して気がついたが皆さんは多分上ケイで測ってるんだと思う。こちらの地図だと上ケイより西に関山道は出てるので
それで測ったら1.4対1になったよ。迂回分の計算と到達地点の違いで差があるんじゃないかな。
>>493 あなたの文章では、「A-Bのルートの、直線距離と迂回路がほぼ同じ」と読めます。
>>451-497 おまえらさては中国の反日運動に対抗して、
侵略するつもりでつか?
じゃなきゃ、こんなに熱くならないよな?
釣りスレに釣られてるだけかと
>>498 そもそも中国侵略で内地系の話ばかりしててもしゃーないやんw
このスレの諸葛ヲタって複数いるっぽくても12時になると決まって発言が止まるんだよね。なぜだろう。。
502 :
458:2005/04/13(水) 01:15:52
>>501 自演を疑ったってしょうがないと思うよ。
12時過ぎて寝る奴も結構多いから仕方ない
夜更かしが体にこたえるかつて学生運動でお上に楯突いた団塊の世代が多いんだよ
ごめん まだ若いけどこの時間になるともうきつい
506 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/14(木) 21:36:43
魏延の首が楊儀の元に届いた時、楊儀は、「庸奴(愚かな奴隷)め、
もう一度悪さをやれるならやってみろ」と言って首を踏みつけたという。
よっぽど嫌いだったんだな。
中国人なのに中国語がまともに喋れないからな
そうじゃなくて出身階級の差ってヤツだろう
魏延はどうも庶民出身らしいし
劉備がムシロ売りだった件について
劉備は株のバイヤーだったんだよ
今は買いじゃない!むしろ売りだ!
って毎日叫んで大儲けして軍資金稼いで旗揚げしたからそう呼ばれている
階級の差は深刻だったみたいだね
蜀の法律を作った一人である劉巴は張飛と一言も口を聞かず
「なぜ兵卒の如きと口を聞きましょうや」と言い切ってるし
関羽は士太夫を憎んでいる
まあ、魏延も魏延で、立場が逆だったらもっと酷いことをしていそうだがな。
むしろ諸葛亮をいびり倒す魏延が見たい
そういう意味で様々な階級を包容した劉備は偉大だな。
嘘か事実かわからんけど劉備が高祖劉邦の遺伝子を
濃く受け継いでるのは確かかも知れないな。
ただ、直接の先祖?の劉貞は前112年に税金未納税の過度で
爵位を没収されてるから、劉備にとって不名誉な先祖といえるかも…。
魏延と楊儀の仲の悪さは性格面の方が強いと思う。
一旦論争になれば魏延が楊儀に刀を突きつけて、
楊儀が泣くという有様だったらしいし。
「この平民がっ!」
楊儀は声を荒げて魏延を罵った。
酒宴の場にいた人間が気が付いた時にはもう2人の喧嘩は始まっていた。
魏延は黙ったまま一歩踏み出しつつ懐の短刀を抜き楊儀に突き付け睨む。
そしてそこで初めて口を開いた。
「お偉い長吏様、もう一度同じ事を言って頂けませんかね?
何しろ平民出身なもので難しい事は一度じゃ覚えきれないのですよ。」
そう言いつつ口の端を少し上げる魏延。
これに気勢だけは負けぬとばかりに楊儀も口を開こうとした。
しかし歴戦の勇士たる魏延の構える短刀を前にさしもの楊儀も唇こそ動くもののそれ以上何かをする事はできなかった。
それを見ながら魏延は短刀を持ったままずいと一歩踏み出して言った。
「どうしましたかね、長吏様。
早くこの下賎で学の足りない私に貴方の素晴らしい学をご教授くださいませ。」
心中で楊儀は
「この様な下民が腕力に訴え自分を黙らせている」
と思うと果てもない怒りが込み上げてきた。
激情のあまり目から熱い涙が零れ落ちる。
見兼ねた周囲の人間が2人の間に割って入り魏延を止めた。
「目出度い酒の席を血で汚すおつもりか?」
何とか取り成された2人であったがこの日の出来事は後々まで深い禍根を残す事になるのだった…。
楊儀は同僚の劉巴と喧嘩をして尚書を罷免された。
519 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/17(日) 18:47:19
丞相雖亡,吾今現在。楊儀不過一長史,安能當此大任?他只宜扶柩入川安葬,
我自率大兵攻司馬懿,務要成功。豈可因丞相一人,而廢國家大事耶?
でも楊儀と関羽は仲良かったな。
521 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/17(日) 19:38:18
議題とずれるが
魏延の謀反の原因→反骨は間違いだと思う
原因→反骨と諸葛亮に言われ、重要されない事ではなかろうか
つまり諸葛亮が謀反を引き起こした物だと思う
じゃないと蜀で戦い続けたりしないと思う。
いや、諸葛亮は魏延の武勇を頼みにしていたし、重用しているよ。
他に人材いないしな
良貨とかしか
反骨ってのは演義の虚構だな
諸葛亮の死後、魏延が殺害されたのは
魏延が諸葛亮の遺言に従わず
自分が総大将となって北伐を継続する事を主張したから
置き去りにされて
逆恨みし、桟道を焼いてしまったからなわけで
陳寿が言うには、成都に誰も魏延を擁護したものがいないのも
馬岱に殺害されたのも、自業自得と言えなくはないと
諸葛亮は、魏延がいつもリスクが高い作戦を主張するのを聞き入れなかったから
魏延は諸葛亮を臆病者呼ばわりしてたけど
諸葛亮も魏延を亡き者にしようとまでは思ってなかったんじゃないか
正史では諸葛亮は、劉備亡き後劉封が謀反する事を恐れていて死刑を勧めたので
吉川三国志で魏延を亡き者にしようとしたのもそっから来てるのかも
でも諸葛亮は楊儀を気に入ってたから、楊儀があらぬ事を
いろいろ吹き込んでる可能性もないわけじゃない
>>525 やれやれ…諸葛厨はこれだから…。
>でも諸葛亮は楊儀を気に入ってたから、楊儀があらぬ事を
>いろいろ吹き込んでる可能性もないわけじゃない
どこが??楊儀の晩年を見るとそうは思えんが。
楊儀の晩年は諸葛亮死後だぞ
それなら、諸葛孔明が楊儀のためによきに計らうはず。
正史を見ると楊儀は有能だが、偏狭で俗物とある。
上レスにある通り、寒門出の魏延を見下したのは本当だろう。
諸葛孔明のことだ、薄々と楊儀の本性に気がついただろう。
そして、蒋琬・費禕に魏延或いは楊儀に処置でも会談しただろう。
なによりも蒋琬を次期丞相に任じたのがその証拠。
529 :
528:2005/04/17(日) 21:42:24
失敬!
>蒋琬・費禕に魏延或いは楊儀に処置でも会談しただろう。
…は蒋琬・費禕に魏延或いは楊儀の処置でも会談しただろう。
の誤り。
楊儀は有能なんだけどその有能さは大局的な有能さじゃなくて近視眼的なもの
便利な有能さ
費ネ韋とか蒋王宛はもっと大きな有能さなんじゃないかな
軽自動車の有能さと高級車の有能さとでもいうべきか
国を治めるには高級車の有能さが必要でも楊儀は勘違いして丞相府のNo2である自分が諸葛亮の次に!と思っていたと思う
魏延は魏延で軍事部門No1の自分が諸葛亮の次に!と思って二人で政争
魏延謀殺、楊儀失脚後自殺
惜しい魏延を亡くした
つまり、無実な魏延は俗物の楊儀の犠牲になったという見方もある。
魏延もあそこで諸葛亮の遺言に背くようでは、どのみち楊儀と同じ運命を辿るだろう。
伝では魏延が諸葛亮の事をかなり嫌っていたの事が伺えるから、余計にそう思う。
無実じゃないだろ
楊儀と魏延は政争をし、その結果魏延は負けて死んだってだけだ
>>532 魏延は諸葛亮を嫌っていたんじゃなくて自分で作戦立ててやってみたかっただけじゃないかと
逆恨みして桟道を焼いた以上
無実とは言えんな…
逆恨み?
普通に恨んでただけだろ
諸葛亮の遺言に従わなかったから
置き去りにされて、それを恨んでるのは
逆恨みとは言わないのか
言わない
遺言ってどのぐらいの権限があるもんなんだ?
中国では三年喪に服すのが親孝行と儒教でも言われてる通り
故人の遺言は生前の本人の言と同じ重さだろう
>>534 臆病者と罵ったり、自分の才能が発揮されない事を嘆き、
かつ恨みに思っていた、とある。
諸葛亮死後は、幕府付きの役人達はこのまま遺体をかついで帰国して埋葬すればいい、
一人の死によって天下の事を廃するとは何事か!
と、楊儀が嫌いなのとは別に諸葛亮の遺言に反発してるし、
発言の内容からかなり諸葛亮が嫌いだったと思う。
逆恨み
・人の好意を悪くとって(曲解して)かえって恨む事。
・恨みに思う人から、逆に恨まれる事。
逆恨みといえば逆恨みだが、意味的には違うな。
その、諸葛亮の遺言も発し方が不自然だよな
書面で本国にも魏延にも伝え済みってんならともかく、
一部の人間あつめて、こっそり指図してたってなぁ…
遺命の信憑性そのものから疑いたくなる不自然さだ。
しかも、「前線の指揮官と、その指揮下の兵を放置プレイしていいよ」ってのは
政敵排除にしてもリスク巨大で間抜けすぎる。
諸葛亮の側仕えだった楊儀が遺言を偽造ってのが一番可能性は高いんじゃない?
だからこそ魏延も怒って争った、とかさ
でもなきゃ軍部No1、蜀内でも有数の人物を置き去りになんかしないよ
後継者争いみたいなもんか
政争だろ
結局蜀内でも、後々「政争」って形でFAになってるけど(後主伝)
もし、諸葛亮の遺命が正当なもので、遵守すべきものならば、
それに反した魏延だけが謀叛者であり、
喧嘩両成敗として楊儀が処罰されるのはおかしいよな。
史料を疑いはじめたらキリないけど、蜀書内で矛盾してる気がするぽ
>543
そんなに不自然じゃないよ。
なんせ、魏軍と対峙中な訳だから。
「総司令官死亡につき、撤退」なんて事をあちこちに伝えた後に撤退行動を開始したら、混乱も出て将兵の動揺も大きいだろうし、魏軍へ伝わるのも早いだろうから追撃もありえる。
総司令部の幕僚連中だけに伝えて、死去直後に魏延以下の諸将にも伝達→撤退へって流れだからね。
本国への伝達に関しては、死去直前に李福が来た際に伝えてあると思われるけど。
>547
楊儀の場合、喧嘩両成敗で処分された訳じゃなく、蔣琬の新政権を批判し続けたからでは?
互いの仲を調停させようとした事も書かれてるし蜀本国は魏延も楊儀も死なせるつもりは無かったんじゃないかと
>>549 魏延はともかく楊儀に対してはそうは感じられないが…。
そりゃ帰国後の楊儀が愚痴吐きまくりだったからだろ
>>548 いや、処罰ってのは語弊があったか、スマン。
新政権批判での処罰の事を言ってるんじゃなくて、
後主伝で「違いに争い」っていう記述から見て
当時の政権の最終的な処断は「あれは謀叛では無く2人の政争」となってるって事。
>548
当時は直接対峙中では無いだろ
「あちこちに伝える」なんてマヌケな事はしなくても
遠征に関しての実質ナンバー2である人物をスルーする形ってのは不自然だろ
いや直接対峙中だろ。
諸葛亮伝では、司馬懿と渭相で相い対した、〜略〜
相い対峙する事100日あまり、その年の8月に諸葛亮は軍中で亡くなった、とある。
魏延伝にも、諸葛亮の遺言で魏延が殿軍となる指図があるし。
諸葛亮が魏延をスルーしたのは、魏延がその場に居なかったのか、
遺言にも見られるように、魏延の命令違反を警戒したのかもしれない。
それに魏延は名目はナンバー2だけど、実質ナンバー2の立場かは微妙、
部隊編成・兵量などの軍需物資の調達・計算は楊儀が担っており、
諸葛亮を除けば、魏延と楊儀のツートップ(とは微妙に違うが)みたいなもんだろう。
>553
対峙中かどうかは
>>554氏が書いてくれた。
魏延の位階については、官職上はNo.2的な位置にいるけど、指揮系統上は総司令部の指揮下にある軍司令官な訳で、その他の諸将とあまり変わらない。
官位が高いと言う事でそれなりに敬意は払われていたとは思うけど。
だから、魏延に伝えない、ってのも不自然じゃぁない。
556 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/18(月) 23:09:07
良スレage
不自然とか言う前に命令違反を心配していたんだから伝えるはずも無いだろ
おいおい
魏延の官位考えてくれ
蜀使持節・前軍師・征西大将軍・涼州刺史・南鄭侯
この中で前軍師・南鄭侯ってのはまあ置いておこう
でも蜀使持節・征西大将軍・涼州刺史って事は自分で判断できる権利、涼州における軍権、西方に対する軍権、を持ってるって事だ
格上の武郷侯・開府治事・益州牧・丞相の諸葛亮が開幕しているからそれに従っているだけだった
だから没後に魏延の怒りは尤もな事だ
が幕府の中と言う意味ではNo2でなかったかもしれない
書いてて主導権争い以外の何者でもないなと思った
>>558 主導権争いというか諸葛亮が自分の死後に魏延が危険になると思って
事前に諜し合わせておいたってとこじゃないか?
人を見る目の無い諸葛亮に、
過失の前から断罪されちゃ、救われねーよな魏延。
561 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/19(火) 08:28:55
>>559 諸葛亮生前の魏延に罪はない。
「法律上の罪はないが政治的に危険性があるから排除しておこう、そのために軍事上の
重大な決定の場によばない、決定したことを報告もせずにそのまま放置していこう。」
これだけないがしろにされればそりゃあ怒るって。
見方によれば、諸葛亮は自分の幕府を魏延に乗っ取られたくなくて(諸葛亮からみれば)、
幕外の大物を排除したともいえる。
どちらにせよ、諸葛亮―楊儀ラインによる政敵排除としかいいようがない。
幕府を乗っ取られたくなかったのは楊儀だけじゃなかろうか
諸葛亮自身が魏延に取って代わられるなんて事有り得ないだろうと本人も魏延も周囲も思ってただろうし
やはり諸葛亮死後の主導権争いで政争した結果の魏延の横死としか考えられない
>>560 トウシ見つけたじゃん
>>561 思うに諸葛亮は死後の事後策を予め指示しておいて
もしも魏延が従わなかった場合は処断するようにしたんだと思う
この場合生前に罪はなくとも死後に軍法違反となる
どんな意図があったにせよ、
結果的には他者を巻き込む形になり、魏延の指揮下の兵も霧散。
多分その年の恩赦で、当時魏延側について逃亡せざるをえなくなった人間の
回収をしたんだろうけど、どこまで回復出来たことやら…。
軍隊という形式を維持してるという時点で、それなりの将兵も含まれるだろうから
少しでも多くの兵役人口を確保したい蜀においては、結構な痛手だよな。
最終的には政争として処理するしか無くなるあたり、
死後に随分と面倒な事を残したもんだよと思うわな。
>>564 指揮官が反乱を犯した場合は兵が罪に問われるとは思えない。
兵士達がどこまで魏延に心頭していたかによるが
「魏延が命令違反をしまして、前線に出過ぎました」となった場合は
兵士達は命令違反をした魏延を怨むと思うが?
そんなに面倒かな?僅か一戦で終わっており、楊儀側にもさして損失は見られない、
魏延側も軍の規模は小さいみたいだし、直に四散してる、随分あっさり片付いた方だと思うよ。
それに諸葛亮が危惧したとおり、結局魏延は命令違反してるし、
むしろ読みがあたってたと言うべきことだと思う。
大赦は楊儀と魏延の政争よりも、諸葛亮の死と蔣琬が後継者になった事に
対する事の方が大きいんでないかな。
魏延は諸葛亮の軍事面での後継者を気取っていたから
ついはしゃいでしまったんだろうな。
大人しく戻れば後継者になれたものを
大人しくしてれば北伐の機会が永遠に失われる
と言うのも晋書によるとこの時期巨大な運河を作って関西方面の補給を万全にした
この運河の完全な開通前に蜀は勝利して領土を切り取らなければ物量の前に二度と勝てなくなる
だからこその第五次北伐なのに今ここで引き返してしまうなど正気の沙汰ではない
と魏延は考えたんではなかろうか
だからこそ「国家の大事を」って発言が出るものだろう
猪武者なイメージとは裏腹に相当の戦略眼もあったんじゃないかな
そのことは諸葛亮も重々承知だとは思うのだが
それでも、司令官が倒れて主導権争いや戦略の立て直し無しで
作戦続行をする危険性を考えての撤退だと思う。
それじゃなくとも補給限界のギリギリの所での戦争だし。
その点を理解しても、しないふりをした魏延の罪は重いと思うがな。
ここで蜀軍が破れて壊滅的な損害を出すと復帰できない可能性があるし。
もしもあのまま魏延案が通ったとしても
キョウイになるだけに思う。
>>565 士卒が罪に問われるかどうかはさておき、
どちらを憎む云々では無く、真偽の程がわからないまま
一度は中央から「反乱軍め!」と決めつけられた状態で
実際に逃亡兵が出てるわけで、それを回収するためには、
その逃亡を形式上でも赦すという方策になる。
>>566 面倒というか、国家的損失を伴う政争という意味で、
諸葛亮は政治家として、最後の最後で三流だったってこった。
諸葛亮の人物眼の無さと狭量さは笑えるなw
>>571 国家的損失って何?
命令違反をした魏延を生き延びさせて
今まで積み立ててきた国の信用を無くする事?
魏延指揮下の兵卒の逃亡と、野戦指揮経験が高い魏延の死亡。
それと、魏延の件も単なる「命令違反」じゃねーだろ
結果と原因を逆転させて語るなよ
>>573 諸葛亮の生前に死後の撤退命令を敢然と破ってるのが命令違反じゃないのか?
野戦経験が豊富だろうとも、国の秩序を乱してまで投機的軍事行動を起こす人間が
余裕のない国に居ることの方が迷惑だし
その罪を不問にする事は国の信義を潰す事になる。
ところでどれだけ兵卒が逃亡したのか?
ほとんど、諸葛亮の想定していた計画の前段階処置で
ほぼ無傷の降伏じゃねーか。
このスレでたまーに、「魏延は国家に仇なす輩」と決めつける所から
語りがスタートしてる人がいるけど
長安奇襲案に関しては、諸葛亮の持久戦否定論に対応したものだし
魏延が反した遺命というのも極めて理不尽なもの。
(その上最終的には軍法違反では無く政争として処理された)
これだけの要素で、「魏延が生きる事は国家に益無し」として
裏切り者をあぶり出し謀殺した諸葛亮サマはスヴァラスィ!!
とかマンセーするようなレスが、非常に気持ち悪い
そもそも諸葛亮も、存命中に撤退してりゃ良かったよな。
遠征中に政争すんなっつーの。
>>575 長安強襲も撤退作戦が既に存在し、戦略決定され命令されているのに
途中で感覚で変えようとすることが問題なんだろうに
さらに問題は、長安強襲却下の後、上官不敬罪に値する事を言ったり
謀反して自分の我が儘を通そうとしたりするような奢りを見せた事だろうが
これは武勇があったり、局地戦や戦略構築で優秀である事とは別問題。
国の根幹に関わる。
>>577 >途中で感覚で変えようとする
これはお前さんの想像でしょう?
魏延は諸葛亮に対して、急襲の提案を行い訴えてはいたが、
諸葛亮の持久戦的戦略も、彼自身の出師の表に反したものであるのだから
遠征に際してナンバー2の位地に居る人間が苦言を呈する事は当然
あと、謀反って言葉を使う時はもっと慎重に吟味してから使おうよ
いちいち訂正するのがめんどいですよ('A`)
ところで、
「諸葛亮の遺命は絶対だよ、
それに反した魏延は軍法違反の謀反者で、誅殺されて当然だよ」って言ってる人は
最終的に後主伝で「魏延と楊儀の政争」と処理されている事はスルーなの?
>>576 この戦争を勝たなければ勝機が無くなる事を知っていたので
死ぬギリギリまで粘った。
諸葛亮が居て、初めて文の楊儀と武の魏延が有機的に働け
軍としてまとまりができるのだが、自分が居ない場合の抗戦は不可能と考え
撤退命令を出した。もの凄い自然な流れ
>>578 最初は作戦提案だろうが後日になっても決定事項にブチブチ文句たれるのは問題だと
あと戦術指揮官としてNo.2だが司令部にも同格の楊儀が居る、完全に軍を掌握できる立場に居ない
正史に謀反と出ているのだから謀反行為。兵士達もそれが判っていたから魏延の元を去った。
>兵士達もそれが判っていたから魏延の元を去った。
どうして決めつける?
謀反と知って魏延に従っていたのなら、王平の発言で逃走したりしないだろ。
グレーゾーンが多く、一概に断じられないような問題を
どうしてこうも乱暴に断じるかな。
あーキモ。
>この戦争を勝たなければ勝機が無くなる事を知っていたので
>死ぬギリギリまで粘った。
諸葛亮は何でもお見通しだ!!アヒャヒャヒャ(゚∀゚≡゚∀゚)ヒャヒャヒャ
ってか?
>>579 それは後々この件を処理するのに都合が良かったからだと思う。
実情としては魏延伝、楊儀伝のほうじゃないか?
諸葛亮がどこまで考えていたかはともかく
あの遺言がきっかけで二人の優秀な人材が失われたのは痛かったな。
他に手はなかったのか?
>>581 魏延伝に書いてあるじゃん
あとなんで逃走になるのかと、魏延の元を去ったと読まないとおかしいことになるだろ?
去って魏延の軍が弱くなるのだから、魏延の元を去ったんだろ?
>>582 その程度を見通せないと指揮官の見識を疑われるだろうに。
魏延やその他遠征した諸将も考えて居たと思うのだが。
>この戦争を勝たなければ勝機が無くなる事を知っていたので
>死ぬギリギリまで粘った。
>諸葛亮が居て、初めて文の楊儀と武の魏延が有機的に働け
>軍としてまとまりができるのだが、自分が居ない場合の抗戦は不可能と考え
> 撤退命令を出した。もの凄い自然な流れ
もの凄い自然な流れだな。
対陣中に死を察知しながら自らは撤退しない無責任ぶりといい
己の一存で北伐の全てが決するという独善ぶりといい、
他者を信頼出来ない狭量ぶりといい、実に素晴しい考察で
>>584 「兵士達もそれが判っていたから」って決めつけがおかしいだろ?
>>583 魏延のパーソナリティの問題だろうと思う。
優秀な戦術指揮官が次々と世を去っていき、天狗になってしまったんだろうなとは予想できる。
前半生の劉備一筋の頃から考えると不遜になった感じがするし。
これは楊儀もだが、調整できる上役が居て初めて力を発揮するタイプ。
二人を取りまとめられる調整能力のある人材が入ればもう少し違ったと思われるが。
最終的に決裂は避けれなかったように思う。
大人しく戻っておけば姜維のような立場になって居たのかもとは少し思う。
ただ諸葛亮亡き蜀はタカ派は居心地悪いとは思うが
>583
当時の蜀内部でも状況の見極めが出来てなかったわけで、
後々実情が見えてきたって可能性も考えられるよね。
何も無いなら、改変して処理する必要は無いわけだし。
>>586 魏延に非がある事を知っていたからと書いてあるというに
>>585 撤退命令は出していたんだから問題はなかろうに。
撤退中に死んで、死期を早めても意味がないし、
病状だから撤退というのは理由も薄い。
本来は退いては行けない戦なんだから。
「この戦争を勝たなければ勝機が無くなる事を知っていたので 死ぬギリギリまで粘った。 」
こう言えば美談ではあるけど、これはチャカし抜きに無責任だよ、
自分がいなくなったら下の人間が混乱すると考えているならなおさらね。
後事を決めるにしても国内のがやりやすいだろうし、
存命中に撤退&人材整理は国内で慎重にってのがベストだろうなぁ。
>>590 だからこその撤退命令だと思うのだが
自分の死後にいざこざが起きる可能性が高いから撤退命令
死後も安定しているとすれば指揮官変わって戦争続行だろう。
撤退命令がないともっと悲惨な事になっていた可能性もある。
ここまでゴタゴタするとは思っていなかったと思われるが
俺等は歴史をみて結果を知って居ての議論だしなと思う。
これは残った諸将がふがいないという気もする。
>この戦争を勝たなければ勝機が無くなる事を知っていたので
コレの意味が分からん。第一次なら分かるが第五次ってそんなに特別な戦争だったか?
594 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/19(火) 17:32:38
>>591 魏延当人も招いた上で、予め決めておいたならそうも言えるけどね
上の方でも言われてたように、遺命の発し方と内容が悪い。
もちろん結果論ではあるけれど、
混乱をきたした原因として、
魏延と本国に話を通さずに進めてるという事は無視出来ないよ。
>>593 それを理由にするにしても、諸葛亮じゃ事情が違う。
諸葛亮の戦略そのものが長期的なものなわけで、
そこで残ってギリギリまで戦おうと、
戦略展開の途中で死に至る事にはかわりないよね
>>593 そんな事があったのかdクス
どこに書いてあるか分かります?
>>594 いや、決めているよ。
諸葛亮が魏延をハブにしたわけじゃないし。
撤退命令がありながら、
「無視して戦争しようぜ。大丈夫俺がいるじゃん。」
とか言ったのが魏延だし。
楊儀と仲が悪かったってのもあるけど
遺命に従いましょうと言っても聞きそうにないので
司令部からハブにされただけで。
>>595 その長期的戦略をもってしても不利益になる可能性が高い計画は
出来うる限りつぶさねばならないと思うのだが。この後が困難になるし。
戦略展開中に死んじゃうのは自己管理がなってないのかもしれんが
そりゃ仕方がないと思うのだけど?
撤退命令は出しているんだし問題はないように思うのだが。
従わないのが問題なわけで。
>>596に便乗するが
運河の建設って時代的には魏だが三国志には記述ないのかな?
一応、明帝紀には目を通してみたが見当たらなかった。
晋書の信頼性は薄いと聞くのでこれだけでは根拠として弱いと思う。
>>568 諸葛亮死んだのに、まだ北伐を続行する方が問題ありだと思う。
諸葛亮は単なる一司令官ではなく、国政を担った重要人物、
死ねば後事を決めねばならんので、撤退は仕方ないだろう。
また北伐軍の中枢は丞相府であり、楊儀や魏延も丞相府の役職を与えられてる、
当然諸葛亮が死ねば丞相府も無くなるので、軍の整理や再構築も必要になってくる。
諸葛亮死後、魏延は丞相府付きの役人は丞相を死体を担いで帰ればいいと言ったり、
それ以前から楊儀と敵対してたりするが、部隊編成や軍需物資の調達といった北伐の
根幹部に関わる楊儀や、軍の中枢であった丞相府の役人を無くして、あるいは敵に回して、
まだ遠征を続行出来ると思っていたなら、魏延の戦略眼を疑わざるを得ない。
魏延は目先の事に捕らわれて狭窄視野になるタイプとみた
遠征軍の総司令官が死亡すれば、撤退は当然でしょう。
撤退に関しての本国への事前通達は、死去直前に諸葛亮のもとを訪れた李福に託したと思われます。
自身の後継者指名や重要な国事に関しての指示をしているのだから、撤退に関しても伝達していたと考えた方が自然です。
魏延への通達は死去後に費禕を通じて行ってますね。
死去後も全く撤退を通達せず置いてきぼりでは誰しも怒るでしょうが、通達は行ってますからね。
諸葛亮の遺命も「魏延が殿軍。従わなければ放っておけ」だから、始めから無視と言う訳ではありません。
魏延以外の諸将、特に外戚の呉懿等も撤退には素直に従っている事からも魏延の方に問題が大きかったのでしょうね。
一国の宰相が、自分の死後について将軍間の協調、合意をはなから明らめて、決裂は
避けられないって放っておくのはどうなんだろう。結局、諸葛亮の持っていた権力の性質、
まとめ役を登用することが出来なかったこと要因になったのかな。
劉禅の指導力不足と魏援の反骨が直接的な原因なんだろうけど。
>602
どうなんだろ、たって少なくとも北伐開始事の227年頃以降から7年程の間の人間関係を考慮しての遺命だろうからな。
正史にも「楊儀の才幹を愛し、魏延の剛勇を頼りにし・・」ってあるから苦慮してたのは想像できる。
魏延、楊儀の調整役的な存在だった費禕も重用はされてても、年功を考えれば若輩だし。
結局、蜀漢は器量狭い人間しかいなかった、って事だろうけどな。劉淡もそうだし。
蜀ってのは愛すべき馬鹿野郎たちの集まりなんだよ。
魏延は最後、魏に逃げることもできたのに最後の最後まで蜀へと向かっている。
戻っても味方が誰もいないにもかかわらず。
彼の頭の中には蜀を裏切るという考え自体存在しなかったのだろう。
不器用だが、愚直なまでに真っすぐ。
そんな男たちがいなければ、蜀という国は存在しなかっただろう。
蜀という国は、劉備の人間的魅力によって
誕生された国であり
劉備がいなくなった蜀には
やはり政争は避けられなかったのでは・・とてすつ
従来型正史演義原理主義派と
色々な文献を総合的に煮詰めた新解釈派による
派閥争いだな
三国志には一切、明帝が司馬懿、司馬孚の進言を受けて運河を整備したとは書かれていない
明帝は宮殿を造営し国家の財政を傾けたと三国志では批難されている
だがこの造営、前年の大地震で痛んだ建物を修繕したとの話もある
この辺を考慮すると晋書の記述は怪しい物も多いがこの記述は信頼してもいいのではないかと思われる
上の明帝の改築をただの贅沢と思ってしまう陳寿の目にはインフラ整備もそう映るのではないだろうか
このインフラ整備の結果北上できなくなった蜀は蒋[王宛]が漢水降りの北伐を企画したのではなかろうか
「諸葛丞相ほどの人でも果たせなかった北伐を(相手が万全の態勢を整えているのに)凡人の我々が出来る訳がない」
こう考えると実に辻褄が合うと思うのだが
おまいらオレのことはスルーなのですかそうですか
ttp://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/gkbd.700.index.html ここまでの話は ↑の「北伐再考(2)その2」を見て欲しいす
司馬懿が整備した運河(成国渠)がどれほど重要だったか、書いてます。
誰も触れてませんが、運河がどの程度の規模だったかは西嶋定生「秦漢帝国」
(講談社学術文庫)P38の復元図を参照のこと。
西嶋センセGJ!
そこでは成国渠は漢代に開鑿されたと書かれてるので、
それから考えるなら、司馬懿の整備は「再」整備っつーことになるのかも。
あと前100レスくらいのとこで祁山の戦いに絡めて短期中期長期戦の魏蜀の
有利不利を論争してたみたいだけど、諸葛亮がんばったよ派の人は
単純にエリアあたりの生産力って点だけで論を進めてたから不利になった
んだろうけど、もともとの「その時は蜀が持久戦にもってけば、魏の方が
不利だったんじゃないの?」って見方は間違ってないと想う。
「北伐再考(2)その2」にそこら辺触れてるので読んでみて欲しい。
610 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/20(水) 22:34:48
611 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/20(水) 22:41:17
>609
確かに生産力は三輔>>>>隴西だろうが、だからと言って隴西諸郡の生産力で蜀漢軍を養えたかどうかは、また別になんだよね。
隴西は馬超の乱の時も天水が根拠地となってるから、北伐時の蜀漢軍の規模なら給養は出来た可能性はあると思うけど。
後に姜維は西方異民族からの補給を主として1年程度は粘ってるし。
馬超の時は扶風あたりを根拠地として、まず長安を落としてるから
10万の兵を潼関で維持出来たんじゃ無いのか?
その後の天水周辺での再起に関しては、
兵は1万前後な上に、隴上の住民(含異民族)の積極的支援があったわけで
さすがに状況が少し違うと思うぞ
長安落としたての時に即座に兵站維持の為に使えるとは思えないがな
そもそも、馬氏の影響力が強かった地域は扶風〜[眉β]あたりだから、
馬超がどうやって兵站維持したかを語っても、
隴西の生産力を云々する参考にゃなんならんよ
亀レスになるが
魏延って生年は不明だけど、
多分、孫策・周瑜か馬超・法正と同年じゃないかなと思うけど。
長安周辺の再開発だって、曹操たちによっておこなわれたものだしな。
ところで、曹操は漢中を降した後にそこの住民を長安周辺に移住させているはずだが、
そうすると諸葛亮時代の漢中はどうやって物資の生産をしたんだ?益州内から住民を
漢中に移住させたのか?
617 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/21(木) 22:06:45
>616
蜀漢が益州の住民を漢中に移住させたと言う記録は確かなかったね。
蜀漢時代は基本的に漢中は軍事機能がほとんどだったんじゃないかな。移住もしたとは思うけど。
物資の生産も軍屯みたいな感じで。+その家族みたいな。
曹操も完全に移住させたのでは無いだろうから少々の住民はいたと思うけど。
北伐等の軍事物資の多くは益州本国からの輸送だったのでは?
実際、南征により南方からの物資をかなり当てにしてるみたいだし。
李厳が当初、江州都督でいたのも南方から集まってくる物資を江州を中継地点として漢中に送ると言う点もあったと思う。
618 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/21(木) 22:15:17
いわれてみると、漢中にいたわけではない李厳が兵糧の担当になっているのだから益州
からの輸送というはあっているかも。
漢中が物資の生産拠点ではなく集積・中継地だとすると、ますます兵站の負担が大きく
なるのでは。
619 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/21(木) 22:30:48
>618
北伐に動員した兵力が6,7万と思われるから、漢中が仮に豊かだったとしても漢中1郡のみの生産力じゃ無理があると思う。
やっぱり、生産拠点は益州本国で、漢中は集積地だと考えるのが妥当ではないかな。
益州本国から漢中盆地へ抜けるルートも秦嶺山脈を越えるのと負けず劣らず険しい道みたいだね。
「剣閣の険」と呼ばれてるし。その他の米倉道も同様に険しかったみたい。
それでも、蜀漢は漢中に通常でも3万前後の兵力を駐屯させてたのだからね。
駐屯地がある程度安全になれば兵站の維持も不可能では無いと言う事かもね。
620 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/21(木) 23:10:19
>>620 前の魏延スレで多分孔明と同年か多少上かというレスがあったから、
(去年の暮れか今年の初めくらいかな…)
それで自分なりに魏延の年齢を推測してみた。
下の前レスを見て格は孔明より下だけど、年は数歳くらい上かなと思った。
異論があったら、遠慮なく書き込んでもいいよ。
558 :無名武将@お腹せっぷく :2005/04/19(火) 00:08:38
おいおい
魏延の官位考えてくれ
蜀使持節・前軍師・征西大将軍・涼州刺史・南鄭侯
この中で前軍師・南鄭侯ってのはまあ置いておこう
でも蜀使持節・征西大将軍・涼州刺史って事は自分で判断できる権利、涼州における軍権、西方に対する軍権、を持ってるって事だ
五丈原で魏延は34歳
それは張飛の孫の張遵(推測)の年齢じゃないかな…(234年当時)
と書き込んでみるテスツ。
624 :
魏延:2005/04/22(金) 00:45:22
二二二二二二l | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| 引っ越し!引っ越し!!
| | ♪ _________ ♪ | ∧_∧ 長安に引っ越〜し!!しばくぞッッ!!!!
| | |◎□◎|. | <`Д´ >つ─◎
| | /´ ̄ ̄ ̄ ̄/⌒ヽ.| /´ ̄し' ̄し' \ ///.
 ̄ ̄| | | ̄ ̄ ̄| 、_人_ / 彡 ◎ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| | | | _) ◎彡.| | バン
| | | | ´`Y´ .| | バン
t______t,,ノ t_______t,ノ
625 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/22(金) 00:49:07
魏が孔明をケーオー
626 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/23(土) 23:34:46
まぁでも魏延を失ったのは後の蜀のマイナスポイントだったな。
下手すりゃ脅威よりも戦上手の武将だしな。
627 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/23(土) 23:44:08
一回くらい好きにやらせておけば士気が上がってたのにと思う
>>627 賭けするだけの国力が無いっしょ?失敗したら立て直すのに大変だろうし
長安急襲の場合は街亭ほどの損害は出ないのでは?
まあ結果論で語ってもしょうがないけどね
姜維なんか何度も賭けのような戦いをしているが・・・
諸葛亮死後、蜀はしばらく大規模な遠征を控え引き篭もりになるから、
魏延が居てもあんまり活躍の場は無いと思う。
>>632 別に魏延は全軍の指揮を任せろと主張してるわけではないだろ
長安急襲なんて5000だぞ
成功した後、その5000を見殺しにしろと?
まさに軍人の意見
中国兵5000人なんて現代の日本人の5000円程度の価値しかないだろ。
>>634 失敗したら見殺すだろうが成功したら見殺しにはしないだろ
捨て駒的な使い方が悪いという考えは現代の似非ヒューマニズムみたいだ
>>636 成功すれば魏延の長安強襲案に乗らなければならない
長安強襲案の難点は長安を得る事ではなく維持する事である
長安を得た以上は維持しなくてはならない。
これは大変困難な事業となり、馬超の例を見るまでも無く、一時的に占拠した事で全軍崩壊の危機がつきまとう。
その危険を排除するのであれば、魏延率いる5000を見殺しにするしかない。
そんな意味のない事をするぐらいであれば、長安強襲なんぞ成功しない方がマシである。
もっといえば長安強襲を許可しない事が一番の方法である。
別に維持なんかしなくても、陥落させて速やかに撤収で十分だよな。
一時的にせよ長安を失陥させれば魏が周囲に与える圧力は軽くなるし、
「劉備を失っても蜀にはまだこれだけの底力がある」と見せつけることは外交的にも有益。
涼州や呉に働きかけて対魏包囲網を強固にすることも容易になりえたはず。
魏延は長安制圧して一気に戦争終わらせる気だったんだろうが、
諸葛亮だったらもっと長期的な視野で戦略を練ることもできたはず。
それでも諸葛亮が魏延の献策を容れなかったのは、作戦の内容よりも、
当時の蜀の人材の薄さから魏延のような猛将に万が一の事態が起こることを恐れたためではないかと。
>>637 考え方というか論証の仕方がおかしい。
長安強襲案は全軍崩壊のリスクがある→諸葛亮が長安急襲案を採らないのが一番
こう書けば
>>636のような突っ込みは無かったでしょ。
長安の維持の大変さは分かるが北伐自体が困難な事業だから
統一を本気で目指すならどこかでリスクをとるべきだったと思う。
そしてリスクを冒すとしたら第一次がうってつけだっただろう。
ただ諸葛亮の優先順位としては国体の維持が高かっただろうから
長安急襲案を採らなかったのは正しい選択だったんじゃないかな。
どっかのサイトで、
「第一次北伐の戦略目標は涼州・雍州の制圧による財源の確保」
と説明されててなるほど〜と思ったが、このスレ的にはその辺はどうなん?
>>638 魏延案にはそのリスク対策の方策が無かったのが
採用されない大きな理由だと思うがな
>>640 腐るほど話されていて、
涼州に兵力を分散して補給が維持できるのかやらが語られている
>>637 馬超の例っていっても、あっちは連合の解離っつーか、
軍が一枚岩じゃなかった上に、韓遂が元から曹操に寄ってたから
最終的に組織だった行動に出れなかっただけだろ。
あれ…蜀も一枚岩とは言えないか…?
>>641 部下の献策を戦略レベルにまで引き上げて実行に移すのも軍師の才覚のうちとは思うがなあ
軍師って誰の事?
長安急襲案を採用しなかったのは、長安が奪取出来るかどうかもかなり怪しいと言う点が大きいのでは?
「急襲すれば相手は逃げる」ってのが前提じゃぁ・・・。
かなりの確率で長安を奪取出来るのなら
>>638のような影響を見越して採用することもあるだろうけど。
失敗した場合、油断していた魏側も警戒するようになるから、その後の北伐も難しくなる。
魏延としては、失敗しても兵の損失はたかだか5000、大規模出兵を続けて国力を疲弊させるよりは、
という判断もあったみたいだけどね。
その辺は局地的にしか戦争を判断できない軍人ゆえの浅はかさってことか。
ただ、やっぱり
>>638の言うように、諸葛亮が一番恐れたのは魏延を失うことだったと思う。
647 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/24(日) 17:00:08
>>646 信玄最後の遠征の主力を美濃に向けるかまずは徳川に向けるか、
関ヶ原の上杉の関東攻めと最上攻め、
第二次世界大戦の独ソ戦のモスクワ攻略とコーカサス攻略の対立を思い浮かべる。
軍師って当時と今じゃ全く意味が違うからあんまり迂闊に軍師がどうのとか言わない方がいい気がす
>>643 それらは一度会議等にかけられて実現性を考察されて拒否されたんだろ?
なんで軍人の「可能性の低い思いつき」を実行する事が軍師の条件なんだ?
軍師の「可能性の高そうな思い付き」とやらが全然うまくいかないんだからしょーがないじゃんby魏延
陳倉急襲はわりかし長安急襲に近いものがあるが、
相手に見抜かれてた事もあるが、失敗だったな。
とはいえ第一次北伐と陳倉急襲は同年のうちに実行された作戦であるので、
陳倉の補修といってもそんなに大した事は出来なかっただろう、
しかしちょっと補修した城も20日程度では落とす事は困難で、
また20日程度で作戦続行が不可能になる強行軍の兵站の薄さが出た戦いだったと思う。
せっかく諸葛亮が大雲梯や衝車まで発明して
攻め込んだのにねえ
>>651 少なくともリスクマネージメントはやってるもんね
諸葛亮拝
やべえ
俺社長になれそう
フィリピンパブにでも行って来たのですか?
657 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/18(水) 17:00:24
良スレage
658 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/19(木) 12:08:31
今の日本に置き換えると、関東から関西まで(東京が洛陽、大阪が長安)
の本州に、四国が戦争を挑むようなものなの?
孔明「魏延ちゃん、長安攻めOKよ!」
魏延(なんか怖い〜、何をたくらんでいるか解らない
ここは断っておくのが無難か?)
「よく考えて見ますと長安攻めは無謀でした。提案を撤回します」
史実と変わらない。
660 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/19(木) 18:23:53
661 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/19(木) 18:35:49
魏延の目論みが「夏侯楙が逃げる」というのが前提だからな。
その可能性について議論したほうが結論は出やすい。
662 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/19(木) 18:42:46
ハンニバルのアルプス越えに近いんじゃないか?この戦略は
問題なのはカコウエンジュニアやる気満々だけど
戦略や戦術の妥当性云々ではなく、
正直、この頃の蜀は何をやっても失敗しちゃいそうな気がする
魏国は蜀よりでかいからね。
仮に占領できても一時期のものだったと思う。
665 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/19(木) 18:50:06
(屮゜Д゜)屮
43 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2005/05/19(木) 17:51:25
>>40 長安落としたあと速やかに撤収すればいいじゃん
一瞬にしろ敵の首都を失陥せしめれば政治的な意義は計り知れない
まあ、諸葛亮の戦略的にはそれすら危険な賭けということだったんだろうけど
667 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/19(木) 18:53:28
魏延の長安攻めを孔明がオーケーしていたら
魏延も満足。
失敗→数千対20万、アフォな猪突pで死亡。
蜀にとって反骨の芽を処理できてウマー。
他の武将への戒めにもなる。
(子午谷から行ってれば街亭でのことも起きなかった?)
成功→長安ゲットウマー!策を賛同されて反骨が和らぐ?
反骨じゃないからさ正史魏延は
魏延の長安攻めを孔明がオーケーしていたら
魏延も満足。
失敗→魏延、部隊を率いて長安を攻めるも返り討ちになって死亡
魏延という貴重な猛将を失ってしまい蜀軍の士気は低下
諸葛亮、魏延を死なせたのはお前のせいやと後世の人々に叩かれる
成功→魏の喉元に剣を突きつけた事により、魏の士気は低下し
兵を引き上げたとしても、蜀の兵と民は嬉しい気分になる
魏延、図に乗って傲慢に振舞うので結局さわぎを起こす
魏延がケ艾みたいになって馬岱に斬られるのかな
その前に楊儀殺してくれてれば別にいいけど
けど諸葛亮に対しては大分反感を持っていたようだけど、
ここら辺演義と逆だなぁ…。
なんやかやと、諸葛亮の言う事には素直に聞く魏延
うっかり発言で落ちぶれる所は曹彰にだぶるな
愚痴はこぼしても命令されれば仕事はきっちりやり遂げる
理想的な軍人の姿だな
劉備と諸葛亮の命令しか聞かないけどな
何だかんだで一番諸葛亮の凄さを実感できるところにいたのは魏延だしね
676 :
楊儀:2005/05/20(金) 00:17:43
ワシの命令もちゃんと聞けや
677 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/21(土) 19:51:38
魏延の長安攻めを孔明がオーケーしていたら
魏軍20日後に、長安に到着し、魏延を撃破し後続の本隊が来る
と勘違いして長安に踏みとどまる。
魏延は失うが、涼州・雍州はゲット。
>>677 勝った余勢をもって攻撃しかけられたら
下手したら崩潰の予感
というか、諸葛亮は体制を建てなおす為に退きそう
結果、魏延、涼州・雍州を失う
そもそも、魏の本隊が長安に留まるってのがおかしい。
蜀の本隊が隴西に向かえば、その事はすぐに魏の知るところとなるんだし、
長安に大軍を張り付けて動かないって事は無いだろう。
>>674 劉備と諸葛亮しか上官だったやついないじゃん。
┌‐┴─ ヽ ┼┼
──‐ ./ ̄| ̄ヽ │ ヽ│ノ┬┌┐ヽ l二l二l ──っll ─┼─
| │ | 人 /│ ┼││ 三|三 / d
(____ ヽ_丿 ノ / \ ノ .人└┘_/ _/\_ (_ ノ
|
|
|
\|/
>>681 魏延が韓玄と劉表に仕えた事は正史には書かれてないぞ
楊儀が魏延の上官だった事はないぞ
命令は聞いていないな
「楊儀匹夫聴着,若孔明在日,吾尚惧三分」
孔明が死ぬまで魏延は楊儀に対して多少遠慮してたみたいです。
魏延案は魏延が長安落としたら孔明の本隊がすぐに詰めることになってる
涼州の魏軍をどうするというのは具体案は出てないな
長安とったら涼州軍は孤立させられないか?
連携される危険もあるが
孟達がいなければ出来ない作戦だな。
>689
仮に長安を落としても、点の確保になるだけなので、魏の本国と涼州との連絡は維持されるのでは?
長安陥落の影響で三輔が蜀漢側になびくかないと難しいでしょう。
その三輔も魏の援軍の動向次第でしょうね。
関中盆地に魏が大軍を比較的早く入れる事が出来れば三輔は魏側でしょう。
もたもたしてれば、蜀漢側になびくかもしれません。
しかし、その程度のギャンブルなど曹操が袁紹に挑んだときに比べれば大過あるまい
あれも許攸が寝返ってこなかったら確実に負けてたよなー
長安をガラ空きにしたのは魏軍の計略では?
と諸葛亮はよんだのではないでしょうか
どんな計略?
735 名前:日和見宰相 ◆7rAzqBFcf. [sage] 投稿日:2005/06/15(水) 21:17:44
三戦は新時代に突入したんだよ
昔を懐かしむような馬鹿はもう三戦に必要ないといえよう
737 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2005/06/15(水) 21:20:12
日和見よ何調子に乗ってんだ?
三戦の新時代にお前のようなヘタレな厨房が必要なのか?
739 名前:日和見宰相 ◆7rAzqBFcf. [sage] 投稿日:2005/06/15(水) 21:21:28
むしろ俺が率先して新時代に導くwwwwwww
741 名前:日和見宰相 ◆7rAzqBFcf. [sage] 投稿日:2005/06/15(水) 21:23:02
俺は日和見様だwwwwwwww
742 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2005/06/15(水) 21:24:13
お前に誰がついて行く?
魔玉に煽られ厨房ぶりを発揮して無様な姿を披露した貴様に!
743 名前:日和見宰相 ◆7rAzqBFcf. [sage] 投稿日:2005/06/15(水) 21:24:40
だれも着いて来ないでいいwwwwwwwwww
747 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2005/06/15(水) 21:26:58
新時代きづくと豪語しておいて誰もついてこなくて良いとは何だ?
さっきと言ってる事が違うと思うが…
749 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2005/06/15(水) 21:28:26
厨房が支離滅裂になってる
お前は三戦板には必要ない存在のようだ
日和見宰相とは芸も知識も無く住人に煽られ池沼・厨房・基地外・馬鹿・口先大王・知的障害すべてを
出すもなす術なしで叩かれた大馬鹿の糞コテです
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1118594252/545
>>695 おい。たとえ寂れていたとしても良スレにくだらんもの貼るなカス