1573年の将軍京都退去をもって、室町幕府の終焉とするのが一般的だけど
よく考えると、当時の将軍て近江やらどこやらへ「一時避難」するのは割と常
套手段だったりするんだよね。
>>203 オレもその辺調べてみようっと。
後の時代だけど、秀吉が将軍職を所望して結局なれなかった理由の一つに、将
軍義昭の存在がある。という一説を、どこかの資料で見た記憶があるぽ。
>>200 上洛=野心によるもの を肯定したとして、その辺が限度だよね。やっぱり。
信長と足利将軍をダブルで蹴散らすのは、考えにくい。政略的にも軍略的にも。
>>206 それだと、後の朝廷による「三職推任」はどーなるんでしょう?
将軍の権威を利用した上で自分の目的を求める。
信長が他と違うのは、最初から利用と廃棄を考えていたことだと思う。
信長が上洛する一年前には本願寺顕如から、太刀や馬などの贈答とともに上洛する
ことへの激励の使者が送られている。この時期に義昭はまだ朝倉の下にいたことを
考えると、信長は義昭の存在によらず、上洛を考えて計画していたということになる。
そして上洛する前から朝廷と連絡をとって将軍権威を上回る存在との繋がりを早々に
築き(むしろ、これも義昭とは関係なしに進められたものかもしれない。例・決勝綸旨)
さらに上洛して後には五箇条の誓約で将軍権力をしばりつけたり。
たしかに義昭はずっと後まで征夷大将軍でありつづけ、前代までの室町将軍の流浪の
歴史を鑑みれば73年に室町幕府が滅びたとは言えない。しかしその代わりに信長自身
が朝廷より官位を賜ることにより政権者として任じられ、この頃から上さま、つまり
室町将軍に代わる武門の棟梁、天下の執権者と位置付けられている。
つまり、義昭も必要としなくなったということだろう。
210 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/18 01:15:42
>>209 義昭が一色を頼って逃げたから
義昭を必要としない体制にせざるおえなかっただけじゃないの?
>>209 本願寺顕如からの贈答及び、上洛に対しての激励に関しては、少し自分でも
調べてみようと思う。【疑問】本願寺のメリットは何だろう?
上洛以前から、信長が朝廷と積極的に関係を強化したのは分かる。【疑問】浅井家
との同盟=六角家との敵対 の動きが、義昭とは関わりあるものか、否か。
信長=将軍に代わる天下の執権者としたのは、武力を持たない朝廷の保身策と見る
こともできる。将軍が再び(庇護者などの武力による)力を盛り返した、としたら
新たな局面になったのではないか。と思う。
この辺は、色んな資料をほじくり返して、何が正しいのか調べていきたいと思いま
す! …ということで、続きは今度(^^)ノシ
>>211 の書き忘れ
【疑問】「上洛以前の信長の対朝廷の政略=上洛」と直結して考えても良いのか、否か。
そのへんは、結局信長をどうみるか、つまり評価する側の問題だと思う。
最初から意図したことだったのか、変化する状況に対応しただけなのか?
ただ、それでも信長が最終的に義昭という権威を必要としない体制を築き上げた
ことは変わりませんがね。
疑問なのは、仮に信長がまだ義昭を必要として戻ってきて欲しいと考えていたのなら、
毛利から義昭の身柄についてひきとって欲しいと持ちかけられた(帰洛)とき、
交渉にあたった秀吉が条件でゴネた義昭に「どこへとも好きなところへ行けばいい」
打ち切ったことに対して全く処罰がなかったこと。
もし信長が義昭にかえってきて欲しかったのなら、主君の意図を無視して勝手に
交渉を打ち切った秀吉には何らかの処分が下されて当然でしょうに。
よそでも言われているが、信長を「たいしたことないよ」と貶したところで
信玄を持ち上げることには繋がらないと思うがな。
信玄に限らずどこかの大名のファンは、すぐに「信長なんて〜」と言い出すな。
結局、過去の歴史を調べるって「探偵」みたいなもんだと思うんだ。
言語統制や後付の捏造に毒された、史料の解読や、現場検証などで
理詰めな解釈をまずしなきゃ。と思う
評価を急ぐとつい、主観に走りがちになる(ある意味仕方ないけど)
毛利小五郎ちゃんじゃないけど…。
>>213 義昭の意向>信長の意向 という解釈もできるよ。つまり将軍
の権威は死んでない、という見方。
遅レスすまぽ
>>186 大物見の類じゃないのかな?
>>215 まったく死んだとは思わないが、ほとんど省みられなくなっているのも事実。
例えば信玄と謙信に和睦を持ちかけたり、家康に武田と講和して織田と戦えと言ったり
しているが結果は?
先に言っておくと、謙信が信長と対立したのは北陸方面でお互いの利益がぶつかるように
なってから。つまり、謙信はそれまで義昭の言葉に耳を貸さずに利害から信長と結んでいた
わけだ(そして利害から敵対した)。
毛利だって、信長と戦えといってきても無視して、まず信長自身に義昭引き取りを
言い出して(つまり、毛利はその時点では義昭と関わりあいになりたくなかった)、
それがダメでも本国安芸には容れず(これには、義昭本人が縁起のいい鞆にいついた
とする説もあるが)、結局毛利が対織田に立つのは、信長の力が丹波や播磨など
中国方面へとのびてきてから。
義昭の意向にそれなりの重みがあったとはこのあたりからは見てとれないのですが。
>>214 織田厨は色んな大名を「〜なんて」という
どんぐりの背比べ
220 :
逍遥軒:05/03/19 14:09:04
>>218 軍事力(国力)を背景とした国同士の問題に対して、将軍の権威が有名無実化
してることは認める。
一方で、将軍の存在を大義名分とする存在があるのも事実。特に京都周辺では影響力
が大きいと思う。つまり朝廷工作や近畿での治安向上には、一定の効果があると思う。
221 :
逍遥軒:05/03/19 14:22:53
この際だから将軍を「解剖」したいと思ってます。自分はあまり知識ない
ので、史料など提供してくれるとありがたいです。
>>220 自分も、そういった影響はあったと思います。ただ問題は、
義昭が追放され(たとされる)、変わって信長が政権者として認められ始めた
天正元年以降にも、義昭の意向>信長の意向 という図式が成り立つかという事で。
もろもと朝廷は明らかに信長サイドによっているし、朝廷自身も信長に握られていて、
義昭の意向が信長の意向に優先されたことなんてない(もしあったら教えて下さい)。
治安についても、実質京と畿内を軍事支配(=治安)している織田相手に、義昭を奉じて
決起した勢力がどの程度いますかね?
>>222 ふむ。言われてみるとそうだな(~・ω・~)ということは…
>>213 秀吉が怒られなかったのは、大した問題じゃなかったから。なのかな?
それとも、実は織田家の方針として(交渉が)決裂させるように仕向けた。とか?
>>223 つまり、織田家にとってはもう必要ないものだということですね。
なんか、「反信長包囲網を構築したのは義昭だ」とか、過大評価が過ぎると思いますね
義昭に関しては。
>>225 畿内ではそれなりに影響力あるんだから、そこまで極端な見方もどうかなっと。
むしろ、まっさきに畿内で影響力がなくなったような。
>226
毛利、武田等の織田家周辺諸家も、信長がほぼ畿内を抑え(大小の叛乱はあったとは言え)れば、織田家と自家の境界にいる、自家の影響下にある小領主等への影響力が低下していくのは自明で、
将軍がいようがいまいが、どの道織田周辺諸家と結ぶしか外交的にはありません。
将軍が居れば、将軍家を擁すると言う大儀名分(実質的に意味は無い)、畿内に若干の影響力を行使できる(あてにして戦略を構築するほど影響力は無い)、諸家と連携がスムーズになる可能性がある(自家が厳しい状況に結ぶしか無い)、ってくらいでしょうか?
その利点も()の内容で消し飛ぶ程度ですが。
229 :
逍遥軒:2005/03/24(木) 03:31:39
>>228 いきなり結論っぽいけど、その根拠が聞きたい。
@1570年代、結果的に信長は畿内を抑えているが、基盤としては脆い。
・畿内の領主に対しては、兵農分離が進んでいない←信長傘下に完全に加わ
ったと見るのは早計。
・ゲリラ的な反抗勢力や、本願寺などの反信長勢力の存在
・これらを影で支える(あるいは両天秤にかける)公家や堺商人などの存在
・上記3つを支援する周辺諸家
・周辺諸家のバックボーンになり得る存在の、京復帰を目論む将軍
A将軍の権限とは「軍事大権」の独立にある。「信長包囲網」を画策した
として、それは正当な権利の行使であり、事実信長はそれにより苦境に陥
った。よって将軍を過小評価するのは、合点がいかない。
230 :
逍遥軒:2005/03/24(木) 03:43:19
>>229 の理由があるからこそ、朝廷を抱える信長にしても不安はあったもの
だと思います。そうでなければ、将軍職を強請する意味(
>>217 )がわからなく
なる。
信長包囲網なんてありませんよ。それを入れるから、義昭が過大評価されてしまうんです
232 :
逍遙軒:2005/03/24(木) 09:49:52
>>231 「信長包囲網」を否定する根拠を言ってくれぽ。
233 :
逍遙軒:2005/03/24(木) 10:14:39
えー、現在スレの趣旨から話がずれてるのだけど、今僕がなにを意図しているかというと…
>>85 >>87 >>105 なんかで、信玄の三方が原以後の動きを探っていくと、どーも将軍との
関わりが見えてこない。でも、ここで即「将軍=無力」と判断するのも良くない。と思うん
で、いま少し、将軍について調べていこうと思ってます。
もし、「将軍=無力」ならば、後に秀吉や家康の行った朝廷工作の意味が分からなくなります。
確かに、当時の足利幕府は軍事力としては微力だけど、「軍事大権」に代表される将軍の持つ
特権など、(少なくとも口実としては十分過ぎるほどの)利用価値はあったものと思われます。
234 :
逍遙軒:2005/03/24(木) 10:26:21
当時の政治とは屁理屈の捏ねあいだから、口実で十分。あと、傘下の小領主の信用
を得ていなければ、かえって自らが危ない。
>>228 簡単に傘下の影響力を低下させ
られる。とは思えない。
P.S. たとえば…こんなこと考えたりしてみた。
>>85 なんでここで、信長は徳川についたのだろう?ここに将軍の立ち入るスキが
あるのではないか?(仮に中立だったとしたら、織田と武田の同盟関係は維持され
ていた気がする。信玄が信用できなかったてのは短絡的だと思う、婚姻政策があと
一歩で実現の状況だし)
235 :
逍遙軒:2005/03/24(木) 10:28:16
ま、第三者の意見や論も聞いてみたいな(^^)史料なんかもあれば
おねぽ!
>234
畿内の諸勢力が完全に織田家に屈服したとは思っていません。
ただ、その諸勢力も畿内において織田家の勢力が反織田の勢力より強大であった場合、織田家に服従し続けるでしょう。
つまり天秤にかけてる連中も、目の前の大勢力に表面上は屈服するしかない、と言う事です。織田家に叛するとしたら、織田家の畿内での統治がかなり落ちた場合でしょう。
将軍・義昭が将軍の正統な権限を行使しようがしまいが、織田家が畿内と言う地点に位置する以上、そして、天下統一を目指す以上、周辺諸家との摩擦は避けられません。
織田家と周辺諸家が対立すれば、結果的に「包囲網」のような状況が起きるのは当たり前であって、外交的に自家と同様に織田家と対立する諸家と結ぶのも必然でしょう。
織田家と敵対する周辺諸家にとって、足利将軍と言う「顔」は、無いよりまし、と言うくらいでしょう。
237 :
236:2005/03/24(木) 20:28:49
つづき。
>>230 の>将軍職を強請する
と言うのは三職推任の事でしょうか?
これについては京都所司代・村井の独断と言う意見もあるようです。
ただ、通常の公家との往来の中で「上様(信長)に、そろそろ官位を」と言った程度の事を、村井の言葉=信長の意向と大袈裟に理解した朝廷の勇み足、と言う感じ、との事ですが。
また、別の意見では、三職推任を断る代わりに嫡子・信忠や家臣の官位を高めるための交渉材料と言うのもあります。
どちらにしても、将軍位(と権限)を信長が、そんなに価値あるものと思っていたとは思えません。
他人が将軍位を価値あるもの、と思ってくれれば交渉の材料にはなる、と言う意味で利用価値を感じていたかもしれませんが。
238 :
逍遥軒:2005/03/24(木) 21:40:59
>>236 「後向きの歴史観」というか、結果を知ってるからこそ、そういう
論法が成り立つのであって、僕としては、その間の過程をもう少し細かく見
ていきたい。と思っているのです。
歴史を100年スパンで見た場合と、その場その場での状況の変化云々は別
問題です。たとえば桶狭間で、もしあの段階で雨が降らなかったら?とか、
関が原で、あの局面で裏切りがなかったとしたら?とか「偶然」の要素は大
きいと思うんです。たまたま将軍に悪い目が出たのではないだろうか?とか、
最初から「将軍否定」の方針でなく、あらゆる角度から検証したいと思って
ます。
>>236 さんの言う軍事的なパワーバランスのもたらす影響は大きいと思い
ますが、それが全てとも思わない。文化、政治、宗教、民族、モラルなど色
々な要素が絡み合っていると思うのです。
239 :
236:2005/03/24(木) 22:07:20
>238
比較的客観的だと思われる当時の状況から自分の意見を書いただけだけど。
それを結果論だ、じゃたまらんなぁ・・・。
将軍の権威が全く無かったとは思って無い。
ただ、織田包囲網と言うモノの主導権を握ってた、とかでは無いでしょう、と。
将軍・義昭は自分が主導してると思ってたとしてもね。
240 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/24(木) 23:33:13
>>239 いや、全く
>>236 での論を全く否定するわけではなくて、
むしろその辺は信玄をモデルとした上洛是非を問う段階で肯定し
てます。(上のほうのスレ見てぽ)
だからといって、ここで「将軍=無力」とするのはどうかな。と。
たとえば家康なんか、架空の源氏姓をこしらえたりしてまで「将
軍」にこだわるわけです。
あるいは、原因を義昭の資質に求めるとすれば、義昭を一度再評
価する必要があると思うんです。結果的には信長が畿内を掌握す
るわけですが、その中で義昭の行った業績や方針を見つめ直すこ
とから始めたい、と思ってます。
正確にいうと、反信長の連中はそこかしこにいた(織田が急成長した影で追い落とされた
連中など)が、そいつらは別に義昭がいたから信長に抵抗したわけじゃあない。
もともと信長に抵抗していた連中であって、おとなしく信長に従っていた者を、義昭が
焚きつけて決起させて統合させたわけじゃあない。
義昭がやったのは手紙を出して信長と戦えといっただけ。そしてそういった連中に対して
指揮権も命令権もなかったことは、例えば朝倉が対陣したことに対して再出陣を’要請’
したことに表れている(これは顕如や信玄も同様。彼らには朝倉や六角や三好に命令権
はなかった)。逆に、義昭に指令(義昭自身の感覚はこうだったろうが)に対して、信長
と戦う理由のない連中は無視した(上杉や徳川や毛利)。
義昭の将軍権威は、全くないとは言わないが、はっきりいって利用者が利用価値を認めた
ときだけ発揮する程度にしか残っていない。
一応いっておくと、信長もその利用者の一人。上洛時には義昭の権威も利用したが、すぐに
義昭を除いた自分自身の権威を高める政策を実行している。そして最期には、義昭の存在なし
に政権を確立させるだけの己の権威と権力を手にした。
242 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 00:22:49
同じこと何度も書くのはヤメレ
243 :
逍遥軒:2005/03/25(金) 00:25:35
パワーバランス論は聞き飽きた。別の角度から検証plz
義昭の業績は詳しくはわからないが、その結果は槙嶋城から河内へ落ちていくときに
街道沿いの住民から「貧乏公方(そんなニュアンス)」と罵られたというのが思い
うかぶ。
将軍という軍事大権を持つ存在でありながら戦に負けて落ちていく存在に対してこの
仕打ちを考えると、単に落ち武者狩りのようなもの以上の意味があると思う。
山城という室町将軍のお膝元で、負けた将軍を住民が同情もせずにあざ笑っているのだから。
>>243 オマエさんの意見は
@信玄上洛は将軍と関わりが無い
A将軍は無力ではなく包囲網を構築した
Bパワーバランスはそれほど重要ではなく、文化、政治、宗教、民族、モラルなど色々な要素が絡み合う
ここから導き出されるのは、信玄は将軍と無関係に上洛戦を展開
包囲網に加わる周辺勢力と手を結ふが、武田は包囲網へは参加していない。
織田周辺勢力が包囲網を組みあった最重要項目はパワーバランスでは無く
文化、政治、宗教、民族、モラルなど色々な要素。と…
ワケワカメ…
246 :
逍遥軒:2005/03/27(日) 21:56:39
>>245 いあ、そーじゃなくて(特に
>>85 >>87 >>105 )で信玄を一通り
語ったけれども、将軍との関わりが見えなかったわけだ。
では将軍とは単なる飾りか?といえば、それはまた別の角度から見る必要が
あると思うんだ。前述したけど「将軍=天下人へのご褒美」程度だったら家康
が架空の源氏姓を作ってまで、こだわる必要なんかないじゃないか。それ以
前に「朝廷を一つの頂点とする政治システム」そのものの是非も問われてくる。
軍事力(パワーバランス)は確かに重要な一つの要素だけど、それが全てとも
思えない。
>>246 足利将軍と徳川将軍をごっちゃにしていないか?
「将軍」という地位それ自体には箔付けできる権威の裏付けがある。
しかし、足利将軍は初代の尊氏のころから支配領域も小さく直属軍も少なく、大名達
の連合の上にのっかった極めて不安定な権力だったのに対して徳川将軍は家康が敵を
なぎ倒して実力で全国の大名の上に君臨した権力者。
同じ支配の正当性を求めた結果の将軍位としても、その基盤となる権力(=国力、軍事力)
が両者では圧倒的に異なる。
だいたい、足利将軍にそんな力がるのなら、戦国時代なんて状況は訪れていない。
権威はあったが、それを裏付ける実力(権力)が無かったのが室町将軍ってことだな。
義教の頃まではまだ将軍の命令に従わなければ懲罰を受けるから従っておこう、くらい
にはあったが(もっとも、その懲罰も足利氏の力ではなく有力守護大名の力によったが)、
義政以降はそれもなくなった。近江の六角氏なんて、義尚の討伐を受けても抗戦している。
京のすぐ隣の大名がこれだ。
>>246 そもそも、「朝廷を一つの頂点とする政治システム」自体がとっくに崩壊していた
と思うが。
250 :
逍遥軒:2005/03/28(月) 02:43:32
251 :
逍遥軒:2005/03/28(月) 02:56:59
あと(室町)将軍を語るとき、結果から推察しがちだけど、経緯
から見てもらいたいものです。
たとえば「桶狭間」の勝因は運の要素がある。と見られるけど、
将軍の場合「運」の要素はなかったかどうか?とか。これには
信長と義昭、双方の一挙一足を再検討する必要があると思って
ます。まあ、そのために
>>250 に書いた通り、事前に色々ウン
チクすべきことがあると思うんですが…。
>>249 根拠が聞きたい。推論でなく証拠がほしい。
>>251 証拠もなにも、室町以降の天皇と朝廷が実質支配した痕跡って何?
「天皇を頂点とした〜」というのを古代律令制を根拠とするなら、荘園の発達に
よってまず土地の掌握が朝廷から離れていった。最期には天皇自身が荘園を持つ
ことによって、国家の土地所有が完全に損なわれている。
それでも後鳥羽や後醍醐などが例外的に権力を揮ったがそれも一代で終り、義満
以降の天皇(北朝)は完全に武家政権に保護してもらう存在になった(その代わり
権威は残っていたのでその面で保護者を後援することになる)。
官職だって地方の武士が勝手に名乗っているし、戦国時代にはもう朝廷による統治
のシステムなんてない。実効支配力はなくなったが残骸は残っているので、それを
権力の裏付けに利用できると考えたものがそのまま利用しているにすぎない。
政治でも軍事でも、朝廷が権力をふるった例がこの時代にどこにありますか?
天皇領を回復することですら、信長などの実力者に要請しかできなかった存在が。
>>250 傍から見てると、アナタが論点をずらしている様にしか見えない…
それに、パワーバランス論を保留したら戦国時代から読み取れるものは少ないかと
将軍の力からして、権威+軍事力+政治の相乗効果なワケで。
>>85>>87>>105を読んでみたが、勝頼の正当性という仕様も無い理由付けや
一番まとな
>>105を自分で否定する等、かなり不可解な判断をする印象を受けた。
もも
384 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2005/04/06(水) 21:45:50
武田信玄
諏訪を奪ったはいいが諏訪が安定する前上伊那の高遠や藤沢と敵対してる中、佐久に手を出したり
上伊那の諸勢力を屈服させた帰りに、まだ佐久を平定しきってないのに何故か小笠原領に侵攻して小笠原家と敵対したり
林城攻略によって一気に小笠原家を崩壊させたが兵を返すことなくそのまま軍を進めて戸石城を攻撃して戸石崩れ
義元死後駿河に侵攻してついでに徳川領にも手を出して徳川とも敵対
なんかいつも欲をかいて失敗してる感じだ
こんなんじゃあと10年生きようと天下は望めなかっただろうな