固有の武将に思い入れするのはいいけど、盲目的かつ幼稚なスレが
多すぎ(;;)
・事実を踏まえた上で、信玄を応援しよう
・狂信的な書き込み、及び荒らしはスルーで
2 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/18 03:31:55
2
3 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/18 03:38:34
信玄堤は270年もの間決壊しなかった
戦国当時、日本の馬はすべてポニーであった。躑躅が崎館から出土した
オスの骨から「年齢12歳、体高120センチ、250キロ」であると
推定された。上に乗る騎馬武者は(甲冑を含めて)80キロ程度。
(現在の競馬馬=サラブレット は体高160センチ、500キロ、騎
手は体重55キロ程度)
「最強の騎馬軍団」の実態
@輸送力…歩兵1人の運べる物資=30キロ程度 馬1頭では、なんと150キロ!
A環境……馬は普通、山岳地に弱い。(特に下り)ある実験では斜度30度を超えると
前足が突っ張って動けなくなるという。しかし山岳地で育った馬は、斜面でも適応して
動くという。
おそらく武田は、山岳地で育った馬を多数保有していて、そのため兵站輸送力や機動力
が周辺の戦国大名家と比べて優れていた。と思われる。軍事動員数のある程度限られる
戦国中期の話である。
常に相手を上回る兵力で戦に臨んだ
「最強の騎馬軍団」の実態A
ヨーロッパの騎馬隊とは違い、日本の騎馬武者か否かは封建的身分で
決定される。したがって軍としての(組織的な)効率や練度は、ヨー
ロッパと比べて低いものと推察できる。それでも資料に記述されてい
る騎馬武者の攻撃方法はいくつか確立していた。
@乗り込み…少数の騎馬武者を物見に出し、そのまま敵陣に乗り入れ、
撹乱して引き返す戦術。つまり威力偵察。
A乗り入れ…合戦中、敵陣の崩れたところに付け込んで一気に乗り入
れ、浮き足だった敵を掻き回して、混乱させる戦術。
B乗り崩し…一般的なイメージの突撃戦術。騎馬武者だけでなく徒立
も含まれる。
これらの戦術は、槍衾や馬防柵などの対策により活躍の場を奪われる
ことになる。
寿命は特に長命とはいえないが短命ではないこの時代では平均以上?
子供はそこそこ生まれている
10 :
逍遥軒:05/02/18 04:28:08
(客観的に騎馬軍団を評価する上で、一つの資料を引用する)
●軍忠状にみる戦国前期の原因別負傷者数
矢疵……498名(61.3%)
槍疵……166名(20.4%)
石礫疵…110名(13.5%)
切疵………32名(3.9%)
刀疵…………6名(0.7%)
●軍忠状にみる戦国後期の原因数負傷者数
鉄砲疵…302名(41.5%)
矢疵……148名(20.4%)
槍疵……148名(20.4%)
刀疵………68名(9.4%)
石礫疵……50名(6.9%)
切疵…………9名(1.2%)
その他………2名(0.3%)
02年歴史群像2月号より
11 :
逍遥軒:05/02/18 04:51:19
「最強の騎馬軍団」B
軍馬として使う馬は、臆病であっては使えない。「気性の荒い馬」を
多数保有するには、それに比例する馬の数が必要である。
一方、騎馬武者のほうも騎乗のまま戦うためには、才能と修練が必要
とされる。その他大勢の騎馬武者は皆、馬から降りて戦ったのである
「赤備え」とはいわゆるエリートの馬と、熟練の騎馬武者による精鋭
部隊であると推測する。別働隊としての活躍も見られることから、信
玄からの信用度も重要な要素であると思われる。
12 :
逍遥軒:05/02/18 05:10:47
小山田などの有力在地領主や穴山などの一門宗は、(彼らの)領域内では絶大な支配権
を持っていた。それは裁判や立法上でも優先権があり、夫役収取権や関所の権利なども
当然彼らが持っていた。
「甲州法度」の存在は
>>1 のようなもの。つまり「これを厳守すべし」という強制
力はなく、あくまで努力目標。副次的なものに過ぎない。
つまり、信玄の持つ統治権は(グローバルな視点で見て)軍事=領土防衛 に限られて
いる。ということになる。
兄弟仲は良かった
14 :
逍遥軒:05/02/18 05:37:12
>>6 戦で勝つための王道だな。もっとも晩年は武田包囲網(今川、北条、徳川、
上杉)でピンチだったけど…
「なぜ美濃から攻めなかったか?」とか言われるけど、ホントは信玄って信長と仲
良くなりたいと思ってたんじゃないかな?
15 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/18 07:08:45
16 :
逍遥軒:05/02/18 09:58:54
>>10 は武田家限定のデータじゃなくて、全国のデータ。
17 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/18 11:50:34
武士ってのはもともと騎馬がデフォなんだけどね。
18 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/18 11:52:39
>>7 てか、槍衾によて戦国時代には騎突がなくなったって電波飛ばしてたのはおまえか!!
>>17 源平時代は騎射が機動的な戦術の代表だったしね
足軽にまで槍や弓、はては鉄砲みたいに効果的に騎馬に対抗できる武器が普及して、戦術が変化していったのは仕方無い
20 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/18 14:29:46
日本の聖書 甲陽軍艦!
世界随一の知恵者 山本勘助!
そして人類史上最強の武田騎馬軍団!
まかせたぞ!武田24将!
頼んだぞ!信玄!信玄!信玄!
大魔神 武田信玄!武田武田武田!
明日に輝く武田信玄教!
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
/ \
/ ヽ
l:::::::::. |
|:::::::::: (●) (●) |
|:::::::::::::: \___/ |
ヽ:::::::::::::::::::.. \/ ノ
\ / ♪
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/ / ::::|_/
\/ ::|
| ::::| キュム
i \ ::::/ キュム
\ |::/
|\_//
\_/
信玄は十分優秀だとは思うが…
いかんせん評価のされ方がズレ過ぎ…
十三歳で最初の嫁を孕ませたのは凄い
24 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/19 05:31:52
糞
ス
レ
に
負
け
て
ま
す
ね
25 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/19 06:22:04
>>世界随一の知恵者 山本勘助!
なぜかこういうヤツ多いんだよな〜
「信玄最強伝説」は家康の存在を際立たせる為の演出ナリ!
27 :
逍遥軒:05/02/21 00:01:24
>>18 即断で「槍衾の出現=騎馬突撃戦法がなくなる」という解釈は極端だけど、騎馬戦法に対する
戦法の確立と共に、徐々に廃れていくわけです。
そもそも、
>>10 にも挙げたとおり、「突撃」のような白兵戦をする人自体少ないわけです。
>>19 さんの指摘にもあるように、一般的な騎馬戦術といえば「騎乗射撃(やぶさめ)」のことをいいます。
それに、馬に乗るような武士であればそれなりの身分なので、戦の際には複数の徒立を指揮するわけ
です。軽率に「突撃」仕掛ける立場じゃないんです。
28 :
逍遥軒:05/02/21 00:23:38
片倉小十郎は「戦のとき、一度も腰の刀をぬいたことがない」と息子に自慢していくさ話をしていた。
…騎馬武者のあり方を示す、良い見本だと思う。
29 :
逍遥軒:05/02/21 11:51:44
えー。ここらで話題を少し変えてみましょう
・信玄上洛説について
色々なスレで、活発な議論がなされているお題目であります。ここではいきなり
上洛の是非を語る前に、とりあえず信玄の人生を振り返ってみたいと思います。
信玄の生涯を大きく分けると、その節々でいくつかのターニングポイントが見ら
れます。
@父、信虎を追放
A川中島
B今川方からの同盟破棄
C将軍足利義昭との関わり
(多忙の身につき、続きは今度^^;)
名誉回復って・・・そんなに信玄って評価低いか!?
しなくてもいいような気がするんだけどさ
>>1 お前みたいな厨房が
黙ってればそれだけでいいんだよ。
信玄が低評価というより、アホウな信玄厨がさんざんバカなレス入れまくった
あげくに信玄マンセーというか自分の電波とばしのスレたてたりして、結果的
に武田のイメージが損なわれているから、それをフォローしようってんじゃない?
33 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 12:46:18
織田厨がよく言うぜw
>>34 同意。織田厨がなんか必死に信玄のイメージダウンでも狙ってるのかな?
なんか色んなスレに出没してますがな
イタイ織田厨が・・・やたら信玄の名前でるだけで罵ってる
なんか恨みでもあるのかね・・・
それとも信玄に嫉妬でもしてるのだろうかw
う〜ん。
どっちもどっちだなw
しかし改めて三戦のスレ一覧見てみると武田関係のスレ多いな
38 :
逍遥軒:05/02/25 02:28:13
・信玄上洛説について語る
前述
>>29 「将軍足利義昭との関わり」というのは結構、象徴的な表現です。具体的には
武田家と周りの大名家との関係の変化が挙げられます。
(^^)1560年代前半の各大名家の動き
今川家…義元が桶狭間で討たれる。家督を継いだ氏真の失政により三河を失う。
徳川家…義元死後もしばらくは織田家と争っていたが、時勢により織田家の傘
下となる。
織田家…義元死後は美濃攻略政策に転向。東美濃で武田家と境界を接するよう
になる。
【1564年 織田、武田両家の利害が一致し同盟を結ぶことになる】
39 :
逍遥軒:05/02/25 02:45:54
前述
>>38 1564年の甲尾同盟についての資料は、それほど多くはありません。あまり
注目されていないのでしょう。
でも、普通に考えて織田家は今川家にとって義元を討った仇敵です。その織田
家と同盟関係となった武田に不審を抱くのは自然だと思います。
武田家中でも、周りとの力関係を重んじる者と今川との義理を重んじる者とに
二分したと思われます。
史実では
1565年…嫡男義信の謀反発覚
1567年…義信死去。今川からの同盟破棄
1568年…武田の駿河侵攻
40 :
逍遥軒:05/02/25 03:04:16
前述
>>39 こうして見ると、義信の死も流れとして捉えることができます。
もともと信玄は北進政策の中で、謙信を牽制する目的で飛騨にも触手を伸ばします。
こうした動きと、織田家の戦略との兼ね合いで「甲尾同盟」は結ばれたものでした。
謙信に手いっぱいで、織田と争うのは得策ではないからです。
しかし結果としては家中に混乱を招き、嫡男を失い、今川家と敵対することになっ
たのです。
41 :
逍遥軒:05/02/25 03:44:02
>>38-40 少なくとも、この頃の信玄に「上洛」に関するキーワードは一切出てこない。次は駿河侵攻後
の武田家の足取りを追ってみたいと思います。
(今日はこの辺でやめとこっと。また今度^^)ノシ
◇◆◇◆息抜き 一口メモ◆◇◆◇
ポニーの定義とは、大人の体高が147cmぐらい未満の馬全部のことを指して
いう。「ぐらい」って表現が曖昧だけど、実際あまり細かくこだわってないみた
い。「小さい大人の馬」ってニュアンスの問題なのだ。
>>逍遥軒
期待してるぞ!
43 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 13:50:19
織田房が必死に信玄を否定してるだけだろ。
45 :
逍遥軒:05/02/28 03:12:31
少ーし、横道にそれるけど今川氏真の器量ってどんなもんだったのだろう?
確かに桶狭間の後に家康が離反したけれども、それだけで「全くの無能」扱
いするのはどうかな?と。
(大名の世代交代はゲーム程簡単じゃない。急場が迫っている場合は別とし
て、だいたいは早めに次の世代に家督を継承して、自分は後見としてバック
アップしながら、時間をかけて領地内に浸透させていく。という作業が重要
だと思う)
46 :
逍遥軒:05/02/28 03:25:24
1560年以前の段階で、家督継承は済んでいる。とはいえ、依然実権を
持っている義元にあんなショッキングな死に方されたら、離反者の1つや
2つはむしろ当たり前でしょう。
ちなみに氏真殿はその頃、農地灌漑政策に励んでいた。(家臣の「弔い合
戦を!!!」という声は聞こえなかったらしい。やはり無能かも…orz)
でも逆にいえば、駿河は安泰だったわけです。
47 :
逍遥軒:05/02/28 03:41:05
後に、家康からの侵略を受けるけれども、大井川以東には手が出ないわけです。
「武田との取り決めがあったから」でもあります。
逆にいえば、もし武田と今川の関係が良好であれば、(家康の)侵略そのもの
が疑問視されます。
>>45-47 の結論
「義元の死により、南方の安全が保障されなくなり、そのために信玄は軍事行動
に踏み切った」という説は成り立たない。と思う。
48 :
逍遥軒:05/02/28 03:50:08
つまり信玄の駿河侵攻は、義元の死とは直接関わりがないと言えます。
その後の政策のズレが原因だと思います。そのキーポイントとして
>>38 にも挙げた「甲尾同盟」が出てくると思います。
49 :
逍遥軒:05/02/28 04:08:10
さて、ここで…
信玄の駿河侵攻!その思惑は?
・従来の説…野心によるもの(駿河を手に入れたい)
・仮想@…ハプニング的なもの(こんな筈じゃなかったのに…orz)
・仮想A…今川の援軍に来たつもりが…北条とも戦う羽目になっち
ゃった…orz
P.S. 「仮想A」は全く根拠ナシです(^^;)でも小説のネタ
にはなるかも!?
(…詳しくはまた今度^^)ノシ
>>45-46 そもそもあの、離反者出たりして領内の国人連中の締め直しが必要な時期に
対外出兵とかできるのか?って疑問が…>氏真
51 :
逍遥軒:05/02/28 10:13:58
>>48-49 ヘンな書き込み方をしたんで、補足。
えーと、つまりボクが
>>45-47 で言いたかったのは、
「信玄の駿河侵攻の原因を、今川氏真の将器云々に起因させるのはムリが
ある」ということです。つまり義元の死による、南方情勢の不安化を裏付
けるモノに説得力が欠けているのです。
52 :
逍遥軒:05/02/28 10:20:59
>>50 家康は結局、氏真が統治していた時期に本拠駿河に対しては、全く手
出しできなかった(攻勢限界の外であったと思われる)
つまり氏真は「全くの無能武将」ではなく、むしろ最低限の仕事はしていた
と評価してもいいと思います。
53 :
逍遥軒:05/02/28 10:39:02
>>51 の続き
ここで信玄の駿河侵攻の原因(動機)として考えられるものとして、
「野心によるもの」という解釈があります。「駿河を手中に収めて
水軍を編成するのが夢だった」と語る歴史本なんかも見られます。
しかし、武田と今川の同盟関係を先に解消してきたのは、今川家なの
です。これは政略的に(武田が)後手に回ったことを意味しています。
ということは、武田の駿河侵攻は「政略問題に対する1つの打開策」
と解釈することができます。
54 :
逍遥軒:05/02/28 10:54:27
ちなみに、信玄の駿河侵攻に対して「天下取りの布石」である、と解くのは
かなり困難だと思います。織田とは婚姻関係となり、親交の度合いを一層深
めています(「婚姻政策は織田を欺くための策略」なんていうのは考えにく
い。この時点で武田は、「今川」「北条」「上杉」を敵に回しているわけで、
「上杉」とは小康状態ではあるが、それでも新たに「織田」を敵に回す状況
ではない。それこそ武田領内が混乱を起こして、滅亡しかねない)
55 :
逍遥軒:05/02/28 11:40:14
信玄の駿河侵攻を「打開策」と言えば聞こえはいいけれど、三国による
「武田包囲網」の圧力は相当なものだったと思う。国内の脆弱な支配体
制を併せて考えると、滅亡の可能性すらあった。
「名将信玄の神懸りな采配」というか「ただ単に必死だった」と見るべ
きか、信玄は積極的な軍事行動で、その場を凌ぎ切った。
●信玄の軍事行動の軌跡を追う(1568〜1570年)
1568年12月 駿河侵攻
1569年 6月 駿河侵攻
1569年 9月 碓氷峠から南下、小田原を囲む
1569年11月 駿河侵攻
1570年 正月 駿河花沢城攻め
1570年 5月 伊豆に出兵
1571年 2月 駿河深沢城攻め
56 :
逍遥軒:05/02/28 12:01:12
>>55 常備軍を持たない武田にとって、異常な程積極的な軍事行動と言えます。
文字通り「死ぬ気で働いた」のではないでしょうか?
※この無理な軍事行動が、領国の疲弊化を招く原因となり、それは改善されな
いまま13年後の破滅に繋がった。と指摘する研究者もいます。
57 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 21:05:46
松阪慶子かわいいよな…ハァハァ
58 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 21:29:12
今川氏真の見直しが始まってるが、
今川家には滅亡半年前まで今川家を支えた女丈夫、寿慶尼が生きていたという事もお忘れなく。
彼女が存在したという点も大きかったと思うけどね。
59 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 06:58:51
米ないとうんこだからな
61 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 22:02:55
味噌>金>塩>米>奴隷
62 :
南原清隆 ◆iXCMgvcQUU :05/03/02 04:49:05
ウッチャンナンチャンの南原です。皆さんは歴史についてどれくらい詳しいですか?もしよろしければ、武田信玄の隠し金山について教えて下さい。
今日の午後7時まで情報を募集します。出来れば特定出来るようにトリップをして下さい。お願いします。
63 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 07:37:35
上のほうで織田厨がどうこう言っているが、一体どこの書き込みを見て言ってるんだ?
俺としては、信玄厨が信長の風下に立つのが嫌で嫌で仕方ないだけ、という風に見えるのだが
65 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 18:08:41
信長なんて実際何もしてないじゃん、周りがせっせと働いたからあそこまで昇りつめたんだろ
寿慶尼
義元母で氏親の正室 氏親が倒れて死ぬまでの数年と氏輝幼年時代は彼女を中心とした重臣一門との合議制
で政治を行った。彼女の指導力はすさまじくは尼御台と呼ばれたとか
で信玄の駿河侵攻半年前に死亡、氏真にとっては頼れるおばあちゃんだったに違いない
>>65 へえ、一族が多く裏切り、自分より大軍を率いてきたのを負かした信長が、
周りの力のおかげだあ?やっぱ無知板だなここ
何故信玄の名誉回復と銘打ってるのに信長を悪く言ってんだ?このスレ
周りをせっせと働かせるのも主君としては必要なことだと思う
織田厨が出入りしてるほうがよっぽど疑問だな
覗くだけならともかくカキコする必要ないだろ
だって織田スレ人気無いからw
>>70 織田厨とかって言い方がそもそも無駄にライバル視が問題。韓国じゃあるまいし。
信玄の名誉回復するようなことを言うべきだろ
73 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 23:00:06
>>67 ぱぁ?信長一人で戦に勝てるか?信長の言を伝達するのは誰だ?農民いなくて米が出来るか?仏拝むより信長拝んだ方がいいか?信長の城を守るのは誰だ?
何が無知だよw人間なんて一人じゃ何も出来ないんだが?馬鹿じゃねーのw
(´∀`)(´・ω・`){こいつら馬鹿だよな
>>73 ・・・そうですね
世界の英雄もどんな人間も、一人では生きていけませんね
>>73 >仏拝むより信長拝んだ方がいいか?
そういえば晩年の信長が自分を神として云々ってあったな。
それはそうと、スレ違いな信長叩きはどうでもいいから、信玄の評価をしてくれ。
>>73 それを言うなら信玄もそうなるのだがね。
そうやって信長を叩いたところで、信玄の株は上がらないぞ。
78 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 00:19:05
織田厨ヴァーカ
79 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 02:22:58
>>66 大河ドラマ武田信玄の岸田今日子の演じた
寿慶尼はハマリ役だった。
ちなみにこのドラマでは史実とは違い
今川滅亡の時に彼女はまだ生きているという設定で、
面会した信玄に「義元が死んだのはそなたの企みでは?」と
責めるシーンがあった。
80 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 07:27:45
>>77 ぱぁ?信玄なんか好きじゃないだけど?一言も好きとは言ってないんだけど?バカじゃないの?w
信玄だって周りに協力する人間や協力させた人がいたから大名なんじゃんw
お前バカじゃないの?
なんで信長批判したら信玄好きなんだよw
どっちもクソじゃん!
81 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 07:28:29
82 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 07:29:19
昔あったなあ、「大阪城を造ったのは大工!」とかって。いまから思うと
社会主義の宣伝だったのかね。
しかしこの話を聞いて思ったのは
「じゃあ大工が一万人集まったら、彼らは自主的に大阪城を造ったのか?」
発案・計画・指導と実務をわざとごっちゃにさせてごまかしている。
84 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 10:02:08
でも、実際に作ったのは大工さんだも〜〜〜んヽ(`Д´)ノ
と言ってみ(ry
85 :
逍遥軒:05/03/03 10:12:45
お久し振り(^−^)ノ
>>55 の続き
結局、信玄の上洛説なんだけど「駿河侵攻」のプロセスを
見る限り、見えてこないんだな。
ちなみに上洛の是非云々と名将・凡将の評価は別問題なの
で、ここで断っておきます。
んで「駿河侵攻」以後の話だけど、実はオレけっこう付け
焼き刃な知識しかないもんで(^^;)ただ通説だと、信
玄と信長の関係が悪化するのは「三方が原」で信長が家康
方について援軍を送った…それ以後なんだよね。なーんか
納得いかない気するけど。現在、その辺の情報を鋭意収集
中であります。知ってる方、よろ m(,,)m
86 :
逍遥軒:05/03/03 10:34:13
>>85 それだと、またも信玄は政略で後手引いたことになる…orz
87 :
逍遥軒:05/03/03 10:51:52
>>85 「三方が原」戦には勝ったけど、東海道の情勢は結局安定化
できなかった。しかも信玄には「隠居→後見」という大きな仕事が
残っている。
武田家内も、周辺大名(上杉、徳川、織田)の情勢も、火種抱えた
まま。しかも信玄自身、死病に冒されている。
よって、上洛=野心説はありえないってのが自分の見解です。
仮に上洛を意図したとなると、政治的なものかな?勝頼の正当性を
認めてもらう…とか(←かなり独断と偏見による私見だけど ´Д`)ハァ〜
88 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 11:35:36
>>83 そいつもお前もバカだなw大工でも設計したやつでも指揮するやつでもないだろ、みんなの力で出来たんだよ!設計しても造るやつがいないとダメだろ?指揮される人間がいなきゃ指揮出来ないだろ?大工だって、そうだ、同じ職種のものだけじゃ何も出来ないんだよ!
89 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 11:39:46
>>84 大工一人でも万人でも無理だが?w大工が働くために食う飯は誰が作る?食材は誰から買うの?交換するの?
大工じゃなくてみんなで建てたんだよ!バカじゃねーのかお前w
90 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 11:43:01
>>87 武田騎馬軍団のスレの1を論破して下さい!お願いします。
なんか、信玄大学を建てるとか言ってるんですが、数を数えることすら出来ないんです。
>>89 ネタにマジレスするやしハケーン!
どうでもいいガキのいい争い。
ムキになるな。
92 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 19:12:54
>>91 マジレス批判する椰子って何でもおまいみたいに「マジレス」って付けて逃げるんだよなw
リア厨うざいから
93 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 21:15:55
話しを戻そうか
94 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 21:17:51
95 :
逍遥軒:05/03/03 21:33:14
なにかと信玄の比較対象とされる信長ですが、ここで少し語ってみましょう(^^)
信長を語る上で、とりあえず欠かせないのが父信秀の存在です。彼の立場は清洲織田
家の家臣(三奉行の一人)ですが巧みな戦略により、次第に勢力圏を広げていきます。
ちなみに勢力圏の実体というのは、多くの国衆からなる連合組合みたいなものです。
だから後に信秀の勢威が衰えるに従い、次第に分裂していくのです。
信長が家督となるのは、そんな情勢の頃です。国内はバラバラ、対外的には今川と険
悪な状態です。しかも父信秀の急死による、突然の棟梁交代です。
96 :
逍遥軒:05/03/03 21:49:53
信長は生涯にわたって「四面楚歌」状態を戦い抜いた特異な存在です。「付け城による
包囲戦術(兵糧攻め)」や「多正面作戦」「追撃戦」など彼の戦略・戦術は特筆すべき
ものです。例えば「追撃戦」ですが、ヨーロッパではナポレオンにより19世紀に初め
て確立された戦術であります。
また彼は、大戦略に長けているだけでなく実際に兵を指揮することにも優れており、そ
の例として「機動防御戦術(高い戦術眼と臨機応変な采配が要求される難儀な戦術)」
を挙げておきます。
ここではあえて、戦略面のみを語ってみました。
97 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 22:02:51
>>96 そうでもないだろう。
最初のうちは斎藤道三、
次に徳川家康が死ぬまで味方になり。
それに浅井長政も裏切るまでは味方。
武田信玄も信長包囲網までは親しかったし、
信長包囲網の時も謙信は味方。
第二次信長包囲網はもはや信長が強すぎて意味なし。
謙信との唯一の戦いと言われた
手取川の戦いも本当はなかったらしいし。
98 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 22:03:56
え?信長>信玄に異論がある奴ってまだいるの?
99 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 22:08:48
>>98 何が信玄に勝るかじゃないの?血筋なんて信長は雑種以下だしさ
100 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 22:10:36
戦術以外のすべて
101 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 22:24:00
信玄の結核をペニシリンで治してたら良かったんじゃないの?
102 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 22:26:57
おかま掘られすぎて直腸が限界だったんだよ。
104 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 02:11:39
う〜ん(´Д`)信玄のこと調べれば調べるほど、戦略の主体性が見えなく
なるんだよなー。スレタイに反してるっていうかさ。まいったなー。
>>97 まー「四面楚歌」は言いすぎだったけど。
ちなみに「三方が原」のすぐ後に、信玄と信長が直接決戦でもするよ
うなことになったら(←意味ネー設定だな)その場では信玄が勝った
かな?
@信玄って国衆に対する締め付けが甘いじゃん?だから織田勢の中か
ら寝返りする人出てくると思う。
A信長の上方での戦況が苦しいから、大軍動員はむりぽ
B「三方が原」直後なら時期的に、甲斐信濃の農民(雑兵)はヒマだ
から
でも、こういう仮定話って意味ないんだよねー(´Д`)なんとか信玄
を持ち上げようと頑張るオレ。でも苦しいぽ
戦略の主体性の無さは信玄最大の短所だから。
他は超一流〜悪くてもそこそこ程度だとは思うんだが、ここだけは庇えない。
信玄は非常に優秀で完成された戦国大名だが
信長と比べたら分が悪い。
109 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 04:18:25
最も戦略に主体性が無いのは
>>1だったりする
まあ、もともと信玄叩き目的でスレ立てしたのであれば別だけど
110 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 06:15:27
長篠の戦いは武田騎馬軍団は古いから、新しい鉄砲を使った織田に負けたって学校の先生が言ってた
>>110 そんな厨先生の言うこと鵜呑みにするとイカン!
…そろそろお客さんが来る時間なので、続きはまたねー(^^)ノシ
↑てかマジメに仕事してないオレ現在勤務時間(^^)v
112 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 09:53:03
>>111 ほんとだよ、戦国時代の歴史の合戦は桶狭間と長篠と関ケ原だけしか習わなかったけど
長篠は武田騎馬軍団が新しい武器の鉄砲のせいで負けたって言ってたよ。
この板で騎馬軍団はないってスレ見たときは嘘だと思った。だって、先生は武田の騎馬軍団は強いって言ってたし
>>112 授業は授業だからねー、時間限られてるし一般時人に分かりやすいようにいい加減だからねー、俺だって
桶狭間の戦いで今川を滅ぼしたと習ったし。
まあこれに懲りたら先生のいうことがすべて正しいなんて思わないことだな
数学なんかと違って、歴史は特にあてにならないからねー
114 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 10:29:57
先の大戦が原爆で負けたと習うのと一緒。
それ以前の問題なのに・・・・
>>112 えー(´д`)マジで?授業でそんなひと昔の通説しか言わないなんて…orz
そんな授業サボっちゃえ ヽ(`д´)ノ
※PR→「騎馬軍団はなかった」じゃなくて騎馬軍団の認識の問題なんだよな…詳
しくは
>>4-5 >>7 >>10-11 を見てぽ。
●長篠の戦いで、一番のポイントは両軍の兵力差。織田徳川連合軍は実に武田軍の
2倍の兵数なのだ。
●次に戦術。「馬防策(野戦築城)」による迎撃をメインとした戦い方がスタンダ
ードとなるのは、まさにこの戦がキッカケなのだ。(後にこの戦術は秀吉、家康など
に受け継がれていく。戦国時代の終局に一役買ったとも言われている)
・徳川家の酒井忠次による別働隊が、長篠城を囲む武田軍を一掃して城兵と合流。こ
れにより攻守が入れ替わる(すなわち逆に武田軍が包囲されたことになる)
・武田軍はこの状況で撤退を行うには、前面に陣取る織田徳川勢と距離を置く必要が
ある。無謀な突撃戦術(大半が足軽)を行った理由はそれ。
P.S. 武田にだって鉄砲隊はある。「織田鉄砲隊vs武田騎馬隊」みたいな異種格闘
技みたいな極端な認識では、戦国期は説明できんぽ。
…まさか「鉄砲三段撃ち」とか言ってないだろうな、その先生。「鉄砲三段撃ち」は
明治陸軍参謀本部の作り話だぞーー!!
>●次に戦術。「馬防策(野戦築城)」による迎撃をメインとした戦い方がスタンダ
>ードとなるのは、まさにこの戦がキッカケなのだ。(後にこの戦術は秀吉、家康など
>に受け継がれていく。戦国時代の終局に一役買ったとも言われている)
それやちゃうやろ。
生暖かく見守ってやれ
これまでもツッコミ所は満載だ
118 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 23:06:12
>>115 三段撃ちは確かに言ってたよ。だけど先生は学校で教えることの内容は有識者が決めたことだから、そのまま覚えてもダメではないって言ってた。
119 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 23:11:01
>>117 長篠のやつで何がホントなのか教えて下さい
ところで質問ですが、武田信繁ってどんなことをしたんですか?
ゲームだと名将扱いだけど、具体的にどの戦い、城攻めでどんな活躍をしたのか
などがわからないんですが。
>>116 ちゃうやろ言われても困るけど(´・ω・`)
一例としては、高天神包囲戦、三木城包囲戦、賤ヶ岳の戦い、小牧長久手の戦いを挙げとくぴょん
>>120 う〜ん。少し調べてみるね。(武田家って江戸時代に神格化されたから、「信玄=古今無双
の名将」とか言われたりして。その影響な気するんだけど。)
122 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 16:33:49
戦国無双では、1人で何百人という兵士を倒せるぞ!
123 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 17:06:38
長篠の戦の三段撃ちは嘘であるということは結構聞きます。
当時の種子島は重くて扱いずらい上に一度撃ったら温度がかなり上がって、しばらくは撃てなかったと聞いたことがあります。
馬防策(野戦築城)←これもかなり大きな役割を果たしたと思われます。
通常の城攻めの攻め手は篭城側の10倍近くの兵力が必要だったと言われています、馬防策も平地にあるものの一応城としての機能を持っているので、連合軍の半分の兵力しか持たない武田軍に破るのは至難の業だったと思われ。
あと、質問なのですが、長篠の際、連合軍は、佐久間の裏切りのネタを流し、このまま強攻する派と援軍の来るのが待って総攻撃を仕掛ける派に分かれていた武田の軍議を強攻するように仕向けた、という話を聞いたことがあるのですが、これはどうなんでしょうか?
124 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 17:56:19
勝頼のガトリング砲を採用しなかった信玄は凡愚。
もーすぐデートなので、早い時間にきたぽ o(^−^)o
馬防策(野戦築城)に関する根本的な話として、戦国中後期での建築技術の飛躍的な
向上を見逃すことはできません。河川の治水工事があちこちで見られるのも、まさに
この時代のひとつの特徴といえます。
ちなみに賤ヶ岳や小牧長久手の際に秀吉の築いた馬防策は、改修して関ヶ原でも西軍
が使っているんです(←現場を実際見て言ってるから、確かな情報だよ)もしあの場
面で小早川の裏切りがなければ、戦況は西軍が有利だったと思う。
ま、関ヶ原の話はおいといて (ノ^^)ノ
長篠の戦いを整理すると、こうなります。
・攻撃側…武田軍
・守備側…奥平殿(長篠城主)
・後詰……徳川軍
・援軍……織田軍
「長篠=武田軍の致命的な敗北」のほうに話がいきがちだけど、もともとは
長篠城を巡る争いなんです。織徳連合軍としては、武田が引き上げれくれさ
えすれば長篠城を確保でき、その土地の在地領主の信頼をも回復できるので
す。
◎(ポイント)迎撃をメインとした戦い方の確立
「相手が仕掛けてきたら、策の中から鉄砲でも撃って追っ払う」
↓
「相手の消耗を誘って戦えない状態にする」
この戦い方に必要なのは、【武者の技量<武者の数】です。現代風
に言うなら【一人の正社員<たくさんのバイト】といったところで
しょうか?(戦国期の)戦の動員兵数の推移を見れば、この戦いを
機に飛躍的に伸びていったのがわかります。
「兵数が多ければ勝つ=国力が大きい者が勝つ」という思考が定着
するキッカケとなった戦いなのです(^^)まさに戦国終局に向け
たひとつの動きだと思います。
128 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 00:18:20
種子島は一発撃っても、何十発撃っても、冷えるまで待たなくてもいいんだよ〜
仮に百歩譲って、織徳軍の鉄砲数を3千としても、それで武田軍を壊滅させられる
のか?というとかなり難しい(てか、ありえない)
「長篠の戦」に限定して言うと、勝敗の決め手となったのは酒井隊の働きがポイン
トなのだ(^^)くわしくは
>>115 を読んでちょ☆
オススメの小説だぽ(^^)q
武田八州満 著「信玄」 毎日新聞社 刊行
(この人は、ほかにも「信虎」「勝頼」の作品があるよ。新田次郎の作風よりも
信玄の人間味が出ているし、時代考証が・研究がしっかりしてるから面白い。
例えば、川中島における「きつつきの戦法」を真っ向否定してるけど、根拠がき
ちんとあって思わず「fmfm」となるぽ。
131 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 22:55:51
同じ角度から検証するのは、視野狭窄に繋がると思うので何気にツッコミ歓迎
だったりします。
でも単に「その説は違う」と言われても困るので、自分の見解や参考資料など
載せてくださいな(^^)おねぽっ!
ちなみに自分は「信玄の主体性」をテーマに資料再検討中です。もしかしたら
既存の文とは全然違うこと言うかもしれないけど、その時は双方を比べて再チ
ェックするつもりでーす!
>>123 歴史群像によると、織徳連合軍が設楽原に到着した後すぐに、長篠城を救出すべく
馬防柵設営する部隊とは別に、編成した部隊を派遣したようです。
その結果、武田勢と小競り合い以上の衝突があり、散々になって撤退した。と書いてあり
ます。流言云々については、書いてないので分かりません。
134 :
逍遥軒:05/03/13 21:55:50
久々のカキコミ(^−^)
武田家における一つのキーポイント【甲尾同盟】なんだけど、これって信玄が
「今川家を軽視してた」って見方で捉えていくと、
・(今川との)同盟破棄も構わないというスタンスになるのかな?
・それとも同盟破棄は予定外?
あっΣ(゜Д゜;)! もう仕事の時間だ!ではまた今度ー(^^)ノシ
135 :
可児:05/03/14 10:51:38
ここのスレ主ってバカだな
げぇっ、可児!
137 :
可児:05/03/14 16:12:18
俺も有名になりつつあるな
えっ?何?かに?なにそれ食えるの?
139 :
可児:05/03/14 21:49:22
140 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/14 21:55:33
ちっとも珍しくないタイプの荒らしだな
141 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/14 22:01:34
>>140 じゃあ僕以外に有名な荒らしが三戦にどれだけいますか〜?
名前挙げれますか〜?無理だよね?wwwwwwwwwwwwwww
142 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/14 22:25:17
三戦に可児より有名な荒らしは松茸しかいないじゃんw嫌可児も苦し紛れにおかしなこと言うもんだよな
144 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/14 23:08:09
三戦内に救うクソコテ
一位 松茸
二位 可児
三位 ムコーニン
実際、現役で三戦荒らしてるクソコテ一位は可児だけどな
145 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/14 23:09:21
146 :
可児:05/03/15 02:44:25
>>140 名も挙げられないくせに、レスすんじゃねーよ
147 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/15 02:58:48
スレ主はたしかにレベル低いな..
可児の言うことに同感するよ
148 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/15 03:15:20
質問でっす。キツツキ戦法なかったと言われましたが、なら上杉はどうやってあの極端な劣勢から武田軍より千ちかくも多い首をとれたんですか?スレ主さんお答え願います。
149 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/15 04:48:52
毘沙門天パワー
150 :
可児:05/03/15 09:52:01
最近
>>149みたいなバカが増えたなwwwwwwwwwwwwwwwwww
151 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/15 19:19:14
いや、謙信は本気でそう信じてたんだろ
152 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 00:47:13
啄木鳥戦法を見破り上をいく戦いをした謙信も、恐るべきヤシだな。
謙信って戦オタク
ていうか正義かぶれ?
強いことは強いけど
配下は大変だと思いますよ…
内紛起きまくりだし…
154 :
可児:05/03/16 10:29:24
155 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 18:38:27
なぜに謙信が戦オタクかわけわからん153は馬鹿?
あと148の答え早くだしてくださいよ
単純に武田兵が上杉兵に比べて弱かったから
157 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 18:50:13
156
13000と21000だぞ?武田兵が弱かったというだけで済むもんじゃねえべ?
てかスレ主早く答えてくれや!
済むだろ
上杉兵が武田兵を一人で二人相手にすればお釣りがくる
159 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 19:18:48
は?なに妄想はいってんだ、無双厨か?
それに甲斐武田兵も強兵だし、上杉兵が武田兵に対し二倍ちかい強兵度があるわけないだろ!
現実考えて物申せ
武田兵が強いって言うのが妄想
三方ヶ原の勝利のお陰で家康に勝ったから強いんだ、と神君の面子を立てるために喧伝されただけ
実際には二倍以上の兵力で普通に勝っただけ
少数の村上や上杉に度々痛い目に合わされている弱兵
あ、長野にもボコられてたな>武田
162 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 19:43:24
わかった、まあ武田兵の弱さはわかったが、
スレ主いわくのキツツキ無しの川中島は別だろ?キツツキなしなら正面から斬りあったわけだろ?戦場では武田もちゃんと上杉に気づいて陣形たてかえたから戦術に不利はないわけだ。
そのなかで8000の差をどうこうできるもんじゃねえよ
村上の時は武田は戸石攻めして疲れてたうえ予定外に勢いのった村上の急襲で負けた、長野も正面での野戦ではないし。
163 :
信長:05/03/16 19:49:56
なるへそ、まーでもとにかく8000の差は大きい。兵の弱いではなく鼓舞や訓練の下手な上司と用兵下手な将の差か。
164 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 19:51:59
んなこたないぽ(・ω・`)
>>162 上田ヶ原じゃ野戦で思い切り劣勢の村上軍にボコられてるが
166 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 19:58:50
う〜んずっと傍観してたが
判決…とりあえずはきつつきの策あったでいいよねFA?決定的な否定策でねえしきつつき有が不思議度一番低いしね?
じゃあきつつきはこれで終わりにしましょ
167 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 20:00:15
武田兵が強い弱いは何を基準に決めてるの?
武田方12000
上杉方10000
これが諸説あるうちもっとも互いの兵数差が少ないとされる説だと思う
2千の差ならひっくり返せるだろう
恐らく信繁はじめとする武将クラスが運悪く真っ先に討たれて混乱したんだ
169 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 20:17:39
くちコミだろ?
170 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 20:20:20
165
村上は少数といえど至る所に伏兵を置いてた。
正面からの戦いに非ず
171 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 20:23:47
せっかくの御諏訪太鼓も役にたたんかったのね(´・ω・`)クスン
172 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 20:26:49
なんでここで諏訪太鼓が…
でも天と地とや大河の長篠合戦とかで諏訪太鼓でるがドンドコしてるだけで…
天と地とではいい的になってたよね
>>170 つまりただでさえ少数なのに分散した相手を叩けず
見事に釣られてボコられたってわけでつね
正でも奇でも弱い
174 :
逍遥軒:05/03/16 20:54:16
(゜Д゜三;゜Д゜)いつのまにかスレ伸びてるぽ
啄木鳥の戦法?小説「信玄」を書いた武田八洲満さんは次のように
述べている。
@まず前提として、海津城の武田軍と妻女山の上杉軍は共に、見え
る距離にあった(=互いに監視していた)ということだ。
Aつまり奇襲はおろか、兵を2つに分ける作業さえ不可能だという
ことだ。
175 :
逍遥軒:05/03/16 21:00:37
さらに著者の武田さんは次のことも述べている。
仮に百歩譲って、兵の二分に成功し、隠密のうちに12000人の
一隊が夜襲を決行すべく城を出たとする。
信濃の夜の静寂の中で、それだけの人数で動けば(音が)雷鳴のよ
うに響くはずである。戦国期の武将がそんな迂闊をするとは考えら
れない。
176 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 21:03:36
そうなるとまた
「晴幸はいたのか?」
ってことになるな。
177 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 21:07:59
>>172 そうそう、あの諏訪太鼓部隊って何か意味があるのかなあ?
戦意高揚のためだとしたら、バタバタと無意味に倒されてしまったら
逆効果にしかならないと思うけど
178 :
逍遥軒:05/03/16 21:08:09
>>175 の続き
(別の角度から見る)地図上で海津城から妻女山まで7200mである。
武田軍が何列になって進んだのか明記してある資料はないが、槍などの
武器を持った兵や騎馬部者も加わったわけだから、軍列の長さはかなり
のものになる。
(中略)つまり、先頭が妻女山に到着したとき後尾は海津城を出たばか
りになる。下手するとまだ城内にいるかもしれない。
信繁率いる別働隊が謙信本隊と遭遇してボコられたって話を聞いた覚えがある。>啄木鳥
どこで聞いたか忘れたから忘れろ。
180 :
逍遥軒:05/03/16 21:51:04
>>148 兵数に関しては諸説あるので、何ともいえないけど上杉軍のほうが
少なかったのは確定してるみたいだぬ。
上杉軍の行動目的は帰国なんだから、必死だったんじゃないかな?武田軍
防衛ラインをなんとか突破しなきゃ嫁子供に会えないわけだし。
あと、史書見ればわかるけど上杉勢で名のある武将は一人も死んでない。
「単に強かった」というより「俺が俺が(どけどけー道をあけろ国へ帰る
ぞこの野郎)」てみんな考えてたんだと思う。一種のパニック状態だな。
軍の統制とか滅茶苦茶だったと思うよ。バーゲンに殺到するオバサン軍団
に近いかも?
181 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 23:37:53
175
二、三列の縦隊で迂回し走ったりしないで慎重にうごけばそれほどの地響きはしません。
それに別働隊には小荷駄あながち12000で7キロの移動も一晩あれば不可能ではありません
182 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 23:45:29
180
なら最初から妻女山なんて危険な場所に陣取らないし、
国にかえるために必死に敵陣を突っ切るくらいなら倒した敵はふつう切り捨てだろ?首をとってる場合じゃないろ?
183 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 23:55:42
きつつき有りならバーゲンのおばちゃん=越軍
バーゲン商品=甲軍の将兵の首
タイムサービス品→信繁
店員「さぁさぁこれよりタイムサービスだよ!早い者勝ちだーっ」
柿崎「だりゃあああ」
戦闘…
柿崎「信繁の首とったどーーーっ」
信玄「お買い上げありがとうございます」
184 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/17 00:07:56
信繁たんのチソはいくらでつか?(・ω・`)>モジモジ
185 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/17 01:02:10
>>181 ●上杉軍までの距離が7キロ強という至近距離で、2〜3列の縦隊で迂回なんてナンセンス
「雷鳴のごとく音がする」とは小説に書いてあることだけど、大軍が動けばそれなりに雑草
の音、落ち葉を踏む音、石ころを蹴る音、人ごみ特有のざわめきとかするよ?慎重にとはい
っても限度がある。大半が農民兵なんだし、なおさらだ。
↑別に音の大小が論点じゃない。隠密での軍事行動が不可能だと言いたいのだ。
>7キロの移動も一晩あれば不可能ではありません に対しての反論
遠足の話してるわけじゃない。
>>178 の状況では戦いにならない。と言いたい
のだ。
>>180 そんなこと上杉謙信に言ってくれぽ。なんか思惑があったんじゃないか
な?
素朴な疑問
なんで武田は本隊よりも奇襲部隊に多くの人数を割いたの?
187 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/17 03:21:28
川中島特有の幕霧なら山上からでも見えないよ、隠密行軍なら普通に松明は不使用、馬は猿ぐつわみたいなのをし当然兵は私語厳禁、そんで現地民にガイドさして行動させるろ?
そもそも相手の虚を突くのが目的なんだし…これでもしなきゃあの戦況は打破できねぇべ?
188 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/17 03:32:57
戦況 上杉13000…妻女山に布陣、米あんまりない
武田21000…海津城に布陣、米の消費激しい
双方補給路を断たれてる
何もしなきゃ長引きここで米なくりかけてる上杉が後詰めを呼び海津を総攻撃しかけないし武田軍全滅の危機
武田は既にかなり無理して兵動員をしてるので援軍には期待できない
春日山20000善光寺5000、到着にはわずか2日ほど。詰めたらどうなるかな?
それをも考えりゃキツツキ作戦という危険な作戦をとるのもうなずける
189 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/17 07:24:04
というか第四次川中島合戦と称するものが本当にあったかすら定かではない。
旧日本軍の作った戦国史の本でも「川中島合戦は夢幻のごとし」と記されてる。
たぶん全くなかったという事もなく、なんらかの合戦はあったんだろうけど、
それがこんにち伝えられている川中島合戦の経過であったか疑問。
ちなみに武田信繁も病死説あり。
190 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/17 07:32:30
>>180 >>189 俺もそんなもんだと思うよ。
単に妻女山から越後に帰ろうとした越軍が霧の中で甲軍と遭遇して競り合いになり、
信繁戦死、越軍は越後に何とか逃げ帰ったとそれだけの戦であって、
キツツキの策だの、奇襲部隊だのは存在してなかっただろ。
それを単に後世の人間が講談ふうにおもしろおかしく脚色しただけ。
戦国時代でこんなにあやしげなんだから三国志なんて
出鱈目もいいとこなんだろうな
193 :
逍遥軒:05/03/17 11:02:21
>>188 仮に千歩譲って、キツツキの戦法があったにせよワザワザ危険冒して
まで使う意味がない。
なぜなら、時期的に冬が近いわけで越後だとかなりの大雪になる。適当なと
ころで切り上げないと、それこそ身動きがとれなくなる。
それでなくでも、妻女山という限られたスペースに大軍がひしめいているわ
けで、排泄の問題も含めてかなりストレスがたまってたと思う(夏だったら
疫病とか発生したかもね)
だから、信玄は海津城にとどまっていたわけだ。急いで夜襲を企てる必要は
ない。そのうち越後軍は間違いなく、山から降りてくるのだから。
構図:短期決戦を挑む謙信 と それを黙って放っておく信玄
…こんな感じじゃないかな?
194 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/17 14:07:25
はい!
195 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/17 14:20:38
そもそも信玄は上杉に労力を使いすぎたな
あんなのと膠着するより、適当におだてて争わず
よその国に領土拡張したほうがよかった
196 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/17 15:32:56
信玄はそんな早い時期から天下ねらってたわけではないからな。
謙信と講和しとけばよかったなんて意味なし。
取り敢えず取れる時から取るという考え方で行き当たりばったりに領土拡張してたと思う。
>>195 >>196 両方納得するぽ。
結論としては、信玄の視野が広くなかった。ということかな?
P.S. 大学建設って個人資産でどーこーできるシロモノとは思えんが…ま、いいか。
>>196 信玄の天下取りは
早い時期には狙ってなかったどころか、
生涯、狙う気はなかったという説もある。
最後の西上も基本的には領土拡大のため。
200 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/17 21:14:51
信玄が若い頃から天下取りを目指していて、
それに沿った行動をずっと行っていた。
とかいうのは新田次郎氏の悪影響。
氏は部分的には歴史学者以上に鋭い研究ぶりも
見せているのだが、この部分は大間違いだと思う。
信玄は天下取りなんて考えてなかったか、
考えてたとしてもかなり晩年に入ってから、
それもせいぜい大内義興タイプの
ようするに室町幕府の中で管領など重要な
地位につくといったタイプの天下だろうね。
それもよく小説で見る言い回しだな
そりゃ、武力で日本を一元支配する、という発想そのものが信長以前には無い
(正確には、誰もまともに可能だと考えなかった)からな。
203 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/17 22:02:35
>>202 実は信長も本当は無かったらしい。
足利義昭は本当は追放されたわけではなく、
彼が信長の元を去るのを必死で信長は止めたというのが史実。
>>203 史実というのなら、相応の史料があるよね?
まあ日本では正史というのがないから何をもって史実とするかは難しい面もあるのだが。
1573年の将軍京都退去をもって、室町幕府の終焉とするのが一般的だけど
よく考えると、当時の将軍て近江やらどこやらへ「一時避難」するのは割と常
套手段だったりするんだよね。
>>203 オレもその辺調べてみようっと。
後の時代だけど、秀吉が将軍職を所望して結局なれなかった理由の一つに、将
軍義昭の存在がある。という一説を、どこかの資料で見た記憶があるぽ。
>>200 上洛=野心によるもの を肯定したとして、その辺が限度だよね。やっぱり。
信長と足利将軍をダブルで蹴散らすのは、考えにくい。政略的にも軍略的にも。
>>206 それだと、後の朝廷による「三職推任」はどーなるんでしょう?
将軍の権威を利用した上で自分の目的を求める。
信長が他と違うのは、最初から利用と廃棄を考えていたことだと思う。
信長が上洛する一年前には本願寺顕如から、太刀や馬などの贈答とともに上洛する
ことへの激励の使者が送られている。この時期に義昭はまだ朝倉の下にいたことを
考えると、信長は義昭の存在によらず、上洛を考えて計画していたということになる。
そして上洛する前から朝廷と連絡をとって将軍権威を上回る存在との繋がりを早々に
築き(むしろ、これも義昭とは関係なしに進められたものかもしれない。例・決勝綸旨)
さらに上洛して後には五箇条の誓約で将軍権力をしばりつけたり。
たしかに義昭はずっと後まで征夷大将軍でありつづけ、前代までの室町将軍の流浪の
歴史を鑑みれば73年に室町幕府が滅びたとは言えない。しかしその代わりに信長自身
が朝廷より官位を賜ることにより政権者として任じられ、この頃から上さま、つまり
室町将軍に代わる武門の棟梁、天下の執権者と位置付けられている。
つまり、義昭も必要としなくなったということだろう。
210 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/18 01:15:42
>>209 義昭が一色を頼って逃げたから
義昭を必要としない体制にせざるおえなかっただけじゃないの?
>>209 本願寺顕如からの贈答及び、上洛に対しての激励に関しては、少し自分でも
調べてみようと思う。【疑問】本願寺のメリットは何だろう?
上洛以前から、信長が朝廷と積極的に関係を強化したのは分かる。【疑問】浅井家
との同盟=六角家との敵対 の動きが、義昭とは関わりあるものか、否か。
信長=将軍に代わる天下の執権者としたのは、武力を持たない朝廷の保身策と見る
こともできる。将軍が再び(庇護者などの武力による)力を盛り返した、としたら
新たな局面になったのではないか。と思う。
この辺は、色んな資料をほじくり返して、何が正しいのか調べていきたいと思いま
す! …ということで、続きは今度(^^)ノシ
>>211 の書き忘れ
【疑問】「上洛以前の信長の対朝廷の政略=上洛」と直結して考えても良いのか、否か。
そのへんは、結局信長をどうみるか、つまり評価する側の問題だと思う。
最初から意図したことだったのか、変化する状況に対応しただけなのか?
ただ、それでも信長が最終的に義昭という権威を必要としない体制を築き上げた
ことは変わりませんがね。
疑問なのは、仮に信長がまだ義昭を必要として戻ってきて欲しいと考えていたのなら、
毛利から義昭の身柄についてひきとって欲しいと持ちかけられた(帰洛)とき、
交渉にあたった秀吉が条件でゴネた義昭に「どこへとも好きなところへ行けばいい」
打ち切ったことに対して全く処罰がなかったこと。
もし信長が義昭にかえってきて欲しかったのなら、主君の意図を無視して勝手に
交渉を打ち切った秀吉には何らかの処分が下されて当然でしょうに。
よそでも言われているが、信長を「たいしたことないよ」と貶したところで
信玄を持ち上げることには繋がらないと思うがな。
信玄に限らずどこかの大名のファンは、すぐに「信長なんて〜」と言い出すな。
結局、過去の歴史を調べるって「探偵」みたいなもんだと思うんだ。
言語統制や後付の捏造に毒された、史料の解読や、現場検証などで
理詰めな解釈をまずしなきゃ。と思う
評価を急ぐとつい、主観に走りがちになる(ある意味仕方ないけど)
毛利小五郎ちゃんじゃないけど…。
>>213 義昭の意向>信長の意向 という解釈もできるよ。つまり将軍
の権威は死んでない、という見方。
遅レスすまぽ
>>186 大物見の類じゃないのかな?
>>215 まったく死んだとは思わないが、ほとんど省みられなくなっているのも事実。
例えば信玄と謙信に和睦を持ちかけたり、家康に武田と講和して織田と戦えと言ったり
しているが結果は?
先に言っておくと、謙信が信長と対立したのは北陸方面でお互いの利益がぶつかるように
なってから。つまり、謙信はそれまで義昭の言葉に耳を貸さずに利害から信長と結んでいた
わけだ(そして利害から敵対した)。
毛利だって、信長と戦えといってきても無視して、まず信長自身に義昭引き取りを
言い出して(つまり、毛利はその時点では義昭と関わりあいになりたくなかった)、
それがダメでも本国安芸には容れず(これには、義昭本人が縁起のいい鞆にいついた
とする説もあるが)、結局毛利が対織田に立つのは、信長の力が丹波や播磨など
中国方面へとのびてきてから。
義昭の意向にそれなりの重みがあったとはこのあたりからは見てとれないのですが。
>>214 織田厨は色んな大名を「〜なんて」という
どんぐりの背比べ
220 :
逍遥軒:05/03/19 14:09:04
>>218 軍事力(国力)を背景とした国同士の問題に対して、将軍の権威が有名無実化
してることは認める。
一方で、将軍の存在を大義名分とする存在があるのも事実。特に京都周辺では影響力
が大きいと思う。つまり朝廷工作や近畿での治安向上には、一定の効果があると思う。
221 :
逍遥軒:05/03/19 14:22:53
この際だから将軍を「解剖」したいと思ってます。自分はあまり知識ない
ので、史料など提供してくれるとありがたいです。
>>220 自分も、そういった影響はあったと思います。ただ問題は、
義昭が追放され(たとされる)、変わって信長が政権者として認められ始めた
天正元年以降にも、義昭の意向>信長の意向 という図式が成り立つかという事で。
もろもと朝廷は明らかに信長サイドによっているし、朝廷自身も信長に握られていて、
義昭の意向が信長の意向に優先されたことなんてない(もしあったら教えて下さい)。
治安についても、実質京と畿内を軍事支配(=治安)している織田相手に、義昭を奉じて
決起した勢力がどの程度いますかね?
>>222 ふむ。言われてみるとそうだな(~・ω・~)ということは…
>>213 秀吉が怒られなかったのは、大した問題じゃなかったから。なのかな?
それとも、実は織田家の方針として(交渉が)決裂させるように仕向けた。とか?
>>223 つまり、織田家にとってはもう必要ないものだということですね。
なんか、「反信長包囲網を構築したのは義昭だ」とか、過大評価が過ぎると思いますね
義昭に関しては。
>>225 畿内ではそれなりに影響力あるんだから、そこまで極端な見方もどうかなっと。
むしろ、まっさきに畿内で影響力がなくなったような。
>226
毛利、武田等の織田家周辺諸家も、信長がほぼ畿内を抑え(大小の叛乱はあったとは言え)れば、織田家と自家の境界にいる、自家の影響下にある小領主等への影響力が低下していくのは自明で、
将軍がいようがいまいが、どの道織田周辺諸家と結ぶしか外交的にはありません。
将軍が居れば、将軍家を擁すると言う大儀名分(実質的に意味は無い)、畿内に若干の影響力を行使できる(あてにして戦略を構築するほど影響力は無い)、諸家と連携がスムーズになる可能性がある(自家が厳しい状況に結ぶしか無い)、ってくらいでしょうか?
その利点も()の内容で消し飛ぶ程度ですが。
229 :
逍遥軒:2005/03/24(木) 03:31:39
>>228 いきなり結論っぽいけど、その根拠が聞きたい。
@1570年代、結果的に信長は畿内を抑えているが、基盤としては脆い。
・畿内の領主に対しては、兵農分離が進んでいない←信長傘下に完全に加わ
ったと見るのは早計。
・ゲリラ的な反抗勢力や、本願寺などの反信長勢力の存在
・これらを影で支える(あるいは両天秤にかける)公家や堺商人などの存在
・上記3つを支援する周辺諸家
・周辺諸家のバックボーンになり得る存在の、京復帰を目論む将軍
A将軍の権限とは「軍事大権」の独立にある。「信長包囲網」を画策した
として、それは正当な権利の行使であり、事実信長はそれにより苦境に陥
った。よって将軍を過小評価するのは、合点がいかない。
230 :
逍遥軒:2005/03/24(木) 03:43:19
>>229 の理由があるからこそ、朝廷を抱える信長にしても不安はあったもの
だと思います。そうでなければ、将軍職を強請する意味(
>>217 )がわからなく
なる。
信長包囲網なんてありませんよ。それを入れるから、義昭が過大評価されてしまうんです
232 :
逍遙軒:2005/03/24(木) 09:49:52
>>231 「信長包囲網」を否定する根拠を言ってくれぽ。
233 :
逍遙軒:2005/03/24(木) 10:14:39
えー、現在スレの趣旨から話がずれてるのだけど、今僕がなにを意図しているかというと…
>>85 >>87 >>105 なんかで、信玄の三方が原以後の動きを探っていくと、どーも将軍との
関わりが見えてこない。でも、ここで即「将軍=無力」と判断するのも良くない。と思うん
で、いま少し、将軍について調べていこうと思ってます。
もし、「将軍=無力」ならば、後に秀吉や家康の行った朝廷工作の意味が分からなくなります。
確かに、当時の足利幕府は軍事力としては微力だけど、「軍事大権」に代表される将軍の持つ
特権など、(少なくとも口実としては十分過ぎるほどの)利用価値はあったものと思われます。
234 :
逍遙軒:2005/03/24(木) 10:26:21
当時の政治とは屁理屈の捏ねあいだから、口実で十分。あと、傘下の小領主の信用
を得ていなければ、かえって自らが危ない。
>>228 簡単に傘下の影響力を低下させ
られる。とは思えない。
P.S. たとえば…こんなこと考えたりしてみた。
>>85 なんでここで、信長は徳川についたのだろう?ここに将軍の立ち入るスキが
あるのではないか?(仮に中立だったとしたら、織田と武田の同盟関係は維持され
ていた気がする。信玄が信用できなかったてのは短絡的だと思う、婚姻政策があと
一歩で実現の状況だし)
235 :
逍遙軒:2005/03/24(木) 10:28:16
ま、第三者の意見や論も聞いてみたいな(^^)史料なんかもあれば
おねぽ!
>234
畿内の諸勢力が完全に織田家に屈服したとは思っていません。
ただ、その諸勢力も畿内において織田家の勢力が反織田の勢力より強大であった場合、織田家に服従し続けるでしょう。
つまり天秤にかけてる連中も、目の前の大勢力に表面上は屈服するしかない、と言う事です。織田家に叛するとしたら、織田家の畿内での統治がかなり落ちた場合でしょう。
将軍・義昭が将軍の正統な権限を行使しようがしまいが、織田家が畿内と言う地点に位置する以上、そして、天下統一を目指す以上、周辺諸家との摩擦は避けられません。
織田家と周辺諸家が対立すれば、結果的に「包囲網」のような状況が起きるのは当たり前であって、外交的に自家と同様に織田家と対立する諸家と結ぶのも必然でしょう。
織田家と敵対する周辺諸家にとって、足利将軍と言う「顔」は、無いよりまし、と言うくらいでしょう。
237 :
236:2005/03/24(木) 20:28:49
つづき。
>>230 の>将軍職を強請する
と言うのは三職推任の事でしょうか?
これについては京都所司代・村井の独断と言う意見もあるようです。
ただ、通常の公家との往来の中で「上様(信長)に、そろそろ官位を」と言った程度の事を、村井の言葉=信長の意向と大袈裟に理解した朝廷の勇み足、と言う感じ、との事ですが。
また、別の意見では、三職推任を断る代わりに嫡子・信忠や家臣の官位を高めるための交渉材料と言うのもあります。
どちらにしても、将軍位(と権限)を信長が、そんなに価値あるものと思っていたとは思えません。
他人が将軍位を価値あるもの、と思ってくれれば交渉の材料にはなる、と言う意味で利用価値を感じていたかもしれませんが。
238 :
逍遥軒:2005/03/24(木) 21:40:59
>>236 「後向きの歴史観」というか、結果を知ってるからこそ、そういう
論法が成り立つのであって、僕としては、その間の過程をもう少し細かく見
ていきたい。と思っているのです。
歴史を100年スパンで見た場合と、その場その場での状況の変化云々は別
問題です。たとえば桶狭間で、もしあの段階で雨が降らなかったら?とか、
関が原で、あの局面で裏切りがなかったとしたら?とか「偶然」の要素は大
きいと思うんです。たまたま将軍に悪い目が出たのではないだろうか?とか、
最初から「将軍否定」の方針でなく、あらゆる角度から検証したいと思って
ます。
>>236 さんの言う軍事的なパワーバランスのもたらす影響は大きいと思い
ますが、それが全てとも思わない。文化、政治、宗教、民族、モラルなど色
々な要素が絡み合っていると思うのです。
239 :
236:2005/03/24(木) 22:07:20
>238
比較的客観的だと思われる当時の状況から自分の意見を書いただけだけど。
それを結果論だ、じゃたまらんなぁ・・・。
将軍の権威が全く無かったとは思って無い。
ただ、織田包囲網と言うモノの主導権を握ってた、とかでは無いでしょう、と。
将軍・義昭は自分が主導してると思ってたとしてもね。
240 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/24(木) 23:33:13
>>239 いや、全く
>>236 での論を全く否定するわけではなくて、
むしろその辺は信玄をモデルとした上洛是非を問う段階で肯定し
てます。(上のほうのスレ見てぽ)
だからといって、ここで「将軍=無力」とするのはどうかな。と。
たとえば家康なんか、架空の源氏姓をこしらえたりしてまで「将
軍」にこだわるわけです。
あるいは、原因を義昭の資質に求めるとすれば、義昭を一度再評
価する必要があると思うんです。結果的には信長が畿内を掌握す
るわけですが、その中で義昭の行った業績や方針を見つめ直すこ
とから始めたい、と思ってます。
正確にいうと、反信長の連中はそこかしこにいた(織田が急成長した影で追い落とされた
連中など)が、そいつらは別に義昭がいたから信長に抵抗したわけじゃあない。
もともと信長に抵抗していた連中であって、おとなしく信長に従っていた者を、義昭が
焚きつけて決起させて統合させたわけじゃあない。
義昭がやったのは手紙を出して信長と戦えといっただけ。そしてそういった連中に対して
指揮権も命令権もなかったことは、例えば朝倉が対陣したことに対して再出陣を’要請’
したことに表れている(これは顕如や信玄も同様。彼らには朝倉や六角や三好に命令権
はなかった)。逆に、義昭に指令(義昭自身の感覚はこうだったろうが)に対して、信長
と戦う理由のない連中は無視した(上杉や徳川や毛利)。
義昭の将軍権威は、全くないとは言わないが、はっきりいって利用者が利用価値を認めた
ときだけ発揮する程度にしか残っていない。
一応いっておくと、信長もその利用者の一人。上洛時には義昭の権威も利用したが、すぐに
義昭を除いた自分自身の権威を高める政策を実行している。そして最期には、義昭の存在なし
に政権を確立させるだけの己の権威と権力を手にした。
242 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 00:22:49
同じこと何度も書くのはヤメレ
243 :
逍遥軒:2005/03/25(金) 00:25:35
パワーバランス論は聞き飽きた。別の角度から検証plz
義昭の業績は詳しくはわからないが、その結果は槙嶋城から河内へ落ちていくときに
街道沿いの住民から「貧乏公方(そんなニュアンス)」と罵られたというのが思い
うかぶ。
将軍という軍事大権を持つ存在でありながら戦に負けて落ちていく存在に対してこの
仕打ちを考えると、単に落ち武者狩りのようなもの以上の意味があると思う。
山城という室町将軍のお膝元で、負けた将軍を住民が同情もせずにあざ笑っているのだから。
>>243 オマエさんの意見は
@信玄上洛は将軍と関わりが無い
A将軍は無力ではなく包囲網を構築した
Bパワーバランスはそれほど重要ではなく、文化、政治、宗教、民族、モラルなど色々な要素が絡み合う
ここから導き出されるのは、信玄は将軍と無関係に上洛戦を展開
包囲網に加わる周辺勢力と手を結ふが、武田は包囲網へは参加していない。
織田周辺勢力が包囲網を組みあった最重要項目はパワーバランスでは無く
文化、政治、宗教、民族、モラルなど色々な要素。と…
ワケワカメ…
246 :
逍遥軒:2005/03/27(日) 21:56:39
>>245 いあ、そーじゃなくて(特に
>>85 >>87 >>105 )で信玄を一通り
語ったけれども、将軍との関わりが見えなかったわけだ。
では将軍とは単なる飾りか?といえば、それはまた別の角度から見る必要が
あると思うんだ。前述したけど「将軍=天下人へのご褒美」程度だったら家康
が架空の源氏姓を作ってまで、こだわる必要なんかないじゃないか。それ以
前に「朝廷を一つの頂点とする政治システム」そのものの是非も問われてくる。
軍事力(パワーバランス)は確かに重要な一つの要素だけど、それが全てとも
思えない。
>>246 足利将軍と徳川将軍をごっちゃにしていないか?
「将軍」という地位それ自体には箔付けできる権威の裏付けがある。
しかし、足利将軍は初代の尊氏のころから支配領域も小さく直属軍も少なく、大名達
の連合の上にのっかった極めて不安定な権力だったのに対して徳川将軍は家康が敵を
なぎ倒して実力で全国の大名の上に君臨した権力者。
同じ支配の正当性を求めた結果の将軍位としても、その基盤となる権力(=国力、軍事力)
が両者では圧倒的に異なる。
だいたい、足利将軍にそんな力がるのなら、戦国時代なんて状況は訪れていない。
権威はあったが、それを裏付ける実力(権力)が無かったのが室町将軍ってことだな。
義教の頃まではまだ将軍の命令に従わなければ懲罰を受けるから従っておこう、くらい
にはあったが(もっとも、その懲罰も足利氏の力ではなく有力守護大名の力によったが)、
義政以降はそれもなくなった。近江の六角氏なんて、義尚の討伐を受けても抗戦している。
京のすぐ隣の大名がこれだ。
>>246 そもそも、「朝廷を一つの頂点とする政治システム」自体がとっくに崩壊していた
と思うが。
250 :
逍遥軒:2005/03/28(月) 02:43:32
251 :
逍遥軒:2005/03/28(月) 02:56:59
あと(室町)将軍を語るとき、結果から推察しがちだけど、経緯
から見てもらいたいものです。
たとえば「桶狭間」の勝因は運の要素がある。と見られるけど、
将軍の場合「運」の要素はなかったかどうか?とか。これには
信長と義昭、双方の一挙一足を再検討する必要があると思って
ます。まあ、そのために
>>250 に書いた通り、事前に色々ウン
チクすべきことがあると思うんですが…。
>>249 根拠が聞きたい。推論でなく証拠がほしい。
>>251 証拠もなにも、室町以降の天皇と朝廷が実質支配した痕跡って何?
「天皇を頂点とした〜」というのを古代律令制を根拠とするなら、荘園の発達に
よってまず土地の掌握が朝廷から離れていった。最期には天皇自身が荘園を持つ
ことによって、国家の土地所有が完全に損なわれている。
それでも後鳥羽や後醍醐などが例外的に権力を揮ったがそれも一代で終り、義満
以降の天皇(北朝)は完全に武家政権に保護してもらう存在になった(その代わり
権威は残っていたのでその面で保護者を後援することになる)。
官職だって地方の武士が勝手に名乗っているし、戦国時代にはもう朝廷による統治
のシステムなんてない。実効支配力はなくなったが残骸は残っているので、それを
権力の裏付けに利用できると考えたものがそのまま利用しているにすぎない。
政治でも軍事でも、朝廷が権力をふるった例がこの時代にどこにありますか?
天皇領を回復することですら、信長などの実力者に要請しかできなかった存在が。
>>250 傍から見てると、アナタが論点をずらしている様にしか見えない…
それに、パワーバランス論を保留したら戦国時代から読み取れるものは少ないかと
将軍の力からして、権威+軍事力+政治の相乗効果なワケで。
>>85>>87>>105を読んでみたが、勝頼の正当性という仕様も無い理由付けや
一番まとな
>>105を自分で否定する等、かなり不可解な判断をする印象を受けた。
もも
384 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2005/04/06(水) 21:45:50
武田信玄
諏訪を奪ったはいいが諏訪が安定する前上伊那の高遠や藤沢と敵対してる中、佐久に手を出したり
上伊那の諸勢力を屈服させた帰りに、まだ佐久を平定しきってないのに何故か小笠原領に侵攻して小笠原家と敵対したり
林城攻略によって一気に小笠原家を崩壊させたが兵を返すことなくそのまま軍を進めて戸石城を攻撃して戸石崩れ
義元死後駿河に侵攻してついでに徳川領にも手を出して徳川とも敵対
なんかいつも欲をかいて失敗してる感じだ
こんなんじゃあと10年生きようと天下は望めなかっただろうな