1 :
無名武将@お腹せっぷく:
信忠は良将だったのか
2 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/16 18:30:12
野球で言うと一茂クラス
3 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/16 18:50:02
タレントで言うと吹石一恵クラス
奇妙丸参上いたす!
5 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/16 23:55:39
一般的にはまともな跡取りだったみたいな評価ですが。
実は極悪人。諏訪神社を焼き払ってるし…。
評価の方法も色々だが他の人物と比較してみてはいかが
@兄弟と比較
信雄 信孝 勝長 etc
A他の大名の跡取りと比較
信玄・勝頼 謙信・景虎 義元・氏真
家康・秀忠 秀吉・秀頼 etc
評価っつっても、親父がいて、親父の保護の下、親父の指示で動いてるだけだしな
評価のしようがない
9 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/17 00:49:16
ちなみに勝頼を野球でいうならカツノリくらい?
さすがに勝頼に失礼かな
10 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/17 00:50:55
そこそこ優れていただろう。
11 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/17 00:56:21
隆景<景勝<信忠<勝頼<氏政<秀忠<氏真<秀頼
12 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/17 01:05:12
信長が死んだ時もし信忠が生き延びていたら立派にあとをついでただろうか・・
まあ曹丕クラスにはなれるわな。
14 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/17 09:46:33
>>12 家老宿老がこぞって秀吉に靡くことはないだろうな、多分。
>一説には信長が将来織田と徳川の勢力が逆転することを危惧していたとも言う。
> 前に書いたとおり、信康は勇猛であり、立派な武将だった。
>しかし信長の嫡男の信忠は 凡庸であり信康には見劣りするものだったという。
信康>>>>信忠
逆説もあり…
18 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/17 16:30:34
>>16 勇猛すぎて罪のない人まで殺してるけどな…
実力的にはトントンだろ信忠…親父が非凡過ぎて凡庸に見られる
信康…親父が凡庸すぎて非凡に見られる
19 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/17 19:30:22
親父が凡庸かよ。
信忠は高遠城攻防戦の時、自分も前線に出て身を晒して戦ってるよ
二条御所での最後の戦いでも、かなり善戦したらしいし
乱暴なだけという感じの信康に勇猛で劣るとはとても思えんな
21 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/17 19:36:10
信康は鷹狩りの帰りに偶然であった僧をきりころしてますぜ
>>16 その説は現在、ほぼ完全否定されてるよ
最近の研究では築山殿や信康の処刑は家康の独断らしい
24 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/17 20:20:47
今川の血がどうのとかいうことでっしゃろ?
>>22 信康と対決した酒井忠次の独断じゃないの?
やつは家康の叔母の夫で多くの三河軍団を傘下に置いてるしな。
さすがの家康でも頭が上がらず、彼を尊重せざるを得なかったと聞く。
信長が信康処刑を決断したのも忠次の必死な讒言が効いたのだろう。
まあ、忠次はある意味信長の腰巾着だな。
信康処刑の真実は、根深く惨くそして無制限の悲しいものだろう。
26 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/18 01:03:19
当時の家康領って、あんまし考えられてないけど
・旧今川系が蠢動
・一揆が家中にまで深く浸透
・新参家臣が定着していない
・(上記を陰で操る)武田の内部工作
・となると旧斯波系だって黙っちゃいないぞ・・・
というような状態ではないですか?
その「旧今川系」にしてみれば、拠り所というか希望の星というか、
そういうのが信康母子だったはず。
「父親を除外して息子(&取り巻き)が御家乗っ取り」
なんてのはよくある話で。
そうでなくても上記の勢力を結集すれば、家康と対立独立だって
できたはず。どこまで持つかはわかりませんけど。
そのために諸思惑を持った家中に対し、
最も効果的な、かつ最小ダメージな処分が
・信康母子を除外
じゃないでしょうか?
本来なら、独立した時点で築山殿と離縁すべきだったんだよね、家康は。
しかし、諸般の事情により、織田、今川を両天秤に掛けつつ、
織田と同盟、という中途半端なスタートをきってしまった。
この辺り、平井氏と離縁してまで六角と争う道を選んだ、
浅井長政とは戦国大名として世に躍り出る際の腹の据わり方が違う。
んで、築山殿(及び信康)、徳川家にとっては弱小時代の
正しく最悪の場合の保険的存在だから、
天下の趨勢が織田家に決まりつつあった1579年辺りでは、
むしろ、織田家に二心を疑われかねない、邪魔な存在になっていた。
信長にしてみれば信康に対して、五徳姫を嫁がせたり、
信の一字を与えたりしている訳だから、伝え聞く乱行も、
武田家との内通疑惑も、家康が正せるのであれば、
不問にしたであろう事は容易に想像出来る。
でも、家康が選択したのは、もっとも単純かつ明快な選択である、
母子の処刑。
家康自身、一端の大名らしくなったのは、
三方ヶ原で武田軍に大敗してから、ってのも重要な気がする。
過去の清算、代償は小さくなかった、ってやつなんだろうね。
酒井は織田派で石川が今川派らしい
その対立から信康が犠牲になったとかね
信長が処刑命令を出せるかは疑問だね
信長の娘が信康に嫁いでるのに処刑すると両家の関係に暗い影を落とすし
もしかしたら徳川が同盟を破棄して武田と組むとやばいことになる
信忠の話すれ
30 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/18 10:21:51
信忠は「東方方面担当」だから、松平の内部抗争の話が出るのは順当。
>>27 その辺の史実に詳しくないんで教えて欲しいんだけど、
信康の「信」は信長の信?
順当に考えればそうなんだろうけど、それ以前から三河周辺に跋扈する(笑)
松平一族には「信」の字が案外多いと感じるし、武家の名前としてはありがち
な漢字だと思うし。
松平の名前としてはもしかしたら、「忠」「康」以上に「信」字は多いかも。
家康の爺さん松平清康の父(家康の曾爺)は松平”信忠”(笑)、
おまけに親父広康の弟(つまり家康の叔父)には”信康”がいる。
信忠は新当流剣術の達人で、最後の戦いは自ら斬りまくったらしい
33 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/18 12:07:54
父親が非凡だったから凡庸と言うより、
弟どもが馬鹿すぎてせめてこの人だけでも生き残ってればと思わせる人じゃないか?
大東亜は無理でも世界大戦で勝ち残れる国くらいになってたかもしれんぞw
34 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/18 12:19:46
信忠はボンボンのポジションのまま死んじゃったから
結局どれくらいの人なのか分からないってのが本当のところだろうね。
35 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/18 12:35:12
(・へ・;;)うーむ
「悲劇の王子様」の要素はたっぷりだがな
37 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/18 15:01:01
安土城を燃やしたのは
38 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/18 15:18:08
誰じゃー!
39 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/18 15:57:38
>25
バカか?w
40 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/18 16:05:06
>>18 >勇猛すぎて罪のない人まで殺してるけどな…
後世の作り話でしょう?
信長の意向で?家康が殺したのは周知の事実で、
幕府は家康公を守るため信康殿には泥を被って頂こう。と
その後の歴史を見ると家康は信長より非凡という見解も。
41 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/18 16:34:18
信長の死刑命令も後生の作り話でしょ?
42 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/18 16:57:31
信長の兄や弟、叔父への処し方を考えると
あながち作り話とも思えんな。
43 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/18 17:07:40
最近は家康=浜松衆と信康=岡崎衆の対立により信康を家康自身が葬ったという説が有力
”最近の研究”では、とか”最近の説では”とかいうけど
それってなんの意味もないよ、いちいち真に受ける以前にそんなの聞く意味すら全くない
科学みたいに日々進歩して新たな発見がある学問なら解るが
すでにとっくの昔に過ぎ去って再び戻ってはこない、それどころかどんどん遠ざかってゆく出来事に対して
新たな説なんてもうありえないよ。
その根拠となる研究だって、どうぜ以前から存在してる古びた文書を単に読み直しただけでしょ
昔の文書なんて今読んだら言葉も違うし、当時の人でなければ結構意味が良く解らないところがあるわけで
そこから、いくらでも恣意的な解釈を作り上げる余地があるわけだ
ヒマな歴史学者が自分の存在意義を確立するために、わざと変な角度から史料を解釈して
どんどん新たな説とやらを恣意的に生み出してるだけってのが現実でしょ
マトモな解釈は出尽くしてしまっているけど、だからといって自分で研究した結果やっぱりいままで言われてる歴史と
全く同じでした、なんてこと言ったら自分の存在価値がない上に全くの徒労になるわけだし
だから、”最近の説”なんてのは歴史学者がわざと違う歴史を少しずつ作り出して自分の存在意義を守ってるだけ
もしろその結果本当の真実からは少しずつ離れていってしまっていると考えるのが妥当
猜疑心の強い信長が、家康を冷徹な方法で試したのだと思う。
46 :
茶筅丸:05/02/18 17:44:02
僕が真実を話すよ、信康はね、勝頼から於松をやるから同盟しないかって話がきて乗り気だったの
兄上へのライバル心も強かったら兄上と想い合ってる於松を奪って出し抜いてやろうって思ってた
自分は五徳と一緒に暮らしていてもうまくいかないのに兄上は離れていてもうまくいってるのが余計悔しかったみたいだよ
でもね、於松からの手紙でそのことを知って兄上大激怒
今まで父上をなだめてたけど、もうなだめなかったし武田との密通もある意味自分もだから黙っていたけど怒りのあまりか暴露しちゃったわけ、於松からの手紙だから父上も信用したみたいだよ
信長が命じたなら、さすがに三河家臣団も反感を持つはずじゃないの?
でも当時史料にそんな形跡は無いし
やっぱりお家騒動だったんじゃないか
48 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/18 17:53:15
44みたいなの本当にイタイは・・歴史学の全否定というか・・
一つの説が有力になるのに多くの賛同が必要なわけで・・小学生でもわかりそうだがwww
信忠ちゃんは初陣遅いのが可哀想ね。
79年って、まだ荒木が頑張っていた頃で、信長はまだまだ苦戦続きだった。
そんな時期に、さらに東海方面まで戦線をつくりかねないようなことをわざわざするかね?
仮にするのなら、家康が離反したと同時に大軍を送り込んで徳川を瞬殺しなければならないが
、この時期に尾張に大軍が置かれたとする記録もない。
私は、この事件は家康と信康の争いが信長に持ち込まれたと考える。
つまり、当時の信康は信長の婿であり、ある意味信長を後援者とする立場であり、かつ織田−
徳川の同盟を保障する担保の存在でもある。
家康としては単独での処刑ははばかられて、信長に説明と承諾を得るために忠次を派遣したの
ではなかろうか。
「こういう理由で信康を処刑する。五徳姫は返す。しかしこれはあくまで家中の問題あり、
同盟の破棄とか織田との敵対を意味するものではない」と。
51 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/18 21:28:01
>>16 逆。
信忠>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信康
信忠は天下人の跡取として実戦豊富。
自ら太刀を取って戦うようなことは無くとも
戦場に総大将として赴き、
家臣を駆使する術などの帝王学は抜群。
信康ときたら何かの退却戦で功名を挙げたくらいとか。
信康単独で戦場に赴いたことなんてどんくらいあった?
家康同伴が多いんでない?
>>48 いや、逆に史料をひねくれた見方でつつきまわした挙句
安易に新たな”説”をポンポン捻りだすほうが歴史学の否定だと思うが
このスレの例でいえば信康を死なせたのは信長→家康に変わったってことだが
その変わった理由はなんなんだ?
それまで誰にも発見されずにずっと埋もれつづけていた史料が発見されて、新たな裏づけが出来たからなのか?
そうでないなら、それ以前に信康に死を命じたのは信長だといわれていたのは何故かってことになるわけだが
それ以前の歴史学者達が皆揃いも揃って、ロクに史料も解釈できなかったアフォばかりだったってことか?
でも信忠はお坊ちゃんを脱皮できないまま死んでしまったのも事実。
親父が殺されて、しかも手勢が僅かなのにのほほんと二条御所に留まってどうする。
親父の負け戦の時みたいに、さっさと岐阜なり大阪の弟のとこへなり
逃げてれば死なずにすんだ=織田家がそう簡単に乗っ取られなかったのに
>>52 ここだけの話、実は意外と適当な解釈だったり時代の風潮そのままな論文は存在してたりする。
>>52 >そうでないなら、それ以前に信康に死を命じたのは信長だといわれていたのは何故かってことになるわけだが
まさにそれも含めた上で、歴史学上の新説が唱えられているのだが。
というか、世間一般で常識とされていた歴史の話が実は違う、なんていくらでもあること。
56 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/18 22:14:39
>>52 巷談レベルが”通説”となっている事件を、史実を使って訂正していく
それを”新規興隆の説”すなわち新説と言うのは間違いかな?
「信康の死は家康主導」という新説は、ここのものも実際の論文も、それまでにも
知られていたとはいえちゃんと史料的根拠をもって論述されている。
そちらがこの説を否定するのなら、「これまでの通説だったから」とか「新説なんて
所詮〜」とか言っていないで、資料的根拠をもって論破したら?
信忠は織田軍団の一員として過不足無い働きをしている
武田攻略もそうだし、松永討伐・荒木攻め・中国戦線等で特に失敗らしい失敗も無い
そういう意味からみれば信康との器量を〜というのは考えにくいな
例え信忠がどんなに勇猛で聡明な大将であったにしても
本能寺の変における顛末で全てが台無し
平凡無難な二世武将の域を出ることは永遠にありえない
別に信忠に限らず数少ない失敗や情けない最期の迎え方で
それまでの功績が無にされて凡将の烙印を押される歴史上人物は幾らでも居る
60 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/18 22:55:18
っていうかあのまま信長政権が完成すれば、
徳川はいつか「配下」にならなきゃいけないんだし。
せいぜい御一門衆ってな扱い?
未来は信忠>信康
61 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/18 23:03:29
>>59 凡将とか知将とか勇将とか・・・
春休みってやつか?
信忠の二条城あたりの動きとしては
・どれだけの規模の謀反か、の情報が一切ない
・イコール、「普通押さえとくだろ」と思われる近江方面&難波方面への
出口が実はがら空きだったことを知らない。
・宿営よりは二条城のほうが少々まし
・少しでも抗戦していれば、相手方中からの寝返りや、近隣からの援軍、
特に摂津方面あたりが動く(牽制してくれる)かもしれない。
(実際、立て篭もった後に的中突破して駆けつけた
信長&信忠側近がいる)
「あの時、速やかに京を離れ、近江安土方面へ逃げていれば・・・」
「いやいや、大坂でしょ。なんたって丹羽や信孝が」
なんてのは、後世から見た”結果を知った上での”ズルイIF。
あえて信忠の「いい人っぷり」というか甘い点があるとするなら
”親王をなぜ逃がしたのか”という点に尽きる。
・親王を盾に立て篭もる
・親王を通して(さらに禁裏を動かして)停戦させる
という行動ができなかった点が悔やまれるっつーか甘いっつーか惜しいねぇ。
優秀な信康の死は、劣る息子を持った信長の嫉妬。
63 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/19 00:08:50
>信忠は織田軍団の一員として過不足無い働きをしている
多分、それを上回る信康の活躍。
皮算用しても、政権が出来るまではいつ何があるか分からんでしょ。
信長は向後憂いを排除したかったのでは。
65 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/19 00:36:30
>>63 ・・・ないんだな、これが。
もしも活躍があったとしても、だよ?
いま現在は義理兄弟うはははは、な織田徳川関係だけど、
それはつまり個人同士の信頼関係でしかない。
将来、属国というか臣下に組み込まれるのは当然な流れでして。
それが家康並の(性格的な)育ちなら信長も、
「将来有望なスタッフ」
ぐらいにしか思わないでしょ。
信長ってのは案外、温情があるっつーか「甘い」んで。
つまり信長が処断した、とするなら「性格」というか「性質」、
「背後勢力」が問題だったんでしょうね。
>>46 お前の兄上は普段は冷静みたいだが、どうも松姫に関しては
感情的になるようだ
盛信にはえらく降伏を勧めながらも勝頼はとことん追い詰めたあげく
勝頼派の家臣を中心に徹底的に残党狩りした裏にはそういう事情が
あったのか…執念深さは親父似か?(笑
ついでに他スレで騒いでいる密会とか子供とかの話もしてくれや
>>52 江戸幕府を挟んだ影響は大きい
>>59 例えば誰?
二条城で信忠が自刃したのは責任感の強さも理由の一つだろうが
もう一つ武田攻めの悪影響があったと俺は思う。
武田攻めは信忠を人間的にも武将的にも成長させたと思うが
逆に、一枚板とまで言われた甲斐が離反が相次ぎ、内部から
滅んでゆく様をもろ見せ付けられてしまった
うちも親父が死んで数年後にはこうなるかもしれんなと変な不安を
胸に抱いたかもしれん、そしてたった2ヵ月後変は起きる
織田も信長という名の元に結束しているが、その信長が死んだ
今となっては、仮に無事逃げ出し混乱を落ち着かせたとしても
いつ武田と同じ運命を辿るかわからない…(勿論家臣を信用して
いなかったわけではないだろう)弟2人の確執もいつ火種になるかもしれん
そんな想いの中、ふと武田攻めの時のことが頭をよぎったのではないだろうか?
人間は追い詰められると、どうもネガティブ思考に入りやすいというから
よぎったのが一瞬であったとしても、信忠の心を支配してしまった
そして彼は、仮に同じ道を歩むのならいっそのことここで散ってしまおうと
思ったのではなかろうかと…
67 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/19 06:39:43
>>66 盛信は武田一族ではあるが、武田家を構成する一部品に過ぎない。
堅城に立て篭もり、戦意旺盛。
”どういう手段をとってでも”そこをクリアすればそれでいい。
後でどうとでもなる。
勝頼は総大将。ミスター武田。
勝頼側近はイコール、”武田家”を構成する中心閣僚。武田家そのもの。
かつ、もはや完全に劣勢。駆逐するのが得策。
なぜなら織田軍の目標は武田の中心を殲滅すること。
「一刻も早く、いつものごとく電撃的に敵を掃討する」
(それも徳川らより先に)
そのためには以下の対処で適当かと。
盛信・・・「どうでもいいからそこを退け。その向こう(甲斐)に用がある」
勝頼・・・「あんなに寛大にしたのに拒絶したのはキミ。
ってことでサヨウナラ」
>>66ではないが信忠の心にそういうのが浮かんだとしても
不思議ではなかろう
くしくも、丁度三ヶ月前の3月2日は高藤落城の日
しかも、多勢にほぼ無勢で高遠での盛信と今の自分は全くに
近いほど状況も似ている
逃げ出したとて、敵方に見つかれば勝頼と同じになりかねんしね
どのみち図太く生き延びて欲しかった人物だね。
本能寺は信長より信忠の死の方が悔やまれる。
わかった!信忠と男色関係にあった盛信が淋しいから連れて行った
でも、せめて今世の最後は武士らしく死なせてやろうと信忠に憑依して
バッサバッサ切りまくらせる華を持たせて最後は腹切り
勿論勝長も道連れ
資料で言われている二条城のこの2人の奮闘は多少の脚色を省いたとしても
人間の域を超えてるよ、まるで高遠城の三千対五万の(なぜか)激戦みたく
仮に盛信が降伏しても、後に殺害されてただろうな
そもそもあの時点で寛大な条件で誘降したのは、単に時間を浪費して勝頼などの武田の残党が十分な余力を残して他国に退散したりされたらたまらん、程度からじゃないか?
穴山信君ですら裏切ってるし…というのもあっただろうし
信忠って剣術の覚えがあるみたいなんだが、この頃の武士って剣術習うの当たり前?
74 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/19 16:08:03
>>66 というか、信忠が死んだ時点で、彼は父親の死を知ってたのか?
心境としては「あとはお父さんヨロシク!」って感じだったんじゃね?
>>74 信長側近で、本能寺に駆けつけたんだけど突入無理!と判断して
それじゃこっちだ!と信忠屯所に来てるのがいますよ・・・。
それと信忠は「二条城に移動→包囲される→包囲軍と交渉して親王を
逃がす→ヤラレル」という過程を経ています。
つまりそれだけ時間があったわけで・・・
後世のわたし達からすれば
「あー馬鹿!いま逃げろって!大坂方面がら空き!」
と思いますけど・・・
>>61の
>・どれだけの規模の謀反か、の情報が一切ない
>・イコール、「普通押さえとくだろ」と思われる近江方面&難波方面への
> 出口が実はがら空きだったことを知らない。
この辺参照。
当時の信長相手に
あの知性派キャラで通ってる光秀が
畿内に勢力を持っている光秀が
信長や俺にも気がつかれないで計画した謀反で
完全手薄の本能寺を囲まれた
というところまで知ったら「あー親父死んだね。光秀はヘマやらんね」と
思うんじゃない?キミが当時、信忠側近だったとしてもそう思うでしょ?
実はだらだら、穴開きまくり計画だったんだけど・・・
二条城に駆けつけた馬廻衆や側近もいるから、伝聞も伝わるでしょうし。
「あれじゃぜってー無理!大殿はもう無理!もうね火がゴーって」
って感じでさ。
記録によれば、本能寺が襲われているという報告を受けて救援に向かおうとした
ところ、家臣に留められて二条城に移ったとある。
さすがにしらなきゃあその行動はないだろう。
>>73 いや、きちんと学んだ武将は少数派
「実戦で斬り覚えるもの」だと思ってたんじゃないの?高坂昌信がそんな言葉を残してる
そもそも、剣術ってものが生まれて広まったのが室町戦国時代からだからな
(なぜかは、刀剣の歴史特に刀の登場について)
平安以来、武士の表芸は弓ですよ。武士を褒める言葉は家康も義元も
「東海一の弓取り」
でもそれ、「東海一の」以外で聞かなくないですか?(笑)
「謙信は手づよい弓取りだが、決して、片頬破りの偏頗な気性などはもたない」
信玄が謙信を評した言葉
武家の異称みたいな扱いだったのかもね
あとは槍か。一番槍、槍働き等々
槍で称されるのってやっぱ文字通りの槍働きが必要な下っ端武士だよな。
弓で称されるのって武士でも大名格っぽい気が。
ところで、槍も広まったのは室町以降なんだよな。
つまり、
信忠=曹丕
信康=劉封
がわかり易い例ってこと。
85 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/20 17:42:08
>76
信忠に本能寺の状況を報告したのは、確か京都所司代の村井長門だっけ?
村井がもう少し状況把握をしっかりしてれば、信忠も脱出できたかもね。
86 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/20 17:58:05
てゆか、信長政権下で方面軍を任せられ、
きっちり任務を達成してる信忠と、
単なるバカボンの信康には、
並べて比較するのも馬鹿馬鹿しいほどの差がある訳で。
曹丕と同じだな。行政面も軍事面も。
つくづく江戸時代の宣伝は恐ろしいな。
信忠に関していえば、才能を示す実績功績は多大にある。信忠を無能とするのは、
江戸時代にひろまった、「信康と比べて云々」というほとんど風評にちかい中傷
のみ。
信康の場合は武勇を示す逸話はあるが、軍を率いての活躍も統治のエピソードも
残されていない。
なのになんだって両者が逆転しているのやら。
判官贔屓の三国志演義も同じことがいえるな。
実績ある曹丕はボロクソに叩かれるが劉封に対しては剛毅だが悲劇のヒーロー
っぽくなってるな。
90 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/20 19:48:19
なぜ信忠スレに三国志?
91 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/20 21:38:02
本能寺の変がなければ信忠は秀吉、光秀を従えて九州攻めをしたのだろうか?
信忠はむしろ東方担当。やるなら滝川、柴田、徳川を従えて北条、東北遠征
93 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/20 22:17:33
信忠も信長と毛利征伐に向かう予定だったようだし可能性はあるのでは?
二条での戦い振りからすると個人の武勇も信康よか上だろうな。
信長は四国に渡ってまず長宗我部を倒してから毛利にあたるつもりだったという説を
読んだことがある。そこでは信長にかわって信忠が父に代わって毛利にあたる予定
だったとか。
たしかに、緊急度が高いのはすでに講和交渉に入っている毛利よりもこの期に及んで
やる気マンマンな長宗我部の方だろうが。
>>92 その辺は付随するだけで、主力は信忠のために付与され、
養成された「信忠世代」になると思われます。
その際は多分家康にも「配下としての働き」が求められ、
信忠世代の徳川家の位置付けが決定するのでしょう。
柴田や滝川、秀吉らの「家中での権力」は低いですよねぇ。
たしかに、家中の権力というと外の軍団長よりも信長側近の吏僚の方が上だろうなあ。
そういえば、光秀はその中で軍団を率いながら信長側近も勤めたNo.1であった。それが、
領地替えを命じられたのは実質中枢からの左遷であり、それが本能寺につながった、
という意見もあったな。
>>97 それが一番現実的な説な気がするよ、中枢からの左遷
陰謀史観はちょっとなw
99 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/21 00:48:04
>>97 利家ならまだしも、秀吉や勝家クラスでも、信長側近に
「これ受け取ってくださいよえへへへへ。
ところで、あの件は殿にお伝えくださいましたか?
どうかよしなに、いい感じで処理してくださいよえへへへ」
って付け届け&媚び手紙だったらしいですからねぇ。
幾世代も下の、堀や万見あたりに媚び媚び媚び・・・
信忠世代になったら、
こういう古参の地域軍事&行政担当者はどうなったんでしょうね?
んで、光秀ですが、それほど”中枢”に噛んでないですよ。
中枢はやっぱり身軽な、側近官僚がやってたし。
光秀は畿内軍事担当しつつ、
顔が広いから公家にも付き合いがあった、というぐらいで。
その軍事担当地域が移動になったというぐらい。
領地召し上げ、の信長の意図は本当にわかりませんけど・・・。
なんのつもりだったんでしょうね。
100!
>領地召し上げ
これは跡付けじゃなかったっけ?
信忠は衆道趣味あったの?
信雄はあったみたいだけど。
103 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/21 22:53:00
>>99 領地召し上げはちと違う。
他の武将にも命じてるけど、
切り取り次第でその領土を与える約束。
基本的に、替地が手に入るまでは、
現領土は保証されとる。
大体、1年後くらいを期限にしてる。
>>102 戦国武将から衆道は切り離せないけど、
それがメインの趣味ではないと思われ。
後世の創作の部分が大きいだろうけど、
松姫との悲恋の逸話とかも残ってるしね。
104 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/21 23:05:39
武田滅亡後〜本能寺までの信忠の居場所はどこ?
岐阜?それとも武田残党狩り・北条に備えるために甲斐?
もし甲斐だった場合、川尻の立場って
甲斐1国を拝領ゲットしたのではなく
信忠留守中の城代くらいのモン?
>>104 5月上旬までは主に甲斐
甲斐を拠点に信濃の後片付けや武田&小山田の残党狩り
ついでに行方不明中(?)の嫁捜査?
途中岐阜に帰ったのだろうけど、また戻るって感じで
ほとんどは甲斐だったと思われ
ただ、上記のことをしていたとはいえ
なぜそんなに長く甲斐に住み着いてたかまではわからん
ちなみのその後はこんな感じ
5月14日に安土に凱旋
5月29日頃上洛
あと川尻は城代ではなく主で、その上が信忠
この頃の信忠の拠点はあくまで岐阜城だよ
106 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 16:22:09
どっちでも良いじゃないか
信忠だろうが信康だろうが、信長の野望で使えればそれで良し
二人ともそれなりに使えるから仲良くしてくださいよ、と
でもスレが終わっちゃうからみんな議論は続けて欲しいです
知らなかった歴史もここで垣間見ることが出来るしね
そういえば信忠って親爺に叱られて謹慎してた時期があったよね。
能にはまりすぎているって。佐久間信盛に対しても茶にふけりすぎって責めて
いるけどそんな目に余るほど惚けていたのか?
108 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 22:26:43
信長って礼儀作法を少しでも学んで欲しくて苦肉の策としてお茶をみんなに勧めたらしい
でも武将として茶坊主みたいにはならないで欲しかったのでは
ま、どっちの話ももっと武将らしくしろと
城山の南方に矢尽山という高峰がある。ここから城山の本丸が望見できるが、信忠が岩村城を攻めるに当り、
別将をしてこの山上から失炮を以て乱射したが城壁に及ばず、遂に失炮が尽きたので、城兵大いに笑い、矢尽し
山と云つたというので、後世その名がつけられたという。又別に城兵戦い出で谷に理伏したので谷伏山といつた
とも云う。
ばかですね。
110 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 22:53:45
岩村城がまともに落ちると思うほうが馬鹿。
行ってみ。攻めようがない・・・って思うから。
>>110 いや、別に落ちると思ってないが・・・。
その馬鹿に滅ぼされた連中の立場は…
本能寺後に信忠生存だったら織田家は取り敢えずひとつにまとまってたんかね。
114 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 23:39:05
信忠について研究した論文てどんなのがある?
115 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/23 00:26:40
>>113 表面的にまとまるかも知れないが、
重臣達の権力が増大して足並みが揃わなくなるだろうし、権力闘争も起こるだろう。
上杉・北条・毛利も健在だから、天下は取れなかったろうね。
謀殺なりなんなりで重臣達の数を減らせばいいじゃないの。
117 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/23 00:37:49
無理。
よければ元就死後の毛利。
悪ければ信玄死後の武田のようになる。
どちらにしろ急拡大は止まる。
三本の矢の逸話は信長こそがやっておくべきだった。
>>118 矢ではないが信忠謎の空白から復活後、
安土に三人呼ばれてなんかもらったらしい。
それでもあの様だから意味なし
>三本の矢
やったとしてもどうだろうね。
やっぱ両川と比べると信雄と信孝が異腹なのが祟ったんではないかと。
仁科盛信と松姫スレが、何時の間にか
三法師は信忠と松姫が密会してできた子だ!・・・スレに。
122 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/23 02:45:48
>>105 >なぜそんなに長く甲斐に住み着いてたかまではわからん
敗戦処理にそれぐらいかかるっしょ
親父は「勝頼殺ったから俺はもういいやばははーい。あとはやっとけ」
だから・・・
上州とか信州とか、甲州復興とか諸外交とか。
細かく処理してたらそのぐらいかかるって。
>>122 敗戦(←?)処理w
何のために河尻や滝川や森や毛利がいたのやら
124 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/23 08:45:35
小物じゃん。
「跡取り」ぐらいの奴が直接いないと、降伏するもののしてこないし、
住民だって長かった武田時代から脱却できないでしょう。
>河尻や滝川や森や毛利が
円卓会議開いて甲信の掃除や上州平定できるかな、、、
126 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/23 12:19:42
へ?
127 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/23 21:03:21
128 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/23 22:36:22
>>121 それ、なにか根拠があっていっているの?
129 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/23 23:44:59
>>102 当時は秀吉を除く全ての不精が男色してたと見て間違いない。
ただそれはあくまでほとんど「ゲイ」ではなく「バイ」だったんだけどね。
ゲイは細川政元や上杉謙信くらいの話し。
秀吉の他に家康も男色には興味なかったという説もあるが、
その子孫の綱吉、家光の男狂いは有名
「殿は男とばかり交わってお子が産まれない」と嘆かれた。
スレ違い失礼。
130 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/23 23:47:21
謙信は女色を断ってたから勘ぐられてるだけで
本当に男色の気があったかどうか分からないんじゃなかったっけ?
131 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/23 23:53:02
>>130 いや謙信が異常な男狂いで彼と親しい男が全て謙信の男色相手みたいな説が否定されてるだけ。
当時は男色なんてものは常識だし、そもそも男色は僧侶の間で女色の代用品としてもてはやされたものだからね。
信玄や政宗のように手紙のような絶対的な証拠が残っているわけではないが、
当時の慣習とか文化から考えて少なくとも謙信が全く男色をたしなんでなかったとは考えにくい。
あと謙信が「生涯不犯」だったというのも反論が多い説だ。
とにかく当時は男色なんてのは
一部の特殊な人物が趣味としていたものではなく、
ほとんどの武士や公家、僧侶などが「たしなみ」として当たり前にやっていた事。
ただ、その男色好きの度合いはさまざまだけどね。
男色をしなかった秀吉はその事で周りに奇異に言われていたという。
133 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/23 23:58:10
>信玄や政宗のように手紙のような絶対的な証拠が残っているわけではないが、
>当時の慣習とか文化から考えて少なくとも謙信が全く男色をたしなんでなかったとは考えにくい。
やっぱり証拠ないんじゃん。
134 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 00:02:14
>>133 まあね。絶対的な証拠という意味ではないね。
でも多分やってただろうね。
養子の上杉景虎の異様な厚遇ぶりとかも俗説通りの事情だろうね。
それに直江兼続も謙信の稚児だったという説もある。
136 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 00:03:57
>>135 そういうこと言ってるから腐女子は嫌われるんだよ。
自分の願望と現実をごっちゃにするなよ。
137 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 00:06:13
謙信のホモのソース
138 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 00:07:20
139 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 00:09:16
スレ違いになるが、日本において男色が異常事とされるようになったのって、
いつからなんですかね?
140 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 00:11:16
>>139 明治以降。キリスト教の西洋文化の影響で。
とはいえ、近年まで海軍などでホモは盛んであった。
142 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 00:37:02
143 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 13:10:36
信忠のスレなのにゲイの話になってますよー
薩摩隼人が男色大好きっ娘だった。
江戸時代に男色が廃れつつあったのがまた持ち込まれたそうな。
145 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 21:21:27
>>144 確か薩摩と会津が美少年の取り合いで大喧嘩して
両藩の対立が始まったんだよな。
謙信と三郎景虎は某コバルト小説ヲタ腐女子とかの願望のようにしか思えない。
だが河田長親は状況からみて謙信と男色関係があったようにしか思えない。
信忠は女好きなんじゃないの?
キリシタン入信を勧められたとき、一夫一妻(タテマエではあるが)が信条と聞いて、
「えー、三人ぐらいダメ〜?」などとほざいたとかいう記憶が。
147 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 23:27:53
秀吉も同じ理由で断ってたなw
149 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/25 10:17:22
ってことはある種の「パターン化された巷談」かもしれないね。
割と良スレだなぁ
何言ってんの!
謙信は、そんな事はしてないぞ
イイ加減な事言うのヤメレ!!!!!!!!!!!!
馬鹿
>>128 三法師の母は松姫なんだよん説・・・。の根拠ですが
秀信子孫?出家後の関係者?だという家に残された文書?
「西山家文言覚書秘伝録」というのが根拠だそうです。
三法師が生まれた頃の松姫はどこにいて何をしていたのか、
それを確定する記録なんて無いんだから
信忠と尾張で密会して子作りしていたことを
否定することも「できないでしょ」というご論説です。
可能性と実現性はイコールではないの典型だな…>否定する事もできない
154 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/25 20:48:31
科学哲学では、否定できない事ほど実現性は低いと仰っております
ポパーさんでした
>>152 悪魔の証明もいいとこ。
あるいは、立証責任のおしつけか。
156 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 00:00:04
なんかヤバイスレになってない?
俺は時間がかかっても統一して織田幕府ができたと思うな!
信長から正式に家督を譲られ、能力も親父ほどでないにしても問題なし
ほんとに松姫の子ならさすがに当時の記録に残ると思う
158 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 00:07:09
>>151 まあ
「謙信は男色なんてやってない」という主張も
「謙信は景虎とラブラブだった」という主張も
どちらも証拠がないし個人の願望の自由だと思うよ。
ただし、歴史学とは司法の世界みたいに「疑わしきは罰せず」ではないとだけ言っておく。
司法の世界ではどんなに疑わしくても決定的な証拠が無ければ無罪という事になるが。
そういう理屈を歴史学に当てはめると研究も立説もできなくなり歴史学という学問自体が成り立たなくなるからね。
謙信の男色の絶対的な証拠がない=謙信無罪という事にはならないのよ。
159 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 00:16:10
>>156 それは俺もそう思うよ。
ていうか信忠って、むしろ優秀だというイメージがあるけど。
ただ、最後にたとえ恥をさらそうと必死に逃げなかったという、あきらめの良さはマイナスだなあ。
なんか、優秀だけど爽やかすぎるというか、執念とか汗くささとかを感じさせない人物だな。
天下太平となってからの二代目が実現してたら秀忠とまったく反対の存在になれてたとは思う。
161 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 00:46:07
>そのあたりが、二代目の二代目たる所以でないかな。
北条氏綱とか徳川秀忠とかすごく好きだな。
秀忠は隆慶一郎のおかげでアンチ増えますた。
まー悪名を家康が一身に背負ったとは思うけど。
>>157 コピペですまんが日本史板から
>三法師含め信忠の子の母ははっきりしていないんだな実は…
状況推測上そうなっていると言った方が正しいか
信忠にせよ秀長にせよ織田信長の嫡男・嫡孫にしては
見事なまでに記録があまりない、意図的に削除されてる感じもある
研究者達の中には、後世の権力者達がそうせざる負えない何か複雑な
事情があったと考えている人もいて、その一説に松姫とのことがあるらしい
それが正しいなら、当時からなんらかの噂になりつつ、
どこかしら記録が残ってるものです。
妄想は寝てるときにしといて、ここに書き込まないで下さいよ。
166 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 11:47:59
>>159 あきらめたってのは結果論でしょう
信忠のいた妙覚寺って本能寺のすぐ近くだよ
周囲の状況も正確に把握できないのに
とりあえず逃げるという訳にはいかないと思いますよ
>>163 隆慶一郎って、「個人的な恨みでもあるんですか?」ってくらいに
秀忠の扱いが酷いよな。
作品に、作者の人物の好き嫌いが出るのは仕方ないことだとしても。
家康の悪の部分を、秀忠に押付けているような。
確かにヒドイよな
169 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 15:26:55
利家の扱いの悪さといい、隆慶一郎は実直といわれる人間が嫌いなのか?
170 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 15:41:18
>>169 それはあるかも。共感出来なかったんじゃないかと。>実直といわれる人間が嫌い。
まぁ利家みたいなチャッカリ者のどこが実直かとは思うが。
ところで信長が本能寺で謀叛を知った時、
思わず「敵は城之介(信忠)か?」と口走ったつー話が載ってる史料って何だっけ。
信憑性あんの?
晩年、能に懲り杉が原因で折檻くらったっていうけど、ビーフが公記に書かなかっただけで、
もうちっと深刻な父子の対立があったんじゃないかと見る向きもあるらしいね。
だったらなかなか面白い若殿に思えて来るんだが。
>>170 『三河物語』。他の史料にはなかったはず>上之助が〜
172 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 16:06:39
>170
もし本当だったとしても、
当事、京でそれなりの部隊(と言っても千人程だが)を率いていたのが信忠だったんで、謀叛が起きたとき、口に出たんじゃないかな。
たしかに、信長からすれば絶対安全になった京で突然兵に囲まれれば、
すぐそばで軍を率いていた人物の名前が出てくる(この場合は信忠)
のは無理ないことかと。
174 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 18:38:10
>>167 そうかなあ?
「悪役」にされるという事はある意味かなり評価されてるって事だけどね。
秀忠なんて他の作家の間では全く無性格で印象にも残らない
居るのか居ないのかわからないような脇役にされてるのに対して、
隆慶の極悪秀忠は凄く魅力的で印象に残る。
魅力的な悪役ならいいんだけどな。
見方の違いもあるだろうが、隆慶一郎の秀忠は嫉妬深くて陰険で執念深い
小人物に見える。
特に『影武者 徳川家康』と『捨て童子 松平忠輝』は酷かった。
>>164 165の言うことに同感。
松姫という存在が当時の権力者たちにとって脅威あるもの?
穴山がらみとはいえ、家康は下山殿・お都摩の子に武田の家名を
継承させ、見性院の保護だってしているし、
衰退して何の実権もない織田嫡流が武田の血をひいていることを
史料文献から抹殺する必要なんて無いような気がするな。
陰謀史観だねえ
>>171 三河物語の意図は
・”織田信長”神格化否定
・家康vs信康の件があるのでry
ではないかと問題提起してみる。
実際は史料で書かれている以上に凄かったんだろうな。
そんなに親子の対立が激しかったのなら、史料も他に片鱗くらいは残ってる
ものと思うけどな。
対立がひどかったら本領と織田家家督を譲り、また「天下の儀」も譲ると公言しないと思うが
182 :
170:05/02/27 00:01:03
>>171 レスありがd。そうそう「三河物語」でした。
178も言ってるように信長落としまくりな彦左の爺さんだったのね。元ネタは。
で、確かに本当に深刻な対立だったら家督は剥奪されてたろうね。
翌年には安土に呼ばれて三兄弟そろって脇差もらっているし。
ただ、家督相続したとはいっても何につけ実質信長の思い通りにせざる得ない状態で、
総大将を任された武田攻めにしても、攻撃のタイミングにまで
重臣を通して口はさんで来るオヤジのことは微妙にモニョってたんではないかと思うんだわ。
>>182 >総大将を任された武田攻めにしても、攻撃のタイミングにまで
>重臣を通して口はさんで来るオヤジのことは微妙にモニョってたんではないかと思うんだわ
へ?
信長は武田攻めの時攻撃に関してはなんも指示与えておらんのだが…
攻撃タイミングってどの攻撃だよ?
高遠城攻めなんていう寝言はいうなよ
>>182 モニョりはしてもそれを態度には出していない。
そのあたりが、人によっては親に従うだけのボンクラと見えるんでしょうが。
185 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/27 00:28:12
>183
信長が書状で、信忠の老臣に「信忠は若いから、功名を焦るかもしれんといかんので、俺が行くまで総攻撃は待て」って指示してるよ。
>>185 それのどこが攻撃指示なのかと…
河尻通して出した書簡は信忠通じての武蔵宛て
態度に出さなかったっていうがその注意を見事に無視しとる
>>186 甲斐に入ってから一番必要とされるはずの勝長を
勝手に上野攻略に行かせもいるしな
>>185 血気盛んな青年武将の息子にそういう内容の書状を書く父、
別に珍しくないような。
信長は、そのことを咎めだてたりしてないしな
190 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/27 03:08:02
>>183 182だけど、確かに攻撃のタイミングって言い方は適切じゃなかったな。
微妙にモニョだったんでは、と思ったのは、信長が滝川にも河尻にも書状を送って、
とにかく自分が行くまでは信忠軍の進撃を止めようとしていたのに対し、
信忠は高遠落として武田一族の殲滅命じて上野攻略まで指示、
結果信長の意思を無視していることからそう感じた。
信長はその独断専行をむしろ喜んだろうと思ってるし、
だからこそ「天下の儀、御与奪」もこの時にあったんだろうしね。
信忠は二代目のボンボンで良い子なだけ、なイメージも割とあるみたいだから、
この武田攻め辺りの信忠は、武将としても、父信長に対する気概の点でも、
評価し得るんじゃないかと思ってるのだが。
191 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/27 03:08:54
上州攻略にこそ、勝長はとても必要ではないかと感じるのですが。
勝長は地域での名声というか評判もあったろうし。
地理感もある、知人もいる、名は通っている、一応養子だったという大義名分はある。
192 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/27 03:11:16
>>190 お前が信忠ならモニョる
信忠がモニョったかどうかはお前にはわからん。
わからん(史実にない)ことを評価点に加えて妄想するのは
同人腐女子の特権。
それだけのこと。
信忠は猪突猛進型。
父親が心配して目付け役に手紙を書くぐらい。
岩村城攻めでは無理な攻め方で城兵に笑われ(信長が出て行って兵糧攻めに)
高遠ではたかが敵の拠点一つ攻めるのに先頭に立ってしまう。
さて――
勝頼という男がいる。
信玄は勝頼をこう評した。
「粗忽だが何故か城が落とせてしまう」
勝頼もまた自ら城攻めの先頭に立つ男。
結論――
信忠と勝頼は似たもの同士である。
194 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/27 03:32:34
>>193 秀忠も入れていいよ。
ただし秀忠は「城が落とせなかった」ですけど(笑)
そして共通項
・どっちも親父が凄過ぎる
・おかげで活躍の機会がない
・つまり経験不足
・そして「若い」
しょうがない。
195 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/27 03:44:35
信長の一番の長所は、自分が必ず生き残った事。
羽柴秀吉も、信長を評して、「たとえ味方が10人しか生き残らなくても、
その10人の中に上様は必ずいる」という意味の事を言っている。
むろん、「海道一の弓取り」と言われた今川義元を、反面教師にした
のだろうが。
>>159 全くその通りであって、信忠は、父親の一番の長所を受け継がなかった。
>>166 信長は、朝倉攻めの時、浅井とはさみうち状態になったが、無事脱出
している。
結果論というが、より困難な状況で脱出に成功した父親より、劣って
いるのは事実。
196 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/27 06:18:42
>信長は、朝倉攻めの時、浅井とはさみうち状態になったが、無事脱出している
あの時も、なにもかもを殴り捨てて逃げてるよね。
ただしその前に
「こうなったからには一泡吹かせて潔く」
とも発言してませんですっけ?
それを周囲が押しとどめて、可能性のあるルートを発見して(←これ重要)
んじゃ逃げるか、となったときの
投げ捨てっぷりはかの逃避行の劉備もかくやと・・・
前レスにあるように、本能寺時点での信忠は
現状把握として
・とにかく手勢はない
・とにかく周辺を囲まれている
・囲んでるのは用意周到な明智光秀
というところ。
まさか勢田・摂津方面がら空きとは推測できないでしょう・・・。
そしたら「潔く」と思う信忠は、親父並だと思いますよ。
「あの親父ですら逃げ切れなかったような状況かぁ
じゃしょーがねぇなぁ。お前ら、討ち死ぬぞ〜」と。
そこで”劣ってる”という評価には着地できないでしょう。
しかしなぜ親王を逃がした・・・。これが悔やまれる。
やんごとなき方を楯にして生き延びた、と後ろ指指されたくなかったんだろう
当時の武士は忠義の概念こそ薄かったが、面子名誉は重んじたからな
妙覚寺は本能寺の変直後は囲まれてませんよ
本能寺が焼かれた後に、信忠が篭った二条御所が囲まれただけで
>>191 養子とはいえ、人質だった勝長が知人はいたとしても
果たして上州の連中にまで顔が利いたり、地理に詳しかったかは疑問
人質どうしの付き合いとかはあったかもしれないが、
さすがに上野の地理に詳しいと思えないな。
甲斐ならまだわかるが。
201 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 00:00:26
谷口克広氏の『信長軍の司令官』を読んだ。
信忠もだが、信孝も実際には評価が高いというか活躍されて期待されてたんですね。
そういった兄弟仲というのはどんなもんだったんでしょ?
202 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 00:21:23
>>201 次男信雄と信孝は犬猿の仲。
ちなみに信孝の方が本当は数ヶ月産まれるのが早く、
本当は兄なのだが母の身分が貧しいの信雄が兄ということにされた。
信雄の方は信長の実質正妻の吉乃の子で嫡男、信忠の実弟という事のみで厚遇を受けたが
信孝はその優れた能力で信長に気に入られてた。
そんなこんなで二人の中は最悪で秀吉はその憎しみを利用してシズガタケで信雄に信孝を殺させたとか。
それ以外はさして情報がない。
まあ、そういう意味でも、信忠の死は織田家にとって悲劇だ罠。
信忠が生き残ってれば、少なくとも、親族連中の取りまとめは出来たんじゃないか。
204 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 01:37:44
>>198 そこで逃走せずに、二条城に入った理由は・・・と考えるとやはり
「光秀だったら、勢田や山崎、宇治とか街道は全部押さえてるんだろうなぁ。
逃げるのは無理だろうなぁ。俺でもそうするもんなぁ」
と判断(推測)したからでしょうね。
>>199-200 尾張からやって来た連中よりは
「○○?ああ、なかなか切れ者って聞いてます」
「○○は・・・あんな信じないほうがいいですよ」
「そこ曲がると妙義方面」
ぐらいは<勝長
>>204 ぶっちゃけ完全包囲でも逃げるだけなら可能だろ。荒木村重みたいにw
京都にゃ城壁も何も無いんだから平民の服装で比叡山方向にでも逃げるとかな。
武田勝頼みたいに再起の可能性ゼロならまだしも
近江でも堺でも伊勢でも、味方になる勢力がまだわんさといる段階で・・・・
>>204 >尾張からやって来た連中よりは
それいうなら美濃とか言ってみるテスト
>>204 人質は基本的に甲府にずっと置いておかれるはずやで。
道案内にもならんわい。
しかも元服したのいつだ?
208 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 03:40:08
>>205 キミが包囲軍だとしたら、信忠(&信長)が
>平民の服装で比叡山方向にでも逃げるとかな。
と思いませんか?
なら警戒・検問するでしょう?厳重に。
「俺が光秀でもそうするよなぁ。
おまけに俺より用意周到な光秀だもんな」
と、信長も信忠も思ったでしょうね。
特に信忠なら
「あの逃げの達人・親父が逃げられなかったなんて!
・・・そうだよね、光秀だもんね。そつなく固めるよね・・・」
・・・実は検問してなかったんだよ、というのは後世の俺らから見た結果論。
「検問で引っかかって首斬られるなんて・・・ぜってー首は渡さんもんね」
なんて似たもの親子・・・。
209 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 03:57:08
>>207 勝長、人質というにはあまりにもなんつーか自由に・・・
というか本気で武田養子&一武将として扱われてた、という説もあります。
上杉の御館の乱の時、武田の援軍(名代)として景勝方に使わされ、
かなり頑張ったという巷談が・・・。
んで景勝が「こいつくれ」と言ったけど勝頼は「やらん」と言ったとか言わないとか。
それはともかく、
信長の元へ帰ってきてからも、即座に犬山城主です。
つまり信忠の下での一武将として扱われたのでしょう。
(見た目および当時噂になってた略歴が、犬山城主
&信忠配下の一軍を率いるに相応しい、と判断されたからでしょう?)
二条城の時も宿舎が一緒で、最後まで一緒に立て篭もって
死んでますよね。
上州に行ったのは織田勝長に団忠正に森、あと誰でしたっけ?
後者二人は信忠配下の「次世代織田家の中枢候補生」ですよね。
つまりそれと同じぐらいの扱いor信忠の名代として、また
武田事情に詳しい人として、上州派遣は妥当ではないでしょうか?
・・・でも前述ほど武田に遇されていたとしたら、なぜころりと織田家に
忠義でいられるのかはちょっと謎ですけど。
信長&信忠も、なぜそこまで簡単に信じられるのか・・・。
(ま、信長って結構甘いんですけど。)
とにかくもったいない存在でしたなぁ、と。
210 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 04:04:19
人物評なんぞ降人にさせりゃいいんじゃねえの
勝長を上州に行かせたのは、信忠なりの気遣いだろ
それでなくとも、自分含めて高遠でつらい思いをしているのだから
追い討ちかけるようなことはさせたくなかったとかだろうな
実際、逃げ場があったのかどうかも微妙だが。
明智軍が直に押さえて無くても、便乗組みは居たのでは?
その後の展開で、明智不利で、すぐ離れていった香具師らで、
当日は協力していた勢力はあると思われ。
>>208 逃げられれば味方はいくらでもいるのに
諦めが早過ぎるのは凡将そのものだな。
その凡将にぬっころされた武田は…
>>212 >自分含めて高遠でつらい思いをしているのだから
そういや、信忠って高遠城落城後に敵味方双方の為に法要してるんだってな
二条城でも親王逃してるし人間的にはいい奴だったんではないか?
217 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 14:19:15
>>214 >>213を読め
>>213 落ち武者狩りが怖い。
あいつら何千何百人とはいかないまでも、数十人単位で
ゲリラ戦でやってくるらしいし。
ただでさえ信長一味は恨み買ってるし・・・。
実際、明智光秀を討ち取ったのは落ち武者狩りだしね。
信長もどっかの戦場で「ウザいから」と落ち武者狩り集団を
掃討させてませんでしたか?
そんなことより1よ、ちょいと聞いてくれよ。天下の行方とは関係ないけどさ。
昨日、本能寺に行ったんです。父上に挨拶しに。
そしたらなんか公家がめちゃくちゃいっぱいで入れないんです。
で、よく見たらなんか前関白太政大臣近衛前久も来てて、祝辞を述べてるんです。
もうね、アホかと、我御料かと。
お前らな、祝辞ごときで普段から陰で悪口言ってる父上に頭下げてんじゃねーよ、ボケが。
公家なんか眼中にねぇんだよ、父上は。
なんか吉田兼和と土御門久脩もいるし。こんなのが吉田兼好と安部晴明の末裔だとよ。おめでてーな。
よーし麿右府殿の西国平定の戦勝祈願するでおじゃる、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、西国を平らげた暁には父上と共に禁裏を粛正するから覚悟しろと。
今の禁裏ってのはな、もはや腐りきったものなんだよ。
形ばかりの権威や慣例を掲げ、時の権力者にすがって政(まつりごと)には介入しない。
都合の悪い相手は朝敵にして我が身を守ろうとする、そんな雰囲気が父上に嫌悪されてんじゃねーか。女子供みたいな輩はすっこんでろ。
で、父上との会談が終わって妙覚寺に戻ったと思ったら、貞勝が、明智殿謀反です、とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな光秀、天下統一を目前にして世を乱してんじゃねーよ。ボケが。
得意げな顔して何が、敵は本能寺にあり、だ。
お前は誰のお陰で国持大名になれたのかと問いたい。問い詰めたい。半刻弱問い詰めたい。
お前、後世に謀反人の名を残すだけちゃうんかと。
父上救出が無理だった俺から言わせてもらえば今、馬廻り衆の議論内容はやっぱり、
二条御所へ篭るか京都からの脱出か、これだね。
明智の大軍をかい潜って脱出して再起を図る。これが後世の自称歴史通が考えるであろう机上の作戦。
俺の元にいる馬廻り衆はわずか。そん代わり士気だけは高め。これ。
でも、落ち延びる途中で名も無き者の手にかかれば織田の名に傷がつく。これ最悪。
しかしここで潔く自害すれば織田の天下は一代限りで終わってしまう危険も伴う、諸刃の剣。
源五には薦められたくない。
まあ三法師よ、生き延びて織田家嫡流の血だけは残してくれ。
前田玄以に連れられて三法師が逃げれたんだから、信忠だって逃げれると思う俺は素人?
勝長はどのような人物か不明だね
犬居城は池田恒おきの所領で娘と婚姻して
城主になったらしいね
勝長・・・。
戦国群雄伝に出てたような気がするな。
よく覚えていないが。
>>219 信忠が篭ったからこそ逃げられたんじゃないかな
>>220 またここでも恒興か・・・
恒興厨ウザイ
まあ、結構な趣味人で、松姫と文通で遠距離恋愛もしてたロマンチスト。
かといって、文弱なボンボンではなくて、
実力主義の織田家中にあって、大任の一方面軍の軍団長を大過なくこなす器量と才覚を有し、
先陣を切って戦う勇猛さも備えており、領国経営に遅滞等は見られない。
戦国大名三代目としては、充分に合格点では?
何をしても生き延び、自ら覇権を握る・・・というハングリーさに欠けるのは、
物心つくころには、織田家は既に大勢力となっていたのだから、仕方が無いでしょう。
下の方から這い上がって来た信長・秀吉・家康たちにとっては、
天下を握るのは、夢であり、自分の選択の結果でしょう。
しかし、天下人の跡取である信忠にとっては、
偶々、そういう状況に置かれたに過ぎない訳ですから、
果たして、地位や覇権に執着があったかどうか、結構、微妙かなと。
松姫と遠恋してた証拠の手紙とか残ってるの?
あったこともないのに文通のみでつながってるはずない。
>>218 聞くには聞いてやったが
俺にどうしろと?
228 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 23:53:35
>>224 自分色を出して行動する直前に死亡。
なのでどうにも・・・
信長、半隠居方向に動いてたっぽいですよね。
「人生五十年。ここらで第二の人生を」ですか>信長
>>224 信忠の場合、実力主義は関係ないんじゃないかね。彼は実質的な嫡長男。よっぽどの
愚物で信長から見捨てられない限り、後継者としてある程度の立場を与えられるのは
当然。もちろん、信長はそうなるように育てただろうし、信忠もそれに応えるだけの
才能を有して期待にみごとこたえたのだが。
実力主義でのし上がった信長の息子となると、やはり信孝じゃないかな。
織田長益も二条御所で「戦った後」に前田玄以とともに逃亡したらしいな。
逃げれたんじゃないの?やっぱり
介錯した鎌田新介も、逃げ出してたらしい
奴はその後、朝鮮出兵で半島に行き帰国できず消息不明
実は逃げ出せない事情があったとか言ってみるテスト
内部反乱とか…
233 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 08:11:35
鎌田は当時ですら卑怯者呼ばわりだからねぇ。
>>230 信長・信忠と比べると「面が割れて」なかった
んじゃないのかね。
雑兵は顔なんか知らんだろ
やっぱりプライドの問題じゃねえの
236 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 12:34:57
雑兵でも御大将&その嫡男の顔ぐらい知ってるかと・・・
237 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 13:16:37
自分が命を賭けて守る香具師の顔くらい知らない方がおかしい
見ず知らずの人間になど命張れんよさすがに
おおまかな背格好位は知っててもそれと見て分かるほど知ってるもんかな
顔立ちなんかがある程度は似てるであろう有楽は逃げおおせてるんだし
長益の首なんてどうでもいいからだろ
240 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 20:02:58
長益は信忠に「もダメ、切腹した方が潔いよ。俺も一緒に腹切るから」って勧めておいて、逃げたんだよなぁ・・・。
前田は、前田自身が言うには信忠に子息を託されたんで逃げた、と言う事だけど、どうだろ。
しかし疑問なんだが、なんだって光秀は隊を二つに分けて、信長と信忠を同時に
包囲しなかったんだ?
実数は不明だが一万以上。それが全部本能寺に向かったのか?信忠宿舎(忘れた、
どこだっけ)も京都所司代邸(信忠に急を告げたのは村井だよな)も朝廷(極端
な話、信忠が御所に逃げ込んで立て篭もったらどうするつもりだったのやら)
も抑えずに。計画された(黒幕のいる)クーデターだとしたら杜撰極まりないのだが。
>241
そのあたりの事もあって、近年、朝廷黒幕説他いろんな説が喧伝されてるけど、最近は光秀単独犯説もまた見直されてるみたいだね。
>241
俺はそういう穴だらけなところを考えるに、某大河ドラマの「ノイローゼ説」が妙に説得力があったよ。
当時見ている分にはギャグっぽく感じたけど。
名を惜しんだんだろう
一流の武将とはそういうものだ
長益の落城回避能力は天下随一w
名をオシムにしても信忠が生きてたら織田家が
家臣たちに簒奪される事も無かったかもしれないと
思うと悔やまれるなあ。
京都から逃げられさえすればいくらでも再起できるのに
惜しいなあ。
堺には友軍がいたっていうのに。
船一艘調達できりゃストレートよ。
二条室町の妙覚寺、室町を上る下がる、どっちなんだろう。
碑とかは建ってるんだろうか。
くぐってもわからないし、歩く地図にも載ってないんで
近辺を散策したことのあるお人、教えて下され。
248 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 15:47:07
>>249 ありがとうございます、参考になりました。
京の横大路の通り名、丸竹夷二押御池・・・は覚えているのですが
洛中の範囲の変遷や太閤お土居のこともあり、
二条室町といいながら、戦国当時はどの辺りをさすものか・・・
なんて歩く地図を穴があくほど眺めてました。
(二条殿御池跡や二条址跡の碑は記載してあったのですが)
↓
だから御池通りだったのか-?
248さんもありがとう。
示してくれた上京の妙覚寺ですが、本能寺変で焼失後に
移ったのか・・・とも思ったのですが移転等の由来が
見つからなくて・・・。
本能寺は空也堂近辺から移転してるけど、信忠宿舎妙覚寺は
廃寺になってしまったんでしょうかね。
今度京都に行くことがあったら、御池通りのあの辺から
元本能寺の方角を眺めることにしよう。
光秀が手を回しているだろうから逃げても無駄だ
↓
二条城に籠る
↓
戦闘
↓
前田玄以その他を逃がす(!)
↓
しぼんぬ
言ってる事とやってる事がどうも噛み合わない気がするぞ・・・・?
>>251 狙われてるのは、信忠だろ。
本能寺でも、侍女とかは脱出させとる。
二条御所と二条新造御所の違い・・・とかも良くわかった!
感謝です。
その状態で捕まれば恥なんてもんじゃない罠
平治の乱の後白河上皇
そういえば、いたなw
どうだろうね?
信忠なら再起jは充分に可能だったはずだから
恥を忍んで女装でもなんでもしてくれりゃ
せっかく逃がした三法師が家臣にいいように利用されて
掴みかけた天下を簒奪される事も無かったと思うと
少し残念だな。
男の美学に生き、そして死んでいったってのも
カッコイイには違いないんだけど。
生まれついての天下人(に近い位置に居た者)にそういう野心は少ないと思われ。
そういうバイタリティは、良くも悪くも成り上がりに固有の性質じゃないかな。
うんこ
260 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 22:01:06
ヤスケはどうなったんだ?
>>260 はっきりとは不明。
捕らえられたが光秀に「黒い肌した物体なんて畜生のような物だから
斬る価値も無い捨て置け」と解き放たれたとも、戦死したとも言われている。
ただその後の記録などにはまったく登場しない。
武田攻めの後に、信長が親馬鹿丸出しで信忠を誉めちぎった
手紙がなかったっけか