,r' ヽ、
,i" ヽ、
i ヽ ヽ、
i ヽ ▲ヽ、
/i 丶 ▼ヽ、
/ i i ヽ、
. / __ノi i /⌒i ヽ、
l. `iノ / / | ヽ,,
| ,,,|./ ``´.丿`丶, 丿
. l. |``''' / '、 ノ
| ,___l |、. `'、 ノ
. | ノ | `'、 , '"⌒`'"""
| _/ |` ‐、``''"´l
| / ヽ-、 _ ̄`|
3 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 01:59:20
堂々の3
4 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 02:27:45
4様
5 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 07:01:06
黒板 5朗
6 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 15:38:34
東軍と西軍の兵力って、どれくらい?
7 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 15:40:43
東軍104000西軍95000
東軍俺一人
西軍俺以外の地球の奴ら全員
9 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 15:58:20
当初はとても勝ち目が無い戦だった。
しかし三成との友情で西軍に参加する武将がしだいに集まりはじめる。
感動に満ちた西軍。
友情だけではない
このままいけば家康の専制がますます激しくなるのは確実だから
それを阻止したいというのもある
毛利なんかはそうだろ
あと義とかね
11 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 16:32:03
そうだね、西軍はそういう所がイイ!
でも、仁義じゃ天下は取れないってことは、
秀吉が証明しちゃってるんだよねぇ…。
彼自身、織田家を乗っ取って天下を取った人だからさ…。
この板の1001ってホント(・∀・)イイ!よな。
13 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 17:04:44
ひであきが裏切らなきゃ勝ったわけだが・・・(^-^)
14 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 17:13:05
>>13 秀頼の黄金使えば勝ってただろ?
西軍主体の三国志演義みたいなの作って欲しいな〜
15 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 17:15:17
魏軍=東軍
蜀軍=西軍
では呉軍は?
三成が秀秋を狙撃すれば勝っていた!
>>9 >しかし三成との友情で西軍に参加する武将が を
↓
しかし三成憎しのあまり家康に与する豊臣恩顧の武将が に変えたほうが
適切に関ヶ原という戦いを本質的に表現できるだろ
9月15日の戦いでは西軍が敗走を始めるまで、家康は自分トコの軍勢を全く損じること無いまま
代わりに福島だの黒田だの豊臣子飼いの武将が戦ってくれて、
おまけに決定打をもたらしてくれたのは豊臣一門の小早川なんだから
どんな嫌われていようが、そりゃ何人か(たぶん大谷とかのこと言ってんだろうが)は三成と親しいのも居るだろ
でもって、どうせ次には三成が嫌われてた原因も、彼が潔癖すぎたからとか、
どこまでも都合のいいことばかり言い出すんだろうな
もう、”三成を賛美するスレ”にタイトルを変えたら?
つうか秀吉の遺言が有り得ないよな、加増無しでどうやって家臣の心を掴もうというのか。
20 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 17:25:39
三成が総大将だったのが悪かったのでは?
>>18 それも事実だし否定はしないよ。
ただ、西軍が三成との個人的なつながりで参加した武将ばかりなのも事実。
>>18 つーか、逆にお前さんが嫌われた理由を書いてくれよ。
実際悪評はいくらでもあるんだから、
で、なんで賛美するのか分からん位書けんのか?
ほんと創造力ないやっちゃなあお前。
>>18 一応補足する
井伊と松平は投入されているね
>>21 ばかりということはない
そんな論法が通じるのなら、東軍だって個人的つながりだ
25 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 17:34:27
26 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 17:34:48
,、_,、
l ゚(・)゚l クマ−!
lづ"/)
.l/),,)
l^r─'^、
キ' ゚r。;゚ ミ クマー─!
〈_つ ∀,、ヽ
| ,、 く (_ノ
し′) )
ヽ_) n_____n
ノ ' ヽ
i ● ●l、 クマ───!
,メ、. (__●.) ヾ.
∠ニつ .じ' /ソ
| /
| /`> .>
U ヽ__∩___∩
| ノ ヽ
/ ● ● | クマ────!!
| ( _●_) ミ
彡、 |∪| 、`\
/ __ ヽノ /´> )
(___) / (_/
| つ /
| /\ \
| / ) )
∪ ( \
\_)
>>24 東軍もそうだというのなら、別に否定する気はないよ
俺は、家康という巨大な敵に挑む三成と、それに友情で参加した男達が大好きだ。
ただそれだけ。
28 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 17:41:32
そんなことよりちょっと論点を変えて三成が切腹したら家康は一人になるから
豊臣の天下だったのでは?
>>27 友情だけではないんだが?
そもそも友情だけで、自国を滅ぼすのは、あまり褒められたモノではない
>>20 名目上の総大将は毛利ですよ、実質的に仕切ってたのは三成公ですが
でもダメダメ
三成が決起しなきゃ家康が思いのままに振舞うとこだったんですから、他に誰がやるというんですか!
>>27 そうです
三成公は私心なく、ただひたすら大恩ある豊臣家のためを思えばこそ、家康の専横にたまりかねて決起したんですから!
ここは巨悪に敢然と立ち向かった悲劇のヒーロー三成公を讃えるスレです
それ以外の書き込みは我々の気分をこわすので自重してください
31 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 17:43:12
三成って、絶対に人間的魅力に溢れたいい香具師だったと思うね。
加藤、福島は人気者の彼に嫉妬してただけ。
32 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 17:43:55
三成にはそれなりの能力と人望があったのだろう
しかし軋轢を生んでしまったことも事実だ
三成は職務を忠実に真摯に実行した
この点に関しては何ら問題がないし、むしろ高く評価すべきだ
しかし不幸なことにそれが遺恨を生む結果になった
18=30かよ
37 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 18:19:38
東軍が負けていたら家康はダメダメと言われたんだろうな〜
38 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 18:23:58
家康よりも、寧ろ江戸中納言のほうが駄目駄目言われたと思う。
39 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 18:34:42
演義みたいに手を加えまくった「石田三成」を大河ドラマでやって欲しい!
東軍が負けていたら、××なら勝っていたというのが多数
41 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 18:36:09
手を加えまくった家康もいいかも
100%善という設定でw
43 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 18:45:07
これで我慢しな
つ【決戦】
>>42 俺は山岡の小説に出てくるような家康は好かん
やはりあの老獪さこそ家康の魅力
まあ悪の家康が天下を取るというのがリアルでいいんだが
何となく空しい
しかし完璧に善の彼を見るのも空しいがw
47 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 19:16:01
どちらも大義名分は豊家の為、だからな
結局、権力闘争だろう
ところで、輝元、秀忠が加わったら関ヶ原の容量パンクしない?
蟄居させられていた三成には
このままでは自分は表舞台に戻れなくなるという焦りがあったんだろう
だから豊家のために家康を討つという口実で挙兵したと
>>49 つーか、すでにパンク済み、
家康の3万を投入する場所想像つく?。
52 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 19:42:08
>>51 3万を丸まる投入するなら、
どこかの部隊に引いてもらわなければならんだろうね。
53 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 20:36:31
輝元が関が原に加わるなら、輝元が総大将になるの?
豊臣の弱みというか、非正当性は、その権力は簒奪したものという点にある
まあ権力なんてそんなものか
であるとすれば、次の実力者が権力を簒奪するのは歴史の必然だ
>>53 そうなるでしょ
ただ宇喜田の場合と同じで、実質の総大将は三成
56 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 21:42:49
>>51 全軍,一列渋滞で叩き合えばなんとかなる。
57 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 21:50:24
>>55 輝元が加わるなら、家康と同じ3万を率いるのかな?
>>57 大坂の留守部隊は4万超えるよ。
最も増田とか親衛隊含むけど。
59 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 22:06:22
関が原では一見して石田三成が負け加藤清正、福島正則が勝ったが
こと血筋まで考えてみれば
加藤清正、福島正則、ついでに小早川秀秋はお家断絶した反面
石田三成の一族は青森の大名・津軽家として続き
三代将軍家光と徳川御三家の筆頭・尾張徳川家も石田三成の家系とは暦とした姻戚関係なのだから
最終的に三成の家の方が徳川の天下で成功しているのが皮肉。
ちなみに秀吉の甥の家系は昭和天皇生母の栄誉を担っている訳だから
今の皇室も豊臣家の遠い縁者に代わりはないわけで・・
60 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 22:32:53
正しかったのは三成
強かったのは家康。
強くなければ生きていけない。
豊臣も泥棒だし、徳川も泥棒
泥棒から泥棒が盗んでも悪かったとは言えない
家康のやり口は汚いが
62 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 22:55:12
>>58 4万のうち3万を輝元が率いるのかもね・・・
>>61 泥棒の家系が実力以外の正当性があると思い込んでる所が駄目駄目
むしろ史実でよくあれだけついてきたもんだ驚くよ、各々打算はあったとしても。
あの時点ではどちらが正当性で上ということは無い。
西軍は三成と中間達がうまいこと毛利を引き入れて、
大大名家康とそれに媚びる連中と戦ったというだけ。
家康は堂々と秀吉の定めを破りまくってるけどな
対して三成は墨守状態
66 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/12 23:32:06
福島正則、小山会議でも尾張での軍議でも家康に豊臣恩顧の大名がつくような発言をしてやったのに…
いい様に利用されただけだな、結果から見ると
ぶっちゃけ、いかに家康に媚びを売るかということしか考えていなかったと思う。
豊臣家より我が家が大事というか。
加増という利益があったからな・・・。
黒田や細川はともかく、福島や加藤が家康の専横を見てみぬ振りしたのは
納得できんのだがな・・・。
どーみても、奉行派と武断派の敵対と家康の専横を正すのは別問題だと思うんだが、
外様の方が抗議の声上げているのは笑える。
70 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/13 00:38:10
家康の3万が動いたら、戦場が渋滞するかな
71 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/13 01:08:25
話はかわるけど幕末のころ土方がもう槍や刀で戦う時代は終わった・・
などと言ってたみたいだが戦国末期の国産の鉄砲は世界トップクラスの
性能だったそうな・・徳川270年は無駄だったのですか?
>>71 1スレか2スレか前の過去スレに、その議論を延々と続けていた奴らが
いたような気がする。
あれは完全にスレ違いな議論で浮きまくっていたが、よかったら探してみるよろし。
>>71 戦国の火縄銃と幕末期の最新の銃(輸入物)は、違う
調べてみそ
75 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/13 06:39:38
ところで、おまいらは鉄砲一挺いくらかわかるのか?
>>73 ゲベール銃
ミニエー銃
エンフィールド銃
シャープス銃
いろいろあるね>幕末 ゲベールなんかは火縄を
燧石にしただけの先込めで使いにくいが。
>>71 軍縮を行った。
一応その手の本もあるので調べて味噌。
78 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/13 13:14:33
>>69 奉行派の台頭より家康の専横のほうがマシだと考えたのでは?
79 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/13 13:27:13
だとしたら、本当に豊臣家のことなんてどうでもよかったんだな。
ただ単に、自分達より奉行派が上にくるのが気に入らなかっただけだと。
80 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/13 13:58:28
>>76 おまいって鉄砲の名前しかわからないの?
いくらするかわからないで鉄砲!鉄砲!って喚いてるの?w
やはり三成はかなり性格に問題のある人物だったんだろう
秀吉の機嫌をとるのが巧かった為に気に入られて出世できたが
それをいいことに専横の限りをつくしていたと
大谷とか直江みたいなごく一部の人間しか付いてこなかったのも頷ける
こういった一部の親しい者、及び媚びる対象である秀吉を相手にする時と、それ以外の者を相手にするときでは
かなり接し方が違ったんだろう、つまり裏表の激しい人間だったということだ
82 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/13 14:34:59
三成は権力者に媚びる性格だったのか?
具体的に専横って?
家康の堂々たる誓約破りに比べられるほどのこと、何かしたか?
>>81 武断派と文治派の対立という側面が抜けている。
そこに付け込まれていいように利用された福島たちは馬鹿。
三成のもとには秀吉の養子の宇喜多秀家まで来ている。
どっちが豊臣の主流なのかは一目瞭然。
85 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/13 14:39:30
三成って男とセクしたかわかる方いますか?
そもそも三成が強い者に靡くおべんちゃら使いなら
秀吉死後は即座に家康に靡いたはずじゃないの?
実際そういう手合いは沢山いたし
87 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/13 14:41:30
三成が権力者に媚びる性格なら家康に媚びていただろう。
あんな、当初は勝ち目が無いと目されていた戦いを起こしたりはしない。
88 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/13 14:45:38
藤堂高虎は織田信長⇒豊臣秀吉⇒徳川家康と主君を変えているよ
>>84 いや違うだろ?
福島達にしてみれば利用してやれ程度だったと思う。
・・・やっぱり馬鹿だな・・・。
つーかさあ、関ヶ原後、豊臣家の為に対徳川同盟とか全然やってねえんだよな。
ぱっと思いつくのは、家康・秀頼との対面で清正と幸長が付き従った位。
豊臣家に対するご恩もあるが、徳川家に対するご恩もあるって・・・。
徳川が出したご恩ってかなり豊臣家の領地が含まれているんだが・・・。
下克上ってきついね。
治める力のあるものがその地位につくだけ
というか、はっきりいって8歳の子供が天下人なんて混乱をもたらすだけ、迷惑なだけだろ
正直天下人なんて誰でもいいからとにかく自分の所領さえきちんと保障されればいいっていう者にとっちゃ
三成は正義感が強すぎたんだ
現実より理想を優先させる傾向にあるから、少数の波長が合う人間以外とは軋轢を起してしまったんじゃなかろうか
朝鮮の役なんかじゃ秀吉に反対してもいるから、決して茶坊主じゃない
>>90 そんな単純なものなら、
古今東西の代替り時の争いなんてものは起きなかったろう。
いやいや、合理的に考えて
それだけであんなに敵をつくるのはおかしいですよ
性格なんて、たとえ歴史上の人物でなくても、実際に付き合ってみなきゃわからんのだから
ましてや400年も前に死んだ人の性格なんて、”事実”をもとにして推測すべきです
そして、圧倒的に嫌って敵にまわる人物の方が多かったというのが事実です
大谷刑部の逸話みたいな少数派の話ばかりクローズアップして考えるのは決して公正な評価とは言えないでしょう
三成との対人関係だけで敵味方が確定した、と考えるほうがおかしい
>>92 まあ、理をもって下克上を批判するのは結構だが
それなら天下人は好き勝手に権力を振りかざすだけでなく、同時にしっかりと治める「責任」ってものもあるってことだ
どう考えても8歳の子供にキチンとその責任を果たすだけの能力があるとも思えないが
できないから、代わりにやってくれ、そして成人したら従ってくれなんて、
天下は豊臣家の私物じゃないんだし・・・
どう考えてもこちらのほうが虫が良すぎる話だと思うが?
>>93 だから、あなたの意見からは武断派と文治派の対立のことが抜けてるよ。
福島正則は豊臣恩顧とはいうが、実は家康の養女を後継ぎの嫁に迎えた徳川との姻戚
しかもこの婚姻は秀吉没後一年後に成立(つまり大名間の婚姻に関する誓約を徳川と福島はとっくに共同で破っていたことになる)
一方、三成は小身で独自の実力を持たなかった上、こういう婚姻政策等の政治工作を取らなかった(取れなかったともいえるが)
要するに三成の性格云々は、あまり関係ない。せいぜい勝者の敗者へのレッテル張りだ
>>95 徳川方の側に立った考え方としては正しいよ。
しかし、とくせん家も信望を得ていたとは言い難いよ
>>93 ヲイヲイ西軍に回った大名の数はすくなくねえよ。
積極的に三成嫌ったのは七将位なんだが・・・。
(それも概ね朝鮮の役以降)
逆に、三成を嫌ったというエピソードを七将以外に上げてくれ。
>>95 家康が政務代行者でその政務代行者自ら法を破って、
世を乱し、下克上したと思ってるんだが・・・。
まず責任を放り投げたのは家康だろう?
戦国の世から豊臣の世になって安定して良くなったが
豊臣の世から家康になって世の中がよくなったのか?
つまり、世間から見れば何も変わっていない。
徳川一門が得しただけ。
つまり、純粋な家康の欲望とみるべき。
責任云々というのは天下に対する下克上をやり遂げた
家康に対する不敬じゃねーか?
101 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/13 15:40:29
▲笹尾山
■石田三成
■島左近 □黒田長政 □山内一豊
■蒲生郷舎 □細川忠興 □織田有楽斎 □有馬則頼 □浅野幸長 □池田輝政
■島津義弘 □加藤嘉明 □古田重勝
■小西行長 □田中吉政 □金森長近
■宇喜多秀家 □松平忠吉 □生駒一正
□井伊直政 □徳川家康
□藤堂高虎 □本多忠勝 ▲桃配山 ■吉川広家
■大谷吉継 □福島正則
■毛利秀元
■赤座直保 □京極高知 ▲南宮山 ■安国寺恵瓊
■小川佑忠
■朽木元綱
■脇坂安冶 ■長束正家
■小早川秀秋 ■長宗我部盛親
▲松尾山
秀吉が秀信から天下奪ったのに、家康がやれば駄目らしい
因果応報ってヤツだね
>>102 だめです、キリがないんです。それ書くと必ず、秀信は岐阜城主として美濃の大名であったが
家康は秀頼を卑劣な手段で追い詰めて殺したっていうレスが帰るだけです。
そしてその時には、なぜか必ずといっていいほど秀頼がローティーンのときに
侍女に手をつけて産ませた国松という子供の名前がセットになって付いてきます。
なぜか国松にこだわる人が多いのが特徴です。
そして大抵、それに対する反論で、秀吉は浅井長政の子供を串刺しにしたというレスが返りますが。
それは信長の命令だったというレスで返されます。
さらにそれに対する反論として、秀吉は自分を取り立ててくれた旧主信長の子信孝を殺し
その母親(つまり信長の側室)を磔にしたとか言うレスが返ったりして
結局悪口の応酬のループになるだけなんです。
>>102 あなたは家康側に肩入れしすぎというか、感情的になりすぎな気がする。
石田方が好きな人達だって、別に家康が悪いって言っているわけじゃない。
因果応報なのもわかる。
家康側・三成側、双方に双方の正義があるということ。
漏れが家康に肩入れして感情的になりすぎてるのは、どの部分でわかるのでせうか?
家康がやると駄目らしい
という部分
>>105 ・・・そういう風にレスが返ってくる所が。
関ヶ原合戦好きな奴は厨房。
ところで、何で三成が幼主・秀頼を影で操った奸賊だという
言葉が出ないんだろうか?最低限武功派の足元を掬った
というのは、ほぼ事実なんだが・・・。
あー、常駐君の逆鱗に触れたって事?
>>106 秀吉がやると良いらしいと書くべきだったのか・・・
>>110 別に良くも悪くもないんじゃない?
秀吉も家康も。
秀吉は信長の仇を討った。本来後継者がやるべき仕事を自分が肩代わりしたんだ
ところが家康は秀吉政権を裏切り、秀吉だけじゃなくほかの大名との誓約も破った。翻って功績なくただ権力の簒奪あるのみ
ここら辺が美しくない…
なんか一人で双方の極論を書いている人がいるような気がするんだが・・・
秀吉の天下って安定も糞もないだろ
あれこれやるから天下を認めろって並みの人間じゃ出来ないことをやった
最終的にはやるものが無くなって、大陸半島を取りにいく始末だし
ましてや秀吉のいない豊臣なんて不安定そのもの
一番でかい家康が舵取ったのは必然であり、一番マシだった
信孝は信長の仇を討った。本来後継者がやるべき仕事を自分が肩代わりしたんだ 。
ところが家来筋の秀吉は政権を裏切り、勝家だけじゃなくほかの部将との誓約も破った。
116 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/13 18:38:28
信長の仇討ちというと大義名分があるように思えるけど、中身は味方同士の内乱に過ぎない
本能寺の一報だけで直轄軍に離散される信孝じゃ信忠の代わりにはならない罠
本能寺の一報だけで直轄軍に離散された訳ではなく、神戸家を捨ててたという説もあり
信孝って後に秀吉と戦った時にもあっさり軍に逃げられてるね…
統率力無さ杉
「石田治部少輔三成は、にくからざるもの也。人それぞれその主の為にすと云ふ義にて、心を立て事を行ふもの、
かたきなりとてにくむべからず。君臣ともによく心得べきことなり」
(徳川光圀「桃源遺事」)
東西 一決 関ヶ原に戦う
嗔髪 冠を衝く 烈士の憤
成敗 存亡 君 説くなかれ
水藩 先哲 公論あり
(西郷隆盛「関原軍記ヲ読ム」)
>>113 偏った視点で見るのはイクナイ!ので
交互にそれぞれの視点で書いているけど。
124 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/13 18:58:39
>>123 そんなこと気にしないで、自分の書きたいことを書こうよ。
赤壁
三成は忠臣
秀吉が織田家の権勢を奪ったから折れも…という思考なんてなかったんだ
まさに義の男よ…
関係無いけど、早川長政って何者?
129 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/13 19:52:38
逆説の日本史風に考えれば関ケ原っておかしな事多くない?
@先ず戦争途中で裏切ったと思われてる小早川軍だけど、最初の出陣から可笑し
い。小早川の領地は九州の要でもあり、毛利の要でも在るにもかかわらず残留兵
が少ない。当時の小早川軍と評価と言えば毛利の精鋭にして全国でも強兵と思わ
れていた。秀秋が先ず最初に行ったのは大阪城ではなく高台院の所で実の兄は伏
見城に居た。次に伏見城に行き鳥居元忠に使者を送り入城させてくれる様に頼む
が断られ、伏見攻めの一方の司令官になりその場所から兄を逃がし、再度元忠に
入城の使者を送るが断られる。伏見攻めが始まるが秀秋の戦意なく長引く、この
時数万の軍勢が伏見で止めされるも甲賀の叛乱により西軍が伏見城内に殺到する
と秀秋も先を競って味方の西軍と同士討ちをし城内の一方を占拠するも、直ちに
休戦の使者を元忠に出す。しかし、元忠は拒否し伏見城は他の西軍により陥落。
その後、秀秋は伊勢攻略に向かうが途中で反転し東軍へ使者を出すも使者を拒絶
される。当時、清洲には3万の東軍が居たが秀秋の1万5千が入るには危険過ぎた
と思われる。よって秀秋は人質を徳川に出し、徳川の軍監を自軍に入れている。
その後軍を大垣城方面に向け松尾山に陣取っていた西軍を追出し布陣を固める。
西軍の司令官の吉継は直ちに陣屋に西軍を集結させるも、東軍も動き関ケ原への
布陣となる。この時、西軍は実質大将の三成を秀秋から遠ざけ、吉継軍の正面は
東軍ではなく松尾山に向き柵を松尾山に対して張った。
こう見ると観かた変わってくるよね?
>>100 >>戦国の世から豊臣の世になって安定して良くなったが
関ヶ原直前頃は、海外派兵・秀次事件その他でだいぶ民心失ってたと思うが
天下万民が秀吉死後の豊臣政権に満足してたら流石に家康も動けなかっただろ
>>まず責任を放り投げたのは家康だろう?
武断派と文治派の対立を止められなかった豊臣政権こそ
責任能力を失っていただろう、関ヶ原後は家康の行動を事後追認してるし
三成を庇うこともできなかったし、これらの事は当然三つや四つの子供に
できることではないので、秀吉が生前にやっておくべきことだった
>>129 個人的意見だが、東軍も困惑したんじゃねーか?
家康は、小早川の密使を追い返したし(2回ともだっけ?)
つまり西軍・東軍双方からも危険視されたんじゃ・・・。
実際に戦場における行動は怪しいし。
>>130 >武断派と文治派の対立を止められなかった豊臣政権こそ
>責任能力を失っていただろう、関ヶ原後は家康の行動を事後追認してるし
>三成を庇うこともできなかったし、これらの事は当然三つや四つの子供に
>できることではないので、秀吉が生前にやっておくべきことだった
言いたい事はつまり徳川家のお取り潰しをすべきという意見
なのですか?文章からそうとしか読めないんだけど・・・。
>武断派と文治派の対立
武断派煽って(証拠はないけど)、最終的に武断派有利の裁定くだしたの家康なんだけど。
>関ヶ原後は家康の行動を事後追認
概ね武断派の方々(豊臣家の家臣だった人たちだよね?)が同意したんですけど。
これって、所謂マッチポンプだと思うんだけど・・・。
小早川秀秋が当主の小早川家は毛利とは別ですが
>>129
133 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/13 21:05:13
秀頼は秀吉の子じゃないしなw
実際、現代だって男性不妊だといろいろ大変だからな。
大枚はたいて最先端の医術で不妊治療やってもうまくいかない人たちも多い。
過去に赤子が生まれたことがあるっていっても
老年になってから淀に二人も産ませたというのは十分怪しい。
真実は藪の中だが。
なぜ戦国時代という、いわば日本国(当時日本という国家意識があったかどうかは別として)の
内戦状態がつづいたかというと
守護大名達を統べる力を失った足利幕府にその原因があったわけじゃないですか。
言うことを聴かずに勝手に暴れ始めた守護大名が悪いというよりも、
責任は足利幕府の不甲斐無さのほうにあるといえますよね。
また名目だけ将軍義昭を立てて、その実ないがしろにして実権はしっかり握った信長をズルイという
人がほとんど居ないのは、そのほうが自然なことであるからです。
そういう意味で、トチ狂って甥の関白秀次を殺したりしたあげく幼い子供一人を残して秀吉が死んだ時点で、
豊臣家は結局足利幕府の二の轍を踏んでいたわけですよ。強力な力、もしくはしっかりとしたシステムで
統治できなくなった時点で、いずれ戦国時代に逆戻りするのは目に見えてます。それは家康という豊臣家最大の
脅威が居ても居なくても同じ、家康がいなければさらに別の者が豊臣に取ってかわろうとするだけです。
あるいは家康のように頭一つ抜きでた勢力をもつ大大名がいなければ、再び群雄割拠の時代に戻るだけですよ。
秀頼が幼い間は他の大大名(大老)たちが代わりを勤めて、成人したら自動的に関白になって周りもあっさりそれを受け入れて
大老たちは身を引いて秀頼がしっかりその大名達(戦国時代を生き残った荒くれ者や野心家揃いの)を統治して
そして秀頼に子供が生まれたらまたそれが関白になって・・
なんて流れの方が自然じゃないというかありえないですよ。
136 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/13 22:43:31
信長がつき・・
秀吉こねし天下餅・・
苦労もせずに食うは家康・・
>>135 いや漏れもそう思うけど、家康が余りに調子良く事進み過ぎるのが
つまらない・・・もとい許せない。
豊臣家恩顧の武断派が徳川に靡く様を見て、
いい感じの犬っぷりを嘲笑いたい・・・もとい許せない。
三成がその正義の心から立ち上がり、19万石で250万石に
立ち向かう姿の見事な釣られっぷりをオチョクリたい・・・もとい感動した。
その心根が関ヶ原の火葬戦記・・・・もといIFを語らせるのです。
138 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/14 00:19:57
織田がつき
羽柴がこねし天下餅
座して食らうは徳川家康
139 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/14 12:56:38
もし秀吉が暗殺されていたら、関が原の戦いも事情が変わっただろうね?
つまり判官びいきということか
日本人て不思議だよな
大勢に流されて、保身のため強者に跪くくせに
その一方で判官を応援する
それしかできない自分に対するアンチテーゼとして惹かれるンだろうか
判官贔屓もいいけれども、それが高じて、ありえないような論理や飛躍を展開するのは
かえって三成を貶めることになるとなる
関ヶ原を単なる運が悪いから、負けただけと考えるのは思考停止であり
何も生み出さない
141 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/14 13:17:21
もし西軍が勝っていても、家康は判官贔屓の対象にはならなかっただろう・・・
裏切りで負けたっていうのが悲劇性を高めているな
そして秀吉の死直後から約束破り連発した家康に対し、あくまで秀吉の遺法を尊重する三成という構図
>>142 もし家康が負けても馬鹿にされるだけってこと?
実力でいえば当時の第一人者である癖に、小身の三成が実質大将の相手に負けたら馬鹿にされるだろう
そして、秀吉死後直後からの策動は、悪罵の限りを尽くして批難された可能性が高い
福島なんかはもろアホで欲張り・おべんちゃらとして扱われただろうな
145 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/14 15:33:20
>>144 序盤は西軍が東軍の猛攻を防ぎ、逆転の望みさえ感じさせたほどだよ
家康が馬鹿にされるというより、三成が神格化されそう
話の流れとぜんぜん関係ないけど・・
秀吉と秀頼の骨が残ってれば今ならDNA鑑定ができるのにな。
家康の遺体は日光に残ってるだろうし(少なくとも骨は)。
秀忠の遺体も棺が崩落して押し潰された状態だったらしいけど
ちゃんと残ってる。伊達政宗の骨もほぼ完全に残ってるんだよな。
秀吉の遺骨なんかどうなったんだろ。先の戦争のA級戦犯の骨もそうだけど
戦に負けるってことはつくづく嫌なもんだな。
西軍が勝ったらっつっても、西軍勝利以降はまさに闇
どういう政権になるか、東軍に属した勢力を史実の家康のように
潰したり減封したり出来るのか等と考えると、全く想像つかない
小早川秀秋が秀頼成人まで関白って時点でアレだしな
150 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/14 18:41:27
家康は、本当に苦戦したのだろうか?
格下相手ということを考えれば、苦戦したんじゃないか
横綱が前頭と井伊勝負になったようなもの
>>150 苦戦もなにも、戦わせただけで
自分は戦ってないから
DQN赤鬼は先駆けとか島津隊を壊滅させる時に負傷して
四天王で唯一戦関連で死んでるけどな
>>145 予想外に頑張った、しかし最終的にはやはり地力で勝る方が勝った。
つまり、そういうこと。
>>151の例えのとおりだね。
家康の掌の上で奮闘したのが三成
三成が頑張れば頑張るほど家康が特をし、また豊臣には損になった
踊らされていたとも言えるが
まあ、三成なりに頑張っていたのは確かであろう
>>146 というよりも神格化したの等の家康の子孫で・・・。
まあ、あそこまで持ち込めただけでも大したものだったと思うがね。
まんざら、最初から最後まで手の平の上ってわけでもないだろう、
家康も一ヶ月以上も江戸に逗留して様子を窺っているし、
少なくとも当初の決起の規模とかは家康の予想を超えるものだったと思う。
しかし、無理に規模を大きくした結果、
まとまりが悪く、内応によって敗れたのは、
まあ、それが彼の限界ってものだろうが。
関ヶ原の後、権勢を誇った三成の財産を狙って佐和山城に略奪にいった兵士達が、まったく財宝らしいものがなくて呆然としたって逸話があるね
清廉さが三成のよさでもあり、限界でもあったんだな
家康が関ヶ原で負けたら(そして討ち死にでもしたら)、
まあ、今川義元みたいな扱いになったのではないかと思う。
もっとも、三成が信長級の扱いを受けたかどうかはその後の展開しだいだろうが。
160 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/14 20:32:01
三河の田舎大名風情に天下を取られて俺は悲しい。・゚・(ノд`)・゚・。
161 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/14 20:32:39
ぽまいら一番肝心なことを忘れてんじゃねーかよ。
それで西軍を騙る三戦板といえるのかyo?
西軍が勝った場合
石田三成が治部少輔じゃなくなる。
これはガチだと思うのだが、異論があればどうぞ。
もう既に、尾張の百姓に取られているのに?
当の家康は三成をどう見ていたのか?
処刑される際も毅然としていた三成の態度を聞いて「三成は大将の道を心得ている。平宗盛あたりとは出来が違うな」と嘆じたという話があるが(常山紀談)
三成は高慢な故、敵が多く同僚、加藤・福島、武断派の池田・浅野・黒田・細川・加藤と仲が悪い。
三成が朝鮮から帰還した清正に「あとで茶の湯でも馳走しよう」というと
清正は「我ら長き先陣で米も、酒も、ましてや茶などあろうはずもない。稗粥でも炊いてお返しいたそう」
と言った。対立は決定的だった。
関ヶ原は家康プロデュース感が強いけどな
立て付奴を全部あぶり出して、さらにそいつらを相手にする奴も揃えるなんて凄まじすぎる
器が違うよ
三成の人格を理由に、家康に靡く
こういうのを口実というのでは…?
167 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/14 20:41:51
松尾山勢は途中で東軍に寝返、南宮山勢は最後まで傍観
▲笹尾山
■石田三成
■島左近 □黒田長政 □山内一豊
■蒲生郷舎 □細川忠興 □織田有楽斎 □有馬則頼 □浅野幸長 □池田輝政
■島津義弘 □加藤嘉明 □古田重勝
■小西行長 □田中吉政 □金森長近
■宇喜多秀家 □松平忠吉 □生駒一正
□井伊直政 □徳川家康
□藤堂高虎 □本多忠勝 ▲桃配山
■大谷吉継 □福島正則
□赤座直保 □京極高知 ▲南宮山
□小川佑忠
□朽木元綱
□脇坂安冶
□小早川秀秋
▲松尾山
実質は、こんな感じだったのでは・・・?
>>165 それにしては、少々落ち着きがないような気もするが。
事前に黒田長政を呼びつけて、福島正則が西軍につくようなことはないか確認したり。
関ヶ原の戦闘が始まった後でまで、
同じく長政に小早川の裏切りは間違いないか確認したり。
どうも、最初から全く余裕の勝利だったという情勢でもない、
当日秀忠が遅参するという事態も重なって、大分ひやりとする場面もあったと思う。
無論最後は実力どおり順当に勝ったわけだが、
その間の全てが予想通りの余裕の展開ってわけでもあるまい。
>>167 家康の想定ではそんなものでしょう。
ところが、小早川がなかなか動かないから、
ちょっとビビッた場面もあったと。
>>167 実質上そんなものだが
名目上西軍だった者が多いおかげで家康にとっては戦後実に有利だったな
ほとんど戦わずして領地だけ取り上げることが出来る相手が多かったわけだし
味方に付いた者に恩賞を与えなきゃならんし
逆にわけがわからないまま気づいたら負けてて領地没収された者にとっちゃ
三成の存在は大迷惑だったろうな
>>164 その文章を先入観抜きで見ると清正も高慢という感じがするの漏れだけか?
文禄役から最前線任されて、帰国も出来ず、褒賞も無しだったら
そりゃスネるだろ
朝鮮で貿易をしたかった三成と朝鮮を勝ち取る事を主張する清正。お互い豊臣の為だった。
そして、朝鮮での功績とか結果をチョロチョロっと改ざんしたりして恨まれていたとか聞いた。
改竄したなんて話は初耳だな。
あとは功績を伝えなかったとか聞いた。
>朝鮮で貿易をしたかった三成
ウソウソ、三成君は太閤様の希望を叶えるため、粉骨砕身働いておりますよ。
秀吉の朝鮮渡海を推し進めようとして、利家・家康とぶつかってますですよ。
177 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/14 21:01:50
もし家康が三成側に肩入れして、反三成側が反旗を翻していたら
関が原の戦いは、いい勝負だったかもしれない
>>176 そうなのか。ソースがハッキリしないもんで…すまん。
三成より大谷、島津に注目してしまう漏れ。
東軍を反三成と見るか親家康と見るかなら後者のが多そうだ
全部がそうじゃなくても、いくらかの親家康が西についたら西有利だろう
180 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/14 21:10:18
大谷は気持ち悪いからヤダ
信長の野望でこいつ捕まえたら無条件で斬るよ
ただ覇王伝の時は変な覆面つけてなくて普通の顔してたから登用して使ってたけど
181 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/14 21:12:52
>>179 家康と三成が連携するなら、三成が東軍になるだけだろ
東軍と西軍の主力が反対になるだけのような・・・
でも、家康の3万があるから東軍の勝ちは変わらないな
>>181 どっちみち家康がいるほうが勝つといいたかっただけ
東軍派は大きく分けて三種か
・譜代
・反三成(利用される)
・長いものに巻かれる
元のフビライは、「カ似道(皇帝の側近)が悪い人間だから裏切りました」と自分を正当化する南宋からの内応者に
「側近が悪いからといって主を裏切る理由になるのか。お前達は側近に仕えていたのか」と皮肉った話があるが
そうか、武功派とやらは三成に仕えていたのか
いえいえ、東軍諸将は、豊臣がつくった偽りの平和ではなく、再び乱れることのない真の泰平の世の到来を考え
それを成すのは徳川以外にありえないということで家康の味方についたのですよ!
この点、単に蟄居させられた自分の復権の為だけに戦った三成とはまるで格が違ったということですね
百歩譲って本気で三成が豊臣家のためを思ってたとしても、それはただ単に豊臣というひとつの家の為だけであり
家康公の”厭離穢土、欣求浄土”という崇高な目的とは比ぶべくもありませんな
そして実際に、その後ニ百数十年にもわたり戦乱のない平和な国が築かれたということが
それを証明しています
三成が家康の屋敷に避難してきたとき、家康は三成側に肩入れする選択もあったわけだね
187 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/14 21:42:20
>>186 そうなると、西軍は反徳川反三成の集団になるな
三成側と言ってもなあ、
西軍の内、毛利や宇喜多ら大大名はいずれ潰さなければならない相手だし、
メリットないなあ。
というか、三成は加藤や福島と違って、
家康が豊臣家の敵だとはっきり認識していたと思うから、
手を組むって可能性はないだろうな。
189 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/14 21:49:20
吉川が東軍に突入していたら、秀元も同調していたわけで
その場合、小早川の裏切りも無かったと思う?
いったん手を組んでおいて武断派を一掃した後に
雌雄を決する、とか虫のいいこと考えたりはしなかったのか?
さすがに無茶すぎるか。
191 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/14 21:57:11
>189
どうなんだろうね。小早川の動向を見ると明らかに初めから
優柔不断ながらも東軍寄りで行動している(西軍の使者にはまともに
応対していないが、東軍の武将とは終始連絡をとったりしている)
し、小早川家臣稲葉家の記録では「はじめから東軍に付くつもりで
松尾山城に布陣した」と書かれている事から見て、吉川・秀元が
斬り込んだ後も反応するかどうかわからんね。まあ、所詮日和見だから
山麓の東軍部隊が壊滅したら西軍に変わる可能性はあるとは思うが。
>>185 ずいぶんと大げさな言い方だけど
秀吉死後、四歳の子供と内ゲバする家臣団の不安定な豊臣の天下と
250万石の太守、五大老筆頭、家康の天下と
どちらが自分たちの既得権益が保護されるかって考えたらなぁ・・・
>>192 そう、そこまで東軍よりだったのに、
当日躊躇するところが秀秋君ってものだな。
>>190 家康がそこまで騙されるとは思えないなあ。
196 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/14 22:31:54
吉川と秀元が家康の後方を襲撃していたら、安国寺と長束と長宗我部も動いたと思う?
>>173 判決は軍目付が三成と仲良しだから正直な答えしなかったという判決。
つまり、調査結果は白だけど判決は黒ッツー事。
判決の結果。軍目付は領地没収でした。
だって白だと三成はなんら悪くなく、家康は最低限三成の蟄居解いて。
七将を逆に罰しないといけなくなる。
家康と七将のマッチポンプの凄さ理解して頂けたでしょうか?
>>195 そうだよな・・・・
福島&加藤等は家康にとっても最終的には潰しておきたい所だから
三成が上辺だけでも徹底的に家康にへつらってたら先にそっちを片付けようとしたかも・・・
と思ったが、三成がそんな真似できてたなら武断派との衝突自体ないよなw
199 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/14 23:43:09
輝元が出陣するか、大津城攻略隊が到着しなければ
西軍に勝ち目など無かったよ
大津城攻略隊もどこまで信用できることやら・・
裏切り者が増えるだけのような気がする
なんか行きがかり上なんとなく西軍になって、まわりも西軍ばかりのうちはそれで良かったが
東軍が来てからはその状況も変わったしね
西軍が負けた後立花宗茂が徹底抗戦を主張したのも
こうなってしまってはみすみす領地を取り上げられるからなんとか抵抗しようとしただけだし
三成も気づいていたから
>>167みたいな信用のおけるメンツだけ自分のまわりに置く布陣にしたんだろう
煮え切らない毛利が悪い
201 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/15 00:20:24
小早川らが東軍のほうに攻撃してくれたら、吉川らが傍観していても西軍の勝ちだったのに・・・
いい加減、同じタラレバをクドクドいう連中がウザい
いい加減、同じ七将がDQNだと気が付かない連中がウザい
204 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/15 02:16:06
なんだかんだ言って、結局「石田治部の乱」というのが実像に近かったり・・・
>>204 実際、首切られたのは石田と安国寺と小西だしな。
安国寺が斬られたのは、毛利の反逆首謀者としての扱いかな。
西軍に、伊藤、亀井、斎村、糟屋なども参加していたはずなのだが、
布陣していた場所はどこだろう。あと東軍にも津軽、宮部もいたはず
なのだが。
>>206 安国寺は、トカゲの尻尾切りかも
特に吉川は全責任を押しつけようとしていたのでは
それに実際に多方面に安国寺の働きがあったんだろうな
209 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/15 12:36:14
石田と小西はともかく、安国寺の処刑はなぜ?
むしろ、宇喜多が処刑されるべきでは?
210 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/15 12:38:36
大老を殺すわけにはいかんだろ。
211 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/15 12:47:14
むしろ安国寺を捕まえた奴の父親が昔長篠城で武田軍に磔にされたという事実も忘れるべきじゃない。
>>197 七将は別に家康のために動いたわけじゃないだろ
214 :
島 左近:05/02/16 00:53:18
火を吹く!笹尾山の大砲ぶっぱなせ!放て!
両軍入り乱れて戦闘中の関ヶ原に、核兵器一発叩き込んだら
どちらが勝つ?
島って当日はあっけなく鉄砲の弾に当たってあぼーんしたんでしょ
217 :
黒田め:05/02/16 01:07:53
ご一命ささげたてまつる。
>>213 あのさ、七将首都で軍隊を使った騒動起こして
それで、全く処罰なしなんだが。
家康が見逃したか最初から見逃す予定だったのか・・・。
所で、池田輝政って朝鮮の役でそもそも軍を率いた所か
朝鮮に一度も渡っていないのだが。
なんで、恩賞の不満で姿を表す?
で池田は家康の二女の婿。
怪しむなというのは無理ってもんだ。
>>218 七将は家康のために動いたわけではない
もちろん家康が自分たちの側に付いてくれるであろうとは思ってたろうが
福島や加藤は自由意志の決起だろ
七将は家康の思い道理に動いてくれたが家康の深謀まで察していたのは
黒田ぐらいじゃないか?
>>219 黒田と池田と藤堂と細川当たりだな。
武断派と関係無い所で家康に便宜図っている。
221 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/16 09:52:26
>>216 結構早々に死んでるしな、肝心の時に役に立たないやつだった
三成から知行の半分でもとまで言われて召抱えてもらったというのに
そもそも、これだけ三成から期待されながら、結局杭瀬川以外にこれといった戦働きがなかったし
最後も死体が見つからなかったってことは戦死じゃなくさっさと逃げたのかも
他に元茶坊主の三成に使えてくれる者がいなかったから仕方なく左近を召抱えたってのが真相だな
知行半分の逸話でかなり尾ひれがついて過大評価されたんだろう
後に三成が出世してからは知行の半分という約束を辞退したとかいってるが
そもそもそれなら元から遠慮しろっての、ちゃっかり最初に2万石貰ってるからな
222 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/16 13:28:27
>>221 知行を貰うって言うのは、お金貰うのとは訳違うよ。それに三成ほどの者が認
めて軍備を任せたって処が後世の評価を高めてるんだと思う。
何せ江戸時代初期では当主から格別の引き立てで知行を貰った者は、その当
主が亡くなれば追腹を切るのが通例と成ってた位だし、当時は知行を貰うって
言うのは命がけだよ。
223 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/16 13:37:51
島左近は関ヶ原のあとなんとか生き延びて琵琶湖に浮かぶ島
で治療をうけたってはなし聞いたことあるけどそれって
光秀は生きていた・・とかそのたぐいの話?
島左近は元々筒井家・豊臣(秀長)に仕えて勇名があったからな
勇士を抱えることに人一倍熱心だった三成の関心を惹いたんだろう
筒井家を捨てた左近を義将とは言えない
そりゃ戦国武士だからな。筒井家後継の定次とそりが合わなかったら家を出るのは普通のこと(原因は水利の争いの裁定とも、松倉右近の遺言にのっとった左近の諫言が通じなかったこととも言われるが)
227 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/16 14:14:32
関が原の戦いは戦い以前に勝敗が決定していたような気がしてならない。
情報戦、諜略戦ですでに石田方の負けだった。
関が原とは別なところで行われていた、上杉VS伊達、真田親子VS徳川
秀忠の方が戦い的には面白い。
228 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/16 14:17:46
黒田如水の九州での動きもわすれないでー
上杉VS最上もな
伊達は上方の大勢が決した後になって必死に攻めかかっては撃退されるという…
真田は秀忠隊を温存するのに利用されただけ
如水は空き巣みたいなもの
伊達はヤル気無さ杉
231 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/16 14:43:44
福岡県との県境、大分県側に中津市如水という地名がある、昔は豊前国
と呼ばれた所だ、その如水にこんな民間伝承が今ものこってる・・・
そのむかしこの如水という町には化け物のような殿様が住んでいて周辺の住民に
娘を差し出すようにとのお達しが頻繁にあり泣きながら屋敷にむかうものや
それが嫌で自害した娘もいたとか・・現在でも如水という地名を忌み嫌っている
人も多い・・・
232 :
ゆっき〜:05/02/16 17:29:00
>>227 おまえはたぶん、西軍が勝っていても、
「戦う前から勝敗が決まっていたように思えてならない」
と言っていただろう。
ま ち が い な い ! !
>>227 その通り
既に勝負はついていた
しかし何故か簡単にいかなかったので家康はイライラした
>>233 恐ろしく簡単にいったんですが
自分はまだ東海道を登ってもいないうちに岐阜城を落としてくれて
決戦ではわずか半日でケリがついて
しかもそれで日本を2つに割った戦いがあっけなく終わったんですが
まさかそのたった半日であっけなく終わった決戦の最中
金吾がモタモタしてるときに爪を噛んで苛々したっていわれてることだけで
”簡単にいかなかった”とかいってるんじゃないでしょうね・・・
236 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/16 20:18:44
関ケ原の決戦場って西軍が意外と周到に用意してたらしい。石田の本陣前には
3mの堀が造られてたとか、本来想定外だったと思われる小早川の松尾山にしても
整備途中だったらしい。それに比べて東軍はまんまと敵の作った戦場に赴いた
訳だが、小早川+四将の裏切りで西軍は一気に崩壊。今まで小早川の叛旗が最大
の原因みたいに言われてるけど、秀秋の実父も既に西軍裏切ってなかったけ?
吉継も秀秋相手には遅れを取ってない、関ケ原最大の鍵を握ったのは脇坂だと思う
がどうであろう?
>>234 つか、家康は欽後の助けなんか借りずに勝つつもりだったんだと思う
つか、東軍の優勢を見て、欽後が参戦せざるをえない形にする
>>236 小早川だけであれば、あれほどあっけなく崩壊しなかっただろう
239 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/16 20:40:52
何があっても東軍が勝っていた、軍略の天才家康に勝てる訳がない。
孫子兵法を熟読しているし、孫子兵法を会得した家康は強い!
家康は自分トコの兵隊は使わずに、福島だの黒田だのを使ったんだから
三成も大谷の横にいたミジンコみたいな集団を先鋒にしときゃよかった
どうせ味方なのか敵なのかはっきりしないし、死んでも惜しくないやつらなので
赤座VS黒田、小川VS細川、朽木VS藤堂、脇坂VS福島みたいな感じで
で、そいつらの後ろに柵をつくってその柵の後ろに鉄砲隊を並べて背中を狙っておく
逃げてきたら撃つと脅しておけば、小勢でも死にもの狂いで戦ってくれるだろう
あとそのままじゃ役に立たない島津を松尾山の麓に一番近いとこに置いておく
これで必勝だな
241 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/16 21:07:56
>236
松尾山の城塞は、西軍のものではなく小早川のもの。
関ヶ原の5日くらい前から小早川が布陣していた。
光成は裏切りを背負って関ヶ原に入ってきた。
島津はやる気ないし、西軍すらも信じられず、味方でも近づけば発砲する勢いだったらしいからな
最後まで何もやらず兵を温存して、東軍が前のめりになってから
裏のスペースを突いて逃げようとしたら壊滅だからな・・・何しに来たんだか、義弘も散っとけよ、見苦しい
>>242 義弘は義弘で負け戦とか思っていたんじゃないか?予想だけど。
まぁ、義弘や左近が策が戦下手の三成に提示しても拒否したりしているし…。
結局関ヶ原で決戦することにしたのって
大坂を衝かれるというよりも
自分の城である佐和山城が危なくなったからだろ
結局自分の城が惜しくなったんだな、これが三成の敗因
家康は伏見城の鳥居元忠を捨石にしたんだから
三成にも自分の父親や兄が守る城を捨石にするくらいの覚悟がなくては
>>234 確かに当初から東軍有利だったのは間違いないが、
土壇場で秀忠は遅参するは、思いの他石田隊は奮戦するはで、
決して完全に思惑通りだったわけではない。
その上で、秀秋がいつまでも動かない為にいらついていたわけ。
個人的には小早川が西軍についても西軍の勝利確定とは言えないと思うが、
情勢が不利になるのは否めない。
小早川が完全に家康の指示通り行動したならともかく、
実際にその場でしばらく躊躇していたという事実がある以上、
事前に勝ちが決まっていたとはいえないわなあ。
「全ては家康の思うが侭」
とか考えている人は、家康が小早川に銃弾打ち込んで参戦を強いたことも計画のうち、
とか言うのだろうか?
洞ヶ峠を決め込んだわけでもないだろうが、秀秋が躊躇したという時点で、眼下の戦況
が推測できるな。
>>246 そもそも家康本陣から、松尾山城の小早川までどうやって銃弾を打ち込むのかと(ry
撃ち込んだとして、音が聞こえるとも思えない、届くとも思えない、撃ち込む姿を目視出来るかという問題等々
創作話じゃないのかいな?となる
>>247 使番 久保島孫兵衛が家康の命令を鉄砲頭 布施孫兵衛に伝えて
松尾山近く移動してまで山頂の小早川に対して撃った。
>>248 福島の椰子と一緒に撃ったという説もあったよね?
>>246 まあそれだけを根拠に断定はできないとは思うが
いずれにせよ、東西どちらが圧倒していたというわけではない
しかしあの時点で脅す余裕があった側は一方だけだ
251 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/17 15:36:47
三成にはおどすと言う選択肢はなかったんではないでしょうか?
なんつったって中将様ですから。
252 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/17 15:42:50
中納言でしたね。失礼しました。
去年の会津中納言のイメージが強くて。。。ハゲメ!
>>243 左近が献策して三成が退けたってのはどっから持ってきた話?
左近は現場屋でしょ?
にも関わらず、すぐ死んじゃうってのはねぇ。
関ヶ原が一日で終わっちゃったのは、三成の家臣が無能者揃いだったせいじゃない?
逃がして捲土重来させてやれよと思うんだが。
>>253 三成逃げてるじゃん
石田隊は黒田、細川、加藤、田中、筒井、生駒らの軍勢を一手に引き受けて奮戦してたんだから無能という表現とは程遠いだろう
三成と家康なら何度も直接会って話したことがあるんだろうから
そんなに家康がヤバイと思うならその時に飛びかかって斬ればよかった
こっちのほうがまだ成功率が高い
家康は剣術をはじめとして武芸達者だし護衛だって普通はついてるだろう。無理じゃないか
257 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/17 18:09:25
別に三成はキチ●イじゃないんだから家康一人やったところでどうにも成らない
事くらい解るんじゃないの?っていうか個人的には三成も家康もお互いの事を解
りあえるような関係だったと思うけどな。じゃあなかったら自分の命を狙う首謀
者と目される床に行くかな?
暗殺が簡単にできるならみんなやるだろう
家康なんか親父と祖父があんな死に方したもんだから、
人一倍気を使ってただろうし
260 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/17 18:29:42
信長公さえ生きておれば
豊臣家の天下はなかったものを・・・・。
>>257 ??
家康一人死んだらどうにでもなるじゃん。
殺したは良いけど、自分も死んだら意味ねーよなって考えただけ。
本当はめちゃ死んで欲しかった、むしろ殺したかった。
家康がいたために、東軍対西軍というまとまった対戦構造が出来上がった。
家康を殺しちまったら、”重し”が外れたことによりみんなてんでバラバラに
戦い始める混沌とした状況になる可能性もある。
>>251 つまり、それだけの根性はなかったのでは?
あそこで脅すことが可能だったのは家康だけ
脅しに掛かる前後は一番家康は落ち着いて居なかったらしいし。
戦況も一番悪い状況。
冷静に脅しに掛かったと見るのは西軍の仮想戦記風勝利の
シナリオと同義だな。
極々純粋に、逆上して脅しに掛かったと見るのが普通だな。
どっちかってうと、家康の調略不足が指摘される場面だと思うんだが。
家康小早川の使者追い返していなかったっけ?
266 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/17 23:04:31
小早川が裏切る前なら、家康も焦っていたから
西軍に有利な条件での和睦でも、受け入れざるを得なかったのでは?
↑↑↑↑
小早川が裏切る前とはいつだ?
つか家康が焦ってたから
西軍が有利な条件での和睦を受け入れる!?
馬鹿も休み休み(ry
>>265 逆上して脅したとしても、脅すことができたのは家康だけだ
三成はお願いしかできなかった
使者を追い返していた
ほんとは秀秋を無視して西軍を潰し、その後秀秋を潰すつもりだったんだろ
60万石の損だ!
269 :
藤巻:05/02/18 00:13:22
たしかに追い返していましたね。
家康も三成同様、秀秋を一本かぶりに信用してしていなかったのでしょう。
秀秋はどっちについても潰されていたと考えられます。
>>269 秀秋は潰されなかったでしょ?
秀秋にとって幸運だったのは西軍が健闘したこと
もし健闘せずに簡単に西軍が潰れて、それを見て秀秋が参戦したとしたら
心証が悪く、小早川は潰されていたでしょう
>>268 >ほんとは秀秋を無視して西軍を潰し、その後秀秋を潰すつもりだったんだろ
つまり、目論見が外れて、東軍が劣勢で逆上して脅しに掛かったと。
じゃあ、東軍の順当勝ちとは言えなくなるんじゃ・・・。
自分を高く(高すぎるくらいに)売りつけることだけに関しては
天才的だったな。小早川。
ほんとは秀秋を無視して西軍を潰し、その後秀秋を潰すつもりだったんだろ
↓
つまり、目論見が外れて、東軍が劣勢で逆上して脅しに掛かったと。
どういう経緯で、こういう解釈になるのか理解できん
274 :
藤巻:05/02/18 00:53:06
>>270 なるほど、そうですね。
秀秋はいい場面で裏切ったといえますね。
しかし戦後、結局はつぶされる、てゆーか改易になりましたね。
当時、いくら平均寿命が短いとはいえ、タイミングよく死んでますね。
証拠がないので深くは語りませんが「乱心」「発狂」などの死因は、大方、ドス黒い背景が潜んでいるものです。
まあ、これから豊臣家を完全に乗っ取るわけで、まず秀秋が無事であるわけがありませんよ。
では三成についたら・・
これもダメかと。近江系(淀、三成)と尾張系(高台院、秀秋)
完全に水に油
とくに淀は秀頼がなんらかの理由で死ねば、秀秋が継ぐとみるはずで徹底的に叩いたと思います。
秀次同様、ろくな運命ではないかと。
小早川家は断絶
276 :
藤巻:05/02/18 01:11:17
ああ、嗣子なき断絶でしたね。
すみません。
秀長が長生きしてたら・・・
桃配山に隕石が落ちていたら・・・
>>271 最初から最後まで全て家康の思い通りにいったとは言えないだろうが、
それでも、戦前の状況から判断しても、勝つ可能性が高い方が勝っただけで、
まあ、順当と言って問題ないだろう。
途中で少しヒヤッとする場面もあることはあったか?くらいのかんじ。
宇喜多も本当は寝返りを認められず織田に潰されるはずだったのが、
荒木の寝返りで急遽織田の重要なポジションに変更された。
281 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/18 10:13:12
まあ、関ケ原で何が凄いって言えば徳川が事実上戦ってないってのが凄いわな。
秀忠が真田に一泡吹かせてるが、徳川の名に傷を付けただけで事実上無傷で西上
した訳で、或いは関ケ原で秀秋が日和見を決め込んで動かなかったとしても後詰
めで十分東軍が勝てると思えてしまう。
>>281 >秀忠が真田に一泡吹かせてるが
一泡吹かせられてるし。
283 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/18 10:38:13
ガ━━(゚Д゚;)━━ン
ば、ばかな!秀忠が到着する前に小野木、立花が先にきて家康本陣に突入するはずですがっ!
>>279 いや、関ヶ原で戦闘したこと自体が計算違いでしょ?
普通に、佐和山城を落として大阪に入る→脅しつけるという流れにしたかったんだと思う。
その為の調略だったので、戦場で寝返ってもらおうと考えていたわけでない。
だから、寝返りのタイミングが難しかったし、家康も催促までしなきゃいかん状況になった。
285 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/18 12:35:00
>>284 もっと詳しく語ってください。
>佐和山城を落として大阪に入る→脅しつけるという流れにしたかったんだと思う。
↑
@西軍約8万はその場合どこに?
A大坂に入るとありますが、その場合、毛利輝元は大坂城内にいるのか、いないのか?
Bもし大坂を攻めるとなると、東軍は家康の命令に従うか、従わないか?
>>274 その説だと改易された家はすべて、徳川の陰謀と言うことに
>>284 野戦に持ち込むつもりはあったと思うよ、
既に指摘されているが、三成らを無視して迂回は戦術的に無茶だろうし。
ただ、関ヶ原で高所を占められて不利な陣形になってしまったのは、
さすがに当初の予定通りとはいえないとは思う。
関ヶ原突破して、佐和山城抜こうとすると西軍を分断するけどね。
つまり夜半東軍が動いた時点で(諜報入ったし)、
関ヶ原で迎撃するのがベスト。というかそれしか方法がない。
大谷勢しか信用できる兵力しか居ない状態だから、
関ヶ原で待ち受けしない限り、佐和山抜かれて西軍は半身不随でしょう。
実はそういった観点から東軍が完全に優位だったのが関ヶ原当日だけとも
いえる。おそらく次の日には大津城おとした部隊が来ているので、
佐和山→大坂攻撃という案は無くなる。
無論そうであっても西軍は優位というわけではないけど、東軍もカードはもう
無い。
秀忠と前田がある
毛利本体も細川攻略隊も居るよ。
大体同兵力だな。
関ヶ原付近みると全然大兵力が使えないよな。
秀忠軍
北陸前田勢
大津攻略隊
小野木他、細川攻略隊
輝元本軍
これらの勢力が関ヶ原に到着するには
それぞれどれだけの条件をクリアすればいいんだ?
確率的に一番間に合いそうだった部隊は?
輝元or秀頼の出馬は一番可能性薄いと思うんだけど
>>291 秀忠軍 ・・・一週間(遅延理由真田との交戦)
北陸前田勢 ・・・二週間(丹羽との交戦・和議)
大津攻略隊 ・・・数日(大津城)
小野木他、細川攻略隊 ・・・一週間(田辺城)
輝元本軍 ・・・二週間(増田長盛の裏切りを警戒)
輝元は一ヶ月になってもおかしくないな(家康本隊が来ている事をしったらでそうなものだが)
北陸前田勢ももっと遅れそうだな、人質交換とか良い感じに時間稼ぎしている。
近江と美濃・越前でにらみ合いという感じだな。
>>288 先に動いたのは西軍。それを福島正則が探知して追撃戦開始。
福島が家臣の祖父江(のちの家康旗本、青山家長)を派遣して家康に
報告し、後詰めを要請。
西軍が関ヶ原の防備を固めてしまうと突破に時間がかかるので急いだ
のだろう。
確かに、関ヶ原に本隊を動かした方が西軍は有利なりそうだわな。
兵力を集結できるし、大津組とも合流し易くなる。
挙動が不信な小早川の隣に来るのは危険だし、事実そのせいで負けたが、
それだって近くで監視するという意味もあるから、
ぎりぎりの段階で裏切りを防ぐという観点からは意味はあった。
まあ、結果論を言えば結局防げなかったので逆効果だったが。
ところで、東軍兵力の総数がおかしくないだろうか?
岐阜城攻略戦に参加した福島、黒田、細川、加藤、田中、藤堂、京極
池田、浅野、山内、有馬、堀尾、中村たちの合計兵力が三万五千ほど
しかないのだが。
秀信ごときを相手に軍勢を全員連れてくほうが
ありえないし
>>295 家康の3万と井伊3千、忠吉3千をあわせれば7万1千。
他にもいくつか部隊があったろうし、だいたい数はあうのでは?
福島六千、黒田五千、細川五千、加藤三千、田中三千、藤堂三千、
京極三千とすれば、これだけで二万八千になってしまう。史実では
一万六千なのに。
池田有馬五千、浅野六千、山内二千、中村四千、堀尾五千とすれば
こちらも二万二千になってしまう。
実際は一万八千。
おそらく参謀本部が作成した兵力は西軍だけでなく、東軍もかなり
違っているのでは?
>>298 ところで、
その史実では、って数字はどこから出てきてるの?
ソース厨も大概にしたほうがいいぞ。
ソース厨って…出典を知りたいのは普通じゃん
全軍で参加しなかったのかもな
>>300 いや、大体このくらいだろう、程度の推測ならいちいち確認もしないが、
ここまで細かな数字で出してくれば気になるだろう?
つーか、根拠なしに出てくる数字でもないだろうし、
単純に出典は知りたいって。
自分も詳しい出典などは知らないが、たまたま司馬遼太郎の「功名が辻」を読んでいたら
岐阜城攻めを2手に分けるくだりでこうある。
「尾越渡河軍/福島正則・細川忠興・加藤嘉明・黒田長政・藤堂高虎・京極高知・田中吉政
生駒一正・寺沢広高・蜂須賀豊雄・井伊直政・本多忠勝、総数1万6千人
河田渡河軍/池田輝政・浅野幸長・堀尾忠氏・有馬豊氏・一柳直盛,戸川達安・山内一豊、総数1万8千人」
司馬さんは時代考証となる関連文献は徹底して調べてからそこに自分のオリジナルを入れて小説書く人だから
数字の間違いなどはほとんど考えられない。
河田渡河軍はほぼ実数(有馬豊氏は3万石程度の大名だったし、堀尾忠氏は12万石の大名で兵3千ほどだと思う)
尾越渡河軍はやはり少ない。
↑つまり尾越渡河軍はやはり参加した大名が清洲に兵を残しており、全軍出撃ではないといわざるを得ない。
特に福島正則は清洲の城主だから城には兵を残していて当然だろう。
ちょっと待て!!
確かに司馬遼太郎という人物は関連文献等調べて、面白い小説書いてる人物だけど
>数字の間違いなどはほとんど考えられない
これはないだろう
というか、そもそも関ヶ原合戦の各大名の兵数は、石高からの逆算に過ぎず
誰がどれだけ引き連れてたかなどの詳細はわかってません
だいたい豊臣家直轄領の代官奉行の多くは西軍に参加してるが
彼等は石田勢などに参加して、それは兵数にカウントされてないしね
あの、「間違い」ではなく、
数字は自由に設定できますよ。あくまでも「小説」ですから。
歴史的な考証ではありませんからね。
つーか、言うまでもなく小説はソースになりませんし。
それをもって「史実では」なんて言われては困ります。
無論
>>298本人はちゃんとした元ネタをお持ちなのだと思いますが。
308 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/20 02:11:12
>>291 昔、NHKの「堂々日本史」という番組で検証していたんだけど、
一番最初に到着するのは大津攻略部隊。その5日後に秀忠部隊が到着し、
前田勢はしばらく動けなかったみたく、何週間も後になるそうな。
西軍の舞鶴城(田辺城)攻略部隊も、実は細川藤孝の武装解除が遅れていたので
10日くらいかかるそうだ。
309 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/20 02:22:48
表:徳川VS豊臣
裏:淀殿VSねね
の戦い 明細↓
秀吉、ねね、淀殿の三角関係のせいで起こった迷惑な戦い
>>309 もし、言うならば
淀とねねは逆じゃないか?
311 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/20 02:43:25
まあ実際には木下一族やねねの側近近しい人物は西軍で一族でも大身のものは東軍に付いてるがな
やっぱ小身のものは北政所の言うことを聞かざるを得なかったのかな
輝元本隊は来る予定自体が立っていなかったから、
いつ来るとは言えんわな。
藤堂高虎や黒田長政は家康の天下を導くために公然と動いたようだが、小説や時代劇では加藤や福島らは三成憎しを煽られ
て家康に味方したという設定が多い。
しかし実際は加藤や福島も家康に豊臣の天下が簒奪されることを承知の上で家康に組したのではないだろうか?
それだけ石田三成を嫌っていたということになるのだろうが、主家を守るのも放り出しておのれの感情の思うままに三成を
追いまわしたり、秀頼の将来を考えることもなく北の政所の指図に何の疑いもなく従って家康のために働くなど,秀吉が生
前どれほど家康を警戒していたか長年秀吉に仕えていながら理解していなかったのだろうか?
この程度の思考回路の譜代が多かったことが秀吉の最大の不幸だと感じる。
>>314 しかし、晩年の秀吉は家康を警戒するどころか、
臨終の床で後事を託すほどだったからなあ、
少なくとも外見上は信頼しきっていたように見えるぞ?
実際に秀吉存命中は家康は完全に秀吉に忠節を尽くしているし、
秀吉自身も晩年は彼を信じてしまっていたのではないかね?
その上で家康が政権奪取まで狙っていたとは考えず、
家康と三成の対立を単に豊臣政権内の主導権争いと思ったなら、
家康につくことは別におかしなことではない。
まあ、いずれにしろ先見の明がなかったと言われれば、それはその通りだろうが。
仮想小説で西軍勝利を掲げるセオリーは
@小早川が関が原で西軍に味方する
A輝元が秀頼を擁して大垣に到着する(毛利・吉川は西軍として動く)
B上杉と同討伐軍が実際に戦闘状態に突入して泥沼化し、その間に上方では大津城や田辺城は陥落
ようやく東軍が西上した時には西軍に美濃・伊勢を固められて身動きがとれない。
Bのケースは展開の余地があると思うが、大津&田辺両攻略部隊の合流は心強い。
特に勇将・立花宗茂の存在は大きいのではないか。
遠く離れた会津との連携は難しいから、
東北で戦闘開始後にタイミングを合わせて挙兵ってのはまず不可能だろうがね。
>>317 完全にタイミングを合わせる必要もないけどな。
佐竹あたりが軍議の内容流すだろうし。
>戦闘状態に突入して泥沼化し
とあるように、一揉め、二揉めあった状態で挙兵
する方が動揺が激しいと思うしね。
>>318 戦闘が起こるまで待つってのも、同様に現実的ではないね。
西軍の陣容は家康に従って上杉討伐のために関東へ下ろうとする諸軍を、
関所で足止めしたり、大坂城に入って人質を押さえてしまう事で、
半ば無理やり自軍に組み込んだもの。
挙兵を遅らせては彼らが関東へ至り、家康の指揮下に入ってしまい情勢はより悪くなる。
さらに言えば、挙兵の計画は立てたが、実際に挙兵するまである程度待つということは、
その間に計画が漏れてしまう可能性がある。
畿内周辺にも家康派は多いから、そいつらにかぎつかれてしまうかも知れない。
実際、本来首謀者の一人であるはずの、増田長盛からして速攻で家康に情勢を報告している。
そうなってしまっては、まともな戦闘すらするまでもなく一網打尽にされてしまうし、
リスクが高すぎる。
結局のところ三成としては一刻も早く決起しなければ情勢は悪くなるだけだから、
決起のタイミングをはかること自体が現実的ではない。
出来るだけ速やかに、これが至上の課題であって、
この点で実際の三成はかなり上手くやっている、あれ以上を期待するのはちょっと酷だろう。
320 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/20 12:17:38
決戦やれば?
321 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/20 13:08:44
age
>>320 決戦って略さずいうと決定的戦闘。
決定的戦闘を行う際には、
1:撤退不可能な場所に誘引する。
2:包囲を行う。
3:一戦でもって殲滅できる様にする。
上記の条件を揃えるように努力しなければならない。
323 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/20 13:33:39
>>314 >この程度の思考回路の譜代が多かったことが秀吉の最大の不幸だと
>感じる。
当時の武将の思考レベルなんて、加藤福島に限らず皆その程度の
モンでしょ。徳川の家臣団だってけっして賢かったわけではない。
おそらく加藤福島は、関ヶ原に勝利した後も徳川は豊臣のよき
家来であり続けると信じて疑わなかったでしょうな。
少なくとも福島は確信犯
だって、家康の誓紙破りの大名間婚姻の相手方の一人だよ?
>>324 清正も同時期に家康から養女貰っているよ。
・・・おまけに離婚もしているし。
あまり問題にならなかったのは実は元家臣の娘だから(w。
326 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/20 14:20:37
age
>>324 だからと言って政権簒奪までみこして家康についたとは限らんでしょう。
というか、そこまで考えていたとは思えない。
福島正則は「主秀吉の主の嫡孫だから」と織田秀信の助命を求めたり
関ヶ原後もしばしば大阪城にいって秀頼と会見したりと
確かに徳川べったりの態度ではないね
なんか本当に感情のままに動いてる感じだな
徳川家との婚姻を責められたとき、
家康に近づいていた方が豊臣家の為なんだと言ったそうだが、
本気でそう思っていそうな気がするなあ。
正則は天下万民の為、あえて私情を捨て徳川を選んだんだよ
豊臣では天下を治めきれないのは明らかだからね
死に体の豊臣政権を無理矢理守るというのは、豊臣家への恩という私的感情を満たすだけのものに過ぎない
彼はそれを捨て去って、より大きな大義の為に行動したわけだ
二度と戦乱の世に戻らないよう、強力な力で天下を治めることができるのは、徳川だけだと理解していたんだろうね
これが、勝った後どうやって日本を治めるかという明確なビジョンをなんら持たないまま私的感情だけで挙兵した三成との器の違い
後に改易されたとはいえ、正則も本望だっただろう
豊臣の天下が不安定だったのは
他ならぬ家康あるいは七将のせいじゃないか?
連中が画策した以外、別に大規模戦争が勃発したわけでもない
火をつけて消した人間が天下か…
>勝った後どうやって日本を治めるかという明確なビジョンをなんら持たないまま私的感情だけで挙兵した三成
脳内ソースかよ
334 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/20 17:21:29
上げますよ
335 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/20 17:47:27
sage
釣られ杉ってものじゃあないか?
ここレベル低いな
338 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/20 19:22:42
>>332 家康は確かに問題だけど
秀頼が幼少だったってことが一番だろ。
たとえ家康が居なくても勢力争いが出てくるのは間違い無いよ。
あとは大名一人一人が大領を持ちすぎてることだね
江戸時代みたいに小大名をいっぱい作れば良かった。
逆に言うと主君が幼い政権を安定的に維持する為には、
絶大な力を持つ家臣がその後見にあたるのが一番なんだよね。
秀吉は家康にそれを期待してしまったのだろう。
それまでの家康の行動をみれば忠臣と信じてしまっても不思議はないが・・・・
自分があれだけの謀計と武力を使って天下人になったのに
家康を丸々信じてたのかは疑問だな。
まあなにも家康に対する処置をしなかったわけだから信じてたんだろうな
ちょっとでも疑ってたらなにかしらの処置はしてただろうしね。
あとは子飼いの大名どもを過大評価してたんじゃないかな。
>>340 >自分があれだけの謀計と武力を使って天下人になったのに
秀吉過大評価しすぎじゃないか?
秀吉が天下とれたのなんて官兵衛のおかげじゃん。
官兵衛を退けたのが間違いなんだよ。
官兵衛を過大評価しすぎ。
官兵衛になにができたよ?
秀吉の謀略の巧さは官兵衛と知り合う前から
見て取れるし武力についても同じ。
>>342 お前レベル低すぎるわ。
さすが三戦板。
相手にするの疲れるから抜けるわ。
さよなら
敗走w
低レベル同士で喧嘩ですか?
官兵衛が本能寺の変を聞いて「チャンスですよ」みたいなことを秀吉に言って扇動したから天下が取れたってのは本当かね?
IDがないと自演の判断がつかない
>>341 推測にすぎないが、
当然最初は疑っていた、というか警戒していただろうが、
晩年になり後継ぎも幼いという状況で、
家康が忠義を尽くしてくれればよいのだが、という希望的観測を抱いてしまった。
その希望的観測が家康の日ごろの誠実な態度に影響されて、
そういう信頼に変わってしまったのではあるまいか。
もちろん、完全に信じきっていたわけではないだろうし、
いわゆる5大老5奉行制もチャック機能を持たせたものだったのだろうが、
結局家康に政権の代行を委ねてしまったのは、そんな心理があったのではないかと思う。
後は信じざるを得なくなったというのもある
朝鮮攻めに入ってしまったしな
もしそれから事を起こせば、寿命で死んで大混乱になる
350 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/20 23:04:38
この戦い見ていると秀吉が気の毒・・・
せっかく苦労して農民から征夷大将軍の位まで上ったのに2代で滅ぶなんて・・
せめて5代目位までもては良かったのに・・・
あの世で絶対家康を恨んでいるよ。
352 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/20 23:06:51
家康の死後に、また関が原のような戦いがあれば勝敗はどうなったのか興味あるなあ
>>350 子供が早くできなかったのは不幸だったな
妾とやりまくれば良かったのに
秀吉が色狂いになったのはそのせいか?
自分も盗んだんだから・・・
ねねとの間にできていれば…優秀な子が産まれていたかも。
と、いうか素直に秀次に継がせていればよかったんだよ
ただこの場合、秀次が秀頼を粛清するという可能性があるが
>>354 若い頃からやりまくってるじゃん。
それで一人しか出来なかったのに、
晩年になって急に続けて2人出来るのは不自然だよなあ。
しかも、同じ腹だし。
359 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/20 23:38:42
>>353 東軍は、徳川秀忠または徳川家光
西軍は、毛利輝元または伊達政宗
350に突っ込みなしか
>>358 松ノ丸殿(京極高吉の娘)
三条局(蒲生氏郷の妹)
三ノ丸殿(信長の娘)
姫路殿(信長の姪)
加賀殿(前田利家の娘)
他長浜時代からの側室もいたな
種無しってのは辛いよな……>サル
>>359 伊達は・・・誰が味方するの?
毛利は36万石では勝ち目がないのでわ?
関が原の責任を取り福島正則ががんばっちゃう
>>364 でも、だれのために?
「あなたには守るべきモノがないのに!」
>>366 徳川に天下を与えたことによる息苦しい秩序からの開放。
>>361 長浜時代から余裕で側室はいたよ?
あと、対毛利戦の時に宇喜多直家の後家を側室にしているし。
秀吉の女好きは昔からで、当時としてもかなりひどかったらしい。
そのことをねねが信長に訴えて、
信長が秀吉にもっとねねを大事にしろという内容の書状を送ったりしている。
>>356 豊臣秀次の力量ってどのくらいなんだろう?
徳川信康程度だったと思われるんだけど。
372 :
藤巻:05/02/21 06:23:43
戦後、毛利家は改易、周防長門一国は吉川広家に与えると論功された時、広家はひどく狼狽して、
「周防長門一国は本家に、自分は結構です」といったわけです。
もし、広家が松永弾正、宇喜多直家ばりの悪党なら、そのまま論功を受けていたかもしれない。
私は広家は好きじゃないです。(てゆーかコイツのせいで関ケ原負けたとさえ思う時がある)しかし上記の件をみるに好感は持てます。
それに引き替え、あいつらはどうか・・・
主家の豊家がなんと六十万石の一大名に成り下がってしまった、さて家臣としてはどうするか・・・
福島なら「ばかな!あの戦さは豊臣家を磐石にするための戦さ!それがし安芸国など入り申さん!豊臣家にお渡しいたす!」とか
加藤も同様、「肥後は豊家に、それがしは結構でござる」
とならないとおかしい。
が、実際は二人とも何食わぬ顔でもらってる。主家が危機に立たされているのを知 っ て い な が ら !
上記の広家とはえらい差ではないですか。
清正・正則があれこれ板挟みに思い悩んだ逸話は多々ありますが、
ハッキリいって悩んでないで領地を豊家に寄進しろといいたい。幕府成立前ならできたと思います。
結局、奴らは裏切りもんと言われてもしょうがないのでは?
373 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/21 06:26:54
>>371 二人とも力量みせる前にヌッ殺されてますが・・・(^-^)
>松永弾正、宇喜多直家ばりの悪党なら、そのまま論功を受けていたかもしれない。
悪党という言い方は……。戦国だから、家柄も身分も無い者が
力を使い下克上で成り上がるのも手なわけで。
あと闇雲に主家に忠義を尽くせば良いってもんでも無いだろ。一族、郎党もおるわけだし。
自己の栄達も図りつつ主家の保全に努めるのが一般的な君臣の関係かと。二人は現に色々やっているわけで。
それに一大名になっても生きていけるし、お家も滅びない。そこを過去の栄光にしがみ付くから滅びるわけだ。
まぁ、よっぽど三成は性格か何かに問題があったんだろうな…同僚である加藤、福島
そして池田輝政、浅野幸長、黒田長政、細川忠興、加藤嘉明らに命を狙われるほどだから。
>>374 >まぁ、よっぽど三成は性格か何かに問題があったんだろうな…同僚である加藤、福島
>そして池田輝政、浅野幸長、黒田長政、細川忠興、加藤嘉明らに命を狙われるほどだから
というか、俗に言う七将の他に石田三成を嫌った大名っていたか?
確かに石田三成は横柄な態度があっただろうけど、
大谷吉継や島津義弘、宇喜多秀家などとのは友好的な関係を維持したし、
決戦当日の石田家臣団の玉砕ぶりを見ると、やはり人望はある程度あったわけで
むしろ三成を嫌った七将の方にも問題あったんじゃないかと思うんだけどね。
>石田三成を嫌った大名っていたか?
嫌ってはいないが人徳がなかったんだろうな…大谷を誘う時に三成は
「貴公は拙者と違い人望があり、信用されておる。貴公がくわわれば毛利、長曾我部が陣営に加わる(略」
と言い、頼んだそうだ。
ここからは推測だが…同僚であるから性格とかもわかるんだろう。
大名なんかは風評とか一時の付き合いでしか判断材料がない。同僚である大谷は三成に推挙され
共に吏務をした仲。そして大谷の人が出来ていてトラブルは無かったのではと思っている。
ただ、武断派と吏務派で多少の溝はできるだろう。そして性格が災いして溝の広がりに拍車がかかると。
377 :
藤巻:05/02/21 11:51:31
>>374 たしかにそのとおりですね。不用意に「悪党」など発言すべきではありませんでした。
>自己の栄達を図りつつも主家の保全に努める一般的な君臣の関係かと
↑
そのとおりですが、この場合、この二人には当てはまらないと考えます。
『主君に対する「忠義」ごとき観念などは江戸期から。』とよく言われるように、福島にしても清正にしても「次に自分たちを食わしてくれるのは秀頼様ではなく、徳川殿」と戦国期ならではの自己防衛本能が働いたのでしょう。
しかしここで待った!なのであります。
たとえば福島らが真田昌幸などのように地方の小豪族だったら話はわかります。先祖伝来の土地を守る、一族郎党を食わすために右に左に着くも致し方ないことであります。主君との連帯もあくまでドライ、これが戦国時代の特徴でしょう。
しかし福島正則、加藤清正の場合はどうか?先祖伝来の土地も一族郎党も持たない「只の百姓の出」なわけで、あそこまで大身になれたのも、ひとえに豊臣家(秀吉)のおかげであり、
しかも主君(秀吉)との結びつきは「ドライな連帯」ではなく「肉親的連帯」と言えます。
つまり結論を言うと、
「お ま え ら は 豊 臣 家 と 共 に 滅 び て 元 々 だ ろ ー が」
ということなのです。
他の大名が徳川に鞍替えすれども、この二人はそう簡単に『家臣を路頭に迷わすわけにはいかん』など他の大名のようにカッコイイこと言って鞍替え出来る立場ではないのです。
>>369 じゃあ長浜の前は?
それでも子供できなかったのね
>>377 同感
というか、他の戦国大名のように、鞍替えするのであればロジックとして理解できる
鞍替えもせずに、豊家大事と言っているんで、それならばできることがあるだろうと言いたくなる
真田(信)、直江、立花、小早川(秀)なんかは秀吉が一本釣りして味方にしようとした外様だけど
ちゃんと西軍について秀吉も大いに満足だろうよ
真田(昌)、直江、立花、毛利(輝)のまちがいじゃねーの?
383 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/21 14:02:56
384 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/21 14:12:57
福島、清正のできること
ステップ1 堺、博多と佐渡などの鉱山を豊臣家の直轄地に戻すように署名運動
ステップ2 容れなければ、京都所司代板倉勝重の屋敷襲撃
ステップ3 その後、堺の町を占拠、大砲や船舶その他軍需物資調達
ステップ4 清正は兵、武器を満載した船舶で太平洋側から江戸に向けて長駆し、洋上から江戸城天守に向かって砲撃。
ステップ5 混乱極めたところを上陸。江戸城占拠。徹底抗戦。
ステップ6 江戸に向かって諸大名が参集したところで大坂城で福島正則入城、秀頼挙兵。浪人徴募
ステップ7 淀、瀬田の橋を焼き、東西の連絡を遮断。正則は諸大名に檄文を飛ばし、江戸城陥落・秀忠自刃と流布。特に毛利には広島城を還すと宣言。
とうまくいきゃあ世話ない( ゚ _ ゚ )( 。 _ 。 )
なんで皆
そんな豊臣家にこだわるのよ?
関が原のキーは豊臣家の動向だった。
戦国の習いにしたがってどっちつかずは酷い目にあう。
豊臣も例外ではなかったって事だね。
秀頼がもう少し早く産まれ、普通の環境に育ったのなら違ったかもしれんな。
388 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/21 17:08:54
三成贔屓が多いからじゃないか
で、なんで三成が頑張るかという根拠を、豊家の安泰に求めるんじゃないだろうか
豊家が滅んでも構わないと言う前提だとすると、関ヶ原なんかやらなくてもよかったし
三成の行動は無意味ということになって、三成否定になりかねない
三成が頑張ったのは、豊臣の安泰だったのだろうか?
秀吉死去後に政争で負け、失脚した三成の挽回策だっただけかも知れんぞ
家康は豊臣の領地を削って東軍諸将への恩賞に充てたが
三成もどうせ同じことするだろうな
豊臣にとってはいずれにせよ迷惑なだけだ
三成が勝ったら、というか徳川が滅ぶか大敗北したらだが
豊臣の領地はけずらんだろ
250万石+αをみんなで分ける
みんなで仲良く分け合うかっての
名実ともに絶対的な盟主がいない連合軍の末路は言うまでもなかろう
394 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/21 20:36:35
こういってはなんだが福島正則、加藤清正を責めるのは筋違いな気もするよ。
彼等の立場からすれば、アレは当然の行動と思えるんですが?
関が原の際の豊臣家への処遇に関しては、あの両名は口出ししなくて当然。
なぜなら彼等は豊臣の天下を葬って当然の名文と理由がちゃんとあるから。
豊臣家は結果的に大失策となった朝鮮出兵の責任を取る必要があったわけですよ。
元寇じゃないけど無意味な外征で恩賞一つ無いわけですから・・
正則も清正も家臣を抱えた一家の長である以上、彼らへの恩賞を求めないといけないわけで
三成が憎いと言うのは世間向けの方便であって、三成が差配する政権だから
「喪舞らに恩賞無いんだ」といわなければ家中の統制は難しかったでしょう。
あなたがたのおっしゃるのをそっくりそのままお返しして
彼等は豊臣家に引き立てられた成り上がりでしかないのだから。
>>394 よくわからないが、恩賞目当てで東軍についたと?
恩賞くれれば西軍でも良かった?
396 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/21 20:44:52
でもうひとつ豊臣恩顧でいい目をしたという思いは
そのころの彼ら(の家臣)には無かったと思う。
五大老とか外様が大封を貪って政権を動かし、自分と毛並みの違う
近江吏僚が幅を利かせた豊臣家の何処に愛着や恩顧を感じる必要性があろうか
身内といえた秀長、秀次などは死去し、秀吉の子じゃないと(当時から)噂された
秀頼という幼子を主君にしなけりゃならない・・・
豊臣家の恩顧だというだけで内外に威勢を聞かせられた時代は秀吉の死で
終わってたのであり、彼らとしては自分の後ろ盾になってくれそうな
強力な主君を探す必要があったわけで、それは自分たちを朝鮮の死地に追いやった
豊臣である必要性はない。
徳川の天下で豊臣家がそれなりの大名であればいいわけだから。
397 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/21 20:48:07
>>395 失礼・自分で見ても分かりにくいね(藁
そうです。彼等は家臣に恩賞を与える必要があったんだから
与えてくれそうな人物について当然なわけですよ。
例え下心があろうと、恩賞より義理をとるようでは彼ら自身の
家中が統制できんでしょ。
397<つまり加藤も福島もこの時点では豊臣家恩顧の大名でも何でもなく,恩賞と所領安堵さえあれば
誰でも良かったということか?
それなら秀吉はこいつらを大名にしたのは見当違いだったというわけか。
そこまで言い切るとさすがにずれてると思うけどな。
豊臣家に見切りをつけたんだろ…秀頼は過保護で淀はアレだし。
400 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/21 21:02:32
というか自分たち(正則や清正)がどう思おうと、彼等の下にいる連中まで
同じ考えじゃないよ・・といいたいだけ。
清正やら正則やらがどう主張しようと、当時の豊臣家が傍から見て
頼りになりそうな主君とはいえんでしょ。
漏れからしたら、あの二人は秀吉のお陰だけで大名になれた
出世競争やらの苦労を知らないボンボンだから、自分たちの力量だけで
家中の不満を取り静めることも出来ず、他人のせい(三成)にしたり
家康に頼ったりするほか無かった無能
というつもりで述べたんですが(藁
彼ら二人はなまじ秀吉の親戚だっただけに他の連中ほど露骨にできんかった
中途半端さで元も子もなくしたけどね。
いや、天下は元々三法師(織田秀信)の物ですから
>>372 いや、福島・加藤はあくまでも豊臣家の家臣という意識だっただろうから、
自分たちの領土が増えること=豊臣家の領土が減ることとは思わないだろう。
むしろ豊臣家に忠節を尽くす自分たちの力が大きくなれば、
より豊臣家は安泰とすら思っていたかも知れない。少なくとも関ヶ原直後は。
結局はその後の15年間ですっかり徳川の犬にされてしまったわけだが、
最初からそのつもりではなかったと思うぞ。
403 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/21 21:47:10
第一、織田信長が明智光秀の謀反で死ななければ近江安土(現在の滋賀県安土町)
が日本の首都に成ってたのに・・・残念!!
光秀め!余計な事を!!
加藤・福島って普通の派閥争いだと思っていたんじゃねーか?
でも、七将の他は豊臣家の未来なんて望んでいないということに
きがつかなったのが致命傷だったんでは?
>>378 いや、そんなに詳しくはないんで知らないが、
押して知るべしってものじゃあないかい?
子供は一応一人はいたそうだね、早死にしたそうだが。
>382
真田(信繁)、直江、立花、小早川(秀包)という意味じゃないのか? たぶん。
石田三成に関しては、
みなもと太郎の「風雲児たち」第1巻で、
大谷吉継が言っているセリフが1番的を射ていると思う。
恩賞が欲しいだけなら、秀頼が出陣しても東軍についた?
しかし、福島や加藤を豊臣恩顧じゃないっていってる奴は
二条城の会見時の護衛等をどう考えてるんだろう?
秀頼と木村重成が代わっていればかわっただろうな。
>>409 純粋に旧主家に対する義理じゃねーか?
つーか、あそこでセッティングしなきゃ、
豊臣家に下手な事される可能性あるしな。
豊臣恩顧だけど、
豊臣家に対する恩顧か豊臣政権に対する恩顧は
別物と見るべきかな?
福島や加藤は前者しかみえず、後者はひたすら
嫌っていたのかもな。
なに言ってるのかわかんねーよ
確かにわかりずらいな、俺らが馬鹿なんじゃないか?
お前と一緒にすんなボケ
416 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 00:23:50
>>409 もし二条城で秀頼様が暗殺されそうになったら、この清正は命を捨てて斬り死する覚悟だ!
なんとも美しい話だが・・・待てよ?
二条城会見は豊臣家が徳川家に屈伏する歴史的場面。この会見を内外の諸大名に示すことが家康の狙い。
よって殺すなんてとんでもない。
そのような短慮をすれば徳川の声望は地に落ち、治まるもんも治まらない。
そのことをよくわかっている男が一人いた。
そう、加藤清正である。
つまり刺客などいないことを熟知した上で護衛を引き受けたわけである。
では、なぜそのような役を引き受けたか?
この会見で豊臣家を完全に徳川家に臣従させなければ世の中が乱れる元になる。清正にすれば、もう勝ち組なんだから乱は好まない。
そうと決まれば秀頼を首に縄をつけてでも会見に向かわせたいが淀殿が許さない。
ここは一計案じて、福島とともに忠義面して丸め込む作戦にした。
これが二条城護衛を引き受けた真相です。
豊臣家に対する恩顧か豊臣政権に対する恩顧は
別物と見るべきかな?
福島や加藤は前者しかみえず、後者はひたすら
嫌っていたのかもな。
豊臣家への恩顧なら秀頼助けろ
秀吉への恩顧なら秀頼見捨ててもいい
豊臣政権への恩顧なら奉行衆と仲良くしろや
中央集権とか地方分権とか一切出てこない素晴らしいスレ
とりあえず、家康・秀頼のあの会談については、
場所は京都とはいえ、家康の下に秀頼が訪れるというもので、
徳川と豊臣の主従関係が逆転したといえる。
つまり、その会談を無事に終わらせるということは、豊臣家存続の為には重要だが、
「豊臣政権」はその段階で崩壊したと言ってもいい。
福島・加藤らはあの会談で万が一にも家康が秀頼を害するかもしれないことを危惧して、
護衛についたのだろう。しかし、そもそも会談が行われること自体が、
名実ともに豊臣政権が終焉することになるのだから、
あの時点での彼らの行動は豊臣家のことを考えていたとは言えても、
「豊臣政権」のことを考えていたとはいえない。
>豊臣政権
もう二人は淀と秀頼を見て無理だと悟ったんじゃないか?
まあ、ぶっちゃけあの時点では、
加藤・福島・浅野ら豊臣恩顧の連中も、豊臣政権の存続は無理、
家だけでも残すように努力すべきだ、と考えていたのだろう。
ある意味非常に現実的だが・・・・・
本当の忠臣ならそうなる前に動けや、
と思うのは豊臣びいきの人間なら当然かと。
まあ、あくまでも豊臣びいきから見ればであって、
自分の家も守らなければならないから、彼らも大変だったのだろうが。
で、関ヶ原の戦いに話が戻るわけだがな。
お前らが豊臣家を没落させたんじゃ!っつーとこに話がいっちゃうわけだ。
ぶっちゃけ、秀吉死後の家康の専横に抗議の一つも上げずに、
自家の利益を第一考えて行動した連中がねえ。
関ヶ原を演出したのは家康だけど道筋を慣らしたのは誰かと
一大名に落ちぶれたのは誰のせいかと小一時間問い詰めたい。
でも、関ヶ原の時点ではそこまでは考えていなかったとは思うよ。
恩賞説が正しいとすれば、三成も恩賞をやるといえば東軍のヤツらは西軍になったのか
そうはおもえんがな
426 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 00:49:46
豊臣びいきは清正や正則が嫌いなのではなく、
くたびれた中間管理職みたいな清正や正則をみたくないだけなんす。(^^ゞ
関ヶ原の段階では、
三成憎し、という感情はそれなりに大きな要素を占めていただろう。
428 :
秀忠:05/02/22 00:52:06
>>426 安心しろや、もうじきリストラしてやるから。
ところで質問なんだが…関ヶ原に秀頼って出陣してた?
・・・・・ネタか?してるわけないだろ。
してないよ。
でも三成はこのままでは徳川が天下をとると分かっていたから挙兵したんだよね?
…豊臣のために。なのに豊臣の大将である秀頼は出陣しないの?
三成奉行辞めたあとも家康の専横続いたじゃんか?
三成が憎いたって関ヶ原まで何もしなかったぞ三成は・・・。
で、その状態になっても抗議の声を上げるどころか自家の
利益になるように家康にゴマすったとしか思えんのだが・・・。
家康の天下取りもそれに三成が立ち向かったのはわかる。
黒田や細川が早々に豊臣家を見捨てたのもわかる。
福島や加藤ってなんだったのかが判断つかんなあ、
主家を見限り大国を手に入れた戦国武将とみるか。
主家の行く末を心配した忠臣と見るべきか・・・。
主家を食い物にしたけど、さすがに滅ぶのは見かねた
という辺りに俺的には落ち着くんだが。
434 :
藤巻:05/02/22 01:05:08
秀頼曰く、
関ケ原で勝った?
内府!それは私闘だろ!?
だれが勝手にドンパチやれっていったんだ!こら!
てゆーか、なんでオマエが論功してんだコラ!
余の名代で戦った、と内府が言うんなら論功、領地の差配は余がするに決まってんだろ!
とにかく世上を騒がした内府の罪は重い!
江戸で謹慎を命ずる!
下がれ!
って六歳に言わすのは酷ですかね・・・
言われたとしても無視してるだろ。
中央集権とか地方分権とか一切出てこない素晴らしいスレ
437 :
藤巻:05/02/22 01:11:26
だねぇ
>>436 語ってくれると嬉しい。
関ヶ原の戦いでどう変わったのか語って欲しい。
地方分権から中央集権に移り変わったと理解しているけど。
439 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 01:20:13
>>436 え?誤爆www
なんなら語りなよ、ついてけるかもしれないから。
440 :
藤巻:05/02/22 01:39:08
武家諸法度、一国一城令、参勤交替、橋梁、城改築の届け出制、大船建造禁止などだいぶ大名が居心地悪くなったことは中央集権の表れ?
秀吉の時は私戦禁止、普請命令ぐらい?領国経営はほとんど自由だったから地方分権?
すいません、こんぐらいしか語れませんわ。
一国一城令なんて秀吉が先にやってるじゃん
だから徳川幕府の一城令なんて、西日本メインで東日本では出てないし、やってない
442 :
藤巻:05/02/22 01:44:09
ああ、秀吉の時からでしたか。
うる覚えですみません。
>>441 秀吉が一国一城令?
何年?
家康が秀頼を滅ぼして元和元年に武家緒法度と一緒に出したのが
最初じゃないの?
>>416 その推測が当たっていると仮定して、
二条城の会見の護衛は他にも福島正則が担当しているわけだが、
その福島は大阪の陣の時に8万石の兵糧を無条件に豊臣家に奪わせたわけで、
これはどう説明するの?
いや、漏れも確かに福島やら加藤はもう大封であるし、
これ以上の内乱は望まないとは思う。しかしそのような気持ちがある一方、
徳川家と豊臣家がこのままあやふやな関係でいってほしい。と思っていたんじゃないか。
実質的には政権は徳川家が握るが、ごく象徴的な盟主として豊臣家が存在するって感じで。
444<福島にしてみれば、もはや目の前で秀頼がなぶりものにされるのを見て見ぬふりしかできない自分の運命の愚かしさと
家康の横暴に対する精一杯の抵抗だったと思う。<兵糧米提供
もちろん福島家にとっては危険な行為だが、家康に天下を獲らせたのは自分だという自負心がある(あったであろう)正則にして
みれば豊臣家にこの程度のことをするのは当然だという思いもあれば、家康は文句を言えた義理ではないと開き直った部分もあったのではないか。
この時に正則は「三成すまぬ!やはりおぬしが正しかったわ」と思った・・・と書いたら小説の世界だけどな。
福島加藤がそんなんだったと主張できるなら
家康は絶対善だとも言えるな
家康が善だとなにか困ることでも?
それに歴史に絶対善だの絶対悪だのってのがありえないし
少なくとも”豊臣家にとっては”悪だったというだけ
福島、加藤や東軍についた豊臣恩顧の将はもう豊臣に未来は無いと思ったんじゃないか?
豊臣政権として頂点にいるのは無理だと。秀頼は幼く淀が頑固に好き勝手やっているし。
そこでせめて、一大名としてお家は存続させようとした。だから米も送るし、警護もする。
あとは加藤、福島が東についたのはねねの存在も大きい。
ねねは昔の織田と秀吉を見て次は豊臣と家康と思ったんだろ。
そこで子とも言える二人には東軍につくことをすすめたと。
449 :
(○´ー`○):05/02/22 17:34:01
神君・東照大権現様は天下万民のため、ただただ平和だけを願い、泣く泣く豊臣家を成敗し戦乱に終止符を打たれたのれす☆
(^▽^)ゞマチガイナイ!
一大名としても存続させようとするなら
秀頼をキチンと将軍家に臣従させるようにするべきでしたね
451 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 17:36:14
昨今の火葬戦記やら司馬厨やらのイメージでいくと
徳川家康って凄まじい邪悪な人物になってるが・・
漏れは、そこまで邪悪とは思えん。
で
>>448司馬厨にありがちな、ねねの意向という奴だが
ありえんですぽ。なぜなら、ねねは西にも身内を大勢抱え込んでる。
石田三成からしてねねと親戚関係あったわけだし宇喜多など
ねねの娘婿じゃねーかよ。
その西軍淀、東軍ねねって図式は前スレか前々スレくらいで否定されてなかったか?
453 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 17:43:53
454 :
ゼブラーマン:05/02/22 18:08:03
 ̄~^ヽ、;ヽ;;;;ヽ;:ヽ
'~" ̄ヽヽ;i;;;i;;;;i;;;;i
ノ:ノ::ノ;/;;;;;i;;i.
__,,,,,,,,,,,___/:/;/:/;;i::ノ/
/^~"´ ̄-‐‐‐'''"´/:/;ノ;;;;ノ://.
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;/;;'`"~、-''''''~^'''''ー-、_,,i:i、 ヽ`ヽ、;ヽ、,,,ノ. /"´ ̄~''ヽ. ,.. ‐"`'ー-''`''-、
;;;/~":、---、___/´ ,,i:''' :: ヽ. ヽ.`'''"´ /´ :::..,/ .:::ヽ
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;;;、;;;`''ー-,,,,,,,,,,,,,,_,,,,,、_ '' ',:::: `'ー .:::::::::;/:: ヽ、
;;;ヽ、ー、;;ー-、,,,,,,,、-‐''" .;´ ̄`, ',::::,,,,、- _、 ''~ ''ー
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:::ヽ、`''ー-、ー-、'ヽ"、i;. ヽ /" .::.. '::,,:ヽ. i :::::
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455 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 19:43:05
秀吉没後の徳川家康に好き勝手させたくなければ
関白太政大臣:豊臣秀次
大老:
豊臣秀長、前田利家、徳川家康、小早川隆景、蒲生氏郷
中老:
毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝
奉行:
浅野長政、増田長盛、長束正家、前田玄以、石田三成
安国寺恵瓊、小西行長
相談役(奉行格):
黒田如水、千利休
このくらいの陣容はほしいところで(ほとんど死んでるがww)
所詮無理ぽだなw
毛利と小早川は逆では
457 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 20:23:30
>>456 いいや毛利輝元では徳川家康と対等の大老は役不足ですから
逆じゃないです。
あくまでドリームチームのようなつもりですから。
>>416 >>419 二条城の会見の際、加藤清正と浅野幸長が立ち会ったのは
徳川頼宣と徳川義直の付き添いという意味のほうが実は大きいと思われ。
457<いつも間違う人がいるけど「役不足」の本来の意味はこの使い方の逆だ。
その人に対して役が不足である、つまり役が軽過ぎるというのが本来の使い方だ。
(これを間違う人は大人でもたくさんいる今回覚えてくれ)
あなたの言いたいのは輝元では貫禄不足ということだな。
それにしても秀吉より先に死んだ人が多すぎないか?
転生でもさせたのかい?(汗)
>>457 小早川が毛利より上では、
お家騒動で足引っ張られて実力発揮出来なくなるよ。
461 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 20:56:58
別に魔界転生させたいわけじゃないぽ(藁
ただ単に家康に対抗できるキャリアと指導力のある人物を
あげてたらドイツもこいつも
早く死にすぎてただけでww
小早川が毛利より上で騒動・・どうでしょ?陪臣じゃなく独立大名に
なってるし
457<「死んでる人多すぎ」ってご自身で書いてましたね。(笑)
でももしそれが許されるなら関白には秀次ではなく秀長でしょう。
「殺生関白」ではますます人心が離れてしまう。
464 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 21:02:02
それなんですが・・漏れは秀次は、ある程度の(少なくとも淀や秀秋よりはましな)
器量だったと思うのですよ。
秀長は関白にするより大老筆頭として家康や利家と丁々発止の牽制をした方が
まとまりがよいかとおもうのです。
465 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 21:11:06
じゃあ改訂で
関白太政大臣:豊臣秀次
大老:
豊臣秀長(内覧兼任)、前田利家、徳川家康、毛利輝元、蒲生氏郷
相談役(大老並):
小早川隆景
中老:
、宇喜多秀家、上杉景勝、前田利長、結城秀康
奉行:
浅野長政、増田長盛、長束正家、前田玄以、石田三成
安国寺恵瓊、小西行長
奏者番:
前田利利、毛利秀元、島津義弘、立花宗茂・・・・他
(名誉職として大谷吉継も)
相談役(奉行格):
黒田如水、千利休
467 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 21:24:02
失礼ww・・前田利政だすww
>>459 2chで「役不足」と書かれると、大抵あなたのような人が現れるが
言葉の使われ方なんていうものはどんどん変わってゆくものなのです
古文と現代文では同じ言葉でも意味が全然違ったり、それどころかまったく逆になったりしますよね?
おそらく話言葉でも現代人のものと昔の人のそれとではかなり違ったものになるはずです
言葉などというのは意思疎通の為の道具に過ぎないわけで
使用者である日本人の日本語の使い方が徐々に変わって行くにしたがって、その言葉が示す意味も変化してゆくのは当然です。
つまり言葉とは”生き物”なんですよ、これが解っていないと
ら抜き言葉への批判のように、いわゆる「日本語の乱れ」とやらをいちいち気にするような見当違いの輩になってしまいます
彼らは言語というものの本質を解っていないのです
言葉の本来の意味にこだわりすぎるのもまた然り
じゃあ、ちょっと聞くけど
全然+肯定語って、間違っていると思う?
オレはちょっと違和感有るけど、全然OKw
そんなことはどうでもいいからリリーちゃんの出番を増やせ!
471 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 21:38:07
>>455 軍事面で、豊臣直轄軍が五大老に対して強くないといけないから
政権の中心に福島、加藤も加えなければならない。
472 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 21:38:20
そういうわけで関白太政大臣は
( ・∀・)ノ前田リリーちゃんに決定
関白 宇喜多秀家 が一番安心
475 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 22:08:54
間抜けは毛利
戦うなら勝て
引き分け・口約束はありえね〜
毛利は分裂したから
吉川はホントは東軍に参戦したかった
他の武断派と同様にね
>>469 それは芥川龍之介もよく使ってる
間違ってはいない
関が原の戦いって家康が光成を関が原に誘い込んだっていうのが通説だけど、どうだろ?
誘い込んだなら自分が関が原に先に行って待ち伏せするだろ。兵法の常識だし。
それに息子秀忠や前田がきたら6万は増える。敵はせいぜい4万増える程度だろ。
あきらかに光成に誘いこまれたって感じがする。この点どう思います?
479 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/22 22:50:25
>>474同意
肖像画見てもものすごく貫禄あるし。
豊臣家のブレーン石田三成との関係も
すこぶる良好だったし。
まあ秀吉の生前に秀頼が幼くして死んだら、
彼に関白の座が回ってきただろうね。
本当に秀吉の子なのかさえ疑われてた
秀頼より、秀吉夫妻に手をかけて育てられた
秀家公のほうが、諸大名の信頼も
得られただろうし、そのほうが
結果的には豊臣家にとっては
よかったのかもしれない。
>>478 誘い込んで包囲されたとしたら間抜けだな
>>479 >夫妻に手をかけて
秀吉には可愛がられたけど
北政所や淀の方に特に可愛がられたという記録はないな。
何より関ヶ原以前は秀頼が不倫の子という噂は表立った意見ではなく、
猶子として扱われ、最初から豊臣家の継承権をもたない秀家との
正当性の差は比べ物にもならない。
秀家よりも、一時期は正式の養子になっていた秀秋のほうがまだ継承順位は上。
>>448 いやいや、貴方の意見だと「天下は徳川のもので、天下泰平のため豊臣家には黙っててほしい」と
思っていたんだったら、その福島正則の意向に反して豊臣家は内乱を起こそうとしたわけで
なぜ8万石もの兵糧を実質的に支援したのか分からない。
徳川家の一臣下として豊臣家が残ってほしいと思うなら、まず正則自身が説得すべきでは?
それをやらない上に、兵糧を支援するということは
「たぶん徳川が勝つだろうから、福島家を思うと動けない。でも豊臣への恩がある。
兵糧だけでも送っておこう」と思ったということでは?
そうなると朝鮮征伐の責任として豊臣家を見捨て、積極的に徳川側に味方したという仮説は
事実と違い、関ヶ原合戦時は「三成憎し」で動き、時代がかわったので徳川政権を黙認した
ということの方が正しいのではないでしょうか。
>>482 >そうなると朝鮮征伐の責任として豊臣家を見捨て、積極的に徳川側に味方したという仮説は
>事実と違い、関ヶ原合戦時は「三成憎し」で動き、時代がかわったので徳川政権を黙認した
>ということの方が正しいのではないでしょうか。
正直、そこらへんは福島も明確じゃないんじゃないの?
極々普通に徳川の天下と昔の主家の豊臣との間に揺れ動いていたと思う。
だからあんな中途半端な行動を起こしたと思うよ。
関ヶ原後よりも関ヶ原で東軍に味方した理由や心情の方が重要だと思う。
484 :
藤巻:05/02/23 00:38:23
>>464 たしかに秀次が生きていれば、たしかに形になって、ああも早く政権纂奪されなかったかもしれませんね。
秀次といえば小牧長久手の敗残が印象的ですが、べつに彼の将器がどうこうというわけではなく、
大政権の世継が幼いとたいてい纂奪される、と思うのです。
秀吉が三法師にしたように秀頼を操る輩がそぞろ出てくるのは自明でした。
たぶん謁見の間で家康は秀頼に色々言ったことでしょう。「前田は謀反の兆しあり」「三成は隠居させました」「上杉は謀反人なので会津まで行って成敗してきます」等など。
秀頼はおチビなんで家康の言うことは理解できません。また淀みたいな無位無官の側室には政治向きの話などしても理解できません。
ところがもし、秀次が世継だったら、家康も子供だましのような発言は簡単にはできないでしょう。
よって会津征伐も秀次は許可しないでしょうし、よって関ケ原は発生しなかったと。
ただ政権延命が確かなだけで、その後は秀次の力量次第でしょうか?
秀次が生きててその力量が確かなら、その後は秀頼には継がせずに
自分の子に継がせただろうな
>>483 >関ヶ原後よりも関ヶ原で東軍に味方した理由や心情の方が重要だと思う。
同意。ただ
>>482は、
>>396からの仮説である
「福島や加藤は秀吉死後、豊臣恩顧ではなく、徳川家康を天下人にするために
東軍に加担した。」という説を否定しているだけと思われ。
自分の仮説は、やっぱり福島も加藤も「今後も豊臣政権が続いてほしい」と願い、
そのために関ヶ原合戦では「豊臣政権のためには石田三成みたいな陪臣を排除しなくては」
と(彼らなりに)考えて東軍に味方した。
しかし彼らの器量が足らなかったのか(結果的に)徳川政権へ移行し、
もう50万石以上の大大名となって、身の保身からそのまま徳川家家臣となった。
というのが妥当で、
>>396のように徳川家の天下を目指して東軍に加担したとは思えない。
487 :
藤巻:05/02/23 09:03:06
つまり家康が豊臣家を大老としてずっと守ってくれる、「内府殿は律儀者」の評判に福島と清正はコロッとだまされたわけですね?
>>487 福島はそういう誓紙もらったんじゃなかったっけ?
これからも秀頼様も守り立てますっていう感じの・・・。
>>487 他にも騙された奴がいるだろ
秀吉も布石を打った上でそれに賭けたんだろうし
最初から豊臣排除に加担したのであれば、関ヶ原後に大坂まで
なんであんなに時間がかかっているのか疑問なのだが
491 :
藤巻:05/02/23 13:04:05
しかし家康の前田利長に対する横車の時点で七将のだれかが抗議しなかったもんですかねぇ・・・。
前田家が謀反するなんて諸大名は本気で思ってないでしょう。
「ああ、内府の天下取りが始まったな」と誰もがおもったことでしょう。
清正や正則らは「この時点」で律儀者はただの仮面であり、家康の真の野望に気付くべきではないでしょうか。
父親葬儀で帰国しただけの利長をいきなり謀反人扱いするのは、あの「鐘銘事件」と比肩するぐらいの言い掛かりと言えます。
となれば自分らは三成を成敗する前に家康を成敗する算段を考えるべきでした。
どうも福島あたりは家康が天下取り目指してることを知った上で関ケ原に参加したと見てますが。
なんかまとまりのない文章になりましたが、
結論として
「前田家横車事件」を恩顧大名が異議を唱えず黙殺した時点で、家康を天下様と認めたわけです。
>>491 あの事件も横暴だね
その他にも遺訓破り等の横暴は目に余る
天下様かどうかは違うと思うが横暴が通っていたのは事実
ただそれがそのまま豊家滅亡に賛成であったかというとやはり後日の言動から
反対であったと見るのが妥当であろう
横暴を黙認する以上に、積極的に豊臣排除に動いたという形跡はあっただろうか?
黒田等は関ヶ原時に徳川の家臣のように動いているが
言い掛かりに忍従し、外様最大の石高を守った前田家
売られた喧嘩を勝って結果三十万石に転落した上杉家
494 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/23 13:35:24
>>493 まあねぇ。
しかし前田利家は秀頼の傅役でしょ。死んだら当然、利長が傅役になるわけで。
その秀頼の傅役がもう一人大老に人質を差し出すというのは、なんとも・・・
はっきり言って忍従すべき事柄ではない!
しかし、まあ、ババを引かなかった訳で、前田家も苦渋の選択だったわけで。
かわりに上杉が引いてしまったというだけの話か。
遺訓破りの件で家康が他の4大老5奉行と対立したとき
前田邸には4大老5奉行他多数が集まったのに対し
徳川側には伊達や藤堂他福島等が集まった、福島はこの時点であっさり家康についてるw
清正はこの時点では家康と敵対していたが前田利家が死んだら家康側についてる
特殊なのは大谷、この時点では家康についていたりする
>>495 大谷は秀吉の遺言を守ることより、ドライに情勢を判断して家康についた気がする。
関ヶ原前の三成の誘いにも10日以上反対し続けたし。
497 :
藤巻:05/02/23 14:08:43
>>495 ああ、たしか利家が「伊達は普段から目をかけているが、いざとなったら奴の鉄砲隊が全てこちらを向いておったわ」と半ば呆れ、半ば舌を巻いた逸話の出来た時期ですね。
福島の心胆これで読めた。奴はクロです。
だいたい太閤が私婚すんなと遺命したら、守れよ。といいたい。
そこからして奴は間違っています。
福島とか清正って使えないな
だいたいたいして手柄もないのに秀吉の親戚というだけで20万石という大名になったようなもんだしな
三成とかの5奉行と比べると能力的にも劣っていたのでは
大谷も最初は上杉攻めに加わろうとしたが三成に説得されて西軍陣営入りだっけ?
まああれか無能な小人が優秀で出世頭な少年時代からの知人に嫉妬して恩人豊臣家を裏切ったというところか
行動がまるでドキュンだな
そういえば清正とか福島は三成を殺そうとしたりドキュンっぽい行動多いな
>>498 三成の軍事能力は置いといて清正の軍事能力だけど、関が原時に小西領に攻め込んで負けたりしてるけど
小西行長不在だというのに清正はいまいちだな、小西行長が関が原に6000連れて行っていたとしたら、主力不在
の相手に清正無能だなと言うことになる、関が原にろくな戦力を連れて行っていないとしたら関が原で小西が苦戦し
肥後で清正が苦戦したのも分かる
その無能な清正に散々追い散らされた朝鮮軍の立場がn(ry
福島や清正は結局、狡兎死して良狗煮られるって気持ちだったんじゃねーか?
つまり、秀吉の国内統一の事業の間は武功立てて出世したのは良いが、統一
してみれば、裏方だった三成とかの奉行が表に出てきて自分達の出る幕がない。
大領の主である自分達はいつか奉行達に追い落とされる!と勘違い してもおかしくない。
福島や加藤は何で自分達が戦略的ハートランドの地をそれなりの大領で任じられたのか
理解していなかったのでは?
ついでに、基本的に奉行は三成とかの官僚系の人材がなったけど、浅野長政とか武将でも
奉行になれたことから、政権を担う人材とみなされていなかったとも思われる。
こういっちゃなんだが、福島や加藤って過大評価されているのでは?結局何処の大名にでも
いる侍大将クラスの人間の主家が天下人になり出来星大名になった印象がある。
それで、結局意識改革が出来ずに中途半端に武将(大名ではない)で終わった。
徳川家の武将見ると、やっぱそのへん差があるように思える。
504 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/23 15:07:53
そうだね!
西軍は皆優秀で義理固いんだよ!
東軍は軽薄なアホばっかしなんだよ!
とにかく東軍が勝ったのは何かの間違い!
西軍はとにかく運が悪かっただけなんだよ!
>>496 大谷は意外と現実的で状勢判断が的確だよな
大谷吉継が西軍加担したのは、朝鮮役で小西側について
加藤清正と対立したのが一因では?
>>504 おれもそう思う。関が原の両軍の布陣や決戦前後をみると西軍有利。
息子秀忠がきてないし、関が原では笹尾山の毛利、松尾山の小早川、そして前面に三成ら主力組と完璧に囲まれてるし。
戦略面ではどう見ても家康の惨敗。
>>506 だな。
せいぜい5000人までが限界だな。何万もの兵を率いる器ではない。
>>507 大谷は三成と仲がいいからだろ。
自分ではたぶん豊臣側が負けるってわかってたと思うよ。
けど、そういうとこが大谷かっこいい。
秀吉配下のときから前線で戦う武将じゃなくて兵站とか裏作業だっただろ。ある意味それが一番難しいんだけど。
世間では幸村、幸村いってるが大谷のほうが100倍かっこいいし強いだろ。
勝手に西軍を潰してくれる連中を味方に付けた家康より
東軍を討つ動機の弱い烏合の衆ばかりの西軍が戦略面で上???
三戦板らしくていいなw
>>503 徳川家の武将も大して変わらないと思う。特に、四天王。後の官僚系を除くと、
大名レベルの視点を持ち合わせたのは酒井忠次、石川数政くらいじゃね。
「結局何処の大名にでもいる侍大将クラスの人間の主家が天下人になり
出来星大名になった印象がある」
ってのは卓見だな。
>>508 だいたい5000人くらいまでしか率いなかったが?
戦略面ではどう見ても家康の惨敗だとか、
大谷のほうが100倍かっこいいし強いだろとか、
三戦板厨ここに極まれりって感じでつね。
>>512 関ヶ原合戦二日前まで東軍四万を率いていたのは福島正則
>>514 じゃあなんで家康が来るまで動かなかったの?
あるいは4万率いるだけの器だったとか?
>>511 四天王が加藤・福島等より優れた家臣ってのは
関ヶ原後、自分達の出番がなくなり文官派が重宝されるようになっても
文句を言わず領国を無難に納めたところだろ
本多佐渡なんかに対する不満もあったろうにそれでも
七将みたいに暴発はしない、その佐渡守も自分の知行は最小限で留めており
その辺が三成と比べて一枚も二枚も上手
息子の正純はその辺が解ってなかった、ある意味三成と似てる
>>511 酒井はともかく石川のどこに大名レベルの戦略眼があったのかとw
勝手に動かせる訳ないだろ
別に福島が率いてたわけではないと思うが。
とりあえず、岐阜城は落しているな、先発隊だけで。
>>519 それも家康に皮肉を言われた後にね
間接的に家康の指揮下ともいえよう
>>520 皮肉っていうか、発破かけられてって感じ?
しかし、この作戦戦術レベルではまったく見事なものといっていいように思う。
>>521 堅城を捨てて寡兵でとっこんでくれる織田信秀相手なら誰でも楽勝ですよ?
秀信何考えてたんだろう?重臣が東軍につくように勧めたのに西軍について
で、また重臣の進言蹴って野戦に持ち込んで
結局岐阜城を大して保持できず負け
信長の孫といっても凡将か?
>>522 一当てしてから直ぐに引っ込んで籠城に持ち込むってのは常套手段、
これを防ぐには敵地において敵軍を完全に捕捉撃滅しなければならないから、
結構難しいことだよ。
というか、別に野戦だけで負けて終了って訳でもないし、
ちゃんと退却はして籠城戦を行っているが、それでも1日で落城。
逃げ帰った直後でそりゃあ士気は落ちていただろうが、
それでも1日で落したのはたいしたものだし、
西軍の援軍を許さなかった電撃戦はなかなかなものではないかな?
>>516 三成も、筑前の大領断っているよ。
まあ正信って、三成と違って戦下手ではないはずなんだよね。
三河一向一揆を指揮して家康と互角の戦いをするし、
各地の一向宗で武将として活躍したっぽいし・・・。
経歴から本質は農本向きの行政官でかつ武将なので
そういった意味合いでは浅野長政に近いと思われ。
最も浅野長政は外交官としての側面があり、
正信は謀将だけどね。
朝鮮の役で、戦線が延びきりすぎたことを察知して諸将を説き伏せて戦力を集中させ、間接的に碧蹄館の大勝を演出した三成だが
逆に積極戦に関しては決断力に欠けているきらいがあるね。重臣の島や、島津が求めた夜襲を悉く却下したり…
所詮は野戦指揮官ではない
そんなものが大軍を率いたら敗北するに決まっている
>>527 しかし、8万だの7万だのの大軍同士、
しかも当時の軍事的技術で夜襲ってのは現実的じゃあないと思うが?
西軍は三成の一人相撲
>>529 当時の戦術で夜襲というのは普通
そもそもこれだけの大軍が戦うのは前例がない
主将に祭り上げた毛利の動きが鈍くて
三成自身が立案者と大将を実質兼ねないといけなくなったからな
小身の三成では肝心の実力(兵力)が無いのは仕方無い
>>531 少数の兵で夜襲というなら分かるが、
大軍同士じゃあバレるでしょ?ってこと。
特に大軍同士では当時の技術では隠密行動自体が難しいし。
夜襲は少数精鋭がやるものじゃない?
日露戦争で一個師団丸ごと夜襲した例はあるが
>>533 島津も全軍でやるとは言ってないでしょ
まあ最終的に全軍で行くにしても、最初は1万とかね
それに絶対ばれないとは思っていない
精鋭が必要ということになると、すでに西軍は負けだね
>>534 7万8万という大軍に影響を与えるのに、
少数では嫌がらせ程度にしかならないでしょう?
少なくとも数千はいないと。
で、当時の軍事技術で数千って規模での夜襲は現実的ではないのでは?
ってことですよ。
「敵は遠路から来て疲れているから」夜襲したい、と申し出たんで>島とか島津とか
神経戦が目的じゃないの?休息させず眠らせないのが狙い
だから河越夜戦(これは信憑性に乏しいとされるが)みたいに鮮やかな成功をしなくても
>>539 だって互いに相手がどこにいるか分かっているんだよ?
昼間なら肉眼で確認できるくらいの距離で、
数百程度でも普通ばれるでしょう。
>>541 まあいるのがわかっていてもできないことはないし
昼間なら確認できても夜なら見えない
>>543 そんな距離で睨みあっていて、見張りも立てていないとでも?
>>544 当然見張りぐらい立てているでしょ
でも戦国時代は基本は誰でも立てているけど
>>545 どこから来るか分かっていてしかも極近距離、それで見張りがいて、
それでもばれないって可能性がどのくらいあると思う?
島津軍の押川公近が直接偵察してきた結果の進言だから
あてずっぽうの奇襲じゃなくて少なくとも情報収集で穴がある、と判断したとみるべきだろうな
>>546 では、戦国時代等には夜襲は成功しなかったという主張なの?
というか、島津の夜襲案を三成が蹴ったという話自体、
島津の戦闘不参加を正当化するための作り話って説もあったと思うが。
>>546 上の方に書いてあるけど夜襲しようとした理由はわかる?
ばれないからという理由ではないよ
もちろん、効果がないのにやるということでもないけど
>>549 あるね
でもオレはあったと思う
まああったということで話を進めよう
>>548 関ヶ原のような場合はね。
敵軍の居場所が分からない、
あるいは分かっても距離があってどのルートを通るか分からないというなら、
成功の可能性も高くなるでしょう。
しかし、当時西軍は大垣城に籠城していたのだから、
城からの兵の出入りがあるかどうかだけ確認すれば動きは直ぐ分かる。
見つかる可能性のほうが圧倒的に高いでしょ?
>>552 どうやって確認するの?
他の合戦では、確認しなかったの?
>>553 絶対にばれないという保証はないよ
絶対に勝てるというのもない
夜襲って奇襲とイコールじゃないでしょ
寝入っている時に敵が来た、となれば混乱するし
見張りに見つかっても迎撃体制が整わない隙に攻撃かけられればそれで足りる
当時もこういった感じの意見の食い違いがあって
島津は三成をみかぎったんだと思うが
(三成の否決理由は違うが)
>>554 この場合は相手の城と3キロ程度しか離れていない場所にいるんだから、
そんなに難しくないでしょうが。
>>556 そんな程度の夜襲で勝てるならあらゆる合戦で夜襲が使われていると思うが?
>>559 有効な作戦であるということだよ
夜襲だけで、決戦に勝てるという意味ではない
>>558 そうすると城攻めの場合は、夜襲は成功しない?
10km以上離れないとだめ?
夜間の軍事行動ってのは基本的に難しいもの、
そんなに気軽に出来るものでもないと思うが。
>>561 そりゃあ、成功しにくいでしょう。
無論相手が大軍過ぎて油断しまくっているというなら話は別だけど。
>>560 夜襲なんて使われていない合戦の方が圧倒的に多いと思うがどうよ?
>>562 気軽にやるとは誰も言っていない
島津がやると言っている
>>563 成功率も全部考えて、やるべきだと判断したんだろ
島津のいうことは全部正しいってわけでもないと思うが。
>>569 そりゃそうだ
でもいつも間違っているわけではない
島津は戦の素人だと思っているので?
>>568 で、その状況が関ヶ原前夜の時は、
普通に考えて夜襲には適していなかったと思うがのだが?
戦上手の島津が言うんだから間違いない、と言われればそれまでだが。
島津は奴素人の三成が不可解な理由で提案を却下したこともあって
西軍には勝ち目がないと覚悟したんだろ
夜襲云々もそうだけど、毛利輝元出馬を待つべきだという宇喜多などの意見もでて方針自体がかなり混乱していたようだね
やっぱり第一人者に実力が伴ってなかったからかなこれは?
同じ烏合の衆でも東軍は一応意思決定がまだ早かったし
>>571 ばれるから、だめだということなのか?
上の方でも書いてあるが、警戒部隊が気づいても本隊が臨戦態勢でなければ
有効だが
>>573 島津の提案の却下を見ても、やはり三成が主導権を握っていたんだろう
宇喜田の話は初耳だが、もしそうだとすれば、義弘は西軍はみんな無能だと感じたに違いない
>>574 だから、そんなに簡単に有効に出来るなら、
もっと頻繁に使われているはずでは?
夜襲は頻繁に行なわれているが…
織田・浅井朝倉が対陣して結局本隊決戦しなかった江北の陣では、少人数の夜討ちが積極的に行なわれた例もある
島津の言うことに間違いはないってのが前提になっているんだよね、この話は。
それなのにそれを却下した三成は馬鹿だって感じで。
しかし、状況は夜襲に適していたとはとても思えないし、
だからこそ、そもそも夜襲の提案自体がほら話ではないかと私は思う。
>>576 基本線として、常に使うということはあった
それから、あの時の状況で有効と判断したから義弘は提案した
無効なものを言い出したというのは考えられない
それとも義弘は状況判断できなかったということか?
>>578 つまり島津を守るためのほら話ということか
もし夜襲がありえない状況なら、もっとマシな嘘をついた方がいいと思うが
なぜありえない嘘をついたのか?
夜襲は島左近も進言した
これは夜襲そのものより、遠路を来た東軍兵士を疲れさせる目的だったんだろうな
歴戦の島と島津からすれば、「逸をもって労を討つ」機会を逃したくなかったんだろう
島津が提案した夜襲って決定的な効果がない程度の、
少数によるものなの?
だったら、その程度はやっても良かったのではないかとは思うが、
そういうことなのか?
>>582 規模は、オレはわからない
オレとしては、島津らが先導して、いけるところまでやってみるという夜襲じゃないかと
考えているが
>>581 左近が進言したというのは初耳だが、いつのこと?
確か左近は島津の夜襲案には、
家康ごときは恐れるに足らないから必要ないと反対したのではなかった?
>>584 左近が提案したというような話もあったかと思ったが
左近が家康を恐れるに足りないとは言わないと思う
左近の夜襲のソースは『関原軍記大成』
ただしこれは島津とは進言した日が違う。1日前だったと思う
1日前じゃない。大分前だったorz
>>587 その話ではその時は確か島津も夜襲に反対したのではなかった?
まあ、そんなこんなで、島津がやる気を失ったという方がオレとしては
理解できる話の流れだ
西軍が無能というのはもっと先にわかっていそうなもんだが
ただし、だから当初東軍につくつもりだったと思う
それが拒否されたので最善を尽くそうとしたが、西軍のあまりの状態に
さすがに愛想が尽きたんだろう
抗瀬川で、小競り合いがあったけど
あれも小規模だからやるべきじゃなかったということなのか?
小さいな勝敗でも士気の上下については侮れないものがあるからな…
天元実記によると、
島津が夜襲の提案をしたが、
島左近が反対したので採用されなかった、
その際左近が自分は武田家の山県に使えていた頃家康をよく破っていた、
と述べたことが書いてあるそうだ。私も原典を読んだことはないが。
いかにもうそ臭い話で、島津の夜襲提案の存在自体が疑われる理由のひとつ。
>>590 いや、小規模ならやってもいいんじゃない?って意見はだしたが、
小規模ならやるべきじゃあないなんて意見は出てないよ。
>>592 左近が武田の家臣であったというのに疑問が持たれているんだよな
オレとしては、左近じゃなくて、三成が別の理由でということであれば
納得できる
ところで、島津が夜襲を提案したということの、
主たる根拠は何によるんだっけ?
598 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 00:55:17
実は、
島津が夜襲の提案をしても、
それが早口の鹿児島弁だったため誰も理解できず、
スルーされてしまい、
それで義弘が一人ふてくされてしまっただけって
話じゃないの?w
>>598 それはないだろ
じゃあ決戦当日も命令を伝えたけど、島津は何を言っているかわからなかったんで
ぼーっと立っていたとかw
伏見城も何を言ってるかわからず、門前払いw
600 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 00:59:38
オイの考えとる戦ば理解できんとか
ゆるっしゃたもっせ
もし、島左近が武田家に仕えて云々って話が書いてあるものにしか記述がないなら、
それはかなり疑わしいと言わざるを得ないかと。
602 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 01:01:15
薩摩弁しか喋れず中央からの使者とは通訳がないと話せなかったのは義久の話しで。
義弘は中央の言葉ペラペラだよ。
ところで、皆さん、
一般に島津が夜襲を提案し却下されたのは、家康が到着した日と言われていますが、
その日は昼頃に家康到着、その日のうちに抗瀬川の戦い、
夕刻ころには、家康が佐和山をへて大坂に向かうという情報が入って、
それを阻止する為に行軍準備。
そして翌日未明には関ヶ原の戦い開戦と、
夜襲をするかどうかでもめるような時間自体がなかったことを忘れていませんか?
604 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 01:02:45
>>599 伏見城の門前払いの件も事実ではないけどね。
最初っから義弘は入りたくなかったらしい。
>>601 それはそうなるねえ
でも歴史本にも結構紹介されていたかと
それも誰かが言い出してみんな鵜呑みにしているだけかもしれないけどね
他に出典はないの?
607 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 01:06:58
>>604 その件は島津が江戸期になってから作った
義弘の行動をカバーするためのホラ話。
なんにせよ鳥居元忠ならびに徳川兵は全員死亡で死人に口なしだしさ。
そんなの信じてちゃダメ。
>>603 30分くらいは、もめれたんじゃないの?
5分でもいいけど
>>608 まあ、あったとしてもその程度だね。
というか、まずは夜襲案の出典を見つけてきてからの話ではないだろうか?
>>609 厳密に言うとそうなるけど、歴史本に書いてあるからと言うことでいいんじゃないの?
出典を明記してからということになるとなかなか話ができなくなる
もちろん出せるのであれば、出した方が全然良い
611 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 01:15:07
>>607 ホラ話しというよりは。
島津義弘はあくまで形の上では秀頼の命令たる「上杉討伐令」に参加してたんだし、
家康の命令にしたがうのは当然、
だから義弘は東軍派、西軍派とか関係なく、指示通り伏見城に入ろうとしただけ、
多分、その時点では義弘は状況を理解してなかったと思う。
それを見た鳥居元忠が三成に近い島津義弘を警戒して門前払い食わすのは当然。
612 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 01:15:50
>>602 >薩摩弁しか喋れず中央からの使者とは通訳がないと話せなかったのは
>義久の話しで
なんかすごすぎ。もしそうだとしたら国内と国外の区別が曖昧だと
いうことになる。秀吉にとって、朝鮮も明も、薩摩の延長線上で
しかなかったのかもしれない。外国を攻めているという自覚が
なかったのかも。
613 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 01:17:40
典型的な三河武士の鳥居なら誰だろうと入城させなかったんだろ
鳥意外だと内藤と松平とかいたっけ
>>611 さすがにそこまで義弘が事情に疎かったとは考えられない
そこに至るまで何度か会談しているので何らかの密約があったんじゃないか
>>610 しかし、夜襲提案は事実かどうか怪しいという話もよく聞くよ?
否定側からは怪しいような資料に書いてあるという話が出ているので、
それを否定するような反証を出さないと不利でしょう?
616 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 01:20:50
しかし義弘が伏見城にもし入った場合、
三成ら西軍勢が攻めてきたら驚くだろうな。
どうするつもりだったんだろう?
>>615 まあ苦しいことになるねえ
では島らが笹尾山で健闘したというのは、出典はあるの?
>>616 最悪死ぬつもりだったのでは?
あるいは、切りのいいところで開城
619 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 01:25:38
>>612 今でも沖縄とか北東北とかはそうだと思うが。
もっとも今はテレビ、ラジオの普及で標準語を話せなくても
理解する事は日本の国民なら誰でもできるんだが。
620 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 01:33:06
>>618 うーん、義弘は最初から西軍派だろう。
確か数ヶ月前に「徳川キモイ、ともに徳川を倒そう」といった内容の書状を三成に送ってるしさ。
しかし一旦、伏見城に入城したら西軍と戦ったのかな?
「治部、助けてくれ」とは情けなくて言えないだろう。
しかし三成も義弘を殺すの避けたいだろうし微妙。
適度に戦って討ち死にせず、生還するんじゃないかな?
>>621 その本は、丸々全部正しいと確認されているの?
623 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 01:36:22
>>620 義弘が西軍派という意見は賛成だが、
その「徳川キモイ」の手紙の件は2chの書き込みしかソースないんだけどね。
>>620 そんなの送っているの?
で、現存してるの?
見つかったらヤバイと思うが、誰かが隠していたのかな?
>>621 では、関ヶ原時の各軍の軍勢の数の出典は?
関ヶ原軍記大全あたりに大体はあったはず、
軍勢の数は一般的なものは旧日本軍が編纂したもので、
各大名の石高から試算されたものが良く使われているね。
>>626 軍勢の数は、関ヶ原大全に書いてあるの?
それが正しいと確認はされているの?
>622
関原合戦進退秘訣とかにも、
島左近は奮戦したが、黒田隊の鉄砲で撃たれたとか書いてある。
まあ、これは健闘と言える事例かどうかは分からないが。
>>627 しっかりとは書いてないから、
旧日本軍の試算が使われているんだろう。
>>628 ふむふむ
しかし、その本の記述が正しいかどうか、確認されているの?
>>630 複数の資料に書いてあれば信憑性は高まるね。
とりあえず、こんなことちまちま聞かずに、
島津の夜襲の話が書いてある資料を二つ以上見つけてみれば?
632 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 01:48:45
島左近と大谷刑部は最高だ!と思ってるのはオレだけか
>>629 それでは、出典にはならないだろう
旧日本軍の著述ということにはなると思うが
算定方法が明確にならない限り、不明確だ
634 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 01:49:25
「徳川キモイ」の書状については知らないけど、
有名なのは島津義弘4月27日書状だよね。
義弘が義久に宛てて送った、
関ヶ原前の島津の状況の記された書状。
>>631 元ネタをコピーしただけかもしれないよ
2個あれば、確実というものでもない
当時の動員数が大体100石あたり三人くらいだから、
という根拠だが、それがはっきりしないと何か問題あるの?
637 :
634:05/02/24 01:52:00
>>636 ちゃんと人数がその数だけいたかどうかという問題だから
問題がある
例えば、石田が6000とか
>>635 しかし、まともなものが1つもないよりはましだろう。
640 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 01:53:40
なんだか聞いてばかりで自分ではソース示さない(相手のソース切れ狙い)椰子がいるな
まあ、思い込みの押し付けよりはマシか
>>637 ここの記述が真実だと仮定して、
前段の手紙部分からすると
確かに義弘は自ら進んで入城したいとは書いていないけれど
入城するつもりはないとも書いていない
従って、この手紙を根拠に入城するつもりはなかったとは言えない
さすがにそろそろ島津の夜襲提案のソースを出して欲しいね。
本当に正しいと証明されたの?とか、
他のコピーじゃないの?とか、
いうような突っ込みはしないからさ。
>>639 まともかどうか、どうやって確認したの?
>>638 そういうのは疑問点があるのから検証していけばいいのよ。
軍勢のソースは?
ないの?
軍勢の数については、今後は話題にしないの?
>>641 無論、断定はできないね。
ただ島津の伏見入城拒否の件は疑わしいと言わざるやおえない。
入城拒否事件があったという証拠が島津の記録(それも時期が経過してからの)しかない。
>>643 大和で筒井や秀長に使えていた島左近が、
武田家にいたなんて書いてあれば普通まともとは思えないでしょう。
>>645 とりあえず、石高から算定したものを使えば特に問題ないだろ?
なんだか、おそろしく馬鹿っぽく見えるのがいるな。
悪印象を与えるだけだからもう止めておいた方がいいぞ。
>>646 手紙が真実であれば、少なくとも家康から要請があったということは言えるんじゃないか?
>>647 その本ではなく、笹尾山の島に関する本だが?
>>652 その後、指令を無視したかどうかはわからないが?
上杉討伐時の指令がキャンセルになったかどうか不明
>>651 真実ってさ・・・
島津義弘4月27日書状ってのは
関ヶ原研究では有名なもので間違いない証拠だよ。
大日本参謀本部の関ヶ原の各武将動員人数も
この書状から推定された。
>>653 いや、その島津が夜襲を提案と書いてある方は、
まともとは思えないでしょう?
笹尾山の島左近がどうしたと書いてあるものの信憑性が疑わしいと言うなら、
そちらで何か根拠をもって主張すべきでしょう。
とりあえず、自分では1つもソースを出せないような者は、
いい加減引っ込んだほうがいいぞ。
>>657 その論法であれば、一部おかしいが他の部分は妥当ということで
疑問があればどうぞ
おかしい部分は既述の部分
>>655 ようするにわからないという事だな。
ただ前後の状況から入城の件は怪しいという事。
島津の戦後の西軍についた件のカバーとも考えられる。
とりあえず、何も意見のない奴は引っ込んだ方がいいぞ
>>662 簡約すると
夜襲提案部分に関しては正しいと言うこと
666 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 02:18:55
>>663 はあ〜〜〜
自分でなんの意見もソースも出さずにツッこんでばかりだな。
疲れる。
これが島津厨というものか。
訳わからん主張をしたあげく、疲れると言われてもね・・・・
島津厨は違うだろw
どこが島津厨なんだw
>>670 いや、ソースは自分では出せないが
とにかく島津は正しいと言っているように見えたんでね。
要するに夜襲の話のソースを出してくればそれですむ話なんだがな。
>>671 島津は正しいとは言っていない
夜襲の提案をしたんじゃないかということだ
おまえは石田厨なのか?
>>672 では、何を根拠に夜襲の提案をしたんじゃないかと思っているの?
これに答えてくれればそれで話は終わるんだが。
>>673 島津義弘の手紙に100石あたり3人と書いてあるだろ?
>>676 歴史書は十分根拠になるが、名前が出なければ意味がない、
なんという歴史書だい。
>>678 よく覚えていないが
歴史群像シリーズでどうだ
>>679 じゃあ島津の石高は何万石だ?
x3で何人か?
>>680 歴史群像シリーズが歴史書・・・・・
つまり、そういう本に書いてあったから信じているだけってことか。
なるほど、よくわかった。
>>682 おまえは原典を読んでいるのか?
あの字を読めるのか?
>>683 直接読まなくたって、
出典は何なのかくらいは確認しろよ。
>>682 歴史群像の軍勢の数もだいたい旧軍からだが
おまえは他にソースがあるのか?
>>684 で、原本を読んでいるのか?
教授かなんかなのか?
直接はは読んでないが、
何からの出典かくらいは見ているぞ。
>>687 原本を読んだらどうか?
訳出が正しいかどうかは不明だろ
それから一々記憶はしていないが?
あほらしい、その手の本なら、
三成は名将だと書いてあるものだってある。
だったらそれを読んだら、それを頭から信じてしまうのか?
歴軍の記事も確かにおかしいものがある
中には教授でもおかしなことを主張している
つまり教授もダメと言うことなのか?
オレは歴軍レベルで有れば、とりあえず議論のもとにはなると思う
まあ、正しいかどうかはわからんが、最初から相手にしないレベルではないだろ
691 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 02:45:09
俺は自分の目で見たものしか信じない!
史料なぞ信じないぞ!
>>689 だから複数の説や本を読んで判断すると言うことだよ
ちなみに吉良は、悪だと思っていたよ
おまえは?
じゃあおまえは本は読まないで、原本だけから判断しているのか?
信玄謙信義弘信繁政宗
この辺りのオタは腫れ物を扱うように、よろ
三成モナー
695 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 02:50:25
おいおい歴史群像もある程度のソースだと思うぞ。
少なくとも自分ではなんのソースも出せずに人のソースにケチつけてばかりの奴に
とやかく言われるスジあいはないだろう。
>>695 歴軍を馬鹿にしている椰子がいますが?w
698 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 02:55:03
>>696 でも、なんのソースも出せん奴よりはマシだろう。
原本>>>>>歴群>>>>>なんのソースも出せん奴
なんだよ。
皆親切だなぁ・・。忍耐強杉。
スルーせんのか。
深夜に元気だな、ココは。
>>698 まあマシだがな
ただ原本だからといって、それが全てではないぞ
補強材料としては最強だが
まあ関ヶ原ネタは盛り上がるんだろう
仮想戦期でも人気駄科
小早川の軍勢の数を、原本から立証してくれ
(当然、旧軍はなしで)
>>692 いや、いくつかの本には、
島津の夜襲提案はなかったと書いてるし、
根拠となるソースがないと書いてあるものもある。
で、自分で少し調べたら、島左近が武田家へ仕えていた、
と書いてあるようなものにしかでて来なかった。
だから夜襲案自体疑わしいと言っている。
さらに状況証拠として、夜襲の成功が難しかったという状況もある。
で、ここで夜襲案自体に疑問が出されたわけだが、
それに反論する根拠は何よ?
>>705 オレが読んだ本ではダメで?
状況証拠として、できなかったということはないと思うが?
>>706 俺の読んだ本にはなかったと書いてあったから、
条件は同じだろ?
その上で、状況は互いの距離が3キロ程度しか離れていない上に、
間に川がある状況では成功する可能性のほうが低いでしょう。
とりあえず、島津の夜襲案があったとしてだ、
しかし、それに対して、島左近は反対している。
左近だって何か根拠を持って反対したのだろうから、
実際夜襲は止めた方がいい状況だったかも知れない。
そうである以上、夜襲案を取り上げなかったからと言って、
三成に戦の才能がなかったとは言えないわな。
議論の最初はそのことに関してだったよな?
>>707 まあ条件は同じだな
ただ、できないということはないと思う
一応、当時の戦術としては極普通だ
3キロ離れていれば、相手に気がつかれずに近づける
それから、成功の定義がよくわからないが、やってみてうまく行ったら
戦果を拡大するということで良いと思う
もちろんリスクが0ではないが、リターンが見込めるのであればやっていいと思うのだが?
>>708 オレの解釈では
島津(+α)が夜襲主張
三成が反対
島左近は無言(内心島津に賛成)
あー、なんだか話流れがイマイチ掴めんし、どーいう展開かは知らんが
双方かなりの軍勢でいるし、西軍の中で信用の置ける人材が少ない状況で
リスクの大きい夜襲という選択は出来なかったんじゃないの?
事態が収拾不能に陥ったら、それこそ東軍有利だろうし
>>711 むしろ、西軍はヤバイと島津は思っていた
当時の西軍を見ればそれは自明
従って、リスクをとって一気に行こうと思ったんじゃないか
夜襲の成功例
グーグル
(井伊)
1590年の小田原征伐でも直政は箱根防衛線の突破に活躍し、秀吉から感状を与えられた。
小田原攻囲戦では篠曲輪に夜襲をかけ、首級400を挙げた。
織田・徳川連合軍の健闘虚しく、武田信玄にいいように打ち負かされる。
完全な負け戦を悔しがった康政は、信玄の後継者である武田勝頼の陣へ夜襲をかける。
見事に夜襲の策は当たり、武田軍に間に康政の名前は広まる。
当時は下克上の時代、今川氏をはじめ武田氏、織田氏、徳川氏などの強大な戦国大名が台頭するなか、
この奥三河では作手の奥平氏、長篠の菅沼氏、そして田峯の菅沼氏が「山家三方衆」として結束していました。
しかしその団結も時に拠っては崩れ、姻戚関係でありながらも骨肉相食む戦いを繰り広げることになります。
五代目城主定忠は武田方に従い、家老城所道寿とともに長篠合戦に出陣しますが、
武田方大敗の報を受けた留守居の将・叔父定直と家老今泉道善らの謀叛にあい、
田峯城に入城できずに武田勝頼とともに信州に敗走することを余儀なくされます。
復讐を誓った定忠は翌天正4(1576)年7月14日田峯城に夜襲をかけ、謀叛の一族老若男女96名を惨殺、
首謀格の今泉道善を鋸引きの刑に処しました
●谷大膳の墓
竹中半兵衛が智将ならば、谷大膳は豪将としてならした人で、
三木攻めでは、重要な平田の陣営をまかされていましたが、毛利の軍勢の夜襲を受け、戦死を遂げました。
沼田は何とかして義道に腹を切らせ、その首を土産に細川方につこうとあせっていた。
一色方の武将、大江越中守、高屋駿河守、近藤兵庫、原紀伊守、金屋伊豆守、山口弾正、荒川帯刀、
赤井五郎左衛門、木村長門守、氏家大和守、杉山出羽守、垣見筑後守、白杉主税介(ちから)、
横田伝太夫らは足利の残党で、戦場に馴れた勇将で、よく部下を指揮して持場を守った。
一万騎を超える細川、明智の大軍も、中山城一つをもてあまし、
攻撃に3ヶ月をついやしたが攻め落とすことが出来なかった。
そこで松井佐渡守は城内に密使をおくり、沼田幸兵衛の持場に火をつけさせ混乱に乗じて夜襲した。
一色義道は、一旦城から切り抜け、川原に逃げたが、到底再起の見込みがないと思ったのか、
秋草のかげで自害した。この合戦で主従三十八騎が討死している。
そしてついに,1498年(明応7年)12月,松浦興信(おきのぶ),弘定(ひろさだ)親子は,
先に逃げ出した山田四郎左衛門を道案内として精鋭200騎で,夜襲をした。
不意を打たれた大智庵城は,一夜で灰となり,城主の政は,首を打たれ,妻と子どもの幸松丸は,
生け捕りとなった。
その後、 天文3年(1534)、同じ浦上宗景の重臣である島村貫阿弥がこの城を急襲し、能家は自刃します。
嫡子の興家つまり直家の父は凡庸な人物で、貫阿弥と一戦も交えることなく家族と共に城を落ち延びます。
直家はまだ6歳でした。
主君宗景はこの貫阿弥の夜襲を咎めることはしませんでした。
そしてこの城を能家の庶弟 浮田大和守に与えました。
関ヶ原の戦いにおいては西軍方として水軍を率いて伊予松前の加藤嘉明を攻め、
嫡子・元吉を戦死させてしまいました。
「刈屋畑の合戦」(三津浜合戦)石田三成に応じた毛利氏の兵が伊予三津浜に陣し加藤嘉明を攻めるが、
嘉明の将佃十成の夜襲を受け敗れる。
許斐城は氏貞の部将占部尚安らが守っていたが、大友の大軍に囲まれ、抵抗しがたいことを知った氏貞は、
占部らの将兵を城から撤退させ、自らも兵をまとめて居城の白山城を脱出、大島に非難した。
翌年、一千の軍勢を率いて、許斐城を夜襲して奪回に成功、白山城に復帰した。
職業漁師である権太も井之口勢に従軍し、深い山の中で奮闘していた
。彼は進軍中の佐久本勢に側面の森の中から奇襲をかけたり、
佐久本勢の野営地に夜襲をかけるなどして活躍していた。
10月10日、久秀は東大寺に陣を構える三人衆軍に夜襲をかける。
間近に秀吉本隊と対峙した盛政とて秀吉が大垣から駈けてきたとはとても信じられなかったに違いない。
秀吉は長浜あたりから転進してきたと考えたとしても無理はない。
もし秀吉本隊が疲れ切った兵ばかりであると知ったら、積極的な盛政のことで、きっと夜襲を考えたことであろう。
結局、盛政が夜襲をしなかったのは秀吉のハッタリに一杯食わされたとも考えられる。
まあここは三戦板だからな。
ここの住民のソースは一般向け歴史雑誌に歴史小説とコーエーのゲームだろ。
●美濃赤坂の家康陣を夜襲案 『関ケ原陣輯録』
いよいよ決戦せざるをえなくなって、三成をを戦略、戦術両面で補佐したのは大谷吉隆(吉継)と左近であった。
左近は本陣を尾張の熱田まで進め、自らが先手となって家康を迎撃することを提言したという。
また、美濃赤坂の家康の陣を夜襲しようと提案したが、容れられなかったこともあったという。
歴史群像シリーズC関ヶ原の戦い
第1章 決戦への七百日の軌跡
監修 二木謙一
文 工藤章興
p.35
(義弘と宇喜田が夜襲を主張)
p.76〜
岩井護(作家)
義弘の入城を拒否
夜襲の記載はなし
731 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 07:18:07
>>730 おいおい「関ヶ原の戦い」は歴史群像でも最初の方に出た巻で
俗説を踏襲しているだけで信頼性は低いぞ。
作家の書いた記事が多いしさ。
歴史群像も後の方の巻のは割と凝っていて
執筆者も大学教授や研究家など信頼できる人のが多い。
>>710 俺の解釈って、それこそ意味が分からないが。
歴史群像シリーズでいいからどこにそう書いてあったからそう思うとか、
くらい言ってもらわないと、あるいは状況からそう思うとか。
とりあえず、夜襲が提案されたと書いてあるものには、
同時に島左近が反対したので却下されたとあるのだから、
それを否定する情報がないならとりあえず、そう信じておくべきではないか?
繰り返すが、当時の双方の状況は互いに3キロほど離れて、
間に川をはさんで対峙、西軍は城、東軍は高台に陣を築き、
互いに監視し易い、両者の間に遮蔽物はないという状況。
この距離なら互いに相手の行動を探るようなことをしていて当然だし。
その上唯でさえ難しい渡河攻撃を夜間に行うのは至難の技、
素人目にも難しいと分かるし、左近が反対したのも無理はない。
要するに、島津が提案したのだから絶対正しい作戦だった、
それを却下した三成は馬鹿。という結論はあまりにも短絡的過ぎる。
朝鮮の役などからの三成の作戦傾向を考えると
リスクを激しく嫌う気がする
戦線を後退・整理して敵を迎え撃つという戦法は、不確定要素をできるだけ排除して整然と戦いたいという姿勢だと思う
奇襲、それも夜襲といったハイリスクな作戦は嫌だったんじゃないだろうか
島津からすれば、「大軍だと安心しきっている相手にこそ隙があるんだよ実戦知らずが!」みたいな感じだったのかと
735 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 10:48:51
三成を貶める話、三成が駄目な話を持ってる方がそれぞれの大名にとってメリットはあったからね
夜襲云々も戦術眼の乏しさを糾弾すると同時に、自己弁護である可能性は捨てきれないな
「大垣城からの出入りだけ見ていれば西軍の動きは丸わかりだから夜襲なんてできない」
って力んでるお方、それではなぜ大坂冬の陣での塙団右衛門の夜襲は成功したのでしょ
うか。
城をぐるりと包囲しているのだから、出入りだけ見ていれば兵力の多少は関係ないよね。
>>732 島左近が反対したので却下されたというのの出典は?
>>733 間が何キロあろうが、夜襲には特に関係はない
キロ数で成功するかどうかということはない
城に対する夜襲が成功しているが、その事実は無視するのか?
遮蔽物がないと必ず失敗するというものでもない
戦闘状態であれば策敵するのは当然
その中で色々な戦闘が起こる
探っていればすべての攻撃をふせげるわけではない
渡河攻撃であるからと言って、必ず成功しないというものではない
それを素人考えで不可能としたから、三成は馬鹿とされているんじゃないか
ちょうどあんたのように
三成が、野戦軍の指揮能力・経験がなかったとしているのは
関ヶ原に始まったことではない
既に確定事実だ
従って、夜襲案を却下したのも、三成の作戦能力が高かったためではなく
低かったためと考えるのが妥当
関ヶ原の時にだけ彼の能力が向上するとは考えられない
それとも島津や家康以上の戦上手であったのか?
島津がやる気を失ったのは、素人考えでDQNな返答が来たからだろう
これが実績あるいは能力がある武将が、少なくとも一理はある見解をもとに
述べたのであれば、まだ我慢できるというものだ
当初から島津が西軍とした場合、島津が西軍につくべき理由って何だろう?
作家は信用できないということに概ね同意だが、そうなると司馬もダメなのか?
研究家でも作家レベルの椰子がいるけどね
司馬は西軍厨で典型的な判官贔屓な奴だもん
そりゃそうだろう、「義経」書いた人だし。
746 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 17:09:27
>司馬は西軍厨で典型的な判官贔屓な奴だもん
厨とかいうなよw誰に向かってモノいってんだWWWWWW
747 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 17:34:29
歴史群像どころか司馬までソースになるスレか・・・
原哲夫の漫画がソースよりマシ
750 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 20:11:58
毎年4月は日本史専修の先生たちはたいへんですよ。
小説やマンガやゲームに洗脳された新入生がたくさん入ってくるから。
レポートの参考文献が司馬さんの小説だったりするってさ。
エ?
どうでもいいよ
日本史を学ぶのも教えるのも無駄
もっと実生活に役立つことを学べばいいのにね
うわっはっは!!!
人としての趣味を全否定してる方がいらっしゃるよ!!!
つーかな
「何々に書いてたったけど、これはどうなの?」という問いなら
司馬遼の本でも、歴史群像でも、読本でも、歴史研究でも、まんが日本の歴史でも
原哲夫の漫画でも構わんと思う
ようは、それを自分自身で多種多様な本を読んでどうなのか調べもせず
受け売りでさも事実のように語る阿呆がダメなんだろ
755 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 20:57:25
>>742 元々、島津は三成には恩義がある。九州征伐後の寛大な処置も三成の働きが多い。
その後も島津は中央への対処は三成に相談する事が多く世話になっていた。
島津義弘と娘婿の伊集院忠棟のラインが親豊臣で三成とは親しかった。
また西軍諸将とも親交が深かった。朝鮮役でも小西を命がけで救ったように。
島津義久と養子の忠恒はそれに対立するラインではあったが、別に親徳川でもなく関ヶ原では「中立主義」だった。
つまり義久は別に「徳川につけ」などと命じてはおらず、
「不作と財政難から今回の戦いは中立を守って様子を見ろ」と主張してたのだ。
>>753 いや、あくまでも戦国時代をネタに”趣味”として語るんならいいんだけどさ
なのに重箱の隅をつつくように細かいことにこだわって、この出典は何だとか、あの史料は信憑性が薄いとか
馬鹿じゃないのかって思うよ、そんなことしたって一銭にもならんだろうに
基本的に文系は皆糞だが特に史学は哲学並に実生活に役にたたない
歴史の勉強なんてのはいくら頑張っても自己満足の粋を出ない
それならもっと現代生活に役立つ最新の知識を身につけるべき
そして歴史はゲームや小説などあくまでも”娯楽”として楽しむ、これが正しいスタイルといえる
>>755 島津家は干渉してくる三成をウザイと思ってなかった?
正しいスタイルって、そりゃ
>>756がそー思ってるだけだろ
史学で飯食ってる人間が存在する以上、一銭にもならんわけじゃねーし
アンティークだって立派な史学の一部
娯楽で楽しむ程度なら、ムキになることもねーしなw
759 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 21:17:50
>>757 違う違う。
島津は秀吉というか豊臣政権からの干渉をウザイとは思ってたけど、
三成はあくまで秀吉の部下で秀吉の指示で動いているのを知っていて、
三成に相談すればうまくとりなしてくれる事も知ってたの。
だから秀吉の無理難題(九州征伐後の措置、朝鮮出兵、太閣検地など)には憤慨しても
三成自身には恨みなどなく、むしろ感謝してたんだよ。
なんでも九州征伐の後の処置の時に
秀吉を知り尽くしている三成は島津にどうやれば秀吉の機嫌を取れるか詳しく助言したため、
島津の信頼を得る事ができたとか。
>>755 西軍よりも東軍の武将と朝鮮では親交があったのではないか?
義久の指示が中立であったのとすれば、義弘はそれを無視したのか?
義弘があえて西軍につく理由は、結局ないのではないか?
>>738 天元実記
というか、そりゃあ、少数での夜襲なら成功する可能性もあっただろう。
しかし、あの情勢でそんなことしてどれほどの意味があるのか。
家康が到着して士気が上がる東軍の出鼻を挫くというなら、既に昼間に抗瀬川戦いで成功している。
この上夜襲をかけても決定的な効果は見込めないし、
仮に失敗すればせっかく昼間の戦いで意気が上がったのに水をさすことになる。
これを却下したとしても別にごく普通の判断に過ぎない。
>>756 基本的には賛成だが、ありもしないようなことを主張する椰子がたまにいるので
その場合は出典が重要になる
もちろん必須というわけではないが、出所がはっきりしていた方が強い
まあだからといってそれだけにこだわると話が進まないし
極端に言えば原本を原文で読んだのかというところにまで行ってしまう
>>761 そのあたりの状勢判断がおかしいということで島津は憤慨した
決定的な効果が見込めないかどうかはどうしてわかる?
それから必勝であるから、やるという主張ではないのだが
>>763 幾らなんでもそれで勝負が決まるというほどの兵力で夜襲は無理でしょ?
繰り返すが、少数なら成功したかもしれないが、
あえてあの時にそれをする必要はないってことよ。
766 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 21:50:42
>>760 いや島津義弘は特に東軍諸将と親交は深くなかったな。
それよりも三成、小西、宇喜多などと朝鮮の役などで縁は深かった。
あと三成につくというよりは豊臣政権化についたという方が正確だろう。
もしくは東軍を反乱軍とみなすという考え方もあるな。
実際、名目はどうあれ家康が豊臣政権から実験を奪う闘いでもあったわけだし。
それと義久と義弘は確かに中央との対処の仕方で対立はしていた。
といっても別に喧嘩するほどではなかったが、
義弘は豊臣政権や三成と仲良くやっていこうという考え。
義久は独立主義的な考えであった。
関ヶ原の出兵において義弘の再三の国元への派兵要求を義久が妨害したため、
私費で参加した義勇兵が千余、関ヶ原に来ただけだし。
>>765 状況次第でどうなるかは断定はできないだろう
それに試みやってみるということで、あれで決戦であり、必勝であるということではないが?
あの時にやらないのであれば、他に何をするのか
768 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 21:53:42
>>764 島津家全体。
義久ですら、三成を
「秀吉公、ここう(字が出ない)の臣」と
誉めていた。
>>766 公式には、西軍が反乱軍になるが?
そうすると義弘は義久の意向を無視して、親しいからといって
西軍についたのか?
>>768 766とは主張が違うが、あんたの意見は島津全体が西軍を支持と言うことか?
771 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 21:57:27
まあ
独立主義で国元にいる義久は東軍にも西軍にもつく理由は無かった。
親豊臣で三成とも懇意な義弘は西軍につく理由はあったが、東軍につく理由はなかった。
さらに中央にいるので中立という事も状況的にできなかった。
というわけだが。
>>767 だから試みにやってみて相手の士気を挫くくらいなら既に成功しているし。
他に何をするってとりあえず東軍に一泡は拭かせた訳だから、
とりあえず分散している西軍の集結を図るってところが順当なのでは?
確か、宇喜多はそう主張したはずだと思ったが。
で、三成自身はなるほど、少なくとも戦術レベルでの能力は低かったかも知れないが、
別に自分だけの考えで却下したわけではない。
武の面で抜群の信頼を置いている部下の島左近が反対したという経緯もある、
このエピソードを持ってその軍事的才能のなさを責めるなら、
三成ではなく、少なくとも三成だけではなく左近のそれをも責めるべきだと思うが。
774 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 22:01:05
>>770 島津義久 中立派
島津義弘 東軍派
>>769 まあそうだろう。義久の意志は無視した。
それと西軍が反乱軍になったのは戦後処理の話しで、
それ以前は石田勢に豊臣の兵力が参加しているほどで、
西軍が反乱軍とはちと苦しい。
>>772 戦には戦機というものがある
相手の士気を挫くのであればいくらやってもよい
まあやらなくてもいいが、そのあたりの機微は戦場でということになる
それらを判断して島津らがやりたいと言ったんだろ
>>771 義弘が親豊臣ということだが、秀吉死後に何かそれと見られるような行動をしたか?
特にどっちつかずだったのではないか
確かに関ヶ原に西軍として参加した豊臣兵力は
よく関ヶ原合戦図に出ているが
これはどういう事情なの?
知っている人は教えてくれ。
>>773 もし左近が反対したというのなら、左近も責められるべきだな
左近は本当に武田の家臣だったんだろうか
>>774 豊臣の軍が参加していたからと言って、公式でない限り、公式には反乱軍
東軍には豊臣の武将が多数参加している
>>775 で、それらを判断して三成・左近主従、及び宇喜多らはやらない方がいいと判断したのでしょう。
その時点で100%島津が正しいと決まったわけでもないと思うが?
>>780 島左近が本当に反対したのかどうかだな
三成だけということならば、戦下手の三成に非があるのは明らか
>>776 朝鮮出兵の時に義久は派兵反対でぐずったが、義弘は派兵を行うように推進した。
太閣検地でも義久が反対していたが、義弘は割と行っていた(勿論、いやいやだろうが)。
義弘は親豊臣というよりは
中央情勢に明るかっただけだと思うが。
>>778 もちろん、そうなるわけだが、
それは島津の提案した夜襲が成功するってのが前提でしょう?
失敗する可能性もある以上、やらないという選択肢も普通に存在するわけだ、
この点は無視すべきではないだろう。
>>781 島津が夜襲を提案したと書いてある資料にそのように書いてあるのだから、
とりあえず、信用してもらうしかないと思うが。
家康と輝元(実際の牽引は三成)じゃあ実力も経験も違いすぎるからな
>>786 他の史料は一切ないのか?
では左近は武田の家臣だと考えているのか?
>>789 他の資料には島津が夜襲を提案したなんて書いてないので。
とりあえず、私の知る限りではね。
>>790 オレの判断では、左近は反対していない
で、左近は武田の家臣だったのか?
>>790 左近が何と言って反対したか知っているのか?
>>791 あなたの判断は勝手だが、
実際の資料にはそう書いてあると言うことだけは承知しておいてくれ。
で、それによれば左近は武田の家臣だったことがあるそうだね。
これも、信じてもらうより他ない。
同じ資料にある、島津が夜襲を提案したと言う話を信じるのと同様にね。
島津の夜襲反対の理由は
「少数が奇襲して勝った例はあるが、大軍で少数を奇襲するという例は無い。大決戦の前に夜襲というのも姑息だし、友軍集結を待って堂々と決戦しよう」
というものだったはず。ただしこれは三成の意見だったと思う。左近の反対理由はわからんが、この時点で反対するのなら主と同じだったんじゃないだろうか?
>>793 その線でいくならば、島左近も同様に責任がある
理由もおかしい
ただ左近には決定権はなかったから、重いのは三成だ
>>793 あんたがそれにこだわりたいのなら
島左近にも責任があるし、三成に責任がある史料ということでいいんじゃないか
>>796 まあ、それでいいんだけど、
島津の提案が失敗の可能性もあるし、
あえてあそこで実行に移す必要はなかった。って可能性は考えないの?
798 :
774:05/02/24 22:33:04
島津義弘 西軍派
の書き間違いだった
正反対の東軍派になってるぞ。
>>785 違うだろう。
義弘は最初から西軍派。
彼が東軍につこうとした話しの唯一のソースは
あの江戸期になって島津家の資料のみに現れる
伏見城入城拒否の怪しげな話しのみ。
島津家の関ヶ原での行動を誤魔化すためのネツ造。
>>797 理由がちょっとね
それから武田の家臣だというのなら、その時点でちょっとおかしかったと言えなくもない
>>798 西軍につく理由なんだが、三成の友人だったからということなのか?
>>797 成功の可能性はあるし、あえて拒否する必要はなかったという可能性は考えないの?
>>801 当然考えるよ。で、どちらも可能性があるのなら、
一概に三成側ばかりを無能と責めるのはおかしいって話。
というか、島津が夜襲を提案したのって、
既に関ヶ原への移動の開始した頃の話なんだよね。
つまり、行軍中の東軍に夜襲をかけるというものだろう。
その時点では、三成には関ヶ原で高所に陣取って、
家康を迎え撃つという作戦計画があっただろうから、
いまさら、大混戦になることが間違いないそんな行動を、
認められるはずがないんだよ。
>>802 だから、理由が無茶苦茶だから
それから武将としての格が違う
島がどういったのかというのも関わってくるけどね
もしああいったのなら、おかしくなったのか、あえて暴論を吐いたという可能性も
空想だけどね
>>804 理由が無茶苦茶と言うなら、
既に関ヶ原へ動くと決めているのに、
今更夜襲を提案する島津もどうかと思うぞ。
807 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 22:50:39
>>800 というか結局、豊臣政権派だったからという事。
別に積極的に徳川家康を助けて三成を討つ理由もなかったし。
>>807 三成は謹慎中で、豊臣政務執行者は家康
だから福島らは家康についた
>>806 決める前に動く準備はしないでしょ、普通。
話変わるが、結城秀康もおかしな運命の持ち主だよな。
本人はばりばりに、豊臣政権派といっても良いのに
見捨てられた親父に上杉の盾にさせられている。
・・・考えてみれば、家康も勝手な男だな。
>>809 もし移動が決定してから、夜襲を提案したとすれば、おかしくなったのかもね
812 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 22:58:59
だいたい西軍なんてのは
三成、大谷、小西、宇喜多以外は
状況が良く把握できずに右往左往していただけの連中でしょ?
なんかおかしな話だらけじゃないか。
提案するタイミングも変なら、断る理由も変。
実際にあった話か疑わしいくないか?
>>808 違うと思うよ。
徳川は名目は「秀頼公おんために」だが、実際は自らの天下のために
福島は徳川の名目を信じこみ、秀頼をないがしろにしようとする逆臣、三成を討つために。
他の武将は福島同様、名目を信じきった奴もいるが、大半は「お家大事」のために。
>>812 三成が右往左往していたんじゃないか
宇喜田、小西も怪しい
大谷はわかっていたと思うが、やむなしと考えていたんじゃないか
>>814 実際はどうであれ、家康が正当
義弘は、お家を考えずに、友情のため三成を助けたのか?
>>810 関ヶ原=豊臣を潰す・対立する
というわけでもなかったから。
しかも北関東での命令だったから、
あんまり豊臣に逆らうという意識はなかったろう。
>>815 そいつらがそうならそれ以外はなおさらでしょう、
何しろ計画を立案した連中なんだから。
他の者の多くは巻き込まれただけ。
819 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 23:07:01
島津が2万の大軍を引き連れて関ヶ原にかけつけてれば、
戦況はまるっきり違うものになってたでしょう。
もし移動決定後の夜襲提案であると言うのであれば
決定後なのでという理由であれば納得できなくもない
>>816 家康が正当ねえ・・・
それは断言できないだろうし、
判断しきれるものでもない。
そもそも家康が正当というのは
戦後処理の成果であって、
もしも西軍が勝ってたら家康が反乱軍になるように
仕向けられてたろう。
>>818 だから義弘は見限ったかと
だいたい三成が野戦軍の総大将として適任でないのは明らか
>>816 あの時は島津より明らかに徳川よりの、
小早川や吉川も西軍にならざるをえなかったしなあ。
まあ、当然の選択では?
>>821 それは勝てば官軍だからな
でもその前の段階では、三成が反乱軍であり、家康が豊臣
これはそうなっているんだから仕方がない
>>823 小早川は友情ではない
みしろ恨んでいただろう
>>822 というか、適任者がいなかったのが悲劇だわな。
もっとも、あの規模の軍の総大将なんて、
実際の能力はともかく、相応しいと言えるのは、
関ヶ原以前の段階では信長と秀吉くらいの者でしょう。
家康ですら怪しいものだ。
>>826 家康が250万石で3人役だとすれば、7.5万までは相応だな
他にはいない
828 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 23:16:32
>>824 だからあ。その時点では判断しきれるものでもないだろう。
それに家康は前に福島との婚姻事件で前田利家に詰問され、
家康を除く、全ての五大老、五奉行らに一致して糾弾される事件を起こしている。
そういう事もあって豊臣政権で専横し強引に権力を握っているという事は
世間では周知の事実だったからな。
>>826 少なくとも、野戦経験の少ない、戦下手の人物が大軍の総大将になるべきではない
830 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 23:18:03
>>825 小早川秀秋が家康を恨んでたとは思えないが?
>>828 家康が政務執行者となっているのは既定の事実だが?
遺訓破りや様々の問題を起こしているが、それでもなお豊臣の正当であったということには
変わりない
>>829 というか、総大将ではないだろう?
総大将は無理だから、と最初に言われて毛利を立てたのだから。
西軍の大きな問題点の1つは総大将不在ということ。
>>833 総大将不在とはおもわんが、もしそうなら敗北必至だが?
形式的には、家康が豊臣家の正当な執政代行者
これは西軍蜂起後も変わらず
対して西軍は、輝元が西の丸に入ったが、形式上(もしかしたら
史料が残ってないだけかも、徳川正当化の為に処分したとかね)
秀頼から何ら軍事的・政治的な命令・認可は受けてないよ
総大将は名目上は毛利輝元
現場では宇喜多秀家
実質的主導者は石田三成
837 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 23:28:51
>>834 まあ、そうだろうね。
ただ、幸か不幸か当時の指揮練達システムでは、
あの規模の軍隊が一人の総大将の指揮下で戦うことは事実上不可能。
だから、押しも押されもせぬ総大将がいた東軍ですら、
実質的には各部隊が眼前の敵と戦うしかなかった。
おかげで、西軍もいい勝負になった。
しかし、それでも、家康はそれなりに部隊の移動とか全体を見渡した指揮をしているから、
その違いはやはりあったでしょう。
839 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 23:33:02
>>834 東軍だって別に家康の手足のように
諸将が動いたわけではないだろう。
>>839 そういうこと、技術的な問題で不可能でしょう。
しかし、総大将と言えるような実力・実績・地位・立場・兵力を、
兼ね備えた存在がいるかどうかは、やはり大きかったとは思う。
>>838 大軍でなくとも、実戦で総大将ができることは限られていると言われているな
ただ、だからといって大将が誰でも同じと言うことではない
>>839 家康は総大将だが、完全に家臣のように諸将を管理していたわけではないからな
それでも後方から戦況を監視し、本陣を徐々に前進させたりといった色々な動きをしている
843 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 23:44:04
毛利輝元が秀頼を連れて出陣しようとしたさい、
増田長盛が止めたので出陣しなかったという話しがある。
秀頼が出陣してれば東軍に勝ちはなかったわけで、
この話しが事実だとすれば
関ヶ原の最大の功労者は増田だっという事になる。
歴史は小物が動かす。
844 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 23:52:49
増田って伏見攻略の影の立役者なんだろ
ヘタレの割に色々やってんな
速攻で家康に状況を告げ口したりね。
846 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/24 23:56:33
渡辺カンベーって、この頃増田付きだったっけ?
847 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/25 00:01:06
でも増田は大阪の陣で息子が豊臣方に付く不手際から
71歳にて切腹させられてる。
賢いのかバカなのかわからない奴。
増田長盛が謀反の疑いあるので大坂出れないって手紙じゃなかったっけ?
>毛利輝元が秀頼を連れて出陣しようとした
なんだ輝元ヤル気十分じゃないか
しかし。淀が許すまいよ。
姑息な裏切り者はことごとく改易だな。
裏切るならダイナミックにやらないと駄目だな。
852 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/25 07:13:54
>>851 ダイナミックっていうか秀秋が戦場で裏切ったって言われてるのが可哀相なくら
い徹底して東軍よりだが。殆どの東軍や西軍はやむなく軍事行動を強要する羽目
に成ってるが(例えば宇喜多などは先に会津征伐に出た部隊はそのまま黒田隊な
どに編成され東軍として関ケ原で戦っている)立花や小早川は、三成が発起して
からほぼ全軍で出陣してる。秀秋は伏見城に実父を人質に出してまで入ろうとし
てるが断られ、実兄を伏見から逃がす為に攻め手に加わった感が有る。
西軍でも3番手の大軍隊なのに西軍の首脳会議には一切出てないし、家康の途上
前から人質を出し徳川の軍監を入れてる訳だし若し小早川家が存続していれば、
このような汚名を後世まで語り継がれなかったかもしれない。
>>852 にもかかわらず、肝心な関ヶ原当日にこの期に及んで躊躇し、
即座に東軍として行動したわけではないってのが、
なんとも締まらないところだがね。
>>853 本当の意味合いで妖しい行動したのは小早川と吉川と鍋島だがな、
東軍では前田位かな?
腐った林檎が2つもあったのが不運。
東軍は小早川なしでも勝てる体制をとっていたが、西軍は小早川が鍵になるような体制しか
引けなかった
>>852 宇喜田の部隊は東軍には入っていないかと
入ってるよ、
>>852が書いてるとおり
最初宇喜多家から会津討伐に参加するよう派遣された部隊は
その後秀家が西軍についたのを知ってからもそのまま東軍で戦った
決戦当日は黒田隊などに組み込まれてる
>>857 なんで、西軍につかなかったのかな?
自分の大将に反旗を翻したの?
宇喜多家は、元からいた家臣と秀家系の家臣で分裂状態だった
実際、元いた家臣が追い出されている(追放を勧め、そしてその家臣を再登用したのは徳川というオチだが)
だから一枚岩じゃなかったし。場所的にも袋叩き覚悟で西軍に走るわけにもいかなかったんだろう
860 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/25 21:08:16
おまいら「鉄砲一挺・馬一頭」いくらするか知ってますか?
861 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/25 21:27:10
宇喜田の関が原までの動きが余りにも迅速かつ怪しいので、西軍の首謀者は
三成・吉継ではなく秀家説まであるよね。
他にも小早川が戦場で裏切った様に書いてる史料元は黒田系なんだけど、当
時の状況を考えると決して参戦が遅いわけじゃあ無いんだよね。関が原は非
常に狭くて陣取りの時、宇喜田の兵站部隊と福島の部隊がぶつかり合う位だ
ったらしい。その中で松尾山山頂は千人も入れば一杯になる位狭く小早川の
部隊は山腹まであふれていたと思われる。当時の状況は8時過ぎでも霧が晴れ
ず、視界が悪い中戦闘が始まり鉄砲の音や大砲(石田)が響き渡り、狭い戦
場で兵の声も響き渡っていただろう。鉄砲の煙は霧と混ざり松尾山の山腹か
ら見ても戦況が掴みずらかったと思われる。
だいたい松尾山から山腹まで徒歩で40分だが人がごった返した松尾山では1時
間くらい掛かったのでは無いだろうか?秀秋の先陣を切る予定だった将が西
軍への攻撃の有無を諭す為に山腹へ上がった事を考えれば(結局この将は戦
闘せず)戦闘が始まってから伝令に可也時間を食ったように思われる。
更に大谷吉継の本営が松尾山を向いており、その裏手を回って攻撃したとも
ある事から初期の陣取りで松尾山に配してた秀秋軍が開戦から3時間後に戦闘
に入ったのも決して遅いとは思えないのだが。
まあ、黒田は小早川が日和見だったとした方が自らの価値が上がる訳で史料
も色々な角度から検討した方がいいと思う。
>>860 まあ、オマエを奴隷として売った場合の値段よりは高いな
>>861 3時間というのはいくらなんでもかかりすぎだろう
それに動かなかった、動きがなかったという事実はあるんじゃないか
もし動きがあれば、戦場にいるものにはだいたいわかるだろう
それからそれをみて4将が動くはずだ
小早川が東軍というのには賛成だが、やはりすぐには動かなかったんだろう
なぜかというと優柔不断であったというのがあると思う
だいたい生きるか死ぬかというところで、すぱっと判断できるかというと
結構難しい
864 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/25 23:12:25
>>862 わからないなら、わからないって言えばいいじゃんw
>>859 戦場でいきなり走るか、あるいは横を攻撃するという手がある
そもそも宇喜田は何で東軍に部隊を同行させたんだろうか
866 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/25 23:46:29
>>865 それは元々、形の上では秀頼の命令たる上杉討伐令に参加したからだよ。
東軍派、西軍派、関係ない。
そして、家康は上杉討伐部隊を私兵化して東軍を作った。
867 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/25 23:49:01
東軍に部隊を同行させたって、
それはまだ「東軍」にはなってないんだよ。
あくまで上杉征伐に参加しただけ。
>>852 確か立花宗茂って小西や宇喜多と同じくらい、
ガチガチの西軍男だったんだよね。
>>866 そうすると宇喜田は、上杉を叩くつもりだったのか
初耳
>>867 ならば、途中で元に戻れば良かったのに
というか、上杉征伐の間に蜂起するって宇喜田は気がつかなかったのかね?
870 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/25 23:59:42
>>869 おいおい、上杉征伐ってのは
形のうえでは秀頼のつまり豊臣家の命令だぞ。
奥州征伐とか九州征伐とか朝鮮出兵と同じで、
例え上杉に恨みはなくても、
派兵を命じられたら仕方がないわけだ。
それと宇喜多ですら知らなかった程、
三成の行動が性急だったという事だろう。
根回しなんてぜんぜんやってない事が
これでわかる。
>>870 つまり、宇喜田にとっては寝耳に水ってことか
何人投入したのか?
それから何で途中で戻ってこないのか?
872 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 00:10:52
>>871 そりゃ周りが東軍だらけで、下手な行動を取ればヤバいからだろう。
それと派兵された宇喜多軍の現場の指揮官が東軍有利と判断して日和ったというのもあるだろう。
何人、投入したかは知らない。スマン。
873 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 00:11:27
結局なんだかんだ言って熊本城は最強!!
だから清正はすげぇ!!
文句ある?
>>868 うん、立花宗茂はノリノリだったみたいだね。
1300人の役だったところが大奮発して4000人連れてったらしい。
この時の宗茂の知行は13万石ちょっとだったから、100石1人の軍役だったらしいと俺が読んだ本には書いてあった。
だからこそ宗茂が関ヶ原に居なかったことが悔やまれる
立花は家康の野心が許せなかったらしい。
877 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 00:40:51
にしてはすぐ家康に媚び入ってるな。
878 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 01:01:07
>>861 >宇喜田の関が原までの動きが余りにも迅速かつ怪しいので、西軍の
>首謀者は 三成・吉継ではなく秀家説まであるよね。
三成が7武将に襲撃されたとき、佐竹・宇喜多・前田ら有力大名の
軍勢が続々と三成救援に駆けつけており、数の上で武断派を圧倒して
いたという。
勢いに乗った彼らはこのさい7武将たちを討ち滅ぼさんと血気盛ん
だったが、戦火が拡大し、徳川が介入してくることを恐れた三成は、
しきりに彼らに自制を求めたという。そして自分が政権にいることが
争いの引き金になると感じて奉行職を引退してしまった。
おそらく彼は、家康の寿命もあとわずかであるから、それまで豊臣家
臣団の衝突を極力さけ、無風状態を保つことで徳川に介入の口実を
与えず、徳川の勢力拡大の野望をかわそうとしていたのではあるまい
か?
その彼が積極的に西軍の挙兵を画策したとはにわかに信じがたい。
879 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 01:02:50
一方宇喜多であるが、彼には挙兵する理由があった。
彼もまた秀次と同様、秀頼の誕生によって運命が大きく変わって
しまった一人である。
秀頼の誕生によって、それまでの秀吉夫妻を中心とした豊臣家の秩序は
微妙に変化することとなる。淀君の発言力が増し、その後ろ盾に家康が
ついたことで、淀君−家康枢軸が形成される。
この構図は、秀吉の死後顕著になる。かつての五大老五奉行制を中心と
する豊臣の秩序はことごとく否定され、淀君−家康の主導でことが運ぶ
ようになる。これには豊臣一門の扱いを受け、かつて政権の中心人物
だった秀家はとりわけ危機感を持ったのではないか。
上杉攻め−−−事実上の五大老制の崩壊−−−は、同じ五大老の一人
であった宇喜多にとって、そうとうショックだったはずだ。それは、
豊臣政権の中枢である自分を否定するものであり、断じて許せない
ことと映ったであろう。家臣団のごたごたに対する介入などもあり、
家康に対して日頃から不満が鬱積していたが、上杉攻めにより、
家康に対する怒りが一気に爆発したのではないか。ここで彼は三成に
挙兵するよう懇願する。三成ははじめ気が乗らなかったが、襲撃事件
の恩もあり、秀家に説き伏せられ、ついに挙兵を決意するに至る。
880 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 01:04:43
>>878 上杉討伐で「このままで親友の直江兼続が危ない!」と慌てたんじゃないのか?
関ヶ原とは豊臣を守るためではなく親友を守るために起こしたんだったりして。
>>872 自分の軍がやられそうなのに、ヤバイとか言ってられないだろ
882 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 02:56:58
883 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 03:45:30
孫子兵法を熟読し、極めた徳川家康に西軍が勝てる訳がないw
884 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 04:07:30
敵の中に在ればこそ救える命も有ると言うもの。西軍敗戦後に島津なども無視し
て軍団が三成の拠る笹尾山方面に殺到したとある。
まあ、下級武士などは現地に行くまで自国の情報など入らなかったのでは?
「おい、あん旗おらが殿様の旗でねえかや?」
「だなや…とっとにかく見なかった事にすっぺ」
「田舎にゃ、おっかあとわらしが居るゆうにどぎゃんすっと?」
「こっちが勝ちゃあ黒田の殿様に殿共々お願げえすっぺや!」
「おぉそやな、いっちょやったるべ!」
こうして黒田隊の戦力が+10された(謎
886 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 04:24:34
>>885 はぁ?何?家康は最強と言っただけだが?
孫子兵法を極めた者は最強だろ?信玄だってそうだろうが!おまいは孫子兵法を勉強汁!
>>884 宇喜田の兵隊や下士官は主君を平気で裏切る連中だったのか
よくそんな弱兵が福島と対等に戦えたものだな
宇喜多の家中がまとまりを欠いていたのは事実であって、
戦をやるにはいかんせん時期が悪い。
宇喜多首謀説には無理があるんじゃないか。
890 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 12:51:32
宇喜多家は前年の家中内紛による重臣の出奔によって戦力が低下している。
だが、秀家に現実対応能力があれば内紛もここまで大きくならなかった筈。
逆に宇喜多家の現実が分かっていなかったからこそ主導的に動いた可能性もある。
891 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 14:03:31
宇喜多首謀説は『舜旧記』が起因なんだけど、もっと言えば
http://www.asahi-net.or.jp/~ia7s-nki/ ここを参照してもらいたい。このHPの投稿論文で白川亨氏の公開質問状が読めま
す。氏の持論は高台院首謀者説です。又、土山公仁氏が朝鮮使節の記録などを引
用して毛利輝元首謀者説を唱え、河合秀郎氏が歴史群像シリーズ・決戦関ヶ原で
宇喜多秀家首謀者説を唱えています。
高台院首謀者説だとやはり一番寵愛してた秀秋の去就が難点と思われます。
毛利輝元首謀者説は流石に無理があり、宇喜多秀家首謀者説が異説では秀でてる
と思うのです。
お家騒動で宇喜多家から離反したのは、直家時代から家中にいる下克上マンセー重臣達だろ?
それに重臣達は直家の頃高い知行を与えられ力があり、秀家のことをナメてたんでは。
893 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 15:20:15
家康はマジで強かったってばよ!酒井公文禄に書いてあるってばよ!
894 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 15:23:16
>>888 そりゃ宇喜多15000に対して福島6000だし。
>>885 >孫子兵法を極めた者は最強だろ?信玄だってそうだろうが!
誰が孫子兵法極めたって?
極めたってのはナポレオン=ボナパルト様みたいな人の事を言うんだよ
家康なんて全然使いこなせてねーし
尊師の兵法
徳川って勝利よりも敗北・敗走の方がなんか有名だよね。
>>874 立花は上杉攻めにノリノリで大軍を率いていたのだが。
>>898 上杉攻め?
会津遠征には参加して無いんじゃないの?
>>900 立花(に限らず西軍の多くの諸侯)が軍勢を率いて上京するときの名目は、
「家康が上杉を討つから参加します」というもの。
毛利や宇喜多などの西軍中核とちがって、
立花隊は三成が挙兵してからはじめて「あ、敵は家康なのね」と知らされた。
よって、国許から命じられたよりもはるかに多い兵を率いてきた時点では
「よーし、上杉ぬっ殺すぞー」のノリノリ状態。
西軍厨の中には、西軍で裏切らなかった大名は
義に燃えてお互い信頼しあっていたという幻想を持つ人間がけっこういて、
「立花が上杉ぬっ殺すのにノリノリなんてありえない」とキレる奴もいる。
まあ、西軍はそういうふうにしてなし崩し的に参加した大名が
かなりの割合を占めるわけで。
長曽我部とかもだし。
実は、前田討伐の時もノリノリな連中が多かったよね。
つーか、利家逝ったとたんそれかよっていう具合だな各大名家は・・・。
結局よく訳が解らないまま、たまたままわりに東軍or西軍が多いってだけで
なんとなく流されて参加したやつ多そうだよな
それが東軍なら結果オーライだが西軍だったら悲惨だな
三成も自分の野心のために多数を巻き添えにして
ずいぶん罪作りなことをしたものだ
>>901 会津遠征軍には宗茂は加わっておらず、在国していたようだ。
西軍の連署状に応じて、西軍に加担した。
東上するにあたって、加藤清正や家康から柳川に留まるようにと勧告されたと伝えられる。
以上、人物叢書立花宗茂から抜書きしました。
これを見ると会津に行くために東上したとは思えないですが、どうなんでしょう?
ま、宗茂を美化する気は無いですけどね。
敗戦後は家康に許してもらえるのを一日千秋の思いで待ってたらしいし、小説に書かれるほど潔い態度であったわけでもなさそうだ。
つか、
戦争♪戦争♪うれしいな♪
何でも食べます、よく噛んで♪
という無邪気さが宗茂の魅力。
907 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 22:16:54
>>904 なんか名目は秀頼の命令の上杉征伐と
三成の突然の挙兵のおかげで
混乱して訳のわからないまま
ひたすら翻弄された武将の方が多い。
そもそも西軍の連中は石田と大谷以外さっぱり
状況が飲み込めてなかったんじゃないだろうか?
宇喜多も小西も自分たちが何故、家康率いる軍勢と戦わなくてはいけないか理解してなかったろう。
ついでに言うと東軍も本多忠勝に「秀頼様に仇なす三成を討つ」と騙された福島が
その論理で諸将を説得してるし。
三成が憎かった武将はその動機だけで参加した奴も多かったんじゃないだろうか?
なんせ福島自身が完璧に騙されてて戦後に伊奈事件を起こしてるしな。
908 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 22:18:19
あと関ヶ原で闘った武将ですらそうなんだから、地方でやりあってた連中は
単に日頃の対立関係から戦ってただけのように思える。
そんで戦後、彼らの立場から東軍・西軍と分けられて処断されたんだろう。
909 :
907:05/02/26 22:22:34
本多忠勝じゃなかった。正信だ。
ま、とにかく目障りなやつらはみんなやっつけてしまおう〜
というのが伊達政宗なわけで。
911 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/26 22:32:57
そもそも「東軍」「西軍」という言い方自体が
後世の人が作った区分じゃないの?
当時の武将たちは別に「わしは東軍につく」「私は西軍に参加する」とか考えたわけではなく
とにかく「東軍」「西軍」なんて概念なく二つに別れただけだろう。
あ、でも毛利輝元が「西軍総大将」にされてるな。
しかし「西軍総大将」って何かおかしい。
正確にはなんて言ったのかな?
>>911 バカ?
東軍西軍が後世につけられた呼称なんて当たり前もいいところなんだが。
東軍西軍の概念が当時の人間になかったことくらい
脳みそが10グラムもあれば言うまでもなくわかるだろうに。
914 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/27 03:12:06
>>895 ナポレオンが孫子兵法を読んだという根拠は?でまかせうざいからw
915 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/27 09:02:32
家康レベルになると素で孫子より上じゃねえの?
漫画の書き方、文章の書き方…等々色々在って確かに読めば論理的だけど一流
に成るのに必要かは疑問だよね。っていうか一流になった奴らはそんな物読ん
でないだろうし。そういえば映画のスピルバーグ監督が数年前映画スクール卒
業してたよな。最新技術も学べて勉強に成ったとか語ってたが。まあ、兵法な
んてそんなもんじゃねえの?
孫子の兵法は、よけいなものが排除されて
理論そのものになっているところが評価されるものであって、
使う人間はそれをアレンジしなきゃ意味がないわな。
定石だけでプロになれる棋士はいません。
馬ショクのことかー!>定石だけで〜
919 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/27 20:32:32
>>915 それは、今の映画の一般的技術を計っただけじゃない?スピルバーグの手法は独学で生まれて、ハリウッドに十分通用したからここまで来たし、現代の映画の技術を教えてくれる学校なんか、スピルバーグより下のことしか教えてくれないだろ。
孫子兵法書いた椰子が自分より劣っている人間の教えを請うか?
孫子は兵書というより……な代物だし
関ヶ原で主戦力となった武器の詳細きぼん。やぱーり鉄砲かい?
賢い人教えて
宇喜田が味方を裏切るような状態では最初から負けだった
923 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 23:26:50
924 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 21:24:37
前田利家が生きていても、徳川家康は天下を統一できたであろうか?
>>924 前田と家康は和睦したからね。
あまり意味が無いと思う。
ただ、生きていたら、前田征伐も
上杉征伐も起きなかっただろうな。
927 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 23:11:13
西軍に総大将は存在しなかった!
これが真実なのではないか?
三成でもあれだけ集まったのだから、相当な軍勢が
武断派もかなり前田につくだろうから、仮に勝てるにもして大変な騒ぎになっただろうな
930 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 23:16:54
931 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 23:39:41
さすが三戦板馬鹿ばっかだな…。
孫子の本当の凄さは、それがいつに出来たものかって事を考えてから言えよ。
孫武が何年前の人物か分かって言ってんのか?
家康が超えてたとか、超えてないとかそうゆうレベルの人物じゃないんだよ。
932 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 23:45:49
933 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 23:47:43
>>931 たいしたこと言ってないのに
自分がたいしたこと言ってると
思い込んでるバカ
津軽家です!南部に反抗し三成の子孫をかくまっても明治まで改易なしですわ エッヘン
935 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 23:53:09
>>924 徳川は天下を統一したんじゃないよ。
クーデター―――天下分け目の戦いなどと
巧妙に演出されたわけだが―――によって豊臣から
政権を奪っただけ。
そこんとこお間違えなきよう。
937 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 23:58:25
939 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 00:04:50
クーデター起こしたのは三成
それを力で制圧して実権を自分ひとりに集中させ
政権転覆したのが1603年の将軍就任&幕府開闢
941 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 02:10:11
前半は西軍が優勢だったというのは、信憑性が薄いなあ
942 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 02:39:33
家康は孫子兵法を熟読し極めたから、石田だろうが毛利だろうが相手になるわけがない。
943 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 02:41:20
前半は西軍優勢
間違いない
946 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 04:21:46
>>943 信長のときはまだ半分しか読んでなかったから勝てなくて当たり前!だから従属した
信長は孫子よんでなくてもその体現者に近いことはやってのけた
948 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 13:37:47
家康が西軍の総大将なら、東軍に勝っていたであろう
949 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 13:56:20
三成弱っ!!
950 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 14:03:54
三成は頭良すぎたから、根回しを省き過ぎたたというか、自分が先を読んで行動していたことに周りがついてきて当然の感を持っていたのがそもそもの誤りで…人心掌握ができない総大将にカリスマ性はない。あれだけの名将が散っていったことが惜しまれる。
石田三成と大谷吉継の立場が入れ替わってたらなあ
952 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 14:11:27
三成は凡将ですらない
駄将というのがふさわしい
あれほどの大軍を1日(実質数時間)で壊滅させた例は日本史上に類を見ない
953 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 15:15:06
人には役割というものがあって、三成は当然総大将の器ではなかった。
太平の世に文官として名声を残すべきであった。
あれほどの頭脳を持ちながら、何故自分自身が立ったのか。
島左近を題材とした小説には、三成の心情がフィクションながら描かれているが
総大将には適任者を押してしかるべき戦だったよ。
954 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 15:22:49
あれだけ嫌われて不平不満を持たれて豊臣家を内部分裂させるようじゃ文官失格
ただただ秀吉に気に入られるのだけは非常に上手かった
長曾我部家の久武親直とかぶるな
なのに評価が正反対なのは悪役徳川家康に立ち向かったという点一つに尽きる
しかし結局家康が勝てたのも敵が三成だったからこそで、結局三成の存在は豊臣家に害しか及ぼしていないのだ
955 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 15:30:53
三成がいなかったら、どうなっていたのだ?
956 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 15:32:47
彼はそんなに悪人?
確かに秀吉子飼いの武将達から鬼のように嫌われていたが、あの島左近が部下に
なるような人物でもある。
でも、どうしてもっと人間関係を円滑にしようとしないかねぇってとこに尽きるなぁ。
人間あそこまで方々に嫌われると少しは自分を見つめなおすこともするもんだが。
意地?融通がきかないおバカ??
957 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 15:35:44
正則や清正に土下座して謝ればよかった
真に豊臣家のことを考えれば自分のプライドを捨てるべきだった
958 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 15:37:02
三成いなかったら、東軍は負けていたかもしれない。
もしかして・・・
でも、北の政所がすでに家康に取り込まれて?!いたことを思うと、
一概にもそうとは言えないのか。
959 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 15:41:09
豊臣恩顧が一致団結していれば、家康は天下を狙わなかったであろうな
960 :
無名武将@お腹せっぷく:
豊臣家には、代々武士として主君に仕えていた人間が少なすぎたのかも。
主従の関係は一代でできても、思想は代々伝えてその家のものになっていく。
主君の家を守るという思想があれば、耐えがたきを耐え・・となったかもしれない。
でも世は戦国。下克上が当たり前の時代に、その思想はむしろ徳川幕府時代を彷彿と
させるものかもしれないな。