尾藤知定(生年不明)
甚右衛門尉、左衛門尉。尾張重吉の出身。早くから秀吉に仕える。
1577年に播磨で5000石、ついで但馬豊岡城主となり1585年に秀吉の弟・秀長に属す。
九州征伐において島津の精鋭2万が4兄弟・伊集院氏・北郷氏らに率いられ
宮部継潤の4000が守る根白坂に夜襲を掛ける。
自ら救援に赴こうとする秀長を押し止めるが、その狼狽振りのため傍らにいた藤堂高虎が激怒。
高虎の一撃で大怪我をし糞尿を垂れ流しながらも逃げ延びる。
これに奮起した黒田隊と吉川隊のみの突撃により島津隊は壊滅。
義弘が宮部継潤の棍棒で討ち取られ、家久も竜造寺家配下の鍋島隊に討ち取られた。
(ちなみに鍋島隊は沖田畷でも猿渡隊を一方的に壊滅させている。竜造寺本隊とは大違い)
この勝利の結果、薩摩は伊集院忠棟に与えられる事で蹴りがついた。
逐電した知定は伊勢の朝熊山に潜伏して、秀吉の追手に全山を焼かれたが脱出したという (『多聞院日記』)。
その後、関が原において徳川秀忠の軍に仙石秀久を頼り近づくものの
秀久「あーっ、こいつ尾藤じゃん。秀忠様これ疫病神っすよ」(口語訳)
の一言で晒し首にされる。