1 :
無名武将@お腹せっぷく :
05/02/09 23:23:36 織田信長(?―1560?) 尾張守 尾張守護代・織田氏の家を乗っ取って 一時期尾張を支配したが、上洛途中の義元に 攻められ滅亡。その後自害したとも諸国を放浪したともいわれている。 明智光秀(1528―1582) 明智幕府初代将軍。明智光継(仮)の嫡子 明智氏は代々土岐氏に仕える城主。 その後、織田信長に仕えるが暴政を敷く信長に 止むを得ず、信長を討つ。 その後、羽柴秀吉を山崎にて討ち取り 近江坂本に幕府を開く。
松平元康(?―1560) 三河の豪族。義元の傘下に入る。 後、義元の上洛に従い討ち死に。 さびしいww
武田信玄 甲斐の国主。上洛して足利義昭を補佐するが、後に追放。
4 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/10 02:07:18
毛利輝元 安芸幕府・初代将軍 関ケ原で徳川家康を破り、ついでその五年後、豊臣家を屈伏させ天下統一を成し遂げる。 ちなみにその時の政敵・家康の墓は今も「江戸」という地名のさびれた田舎町にひっそりのたたずんでいる・・・
5 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/10 12:45:55
良スレの予感!
伊達政宗 最上義光の妹を娶り、後顧の憂いを取り払った後南進 北条、武田と結び春日山城を占拠
7 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/10 16:12:56
今川氏真 世界的蹴鞠ブームの火付け役
伊達政宗 最上義光の妹を娶り、後顧の憂いを取り払った後南進 北条、武田と結び春日山城を占拠
9 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/10 17:17:29
朝倉義景 足利義昭を奉じて上洛。 三好長慶・松永久秀を追い払い、義昭を15代将軍の座につける。 しかし、反撃してきた三好三人衆に敗れ、京を追われる。
明智検地帳〜尾張巻(現・国会図書館蔵) (前略) この年・尾張の国中村を検地する。 中村地方の総石高はおよそ100石だった。 尚、この際に猿に似た百姓が抵抗したために斬殺した。 (後略) 秀吉のことです
曹操 橋玄に「治世の能臣、乱世の姦雄」と評される 黄巾討伐に功を挙げるが、董卓軍の武将徐栄に攻め殺される
劉備 公孫賛配下の武将。 出陣してきた顔良に斬り殺される
孫権 重臣達の反対を押し切って曹操軍20万との徹底抗戦を選択するも、派遣した周瑜率いる主力は赤壁で大敗。 重臣達は一斉に反旗を翻し、孫権は殺害され、首は降伏の証として曹操に差し出された。
14 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/10 19:59:58
【呂布】 武安国と戦い腕を切り落とされる。 その後の行方は不明。
15 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/10 20:58:47
今川氏真 今川幕府2代将軍 父・初代将軍今川義元死後、父の作り上げた強固な官僚機構・常備軍を背景に、全国に渡って善政を敷いた。 戦は不得手であったが、彼の内政手腕は確かなものがあり、今川幕府の礎を築いた。 また、彼は風流人であったため、今日の日本文化に多大な影響を与えた人物でもある。
上杉景虎 北条氏康の七男。上杉謙信の養子となる。 養父の急死後、同じく養子である上杉景勝との後継者争いに勝利。 その後豊臣家に従い、秀吉死後は家康に臣従し、本領安堵される。
18 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/11 00:11:23
足利義昭 足利幕府15代将軍 兄で13代将軍の義輝が殺された後、 信長の尽力により入京して将軍に就任。 信長に対し「御父方」と呼んで報いるも決別。 諸国の大名に対して信長討伐を呼びかける書状を送り 「手紙公方」とあだ名される。 1573年織田・徳川を滅ぼして入京を果たした 武田勝頼の故父信玄を「御父方」と呼んで報いる。 が、程なく決別し浅井・朝倉に書状を送り、 少人数で東国に戻る勝頼を背後から襲わせて討ち取る。 その功に対して朝倉義景を「御父方」と呼んで報いる。 その後、御父方と呼ばれた者 上杉・宇喜多・毛利・北条・大友・島津・・・。 いずれも義昭の謀略で消されている。
19 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/11 00:20:59
糞スレの悪寒
張飛 武力15 知力2 政務5 魅力9 劉備配下の将 袁術討伐に向かった、劉備の留守を守っていたが 禁止されていた酒を飲み、呂府に隙を突かれて討ち取られる
21 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/11 03:49:11
徳川家康 戦国期の大名。三方が原の合戦で散々悩んだあげく、出撃し、武田信玄(※現在の日本皇帝・武田としゆき様のご先祖)に討ち取られた。 いまも諺で、悩んだあげく失敗することを『狸の糞もらし評定』と言うのは、この故事による。
何進 後漢末期の肉屋
裕仁(1901-1945) アメリカの52番目の州として併合される前の、最後の日本国天皇。
24 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/11 04:07:25
信長の野望にこういうモード登載キボウ
25 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/13 15:59:35
信長の野望・蒼天録にて 雑兵秀吉
今川氏真(1536〜1614) 三カ国の太守今川義元の息子として生まれた彼は、和歌・蹴鞠を得意とする一方で塚原ト伝に剣を学んだ武芸者でもあった。 父義元が桶狭間で織田信長に敗れ世を去ると、剣の道に生きることを決め武田と徳川に領土・家臣を譲り渡した。 以後、諸国放浪の末今川流剣術を興し、天覧試合で吉岡憲法を破り天下一と称された。 その後、かつての配下徳川家の兵法指南役となってからも剣に対する情熱は衰えることは無かった。 1612年には宮本武蔵・佐々木巌流の二人を打ち倒したが、1613年最愛の妻早川殿が亡くなると1614年、後を追うように世を去った。
氏真カコエエ...
織田家の忠臣 木下秀吉 1537-1598 織田家の部将 1570年浅井長政が寝返った際 自ら殿に希望し僅かな兵と共に金ヶ崎に残る。 なんとか浅井・朝倉の大軍を食い止め信長を無事京まで逃がすことができたが 自身はこの戦いで戦死した。 政治23 統率72 智謀53
しまったorz
30 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/13 23:04:34
馬ショク 諸葛亮の第1次北伐に参加し、街亭にて敗因を作り 諸葛亮に死罪を命じられるも、帝・劉禅の一声で (実は人材の損失を惜しむ諸葛亮の策) 罪を許されて以後、軽挙を慎み深慮をもって献策し 諸葛亮の北伐を支える。 諸葛亮の死後は姜維の副将として 夏候覇とともに姜維を支える。 しかし、街亭での敗戦後に彼が生かされたことは 蜀の武将の間で大きなわだかまりを残すことになった。
>>28 いいね 実際本当に死んでたらそんな能力だったんだろうな・・・
【呂布】 丁原配下の将、董卓に丁原を裏切るように言われたが断ったために、怒った董卓に殺された。 武力72 知力32 政治12 魅力68 義理13 (V以降登場)
【織田信忠】 日本を統一し、戦国を終わらせた織田信長の嫡男。 父・信長の遺言に従い、外国との外交・貿易を積極的に進めたが、 若死してしまう。 その後、稀代の野心家・明智光秀と羽柴秀吉に謀反を起こされ、 織田政権は崩壊した。
【武田信玄】 猛将と言われた武田信虎の息子。 父・信虎を、信虎に不満を持つ重臣達と共に追放。 しかしそのせいで重臣達の持つ権限は大きくなり、事実上傀儡政権となった。 力ある重臣達の拡大政策が上手くいき、それなりに大大名となるが、武田家内の立場は変わらなかった。 後にその状況を打破しようと試みるも、今度は息子・義信と重臣たちにそむかれ、 自身が追放される羽目となった。 統率66 智謀38 政治71 魅力47 教養73
【長尾景虎】 越後の幻の猛将と言われる。 戦では類まれなる才能を見せるが、家臣達の心は掴めず、反乱が相次いだ。 とうとう我慢できず、大名という立場を捨て、仏道に入った。 その後も長尾家の反乱は治まらず、やがて隣国に吸収され、滅びた。 統率97智謀72政治43魅力11教養54 あんま変わんないな
【北条氏康】 関東の大名。 天下の名城・小田原城を持ちながらも、長尾軍の前に敗れ去った。 後に人は氏康を、引き篭もり王と呼んだ。
37 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/14 19:15:52
松平忠政(1540?〜?) 松平広忠の長子で元康の異母兄。 幼少の折から岡崎城外で過ごしてきたが 1560年、今川の尾張侵攻時に 今川方の先鋒として華々しく討死した 松平家当主元康、その子竹千代も相次いで病没したため 今川義元により、松平家当主として擁立される。
【曹操(孟徳)】 宦官曹騰の孫。黄巾族討伐に貢献する。 董卓の暴虐に耐えかね、暗殺を試みるが失敗し、その場で呂布に斬り殺される。 統率:75 武力:64 知力:78 政治:67 うーん、いまいち・・・
39 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/14 19:31:05
【伊達政宗】( 〜1590)
安土桃山の東北大名。
秀吉の北条攻めに参陣するが、
遅参を咎められ持参した金の十字架に磔にされた。
>>34 強い版畠山みたいだ。
40 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/14 19:35:47
信長記 おまけ 信長の草履を尻にしいていて、怒った信長に斬られた者があったという。
二階堂盛義(1544?〜1581) 二階堂家18代当主。1566年、芦名盛氏との戦いで勝利し、盛氏の長男盛興を人質とする。 その後田村・石川・白河・二本松らの近隣の諸氏を降し、南奥州のほぼ全土を支配する戦国大名となるが、 1581年伊達氏との戦いのさなか突然謎の発狂、陣中で自害した。 その後二階堂家は急速に弱体化し、1589年伊達政宗に滅ぼされた。
凌統 凌操の子。呉の将。 父の仇である甘寧が孫権に仕えた際、殺害する。 その咎で追放され、憂悶のうちに死亡。
【浅井長政】 浅井家大名。拡大著しい織田信長と同盟、信長の天下武布事業に大きく貢献した。 信長による天下平定後、織田政権で重要な地位を得たまま病死。 その後何百年も浅井家は安泰となり、戦国屈指の賢人と称される。
【曹豹】 曹豹、徐州の陶謙の部下。呂布の夫人の父。 陶謙が死に劉備が徐州を継いだ際。劉備は袁術攻略で、張飛が留守をしていた。 張飛は酒を飲み兵卒達にも進める、曹豹はこれを注意するが聞き入れられず 「私が使える人物では無い」と考える そこへ呂布が攻撃を仕掛ける、 城の者は張飛の薦めで酒を飲んでいて応戦できず、張飛は逃げ出す。 だが曹豹に見つかり張飛は曹豹に槍をひとつきされ死亡、 その首を呂布に差し出し以後重く用いられる、 (この際、自分のむこであるから助けて欲しいという願いから呂布は曹操軍の将軍となる) 曹操に呂布が負けたときも「燕人張飛」を倒した者、 として目を付けられ後に南威将軍に任命。 漢中を劉備軍より死守するなど多くの功績を残す。 曹豹 武力95 統率85 政治72 知力76 魅力84 張飛 武力76 統率5 政治4 知力10 魅力72
【斉藤義龍】 父、斉藤道三に反乱を起こすが、あえなく敗れ、 討死した。 統率47智謀43政治59魅力12教養21
47 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/14 22:57:11
毛利 勝永(もうり かつなが) 天正5年(1577)?〜慶長20年(1615) 勝永は大坂城の弱点とされる城南の平野口の外側に「毛利丸」という出丸を築き守備。 来襲した前田利常らを痛撃して、天下に名を轟かせた(毛利丸の攻防戦)。夏の陣では 大和口迎撃の後衛に配置され、誉田の戦いで伊達政宗を撃退。翌日の天王寺・岡山の 戦いでは家康麾下を突き崩して、これを窮地に追い込む大活躍を見せたが多勢に無勢。 一歩及ばず戦死した。その活躍は、島津家の薩藩旧記に「毛利日本一の兵、古よりの 物語にもこれなき由」と絶賛され、後に講談の題材にもなり「毛利十勇士」「毛利の抜け 穴」など数多くの伝説を生んだ。 政治53戦闘98智謀89 真田 信繁(さなだ のぶしげ) 永禄10年(1567)〜慶長20年(1615) 冬の陣では西ノ丸・惣構今橋を守備。夏の陣では大和口の後衛に配置され、誉田の戦 いでは殿を務める。天王寺・岡山の戦いでは豊臣軍の開戦の口火を切って本多忠朝・ 小笠原秀政の大名二人を討つ大活躍をしたが、味方の毛利勝永隊の壊滅により敗勢と なると撤退。落城の際、秀頼に殉じて自害した。その戦いぶりは、江戸時代の文人・神沢 杜口が「惜しいかな後世、毛利を云いて真田を云わず」と嘆く程であったという。 政治65戦闘80智謀59 ・・・正直、勝永が家康本陣に突っ込めたのは信繁のおかげじゃん
トリビアの泉 信長の草履を尻にしいていて、怒った信長に斬られた者があった。
山中鹿之介幸盛 尼子氏の家臣。 毛利配下の勇将・品川大膳との一騎討ちにて首を獲られる。 政治5 戦闘52 智謀21
51 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/14 23:26:03
渡辺通 出雲退却戦にて、かつて父の勝を討った毛利元就を 撤退時の混乱に紛れて討ち取り 以後、尼子方として 元就の跡を継いだ隆元・両川との戦いにて勇名を馳せる。
52 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/14 23:32:47
>>41 のほかに
二階堂輝行・杉原理興・隈部辺りで
そんなプロフィール書けないかな。
輝行、大声で将兵を叱咤して近隣を切り従えるとか。
土岐頼芸 1502〜1582 美濃守護の兄・政頼を西村勘九郎の協力を経て追放する事に成功し 自らが守護になると守護代長井藤左衛門を粛清 さらには勢力を拡大してきた西村勘九郎さえも追放した その後、朝倉氏、浅井氏、織田氏と 次々と美濃へ侵攻するもこれらを全て撃退 美濃の足元を磐石にしたのち頼次に家督を譲る。 しかし後に頼次と不和になり廃嫡を企てるもこれが露見し 自らも国外追放された。 追放後は各地で鷹の絵を描いていたという。 政治58 統率74 智謀72 教養80
誰か島津家きぼん
どういういみ?
品川勝盛(15??〜1581) 益田家臣 元就の出雲遠征の時、 尼子方の山中鹿介に一騎討ちを挑み 見事討ち取った。 1581年鳥取城を守備するも 落城の際吉川経家とともに自害した 政治19 戦闘68 智謀38
二階堂輝行(?〜1564) 二階堂家17代当主。 芦名家、田村家の度重なる領内への侵攻に苦しめられるが、 忠臣の須田盛秀の献身的な働きにより、辛うじて領内を守りきる。 しかし後に領主としての力がないと判断された盛秀に、酒宴の席で謀殺された。 最も信頼していた家臣に裏切られた輝行のショックは大きかったと思われる。
伊達政宗(?〜?) 輝宗の子。 輝宗が人取り橋の戦いの際に、人質になった時にも構わず 容赦なく父親側を撃った。しかし二階堂の隙をついて 脱出した輝宗に、「不心得者」と叱咤されてその場で手討にされた
1543年、奇妙な鉄の棒を持っていたポルトガル人が種子島で島民に殺害されたという
武田晴信 武田信虎の子、信虎に不満を持つ一部重臣に利用され追放を試みるが、結局は暴かれ自害した。 信虎は日頃から彼の無能さに嘆いていたという。 統率47 智謀35 政治18
63 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/15 20:23:48
周瑜 孫策・孫権に仕えて江東の支配に尽力した。 曹操の大軍が江東に迫ると開戦を主張したが、降伏派の重臣達によって殺害された。 統率 85 武力 60 知力 72 政治 36
長宗我部盛親 土佐の大名長宗我部元親の息子。 関ヶ原の戦いで西軍に付き所領を没収される。 その後は寺子屋の師匠として余生を過ごし多数の人材を輩出した。 真田信繁 真田昌幸の次男。 関ヶ原の戦いの際、父昌幸とともに徳川軍を釘付けにしたが、西軍が敗北したため九度山に流される。 極貧生活の中開発した紐が評判を呼び、それは真田紐と名付けなれた。 彼の死後真田家は赦され、子の幸昌は堺で真田紐の販売で財を成し、真田屋の祖となった。
65 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/15 20:46:04
斎藤竜興 1562年、父義竜の後を継ぎ美濃1国を支配。 家督相続時より織田の美濃侵攻軍と戦い 墨俣にて織田方の将、柴田・佐久間を討ち取り、 1566年、河野島の戦いにおいて 織田に壊滅的損害を与え、信長自身も溺死させる大戦果。
三好義興(1531〜1580) 河内の戦国大名。 父長慶の死後家督を継承。 優秀な叔父達の後見の元、六角・畠山を滅亡させ、畿内の権力抗争を終結させる。 さらに四国・東海にも手を伸ばし、これもほぼ統一。 三好家の天下を誰もが疑わなかったが、父の代からの重臣松永久秀が突如謀反。 当時京都の屋敷で連歌会を催していた義興の周りには全く兵は居なかった。 こうして天下統一を目前にして義興は業火の中に生を終えた。享年49歳。 また、松永久秀は一時畿内を掌握したものの、中国を攻略していた三好三人衆が 7日で引き返し、敗北。居城の信貴山に敗走の途中、農民に討たれて絶命。 「松永の3日天下」という言葉を残す事となった。 また、三好家の後継者を決める「飯盛会議」が行われ、三好三人衆が「十河義継」を 推挙する。しかし、実権は三好三人衆が握ったままであった・・・。
諸葛亮 諸葛謹の弟。劉備の使者として会戦を渋る孫権の元へ会戦をけしかける為に来たが、 無礼な態度をとったため孫権の怒りを買い斬り殺された。 武力23 政治71 知力68 魅力27
関羽雲長 故郷の河東で人を斬り、関羽と名前を変えて逃亡者となった。 放浪中、琢郡で出会った劉備玄徳に官憲に突き出され、あえなく死刑となった。
70 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/15 23:04:12
織田・松平5代の怨恨 1.信秀vs清康 守山崩れにて清康死亡、勢いに乗じて岡崎に攻め入った信秀、 井田にて松平の寡兵に討たれる。 2.信広vs広忠 安祥・岡崎にて対峙、小豆坂にて広忠死亡、 太原雪斎率いる今川軍の後援を得た松平軍が安祥を強襲し、 尾張へ逃げ遅れた信広自害。 3.信長・元康 1560年、今川義元が大軍を率いて尾張に来襲。 元康、佐久間大学を討つも、織田・今川本隊同士の最終決戦 「庄内川の合戦」にて先鋒の元康討死、寡兵の信長も今川勢に討ち取られる。 信長の遺児奇妙丸、西国に亡命。元康遺児竹千代、 幼弱ながら今川一門として松平家相続を認められる。 4.信輝(信忠)vs真康(信康) 信長死後、その遺臣に連れられて西国各地を放浪した奇妙丸が 最終的に行き着いたのが毛利家、上方に安定勢力が現れないため 自ら天下を取るべく邁進。奇妙丸、当主輝元の偏倚により「信輝」。 毛利上方進出の際、側女を持ち一子「三法師」を得る。 もう一方の松平竹千代も義元の子氏真の偏倚を受け「真康」。 年増し後家の西郷氏との間に1子「長松丸」を得る。 今川家と武田・北条との同盟関係も今や今川が盟主的な関係。 天下取りを目指す両家m1582年、近江愛知川にて初の衝突。 両軍、未曾有の損害を出す戦となり信輝・真康相討ちの一騎討ち。 あまりの損害のため、両家10余年の静寂を余儀なくされる。 5.就信(秀信)vs氏忠(秀忠) 長年沈黙を守ってきた毛利と今川が 1600年、関ヶ原にて激突。 織田・松平の間にも最終決闘!その勝敗は不明。
毛利元就 左馬頭。安芸の土豪。病死した兄の跡を継いで当主と成り、 尼子家と大内家の境で勢力をじわじわと広げていたが、 陶全姜を厳島におびき出そうと姑息な手段を弄したことが 江良三河守に見破られ、全姜の意を含んだ家臣井上元兼に暗殺され死亡した。 このことから、短慮の人を「毛利の浅知恵」というて嘲るようになったという。 (『陶藩閥閲録』)大河ドラマ「陶全姜」では妻に頼り子に当り散らす 徹底した小人物として描かれていたことは記憶に新しい。 毛利元春 元就の次男、吉川家の養子となっていたが、父が暗殺されてからは 養家を追放され、甥の輝元を連れて諸国を放浪。羽柴秀吉に仕え 毛利家再興を願い上月城に拠ったが、陶の大軍に包囲され自刃した。 毛利隆景 元就三男。小早川家の養子となっていたが、父が暗殺されてからは 養家を追放され、四国を放浪した後長曾我部家に仕え、家老にまで昇進。 関ヶ原の役のおり、長曾我部家分裂の危機を収拾し、久武内蔵助を切腹させ、 幕末まで続く長曾我部藩二十四万石の基礎を築く。幕末の長曾我部藩参政 毛利象二郎(敬親)は子孫である。
織田信長 茶人。三郎、無楽斎と号す。戦国武将織田信秀の子。 優秀な能力を持っていたが、その奇抜なセンスが親や家臣に全く理解 されず、信秀没後の後継争いに敗れ、諸国を放浪。 堺で今井宗久の弟子となり、卓抜したセンスで独創的な茶器を作り、 茶人として天下第一の名声を得るも、天下を再統一した将軍足利義輝と 次第に対立を深め、1582年京都本能寺茶室天下布文庵に於いて 自刃を命じられ、管領土岐(明智)光秀の監視の元、弟子の松平元康に 介錯され死亡した。室生駒氏との間に生まれた常真斎信雄が茶道織田流を 三河松平藩に於いて再興し、その流派は現代でも続いている。 尚、信長自刃の折下人で黄金細工に優れた猿の藤吉なるものも殉死し、 「下人といえども人情を知るもの哉、世が世なれば天下を取るべき人 だったやもしれぬ」と土岐(明智)光秀は嘆息したという (光秀公記『織田無楽斎の事並びに下人忠義の事』)。
孫権 呉皇帝孫策の弟。勢いに任せて何事も逸る兄をたびたび諌めた。 しかし、そのために兄から疎まれ表舞台で活躍することはなかった。 生活は質素、たまに酒をたしなむ程度で、人当たりもよく特に張昭との仲が良かった。
>>70 >織田・松平の間にも最終決闘!その勝敗は不明。
ここまできて勝敗不明かよw
大阪夏の陣 1615年、徳川家康・秀忠親子が豊臣秀頼の立て篭もる大阪城を攻めた。 当初は徳川軍の圧勝かと思われたが、真田信繁・毛利勝永の捨て身の突撃で家康・秀忠親子が討ち死にするという事態に。 結局大阪城は落ちず、徳川家では家督相続争いが勃発。地方でも関ヶ原で改易された大名の残党が蜂起するなど、再び戦国の世に戻ってしまう。 そこにつけ込んだイギリス・スペインなどのヨーロッパ諸国の侵略を受け、 以後、1867年にTYOUSYU・SATUMAが海外勢力を追い出すまでの250年以上にもわたり我が国は植民地支配された。
>>70 > 奇妙丸、当主輝元の偏倚により「信輝」。
その法則なら「信輝」じゃなくて「元信」か「元長」とかだろ。
あともう一つ突っ込むが、「偏倚」じゃなくて「偏諱」では?
【織田信長】 尾張半国の大名・織田信秀の実子。 嫡男であったが、信秀の葬儀で見せた奇行な振る舞いなどで家中の反感を買い、 それをいち早く察知した信長は、尾張を去り、遠く武田信玄の元へと流れた。 武田家では人が変わったようにめきめきと頭角をあらわし、 尾張の大うつけ、甲斐では楠正成と称され、その名声は遠く京まで轟いたという。 また正式に信玄の養子となり、その頃から武田信長を名乗った。 1570年、武田家は信長の活躍などもあり、ついに宿敵上杉家を倒した。 またその頃、今川義元は、織田、北畑を倒し西へと勢力を拡大していたが、 信玄の急成長に同盟を一方的に破棄、大勢力どおしのぶつかりあいとなったが、 密かに北条家へ武田を味方するよう画策していた信長の活躍もあり、 やがて今川は押されてゆき、やがて滅んだ。 そして満を持して義昭と共に上洛を決行した武田は、ついに名実ともに日本最大の大名となった。 将軍となった義昭はすぐに信玄に副将軍を与えたが、信玄の重臣となっていた信長が信玄に対し、 受けるべきではないと主張したため、やむなく辞退した。 その態度に不信感を募らせた義昭は、信玄打倒を発したが、すでに信玄の敵と言える者はおらず、 やがて義昭はそれを口実に処刑されてしまう。 そして信玄は将軍に任じられるが、その途端病死、 今川との戦いの際に義信はすでに死亡していたため、勝頼が跡を継ぐはずだった。 しかし信長の実力を疑わない家中の者や、信長の直臣によって、信長が担がれたために内乱が起きた。 やがて勝頼が敗れると、その一派は粛清され、武田家は信長が正式に跡を継ぐこととなった。 そしてとうとう日本を統一、ここに武田信長による天下は来た、と、 甲斐公記は伝えている。
豊臣秀吉 尾張中村の農民の子。 織田信長に仕え、人望と知略を用いて戦功を重ね、足軽から一国一城の主へと出世し、羽柴氏を称した。 その後、信長の中国進出の中心を担う。 天正十年、備中高松城を包囲中に本能寺の変を知らせを受け、素早く軍を帰し山崎の合戦で明智光秀を破った。 翌年、柴田勝家を滅ぼして信長の後継者の地位を確立。 天正十二年、小牧長久手にて織田信雄・徳川家康と戦い、後に講和。 同十三年に四国の長宗我部氏、同十五年に九州の島津氏を平定。この間、関白・太政大臣に任ぜられ豊臣姓を賜る。 天下統一まであと一歩という、天正十八年、後北条氏の小田原城包囲中、帰順していた奥州の伊達政宗によって放尿中に殺害される。 このとき秀吉は、自らの太刀を政宗に預け後ろに控えさせ、得意げに兵法を語っていたという。
徳川家康 幼い頃は織田・今川の人質として過ごし、桶狭間の戦い直後に岡崎城に帰り自立。 以後は織田と同盟を結び今川・武田と戦い、本能寺の変の混乱に乗じて三遠駿甲信を領する大大名となる。 1度は秀吉と敵対するも後に臣従し、小田原征伐の後に関東へ移封され、 豊臣政権下の大名の中で最高の地位を得る。 秀吉の死後、石田三成と対立し関ヶ原にて決戦を展開するも、 傍観していた小早川秀秋の陣へ不用意にも発砲し、秀秋の逆襲を誘発、大敗した。 家康は逃走中に捕らえられ、京都六条河原にて処刑された。
前田利家 織田家家臣。後に秀吉に従う。 甥の前田利益が出奔する際、水風呂に入れられて心臓マヒで死亡した。
島津義弘 天文四年(1535)〜元和五年(1619) 1600年 義弘66歳のとき関が原の戦いに参戦。 小早川某の裏切りを事前に察知し、鉄砲を撃ちかけこれを未然に阻止。 その後、大谷刑部小輔らと共闘。 藤堂高虎、京極高知、さらには徳川四天王、井伊直正を討ち取るなどの戦功をあげるも、戦い自体は膠着状態に。 およそ一週間の攻防の後、送れて参陣した徳川家嫡男、秀忠軍2万5千の活躍により、戦況は一変。 一気に劣勢と化した石田軍に早々と見切りをつけた義弘は、豊久や盛淳にそれを提言。前代未聞の撤退戦を開始する。 乾坤一擲の檄をもって徳川本陣を急襲した島津軍はそのまま松平忠吉を討ち取り、本田忠勝をも敗走させ、 近江の国、水口までの退路を確保した。 しかし、そこで義弘に急報が舞い込んだ。 関が原の戦いが膠着したことにより、その間隙を縫って挙兵した黒田如水が九州を平定したとの報せが届く。 進退きわまった感のある義弘であったが、その後の行動は素早かった。 まず大坂、堺に軍を向けた義弘は、人質となっていた自身の夫人と忠恒の夫人を救出。 そのまま海路をとり、北上。上杉景勝の下に参じ、これに臣従。 家康を今度は背後から脅かす存在となる。
【石田三成】 治部卿、左吉。戦国〜江戸初期の徳川家臣。 近江の国に生まれた彼は、織田家臣羽柴秀吉によって武将として見出され、 薫陶を受け、次第に頭角を表した。しかしそんな彼を悲劇が襲う。 1582年、山崎の戦いで主君秀吉が戦死。信義に薄い羽柴家臣は 次々に敵の明智家に使えたが、義に篤い彼と親友の大谷吉継(越前鯖江藩祖) ・片桐助作(摂津茨木藩祖)の三名は「主君の仇とは伴に天を頂かず」といい、 徳川家に仕官。家康は彼の優秀さを一目見て気に入り、 井伊万千代とともに近習とする。 「へいくわい者」と呼ばれた三成は負けん気と得意の弁舌を生かし、 信濃の真田昌幸・越後の上杉景勝など徳川家と反目していた大名を 次々に徳川方に付け、柴田勝家を破った明智光秀に対抗しうる勢力を 作り上げる事に成功する。これにより天下は東西に二分され、 1600年の関ヶ原の戦いまで決着の付かない混戦状態となった。 関ヶ原の戦いでは徳川秀忠の軍師として中山道を通過し、 戦が不得手な秀忠に変わって西軍・福島正則を討ち取る活躍を見せた。 関ヶ原の後、故郷の近江長浜に於いて十二万石を領し、江戸幕府初代老中 として武家諸法度などの制定を行った。 柴田勝家養女(茶々)と大恋愛の末結婚し、妻との間に重家・(羽柴)秀頼 の二男があり、羽柴家を継いだ秀頼は豊後日出藩祖として幕府に重きをなした。 1632年、徳川幕府の長老として惜しまれながら死去。
>>84 まあ、三成が徳川家だったら
江戸幕府初期に官僚としての手腕を思うさま発揮できたかもな
>>85 思いっきり本多親子と被るけどな。
下手に増長すると、正信の追い落とされ罠。
【武田信玄】 一説に上杉家臣武田義信の父という。晴信、信繁とも。 甲斐源氏武田氏の末裔。 寵童上がりの佞臣高坂弾正にそそのかされ、譜代の臣をないがしろにし、民に圧政を強いたと伝わる。 謀略と裏切りをもって諏訪や信濃など周辺諸国を併呑するが、信濃に侵攻した上杉謙信に敗北、甲斐に逃げ延びる途中、落武者狩りの一揆農民に討ち取られる。 現在、長野県・山梨県には武田氏時代の事跡は何一つ残されておらず、居城の場所さえ定かではない。 郷土史家の中には、上杉謙信が残した謙信堤や棒道の一部は、武田時代に既にあったと身びいきな説を唱えるものもあるが、真偽は論をまたない。 高坂弾正の暗躍は、江戸時代に歌舞伎などにより民衆に広まり、陰湿な悪役の代名詞として有名。 戦前、榎本健一が演じた「川中島の戦い」の武田信玄は、毛ずねをむき出しに逃げまどうさまが、古来より伝わる信玄のイメージをよく伝えており、人気を博した。
88 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/19 01:28:31
織田信長(1534〜157?) 近江安土の地に大層な御殿を建てて移り住み 天下の掌握も間近かと思えたが、 突如、御殿のある丘が大爆発を起こし、 御殿は跡形も無く吹き飛び、信長自身の遺体すら発見できず。 後の調査で丘の地中に空洞ができ つるはしや焔硝などの遺留品も多数発見。 同様の事件が同日、岐阜でも起き長子信忠が死亡、 その他、織田一門の居城、徳川父子の居城2つなどでも 大小の出火が起こり、織田・徳川家を狙った 同時多発テロ的な様相を見せる。 安土・岐阜に関しては長篠で手痛い惨敗を喫した武田が 金堀衆を使って起こしたものと思われる。
長篠まで歴史が進めば死亡年がわからないような人物にはならないと思うのだが?
長宗我部盛親 土佐の大名長宗我部元親の息子。 関ヶ原の戦いで西軍に付き所領を没収される。 その後は寺子屋の師匠として生活を立てようとしたところ 「元大名の寺子屋」という評判が人を呼びこれが大繁盛。 後に寺子屋から青年を対象にした私塾と改変。 医学・理学・法学など総合的な学問を扱い、 今日の大学の元になるような教育体制を整備する。 現在の私学の雄「長宗我部義塾大学」の創始者。 高額紙幣の顔として老若男女に知れ渡っているのは周知のとおり。
羽柴(豊臣・徳川)秀頼 江戸初期の大名。大和郡山藩祖。 豊臣秀吉の第二子として生を受ける。母は浅井氏(淀殿)であったが、 生まれてすぐ北政所の元に送られ、柳生石舟斎に剣術を学び、 質実剛健な人物となった。大柄な彼は体格を生かし、自ら 豊臣新陰流を創始し、石舟斎から絶賛されたという。 幼い頃から英明を謳われた彼は、時代の趨勢は既に徳川幕府に傾いて 居る事を知っており、二条城で徳川家康と会見した時、大坂城返上を明言。 家康をあっといわせる。大野治長や生母浅井氏(淀殿)はこの 発言に激怒し、1615年秀頼の子国松を秀国と改名させて 後を継がせ、豊臣政権復活を図るが、機先を制した秀頼が 豊臣新陰流の剣を以って大野を斬殺。秀頼の意を受けた片桐且元が 淀殿を出家させ、計画は頓挫する。 大坂城を去った秀頼は、大和柳生に於いて愛妻・千と伴に しばらく隠棲していたが、家康は彼の英明さを愛し、 羽柴秀長の家を継がせ大和郡山一万石の捨扶持を与えた。 その後、柳生宗矩に推挙され堺奉行となり、秀吉により破壊された 堺の復興に尽力し、父秀吉が猿とあだ名されていたことに因み猿飛佐助という 偽名を使って真田信繁・大岩(長曽我部)祐夢と伴に諸国を巡回し、 悪人を退治するなど、多方面で活躍した。 徳川姓を賜り御三家に準ずる扱いを受け、石高は最後には15万石に達している。
92 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/20 18:06:02
孔明「陛下、宿敵魏を討つため出陣のご許可を!」 劉禅「その心意気やよし!ならばいっそ朕が親征しよう!」 孔明「陛下、そ、それは・・・」 その時歴史が動いた!
93 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/20 19:21:35
【呂蒙】 勉強しなかった 知力0
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毛利元就 中国地方に磐石な基盤を築いた元就は1566年突如大船団を率い朝鮮半島を攻めた、ポルトガルの援助物資を得た毛利軍は1570年朝鮮半島を統一、翌年元就逝去。追記 猿が調子に乗って攻めてきたがやっつけた
足利義輝 足利幕府中興の祖。 1546年。わずか10歳で父義晴に将軍職を譲られ13代将軍に就任する。 この頃将軍家は三好長慶により京を追われ衰退していた。 1552年、いったんは和解し京に戻るも再び決裂。またも京を追われる。 一度は勢力を盛り返すも再び劣勢に立たされる。 しかし長慶に幕府を滅ぼすまでの意思はなく1558年再び和解が成立し義輝は入京。 その後義輝は各地の大名間の争いに積極的に介入。上京した長尾輝虎や織田信長と誼を結び徐々に名声を高める。 更に1564年幕府を牛耳っていた三次長慶が死亡。その兄弟、嫡男も既に死亡しており好機と見た義輝は一気に勢力の巻き返しを計る。 だがその動きを危惧した三好三人衆と松永久秀らは御所を襲撃。 この最大の危機に義輝は、上泉信綱・塚原朴伝に習った剣術の腕前を遺憾無く発揮する。 押し寄せる敵兵の中を側近達と共に決死の突入。三好三人衆・松永秀久を討ち取り危機を脱したのである。 危機を脱した義輝は、この事態を逆に利用。 将軍殺害を企てた三好家の討伐令を、一色・波多野・六角などに発令。 この討伐令の効果は大きく、十分な兵力を揃えた義輝は三好家に決戦を挑む。 家中の中心人物を立て続けに失った三好家は討伐軍に抗せず本拠地讃岐まで勢力を後退させる事となった。 これにより、足利家は畿内の大和・摂津・和泉に基盤を獲得。 これを日本再統一の足がかりとしていくのである。 途中で投げだしちまった。 なんかジャンプの打ち切り最終回みたいな締めだなorz
【高祖・袁世凱】 現代中国帝室の祖
大内義長 大友宗麟の異母弟。 1544年大内義隆の養子になる。この時、周防行きを諌めた兄に「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らずや」 と言い放ち決定的な対立を招く。 1551年の陶晴賢の乱では相良武任と陶晴賢両者を和解させ義父義隆隠居で決着、という 電撃的な政治工作を見せ大内領内の動揺を最小限に抑える。 また義父の代から仕える毛利元就を国人から切り離し、直臣として参謀に迎える。 この事により仲の悪くなった陶晴賢を1555年の厳島神社参詣の折に暗殺。 また、1560年には月山富田城を元就の奇策で奪取。尼子晴久・義久親子は戦死。 元就の奇策とは1542年の月山富田城攻めの二の舞に見せたもので、 大内麾下だった吉川・本城・三刀屋などの国人衆が攻めあぐねる大内に愛想を尽かし、 尼子に寝返ったように見せかけて内部から火の手を放つものであった。 すでに元就の謀略によって尼子宗家から離れ、大内に帰属していた新宮党尼子誠久 との壮絶な一騎討ちの末晴久は討たれたとある。 1568年にはついに宿敵大友宗麟との北九州を巡る一進一退の戦いが始まる。 立花鑑載・秋月種実・高橋鑑種・龍造寺隆信など反大友諸将と連携するも 戸次鑑連・吉弘鎮種・一万田鑑実など大友麾下の前に各地で苦戦。 ついに業を煮やした義長は元就の制止も聞かず、立花ら諸将を糾合して多々良浜で決戦に及ぶ。 大内軍3万大友軍2万3000の戦い、誰もが大内優勢を信じて疑わなかった。 ところが戦の最中に大内軍最左翼に陣取る筑紫広門が返り忠を働き、ほぼ同時に 遅参してきた蒲池鑑盛率いる筑後からの大友の援軍1000に右翼を衝かれ総崩れになる。 殿軍を務めた毛利隆元を始め立花鑑載・龍造寺長信などの戦死者を出し筑前・豊前から 大内の勢力は一掃される。 またこの戦いの参謀を務めた江良長栄(房栄より改名)は責任をとり切腹。 義長は自らの責任を被り、大内軍内部崩壊を防いでくれた長栄の為に涙を流したという。 これが後に言う「泣いて長栄を斬る」ということわざである。
また、この敗北により各地の反大内勢力の動きが活発になる。 出雲には尼子秀久・倫久兄弟が、備後には三村家親が侵入を繰り返すようになる。 これらの動きに対し義長は再び元就を参謀に迎え、適切に対処していく。 1570年には神西城に尼子兄弟を破り秀久を討ち、倫久を敗走させる。 また翌71年には芦田川の戦いで三村家親を大敗させる。この年元就が亡くなり 元春は毛利を継いでいたので、隆景を新たに参謀に任命する このころから伊予の河野通宣が援軍を求めてくるが、兵力不足を理由に断る。 1573年には再び九州に上陸。雪辱を試みるも大友に匿われていた大内輝弘が宗家を名乗り、 大友の援助で山口に乱入。仕方なく1週間の滞在で退陣し、輝弘を敗死に追い込む。 輝弘の「捨て駒や いつか花咲く 布石かな」は辞世の句としてちょっとした話題になる。 74年ついに重い腰を上げ伊予に兵を出す。河野・西園寺と連合し一条・宇都宮・大友連合と 戦う。小競り合いに終始したが敵勢を追い返し数城を奪う。 その直後、毛利元就の息子元清を河野通宣の養子にし河野家乗っ取りに成功する。 翌75年には宇都宮豊綱を滅ぼし中予平定。すでに大内麾下になっていた西園寺勢を加え 一条氏を滅ぼす。
76年には三度九州に上陸。猛烈な勢いで途中の諸城を抜き、立花山城を包囲する。 だが小勢の立花道雪の前に釘付けになる大内軍。そうこうしてる内に大友の軍が集結という話を聞いた 義長は包囲を解くと門司まで後退する。軍内からは「戦う前から退却か」と不満の声が上がるが、 ここで義長は船は対岸の下関にあり、退路は断たれている事を宣言。諸将の顔色が変わる。 大友軍は敵が背水の陣である事を見抜くと、兵糧攻めにしようと下関からの水軍を完全に叩き 兵糧運搬を阻止しようと田原親貫が提案。これに反対する道雪・高橋紹運と賛成する若手に意見が割れるが 結局採用され、大友水軍100艘は下関に向かう。だがこれが隆景の策謀であった。 壇ノ浦で迎え撃った大内水軍は潮の流れを利用し、潮が逆転する前に一気に殲滅したのである。 源平合戦の再現はならなかったのである。 また同時に義長率いる本隊も猛然と大友軍に襲いかかったのである。 大内軍2万6000に対し大友軍4万5000と数の上では劣勢であったが 狭い地形では戦線が伸びるはずもなく、実際に戦ってるのは7000対8000とほぼ互角であった。 大内勢は背後が海という状況に加え義長自ら太刀を奮い督戦したため、 士気がいやが応にも上がっていった。また大友勢は緒戦こそ互角に戦って見せたものの 三刻も立つとじわじわ押され始め、水軍潰滅の報を聞き兵は浮き足立って次第に崩れ始めた。 一度崩れた態勢が立てなおせるはずもなく大友勢は夕方には退却していった。 義長は追撃を試みようとしたが、道雪や紹運が整然と軍をまとめ下がったので無理に追わず この門司の戦いは大内軍の圧勝に終わった。義長の鎧は返り血で真っ赤だったという。 大友軍は立花山城を放棄し、豊前・筑後に兵を戻したので義長は立花山城に入城し 筑前平定果ては宿敵大友宗麟との直接対決にこれからという時、 1578年病に倒れこの世を去る。
102 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/21 23:21:54
徳川家康(1542〜1615) 大坂夏の陣にて真田隊の猛反撃に遭い、数度の本陣後退。 輿に乗っての退却中、真田方の将兵により 輿の外から槍を受け絶命し、遺体は近くの南禅寺に葬られる。 世上の同様を防ぐため、1年限定で小笠原秀政が影武者を勤め、 南禅寺にひっそり眠るは家康、東照宮で大いに祀られるは秀政・・・。
鳥居強右衛門 徳川・武田に仕えた奥平貞昌配下の足軽。 貞昌が武田家から徳川家に鞍替えし、長篠城を包囲されると得意の泳ぎで武田の包囲を突破。織田信長に援軍を要請し快諾させた。 しかし、城への帰りに武田軍に捕縛され、磔にされる。 武田軍から「援軍は来ないと叫べば助ける」と言われると言われた通りに叫び、これにより長篠城は落城した。 城の救援に駆けつけた織田・徳川軍も落城の報を聞き退却する途中に追撃を受け、殿を務めた本田忠勝が討ち死にするなどの被害を被る。 このことで強右衛門は武田家に召抱えられ、武田勝頼に従い各地の合戦で活躍。 武田家の天下統一の折に長篠城など5万石を与えられた。
104 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/22 18:54:05
島津義久 ●天文ニ年(1533)〜慶長十六年(1611) 永禄九年(1566)、貴久から家督を継いだ義久は、弟の義弘らとともに領土拡張に乗り出し、 天正十三年(1585)、九州統一を実現した。 その後二度にわたる秀吉の九州出兵をしりぞけ島津九州国の実力を示すことになった。 土佐・長曾我部元親の嫡子・信親、毛利両川の一翼吉川元長は、この時に島津の捕虜となり その後島津の客将となっている。 琉球王国を服属させ島津九州国として大陸の明朝に朝貢の使者を送り九州全土(及び琉球)の 統治権を認められ、国号を筑紫と定め独立王国の道を歩むことになる。 博多、長崎などの良港に恵まれ積極的な海外交易で経済通商機構の整備を進め軍事・経済大国として 世界史に登場していくこととなる。 文禄一年(1592)、家督を弟義弘に譲る。この際に秀吉自らが博多に義久を尋ね 翌年には秀吉が朝廷に言上し義久には鎮西管領、義弘には九州探題の官職を送る。 これは秀吉一流の島津家の懐柔分断であったが 文禄四年(1595)、義久が正式に引退し剃髪して龍伯と号した事から、この目論見は頓挫する。 同・文禄四年に島津の大艦隊が高砂(台湾)征伐を敢行、これは倭寇退治であると弁明されたものの 明朝との関係は悪化している事から推察して、日本の関係回復に伴い大きな海軍力を直接日本に 向けることが不可能となったので、対外的な軍事誇示としてなされたとの見方が大きい。 九州でのキリシタン布教認可の代わりにポルトガルの布教代表コエリヨから借款せしめた この時の遠洋艦の製造技術はその後、日本にも伝わり海外進出に大きな貢献をしていくこととなる。
105 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/22 18:55:51
島津九州王国の存在感が秀吉の奥州征伐を遅らせたことは事実であり、もし仮に島津が秀吉に屈服 するような事態になっていれば、政宗は奥羽統一を待つことなく摺上原の戦いの近辺で秀吉の征伐を 受けていたとする史家も多い。 政宗が秀吉に対し一定の距離を置いて奥州独立王国の立場を貫けたのは島津、豊臣との等距離 外交にあったとする点は論をまたないところで、実際、後進性の強い奥羽の王者として上方の秀吉と 対抗するため島津の仲介でイスパニア貿易の振興や島津との軍事協力で実力を養っていく。 小田原北条氏の攻略に兵を派遣するも一切の恩賞が伊達家には与えられず 250万石という大封で徳川家康が関東を与えられたのは伊達政宗と徳川家康を牽制させる為とも言われる。 ○関白太政大臣・豊臣秀吉 版図:九州と奥羽を除く日本 ○陸奥守、鎮守府将軍・伊達政宗 版図:奥羽、蝦夷地、樺太 ○鎮西管領、九州探題・島津義弘 版図:九州、琉球、高砂(台湾)、呂宋、他東南アジアの日本人町全般 この後日本は三国志に時代に突入していく。 秀吉亡き後の覇権を巡る争いでは関が原の合戦では家康が大勝するも、長曾我部信親、吉川元長の暗躍で 大阪に入城した島津義弘以下の島津九州軍の西軍参加で戦局は一転、 その後の戦乱を経て 慶長8年(1603)大垣会議で和睦が成立、日本は連合王国としての道を歩むことになる。 日本連合国の確立を見届け慶長十六年(1611)大隈国分で死去、享年七十九歳
なんかカコイイな
長宗我部国親 「二階から飛び降りたら長宗我部再興!これマジ!」というお公家大名の戯言を 真に受けこれを実行。辛くも一命を取り留めたものの半身不随に。結局長宗我部 は復活することなく国親は土佐中村の寺子屋の先生として一生を終える。 出来の悪い子供に対しては月謝として一両要求したことから、こののち「一両愚息」 という言葉は土佐においては無能の代名詞となったといわれる。
淀君(茶々) 浅井長政と織田家の姫市との間に生まれるものの、時代の流れに翻弄され小谷・北ノ庄と2度の落城、そして肉親の死を経験する。 家来筋である豊臣秀吉の側室の一人と成り下がるも、彼の子を二度も懐妊する僥倖にめぐまれ秀吉の死後正妻である北の政所を追放し幼い秀頼を後見し豊臣家の実権を掌握。 しかし、関ヶ原の戦いで西軍が敗れた後は豊臣家の将来を案じ勝者徳川家康の人質として江戸下向し、戦火の拡大を未然に防いだ。 その後秀頼とその庶子国松が夭折すると妹お江の生んだ国松を養子として豊臣家の家名を存続させたが、世間では「浅井家が豊臣家をのっとった」と悪評を受ける結果となり淀君は憂悶のうちに死去。 なお、淀君の死と同日、腹心であった大野治長もまた殉死したことから、秀頼の出生の秘密について後世の歴史家がいろいろ憶測をよぶことになる。
>>108 茶々の場合、秀吉の側室になる前に歴史が違う方向に行っていたら・・・
浅井長政が信長を裏切らなかったら
信長が本能寺で死ななかったら
秀吉が天下を取れなかったらetc
歴史に翻弄されすぎ。
長政が信長を裏切らなかった場合、勝家の二の舞になっていた可能性もある。
111 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/23 22:41:51
>>110 悪いがそうならないだろ。
浅井長政は徳川家康と同じ同盟国の立場なのだから織田家の内紛に
関与するまい。
彼が顕在なら本能寺の変の際、信忠は死ぬことなく浅井軍の救援を
受けてた可能性はある。
となると織田信忠=浅井長政のラインができ柴田も丹羽も文句なく
これに従い徳川家康も、文句ない名文が有る以上それに続く罠
羽柴秀吉はのぶながの敵討ちで発言力こそ増すが
織田家の有力者の一人に納まってしまう。
織田信忠=浅井長政ラインの織田家主流派体制に
羽柴秀吉+毛利一族
徳川家康+小田原北条氏+伊達政宗
が微妙な立場になるか
112 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/23 22:45:30
織田信忠(1557〜16??) 幼少期に武田信玄の娘、松姫との政略婚約を結ぶ。 時は流れて1573年春、 前年三方ヶ原にて徳川軍を破った武田軍が尾張に乱入。 雪解けによる上杉謙信の動きが懸念されたが 江北戦線で浅井勢が織田方の横山城を強襲して 大勝利を収めたとの報を受けての賭けである。 武田と織田による濃尾最終決戦! 兵力では織田が5万、武田が3万ほどだが 長島一向宗の支援と連戦連勝の勢いにより武田が勝利。 その戦いの最中、信長と信忠の隊が分断、 信忠必死の奮戦で信長を岐阜に逃がし、 自身も清洲に入ろうとするも生け捕られる。 岐阜はわずか2日で落城し、信長自害。 信長自害の報を聞いた徳川父子も降伏。 捕らわれの身の信忠は自害しようと試みるも 先の戦での戦い振りに惚れ込んだ信玄が 見張りをつけ四六時中監視してそのスキを与えない。 信忠が次に採ったのは「断食」による餓死。 みるみるうちに信忠の体は痩せこけていった。 信玄は愛娘、松を呼んで信忠の看病をさせるも信忠は食を拒み続ける。 ほどなくして、信忠は危険な状態に陥る。 死の淵にて松の愛が伝わり、献身的看病により体力を取り戻す。 快復後、信忠と松の婚儀が行われ、幼少の頃の婚約が実現。 以後、信玄により密かに除かれた家康の跡徳川を継いだ信康、 後に同じく信玄の娘を娶る上杉景勝とともに勝頼を輔佐し、 武田の天下取りに貢献し、尾張1国を宛がわれる。
>>111 家康が本能寺前後に織田の同盟者だったかといえば、答えはNoだ
浅井長政 【1545〜1583】 浅井信政 【1563〜1635】 彼が元服したばかりの頃、父久政が六角家に従属していた為、賢政を名乗った。 六角の家臣の嫁を室として迎えていたが、六角からの離反を決意。 嫁を送り返し、野良田の合戦で劇的な勝利を挙げると、家臣団の支持を得て当主の地位を父から奪取。半ば強引に隠居させた。 同じ頃、桶狭間の合戦で今川義元を破った織田信長に習って長政と改名する。 その後は朝倉と同盟を結んで北近江を席巻、六角を圧迫。武名をとどろかせた。 この為、名前の元となった信長自身も、長政に目をつける。 1563年、織田家から同盟の申し入れがあるとこれを受け入れ、 さらに4年後には信長の妹お市の方が輿入れし、織田家との関係はより強いものとなった。 翌年、織田、浅井連合軍による上洛が敢行され、宿敵六角家の打倒に成功。 同年の朝倉討伐においては、熟慮の末織田家との縁を選び、猛反対する父を説き伏せ朝倉討伐に加わる。 その功績から越前を与えられ、一向一揆と戦い続け、やがて100年に渡る加賀一向一揆を収束せしめた。 やがて嫡男万福丸が元服。信長から一文字賜り、信政と名乗った。 1577年の手取川の合戦においては軍神上杉謙信を相手に懸命に防戦。信政も見事な初陣を飾る。 その戦いぶりは謙信をして「信長に過ぎたる者が二つあり、備前守に安土の城」と言わしめた。 終生、信長との盟約を守り続けた為、「北の浅井に東の徳川」と称えられる。 戦だけではなく領国経営にも類まれなる才覚を見せ、善政を施して領民に深く慕われた。 家庭においても夫婦仲睦まじく、多くの子宝に恵まれた。 その後も上杉家との戦いを続けていくが、本能寺の変により大きくその運命はかわっていく。 越中での戦いに勝利し懸命に引き返すも、信長のあだ討ちにおいて羽柴秀吉に後れを取ってしまう。 清洲会議においては、一門かつ織田家の同盟者として三男信孝を推挙するも、結局は秀吉の功績の前に押し負けてしまう。
やがて秀吉と対立するが、謀略戦に不得手であったために、味方についた猛将柴田勝家も謀殺されてしまう。 その後はやはり本来織田家の者でなかったことから丹羽などの多くの旧織田家臣団を味方に出来ず、 圧倒的に多勢に無勢な中で行われた賤ヶ岳の合戦では、奮戦するも敗退。 先祖代々の地である小谷を焼き払われ、最期は越前北の庄城まで追い詰められて自害した。 秀吉は下賎の出であるが故に、主君の血筋を引くお市の方に横恋慕しており、 自分の元へ走れば命は助けると勧告したが、お市の方はこれを公然と拒否。夫と運命を共にした。 残された子供達は老臣遠藤喜右衛門の手引きで逃れようとしたが、秀吉によって須らく捉えられてしまう。 この時長女の茶々は自ら秀吉の愛妾となる道を選ぶことで弟達や妹達を守った。 嫡男信政は信孝の傍に仕えていたが、信孝が彼の諌めを聞かずに打って出て戦死すると徳川家康の下へ逃れる。 食客として過ごしていたが、秀吉との合戦に当たっては自ら志願して秀吉を誹謗中傷する文面を書き、これを挑発。 小牧長久手の戦いにおいては、父の名に恥じない見事な戦いぶりを見せ、正式に徳川家の客将として迎えられる。 北条征伐後の家康の関東転封に従い、関ヶ原の合戦では妹婿にあたる秀忠を補佐して徳川家の勝利に貢献。 恩賞として近江長浜城を中心とする近江38万石を拝領。浅井家再興を果たした。 江戸城中において一門かつ、初代老中として徳川家中で重きを成すが、大阪の陣が発生。 長女茶々は淀の方として大阪に、三女のお江与が秀忠の正室として江戸に。 そして末弟井頼が大阪入りしたことで西と東に分かれた兄弟姉妹がそれぞれ争う形となった。 夏の陣では、出撃してきた末弟井頼と真正面からぶつかる形となり、血涙を流して断腸の思いで采配をとったと史書には記されている。 やがて家督を嫡男家政に譲り、江戸城につめて妹婿秀忠や、甥家光のよき相談相手となり、家政は初代大老となった。 その後も長浜藩は幾人にもわたって老中、大老を輩出し、桜田門外の変で暗殺された浅井弼政は彼の子孫に当たる。
徳川家光【慶長9年(1604)〜寛永10年(1633)】 江戸幕府二代将軍秀忠の長子として生まれるが、愚鈍気な外見を生母に嫌われ廃嫡、嫡 子の座を同腹の弟忠長に奪われる。 これを憂えた乳母福は駿府の大御所家康に縋って覆そうとしたが、目通り直前に家康が鯛 の天ぷらに食中りして死去したため果たさなかった。また、福自身も抜け参りを咎められて 斬首されている。 家光派はますます立場が悪くなったため守役青山忠俊を中心にクーデターを画策する。 秀忠夫妻を拘束して正室浅井氏を殺害、その間に諸大名に徳川の家督掌握を宣言して将 軍宣下の使者を迎えるという計画で、実働兵力として伊達政宗、藤堂高虎らを引き入れて 発動寸前まで行ったが秀忠夫妻を拘束しようと御殿の屋根に登っていた家光付き小姓松平 信綱が足を滑らせて転落、秀忠夫妻に捕らえられたため計画が発覚、家光派の譜代大名 ・旗本の多くが断罪された。
一方、政宗らも無事新将軍に就任した忠長の「余は生まれながらの将軍である。不服な者 は征伐するので国許へ帰って戦支度せよ」という恫喝に「そのような者、政宗が先鋒として 退治してくれましょう」とヘタレなおべんちゃらを言って逃れようとしたが、後に連判状が発見 されると改易・切腹となったがその様はまことに見苦しく、「見苦しく恥ずかしい男」を意味す る「伊達男」という言葉の語源となった。 そのため、家光は高崎藩にお預けとなるが、この元和の政変(元和9)の際の負傷で翌年秀 忠が急死すると将軍忠長は新たな叛乱を防ぐために家光に切腹を命じた。 なお、この時同時に高遠城主保科正光の養子に切腹が命じられているがその理由は定か ではなく、後世の歴史家の想像をかきたてている。
119 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/24 17:09:27
>>114-115 GJ
しかし長政が信長の一字をもらったように、
万福丸は信忠から一字拝領で「忠政」になったと思う。
>>117-118 NGJ
スレ容量の無駄。ここに二度と書き込むなよ。
書き込むならチラシの裏に(ry
121 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/24 19:47:04
[北条氏直](1562〜1610) 氏政の子。江戸幕府初代将軍。 1589年、豊臣秀吉の命に従い上洛。 上野国の一部を没収されるも、ほぼ所領を安堵される。 その後、東北に転封になった徳川家康 上杉景勝・毛利輝元・前田利家らと共に五大老に就任。 秀吉の死後、関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍と対陣。 別働隊を率いた父・氏政が中仙道で真田昌幸に釘付けにされるも 義父・徳川家康の助力により、西軍を撃破。 1602年、征夷大将軍に就任。本拠地を江戸に移し、江戸幕府を開く。 1610年、鶴ヶ丘八幡宮に参詣した帰途に落馬、落命す。 尚、氏直の死亡については、執権・徳川家康、秀忠親子による 暗殺説が今も根強い。
>別働隊を率いた父・氏政が中仙道で真田昌幸に釘付けにされるも 情けねー親だなww
>>117-118 ここまでのスレで一番つまんねー。
普通だったら半年ロムってから(ryと突っ込むところだが、どうもおまいさんには才能が欠片
もないみたいだ。
よって二度と書きこむな。つーか氏ね。
スルーして再開↓
125 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/26 21:29:27
徳川家康【天下を取り損ねた男】 信長、秀吉の盟友として“律儀なる御仁”との評価をほしいままにしながら 大大名の座をも保っていた戦国でも稀有な人物であるが太閤秀吉の死去に伴い 分不相応な野心を抱き、太閤遺訓を積極的に破って多数派工作を行う。 家康の目論みは前田利家の死で半ば成功したかに思われた。 が家康暗殺の嫌疑が掛かった前田家に利家未亡人芳春院の質を求め芳春院の内諾を得たにも 関わらず結局武門の誇りを訴えた利長の涙の決断で前田家が徹底抗戦を決定した。 当然の決断であろう。 が細川忠興が顔面蒼白になって利長に本意を訴えたにもかかわらず決は覆らず 忠興が伏見城に守備を報告に行ったときの家康は対面を憚らないくらいに怒り狂って おり、その後細川は前田と共に歩むことになる。 前田の屈服を前提とした上杉への詰問状は既に会津に届いており 家康は自分で北陸に強大な反徳川勢力を生み出してしまったといえる。
126 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/26 21:39:25
この時、石田三成は隠居しており(大谷吉継の助言とされる)家康の赦免許可 にも拘らず隠居の身から復することなく、強引に石田三成を敵役に仕立て て名文にしようとした家康の思惑は大きくはずれ、その後も三成は終始一貫中立 して動かなかった。 三成に代わるように大谷吉継が前田家と組んで家康に組した丹羽などを下し 家康は強引な北陸征伐を敢行するが、なんら敵対行動を取っていない佐和山城を 小早川秀秋や吉川広家、脇坂ら四将が独断攻撃した事から風向きが変わり 戦局は混迷数年に及ぶ慶長騒乱の始まりとなる。 その後、有力大名の○○○○が天下を鎮め幕府を開く事になるのである。
劉備 琢県楼桑村の青年 母に茶を捨てられたショックで自害
>>126 > その後、有力大名の○○○○が天下を鎮め幕府を開く事になるのである。
源氏だから佐竹義宣だな。
129 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/27 19:45:43
宇喜多秀家(1573〜1655) 宇喜多直家の次男。羽柴秀吉の養子となる。 天下人・豊臣秀吉の明征服後、日本国王に就任する。 岡山城を中心に国を治め、民から絶大なる信頼を得た。 そして1595年には岡山幕府を開くに至った。 1598年、中国大陸の豊国王・豊臣秀吉が没すると、中国や朝鮮で独立運動が 活発し、豊国は崩壊。豊臣秀頼やその家臣らは日本に戻ってきた。 秀家は日本の政権をすぐさま豊臣秀頼へ返上しようとしたが、民は宇喜多幕府に 心服しきっており、抵抗運動を展開。これでは政権交代は出来ず、豊臣家は 宇喜多幕府の一員とならざるを得なかった。 しかし1615年、豊臣家を担ぐ徳川家康らが挙兵。秀家はこれを討伐しようと 10万の大軍で関東を攻撃。1年に渡る戦争で徳川家は滅んだ。 次いで1617年、豊臣秀頼が挙兵したので、秀家はこれも征伐し滅亡させた。 この後、幕府の力を固めた秀家は、1655年に死去した。
織田信勝(1536〜1568) 織田信秀の子。弾正忠。尾張末森城主。 信秀の死後は同母兄の信長が家督を継承したが、奇矯な振る舞いが多く人心が離反、 謹厳実直な性格で人望が厚かった信勝は、重臣の林秀貞・柴田勝家、 上四郡守護代織田信安らの支持を受けて蜂起、1556年、稲生の戦いで兄・信長を討った。 のちに不和になった信安や、犬山の織田信清と尾張の覇権を争った。 1560年、今川家の軍勢が本格的に尾張に侵入すると、 岩倉城に篭城して滅ぼされた信安や、奇襲を仕掛けて戦死した信清と異なり、 彼我の勢力差を冷静に判断して今川家に従うことを選択、織田の家名を保った。 その堅実さ・実直さは義元や氏真に厚く信用され、尾張衆を率いて各地を転戦したが、 近江観音寺城攻略戦で若くして戦死した。享年三十三。 嫡男の織田信澄(幼名坊丸)は今川氏真の娘を娶って今川一門として活動。 今川幕府成立後は天童32万石を与えられ、東北の外様大名ににらみをきかせた。 また、弟の織田勝益(有楽斎)は茶人として有名。
井伊直親(1535〜1603) 遠州井伊谷の名族・井伊家の第16代当主。井伊直満の子、幼名亀之丞。 1544年、今川家に仕えていた井伊直満は、家臣の讒言にあい、謀反の疑いをかけられ自刃させられる。 このため亀之丞は家臣に匿われ、信州の寺で育てられることになったが、成長したのちに帰国、 当主の井伊直盛(従兄)の養子となった。1560年、井伊直盛は桶狭間で戦死し、直親が家督を継いだ。 1562年、井伊家の家老・小野但馬が、直親は織田信長に内通していると今川氏真に密告した。 しかし、氏真はこれが讒言であることを見抜いた。 今川家滅亡後、井伊直親は徳川氏に仕えた。子孫は3500石の旗本になった。
足利政知(1435〜1491) 足利義教の子、義政の弟。 古河に移り、実力者上杉氏や幕府権力に反旗を翻した足利成氏に代わり、 1457年に鎌倉公方に任じられた。政知にはじまる公方家を後鎌倉公方家と称する。 政知は幕府の精鋭軍を従えて下向、関東探題渋川義鏡に支えられて権力基盤を強化し、 古河公方成氏と対立するとともに、のちには関東管領上杉一族とも抗争した。 幕府から派遣されて政知に仕えた奉公衆・伊勢盛時と、 扇谷上杉家の重臣・太田道灌の数々の名勝負はよく知られている。 なお、将軍家に養子に送り込んだ政知の子・足利義澄は1493年に征夷大将軍となっている。 後鎌倉公方の軍事力を背景にした義澄以降の室町時代を「後鎌倉時代」と呼ぶ研究者もいる。
北畠具豊(1558〜1576) 織田信長の二男。幼名茶筅丸。北畠氏の養子に迎えられた。 北畠一族を粛清しようとしたが逆襲され、殺害された。
134 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/27 23:33:01
梅岳承芳(1519〜1590) 僧侶・歌人・茶人。駿河今川氏の出身。 当代きっての文化人として知られ、歌集を編纂したり、詳細な日記を記したりした。 また、武野紹鴎に茶を学び、千宗易とともに茶道を大成させた。
>>134 本気で上手いと思った。やけに長生きしてるし。
136 :
無名武将@お腹せっぷく :05/02/28 09:59:38
上杉憲政(1523〜1609) 山内上杉家当主。北条氏と戦って敗れて越後の長尾景虎を頼り、 上杉の家名と関東管領職を譲って隠居した。 その後は歴史の表面に出ないまま幸せな老後を送り、 1609年に上杉景虎の統治する米沢で没した。享年87。
佐竹義宣(156?−1630) 常陸国守護佐竹義重の嫡男。佐竹当主。 父と共に悲願の常陸統一を達成。 関が原の折には、恩顧の三成とは手を切り徳川につく。 戦後、蝦夷96万石に加増される。 アイヌの民の統治に手を焼く。
滝川一益 織田家の武将 出身は近江国甲賀ともいわれ、浪人していたところを織田信長に登用されたという 信長にその才能を認められて、伊勢北畠氏の攻略伊勢長島の一向一揆討伐などに功績を挙げ、信長から北伊勢五郡を与えられた。 「先駆けは一益、殿(しんがり)も一益」とうたわれるほどの勇将であったという。 名物茶器の愛好家としても知られ、武田討伐に功のあった武将が領地を与えられる中、「珠光小茄子」という名物茶器を与えられ喜んだと伝えられる 本能寺の変の際には領国の伊勢にいて、織田信雄と共に兵を率いて明智光秀と戦い、これを破った。この後、織田秀信政権の五家老(羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、池田恒興、織田信孝) の筆頭として織田家を支えた
伊達政宗 (1568〜1636) 伊達輝宗の二男。幼名竺丸。伊達家中興の祖の名を継ぎ、小次郎政宗と名乗った。 1584年に輝宗より家督を譲られ伊達家を継承し、近隣の二本松氏・芦名氏などと戦った。 1590年、義兄・最上義光とともに小田原に参陣して本領を安堵された。米沢藩30万石の祖。 伊達梵天丸 (1567〜1571) 伊達輝宗の長男。疱瘡で早世した。
140 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/02 01:08:34
【伊勢盛時】 ――今川家の家督継承問題に介入 (生没年不詳) 備中の伊勢盛貞(盛定)の子。新九郎、長氏とも。 一時足利義視に仕えたが致仕し、妹の夫・今川義忠(範満の従兄)を頼って仕えた。 義忠死後の今川氏の家督継承問題に介入し、甥の竜王丸を今川家当主に据えようとした。 後に京に戻り、幕府の奉公衆をつとめている。 その後の消息は不明だが、同族との領地争いなどの史料が残されている。 政治58 戦闘25 智謀48 魅力28
141 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/02 02:51:12
石田三成(1560〜1621) 豊臣政権の第二次五大老の筆頭。 関ヶ原の戦いで謀反人徳川家康を破った。家康は捕えられ京の三条河原で黒田長政、藤堂高虎らと斬首され、徳川家は取り潰された。 三成の戦後処理は鮮やかで後世の史家もその手腕を高く評価している。 ところで、第二次五大老とはよく知られているように毛利輝元を筆頭に石田三成、上杉景勝、宇喜田秀家、島津義弘である。実質的な指導者は三成であったが、その公平さ故に嫌われていた三成は輝元をたてた。 三成はその功を高く評価され近江佐和山の所領を52万石に加増された。 秀吉の遺児秀頼が成人し、豊臣政権が安定したのを見届けた三成は佐和山で家族に囲まれ穏やかに死んだ。死後に朝廷から従一位の称号を送られた。
142 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/02 06:02:06
海北紹益 1533〜1573 海北綱親の五男(一説に三男)。幼少時に禅寺に入れられたが、 あまりの腕白ぶりに手を焼いた寺に返されたというエピソードがある。 親子ともども浅井家の猛将として知られ、姉川の戦いでは磯野員昌とともに 織田・徳川連合軍を苦しめた。 小谷城落城時に戦死。道号に因み「鬼友松」と呼ばれる。 統率71 智謀21 政治13 魅力64 教養12
143 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/02 06:12:25
北条幻庵 1493〜1590 北条早雲の三男、長綱。 北条氏四代に仕え、おもに外交面で活躍した。 「北条幻庵覚書」を書き残し、文化人としても知られる。 当時としては稀な98歳もの長寿に恵まれたが、 いまわの際に「せめて一年早く死にたかった」と語ったという。
144 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/02 07:00:25
145 :
141 :05/03/02 07:11:01
しまった 冒頭の第二次五大老の筆頭→の一人に 脳内変換してください
>>141 みたいな
判官贔屓の妄想みたいなネタはつまらないんでやめてくれないかな。
147 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/02 07:28:42
それ言ったらこのスレ成り立たない
木下藤吉郎 ???〜??? 尾張の大名である織田信長の小姓 木の上にいた信長お気に入りの鷹を取ろうとしたが転落し絶命
浅井賢政 1545〜1611 【戦国を生き抜いた北近江の有力国人】 近江小谷城主・久政の子。親に逆らったことは一度もないと言われるほどの親孝行者で知られる。 父とともに六角氏・朝倉氏に従って転戦。そのために織田信長に追われて一時は所領を失ったが、 のちに武勇が買われて信長に召し出された。その後は秀吉・家康に従って戦国を生き抜いた。 浅井氏は摂津三田2万3000石の藩主として幕末まで続き、明治維新後に子爵になった。 法名・養源院天英宗清。波瀾の人生をともにした愛妻・平井氏とともに三田市の徳勝寺に葬られている。
150 :
141 :05/03/02 12:07:07
あんたみたいに人を貶めるのは趣味じゃないんだよ
>>146
>>146 このスレであまりいい目を見ないからってあんまりキレんなよ徳川ヲタ
史実なら勝ち組なんだからもっと広い心を持つかこのスレ見るのやめれ
152 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/02 13:21:17
ここ良スレだね。 突っ込みもおもしろいし。 俺もなんか書きたくなったよ。 ネタ本探してくるw
猪俣邦憲 ?〜1592 【日本史をひっくりかえした男】 北条氏の家臣、沼田城代。1589年真田領名胡桃城を奪取。 天下の大半を手中に収めたかに見えた豊臣秀吉はこれを口実に北条氏攻撃を図ったが、 堅城小田原城を前に自滅し、天下統一はふたたびふりだしに戻った。 1711年の宇都宮幕府成立まで120年続く、後期戦国時代のはじまりである。 なお、猪俣邦憲は小田原の役の2年後、増水した利根川に転落して溺死した。 戦国を呼び戻した武将の、あまりにあっけない最期であった。
154 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/02 15:16:57
宇都宮幕府ワロス
レアネタだと、どこが嘘やら本当やらw ヘタするとみんな本当の事みたいに思えてくるので要注意だな〜w
織田ひょっとこ斎 1542〜1621 【茶の道に生きた信長の弟】 信長の実弟。源五、長益。信長没後は秀吉に仕えて御伽衆となった。 関ヶ原合戦以後は家康に接近し、大坂の陣では豊臣方の情報を徳川家康に通報している。 家康により大和国に2万石を与えられたが、武将・政治家としてよりは 千利休の高弟で茶道ひょっとこ流を創始した茶人として有名である。 東京・ひょっとこ町は、彼の江戸屋敷があったことにちなむ地名である。
159 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/02 19:44:12
【大野秀頼】 1593〜1665 大野治長の子。大和郡山100万石の大名。 豊臣秀次から3代の豊臣政権を大老として支えた重鎮。 生母ははじめ秀吉の側室で大野治長に与えられた女性のため、 秀頼は、実は秀吉の落胤ではないかという説がある。
161 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/02 20:39:59
【木下藤吉郎】1536〜1608 尾張の国中村の農家に生まれ,父はもと足軽。はじめ日吉丸といい,やがて木下藤吉郎と名のった。 今川家の武将に仕えていたが出奔、織田家に仕官を願うがかなえられず、その後 堺にて商家として頭角を現していく。屋号は尾張屋 尾張屋藤吉郎として織田家の財政等を援助した政商でもあり織田信忠の側近になっている。 織田信長の天下統一後には、信忠の早逝で政権から遠ざかることとなるが 信長は信雄追放信考を高野山で自害させ、無謀な朝鮮出兵するなど狂気の果てに薨去 織田政権は崩壊の兆しを見せる。 無能な孫信秀(信忠の一子)柴田勝家ら守旧派と明智光秀ら新参派の抗争が激化 これに徳川家康、伊達政宗、毛利輝元といった信長の力で屈服してきた外様大名が絡み 天下分け目の関が原の合戦がおきる。 そして徳川家康が天下を平定することとなると江戸幕府の財政政策に大きく貢献。 石田三成、増田長盛、長束正家や小西行長といった江戸幕府初期の閣僚は彼の推挙ともされ 徳川将軍家茶道頭の千利休とも懇意であったほか 姫路宰相小早川隆景や西国将軍の威勢を誇った毛利輝元とも昵懇であり 幕政を大きく動かしつづけた。
織田信長 1534〜1555 尾張の豪族・織田信秀の子、信勝の兄。 松川の渡しで、叔父・織田信次の家臣にうっかり射殺された。
>>159 結局秀頼には出生の謎が付きまとうわけか
164 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/02 22:26:03
斎藤道三 蝮の異名をとった梟雄。美濃の守護土岐氏を追放し、支配権を獲得した彼は、隣国尾張に目をつける。尾張の実質的な支配者である織田信秀の息子信長に娘をやって更に手なずけ、信秀を暗殺。道三は戦わずして尾張をも手にした。 その後飛騨の三木氏を攻めて1557年これを支配下に置いた。 1560年、三国同盟で東の憂いを断った海道一の弓取り今川義元が40000の兵を率いて上洛の兵を進めてくる。迎え撃つ斎藤軍は35000 両軍は矢作川で激突した。結果は両軍会わせて4000人の死者を出して痛み分けに終わった。 1564年、伊勢侵攻を画策中に突如死亡した。彼の意思は義竜に引き継がれていく…
165 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/02 22:36:21
長尾景虎(1530〜?) 病弱な兄晴景に代わり、越後守護代長尾家を継ぐも 越後国内では国人同士の争いが絶えず、 国主の座にあることに嫌気を感じて突如出奔。 初め、国人達の反省を促すための芝居であったが 誰も呼び戻そうという者が現れず、そのまま高野山へ向う。 その後の足取りは不明である。 尚、景虎去りし後の越後は一族の長尾政景が継ぎ、 越後の動乱を治める。 長年の景虎と政景の争い、政景が勝利する形で決着が着くも 10数年後、越後は武田家に蹂躙され、 武田の下風に立つことになる。
長尾晴景 (1509〜1584) 越後守護代。父は長尾為景。健康には人一倍気を使った人物であると伝えられる。 1536年家督を譲られ、越後の国人の争いを、調停したり鎮圧したりどうにかこうにかやりすごした。 武名もそこそこ、外交もぼちぼち、小笠原長時や村上義清を追い返したり、 関東管領職就任を拒否したりといろいろあったが、とりあえず越後に小さくまとまり、内政を充実させた。 風向きを観る目は確かだったようで、早々と織田信長に従うことに決め、春日山15万石を安堵された。
謙信 (生没年不詳) 戦国時代の僧侶。越後で毘沙門宗を開き初代法主となった。越後守護代・長尾氏の出身といわれる。 毘沙門宗は慈善と博愛を旨とする仏教の一派で、保護を求める人を徹底的に支援し、 不正義のはびこる地上に正義と秩序をもたらし、きちんと塩を流通させることを基本教義とした。 初代法主謙信の発した教令により、小田原と北信濃の解放が宗徒の宗教的義務となり、 白尽くめの毘沙門宗徒の大群が三国峠を越え関東平野を南下して小田原城を取り囲んだり、 北信濃を統治する武田家に対して川中島で合戦を挑むことが毎年のように繰り広げられたりした。 江戸時代、キリスト教・日蓮宗不受不施派とともに毘沙門宗が禁制の対象となったのはよく知らているが、 毘沙門宗は宗徒の妻帯を禁じていたために、享保の頃までには自然消滅した。
松永 久秀(?〜1580) 三好長慶に右筆とし仕え、長慶死後に『長慶公記』(ちょうけいこうき)を記す。
172 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/03 20:20:21
森成利(1565−1622) 森可成の3男。幼名は乱法師、蘭丸とも。 森成利といえば、まっさきにあのユニークな肖像画を思い出す人も多いだろう。 成利は早くから信長に側近として仕え、使者や応接役などを務めた。 本能寺の変の際には病気療養中のために安土にとどまっており、難を逃れる。 その後は秀吉に従って順調に出世。関ヶ原では東軍に与して美作津山18万石に封じられた。 件の肖像画は50歳頃のものと考えられているが、見ているだけでも幸福になれる。 しばしば領内を巡回して民衆から名君として親しまれていたというのもよくわかる。 一度顔を見たら忘れられない成利であるが、信長に仕えていた頃は美少年で、 信長の寵愛を受けていたらしい。いやはや、歳月は残酷である。
173 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/03 21:56:36
明智光秀(1529〜1582) 天正10年6月2日早暁、 信長の京の宿所本能寺を襲うも 信長は愛宕俳会参加者1人の密告により事前に脱出。 直ちに西に軍を動かし 安土の信長、岐阜の信忠、清洲の三法師を討とうとするも 瀬田唐橋の焼き討ち、信長寡兵ながらの奮戦により戦況は停滞。 程なくして岐阜の信忠、摂津の信孝進軍の報。 数日後、北陸の柴田・中国の羽柴・伊勢の信雄進軍の報。 この頃、光秀が味方と期待していた 細川・筒井・高山・中川・京極らの諸将は織田方として参陣。 光秀はなすすべもなく坂本に戻り篭城。 さらに数日後、上信より逃げ帰った森・滝川らも包囲に合流。 かつての同僚ら10万の軍勢に囲まれた光秀は 自ら城に火を放ち自害。 しかし光秀謀反以後、信長は穏やかになり 対外政策、家臣への扱いも一新。 毛利・上杉らの和を受け容れ所領を安堵。 長宗我部には伊予・阿波・土佐の3国を与える譲歩案で和睦。 以後、スムーズに天下統一。
木下藤吉郎(?−1563) 織田信長の家臣。 墨俣築城を志願したが、斎藤勢に敗北。 怒り狂った信長に手討にされた
竹中半兵衛 初め美濃斎藤氏の家臣であったが、舅である安藤守就とともに稲葉山城のっとりを計画するも失敗し出奔。 武田家に仕えたもののその後の消息は不明で、三河野田城攻めのさいに病で陣没した とも、信玄没後の勝頼の高天神城攻めのさいに無理な城攻めを勝頼に進言し叱責 され心痛のあまり憤死したとも伝えられる。
176 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/03 22:52:41
惟任日向守(生没年不詳) 【敵は本圀寺にあり】 出自は不明。明智秀満(光秀)の一族という説が有力。 1582年、本圀寺に乱入したのちに出奔。以後の消息は不明。 信長が宿泊していた本能寺と間違えて襲撃し、あまりの恥ずかしさに逃亡したらしい。 明智家の系図に記載がないのは、あまりの情けなさっぷりに歴史から抹殺されたためだろう。 一説に徳川家康に仕えた天海僧正が惟任日向守だというが、もちろん定かな話ではない。 この故事に因み、「敵は本圀寺にあり」は、 「大切な事業の土台にとんでもない基本的ミスがある」ことを意味する成語になった。
177 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/03 23:09:26
武田信玄 1521年〈大永元〉−67年〈永禄10〉 戦国武将 戦国期の武将。甲斐国の守護大名。のち信濃・駿河と上野・飛騨・美濃・ 三河・遠江の一部を領有する戦国大名となる。名は晴信、出家後は信玄と号 した。武田家は清和源氏の一族で、鎌倉初期から代々甲斐国守護職を務め た。1541年(天文10)、戦国大名としての基礎を築いた父・信虎を隠居させ て駿河の今川氏へ放逐、21歳で家督を継ぐ。直後から信濃への侵攻を開始、 諏訪・小笠原・村上氏など制圧し、53年にはほぼ信濃を手中に収めた。一方 、敗走した村上義清らは越後の上杉謙信に援助を求め、謙信は信濃へ出兵。 これが著名な川中島の戦の発端であり、64年(永禄7)までのおもな対戦だけ でも5度におよぶ。その後両者の対決は北関東に拡大し、ここでも信玄は優 位にたち、66年には西上野を領有した。また同じころ飛騨へも侵入し、金刺 氏などの旧族を滅ぼして領有した。しかし翌67年、情事の縺れから重臣 高坂弾正に刺殺され武田家は滅亡した。
178 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/04 00:16:16
千宗旦 千少庵の子。利休の孫にあたる。江戸幕府に仕え、将軍家茶道総師範になった。 幕府諜報網の中核を担っていたといい、二男の烈堂が率いたという「裏千家」は、 時代小説の悪役の定番である。
179 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/04 00:33:45
織田雄二 レインボーブリッジを封鎖するが、その後消息を絶つ。
細川護煕(1938〜) 肥後熊本藩16代藩主 1980年後半からのリクルート事件などの汚職や、湾岸戦争における幕府の対応の遅れなど、幕政に批判が集まる中で、1992年(平成4年)文芸春秋誌上で「外様譜代連合」構想を発表する 1993年参勤交代制度改革で幕府内が対立する中、譜代大名を離脱した井伊家と薩摩島津家、長州毛利家などと連合し、1993年に大老に就任し、。御三家らと妥協し、参勤交代制度改革を実現させる 幕政改革を国民から期待されるも佐川急便からの献金スキャンダルが発覚し、辞任した。その後御三家尾張徳川家、島津家、会津松平家による三家が成立した
181 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/04 10:06:27
誰か前田慶次たのむ
前田慶次 前田利家の影武者とも、義理の甥とも伝えられる。 武勇に優れ、また風流にも通じた人物だったとされるが資料が少なく定かではない。 確かなことは、利家を水風呂に入れて殺害し、逃亡を図るも捕らえられ処刑されたということのみである。 動機については諸説あるものの定かではない。
前田利益 1533-1599 利大とも。滝川益重(益氏)の子で、荒子城主・前田利久の養子となった。 1569年家督を継承。赤母衣衆に抜擢され、桶狭間・姉川・長篠など主要な合戦に参加、 越前一向一揆平定戦などで活躍し、1579年には能登一国を与えられた。 本能寺の変後は柴田勝家に与しつつ秀吉と通じ、1583年金沢城主となる。 豊臣政権を五大老として支えた。 前田又左衛門 ?-1605? 荒子城主・前田利昌の子(四男という)。加賀百万石の祖・前田利益の叔父にあたる。 犬千代、孫四郎とも。名は利家と伝えられるが不明。 派手で奇抜な振舞いを好む一方、武勇にも優れ「槍の又左」と呼ばれた。 織田信長の茶坊主を斬って出奔、その後は諸国流浪し自由気ままに生きた。 又左衛門が創始したという愛知県美浜町の「ずんどこ踊り」は重要無形文化財。 名古屋山三郎・出雲の阿国らとともに歌舞伎芝居をつくったともいわれる。
185 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/05 00:18:34
芦名小次郎盛道(?〜1589) 伊達輝宗の次男。幼名竺丸。旧名伊達小次郎政道。 年齢は不詳で政宗の1つ下とも年の離れた弟とも。 芦名盛氏の要請により養子入りし芦名家を相続。 輝宗・盛氏両人の存命中は伊達・芦名の友好関係を維持するも、 両人の死後、伯父最上義光と通じて伊達挟撃を謀る。 元々、父輝宗に疎まれ 母保春院に伊達より最上大事と吹き込まれてそだった小次郎である。 母保春院も密かに黒川入城を果たし、小次郎を支える。 芦名家相続争いに敗れた二階堂家は伊達・芦名連合に 敵対していたが両者が対立するにあたり伊達方に。 伊達は佐竹と結び、芦名は北条と結び対抗・・・と 二者の外交は奥州から関東と膨張。 しまいには伊達が北条と敵対する豊臣と結び外交的に有利に。 伊達派:伊達・佐竹・上杉・二階堂・田村・石川・岩鬼・<豊臣> 芦名派:芦名・最上・二本松・大内・相馬・大崎・葛西・<北条> 1589年、伊達・芦名が摺上原にて激突。 伊達方:猪苗代盛胤、芦名方:猪苗代盛国と 父子同士の壮絶な小競り合いから始まった合戦は 伊達が勝利をし、芦名は壊滅的敗北。 暗夜、伊達領を通り抜けて最上義光と合流しようとするも 捕えられて斬首にされる。 尚、小次郎死後伊達家が会津を占領し、100万石大名に。 早くから豊臣家に接近していたため 旧来からの伊達・芦名領を安堵されることに。
186 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/05 00:39:00
曹操孟徳(155〜173) 沛国の人。四人の皇帝に仕え、重用された宦官曹騰を祖父に持ち、その養子 となった曹嵩を父に持つ。素行が悪く悪評が絶えなかった曹操はある日、 夜這いから逃げる途中、自ら「曹操はここにいるぞ!」と叫び街の人々に 取囲まれ殴り殺された。そのため彼の幼名の阿瞞は愚か者の代名詞となった
石田佐吾左衛門 生没年不詳 近江国坂田郡石田村の庄屋。 京極氏に仕えた石田氏の一族とも言うが定かではない。 江戸時代初期に石田村の庄屋となり、佐吾左衛門新田の開発に着手。 その事業は息子の弥三、佐吉に引き継がれた。
武藤信繁 (157?〜1621) 武藤喜兵衛の次男。 武田家臣であったが、主家滅亡後は父と共に徳川家康に匿われた。 早熟な軍才を家康に深く愛され、 長久手の戦いでは池田元助を討ち取るという戦功を挙げた。 戦後家康から松平姓を賜り、本多忠勝の娘小松を娶る。 関ヶ原合戦では小早川隊を銃撃して寝返らせ、 大坂の陣では博労ヶ淵砦を奪取するなど その用兵の妙は年を経てますます冴えわたった。 江戸幕府成立後は下野宇都宮15万石を与えられるが固辞し、 伊勢桑名5万石に封ぜられた。
真田信幸(157?〜1582) 武藤喜兵衛の長男。 嫡子であったが、叔父である真田信綱・同昌輝の死により幼くして真田の名跡を継ぐ。 そのため家中は紛争が絶えず、主家滅亡時に織田に内応した家臣矢沢薩摩守に討たれた。
雨森弥兵衛(生没年不詳) 浅井氏の臣で、赤海雨三将の一。実は事績はよくわからない。 光栄の「信長の野望 武将風雲録」で笑える顔グラフィックをつけられたため(一部で)大ブレイク。 以後同シリーズの常連である。 2ch三戦板の看板の左が雨森弥兵衛である(右は荻清誉)。
諸葛亮 三国時代の発明家。諸葛瑾の弟。 生涯野にあって、さまざまな発明を行った。 一度劉備が草庵を訪ねたことがあったが仕官を断り、 「一顧だにしない」という表現ができた。
二階堂盛義(????〜1581) 奥州須賀川城主。弱小二階堂家を強力にするために智謀の限りを尽くし 裏では蘆名盛興暗殺(表向きは病死)に関わりながら、蘆名盛氏に降伏し 実子の盛隆を養子に送り込んで、蘆名家乗っ取りという大博打を打つ。 盛義の思惑通り盛氏の没後、家督を盛隆が継ぐことになると あまりの事の運びに3日3晩大笑し、そのまま逝ってしまったと言われている。 現在残されている肖像画は、この時の喜びを表現する為に絵師に書かせたものと伝わっている。
張飛 劉備の義兄弟。勇猛であったが、劉備に言われて奮起し、学問に励むようになった。 あるとき、孔明と議論になったが、四書五経古今の兵書をマスターした張飛は 孔明をことごとく論破、孔明の起こした風をさらに変え、八卦陣をあっさりと破った。 孔明をして「酒乱の張将軍ではないな」と言わしめた。 張飛の言葉「士、別れて三日なれば、すなわちさらに刮目して相待て」は有名。
小西(呂宋)弥九郎 156?〜???? 堺の商人。父隆佐の後を継ぎ薬屋となる。 主な輸入品をそれまでの漢方薬から 南蛮渡来(中東産)の薬に切り換えたほか、 火薬・奴隷の売買等にも携わった。 世俗の権威からは距離を置くという堺の不文律には無頓着で、 積極的に信長・秀吉に近づき、 豊臣政権下では堺の代官も務め、和泉国内に所領を与えられて、 「城持ち商人」と呼ばれ巨万の富を得た。 また面子に拘らず博多の商人たちとも盛んに交わったが、 秀吉の死後これらの専横が祟って町衆から村八分にされてしまい、 関ヶ原後に所領も没収された。 ここに至ってもはや日本にいては自由な商いは不可能であると悟り、 新天地を夢見て呂宋に渡った。 その後の消息は諸説あり、定かではないが、 高山右近の協力を得てローマ教皇お抱えの商人になったという説が 近年では有力である。
195 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/05 17:08:33
【岡本大八】 竜造寺政家の庶子。 幼い頃より守役から祖父の話を聞いて育ったという。
諸葛亮 隆中の土人。 賢者の噂が高かったが、劉備直々の面会を断り 更に訪ねてきた劉備を待たせて昼寝をしているなどの 無礼な面が多かったために激怒した張飛に屋敷に火を放たれ焼死した。
197 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/05 19:03:30
福本精三 ????〜???? 果心居士とも。 何度討たれてもその都度別な場所・別な形で蘇生するという 摩訶不思議な能力の持ち主。 歴史書に残る最後の目撃記録は明治初期、 賊軍の残党として射殺されたというものである。 また18世紀の仏蘭西でも似たような人物の目撃記録が残っているが、 関連があるのかは不明である。
198 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/05 22:08:44
村上義清 村上幕府の基礎をつくった人物 北上してくる武田晴信を戸石城にて迎え撃ちこれを討ち取る。 その後、信濃の反武田勢力を吸収、甲斐へと侵攻を始める。 甲斐、信濃を領有した彼は今川義元を桶狭間で失った今川家を攻め、これを滅ぼす。 その頃京は織田信長が支配していたが 信長に不満を持った足利義昭の要請を受け上洛。 徳川、織田連合軍を村上騎馬軍団にて屠る長篠の戦いが有名。 その後、義昭を廃し近畿を制圧する。 その後彼は病死、村上国清が後を継ぎ天下を統一し幕府を成立させた。
中川清秀 15??〜1582 摂津茨木城主。池田恒興の寄騎であったが、 信長死後は東上してきた秀吉に従い山崎の戦いで戦功を立てた。 しかし戦後秀吉に馬上から「瀬兵衛、骨折り」と 居丈高に声をかけられたことに激怒し、抜刀して斬りつけたため、 その場で手討ちにされた。 それから6年後の1588年12月14日に遺臣47人が竪楽第に乱入し、 秀吉の寝所を襲おうとしたが半ばは斬り伏せられ、 首謀者数名は見せしめのため六条河原で釜ゆでにされた。 一説によれば彼等が徳川屋敷の前を走り抜けたとき、 在番の本多忠勝は気づいていながら門を閉ざしたままだったという。
伊達親宗 1537?〜1594 伊達晴宗の長男。岩城重隆の養嗣子となる約束だったがそれを破り、伊達家16代当主となる。 不満を持ち反乱を起こした弟・輝宗とその子・梵天丸を討ち取り、伊達家の基盤を磐石にした。 芦名家を降し南陸奥に勢力を伸ばした佐竹家に従属し、 後に佐竹の手によって暗殺された。 親宗の跡は佐竹義重の三男の貞宗が継ぎ、 これにより伊達家は事実上佐竹家に乗っ取られる形となった。
クレオパトラ 絨毯で圧死・・・
202 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/06 14:14:21
太田資正 1522〜1560 武蔵岩槻城主。 北条軍に攻められた際後詰めを求める伝書犬を数匹離したが、 そのうちの一匹が寄せ手の陣中に入り込んだため事が露見し、 強襲されて城を枕に討ち死にした。 その数年後資正の次男梶原政景の居城に痩せこけた老犬が迷い込み、 政景はその犬を一目見るなり「父上…」と呟いて落涙したという。
203 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/06 14:52:11
【献帝】 後漢の帝の一。若き日は董卓によって朝廷が支配されるなど苦難の 日々を送る。その後都に入った曹操によって再び暴政が敷かれるが、賢明な判断と 実行力で曹操の暗殺に成功。劉備玄徳を丞相として善政を敷いた。
204 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/06 16:41:52
上杉政虎 1530〜1559 越後春日山城主。 亡命してきた上杉憲政を庇護し、上杉姓と関東管領職を継いだ。 その後は関東に討ち入って勇名を馳せたが、 自分は毘沙門天の化身であるという妄念に取り憑かれていたため 時に無謀な行動を取り、 永禄2年下野唐沢山城の救援に向かった際、 我が身に弓箭は当たらぬとばかりわずかな手勢で入城しようとして、 寄せ手から弓・鉄砲の集中攻撃を受け満身創夷で絶命した。 兵たちが我先に首を挙げようと群がったため 遺体は見るも無惨な有り様になり、 越後に戻ったのは左足のみだったという。
205 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/06 17:20:56
松平元康 三河の豪族。今川義元の上洛に際して三河衆を率いて織田氏の居城清洲を落とす活躍をみせ、今川家中での地位を不動のものとする。 1568年に浅井・朝倉連合軍と琵琶湖湖畔の瀬田で行われた会戦では、浅井長政を撃ち取り、義元に「日本一の兵」と称された。今川幕府開幕後は三河尾張占めて100万石を与えられた。
上杉義昭 1531〜1582 山内上杉家当主。 元は佐竹氏の当主であったが、河越合戦に敗れた 上杉憲政を庇護することを条件に上杉氏の家名・家紋・ 関東管領職を譲り受けた。 義昭は関東管領職と上杉の家名を活用し、それまで敵対していた 江戸・岩城・那須・小田などの諸侯と和睦し、1570年に最後まで北条に 従属していた結城氏を打ち破り、北関東屈指の大大名となった。 そして1575年に、千葉氏の寝返りをきっかけに関東の諸軍勢を率いて 小田原へ進軍。これを迎撃するために出撃した北条軍と鎌倉で死闘を 繰り広げた結果上杉の圧勝に終わり、北条氏康は自害して果てた。 関東全てを手中に収めた義昭は、善政を施し1582年にこの世を去った。 嫡男・義重は佐竹幕府初代将軍である
補足 嫡男義重は、将軍に就任する際に 藤原氏である上杉の家名を破棄し、源氏である佐竹に復姓した。
近藤勇(1834〜1912) 武蔵国多摩郡に生まれ、天然理心流で剣術を学び、剣術を学び、天然理心流4代目を継ぐ。 豊臣幕府に仕官の道を求め、大坂にいくも、逆賊徳川領の出身ということで差別され、失意のうちに武蔵に戻る その後剣の才を認められ、同郷の土方歳三らとともに庄内藩最上家に召抱えられる ペリーの堺来航によって幕府が混乱する中幕府に関東警護を命じられた庄内藩藩士清河八郎の提言によって作られた浪士隊に参加、浪士隊は後に新撰組に名を変え、近藤は局長にまで出世する。 やがて反幕府を掲げる奥羽列藩同盟が成立し、豊臣側と戦争に入る中新撰組は米沢城攻撃、江戸川越の戦い、大坂無血開城、安芸戦争、薩摩藩攻撃、琉球首里城の戦いにことごとく戦功をたて、新政府から従四位を与えられた。
209 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/06 22:24:00
210 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/06 23:02:41
劉安 呂布に敗れた劉備の意志を継いで、蜀漢を建国した。 後年、劉備のものとされる墓から遺骸がでてこなかったため、 劉安の妻が、劉備を殺して劉安に食べさせたという説もある。
木下藤吉郎 尾張中村の出。幼いころから武芸に秀で猿飛佐助の異名を持つ。 織田家に仕えるが草履を尻に轢き、信長の怒りを買い出奔。 墨俣に家を構えるといつの間にか一夜城と呼ばれ大慌てする。 その功績により織田家に復帰。いつの日か大名になることを夢見るが足軽として余生を送ることとなる。
劉禅(207〜271) 漢(蜀)の二代目皇帝 興武帝と号す 昭烈帝劉備の後を継ぎ皇帝の位に就くが、白帝城での劉備と孔明のやり取りを人づてに聞き、 「能ある鷹は爪を隠す」と悔しそうに一言だけ洩らし孔明在世中は彼に全権を委任する。 234年に孔明が歿すると直ちに魏延を大将軍に任じ、孔明により野に下っていた 李平(厳)や廖立を復帰させ軍制改革に着手する。 魏延・姜維・李平・夏侯覇・馬岱・張翼・張嶷・馬忠などの将士と 蒋エン・費イ・董允・郭攸之・向寵・楊儀・廖立などの文官に支えられ北伐を敢行。 255年には狄道で陳泰・王経を破り256年には段谷でケ艾を撃破。さらに前々年の曹芳廃位に 怒った反司馬勢力と連携し次々と魏の領内に侵入。257年に長安攻略(鍾会降伏) 258年に洛陽攻略(賈充戦死・魏ギョウに遷都)、さらに呉の後ろ盾を得て徐州と豫州を平定していた 諸葛誕が劉禅に降伏。この裏切りに怒った呉は直ちに軍を起こし成都を急襲しようと目論むが、 孟獲・李恢・呂凱の別働隊に夷陵で大敗。丁奉・韓綜・朱異など数多くの将を失う。 260年には魏皇帝の曹髦が司馬昭を斬り降伏を申し出る。262年の濡須口の戦いで陸抗・孫チン・顧譚 張承を討ち、呉の孫休を自害させ滅亡させる。 264年には司馬昭の遺児炎を担ぐケ忠・許儀・郭淮を易京で破りここに天下統一を成し遂げる。 天下統一後、降将鍾会が政務に忙しい劉禅を見て「蜀の事を思い出しませんか」 (孔明が生きてた頃のようにボーッとしてればと言う意味の皮肉)と言ったのに対し 「政は楽しくて蜀の事なんか思い出す事もないよ」と切り返したのはあまりにも有名。
214 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/07 18:40:48
周瑜(175-208) 呉の将、字は公瑾。 曹操軍の迎撃に赴いた際、ささいな事から部将の黄蓋を鞭打って殺害。 越権行為を咎める副都督・程普に「これは作戦であった」などと気の触れたような弁解をしたため 拘束され、後方に檻送される。 呉主・孫権は狂人の言を容れて開戦を決めたことを悔い、張昭に周瑜の首を持たせて使者に立て 曹操と和睦。後漢末からの戦乱は終息に向かうこととなった。
216 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/08 08:26:41
でも実際劉禅は無能ではないんジャマイカ。てかあの時代珍しいくらい 温厚だよな。父似か。 でもその親父ですら権力に座ったらあまり周りの意見を聞き入れないんだから 劉禅は父をも上回る温厚さを持った人物といえよう。
>>216 普通の人だったんだよ、きっと。
上に立つような器じゃなかったんだろう。
219 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/09 17:05:19
前田慶次郎利益【1533〜1605】 滝川益重(益氏)の子で出身は甲賀、実の叔父・滝川一益と同じく出自は 忍者といわれ、荒子城主・前田利久の養子となる。 だが父利久は病弱な体を理由に隠居。利益が前田家の家督を継承する。 その傾奇者と呼ばれる異様な出立ち、振る舞いが織田信長に気に入られ 信長直属の赤母衣衆に抜擢される。その後各合戦で「鬼槍慶次」と呼ばれる獅子奮迅の 活躍を見せ信長の目に大いに止まるところとなる。 持ち前の明るさから人心掌握も得意とされていた利益は美濃攻めにおける木下藤吉郎 の竹中半兵衛調略と同時進行で美濃三人衆の誘降を行い、見事織田家に 帰属をさせた。この働きが無ければ1565年に成し遂げた信長の美濃統一は 1〜2年遅れていたと言われる。 常々「負け戦こそが戦の醍醐味」が口癖であった利益は 1568年、金ヶ崎の退却戦においては朋友・木下藤吉郎秀吉と共に自ら志願して残り 見事、殿を勤めた。この時の功により利益は伊勢・長島城主となり、一向一揆の 殲滅に幾年もの時間を費やすこととなる。 1575年、長篠の合戦においては信長考案の三段鉄砲隊の一翼を指揮し、信玄の 遺子・武田勝頼率いる武田騎馬軍団を壊滅に追い込んだものの生来の「いくさ人」 である利益はその光景に疑問を抱き、主君信長の命令を無視して 勝頼退却後の武田軍を追走、従来の追撃戦において勝頼の首を討ち取った。 軍令違反を犯した利益であったが半年の謹慎の後許され、家督を継承した 信長の嫡男・信忠の副将となり勝頼亡き後・武田盛信を当主とする武田家の 掃討に取り掛かった。
220 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/09 17:07:12
1578年、甲斐・信濃平定を果たした信長は対北条として利益を関東に入れ、 関東管領を名乗る事を許した。 利益は関東侵攻においては近隣の豪族・小大名を次々と帰順させ信濃の真田 昌幸らを与力とし駿河から伊豆へ侵攻する徳川家康と共闘、たちまちに関東の ほぼ全域を支配し、1582年が明けた頃には大きなところ言うと夏に控えた 小田原攻めを残すだけとなった。 この時中国地方を任されていた羽柴秀吉が援軍を要請。信長は自ら出陣する という旨を秀吉に送り返していた。 だが、この時に信長の先駆けとして秀吉の援軍として駆けつけるはずの 明智光秀であったが手鍛れの忍(元甲賀出身の忍である利益は独自の諜報網を 主君・信長の身辺に絶えず置いていた)からの、「惟任(明智)日向守殿に 謀反の恐れあり」という報告を聞き、関東の押さえを一門衆筆頭・ 叔父の前田利家に委任、内密にて自らは京へと向かう。
221 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/09 17:07:41
これが後に言う利益の「関東大返し」である。 この利益の尽力に寄り、本能寺に宿していた織田信長は一命を取り止め 明智光秀は陣中にて自害。現在の世に至るまでも大悪人の例とされている。 後に天下統一を果たした信長は新国家を樹立。中でも柴田勝家、 羽柴秀吉と並んで前田利益は新国家の枠組みにおいても「織田三大宿老」の 一翼を担うことになる(ちなみに勝家、秀吉の二人は犬猿の仲とされていた ため、利益はその仲介役としても重要な役割を果たしていた)が早々と 息子の利長に家督を譲り、隠居。晩年は教養人としての活躍の方が有名で 自領の江戸から大阪(信長の居城)にたびたび出向き、主君・信長の茶や歌の 相手に興じていたという。
223 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/09 17:53:15
斉藤道三 美濃の油商人。 辣腕な手法で大いに財を蓄え、現在の「美濃屋」の基盤を作った。
朝倉義景(1533〜1593) 越前国の大名。足利義昭の頼みを断れず上洛の兵を起こすも観音寺城を落とせずに越前に撤退。 その後いろいろあって一乗谷五万石を安堵される
畠山重忠 1164〜1205 幼名を氏王丸という 父は畠山庄司重能、母は三浦義明の娘。 1180年、当初平家側として石橋山の戦いに出陣した。小坪、衣笠の戦いの後、源頼朝方に参陣。 頼朝はこの参陣を、自身を八幡太郎になぞらえ「我が真衡が来てくれた」と言って喜んだという。 1184年 宇治川の戦にて活躍。その渡河中、溺れ流され、自らの腰にしがみ付いてきた大串某を、片手で対岸に投げ上げ、 そこで大串某が戦陣一番乗りの声を上げると、敵味方から失笑が上がったという逸話がある。 1184年の一ノ谷の戦いにあっては、義経に従軍。有名な鵯越の逆落としに、震え上がる愛馬を自らの背に括り付け、 その足でもって崖を下ったりもした。(盛衰記) その後、奥州征伐にも参加、大木戸の戦い、阿津賀志山の戦いなどにおいて戦功を上げる。 由比ガ浜にて陸奥と名乗る無手の士と戦うという口伝が今も残っているが、その真偽は定かではない。 1205年 息子、重保が北条時政の縁者と口論の末、殺されるという事件が起こる。 これを期に、重忠にも大群が差し向けられた。北条方の大軍を数度退けるも、武蔵国二俣川の激戦において、 嫡子、重秀が討ち死にを遂げると「生きる望みを失った」といって、その場で割腹して果てたという。
228 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/10 19:34:00
蔡瑁(???〜225年) 190年に劉表が荊州刺史に任ぜられた時、劉表に招かれ帷幕に加わった荊州の豪族。 劉表の荊州平定では黄忠・黄祖とともに主力を為し、カイ良の策に応じなかった反劉表系の 諸豪族の討伐に費やす。 192年の孫堅の侵攻では黄祖の援軍として後陣の韓当を奇襲し首級を挙げるという殊勲を立てる。 またこの頃、妹を劉表に嫁がせ家中一の重臣となる。 207年劉備が劉表に身を寄せると初対面で劉備の野望を見抜き、対曹最前線の新野に送るよう 劉表に進言し容れられる。 208年になると荊州は慌ただしくなる。劉表が死亡すると後継者争いを抑える為に 劉gを立て、劉備・劉磐・カイ越と4人で後見する体制を取り家中の分裂を抑えると 孫権の侵略を防ぐ為、長沙太守韓玄に命じ黄忠を黄祖の援軍に送り夏口を死守するよう命じる。 これにより敗北寸前だった黄祖軍は持ちこたえ東部戦線は膠着する。 また曹操の南下が始まり新野の戦いで劉備が戦死すると、カイ越・カイ良・文聘らの反対を押し切り 襄陽を捨て江陵まで兵を退ける。この退却中に曹操の先遣隊に追撃を受けるが、零陵出身の猛将 刑道栄の一騎駆けという奮闘もあり軽微な損害で江陵に入る。 上流の江陵を獲れなかった曹軍は烏林に陣を敷き、降将の張允に水軍提督を命じるが これがすでに蔡瑁の埋伏の毒であった。張允は船酔い対策と称し船を鎖で繋ぐ事に成功する。 またこの策をいち早く見破った徐庶とホウ統を暗殺。 この報を聞いた蔡瑁はただちに軍を動かし、両軍激突とみせかけ直前に大量の火矢を射て火計に成功。 そして曹軍をぎりぎりまで引きつける為に自らも死ぬ覚悟で乗船していた張允を救出。 残された曹軍は逃げ場を失い大量の死者を出し大敗北を喫し、曹仁・程c・荀攸などの将を失った。 これをただちに追撃するよう文聘に命じ、襄陽はおろか新野まで回復した。これが世に言う「赤壁の戦い」である。
この後、自ら膠着状態の夏口の後詰めに出陣。迎撃に来た孫権軍と激突した。 カイ良の策で軍を三手に分け、それぞれ蔡和・蔡仲・蔡勲に率いさせ 孫権軍の横腹をつく事に成功し大勝を収める。 212年は夏口の戦いで功を挙げた魏延という将校を抜擢し益州征伐の大将に、 文聘を呉征伐の大将に任じそれぞれ攻略を試みるも失敗。 213年にはこれに乗じて攻めて来た曹純・曹休軍を博望坡で撃破。 216年に劉gが亡くなると劉jを立て家中の実権を完全に掌握。 219年別働隊を黄忠に率いるよう命じ、自らも軍を率いて呉に再侵攻。交州の士燮を 動かすことに成功し揚州の西半分を平定する。 220年魏の建国に対抗し劉jに楚王を名乗らせる。 223年宛を攻略し徐晃・満寵を討つも武陵蛮の沙摩柯が反乱を起こし撤退。 224年には蔡勲・魏延・刑道栄・鮑龍に呉侵攻を命じ平定。劉jが急死(暗殺説あり)すると 蔡瑁が後継者となり同時に皇帝に即位する。国号を「楚」と定め都を襄陽に定める。 225年唯一の後継者となってしまった蔡和に後を託し病没。 この後、楚は五代56年続き280年晋の前に屈し滅亡する。
231 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/11 19:05:45
陶隆 ????〜???? 字は房。寧波の商家に生まれる。 先祖は徐州刺史であったと言う。 幼い頃に父・陶興の乗った船がポルトガル船に沈められ、 家が没落する。 15歳の時、交易船に乗って山口へ渡来、 そのまま土着し大内氏に仕え名も晴賢と改めた。 その後は持ち前の才覚からどんどん出世し、「西方不敗」の異名を取ったが、 その出自から家中の風当たりが強く、敵も多かった。 天文10年、山口に宣教師が来ると、 亡父の恨みからこれを追放することを主君・義隆にすすめたが 容れられず、謀反を起こした。 主君を討った後、他家から当主を迎え一時勢威を誇ったが、 やはり漢人というのが仇となり、豪族の離反が相次ぐ中、 安芸の毛利元就に討たれた。
232 :
可児 :05/03/11 19:24:31
おまいらバカばっかWWWWWWWWWWWW
233 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/11 19:45:25
出たなキングオブカス
234 :
可児 :05/03/11 19:46:42
235 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/11 20:40:22
【袁紹】 字は本初。後漢の名家であった袁家の嫡子で混乱する漢室を支え続けた。 都で当時の帝・献帝を擁し、暴政を極めた董卓に対抗するため自ら連合を 結成、その長となりこれを率いると董卓に焼き払われた旧都洛陽を奪還した。 袁紹は洛陽復興を第一とし民を安息させ、後この功に献帝は「朕の故郷を守ったことは 朕を守ったに等しい」と賞賛されることとなる。 その後漢室が曹操によって支配されると袁紹は大軍を持って都を占拠。 曹操を追撃しその首を獲った。 献帝はこの功を認め丞相に任命。当時傘下にあった劉備などと共に善政を敷き 第二次後漢の礎を作った。
236 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/11 20:47:22
大坂の陣 1615年の冬から夏にかけての徳川幕府による大坂城への攻撃。 豊臣秀吉の遺児秀頼とその母淀君以下10万の篭る大坂城に幕府軍訳30万が 力攻めを断行。 未曾有の死傷者を出しながらも春には惣構えを突破、 三の丸に突入する。 しかし幕府軍の戦力も消耗したため全国の大名に 20万の動員をかけ更なる総攻撃をかけ続けた結果、8月にようやく 大坂城は落城。 この戦いによる死者は両軍合わせて25万といわれ、日本の国力を大きく 衰退させた。 このことが後の朝鮮による日本侵略の遠因といわれている。
237 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/11 21:06:31
238 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/11 21:53:41
徳川忠輝 慶長の乱で徳川家が滅んだ後、秀忠は武蔵の国に流刑となり 忠輝は高野山に流刑となる。 本来僧侶となる身を金売り吉次の手引きで奥州伊達氏の元に身を寄せた。 京では「毛利にあらずんば人にあらず」と語られるほどの栄華を誇る 執権毛利家の弛みをついて会津上杉氏が京を襲い朝日将軍と歌われ 一時覇権を握るが関東に蜂起した秀忠の軍勢に合流した忠輝がこれを破る。 その後大阪から毛利一族を馬韓海峡に追い詰め壇ノ浦の合戦で打ち破る。 しかし豊臣家に篭絡され豊臣秀頼を「日本一の大天狗」と罵る秀忠は 忠輝は奥州伊達家を頼るが、徳川の追手は奥州に迫り撃たれた。 とされるが史実は違い新大陸に渡って源忠輝−ジンテュキカンとして 欧州勢を追い払い新大陸を統一する大帝国 龍 を建設 交易を望んだ欧州との折衝で一蹴されたことから西欧征伐の兵を挙げ 彼の子オコゼイの代に欧州を制圧。伊達秀宗に藤原姓をもって統治を 任せ、ここに欧州藤原氏が成立。 更に孫のヒビライの代に江戸に使者を送るが一蹴され ここに龍寇が勃発 ・・って源義経を慶長版で書こうとしたが無茶すぎたな・・ww
239 :
風魔 :05/03/11 21:58:50
ここはキングオブオタッキーの集まりか
立花ァ千代 1569〜1602 立花道雪の娘。7歳にして女婿の身で家督を譲られ立花山城城督となる。 15歳の時に父道雪が没し名実共に父の跡を継ぐことになる。 1586年、島津軍5万が高橋紹運の守る岩屋城、紹運の子統虎が守る宝満城を それぞれ激戦の末に攻め落としァ千代の立花山城にまで攻め寄せてきたが、 ァ千代は豊臣家からの援軍到着まで守り抜き撤退する島津軍に一撃を加えた後 星野兄弟が守る高鳥居城を1日で攻め落とし、岩屋城、宝満城も瞬く間に奪還した。 この功績により大友家から独立し筑後柳川13万石の大名となる。 肥後一揆、小田原征伐でも活躍し、文禄の役では小早川隆景の6番隊に入る予定で あったがァ千代の強い要望で旧主である大友吉統が属する3番隊の一員となった。 1593年、最前線の平壌を守っていた小西行長が李松如の指揮する明軍4万の攻撃を 受けた時、行長の救援要請を無視して京城まで退こうとした吉統を激しく叱責し明との 交戦を決意させる。小西行長の救援に駆けつけた立花軍は日本軍の先鋒を務めその 勝利に大きく貢献した。この戦いでの勝利が明軍との講和のきっかけとなった。 1600年、関が原の戦いでは東軍につき(秀吉に側室になるよう言い寄られたことが 原因といわれているが真偽は定かではない)関が原本戦において目覚しい活躍をする 特に戦いの終盤に東軍の中央突破を図った島津義弘の軍に追撃に次ぐ追撃をかけて 終に撃滅し義弘を討ち取る功を上げる。家康に「西国一の女丈夫」と称され筑後32万石 を領する。 しかし1602年、関が原で島津軍に受けた傷が元で死去。高橋統増の子を養子として跡を 継がせた。享年33歳であった。
242 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/11 23:54:31
リアルでキモイな・・・
243 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/11 23:59:40
244 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/12 00:04:18
上杉謙信 本願寺を助けて反織田勢力を糾合、尾張まで進撃して信長を潰す 驚愕の事実 ライブドアが幼女レイプゲーム 板違いですいません。ですが憂国の士は決起してください。お願いします(ToT) すいません。これが新しい時代といえるのでしょうか・・・ ライブドアが幼女陵辱エロゲーを作っています。 この事実をテレビはおろか、週刊誌も扱ってくれません。(プロ野球の時はやったくせに・・) フジ買収するかもしれない企業の実態を知ることは 重要だと思います。青少年の健全育成を守るために 立ち上がりましょう! 証拠画像 h t t p : / / h w 0 0 1 . g a t e 0 1 . c o m / g 0 1 / d a t / s h i s h i 1 . j p g h t t p : / / h w 0 0 1 . g a t e 0 1 . c o m / g 0 1 / d a t / s h i s h i 2 . j p g 製作・販売はライブドアだと明記してある。 これはもうウソではないね・・・ 六本木ヒルズ38階で製作しているらしい。ITの最先端は幼女陵辱スカトロゲーム なのか・・・・ ライブドア制作・販売ソフト メイドさんしぃしー』 h t t p : / / w w w . l e c h o c o . c o m / s h e s e e / i n d e x . h t m l 2ちゃんで情報統制がかかってるから半角スペースで対抗しました。 LDエロゲ投稿に訴訟できない理由 事実だから。証拠写真有り 左翼マスゴミが報じない事実が世間に知れ渡るしな。 今回の件は左翼マスゴミ(在日で反日) VS 2ちゃんねらー(日本人で憂国)だ。 おまけ ほりえもんの髪型 h t t p : / / l i v i n g - o n - t h e - e d g e . b l o g . o c n . n e . j p / l i v i n g _ o n _ t h e _ e d g e / i m a g e s / l i v e d o o r . j p g 堀江豚をどっちの料理ショーに食材としてゲスト出演させたいのですが・・
246 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/13 01:28:01
夏侯淵(?〜225) 夏侯惇の従弟。呂布との戦いで右目を失い、以後「盲夏侯」と呼ばれる ことになる。
247 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/13 09:51:04
島津義弘(1535(天文4)〜1600(慶長5)) 戦国末期〜安土桃山時代の武将。島津貴久の次男、兄弟に島津義久、島津歳久、島津家久がいる。 「島津四兄弟」の1人として、兄・義久の下、前線の武将となり木崎原の戦い、耳川の戦い等で活躍。 豊臣秀吉の天下統一後は実質上島津家の当主となり、朝鮮への出兵の際も島津家の大将として出陣。 1600(慶長5)年の関ヶ原の合戦の際は、西軍大将・石田三成への恩義から西軍として参加。 しかし、西軍は総崩れし世界的にもまれにみる「敵前の前方退却」を行う。 この時に甥の島津豊久を助けようとし、すてがまりを行って戦死。 その際の勇猛果敢な戦闘ぶりと伯父を助けようとする豊久に対して 「これからは若者の時代、何があっても生き延び帰国せよ」 と説得した義弘の台詞は今でも郷土で涙を持って語り継がれる伝説となっている。
島津豊久(1570(元亀元)〜1638(寛永15)) 安土桃山時代〜江戸初期の大名。島津義久、島津義弘の異母弟・島津家久の長男。 1688(天正16)年、急逝した父・家久の跡を継ぎ佐土原藩主となる。 その後、豊臣秀吉の命により小田原の戦い、朝鮮への出兵に参加。実際に佐土原にはほとんど在国 できなかったと思われる。 秀吉の死後は徳川家康に積極的に近づくが、関ヶ原の合戦の際には伯父・島津義弘への恩義から 西軍側に付く。しかし、夜襲策を石田三成に受け入れて貰えなかったことなどから早くから三成への憤懣 があったらしい。そのために合戦が始まって加勢を三成から要請されても動かなかったと思われる。 結局西軍は大敗し、伯父・義弘の奇策による「敵中突破」を行うがほとんどの兵がすてがまりで戦死、 帰国できたのは豊久を含め50人程度だったと言われる。 西軍に付いたことから帰国後は改易の危機にさらされるが、元々家康よりだったことや伯父・島津義久ら の工作により本領安堵。引き続き佐土原藩主となる。 慶長16(1611)年に伯父・義久が病死するが、それ以前から藩主となっていた島津家久(島津義弘三男) の乱暴な行いに不満を持っていた家臣が抜け駆けで江戸に行き幕府に訴えるというお家騒動が起こる。 これに対して徳川幕府は「喧嘩両成敗」策を取り、抜けがけた家臣は他藩にお預け、島津家久と島津豊久 の領地を総替えした。本来なら改易となってもおかしくなかったが、薩摩大隅という生産力が低く特殊な地域 であるためこの処分となったと考えられている。これ以降豊久は薩摩藩19代藩主となった。 関連項目として「慶長薩摩騒動」も参照すべし。
250 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/13 16:01:22
山中鹿之助(1545〜1617) 出雲尼子家の家臣。 毛利家の月山富田城攻略戦では奮戦虚しく敗北。尼子家はここに滅亡した。 鹿之助は尼子家を復興しようと決意。 何度失敗しても諦めることなく遂には織田家の後ろ盾を得て尼子家を復興する。 このときの尼子の領土は上月城と宿敵毛利との最前線であった。 別所、荒木らが織田に叛旗を翻し、羽柴秀吉が鎮圧にでている間に上月城を毛利の大軍が包囲。 鹿之助ら尼子諸将は織田の援軍を待ち篭城。 ついに織田信忠率いる羽柴、柴田、明智、滝川ら5万の大軍が救援に向かい毛利との決戦になった。 だが、上月城は場所が悪く折角の兵数がいかせない戦場であった。 激戦が数時間続き鹿之助率いる隊が毛利の陣を強行突破、これにより毛利は総崩れになった。 この戦いにより小早川、吉川、両川が討ち死に。毛利諸勢力が尼子に寝返った。 かねての約束通り上月城を返上し出雲を回復した尼子家であったが 織田信長が本能寺で討ち死にという報を聞くと滅亡間近の毛利が力を戻し怒涛の進撃。 羽柴秀吉の信長の仇討ちは不可能と思われたが鹿之助が尼子、宇喜多による迎撃策を提案。 これにより羽柴秀吉は明智討伐の第一人者となり天下獲りへの道を開くのである。 秀吉は「鹿之助の何たる武勇かな」と褒め称え槍、「日本号」を渡したといわれる その後、秀吉は九州を討伐。恩賞として尼子家には肥後一カ国を領有した。 もっともその後、佐々成政が領土経営に失敗した際その領土を受け取っている。 一説には最初から秀吉が仕組んでいたとも言われる。 その後尼子勝久が若くして亡くなるとその子の後見として尼子家の政務を取り仕切った。 堅城として名高い月山富田城をも越える熊本城を建設し、西国将軍と呼ばれた。
251 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/13 16:06:50
秀吉が亡くなり徳川家康が天下を獲ろうと画策し鹿之助に 本多忠勝の娘、稲を家康の養女にし婚姻政策を獲ろうとしたが 「内府の天下獲りに協力する気は毛頭無い」、と一蹴している。 その後独断極まる徳川家康を倒す為、石田三成、上杉景勝らと協議しした。 鹿之助はその後、本領仕置という名目で各城を普請。 家康が催促状で上洛を何度も促したが「山中状」と呼ばれる書状を家康に送りつけた。 これに激怒した家康は天下の兵を率い、大坂を発ち熊本城へと進軍した。 だがこれは全て鹿之助による計略であり、空になった江戸を上杉が急襲。 さらに上方においては石田、大谷ら諸将が鳥居元忠率いる伏見を落とし大坂城を占拠していた。 九州の各勢力はこの報を聞くや否や山中派、徳川派に別れた。 山中派には島津、鍋島、立花、小早川、宇喜多ら西軍8万2千 徳川派には福島、加藤、黒田、池田、前田ら豊臣諸将が付いた東軍7万4千 さらに、徳川秀忠の率いる四国渡海勢、3万5千(真田、長宗我部、仙石、十河etc……) 真田、長宗我部は秀忠軍より抜け出し土佐の国を挙げての篭城。 ついに秀忠勢を四国に釘付けにした。 伏見を落とし大坂を占拠した石田勢は北陸の前田家と激突。 上杉家は江戸より帰陣し東軍勢力である伊達、最上ら奥州勢力と一進一退の戦いを繰り広げた
252 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/13 16:08:51
その頃、両軍は博多にて対陣。夜が明けると共に決戦の火蓋は切って落とされた。これは後に博多大戦と呼ばれる。 鹿之助率いる西軍は東軍を包囲し家康本陣への突撃を開始していたが日和見を決めていた 尼子に恨みを持つ小早川秀包1万5千が謀反。 島津義弘率いる島津隊に突撃を開始した。 義弘は死を覚悟し小早川本陣を強行突破、これにより小早川勢は3丁も潰走したといわれる 再び勢いを取り戻した西軍勢力は黒田長政、福島正則ら諸将を討ち取り東軍を潰走、追撃した。 その後、故福島正則の居城であった広島城に家康は篭城。 家康は秀忠軍、反尼子勢力である毛利残党を掻き集め最後の一兵まで抵抗。 功城戦は2度に渡り続き広島冬の陣、夏の陣と呼ばれた。 これにより徳川家康という反豊臣勢力は消滅。 新五大老として山中鹿之助、石田三成、上杉景勝、宇喜多秀家、真田昌幸が就任。 鹿之助は五大老筆頭となり右大臣に就任。 これ以降は領土の経営に精を出し豊臣300年の基礎を築いたのであった。 なお、彼の息子の山中新右衛門は武士であることを嫌い商人へとなった。 彼の経営手段は非常に優れておりヨーロッパを始め海外と交易を開始。 日本に工業革命を起こした第一人者であった。 長分スマソ。。
朝倉義景 戦国時代の大名。一乗谷城主、越前守。夭折の名将と言われる。 朝倉英林壁書に基づき身分にとらわれない人材登用を行い、 若狭の刀鍛冶明智冬次の子・光秀を登用。先代から争っていた 本願寺と和睦するなど手腕を発揮する。 光秀をパイプ役として足利義輝・比叡山・浅井氏などと同盟し、 幕府管領に就任し、天才的な軍略で三好氏を滅ぼし、 足利幕府の権威を復活させたものの、神経の細い義景は生来の遊び好きが祟り、 大酒荒淫により衰弱死した。 しかし、朝倉義景の智謀は衰えて居なかったらしく、忠臣・明智光秀宛に 遺言状を書き残し、当時美濃尾張を制圧して勢力拡大中の織田信長に 嫡男熊若丸を頼むこと、天下は織田家に頼むべきことを言い残したと言う。 朝倉家は越前一乗谷三万石の領主として織豊政権、江戸時代を生き延びた。
勝手に能力値をつけてみる >241 立花ァ千代 政治70 戦闘85 知謀80 >246 夏侯淵 政治40 戦闘56 知謀20 >248 島津義弘 政治40 戦闘85 知謀10 >249 島津豊久 政治75 戦闘70 知謀50 >250-252 山中鹿之介 政治92 戦闘98 知謀90 >253 朝倉義景 政治85 戦闘 88 知謀90
朝倉義景(1533〜1616) 朝倉幕府創設者 足利義昭訪問時に六角攻めを行うが、六角のゲリラ攻めに退却を余儀なくされる。 信長上洛戦時には家中でいろんな意見があったが、義景は信長軍に参加し、 越前・若狭2国を安堵される。 その後、1570年までには加賀を領国に加える事に成功する。 1570年、将軍足利義昭は信長包囲網を画策するが、 義景は、義昭の企みを信長に密告する。 その後、足利義昭は信長軍に攻められ、義昭は放浪の身になる。 義景は足利義昭をひっそりと匿う事にした。 その事はすぐに信長に知られるが、 信長は将軍殺しという汚名を着せられるのは嫌がっていたので、 とりあえず黙認する事にした。 1580年、蠣崎攻め(蠣崎軍1000、信長軍40万)で信長の天下統一は終了する。 1582年、信長は部下の反対もありながら朝鮮出兵を行う。 緒戦は信長の勝利だったが、途中から戦況はこう着状態になる。 1587年、義景は7大老に任命される。 7大老(徳川家康・朝倉義景・北条氏政・毛利輝元・上杉景勝・武田勝頼・大友宗麟) 7奉行(羽柴秀吉・柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・浅井長政・滝川一益・前田利家) 1588年の信長の死去により朝鮮から信長軍3万は撤退する事になる。 信長の死去の後、すでに信忠も朝鮮出兵時に戦死していたので後継者争いが始まった。
伊丹康直 伊丹城主・伊丹雅興の子。父・雅興は細川高国の猛攻を何度も退けた名将。 摂津に浸透した三好氏に対して時に従属、時に頑強に抵抗して強固な勢力を誇った。 のちに織田信長に従い、摂津三守護の一人に任じられ、 天正2年には信長に背いた同族の伊丹親興を滅ぼした。
大友宗麟 1530-1587 豊後・府内に漂着したアラビア商人と親交を深めてイスラム教に興味を持ち、 日本初のムスリム大名になった。ムスリム名・アブドゥルラフマン。 領内の寺社神社を破壊し、竜造寺・島津・大内ら諸氏と激しく覇を競った。 天正少年遣トルコ使節団を派遣、オスマン帝国と友好関係を結んで アラビアの学問や兵器を導入したが、耳川で島津氏に大敗し没落した。 フロイスは見るに耐えない凄まじい言葉で彼をけなし、 「シモの地方で十字軍を起こすべきだ」と述べている。
加藤清正 豊臣家家臣。豊臣家最後の忠臣と呼ばれる。関が原の戦いの際は三成を嫌い 東軍につき肥後一国を与えられる。 しかし、その後の徳川家の秀頼を蔑ろにする態度に激怒し着々と反徳川の 組織を結成すべく書状を関が原後、徳川家に反感を持つ大名に約300通も 送ったといわれ、福島、黒田等の東軍の将も含まれている。 特に福島正則に宛てた「虎の巻」と呼ばれる書状は豊臣恩顧の武将達の 涙を誘ったのは言うまでもない。 清正の動きを知った徳川家は清正暗殺を試みるが失敗、これにより合戦の 動きが本格化することになった。 清正は大阪城に入城すると秀頼を総大将にするため、淀、北の政所らを 説得することに成功する。秀頼が先陣に立つ報を聞くと各国の大名は 「いざ大阪」を合言葉に大阪を目指した。 徳川を大阪の陣で打ち破ると諸将の説得に応じず、清正は隠居する。 この行動を見て諸大名も秀頼に再度忠誠を近い、豊臣家300年の平和を 迎えることとなる。
260 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/16 09:01:27
>>258 ハゲワロスWWWW
宗教にはまる性質なんだなWWW
さすがに過去ログのまでやってるときりがないよ ま、おいおい >231 陶隆 政治80 戦闘88 知謀60 >235 袁紹 政治95 戦闘88 政治 92 >238 徳川忠輝 政治50 戦闘98 知謀78 確か義経の能力がこれぐらいだったような >256 朝倉義景 政治98 戦闘88 知謀95 >257 伊丹康直 政治50 戦闘68 知謀49 >258 大友宗麟 かわんねw >259 加藤清正 政治95 戦闘82 知謀90
吉見広頼 (1645〜1616) 毛利家臣。1585年父正頼から家督を継ぐが、病弱だったため政務を行ったのは 彼の息子の元頼であった。朝鮮出兵で元頼は重傷を負うものの生還した。 関ヶ原の戦いでは吉川広家の働きで毛利氏は本領安堵され、元頼は本領津和野で 六万石を領し、次男広長は別家を起こし安芸で一万石を領した。 また、彼の娘婿であった益田元祥は毛利氏永代家老となり、益田八万石を領し、 同じく娘婿の毛利元康は備後神辺を領し家中に重きを為した。 彼の血縁に繋がるものは皆長命を保ったと言われている。 広頼自身は決して歴史上で活躍した人物ではないが、こうした一族の繁栄を 目にすることができた、極めて家庭的に恵まれた武将であったと言える。
>1織田信長 政治55 戦闘 62 知謀 40 明智光秀 政治 94 戦闘 95 知謀90 >2松平元康 政治 45 戦闘 32 知謀 30 >3武田信玄 政治88 戦闘91 知謀85 >4毛利輝元 政治94 戦闘92 知謀98 >6 伊達政宗 政治93 戦闘92 知謀89
264 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/16 20:24:31
>7 今川氏真 政治43 戦闘10 知謀32 (教養97) >8 伊達政宗(>6と同じく 政治93 戦闘92 知謀89 >9 朝倉義景 政治62 戦闘51 知謀45 >10 明智光秀 政治91 戦闘33 知謀47 >11 曹操 政治47 戦闘61 知謀57 >12 劉備 政治63 戦闘39 知謀33
尾藤知定(生年不明) 甚右衛門尉、左衛門尉。尾張重吉の出身。早くから秀吉に仕える。 1577年に播磨で5000石、ついで但馬豊岡城主となり1585年に秀吉の弟・秀長に属す。 九州征伐において島津の精鋭2万が4兄弟・伊集院氏・北郷氏らに率いられ 宮部継潤の4000が守る根白坂に夜襲を掛ける。 自ら救援に赴こうとする秀長を押し止めるが、その狼狽振りのため傍らにいた藤堂高虎が激怒。 高虎の一撃で大怪我をし糞尿を垂れ流しながらも逃げ延びる。 これに奮起した黒田隊と吉川隊のみの突撃により島津隊は壊滅。 義弘が宮部継潤の棍棒で討ち取られ、家久も竜造寺家配下の鍋島隊に討ち取られた。 (ちなみに鍋島隊は沖田畷でも猿渡隊を一方的に壊滅させている。竜造寺本隊とは大違い) この勝利の結果、薩摩は伊集院忠棟に与えられる事で蹴りがついた。 逐電した知定は伊勢の朝熊山に潜伏して、秀吉の追手に全山を焼かれたが脱出したという (『多聞院日記』)。 その後、関が原において徳川秀忠の軍に仙石秀久を頼り近づくものの 秀久「あーっ、こいつ尾藤じゃん。秀忠様これ疫病神っすよ」(口語訳) の一言で晒し首にされる。
織田信長(1534〜1548) 尾張半国の大名・織田信秀の嫡男。 1548年、斎藤道三の娘・濃姫に暗殺される。 戦国一のうつけと言われた。
267 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/17 11:43:06
こち亀でタイムスリップした両さんが秀吉に天下を取らせようとして 「天下人は誰だい?」 と町の人に聞いたら 「今川義元様だ」 と返された話を見た気がする
>義弘が宮部継潤の棍棒で討ち取られ 不謹慎だが、頭に棍棒が直撃したシーンを想像してワラタ。
269 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/17 17:40:04
>>267 桶狭間で勝たせた後の質問では
「織田信長さまだ」
って・・・
270 :
無名武将@お腹せっぷく :05/03/17 21:26:24
毛利輝元 毛利家は豊臣の天下統一後、大阪に近い外様の大大名であることを恐れられ 長門、周防、以外の所領を 安芸、出雲、石見、伯耆、備後と備中半国から 豊前、豊後、筑前、筑後と日向半国と肥後半国に変えられる。 更に小早川隆景を伊予、吉川元長を石見、出雲で独立大名とする措置を とられた。 一説に秀吉の養子で甥の秀秋を毛利家の養子とする提案を黒田如水がしており 秀吉も乗り気だったというが、毛利の九州転封直後でもあり話は流れたという。 このため朝鮮出兵では最大級の負担を強いられた代わりに 政権下での様々な特典なにより国人領主の連合体だった状況から 近世的な大名としての家中統制に成功している。 秀吉没後は・・・わかんねww
竹中半兵衛(1544-1579) 美濃三人衆の一人・安藤守就の女婿。 父の死後菩提山城主となり、美濃の斎藤龍興に仕える。 が、横暴な龍興を諫める為、稲葉山城をわずか13人で占拠。 その後、織田信長が美濃半国と引き換えに稲葉山城を明け渡すように要求した。 稲葉山を占拠しても倣岸さを直そうとしない龍興に失望した半兵衛はこれを受け美濃半国の領主となった。 半兵衛の軍略を信長は大いに利用し、自分もまた軍略を半兵衛より学んだ。 以降、半兵衛は信長の唯一の腹心となり、数々の戦で功を立てた。 徳川家康の援軍として派遣された三原ヶ原の戦いでは鉄砲三段を編み出し逆転勝利を引き寄せ武田信玄を討ち取った。 これにより、織田家に刃向かった大名はことごとく降伏していった。 1579年に織田信長とともに羽柴秀吉の援軍として進軍。途中本能寺に宿泊した。 だが、そこに突如明智光秀の軍勢が襲い掛かった。 彼は彼自ら建立した武装要塞本能寺にて篭城、地下通路より見事織田信長を退却させた。 だが、信長が脱出する頃には既に本能寺には敵兵が満ち溢れ、半兵衛は遂に討ち取られた。 信長はその後、山崎で明智光秀を打ち破り日本を統一し、 織田信長を頂点とする新たな政治形態を成立させた。 この政治の基本とは半兵衛が生前作っていたといわれる。 なお、彼は「陣中に没する事こそ武士の本懐」と残し本能寺で斃れたという。 遺体は、見つかっていなく戦に飽き南光坊天海となったなど様々な説が残されている。
黒田孝高(1546-1582) 小寺職隆の子、入道後は如水。 1567年(22歳)に父より家督を譲られ姫路城主となり、小寺氏の家老に命じられる 1569年赤松政秀が3千余で姫路へ侵攻してきたが 篭城することなく僅か3百でこれを打ち破り、武名を天下にしらしめた。 織田と毛利の2大勢力に挟まれると小寺氏は織田に付いた。 以降、孝高は羽柴秀吉の与力として活躍した。 荒木村重が謀反したとすると謀反を説得しようと単身乗り込んだ。 が、村重の考えが戻らないとしると友情を裏切ることも出来ず孝高は村重と共に篭城した。 村重、孝高の立て篭もる有岡城が中々落ちないと秀吉は見るとこれを包囲。 兵糧攻めを行うこと3年がたった。 が、もはや落城寸前に織田信長が本能寺で死んだ、と聞く。 有岡城兵は毛利の援軍とともに羽柴秀吉を撃破した。 しかし、この長い篭城生活で歩行困難となりまもなく栄養失調で亡くなった。 荒木村重はこれを聞くと 「私が謀反など起こさなければ彼を殺すことはなかった。」 と、嘆き入道すると孝高の菩提寺を建てたという。
>>271 武装要塞本能寺………?
マ、マサカ決戦Vのアレデツカ!?
>265 尾藤知定 政治30 戦闘35 知謀15 >266 織田信長 政治10 戦闘15 知謀3 >270 毛利輝元 政治95 戦闘80 知謀79 >271 竹中半兵衛 政治90 戦闘64 知謀100 >272 黒田孝高 政治57 戦闘88 知謀40
277 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/03/22(火) 18:55:49
関羽(161?〜230?) 蜀漢初代皇帝劉備の義弟。 劉備入蜀後は荊州の支配を一任される。 隣国呉とは友好国でありながら 隙あらば荊州を乗っ取らんと様々な調略を受け、 関羽自身憤りを感じ、呉王孫権を犬畜生と認識。 しかし、諸葛亮に言い渡された戒め 「北は曹操を防ぎ、東は孫権と和す」を守り、 蜀と呉の関係が冷め始めた頃に持ち出された 関羽の娘と孫権の息子との縁談話を承諾し、蜀・呉の衝突を防ぐ。 改めて蜀と呉が共同で魏に当たることを誓い、 劉備は長安から中原、孫権は徐州から中原を攻略することを約し、 中間の関羽は襄陽・洛陽を突き、 3方からの進軍に魏はじりじりと後退し、 222年、洛陽・許昌など中央の主要都市陥落。 翌年には、北方の拠点業も陥落し、事実上の魏滅亡。 その後数年で蜀・呉が魏の旧領を支配下に収める。 以後、関羽は2国の関係を取り持ち、 蜀政権により魏旧領の治安が落ち着いた頃寿命死。 関羽の死後20年ほどして、呉では関羽の娘が生んだ太子が呉国を相続し、 関羽の血筋の者によって荊州・揚州・徐州・青州・台湾にわたる 広大な地域が支配されることになる。
日吉丸 尾張中村の足軽百姓・木下弥右ヱ門の子。 貧家の生まれであるが壮大な気宇と野心を抱いて成長し、 十五歳の春に「天下を獲る」と息巻いて家を飛び出した。 しかし程なく路銀を切らし、途方に暮れていたところを 通りすがった桃太郎によって召抱えられた。 もちろん俸禄はきびだんごである。 桃太郎に従い、悪鬼を討つべく鬼が島へと乗り込んだ彼は、 彼は同輩の犬・雉とともに力闘。 鬼を駆逐し、財宝と美女を引き連れて凱旋を果たした。 その後、財宝の分け前をめぐって犬や雉と対立して孤立を深め、 さらに意中の美女を桃太郎に奪われたことをきっかけに主家を退転した。 再び放浪生活に戻った彼は、主を転々と変えながら天下を狙い続けたが 天正年間の「さるかに合戦」において壮絶な討ち死にを遂げる……。
豊臣秀吉 1536-1598 安土桃山時代の武将。木下藤吉郎、羽柴秀吉とも。 元は尾張国に棲息する猿だったが、織田信長に取り立てられて以後 にわかに頭角を現し、織田家の重臣として各地を転戦する。 1582年の本能寺の変で主君信長が自害したのち、 柴田勝家ら重臣との後継者争いに勝利し、1590年に天下を統一した。 太閤検地・刀狩り令などの政策で知られ、江戸期の封建制度の基礎を作った。
山本勘助(????〜1577) 名は元幸。三河牛窪の出身。前半生は不明。 当初、駿河の今川義元に仕えようとするがその容貌が嫌われ断られる。 だがその才を見抜いた朝比奈泰能に請われ朝比奈家に召抱えられる。 泰能没後も泰朝を支え、1560年の桶狭間の戦いでは織田信長が討って出てくると読みきり 大将義元を桶狭間に布陣させ囮とする大胆な布陣で、開戦すると泰朝と共に鷲津砦 を出撃し織田勢を挟撃。信長の首級を挙げるという殊勲を挙げる。 この直後の恩賞で義元自ら謝罪したのはその地名に因み「沓掛の礼」と呼ばれ、 現代でも「目上の人間が自らの過ちを認める」という意味で使われている。 1562年には信長の跡を継いでいた信広を討ち、信賢・信清連合を那古野で大破して 織田一族をほぼ完全に一掃。1563年斎藤攻略のため後方の北畠と同盟を締結に赴き 成功させる。翌64年からの2年にわたる兵糧攻めで稲葉山城陥落、斎藤龍興を自害させる。 ここから1572年まで記録からぷっつり彼の足跡は消える。 謹慎説(主君泰朝をないがしろにし過ぎてたよ派)・隠居説(もう疲れちゃったよ派)・ 隠密説(諸国を飛びまわってたよ派)・死亡説(ここからの勘助は別人派)など 諸説あるが真相はいまだわからない。 1573年一軍の将として飛騨攻略に出陣。江馬輝盛を討つが程なくして撤退。 そのまま返す刀で北伊勢に乱入、虚を衝かれた関盛信・神戸具盛を滅ぼす。 74年には長野具藤を暗殺。これに怒り8000の軍勢で攻めこんで来た北畠具教を わずか4000の兵で桑名で撃破。水軍で後方を脅かすと流言を流し、慌てて北畠軍が 後退したとこを伏兵で散々に打ち破ったのである。 76年に木造具政を滅ぼし伊勢統一。志摩の九鬼嘉隆が今川に降伏し、上洛最後の 障壁六角義賢と対決となった直前の翌77年病にて世を去る。
284 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/03/25(金) 00:55:46
北条氏直 15??〜1630 北条家5代当主。妻は徳川家康の娘。 父・氏政に押し切られ秀吉と敵対し、小田原城を落とされる。 その後氏政は切腹となったが氏直は死一等を減じられ、 高野山に蟄居処分となった。 父という重石がとれた氏直はのびのびと才覚を発揮し始める。 まず豊臣政権の有力官僚石田三成に誼を通じ、 その一方で風魔衆を使って旧臣達を煽動し、 家康が入部した関東で一揆を起こさせた。 家康は討伐隊を遣るも、押しては引き引いては押す一揆勢に苦戦、秀吉軍が出動する事態になる。(つづく)
285 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/03/25(金) 01:08:20
この時氏直は三成の依頼を受ける形で書状を出し一揆勢を降伏させた。 戦後家康は統治の不手際をとがめられ、 武蔵一国に減封される。 その弁明に家康は氏直に疑いをかけ 証拠として一揆勢から奪った密書を提出するが、 氏直は落ち着き払って花押の差異を指摘し、これを退けた。 戦功により氏直は旧領の内、相模・伊豆・下総・上総4カ国を 与えられ小田原に復帰した。 小早川隆景死後5大老となり、三成と組んで権勢をふるった。 朝鮮攻めの最中に秀吉が死ぬと、 上方留守居役だった氏直は一揆鎮圧の名目で武蔵に出兵。(続く)
286 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/03/25(金) 01:09:31
事実上の乗っ取りに成功する。 これに大して屋台骨が揺らいでいる豊臣政権は何も出来ず、 三成は北条独立圏を承認する。 この後上野・下野・安房も平呑し、関八州の覇者となった氏直は、 関東関領に就任し、形骸化しつつある豊臣政権とは兄弟同盟を結び、 天下一の巨城の落成を見た直後に大往生した。
287 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/03/25(金) 01:11:15
豊臣政権が曲がりなりにも二百年続いたのは 北条王国という仮想敵国の存在があったからであろう。
趙雲(生年不詳〜200) 字は子龍。常山郡真定県の人。 公孫サンに仕え、界橋の戦いでは文醜と互角に渡り合う。 敗色濃い公孫サンの元で忠義を尽くすが、味方の退却を助けて趙雲軍が危機に陥った とき城門を閉められてしまう。その時は背水の陣ともいうべき活躍で退けたが、 公孫サンの「100の兵を助ける為に1000の兵を危険に晒す訳には行かない」との言に怒り野に下る。 公孫サン滅亡後も郷里に戻っていたが、界橋の戦い以後も何度も槍を交えその力量を 高く評価してた文醜の推挙もあり袁紹に仕え重用される。 白馬・延津で顔良・文醜が討たれると、袁紹配下の将軍として全体をまとめる立場に 抜擢される。しかし烏巣の兵糧庫が焼かれ撤退が確実となると責務を一身に負い 単騎で官渡の曹操の本陣に斬りこむ。 せめて盟友文醜の仇を討とうと奮闘し徐晃・張遼・楽進・夏侯淵を退けるが 関羽の前に討たれその生涯を閉じる。 後世の史家は「子龍これ一身義なり」と伝える
289 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/03/31(木) 14:43:39
范操(162?-220) 字は孟徳。 楚王朝成立の功臣であった相国・范増の子孫を称する。 当時宦官による腐敗政治で斜陽の運命を辿っていた後楚の十四代皇帝・項協を 擁立し、後楚の実権を掌握すると共に勢力圏を広げる。 涼州の項備(前楚の淮南王、項勝の子孫を称する)と燕の鐘離権(鐘離昧の子孫)と 中華の覇者を競い、生涯戦場に赴いていた。 自信は相国と九賜授与・斉公・斉王を位を進め、220年に没する。 その後、嫡子・范丕は楚皇帝・項協から禅譲を受け皇帝に即位し、「斉」を建国する。 その数ヵ月後、涼の項備は楚の皇帝を自称し「涼楚」を建国した。
290 :
無名武将@お腹せっぷく :黄帝生年紀年4716/04/01(金) 18:02:34
服部半蔵 徳川を支えた忍者軍団の長。 人の足だけに拠らず、情報源を多数持っていた。 しかし、「2ちゃんねる」なる掲示板を知り、これを 情報基盤のひとつとしたがために、「ネタをネタと」見破る ことができなかった唯一回の失敗で伊賀の里を全滅の危機に 陥れる。
>>290 ワロタw
いったいどんなネタを真に受けたんだろな
どこの板行っても暦がおかしいな。
保守
295 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/04/07(木) 23:38:10
関羽(?〜231) 字は雲長。蜀漢の功臣。劉備に従い蜀漢建国を支え、荊州より北上。 徐コウ、曹仁、曹操を破り許都を制圧。漢王朝復興を遂げ、成都まで劉協を護衛。後に大将軍となり軍の頂点にたつも任命されてすぐに他界。 あらゆる面で才能を発揮。火薬の発見、海軍の設立、呉討伐などに携わった。 また、自ら設計した船で養子の関平と共に日本へと辿りつき、《倭人紀》を著作。更に漢全土に部下を派遣し現在のものと、大差ない地図を完成させる。 他に官吏を科挙(官僚採用試験)によって登用する制度を丞相の諸葛亮、大師劉備と共に進言するなどして中国の発展に貢献した。 現在の北朝鮮の独裁者、関正日は関羽の子孫と言われている。
小竹(通称) 生没年不明 尾張国愛知郡中村の庄屋。 幼くして父を亡くしたが、一家の大黒柱として母・姉・妹を支える。 可もなく不可もない人物だったが、努力は人一倍だったらしい。 兄が生きておれば百万石の大名になれたかもしれぬ…と言いつつ世を去った。 貧乏な借地百姓から庄屋にまで出世した偉人として今尚、庶民に尊敬される。 薪を背負って本を読む少年の像は彼がモデルだと言われている。 また彼の最後の言葉は「少年よ、大志を抱け」とポルトガル語訳されている。 (日本昔話・偉大な農民より抜粋) 追記 最近の郷土史家の研究により、 彼の兄は暴君織田信長の草履を脇の下で温めて殺されたことが判明した。
判官贔屓のマンセー系の妄想が多い中
>>258 には禿藁w
「若い日の信長についてはさまざまなエピソードがある。 日頃から草履をはかず、裸足で野山を駆け巡ったという奇行は、 まさに野生児の面目躍如といったおもむきである」 ―― 『戦国時代の歴史・天下統一への胎動』 民明書房刊 木下藤吉郎(生没年不詳) 清洲時代の信長に仕えた小者の一人。 ―― 『信長公記全登場人物事典』 民明書房刊
300 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/04/09(土) 23:33:33
斎藤利三(1534〜1600?) 稲葉一鉄に仕える。 一時期、叔父にあたる明智光秀に仕えるが 織田信長の命により再び一鉄に仕える。 この事が幸いし、光秀の信長謀反には巻き込まれず、 変の際には、光秀と共謀して美濃に兵乱を起こした安藤守就を 主君一鉄とともに討伐し、その後一軍を率い、 近江の織田方の援軍として美濃・近江国境に軍を進めた頃、 羽柴軍大返しのため光秀軍の主力が京へ撤退。 明智軍が山崎に敗退し、光秀が首を討たれる頃までに 明智方に奪われた長浜・佐和山を奪回する手柄。 戦後、姻戚で長宗我部とパイプを持っていることもあり秀吉に優遇される。 稲葉家より自立という形で坂本20万石を領有。 羽柴・長宗我部の紛争の際には 四国討伐の軍令が出される直前に長宗我部家に 阿波・土佐2国領有案を呑ませ争いを防ぐ。 豊臣の時代が去ると娘ふくを徳川家に送り込む処世術にも長ける。 政治68 戦闘77 智謀63
曹操(字・孟徳)155-220 治世の能臣、乱世の姦雄。 霊帝・献帝の下、太平の時代を文官として過失なく勤め上げる。
関羽
字は雲長(雲張、運超との説も)
初め蜀の劉備に仕え、劉備、張飛と義兄弟の契りを交わす。
しかし曹操に攻められ、劉備を裏切り曹操に仕える。
その後、曹操の命令で劉備に再度仕えようとするも張飛にスパイだと見破られ、張飛に斬られる。
関羽の能力値
統率81
智謀61
政治21
魅力80
教養30
プレイスタリオン2ゲーム三国志Zより(2006栄光)
三国志Zの武将の能力値を語れ
32 無名武将@お腹せっぷく 2006/12/09 23:23:23
>>28 たしかにww関羽なんて統率25智謀18政治8魅力1教養10ぐらいでいいよな
長尾景虎 1530-1578 国人衆の争いに疲れた頃、キリスト教に出会い入信。洗礼名ヨハネ。 「東方のエルサレム」を建設するために、十字架を先頭に押し立て、 西洋甲冑に身を包み、勇猛果敢に戦場を突撃するさまは、 武田・北条ら諸氏をおそれさせた。 ルイス・フロイスは「プレスター・ジョンの再来」とベタ褒めしている。 なお、私生活は修道士のようであり、生涯妻帯しなかったという。
304 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/04/12(火) 20:20:23
今川義元 1519-1574 東海一の弓取りと呼ばれた。 1560年に上洛を開始。尾張の織田信長、伊勢の北畠らを駆逐し京の三好らを追い払った。 上洛後は足利義輝より副将軍の職を受領した。 その後、別の将軍をたてた三好勢と戦い続け1566年、野田・福島の戦いでこれを打ち滅ぼした。 そして近畿を固めた義元は関東管領上杉謙信の要請を受けて武田・北条攻めを開始。 三国同盟の破棄により武田・北条同盟が組まれたが 近畿勢7万を始め上杉、佐竹、里見、村上ら諸将以下14万の兵により武田を討ち返す刀で小田原を包囲、これを落とした。 武田・北条という大大名がいともたやすく敗れたことをしると毛利、伊達、島津などが次々と服従。 これにより応仁の乱以降続いた足利幕府の騒乱は終わった。 1574年義元が死去すると副将軍は氏真が継ぐが政敵である伊達政宗、細川一族の策謀により失脚。 放浪の蹴鞠士として生涯を過ごした。
>1574年義元が死去すると副将軍は氏真が継ぐが政敵である伊達政宗、細川一族の策謀により失脚。 >放浪の蹴鞠士として生涯を過ごした。 氏真の運命は変わらないのかw
島津義久に男子があった場合キボンヌ
307 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/04/12(火) 21:41:33
>>304 14年でそこまで進むか・・・。
俺的に義元は1560年代後半に
太りすぎによる成人病であぼーん。
なんで義元が太ってると分かるの? 確かな文献とかに記されたりしてんの?
関彝(カンイ) 関羽の孫。 魏軍が成都に進入した際、龐徳の息子龐会に命を狙われるが、逆に青龍円月刀で斬り殺す。 彼が逃亡生活を送る中で魏は滅び、晋の代になりその罪を許された。その後は晋に仕える。
毛利元就 1497?〜1535 安芸の国人・毛利弘元の二男。安芸猿懸城主。 兄・興元の死後、幼少の幸松丸(のちの毛利幸元)に代わって政務を見た。 しかし、幸元が成長すると対立し、ついに討たれた。
今川氏真(1538-1615?) 風流の蹴鞠士を装った必殺の仕事人 1560年に父、義元が桶狭間で死亡すると突如姿を消し、諸国を放浪した。 だが、この放浪には常人には思いもよらぬことが起きていた。 織田による天下を乱そうとする悪人、武田信玄を三原ヶ原にて単騎忍び込み、蹴鞠を使い、暗殺。 その後、非道なジェノサイダーと化した織田信長を止めるべく単身、蹴鞠の公演と名乗り乗り込む。 蹴鞠に見入る信長の隙を取ると放浪中に編み出した『今川流蹴鞠式剣術』にてこれを暗殺した。 彼の悪を裁く旅は終わらない。 信長の死後、羽柴秀吉が天下を取り朝鮮出兵という悪事を行うことを知るや否や 親友、石川五右衛門、前田慶次らと共に世界一の居城大阪城へと乗り込んだ。 すでに名の知られていた氏真を数多の猛者が防ぐが(島左近・真田幸村・加藤清正・福島正則etc) 仲間が一人、また一人倒れていく中、これらの難関を打ちのけついに秀吉の本丸まで乗り込む。 ここまでの戦いで満身創痍、そして老齢の為、秀吉にやられるかと思われたが 蹴鞠に鋼鉄線を通しそれを蹴り、相手の首に鋼鐵線を掛け柱を通った蹴鞠に首を掛けて吊るすという 現在において仕事人と呼ばれる技を閃き、逆転勝利するのであった。 しかし、第六天魔王信長の血肉を持ち蘇ったデビル秀吉が復活し、野望を膨らませたが 妻、蔵春院早川殿と蹴鞠ラブラブ天驚拳により消滅させ、天下を平和にした。
313 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/04/17(日) 01:55:04
一通り読んだけど
>>258 のアブドゥルラフマンがイカス
>>277 関羽
政治92 戦闘 95 知謀88
>>281 豊臣秀吉
政治100 戦頭92 知謀95
>>282 山本勘助
政治75 戦闘92 知謀 98
>>284 北条氏直
政治97 戦闘89 知謀95
>>288 趙雲
政治55 戦闘91 知謀40
>>289 范操
政治94 戦闘88 知謀93
>>290 服部半蔵
政治30 戦闘81 知謀32
>>291 関羽
政治100 戦闘 89 知謀 85
>>303 長尾景虎
政治65 戦闘100 知謀75
>>304 今川義元
政治93 戦闘85 知謀 89
>>310 関彝
政治21 戦闘79 知謀 56
>>311 毛利元就
政治41 戦闘21 知謀 31
>>312 今川氏真
政治? 戦闘25000 知謀?
316 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/04/17(日) 10:32:53
今川氏真(1538-?) 1560年に父、義元が桶狭間で死亡すると突如姿を消した。 1585年に突如隠岐島に現れ、日本にサッカーを伝える。 その時に、山斗州(サントス)・露兵素(ロペス)・真羅道那(マラドーナ)・緋礼(ペレ) 申芭塔須(サルバトゥース)・仏府晴斗(ブッフバルト)・織芭亜(オリバー)という南蛮人を引き連れていた 最近の調査によると、 氏真は中国〜シルクロードを経由し、ヨーロッパに渡りサッカーを会得したという驚きの調査結果が報告されている しかもイタリアの古代サッカーに関する文献に「IMAGAWA-KEMARISHOOT」なる文字もある事が発見された (つづく)
317 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/04/17(日) 10:49:52
さらに驚くことに、中南米の古代サッカー遺跡より日本の蹴鞠が発見されたことが色々な憶測と物議をかもし出している 「中南米にサッカーを伝えたのは今川氏真では?」との学説も浮かび上がった モンゴルに古くから伝わる遊戯に「ケマリ」という物があることも確認されている 驚くことに、日本の蹴鞠と古代サッカーを融合したような物であるらしい さらに驚くことに同じような蹴鞠がモンゴルの草原地帯から発掘されている この事から 今川氏真は、中国よりシルクロードを経て、イタリアへ渡ってサッカーを会得 その後、中南米へ渡りサッカーを伝来させる 後にモンゴル〜日本へ返り、サッカーを伝来させたと推測される (「サッカー伝来」著 今川カズ)より
真田幸村 (1567〜1615?) 戦国大名真田昌幸の次男。本名は信繁。 関ヶ原の合戦の際、父と共に徳川秀忠軍を釘付けにするも、西軍が敗れた為に九度山に流される。 1614年、大阪城の豊臣秀頼の要請を受け入城。 大阪冬の陣では大阪城弱点とされる南側に出丸を築き、徳川軍に大損害を与えた。 夏の陣では敵本陣を目指して突撃し、一時は家康を脅かすほど奮戦したが適わず討ち取られたというのが通説だった。 しかし2005年2月13日、鹿児島県の農家が山中に潜んでいる幸村さんを偶然発見した。 警察の調べによると、徳川家の打倒を目指して山中に潜伏していて、徳川幕府の崩壊にも気づかなかったという。 2005年2月18日、彼は故郷の上田に415年ぶりに帰郷した。
ワロスww
ワラタ
321 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/04/20(水) 23:03:03
渡辺徹 ?〜1568 毛利家家臣。渡辺勝の子で通の弟。寅賀丸、二郎右衛門、常陸介。 足掛け5年にわたる安芸七曲城の攻防で数々の武功を立てた。 1568年、毛利元就暗殺を狙う尼子氏の狙撃手から主君を守って死んだ。 夫人は榊原氏。
朝倉景健 1537〜1581 安居城主朝倉景隆の子。朝倉分家筋に生まれる。 姉川(三田村)合戦で総大将を勤めるも退却 志賀の陣にて再度大将。主君義景の命に背き、織田との徹底交戦を主張、 長島一揆の尾張侵入でついに信長が退却を始めると浅井勢、叡山門徒らとともに追撃。 堅田で信長を討ち取る。余勢を借りた景健は醒井、大垣と転戦し、 信長主力をほぼ壊滅させる。大垣郡司として真柄直隆・三段崎らを置くとただちに上洛 内裏・御所警固にあたり、浅井長政とともに義景の上洛を待つ。 この時長政と親交を深める。 義景3万を率いて上洛、義景は従四位参議続いて管領代に就任。 景健は中務大輔を拝領、朝倉景恒に代わり敦賀郡司に。 景健、義景主力を率いて畿内転戦。南近江の六角氏を討つため上洛すると、 景鏡による景健讒言を察知。義景の逗留する二条御所を不意に攻め将軍義昭を保護、 義景とともに上洛していたライバルの大野郡司朝倉景鏡を討ち取る。 義景は浅井を頼るが逆に今津にて討ち取られてしまう。 景健管領に就任。池田景久を若狭、前波吉継を敦賀、斎藤吉唯を佐和山に配し、 岐阜を攻略。織田家を滅亡させると武田と和し、徳川を攻める。 足利義昭・浅井長政挙兵、これを討ち堺から将軍義栄の息、足利義助を迎える。 義助、義健と改名(烏帽子親は景健)させ16代将軍とする。 この頃から日下部姓を止め、清和源氏足利義嗣裔鞍谷流を自称し、源景健と署名しだす。 やがて義健を追い将軍空位とすると、みずからも管領を辞して事実上幕府滅亡 居城を小谷、ついで観音寺城に構えると、ついに将軍位を拝命。翌年病没
>>323 浅井はいつの間に小谷から追い出されたんだ?
325 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/05/02(月) 21:52:40
劉備(160〜184) 関羽(161〜184) 張飛(166〜184) 黄巾の乱に立ち向かう雑軍の主従。 劉備を長兄とした義兄弟の契りを結び 代県太守劉為の「黄巾追討」の激に応じ義勇軍を結成。 劉為軍武の要、趨靖将軍とともに 程遠志・登巳茂率いる黄巾部隊に攻撃をかけるも 関羽は登巳茂に討たれ、 張飛は程遠志に討たれ、 劉備は敗走中に人知れず討たれる。 さらに趨靖も討たせ、代県は黄巾の手に落ちた。
仙石秀久(1552〜1597) 通称権兵衛 豪傑にして将としての才も高く信長、秀吉、に高く評価された 四国平定の功で讃岐高松10万石を与えられる。 戸次川の戦の折は四国勢の軍艦として長宗我部元親ら慎重派 を抑え渡河に出るとこれが功を制し島津軍を撤退させた。 これにより飛び地として信濃小諸に5万石に旧領だった淡路洲本5万石を加え あわせ20万石の大名となる。 しかしに慶長の役直前名護屋にて急死 これを伏見で聞いた秀吉はひどく落胆したという 政48 戦76 知70
那須与一宗隆(?〜1189) 那須太郎資高の子。平安〜鎌倉時代の武士。下野国(栃木県)那須出身。 源平の合戦に源氏方として、源平最後の合戦、屋島の戦に参戦。 この時与一、弱冠20歳。小柄な体格であったという。 飛ぶ鳥三羽のうち二羽を必ず落とすという弓の名手。 元暦2年(1185)2月18日、与一の遥か先には平家の小舟、 竿の先につけられた日の丸を描いた扇が立っていた。 ぶれる鏑矢を嫌い、矢尻のついた矢を取る与一。 源平勝負の晴の場所、武運はこの矢に定まると、 那須乃与一は一心不乱、ねらい定めてひょうと射る。 しかし、与一の矢はあれよあれよと扇を逸れ、空に消えた。 「これを射損じる位ならば、弓切り折り自害。」 との覚悟であった与一、滋籐の弓を折り捨て、 喉を突かんと短刀を抜いたが、小船の向こう、 沖より絹を裂くような女官達の悲鳴を耳にして手を止めた。 なんと、与一の矢は扇ではなく、 清盛の子、安徳天皇の眉間を貫き通していたのだ。 この珍事によって平家は総崩れとなり、屋島の泡と消えたのである。 これにより、源平最後の戦にて、図らずも大金星をあげた与一は、 源頼朝より那須氏の総領の地位と十五カ国内の荘園を与えられた。 文治5年(1189)8月8日、京都の即成院にて病の床にあった与一、 その手を取ろうとした一族の者の手を振り払い、 「利き腕を人にあずけるほど、俺は自信家じゃない…。」 と、一言つぶやいた後、息を引き取ったという。
329 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/05/05(木) 20:40:40
関羽(161〜230?) 政治70 戦闘95 采配80 知力85 魅力30 劉備・張飛とともに義兄弟の契りを結び、 劉備の下で活躍するが 200年、曹操による徐州侵攻に降る。 「寿亭候」「偏将軍」の称号を受けるなど厚遇される。 曹操と遠紹の争い「白馬の戦い」では 遠紹方の顔良・文醜を討つが 文醜と相対した際、 旧主劉備が第2陣の大将としてやって来てることを 知らせようとした文醜を「問答無用!」と斬り殺した。 これは曹操配下として鞍替えした関羽の 武力ではなく陰湿な悪謀による勝利である。 その後、劉備の陣を強襲し敗走せしめ、 怒った遠紹により劉備は討たれる。 汝南に潜伏してた張飛に対しては城外に誘い出し、 合力として駆けつけた祭陽とともに討ち取る。 さらに手もとに質として置いていた劉備の妻を自身の妻に。 曹操配下徐州の太守、呉との争いでは荊州方面の総大将とされ優遇。 功績から死後、関帝廟なるものをあちこちに建て祀られるが いつの頃からか、功績については忘れ去られ、 裏切り者・不義者を晒すための廟と化す。
330 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/05/05(木) 21:30:09
331 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/05/06(金) 01:21:04
毛利隆元(1515〜1540) 毛利興元の嫡男。幸松丸。 1516年、父興元の早逝により家督を継ぐ。幼少のため叔父元就の後見を受けた。 9歳の時、大病により危篤に陥るが奇跡的に回復した。 1531年、大内義隆の加冠のもと元服し、一字を与えられ隆元を名乗り義隆の養女(内藤興盛女)を娶った。 以後毛利家は一貫して大内方の国人として安芸国内に勢力をするが、家中は決して平穏ではなかった。 隆元が成人したにもかかわらず、元就が実権を手放さないために次第に隆元と元就の対立が深刻になっていったのである。 この背景には元就が尼子方の吉川家から正室を迎えていたことに起因する両者の外交方針の相違もあったのだろう。 やがて両者の対立は激化し1539年、隆元が吉田郡山城にて元就を謀殺するに至る。 翌1540年、尼子晴久の後援を受けた元就の長男久就の攻撃を受け吉田郡山城は落城、隆元は自害した。
332 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/05/06(金) 09:38:37
そんな展開は両川が許さない訳だが・・・
331じゃないけど
>>332 毛利三兄弟の仲悪いの知らんの?
元春も隆景も毛利宗家より養子に出された家を興隆させようとして、なんども元就にたしなめられる手紙を送られている。
これが有名な「三本の矢」のエピソードの背景につながるんだね。
334 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/05/06(金) 14:19:26
>>333 それには同意するとして、元就は兄と仲良かったけれども、久就って誰で? 系図見てるんだが 元綱か就勝を擁立?
>>334 >>331 の隆元は歴史上実在した隆元じゃなくて
毛利幸徳丸が無事生き延びた場合の推測なんだと思われ
だから
>>331 に出てくる「久就」と言うのが歴史上実在した隆元のIFバージョンになる。
おそらく「久就」は尼子晴久から名前をもらった+父・元就の名前の合成と推測。
ちなみに毛利家の通字は「元」で
長男は○元
次男以下は元○と命名されるのが慣例。
てか「三本の矢」の話って後世の創作じゃないの?
モンゴルかどっかの ” 5本(?)の矢 ”という話から来てる って聞いたような気がする?
338 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/05/06(金) 16:30:58
>>335 幸徳丸というのは、 興元の子の事ですか?何か荒らしてるみたいでこれ以上書きませんが
339 :
335 :2005/05/06(金) 17:35:43
340 :
331 :2005/05/06(金) 21:22:41
本当の隆元と大内義隆はウホッな関係だったのだから そのあたりをからめたIF話に仕立てるとよかったかも
342 :
323 :2005/05/06(金) 21:52:36
>>324 >足利義昭・浅井長政挙兵、これを討ち
ここですここです。
>>331 逆に元就が幸若丸を謀殺する展開になるんじゃないかと思えてならないんだが
344 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/05/07(土) 16:07:03
【劉備】161〜223 前漢第六代皇帝景帝の子・中山靖王劉勝の末裔と称す。 黄巾の乱が発生すると、義兄弟の関羽、張飛と共に義勇軍を結成し、 名をあげる。その後、公孫瓚・陶謙・呂布・曹操・袁紹に従っては、 なんらかの理由で離れて行った。だが、劉表に身を寄せた時に転機が 訪れる。三顧の礼で孔明を軍師に迎え入れ、天下2分の計を説かれた。 劉表の死直前に蔡瑁を初めとする反劉g派の人物を一掃し、劉表死後、 形だけの君主として劉jを荊州の王とし、南下した曹操に降伏させた。 その後自らは夏口に逃走し、呉と結んだ。呉の周瑜らが曹操とにらめっこ している間に荊州に関羽、劉gらを送り宛、襄陽を落とさせた。 それと同時に周瑜が赤壁で曹操を破り、劉備は張飛、趙雲らと 逃亡する曹操軍を追撃した。その際曹仁を荊州で討ち取った。 その後、荊州を奪おうとした周瑜を撃退し、龐統を陣営に 加えた。
345 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/05/07(土) 16:21:17
なにがいいたい・・・・
下手糞な奴が書くとこうなるって例だな
ひょっとしたら続きがあるのかもしれん もうちょい待ってみよう
その後、合肥を攻める合肥に援軍を送るなど、呉との友好関係を 保ちつつ、荊州を平定した。その途中で黄忠、魏延を軍に加える。 213年に周瑜が病で倒れると時来たりと龐統、黄忠、魏延 を伴って益州を攻める。途中で龐統が戦死し、荊州を守る孔明らが 援軍に行くとの手紙を送るが、劉備はそれを断り、独力で劉璋、 馬超を撃破し、蜀を手中に収めた。その際馬超を臣に加えている。 その後孫権と合肥、漢中を同時攻撃した。曹操は合肥を張遼、漢中を夏侯淵 に守らせ、自らは都に残った。だが、劉備は夏侯淵を定軍山で破ると これに逆上した曹操は、都を夏侯惇に守らせ、漢中に大軍を率いて 侵攻してきた。これを孔明の策により撃退する。又、曹操が魏延に 討たれると、漢中王を名乗り、荊州の関羽、張飛に洛陽を攻めさせ、 自らは馬超、趙雲に先手を命じて長安を攻めた。行軍中 子午谷で徐晃、張郃を破り、潼関で曹休、曹真を撃破する。 そして長安を制圧すると、呉を恐れて荊州に関羽、黄忠を送り、 洛陽を包囲した。呉も急ぎ合肥を攻撃するが、逆に張遼によって 程普を失い、撤退をする事となる。劉備は計を用いて遂に洛陽を 落とし魏を滅亡させるが、呂蒙によって関羽が処刑されると、 他方面からの準備が整わぬ内に張飛を先鋒に呉を攻撃し、 呂蒙を討つが陸遜の計により張飛を失い、大敗を喫した。 劉備は病にかかった為、成都に残して孔明指揮の下、再度呉 制圧戦が行われ、半年に渡る戦いの中、遂に呉を滅ぼした。 だが成都にその報が届いたのは劉備の死去翌日であった・・・・・・ 天を変えた英雄はその志が成る直前で倒れた。
反三国志が2000年前に通過した場所だッッ
350 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/05/17(火) 20:53:48
武田黄梅院 采配80 魅力95 武田晴信の娘。 三国同盟の締結により北条氏政と婚約。 1554年12月、1万人の供をつけられて小田原に赴く。 子煩悩な晴信が娘の輿入れに1万人の供をつける・・・ しかし、これは信玄の謀略であった。 1万の供は小田原に着くと突如、 隠していた武器を手に小田原城に乱入し、 氏康はじめ婚儀のために来合わせていた 重臣たちを討ち取り、氏政を生け捕り小田原は武田の手に。 小田原乗っ取り成功の報を聞いた晴信は即座に兵を出し相武2国を手中に。 北条旧臣の押さえの人質であることも兼ねて 予定通り黄梅院と氏政の婚儀を実行。 しかし、小田原城主は黄梅院、氏政との間に 2人早世、4人の武田の血筋の子を残し、 それぞれを関東の要地に配置し、 武田の関東での地位を揺るぎ無いものに。
大将軍 何進 漢の悪政を正し、反乱分子を抑え込み、数年間の平和の国の基を作った大将軍。 劉備 琢県にて三人の息子に恵まれる村一番の親孝行者。晩年は村内会会長となる。 関羽 村一番の力持ちな髭先生。子供に大人気だった。 張飛 酔っ払って憲兵を殺した有名な悪党。 諸葛亮 近所で有名な物知り先生。
352 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/05/18(水) 19:09:40
>>176 ワライがとまらんwwwwwwwwwwwwwwwww
353 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/05/18(水) 19:31:15
>>318 三戦板でこんな笑えるレスが見れるとはおもわなんだwww
【曹植】 漢の丞相魏王曹操によって、曹植は曹家の後継者に定められた。曹家の影響力を保ち、安泰を計るため 禅譲を起こすことが不可欠であると薦める者も多数いたが、それを拒否。魏王国を返上し、自身は 司空に就き、陳グン、華キンと共に三公となった。 しかし、諸派閥のバランサーとしての役割を果たしていた夏侯惇の死後、諸侯に封じられていた曹丕は、 魏王国消滅により官職を失ったものの不満を糾合し、鐘ヨウと結び、司馬懿を謀臣として、司隷を中心に 兵を挙げる。曹植はこれに対し、各地の将軍に不動を命じ、楊脩、荀ツを謀臣とし、曹彰、丁儀らを将軍と して自ら短期間でこれを鎮圧するも、この騒乱の中で曹丕の妻、甄氏も殺害されてしまう。 この後、甄氏の枕を抱えて泣く姿をその他の朝臣の目の前で晒し続けた曹植は官を辞し、司空の後任には 楊彪が就く。曹家の当主としての曹植の漢貴族社会における影響力は行使されることなく、曹家はその後 数々の名臣を生み出すものの、曹操の頃の威勢を振るうことはなかった。 その後、漢は二賊を討伐し再びその栄光を取り戻した。 曹植 統率74 智謀82 政治75 魅力69 教養99
warrota
358 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/06/01(水) 12:04:55
>>318 当時のあんたには神が降りていたみたいね
359 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/06/01(水) 12:05:47
ο丁児の名前の由来・・・丁はチンコが勃起している状態で、左に付いている οは、玉袋がぶら下がっている状態を意味している。 すなわちο丁児はチンコ・金玉(アホさ)を露出している稚児の意味で、 可児才蔵とは全く関わりが無いので、聞き分ける為にアホ坊(通称)と呼ぶ。
360 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/06/01(水) 12:14:33
内容:
>>957 ギガワロタwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>957 に鬼のようなプレッシャーがかけられますた
362 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/06/01(水) 20:36:48
直江兼続(1562〜1619) 政治109 戦闘107 智謀104 采配110 野望100 父:武田信玄 母:上杉謙信 養父:樋口兼豊 女性ながら病弱な兄に代わり家中を取り仕切り 生涯不犯を誓った謙信だが 第4次川中島の合戦にて単騎武田本陣に突入した際、 信玄と組み合いになり、男女の腕力の差から犯される。 短刀で信玄の腕を傷つけて束縛から逃れる謙信だが 犯されたことにより気が動転し、 全軍の采配を放置して善光寺に走り、結果、戦の形成は逆転。 この時信玄は「これで20年後、越後は武田の子のもの」と呟いた。 その後、生まれた男児は謙信の姉泉桃院とその夫長尾政景に預けられ 名家樋口家の養子という肩書きを与えられる。 その件について知る者は謙信・政景・謀臣宇佐美のみ。 宇佐美曰く「殿と信玄の子なら双方の優れた点を兼ね備えた名将となろう。 世継ぎではなく家宰として育てるべし。」 その後、兼続を反乱の材料に起とうとした政景は宇佐美に消されるも 兼続は景勝の小姓として育ち、「直江兼続」を名乗る。 謙信・信玄譲りの将器が生かされるのは慶長5年、 家康による上杉征伐の際である。 革籠原にて結城秀康軍、小山にて渡河前の家康を討ち、 奥羽を平らげた後、上京して 豊臣秀頼以下側近達に対し 家康に許した上杉征伐について詰問して政権から引きずり下ろし、 その上で「上杉幕府」を開設し、大老として引き続き家政を取り仕切る。
363 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/06/01(水) 20:51:20
朝倉義景 越前守護孝景の子。初め延景を名乗る。 天文二十一年(1552)家督を相続し、一向一揆を鎮圧して越前、加賀一向一揆を抑えて 加賀半国を制圧した。永禄九年(1566)、足利義昭を越前国一乗谷に迎え、幕府恢復を 要請されるが腰をあげず、義景の許を去った義昭は同十一年(1568)織田信長に擁立さ れて入洛した。義景は上洛を命ぜられるも拒否し、浅井長政と結んで信長に対抗。元 亀元年(1570)、長政のもとに援軍を送るが、姉川の戦で信長軍の徳川家康に敗れた。 のち信長軍に一乗谷を侵攻され、自刃に追いやられた。享年四十一。 その死後、義景の頭蓋骨は信長によって朱色に塗られ、酒盃にされたと伝えられる。 -------------- 朝倉義景 越前守護孝景の子。初め延景を名乗る。 元亀元年(1570)、姉川の戦で信長軍の徳川家康に敗れた。のち信長軍に一乗谷を侵攻され、一族の朝倉景鏡(かげあきら)の謀叛により自刃に追いやられた。享年四十一。 その死後、義景の頭蓋骨は信長によって青色に塗られ、酒盃にされたと伝えられる。 -------------- 朝倉義景 越前守護孝景の子。初め延景を名乗る。 (中略)信長軍に一乗谷を侵攻され、自刃に追いやられた。享年四十一。 その死後、義景の頭蓋骨は信長によって七色に塗られ、酒盃されたと伝えられる。 -------------- 朝倉義景 (ほとんど略) その死後、義景の頭蓋骨は信長によってどどめ色に塗られ、酒盃されたと伝えられる。
364 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/06/13(月) 20:05:37
真田信繁(1567〜1650) 真田昌幸の次男。 関が原の戦いの際、父と共に上田城に篭り徳川本隊を遅参させた。 西軍が敗れたために配流の身となるが、豊臣秀頼の誘いを受け大坂城に入る。 大坂冬の陣では大坂城の弱点とされる南に出丸を築き、徳川軍に大損害を与えた。 しかし冬の陣後、徳川家に勧誘されるとあっさりと徳川方に寝返り、以後は十万石の大名として生きることとなる。 嫡男幸昌に家督を譲った後も配流中に考案した真田紐を藩の専売にするなどの政策を行った。 1650年、江戸に出かけた帰りに遊郭で豪遊。 数十人の花魁に囲まれ、「関東に男は一人もいない」の言葉を残し腹上死した。
80歳過ぎて腹上死かw
367 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/06/15(水) 02:30:28
山本五十六 1941年12月真珠湾奇襲を成功に収め、翌年のミッドウェー海戦で米海軍機動部隊を撃滅 この戦いは彼が指を失うほどの大怪我を負った日露戦争の日本海海戦と並ぶ帝国海軍の2大海戦と呼ばれる 翌43年にはハワイ上陸作戦を実行、見事ハワイを占領する。 44年には米国西海岸に上陸、周辺都市を占領する。 同年ヨーロッパを圧倒的軍事力と電撃戦で制圧したドイツ軍の艦隊が大西洋に派遣され、45年8月15日、西海岸からの日本軍と大西洋からのドイツ軍の猛攻の前に米国はベルリン宣言を受諾して降伏する。
脇坂安治(1554-1626) 織田信長・豊臣秀吉の家臣。賤ヶ岳の七本槍の一人として名を残す。 関が原の合戦で東軍に寝返り、1609年伊予大洲藩主の領主となった。 安治がまだ若く、信長に仕えて丹波攻略に従事したときのエピソードとして、 次のようなエピソードがある。 「丹波の赤鬼」と呼ばれる猛将・赤井直正に降伏を勧めるため、 安治は単身直正の黒井城に乗り込んだ。赤井直正は安治の堂々たる態度を称え、 パンダの毛皮でつくられた家宝の槍鞘を贈ったという。 江戸時代、「パンダの皮」と言えば脇坂家の代名詞となった。