>>937 それがどうした?wスッキリしたか?
だから消えろって。低能。
【福島正則】 1561〜1624
豊臣家家臣にして秀吉の数少ない親類の一人。幼名は市松。
幼少の頃から秀吉夫妻に可愛がられなんの不自由もなく育っていく。
彼の一番の見せ所が賤ケ岳の戦いであり、その戦功により賤ケ岳七本槍の筆頭に数えられる。
実際には賤ケ岳での活躍は微々たるもので秀吉の親戚というだけのお飾り武者だったのは言うまでも無い。
彼だけが5000石拝領し、これにより他の六本槍らからはおべっか正則とあだ名を付けられたという。
秀吉没後は石田三成と対立し、先見のなさから徳川家康の操り人形として東軍の先鋒に加担する。
関が原後に安芸広島に大封されると、家康の意図も読めずおおはしゃぎして喜んだと伝えられる。
その後徳川家康の傍若無人さに対し、加藤清正に「内府って調子にのってねぇ?」と漏らす。
清正から「じゃ戦すればいいじゃん」と言われ、正成は「そりゃ無理」と返したという。彼のへたれぶりを表すエピソードである。
大阪の陣が起こると、「日本号がないと戦できない!」と言い放ち、江戸で軟禁されたという。
桃白白がここまで追ってきたらどうしよ・・・(T_T )ブア
とりあえず今からネタかんがえます。
941 :
桃白白:2005/07/29(金) 14:36:36
942 :
桃白白:2005/07/29(金) 14:37:10
943 :
桃白白:2005/07/29(金) 14:49:29
>>940 シカトしてんじゃねーよ
いい加減にしないとシバクぞゴラァ
944 :
桃白白:2005/07/29(金) 14:55:35
曹操伝中断してみたら雑魚が騙りとかやってるしちょうウザイ
945 :
桃白白:2005/07/29(金) 14:58:00
片倉景綱
米沢の神職・片倉景長の子。通称小十郎。
伊達政宗の側近となる。政宗が目を病み「誰か突き潰せ」と言うが
家臣達は皆、政宗を心配し誰もが言い出せずにいた。他の家臣達が心配し
黙っていることを良い事に「では某が」と言い放ち、躊躇なく短刀で突き潰す。
武門の出自でない景綱を召抱えてくれた君主の嫡子の目を躊躇なく
突き潰すところに性格が良くあらわれている。
小田原攻めにおくれた君主を救うためとは言え
「政宗を斬れば京が火につつまれる」など誤報を垂れ流し
反省の態度がまったく見られない格好を君主に強要させる。
さらには太閤様直々の取立てを断るなど、人情もへったくれも無い。
余談だが…戦場に笛を携帯し、息子が刀を抜くと「そうそう抜くものではない!」
と、戒めるなど武士にあらましき行動をする。
947 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/29(金) 18:47:52
>>946 >「政宗を斬れば京が火につつまれる」など誤報を垂れ流し
これは秀次事件の際のエピソード。とりあえず史実は正確にな。
【呂布】 ?〜198
字は奉先。物欲魔人で群雄割拠時のペテン師。
初めは丁原に仕えるが、心根の卑しさを度々叱責された事を怨み、
董卓に誘われたのを良い事に、赤兎馬と丁原の首をアッサリとすげ替える。
董卓の権勢が強くなると、袁紹を筆頭に反董卓連合が結成され、華雄が殺された後に連合軍と虎牢関で対峙。
一騎打ちの際に敵武将を得意の話術で惑わし、その隙に討ち取るなどの活躍を見せる。
呂布を豪勇と見誤った劉備・関羽・張飛の3人に囲まれ劣勢になり、
ここでは八百長を持ちかけて脱出に成功するが、状況を知らない袁紹らに軍を押し込まれ、虎牢関を撤退。
この為、董卓は長安に遷都する。
遷都先の長安では董卓の愛妾に横恋慕し、それを手に入れる為に「天子が禅譲する」と董卓を騙して
警護が居なくなった所で殺害に成功するが、これに怒った董卓の元部下達に長安を追い出される。
袁術・袁紹・張楊と、群雄の下に赴くもいずれも拒否される。
しかし陳留太守の張バクを上手く言い包め、曹操が留守にしていた撲陽を占拠。
だがすぐに曹操の手によって奪い返され、劉備を頼って徐州へ逃げる。
徐州では劉備を言い包めて小沛に住み着く。そして、劉備が袁術討伐に出ている隙に、
張飛に酒を飲ませて大いに酔わせ、曹豹の手引きで徐州を奪い取る。
投降して来た劉備には小沛城をあてがい、自身は徐州へ居座る。
劉備に対して怒った袁術が小沛へ討伐に来た際には、袁術軍大将の紀霊を騙して無理やり講和させる。
曹操が討伐に来た際には、敵対していた袁術と手を結ぼうと画策し、
自分の娘と袁術の子を結婚させるという名目で、袁術を曹操に当てようとするが失敗。
最後は曹操の水攻めにあい、小ズルく立ち回ろうとする主君に愛想を付かした部下に捕らえられ、
曹操の前に引き据えられた。
最後の賭けで曹操に「自分と手を組めば天下を取れる」と取引を持ちかけるが、
自分を上回るペテン師だと感じた劉備の忠告によって呂布は縊り殺される。
この時、弟子の陳宮とパシリの高順も主君に殉じた。
ぬお!秀次漏れも考えてたのに書かれててびびたw
重複OKなんだし、書いてみたら?
内容まで酷似していたってなら話は別だけど・・・
いや実際こう見せるために司馬昭は動いてたんだし。
管理人がサイト更新したよ、乙。
ぽまいらも遊びに行けよ
管理人サイト更新乙
改めて見ると、取り上げられた武将って意外と少ないんだな
次スレ作るか?
どうだろ
たまーにレスのつきがいいことがあるし
【【トウ頓】?〜207
遼西の烏丸族の首領で義侠の士。弓馬術共に優れ、智謀にも長けていた。
199年、河北統一を企む袁紹から対公孫讃共同作戦の申し入れが来る。
度々公孫讃に国境を脅かされていたトウ頓はこの申し出を受け、平野部では烏丸族が、城攻めは袁紹軍が受け持つ。
だが易京は有名な堅城で、容易には攻め落とせない為、トウ頓は地下道を掘って奇襲する事を進言する。
これは以前から計画していたが、狩猟民族である烏丸族では時間がかかりすぎてしまう。
それゆえ土堀りに巧みな農耕民族である漢民族に実行させたのである。
これが功を奏し、公孫讃を滅亡させる事に成功する。
袁紹は大いに喜び、トウ頓に烏丸の王を意味する「単于」を称させた。
またトウ頓も袁紹に恩義を感じ、民族を代表して袁紹統治の間は中原に踏み入らない事を誓った。
だが袁紹の死後、その子の袁譚と袁尚が分裂して争い、その隙を突かれて曹操に河北一帯を奪われた。
袁譚は戦死し、尾羽打ち枯らした袁煕・袁尚がトウ頓を頼ってくると、この二人を快く受け入れた。
彼らの父・袁紹の恩に報いる為、袁兄弟を渡せという曹操の要求を頑なに拒んで曹軍と開戦する。
地の利と烏丸族独特の騎兵術を生かした戦術に曹操・郭嘉・張遼は手間取り、
郭嘉はなれない気候の為に風土病にかかって戦線離脱する。
しかし執拗な曹操は兵を引く事をせず、名将二人に対するトウ頓は次第に劣勢になる。
袁兄弟を守りきれないと悟ったトウ頓は二人を公孫康の元へ逃がし、
出来る限り奮闘して時間を稼いだ後、とうとう力尽きて張遼に斬られてしまう。
トウ頓亡き後の烏丸族は力を無くし、公孫康は曹操の権勢を恐れて袁兄弟の首を献じてしまう。
しかし、風土病に侵された為に郭嘉は曹操が凱旋する前に死亡してしまう。赤壁で大敗した曹操に、
「郭嘉が生きていたなら、このような敗戦は無かったであろうに」とまで言わしめた智謀の士である。
曹操は中国の6割を支配した魏の創業者であるし、張遼は合肥での活躍で名を轟かせた智勇兼備の将である。
この三英雄を大いに悩ませたトウ頓のおかげで烏丸の名は高まり、トウ頓死亡の207年から218年に至る11年間、
無鉄砲な曹彰が討伐に乗り出すまで、烏丸を恐れて手を出せなかったのである。
【高台院】天文18年(1549年)- 寛永元年9月6日(1624年10月17日)
豊臣秀吉の夫人。尾張国の杉原助左衛門定利の次女として生まれる。
杉原(木下)家定は兄。幼名は、於禰、禰々などがある。
従一位を授かった際の位記には、豊臣吉子の名がある。法名は高台院湖月心公。
叔母の嫁ぎ先、尾張国津島の浅野又右衛門長勝の養女となる。
永禄4年(1561年)8月、織田信長の家臣、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に嫁ぐ。
しかし情けないことに子が出来ず、秀吉の親類縁者を養子や家臣として養育したが
その教育は酷いもので、あの福島正則を酒乱に、加藤清正を仕切りたがり屋に育てる。
清正が痔になったのは高台院が肛門を清潔にすることを教えなかったためだろう。
正室でありながら、夫の浮気に悋気を焼いたこともあり、織田信長から直々に
嗜める書状が届く。恐らく、あっちこっちで当り散らしていたと思われる。
>>957 赤壁のって曹操の愚痴みたいなもんじゃないのか
負け惜しみというかなんというか。
>>959 それは曹操に対する色んな見方があるから、これが正解ってのは無いと思うよ。
例)
1、郭嘉がいれば負けなかった。
敵の策略を全て看破して逆手に取れたはず・・・
2、郭嘉がいれば、負けは負けでもここまで酷くはなかった。
最悪の状態になるのを避ける為に事前に手を打ったはず・・・
3、自分に郭嘉ほどの智謀が無い事を悔やんだ。
敵の策に気づかなかった自分の責任だ・・・
4、「お前ら役に立たねぇな!」と群臣に毒づいた。
5、敵の智謀に勝る人材がいない事を嘆いた。
袁紹の「顔良・文醜がいれば」的な葛藤の表れ・・・
6、なんだか分からないけど、とりあえず悔しいから言ってみた。
他にも考えたら出てくるんじゃないかな?
7、ただのif
【劉備】
字は玄徳。琢県の人。若い頃は貧困のため筵を売って生計を立てて
いたが、曹操から高く評価され、以後大出世を遂げる。
建安元年(196年)に曹操の元に亡命するや、建安3年(198年)、
曹操幕下古参の臣を差し置いて左将軍位を得る。曹操に、英雄と呼べ
るのは自分と劉備だけだと言わしめた後、建安5年(200年)の小沛戦、
翌年の汝南戦では自らの軍才をいかんなく発揮、曹操軍に完勝をもた
らした。以後着々と戦歴を重ね、建安24年(219年)の漢中戦では
総大将として大軍を率いるに至った。
官渡・赤壁戦こそ劉備自身に目立った軍功はなかったものの、
義兄弟の関羽が、官渡戦では敵将顔良を斬り、赤壁戦では総大将曹操
の命を救っており、曹操の覇業に貢献するところ大であった。
曹操が建安25年(220年)に没すると、その三年後、後を追うように
死去した。蜀びいきの記載の多い演義でも、劉備は忠臣の代名詞のよう
に描かれている。
なお、子の劉禅も、蜀の北伐軍を率いた諸葛亮を撤退させたり、少兵
の奇襲で蜀を魏に降伏させるなどの功績があり、安楽公に封じられた。
後に司馬昭が劉禅の宴席での失態を嘲ったところ、司馬昭の腹心賈充は、
蜀攻略成功は劉禅がいたからこそと即座に指摘したという。
名?君→名将なので、スレに反するかも。
劉備も劉禅も"蜀にいる誰か"を魏の為に討ったって感じがする
そう言う書き方なんだよ
965 :
915:2005/08/01(月) 02:12:14
すみませんできれば曹髦を名将化で司馬師を悪者にして欲しいんですけど
正史漁るとわかるけど曹髦って名君の素質あったって散々言われてるよ
司馬師も曹操の血を色濃く受け継いだ曹髦を恐れて殺したんだし
サイト更新乙ですー
個人的には良スレと思うし次スレ欲しいな。
【牛金】
魏の武将、曹仁の副官としてともに各地を転戦する。
蜀の将関羽にハン城を襲撃されるが、劣勢ながら奮戦しこれを退ける。
しかし、このときに受けた傷が元で死亡。
広稜で呉軍との戦闘の際、城外に取り残されるが
「牛金ほどの人物を失うのは魏にとって多大な損失だ。」
と曹仁自ら救援に向かい事無きを得た。
このエピソードは後に素晴らしい上司と部下のあり方として語り継がれた。
ぎりぎりな線で書いてみました
程普
三国時代、呉の孫氏三代に仕えた宿将。
・・・と書くと彼が無類の忠臣であったかに思えるが、実はそうではない。
孫堅に従って反董卓軍の華雄と戦ったさいには鉄脊蛇矛という色物武器
を使用し敵味方両方から失笑を買い、怒りに任せて敵将胡シンと一騎打ちをする
というスタンドプレーに走る愚将ぶりである。
このように将としての資質は並以下の程普であったが、主君に取り入ることだけは
人並み以上であり、同僚祖茂を孫堅の身代わりにする非情な献策をしたのも実は彼である。
偶然発見した伝国の玉璽を盗むよう孫堅に進言し、反董卓連合軍瓦解の原因を作った
大悪人は彼であり、ある意味では後漢末の混乱に董卓以上に責任のある人物といえる。
彼の愚将・奸臣ぶりはこれのみにとどまらないが、多すぎてめんどくなったので今日はここまで。
黄蓋のムチの方がもっと色物のような気もする
>>964 お前みたいなのをウザイ奴っていうんだぜ
>>972 おい、そのアンカーの先にお前を映す鏡なんてないぜ。
975 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/01(月) 17:13:17
黄蓋
生粋のマゾ。戦が近づくと興奮して鞭打ってもらわないと気が済まない性癖だった。そこを周瑜に利用され、
計略に利用されることに。周瑜による公開鞭打ちプレイでひとしきり燃えたあと、曹操軍に投降すれば、
ものすごい拷問が待ってるよと囁かれ、たまらず脱走してしまった。
しかし、脱走に使った船の中で「ものすごい拷問」を想像して興奮してしまい、待ちきれずにロウソクプレイをしていたら
周瑜が隠していた煙硝に火がつき、船が炎上したまま、曹操勢に突入してしまい、まさかの大火災となった。
しかし興奮していた黄蓋はこれが「ものすごい拷問」だと勘違いしてはしゃぎ回っているうちに、足を踏み外して川に落下。
たまたま助けた韓当も呆れてしまい、厠に放置したが、本人は恥辱&黄金プレイだとうれしがっていたという。
977 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/01(月) 17:26:40
1000
>>975 テラワロタw
俺もマゾネタは考えてたけど、とてもアンタのは超えられないよw
【韓馥】
冀州の刺史。治世と平和を愛し、悪を嫌悪する事甚だしかったという清廉の人。
冀州を良く治め、実り豊かな土地にした敏腕行政官として官界にその名を轟かせた。
董卓によって少帝が廃されると、曹操の檄によって袁紹を盟主とする反董卓連合が結成される。
この時韓馥の元にも檄は届き、董卓を誅する為に出兵する。
水関にて華雄軍と対峙した際、配下武将の潘鳳を一騎打ちに送り出すがあえなく斬られてしまう。
しかし韓馥は意気消沈する兵士達をよく督戦し、華雄軍や虎牢関の呂布軍を撃退する事に成功する。
呂布軍が敗北した事で董卓は恐れを抱き、天子を連れて長安へ遷都、洛陽を焼き払ってしまう。
ここに来て総大将の袁紹が優柔不断である事や他の諸侯らの利益計算の為に董卓追撃もならず、
うやむやの内に連合軍は解散。韓馥も仕方なく冀州へと凱旋する。
その後も冀州を良く治めるが、袁紹から公孫讃が冀州を奪おうとしているという書簡が届く。
そこで知らせをくれた袁紹に援軍を頼む事にするが、これを耿武に諌められる。袁紹の陰謀だというのだ。
だが人を見る目がなかった韓馥は「四世三公の名門がそんな事をするはずが無い」というのを根拠に、
関純を援軍要請の使者として袁紹の元に派遣する。
しかし、耿武の言が正しかった。援軍と称して来た袁紹はたちまち冀州を乗っ取ってしまった。
激怒した韓馥は復讐の為に陳留の張バクに兵を借りようとしたが、
陳留までの道すがら、自分が人を見る目が無かったのだ、という自責の念と共に、
冀州に乱を起そうとしていた事、そのあおりを食う民の事に想いを巡らせて考えを改め、復讐を思い止まる。
張バクの元に身を寄せたものの、二度と歴史の表舞台に立とうとはしなかった。
乱世にあって輝く事は無かったが、治世においては間違いなく能臣となったであろう。
それは冀州を、名誉を重んじる袁紹が、汚い策で手に入れる程の土地にした功績を見れば明らかである。
>>979 自分ではキ州を守りきれないから自分に拘らず袁紹に地位を譲った、だと名君度アップじゃないかな
それよりも・・・・
自国が狙われている以上、策に乗らなければ、いずれは争うことになる。
そのような事態になれば、苦しむのは民だと悟った末、
自らが愚君と呼ばれることになることも顧みず、騙されたふりをして国を明け渡し、民を守った。
とか。
982 :
979:2005/08/01(月) 22:03:23
>>980,
>>981 正直、自分で見てもそうした方がよかったなぁと思う。
名君(又は漢の名臣。実際はそうしたかった)にしようとした割には
「名」を付けるには足りないヤツになっちゃってるしねぇ。
次書く時はしっかりと推敲してから投稿するよ・・・○| ̄|_
程普(
>>970のつづき)
洛陽から帰還後も、劉表攻めのさいはむざむざと主君孫堅を戦死させてしまい、遺体の引き取りにも行かない怠慢ぶりであった。
また、孫堅の遺児孫策が袁術の庇護のもと食客生活を送っているときは距離をおきつつも、彼の挙兵の話をきくやぬけぬけと帰参して古参面する恥知らずぶりである。
神亭において身の程知らずにも名将太史慈に一騎打ちを挑むもハナであしらわれたるなど、内弁慶の彼らしい話も残っている。
のちにこれを根に持った彼は、孫氏政権に帰参した彼をとことん冷遇し、太史慈は不遇のまま最後はハリネズミのようになって死んだエピソードが伝わる。
また孫策暗殺時には狩りにでた孫策を見失い、刺客の接近を許してしまう失態を演じている。
孫策が弟孫権への遺言に張昭・周ユの名をあげ、父以来の宿将である程普の名前をあげなかったのもうなずける。
赤壁の戦いのときは副都督に任じられるが、これはたんなる年功序列であって、もちろん彼の実力によるものではない。
何も働きがないばかりか、周ユからの苦肉の策の提案をへタレの彼は拒否、さらに同僚黄蓋に嫌な役をなすりつけるという非常識人ぶりを発揮。
もしオトリ役が副都督の彼なら曹軍全体が前線深くまで攻め入り、火攻めの餌食になってたハズである。
さらにいざ苦肉の策が成功すると、嫉妬した彼は手傷を負った黄蓋を便所に放置し殺そうとしたが、程普の悪人ぶりを良く知る同僚韓当によって彼の殺人は未然に阻止された。
赤壁戦後も年長であることを鼻にかけ呉の大都督周ユに執拗に嫌がらせをしたため、周ユは功をあせり手傷を負い、ついに早死することとなった。
まさに程普こそが孫氏政権獅子心中の虫である。
また、張昭の「張公」を真似して周りの同僚にいやいや「程公」とよばせるが、孫権には相変わらず字で呼ばれその他大勢扱いだったという
彼の小者ぶりがよく分かる笑えるエピソードも伝わっている。
最後は謎の怪死をとげたとされるが、便所におきざりにされた黄蓋の復習である説も有力である。
984 :
983:2005/08/01(月) 23:33:30
ごめん改行もめちゃめちゃで誤字も多いわ・・・
ほんとは程普ファンw
986 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/02(火) 10:07:50
諸葛瑾
呉の孫権が可愛がっていたロバ。ロバにしては非常に頭が良く、特別に「瑾」(美しい玉という意味)と名付けられた。
もともとは蜀の重臣、諸葛亮が幼い頃に愛情を込めて育てたロバだったため、諸葛瑾と呼ばれることに。
呉の宮殿でも放し飼いだったが、他のロバと間違われてはいけないので、
顔に「諸葛子瑜(子瑜はこの驢馬に与えられた字)」とその名前を書かれていた。
劉備との荊州領有問題を討議する場に、諸葛亮を和ませるためにつれてこられるなど、
蜀との外交によく用いられた。諸葛亮もこれを喜び、ロバとじゃれ合う姿はまるで兄弟のようだったといわれる。
諸葛亮の甥の諸葛恪が呉に仕えると、特別扱いされて宮殿内を歩き回るこのロバに辟易し、孫権を諫めるために、
ロバの顔に書かれた「諸葛子瑜」の下に「之驢(これはロバである)」と書き足し、ただの驢馬であることを
強調した。そのことに深く反省した孫権は、諸葛恪にこのロバの世話をゆだねたという。
987 :
get:
987